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[220] 【再録・決定版】林葉直子との真実
JC IMPACTU (/) - 2011年10月24日 (月) 00時53分

はじめに

これは開設まもない「盤側の談話室」にまとめた内容である。今、読み返してみても、当時と比べ私の拙見に殆ど変化はない。実は今でも「林葉事件」に関しては、匿名大型掲示板などで話題にのぼることがある。ここに紹介したものは、私が知る限り、中原誠十六世名人が唯一、この問題に自身の言葉で弁明と反論として発表したものだ。それをどう「読みとるか」は本掲示板におみえいただいた方々、おひとりおひとりが判断されればいいことだとも考えている。

私はこの件について、今更、林葉さんを云々とか、中原十六世名人がどうこうだとかを殊更に述べるつもりも断罪するつもりもない。今、思うことは、この一件、日本将棋連盟は、林葉さんも中原さんも、結局は誰一人、何ひとつ守ることができなかったのだということに尽きる。このときの「奇妙なおかしさ」が、今尚、連盟の体質的な面も含めて、影を落としていることは多いのではないか。そう感じないこともない。

林葉さんには、早く元気になって欲しいと思っている。彼女の登場が、今日の女流棋界の隆盛のはじまりであったことを私はリアルに知っているし、それが今日、隆盛ではあっても些かに「頼りないもの」であることを実感しているのも、彼女だと私は思っているのだが。

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2010/08/13(Fri) 10:39

中原誠十六世名人ほど、そのスキャンダルが騒動として報じられた棋士はおそらくいない。
米長邦雄永世棋聖も「それなりに」活字で報じられはしたものの、その比ではなかった。

何故ならば「騒動」が「同業者との不倫」であり「一方は永世名人」であり「録音テープ」
などの「証拠」もあり、故に名人は「突撃」などという不名誉な呼称もつけられるのだが、
私はそのテープの音声をワイドショーで聴いたときに「中原名人は酔っていて」(そんなに
酒は強くない方である)もちろん、それが「事後に公開されるなどとは」思うはずもなく、
何か、それは「おっとりとした声」であったことを今でも覚えている。

「不倫」を推奨するつもりもなければ、それを「男の甲斐性」などと美談に仕立て上げる
つもりも、私にはない。ただ「人が人を好きになることは、誰にも止められない」と思っ
ている面が私にはある。林葉さんが十六世名人を好きになり、中原名人も林葉さんを好き
になった。林葉さんは当然、中原名人に「妻子」があることは承知している。それでも、
人は人を好きになる。

私は米長邦雄永世棋聖のように「千人斬りの目標を立て」「その実践を学生に誇らしげに
語るような人間」を好まない。それが過去のことであれ、現在進行形のことであれ、そう
いう態度は周囲の、とりわけ家族を傷つけるものだと思っているからだ。

「不倫」を倫理や道徳で責めるつもりもない代わりに、それは秘め事でなければいけない
と考えるのは、そういう理由からである。「わからなければそれでいいのか」という声も
あるだろう。だから「いいとかわるい」ということではなく、それを止められないとする
ならば、不倫にも「秘め事」という最低限のルールはあってしかるべきだというのが、私
の考えにはある。

ある意味、両者の不倫騒動というものは、中原名人も林葉さんも「被害者」という面が存
する。お互いが傷ついた。ある意味、それぞれの、のちの人生に少なからず影響を与える
ことになった。どちらがどれほど、などということを推測したところで、これもあまり意
味がない。

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中原誠十六世名人と林葉直子さんの間には、いろいろとあったのかもしれないが、それは
大人の男女の問題であり、周りがとやかくいう問題ではないと思う。

1998年にマスコミで騒がれる以前から、中原誠十六世名人と林葉直子さんのことを好
きだった人を沢山知っているが、その人達は、事件直後も、そして今になっても、中原誠
十六世名人と林葉直子さんのことを好きなままだ。

両者に直接会っている人達は、皆そうなのだ。

私が、林葉直子さんに初めてお会いしたのは2006年の将棋ペンクラブ会報の対談に関連
した時だが、私も中原誠十六世名人と林葉直子さんのことは大好きだ。とにかく人柄がいい。

それはそれとして、中原誠十六世名人の今後の評論家としての活躍が、とても楽しみだ。

(将棋ペンクラブログ・中原誠十六世名人に捧ぐ より引用)

ttp://silva.blogzine.jp/blog/2009/03/post_9171.html
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今、私の手元に「新潮45」2000年5月号に掲載された「特別手記 林葉直子との真実」(中原
誠)のコピーがある。中原誠十六世名人が、この件に関して、唯一、自身の意見を活字として
残したものだ。中原名人はこの記述の中で、いくつかの疑問を示している。その答は、勿論
私にはわかるはずもない。

