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O.L.作品置き場

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タイトル:発端〜The Biggining〜 アクション

――とある事件をきっかけに浮かび上がる巨悪の影に、最強のO.L.こと明神水亜が立ち上がる。しかし、普段単独行動しかしない彼女に、此度は同行者が付くという異例な事態が起きる。果たして、その同行者の正体とは!? そして、その目的とは!? O.L.シリーズ長編第一作目は、初回から波乱の幕開け!

月夜 2010年07月09日 (金) 22時20分(77)
 
題名:発端〜The Biggining〜(第一章)

「フンフンフーン♪」
部屋に鳴り響くのは、キーボードを打つカタカタという音と、その主のご機嫌そうな鼻歌。
パソコンの画面中央には“認証”という文字が、緑の枠に囲まれて浮かんでいた。
「よしよし、今日も鮮やかに防壁突破っと。毎日毎日、大して難しくもない暗証コードの変更、ご苦労様です。私ってば天才じゃない?」
などと、本当にろくでもない独り言を言っているのは、現内閣総理大臣、咸枷大善の一人娘、咸枷紗弥嬢だ。
今までは物静かで大人しく、気の弱い虚弱な少女という絵に描いたようなお嬢様だった彼女だが、前回の一件以来、水亜に対してただならぬ想いを抱いたようで、性格が一変。
彼女のように明るくポジティブで行動的な女性になろうと、日々努力しているとのことだ。
父親である大善は、そんな娘の健気な姿に満足気だそうだが、家政婦の面々はその激しい変貌振りに未だ戸惑いを拭い切れていないらしい。
そして今は、夜の彼女にとって最大のお楽しみ、ハッキングタイムの真っ最だ。
総理の娘が何をやってるんだと思うかもしれないが、まさにその通りである。
しかし彼女曰く、原則決められた場所で決められたことしか出来ない渇ききった毎日に、背徳的潤いを与える大切な時間だそうな。
問題のハッキング先なのだが、最初は簡単な、例えば学校のパソコンの他生徒のID程度のものだったのだが、最近その技量の上達と共にハッキング先も性質が悪くなる一方で、今では国防省や財務省等の日本の中枢機関にまで侵入するようになってきている。
中学生如きに突破される政府各省庁がだらしないのか、それともそれを可能にしてしまう彼女の才能を賞賛すべきか。
どちらにせよ、せめてもの救いは、彼女が内閣総理大臣の娘であることだ。
一般家庭の女子中学生が、政府の最高機密を握っているとなれば、それこそ大問題である。
まぁ、だからといって内閣総理大臣の娘であれば良いということでもないのだが。
「さてさて、今日は何か新しい情報、入ってるかな〜?」
ウキウキ気分で画面をスクロールさせていく……と、不意にその動きが止まった。
「あ、これ……」
カーソルの示す場所には一つのファイルがあり、その左側に“New File”と書かれてあった。
名目の欄には“O.L. 明神水亜”とある。
「姉さん、また任務を言い渡されたんだ……」
複雑な気分だった。
自分の知り合い、それも尊敬する慕い人が活躍するのは、まるで自分のことのように嬉しくて、胸が高鳴る。
その反面、そんな人が命の危険に晒されるようなことになるのは、やっぱり心安いものではない。
自分が安穏と暮らしている今も、彼女は一人、自分達のために命をかけて戦っているのかと思うと、彼女を応援する気持ち以上に、何もできない自分自身がやりきれなくてたまらなくなってしまう。

――一緒について行きたい……。

いつからか、そんな気持ちが芽生えるようになった。

彼女に一緒についていって……何ができるというわけではないけど、その苦しみを分かち合いたい。
心の底からそう思った。
でも、それは決して叶わぬ願い。
付いて行ったところで、足手まといにしかならない自分では、決して……。
「……」
そんな思いを胸に、紗弥はマウスをクリックした。
次の瞬間、画面を埋め尽くした文字の羅列。
その内容に目を通していくに従って、どこか悲しげだった紗弥の瞳に輝きが取り戻されていく。
少し伏し目がちだった顔は持ち上がり、その眼差しは何かに取り付かれたように液晶を見つめていた。
ふと我に帰ると、私の手はいつの間にかマウスを握っていて、閲覧していたファイルのとある部分にまでアイコンを動かしていた。
範囲化した部分を右クリック、編集を選んだところで、
「……」
その指が止まった。
脳内でせめぎあう、善の理性と悪の欲求。
分かっている。
これは、間違いなく犯罪だ。
しかも、国防省のデータベースに忍び込み、そのデータを改算するなんて、下手をすれば死刑並の重犯罪だろう。
いくら自分が、内閣総理大臣の娘とはいえども、だ。
紗弥の脳裏に描かれる、自分の理想とする結果。
それを導く手段は、今この手に揃っている。
しかし、それを実行に移すことは、絶対にしてはいけないこと。
日本という国に生きる一人の国民として、絶対に。

でも、それでも……。

――カタン。

キーボードを叩く乾いた音。
範囲化されていた部分が、刹那の内に消去される。
そこからは、自分でも驚く程素早く指が動いた。
消去した部分に、数値だけを変えた偽の情報を打ち込む。
以前の最終更新日時をコピーペーストし、ファイルを更新。
直ぐ様、そのファイルの編集ページを開く。
最終更新日に先ほどコピーした情報を上書きし、ここを訪れた痕跡を消去した。
これで作業は終了。
私がデータをいじくったことはもちろん、私がここを訪れたという事実すら闇の中だ。
平衡感覚を失ったかのように、グラグラと揺れる視界。
様々な思念が頭の中で渦を巻き、脳髄が痺れたような不思議な虚脱感と倦怠感。
まるで、自分の体なのに自分のものじゃないかのような感覚に、私はしばらくの間、ただ黙って液晶を見つめていた。

――コンコン。

「!!?」
と、不意に背後で鳴ったノックの音に、紗弥はビクンと大きく身を震わせた。
反射的に右上の×印をクリックして、開いていたファイルを閉じる。
「な、なにー!?」
次いで、扉の向こうにいるであろう誰か、おそらく家政婦の一人に向かって、必要以上に大きな声で問いかける。
「お嬢様、お風呂が湧きましたので、お呼びに上がったのですけれど……どうかなされましたか?」
家政婦の人が、訝しげな口調で尋ねる。
あんな声で問いかけられたのだから、これは至極普通の反応と言えるだろう。
「な、なんでもない! すぐ行くよっ!」

月夜 2010年07月09日 (金) 22時22分(78)
題名:発端〜The Biggining〜(第二章)

「そ、そうですか? わ、わかりました……」
未だ動揺の消えぬ声色で言葉を返すと、家政婦もまた怪訝さの残り香を漂わせながらも、その場を後にした。
「……ふぅ」
足音が遠ざかり、人の気配が完全に消えてから、紗弥は大きく溜め息をついた。
危なかった。
もし部屋に踏み込まれていたら、ヤバかったな。
……ちょっと待った。
ヤバいって、何が?
良く良く考えてみれば分かることだけど、例えあのファイルを見られたとしても、一般人じゃ何のことやらさっぱりだろう。
しかも、あの瞬間にPCがフリーズするなんていう到底あり得ない悲劇が起こらない限り、見られたとしてもほんの数瞬だ。
そんなの、私がハッキングしていることは疎か、そのハッキング先がバレるはずないじゃないか。
良く良く考えてみればと前述はしたが、そんなこと良く考えなくとも明らかだ。
あ〜ぁ、焦り過ぎだな、私。
姉さんだったら、きっと何食わぬ顔と声で応対していたに違いない。
こんな些細なところでも、憧れの人と自分との違いを思い知り、心なしか肩が落ちる。
追い付けるのは一体いつになるやら。
……もしかしたら、一生追い付けないかも、などという不吉で後ろ向きな思考は、封に閉まって頭の隅へと追いやる。
もう二度と出てくるなよっと。
さて、呼ばれたことだし、お風呂行こっかな。
先のこともあるし、あまりのんびりしてて怪しまれたら厄介だ。
タンスからキレイに折りたたまれた下着と寝間着を取り出す。
それを両手に立ち上がり、扉へと向かう。
何だか、いつもより足が軽く感じた。
もうちょっと幼ければ、今頃スキップでもし出してそうだ。
胸もドキドキと高鳴り、今から計画実行の時が楽しみでならない。
こういうのを言うのかな、心に羽が生えるって。
何気なく後ろを振り返る。
視界に映るパソコンの液晶には、もう先ほどのファイルは開かれておらず、待ち受け画面の広大な草原がそこに広がっていた。
どこにあるかも分からない、地平線の彼方までひたすらに続く緑の絨毯。
風が吹いたなら、揺れる草たちでその風の姿なき形さえも分かってしまいそうだ。
それは、この世のものとは思えないくらいとても幻想的で、一度はこの目で見てみたいと思った景色。
もしかしたら、本当に見れるかもしれないな。
そう考えたら、より一層来るべき日の訪れが楽しみになった。
「さ、お風呂入ってこよ〜っと♪」
わざと過ぎるくらいに楽しそうな声でそう言うと、紗弥は浮足だって自室を後にした

月夜 2010年07月09日 (金) 22時22分(79)
題名:発端〜The Biggining〜(第三章)

「ねぇねぇ、見た? 今朝のニュース」
「見た見た。すごかったよね〜」

――ん……?

満員電車の中、昨日の睡眠不足を少しでも解消しようと眠っていた水亜の耳に、女子高生と思しき二人組の会話が飛び込んできた。
虚ろだった意識がにわかに舞い戻り、うっすらと瞼を開ける。
押しくら饅頭さながらにぎゅうぎゅう詰めな人混みの隙間から、窓の外の景色が微かに見えた。
右から左へと流れてゆくのは、見覚えのあるいつもの景色。
目印にしている看板が、たった今水亜の視線の上を通過した。
なんだ、まだ半分か。
これなら、後15分は寝ていられるわね。
そう思って、再び瞼を下ろした……ちょうどその時だった。
「人が猿に食べられるなんて、聞いたことないよ」

――……え?

