【広告】楽天市場7月4日からお買い物マラソン開催予定

BBS言葉の対局室

言葉の対局室管理規定 をご一読、ご了承の上、ご参加ください。
「将棋」に関する話題、提言、人物記、その他「あらゆるジャンル」の議論をお楽しみください。
本掲示板では1スレッドの上限を35に設定しています。継続する場合は、新しいスレッドを立ててください。

2013年8月27日(火)22時より「言葉の対局室・別館」リレー将棋対局室を開設致します。

合計 今日 昨日

ただいまの閲覧者

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[161] 【再録・決定版】芹澤博文九段 -内心の憧景-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 19時29分

以前、あるサイトに記載させていただいた「芹澤博文九段-内心の憧景-」をこちらに再録することにしました。記述した時には何人かの参加者からコメントを頂戴しましたが、ここでは、私の文章のみを記してみたいと思います。また、新たに追加するところもありますが、その際には(註)に記述し、区別したいと考えています。

Pass

[162]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 19時43分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (1)

私が子供の頃、といっても中学生だったか、初めて会ったプロ棋士は芹澤博文九段(当時八段)だった。その時もらった色紙は「歩が命」「将棋は苦し、酒は楽し、人生は哀し」今でも所蔵している。

「血涙十番勝負」に登場する、あの芹澤八段。当時、山口瞳のその本だけは読んでいた私は、本人が目の前にいることが信じられない。当時の私には、ただ、ただ「華のある人」にみえた。

タイトル戦の副立会いだったのである。感想戦のときに対局者が「芹澤さんはいなくていいの」と誰ともなく声をかける。「八段は呑んでいますから、対局場には入らないそうです」皆の笑い声が聞こえた。「真面目な人なんだ」と素朴に思った。

その後も何度かお会いする機会に恵まれた。最後は1986年の夏だったと記憶している。直後に私は「山口瞳の戦友名簿」を読んだ。実は、そういう状況であったことを知らない時に、私は芹澤九段と山口瞳の話をしている。何ということのない、他愛もない内容だ。九段は黙って、少し笑って聞いていた。

亡くなった直後だったか、確か神保町の「アカシヤ書店」ではなかったかと思うのだが、芹澤九段(八段だったかもしれない)の色紙をみつけた。そこにはこう記されていた。

「将棋は苦し、酒は楽し、人生は面白し」

ふと思った。芹澤九段にとって「人生は哀しかったのか、面白かったのか」と。

私なりに芹澤博文九段を追っかけてみようかと思うようになった。キーワードは「内心の憧憬」である。


拙見を記す前に、私の遭遇した出来事、まぁちょっとした小事件のようなものでしたが、披露させてください。少しばかり苦くもあり、なかなか昇華できないこととして、抜けない棘のような感じでもあります。

1980年代の話です。

私に1本の電話がありました。学生時代の友人からで、それそれが既に仕事に就いていました。私の趣味が「将棋」であることを彼はよく知っています。

「催し物に芹澤博文さんを呼びたいのだけれど、もしかして、連絡先とか知らない?」

知っていました。その上で、私はこう応じました。

「それはわかるけれど、芹澤さんじゃないといけないの?」

「いけない、どうしてもいけない」

「どうしてもというなら、直接ではなくて、どこか、イベント会社を経由して頼んでみたら」

「それじゃ、その分コストが積み増しされる。予算、厳しいし」

「それでも、芹澤さんにこだわるのであれば、直接やらない方がいい。リスクが高すぎるよ」

「リスクって何?」

ここで、私は言葉を呑み込みました。本当のことを語らなかったのです。しかし、嘘もつきたくない。「芹澤さん、何度も入院しているし、急にキャンセルという可能性もある。その時に代わりの人を探してもらうとなったら、会社と会社の取引にしておいた方がいいよ.....」

友人は半信半疑の様子でしたが、最後は私の提案に沿う選択をしました。

イベント終了後、友人から興奮した様子の電話がありました。

「いやぁ、助かったよ。本人に前入りしてもらったのだけれど、部屋は勝手にチェンジする。人は連れ込む。シャブリを勝手に何本も頼む。翌朝は迎えに行っても起きてこない。企画会社の連中が「着せ替え人形でした」と、そりゃもう大変だった。控室でも直前まで酒をせがむ。突っ伏して寝る。なんとか形はつけたけれど、酷い。酷かった。本当に酷過ぎる。宿泊、飲食だけで予算を上回った。そんな費用は、もちろん企画会社に負担してもらったが」

私の想像を遥かに超えていました。噂、伝聞の次元ではなかったのです。

「お前に頼まれた、例のモノは手つかずで残っていたよ」

実は、その友人に頼んで、芹澤九段が宿泊するホテルの部屋の冷蔵庫に、ウィスキーを入れてもらっていたのです。芹澤九段が、ボトルを直接冷やして飲むということを私は知っていました。

「企画会社の人間が言っていたよ。当日、着せ替えをやっているときに、うつろな顔で、お前の名前、呼んでいたらしい」

その瞬間、私も駄目になりました。早々に電話を切り、もう嗚咽が止まらない。示された事実に対して、批判とか軽蔑とか嘲笑とか、そういうことにもならない。ただ、哀しかった。今でもそれだけですね。

芹澤九段について「酒さえ呑まなければ」という方が何人かいました。「馬鹿いっちゃいけない」とその度に私は思ったものです。断酒など、やろうと思えばいつでもできたと私は考えています。

内心という言葉をつかいますが、芹澤九段は「心で中原を応援し、しかし、谷川に中原を一度は超えて欲しい」そう願っていたのではないかと思います。豆狸のようだった中原誠少年を鍛えたのは、全盛期の芹澤さん。過去にしか生きる道がみえなくなった芹澤九段には、そういう思いがあったのでは、と想像します。

嫉妬というには、中原や谷川の背中は遥か遠くに霞むばかりですから、そういうエネルギーも既に九段は忘れていたでしょう。決して届かない世界は、もう追うこともできない。

私は芹澤博文九段のことを想うたびに「将棋の世界とは残酷だ」と、しみじみ知らされるのです。

Pass

[163]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 19時58分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (2)

-------------------------------
巨泉が『週刊朝日』に対談のページを持ってたことがあって、ある日、中原を「中原クン」と呼んだんだよ。中原のほうが年下だからいいようなものだけれど、普通は、ゲストに対しては常識として「クン」とは言わんわな。すくなくとも中原は将棋の第一人者なんだし。(中略)
「お前、中原に対してこういうことを言ったそうじゃないか」と言ったら、あのヤロウがスンナリ謝りやがるんだ。言うなら言ってもいい。自分のほうが上だと思ったら「クン」と言ったって構わない。それが、ちょっと脅かされたら、すぐに謝るところが、限り無く偽物なんだな。男なら言ってしまったことは、言ったとおりにするもんだ。
(「依って件の如し」芹澤博文・昭和61年10月1日初版発行・ケント出版)
-------------------------------
この他にも、大橋巨泉をこれ以上はないというほど、悪罵に近い記述に満ち溢れたコラムになっています。嫌悪感を剥き出しにする面が強い。巨泉に限らず、ですが。

(二上VS森の棋聖戦について)

私の手元にこの観戦記が収録された書籍があり、改めて読んでみました。昔、何かで「文学の域に達している」というようなコメントをみたことがあります。それはともかくとしても、棋士の書く観戦記は、観戦記者の書くものとは確かに趣が異なっていて、プロの感覚を伝えようとする面に溢れた、興味深いものでもありました。

-------------------------------
「オイ」

と呼ばれたような気がして目をあけると一時半ころでした。お義父さんが呼んでいるのかと耳を澄ましましたが、それ以上はなにも聞こえませんでした。また目を閉じてうつらうつらした時、電話がジンジンと鳴り、主人の容態の急変を知らせてきました。両親を起こして着替えをさせ、孫を暖かくくるんで、病院へ急行しました。

それまでスヤスヤと眠っているようだった主人が、一時半ごろ急に引きつけを起こしたようにのけぞり、呼吸が止まりかけたのだそうです。
背中の下に固いビート板のようなものが当てがわれ、大庭先生が懸命に人工呼吸をしてくださいました。体がゆさぶられるたびに鼻血が流れ出ました。意識はないので痛さは感じないのでしょうけれど、痛めつけられているようで見ていられませんでした。

「パパ、ママとあゆみがきたのよ。目をあけてよ」
「親父、シッカリしろよ」
子供たちが口々に叫ぶ声を聞きながら、私は心の中でただ呟いていました。
「神様、二度のお願いはもうダメなのですか」
近くの親族や知人は駆けつけましたが、沼津の兄たちが遅れていました。でもこれ以上はとても無理だといわれ、両親も納得しました。

(「忘れざる優しさの証に」芹沢和子・昭和63年10月8日初版発行・文園社)
-------------------------------
昭和62年12月9日、午前4時2分(1987年)芹澤博文九段は亡くなりました。

それを追うように板谷進九段も黄泉の国へとむかいます。


ただ「酒に全責任を押し付ける」生き方であったのかどうか。

甘えていたということになるのかどうか。

このあたりを私も考えてみたいと思っているのですよ。

スレッドの性格上、ということもあるのかもしれませんが、芹澤九段に対して必ずしも酷評だけの評価ではない、ということが、私には面白いんですね。

それは何故なのか、と思います。

何をもって「壊れる」と考えるか、という面もあるのですが、これ、宿題として預からせていただきますね。

いつの頃であったか、もう記憶にありませんが、芹澤さんが八段時代にNHK杯の本戦出場をされたときに、カメラが対局場を捉えたものの、そこに芹澤八段の姿はなく、聞き手の永井英明さんが「あれ、芹澤八段の姿がみえませんねぇ。長時間のタイトル戦ではみかける光景なのですが」と、フォローされていた事がありました。

芹澤さん、NHKの他の番組に出演した際のトラブルか何かで「NHKトーナメントにはもう出ない」と宣言されましたね。これもいつのころだったか。
予選は不戦敗だったのか、勝ちにいく将棋など、最初から眼中にないという状態を作られたのか、わかりませんが。

なるほど、解説は引き受けていたのですね。

さて、本日中に、もうひとつ、私と芹澤九段とのエピソードを記してみます。


Pass

[164]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 20時08分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (3)

1985年(昭和60年)秋の頃だった。

芹澤博文九段と何人かの面々が会合を持つという機会があった。別に難しい話は何もない。来訪した九段を囲んで、皆で呑みましょうという趣旨である。

棋士としての芹澤博文を知っている者から、タレントの「芹澤博文」をみたいという者まで、九段を含めて8人だった。その人数を未だに私が記憶しているのは、九段が開口一番「七人の侍ですか。それにしちゃ、みなさん堅苦しい。上着ぐらい脱ぎましょうや」と、にこやかに声をかけられたからである。

宴席には酒もツマミも、盛り沢山である。日頃、私にそんな習慣はないのだが、「食べる前に、呑む前に」の胃腸薬を事前に服用して臨んだ。そんな話を私がすると「JCさん、対局じゃあないんだからさ」と、芹澤九段が一言、何かを発する度に皆が和んでいく。

