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O.L.作品置き場

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タイトル:進攻〜Penetration〜 アクション

――SIS本部へと乗り込む水亜。紗弥の道案内の下、敵を蹴散らし、制御室へと進攻する。その道中、彼女が遭遇するのは、未だかつてない強敵だった。蘇りしあの日の記憶……血生臭い闇色の路地裏から救い出してくれた、誰よりも尊敬するあの人の手……。それが排除すべき障壁となって眼前に立ちはだかる時、彼女はいかなる決断を下すのか……。次回の最終章へと加速度を増して進む為の助走期間、滑走路的な役割を孕みつつも、各々の思いが交錯する大きな山場的今作!

月夜 2010年07月10日 (土) 00時05分(162)
 
題名:進攻〜Penetration〜(第一章)

――英国、ロンドン、SIS本部、7/28、現地時間23:30――

静寂が支配する、深き夜の闇に抱かれた街。
各商店は遂に全てのシャッターを降ろし、未だ灯りの点いている家屋も、まばらに点在するだけで、その数は決して多くない。
辺り一帯に人の声は一切なく、時折吹き抜ける風が転がす空き缶の乾いた音だけが、虚しく響き渡るのみ。

――パキッ。

そんな世界では、このような僅かな音でさえ、異様に大きく感じられた。
「これでよし、と」
水亜は砕いたガラスの穴から手を伸ばすと、窓の鍵を外し、屋内へと侵入する。
「……」
床の上に屈み、薄く目を閉じる。
人の気配はもちろん、微かな物音一つ聞き逃すまいと、神経を聴覚に集中させる……が、特に異変は感じられなかった。
深夜という時間帯に相応しく、人がいる様子はない。

――おかしいわね。

しかし、それはあくまでも通常時の話。
今この時ばかりは、その例にあてはまらない。
ここへ侵入する随分前から、水亜には大量の監視がついていた。
言ってみれば、こちらの一挙一動全てが相手に筒抜けなのだ。
ならば何故、彼らは水亜の侵入に対して何の策も講じていないのか?
否。
講じていないはずはない。
つまり、この建築物内への侵入を許したのも、内部が無人であることも、相手にとっては予定通りということだ。

――ってことは、奴らがいるのはどこか別の場所……?

《姉さん、聞こえます?》
そんなことを考えていた折、不意に耳に届いた紗弥の声に、彼女は意識をそちらへと向けた。
「えぇ、聞こえてるわ」
《とりあえず、そこから廊下を西に真っ直ぐ進んで下さい》
「了解」
紗弥に言われるまま、廊下を西の方へと歩く。
その間も、彼女の鋭い眼差しには一分の隙もなく、油断なく周りに警戒を配る。
だらりと下げられた腕は無防備なようで、その実ありとあらゆる異常事態に瞬時に対応できるよう、脱力した身構えを取っていた。
今の彼女ならば、突然背後から……いや、例え地中から襲われようとも、問題なく対処できるだろう。
廊下を歩く間、常に臨戦体勢を取っていた水亜だったが、遂にその警戒は杞憂に終わり、壁に突き当たって歩みが止まる。
「突き当たりまできたけど、ここからはどっち?」
《今度は北に進んで下さい。途中、右手側に扉が並んでると思うんで、手前から数えて三番目の部屋に入って下さい》
「わかったわ」
右に目線を送りながら、北側へと伸びる廊下を進む。

――手前から数えて三番目って言うと……あれね。

扉の前に立ち、一呼吸置く。
……やはり、この中ももぬけの殻のようだ。
静かに扉を開き、室内に足を踏み入れる。
「入ったわよ」
《その部屋の北東隅を調べてみて下さい。多分、地下に続く階段があるはずです》
「地下?」
《はい。私の手元にある見取り図によると、そこから地下に行けるみたいです》
「なるほど……」
水亜が険しい目付きで頷く。
これなら、館内が無人であることも合点がいく。
これから彼女が向かう先、つまりは地下こそが今回の戦場と、そういうことだろう。
コートのポケットからペンライトを取り出し、その明かりを頼りに部屋の隅まで足を運ぶと、そっと壁に手を這わせる。
と、不意に掌に感じた、細い亀裂を跨いだ感触。
どうやら、この壁の向こう側のようだ。
《それらしき場所はありましたか?》
「えぇ。紗弥の言った通り、壁の向こうに道があるみたい」
《壁の向こう……それ、どうやったら通れるようになるか、わかります?》
「ん〜……」

――どうやったらこの扉が開くのか、ねぇ……。

首をひねり、室内を見渡す。
部屋の中央に四角いテーブルと、それを囲うように置かれたソファー。
壁面には幾つかの絵画が掛けられ、両端の壁沿いに設置された背の低い棚には、片や骨董品と思しき置物が、もう一方にはティーセットと電気ポットが置かれている。
普段、ここは応接間として使われているようだ。
通常、こういった仕掛けは、室内のどこか目立たないところ……机の下や陶器の底等にあるのが王道だが……。
「良くわかんないわね。多分、どっかに仕掛けがあるんだろうけど」
《ちょっと待ってて下さい。今調べて……》
「いや。その必要はないわよ」
《え?》

――別に隠密行動ってわけじゃないし、わざわざ探すことないわね。

水亜がコートの内ポケットに手を伸ばす。
次に彼女の手が現れた時、そこには小さな箱が握られていた。
同時にもう片方の手でグロックを取り出し、その銃口を壁に向け、立て続けに二度発砲する。
――ガンガンッ!

「ま、こんなもんかな」
《ね、姉さん!? 何かあったんですか!?》
壁に空いた穴を満足そうに見る彼女の耳元で、紗弥の慌てた声がこだまする。
「あぁ、なんでもないわよ。私なら大丈夫」
《そ、そうですか……良かった……》
「貴女、心配し過ぎよ。今からもっと騒がしくなるんだから、この程度で狼狽えてちゃ身がもたないわよ?」
水亜は呆れ混じりに言葉を返しながらグロックをしまうと、手に持った箱を開ける。
その中に入っていたのは、灰色をした半個体状の粘土のような物体とコード、それに小型の筒だった。
C-4爆薬――俗に言う、プラスチック爆薬というやつだ。
ここで言うプラスチックとは可塑(かそ 柔らかく変形しやすい)という原義の意味であり、我々が普段目にしているプラスチックとはまるで別物である。
爆薬の量を調節し易く、日本でも建築物の解体という形で良く用いられている為、手に入れるのはそう難しくない。
火を点けても普通に燃えるので、固形燃料としても使えなくはないが、その時発生する煙に多少の毒性があり、燃料という用途としてはあまり有用とは言えない。
そんな特徴をもつプラスチック爆薬を、問題の壁面に貼り付ける水亜。
「……」

――ちょっぴり舐めてみよっかな。

その過程で、そんなことを考える。
余談だが、意外にもプラスチック爆薬は口に含むと甘く、またガムのような食感があり、密かに食べる兵士が後を断たなかったらしい。
だが、前述したように煙にさえ有毒性のある物体を、生で食すということは、人体に被害をもたらさないはずがない。
戦時中、この中毒症状で病院に運ばれた兵士は少なくなく、死者さえ出たと言うのだから、何とも笑えない話である。
かく言う水亜も一度舐めたことがあり、本当に甘いんだなと感心したそうな。
因みに彼女は昔ダイナマイトも食べたことがあるそうで、甘味の中にも痺れるようなピリピリ感があって、嫌いな味ではなかったらしい。
……なんてことを嘉治に話し、火薬爆薬の類いには麻薬に近い成分もあるんだぞとこっぴどく叱られたのも、今となっては良い思い出である。

――……やっぱ止めとこ。

結局、諦める。
まぁ、敵組織内部に侵入中、爆発物を食したことによる中毒症状により死亡などという最期は、あんまりにもあんまりだろう。
どこかやりきれない表情を浮かべつつも、慣れた手つきでコードを通し、それを持ったまま一旦室外へと出る。
部屋の外でその管を雷管に繋げ、スイッチを入れた。

――ドォン!

室内にて巻き起こる爆発音が、くぐもって聞こえてくる。
それが鳴り止むのを待って、水亜は来た時同様静かに扉を開いた。
爆薬を仕掛けた部位にぽっかりと開いた空洞と、床に散らばる石片とが目につく。
「これでよし、と」
《あの……》
満足げに頷く水亜に、紗弥が躊躇いがちに口を開く。
「ん? どうしたの?」
《今、またなんか変な音が聞こえたんですけど……》
「あぁ。それ、きっと私が扉を爆破した音よ」
《爆……!?》
「まぁ、これが一番手っ取り早いからね。どうせもうバレてるんだし、今更コソコソしたってどうにもなんないわよ」
《……》
あっけらかんと答える水亜に、紗弥が言葉を忘れたかのように押し黙る。
開かぬなら、壊してしまえ、隠し扉。
紗弥には信じられないくらい、なんとも物騒な思考だが、水亜にしてみれば一番単純で簡単な選択肢なのだろう。
「さ、こっからが本番よ。準備はいい? 紗弥」
《……はい!》
「良い返事ね。それじゃ、行くわよ」
足下に散乱する瓦礫を避けながら、壁に空いた巨大な穴をくぐる。
その奥にあるのは、下方へと続く長い階段。
その奥から漏れる光が、微かにこちらまで届いてくる。
「……」
鋭い目付きで周囲を見回しながら、階下へと下ってゆく水亜。
その手には再びグロックが握られており、階下の僅かな光を浴びて、不気味な黒光りを放っていた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時06分(163)
題名:進攻〜Penetration〜(第二章)

――英国、スラッグ邸、7/28、現地時間23:00――

「……」
数台の監視カメラ越しに見るいくつかの風景。
普通のカメラなら、夜の闇に紛れて視界にはかなりの難があっただろうが、ここにあるものは全て赤外線カメラ。
環境に左右されることなく、常に明瞭な視界を確保することができる。
その中にちらほらと映っている人影は、そのどれもが怪しい挙動をしていた。
やたらと低く身を屈め、身ぶり手振りを交えて誰かとコンタクトを取りながら、物陰から物陰へと移動を繰り返す集団。
統率された意思の下、一糸乱れぬ団体行動を取る彼らは、一見しただけでも、それなりの訓練を積んできているであろうことは容易に見て取れた。
「……」
そんな中、スラッグは一台の監視カメラを注視していた。
おもむろにリモコンのようなものを手に取り、それを操作してカメラの視点を変える。
そして期を見計らい……

――バチッ。

一つのボタンを押した。
それとほぼ同時に、監視カメラに映っていた人影が一つ、地に倒れ伏して動かなくなった。

――タァン。

遅れてやってくる射撃音。
今まで統率の取れていた動きに、明らかな動揺が生じた。
この期を逃す手はない。
「……一気に畳み掛けさせてもらうぜ」
不適な笑みと共に、今度は別の監視カメラを操作する。
人影を画面中央に捕らえ、再びボタンを押した。
倒れる人影に、遅れて響く乾いた銃声。
そんな作業を繰り返すこと数回。
気が付くと、どの監視カメラの映像にも、人の姿はなかった。
「……まぁ、こんなもんかね」
スラッグはそう小声で呟くと、監視カメラから視線を外し、ソファーに体重を預け、一口コーヒーをすすった。
ミルク無し砂糖無し、ストレートなコーヒーの強い苦味が、その口内を刺激しながら喉を通り抜ける。
「十数人中4人……相手もそうバカじゃねぇってわけか」
ぽつりと、消え入るような声で、スラッグはそう漏らした。
スナイパーライフルの遠隔操作システム。
スラッグが独自に開発したもので、監視カメラとスナイパーライフルを組み合わせた、自衛システムの一つだ。
彼の自宅周辺1km範囲内に設置されたスナイパーライフルを自在に操作し、隠れてこちらの様子を伺っている監視員等を排除する為、スラッグの手によって数年前に生み出された。
いずれは全自動式にと目論んでいるのだが、誤って一般人を誤射しかねないので、未だ手動に甘んじている。
当初の予定では、これで半分……あわよくば、過半数を減らしてしまいたいと考えていたのだが……。

