――英国、ロンドン、SIS本部、7/28、現地時間23:30――
静寂が支配する、深き夜の闇に抱かれた街。 各商店は遂に全てのシャッターを降ろし、未だ灯りの点いている家屋も、まばらに点在するだけで、その数は決して多くない。 辺り一帯に人の声は一切なく、時折吹き抜ける風が転がす空き缶の乾いた音だけが、虚しく響き渡るのみ。
――パキッ。
そんな世界では、このような僅かな音でさえ、異様に大きく感じられた。 「これでよし、と」 水亜は砕いたガラスの穴から手を伸ばすと、窓の鍵を外し、屋内へと侵入する。 「……」 床の上に屈み、薄く目を閉じる。 人の気配はもちろん、微かな物音一つ聞き逃すまいと、神経を聴覚に集中させる……が、特に異変は感じられなかった。 深夜という時間帯に相応しく、人がいる様子はない。
――おかしいわね。
しかし、それはあくまでも通常時の話。 今この時ばかりは、その例にあてはまらない。 ここへ侵入する随分前から、水亜には大量の監視がついていた。 言ってみれば、こちらの一挙一動全てが相手に筒抜けなのだ。 ならば何故、彼らは水亜の侵入に対して何の策も講じていないのか? 否。 講じていないはずはない。 つまり、この建築物内への侵入を許したのも、内部が無人であることも、相手にとっては予定通りということだ。
――ってことは、奴らがいるのはどこか別の場所……?
《姉さん、聞こえます?》 そんなことを考えていた折、不意に耳に届いた紗弥の声に、彼女は意識をそちらへと向けた。 「えぇ、聞こえてるわ」 《とりあえず、そこから廊下を西に真っ直ぐ進んで下さい》 「了解」 紗弥に言われるまま、廊下を西の方へと歩く。 その間も、彼女の鋭い眼差しには一分の隙もなく、油断なく周りに警戒を配る。 だらりと下げられた腕は無防備なようで、その実ありとあらゆる異常事態に瞬時に対応できるよう、脱力した身構えを取っていた。 今の彼女ならば、突然背後から……いや、例え地中から襲われようとも、問題なく対処できるだろう。 廊下を歩く間、常に臨戦体勢を取っていた水亜だったが、遂にその警戒は杞憂に終わり、壁に突き当たって歩みが止まる。 「突き当たりまできたけど、ここからはどっち?」 《今度は北に進んで下さい。途中、右手側に扉が並んでると思うんで、手前から数えて三番目の部屋に入って下さい》 「わかったわ」 右に目線を送りながら、北側へと伸びる廊下を進む。
――手前から数えて三番目って言うと……あれね。
扉の前に立ち、一呼吸置く。 ……やはり、この中ももぬけの殻のようだ。 静かに扉を開き、室内に足を踏み入れる。 「入ったわよ」 《その部屋の北東隅を調べてみて下さい。多分、地下に続く階段があるはずです》 「地下?」 《はい。私の手元にある見取り図によると、そこから地下に行けるみたいです》 「なるほど……」 水亜が険しい目付きで頷く。 これなら、館内が無人であることも合点がいく。 これから彼女が向かう先、つまりは地下こそが今回の戦場と、そういうことだろう。 コートのポケットからペンライトを取り出し、その明かりを頼りに部屋の隅まで足を運ぶと、そっと壁に手を這わせる。 と、不意に掌に感じた、細い亀裂を跨いだ感触。 どうやら、この壁の向こう側のようだ。 《それらしき場所はありましたか?》 「えぇ。紗弥の言った通り、壁の向こうに道があるみたい」 《壁の向こう……それ、どうやったら通れるようになるか、わかります?》 「ん〜……」
――どうやったらこの扉が開くのか、ねぇ……。
首をひねり、室内を見渡す。 部屋の中央に四角いテーブルと、それを囲うように置かれたソファー。 壁面には幾つかの絵画が掛けられ、両端の壁沿いに設置された背の低い棚には、片や骨董品と思しき置物が、もう一方にはティーセットと電気ポットが置かれている。 普段、ここは応接間として使われているようだ。 通常、こういった仕掛けは、室内のどこか目立たないところ……机の下や陶器の底等にあるのが王道だが……。 「良くわかんないわね。多分、どっかに仕掛けがあるんだろうけど」 《ちょっと待ってて下さい。今調べて……》 「いや。その必要はないわよ」 《え?》
――別に隠密行動ってわけじゃないし、わざわざ探すことないわね。
水亜がコートの内ポケットに手を伸ばす。 次に彼女の手が現れた時、そこには小さな箱が握られていた。 同時にもう片方の手でグロックを取り出し、その銃口を壁に向け、立て続けに二度発砲する。 ――ガンガンッ!