私には、この一文が「林葉さんがわからなくなった」という中原名人の悲鳴のようにも読め
た。勿論、具体的な指摘もあるのだが、それは全て「何故」というところに帰結する。
このことも、ひとつの「歴史」である。

次回以降、紹介をしながら考えてみたい。

-----------------------------------------------------
2010/08/16(Mon) 13:30

今年(2000年・JC註)3月2日、A級順位戦の最終日、私は加藤一二三九段に負け、
B級1組への降級が決まった。
 名人挑戦者を決める順位戦は、上からA,B1,B2,C1,C2とある。マスコミの関心は、
私が将棋界を引退するか否かに集中した。永世名人の資格を持つ棋士がA級から落
ち、B1で将棋を指した例はないからである。
 しかし、私は加藤九段との対局の前から、たとえこの将棋を負けても、引退せず
にA級復帰を目指すつもりでいた。52歳という年齢は引退には早いし、実力的にも
まだ第一線でやれると考えていたからだ。
 翌日の新聞には、私のA級陥落のことが大きく報じられていたが、意外だったの
は林葉直子とのあの騒動が、またもや蒸し返されていたことだった。
 朝日新聞には、
<九三年に名人位を失って以来、タイトル戦から遠ざかり、九八年には元女流棋士
との不倫問題で騒がれた>
 と書かれた。また、日刊スポーツは、将棋に負けたことを林葉と結びつけて書い
ている。
<98年(平成10)4月、林葉直子元女流王将(32)との5年以上に及ぶ不倫関係が発覚した。
将来の日本将棋連盟会長との呼び声も高かったが、この件で求心力を失った。今年1
月、林葉元女流王将が、中原永世十段との不倫関係をモデルにしたという告白ポルノ
小説「ラストメッセージ」の連載を週刊誌で始めるなど、周囲の騒ぎが中原永世十段
の成績にも微妙に影響を及ぼしたようだ>
 この2年間、私は沈黙を守り、自粛もしてきた。人の噂も七十五日で、不倫騒動
はやがて人々の記憶から消えてゆくだろうと思い込んでいた。
しかし、これから先も私のことが話題になるたびに、2年前の出来事と結びつけ
る記事が出されてしまうのだろうか。
 確かに、不倫については批判されても当然だと思う。私自身の行為については深
く反省しているし、妻にも申し訳ないことをしたと心底思っている。しかし、私が
本当に引退を迎えた時、もしくはこの世を去ってからも、あの騒動と結びつけられ
るような記事が出ることには耐えられない。
 しかも、このまま沈黙を守り続ければ、あの時の誤った報道が、すべて事実として
残りかねない。
 林葉と私の不倫関係は、98年4月23日に発売になった「週刊文春」で明らかにされ
た。
 その記事を読むと、私はあたかも嫌がる林葉を無理やりつけ回すストーカーのよう
に描かれている。林葉は私のストーカー的な行為から逃れるために、やむなく週刊誌
に私との関係を暴露した.....記事は読む者にそのような印象を与える。
 ところが、実はあの時点で、私と林葉との関係は99.9%終わっていた。彼女と最後
に会ったのは前年の11月。そして98年2月に電話をして以来、話すらもしていない。
 私がストーカーであった一つの証拠として、留守番電話に録音されていたテープが
あげられている。これはワイドショーで何度も流され、私の知人でさえ、私が連日、
あのようなことをしていたのかと誤解した人が多かった。
 しかし、後で詳しく書くが、あのテープは週刊誌が出る1年近くも前に録音されたも
のなのだ。その後、私のもとには見知らぬ男から脅迫電話がかかり、林葉からは脅迫
状も届いた。私はほとんど言われるがままに金を渡している。
 果たして、「週刊文春」が書いたように、彼女は一方的な被害者なのかどうか。林葉
本人がテレビなどで語ってきた嘘も含め、林葉との「真実」の関係をここにはっきり書
いておきたいと思う。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
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中原誠十六世名人が林葉直子さんと交際を始めたのは92年(平成4)の8月中旬からとこの
記事には記されている。この翌年、米長邦雄永世棋聖が新名人となった。
林葉直子さんが初めて「別れ」を切り出したのが、95年3月。「林葉が私から離れる。私
が半ばあきらめかける。そこで林葉が再び私を引き寄せる」という関係がその後も続く
のだが、中原十六世名人には、女性に対する免疫性が希薄である。勿論、林葉さんがそ
れだけ魅力的だったということだろうが、芹澤九段も、大山十五世名人も鬼籍に入られ
ているわけだから、何とかできる人も当時、既にいない。