何故か、右から左へと聞き流すことができなかった。
睡魔が遠のき、再度次第に意識が覚醒していく。
水亜は、目を瞑ったまま密かに聞耳を立てた。
「確か、九州のどっかの動物園だったよね。飼育員が餌を与えに入った瞬間、いきなり頭をぐしゃっ! でしょ? 考えられないよね〜」
「うんうん。しかも、背骨と頭蓋骨以外、一つ残さず食べられちゃったらしいしね」
「え? ってことは、手足の骨とか脳みそまで食べたの?」
「さぁ? そこまでは知らないけど、一つ残さずって言うからにはそうなんじゃないの?」
「うわ〜、気持ち悪ぅ……もう、朝からそんな話しないでよね。学校着く前からテンションガタ落ちじゃない」
「何よ、話振ってきたのそっちじゃない。今からテンション落としてたら、我らが天国に一番近い学園教師陣の小言に対応できないわよ?」
「ホント、この受験前に年寄りの小言なんざ聞いてらんないよね〜。あ、そうそう、小言と言えばさ、昨日担任の岡本がさ……」
そこからは、もう彼女たちの学校のプライベートな話だった。
立てていた聞耳を閉じる。
ふ〜ん、猿が人を、ねぇ……俄かには信じられない話だけど、ニュースで報道されていたらしいから、多分本当のことね。
「……」
うっすらと目を開けて、彼女たちの様子を盗み見る。
その間で飛び交う話題は、もう既に先ほどの話とは程遠く、受験に対する愚痴を、互いに笑いながら叩き合っていた。
もう少し詳細が気にはなるところだが、楽しそうに語り合う彼女たちの空気を裂いてまで、問いたいとは思わなかった。
第一、いきなり見ず知らずの人にそんなことをしたら、ただの変人になってしまう。
周りから冷たい目を向けられることには慣れているが、奇怪の眼差しを受けるのは不慣れだ。
よって、水亜は仕方なく再び瞼を下ろすことにした。
すると、不思議なことに、先ほど跡形もなく消え去ったはずの睡魔が、再び猛威を振るいだした。
急速に乖離してゆく、精神と肉体の境界線。
溶けて混ざって曖昧に歪んだそれは、水亜の意識というものを深い深淵の果てへと落としていった。
突如として全身に回り始める痺れにも似た気だるさ。
寝ぼけて倒れることがないよう、水亜はつり革に軽く腕を通すと、その腕にもたれかかるようにして、電車が生み出す定期的で心地よい微かな揺れに抱かれ、束の間のまどろみに身を任せることにした。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時23分(80)
題名:発端〜The Biggining〜(第四章)

――チッチッチッ。

オフィス内に響く、時計の秒針が刻む乾いた音。
「……」
「……」
そして、それを凝視する二人の男女。
さらにそんな彼らを刺す、お前ら仕事はどうしたという呆れ混じりの無言の眼差し。
本人たちはさして気にしていない……というか、気づいてすらいなさそうだが。

――チッチッチッ。

「……」
「……」

――……カチッ。

「やたっ! 私の勝ち〜♪」
「あ〜ぁ……またかぁ……」
時を同じくして、二ヶ所から同時に声が上がった。
一方は歓喜、もう片方は落胆。

――バンッ!

次いで響いたのは、部屋の扉を文字通り叩き開いたことにより生じた轟音。
「ハァ……ハァ……」
その扉の向こうにあったのは、大きく肩で息をする水亜の姿だった。
「あ、みーちゃんおっはよ〜♪」
「あ〜っ! 先輩!」
そんな彼女を迎えるのは、やたらご機嫌そうな絢音の声と、それとは対照的になんだか不機嫌そうな聖の声。
そんな二人には目もくれず、今は暑苦しいだけの分厚いコートを脱ぎながら、オフィス内にズカズカと足を踏み入れる。
自分の机まで歩み寄ると、その上に無造作に鞄を放り投げ、回転式の椅子にドサッと腰を下ろした。
その勢いのままに、椅子がギシギシと鈍い音を立てながら軽く半回転する。

「あ〜……つっかれた〜……」
背もたれに身を預け、全身虚脱な感じに、ため息と共にそんな言葉吐き捨てる。
ちゃんと間に合う時間の電車に乗ったはずなのに、そんな時に限ってしっかり寝過ごすんだから、つくづく救いようがない。
しかも立ったまま熟睡してしまう辺り、我が事ながら呆れて言葉も出ない。
「せ〜ん〜ぱ〜い〜」
そんな折り、不意に聞こえてきたのは、聖の不満そうな呼び声だった。
「なんでもう後1分、いや30秒早く来てくれなかったんですか〜っ! おかげで、わざわざ高礼さんのおやつ買いに行かなきゃならなくなっちゃったじゃないですか〜!」
水亜の肩を掴み、ゆさゆさとその体を揺さぶる聖。
「あ〜、も〜……朝から鬱陶しいわね〜」
その手を軽く払い除け、再び背もたれに体重をかける。
本来なら、その後みぞおちに肉を穿つような鋭いボディーが決まっているところだが、今の彼女にそんな気力はない。
「って、あれ? どうしたんですか、それ」
「それって?」
軟体動物のようなうだ〜っとした体勢のまま、水亜は横目で聖の方を向いた。
その指差す先は、どうやら私の頭へと向けられているようだ。
「ほら、先輩が頭に着けてる髪飾りですよ。今までそんなの着けてなかったのに、急にどうしたんです?」
「あぁ……」
そう、今日の彼女の髪には、普段使っていない髪留めが挿されていた。
少し色褪せた、どことなく懐かしさを感じさせるような質素な作りの髪飾り。
水亜の脳裏には、あの時彼女から送られてきたメールの文面が浮かび上がっていた。
思わず綻ぶ口元。
だが、それを聖は勘違いしたらしい。
「ははぁ……さては、先輩……」
「ん? 何よ、急にニヤニヤしだして」
「隠さなくてもいいじゃないですか〜。水臭いな〜も〜」
「は? 何言ってんの、あんた」
「だってそれ、彼からのプレゼントでしょ?」
「……へ?」
瞬間、オフィス内の空気が凍りついた。
今まで雑談をしていた連中も、迷うことなくそのお喋りを中断し、無言のまま、まさかという眼差しを私へと向ける。

あの四六時中生傷の耐えないお転婆娘に、彼氏だって?
誰だ、その無謀なチャレンジャーは。
きっとドMなのよ、その彼。
いや、ある種の自殺志願者に違いない。

そんなヒソヒソ声が、周囲のあちこちから聞こえてきた……気がした。
そして、そんな特異な空気の中、真っ先に声を上げたのは……、
「えーっ! みーちゃんってば、彼氏いたのーっ!?」
予想に違わず絢音だった。
「ち、違うわよ! これは……」
「恥ずかしがらなくてもいいじゃ……」
「いいからあんたは黙ってなさい!」

――ドスッ!

結局、聖の腹部に深々と突き刺さることとなった、水亜のプロ顔負けのボディー。
「ぐぼぁっ!?」
まるで肉を穿たんばかりの激痛に、なんとも言えず悲痛で鈍いうめき声を上げて、彼――守哉聖は一撃の名の元に沈黙した。
「じゃあじゃあ、その髪飾りは一体どうしたのかな〜?」
絢音が小踊りしながら近づいてくる。
このバカ娘は……もはやこの髪飾りが、彼氏からの贈り物だと勝手に確信してるに違いない。
水亜は思わず語気を強めて言った。
「これは、とある女友達からの貰い物! 第一、こんな色褪せた髪飾り、どこの甲斐性無しがプレゼントするってのよ! 良く見ればすぐに分かるでしょうが!」
頭の髪飾りを自分で指差し、水亜はオフィス中に響く声で言った。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時24分(81)
題名:発端〜The Biggining〜(第五章)

そんな彼女のただならぬ様子に、彼からの贈り物と決めてかかっていた絢音が微かにたじろぐ。
「え……ってことは、本当に彼氏からのプレゼント説は……」
「んなもんないわよ。最初っからね」
突き放すような水亜の素っ気ない返事に、周りの熱が急激に冷め始めた。
「な〜んだ。つまんないの〜」
そう言いながら、絢音は後頭部に手を回し、本当につまらなさそうな面持ちで水亜の元から離れていった。
それに続いて、やれ「ガセネタかよ」だの、やれ「つまらん」だの、果てには「まだ独り身のままか。悲しいものだな」などという、当の本人に聞かれたら、文字通り消し飛ばされかねないようなことを好き放題言いなが周囲から関心の目が消えていく。

――全く……好き勝手言って盛り上げておきながら、ガセネタと分かるなり手の平返したように……けど、それより……

未だに床でもがいている聖を一瞥する。
こいつは一体どこまでデリカシーが欠如しているのやら。
まさかここまで無神経で鈍い奴だとは思わなかった。
はぁ、と内心密かに溜め息をつきながら、水亜は再度背もたれに身を預け、天を仰いだ。
天井を向いた瞳に差し込む蛍光灯の光が、暴力的に瞳孔を突き刺した。
眩しくなって瞳を閉じる。
刹那、暗転する視界。
そんな中、耳孔内で反響するのは、電車の中で聞いた先の会話。