――流石にそう甘くはないか。

内心密かに舌打ちをする。
だが、相手はSIS。
英国トップクラスの諜報機関に所属する連中を、そう容易く撃退できるはずがない。
4人消せただけ御の字と考えるべきだろう。
しかし、これで奴らは、自分たちが四方から何者かに狙撃されていると感じたはず。
そうなれば、迂闊にその射線上には出てこれまい。
そう、スラッグは考えていた。
この考え方は、当然選び得る選択肢の一つという意味で、間違ってはいない。
だが、彼らの取った行動は、そんなスラッグの予想を、完全に裏切るものだった。
「なに……?」
監視カメラの映像を見つめる彼の口から、微かな驚きの声が漏れる。
画面の一つが、急に砂嵐で埋め尽くされたのだ。
ザーッという耳障りなノイズが、けたたましく室内にこだます。
次の瞬間、他の画面に映し出されるのは、一斉にこちらへと押し寄せる数多の人影。
狙撃手の存在などまるで意に介することなく、一直線にスラッグの元へと駆けていた。
恐らく、奴らの中の誰かが、スナイパーライフルの設置場所を突き止め、そこにあった監視カメラを破壊したのだろう。
「ちっ……!」
これは、スラッグにとって大きなイレギュラーだった。
たった数発の狙撃で、その正確な狙撃位置がわかるような奴が相手の中にいるとは、予想だにしていなかった。
これで、当初彼が計画していた籠城作戦は、一気にその有用性を失うこととなってしまった。
こうなった以上、奴らは今すぐにでもこの家に強制突入を試みるだろう。
紗弥は地下室にかくまっているから、とりあえずは安全として、問題はその入り口がバレるか否かだが……。
「……」
無言でその入り口の方を見る。
床全体を覆うカーペット。
その下にあるフローリングを取り外して、初めて見つかる隠し階段だ。
そうそうなことでは見つかるまい。
「……なら、家主として、丁重に奴らを迎えてやるとするか」
スラッグは残ったコーヒーを一息で空にすると、膝に手をつきゆっくりと立ち上がった。
隣の部屋に移動し、そこにある梯子から屋根裏部屋へと上る。
屋根裏と言う割には、埃一つ見当たらないくらいに清掃の行き届いた部屋。
その床、壁面、天井には夥しい量の銃器類やその弾薬、化学薬品から爆薬まで、多岐に渡る兵器類が固定されていた。
その中から手榴弾を手に、バズーカを肩に担ぎ、天井板の一角を外すと、スラッグはそこから屋根へと上った。
背を低くし、家を囲う塀に身を隠しているのが数人。
少し離れたところで、辺りを警戒するようにアサルトライフルを構えているのが数人。
そして、既に扉のすぐ手前まで迫っているのが3人、それぞれが銃を手に、臨戦態勢を取っていた。
そこは、スラッグの視点からでは見えない、完全なる死角。
だが、彼はそこに敵がいることを理解していた。
判断要素は二つ。
一つは敵の状態。
後方にいる数人は、周囲の危険を排除すべく構えている安全確保要因。
なら、その前方で塀に身を隠し、覗き見るようにして前を伺っている連中の役目は何か。
最前線にいる連中の侵入成功時には突撃を、何かしらのハプニングが起きた時にも、いち早く対応できるようにと身構えている、後方支援役。
この可能性が最も高い。
それなら、その更に前、扉付近にまで敵が迫っている確率は、理論的に見積もってもかなり高い。
しかし、これはあくまでも確率。
100に達しない限り、それは予想の範疇を越えず、確定事項とはなり得ない。
ならば、残りの数%を埋めたものは、一体何なのか。
それは、長きに渡り己が身を戦場にさらし続けてきた、彼の野性的直感だ。

――キン。

スラッグは口で安全ピンを引き抜くと、ほんの少し待ってから、手榴弾を屋根伝いに転がした。
コロコロという乾いた音。
それは、消えた次の瞬間、轟音へと変貌を遂げた。

――ドオォン!

「ぐあっ!?」
「ぎゃっ!?」
重なる絶叫を、爆発音が無慈悲にかき消す。
後方にいた連中が、驚きのあまり硬直する。
訓練されているだけあって、その時間は短かった。
しかし、そんな僅かな隙でさえ、スラッグは見逃さない。
「そら、もう一発くれてやるぜ!」
バズーカから発射された榴弾が、着弾と同時に爆発を生む。

――ドゴォン!

しかし、相手とてその道のプロ。
このまま黙ってやられっ放しになるはずもない。

――ガン! ガガガン!

射撃音と共に屋根目掛けて放たれる銃弾の嵐。
だが、それがスラッグの体を捉えるよりも遥かに早く、彼は再び屋根裏部屋へと身を潜めていた。
バズーカをの代わりにアサルトライフルを袈裟掛け、次いで服の両脇に二丁のハンドガン、そして両の手にはショットガンを持つ。
「さ〜て、面白くなってきやがったぜ」
そう口にするスラッグの口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時07分(164)
題名:進攻〜Penetration〜(第三章)

――英国、SIS本部制御室、7/29、現地時間24:00――

「長官、やっこさんのお出ましですよ」
「遂に来たか……」
そう呟くレグリスの視線の先には、一台の監視カメラの映像が。
そこに映し出されるのは、グロックを手に、油断なく周囲を警戒している水亜の姿だった。
「それにしても、良い女だよな〜」
「あぁ。こうして見る限りじゃ、あらゆる裏組織から死神と恐れられているなんて、まるで思えねぇぜ」
「見かけに騙されるんじゃない」
呑気なことを言う若い職員に、レグリスが檄を飛ばす。
「わかってますよ。なんの躊躇いもなく壁を爆破するような女が、普通じゃないことくらい、我々だって理解してますよ」
そう口にする職員。
だが、その声色から判断するに、言葉程の危機感と警戒心を抱いてはいないらしい。
確かに、彼女の容姿だけで判断すれば、一般的な女性と比べてかなり背は高いものの、それ以外に特筆すべき身体的特徴がある訳ではない。
街中で普通にすれ違ったとしても、魅力的な人だと振り向くことはあるやもしれないが、その程度。
一見しただけで、彼女が日本が誇る特務機関、O.L.の人間だなどと、分かる道理はない。
現に、かく言うレグリスも、事前に彼女の脅威をドミニィから直接聞いていなければ、少なからず甘く見ていた可能性は否定できない。
「……」
と、ここで不意に彼女が足を止める。
横目でチラッと監視カメラの方を見つめ、
「……」
微かに口の端を歪めてみせた。
だが、それだけ。
監視カメラの存在を理解しておきながら、破壊するでも身を隠すでもなく、悠然と歩みを進めていく。
「……」
「……」
そんな彼女の姿を目の当たりにし、さっきまで軽口を叩いていた若い職員が思わず絶句する。
冷たい笑み。
そんな表現では、到底収まらない。
その笑みに満ちる狂気。
そこに、本来あるはずの殺意や憎悪、怒りといった負の感情は一切なかった。
いや、それを言うなら、感情そのものがない。
言うなれば、無感動な狂気。
見たければ、見るがいい。
抗いたければ、抗うがいい。
何をしたところで、結果は変わらず、お前たちは死ぬ。
まるで、そんなことを宣言されているかのような、残酷極まりない無機的な冷笑。
戦場に長く身を置いていたレグリスでさえ、これほどまでに凄惨な笑みを見たのは初めてだった。
「……警戒は怠るな」
『は、はい!』
力強い返事を返しつつも、その心の動揺までは隠しきれていない。
歴戦の猛者であるレグリスでさえ、形容し難い薄ら寒さを覚えたのだ。
経験の浅い彼らが受けた衝撃の大きさは、計り知れない。
「……」

――ガタッ。

「長官?」
「少し席を外す。戻るまで頼んだぞ」
「……分かりました」
どことなく暗い声で了解する部下。
彼女は先ほどの連中と違い、SISに所属して結構長いのだが、その表情はお世辞にも明るいとは言えず、恐れや不安が前面に滲み出ていた。

――やれやれ。

「そう固くなるな」
レグリスは、そんな彼女の近くまで歩み寄ると、緊張して固く強張ったその肩を、ポンと軽く叩いてやった。
「は、はい!」
今度はしっかりと、覇気のある声で返事が返ってくる。
これなら大丈夫だろう。
そんな彼女の様子に口元を微かに綻ばせ、レグリスは制御室を後にした。
しばらく歩き、人目につかなくなった所で、彼は携帯を取り出した。
履歴から一人の人物の電話番号を探し出し、通話ボタンを押す。

――プルルルルル、プルルルルル、プルルッ。

しばらくのコール音の後、それが途切れると同時に、彼女の声が聞こえてきた。
『もしもし、長官ですか?』
いつもと何ら変わらぬ、普段聞き慣れている通りのドミニィの声だ。
「あぁ。お前、まだそっちの用事は済まないのか?」
『う〜ん……まだかかりそうですね〜。どうしたんです? 何か問題でも起こりましたか?』
「遂に死神が襲撃をかけてきた」
『そうですか』
その言葉を聞いても、ドミニィの声色はまるで変わらなかった。
確かに、これは予め予期できていたことなので、驚きがないこと自体は問題ではない。
問題なのは、その態度。
彼女とて、自分がSIS内部でトップクラスの戦闘員であることは、自覚しているだろう。
ならば、水亜が攻め込んできたと聞き、自分も一刻も早く戻らねばならないと考えるはず。
いや、考えねばならない。
にもかかわらず、彼女の声から焦燥感の類いは微塵と感じられなかった。
『ですが、心配いりませんよ。彼に任せておけば、何ら問題はありませんから』
「そうは言うがな。俺が言うのもなんだが、あんな老いぼれ一人で、本当にあの死神が止められるのか?」
『大丈夫ですって。心配し過ぎですよ、長官は』
電話越しに、ドミニィの笑い声が聞こえてくる。
日常会話の中でも見せる、何の気負いもない笑い。
これはつまり、彼女は確信しているということだろう。
例の彼に任せておけば、水亜の脅威など恐れるに足らないと。
しかし、それがレグリスには理解できない。
例えどれ程腕の立つ人物であれ、たった一人で水亜を絶対に仕留められる奴など、いるはずがない。
以前、ドミニィ自身でさえ、一対一で無力化できるかというレグリスの問いに、言葉を濁したのだ。
そんな化け物を、確実に倒すことのできるただの人間がいるなどと、信用できるはずもなかった。
「……本当に大丈夫なんだな?」
『もう、何度言わせたら気が済むんですか? 大丈夫ですってば』
「……わかった」
だが、レグリスは信用した。
正確には、信用せざるを得なかった。
現に今、この場に居ない彼女に、何を言ったところで意味はない。
彼にできることは、その言葉を信じること……ただそれだけだった。
「だが、可能な限り早く戻ってくるんだぞ。わかったな」
『わかってますって。それでは、失礼します』

――プツッ、ツーッ、ツーッ。

「……」
携帯を折り畳み、懐にしまうレグリス。
うつ向きがちに伏せられた瞳は、果たして何を見ているのか。
「……戻るか」
誰に言うでもなく……いや、それを言うなら、まるで己自身に言い聞かせるように小声で呟くと、レグリスは踵を返し、部下達の元へと歩みを戻した。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時08分(165)
題名:進攻〜Penetration〜(第四章)

――英国、SIS本部内、7/29、現地時間24:10――

――ダダッ! ダダダダッ!

辺り一面に響く数多の銃声。
幾重にも重なりあったそれは、もはや轟音と呼ぶに相応しかった。
銃弾を浴び続ける壁面はベコベコにへこみ、もはや見る影もない。
だが、これでもマシな方だ。
地下というだけあって、壁の素材もかなり硬いものを使っているのだろう。
もしそうでなければ、今頃ここは穴だらけで、いつ土砂に押し潰されてもおかしくない状況にあったに違いない。
「……ったく、しつこいわね〜」
そんな銃弾の嵐の中、曲がり角に身を隠し、私は呆れ混じりの表情を浮かべた。
「弾の無駄遣いも甚だしいわね。限りある資源を大切にって、学校で習わなかったのかしら?」
依然として銃声は鳴り止むこと知らず、ひっきりなしに飛び交う銃弾が、壁を幾度となく叩き続けている。
《姉さん、制御室はその奥にあるみたいです》
「りょーかい」
答えながら、グロックの銃身だけを覗かせて、でたらめに数回引き金を引き、弾装が空になったところで腕を戻す。
「ホント、きりがないわね」
思わず溜め息が溢れる。
どうやら、この奥に進む為には、あいつらを何とかする必要があるみたいだ。
人数は4人。
あの独特の乾いた銃声から判断するに、相手の使用銃器はUZI。
イスラエル、IMI社が開発した短機関銃だ。
小柄ながら連射力に優れ、装弾数、汎用性の面でも申し分ない高性能な銃器で、これを標準装備としている組織は少なくない。
《姉さん。そこ、突破できそうですか?》
「できなくはないわよ。ちょっと面倒だけどね」
答えながら、グロックの銃底から空の弾倉を抜き取り、新しいものを叩き込む。
《でしたら、左側から回り込むこともできそうですよ》
「本当?」
《はい。こちらから指示します》
「えぇ、お願い」
壁に押し当てていた背中を離し、紗弥の指示の下、私はその場を後にした。

――ドオォン!

来た道を戻る途中、上方からくぐもった爆発音が聞こえてきた。
多分、外で私を監視していた連中が、私の仕掛けた罠にひっかかったのだろう。
監視されているのを承知で、単身こんな地下に乗り込んだのだから、これくらいの対策は当然だ。
《最初の十字路を右に曲がって、次をもう一度右折です。そうしたら、その先に扉があると思うので、直進してその部屋を通り抜けて下さい。そのまま真っ直ぐ行って、次に見える扉が制御室への扉です》
「了解」
紗弥に誘導されるまま、曲がり角を折れ直進。
次の分岐路の角に身を隠し、そこから半分だけ顔を覗かせて様子を伺う。
先にあるのは扉だけで、他には何も変わったものはない、ただの直進通路。
監視カメラもなければ、何かしら罠が仕掛けられているようでもない。
「……!」
と、不意に感じた殺気に、私は素早く扉のある通路へと移動すると、来た道とは反対側の壁に身を隠した。

――ダダダダッ!

