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『英霊の言乃葉』 (11341)
日時:2014年08月21日 (木) 04時51分
名前:伝統

靖国神社では、多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、
英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示しておられます。

さらに、靖国神社では、これまで 掲示した遺書や書簡を
『英霊の言乃葉』として纏めて刊行しております。


以下に、『英霊の言乃葉』の朗読の動画を紹介させていただきます。


(1)【國】英霊の言乃葉[桜H22/8/14]

   次の動画は、数多くの『英霊の言乃葉』から
   10人の英霊の『言乃葉』が朗読されております。
   いすれも、魂に響くものです。

   是非、時間を確保し、静かに拝聴されますようお勧めいたします。

    → https://www.youtube.com/watch?v=_wQQoEDyp0k


(2)4.21 奉納・英霊に感謝を捧ぐ朗読&コンサート[桜H24/4/30]

   前半は、「日本の心を歌うコン-サート」となっております。

   後半(26分以降)は、『英霊の言乃葉』の朗読となっております。
   この『英霊の言乃葉』では、看護隊(女性)の手紙も含め、
   8人の英霊の『言乃葉』が朗読されております。

   特に、7人目(野田毅命)と8人目(田沢清作命)の英霊の遺書は
   印象深く感じました。
   
    → https://www.youtube.com/watch?v=YXPg4HuMsGw

         <感謝合掌 平成26年8月21日 頓首再拝>

冊子『英霊の言乃葉』より (11385)
日時:2014年08月22日 (金) 04時41分
名前:伝統

『英霊の言乃葉』という冊子は、靖國神社の遊就館で頒布しています。

この冊子はこれまで靖國神社の社頭掲示板に掲載された、
英霊の方々の遺書、遺詠や、遺族の手紙などを載せたものです。
頒価は一冊500円で、現在第10集まで発行されています。

『英霊の言乃葉』は遊就館で直接頒布を受けることも可能ですし、
靖國神社社務所にお願いして取り寄せることも可能です。

もちろん、『英霊の言乃葉』の頒布は、
現在困窮している靖國神社の運営資金の援助にも繋がります。

『英霊の言乃葉』の内容は、多くの方々が涙を流さずしてはいられないものがあります。

多くの方々に、この、英霊の方々の言葉を、読んでいただきたいと願っております。

そして、霊界に戻られた英霊の方々は、さらに魂を向上させ、
護国の英霊として活躍していることを 感じていただければと思っております。




以下に、上の動画で、朗読された、植村大尉と野田少佐の遺書を紹介いたします。


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愛児へ

植村 眞久 命

大尉 神風特攻隊大和隊 昭和一九年一〇月二六日出撃戦死  二五歳

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素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。

私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、
お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

私の写真帳もお前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。
素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。

私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、
仕合わせになつたのを見届けたいのですが、
若しお前が私を見知らぬまま死んでしまつても、決して悲しんではなりません。

お前が大きくなつて、父に会ひたい時は九段へいらつしやい。
そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。

父はお前は幸福ものと思ひます。
生まれながらにして父に生きうつしだし、
他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、
お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて生き抜いて下さるのです。

必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。
父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。

お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日


植村 素子へ

追伸、素子が生れた時におもちゃにしてゐた人形は、
お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。

だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。
素子が知らずにゐると困りますがら教へて上げます。


(『英霊の言乃葉』第一集/P1-2 昭和三十五年八〜十月 靖國神社社頭掲示)




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死刑に臨みて

陸軍少佐 野田 毅 命

昭和二十三年一月二十八日 南京にて法務死 鹿児島県肝属郡田代村出身 三十五歳

-------------------------------------------------------------------------

此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき
厚く御礼申し上げます。

只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。
お断り致します。

死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め
日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。

今後は我々を最後として我々の生命を以て
残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。

宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、
或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。

我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても、貴国を怨むものではありません。
我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、
ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。

何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。

中国万歳

日本万歳

天皇陛下万歳

                      野田 毅

(『英霊の言乃葉』第二輯/P51-52 昭和四十五年二月 靖國神社社頭掲示)

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         <感謝合掌 平成26年8月22日 頓首再拝>