幹事の顔など、呑む前なのに、既に紅潮している。「それでは、かんぱ....」
その瞬間である。芹澤九段がニコニコ笑いながら、
「ウーロン茶、ください」

「えっ??」「うっ」「ん?」.....。「先生、ご冗談でしょ??」

「いや、ホントなんです。ウーロン茶ください」

九段は照れ臭そうに、そうリクエストされた。

「酒を止められたのですか?」と、少し遠くから誰かの声。

「止めたんじゃないんです。止めているんです。この違いがわかれば四段ですよ。大山康晴よりは、アタマがいい」

前年の春過ぎ、芹澤九段は三度目の入院をされた。「皆が、心配したふりをするので、義理でね、だから今日はウーロン茶」

棋士、芹澤博文を知っている者からみれば、これは「驚天動地」の出来事である。しかし、喜ばしいことでもあるのだ。無論、誰もそれ以上勧めたりはしない。

気の早い人間は、酒を全部片付けようとした。芹澤九段が呑まない状況で、我々が呑むなどということは、芹澤九段を苦しめる。つい禁が破られたりしたら、それこそ、全国の芹澤ファンに顔向けできない。そう考える者が何人かいた。

「皆さんは、どんどん呑んでください。一滴も残しちゃあいけません。でないと、私が呑んで、ほんとにまた暴れちゃう。娘いないから、止まりませんよ」

機関銃の早さで次々に言葉が繰り出される。みんな、夢心地になってしまう。

それから先は、もう芹澤九段の独壇場である。いずれ機会があれば、お知らせするが、娘さんの結婚式で、芹澤九段は荒れに荒れた。その日は48時間あったというくらい荒れたのである。「JCさん、修羅場なんてもんじゃない。自分でいうのも何だけれどあれは酒乱場(笑)」

そういうことを芹澤九段は決して隠さない。いい格好をしない。「今日は特別に喋っちゃう」などと言いながら、どんどん話す。将棋以外の話題も沢山出てくる。このバランスが実に見事なのだ。優しい。今の芹澤さんは、と思った。

「40期の名人戦は、あまりに悲しかったので忘れました。41期の名人戦は一生忘れません」などと、私も座持ちのようなことを口走る。

芹澤九段、破顔一笑。

「嬉しいね、今日はいい日だ、でも忘れるならさ、そこでチョコレートつまんじゃ駄目だって」

読者のみなさんにほんの僅かでも雰囲気をお伝えできているのだろうか。私は。

芹澤九段は、結局、一滴も酒を口にせず、3次会まで付き合ってくださった。

私はここで「破顔一笑」ということを記した。芹澤九段の笑顔というのは実に魅力的なのである。邪心も邪念もない。貧困な語彙しかもたない私には、それを伝える能力がないのだけれど、透明な笑い、透き通るような笑顔なのだ。

実に楽しい会だった。

しかし、話はこれだけでは終わらなかったのである。

この日のような「楽しい会合」に遭遇すると、残った者たち「余韻」を愛しむかのように、それですぐに「解散」とはならない。結局、その後も数軒、店を変わり、私は朝まで酒を呑んだ。最後に残ったのは、私と仮にAさんとしておこう。

最後まで残ったというのは「去り難い」という思いがあったから、というのは勿論事実だけれど、Aさんが「何となく最後は二人で」というシグナルのようなものを送ってきたからだ。言葉にされたわけではない。阿吽の呼吸とでもいうのだろうか。将棋が好きで、文学を愛する優しい方だった。この方も、既に鬼籍に入られている。

さて、二人だけで小さなトリスパーに入った。

「名人戦の話は、しない方がよかったのかもしれませんね」

正面の棚を眺めながら、Aさんが静かに呟かれた。私は、一瞬、考えた。その話を「座持ち」にしたのは、他ならぬ私である。「破顔一笑」のそれを指してのことだろうか。私は黙っていた。そう言われて「ピンとこなかった」というのが、実は正しい。

第40期の名人戦とは「加藤-中原」戦である。激闘九番、加藤一二三さんが悲願の名人位を獲得した年だ。次の第41期は「谷川-加藤」戦、谷川九段が初めて名人を獲得した時期に当たる。芹澤九段がいらっしゃる酒席の肴として、私の軽口は、場にそぐわない話とは思えなかった。

私は静かにそういう趣旨のことを述べた。Aさんは笑ってその話を受け止めてくれる。「私も、あの場では、楽しく聞いていました」と。

2次会→3次会への会場は、参加者が歩いて移動した。

たまたま、九段と二人、並んで歩いたAさんは九段からこんな話を聞かされたのだと、私に教えてくれた。

「Aさん、私は名人にはなれなかったけれど、出世はしました」

Aさんは黙って頷かれる。「(連盟の)役職にでも就くのかと思ったのですが、まさか、それはあり得ませんし、何を言われるのかな、と黙って聞いていたのです」

「この世界の最高は名人位です。それは私には届かなかったんです。だから私は出世してやろうと思った。出世って何かってね。偉くなることじゃない。世に出ることだったんです」

「しかし、出世しても、それはそれだけで、生きるに値しないもんですなぁ。そのことが、よくわかりました。馬鹿な奴ですよね」

私はAさんの意味をここでようやく理解した。芹澤九段という棋士には「名人」以外の価値など、さほどのものではない。もっというなら「とるにたらない」その程度のものなのだ。

芹澤九段の辛さをわかりもせずに、氏にとっての生々しさが永劫消えない世界に、私は、その重みを理解していたつもりで、場つなぎに語った。それは、確かに控えるべきことだったのだ、と。

私は芹澤九段が語った「出世」という意味も、言い回しも、決して笑えない。

これは、私の仮説である。

没後、私は芹澤九段の著作、関係者の著作、九段を知る者が綴った著作のかなりを読んでみた。改めて、そのことにも触れてみたいが、この時期の禁酒は娘さんが結婚されて、ちょうど1年間、実行されたものである。1年後を「喪明け」と称して、九段は再び、酒の世界へと戻っていかれた。

この1年間の禁酒は、きっと嫁いだ娘さんに父親が残した、最後の贈り物だったのだ。生きるに値しない世の中で、愛娘が結婚し、せめて1年間は、その娘のためにも、父親として存在しなければならない、極端に言えば、ただ、そのためだけに、九段は禁酒されたのだろう。いわば、娘の行く末を見極めるために、九段自身が必要とされた時間だったのだ。

人は思うようには誰も生きられない。その際の「折り合い」のつけ方は人それぞれでもある。ただただ、そう痛切に感じるのだ。

Pass

[165]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 20時20分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (4)

(全敗宣言について)

「全敗宣言」ありましたね。41期B1リーグ(1982年)の時でした。

「全勝宣言なら、ともかく.....」
「対局する棋士に失礼だ.....」
「芹澤の好きな競輪選手には絶対にできないこと」

好意的な評価などあるはずもないのです。芹澤九段は「負けても食える将棋界に警鐘を鳴らすことが目的」と主張されていましたが、それこそ「(将棋以外の世界で)出世したからこそ出来ること。秘めた優越感が実に厭らしい」と、ある意味、これも的を射たものかもしれません。

この前年、芹澤九段は「B1を1期でA級へと駆け抜ける谷川浩司七段(当時)」と遭遇します。「最初で最後になる」ことを無論わかっていました。

芹澤はこの対局を前に1週間「競輪や酒の誘い」を一切断ち、未来の名人と対峙します。最晩年の芹澤の棋譜で、最も紹介されるものですね。芹澤九段は勝ちました。小さなミスはありましたが、快心譜といっていいでしょう。

芹澤の「真剣勝負」はこれで完全に終わったと、私は思っています。以降の勝敗は関係なく、ということですが。

芹澤九段は、棋書も含めて、生前、41冊の著書を残している。その内、人生論、エッセイの類が9冊。国会図書館のデータをみる限り、大山康晴十五世名人と、いわゆる随想の類では、ほぼ変わらないか、或いは芹澤九段の方が多いのかもしれない。

中原十六世名人には評伝の類はあるものの、自著としての随想はまだない。

米長邦雄永世棋聖にも対談含めて何冊か、棋書以外の著書がある。ただ、私は米長氏のそれら作品に、私の琴線に触れたものはなかった。斜に構えた目線と仄めかしが強いように思ったのである。

芹澤九段の随想、人生論の類、本になったものは全て読んできた。正直、読んでいて、明らかな事実誤認、思い込みに満ちたものもあるし、誰彼なく悪口雑言をぶちまけたようなものは、正直、読んでいて「いくら何でもあんまりではないか」と思うものも多々あった。

ただ、その中でも、芹澤博文九段が、おそらくは素直に、率直に自分の思いを語ったものがある。(『娘よ』バン・ニューズインターナショナル刊 昭和60年8月30日初版発行)がそれに当たると、私は思っている。

----------------------------------------
こんなことがあった。娘がまだ幼稚園に通っていた頃、先生が"家の一日"を描かせたのである。他の子供たちの絵をみると、そこには朝父親が、出勤するところ、昼は母親が洗濯や炊事をしているところ、そして夜は両親と子供が一緒に食事をしている光景が描かれてあった。ところが、和美の絵を見ると、私を描いているのは朝だけ、しかも蒲団にくるまって寝ている図である。あとは昼
も夜も私の姿は画面にないのである。それを見て、妻も愕然としていたことを覚えている。
(『娘よ』バン・ニューズインターナショナル刊 より引用)
----------------------------------------

----------------------------------------
娘を嫁がせて間もなく、カミさんがボソッと言ったことがあった。
「これまで、私は、少しあなたに寛大過ぎたかも知れない。でも、あなたには伸び伸びと自由奔放に生きてほしかった。私の両親のように、夫は外を飛び回り、妻は家のことを心配する、そんな家庭にしたいと結婚した頃から思っていました。

もちろんずいぶん不安になったことはあったけど、がまんしたとか、取り残されたような気持ちになったことは、一度もなかった。
(『娘よ』バン・ニューズインターナショナル刊 より引用)
----------------------------------------
だからこそ、没後に奥様は「忘れざる優しさの証に」を書かれたのだろうと、私は思っている。奥様は、芹澤さんの闘病に寄り添い、最期の一瞬まで戦われた。私は芹澤さんの人生は、やはり幸せだったのではないかと思いたい。

----------------------------------------
類い稀な狂気に近い「才能」と「強運」は持ち合わせぬ我が亭主だが、稼業に対する愛だけは抱き続けてほしい。この愛は、彼にさまざまなことを教えてくれるはずだ。彼が将棋への愛を持ち続けるということは、将棋への挑戦をやめぬということだ。将棋の世界に没入するということだ。それはお前の協力がなければできることではない。責任は重大なんだよ。
(『娘よ』バン・ニューズインターナショナル刊 より引用)
----------------------------------------

芹澤九段は「将棋への愛」を持ち続けてきたのか。「将棋への挑戦」をやめなかったのか。では「全敗宣言」も愛ゆえのなせる業なのか。それとも、これは「俺の轍を踏むな」ということなのか。正直に書けば、芹澤九段の「愛し方」というものが、私には今尚、わからないというか、わかりにくい面があります。