それとほぼ同時に、UZIの銃声が周囲に反響し、つい先ほどまで私の体があった場所を、唸りを上げて銃弾が駆け抜ける。
耳を澄まし、相手の数を予測する。
……銃声から判断するに、恐らく2〜3人。
ここで迎え撃つのは、いささか骨が折れそうだ。
「……仕方ないわね」
私はその場での反撃を諦め、制御室の方へと向かうことにした。
扉の前まで駆け、その直前で立ち止まる。
「……」
ここは、紗弥の指示を受ける前、私が撃ち合っていた連中の背後にあった扉の先と繋がっている。
恐らく、私がこう動いていることは、奴らも予想しているだろう。
なら、この部屋の中で待ち伏せられている可能性は高い。
……しかし、それ以上に腑に落ちないことがあった。
ここにたどり着くまでの道中にあった、敵からの襲撃。
最初の進行妨害にしろ、さっきの退路の遮断にしろ、攻撃の手はそこまで。
私が言うのも何だが、挟み撃ちにする機会はいくらでもあっただろう。
にもかかわらず、攻撃は常に一撃のみで、二、三撃に渡る追い打ちは一度もなし。

――……誘導、か?

ふと、そんな思考が脳裏をよぎる。
しかし、それならそれで構わない。
どんな企みがあるのかは知らないが、その企みごと私が打ち砕いてやろう。

――ガシュッ。

唸り声のような重低音を上げて、目の前の扉が開く。
中は暗闇で、こちらから漏れる明かりで僅かに照らされているのみ。
かなり見えにくいものの、そこがだだっ広い空間で、周囲には何やら箱のようなものが積まれていることだけは理解できた。
そんな部屋の中央付近に、悠然と立つ一つの人影。
ここからでははっきりと視認はできないが、この状況下で未だ尚微動だにしないことからも、相当の手練れであろうことは予想がついた。
ここが、あちらさんがわざわざ誘導してまで私を誘き寄せたかったフィールドってわけか。
一体どんな輩を連れてきたのか、見物だわ。
「貴方? 私の相手をしてくれるのは」
「……」
私の言葉にも、あくまで無反応。
黙したまま仁王立ちの姿勢を崩さない。
「無視とはつれないわね。これから殺し合う仲になるんだから、少しの間くらい仲良くやりましょうよ」
そう言って、私が室内へと更に一歩を踏み出す。
それと同時に、入ってきた時同様の重く鈍い音を上げ、背後の扉が閉まった。
次いで、室内の明かりが点けられる。
やけにもったいぶってくれたじゃない。
さぁ、私の相手はどんな奴……
「……えっ……」
思わず、そんな声が漏れた。
多分、初めてだと思う。
職務の真っ最中に、こんな間の抜けた声を出してしまったのは。
己の目を疑うという言葉があるが、これほどまでにこの表現が適切な状況には、かつて出会ったことがない。
「……」
呆気に取られ、停止する思考。
だから、私は相手の動きに全く反応できなかった。

――ドスッ。

「かはっ!?」
脇腹に重く響く鈍痛。
それが蹴られたことによる衝撃だと気付く頃には、私の体は既に崩れ落ちた箱の下敷きになっていた。
「……」
立ち上がらないと。
立って、任務を遂行しないと。
そう、頭では理解しているのに、体が動かない。
まるで、夢から覚めたばかり……いや、夢の中にいるみたいだ。
……もしかして、本当に夢なんじゃないだろうか。
これは私の見ている悪夢で、現実の私は、まだホテルのベッドで寝息を立てているんじゃないだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまう。
《ね、姉さん!? どうしたんですか!?》
しかし、現実とはえてして残酷なもの。
耳に届く紗弥の慌てた声が、私の意識を現へと呼び戻した。
「……大丈夫よ。悪いけど、少しだけ通信切るわね。また後で連絡するわ」
《え、ちょっ、姉さ――》

――プツッ。

一方的に通信を切り、体の上に積み重なる木箱やら段ボールやらを押し退け、その場に立ち上がる。
「いたた……いきなりいいものもらっちゃったけど……おかげで目が覚めたわ」
パンパンとコートについた埃をはたき落とし、視線を平行に戻す。
対峙する先に立つのは、誰より尊敬するあの人の姿。
私をあの暗闇から救い出してくれた、あの人の……。
「前回……とは言っても、もう10年以上前になりますけど。あの時は私の負けでしたが、今度はそうはいきませんよ?」
私は手に持っていたグロックを懐にしまい、軽くファイティングポーズを取る。
「……社長」
眼前に佇む人物――高礼嘉治に向かって。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時08分(166)
題名:進攻〜Penetration〜(第五章)

――英国、スラッグ邸地下、7/29、現地時間24:15――

「姉さん!? 姉さん! 返事をして下さい! 姉さん!」
《……》
返事は返ってこない。
さっきまで絶えず聞こえてきていたノイズも今は無く、そのことが通信が切断されているという事実を証明していた。
「姉さん……」
一体何があったんだろう……。
通信が切れる直前に聞こえてきた、何かが崩れた時みたいな音。
大きさから考えるに、姉さんの直ぐ近くで起きたことは間違いない。
姉さんは大丈夫って言ってたけど、もしかして……。
「ダメ! ダメよ私! そんな不吉なこと、考えちゃダメ!」
首を左右にブンブンと振り、その先に繋げようとしていた言葉を飲み込むと同時に、嫌な想像を頭の中から払拭する。
そう、姉さんのことなら心配ない。
だって、あの姉さんだもの。
そう易々と倒されたりなんて、するはずがないじゃないか。
しばらくしたら、また何事もなかったようにいつもの声で私の名前を呼んでくれるに決まってる。
そもそも、私みたいな若輩者が、姉さんの心配をするなんておこがましいというもの。
そんなことする暇があるなら、私は私に出来る他のことをするべきだわ。
そう自分に言い聞かせ、私は再びパソコンの画面へと意識を集中させた。
ウィンドウ上に表示されている、SIS本部のとあるパソコンの画面。
これは別にハッキングしているわけではなく、相手のパソコンそのものを無理やり共有化しているだけだ。
共有化してあるので、こちらから操作することも当然可能だが、そんなことをしたら、私が覗いていることがバレてしまう。
だから、これはあくまでも観察なだけ。
SIS内部の見取り図と、監視カメラの位置や映像の確認が目的だ。
正直見取り図さえあれば、それで当初の目的である道案内は出来るんだけど……あ、なら今の内に、監視カメラでもジャックしておこうかな。
そう思って、ふと何気なく監視カメラの映像に目をやった、ちょうどその時だった。
「……あれ?」
不意に感じた違和感。
この映像……何だろう、何かがおかしい。
見取り図とそれを何度も見比べる。
「……」
そして発覚する事実に、私は血の気が引いた。
「……嘘」
そんな敗色濃い呟きが、私の意思とは無関係に漏れる。
監視カメラの映像はこう語っていた。

――こんな見取り図は存在しない。

そして、見取り図はこう語っていた。

――こんな監視カメラの映像は存在しない。

……と。
監視カメラの映像と、その場所に該当する見取り図が、一致していない。
ある監視カメラには、本来ないはずの通路が映っており、また見取り図のとある場所では、監視カメラには映っている通路が、存在しないことになっていた。
この矛盾が示す事実は一つ。
私はまんまと騙されたのだ。
いや、よくよく考えてみれば、これは私の不注意とも言える。
今強制的に共有化しているこのパソコンは、私が日本にいた時にハッキングをしかけたもの。
手間が省けるからという下らない理由で、今回も同じパソコンにアクセスしたが、どう考えてもこれは愚行。
相手とてプロだ。
何者かの不正アクセスが発覚して、それを長時間野放しにしているはずはない。
つまり今回のミスは、不用意に動いた私の不覚。
姉さんを助けるつもりが、逆に相手の片棒を担ぐようなマネになるだなんて……。
「私を利用して姉さんを……」
胸に沸々と沸き上がる、抑えようのない怒り。
それと同時に抱く、みすみす敵の策にはまり、姉さんを危険な目に合わせてしまったことに対する自己嫌悪。
それらの入り雑じったぐちゃぐちゃな感情のまま、私はパソコンへと向き直った。
とりあえず、ここに載っている情報は虚偽ばかりだ。
さっさと共有化なんて断ち切って、もう一度別のパソコンにアクセスしないと。
そう思い、相手側との接続を切断する。
……否、しようとする。
だけど、切れない。
エラーが表示され、ウィンドウが消えない。
何でだろう?
そう不思議に思っていた、次の瞬間だった。
「なっ!?」
画面に次々と開かれていくウィンドウ。
真っ黒な画面とウィンドウの枠が無数に重なり、液晶全面がみるみる内に埋め尽くされていく。
しまった!
早くネットの接続を切らないと!
慌ててパソコンを動かそうとするが、時既に遅し。
次から次へと現れるウィンドウ表示の重さに耐えきれず、マウスカーソルさえ動かせない程にフリーズしてしまっていた。
「くそっ……!」
慌ててLANカードを引き抜き、物理的にネット接続を断ち切った。
それを境に、無制限に重なり沸いてくるウィンドウの群れが、その活動を停止する。
少々強引な手段に訴えてしまったが、あの際仕方がない。
それより今危惧すべきは、このパソコンの現状だ。
これが、ただフリーズを目的としたブラクラ行為だったなら、特に問題はない。
多少時間はかかるだろうが、強制終了から再起動でなんとかなる。
だが、もしこのデータの中にウィルスが混入されていたなら、みすみす電源を落として、侵食の危険性を高めることになりかねない。
最悪、電源を落としたが最後、起動できなくなる可能性さえある。
だからと言って、そもそもパソコン自体が動かないのでは、話にもならない。
一体どうすれば……。
「……仕方ない」
しばしの悛巡の後、マウスカーソルが未だに反応しないことを確認してから、私は強制終了を敢行した。
そして再起動。
その起動時間の間に、次の手を考える。
相手は私のハッキングを予見していた。
そうでなければ、あんな罠を仕掛けたりはしない。
それにまんまと引っ掛かったことは屈辱だが、今この時に限り、そんな私の私情は一旦捨て置く。
問題はこれからどうするか。
再度ハッキングを行う。
当たり前だ。
私が姉さんの助けとなるためには、それが必須事項。
だが、その手法は?
相手は私のハッキングを予想し、対策を立てていたのだ。
ならば、その対策として、全てのパソコンに同じような罠が仕掛けられているかもしれない。
……いや、それはないか。
このパソコンのスペックは、家のデスクトップより明らかに高性能だった。
ハードディスクの容量からメモリのバイト数、CPUに至るまで、その全てがデスクトップに劣らないどころか、むしろ圧倒的に勝っている。
そんなパソコンを一瞬にしてフリーズさせるほどのブラクラを送ろうとすれば、送る側の負担も相当なものだ。
普通に動かしながら、こんなブラクラ行為ができるとは、とてもじゃないが思えない。
多分、さっきまで私がアクセスしていたものは、ブラクラ用にほとんどのデータを初期化されていたのだろう。
ならばそれ以外、普通に動作しているものにハッキングを仕掛ければいいだけのこと。
握り締めていた拳に、自然と力がこもる。
同じ轍は二度と踏まない。
私をコケにしたこと、絶対後悔させてやるんだから……!
心に強く誓う。
そんな私の決意に呼応するかのように、暗転していたパソコンの液晶に光が点った。
逸る気持ちを抑えて、真っ先にウィルスチェック。
少し時間を使うけど、こればかりは省けない。
もし凶悪なウィルスに感染していたら、ハッキングどころではない。
ウィンドウに表示されるバーが、そのチェックの進行に伴って、左から右へと満たされていく。
しばしの時間を置いて、液晶中央に表示される“ウィルスは検出されませんでした”という文字。
よし、どうやら大丈夫みたいだ。
「……見てなさい」
怒りを露わに呟き、私は再びハッキング行為を再開した。
もう同じ過ちは繰り返さない。
今度は別のパソコンにアクセスする。
さっきまでの強制共有化みたいな生易しいことはしない。
完全に乗っ取ってやるんだから。
「……あれ?」
と、アクセスしたところで、私はあることに気付いた。
画面に表示されるのは、見覚えのある見取り図と監視カメラの映像。
「これ、もしかして……」
不安に駆られるまま、このパソコンのIPアドレスを調べてみる。
……悪い予想というのは当たるもので、私の危惧はただの杞憂に終わらなかった。
「……やっぱり」
苦々しく呟く。
このパソコンのIPアドレスは、私が先ほどブラクラにやられたパソコンのIPアドレスと、完全に一致していた。
当たり前だが、私自らさっきと同じパソコンにアクセスしてはいない。
にもかかわらずこの有り様ということは、またしても相手の策にかかったということだ。
恐らく、どのパソコンにハッキングを仕掛けても、このブラクラ用のパソコンに飛ばされるよう設定されていたのだろう。
こうなると、直接ダミー以外のパソコンをハックするのは、かなり難しそうだ。
おまけに、無理やりこの接続を切ろうとすれば、私のパソコンはまたしてもブラクラにやられてフリーズするのは目に見えてる。
一見八方塞がり。
……だけど、手がないわけじゃない。
「……」
少し考え込んでから、私は再びパソコンの方へと向き直った。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時09分(167)
題名:進攻〜Penetration〜(第六章)