――人間が猿に食べられた。

……実際問題、そんなことが起こり得るのだろうか?
確かに、猿の身体能力はかなり高く、比較すれば人間のそれなど足下にも及ばない。

握力一つ取っても、猿のそれは軽く人間の数倍はあるのだ。
だが、顎の力ということになれば、話は少々変わってくる。
食物を咀嚼する圧力という点においてのみなら、猿と人間の間にそこまで大きな差はない。
にもかかわらず、猿が人間を、しかも背骨と頭蓋骨を除いた部位全てを食べられるとは考え難い。
「……ねぇ、聖」
「……な、なんですか?」
いつの間にかこちらの世界に戻ってきた聖が、水亜の問いに小さく肩を震わせる。
その動きは、さながら怯える小動物を連想させた。
「今朝のニュース、見た?」
「今朝のって……あぁ、猿に人が食べられたって話ですか?」
なにやら恐ろしい考えをしていたらしいが、それが自分の杞憂だと知ると、聖は無意識の内に縮こまっていた体を元に戻した。
「……どう思う?」
瞼を閉じたまま、近くに感じる彼の気配へと問いかけた。
「どうって……怖い事件だな〜としか思いませんでしたけど……」
聖が戸惑いを露わに答えを返す。
まぁ、突然何の前ぶれもなくこんな話を切り出されたのでは、無理もない反応だ。
だが、そんなことはお構いなしに、水亜は依然として大人しい口調のまま言葉を繋げた。
「こんなこと、本当に可能だと思う?」
再度、問う。
「う〜ん……普通に考えたら、無理だと思います。ライオンとか鮫みたいに、牙と顎の発達した動物ならともかく、普通の猿に人間を骨ごと噛み砕く力があるとは思えませんよ」
「そうよねぇ……」
顎に指を添え、うつ向きがちに言葉を紡ぎ出す聖に向かって、水亜は頭を抱えるようにして首を縦に振った。
まぁ、彼は猿好きという変わり者でもなければ、獣医のような動物関係のスペシャリストでもない。
されば、その意見が絶対に正しい訳もなく、そこに生物学的理論が存在するはずもない。
けれど、最初から別に専門的な解答を望んでいた訳ではないし、そんなの土台無理なことは分かっていた。
ただ、なんとなく誰かに聞きたかった、それだけの理由だ。
それだけの理由なのだが……
「先輩? どうかしたんですか?」
「ん……」
どことなく不安そうな呼び声に、水亜が首だけを捻ってその方を向く。
「いつも、世間に溢れるミーハーなニュースには興味ないって言ってるのに、今日に限ってやけに食い付くな〜って」
視界に映る、訝しげな表情の聖。
確かにその通りだ。
聖が朝のニュース番組から仕入れたネタで水亜に絡み、それを彼女が“興味無いわ”の一言でぶった切るのがいつものパターンなのだから、これはそれの逆バージョンと言える。
「別になんでもないわ。ただ、ちょっと気にかかっただけよ」
「ふ〜ん……変わったこともあるもんですね〜」
どこか納得のいかない顔をする聖だったが、これは嘘偽りのない真実だった。
別に、私に直接関わる問題ではない以上、気にかけるだけ損でしかない。
にもかかわらず知りたいと思うのは、やはり気になっているからだろう。

――……虫の知らせ、かもね。

誰に言うでもなく、心の中で静かに呟く。
嬉しくもなんともないが……こういう時の不吉な予想というのは、案外良く当たってしまう。

――ガチャッ。

そして、そんな水亜の思考を嘲笑うかのようなタイミングで、オフィスの扉が開かれる。
その奥から姿を現す、荘厳な雰囲気を纏った初老の老人の姿。
ただ、そこに佇んでいるだけなのに、その立ち居振るまいに威厳を感じずにはいられないその人物の姿を見粉うはずがなかった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時24分(82)
題名:発端〜The Biggining〜(第六章)

「明神君」
「はい」
「後で私の部屋まで来てくれ」
「わかりました」

――バタン。

静まり返ったオフィス内での、義治と水亜の手短な会話。
もう見慣れた光景であるはずなのに、水亜と絢音以外の全員が息を呑んでいたのは、やはり社長と社員の肩書きの間にある権力差によるものだろう。
しかし、どうやら今回も、この不吉な予想は面倒な予知へと相成ってしまったようだ。
「みーちゃんとおじいちゃん、本当にマブダチだよね〜」
絢音が嬉々とした表情で言う。
全く……本当にそうだったらどれだけ楽なことか。
「まーねー」
心の言葉は内側にしまい込んだまま、水亜は投げやりな返事を返した。
「はぁ……面倒ね」
溜め息混じりに、重い腰を上げる。
「……でも、おじいちゃんどうしたんだろ……」
「ん? 何が?」
と、不意に聞こえてきた絢音の不安そうな声に、水亜は首だけを捻って斜め後ろを振り返った。
「何がって……みーちゃん、気付かなかったの? おじいちゃん、何だか元気なさそうだったじゃない」
「……そう? 別にいつも通りだったと思うけど」
絢音の言葉に、水亜が首を傾げる。

「そうかな〜……何だか、いつものおじいちゃんとちょっと違う気がしたけど……」
覇気の感じられない沈んだ声で、絢音が独り言のように呟く。
血の繋がった者同士だからこそ分かる、微かな雰囲気の違いとかだろうか?
血縁上他人の水亜には、その辺りのことは良く分からない。
「……ま、とりあえず」
言いながら、軽く伸びをして扉の方へと向き直る。
こういう時の義治が言う“後で”は“すぐに”と同義なのだ。
あまり気乗りはしないが、今すぐ向かわなければなるまい。
「私は行ってくるわ。課長が戻ってきたら伝えておいて」
「わかりました。行ってらっしゃーい」
「何他人事みたいに手ぇ振ってんのよ。サトちゃんも行かなきゃ」
「え? どうして僕まで……」
「私のお・や・つ♪」
「って、それですか……わかりましたよ。行ってきたらいいんでしょ。行ってきたら」
不満げな声を上げて、水亜の後ろを付いていく聖。
「あ、そうそう、聖」
そんな彼に向かって、扉の前で立ち止まった水亜が口を開く。
「絢音のおやつ買いにいくなら、ついでに私の分の芋まんも買ってきといてね」
「え〜っ! 何でわざわざ先輩の分まで……」
「さっきの慰謝料よ。それじゃ、よろしくね」
聖が不満を言い終わる前に、水亜は扉を開けるとさっさとオフィスを後にした。
「あ、ちょ、ちょっと先輩!?」
背側から聞こえてくる、悲痛さを湛えた呼び声。
無論、そんなものは聞こえないフリでスルーし、水亜は社長室のある方へと歩みを進めていったのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時25分(83)
題名:発端〜The Biggining〜(第七章)

――コンコン。

木製の扉を叩く乾いた音。
かなり上質な木材を用いているのか、他の安っぽい扉と違い、ノックの音もどこか耳に心地よい。
……まぁ、いくら耳に心地よくとも、中に入れば憂鬱になるのは間違いないんだろうけど。
「明神です」
「あぁ、入ってくれ」
「失礼します」

――ガチャッ。

扉を開き、どことなく空気の違う社長室内へと足を踏み入れる。

――バタン。

あまり音を立てないよう、なるたけそっと扉を閉める。
前へと向き直れば、充満する煙草の煙でうっすらと白みがかっている視界に、椅子に座ってこちらに背を向けている社長の姿が目についた。
歩みを進め、キレイに片付けられた檜作りの横長の机の手前まで足を運ぶ。
「……今朝のニュースは、知っているか?」
と、何の前ぶれもなしに、社長はそう切り出した。
「今朝のニュースと言いますと……猿が人間を食べたというアレですか?」
「あぁ、そうだ」
私の問い返しに答えながら、社長が椅子を回してこちらに向き直る。
瞬間、まだかろうじて予測の範囲にとどまっていた予想が、ついに確信へと姿を変えた。
こういう時の悪い予想は、やはり良く当たる。
いずれは、占い師にでもなってやろうかしら。
……まぁ、不幸ばっかり当てるような占い、人気が出る訳ないだろうけど。
「どこまで知っている?」
そんなくだらないことを考えていた私に向けられる、鷲を思わせるような鋭い眼差し。
いつも柔和な笑顔を保っている“社長”が、特命武装安全理事会役員“高礼義治”へと変貌した瞬間だ。
身に纏う雰囲気も、優しくも荘厳ないつものものとは違い、荘厳な気配はそのままに一種独特の威圧感を放つ、近寄りがたいオーラに包まれていた。
今ではもうある程度慣れたが、私も最初の頃は緊張したものだ。
“この人には勝てない”と思わされるのは、後にも先にもこの人だけだろう。
「直接ニュースを見た訳ではないので、人間が猿に食べられたことと、その現場が九州のどこかの動物園であるということ以上の内容は一切知りません」
「なんだ、ニュースで知ったんじゃないのか?」
「いえ、電車の中で小耳に挟んだ程度です」
「呆れた奴だな。朝のニュースくらいちゃんと見ておかないと、世間から取り残されるぞ……まぁいい」
社長が口の端に微かな笑みを浮かべる。
それに応えるように、私も控えめに口元を綻ばせた。
任務についての話をするときの彼は、極力無駄を省きつつも、場の空気を重苦しいものにしないよう気を使ってくれる。
その辺りの優しさは、実際結構ありがたい。
「さて、話を戻すぞ」
口を真一文字に引き締め、その表情を先の真剣なものへと戻し、社長は再び言葉を繋げた。
「実はな、この事件、九州で起きたものではない」
「え?」
思いもよらなかったその言葉に、私は思わず声を上げた。
聞いた話では、これは九州の動物園で起きたとのことだったのだけれど……。
「九州の某動物園でというのは嘘の情報だ。実際は日本国内ですらない」
「どういうことですか?」
真面目に理解不能だった。
国外で起きた事件を、わざわざ国内で起きたものだと偽る理由がそもそも分からないし、その必要性だって感じない。
第一、生半可な偽装では、直接やってくるマスコミ等の目は誤魔化せないだろう。
そのためには、徹底的な偽装工作が必要だ。
それも、市町村や県程度の規模ではない。
国そのものが協力しているとしか考えられない。
その理由は?
それによって生じる我が国の利益は?
疑問は山ほどあった。
「まず、この事件が実際に起きたのは、英国の某研究施設だ」