「始末が悪い」という面が、芹澤九段にはあったと思います。ただ、始末が悪くとも優しいということは、人に存するのではないか。考えてみれば、人はそんなに始末よく生きられないのではないのかな、ここまで書いて、私はそんなことを考えているのです。

さて、皆さんから色々なご感想、ご意見をいただきながら、このスレッドを、一緒に作ることができました。そろそろ、ゴールもみえてきたと思っています。

この週末、そして師匠であった高柳九段は、芹澤九段をどうみていたのか、また、山口瞳は九段の没後に何を語ったのかをご紹介したいと思います。

そして、

「お前に頼まれた、例のモノは手つかずで残っていたよ」(本スレッド(1))

この話には「後日談」があります。そのことをここに記して、拙文の仕上げにしたいと思います。

参加してくださったみなさん、読んでくださったみなさん、本当に有難うございました。もう少しだけ、見届けていただきますと嬉しく思います。

Pass

[166]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 20時50分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (5)

(全敗宣言について)

高柳九段の追悼原稿には、芹澤九段自身が競輪で「2億は負けた」と公言しているというエピソードが出てきます。話半分、誇張の類なのか、実際の額なのか、俄かには判断できませんが、芹澤九段がどのような車券の買い方をしていたのだろうと思いました。本命なのか、中穴狙いなのか、大穴ばかりだったのか。いずれにしても「不思議な展開の読み方」をしていたのでしょうね。


大半の棋士、将棋ファン、芹澤ファンがそう思ったことでありましょう。私も「全敗宣言」と、その実施を肯定するつもりはありません。

ただ、その一方で、そんなことは芹澤博文自身が、おそらくは百も承知であったのだろうとは思います。「全敗宣言」などというものは「確信的」に行わないと、できるものではないでしょうから。

では、何故、芹澤九段は、それら全てを背負う決意を自ら担ったのか。それしか手段がないと自身が思いつめてのことだったのか。或いは何らかの効果予測を自身の中で計画したのか。無冠たる棋士の最大限の抵抗だったのか。

どれも「そうかもしれない」し「全く違うのかもしれない」し、と思います。

ただ、芹澤九段という方は無類の寂しがりだったのではないかな、とは思いますね。孤独が苦手ではなかったのか、とは推測しています。

『愛弟子・芹沢博文の死-「明日の名人」はなぜ、酒と博打に溺れたのか-』
         (「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫)

------------------------------------------
「芹沢はもうダメみたいです」という電話を受けたのは、昨年の十二月九日、午前二時のことでした。私が病院に駆けつけたときには、ただ心電図に心臓の動いている記録が残っている段階だった。
 人工呼吸をしていましたから、心臓も止まりかけていた。芹沢の子どもたちが「親父、頑張れ」と励ましていたが、二時間ばかりして息をひきとりました。
 家族が泣き叫んだりしたけど、親父とおふくろが来てましてね。息をひきとったときに親父がぽつりと「バカなやつだ」と言ったんですよ。それまで親父だから泣いたりするわけにいかない。だけどこらえかねたように、ぽつりと「バカなやつだ」と言った。それがまたひどく私の胸にこたえました。

(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

私が知る限り、芹澤九段の臨終を描写したのは、和子未亡人、色川武大、そして高柳名誉九段の三人ですが、芹澤博文の父親が「バカなやつだ」と呟いたのを記述したのは高柳名誉九段だけです。確かに読む者の胸にも堪えます。

------------------------------------------
 芹沢は五十一歳。肝不全でした。
 臨終に立ち合うのはだれでも好きではないだろうが、ことに私は嫌いで、じいさま(金易二郎九段)のときも立ち合わなかった。しかし、芹沢のときには、何となく側にいてやりたかった。
 芹沢の死が、無念、残念なのはむろんだが、私の中に、死なれてほっとしたというか、いい時に死んでいったという気持ちがあるのは事実です。芹沢の書いたこと、言ったことが人を傷つけ、ギャンブルや酒でかなりの額の借金をかかえ、それでトラブルや事件が持ち上がったときには、私も責任をとる意味で、場合によっては一門を解散することになるのかなという予感めいたものが
絶えずあった。例えば、もしも芹沢が将棋連盟を除名になったときには、私はそうしてやろうと思っていた。

 死から数日の間、どうして芹沢がこうなったのか、あれこれ思い返してみました。

 将棋の才能としては、十年に一人でるかどうか、という素質ですから、あのまま将棋だけやっていればかなりの線までいったはずです。それなのに、どうして芹沢は将棋を投げたのか、どうして酒を飲まずにいられなかったのか、そんなことを考えていると、芹沢が子供だった頃のことを思い出すんですよ。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

高柳名誉九段の現役引退は非常に早かった。見極めができた途端に、さっさとやめてしまったという印象があります。ただ、ここに記された「覚悟」はやはり相当なものだと思いますね。芹沢一人を死なせはしないという姿勢、偉大だと感じます。

実は、このあとにご紹介する高柳名誉九段の「ことば」は、私には驚くべき内容でもありました。「棋界と八百長の問題」「私に似たのは中原ではなく芹沢」という指摘。「本当の芹沢の将棋とは、本質とは」.....。

実は、山口瞳の日記とも、この点は合致するということが、わかったりもしたわけです。

------------------------------------------
芹沢が親父に連れられて静岡県の沼津から上京し、目黒にある私の自宅に内弟子として入門したのは中学二年の春だった。切れ味のいい、打てば響くという才能の持ち主でしたね。

芹沢が小学校六年生のとき、沼津で将棋会が開かれたんです。芹沢は当時の下平五段と二枚落ちを指してもらって勝った。それをみていた木村義雄十四世名人が、どれどれ坊や、私が指してあげようと言って、対局した。鮮やかに二枚落ちで快勝したのは、芹沢の方だった。その勝ちっぷりが「ナミ」ではないと木村名人を驚かせ、マスコミも「沼津に天才少年あらわる」と騒いだ。そして芹沢も死ぬまで自分を天才だと思っていました。このことが、どれだけ芹沢の人生に作用したことか。

うちに入門してからも、新聞等で天才、天才と書かれましたが、私も家内もむしろそれを当然だと思っていたんです。しかし、純真な子供にとって自惚れはよいことではなかったかもしれない。だから八年後の昭和三十二年に小学校五年の中原誠が入門してからは、一切、「塩釜の天才」なんて記事はみせなかった。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

中原が入門したとき、芹沢博文は順位戦2期目(11期)12勝3敗で翌年にはC1に昇級、15期まで連続昇級し、昭和36年にはA級芹沢博文八段が誕生します。いわば絶頂期です。

そのスタート台に立った年に高柳名誉九段は「中原への教育方針」を変えています。勿論、塩釜の天才少年と言われても、高柳の目からみれば、芹沢ほどの才能をそこに感じなかったのかもしれません。ここでの軌道修正のタイミングは実に興味深いものがあります。

------------------------------------------
少年は夢を見ていた。"鶴"の舞う夢を見ていた。幼きころ、少年は鶴になりたいと思っていた。少年はそのあと盲目になった。鶴の姿だけが脳裏に残った。

鮮明に残った。少年は必死に鶴になりたいと思った。少年は夢から覚める。鶴になれない己を知る。だが何とかと何回か思う。思っては行ない、挫折して三十年、少年は、ただの老人になった。

しかし、不思議なことに老人は未だに鶴になりたいと思っているのである。心にくすぶり続けているのである。もし鶴になれたら、腕一本といわず、一年、もし鶴を許してくれるなら命もいらぬと鶴を希っているのである。老人は思う。いつ鶴になり損なったのかと。
「歩がいのち」(芹沢博文・小説新潮掲載・掲載年月不詳)
------------------------------------------

それがいつのことだったのか、もうまったく記憶にないのだが、この雑誌の記事を切り抜いて、私は今でも手元に置いている。これほどに心に響いた文章を私は棋士の随想の中で読んだことはない。なかなか人は正直に、赤裸々にはこういうことを語らない。静かに想いを胸に、退場するからだ。「名人戦」の座持ちの話など、するものではなかった。未だに悔恨として、整理のつかないところが、私の中にある。

------------------------------------------
(前略)
なぜ、あんなに酒を飲んだのかと。そして、なぜ、将棋を諦めて横っちょのタレントの道に行ってしまったのか。

 それで思いあたるのが、加藤一二三君のことです。世間では、弟弟子の中原がいともたやすく名人になっちゃって、それで芹沢がもう自分の出る幕はないと思ったとか、いろいろ書かれていますが、私は芹沢が一番の挫折感を味わったのは、加藤君とのことだと思う。

 芹沢は昭和十一年生まれ。加藤君は昭和十五年生まれですから、芹沢の方が四歳年上になります。入門も芹沢の方が一年早いんですが、初段になったのは同じ年なんですよ。加藤君は京都の南口九段のお弟子さんでした。

 二人が初段になるちょっと前ですから、昭和二十六年のことだったと思うんですが、東に芹沢、西に加藤という天才少年がいるというので、「週刊朝日」が誌上対決を企画したんです。加藤君が十一歳で芹沢が十五歳。そのときは芹沢が勝った。

 次に「京都新聞」が、せっかくだからというので、同じ対決をあと二局追加した。加藤君に確かめたところ、一局は芹沢が勝ち、二局目、加藤君に負けた。

 芹沢としては、四歳年下の加藤君に負けたわけで、その後、昭和三十年、芹沢が四段のときに加藤君は五段になっていた。昭和三十三年には、芹沢五段で、加藤君はすでに八段ですからね。

 芹沢だって、昭和三十六年、二十四歳で八段になっている。これは記録としては大山名人、加藤君、中原に次ぐものなんですよ。しかし、加藤君と比べると、かなりの差をつけられてしまっている。芹沢が七段になったとき、加藤君は大山さんに名人戦で挑戦しているわけですからね。だから「天才芹沢」の挫折感というのは、強烈なものだったでしょう。芹沢の記録も立派だったから、私としては、芹沢も確実に成長しているものとばかり、思っていたんだが、芹沢にとって加藤君の存在はかなりの圧迫感だったに違いない。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

私は加藤一二三九段に一度だけお会いしたことがある。名人位を谷川に渡して、しばらくたってからのことだ。

「龍之介さんの棋力はどれくらいなんでしょう?」

龍之介さんとは「遠藤龍之介さん」作家、遠藤周作のご子息のことである。このときの加藤九段も破顔一笑だった。「はいはいはい、ええ、ええ、はいはい、そうですね、うーん、ええ、ええ」と、前置きというか、それが実に長いのである。真面目な方なのだ。「いい加減なことは言えない」という姿勢がにじみ出ていた。龍之介さんはいわば、アマチュアとして加藤さんに将棋を習っていた。「三段、うーん、三段かな、二段ぐらいかな、いや、そうですねぇ、はいはいはい、確実に初段、いや二段ですかねぇ、ええ、ええ、ええ」

かなりお強いのだと思った。

加藤九段が名人位に就いたとき、芹澤九段が相当に荒れたという話は、何度となく私の耳に入ってきた。単純に「愛弟子の中原名人を応援されていただろうから、それは荒れるだろうなぁ」と、その程度のあさはかな考えしか、当時の私にはなかったが、こういう師匠の分析を前にすると、知らないとはいえ、そんな簡単な話ではなかったのだと、それ以上は言葉にならない。