――英国、SIS本部制御室、7/29、現地時間24:20――

「長官」
「あぁ。とりあえず、事は予定通りのようだな」
そう返しながら、私は一口コーヒーをすすった。
無糖ミルク無しの刺々しい苦味が口全体に広がる。
「……どうやら、強制的に接続を切ったみたいですね。ファイルの送信が止まりました」
「良い判断だな。だが、間違いなくパソコンはフリーズしただろう」
欲を言えば、それと同時にウィルスでも送り込んで、パソコンそのものを破壊したかったところなのだが……SISはコンピューターを専門に扱っているわけでもなければ、対サイバーテロ用の組織でもない。
ならば、そのようなコンピューターウィルスに精通した人間などいるはずもなく、結果ブラクラで時間稼ぎ程度しか出来ずにいた。
「ともかく、これであちらはしばらく動けまい。今問題とするべきは……」
そこで一旦言葉を区切り、顔を上げた。
その視線の先にあるのは、とある監視カメラの映像。
そこに映し出される死神と、相対する初老の男性の姿。
「本当に、あれで死神が止まるかどうかだ」
正直な推論を述べるなら、あの程度で奴を止められるとは、到底思えない。
今まで、数々の名だたる巨悪を、たった一人で孤軍粉砕してきたのだ。
元より、そんな化け物を一対一で打ち倒そうという考え自体が、すべからく無謀。
ならば、確実に仕留める為にも、この場に何人か応援を向かわせるべきか。
「長官」
「ん?」
そんなことを考えていた矢先、隣から掛けられた部下の声に、私は一旦思考という行為を停止させ、其方へと目を向けた。
「どうした?」
「あちらさん、どうやらもう回復したようです。再度、今度は別のパソコンにクラッキングを仕掛けてきました」
「もう回復したか……かなりスペックの高いパソコンを使っているようだな。だが、ちゃんと設定通り飛ばせているのだろう?」
「はい。先ほど同様、ブラクラ用パソコンへ転送されています」
「ならば捨て置いて問題はあるまい。むしろ、今はあの死神をどうするかの方が先決だ。……チームα、聞こえるか」
「こちらチームα」
「交戦中の死神を頃合いを見て討て」
「了解」
よし、これで大丈夫……。
「っ!? ち、長官!」
「どうした!?」
「そ、それが……」
怯えた目でパソコンを見つめる部下。
慌ててそちらへと駆け寄り、液晶画面に視線を移す。
「なっ……」
不意にそんな声が漏れた。
画面内に表示される黒いウィンドウと、そこを埋め尽くす白い文字の羅列。
“アクセスが拒否されました”
“別のプロセスが使用中です”
そんな単調で無機的な文章が、上から下へと凄まじい勢いで流れている。
こんな現象は見たことがない。
何が起きているのか分からないが、何かしらのクラッキング攻撃を受けたことだけは明白だ。
「何をボサッとしているんだ! 早く外部との接続を切って……」
「ダ、ダメなんです……」
マウスを動かしながら、こちらを見つめる引きつった表情。
「何が……!?」
最初はその意図するところを解せずにいたが、再度視線を液晶へ移すと同時に理解する。
マウスをどれだけ動かしても、液晶内のカーソルは全く反応していなかった。
こちら側からの制御をまるで受け付けていない。
完全に乗っ取られている。
しかし、どうやって?
このパソコンに対してクラッキングを仕掛ければ、強制的にダミーに飛ばされるよう設定してあるはずなのだが……。
そのブラクラ用パソコンへと目を向ける。
せわしなく動くカーソルと、開かれては閉じられてを繰り返すウィンドウ。
どうやら、敵はこのパソコンと接続を切ることはできていないようだ。
……そうか、そういうことか。
「全員、ダミーとのLAN接続を切れ!」
部屋全体に響く大きさで、私は半ば怒鳴るように声を発した。
最初、このパソコンに接触が試みられた時、奴は間違いなくダミーに飛ばされた。
実際に私も見ていたから、これは間違いないだろう。
この状態からでは、何をどうしたところで、アクセスすることさえ出来はしない。
だがそれは、あくまでも奴のパソコンからならばの話。
奴は、ダミーに飛ばされたことを逆に利用して、そこからLAN接続を通して直接クラッキングを仕掛けてきたのだ。
しかし、まさかこれほど早くにこのダミーを制圧し、且つ別のパソコンにルートクラックをするとは……一体相手はどんなクラッカーなんだ。
これほどの手腕、もはや並大抵のクラッカーなどとは、明らかに一線を画している。
認めざるを得ない。
技術力、知識力双方の面で、我々を遥かに凌駕した相手だ
逆探知した上で、あわよくば返り討ちにとも考えていたが、それはとんでもない過ち。
こんな奴相手に情報戦を挑んだこと自体が、そもそも無謀だったのだ。
ここはもう、実際現地に赴いている別動隊に任せる他ない。
「……長官」
恐る恐るといった様子でこちらを見上げる部下の瞳。
そこに宿る不安の色は深く、動揺や焦りなどといった言葉では、言い表し用のない恐怖に揺れていた。
残念だが、ここまで侵食されてしまっては、もう制御を取り返すのは無理だろう。
よってこれから大事になるのは、他のパソコンの制御まで奪われぬよう、対策を講じることだ。
「同一のIPアドレスを長時間使用しないよう、この後は30分毎に再起動。管理者パスワードの変更も忘れるな」
そう指示して、私は今現在クラッキングされている部下のパソコンの電源を引き抜いた。
ブツッという嫌な音を上げて、液晶画面が黒に埋め尽くされる。
「あ……」
「こいつはもうダメだ。お前は別の席へ移れ」
「……はい」
誰の目にも明らかなくらいに気落ちした表情で、彼女は静かに立ち上がった。
肩を落とし、とぼとぼと歩くその後ろ姿から、言い知れぬ悲壮感を感じる。
「落ち込むな、お前の責任じゃない」
「長官……」
「失敗を嘆くより次に活かせ」
「……はい!」
「いい子だ」
私はすれ違いざま、優しくそんな彼女の頭の上に、ポンと手を置いてやった。
「こ、子供扱いしないでくださいよ!」
「その元気で頑張れ」
軽く笑いながら、だが鋭い眼差しから死神の姿を外すことはなく、私は再度自分の席に腰を下ろした。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時10分(168)
題名:進攻〜Penetration〜(第七章)

――英国、SIS本部内、7/29、現地時間24:30――

「……!」
無言且つ烈迫の気合いと共に放たれる正拳を、正面から受け止める。

――バチィッ!

辺りに響き渡る、気持ち良いくらいの快音。
「くっ……」
だが、そんな気味の良い音とは裏腹に、私の掌を凄まじい痺れが襲う。
間髪を入れず、再度迫り来るは、側頭部を狙った回し蹴り。
反射的に膝を曲げ、その下を潜る。
……と同時に、視界の下方隅で、社長の軸足が浮くのが見えた。
蹴りを放っていた方の足が、地に着くなり軸足へと変化し、立て続けに放たれるもう片方の足による蹴撃が、屈んだままの私の頭部を捉える。
「っ!」
咄嗟に眼前で腕をクロスし、その蹴りを防ぎつつ後方へと跳躍する。

――ガッ!

骨を打つような鈍い音を伴い、背面方向へと大きく蹴り飛ばされる。
だが、一瞬早く自ら後ろに跳び退いていたおかげで、衝撃は思ったほどではなかった。
床に足を踏ん張り、少し滑りながらも何とか体勢を立て直す。
「いった〜……腕がジンジンする……」
この蹴り……本気と書いてマジと読むってやつね。
初っぱなから全力とは、恐れ入ったわ。
何気なく、蹴りを受けた部分に目を向けてみる。
「うわ、真っ赤。さすが社長、まるで歳を感じさせない力ですね」
「……」
……無反応、か。
まったく……一体どうなってるってのよ。
社長がこんなとこにいることもそうだけど、なんで私に牙を剥いてくるのか、それが全然わからない。
だが、一つだけはっきりしてることがある。
それは、今私の眼前に佇む人物が、私にとってこの上ない障害であるということだ。
手を抜いて勝てる相手ではない。
こちらも本気でいかないと、逆に殺られる。
「……さぁ、今度はこっちから行きますよ!」
室内にて跳ね回る自分の声。
それが消える頃には、既に私の体は彼の直ぐ眼前。
「はっ!」
駆けた勢いそのままに、腰だめにした拳を真っ直ぐ叩き込む。
社長は、そんな私の正拳を正面から受けようとはせず、横からはたくように掌で緩やかに受け流す。
その流れで体を回転し、遠心力を加えた肘打ちが放たれる。
これは、受けるにはいささか重すぎる一撃。
そう判断し、私は先ほど同様膝を曲げて下に避ける。
直ぐ様腕を引き、アッパーの要領で顎を目掛け攻撃。
上体を反らしてかわされる……が、その程度は予想の範疇だ。
腕が伸びきる前に握っていた拳を開き、足を払いつつ開いた手で相手の頭部を握る。
体重をかけ、横倒しになりながら床に頭を叩き付け、そのままマウントポジションへ。
よし、いける。
……そう、思った瞬間だった。

――ガシュッ。

この部屋へ入ってきた時と同じ、扉の開く音が、左右から聞こえてきた。
「ちっ……」
私は反射的に、頭蓋を鷲掴みにしていた手を離した。
床を蹴り、高々と跳躍しながら、懐よりグロックを引き抜く。
素早く左右を確認。
左に三人と、右に二人。
グロックの銃口を左に向け、まるで反応している様子のない連中目掛けて、三度引き金を引く。

――ガガガン!

浮遊感が墜落感へと変わる頃、空中で体を捻り、今度は右側へと視線を向ける。
流石に、今度は相手も唖然としているばかりではなく、銃口をこちらへと向けようとしていた。
だが、遅い。
その行為が完了するより早く、私の指が引き金を引いていた。

――ガガンッ!

眉間を撃ち抜かれ、そのまま背面方向に倒れて動かなくなる体躯。
それを視界の端で確認しながら、今度は部屋の隅目掛けて射撃、そこにある監視カメラを破壊し、着地する。
顔を上げた先に見える社長の姿。
「っ!?」
その手に握られているものに、私の背筋を悪寒が走り抜ける。

――ダンッ!

瞬間、室内に響いたもう一つの銃声が、私の肩に激痛をもたらした。
「くぁっ……!」
悲痛な叫びは必死に押し殺し、グロックの照準を彼の手の中にあるベレッタへと合わせ、撃つ。

――ガキィン!

銃声とスチールを打つ硬い音が周囲に響き、その手からベレッタが弾き飛ばされる。
「っく……こっちが銃口を向ける前に撃つだなんて、社長らしからぬ不意討ちですね」
開く口からは軽口を。
しかしその実、傷が浅いものではないことは、わざわざ見ずともすぐにわかった。
ともすれば、苦痛に歪み、ノイズが混じりそうになる思考を必死に保つ。
「……」
だが、未だ無言。
無感動なその瞳が、冷たく無機的な眼差しで私を刺すのみ。
そして、直ぐに格闘体勢を取る。
やはり、私の言葉はまるで届いていないようだった。
ここで、私が取るべき選択肢は一つ。
右手に持つグロックの銃口を、眼前に立つ敵へと向け、引き金に掛かる指に力を込めること。
それは、O.L.として任務を遂行する上での義務。
だから、それを私が行うことは、至極当然且つ絶対的なこと。
にもかかわらず、指に力が入らない。
それは、一人の人間、明神水亜としての私が、その決断を認めていないからだ。
せめぎ合う理性と本能、私とO.L.の心の葛藤。
その末、私は、
「……さて、第二ラウンド開始といきましょうか?」
グロックをしまい、ファイティングポーズを取った。
それを合図に、社長の体が静から動へと転ずる。
刹那の内に詰まる距離。
数瞬の後にはもう、私の体はその射程範囲内だ。
顔を狙って突き出される拳を避け、腹部を穿たんとする打撃を、無傷な方の腕で受け止める。
しかし、その時には既に、先ほど撃ち抜かれた私の肩口へと、打撃が決まっていた。
「うぁっ……!!」
抑えきれない苦痛が、くぐもった悲鳴となって口から漏れた。
痛みに掻き乱される脳が、思考という行為を停止させる。
視界隅、微かに映り込む影。
その接近に対し、私は本能的に相手との距離を詰めた。
密着することによって、その殴打を防ぐと共に、今の私にとっては絶対的に不利である殴り合いの肉弾戦から、密接状態に持ち込み、関節を奪いにいく目的だ。
腕を取り、背後へと回り込む。
それを防ごうと、自身を回転させ、その勢いでもって取った腕が振りほどかれる。
それだけに終わらず、遠心力任せに放たれる肘打ちが見えた。
だが、この程度は予想の範囲内。
軽く身を屈めて肘を避けつつ、手刀の指先で喉元へと刺突を放つ。
だが、それも手首を掴まれ、後一寸足らずというところで届かない。
すかさず体をひねり、さっきの社長と同じように側頭部目掛けて肘を打つ。
「なっ!?」
思わず、そんな声が漏れた。
全身を前に持っていかれる感覚。
それが投げられる直前のものだと頭が理解する頃には、既に視界は天地が逆転していた。
このままでは、無防備のまま地に叩きつけられる。
この凄まじい勢いだ。
受け身を取らなければ、背を強打して意識を失うか、最低でもしばらくの間、満足に呼吸もできないだろう。
だからといって、受け身などと愚鈍な防御をしていては、掴まれた腕の関節をやられる。
反撃する機会は……今、この瞬間しかない!
投げられるまま、私は咄嗟に負傷した方の腕を伸ばし、相手の手を掴むことによって体を傾け、背中から直接落とされることを防ぐ。

――ダァン!