伝統様 有難うございます。 (11388)
日時:2014年08月22日 (金) 07時39分
名前:平賀玄米

合掌有難うございます。
小生が投稿を続けさせて頂けるのも、偏に伝統様の御愛念のお陰でございます。
心からお礼申し上げます。

貴い動画をご紹介下さり、有難うございます。
どの英霊の方々のお話も、とても涙なしでは拝聴できません。

皇国の悠久の大儀に生きて、身を捧げられた御霊様に
改めて心から感謝申し上げます。

英霊の方々のお言葉を拝聴致し、直ぐ松陰先生の最後のお言葉が
浮んで参りました。

われ今国のために死す 死して君親にそむかず
         悠々たり天地のこと 鑑照は明神にあり

英霊の皆様すべて、松陰先生と同じご心境で皇国のために殉じられたんですね。

また今日のスレッドでご紹介頂きました、『愛児へ』のお手紙は
『雲ながるる果てに』で拝読した懐かしいご文章でした、有難うございます。

伝統様の深き御愛念に心から感謝致します。
何卒これからもご指導の程、よろしくお願い申し上げます。 合掌再拝。 



”平賀玄米 さま” ありがとうございます (11421)
日時:2014年08月23日 (土) 04時09分
名前:伝統

”平賀玄米 さま” いつも、いつもありがとうございます。

謙虚な姿勢をとりながら、本質を射抜くコメントにはいつも感服いたしております。

ひと言ひと言に、”平賀玄米 さま”の魂レベルの高さを感じます。



>また今日のスレッドでご紹介頂きました、『愛児へ』のお手紙は・・・


植村大尉に関しては、次の補足があります。


「出撃以前、妻の懐妊中に植村大尉がしたためていた遺書には、

『自分が戦死後に生まれてくる子が男児であれならば自分と同じ眞久と、
女児であるなら素子と命名してほしい』

とあった。

幸い、出撃前に女児が生まれ、大尉は我が子に対面し、自身によって素子と命名した。」

               (「国民の遺書」<P144〜145>より)

また、タイトル『愛児へ』は、
「国民の遺書」では、『父に會ひたい時は 九段にいらっしゃい』となっております。


・・・

野田少佐に関しては、次の補足があります。


「支那の事変の南京変において歩兵第九第三大隊副官として従軍した頃の、
いわゆる百人斬競争の当事者として新聞に創作記事が掲載されたのを証拠として、
戦後、中国から戦犯として訴追を受け死刑に処された。

大東亜戦争開戦前には、ビルマ独立のための特殊機関「南機関」に配属され、
ビルマ人独立の志士たちの軍事教練などを担当。自身もビルマ国内で活躍した。」

               (「国民の遺書」<P216〜215>より)

また、タイトル『死刑に臨みて』は、「国民の遺書」では、『万歳』となっております。

         <感謝合掌 平成26年8月23日 頓首再拝>

伝統様 有難うございます。 (11426)
日時:2014年08月23日 (土) 06時34分
名前:平賀玄米

>謙虚な姿勢をとりながら、本質を射抜くコメントにはいつも感服いたしております。

>ひと言ひと言に、”平賀玄米 さま”の魂レベルの高さを感じます。

とんでもございません。
伝統さまに斯様なことを仰って頂くと小生汗顔の至りです。

正直を申せば、「日暮れて、道遠し」といったところです。

小生も、伝統さまの御愛念に浴する先輩の方々と同じく、

伝統さまにはただただ感謝あるのみでございます。

あ、それから、伝統さまのスレッドの数々を以前からコピーして皆様に

差し上げておりますことを、お許しお願い致します。

有難うございます。 合掌再拝。



英霊の遺書 (11458)
日時:2014年08月24日 (日) 04時46分
名前:伝統

”平賀玄米 さま” 重ねてのコメントに感謝申し上げます。


>正直を申せば、「日暮れて、道遠し」といったところです。

これは、小生にとっても、同じ思いです。

この言葉は、「史記・伍子胥伝」から来ておりますが、

もとは、日は暮れたのに・・・
    進むべき前途の道のりはまだまだ長いの意とのこと。

とありますので、

読み替えると、まだまだやるべきことがたくさん残っている。(=使命がありすぎるほどある)

諦めずに、やり切ることによって、日はまた昇る、というにも繋がるのではとも考えております。
(=一歩一歩朝日に向かって進もう)


・・・

さて、スレッドの趣旨に戻り、先へと進めてまいります。

今回も、上の動画で、朗読された、富田中尉と原少佐の遺書を紹介いたします。

*************************************************************************

父ちゃん! 母ちゃん!

海軍中尉 富田 修命 二十三歳
台湾高雄西海上にて戦死
海軍第十三期飛行科予備学生
日本大学卒、長崎県出身



九月二十五日
一時半、我一生ここに定まる。


お父さんへ、いうことなし。
お母さんへ、ご教訓身にしみます。

お母さんご安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。
お母さんの子ですもの。 ―― それだけで僕は幸福なのです。

日本万歳、万歳、こう叫びつつ死んで征つた幾多の先輩達のことを考へます。

お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!!

かう叫びたい気持ちで一杯です。
何かいつて下さい!。一言で充分です。

いかに冷静になつても考へても、何時も何時も浮かんで来るのはご両親様の顔です。

父ちやん!
母ちやん!

僕はこう何度もよびます。

「お母さん、決して泣かないで下さい」

修が日本の飛行軍人であつたことに就いて大きな誇りを持つて下さい。

勇ましい爆音をたてて先輩がとんで行きます。
ではまた。

(平成八年九月 靖國神社社頭掲示)

            ・・・

富田中尉に関しては、次の補足があります。


「富田中尉は海軍飛行予備学生に志願し、昭和18年9月、晴れて入隊を果たした。
上の文章はその当時書かれたものだ。

1年後、所属する海上護衛を主任務とする九〇一航空隊は台湾の高尾南方の東港に進出。
飛行場を発進した中尉機は無念にも無念にも僚機と接触事故を起こし、海上へ墜落。殉職。

このように戦闘以外に訓練中や会敵前の事故で殉職した多くの搭乗員がいる。」


               (「国民の遺書」<P58〜59>より)