Pass

[167]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 21時25分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (6)

------------------------------------------
 それと同時に、うちのかみさんなんかは、芹沢が横っちょの方に行ってしまったのは私の責任でもあると言うんですよ。
 というのは、私の親父は静岡で、おふくろは東京生まれ。要するに鼻っ柱ばかり強い性格で、それが同じ静岡出身の芹沢にもある。

 だいたい沼津というところは街道筋だから、昔から勝負っ気の多いところなんですよ。私も勝負事が好きな方で、ことに終戦直後、わりと暇があって将棋もいまほど活発じゃなかったもんで、麻雀屋に入りびたっていた。そうすると芹沢も見よう見真似で、私の行っている麻雀クラブに顔を出す。

 だけど麻雀なんていうのはその気になればどこでてもやれる。かえって自分の目の届くところでやってくれた方がいいぐらいに思っていた。

 ところがある時点から、芹沢の賭け金が私などを飛び越えて、巨額なものになっていくんです。

 芹沢の親父は沼津の駅前で蒲団屋をしていた。知り合いに保証人を頼まれて判をついてカネが返せなくなり、芹沢の親父はそれをかぶってしまった。結局、家を手放して在の方に引っ越すわけです。この親父というのが、またいい親父でね。将棋が好きで、沼津から東京に来ては息子の顔をみて、渋谷の道場で将棋を指すのが楽しみだった。

 芹沢は本当に親思い、兄弟思いの子でした。芹沢が、私の知らないところで競輪でも麻雀でもかなり荒っぽくやり始めたのがちょうど、親父さんが借金をした頃。なんとか親父を助けてやろうという思いもあって、大きな賭け金のバクチにのめり込んでいったんじゃないかと思うわけです。

 以後はもう週刊誌などで本人が話しているように、競輪では計算したら総額二億円負けているとか、ラスベガスでは一夜で七百万円負けたとか、一回十万円のジャンケンをしたとか.....。

 動機の一つが家の借金にあるような言い方をして、親父さんの気持ちを思う
と心が痛みます。しかし、芹沢の真意がどこにあったのか。師匠として、芹沢を弁護する意味でも、あえて言わせてもらいました。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

芹澤さんが麻雀、競輪にのめり込んでいった理由のひとつを、高柳俊夫名誉九段は上記のように述べている。「動機のひとつ」と語っているとおり、ここでの「理由」が全てを占めるわけではないだろう。「真意」かどうか、それは私にはわからない。ただ、優しさという点については、疑わないということだ。

藤沢秀行について色川武大は『男の花道』という作品で、こう述べている。

------------------------------------------
 もう数十年前のことで、時効だろうから記すが、暗黒街への借金が、当時の金で何億と噂された。こうなると銀行と同じで、暗黒街も秀行さんを潰そうとしない。競輪場に秀行さんが暗黒街の番頭を伴ってやってくる。私は近くの席から眺めている。秀行さんは大声だ。5→1を百万、5→2、5→4を押えで二十万ずつ、などといっているのがきこえる。もちろん一銭も出すわけじゃない。

 番頭は心得て、穴場の方に歩いていく。が、自分の組のノミ屋に通しておく。レースが山場を迎えると秀行さんが、行け! よし、そこだ! 怒鳴っている。ゴール前、そのまま、そのまま! という秀行さんの絶叫。満面を赤く染めて一人で騒いでいる。一応は大枚百数十万を賭けているのだから当然のようだが、なに、考えてみると、車券が当たった場合、何億という借金からさっぴか
れるし、はずれた場合、借金が少し増えるだけだ。つまり何も賭けていないに等しいのに、やっぱり全身で勝負している気持ちになりきっているのがおかしい。
(「明日泣く」色川武大 1989年11月 実業之日本社刊より)
------------------------------------------

ノミ屋への借金というのは、元々、契約自体が「公序良俗違反」に当たり無効となるから、支払義務は発生しない。勿論、藤沢秀行が、そういうこととは別の次元でどう対処したかというのは、これはまた別の話だ。
ただ、芹澤博文には、暗黒街もここまでは信頼しないように思う。

(天才だから、才能があるから許される?)

「天才だから、才能があるから」許される、と芹澤自身は思っていたのかどうか。私は逆に「天才でも才能があっても、許してはもらえない」ということを内心、最も感じていたのは当の本人そのものだったろうと思っています。

芹澤九段の晩年、特に1982年、B2に落ちて以降の氏は「観念的自殺」いわばもう何かを既に決意してしまった状態であり、周囲の誰もがとうとうそれを止めることすらできなかった。赦されるなどと思っていたら、ああいう生き方はできなかったと私は感じています。「滅びの美学」などというそんな意識すらも彼には残っていなかった。そのことが哀しく淋しいという気がしています。

赦して欲しいとも思わないし、赦されるはずもないという「生き方」だったのだな、と思っています。

------------------------------------------
 むろん私のところに、あまり人の悪口を書かないようにとか、いろんな事を言ってくる人がいた。私はそれを一切、芹沢の耳に入れていないんです。芹沢も子供ではないんだし、自分の責任でやっていることだからね。酒にしても、やめろとか何とか、一切言ったことはありません。それに、もうその時は酒にしてもお金にしても、私が言って引き返せるような段階を過ぎていました。
 それともうひとつ、芹沢のタレント性ですね。これがはたして芹沢の救いになったかどうか。頭の回転、ものの本筋を掴むという点にも非凡なものがありましてね。もの真似もうまかった...。

 将棋会館に芹沢がヨタヨタと、まるで中気の患者みたいな恰好で入ってきたことがあるんです。きかない右手を左手でおさえて、ヨダレをたらしながらこう言うんだ。「昔、芹沢という将棋の天才がいたけれど、今ではもう中気でございます」って。大笑いしながら思わず涙がこぼれてね。(中略)

 昭和四十四年。中原と芹沢、勝った方がAクラスに入れるという順位戦があった。これに勝てば芹沢はAクラスにカムバックできるわけです。
 最初は芹沢が優勢でした。しかし、芹沢は苦悶する中原の顔が見ていられない。そういう過敏な神経がありました。残り十分というところで棋勢がもつれてきた。芹沢が金捨ての鬼手を放った。しかし、狙いの鬼手は飛打ちに桂の合駒が利いて成立しなかったんです。結局、芹沢は負けた。

 その一番で「俺は名人になれないんだ」という思いが決定的になった。事実、うちのかみさんに電話があり「もう一度頑張ってAクラスに復帰して、また中原と指そうという気力はなくなった」と言ったそうです。

 しかし、私には、この将棋を指す前から、芹沢には中原に勝つ気がないんじゃないか、という予感があった。というのは、中原を叩きつけて自分が上がっていくということは、芹沢の性格からできないんですよ。(中略)
 
 芹沢は本当に将棋が好きでしたね。相手が子供でも気軽に相手をし、こまかく解説をする。中原には特に目をかけていたということもあるけれど、何とか強くしてやろうと一生懸命に教えたわけですよ。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

先月の棋士総会が終わって、私は棋士のひとりから電話を頂戴した。それぞれの議案について賛否の数を、まずは伺いたかったのである。数字だけをみれば承認が圧倒的である。私とその棋士の間で、反対数のひとつの目安があったのだが、全ての議案に対して、この数はあまりに大差であった。

後日、その棋士とお会いする機会があり、呑んだ。
「そもそも、担当理事の説明というものが、わからないというか、担当ですら状況が把握できていないんですよ」
「私たちは、何というか将棋しかわからないんでしょうか」と。
そういうことを問われても私の方が困ってしまうのだが、こういうことだけは申し上げた。「この大差では、事実上、現状、打ちだされている施策についてOKです、と頷いたも同然ですよ」「そうなんですよね」

私はこの棋士を責めるつもりは毛頭ない。将棋ファンでも知っている方は少ないだろうし、言われて「顔」が思い浮かぶ方も極めて限られる方だ。こうやって酒席の機会を持たしていただくというのは、人柄も、普及に対しての姿勢も私は立派だと思っているからである。

「棋士というのは何でも勝負なんですね。米長会長は石橋も、石橋のおかあさんにも煮えたぎるような憎悪を抱いている。増幅されることはあっても消えることなんか絶対にありません。また、一部の棋士を除いては、自分たちの生活のことで精一杯で、面倒なことは理事がみんな引き受けてくれているのだからいいじゃないか、という面がある。例えば、中原-米長にしても、互いに、もうどうしようもないというぐらい酷い関係の時期があった。だけど、ほんのちょっとしたことで、二人が肩を抱くように笑いながら、鍋をつついたりする。周囲の人間には信じられないほどですよ。だけど、それは、二人の中にどこかで勝負師として同時代を築いてきたという、互いが互いを認める部分があるからでして、その琴線は切れることがない。そういう共有した価値観がある。

だからふとしたことで戻ったり、揺れたりもする。大山名人が、米長九段に「あとのことは頼む」と病室で、ふたりだけの時に伝えたという話がありますよね。みなさんは「それは米長さんが都合よく話を作った」と思うかもしれませんが、おそらくこれは本当でしょう。大山さんは米長さんの社交性に、晩年は惹かれていました。期待もしたのはそういう面もあったからです」

「棋士というのは将棋しかわからないんですよ」その方は何度もそう述べた。

私は最後に、こういう話をしてみた。笑いながらである。

「もし、石橋さんが米長会長に平手で勝てば、少しは変わりますか」と。

「3番勝負で勝ち越せば、劇的に変わるでしょう。そういう価値観が、私たちの中ではどこかに染みついているのかもしれません」

これでは、正直、義憤の感じようもない。ベクトルが違いすぎるのだ。

棋士というのは四段になれば「一人前」である。私がお会いした何人かの棋士の方々、圧倒的に「そのときが最も嬉しかった」と口にされる。それは「認められる」ということを意味するからだ。

例えば「森永」にとって「明治」は競合である。現場では相当な競争がある。しかし「森永」の社員は、その組織内では仲間である。

プロ野球、ジャイアンツは今でも3軍というものがあるのかどうか、定かではないが、個々の選手間にあっては競合する面がある。しかし、野球にはポジションというものがあるから、内野手と捕手、投手と外野手が競合するということはない。故に一定の親和性というものが存する。しかし、棋士は自分以外は全て競合である。こういう組織は「全体としてどうあるべきなのか」ということを考えるのは、おそらく不得手なのだ。

その一方では「牛丼事件」みたいなことが、いつまでも人々の記憶に残ったりもする。36期名人戦が毎日新聞に移行する際に「朝日新聞は、タイトル戦のときに、記録係は、打ち上げの席などには同席を許されず、片隅の小部屋で、まるで物でも扱うように牛丼ばかり(或いは「しか」かもしれない)出されたものだ。その恨みを忘れてはいけない」ある意味、非常に「わかりやすい」のである。必ずしも銭金ばかりではない、一途な面があった(今、そういう意識があるのかどうかは知らないが)

もし、高柳名誉九段のいうように、芹澤九段に「(相手によって)勝負に徹しきれない」面があるのだとしたら、おそらく名人にはなれない。こういう優しさは勝負師には致命的である。そういうことは評価もされない。