「ぐっ……」
床を叩く轟音を伴って、体の側面を激しい衝撃が走る。

――今だ!

腕を支点として床を思い切り蹴り、後転倒立の要領で足を伸ばす。
私の手首を掴んでいた腕に対し、逆に足を絡ませ、体重と力任せに引き倒した。
絡ませていた足をとき、直ぐ様馬乗りになって組み敷く。
何を考えるでもなく、ほとんど条件反射的に取り出した短刀を、その首にあてがった。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、私は今になって再度、改めて自分の目の前にある人物の姿を確認した。
口元にうっすらと生えた髭に、ところどころに少し白髪が見える髪の毛。
齢の程を感じさせない逞しい筋肉に、引き締まった口元。
何度見ても、それは紛れもなく、普段から見知った人物――高礼嘉治に間違いなかった。
違う点があるとすれば、その瞳の輝き。
元来その瞳に宿る力強い意志が、今はまるで感じられなかった。
「……今回は私の勝ちですね、社長」
そう言って、私は短刀を握った手に力を込める。
刃が肌に食い込み、皮膚の弾力を短刀越しに感じる。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時11分(169)
題名:進攻〜Penetration〜(第八章)

「……」
そうなっても、まだ社長は無言だった。
光の宿らない無機的な目で、冷たくこちらを見据えるのみ。
未だかつて、一度も見たことのない目。
それは、私にとって何より見たくないものだった。
こんな目が……こんな暗く澱んだ目が、私の見る社長の最後だなんて……っ!
「――っ!!」
そう思った瞬間、私の中で何かが爆ぜた。
昂る激情の赴くまま、私は手に持っていた短刀を投げ捨て、力なく横たわる社長の服の裾を掴み、乱暴に上体を持ち上げた。
「社長! 目を覚まして下さい!」
しんとした室内にこだまする、私の怒声。
「……」
だが、返事はない。
遠くから聞こえてくる、短刀と床のぶつかる甲高い金属音が、虚しく響く。
「なんで!? どうして!? 私は、貴方と戦いたくなんてない! 貴方を傷付けたくなんてない! こんな貴方を見たくない!!」
無抵抗な上体を前後に激しく揺すりながら、光の無い瞳を間近で直視する。
「いつもの社長に戻って……お願い……!」
これ以上、こんな社長の姿を見たくない。
そう思って瞼を閉じ、彼の胸に顔を埋める。
その隙間から絶えず溢れ出す涙が、頬を伝ってシャツを濡らしていく。
だが、いくら嘆いても、現実は変わらない。
社長が私の敵として現れ、立ち塞がっている。
これは紛うことなき事実だ。
私の双肩に重たくのし掛かる、日本という国の重さ。
それを、ただ一人の人物と天秤にかけるなど言語道断。

“O.L.として国家の安全を守るにあたり、私情に駆られ正しい判断を下せなくなる者に、その資格はない。”

こう私に教えてくれたのは、今私の目の前にいる人物に他ならない。
その教えに背くことは、国家への反逆行為である以上に、彼に対する裏切り。
私は決断せねばならない。
懐よりグロックを引き抜き、その銃弾で彼の命を奪うことを。
「……」
スーツの裾を握っていた手を放し、静かに上体を持ち上げる。
懐に手を差し込み、引き抜いたグロックの銃口を頭部に向けた。
「っく……うぅ……」
涙が止まらない。
嗚咽も止まらない。
今引き金を引けば、それだけで社長は■ぬ。
いとも容易く、絶命する。
その事実が、私の心をより一層締め付けた。
指が重い。
見ず知らずの連中に向かって引いた時は、あんなに軽かったというのに、今はこれほどまでに重い。
でも、やらなきゃ。
私のためにも、社長自身のためにも、私が……私がやらなきゃ……。
「……社長……ごめんなさい……!」
引き金にかける指に力を込める……刹那。
「……明神君」
不意に、私を呼ぶ声がした。
「えっ……」
閉じていた目を開ける。
涙で歪んだ視界に映る、私に組み敷かれたままの社長の姿。
幻聴?
一瞬、そんなことを考える。
「……社長?」
「……あぁ」
違う!
幻なんかじゃない!
「社長! 気が付いたんですね!? 良かった……!」
「あぁ、目は覚めたよ。……だから、とりあえず退いてくれないか?」
「あ……す、すみません」
私は、再度溢れ出した涙を指先で拭いながら、静かにその場に立ち上がった。
「まったく……酷い目にあったものだ」
遅れて立ち上がった社長が、スーツに着いた埃をポンポンとはたき落とす。
「……」
私はその姿を見ながら、言葉もなく立ち尽くしていた。
夢じゃない。
本当に、いつもの社長が立って、私の目の前にいる。
普段、当たり前のように目の当たりにしている事実。
それがいかに大切なことなのか、私は今、改めて知った気がする。

――良かった……本当に良かった……。

もう一度、私は目の端に浮かんだ涙を拭き取った。
「さて、と。じゃあとりあえず、何より先に、お前に言うことを言っておこうか」
「え?」
そう言って、社長は私の傍に歩み寄ってきた。

――パァン!

「……」
「……」
何が起きたのか、分からなかった。
その音が何なのか、社長は今何をしたのか、そして、私は今何をされたのかさえ、何もかも分からなかった。
あの音が平手打ちの音で、社長が私の頬を打ったということを理解したのは、痛覚の電気信号が脳へ到達してから、遅れること数秒。
その間、私はずっと黙ったままだった。
「……何故、私を殺すことを躊躇った?」
「……」
社長の問いに、返す言葉が見当たらない。
先ほどの状況下で、O.L.としての職務に忠実であるならば、迷うことなく引き金を引かなければならなかった。
先ほどと言いはしたが、それ以前にも殺す機会はあった。
社長に肩を撃ち抜かれながらも、そのベレッタを弾き飛ばした時、即座に射殺しようと思えばできた。
最初に足を払い、マウントを取りに行った時は、左右の扉からやってくる敵の気配があったからともかくとしても……いや、そんなのは言い訳か。
相手が社長でなければ、あの時マウントを取りに行く過程の最中、空いている方の手で短刀を引き抜き、その首を裂きつつ左右の敵に対応することくらい、躊躇なくできただろう。
何度となく殺せるタイミングはありながら、私はわざとそのことごとくを野放しにした。
その理由は一つ。
相手が彼だったからだ。
「……聞こえなかったか? ならもう一度問おう。何故、私を殺さなかった?」
「それは……」
だけど、言えない。
私の個人的理由で、殺したくなかったから、殺さなかった。
そんなこと、口が裂けたって言えやしない。
もし口にしようものなら、社長の教えに刃向かったことを、自らで暴露していることになってしまう。
「……」
「……」
気まずい沈黙の時間。
私は視線をうつ向かせ、押し黙ることしかできないでいた。
まるで、重い空気の塊が、私の頭部を押さえつけているかのようだ。
そんな折り、私は不意に、今朝絢音と交わした会話を思い出した。
電話を切る間際に聞こえてきた、私の名を呼ぶ儚げな声。
そこに含まれる不安の色に気付きながらも、私はそそくさと電話を切った。
その原因が何で、私に何を問わんとしているか、言外の内に悟れ、且つその答えを持っていなかったからだ。
「……絢音が、心配してましたよ」
自然と、何を考えるでもなく、私はそう口にしていた。
「何……?」
「社長は、特安理事会である以前に、絢音の祖父です。社長が■ねば、彼女が悲しみます」
「……つまり、お前は絢音を悲しませたくないが為に、日本の全国民を危機に晒したと、そういうことか?」
「……」
何も言えない。
自分でも分かっている。
日本の防人たる私が、何を置いても守らねばならない日本国民を危険に晒す。
これ以上ないほどに矛盾した思考。
私は……O.L.失格だ。
「……はい」
小さく、そう答えた。
「……そうか」
そこで言葉を区切ると、社長は懐からシガレットケースを取り出し、煙草を口にくわえた。
いつもなら、私が率先して火を差し出すところなのだが、今はそうもいかない。
そんな私の心情を察してか、社長はこちらの動きを待たず、自らの手で煙草に火をつけた。
吐かれた白い煙が、直ぐに空気中に霧散して消える。
「……なら、お前はここまでだ」
「えっ……」
「帰れ。後は私がやる」
社長の口から放たれる、冷たい言葉。
背筋を駆け抜ける、生まれてこの方感じたことのない寒気。
信頼を寄せる人から吐き捨てられる失望の言葉に、これほど心を深々と抉られるとは、今まで露と知らなかった。
「……返事は?」
「……」
何と返すべきか、思考を巡らせる。
しばしの後、辺りに漂う無言を裂くように、私は意を決して口を開いた。
「……お断りします」
「……何だと?」
「聞こえませんでしたか? お断りします。ここまできて、おめおめと帰る気は毛頭ありません」
私のはっきりとした拒絶の意思に、社長の眉間に寄る皺が深くなる。
だけど、ここで退くわけにはいかない。
「任務に私情を挟む奴に、O.L.の資格はない。況してやその負傷では、居ても足手まといなだけだ」
「今まで、この程度の傷で任務に支障をきたしたことはありません。自分の体のことは、私自身が一番良くわかっています。私はまだやれます」
「例えそうだとしてもだ。何度も言ってるが、個人的な事情で引き金を引けなくなるようでは……」
「問題ありません」
社長が全てを言い終えるより前に、その言葉を遮って私は断言した。
少しだけ間を置き、決意を改める。
次に放つ言葉を、真に為せるだけの心構えをする。
そして――
「……次は、躊躇いません」
真っ直ぐに社長を見据え、私ははっきりとそう言い切った。
「……」
煙草の煙をくゆらせながら、私の目を見つめ返す社長。
「……ダメだ」
しかし、それでも社長の答えは変わらなかった。
「ここは私に任せて、お前は帰って傷の手当てをしろ」
「社長、言ってることが矛盾してますよ。真に日本の為を思って行動するなら、私を頑なに帰そうとするより、ここは二手に分かれて進むのが最も効率的だと思いますが?」
「……」
今度は、社長が押し黙る番だった。
さっき、社長は私のことを足手まといなだけと言ったが、本心ではそんなことまるで思っていない。
むしろ、その逆。
肩を撃たれたくらいでは、私が任務を遂行するに差し当たり、大した障害にならないことを、社長は私の次に理解している。
にもかかわらず、頑として私を帰そうとするのは、私に対する怒り故か、それとも……。
「……いいだろう」
しばらく悩み込んでから、社長はどことなく重々しく、仕方ないといった口振りで私の提案に同意した。
「だが、決して無理はするな。退く時に退くことも、時には必要だからな」
「はい」
「よし。それじゃ……」
そこで言葉を切ると同時に私に背を向け、数歩歩いた所で腰を折った。
私が弾き飛ばしたベレッタを拾い上げ、私の方を振り向く。
「私はこちらから行こう。お前は向こうだ」
そう言って、社長は反対側の扉を指した。
「了解です」
「では、行くぞ」
「はい」
その会話を最後に、私も踵を返し、先ほど指差された先の扉へと歩みを向ける。
「……明神くん」
と、その扉の直ぐ手前まできたところで、唐突に聞こえてきた私の名を呼ぶ声に、足を止めた。
「はい、何でしょう?」
「……今から言う言葉は、O.L.としての私からの言葉ではない。高礼嘉治という一人の人間から、同じく明神水亜という一人の人間に向けての言葉だ」
そう最初に断りを入れ、少し間を置いてから、
「……ありがとう」
そう、一言だけ言い残し、社長は室内を後にした。

――社長……。

「……どういたしまして」
ぽつり、そう呟いてから、私も行動を開始した。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時11分(170)
題名:進攻〜Penetration〜(第九章)

――英国、スラッグ邸、7/29、現地時間24:40――

「ちっ……案外やるもんだな」
苦々しく呟きながら、スラッグは弾薬の尽きたショットガンに、新しい弾倉を装填する。
本来、ショットガンというものは、一射毎に銃身をスライドさせて排莢しなければならないのだが、今スラッグが使っているこのAA12という型番は、その限りではない。
アメリカ、MPSによって開発されたこの銃は、ショットガンでありながら連射が可能という非常 に珍しい銃だ。
従来のように銃筒内に装弾するのではなく、着脱式のドラムマガジンであることが、この連射を可能としている最大の特徴と言える。
イメージで言うなら、アサルトライフルの上部に、リボルバーの大きなものを取り付けたといった感じだろうか。
他にも、片手での射撃が可能な程の低反発性やメンテナンスの容易さなど、様々な利点がある。
だが、全長約1メートル、重量およそ5キロというサイズ面から見ると、携帯性には若干難があると言わざるを得ない。
また、片手での射撃が可能な低反発性と上記はしたが、これほどの大きさの銃器を、片手で扱える人間などそうはいない。
況してや、これを両手に持って自由自在に使いこなそうと思ったら、相当な筋力が必要とされるのは明らか。
そういう観点から見れば、スラッグの尋常ではない身体能力が伺い知れるだろう。
「紗弥ちゃんの撮影会準備の為にも、こいつらには速やかにご退場願いたいところなんだが……」
そう呟き、壁に身を隠したまま半分だけ顔を覗かせて、向こうの様子を伺う。
視界に動く人影は見えない。
だが、何者かの潜む気配と、肌をピリピリと刺す殺気が数人分、夜の闇の中で蠢いているのが肌で感じられる。

――流石にプロだな。あれだけ仲間をやられても、冷静な判断力を失っていない。

連中の正確な位置までは把握できないが、恐らくは家を挟んで反対側に、残るは4、5人といったところだろうと、スラッグは予想していた。

――このままにらめっこし続けても、埒があかねぇ。かといってこちらは単身。強襲するには不利だ。そうとなれば、あちらさんから先に動いてくれるとありがたいんだが……。

――バリンッ!