また、タイトル『父ちゃん! 母ちゃん!』は、
「国民の遺書」では、『お母さんの子ですもの』となっております。

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道義上恥ヅル所ナシ

陸軍少佐 原徹郎命
昭和二十二年七月十六日
サイゴンにて殉職死
島根県出身 三十歳


  遺言書

一、小生当地作戦に参加し職務遂行上の不備に関し責任を問はれ茲に刑に就く。

二、右原因に就きては戦友に依頼伝達を乞ひたるも、
  小生個人としては何等道義上恥ずる所なし。

三、本件関係旧部下並にその御家族に対し衷心同情申し上げ謹みて深くお詫びす。

四、お上の御殊遇に背き奉り名誉ある家紋を汚したることを深く御詫びし
  生前の御恩義に対し茲に謹みて深謝す。
  親戚朋友御一同様にも宜敷くお伝へ被下度。

五、道子は再婚することを望む。
  裕子は道子の意志に依り処置相成度、
  道子に対しては言ふべき言葉もなし切に多幸を祈る。

  林の皆様に深くお詫びす。
  道子、裕子の将来に関しては兄上様に特別の御配慮お願申上ぐ。

六、小生借財其他他人に迷惑をかけたること等一切なし。

七、神州の不滅を確信し家門の隆盛を祈り大東亜戦争初期縁りの地西貢に自若として死す。

昭和二十二年一月八日  原徹郎


遺書


 裕子よ

 お前は父を知らぬ不憫な子供だ。
 父は幼い時に親を失ったから、親のない子供が如何に不幸であるかと云ふことは
 此身で体験してゐる。

 だからお前の将来に就いては父の体験を生かし立派に養育しようと思ってゐたのだが、
 こんな思ひ掛けぬ災厄に遭って真に申訳なく思ってゐる。

 然しお前の母は、父の最も敬愛する人で日本女性として恥かしからぬ資格を具えてゐる。
 お前はこれから幾多の困難に際会するだろうが常に母を信じ母を輔けよ。

 「裕」といふのは父の性質を受けてゐた「裕」を望む為につけた名前だ。
 お前は日本女性として凡ての隣人を愛し国家社会の為に聊かでも寄与し得る人とならん事を望む。


 父は不慮の死を遂げるが職責に殉じたのである。
 ちっとも悔ゆる所はない。

 お前は父が不遇に導いた環境に支配されず、不屈不撓所思を貫徹してくれる事が父の本望である。

 父はお上の御殊遇を蒙り、栄職を汚した光栄をお前も誇りとし大らかに母を輔けて成長せよ。

 父の魂は常に不遇なお前の身の上を守護するであろう。

 お前の多幸を祈る。

     原 徹郎

                         昭和五十五年六月靖國神社社頭掲示
  ・・・

(以下は、Webにて〜チャンネル桜 より)

    辞 世

 丈夫はかくなる運命悔ゆるかも
     軈(やが)て咲かせん山桜花

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         <感謝合掌 平成26年8月24日 頓首再拝>

枝大尉と安部大尉の遺書 (11484)
日時:2014年08月25日 (月) 04時40分
名前:伝統

今回も、上の動画で、朗読された、枝大尉と安部大尉の遺書を紹介いたします。

・・・

(記事「冊子『英霊の言乃葉』より (11385)」での植村少尉に関して追加の動画があります)

「神風特別攻撃隊大和隊 海軍少尉 植村真久遺書朗読」
 → https://www.youtube.com/watch?v=3Ok_Dh-HVWw
   (後半6分頃から鶴田浩二による朗読です。)

・・・

************************************************************************* 

枝 幹二 命

昭和二十年六月六日
沖縄洋上にて特攻戦死
陸軍大尉陸軍特別操縦見習士官
富山市鹿島町二十三歳


〔昭和二十年六月三日夜〕

作戦命令下る、万世飛行場に明朝出発。

あわたゞしい中に最後と思つてペンを取る。
書くことがいつぱいある様で何を書いていいのやら。

園部隊長不時着して同行出来ず。
身不肖なるも隊長代理を命ぜられ重任両肩にかゝる。
願はくば大業見事完成出来得んことを。

ここあし屋(・・・)の町は“海を渡る祭礼”の港町のそれと同一なり、
ふくよかになつかしき思あり。

思ひはめぐる三千里
あれこれと昔のことがしのばれる、女々しきにはあらず楽しき過去の追憶なり。
半田のこと
名古屋のこと
富山のこと

父上様
母上様

色々有難うございました。

別に云ふこともありません。

唯有難くうれしくあります。

最后の時まで決して御恩はわすれません。

月なみなことしか出て来ません。


姉妹の皆さん
いよいよ本当にお別れ。
今でも例のごとくギヤーギヤーみんなとさわいでゐます。

哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のため死ぬるよろこびを痛切に感じてゐます。

在世中おせわになつた方々を一人一人思ひ出します。
時間がありません。

ただ心から
有難うございました。


辞世
 春風に咲いた桜の咲くまもあらず
 唯君のため散るをよろこぶ


同封の通帳よしなに御処分下さい。
津川、坂本、森野、岩永の諸家にくれぐれもよろしくおつたへ下さい。

笑つてこれから床に入ります。
オヤスミ
  六月三日二十三時


<参考Web:富山県護国神社、枝 幹二 命
       → http://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2008/03/post_28.html >