「ま、こんなもんかな」 《ね、姉さん!? 何かあったんですか!?》 壁に空いた穴を満足そうに見る彼女の耳元で、紗弥の慌てた声がこだまする。 「あぁ、なんでもないわよ。私なら大丈夫」 《そ、そうですか……良かった……》 「貴女、心配し過ぎよ。今からもっと騒がしくなるんだから、この程度で狼狽えてちゃ身がもたないわよ?」 水亜は呆れ混じりに言葉を返しながらグロックをしまうと、手に持った箱を開ける。 その中に入っていたのは、灰色をした半個体状の粘土のような物体とコード、それに小型の筒だった。 C-4爆薬――俗に言う、プラスチック爆薬というやつだ。 ここで言うプラスチックとは可塑(かそ 柔らかく変形しやすい)という原義の意味であり、我々が普段目にしているプラスチックとはまるで別物である。 爆薬の量を調節し易く、日本でも建築物の解体という形で良く用いられている為、手に入れるのはそう難しくない。 火を点けても普通に燃えるので、固形燃料としても使えなくはないが、その時発生する煙に多少の毒性があり、燃料という用途としてはあまり有用とは言えない。 そんな特徴をもつプラスチック爆薬を、問題の壁面に貼り付ける水亜。 「……」
――ちょっぴり舐めてみよっかな。
その過程で、そんなことを考える。 余談だが、意外にもプラスチック爆薬は口に含むと甘く、またガムのような食感があり、密かに食べる兵士が後を断たなかったらしい。 だが、前述したように煙にさえ有毒性のある物体を、生で食すということは、人体に被害をもたらさないはずがない。 戦時中、この中毒症状で病院に運ばれた兵士は少なくなく、死者さえ出たと言うのだから、何とも笑えない話である。 かく言う水亜も一度舐めたことがあり、本当に甘いんだなと感心したそうな。 因みに彼女は昔ダイナマイトも食べたことがあるそうで、甘味の中にも痺れるようなピリピリ感があって、嫌いな味ではなかったらしい。 ……なんてことを嘉治に話し、火薬爆薬の類いには麻薬に近い成分もあるんだぞとこっぴどく叱られたのも、今となっては良い思い出である。
――……やっぱ止めとこ。
結局、諦める。 まぁ、敵組織内部に侵入中、爆発物を食したことによる中毒症状により死亡などという最期は、あんまりにもあんまりだろう。 どこかやりきれない表情を浮かべつつも、慣れた手つきでコードを通し、それを持ったまま一旦室外へと出る。 部屋の外でその管を雷管に繋げ、スイッチを入れた。
――ドォン!
室内にて巻き起こる爆発音が、くぐもって聞こえてくる。 それが鳴り止むのを待って、水亜は来た時同様静かに扉を開いた。 爆薬を仕掛けた部位にぽっかりと開いた空洞と、床に散らばる石片とが目につく。 「これでよし、と」 《あの……》 満足げに頷く水亜に、紗弥が躊躇いがちに口を開く。 「ん? どうしたの?」 《今、またなんか変な音が聞こえたんですけど……》 「あぁ。それ、きっと私が扉を爆破した音よ」 《爆……!?》 「まぁ、これが一番手っ取り早いからね。どうせもうバレてるんだし、今更コソコソしたってどうにもなんないわよ」 《……》 あっけらかんと答える水亜に、紗弥が言葉を忘れたかのように押し黙る。 開かぬなら、壊してしまえ、隠し扉。 紗弥には信じられないくらい、なんとも物騒な思考だが、水亜にしてみれば一番単純で簡単な選択肢なのだろう。 「さ、こっからが本番よ。準備はいい? 紗弥」 《……はい!》 「良い返事ね。それじゃ、行くわよ」 足下に散乱する瓦礫を避けながら、壁に空いた巨大な穴をくぐる。 その奥にあるのは、下方へと続く長い階段。 その奥から漏れる光が、微かにこちらまで届いてくる。 「……」 鋭い目付きで周囲を見回しながら、階下へと下ってゆく水亜。 その手には再びグロックが握られており、階下の僅かな光を浴びて、不気味な黒光りを放っていた。
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