と、そんなことを考えていた折り、不意に窓の砕ける音が聞こえてきた。

――何だ?

近場の窓から、家の中の様子を覗き見る。
そこには、砕いた窓から室内に侵入を図る敵の姿があった。
一瞬、敵の狙いが何なのか、スラッグは把握できずにいたが、直ぐにその目的を悟った。

――奴ら、まさか俺を後回しにして先に紗弥ちゃんを!?

咄嗟に窓ガラス越しに狙い撃とうと試みる――が、
「くっ……!」
向かい側から向けられる二つの銃口が、スラッグを再度壁に隠れるよう強制した。
その直後、巻き上がる銃声とガラスの割れる甲高い破砕音。
隠れていなければ、今頃スラッグの頭部は弾け飛んでいたことだろう。

――くそっ……だが、そう易々と見つかるような場所じゃない。むしろ、戦力が分断されたと考えるべき……。

……そんなことを考えていた矢先だった。

――ゴゴゴゴォッ。

地鳴りと共に鈍い音が響いてきた。
その震源、音源どちらも家の中。
この事実が示す事柄は一つ。
今、猶予はなくなった。

――……。

スラッグの表情が消える。
焦燥、動揺、不安、その一切が消失した後、面に残るのはまるで能面を張り付けたかの如き無表情。
「……」
スラッグは無言のまま、まだ一度も撃っていないAA12の弾倉を取り外し、新しく別の弾を装填すると、静かに立ち上がった。
何の感情も湛えていない表情であるはずなのに、何故かその双眉は、怒りにつり上がっているように見えた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時16分(171)
題名:進攻〜Penetration〜(第十章)

――英国、スラッグ邸地下、7/29、現地時間24:35――

――カタカタカタ

「これで良し、と」
最後にエンターキーを叩き、私は背もたれに身を預けて一息ついた。
「んー……」
腕を組み、前方へと大きく伸ばす。
長いこと……とは言っても数時間程度だが、使われていなかった筋肉に、心地よい痺れ混じりの刺激が走る。
「……っと」
組んでいた腕をほどき、再びパソコンの画面へと視線を戻した。
マイコンピュータのプロパティから、ハードディスク内の容量を確かめる。
「おー、増えてる増えてる♪ さすが私、大成功ね」
徐々にだが確実に増加しているファイル容量。
今、私がやっているのは、相手のパソコンからデータを奪うという作業だ。
相手のどのパソコンにハッキングを仕掛けたところで、必ず例のブラクラ用パソコンに飛ばされてしまう。
そして、その接続を切ろうものなら、即座にパソコンがフリーズを起こしてしまう。
なら、そのブラクラ用パソコンを完全に乗っ取り、そのLAN接続を通じて別のパソコンにアクセスすればいいだけの話。
多分、こんなに短時間で完全に乗っ取るなんてこと、できるはずがないってたかをくくってたんだろうけど……あんまり私を甘く見ないで欲しいわ。
こちとら毎日、情報大国日本の国防省のパスワードの解読なんてやってるんだから、この程度は文字通り朝飯前、寝起き直後のボケた頭でも余裕よ。
なんて、余裕を見せ付けていた時だった。
「……あれ?」
ファイルの転送が止まった。
おかしいな。
全部のファイルを転送するまで、まだ時間がかかると思ったんだけど……。
「コードから電源切っちゃったのかな?」
とりあえず確認。
LANの接続先を探す。
ついさっきまで“接続中”とあったところが、いつの間にか“応答なし”へと変わっていた。
ありゃりゃ。
これは、多分本当に電源コード引っこ抜いたみたいね。
何かしら対抗しようとしてくれた方が、私としてはありがたかったんだけど……。
侵食の度合いから、もう制御を取り戻すことは無理と判断したんだろう。
好き放題いじられるくらいなら、いっそのこと壊してしまえってことか。
こうなっちゃあ、もうここからこれ以上の情報を抜き取るのは無理ね。
「なら、次は……」
マウスを動かし、他のLAN接続先を探す。
……だが、見つからない。
今までいくつもあったLAN接続が、全て切られていた。
どこからハッキングを仕掛けているか、一瞬で見抜かれちゃったか。
素早い判断だ。
これで、もうこれ以上のデータをここから抜き取ることはできない。
まぁ、得るべきデータとしてはこれで十分。
後は、この乗っ取ったパソコン内のデータを全消去して……っと。
「……はい、完了」
液晶画面に移る映像が、ようやく初期状態に戻る。
「それじゃ、本物の見取り図を見せてもらいましょうかね」
転送したファイルを開く。
そこに図示されている通路や部屋の配置は、さっきまで私が見ていたものとは明らかに違った。
「やっぱりね……ん?」
ふと、その見取り図のファイルの隣に、別のファイルがあるのが見えた。
だが、それはアイコンがポツリと存在しているだけで、何の名前も記されていない。
見たところ、普通のテキストファイルみたいだけど……。
「とりあえず開いてみよ……うわ……」
クリックするなり、画面内を埋め尽くす夥しい量の英文。
それは、中学生程度の語学力では、到底理解できないものだった。
「……後でボブに読んでもらおうっと」

――ピピピピッ、ピピピピッ!

「っ!?」
不意に鳴り響く電子音。
それが何によるものであるか、脳が理解するよりも遥かに早く、私の体が反応していた。
「姉さん!? 大丈夫ですか!?」
《うわぉ……ちょ、ちょっと紗弥……いきなしそんな大声出さないで……》
「あ……ご、ごめんなさい、つい……」
《オッケーオッケー。次からはそれくらいのトーンでよろしくね》
「了解です。それで姉さん、いきなり通信切ってから今まで、一体何してたんですか?」
《ちょっと手強い敵と交戦をね。でももう平気よ》
「そうでしたか……怪我とかしてませんか?」
《流石に無傷で楽勝とはいかなかったけど、まぁ大したことないわ》
そう口にする姉さんの口調はいつも通りで、本当に大した負傷を負ってはいないみたいだ。
「良かった……本当に良かったです……」
《そんなに心配してくれてたんだ? ありがとう、紗弥。でも、貴女が私の心配をするだなんて、ちぃ〜っと生意気じゃない?》
「そりゃ心配もしますよ。あんな轟音撒き散らしときながら、一方的に通信切っちゃうんですもん」
《訳ありだったんだからしょうがないじゃない。第一、この程度で一々不安がってたら身が持たないわよ?》
「姉さんが不安にさせるようなことするからダメなんですよ。もっと安心させて下さい」
《以後、尽力させていただきます》
他愛もない会話。
普段、いつもしているような言葉のやり取りに、これほど心休まる気持ちを抱いたのは初めてだった。
《さて、それじゃ改めて、制御室への案内をしてもらおうかな》
「了解です。えぇっと、今いる部屋からですと……姉さんがさっき入ってきた扉から見て、左手方向に……」

――ゴゴゴゴォッ。

「っ!?」
と、道案内を再開しようとした折り、耳に届いた地鳴りのような音と震動。

――コッコッ。

次いで聞こえてくるのは、数人分の靴音。
これが意味する事柄は一つ。
誰かが来た。
足音が複数であることを考えると、これがボブであるとは思えない。
となると、今ここに向かって歩みを進めている何者かは、必然的に敵となる。
《紗弥? 紗弥、どうしたの?》
「……」
耳元で、姉さんの私を呼ぶ声がする。
だけど、口が動かない。
何も喋れない。
まるで、全神経が麻痺してしまったかのようだ。
次に自分は何をすべきなのか。
それさえわからず、ただその場に留まり、階段の方へと視線を向けることしかできない。
こんな時、姉さんだったらどうするんだろう。
決まってる。
あんな連中、楽々返り討ちだ。
でも、それは姉さんだからこそできること。
非力な私に、そんな芸当は到底不可能だ。
なら、どうする?
逃げる?
出口は一つだ。
逃げられるはずがない。
隠れる?
周囲を見渡してみる。
こざっぱりとし部屋の中に、私が隠れられそうな場所は見当たらない。
これも無理だ。
どうしよう……どうしよう……!
頭の中が真っ白になる。
その間も、確実に近付いてくる足音。
再び階段の方へ目を向けた時、何者かの足が見えた。
次第に露わになっていく姿。
人数は二人。
どちらも真っ黒な衣服に身を包み、目元と口元にだけ穴の空いたマスクを被っている。
「……」
「……!」
目が合った。
トランシーバーのようなものを口元にあてがい、何やら喋っているようだが、何を言っているかはさっぱりわからなかった。。
《紗弥! 紗弥、返事をしなさい!》
耳元から聞こえてくる姉さんの声。
「あ……あ……」
だが、言葉が出てこない。
直ぐ眼前に迫る死を前に、恐怖で全身が固く強張る。
「……ラジャー」
最後、それだけがはっきりと言葉として聞こえた。
通信を切り、黒マスクの男がこちらへと向きを直す。
その姿が近づいてくるにつれ、私の中で明確に形作られていく死に対する恐怖心。
立たなきゃ。
逃げなきゃ。
そう、脳は理解しているというのに、腰が抜けて立つことすらできない。
私へと伸びてくる、途方もなく巨大で禍々しい黒い手。
それに対し、抗う術なんてない。
いや……来ないで……来ないで……!
助けて……助けて……姉さん……!
「っ!!」
覚悟、恐怖、諦観……入り混じる様々な負の想念に、反射的に固く目を閉じる。

――ダンッ! ダァンッ!

土を強く叩き付けたような、そんな音が二度響いた。
……だが、それだけ。
その後に続くのは、音のない静寂。
いや、実際には何かしら音はあるのかもしれないが、自分の鼓動の高鳴りのせいで、何も聞こえてこなかった。
ただただ静かに過ぎる時の中、覚悟していたような衝撃は一切ない。

――ポン

その代わり、私の頭部に乗せられる、大きな手を感じた。
「……」
恐る恐る目を開く。
その先に立っていたのは……
「紗弥ちゃん、怪我は……なさそうだね」
そう言って、柔らかい笑みを浮かべるボブだった。
「ボブ……」
薄れ行く恐怖心と、入れ違いに心を占めゆく安堵。
気付いた時、私は潤んだ瞳から溢れる涙を止められずにいた。
「うぅっ……ボブ……!」
「よしよし、怖かっただろう、紗弥ちゃん。でも、もう大丈夫だからね」
「うっ……ひっく……こ、子供扱い、しないでよぉ……」
今にも大声で泣き出しそうになる気持ちを押し殺し、必死の思いで強がる。
涙で滲んだ視界の端に、そんな私を見つめながら、困ったように頬をかくボブの顔が微かに映った。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時17分(172)
題名:進攻〜Penetration〜(第十一章)

――英国、SIS本部内、7/29、現地時間24:45――

「紗弥! 紗弥!?」
《……》
呼べども呼べども返事がない。
まさか、紗弥の身に何かあったのだろうか?
ボブがいるから、問題はないと思うけど……。

――ガガガガッ!

「……っと」
殺気と銃声に反応し、素早く壁に身を隠す。
自分以外に気を回してる余裕はないか。
人数は……三人ね。
反撃を試みたいところではあるけれど……この弾幕の激しさじゃ、少しばかり厳しい。
こりゃ強行突破より、迂回した方が早そうだ。
絶えず鳴り続ける銃声をしり目に、私は進路を変えて駆け出した。

――ウィィン。

ふと、耳に届いた機械の駆動音。
その方に目を向けてみれば、こちらへと銃身を向けつつある小型の機銃が見えた。
この自動機銃、ゲームとかだと適当に撃てば簡単に爆発するが、現実はそう単純ではない。
銃そのものをいくら撃ったところで、せいぜい銃身が曲がって命中精度を下げる程度が関の山。
本当に無力化するために狙うべきは、機銃と共にどこかに必ずあるカメラだ。
それが無ければ、撃つべき対象を見つけられなくなり、ただのハリボテと化す。
極稀にそんなカメラなどなく、音や熱にのみ反応して無差別に射撃を行うものもあるが……どうやら、これは前者のタイプのようだ。

――ガン!