<以下は、国民の遺書(P196)から>

黒表紙の手帖より 

六月のチラン 

〔六月五日〕

あんまり緑が美しい

今日これから死に行くことすら忘れてしまひさうだ

真青な空

ぽかんと浮ぶ白い雲 六月のチランはもうセミの声がして夏を思はせる

〔作戦命令を待つてゐる間に〕

“小鳥の声がたのしさう 俺もこんどは小鳥になるよ“
日のあたる草の上にねころんで
杉本がこんなことを 云つてゐる 笑はせるな

本日一四、五五分
いよいよ知ランを離陸する なつかしの祖国よ
さらば

使ひなれた万年筆を“かたみ”に送ります。


    ・・・


枝大尉は陸軍特別操縦見習士官第二期の出身である。
海軍の飛行科予備学生に対し、陸軍でも操縦士を養成するための制度として、
昭和18年の学徒出陣を待って、学歴保持者を多数採用。

その多くが特攻作戦に散った。

海軍の鹿屋基地に対し、陸軍は知覧や万世基地が出撃の基地となった。

************************************************************************* 


<突進致します>


陸軍大尉 安部正也命

昭和二十年四月二十九日
沖縄方面にて戦死
福岡県出身 二十二歳


秋(とき)到る

愈々(いよいよ)突進致します

必ず成功致します

御照覧あれ

必死必沈以(もっ)て悠久の大義に生きむ

死亦楽しからずや

命降る今ぞ此の身を捧ぐれば

皇國は永久に栄えまつらむ

敵艦に当り砕けて散る桜

永久(とわ)に残さん花の香りを


母上様、御元気で

自分は幸福です

斯(か)くも崇高な任務に死し得るとは男子の本懐之に過ぐるは無し

必勝を信ず


【平成四年四月靖國神社社頭掲示】

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         <感謝合掌 平成26年8月25日 頓首再拝>

西田少佐の遺言 (11513)
日時:2014年08月26日 (火) 04時47分
名前:伝統

上の動画で、朗読された、西田少佐の遺書を紹介いたします。

・・・

海軍少佐 西田高光命
大分県大野郡合川村出身 大分師範学校 海軍第十三期飛行予備学生

昭和二十年五月十一日
神風特別攻撃隊第五筑波隊隊員として爆装零戦に搭乗
鹿屋基地を出撃、沖縄南西諸島にて散華 享年二十二歳

・・・

動画では、「弟へ」という遺言が朗読されております。
ここでは、それ以外の情報について紹介いたします。



(1)「国民の遺書」(P194〜195)より

   《”民族の誇り”を胸に》

   学鷲(がくわし)は一応インテリです。

   さう簡単に勝てるなどとは思つてゐません。

   しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…

   おわかりでせう。

   われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながつてゐますよ。

   さう、民族の誇りに…

                    【平成十四年四月靖國神社社頭掲示】

     ・・・

   上の言葉は、西田少佐が出撃2日前の昭和20年5月9日
   鹿児島県鹿屋の野里村の基地に於て、海軍報道班員・山岡宗八氏の質問

   「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?
   もし負けても悔いはないのか? 
   今回の心境になるまでにどのような心境の波があったのか」

   に対して返答したものである。


(2)出撃前日と当日の西田少佐の遺言

   五月十日
 
     大空に雲は行き、雲は流れり
     星は永遠に輝き、久遠にきらめく
     空、空


   五月十一日

      五月十一日の朝は来た。
      今より五時間後は必中する。
      総ての人よさらば、後を頼む。

      お父さん、お母さん、征って参ります。
      一生の最後の書。

      神雷一轟処 砕敵艦無跡

      作家 山岡荘八氏、最後を見送ってくれた人。


(3)山岡宗八氏と西田少佐

  @作家の山岡荘八氏の「最後の従軍」(昭和37年8月6日〜8月10日朝日新聞)が
   掲載されていて、昭和20年4月に海軍報道班員として海軍の鹿屋基地に配属された時に
   接した特攻隊員のようすが描かれている。

   その中で山岡氏はまさに必死、必殺兵器である「桜花」の神雷部隊や爆装ゼロ戦などで
   出撃していく特攻隊員が底抜けの明るさであったことを記している。
   それらは、今も残る多くの写真の中の特攻隊員の笑顔がそれを裏付けている。

   山岡氏はその底抜けの明るさを見せている隊員の心境をしりたくて、
   そして、できるだけ自然にその筆跡を残したいと思い、鹿屋の町の文房具店で、
   わとじの署名帳を購入し、出撃前の隊員に書いてもらっている。

   それはすぐにいっぱいになってしまったそうで、後に二冊あればと氏は後悔している。
   氏によると、署名とともに浮かんでくる特攻隊員の顔は、どの顔も笑っているそうである。


  A山岡氏は
   「この野里村の基地にも、むろん地上勤務の人はたくさんいた。
   しかし十日経たないうちに、私は、それらの人々と特攻隊員の、区別が
   ハダでわかるようになった。

   一方は軍規の中に生きている人々であり、
   一方は死生の外に踏みだしてしまった人々なのだ。

   そこにある闊達さと自由さは時に傍若無人にさえ見えて、
   その実、按近するほど離れがたい別の美しさを秘めていた。

   私にとってなによりも悲しいことは、彼等に出会って親しくなると、
   それがそのまま別離なのだというきびしさだったが、それにしても、
   この底抜けの明るさは、どうして彼等の肉体を占領し得たのであろうか…。
   その秘密だけは、とにかく私なりに解いておきたかった」