「研究施設? 動物園ではないんですか?」
「あぁ。表の顔は動物園だかな」
そこで一旦言葉を区切ると、懐からシガレットケースを取り出し、そこから一本の巻煙草を手に取る。
「その裏の顔、何だか分かるか?」
「生物兵器の研究施設ですね」
私は迷うことなく即答した。
恐らく、地上にカモフラージュ用の動物園を構え、その実地下には広大な生物兵器開発用の施設といった感じだろう。
以前、イギリスに変わった動物の見られる動物園があると、雑誌だったかニュースだったかで見た記憶があるが、恐らくそれだろう。
「正解だ」
煙を吐き出しながら、そう一言。
立ち上る白煙が、天井へと昇るにしたがって薄らんでゆき、やがて消える。
「その研究施設は、英国が抱える闇の部分だ。先の世界対戦では、当初最大勢力だった彼らだが、その国土の大きさや人口の違いから最強の座をアメリカに奪われて以来、このような研究を続けているらしい」
「……つまり、イギリスはまた世界規模の戦争を起こすつもりだと?」
「いや、それはない」
社長が断言する。
それは、予想や予測といったあやふやなものではない、確固たる理由に基づいた確信だった。
「いくら英国が強大となろうとも、たった一国で世界に喧嘩を売ることなど不可能だ」
「……なるほど」
確かにその通りだ。
いくら強大になろうとも、世界を敵に回すなど無謀過ぎる。
その気になりさえすれば、あの島を地図上からまるごと消し去ることくらい、核を所持する国ならどこでも可能なのだ。
だけど、それなら何故生物兵器の研究などというバカげたことを……。
「……だが」
と、しばらく間を置いた後、社長は再び言葉を繋ぎ始めた。
「確かに世界そのものと喧嘩することは無謀だが、アメリカとだけなら十分可能だ」

月夜 2010年07月09日 (金) 22時25分(84)
題名:発端〜The Biggining〜(第八章)

そう言って、短くなってきた巻煙草を、灰皿に押し当てて潰す。

――……そういうことね。

ようやく、私の中で合点がいった。
今、世界で最も力を持っている国はどこかと問われれば、恐らく誰もがアメリカと答えるだろう。
だが、それに次ぐ国はと問われれば、その答えは個人個人、及びどこの国で聞くかによって変わってくるのではないだろうか?
人口の面から考えて中国だという人もいれば、アメリカが台頭するまで最強だったイギリスだという人もいるだろうし、大分過去の話になるが、ドイツの無敵艦隊という響きを忘れていない人なら、ドイツだと答える人もいるかもしれない。
早い話が、世界一強大な国家は明らかでも、それに次ぐ国家が不明瞭だということだ。
ならば、その世界一強大な国、つまりはアメリカを滅ぼした国家こそが最強となる、という訳だ。
「イギリスが求めるのは、第三次世界対戦ではなく、世界最強の国という称号であると?」
「そういうことだ。秘密裏で行われる生物兵器の開発などは、核の爆発実験のような大規模実験を要さない為、他国家に情報が漏れにくい。それに、いざ実施となったときも、その成果の可否にかかわらず、痕跡が残りにくい」
そう、社長の言う通り、この情報が漏洩しにくいことと、痕跡が残りにくいということが、生物兵器の最大の特徴だ。
何せ、狙いとする国に何らかの手段を用いて放り込んでしまえば、それだけでその国を滅ぼせてしまうのだから。
しかしその反面、もしその生物兵器が何らかのハプニングにより外部へと逃げ出した場合、国家そのものが自壊する危険性も孕んでいる。
まさに諸刃の剣というやつだ。
「そして今、日本にとってアメリカは必要不可欠な国だ。滅ぼされる訳にはいかない」
「はい」
私は迷うことなく首を縦に振った。
今の日本は、ありとあらゆる物資を諸外国からの輸入によって補っている。
食料、燃料、機械類、その他趣向品の類に至るまで、ほとんどが海外の品だ。
そしてその中心は、疑いの余地もなくアメリカだ。
もしも今、アメリカが消えたとしたら、日本はどうなるか。
すぐに死ぬ、ということはさすがにないだろうが、それでも長い目で見れば、日本という国の衰退に繋がることは間違いない。
「よって、君が行うべき任務は、その研究施設内部、及び研究内容の調査だ。可能ならば……」
「……施設そのものの破壊、ですね」
「あぁ」
そう言って、社長は机の引き出しから、ホッチキスで止められた数枚の紙の束を取り出した。
「これが今回の詳細資料だ。目を通しておきたまえ」
「はい」
「後だな……」
そこで一旦言葉を区切ると、社長は再度、今度は違う引き出しを開いた。
中から一枚の茶封筒を手に取り、私の方に差し出す。
「……これは?」
「イギリス行きのチケットだ」
中身を見てみると……なるほど、確かに成田発、イギリス行きの航空券だ。
時刻は明後日の朝9時となっている。
……なっているのだけど、一つだけ納得いかない、と言うか不思議なことがあった。。
「……何故二枚も?」
「あぁ、そのことだが……」
思わず問いかけた私の声に、社長は懐に手を伸ばし、シガレットケースを取り出そうとして、
「……実は同行者がいてな」
途中でその手を止めながら、社長は言葉を繋いだ。
「同行者……ですか?」
そんな社長の発言に、私は首を傾げた。
今まで、数多の任務をこなしてきたが、その全てを一人で遂げてきた。
成り行き上、途中で他者に力を借りることは何度かあったが、最初から他の誰かと共に行動したことなんて、ただの一度もない。
何だか、あまり良い予感はしなかった。
「あぁ。上から直接送られてくる人物で、その詳細は私も知らん」
社長は懐から引き抜いた手を、机の上で組んでそう告げた。
彼が言う“上”とは、恐らく政府上層部。
国防省長官クラスからの命令に違いない。
「……わかりました」
そう呟きながら、私は今から心に警戒体制を強いた。
いくら政府上層部からの推薦形式とは言え、まだ見たこともないような奴だ。
そいつが確実に味方であると、何故断言することができようか。
敵であった場合、この2日間の間に私を狙ってこないとも限らない。
「……気をつけるようにな」
どうやら、社長も考えていることは同じらしい。
いくら彼と言えど、容易く権力に逆らうことはできない。
況して、国の思惑の深い部分まで知り尽くすことは不可能だ。
「はい」
私は、社長の心を覆う暗雲を取り払えるよう、強く頷いた。
そして、ここからは恒例の他愛のない会話へ。
「そういえば、社長、煙草の数減らし始めたんですか?」
「ん?あぁ、まぁな」
「この前の社内一斉健康診断の結果、悪かったんですか?」
「……そうズバズバ言ってくれるな」
社長が苦笑いを浮かべる。
どうやら、あまり好ましい結果は返ってこなかったらしい。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時26分(85)
題名:発端〜The Biggining〜(第九章)

「ホントは隠すつもりだったんだが、絢音の奴が妻にバラしたもんでな……」
「……なるほど」
彼の家には、以前風邪で寝込んだ絢音を見舞いに行った時に、一度訪問している。
そのとき出迎えてくれたのが、その奥さんだった。
もう結構な歳であるはずなのに、そんなことは全然感じさせないくらい若々しく、笑顔の似合う優しい人というイメージだ。
……あの優しげな笑顔で、じりじりと社長を問い詰めていく様が、何だか脳裏にはっきりと映像化できた。
「全くあいつは……普段は鈍感なのにもかかわらず、こんな時に限って妙に鋭くて困る」
「それだけ、社長のことを想ってるってことですよ」
「……まぁ、な」
再度、口元に浮かぶ微かな笑み。
それは、先ほどのような苦笑とは違い、暖かい親子の絆をひしひしと感じられるかのような、優しい微笑みだった。

――親子、かぁ……。

ぼんやりと、誰もが当たり前のように持っているその単語に、私はふと想いを馳せた。
私にも、確かにいたはずの両親という存在。
幼き頃の私に、揺るぎない愛情を注いでくれていたであろう彼ら。
それを全く覚えてすらいない私にとって、このような関係はとても羨ましいものだった。
私には分かる。
絢音は、誰もに望まれて――少なくとも、社長の大きな愛に包まれて、生まれ育ってきた。
だけど、私は……?
私は、果たして、本当に、周囲の人々に望まれて生まれてきたのだろうか?
物心ついた時には、もう既に堕ちた灰色の日々。
一日を生き抜くことだけを考えて、あの薄暗く湿った路地裏を駆けていた。
幸運にも、私は生まれつき格闘センスはあったらしい。
だから、私はそこで出会った生物を、無差別に殺してきた。
武器の有無、相手の大小にかかわらず、その一切を。
人間以外の生物なら、食料に。
人間だったなら、食料と金、そして衣服に。
噂が立ち始め、人通りが少なくなってきたら、潜む路地を変える。
そしてまた、生きていく為の狩猟生活。
殺し、食い、奪い、逃げ、そしてまた殺す。
そんな生活を送っていた私は、一体誰に望まれた存在だったの?
誰が、こんな私を必要としたの?
いくら手を伸ばしても、まるで雲を掴むかのようにすり抜けてしまう、形なきおぼろ気な愛。
それを、さも当然のように持っている絢音が、社長が、他の皆が、私にはとても羨ましかった。
二人は、私を捨てたのだろうか?
それとも、誰かに殺されてしまったのだろうか?
前者だったなら、いつか会いたい。
でも、私を捨てたことを追求しようなんて、これっぽっちも思ってはいない。
ただ、会って話がしたい。
そして、聞きたい。
私は、貴方たちの、そして周りの愛を受けて、生まれてきたのかどうかを。
それさえ……その言葉さえ聞けたら、どれだけ私は……。
「……何を考えている?」
「え……?」
不意に聞こえてきた声に、私の意識が呼び戻された。
視界に映るのは、どこか心配そうな社長の面。
「あ、いえ、大したことじゃ……」
「……そうか」
慌てて首を振った私の方を見て、彼が小さく頷く。
なんだか、今さっきの私の悩みまで、容易に想像がつくと言わんばかりの表情だ。
「さて、そろそろ業務に戻りたまえ。表の仕事も、しっかりこなしてくれよ」
「は〜い」
私は、さっきの暗く淀んだ思考を隠すため、あえて軽い口調を装った。
手の中の封筒を厚手のコートの内側に収め、踵を返す。
扉の前に立ち、ドアノブに手をかけようとした、まさに次の瞬間だった。
「……明神君」
「はい?」
突然耳に響いた呼び声に、私はその体勢のまま後ろを振り返った。
その先にあったのは、いつもの落ち着いた社長の姿。
「……」
……ではなかった。
動揺……とは何か違うみたいだったけど、明らかに普段の彼ではなかった。
半開きにされた口元が、口にするべきか否かを……何かを言い淀んでいるように見えた。
「……いや、何でもない」
結局、彼は何をも語ることなく、再び口を閉ざした。
社長は、一体私に何を告げようとしていたのか。
私の知らない、何を知っているのか。
そして、何故口を閉ざしてしまったのか。
色々と聞きたいことはあったが、言わなかったのは社長の意思だ。
彼が決めたことに私が口を出すのはお角違いというものだろう。
「そうですか……では、失礼します」
「あぁ……」
結果、私は深く追求することはせず、軽く頭を下げて社長室を後にした。
「ん〜っ……さて、と」
社長室と廊下を隔てる扉を背に、私は一度だけ大きく伸びをした。
今度は海外か。
しばらく帰ってこれなさそうだし、これから忙しくなるだろうな。
あ、そうなると、その間ずっと聖をイジってやれないじゃない。
「……とりあえず、聖がしっかり芋まん買ってきたか、確認してやらなきゃね」
高々と掲げ上げた両腕を、そのまま組み合わせて頭の後ろへと持っていき、今から妙な名残惜しさのようなものを胸に抱いて、私はオフィスへと戻ることにした。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時27分(86)
題名:発端〜The Biggining〜(第十章)