カメラに銃弾を叩き込み、その機能を破壊する。
その間も足を止めることはせず、次の分岐路まで全力で駆ける。
「……」
顔を半分だけ覗かせ、通路の先の様子を伺う。
見たところ、特に何者かの気配は感じないけれど……。
《水亜、聞こえるか?》
「ボブ? 紗弥はどうしたの?」
《大丈夫だ。俺のすぐ傍で、ちょっと泣きじゃくってるがな》
どうやら大丈夫だったみたいね。
少し安心。
「紗弥みたいな女の子を泣かせるだなんて、紳士の名が泣くわよ」
《別に俺が泣かせた訳じゃねぇよ。それに、紗弥ちゃんを泣かせた不届きな輩は、この俺が紳士的にシメてやったから問題ない》
「……分かっちゃいると思うけど、紗弥の目の前で殺ってはいないでしょうね?」
《当たり前だろ。眠らせる程度に留めてあるさ》
「なら良いわ。あんたにしては上出来よ」
《偉そうなことほざきやがって……まぁいい。ここからは、紗弥ちゃんに代わって俺が……》

――ザザッ。

と、そこでボブの言葉が途切れ、急に耳障りなノイズが鼓膜を刺激し出した。
そして、それが消えた後に聞こえてきたのは、泣きじゃくっているはずの彼女の声だった。
《……姉さん、聞こえますか?》
「紗弥? 大丈夫なの?」
《はい。大丈夫です。ご心配おかけました》
よっぽど怖かったのだろう。
そう言う声の端々が、若干ではあるがまだ震えを残していた。
「なら良いんだけど……無理はしちゃダメよ? 何だったらボブに代わってもらっても……」
《嫌です!》
私が全てを言い終わるのを待たずに、紗弥は語気強く私の言葉を遮った。
《これは……私の役目です!》
強い口調でそう断言する。
まだ少し涙声ではあったものの、その声色に含まれる意思の強さは、頼もしささえ感じる程だった。
結構気丈じゃない。
今から将来が楽しみだわ。
「それじゃ、引き続き案内を頼もうかしら」
《はい。例の制御室ですが、今姉さんがいる場所からですと……左折して突き当たりを左に行って下さい。そうしたら縦に長い開けた空間に出るので、そこを右に曲がってもらえれば、後は道なりです》
「了解」
《あ、それと……》
「ん? 何か分かったの?」
《はい。どうやらそこから直接、生物兵器の施設に行けるみたいです》
「どういうこと?」
《SIS本部の地下が、生物兵器施設と繋がっているんです。制御室の隣の部屋から、長い通路一本で行けるみたいなんですが……》
「どうかしたの?」
《繋がっていることは確かなんですけど、その生物兵器施設の見取り図がなくて、どういった構造をしてるかがさっぱり分からないんです》
「……」
……妙ね。
SIS本部と生物兵器の研究施設が繋がっているというのもだけれど、その見取り図がないというのが更に引っ掛かる。
普通に考えて、直接通路で連絡されているなら、その先の見取り図もあって然るべきだ。
……罠、か?
だとしても関係ない。
ここまでくれば、取るべき手段は一つ。
正面から打ち破るのみ。
こざかしい罠など、私には通用しないということを、身を以て知らしめてあげるわ。
「わかったわ、ありがと」
《はい……あ、姉さん》
「ん?」
《……気をつけて》
「任せなさいって」
それを最後に、一旦通信を切る。
さて、とりあえず、先ずは何より先に、制御室へと向かうとしましょうか。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時17分(173)
題名:進攻〜Penetration〜(第十二章)

――英国、SIS本部内、7/29、現地時間24:50――

――ガンガンッ!

「がぁっ!」
「あぐっ!」
濁った悲鳴を上げて倒れる連中をよそに、私は通路を駆けた。
この施設の内部構造がどうなっているのか、おおよそは頭に入っている。
次の曲がり角を右に曲がった先に、扉があるはず……。
「……」
分岐路の手前で足を止め、顔を覗かせて先の様子を伺う。
目につく限り、特に警備の類いは見当たらなかった。
素早く通路を駆け抜け、その扉の元へと走り寄る。
ドアノブやバルブのような取っ手はなく、その代わりにすぐ横に設置されたカードリーダーが目に止まった。
どうやら、従業員用のカードキーが必要らしい。
懐から、マンチェスターの施設内で拾った、あの従業員カードを取り出す。
使えるかどうかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。
もし使えないようなら、その時はその時。
次は手榴弾なりなんなりを使って、この扉の破壊を試みればいい。

――ピッ、ガシャッ。

だが、そんな私の危惧をよそに、その扉は難なく開け放たれた。
扉の先にあったのは奇妙な部屋。
前方には扉が2つあり、左手のものには直前の床に“IN”と、そして右手側のものには“OUT”と書かれていた。
右の壁には小さなモニターが取り付けられており、反対側には数着の真っ白な防護服が掛けられている。
モニターの近くへ歩み寄り、液晶を覗き込んだ。
そこには、どこかの部屋の様子が絶えず映されており、その下には赤字で“G.M.隔離室へ入室する者は、入退出時に必ず滅菌を行うこと!”と書かれていた。
典型的な消毒部屋だ。
ウィルスや病原体の研究施設には必ずと言っていいほどあるものだが、生物兵器関連の施設で見かけることも、そう珍しくはない。
しかし、普通こういう部屋は、何らかの生物学的危機、バイオハザードが起こり得る危険性のある場所の直前にあるもの。
施設そのものへの入退出時に、欠かさず滅菌行為をせねばならないというのは初めてだ。
……それだけ危険ということか?
そう考えながら、私は後ろに視線を送った。
そこにあるのは、入室時にも見た数着の防護服。
正確には三着、それら全てが壁の定位置に掛けられている。
G.M.という略称が何を指し示しているのかは分からないが、生物兵器のジャンルの一つであることはまず間違いない。
しかし、そこまでシェアの広い研究内容ではないのだろう。
もしそうでなければ、常に用意されている防護服が三着だけというのは、あまりに数が少ない。
この程度、危険視するに値しない。
むしろ、こんなものを着て動きが鈍くなる方が、よっぽど危険だ。
私は防護服になど目もくれず、真っ直ぐに“IN”と書かれている方の扉を潜った。
中は狭い密閉空間になっており、四方に滅菌用ガスの噴出口と思しき穴が空いていた。
前方には扉が左右に2つあり、それぞれの図上には“研究施設”“G.M.隔離室”と書かれた、横長のステッカーが貼られている。
右側の扉がG.M.隔離室へ、左側の扉が研究施設内へと続いているようだ。
G.M.というものが何かは気になるが、防護服の着用が義務付けられているような危険な場所に、迂闊に踏み込むわけにはいくまい。
私は迷うことなく左側の扉へと歩みを向けた。
ガシャッという自動扉の開く音の向こう側に続く空間は、薄暗く狭い通路だった。
曲がりながら奥へと伸びているそこは、どことなく不気味さを覚えた。
脳が、全身の細胞へと電気信号を発する。
臨戦態勢を整えろ、と。
ホルスターからベレッタを引き抜き、引き金に指をかけた状態でだらりと腕を垂らす。
周囲へと向ける視線と警戒を怠ることなく、私は静かにその通路を進んだ。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時18分(174)
題名:進攻〜Penetration〜(第十三章)

――英国、SIS本部制御室、7/29、現地時間01:00――

「……」
監視カメラの映し出す映像を見つめながら、私は押し黙っていた。
「長官……」
「……ち、長官」
周りから聞こえてくる部下達の声。
その声に宿る不安の色が、彼らのどのような思いからきているのか、わからぬはずはない。
今、私が取るべき選択肢は一つだ。
「……お前達は、今のうちにここを去れ」
「なっ……長官! 何をおっしゃるんですか!」
「そうですよ! 長官を一人残して行けだなんて、そんなことできません!」
「私達も、長官と共に残ります!」
口々に私へと掛けられる抵抗の声。
だが、SIS長官として、それを許可するわけにはいかない。
「駄目だ! 今すぐここを離れろ! お前達のような非戦闘員は、居ても足手まといなだけだ!」
「ち、長官……」
冷たく突き放した私の言葉に、部下達が返す言葉を失う。
だが、これは事実でもある。
死神の進路を見る限り、奴はここに向かっている。
残った戦闘員が対抗してはいるものの、あの化物相手にいつまで堪えられるか……。
いずれ、奴はこの場所にたどり着く。
その時、ここに残っていた人間は、一人残らず殺されるだろう。
部下の命を無駄に危険に晒すことは、上に立つ者として決して許されることではない。
「……そ、それでも、私は残ります……!」
「俺もだ! いくら死神って言ったって所詮一人の人間! 返り討ちにしてやればいいんですよ!」
「そうだ! あんな奴、俺たちで……」
「いい加減にしろ!!」

――ダァン!!

思い切り机を叩きながら、私は未だかつてないほどに声を荒げた。
『っ!?』
一人の例外もなく息をのみ、驚きの表情でこちらを見つめる部下達に向かって、私は静かに口を開いた
「相手はあの死神だ。血の滲むような訓練を行った武装戦闘員を、いとも容易く蹴散らす化物を、お前達でどうにかできると言うのか?」
「で、ですが……」
「全員、今すぐここを去れ。命令だ」
『……』
耳をつんざくような無音の空間。
重苦しい沈黙の中、うつ向いたまま押し黙り、しかし誰もまだ私に背を向けようとはしない。
そんな中、一人の部下がポツリと呟いた。
「……長官も、一緒にきて下さい」
「それはできない」
「何故ですか!」
「私は長官だ。部下が命を落とす中、逃げ出すわけにはいかない」
「それだって無駄死にと何ら変わりありません! 長官みたいな人が、こんな……」

――ガガガガッ!

『っ!』
不意に聞こえてきたくぐもった銃声に、全員が扉の方へと視線を送った。
どうやら、もう時間切れは近いらしい。
「……お前達の気持ちはわかった。その気持ちはありがたいし、私は本当に良い部下を持ったと思っている。だが、もしお前達が私のことを本当に思ってくれているのなら、私のために無為に命を散らすことはしないでくれ」
そう言って、私は一人一人全員の姿を見つめた。
もう見ることは叶わないであろう、仲間の顔を瞳の奥に焼き付ける。
「うっ……っく……ち、長官……すいません……すいません……!」
「気に病むな。お前は良くやってくれた。これからは、国の為ではなく自分の幸せの為に生きろ」
涙ぐむ部下の傍へと歩み寄り、その肩をポンと軽く叩きながら、固くその手を握り締める。
「長官……今まで、本当にありがとうございました……!」
「あぁ、こちらこそありがとう。今までご苦労だったな」
「長官……さよならは言いませんよ……また……またどこかで……」
「そうだな。もし会えたなら、酒でも奢ってやろう」
握手と共に、一人一人と別れの言葉を交わす。
そして最後、こちらに向かって深く礼をする部下達に、私は軽く手を挙げて応え、その背を見送った。

――ガシュッ。

ちょうどそれと入れ違いに、背側から扉の開く音が聞こえてきた。
ゆっくりと、その方を振り返る。
ガラス張りの向こうに見える、青々とした緩やかな長髪を揺らしながら、こちらへと歩み寄る死神の姿。
どうやらタイムアップのようだ。
「ふ〜ん。ここがSISの制御室か。さすがに精密機械の塊みたいな部屋ね」
「ようこそ、SIS本部制御室へ、青き死神」
その歩みが止まるのを待って、私は奴の方へと向きを直した。
「その呼び方は止めてもらえない? 私にだって、明神水亜っていう名前があるんだから」
「そうか。では、改めてSIS本部制御室へようこそ、明神水亜」
「どうも。それにしても、出迎えが貴方一人とはね。他の職員はどうしたのかしら?」
「生憎と全員出払っていてね」
「へぇ〜……まぁ、出払ってるなら仕方ないわね。出迎えの少なさは勘弁してあげるわ」
そう言って、死神は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、周囲を見渡した。
まるで、今さっきまでここで何があったのか、全てお見通しと言わんばかりの態度だ。
いや、恐らく奴も、粗方想像は付いているのだろう。
そしてその想像は、多分当たっている。
「さて、出会って直ぐで悪いんだけど、今は悠長に会話を楽しんでいられない状況なの。ってことで、早速だけど……」

――カチャッ。

「死んでもらえるかしら?」
「……」
額へと向けられる銃口。
まだ撃たれてもいないのに、撃たれた時のことを想像してか、眉間にむず痒い奇妙な感覚を覚えた。
「……あぁ。構わんよ」
「あら、随分と潔いわね。抵抗はしないの?」
「抵抗したところで、私ではお前には敵うまい。見苦しい悪あがきになるだけだ。それに……」
「それに?」

――あいつらは逃がすことが出来たんだ。もう心残りはないさ。

「……いや、何でもない」
口にしかけた言葉を呑み込み、心の奥底へとしまい込む。
「……今から殺されるってのに笑いが溢れるだなんて、おかしな人ね、貴方」
言われて初めて気付く。
自分の口元に浮かんでいる、この状況にそぐわない笑みに。
「……それもそうだな。私もそう思うよ」
確かに、奴の言う通りだ。
今から死ぬと言うのに、不思議と心は平穏そのものだった。
若い時分、戦場に身を置いていた時は、隣り合わせの死に恐怖を抱かなかったことなどなかったというのに、今はまるで恐ろしさを感じない。
今にも私を殺さんとしている銃口を見ても、何も感じない。
この感覚は、言葉では何とも表現し難い。
だが……悪くない。
こんな最期こそ、私が望んでいたものなのかもしれないな。
そんなことさえ考える。
「まぁ、どうでもいいわ、そんなこと。それじゃ……」
改めて、銃口が額へと向けられる。
私は静かに目を閉じた。
暗転する視界の中、色々なことを思い出す。
人は死に瀕した時、人生を走馬灯として振り返ると言うが、どうやら本当のことらしい。
若かりし頃の、戦場を駆けていた日々のこと。
その合間合間にあった、戦友との安らぎの一時のこと。
そして、SIS長官として、多くの仲間過ごした日々のこと。
どれも色褪せることない、充実した時間だった。
こんな生を送ることができた私は、きっと幸福者だったんだろう。
さて、こんな思考に身を委ねていられるのもそろそろ終わりだ。
皆……達者で生きろよ……。
「……さよなら」

――パァン!