   と書き、20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた
   西田高光海軍中尉(のちに二階級特進で少佐、大分県師範学校22歳)に
   問いかけたの対し、西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで
   志願した者であることと、したがってもはや動揺期は克服していることを話した。

   そして西田中尉は最後に付け加えたのが、(1)の遺言《”民族の誇り”を胸に》である。

   西田中尉が昭和20年5月11日に500キロ爆弾を抱いた零戦と共に大空へ
   飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたとある。


(4)「なぜ特攻に志願したのか」(Webより要約)

  @人間性

   西田中尉は入隊以前、昭和17年4月4日から18年9月まで、
   19歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われた。
   そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。

   ちなみに、国民学校の教師として教鞭をとっていた竹田市城原の国民学校には
   多数の同和地区子弟が通っており、戦時下の当時西田先生は良くこれら子弟も指導し
   後に墓標にはそれら子弟からの感謝の誠を表す寄せ書きもある。

   このように万人に公平・公正であった教師としても素晴らしい人物でもあった。

  A西田中尉の出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給された。
   すると、彼はすぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、
   「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言った。

   いかにも町のアンチャンという感じの片桐一飛曹は顔色を変えて拒んだ。
   「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。
   隊長は出撃される・・・いりません。」

   すると
   「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ」
   「命令だ。受取れ。おれはな、くつで戦うのでは無いッ」

   彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、
   500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、
   山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうである。

  B西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。
   真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、
   そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。

   あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。
   その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。

   「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」

   山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。

   文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、
   丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。

    西田家に6男3女あり、三男まで戦死して、「最後の従軍」が発表された頃、
   西田家にはまだ3つの遺骨箱が並べられていた。

   中尉の意志を継いで教師となった四男久光氏は、両親を助け葬式を出した。

   (上の動画での「弟へ」は、四男久光氏への遺書です)

   西田家の戦争は終わった。

   (http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/nishidacyui.html


(5)「訣別の歌」  西田高光(昭和20年5月11日特攻戦死)。

   言ふ勿れ君よ

   別れを世の常をまた生き死にを

   海原のはるけき果てに

   熱き血を捧ぐる者の大いなる胸を叩けよ

   満月盃に砕きて暫したゞ酔ひて勢へよ

   吾等征く沖縄の空

   君も亦これに続け

   この夕べ相離れまた生死相へだつとも

   何時の日にかまた萬朶の櫻を共に見ん

   言ふ勿れ君よ

   別れを世の常をまた生き死にを

   空と水うつところ

   悠々として雲は行き

   雲は行けるを 


         <感謝合掌 平成26年8月26日 頓首再拝>

佐藤憲兵曹長の遺書 (11534)
日時:2014年08月27日 (水) 04時01分
名前:伝統

今回は、2つ目の動画で朗読された、佐藤憲兵曹長の遺書の紹介です。 

陸軍憲兵曹長・佐藤源治命
昭和二十三年九月二十二日ジャワ島バタビヤにて法務死、
岩手県出身三十二歳


終戦後3年経ってのち、「戦犯」として、いわれなき罪を着せられ、
殉難死した佐藤源治命の詩である。

       *「国民の遺書」(P40〜41)より

僕は唱歌が下手でした

一、僕は唱歌が下手でした
  通信簿の乙一つ
  いまいましさに人知れず
  お稽古すると母さんが
  やさしく教えてくれました

二、兄弟みんな下手でした
  僕も弟も妹も
  唱歌の時間は泣きながら
  歌へばみんなも先生も
  笑って「やめ」といひました

三、故郷を出てから十二年
  冷たい風の獄の窓
  虫の音聞いて月を見て
  母さん恋しと歌ったら
  みんなが泣いて聞きました

四、僕のこの歌聞いたなら
  母さんきっとうれしさに
  頬すり寄せて抱き寄せて
  「上手になった良い子だ」と
  ほめて下さることでせう

    (昭和23年6月3日作)

                    【昭和三十八年五月・六月靖國神社社頭掲示】
                    【平成二十二年一月靖國神社社頭掲示】
       (http://murauchi.info/weblog/2010/01/bokuha_shoukaga_hetadeshita.html

佐藤曹長は、スラバヤ憲兵分隊特高班に在職。
昭和18年中期以降、連合軍や旧オランダ軍による破壊活動を摘発した中心人物と
目されたことを理由に、戦後、オランダ軍の戦犯法廷で裁かれ、死刑判決を受けた。

詩情、文才豊かで、獄中で記された家族宛ての書簡、詩歌をあつめた『ジャワ獄中記』が
昭和60年、遺族により刊行されている。


   ・・・


謂われなき死刑囚の死

(1)『法務死』とは、かの大戦後に『戦争犯罪を裁く』との(連合軍曰く)大義の下に
   行われた軍事法廷(の形を取った報復儀式)にて有罪とされ、
   死刑判決を受けて殺されたことを意味します。

(2)「ジャワ獄中記」〜昭和60年(1985年)発刊

  @昭和23年2月、オランダ軍法裁判で死刑を宣告され、
   同年9月23日、ジャワのグルドック刑務所で銃殺刑に処された
   元スラバヤ憲兵隊曹長・佐藤源治の痛憤の手記。


  Aまえがき(遺族である義兄の菅原実氏)

   →  http://www.soshisha.com/book_read/htm/0224.html

  B人間を犠牲にする国家(state)権力?