次回も引き続き、中原名人の手記を引用しながら考察してみるが、
「生活」するということは「金銭」が必要になる。お互いが経済的な基盤をもって不倫
していたならば、おそらくこうはならなかったし、将棋だけでは「生活」できないとな
れば、色々なことに手を染めなければならない。林葉さんの場合、私は読んだことはな
いが「とんでもポリス」シリーズといったジュニアノベルとでもいうのか、そういう作
品も刊行されていて、売れていたという記憶がある。

それが「棋士の書いた作品」ということで読まれたのか、どうなのか、私にはわからな
いが、林葉さんは、自身の人生をどう見定めようとされていたのか、将来の設計をどう
考えていたのか、そのあたりになると、どうも私はわからなくなってしまう。
-----------------------------------------------------
2010/08/16(Mon) 23:20

私が林葉と付き合い始めたのは92年の8月中旬だった。それから5年あまりの付き
合いだったが、最初はうまくいっていた。
同業者同志の不倫であり、人に知られてはまずいので、その点に関しては私も悩ん
でいたが、二人だけのことでは何も問題はなかったのである。「週刊文春」には、
付き合ってから間もなくして林葉の方が幻滅を感じたようなことが載っているが、
そんなことはない。それは、あとから紹介する林葉の手紙を見ていただければ、わ
かってもらえると思う。
 その安定していた二人の関係が突然崩れたのは、94年の5月に林葉が失踪事件を
起こしてからになる。
 失踪する2日前に林葉に会った時は、ちょっとイギリスに8日間ぐらいの旅行に行
ってくるという感じだった。
 ところが、出発の日、飛行機が出る15分ぐらい前に、空港から都内の仕事場に電
話がかかってきた。泣きながら、「もうずっと向こうにいる」と言う。とにかく、
これは大変なことになると思った。あまりにも泣いているものだから、「そんなこと
をしたら絶交する」という喉まで出かかったセリフを、抑えこんでしまった。もし
あの時、私が「絶交する」と言えば、林葉は失踪を止めたのではないだろうかと、後々
まで後悔した。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
--------------------------------------------------------------------------

『「絶交する」と言えば、林葉は失踪を止めたのではないだろうか』

芹澤九段がそこにいれば、泣き崩れるのではないかという気がしなくもない。というか
この電話の光景を思い浮かべるのは、私には実に苦痛なことである。勘弁してください
よ、中原名人。という気持ちになってしまう。

私には「不倫」の経験がないので何とも言えないが、不倫でなくとも、交際した女性と
破綻した時に、男はそういう手紙を保管しておくものだろうか。
今回の場合は、たまたまそれが功を奏したという面があるのかもしれないが、私の場合
は「否、断じて否」である。そんなものは、さっさと燃やしてしまう。別れたら次の人
などと、そんな簡単なことではない(笑)引きずっても仕方ないからである。

二度、燃やしたなぁ(←そんなことはどうでもいい)

林葉恵男さんは「直子が姿を消したわけ」と題した文章を書かれている。

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 斎田晴子二段、女流王将位に就く-。
 この記事を目にしたとき、反射的に前日来の直子の不審な行動がまず頭に浮かんで
きました。予定では、その前日に東京から帰ってくるはずだったのが、何の連絡もな
いまま、帰ってこなかったのです。(中略)
 結論から言えば、直子は私の前から姿を消したかったのです。もっと言えば、私か
ら叱られたくなかったのです。
 「お父さん、私、二十六歳で名人と王将に復活してみせる」と言い切る娘の言葉を
私は信じ切っていました。
 しかし、実際には直子は“失踪”前の王将位戦では、挑戦者になることすらできな
かったのです。
(「娘の怒鳴り方-熱血オヤジの体当たり的教育論」(林葉恵男/ザ・マサダ刊 1995年1月
14日初版発行)より引用)
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この時(1994年)に斎田晴子二段が清水女流王将に挑戦し、見事、栄冠を収めた。林葉
さんは1991年に清水市代さんから女流王将位を奪われている。1993年に林葉さんは清
水女流王将に挑戦したが、奪取はかなわなった。(1992年は何故か、棋戦そのものが開
催されていない)

