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[115] 題名:卒論報告会総括〜卒業論文を、報告会を大切にしよう〜 名前:18期生 大野裕喜 投稿日:2010年03月05日 (金) 23時55分
はじめに
この報告は、卒論報告会で三戸先生がお話されたことを整理して、まとめたものです。
報告者である卒業生自身が改めて学んだことを確認する意味もありますが、主に来年度報告を
行うであろう後輩達が、今年度の報告会を踏まえて同じ過ちを繰り返さないようにすること、
より納得の出来る報告が出来るようになることを狙いとしています。
そして、今回三戸先生がお話されたことを確認することが、卒論報告会を大切にすることで
あり、また何よりも自分自身が改めて学ぶことだと考えています。
(自分自身の卒業論文の報告ついては、色々と考えていることがありますので、また改めて
総括したいと思います。)1.結局「何を」納得させたいのか
(1)何を問題とするのか
論文で何を言っているのかがよくわからない、または結論が曖昧である、もしくは結論の
内容が物足りない、という場合が往々にしてあります。それは報告を聞いている者だけでは
なく、実際に報告をしている者にも当てはまることです。
なぜそのようなことが起こるのか。それは論文で「何を問題としているのか」ということが
明確ではないことに拠ります。例えば、最初に報告した石井君の卒論「組織の境界について
―三戸公、中條秀治論文批判―」においては、
@組織の境界問題における、三戸公と中條の考えを徹底的に比較すること
A組織の境界問題における、三戸公と中條のどちらの考えに納得できるか検討すること
B三戸公の組織の境界問題について、中條が十分に応えているか検討すること
C三戸公、中條の議論から、組織の境界問題とは何かを検討すること
のどれを問題にしているのか、ということを先生はご指摘されました。
「組織の境界問題」、「三戸公」、「中條」という言葉は共通するものの、それらをどのように
組み合わせるのか、すなわち何を問題とするのか、ということは幾つでも考えることが
できます。結局何を問題にしているかが不明確ならば、その結論も自ずと曖昧なものと
ならざるを得ないのであり、また聞き手にとって何となくはわかるけれども、よくわからない、
ということになってしまいます。また、自分自身の論文についても
@池内日本的経営論を問題としているのか
A日本的経営の変容を問題としているのか
B両方を問題とするのならば、両者の関係はどのようなものか
ということが意識的・自覚的に詰められていませんでした。何を問題にしているのか、という
ことが自覚的に理解できていないのなら、「これを言いたい、納得させたい」ということを
自信を持って伝えることが出来ません。
(2)なぜ問題とするのか
「何を問題とするのか」を明確に把握するということは、結局「なぜその問題に取り組むのか」、
「なぜそれを問題とするのか」、その意味付け、理由によって規定されます。
先の石井君の例を挙げれば、昨年度十分に詰めることが出来なかった三戸公の組織の境界問題に
対して中條の議論で十分に応えることが出来るのか、それとも純粋に三戸公と中條の議論を
とことん比較したいのか、等を考えることが出来ます。どちらも大変意義のあることであり、
そしてその理由によって、問題設定と同時に結論も大きく異なって来ます。
自分が何を問題にしているのかよく分からない、曖昧であるというのは、結局はなぜ
その問題に取り組むのか、その理由が詰められていないことによるものです。だからこそ、
論文の「テーマ」と同時に、その「問題意識」が重要になってくるのでしょう。
報告をする際には、この論文で「何を問題としているのか」、「なぜそれを問題とするのか」を
聞き手に共有させてから、個々の議論の報告をしていきましょう。
(3)何度も何度も何度も読む
先生は「結を書いて始めて序が書ける」とおっしゃいます。自分は結局何が言いたいのか、
自分の議論がどのようなものか、その意味、重要性を当人が理解するのは大変難しいことです。
最初から自分が何を問題としているのかをわかるはずもなく、論文を書いていく過程で、
次第に自分が何を言いたかったのかが明らかになってきます。だからこそ、何度も何度も
読み返すことが必要なのであり、また序と結の往復作業をして、何を言いたいのかを確認する
必要があるのです。
卒業論文の締切日から、卒論報告会まで1ヶ月弱時間がありますが、それは卒論において
十分に詰められなかったことを検討することもあるでしょうが、自分の議論の言いたいことを
確認する、再把握する期間ともいえるでしょう。2.「結論」を納得させる報告をする
○論文の「内容」ではなく、「結論」に立った報告する
卒論報告会は、卒業論文の「内容」を報告する場ではありません。自分の言いたいことは
何か、皆に伝えたいことは何なのか、それを昇華して、「皆にどうだっ!」と報告する場で
あります。その為には、テーマと結論を明確にする必要はありますが、それと同時に、
レジュメも「結論」を分からせる、納得させる観点から構成していかなければなりません。
レジュメは「結論」を分からせるためにあるのであるものです。
討論会においても、自分達の伝えたいことは何なのか・何を分からせれば良いのか、そして、
その為にはどのように話を進めていけばよいのか一人一人が考えて、準備しておきなさい、
と毎年先生からのお話があります。
それは論文の内容をそのまま報告することではありません。討論会の場、卒論報告会の場、
そして普段のゼミの場においても、いかに自分(達)の考える「内容」から離れて、「結論」を
分からせるか、の観点に立たなければなりません。
※論文は最低でも「三章」構成である
(改めて)論文は、最低でも「三章」必要にになります。二章構成になる場合は、節の
内容を分けたり、増やしたりするなどして必ず三章構成にしましょう。
相手に見せる、読んでもらうには、まずはそれに相応しい「形」にすることが求められます。
その準備をせずにして、相手に読ませるようなことはあってはなりません。
※テキストの理解→納得できるかどうか詰める
卒業論文では、一般的に一つの議論、ないし一冊のテキスト(または論文)を検討する
ことになりますが、まずはそのテキスト(論文)に書かれている内容、理論を理解しようと
することが第一です(対象に対する理解もなしに批判してはいけません)。
そして、そのテキストの理解に立った上で、何に納得することが出来ないのか、自分なら
どのように考えるのか、論を進めていくことになります。
最後に
個々の報告に対する評価・コメントは他にもありますが、全ての報告に通じる三戸先生が
お話されたことを自分なりに整理をし、確認してきました。
卒論報告会とは、これまでゼミで学んできたことの集大成として、その成果を報告する場で
あり、その観点に立って、卒論報告会の準備をすることが求められます。そして、更に言うの
ならば、自分が立てた問い、自分が考えてきた問題の結論について、三戸先生と納得できるか
どうかを議論しようとする場でもあるのではないかと思います。
その為にも、結局自分は「これを相手に伝えたい・納得させたい」と思えるまで内容を
明確にして議論を詰めること、そしてそれを相手に伝えるようにレジュメと話を構成して
いくことに尽きると思いました(それぞれにおいてまた別に方法はあるでしょうが)。
卒論報告会で三戸先生がお話されたことは、卒論報告会に限定されたものではなく、討論会での
論文作成や討論会後の反省の場、更には普段のゼミでもお話されていることであります。
しかし、それでも先生の教えの通りに取り組むことは出来ませんでした。
(出来なかった自分自身を肯定するのではなく)改めて難しいのだということを実感し、
またまだまだ力の無い「学生」なのだから、学んだことを一つ一つ確認をし、自分のものに
していかなければならないのだと思います。
卒論報告会が無ければ、このように感じることも学ぶことも出来なかったでしょう。
卒業論文を、卒論報告会で学んだことを確認し、次に活かしていきたいと思います。