------------------------------------------
(前略)
 死ぬ一週間くらい前に芹沢が私のところに電話をかけてよこしてね。将棋の三角八百長を持ちかけられているというんですよ。Aに対して芹沢が負けてくれれば、AはBに対して負けてやる。そうするとAもBもお互いに助かるから、と。

 本当にそんなことがあったのかどうかはともかく、芹沢は腹を立て、私のところに言ってきたわけです。

 「これは事件にするつもりだけれど、していいか」そう聞かれれば、「表面に出さないで済ませたらどうだ。ただ、それは君の判断で、どうにも我慢できないと思えば公にすればいいだろう」と言わざるをえない。

 私が初めて芹沢に批判めいたことを言ったのは、実はこの時です。
 君は何年か前に将棋を投げている。手心を加えて欲しいなどと頼まれるということは、君は安く見られているんじゃないか。相手にすれば、芹沢さんは将棋を指す気がないから、頼めば聞いてくれるんじゃないか、と思うかもしれない。そういうことを持ち込まれるような軽さが、君の一連の言動にあるんじゃ
ないか。

 そうは言ったけれど、私も引退した年は、もう自分は将棋をやめるつもりで無理に負けるようなところがあった。B1クラスで負けたら引退すると決めてましたからね(中略)

 順位戦という機構にもの申す意味で将棋を指す気がないというなら、順位戦だけ将棋を投げてもいい。しかし順位戦以外の将棋は一生懸命やって、まだまだ芹沢は健在なりというところを見せたらどうか、そういうことを初めて芹沢に言いました。

 むろん、その時には一週間後に芹沢が死ぬなんて思ってもみなかった。
(「愛弟子・芹沢博文の死」「文藝春秋」昭和63年3月特別号・高柳俊夫より)
------------------------------------------

「順位戦以外の将棋は一生懸命やって」などと、芹沢の眼中にないことを高柳名誉九段は何故、伝えたのだろうか。もうそんなことしか、言えることがなかったのだろう。読んでいて辛くなる。

最後に高柳名誉九段はこう結びます。

------------------------------------------
(前略)
芹沢は人の悪口を書いて得々とするような人間ではなかった。彼の将棋も、その将棋を支えている理論もまさに本格的で、スケールの大きなものだった。だからこそ、若手の欠点が目につくわけです。最近の将棋には勝てばいいというようなところがある。どうしたら負けないかというような将棋を指す若手に、芹沢は耐えられなかった。

 それを激烈な文章で書かざるを得なかった。そこには、だんだんと孤立していった芹沢の追いつめられた気持ちがあったんでしょう。(了)
------------------------------------------

週刊将棋だったか、江國滋と芹澤博文の対談で、芹澤は羽生の将棋を徹底的にこきおろした。「ただのコピー将棋」というような論評だったと記憶している。その羽生は永世名人となり、今期、三浦八段を相手にストレートで勝利した。

存命であれば、芹澤はそれを嗤うのだろうか。或いは認めるのだろうか。その声は勿論、耳をすましても、聴くことはできないのだけれど。

Pass

[168]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 21時32分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (7)


芹澤九段逝去の報に接した時、とりたてて「意外」という印象は私の中にはありませんでした。自殺、病死のいずれか、ということだけを確認しました。そのことは今でも鮮明に記憶しています。

興味、というと些か語弊があるかもしれませんが、この当時、山口瞳は週刊新潮に連載されている「男性自身」で日記シリーズを続けていました。日々の出来事を綴るという形式です。

山口瞳は芹澤博文の死去に触れるのか触れないのか、触れるとして何をどう語るのか、当該日の「週刊新潮」が発売される日を計算しながら、楽しみに待ったものです。おそらく「何か」は書くだろう、と思っていました。

ここでは、それを1冊の本にまとめた『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)よりご紹介しましょう。

---------------------------------------------
(昭和62年)12月8日

(前略)
 芹沢九段死去。五十一歳。彼も浴びるように飲んだ一人だ。飲み続けた。これは人生観の問題であって、他人が関与すべきものではない。僕は人生観が違うから抵抗を試みるつもりだ。

 芹沢さんに拝み倒されて、将棋の好きな医者のいる京都の病院を紹介したことがある。彼は三日目か四日目で病院を飛び出してしまった。淋しがり屋の彼が誰も見舞いに来ない病院にいられるわけがないのである。

芹沢さんが僕の悪口を言ったり書いたりしているという話を何度も聞かされた。しかし、どこか憎めないところがあって、あまり気にとめることがなかった。
 僕が彼を宥すのは彼が無頼の将棋好きであったからだ。僕の家に泊った芹沢さんと米長邦雄九段とが、朝、下着一枚とステテコで真剣に将棋を指していた
光景など、いま思い出しても清々しい感じがする。また、芹沢さんは、将棋盤の上に誰かが茶道具を置いたりすると烈火のように怒った。将棋を覚えたいという人がいると、それが幼児であっても、まず盤に対する坐り方や礼の仕方から教えた。そういう棋士だった。
(山口瞳『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)より引用)
---------------------------------------------

---------------------------------------------
(昭和62年)12月11日

(前略)
 芹沢博文九段の話の続き。
 あるとき友人と将棋を指していると、遠くのほうから芹沢さんが「詰んでいるものは詰ませなくてはいけませんね」と叫んだ。その頃、僕の家の一階はワン・ルームで割に広かったのである。彼は別の仲間と麻雀を打っていた。うし
ろ向きのままで言った。僕の駒音で指し手がわかったのだろう。これは芹沢さんが自分の才能を暗示したのではない。彼は麻雀を打っていても、関心はもっぱら僕のヘボ将棋のほうにあったのである。それくらい彼は将棋が好きだった。

 芹沢博文には、将棋を広く世間に知らしめたという功績があったと思う。唄を歌い、テレビのクイズ番組に盛んに出演するようになった頃には、もう遊びに来なくなった。将棋界には変わった人がいる。面白い人がいるというPR効果はあったと思うが、ややイメージダウンの気味がなくはなかった。「あり余る才能を小出しにする」と冗談半分で豪語していたが、芸能人と対等にジョークを披露したところで真の将棋ファンは誰も喜ばない。彼は僕なんかには形勢不明と思われる局面で投了してしまうことが多かったが、自分の将棋人生をも投げてしまっているようだった。それにしても五十一歳。「芹沢さん、あんた、投げっぷりが良すぎるぜ」と訃報に接したとき、咄嗟に思った。
(山口瞳『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)より引用)
---------------------------------------------

説明するのに窮するのだが、芹澤博文九段が好きで、山口瞳の愛読者という立場は、案外に肩身の狭い思いを感じたりもした。日常で山口瞳の話になったときに、芹澤九段について語ると、それこそ殆どが血相を変えて迫ってくる。そういう方は将棋を知らない。だから困ってしまうという面があった。

12月11日の日記(その前も含めて)山口さんは、色々あっても芹澤博文九段のことが好きだったのだな、と私は感じた。芹沢さん、あなたは得な人だと私は思いますよ。

このスレッドに参加された方々の多くも、芹澤なんて、という方は殆どいなかったという印象を私は有しています。正直、ちょっと意外ではありました。

さて、今週中を目処に、残った最後のお約束「残された例のモノの顛末、後日談」をお伝えして、失礼したいと思います。ご愛読、ご感想をお寄せくださったみなさん、本当にありがとうございました。

Pass

[169]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 21時42分

芹澤博文九段 -内心の憧景- (8)
【最終回】

今、私の手元に『現代の将棋戦法』(セントラル教育ビデオ株式会社・企画販売)がある。将棋カセットだ。「花形六棋士名局集」(解説八段/芹沢博文・棋譜読上/女流名人 蛸島彰子)定価5,800円とある。

中学生の時、私が初めてお会いした棋士は芹澤博文八段(当時)であったことを冒頭に記した。その直後、私は確か、地元の百貨店でこの商品をみつけた。傍らには両親がいたと思う。当時の5,800円というのは、私にとって夢のまた夢のような値段だった。普通なら、手にとって、それだけで「終わり」である。

駄目元の気持ちで、両親に強請った。「何でもするから買って欲しい」私はそれまで、このようにはっきりと家族に「モノを強請ったこと」はなかった。一抹の期待と賭けに似た心境が、子供心にあったように思う。幸い、小さなカセットレコーダーを、貯めたお年玉をはたいて、不足分を両親に足してもらって購入していた。幸運だったと思う。

「そうか、芹沢さんに会ったからな」父親は、それ以上、さしたることも言わずに、買い求めてくれた。「学業品は別として、半年、小遣いはなしだがそれでもいいか」いいも悪いもない。私の顔は喜色満面だったことだろう。

カセットレコーダーを左に、板盤にプラ駒で何度も棋譜を再現した。高校生になって「元のテープが切れては大変」と、複製のダビングテープを作成した。
今日は元のテープで「昭和45年3月13日・順位戦 芹沢博文八段VS中原誠七段」を聴きながら、これを書いている。若々しい芹沢の、澄んだ声が小さな部屋に広がっている。本当に久しぶりだ。氏の声を聞いたのは。


「お前に頼まれた、例のモノは手つかずで残っていたよ」

その商品は、私の手元に送り返されてきた。

学生時代の友人からである。

「芹澤さんにお前が託したウィスキー、会社の引っ越しに伴って整理をしていたら、出てきてさ。遅くなったけどお前の自宅に送っといたぞ」

「いいよ、いいよ、そんなものは、そちらの仲間内で、適当に呑んでくれればそれでいいって」

「やだよ。この酒呑んだら、芹澤さんのようにべろんべろんになりそうだしな」

内々の会話だから何ということはないが、ちょっとだけ心が波立つ。

「芹澤さんが亡くなって何年になるのかな」ふと、そんなことを思った。

数日後、宅急便が届いた。特に開けもせず、そのままにしていた。私に家庭内飲酒の習慣がないからである。未開封とはいえ、些か古くなったウィスキー、人様に差し上げるには躊躇するものがある。

当時、私はweb上で「管理サポート」みたいなことを純然たる趣味の部分で行っていた。今より、少し「血の気」は盛んだったかもしれないが、発言のスタイルや調子は、保管している過去ログをみても、殆ど変わることがない。私にネットの歩き方を教えてくださった先輩を、お手伝いさせてもらっていた。

「そう言えば、再来月にオフラインミーティングがあったな。その時に差し入れ代わりに持参するか、私も呑むわけだし、それならいいだろう」と。

私たちのオフラインミーティングの最後は「公園オフ」と決まっていた。とにかく最後は公園で呑む。紙コップと乾き物で、ペットボトルやら氷やらを近くのコンビニで買い揃え、夜空を眺めて酒を呑む。当然、完徹になる。効率的ではないのだが、男女十五名前後で、とりとめのない話が続く。今でも、彼らの何人かとは、年、乃至、一年半に一度は会い、公園オフは流石になくなったが、ああだこうだと酒を呑む。蚊にさされながら、水銀灯の下で将棋を指したこともあった。

オフラインミーティングの前日、商品を確認せねばならず、私はそれを開いた。芹澤さんは「(ダルマ)*地域によっては狸ともいう」を冷やして呑むそうなので、私は一段上のウィスキーを差し入れた。少しばかりの見栄である。