林葉恵男さんの本は1995年1月に出版されているが、この本には中原十六世名人の「な」
の字も出てこない。この時点では、ご存じなかったのだろう。

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 イギリスへ着くと、林葉はすぐに手紙を寄こした。94年6月1日付の手紙である。
<愛するあなたへ
お元気ですか? 風邪なんかひいてませんか?(略)
山ほど辛いことがあったんだけど、それが一瞬でも忘れることができたのはあなたに
会えたおかげです。幸せや愛を沢山有難う。心の支えになってたんです。あなたに会
える日を楽しみにしてる自分がすごく幸せで、会えるともっと幸せでした(略)
私のポケットの中にあなたがくれたお守りがあります。
ずっと.....いつでも側にいてくれる気分にさせてくれます。(略)
居所がちゃんとしたら、また手紙書きます。With Love>
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
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「親の心、子知らず」という気がしないでもない。

ここから、いよいよ修羅場が始まっていくのである。

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2010/08/17(Tue) 21:48

林葉がいなくなって、最初の一週間ぐらいの報道ぶりは凄かった。この手紙には
ヨーロッパに長くいるようなことが書かれているが、はっきりとは決めていなかっ
たようだ。
 しばらくして、文春の「マルコポーロ」に手記を書くことになったと言い出した。
私は「少し考えた方がいい」と言ったが、次の電話がかかってきた時は、「もう書
いちゃった」と言う。こちらのアドバイスは聞こうとしないし、何を考えているの
か私にはまるでわからなかった。
 失踪の原因については、後に「子供が出来たようだから、向こうで産みたかった」
と説明していたが、どこまで信用していいのだろうか、疑問に思う。ただ当時は林葉
のことを全面的に信用していたので、アイルランドから来たいくつかの手紙には、心
を動かされた。例えば、7月10日前後に来た手紙がある。
<ホントにすっごい迷惑かけてごめんなさい。
私ってバカですよね.....。(略)
逢えなくても心の中であなたを愛し続けるつもりだった。そしてネ、何十年後かにあ
なたが死んだら、私も同じ日に死んで天国で
「あなただけをずっと愛していたんですよ」って.....言うつもりだったの.....。
発想が小説的かもしれないけど.....うん、でも-----私は-----見かけよりもけっこう
一途なタイプなんですよネ、これが。(略)
誰よりも誰よりも
あなたのことを愛してます。
また.....手紙書きますネ>
私が林葉にもっと深く魅かれていくようになったのは、この頃からである。
 2年くらい経った時に、この手紙の話をしたら、「書いたのを覚えていない」と言わ
れてショックを受けた。このことは、私の中ではずっと引っかかったままになっている
し、この手紙を書いた同じ林葉が後にしたことを考えると、今でも信じられないような
気がする。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
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【「子供が出来たようだから、向こうで産みたかった」と説明していたが、どこまで信
用していいのだろうか、疑問に思う。】という、この文章のトーンをみても、のちに林
葉さんが、例えば「罪」というモデル小説で記したように「避妊をしなかった」という
のは、おそらく事実であろう。妊娠の事実があったかどうかは、私にはわからない。
ただ、まぁ、何というか、色々な意味で、中原名人は「無防備」である。

林葉さんが「この恋文を書いた記憶がない」というのは、私には全く信じられない。そ
う言われた中原名人はショックだっただろうが、それは林葉さんが「そう言った」とい
うだけのことである。一体、2年前に、しかも海外から送付した恋文の、全文というなら
ともかく、綴ったことを覚えていないということは、普通、あり得ない。
「書いたあの時とは、心が変わったのだ」と、堂々と宣告して欲しかった。ここは、林
葉さんは、狡いなぁと私は感じる。