   ディプホイス(検事)「なにか言い残すことがあったら話せ」


   佐藤源治「俺は死刑の執行を受けるが、顧みるになに一つやましい点はない。
        君らがいっているような死人、怪我人を作ったことはないのだ。
        しかし、いま助かりたいと思っての弁解でないから勘違いするな」

       「検事は人類と平和のため真実を守るのが任務である筈なのに、
       虚偽が跋扈し事実をねじ曲げている現実にいったいどう対処しているのか。
       起訴状には正義を維持するための裁判と謳っているが、なにが正義だ。

       地球上から抹殺しなければならぬ極悪人のごとくきめつけているわれわれの最期、
       死にざまをよっく見ておけ。人間ならば真実が見抜けると思う。」


   ディプホイス「私の力では裁判を左右することができないのです。
         強大な国家権力の犠牲にされている点では、あなたと立場が同じですよ。
         おわかりになりませんか。」

  
   佐藤源治「私は漠然とした裁判機構をとやかく批判しているのではない。
       検事としての君個人にいっているのだ。虚偽を助け、それを恥じない行動はいかん。
       強烈な正義感、バックボーンを持て」

          ・・・・・・・・

       このとき検事は気の毒なくらい困った顔をしたという。

  Cこの書「ジャワ獄中記」には、先の大戦の昭和16年から法務死まで経験したことが
   記録として記されております。

   この書を読むと、先の大戦におけるわが日本軍隊の「光」と「闇」が浮かび上がります。   

            <感謝合掌 平成26年8月27日 頓首再拝>

大嶺美枝命(沖縄白梅学徒隊)の遺書 (11562)
日時:2014年08月28日 (木) 04時48分
名前:伝統

《口ごたへばかりして すみませんでした。》

大嶺美枝命

白梅学徒隊  沖縄県立第二高等女学校四年
昭和二十年六月九日 沖縄高嶺村国吉で戦死
沖縄県島尻郡小禄村出身
十七歳


お母様!

いよいよ私達女性も、學徒看護隊として出動できます事を、心から喜んで居ります。
お母様も喜んで下さい。


(私は「皇國は不滅である」との信念に燃え、生き伸びて来ました。
軍と協力して働けるのは、いつの日かと待って居りました。
いよいよそれが私達に報ひられたのです。何と私達は幸福でせう。

大君に歸一し奉るに當って、私達はもっともいい機會を与へられました。
しっかりやる心算で居ります。)


―― お母様は女の子を手離して、御心配なさる事でせうが、
けっして御心配はなさいますな。――


(私は優しいお母様の暖かいふところの中で、いつも可愛がられてすくすくと伸びて参りました。
私は、その暖かいお母様のお教へを、今こそ生かして、立派な日本女性としてお國に御奉公する
覺悟で居ります。

軍醫のお教へ、先生のお教へを學び、友と固く手を取り合って、懸命にやってゆく心算で居ります。
いよいよ御奉公の時がやって来ました。しっかりやります。

お母様。私の身體はすべてお國に捧げたのです。
その身體を私は大事に磨き上げ、國のためにつくします。

男でも女でも、詩にあります様に「國を思ふ道に二つはなかりけり」で、
忠孝の信念に變りはありません。私の身體は國が保証して下さるのです。
ですからどうぞ、何の心配もなさらないで下さい。)

 
散るべき時には、立派な櫻花となって散る積りです。その時は、
家の子は「偉かった」と賞めて下さいね。――

お母様! 空襲時はよくご用心下さいね。
そして善ちゃんと弘ちゃんを良く守って下さいませ。
決して私の御心配はなさいません様にして下さい。

ネルはお母様のものか、善ちゃんのものを作って着せて下さい。
波の上宮のお守りを入れて置きますから、善ちやんの出動の際には、
お母様の髪の毛と共に、弘ちやんにお守り袋を作つて貰つて、善ちやんにやつて下さい。

なるべく自分でやる心算でしたけど、到底忙しくて出来ませんから、弘ちやんに作ってもらひます。

お母様! 今まで口ごたへばかりして来てすみませんでした。
これからは、きっと立派な一人前の看護婦になつて、お國の為に働きます

お母様! 御身体を無理なさらぬ様に、又善ちやん弘ちやんを怒らずに、
朗らかに暮らして下さい。

大島兵曹、信一兄さんによろしくおつしやつて下さいませ。


                      かしこ
                           美枝

最後に一家の御健康をお祈り致します。

                    【昭和四十年六月靖國神社社頭掲示】

*注:2箇所の( )内の文章は、朗読及び「国民の書」では省略されておりますが、
   【大嶺美枝命】様の深い意識を知るために、ここでは表示させていただきました。

        ・・・・・

          *「国民の書」(P33)より

米軍の上陸を受け、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女らで構成された「ひめゆり学徒隊」、
同第二高女の「白梅学徒隊」など、沖縄の女生徒たちは、速成の看護婦教育ののち軍属として
野戦病院に配置された。

苛烈な戦場勤務の果て学徒隊は解散を命じられたが、その多くは祖国防衛の最前線に散っていった。

        ・・・・・


大嶺美枝さんについては、
「光明掲示板・第一」内スレッド「「8月と慰霊の心」(安東巌先生) (951)」
にて、触れられております。

その中から、関連の部分を以下に抜粋して、紹介させていただきます。

(以下、抜粋)