――バタン。

扉の閉まる音が、今日はやけに重々しく聞こえた。
口をつぐんだことが、今になって悔やまれる。
「……ふぅ」
思わずこぼれる溜め息。
気が付くと、無意識の内に懐へと手が伸びていた。
一瞬、躊躇う。
だが、吸わずにはいられなかった。
胸に残る微かな罪悪感を払拭し、取り出した葉巻を口にくわえる。

――シュボッ。

何とも言えない独特の着火音を伴って、ジッポから赤い炎が立ち上る。
その周囲に生じる、透明な幕で覆われたかのように揺らぐ景色。
「……」
しばらくその炎を、正確には炎の周りを見つめた後、口元へと運んだ。

――パチン。

蓋を閉める時の乾いた金属音が、今の無音の部屋にはやけに大きい。
深く息を吸い込み、肺の中の煙を惜しむようにゆっくりと吐息を吐く。
「……ふぅ」
背もたれに身を預け、天井へと昇っては消えてゆく白い煙を見上げながら、思いに耽る。
話すべきだったか、どうか。
さっきは、口をつぐんだことが悔やまれるといったものの、それはどちらにせよ変わらないだろう。
話さなければ、真実を知らせなかったことを。
そして話していたならば、知る必要のない真実を知らせてしまったことを。
選択肢は絶対の二択。
その行き着く結果は、どちらも同じ。
ならばそれは、果たして二択と呼べるのか。
二択として成り立っているのか。

答えは、成。
それが全く同じ選択肢でない以上、例え行き着く果てが同じだとしても、そこへたどり着くまでの過程は決して相同にはなり得ない。
であるならば、それはやはり二択であり、全てが同じではない。
況してや、予め決まった答えの用意された数学的問題でない以上、イレギュラーというものは付きものだ。
なら、私にできることは、自分の判断が間違ったものでなかったと信じることだろう。
これは、上に立つ者として当然のことだ。
「……くそっ」
けれど、そう考えていながらもつい毒付いてしまうのは、きっと自分自身が納得していないからだろう。
上の下した決断に。
そしてそれ以上に、上に逆らい通せなかった己自身に。

――仕方ない。

己に言い聞かせる。
そう、仕方なかったのだ。
私一人の力で、政府中枢部を担う人物達の決断を覆すことなど、できようはずがない。

――何故?

声なき声に問い返された。

自分の中に潜む本音が、不意に顔を出す。

――決まっている。彼らが圧倒的地位にいるからだ。

反論するのは己の理性。

――……だから?

――だから……だと?

――だから、逆らえない?

――……。

――そんな理由で、私は彼女を?

――……常に死と隣り合わせで戦っている彼女だ。このような任務はそうそう珍しいものじゃない。

――違うな。私が最も危惧しているのは、彼女の命云々ではない。そうだろう?

――それは……。

――決めるのは他ならぬ私自身だ。その決定には誰も文句なぞつけられん。

――……。

――……だがな。動ける時に動けなかった結果、後悔するのもまた私自身だ。その辺り、良く理解しておくことだ。

そこで、私の中の本音は、再びその姿を脳の片隅へと潜めた。
しばしの間繰り返した、己との自問自答。
口にくわえていた葉巻を見てみると、その半分以上が灰と化していた。
後もう少しで、唇を火傷するところだった。
つまり、しばしとは言ったものの、実は相当の間自分と問答していたことになる。
全く……私も暇な奴だ。
「……ふっ」
そんな自分に、思わず苦笑い。
葉巻の先を灰皿に押し付け、そのままそこに転がす。
既に意志は固まっていた。
肘掛けに手を置き、重々しく腰を上げる。
着慣れたスーツを脱ぎ、鍵付きの引き出しを開けた。
中から取り出すのは、革張りの色褪せたホルスター。
使うこともなくなり、ここに眠らせてから、一体どれくらいの月日が経ったことだろうか。
手のひらに乗せ、感触を懐かしむようにその表面を数回撫でた後、ワイシャツの上から、少し深めに袈裟掛ける。
次に、さっき開けた引き出しの一つ下の段に手をかけた。
開くとそこには、箱にも入っていなければ、袋にも包まれていない、むき出しのままの一丁の銃が。
イタリアの大手銃機メーカー、ベレッタ社が手がけた、言わずと知れた名銃、ベレッタシリーズ。
その中でも未だに根強い人気を持つ銃が、このベレッタM92Fだ。
だが、これは実は個人的に特注したもので、市販されているものよりいささか銃身が長く、内部には特殊な吸音素材が使われているため、発射と同時に銃声のほとんどが失われる仕組みになっている。。
手に取り、軽く正眼に構える。
ズッシリとした重みが、支える右手にのしかかった。
懐かしい感触。
やはり、判子よりもペンよりも、こいつが一番手に馴染む。
こいつと共に、一体いくつの死線を越えてきたことだろうか。
それも、もう昔の話。
今はもう、私の時代ではない。
しかし、私は今一度、再び立ち上がることを決めた。
今度は、日本の為、平和の為などという崇高な理由ではない。
況してや、自分の為でもない。
あいつの……私のもう一人の娘同然の彼女、ただ一人の為に。
これは、どこまでも個人的でちっぽけで、一人よがりな理由。
なのに、何だ?
心の奥底から沸き上がる、この熱い気持ちは。
あの頃……日本の為という巨大な使命感を双肩に背負っていたあの時よりも、心はより一層打ち震えていた。
何に?

――喜び、か?

何度深呼吸してみても、早鐘を打つこの心臓は、まるで静まる気配を見せない。
動脈に触れずとも、自身の脈動というものを全身で感じ取ることができた。
こんなにも激しい動悸は、生まれてこの方初めてだ。
だが……
「……悪くない」
誰に言うともなくそう呟くと、私は暫しの間握り続けていたベレッタを、肩から下げたホルスターにしまった。
普段は開けたままにしている、背広の一番上のボタンを止める。
これで、普通に外を出歩いても、銃の携帯がバレることはない。
「さて、と……」
背広の襟を正し、少し緩めにしていたネクタイをしっかりと締め直す。
「……行くか!」
そう言って、自らで己の背を押すと、私は平和な日常の中の社長室を後にした。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時28分(87)
題名:発端〜The Biggining〜(第十一章)

昼休み。
こんな日当たりも悪く、空気のこもった場所で昼食を取ろうとはあまり思わないのだろう。
近場のファミレスで外食、窓から見下ろせる小高い丘でお弁当、リッチな奴らは高級フランス料理店で昼のランチ、などなど。
ちなみに我らがOL、明神水亜は何を食したかというと、高級フランス料理店で昼からリッチにフルコース……などというわけもなく、背広姿の営業マンや学生に紛れて、立ち食いそば屋できつねそば一杯。
だから、こんなにも昼休みの早い時間に、もうオフィスに戻っているという訳だ。
……とまぁそんな訳で、オフィス内にいる人はまばらで、水亜を含めても3、4人程度のものだった。
「……」
そんなオフィスの中、背もたれをギシギシと鳴かせながら、尖らせた口先と鼻の間に鉛筆を挟んで、水亜は暇そうに先ほど義治から渡された茶封筒を見つめていた。
封には既に開けられた跡が僅かに残っており、その痕跡をほとんど残さないようキレイに閉じられていた。
「……いつにも増して、きなっくさい指令ね」
椅子に掛けたコートの懐に茶封筒をしまい、水亜はどこか鬱陶しそうにそう吐き捨てた。
今回の指令の概要はこうだ。
まずはイギリス、ロンドンへ飛んだ後領事館へ行き、そこで担当者と接触。
イギリスにおける当事件の概要とメディアの反応度を聞き込み、次に現場であるマンチェスターへと向かう。
施設発見後は、内部調査及びその機能強制停止。
手法、手段は任務遂行者の一任に委ねる。
……なんともアバウトな資料だ。
毎回のことだが、こういう規模の大きな任務には、何故だか詳細資料というものがついて来ない。
いや、まぁ形式上はこれが詳細資料にあたるのだろうが……いやはや、これを詳細資料と呼んでいいものかどうか。
だが、このような文書で色々と行動を束縛されるのも彼女の良しとするところではない以上、そう文句ばかりも言ってはいられなかった。
しかし、問題はこのことじゃない。
先ほど、義治の口から出た同行者の存在。
その詳細説明が資料のどこにも載っていないのだ。
氏名、容姿、出身、連絡先……それらの何一つさえ、掲載されてはいなかった。
これはつまり、向こうから接触してくるのを待つしかない、ということだ。
明後日の出発の日、空港でチェックインするまでの間のどこかで、そいつは必ず現れる。
任務内容のあれこれより、その同行者の存在の方がよっぽど気になった。