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 林葉の方から初めて別れを言われたのは、95年3月末である。
失踪してから人間関係でトラブルが起きて悩んでいるのはわかっていたし、将棋自体
にも熱意がなくなっていた。あの当時だったら、林葉自身もまだタレントに転向して
やっていけると思っていたのではないだろうか。
 仕事については「好きなようにマイペースで」が、私の信条でもあるし、林葉から
相談がない限り、特にタッチはしなかった。別れ話のほうは、それほど強いものでは
なく何とはなしに消えていった。
 7月になって、ヌード写真集を出すことを打ち明けられ、悩むことになる。福岡と東
京に自分のマネージャーがいて、その人たちがお金に困っているから、お金を上げたい
というのだ。その理由は全く理解できなかったし、私には事前に何の相談もなく、実に
嫌な感じがした。
 この頃から、翌年の7月頃まで、二人はよくケンカをするようになる。ヌード写真の
件もあったし、「このままずっと付き合っていても、結婚できるわけではないし」と
林葉のほうが結婚のことを言い出すようになったのも原因のひとつだった。彼女の行動
には理解しがたいことが多くなっていたし、二人の関係が少しずつ変わり始めていた。
 8月に林葉は将棋界から退会。そしてヘアヌード写真集は9月に出版され、10月初めに
は再びロンドンに行ってしまった。その時に来たハガキにはこう書かれている。
<いろいろ考えたのですがタイトルを取るまで。
花束を持って行けるよう待ってますが、それまでは会わないでおきましょう。
無駄な時間が多いとあなたのためにもよくないと思いますし
あなたの成功が今の私の一番の望みですから.....。
日本酒を呑みすぎないように.....お元気で.....>
当分は会わないようにしましょう-----表の文面だけを読むと、そういう内容である。
しかし、ハガキの裏を見ると、印刷された林葉のヌード写真の上にマジックでロンドン
の連絡先が書かれている。これを“挑発”と言わずに何と言うのだろうか。
私は11月中旬には林葉を訪れてロンドンに行ったが、彼女の了解がなくては不可能なこ
とである。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
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何の相談もなく「ヌード写真集」を出版され、ロンドンから「挑発」されれば、そこに
赴く。林葉さんを「魔物」とは言うまい。「不倫」が魔物なのであろう。
ネットと同じである。挑発された場合、それに「ノル」方にも問題がある。ノルなら、
覚悟をもって、細心の準備をして対峙しなければならない。全く、中原名人、そのハガ
キに鼻血でも落としたのではないだろうか。
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2010/08/20(Fri) 16:13

林葉が私から離れる。私が半ばあきらめかける。そこで林葉が再び私を引き寄せるという
感じだ。
 96年1月下旬、林葉帰国。そしてまた5月に林葉はロンドンに英語の勉強に行く。このあと
連絡がなければ、二人の関係は自然に消えていくはずだったのだが.....。7月下旬に林葉が
帰国。京都から仕事場に電話があり、焼けぼっくいに火がついてしまう。どうして戻ってき
たのか、今考えてもよく分からない。
 97年の3月、ケンカをよくするようになり、4月1日、前日に会う約束をすっぽかされたため
、理由を尋ねようと電話をした時に、「別れ話」を切り出された。私は「今日はエイプリル
フールだよね」と切り返したが、長年付き合っていて、4月1日に別れを言われるのはさすが
に辛かった。
 翌日、「こちらも了承した、あとは元気でやってくれ」という手紙を書いて、ファックス
で流したところ、深夜に彼女からもファックスが届いた。
<(略)本当に今まで、有難う.....。先生の笑顔ずっとずっと忘れません。(略)でも、今は、
普通の恋が楽しそうで.....。カゴの中の鳥が外に出たかったのかしら? なんて.....ね。
(略)
先生、私のアクの強さとずっと一緒だったんだから、がんばってネ!!>
この4月から最後に林葉に会った11月までの8ヶ月間に、私はときどき電話をした。彼女も
食事に応じたりして、数えてみたら二十二、三回は会っている。
 私が留守番電話をかけたのも、ストーカー的な行為をしたと非難されたのも、この8ヶ月
の間の出来事だ。
 付き合いだした当初、林葉は二人の関係を隠すために、よく引っ越しをした。二人が会う
のは、彼女のマンションを使うことが多かったから、近くにマスコミ関係の人が引っ越して
きたりすると、すぐに住所を変えた。
 林葉はその8ヶ月間、住所も電話番号も変えてはいない。もし私に連絡先を知られたくない
のなら、引っ越せばよかっただけのことなのだ。
 そして、例のワイドショーでさんざん流された留守番電話のテープ-----。私が酔って林葉
に罵声を浴びせているものだが、私があんなふうに怒ることはめったにない。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
---------------------------------------------------------------------------------

【私は「今日はエイプリルフールだよね」と切り返したが、】

これ「切り返し」といえるのだろうか。将棋でいうなら「詰みを見逃してくれ」というような
ものではないか。しかし、私はむしろ「林葉さん」の方が、中原名人と「別れる」気は、少な
くとも積極的にはなかったのではないか、と思っている。

【引っ越せばよかっただけのことなのだ。】

これは無理筋な主張である。「俺の未練を断ち切るために、お前、引っ越してくれ」という、
そんな理屈はない。というか、中原名人の中に「林葉さん」は消えることのない存在に昇華
している。

