メガソーラーが良かんべえ! (112) |
- 日時:2014年06月09日 (月) 15時55分
名前:中仙堂
さて頌であるが、 人生は恰も神様が急流に釣を垂れてゐるやうなものであって、 吾々人間は皆貪欲な魚族のやうなものである。 いや貪欲でない人もあるにはあるが、 爰に云ふ貪欲は「赤」と云へば「赤」に附き「白」と云へば 「白」に附き、現象に喰ひついて振り廻されて、 釣鉤で、息も出来ない苦しさうな世界に 釣り上げられる底の人である。 實際宇宙は「赤」か「白」か、人生は暗黒編満無限空の世界であるか、 光明寂照編河沙の世界であるか、 自分でよく實相を見得してゐない癖に、 ただ釈迦が 「此の世は無明より生ず」と云ったから、 此の世は生き甲斐がない世界だから逃避したいとか、 張拙が「此の世は光明寂照編河沙」と云ったから、 この世には光明は満ちてゐるとか、そんな、 自分の眼の前にぶら下がってゐる言葉の好餌で迷はされて、 口を綻ばせてそれに飛びつく者は たちまち自性生命を失って了ふぞよと、 無門は頌に於いて注意したのである。 (「無門関解釈」第三十九則雲門話堕 287頁)
第一 趙州狗子
「・・・驀然(まくねん)として打發(だはつ)せば、天を驚かし地を動じて、 關將軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、佛に逢うては佛を殺し、 祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て 大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)の中に向って、 遊戲三昧(ゆげざんまい)ならん。」
「肉体は無い」と云うことも、私が説くから肉体が無く成るのでも無い 「痛みが本来ない」とお云うのも、私がそれを説くから痛みが無いと判るのではない。 冷暖自知するほかはない。 「祖師の関」とは「眞理」の関所である。 眞理こそ唯一の祖師であって、そのほかの「祖師」は悉く偽りの祖師に過ぎない。 そこで「祖師に逢うては祖を殺す」と云って眞理を無みし、 師恩を無みし、舊師の悪口を云って(生長の家の教えは改善しなくては成らない等と) 「自分」のみ鼻高々として自己吹聴する者があるならば、 彼はまだ祖師を殺していない。ー自分を「祖師」としているのであって、 祖師の殺し方が足りないのである。「自分を祖師とすること」さえも殺さなければ成らない。
ーこれが否定の妙用である。(略)師なんて無いものだ! 斯う否定して鼻高々となったとき何時の間にか自分が「祖師」になっている。 人もない、祖師もない、祖師も無いと云う者も無い どこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならない。 そこで「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。」である。 心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極實在に達する。 そうしてただ眞理のみあることが解る。光明一元である。 そう判って見れば、萬物祖師ならざるはない。その儘、師を師とし、 感謝の心涌き出で、報恩の行おのづから調ふのである。 云々(「無門関解釈21頁引用」)
世の環境学者が「CO2は世を滅ぼす」と云ったから、 環境問題一点張りに成ったり
三代目が「CO2は世を滅ぼす」と云ったから、 祖師の教え(生命の實相)をも顧みず メガソーラーが良かんべえ!
自分の眼の前にぶら下がってゐる言葉の好餌で迷はされて、 口を綻ばせてそれに飛びつく者は たちまち自性生命を失って了ふぞよと、 無門は頌に於いて注意したのである。
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