月夜 2010年07月10日 (土) 00時19分(175)
題名:進攻〜Penetration〜(第十四章)

――英国、某所、7/29、現地時間01:00――

「……」

――バカ言ってんじゃねぇよ。お前が死んだら、俺は仕事なくなってクビ確実になっちまうじゃねぇか。んなの冗談じゃねぇ。

脳内でリピートされる、ぶっきらぼうな彼の声。
それは、愛想の欠片もなかったけれど、私の心の奥底まで染み入る、優しさに満ちた言葉。
失敗作の烙印を押された私のような存在が、誰かにこんな暖かい言葉をかけてもらえる日がくるだなんて、その時が来るまで想像だにしていなかった。
彼は私にとって、暗く深い絶望に満ちた暗黒色の心に射す目映い光。
私が私として存在するために、欠かすことのできないかけがえのない人。
「……」
視線を横にずらす。
モニター越しに見える映像には、そんな彼の姿が映っていた。
椅子に座したまま俯いているせいで、その表情は伺えない。
しかし、両の手足を縛られているという事実が、彼の今の状況を何より雄弁に物語っていた。
「……」
そんな彼を見る度、胸の奥からふつふつと沸き上がるのは、かつて味わったことのないほどの不安と……これは、何だろう?
胸がきゅっと締め付けられているような感覚……痛くて苦しくて、不安や恐怖に似てるんだけど、それでは説明できない破壊欲のようなものも、同時に感じる。
今までに覚えたことのない気持ちだ。
だけど、私はこの感情の名を知っている。
そう。
これは、人々が怒りと呼んでいるものだ。
だけど、何でだろう。
ただの実験動物、それも失敗作である私には、死に対して日々怯えることこそあれ、それに怒りを覚えることなんて一度もなかった。
なら、どうして私は、この感情の名を知っているんだろう。
少なくとも、ここにきてからの私は、怒りを抱いたことはない。
かといって、ここに来る前ならあるのかと問われれば、それもない。
そもそも、ここに来る前の記憶すらないのだから。
でも、そう考えるのなら、一体私はいつからここにいるのだろう?
生まれた瞬間から?
……多分、そうだと思う。
こうなる以前の記憶がないのだから、そう考えるのが一番自然だ。
だけど、それなら何故私は、この怒りという感情を知っているのか。
それだけじゃない。
この前、ガルさんが私のところへ来なかった日に感じた違和感。
両者の思考に通じるのは、昔の私。
果たして、私には本当に、昔の私なんていうものがあるのだろうか……。
「……」
……なんてこと、今は考えている場合じゃない。
今の私にできることは、彼を助けるため、その障害を全力で排除することだけ。
いずれここを訪れるであろう、死神と呼ばれる何者か。
その正体も実力の程も、私は何一つとして知らない。
だけど、負けるわけにはいかない。
彼の為にも、そして私自身の為にも、絶対に負けられないんだ。
「……」
来るべき時に備え、私は心身を落ち着かせるべく、静かに瞳を閉じた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時19分(176)
題名:進攻〜Penetration〜(第十五章)

――英国、SIS本部制御室、7/29、現地時間01:10――

――ガシャッ。

新しい弾倉を叩き込み、薬室に薬莢を送る。
「……さて、それじゃ、先に進もうかしらね」
誰に言うともなくそう呟き、私はグロックを懐にしまいながら踵を返した。
「……待て」
そんな私を呼び止める声に、その場に足を止めて背後を振り返る。
そこには、険しい目付きでこちらを見据えるSIS長官、レグリスの姿があった。
「何か?」
「……何故殺さない?」
「あら? 私はしっかり殺したわよ。貴方に銃口を向けて、引き金を引いたじゃない」
「引き金を引いたところで、弾が出なければ意味がないだろう」
「それは貴方が幸運だったってことよ」
「ふざけるな。お前ほどの手練れが、残弾数を把握していないはずがない」
「グロックって装弾数が多くてね。たまに分からなくなるのよ」
「なら、今一度撃てばいいだろう」
こちらを睨む鋭い視線。
その瞳の奥に見える怒りは、みすみす見逃され、自尊心を傷つけられたことによるものなのか、あるいは……。
「何? 貴方、死にたがりなの? そんなに死にたいなら、勝手に死になさい。私は関係ないわ」
「……戦場で遭遇した敵側の長官に対し、お前は手心を加えるというのか?」
「さっきも言ったでしょ? 私はさっき貴方を殺した。SIS長官のレグリスっていう男は、今さっき私に殺されたの。だから、私は貴方なんて知らないわ。死神だなんだって呼ばれてるけど、見ず知らずの無抵抗な人間を無差別に殺す程、残酷じゃない」
「……」
「話はもう良いかしら? 私、忙しいからもう行くわよ」
「……好きにしろ」
「えぇ、そうさせてもらうわ。それじゃあね」
私は後ろ手に手を振りながら、その場を後にした。
最初、ここに来るまでに私の行く手を阻んだ連中同様、彼も殺すつもりだった。
それは、グロックを取り出し、銃口を彼に突き付けたその時まで変わらなかった。
だが、そんな状況下に置かれながら、彼は笑っていた。
死に瀕しながら笑っている人間を、今までに見たことがないわけじゃない。
だが、そのほとんどが自暴自棄な笑いや諦観の念に満ちた陰鬱とした笑み、あるいは正気を失って壊れた狂気の高笑いだった。
しかし、彼の浮かべた笑みは、そのどれとも異なっていた。
優しくて暖かく、そしてどこか満足気な微笑み。
為すべきことを為し、守るべきものを守った者のみ浮かべることのできる、慈愛に満ちた微笑。
それが、私の引き金にかけた指を止めた。
結局、私は撃つ直前、彼が瞳を閉じている間に薬室から弾を抜き出し、そのまま空撃ちをしたのだった。
その弾薬は、未だに私の左手の中にある。
何気なく上に放り投げ、落ちてくるそれをキャッチする。
この一発の銃弾は、人一人の命の重さと等しい。
そう考えると、人の命の何と軽いことか。
だけど……いや、だからこそ、軽々しく命を奪いたくない。
生殺与奪の自由が私にあるなら、本当は誰一人と殺したくなんてない。
……過去の私が犯した罪。
それが赦されないものであることは、今の私が誰より理解している。
理解した上で、尚私は人を殺している。
しかし、それは自分の為じゃない。
彼同様、守るべきものを守る為の戦い。
だからといって、殺人が許されるだなんて思ってはいない。
人を殺める度、私の双肩に積み重なる罪。
それは、私が誰かの代わりに背負う業なのだ。
自己犠牲の念に陶酔した、英雄気取りの自己満足と後ろ指を指されても、否定はしない。
私自身、そんな思いが全く無いわけじゃないから。
結局のところ、これが正しいと断言できる、唯一無二の答えなんて、初めからないんだ。
私という存在そのものさえ呑み込んでしまいそうな闇の中、迷い苦しみながらも光を求めて進む。
それしか、できることはないんだから。
《姉さん、聞こえますか》
「えぇ、聞こえるわ」
退廃とした思考に歯止めをつけ、紗弥の声に意識を傾ける。
《今、姉さんの目の前にあるその扉が、例の生物兵器施設に繋がっているものです》
「そうみたいね」
目の前の扉を見上げる。
ここに来るまでに見かけた扉と、特にこれといった違いは見当たらない。
その直ぐ隣には、パスコードを入力するための機械が見える。
どうやら、正しいパスを打ち込まないと、扉が開かないという仕組みのようだ。
「パスワード式の扉みたいね。でも、装甲はそんなに厚くないみたいだし、強行突破できなくもない……」
《大丈夫ですよ。そこのパスワードも、ちゃんと調査済みです》
「おぉ〜、やるじゃない紗弥。泣きながらもちゃんと良い仕事するわね」
《な、泣いてなんていないですよ! ただ、ちょっとびっくりしただけです!》
「はいはい、帰ったらちゃんと良い子良い子してあげるから」
《こ、子ども扱いしないで下さい!》
「あはは、それだけ怒る元気があれば大丈夫そうね。それで、パスワードって?」
《えっと……“G.M.DOMINY”です》
「G.M.DOMINY……」
DOMINY……ドミニィってのは、確かあの女の名前よね。
でも、何であの女の名前がパスワードに?
それに、名前の前についてるG.M.……何を示してるんだろう?

――ガシャッ。

などということを考えている内に、扉が開いた。
《姉さん、どうです? 開きました?》
「えぇ、バッチリよ」
答えながら、扉の奥を見据える。
薄暗く長い廊下が続いているようだ。
警備の類は特に見付からないが……警戒するにこしたことはないだろう。
「さて、それじゃ、貴女の役目はここまでよ。ご苦労様、紗弥」
《えっ!?》
紗弥がすっとんきょうな声を上げる。
私の仕事がここまでだなんて、夢にも思っていなかったと言わんばかりの驚き方だ。
「何をそんなに驚いているの? 貴女の役目は私のガイド。でも、ここから先の情報はないんでしょう? なら、ガイドのしようがないじゃない」
《そ、それは……そうですけど……》
「それに、大きな物音一つで簡単に動揺しちゃうようじゃ、通信繋いでてもお互いに不利益しかないわ」
《……》
紗弥が黙り込む。
うつ向き加減に目を伏せ、力なく肩を落としている姿が、まるで目に浮かぶようだ。
「紗弥、貴女は良くやってくれたわ。ここまでしっかり私を導いてくれた。だから、ここから先は私を信じて、私に任せてくれないかしら?」
《……わかりました》
「そんな不安そうにしないの。大丈夫だって。この私が、あの程度の輩にやられるわけないんだから。そんな心配してる暇があったら、そのパソコンの中に入ってるテトリスの練習でもしてなさい。次はそれで勝負よ」
《……良いんですか? 私、これ以上強くなっちゃったら、姉さんの勝ち目が万に一つもなくなっちゃいますよ?》
「言ってくれるじゃない。その時は、私の真の力を見せてあげるわ」
《ふふっ、楽しみにしてます。それじゃ、姉さん……》
「ん?」
《……必ず……帰ってきて下さいね》
「えぇ」

――ピッ。

短い電子音を境に、通信が切断される。
さて、ここから先が本番ってわけね。
「鬼が出るか蛇が出るか……精々楽しませてもらいましょうか」
引き抜いたグロックの引き金に指を掛け、私は静かに扉の奥へと歩みを進めた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時20分(177)
題名:進攻〜Penetration〜(あとがき)




(月´・ω・`)「そういや、今回めがっさ時間掛かっちゃったな〜。前回更新したのって、いつだったっけ?」







――ピッ







“2009-12-05”







(月´・ω・`)







(月´⊃ω⊂`)ゴシゴシ







(月´◎Д◎)クワッ!







2009-12-05







(月´◎Д◎)「……」







(月´゜Д゜)「……う」







(月´゜Д゜)「ウソダドンドコドーン!!」





















本当でした
(そりゃそうだ)















゜。゜(つ∀`)ノ゜。゜















というわけで、本当にすいませんでした(´・ω・`)
まさかこんなにも長い間更新滞ってたとは、夢にも思わなかった私です。
新世界と2つ掛け持ちで交代交代に回してるとは言え、できれば3ヶ月以内には更新したいところですね、ホント(・ω・;)

ちなみに筆者にコンピューター関連の知識はあまりないので、紗弥ちゃんが活躍してる所での文章は、ぶっちゃけ適度に適当です。
なので、あんまり突っつかないでくれると助かりまs(ry

ま、ようやくOLも次回で最終回(の予定)
謎は全て解決するのか!?
社長と水亜、二人の行く先には何があるのか!?
失敗作の烙印を押された憐れな命は、かけがえのない大切な者を守れるのか!?
そして水亜とドミニィ、二人が再び対峙する時、何が起きるのか!?

それは、書いてみるまで作者もわからない!

……結構見切り発車の多い私です(´・ω・`)


さてさて、実のないあとがきはこの辺で終わりにして、私は次回作へ筆を移すとしましょうか。
今作に対する感想等ございましたら、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」まで、ドシドシ書き込み下さいな♪
ここまでは、自動車教習中に

「君、ブレーキ嫌いなの? 死ぬよ?」

と言われた私、月夜がお送りしました。



















(月´゜Д゜)「漢なら常にアクセル全開でレッツゴージャスティーン!!

月夜 2010年07月10日 (土) 00時22分(178)


Number
Pass

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