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 あらためて聞き直してみると、テープには「月曜日」という音声が入っている。かすかな
記憶をたよりに手帳と照合したところ、なんと前年(97年)の6月2日の夜から3日にかけてのこ
とだとわかった。
 前の週に、林葉から「お金がないので、貸してくれ」という電話があり、会うと、ものす
ごく愛想が良かった。私と別れた後に新たに付き合っている人の話題になり、彼とはあまり
上手くいっていないと話す。私と縒りを戻したい雰囲気がないでもなかった。翌日、40万円
渡し、もう一度会う約束をした。それが6月2日である。前の週のこともあるし、これはまた
何とかなるのではという気持ちもあった。
 ところが6時半頃から会って小一時間もすると、今日は9時に帰って原稿を書かなければな
らないと言い出した。それで、まずムッとした。結局、11時近くまでお店を替えながら飲ん
でいた。しかし、金を借りる時だけ調子がいいのかという不快な気持があって、飲んでいて
も腹が立ち、しだいに悪酔いしていった。
 その憤懣がついに爆発したのが、あの留守電だった。大人げない行為と反省しているが、
私なりの理由がないわけではなかったのである。
 そのテープが1年近くたってから、録音された時期も事情も隠されたまま公開されたことに
、林葉と「週刊文春」の意図的な悪意を感じざるを得ない。きわめて巧妙であり、インパク
トが強く、あたかも連日のように電話をしていたと思わせるものがあるが、断じてそんなこ
とはない。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
---------------------------------------------------------------------------------

週刊誌は「悪意」とか「善意」で記事の掲載を決めるわけではないのだから、この主張は、
どちらかというと、中原名人に「世間がみえていない」という気がする。しかし、中原名
人のこの「憤懣」が示されていたからといって、中原名人に「同情」が集まるとも私には
思えない。「金を貸したから欲望が満たされるとでもいうのか」と、更なる批判が浴びせ
られたのではないか。

普通、こうなると、いいかげん「交際は」終わりそうなものなのだが、実は、またまた関
係は復活するのである。絆は、まだ終わることがない。
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2010/08/20(Fri) 22:43

あの留守電から4ヶ月後に、林葉との付き合いが復活した。今、考えるとこれは余計な
ことだったかもしれない。彼女は8月の末あたりから、別の彼が出来て、付き合いだして
いた。私にはテレビ局のディレクターとか音楽プロデューサーだとか言っていた。
 10月初めに電話をしたら、会おうということになり、10月6日に私の1ヶ月遅れの誕生
祝いを行うことになった。この時、林葉はセカンドバックと草履とサンダルの合いの子
のような履き物をくれた。そして、彼女はまた「お金がない」と言う。数千円しか持っ
ていないというので、別な日に20万円を届ける約束をした。こうした感じで、なんとな
くまた縒りが戻ってしまったのだ。
 結局、97年の11月25日と26日に林葉と2日連続で会ったのが最後になった。引越しの費
用を出してくれと言われ、その金を渡したのが、直接会った最後である。
 別れの言葉もなかった。近くに引っ越すとは言っていたが、その後は何も言ってこない
ものだから、私は何処へ越したのかもわからなくなってしまった。
 どうしたのかと思っていたところへ、「林葉直子から手を引け」と男の声で、脅迫電話
がかかってきた。12月6日のことだ。
 「林葉直子から手を引け、本人が悩んでいる。留守電とかストーカー的なことをしてい
て、これがマスコミに知られたら大変だろう」
 手を引けも何も、彼女が引っ越してしまってからは、私には行方がわからないのである。
 この電話には驚いたが、私は林葉からUさんという親しい年輩の人がいるということを聞
いたことがある。それで「Uさんですか」と聞くと、多少動揺した雰囲気が窺われた。この
男性は40代で、妻帯者ということしかわかっていない。
 電話は3、4分で切れたが、このような脅迫電話がかかってくるとは非常に気味が悪い。
それに本当にマスコミに知られたら大変なことになる。
 それで、再び林葉と連絡を取りたくて、二、三の知人に連絡先を聞いたり、実家に電話を
かけたりもした。
 ようやく林葉から連絡があったのは、12月の半ばになってからだ。私の携帯の留守電に別
れのメッセージが入っていた。
 これで本当に終わりだと思っていた。ところが、98年の2月の中旬になって、再び携帯の留
守電に連絡が入った。5分ほどの長目のメッセージで、内容は将棋界に復帰したいので何とか
ならないかということや、ニューヨークに行きたいのでその資金を出してくれないか。とい
うことだった。
 林葉は、自分はもうニューヨークに行くつもりでいるから携帯は持っていない、以後、連
絡を取る時は、姉の携帯に電話をしてくれと言う(後でわかったが、林葉は携帯を持っていた)