――私に同伴してイギリスへ飛ぶ同行者……ただの素人でないことは確かね。どこかの国の諜報機関に所属する人間、もしくは国際級のテロ組織って線が濃厚かしら。その目的は、前者なら表面上は私の補助、後者なら補助、もしくは私の暗殺かしらね。その真の狙いはおそらく、どちらにしろイギリスが新たに開発した生物兵器の奪取辺りだろうな。イギリスに世界最強の座を渡したくはないが、明確に敵に回したくもない。かといって、自国の名を伏せた程度の戦力では歯が立たない。なら、私がその施設を叩きに行くのに便乗して、ついでにその生物兵器の情報を盗んでやろうということだろう。そして、テロ組織だとしたら、私の存在は奴らにとって邪魔でしかないから、場合によっては殺してやろうってとこかな。……なんともこすいやり方だ。まぁ、もし余計なことをするようなお馬鹿さんだったら、イの一番で黙らせれば良いし。だけど……

と、そこで一旦思考を途切れさせると、水亜は背もたれに預けていた身を前屈みにし、机に両の肘を立てた。
「一番不思議なのは、私が動くっていう情報を、その国がどうやって入手したのかってとこよねぇ……」
そうぼやきながら、自然と花の形に開いた両手に顎を乗せてみた。
机の隅に置かれた鏡に視線を向ける。
そこに映る自分の顔は、特に不機嫌という訳でもないのに、あからさまなくらいご機嫌ナナメに見えた。
正直、分からないことは分からないのだ。
義治が任務について話す時、必要なことは全て包み隠すことなく話してくれることを、水亜は良く知っている。
例え再度彼の元を訪れて、先の疑問をぶつけたところで、私の望む具体的な解答は返ってこないだろう。
「……ま、いずれ分かることだし、気にするだけ無駄か」
水亜はそう言いながら机に手を突き、静かに席を立った。
オフィスの壁にかけられた時計に目をやる。
指し示される時刻は、昼休み終了15分前。
例のコンビニまでは、ここから往復10分弱。
よし、紫芋まんを買って帰ってくるだけの時間は十分にある。
そう考えると、水亜は椅子にかけておいたコートを身に纏い、少し早足で出入口へと足を進ませた。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時29分(88)
題名:発端〜The Biggining〜(第十二章)

「くっ……くそっ……!」
リュックの口の部分を押さえ、巻き込むようにして下へ下へと押していく。
地球の重力と体重の向きを重ね、私はこれ以上とない最大限の力を加え続けた。
しかし、それはなかなか収まり切る気配を見せなかった。
押せども押せども、まるで効果がない。
一瞬は半ば無理矢理収まったように見えても、すぐに反発力で跳ね返り、あえなくキャパ超えしてしまう。
やはり無理なのか。
記載されている内容量には、忠実に従うべきなのだろうか。
いや、ダメだ。
この程度の壁に立ち塞がれているようでは、先が思いやられる。
ついに明日に迫った、運命の日。
それを前にして、こんなところで足踏みをする訳にはいかない。
既成概念をぶち壊せ、私!
「諦める……もんですかっ……!」
ふと弱気になりそうになる自身を叱咤し、私は再度リュックに全体重を乗せた。
やはり、その反発力は半端じゃない。
一枚一枚は大したことない衣服でも、まとまった数になるとなかなか一筋縄ではいかない。
塵も積もれば山となり、雑魚も集まりゃボスとなるってことか。
「よ〜し……」
このままいくら押し込んでいてもラチがあかないと判断した私は、ちょっと強引な手段を取ることにした。
その場に立ち上がり、今まで手で押さえていた衣服を足で踏みつける。
そのまま、両サイドからチャックをある程度のところまで閉め、足を引き抜くと同時に……、
「いっせ〜の〜……でっ!」
……一気にチャックを上げた!
反発力で膨張する衣服の容積VSチャックを上げる速度。
刹那の勝負であったが、私の方が僅かに上だったようだ。
次にリュックを見たとき、それははち切れんばかりに膨らみつつも、全てのアイテムをなんとか収めきっていた。
「や、やったぁ……」

――ボスッ。

私は力なく自らの体をベッドに投げた。
つまらないことのはずが、何だかやたらと疲れてしまった。
何気なく額に触れてみる。
手の平に感じる湿っぽさ。
その手を目の前に掲げてみれば、幾つもの細かい水滴が目についた。
自分で思っていたより、大分白熱していたらしい。
あ、こんな体のままベッドに横になっちゃったら、シーツ汚れちゃうじゃないの。
家政婦さんに怒られちゃうかな?
「……ま、いっか」
私は大して気に止めることもなくそう呟いた。
大事の前の小事というやつだ。
わざわざ気にするほどのことでもない。
自分自身に言い聞かせる。
そして、私はベッドに身を横たえたまま、リュックの方へと視線を送った。
今にも破裂しそうなくらい、パンパンに膨張したそれは、原型をなんとか留めつつもほとんど円形と化していた。
こうして見ていると、なんだかあのリュックの中には、荷物以外にも何か別のものが入っているみたいだ。
私のこの明日を待ちこがれる楽しみな気持ちかな?
……なんて、メルヘンチックなことを考える私じゃない。
昔の、姉さんに会う前の軟弱な私なら、そんなキャラも少しばかり似合っていたかもしれないけど、今のアクティブで現実主義な私には余りにも不釣り合い。
あ〜ぁ……洋服と洗面具類入れただけで、こんなになっちゃうとはなぁ。
お気に入りのミュールとかも持って行きたかったのに……。
旅行用バッグでも使えば全部入るんだろうけど、そういう訳にもいかない。
明日の朝、私はリュックに荷物を詰めて、友達の家に泊まりに行く。
この家の皆の目には、そう映らなければならないのだ。
何の変哲もない、毎日当たり前のように巡ってくる普段通りの日常を演じる。
その演技を成す為には、イレギュラーな要因、例えば友達の家に宿泊という行為には、どう考えてもそぐわない旅行用バッグなどは、使うわけにはいかないのだ。
まぁいい。
必要最低限の荷物は、なんとかリュック一つでまとまったのだから、ちょっと不満だけど良しとしよう。
それより、一番問題なのは明日、姉さんに会うその時だ。
この前ハッキングした情報によると、姉さんはあの空港で誰かと待ち合わせる。
その人物の詳細が載っていなかったことが少々気にはなったが、まぁそんな些細なことはいい。
元々の時刻は朝の9時。
そして、私がデータを改算してからの相手の待ち合わせ時刻は、昼の1時。
4時間も間が空いているのだ。
姉さんとその名も知らぬ待ち合わせ相手が遭遇することは、ないと考えていいだろう。
問題は、私が姉さんの同行者であるということを、いかにして信じさせるかだ。
何か、はっきりとした理由が……あの姉さんをして納得せしめるに足る、明確で強い理由が欲しい。
私が総理大臣の娘であることを利用して……なんて、無理ね。
そんな肩書き一つで、姉さんの同行者になる資格を得られる訳がない。
それに、姉さんには“内閣総理大臣の一人娘”としてではなく、“咸枷紗弥”という一人の人間として、私のことを見て欲しかった。
他の誰かなら別に気にもしないし、もう慣れたものだが、姉さんにはそんな目で見て欲しくなかった。
だから、そんな生まれつきの肩書きを……お父さんの七光り的な存在としての私じゃ、姉さんについていく価値はない。
能力が欲しい。
私にしかできない何か……他の誰かではできない何かで、且つ姉さんの役に立つ能力が……。
と、そんなことを考えていた折り、ふと私の視界に飛び込んできた何か。
それは、いつも愛用しているパソコンだった。
……一つだけ、あるじゃないか。
私の中に、自信という名の灯火がにわかに灯る。
身体能力や精神力、思考力に瞬発力。
力と名のつくものは、私みたいなどこにでもいるような小娘と、特殊な訓練を積んできている姉さんとでは、もはや比べものにもならない。
なら、私が姉さんの役に立つには、その力以外の点において、もっと言うなら、知識と技術の提供しかない。
それも、並大抵のものじゃダメだ。
その程度では、姉さんほどの人物の手助けなんてできるわけがない。
ある一点においてのみ特化した、まるで他者を寄せ付けない圧倒的な知識及び技術。
それが、私にはあるんだ。
そう考えると、胸の奥から熱い気持ちが込み上がってくるようだった。
人には話せない、後ろめたい悪趣味でしかなかったこの技術。
これが、よもやこんな場面で、私にこんなにも自信を与えてくれるとは思いもしなかった。
人生、どこで何が起こるか分からないとはよく言ったものだが、まさにその通りだ。
なにはともあれ、これで全ての準備は整った。
後は明日を待ち、作戦を実行に移すのみ。
何気なく、壁にかけられた時計に目をやった。
「夜の9時、か……」
さて、いつもなら、まだ寝るには惜しいとパソコンを起動して、色々と悪さをするところなのだが……、
「ん〜……」
不思議と、今日は何もする気になれなかった。
それどころか、うっすらとではあるものの、眠気すら襲ってきていた。
体調不良って訳でもないのに、こんな時間に眠くなるなんて……。
明日の為に休んでおけという、自分からの無意識な忠告かしら?
しばらくの間、布団の上に座したまま顎に手を添えて、今日これからの動向について思考していた私だったが、結局、自らベッドに体を沈めることとなった。
ゴロンと、ベッドの上に寝転がると、さっきまで大したことなかった睡魔が、私の中で急激に大きく膨らむのを感じた。
あ、これは今すぐにも寝るな。
そう感じるなり、私は何よりもまず枕元の目覚まし時計を手に取った。
クマのお腹の部分にアナログの時計が埋めこまれた、なんとも可愛らしい時計だ。

――アラームのセット時刻は……ここから、空港まで……ふぁ……1時間……だか、ら……7時……で……十分……。

今にも消えそうになる意識を振り絞り、セット時刻を確認し、スイッチを入れる。
そして、それを枕元の台に戻そうと手を伸ばしたところで――、

――ドサッ。

――視界が暗転し、私の意識は強制的にまどろみの最中へと落ちていった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時30分(89)
題名:発端〜The Biggining〜(第十三章)