箱の中にしのばせたメッセージの厚手の封筒と未開封のウィスキー。

私は、もう記憶でしかないが、こんなことを綴った。

「上達は果たせませんが、私がおそらくは生涯の趣味として将棋を続けていくことができるのは、芹澤博文九段にお会いしたからといっても過言ではありません。私が家庭を作り、子供ができて、もしも将棋に興味を示したら、芹澤九段、ぜひ一局、教えてやってください。よく考えてみれば、私もまた芹澤九段とは一局もご指導を受けたことがないことに気がつきました。共々、今後ともよろしくお願い申し上げます」そんな趣旨のことだった。

その願いはついにかなうことはなかったのだな、と思って、封筒に手をかけたとき、何かてざわりが違う。ホテルの便箋がそこにあった。

私の名前が何とか読める。
続いて「ゴメンナ」と書いてあることがかろうじて判読できる。そのあとの数行はもう全く読めない。鴨なのか鶴なのかもわからない鳥の絵のようなものもみえるが、それとて何かもう得体の知れない駒のようだ。

「芹澤さん、勘弁してよ。酷いよ」

何でもよかったのだ。褒めてもらいたい、かけがいのない人が、私の前から、消えた。そのことをはっきりと自覚した一瞬だった。

私は翌日、この酒を皆で呑んだ。白夜のような空の色を、生涯忘れることはない。
【最終回:2010年6月10日記す】

Pass

[170] 芹澤博文九段への再会-当時を思い出しながら-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月04日 (火) 22時11分

この「芹澤博文九段 -内心の憧景-」を記したあとに、私はweb駒音への撤退宣言を実行した。そのことも編集作業を行いながら思い出したが、何より、芹澤博文九段をまた思い出せて、それが何とも嬉しかった。以後、駒音では寅金氏が「昭和の棋士」を題材にした内容を発表されている。

改めて再読してみたけれども、今読みなおして、とりたてて加えることも削るところもない。

今回の試みの理由のひとつに「将棋連盟が甦った日」(三一書房刊)の著者、馬場信浩氏があとがきに示された「芹澤批判」を次回以降、ここで取り上げてみたいと考えたからだ。

次回、このスレッドで反論してみたい。

Pass

[172] 「将棋連盟が甦った日」あとがきについて
JC IMPACTU (/) - 2011年10月06日 (木) 20時19分

----------------------------------------
将棋を指さなくなってもう六、七年になる。
私と芹沢九段との一件が原因である。氏がテレビ対局場にやってきて競輪のノミ行為まがいをしたのを私が雑誌で叩いたからである。昼間から酒も飲んでおられた。私はテレビとはいえ対局場を賭場にして欲しくなかった。そこで、酒を自重し対局に専念して欲しいと書いた。それが氏の逆鱗にふれたのである。

私はただただ氏の才能を惜しんで言ったまでである。氏になんの意趣もなかった。連盟からそれとなく会館に足を運ぶのを遠慮して欲しいと言われた。私は黙ってその申し入れを受け入れた。以来、将棋連盟とは縁が切れた。

今年、芹沢九段の訃報に接した。氏と交友のあった人たちは、氏の人柄を褒め、生き方に賛同を示し、最後の勝負師だったと早逝を持ち上げた。私は吐き気に襲われていた。友であり、師であるなら、殴ってでも酒はやめさせるべきである。死んだ後、良い人だったと言うのは友でも、師でもない。
(つづく・引用者註)
(「将棋連盟が甦った日」1988年7月初版・馬場信浩・三一書房刊より引用)
----------------------------------------

本書の「あとがき」の冒頭である。私はこのスレッドで「芹澤博文九段 -内心の憧景-」を再録したが、ここには芹澤九段本人、奥様、師匠、氏を知る人々の一文を引用させていただいた。その内容と比べていただいて、この馬場氏の「あとがき」たるものを一読いただければと願っている。

別に芹澤九段を「嫌い」というならそれはそれでいい。それを貫けばいいだけのこと。ただそれならば「なんの意趣もなかった」などと書くべきではない。私から言えば「白々しい」という一言に尽きる。

馬場氏は、将棋を指さなくなった原因を芹沢九段との一件が原因だと述べている。私は不思議だ。ひとりの棋士と関係が拗れたくらいで「将棋」を「指さなくなる」つまり、馬場氏にとっては「その程度」のものであったということになる。もっと言うならば「その程度の希薄なものだった」ということだ。

例えば「web駒音」にはアンチ米長邦雄将棋連盟会長という人々が多い。だから「将棋世界」や連盟の刊行物は一切買わないという方がいらっしゃるし、米長体制の間は「駒桜」には加入しないという方も存するかもしれない。しかし、だからといって「将棋を観戦する」「指すことそのものを止めてしまった」という方をみたことがない。タイトル戦や注目対局があれば、注目しているし、リレー将棋も指されている。

つまり芹澤九段が嫌いであろうと、アンチ米長会長であろうと、「将棋そのものは面白いし好きだ、趣味のひとつだ」ということなのだろうと私は考えている。私も尊敬する棋士から心に残らない棋士、嫌いな棋士もいるけれど、そういうことが理由で「将棋をやめよう」と思ったことなど一度もない。

はっきり申し上げる。その程度の「かかわり」で、批判であれ賛辞であれ、誰かの心に届くようなものなど書けはしないのだ。だから、独善、ひとりよがりの「戯言めいた」ものになる。

「競輪のノミ行為まがい」というものが、具体的にどういうことを指しているのか、この記述では今ひとつわからないが、確かに褒められたことではないだろう。私からみれば「その程度」の出来事である。

馬場氏はおそらく、この場に遭遇したのであろう。ならば、そのことを直接、本人に忠告すればいい。意趣がないというなら、本人に「自分はこう考える」と伝えればいいのだ。その結果、芹澤九段の主張、言い分も或いは聞けるかもしれない。

あえて言う。「この程度」のことを本人に忠告するという手続きもとることなく、鬱憤を晴らすためなのか、いきなり「雑誌で叩く」などというのは、大人の礼儀に著しく欠ける振舞だ。私はそう思う。卑怯だという気もする。瑣末な正義だけを振り回す者を私は好きになれない。傲慢なのだ。

さて、ありていに言うなら「この一件で」馬場氏は将棋連盟からそれとはなく「出入りを遠慮するよう」告げられる。まぁ、芹澤九段が働きかけたのだろう。そして連盟の広報か、しかるべき立場の方が告げたと推測できる。

何故、黙って受けたのか。そもそも芹澤九段が毎日連盟に顔を出すというわけではない。「それは不当だと思います」と自らの主張を堂々と展開すればいい。つまり「黙って受け入れる」程度の
対象でしかなかったということである。突っ張るなら最後まで突っ張ってもらいたい。

「批判されたから出入禁止」というのは、確かに「大人げない面」はある。しかし、その一方で「この程度のことを、知ったかぶりで告発する取材者」の出入を遠慮していただきたいとお願いすることはあってもいいと私は思ってもいる。リスクになるからだ、それは。

「人柄を褒め、生き方に賛同を示し、最後の勝負師だったと」いう評価に「吐き気がした」と馬場氏は述べる。

芹澤九段は魅力的な人だったと私は思っている。少なくともアマチュアには優しい方だったし、ああいう破天荒な生き方は誰にもできるものではない。人は「できない」ことには時に憧れる。

最後の勝負師というのは、どういう意味かわからないが、ある意味、芹澤九段は「いい格好」はしなかった。曝け出した面も沢山ある。タイトルも昔々に一度しかとれなかった。しかし、あれほど「将棋」を愛した人もそんなにはいない。高柳名誉九段は「単なる贔屓」であの一文を書いたわけではない。それほどによくも悪くも魅力あふれる面があったということだと私は思っている。

馬場氏は、おそらく芹澤九段との酒席の機会も、何か話を伺う機会にも恵まれなかったのだろう。それはそれで仕方のないことである。ならば「わからないこと、みえないこと」を、ひとりの人生を軽薄な「べき論」で斬って棄てるようなことをすべきではない。

「友であり、師であるなら、殴ってでも酒はやめさせるべきである」

単細胞な方だなぁ、と思う。説教してぶん殴って、それで「酒をやめさせる」ことなんて、できない。ひとつ記しておこう。米長邦雄九段は、ある面、芹澤を師と思い、憧れ、勿論、深い友人のひとりでもあった。その米長九段は「酒」について、芹澤九段に直接、箴言した。それで関係は「絶縁」となったのである。おそらくそういうことは、もう米長九段しか話せる者がいなかったのだろう。それでも関係は、終わった。

「死んだ後、良い人だったと言うのは友でも、師でもない」

そんなことはない。それは「歪」というものだ。

氏のこの「あとがき」は1988年6月に記されたものとある。私が
「内心の憧景」で引用した高柳敏夫名誉九段の作品が文藝春秋に発表されたのは1988年3月号である。

馬場氏がこの記事を読んでこのあとがきを書いたというなら、ある意味、書き手として「救いがない」と私は思っているし、こういう記事を読まずにそれを書いたというなら、それはいい度胸という他はない。

次回も「あとがき」の続き、実はどんどん酷くなっていく。

Pass

[188]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月11日 (火) 21時42分

----------------------------------------
私は自負している。芹沢九段に、タイトルを狙うなら酒を止め、賭け事を自分の仕事に持ち込むなと言ったのは私だけであると。そのため将棋連盟に足を向けられなくなってしまったけれど。

山口瞳氏の著書のなかに、芹沢九段が、自分はもう名人にはなれないのではないかと思い、いきなり落涙するシーンが書かれてある。この下りを読むと私は何時も涙がこみあげてくる。先を見てしまった男の悲哀が側側と胸を打つからである。今私は将棋のもつ緊張と興奮をスポーツに求めている。だが、ふと将棋小説を書いてみたいと思うときがある。それは芹沢九段を思い出したときである。またスポーツの世界で長島になり損なった男、釜本になり損なった男、松尾になり損なった男達をみたときである。先の見えてしまった男達の悲劇をみたとき、私はむしょうに将棋小説が書きたくなるのである。

ここに採録されたものは強烈な衝動に突き上げられて書いたものである。生意気だが、芹沢九段に捧げたい一冊だと思っている。芹沢九段は、私の一言に今はにやりとしているに違いない。そう思っている。

1988年6月 茅ヶ崎にて

(「将棋連盟が甦った日」1988年7月初版・馬場信浩・三一書房刊より引用)
----------------------------------------

「言ったのは私」ではない。「言わずにメディアに書いて叩いたのである」それは全然違う。僅か数枚の短い原稿の中で、こういう「すりかえまがい」の粗雑なものを残すという感覚は、私には全く理解できない。はっきり言えば、笑われても仕方ない。

馬場氏が芹澤さんのくだりで「涙がこみあげてくる」というのは山口瞳「血涙十番勝負」に掲載されている。新刊書店では中公文庫版が入手できるかもしれない。

これを読むと芹澤九段に「今年、勝たなきゃ絶交だ」と氏を励ました山口瞳と、馬場氏の想いが見事に違う、そのことが実によくわかる。

芹澤九段に捧げられても困ると私は思う。私は読んだ。何も残らなかった。私には全く面白さを感じられなかった。作品として、それはそれとして感情抜きに読んだ上での私の感想だ。