 それで、私は林葉の言う通り、お姉さんを通じて連絡を取り合うようになるわけだが、そう
いうことがあったので、お姉さんから電話があっても自然に応対した。まさかテープに録られ
るとは夢にも思わなかったのである。話した内容は、「週刊文春」の記事に使われている。か
いつまんでいうと「直子は結婚まで考えていたのに、先生は冷たい」という言い分に対し、私
が弁明しているといったものだ。今思えば、この時から週刊誌にネタを売ることを考えていた
のだろうか。
 その後、林葉からこんなファックスが届いた。
<心の奥底で“愛"というものを考えて下さい。遠く離れていてもお互いにがんばりましょう、
という深い、精神的な愛。それが私は本当の愛だと思っていました。
でも、姉からテープを聞かされて、愛のなさには驚かされました。
5年間、たくさんの人にウソついて寂しい存在の私は一体何だったんだろう、って。
折を見て、会長と大内先生にでも相談させていただきたいと思ってます>
とにかく、一度、会ってきちんと話しをしたいと思っているうちに、今度は2月21日にファ
ックスが来た。脅迫状としか言いようのない内容なので、少し長いが全文を引用する。
(「新潮45」2000年5月号 「特別手記 林葉直子との真実」中原誠より引用)
---------------------------------------------------------------------------------

【こうした感じで、なんとなくまた縒りが戻ってしまったのだ。】

こういうのを「縒りが戻ってしまった」とは普通、言わないような気がする。中原名人は「林
葉さんの財布」になってしまったと書けば言い過ぎだろうか。

【まさかテープに録られるとは夢にも思わなかったのである。】

私には信じられない。勿論、この時点で「留守電」は公開されていないにしても、居玉で飛車
角ぶった切るようなことをして、いいはずがない。
-----------------------------------------------------
2010/08/22(Sun) 00:17

< 前略
理事の先生にご相談にのってもらう前にもう一度先生に、ウソばかりついて隠し続け、
ひとりで待ち続け寂しかった私は、今でも、先生の立場を考えてます。
 私が先生との関係を理事に話すれば、先生は、立場は悪くなり罰金という形にもなり
かねないと。私はそれで、皆なにフォローしてもらえて、仕事ができるようになるでし
ょう。私の行動は不透明な部分が多かったですから、クリアにすれば、私自身も気がラ
クになるかもしれません。
 別れたからこそ、実行できる事かもしれません。でも、一度、愛した人を苦しいめに
会(引用者註:ママ)わせたくない、という本心があります。
 姉は、弁護士に頼み、将棋界に泣かされたのは、妹だって、言いたい、とカリカリし
ていて、私は、早くNYに行きたいです。私は、自分がもうける事を考えていません。
でも生活はしないといけない事実。
同じことの繰り返しで待つばかりの存在の愛人というのは、長く続けられません。
陽の当たる場所にすみやかに行かせてください。
23日(月)銀行に行ってきます。
NYで生活するために困らない額を、それまでにお振り込み下さい。
○×銀行 渋谷支店 普 28×52×9

別れたにしてもお互いが傷つけあわない状況でいたいものです。
お互いの仕事が、うまく行くように。
奥様ともご相談ください。

23日、先生の誠意をお見せいただけないのでしたら、日本で仕事する事を考えさせてい
ただきます。

先生、ご自分の欲だけで行動されてはよくないと思います。
しっかりして下さい。ご自分の立場を冷静にご家族をしっかり守って下さい。
私は、自分の家族を守る、という事を忘れて、先生の事ばかり考えていましたが.....>

私は林葉に電話をして、幾ら必要なのかを尋ねた。その時「お金はあんまりないよ」と
言ったら、「ひどい。永世名人なんだから、あるでしょう」と言われた。最初にお金を渡
した96年の夏あたりは、「本当に申し訳ありません」と言っていたのに、そこまで変わる
ものだろうか。林葉はすぐには額を言わなかったが、結局300万円という数字を出してきた。

22日(日)、私はお金を振り込んだ。林葉は「姉とのテープは処分する」と言うので、「仕
事場のほうに送ってくれ」と頼んだ。「分かった」と言っていたが、結局、テープは送られ
てこなかった。