過ぐる大東亜戦争における戦没者の慰霊も叉、
感謝と御礼と真心の供養でなされるべきでありましょう。
それについて思うのは沖縄のことです。

私はこの五月、沖縄の祖国復帰40周年記念大会に出席する為、宜野湾市へ行って来ました。
そして大会の翌日、祖国防衛の楯として男子学徒も、女子学徒も共に戦列に加わった
最後の激戦地、摩文仁の丘まで足をのばしました。

かつて私は青年会時代の昭和47年、一度この地を訪れた事があります。
そのおり、鉄血勤皇隊の学徒達が、たてこもりしという壕の、
その壁に彫りこまれていた和歌を拝して涙があふれたことを覚えています。


   小石もて戦(たたかい)せしときくにつけ
   身につまされて悲しかりけり


すでに弾薬は尽き、最後は石を持って闘かったという。
その状景を思うと今も胸がはりさけそうになります。

あの日から、はるかの月日です。
野原であった戦跡は、平和公園として整備され、近くには立派な平和祈念堂も建っていました。

その堂に鎮座する平和祈念像に手を合わせながら、
ふと堂内の陰鬱な雰囲気に違和感を感じました。

本来慰霊の場所は悲しみだけでなくきよらかさが吹きあげてくるものでしょう。
沖縄20万戦没者のみたまは果たして救われているのだろうか。
ならば、この陰鬱さは一体どこからくるのだろうか。

この疑問は、第一高等女学校や師範学校女子部の学徒達をまつるひめゆりの塔≠ノ参拝し、
平成元年竣工した「ひめゆり平和記念資料館」を見て氷解しました。

そこに展示されてあったのは、彼女たちは国の犠牲となり死んでいったとする
反戦平和イデオロギーの内容でした。

それは違う。
白梅部隊の一員として戦死した
県立第二高等女学校三年の大嶺美枝さんの遺書を読んで下さい。


「お母様、愈々私達女性も、学徒看護隊として出動できますことを、心から喜んで居ります。
お母様も喜んで下さい。私は皇国は不滅である≠ニの信念に燃え、軍と共に働けるのは、
いつの日かと待って居りました。愈々それが私達に報ひられたのです。何と私達は幸福でせう。
愈々御奉公の時がやって来ました。

しっかりやります。男でも女でも、国を思ふ道に二つはなかりけり≠ナ、
忠孝の信念に変わりありません。散るべき時には、立派な櫻花となって散ります。
その時は、家(うち)の子は偉かった≠ニ賞めて下さいね。

最後に、一家の御健康をお祈り致します。大嶺美枝 」


記録によれば、地下壕の野戦病院で看護に当たった女子学徒達は、
2〜3名で負傷兵100名〜150名を受け持ち、一昼夜も二昼夜も一睡もとらず任務を遂行したという。
それでも女子学徒達は天使のように微笑んであらん限りを尽して頑張りつづけたという。

さらには、弾雨の中の撤退にはわが身で患者を庇(かば)いながら
敵弾に斃(たお)れた学徒もあったという。

彼女達の思いは米軍の日本本土侵攻を阻止し祖国を護る殉国のひとすじにあった。
それは沖縄戦没者20万(軍6万、県民14万)なべての御霊の思いでもあったに違いありません。

そのような殉国の霊(みたま)達がどうして反戦平和主義の供養で魂が救われよう。
大嶺美枝命が遺書で願っているように、後世の私達がその生き方を称場し感謝のまことを
捧げるとき魂は安堵を得るのです。


 谷口先生に次の一文があります。

「人、その友のために生命を損(す)つる。是より大なる愛はなし≠ニイエスは言ったが、
その友のため≠ニいふところを国を護るため≠ニ書き換ることが出来るのである。

国難来って海外から攻めてくるとき―国民(吾らの最も近き友)を護るために、
と同時に国家理想を護るために―一旦緩急ありて公に奉ずる≠ニころの実践は
霊魂進化が一層急速に行われる魂の霊的修業≠ネのである。

幾百万の日本兵は大東亜戦争に於て、そのような理想のために、
自分の肉体への執着を離脱して生命を損てたのであった。

それは実に彼らの霊魂の急速なる浄化の過程となったのであって
特に特攻隊≠フ如きは一層激しい霊魂の修業を経て―
一層高き天体に昇天移行転生したのである。尊きかな称むべきかな。(生48・6)」


http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=237

            <感謝合掌 平成26年8月28日 頓首再拝>

野沢吉一郎命、茂木三郎命、田沢清作命の遺言 (11575)
日時:2014年08月29日 (金) 04時54分
名前:伝統

「妻への遺言」〜魂は生きてお前のそばに居る


陸軍軍曹 野沢 吉一郎 命 
昭和十九年十月二十六日 バシー海峡にて戦死 
新潟県中蒲原郡白根町出身 三十九歳



長い間まことに御苦労であつた。
つらくばかりお前に当たつてほんたうにすまなかつたが、私は幸であつた。

身体のやせる程苦労させたが、皆前世の約束であつたとあきらめてくれ。
先に行つてお前の席をとつて待つ。

子供の事をくれぐれもたのむ。
又父母の事もくれぐれもたのむ。
お前が無事に幸福な日を送る事を見守つて居る。

嘆くな。悲しむな。人の世は皆こんなものだ。
子供の事くれぐれもたのむ。
達者に居れよ。病気せぬ様にせいよ。

苦しかつたが又楽しかつたな。
過ぎた日の楽しかつた事を思い起こして日を暮らせ。
子供は一日毎に大きくなる。

思ひだしたなら仏様にお参りをせい。
私の身体は死んでも、タマシヒは生きてお前のそばに居る。
つましくして細々と生活を立て、子供の生長を楽しみに待てよ。

サヤウナラ。


************************************************************************* 


「母への遺言」 (昭和二十年三月、母への言葉)