「今はにやりとしているに違いない」

思い上がりも甚だしい。ただ、それだけだ。

次回は芹澤博文九段と「酒」について別のテキストを用いて考えてみたい。




Pass

[217] 続・芹澤博文九段 -内心の憧景-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月24日 (月) 00時02分

「と金倶楽部」に掲載したものを転載します。

------------------------------------------------------
過日「web駒音」に「芹澤博文九段 -内心の憧景-」というスレッドを立て、拙い思いをそこに残した。私になりに芹澤博文九段については「描き切った」という面もあったのだが、改めて、氏の著作を手にしてみて、ふと気がついたことがある。忘れないうちにこちらに書いておこう。

以下、web駒音からの転載である。

-------------------------------------------
85.  JC IMPACT - 2010/06/09(Wed) 00:00 No.17740
芹澤九段逝去の報に接した時、とりたてて「意外」という印象は私の中にはありませんでした。自殺、病死のいずれか、ということだけを確認しました。そのことは今でも鮮明に記憶しています。

興味、というと些か語弊があるかもしれませんが、この当時、山口瞳は週刊新潮に連載されている「男性自身」で日記シリーズを続けていました。日々の出来事を綴るという形式です。

山口瞳は芹澤博文の死去に触れるのか触れないのか、触れるとして何をどう語るのか、当該日の「週刊新潮」が発売される日を計算しながら、楽しみに待ったものです。おそらく「何か」は書くだろう、と思っていました。

ここでは、それを1冊の本にまとめた『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)よりご紹介しましょう。

---------------------------------------------
(昭和62年)12月8日

(前略)
 芹沢九段死去。五十一歳。彼も浴びるように飲んだ一人だ。飲み続けた。これは人生観の問題であって、他人が関与すべきものではない。僕は人生観が違うから抵抗を試みるつもりだ。
 芹沢さんに拝み倒されて、将棋の好きな医者のいる京都の病院を紹介したことがある。彼は三日目か四日目で病院を飛び出してしまった。淋しがり屋の彼が誰も見舞いに来ない病院にいられるわけがないのである。芹沢さんが僕の悪口を言ったり書いたりしているという話を何度も聞かされた。しかし、どこか憎めないところがあって、あまり気にとめることがなかった。
 僕が彼を宥すのは彼が無頼の将棋好きであったからだ。僕の家に泊った芹沢さんと米長邦雄九段とが、朝、下着一枚とステテコで真剣に将棋を指していた
光景など、いま思い出しても清々しい感じがする。また、芹沢さんは、将棋盤の上に誰かが茶道具を置いたりすると烈火のように怒った。将棋を覚えたいという人がいると、それが幼児であっても、まず盤に対する坐り方や礼の仕方から教えた。そういう棋士だった。
(山口瞳『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)より引用)
---------------------------------------------

---------------------------------------------
(昭和62年)12月11日

(前略)
 芹沢博文九段の話の続き。
 あるとき友人と将棋を指していると、遠くのほうから芹沢さんが「詰んでいるものは詰ませなくてはいけませんね」と叫んだ。その頃、僕の家の一階はワン・ルームで割に広かったのである。彼は別の仲間と麻雀を打っていた。うしろ向きのままで言った。僕の駒音で指し手がわかったのだろう。これは芹沢さんが自分の才能を暗示したのではない。彼は麻雀を打っていても、関心はもっぱら僕のヘボ将棋のほうにあったのである。それくらい彼は将棋が好きだった。
 芹沢博文には、将棋を広く世間に知らしめたという功績があったと思う。唄を歌い、テレビのクイズ番組に盛んに出演するようになった頃には、もう遊びに来なくなった。将棋界には変わった人がいる。面白い人がいるというPR効果はあったと思うが、ややイメージダウンの気味がなくはなかった。「あり余る才能を小出しにする」と冗談半分で豪語していたが、芸能人と対等にジョークを披露したところで真の将棋ファンは誰も喜ばない。彼は僕なんかには形勢不明と思われる局面で投了してしまうことが多かったが、自分の将棋人生をも投げてしまっているようだった。それにしても五十一歳。「芹沢さん、あんた、投げっぷりが良すぎるぜ」と訃報に接したとき、咄嗟に思った。
(山口瞳『還暦老人ボケ日記』(1989年7月・新潮社刊)より引用)
---------------------------------------------

説明するのに窮するのだが、芹澤博文九段が好きで、山口瞳の愛読者という立場は、案外に肩身の狭い思いを感じたりもした。日常で山口瞳の話になったときに、芹澤九段について語ると、それこそ殆どが血相を変えて迫ってくる。そういう方は将棋を知らない。だから困ってしまうという面があった。

12月11日の日記(その前も含めて)山口さんは、色々あっても芹澤博文九段のことが好きだったのだな、と私は感じた。芹沢さん、あなたは得な人だと私は思いますよ。

このスレッドに参加された方々の多くも、芹澤なんて、という方は殆どいなかったという印象を私は有しています。正直、ちょっと意外ではありました。

さて、今週中を目処に、残った最後のお約束「残された例のモノの顛末、後日談」をお伝えして、失礼したいと思います。ご愛読、ご感想をお寄せくださったみなさん、本当にありがとうございました。

皆様のweb内外でのご活躍を祈念申し上げます。
-------------------------------------------

山口さんの日記に次のような一文がある。

『芹沢さんに拝み倒されて、将棋の好きな医者のいる京都の病院を紹介したことがある。彼は三日目か四日目で病院を飛び出してしまった。淋しがり屋の彼が誰も見舞いに来ない病院にいられるわけがないのである。』

芹澤九段の著作『人生、くそ度胸』(昭和60年6月10日初版/KKロングセラーズ刊)に次のような記述がある。

芹澤九段「三度目の入院」(昭和59年5月30日退院)の後の話である。ちなみに和子未亡人が記している「四度目の入院」は(昭和62年5月13日〜7月15日退院)
芹澤九段が「京都」に入院したという期間の記述が、奥様の著作にはない。それは、山口さんが記したように「三日目か四日目に飛び出してしまった」からなのだろうと思っていた。

この著作には「芹澤九段自身が京都に入院した時のエピソード」が記されていた。著作の奥付を考えれば、それは、昭和60年1月〜昭和60年5月の期間であることが特定できる。

-------------------------------------
 昨年のこと(引用者註:「三度目の入院のこと」を指す)印象強烈で、つい長くなった。話もとに戻そう。
 死んでやろうと思い、死ぬ気で酒を飲んでいた。メシも食わず、日に二升も飲んだ。それでも死ねなかった。(中略)
 何回かその寿司屋で顔をあわせるうち、拙者、この娘が好きになった。三日会わないと居ても立ってもいられぬようになった。
 仮にこの娘をA子としよう。A子は某私大文学部の学生だった。学生だから授業がある。拙者、世捨て人のヒマ人、時間はありあまっている。するとこのヒマ人、朝早くから起きだして、駅でA子と待ち合わせ、電車にのって大学までつきあうアリサマだ。
 授業が終わるまで、近所の公園で寝っころがったり、本屋をひやかしたり、結構いそがしい。この時間、やたらと楽しかった。
 A子との大学通いをする日々をおくっているうち、拙者、生きる力を取り戻しつつあったように思う。
 「オレ、女に惚れる力が残っているなら、まだ死なんのかな」ボンヤリした頭で考えていた。とにかく闇に光が差し込んできたことは、はっきりと分かった。
 立ちなおって、やりなおそうと思った。もう一度、生きようと思った。生きるためにアルコール漬けの体を治そうと思った。
 東京の病院ではダメだ。逃げだして飲みたくなる。それに悪友ども、見舞いと称して、塩タレた拙者の敗残の姿、カラカイに押しよせること、必定である。
 京都に逃げることにした。京都市立病院に入院した。新撰組壬生の屯所があるあたりの古ぼけた病院だった。一ヶ月ほど入っていた。
『人生、くそ度胸』(昭和60年6月10日初版/KKロングセラーズ刊)より引用
-------------------------------------

私はこの本も、購入した当時に読んでいたはずだが「駒音」に発言している間は、本書を取り出すことはなかったし、故にそのことも失念していた。

山口さんは、京都ともつながりの深い作家である。氏自身もある事情のために京都に入院していた時代があり、そのことは氏の純文学長編「人殺し」に詳しい。

一ヶ月入院していたと芹澤九段は語り、山口さんは「三日目か四日目で飛び出した」と日記に書いている。ズレがあるし、山口さんが紹介したときとは別の出来事なのかもしれない。

しかし、この齟齬はたいしたことではない。改めて記すが結局芹澤九段は「病院を飛び出す」からである。ただし、その理由は「淋しがり屋の彼が誰も見舞いに来ない病院にいられるわけがない」からではない。芹澤九段は、本書でも記したとおり「逃げ出さないために京都の病院を選んでいる」のである。

或いは山口さんの記憶違いか、筆の滑りで「三日目か四日目」と書いたのかもしれない。これも機会があれば、当時を知る関係者に伺ってみるつもりだ。芹澤さんは関西の棋士ではないし、関西に馴染みがあるという印象が、私にはないという部分も大きい。

ただ、この「1ヶ月の入院(京都)」を奥様が触れなかったことは「当然」だと私は思っている。改めて、このくだりを読み、私は芹澤九段と奥様の「かたち」を、ひとつの「理想」であると確信した。これはおそらく、活字になったものとはいえ、ひとつの「裏面」である。

例えば花村九段にも「下級者黙れ」事件や「A級順位戦における賞金賭け」というエピソードが公表されている。誰にも「表にならなかったこと」というものはあるのだ。しかし、ある意味、それは「棋士」のエピソードして、その魅力を輝かせる、素晴らしい人間像を作り出している。

私は、そんな棋士たちか好きだ。

次回は、この続きをご紹介したいと思っている。


投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 水, 06/23/2010 - 23:46

Pass

[218] 続々・芹澤博文九段 -内心の憧景-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月24日 (月) 00時05分

------------------------------------
 もちろん、A子からは二日に一通手紙がくる。これがまたたまらなく嬉しい。喜びは何よりの良薬。もともと頑健なこの身体、二升酒で死ななかったこの身体だ。ビュンビュン健康を取り戻していった。
 そんなある夜、隣の病室の若い男性が死んだ。腎臓を患っているとは聞いていた。まだ二十三か四、青春を謳歌すべき年ごろである。
 おりしも桜の時期であった。拙者、ひどく感傷的になった。隣室で母親が号泣する声を耳にしながら、寝台に起きあがって、句を作った。若き死者へ選別のつもりであった。