 林葉は将棋界を辞めた直後はお金はあったが、96年にイギリスから帰ってきてからは、あ
まり働こうともしていないし、お金に困り始めていたようだ。
 私は必要に応じて林葉にお金を渡すようになった。最後に彼女と会った97年の11月までの
1年4ヶ月ぐらいの間に、渡したお金は、総額で約1000万円を超している。
 林葉は不倫発覚後、日本テレビのリポーター・石川氏のインタビューに答えて「4月1日に
別れてから、ちょうどお金がなくなった頃になると、銀行に振り込んでくる。そうしたこと
が2回あった」と語っているが、これはとんでもない嘘である。私は林葉がどの銀行を使って
いたかも知らないくらいで、口座番号も別っていないのに、どうやって振り込むのか。誰し
も記憶違いや勘違いはあるだろうが、これは創作したウソであり、私は唖然としてしまった。
ほかにも私しか分からないウソがいくつかあり、林葉の人間性を疑うし、全く信用できないと
思った。
 300万円を振り込んだ時、林葉はすぐに出発すると言っていたから、私は遅くとも3月初めに
は、ニューヨークに行ったものだとばかり思っていた。
 だから、あの2月の時点で林葉との関係は完全に終わっていたのである。
 むしろ、お金を取られ続ける関係が続くのではないかという恐怖のほうがあったくらいだ。

 それから2ヶ月後の4月18日、私は雑誌「将棋世界」の仕事で沖縄にいた。そこに「週刊文春」
の記者から電話がかかり、いきなり林葉との不倫のことを聞かれたので、しどろもどろになっ
てしまった。
 あの記事は私を社会から抹殺しかねないものだった。なぜ、あんな形で記事が出たのか。私
は林葉には言われるままにお金も出したし、しつこく付きまとっていたわけでもない。林葉の
悪意とウソに満ちた告発に「週刊文春」がのって誤った報道にしたといえる。巧妙に仕組まれ
たといえるし、真実とは違う点が多いのである。
 果たして「週刊文春」にあそこまでやる権利があるのだろうか。白を灰色にし灰色を黒にす
るような変形した文章である。いったい、どういう取材をされたのだろうか。私は講演などを
通じてその理不尽さを訴えていくつもりである。
 林葉側の行動が、私自身の今後の活動に対して、なおも支障をきたすようであれば裁判も辞
さず戦う覚悟である。私は戦うことを忘れていたようだ。
 十五世名人、大山康晴氏がすべてのタイトルを失なって「50歳の新人」として出直したこと
がある。尊敬する大先輩に見習って、52歳、中原誠も復活を目指して精進していきたいと思っ
ている。
「人間は努力する限り迷うものだ」と言ったのはゲーテだったか。私ももがき苦しみ大いに悩
んだが、勇気を持って立ちあがりたい。
 盤上でも盤外でも、
 「生きることは戦うことだ」と。
                                     (了)
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林葉さんと中原十五世名人との不倫関係が始まった時、中原さんは「現名人」であった。
私は、今、しみじみと思う。林葉さんは「名人である中原誠」を好きになったのか。それと
も中原誠というひとりの男、ひとりの男性棋士を好きになったのか。どうもそのあたりが、
私にはわからない。

私は中原さんがこの手記を書いたのは、A級を陥落して、いわば「普通の棋士」になったから
だと思っている。例えば名人位を失っても、A級に在位し続けていれば、そのまま引退されて
いれば、こういう手記は発表しなかったのではないだろうか。

中原名人は、私がお会いした棋士の中でも、最も「真面目な」方だと思っている。高柳一門に
は、そういう風土のようなものがある。

中原さんの文中にある「1000万円を超している」という金額、その点については、私は「やむ
をえなかっただろう」と思っている面があることを否定しない。その中には何度かの引っ越し
費用もあっただろうし、不倫相手に「金銭を支払う」というのは、ひとつの代償でもある。ど
ちらかといえば、こういう金額まで書かなければいけなかったのかなぁ、とも思っている。

ただ「不倫」にもルールはあるはずだと私は思うし、少なくとも最後に300万円という額を林
葉さんが提示し、それを中原名人は支払ったのだから、それで「終わらせる」というのが大人
というものではないだろうか。それを受け取って「週刊文春」に登場してはいけない。この点
について、林葉さんをいかなる意味においても、私は弁護できない。それは卑怯である。
例え女性であったにしても。

いずれ「週刊文春」の当該記事も入手したいと思っている。

私は中原名人が「この件で講演した」などという記憶はないし、おそらくしなかったのだろうと
思っている。それはよかったと思っているし、2001年に林葉さんが出版した「罪」という名人を
モデルにした作品も、一切無視した。そのこともよかったと考えている。名誉棄損は十分に成立
する余地があった内容だが、そんな裁判など「不毛」極まりない。

次回以降、別スレで「林葉さんの破門」という問題を取り上げてみたい。
私は、ここで林葉さんが、決定的に変わったと、そう思っているからだ。

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