「ふぅ……」
自宅に着くなり、すぐさま二階の自室へ上がり、私は重たい体をベッドへと投げた。
フカフカのクッションで一度だけ体がバウンドし、その後包み込まれるような感触と共に全身が沈み込む。
今日も一日ご苦労様と、己に労いの言葉をかけた。
全く……あの悪玉コレステロールの塊は……今日も今日とて、仕事の山を私に容赦なく押し付けやがって。
成人病と戦う前に私に消されたいとしか思えないわ。
近々、新手の悪戯を考えなければなるまい。
まぁ、イギリス行きを明日に控えた今、そんなことはどうでもいいことだ。
未だに名も姿も知らぬ同行者は、結局一度も私に接触してくることはなかった。
職場を訪れることもなかったし、自宅前にて待ち伏せられることもなし。
かといって、誰かに監視の目を受けている様子もなかった。
これはつまり、相手は今更私に会わずとも、私の容姿、出立ちを把握していることを裏付けるものだ。
自分で言うのもなんだが、私の顔は裏の世界では相当知れ渡っている。
好ましくもなんともない、幾つもの二つ名と共に、ね。
とまぁ、そんな訳だから、あちらさんが私のことを知っていることに関しては、そこまで驚くことではない。
しかし、一番厄介なのは、明日の待ち合わせのシチュエーションに他ならない。
休日で昼時の空港となれば、かなりの人で賑わうのは必至。
しかも、空港というグローバルな場所であるため、日本人だけでなく諸外国からの来訪者たちの姿もかなり目立つだろう。
もし、明日の待ち合わせ人が私の敵で、私を人混みに紛れて殺ろうとしているなら、なかなかの好条件だ。
しかし、その辺りの対策を練らない程不用心な私ではない。
空港の内部構造、窓や出入口等から内部を覗き見た場合の視界、チェックインにかかる所要時間、最も効率的な逃走ルート、飛行機に乗るまでに通る場所などなど……調べなければならないことは、全て予め現地を訪れて調べ上げた。
一般人からしてみれば異常だろうが、この世界で生きる者としては当然のようなものだ。
第一、そんなこともしないでたらめな生き方をしていたのでは、今までに何度命を落としていることやら分からない。
「さて、と。明日に備えて、相棒たちのお手入れをしなきゃね」
そう呟くと、私は布団の上で体を起こし、コートの中からいつも携帯している三挺の銃を並べて置いた。
先ずはグロック。
弾倉を抜き、遊底を引いて薬室を覗き込む。
その内部には、薬莢が装填されていた。
安全装置がしっかりかかっていることを確認してから、私は薬室に指を突っ込み、その薬莢を抜き取った。
安全装置を外し、グロックを正眼に構え、引き金を引く。
ガチッという鈍い音を立てて、撃鉄が下ろされた。
遊底が引かれた状態で停止し、残弾の無いことを示す。
うん、特に問題はなさそう。
今日も私の一番の相棒はすこぶる快調のようだ。
私は先ほど抜き取った薬莢を薬室内に戻した。
さて、次は二挺のリボルバーだ。
慣れた手付きでパーツ毎に分解し、枕元の引き出しから綿棒と薄い布を取り出す。
銃身、撃鉄、グリップ、引き金から内部の細かい部品まで、その全てを丁寧に布で拭く。
その後、輪胴の薬莢を取り外し、内側に付いたゴミや埃を綿棒でキレイに取り除く。
再度組み立て、輪胴が空の状態のまま、何度か引き金を引く。
ガチッ、ガチッという音を立てて、輪胴が回り、撃鉄が叩き下ろされる。
よしよし、こっちの二挺も、動作不良ってことはないわね。
さすがはリボルバー。
装弾数こそ少ないものの、普通のオートマチックなハンドガンと違って、ジャムることがほぼないってのは魅力ね。
薬莢を輪胴に戻し、銃身下部にそれを叩き込んだ。
これで、銃の手入れは完了。
まぁ、こっちは大丈夫だと思うけど、一応装備の確認もしておこうかな。
えっと、コートに手榴弾と閃光、煙幕手榴弾、それにグロック用の予備の弾薬とプラスチック爆薬、赤外線ゴーグルと携帯用発信機、それに自白剤等の各種薬物。
で、ジーパンの裾には、二挺のリボルバー用の予備薬莢が……ちゃんとあるね。
うん、忘れものはない。
これで、戦闘準備は完了。
後は、イギリスへ向かうための個人的準備だ。
部屋の隅に置いてある旅行用バッグを引きずり、無造作に開け放つ。
既に、ノートパソコンと必要最低限の各種周辺機器は、バッグの天井部にしっかりと固定されている。
これは、最新技術の粋を詰めに詰めた超高性能なノートパソコンで、O.L.就任日に政府から支給された非売品だ。
常に日本の各種衛星と無線通信を行っており、日々新たな機密情報が更新、追加されている。
主だったものは軍事関連で、日本を含めた各国の軍備情報が過半数を占めている。
しかし、いくら言っても日本の軍事衛星なので、国外の情報は普通に公開されているものしか載せられてはいない。
例えば、極秘裏に行われた軍事衛星の発射や、ミサイルによる空対空迎撃試験の詳細など、その国しか知りようのない情報を得るためには、その衛星そのものをハッキングするしかない。

だけど、それにはハッキングに関する莫大な知識と経験、それに時間が必要となってくる。
こちらのPCのスペックはもちろんのこと、暗号の各種解読法、及びそれらを組み合わせたり、またはハッキング先独自の暗号パターンを模索する発想力、それにハッキングがバレた際の迅速な撤退という素早い判断力も必要となるのだ。
私も、それに関する技術や知識はそれなりにあるつもりだ。
けれど、それなり程度の浅い知識では、逆に返り討ちに合いかねない。
私にはいささか荷が重いわね。
さて、そんなことより、明日の準備に戻らないと。
まずは着替えを用意しなきゃね。
まぁ、上は常時コートを羽織り、下は動きやすいようジーパンと決まっている以上、そんなにはいらなさそうね。
下着以外は、コートの下に着るちょっとした服と、替えのジーパン少しで十分っと。
後は、毎日使ってるシャンプーとリンスと洗顔料を入れて……周りからはそう見られてないけど、こう見えても私は、結構髪や肌のケアには気を遣っているのだ。
いつも使っているシャンプーとリンス、そして洗顔料は、どこに行くにしても決して欠かさない。
慣れないものを使って、髪がゴワゴワしたり、肌がかさついたりしたらたまったものじゃない。
くだらないことで集中力を欠くわけにはいかないという点で、こういうのはそれなりに大切な下準備と言えよう。
えっと、他に要るものあったかな? 何か忘れてる気がするんだけど……。
……あ、そうそう、お茶だ。
私はこんな日本人離れした青い髪を持っているけど、和の心を重んじる根っからの大和人だ。
海外へ行く時は、毎回日本茶のパックは忘れず持っていく。
ちょっと一息入れたいとき、やはり日本茶、特に緑茶は最高だ。
中でも、私は玉露が一番好きだ。
あのほろ苦さは、紅茶やコーヒーなんかの刺々しい侵略的な苦さとは違い、口の中いっぱいに広がりながらもとても柔らかい。
一時期は茶道に凝っていた時期もあって、ちゃんとした席でお茶を立てるくらいの技量と礼儀作法は身につけている。
まぁ、そんな機会があの会社であるはずもなく、故に他の皆は私がそんなことをできるなんて露とも知らない。
そういう私の大人しく物静かな一面も、一回連中に見せてやりたいもんだわ。
さて、それは置いといて、他に何か用意しなきゃならないものってあったかな?
……特にこれといって思い当たらないということは、もう忘れ物はないってことよね。
私は、いつも通り大して中身の詰まらなかった旅行カバンをベッドの脇に置いた。
タンスの中から、着慣れた下着と、寝間着代わりのガウンを取り出す。
「明日からは、下手すりゃろくにお風呂にも入れなくなりそうだし、今日はゆっくり浸かるとしますか」
着替えを片手に大きく伸びをしながら、私は部屋を出て、今日一日の疲れを取り除き明日に備えるため、階下の風呂場へと足を進めるのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時30分(90)
題名:発端〜The Biggining〜(第十四章)

――ピピピッ!ピピピッ!

荒々しく鳴り響くアラームの音が、つい先ほどまでそこにあったはずの静寂を引き裂いた。
覚醒を促すなどという生易しさとは縁遠い、覚醒を義務付ける強制力に満ちたけたたましい音。
いつもなら、その音から逃れるために布団を頭から被り、家政婦さんの誰かが消しにきてくれるまで惰眠を貪るか、もしくは手探りで、さながらゾンビみたいに緩慢な動きで目覚ましのアラームを消しにかかるかの二択なのだが、今日の私はそのどちらでもなかった。

――ガバッ!