海軍少尉 茂木 三郎 命
神風特別攻撃隊第五神剣隊
昭和二十年五月四日 沖縄周辺にて特攻戦死
海軍第十八期乙種飛行予科練習生
福島県出身 十九歳



――ぼくはもう、お母さんの顔をみられなくなるかもしれない。

お母さん、よく顔を見せて下さい。

僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見て

お母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

それが僕の別れのあいさつです。

                    【昭和六十三年九月靖國神社社頭掲示】

          ・・・・・

          *「国民の遺書」(52〜53より)

海軍では飛行機搭乗員養成のための学校を設けず、実戦部隊で訓練、教育が行なわれた。
昭和五年から満十四歳以上二十歳未満で選抜される予科練習生の制度が始まり、
やがて甲、乙、丙、特乙と種別され、昭和五年の発足以来、十四万人を超える入隊者があった。

そのうち二万人が戦場の空に散ったのである。


また、タイトル『母への遺言』は、
「国民の遺書」では、『自分の家の上空を飛びます』となっております。

************************************************************************* 


「亡き戦友の顔」

陸軍少尉 田沢 清作 命
昭和19年9月二十日 テニヤン島にて戦死
新潟県中蒲原郡村松町出身 三十一歳



笑っているこの写真!!

やるだけ俺はやったんだと
笑っている写真

あこがれの桜花と散ったよと 
笑っている写真

これで俺の一生は意義があったんだと
笑っている写真 

あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑っている写真 

靖国神社で待っているぞと
笑っている写真 

神様になった戦友の
この写真!”

                    【昭和四十四年十二月靖國神社社頭掲示】

          ・・・・・

          *「国民の遺書」(164〜165より)

靖国神社の「遊就館」には”靖国の神々”という展示室がある。

この部屋の壁面にはおびただしい数の戦没者の肖像写真が掲げられ、
このうえなく厳粛で、見る人の胸を圧する。
その姿は現在八十枚に及び、日々、遺族からの奉納が続いている。

(「遊就館」 → http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/ )


また、タイトル『亡き戦友の顔』は、
「国民の遺書」では、『神様になった戦友』となっております。


************************************************************************* 

            <感謝合掌 平成26年8月29日 頓首再拝>

伝統様、ありがとうございます。  (11578)
日時:2014年08月29日 (金) 08時56分
名前:道産子

素晴らしきご投稿ありがとうございます。

感じて、拙い一首、詠みましたので・・・。


英霊の 言乃葉聴けば 現代の風潮などや 憂はざるを得ず(~_~)


失礼しました。

ありがとうございます。


庄司猛夫命の遺書 (11588)
日時:2014年08月30日 (土) 04時26分
名前:伝統

”道産子 さま” ありがとうございます。

しばらく、影を隠しておられたようで、気になっておりました。


>英霊の 言乃葉聴けば 現代の風潮などや 憂はざるを得ず

本当にそうですね。
多くの方も同じ思いなのではないでしょうか。

「英霊の言乃葉」に触れると、
英霊の皆々様方の「誠」を貫いたその姿勢に感銘を受けます。


以下は、今月(8月)の靖国神社の社頭に掲示されている遺言の紹介です。

************************************************************************* 

遺書


海軍兵曹長 庄司猛夫命

昭和十九年十一月二十一日フィリピン東方海面で戦死。
福島県岩城軍内郷町出身 二十七歳

 

我今より我が大日本帝国の決戦場に向ふにあたり一言遺言す。

我もとより戦場に向ふに心残りなし。

今大君の御為、大和民族の盾となれるを喜ぶ。

家人よ嘆く勿れ、むしろ祝すべし。

我が家にも名誉の戦死の記されることを地下より喜ぶ。

二十六年の間、海よりも深き父母の恩に報い得ざるは、残念なり。

残る弟妹達、兄たる小生の分も孝行されたし。

節子よ、兄の墓は敵の重艦で大きく立派なものだ。
此の海を今にお前たちが船に乗って通ることもあるでしょう。
兄は喜んで見上げるよ。

母さんに孝行、父の言を守り弟妹共の指導をたのむ。

(後略)

昭和十八年一月十日  

              ・・・

「比島決戦では日本と米軍の航空戦力の差は決定的であった。
大西滝治郎第一航空艦隊司令長官が特攻・神風特別攻撃隊の編成を命じたのは
昭和19年10月20日であった。

庄司猛夫兵曹長が戦死されたころはレイテ沖で連合艦隊が
米機動部隊の攻撃にさらされ作戦能力を失っていた」

************************************************************************* 

            <感謝合掌 平成26年8月30日 頓首再拝>



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