「思想理論よりも宗教的感情の興奮」 (116) |
- 日時:2014年06月10日 (火) 07時33分
名前:天国浄土
「思想理論よりも宗教的感情の興奮」 生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
>治病能力のすぐれたる人に宗教的感情の深い人が多い。 理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。<
理論は脳髄皮膚の意識でも組立てられるのであって、理論で肯定しながら、感情の底では反発しているような人もある。
思想や理論では戀する訳にも行かないし、戀しなかったら子を産むことも出来ないのである。
戀とは思想や理論でなくて感情である。 時には例外があるかも知れぬが、『子を産む』 即ち創造力の本体は 『感情』 であるのであって思想や理論にあるのではないのである。
>人を真に動かすものは『感情』の力である。人を癒やす力も『感情』にあるのである。<
世に迷信視せられている 『お婆さん』 や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないと云う理由で、また偶々感情興奮を伴わない智的な人に試みて治病成績が挙がらなかったと云う理由で、それらの治病宗教を詐欺視するが如きは、治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。
『生命の實相』 が、それを読むことによって病気が治るのは、文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点に於て 『生命の實相』 は文章芸術である。 理論だけ簡単に透らそうと思って、手紙で簡要な返事さえ貰えば好いと思っている人は、この点を見のがしているのである。
尤も現代の知識人(インテリゲンチャ) は 『お婆さんの宗教信者』 と異って理論が透らないようなものは頭から排撃して了って、いくら名文でも宗教興奮を惹起し得るものではない。
だから 『生命の實相』 は理論に於ても古今独歩、古今一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系を成しているのである。 この点に於て 『生命の實相』 は一大哲学とも云えるのである。
芸術であり、哲学であり、而してその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験礼状となって顕れているので、実験の蒐集であるから科学であるとも云い得るのである。
而してその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、宗教であるとも云い得るのである。
藝術であり、哲學であり、科學であり、宗教であるのが
『生命の實相』 である。
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