 桜散る 見舞いの客のあわただし

 翌朝、死者は親戚に柩をかつがれ、裏口から出ていった。拙者、病棟の玄関で、最敬礼して死者を見送った。庭は桜が満開だった。(中略)
 花を見あげていると、いつの間にかこの病院の看護婦長が横にいて、どうして、ここにいるのかと難詰する。
 「桜、見ていただけだ」と答えるが、婦長、何を思ったのか、グチグチと言いたててくる。
 「あなたは、病棟から出てはいけない条件の患者です。出ない約束で入院したはず。それをなぜ破ったのか」
 てな調子で、シツコイことこの上ない。おそらく、庭で花見の隠れ酒でもひっかけているとカングったに相違ない。
 痛くもない腹さぐられて、ハラが逆上しかけたが、ともかくその約束は事実だから、「スンマセン」とあやまって病室に戻った。
 ところがだ、このクソ婆ァ、また病室に来て、なんだかんだ文句を言う。拙者、堪忍袋の緒がチョン切れた。
 「オレが何したって言うんだ。ちょっとばかり約束は破ったが、それはあやまったじゃないか。非を認めている人間に、スだのゴボウだのぬかしやがる奴は許せねぇ。こんなヘボ病院、頼まれたっていてやるものか」
 即刻、退院。尻をはしょって飛びだしてやった。体調もとに戻っていたし、いたって意気軒昂であった。
『人生、くそ度胸』(昭和60年6月10日初版/KKロングセラーズ刊)より引用
------------------------------------

勘のいい読者のみなさんなら、もうおわかりだろう。このあとには修羅場が待っている。

------------------------------------
 だが、更年期婆ァとケンカしての突然の退院であるから、わがガールフレンドには知らせる暇がなかった。あったとしても二日に一通はくるのだから、出したあとかもしれぬ。
 だからA子の手紙は必然的に、われのいない病院に届くことになる。ここでクソ婆ァのタタリが起こった。
 A子の手紙、これみよがしに東京のわが家に転送してきやがったのだ。あきらかに親切ごかしのいやがらせだ。
 だからコケのはえた女はきらいなんだ。男をコケにしやがる。そして悪いことに、わが家の女主人も、どうやらコケむす年代に入りつつあったようだ。
 信じられないことだが、A子の手紙、われに無断で開封し、読んだのである。
 ファン・レターではない。男と女の関係にある人間からの手紙だ。一読すればおおよそ見当はつく。わが妻は、その手紙をつきつけ激しく叱責してきた。拙者、直接証拠突きつけられ、言いのがれはかなわぬ。妻からみれば、これ完璧な裏切り、不倫の恋である。
 「どういうことですか」
 どうもこうもない。それを承知でこういう攻め方をする。女は恐ろしい。
 「その通りだ。申し訳ないがその通りだ」
 拙者、素直に罪状を認めた。認めたが、言うべきことは言わねばならぬ。
 「たしかに、オレのやったことは悪い。だが、オレあての信書、なぜ開けた。これは許さん。オレがこれまでお前さんにきた手紙、一度でも開けたことがあるか? 葉書だって読まんと思う」
 あやまれと言った。悪いと思わぬならば、これは本気でモメなければならぬ。なぜなら夫婦関係、信頼があってこそ成立する。たとえどのようなことがあろうとも、信書を開封し、これを読む。信じていないことである。夫婦関係を成立させる前提を放棄する暴挙と言わねばならぬ。
『人生、くそ度胸』(昭和60年6月10日初版/KKロングセラーズ刊)より引用
------------------------------------

この「やりとり」をどうみるか。性差、或いは夫婦のあり方、恋愛観によっておそらく多様な考え方があるだろう。
男の「居直り、スリカエ」とみるか、そこに三分の理を読みとるか、人によって違うと思う。私もリアルな世界では「携帯の中身をみたみない」で揉めた経験を有するカップルや夫婦を何組か知っている。

芹澤九段が自身、述べているとおり、これは「不倫」である。不倫はいいことか、勿論そうは思わない。
しかし、一方でこの問題を「善悪」だけで語っても、あまり意味がないように私は思う。小椋佳の詞に「恋はするものされるもの、いえいえ恋はしてしまうもの」という一節があったと記憶するが、それは男性でも女性でも同じことだ。

例えばweb上で、私は「汚い言葉」を用いたことはない。勿論「怒る」ことはある。web駒音でも、はっきりと不満の意を表明したコメントを残してもいる。

罵詈雑言よりも「堪えることば」というものがあるのだ。私はそういう「コトバ」のチカラを信じている。ただその一方で「罵詈雑言をそれだけで悪い」とは読まない。「私は用いないが、だからといってそれを相手に求めるということもしない」自立とか、独立というのは、それが根幹にないと、そんなもの「ちゃんちゃらおかしい」と思っている部分が、私の中には間違いなく存在する。

話が少しそれましたね。

次回は、この顛末をご紹介しましょう。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 金, 06/25/2010 - 06:58

Pass

[219] 続々々・芹澤博文九段 -内心の憧景-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月24日 (月) 00時11分

------------------------------------
 およそ男女間において、相手の行動をいちいちせんさくし、くだらぬ妄想たくましくするほど下劣な行為はない。
 正直に言おう。われとて女房旅にでかけしときなど、くだらぬ憶測し、思い悩み悪酔いしたこともある。しかし、これはあまりにも心が貧しいと思い、以後、いっさいやったことはない。
 人間、知ったからとて幸せになるというものではない。知らぬほうが幸せであることが多いのだ。それに一人の人間のすべてを知ることなどできぬのである。
 誰であっても多少の秘密はあろう。秘密などと大げさに言わぬとも、人に言いたくないことのひとつやふたつはある。言いたくないというのだから、そこには何かワケがあるはずなのだ。
 人間という生きもの、好んで嘘つくように生まれついていない。たいがいのことはしゃべるし、しゃべることが生理的に合っている。その人間がしゃべりたくないこと、それを言わせるのは余計なことなのだ。
 拙者、A子を愛したこと事実である。しかし、この事実、まったく不本意ながら妻に知れることになった以上、きっぱりと清算しなければならぬと思った。
 妻が苦しむこと承知のうえで、A子との関係を続けるほど、われ図太くないし、無神経でもない。A子のアパート所在地、妻は知っているのだ。よもやとは思うが、女同士正面衝突の可能性がないとはいえない。
 拙者、A子に事情を話し、土下座して許しを乞い、関係を立った。
 他人はなんと言おうと、A子とのこと、罪悪感はまったくない。A子と出会ったことによって、われ生きる力を取り戻した。A子に救ってもらったのだ。
 男が女を好きになる。生命力そのものである。人間なんだかんだといっても、生命力のあるうちは生きていたいのだ。一時的に死にたいと思うことがあっても、元気なら生きていたい。
 女に惚れる、すなわち元気のあかしなのだ。その真実を、A子に出会うことで知りえた。気力を取り戻すことができた。なにゆえ罪悪感を持たねばならぬのだろう。
 人間、究極の目的は、幸せになることと思う。そのためには生きなければならぬ。その生きる力、妻以外の女性からもらうこともある。
 開きなおっているのではない。一夫一婦の倫理観で非難を受けるのなら、いかなる非難も甘んじて受ける。だが、倫理観などしょせん人間が作ったものだ。作りもののために、本来の人間性がガンジがらめになっては、たまったものではない。
 生き、愛し、幸せになるという、本来的な人間行為の前には、倫理観などどれだけの力があるか。幸せになるという第一線があるのなら、倫理など百も二百もうしろにあるものと思う。
 もちろん人間、自分ひとりだけ幸せになれば、他はかえりみぬということは許されない。妻が不幸になるのは許されぬことだ。だから、われは土下座してA子との関係を切った。妻にではなくA子にである。
 妻は自らパンドラの箱を開けた。わが手で不幸を引きだしたのだ。知らなければ不幸にならず、われを信頼しておれば、無用の悩みを悩まずともよかったのだ。
 世間は言う。信頼を裏切りながら何をぬかすかと。それなら言う。わが妻が、もし生きる力を失い、その力われが与えることができぬ次元のもので、他の男性が与えることができ、そしてその力で妻が生き、幸せをつかむことができるのなら、われ祝福を贈る。苦しいが祝福を贈る。
 人が人を好きになる。何も知らぬ人と人とが出会い、好意を持ち、愛を感じる。男は女を抱きたいと思い、女は男に抱かれたいと思う。これ、すばらしいことだ。めったにないからすばらしいのだ。めったやたらとやっておれば単なるスケベ、インフォマニアであって論外である。
 だから、人が人を好きになってはいけないという倫理は成立しない。人間は人間を好きになるよりほかに、生きる方法はない。
 拙者、にくまれ口をたたき、無茶苦茶なことやっているが、なんとかこうして生きていけるのは、人間が好きなんだからと思う。
 われが人を好きになる分、人も少しばかりわれを好きになってくれるのではないか。仕事も分けてくれるのではないかしらん。
 人を好きになる以外、人生の幸せをつかむ"最善手"はないように思う。
『人生、くそ度胸』(昭和60年6月10日初版/KKロングセラーズ刊)より引用
------------------------------------
改めて、読み直してみると、芹澤九段、この部分には相当力が入っているように思う。悪口雑言を喚き散らかす調子とも明らかに違う。

芹澤さんは、ある時期、結婚指輪を外していたことがあった。それは私自身、直接目撃もしている。別にそのことをいいとか悪いとか言うつもりは毛頭ない。

ただ、亡くなった時には、奥様も気がつかないうちに、そ
の指輪は、再び氏の左手薬指にはめられていたのだそうだ。それは勿論、自身によって、である。

その指輪は遺族によって外されることはなかった。

私はそのことを何とはなく嬉しく思っている。

米長九段が東京都の教育委員に在任中だったか、週刊ポストに氏の不倫騒動が暴露されたことがあった。当事者である女性の告白記事である。「米長氏に対して、いい思いもさせてもらったが、別れ方が赦せなかった」と記されていた。

芹澤九段は、ある意味、というよりは間違いなく「破天荒に生きた」方である。好き勝手に生きたといっても過言ではない。

ただ、不思議とスキャンダルめいたことが報じられてもいないのである。没後にいくつかのものはあるが、それとて何となく「不思議な思い出、いい思い出」になっていて、例えば山田史生氏なども「本当に長生きして欲しかったと心から思った」と記している。

山田氏も読売在職中に、芹澤さんの「問題」をいくつか処理しているのだが、恨み辛みという感じでもない。

芹澤九段自らが記したものでもあり、ここでご紹介させてもらったが、例えば、九段の存命中、或いは没後に「A子さん」が、あれこれとメディアに登場したなどということもない。

不思議と、そういうところが芹澤九段の魅力でもあると思う。

河口俊彦氏は「将棋マガジン」〜「将棋世界」に対局日誌を永年、連載された。将棋世界でその連載が終わったときに、私は「ひとつの時代の終焉」を感じたし、河口氏自身、私は受け入れ難い部分もあるのだが、そのことと「こういう読み物」がなくなっていいか、ということとはまた別の話だと考えてもいた。

河口氏について、こんな批評があった。

http://www1.cncm.ne.jp/~nackham7/kawa.html

>今のネット観戦のファンが見たいのは盤上だけである。
>盤上のドラマが見たいだけなのだ。盤外のエピソードな
>どは必要ないのだ。

と言い切られると、私などは些か戸惑うのだけれど、それは何故かというと、棋譜以外の「知りたいこと」が、それはそれなりに語られていたという面があり、このことはひとつの功績であると、私自身、考えているからである。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 火, 06/29/2010 - 00:58

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場7月4日からお買い物マラソン開催予定
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板