布団から、まさに文字通り跳ね起きた私は、既に覚醒しきった眼で目覚ましを見据えた。
示される時刻は朝の7時。
と、その頭頂部のスイッチ目がけて、鋭い手刀を叩き付ける。
ガッチンという鈍く短い高温を上げて、目覚ましのアラームは沈黙した。
無論、最初のガッという音は、私の手が目覚ましを叩いた時のものだ。
私はなんともなさそうな顔を装っていたけれど、実はちょっぴり痛かったりする。
「……いった〜」
訂正、ちょっぴりじゃなく普通に、いや結構痛い。
ジンジンと痛む部分を見てみると、予想に違わず、しっかりと赤みがかっていた。
腫れるところまではいっていないものの、見てると何だか痛々しい。
今更になって軽く後悔。
しかし、朝っぱらからこんなことするなんて、我ながら訳がわからない。
やはり、それだけテンションがハイになっているということだろう。
実際、いつもならまだ寝ている時間にもかかわらず、眠気は全くない。
それどころか、頭の中は氷刃の如く、冷たく冴え渡っていた。
今なら、NASAにだってハッキングできそうな気がするわ。
……って、あれ?
そういえば昨日、私ってば確か目覚ましのアラームをセットするだけセットして、それを台の上に戻そうとしたところで寝ちゃったはずよね?
首だけを捻り、枕元の台上へと視線を送る。
そこには、ついさっきも見た通り、長年愛用しているクマの時計が置かれていた。
更に、よくよく思い起こしてみれば、昨日は電気も付けたまま寝てしまったはずだ。
なのに、天井の光源はちゃんと消されていた。
つまり、私は昨夜、目覚ましを元の位置に戻す途中で力尽き、明かりも消さないまま、深く寝入ってしまった。
それを、家政婦さんの誰かが、多分、夜遅くなのにまだ明かりのついている私の部屋を不審に思い、足を踏み入れてみたところがそんな光景だったから、色々と片付けてくれたと、まぁそんなところだろう。
うん、やっぱり今日の私は冴えまくりね。
いつもなら、きっと考えるのも億劫になって、とっくに二度寝モードに入ってたところだわ。
ベッドから立ち上がり、カーテンの閉めきられた窓へと足を運ぶ。

――シャッ。

私は、勢い良くカーテンを開いた。
瞬間、眩い朝の陽光が、窓ガラスを透過して部屋に差し込む。
薄暗かった室内を照らす日の光が、暗がりに慣れていた目に眩しい。
私は目を細めながら手をかざし、窓の向こうに広がる光景を見つめた。
敷地内に植えられた、定間隔置きににそびえる楓が目に止まる。
まだ紅葉の季節には早いためか、葉はまだそのほとんどが新緑の色を保っていた。
その更に奥、自然群生する雑木林は、植林された我が家の楓たちより何倍も濃厚な深緑で彩られていた。
持ち上げ式の窓を開き、そこから外の世界に目を凝らす。
手入れの行き届いた高級な窓ガラスとは言え、やはり完全に透明とはいかないんだな。
窓ガラス越しに見るより、何物にも遮られず、直接瞳に映る世界の方が、一段と鮮明な色彩をたたえていた。
頬を撫で抜ける一陣のそよ風が、私の栗色の髪を宙に遊ばせて、部屋の中に新鮮な空気を吹き込む。
遠くに見える雑木林の方から、セミの鳴き声が幾重にも重なって聞こえてきた。
この声を聞くたびに、あぁ、夏なんだなと実感する。
朝の明るさに慣れていなかった目が馴染むにつれて、少しずつ目線を上に持ち上げていく。
上空高くを埋め尽くすのは、美しい程に澄みきった空色だけだ。
そんな青空を仰いでいる内に、ふとこの空にも勝るとも劣らぬ青髪を持った、あの人の姿を思い出した。

――姉さん……。

心の中で、その名を呼ぶ。
あんなにも美しく、艶やかな髪は見たことがない。
町中でも、青い髪の人はたまに見かけるけれど、姉さんと比べたら……いや、比べるだけ無駄というものだろう。
何より、姉さんとそんじょそこらの奴を比べるなんて、姉さんに失礼だわ。
毎日どうやって手入れしてるんだろう?

この前聞きそびれちゃったし、今日会ったら聞いておこうかな。

――コンコン。

と、部屋の扉をノックする乾いた音が、静かな部屋の中で軽く反響した。
「お嬢様、失礼しま……あら?」
「おはよー」
扉の向こうから姿を見せた家政婦さんに、私は満面の笑顔で応えた。
「珍しいですね。休日のこんな時間に、もうお目覚めだなんて」
本当に珍しそうに、目を丸くして私を見つめてくる家政婦さん。
「何よ。私だって、たまには早起きすることもあるって」
頬を膨らまして、彼女の方を振り返る。
もちろん、本気で怒っている訳じゃなく、軽い冗談だ。
「ふふっ、いつもお寝坊さんのお嬢様から、早起きなんて言葉が出るとは思いもしませんでした。そんなに今日を楽しみにしていらっしゃったのですか?」
私に向かって控えめに微笑みながら、彼女はベッドの側に置かれた、はちきれんばかりに膨らんだリュックへと目をやった。
「う、うん……まぁ、ね」
私は口ごもりながら、曖昧に答える。
そんな彼女の、どこか嬉しそうな微笑に、私は何故か胸が苦しくなったから。
きりきりと締め付けてくる、哀しさにも似た心を縛る痛み。
これは、何?
……何、ですって?
ふっ、今更分かってないフリをするのか、私は?
この苦痛の正体。
それが分からない程、私は自分自身にも周囲にも重鈍ではない。
みんなを騙すことに対する、罪悪感。
果たして、これ以外の答えがあるだろうか。
そのみんなに入るのは、本当にみんな。
お父さんや家政婦さんたちだけじゃない。
日本という国の安全を保つための機関、国防省にハッキングしてデータ改算なんてしてる以上、その対象はもはや日本国民全てと言っても過言ではない。
それより何より、私は誰より尊敬する姉さんまでをも騙していることになるのだ。
姉さんと一緒に行きたいが故に、大好きな姉さんを騙す。
なんて我が侭な娘なんだろう、私。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時31分(91)
題名:発端〜The Biggining〜(第十五章)

自分一人のためなら、他はどうなったって知ったことじゃないと言っているようなものじゃないか。
我が事ながら、信じられない身勝手さだ。
不意に、心に芽生える危機感。
だけど、既に遅すぎた。
データを改算したのは、もう一週間近く前の話。
朝9時に飛び立つ飛行機のチケットを、当日に渡すとは考えにくい以上、それはもう姉さんの手に渡っていると見て間違いない。
しかし、その時間に本来来るべき同行者はやって来ない。
その人物の詳細は記されていなかったが、彼、もしくは彼女が所属する機関だけは分かった。

“SIS”

正式名称を

“Secret Intelligence Service”

日本語に直すと“イギリス情報局秘密諜報部”
つまり、その人物はイギリス戸籍の持ち主であるということになる。
なら、日本からの情報は、その人物に直接届くことはなく、イギリス大使館を経由することは必定。
となれば、この改算した情報の伝達を防ぐには、イギリス大使館の動向を監視すればいいわけだ。
ということで、相手に気付かれないようイギリス大使館のPCに、監視タイプのスパイウェアを送り込み、今日まで国防省からの情報のみを削除してきた。
あはは、私、一体どんだけ犯罪してるんだろ。
バレたら、きっと死刑ものね。
自分のやっていることのあまりの犯罪性に、自虐的な嘲笑を浮かべる。
「……お嬢様?」
そんな私を不審に思ったのか、家政婦さんがどこか不安げな声を上げた。
その面に浮かぶ表情にも、どことなく陰りが差しているようだった。
「ん、なに?」
内心を悟られぬよう、私は努めて普通を装った。
これが、皆を更に欺くこととなることを承知の上で、だ。
もう、後には戻れないのだから。
今更になって気づいたことだけど、ここにたどり着くまでに、私が軽率に犯した罪は、その動機の安っぽさに反してあまりにも重すぎる。
例え無意識の内のもので、悪意に満ちた悪事ではないにせよ、それが言い訳になる段階はとうに超越していた。
どうせなら、最後まで気付くことなく事が運べば良かったのに。
気付かなければ、こんな苦しみを味わうことはなかったのに。
気付かなければ、今も姉さんと再開するその瞬間に思いを馳せ、楽しみに胸踊らせることができたのに、と。
切に、そう願った。
それが、どこまでも無駄な行為と分かっておきながら。
だから、私は考えることを止めた。
負のイメージに捕縛された思考回路を断ち切る。
思考パターンから無駄を省く。
そう、苦しいことは考えなければいい。
いや、考えなければ苦しくないのかな?
一度、心を静ませるために深呼吸。

――すぅ……はぁ……。

……まだだ。
まだ、足らない。
再度、肺いっぱいに空気を送り込む。

――すぅ〜……はぁ〜……。
……よし、だんだんとだけど、落ち着いてきた気がする。
落ち着いた上で、考える。
今の私に必要なことはなにか。
それは、今までの行為に対する後悔では、決してない。
不謹慎な言い方になってしまうけれど、この背徳感と危機感に根ざした緊張を不安に思うのではなく、楽しまなければならない。
不安や心配といった負の感情は、すぐに顔に出てしまうものだ。
それをひた隠すのに大切なのは、そんな負の感情そのものを忘れてしまうことだ。
下手に隠そう、隠そうとしてしまえば、その隠し事が白日の元に晒されてしまうのが世の理。
だけど、そんな負の感情を忘れてしまえば、更に言うなら、その感情を“楽”に変えることができたなら、バレることなどあり得ない。
良くアニメやドラマでは、それすらも見抜かれてしまったりしているが、そんなのは隠す側の演じる“楽”に不手際があるだけだ。
例えば……ほら、既に恋人のいる人が浮気なんかした時の、恋人に対する妙に浮わついた態度とか。
不自然なくらいテンションが高くて、口数が多くなったりするじゃない?
あんなのは、私から言わせてもらえば、ただの愚か者でしかない。
こういう時に一番避けなければならないことは、不自然な態度を取って相手に違和感を与えてしまうことだ。
負の感情を楽に変えてしまうのは、あくまでもこのハードルをクリアしてから。
心の中に芽生える罪悪感が、顔に出てしまわないようにするためだ。
故にこの“楽”も、心の中の罪悪感を偽るためのものである以上、心の中だけに押し止めておかなければならない。
わざとらしく表立たせてしまうような愚行、行うわけにはいかない。
「さて、そろそろ待ち合わせの時間だから、行ってくるね」
「あ、はい……」




平静を保ったまま、でもどことなく楽しそうな雰囲気を醸し出しながら、私はベッド脇のリュックを手に取った。
それを持ち上げようとして、

――あれ……。

逆に腕が一瞬持っていかれそうになった。
……このリュックって、こんなに重かったっけ。
改めて持ち直し、もう一度力を込める。
今度は、別に難なく持ち上げることができた。
さっきは、あんなに重たかったというのに……。
「……お嬢様、どうかなされましたか?」
「ん、別になんでもないよ」
私は感情を押し殺して答えた。
「じゃ、行ってくるよ」
「え、えぇ……行ってらっしゃいませ……」
依然として不安げな家政婦さんを残し、私は部屋を後にした。
自室から玄関へと続く廊下を歩く。
歩く。
歩く……。
歩き続ける……。
この廊下、こんなに長かったかしら……?
毎日のように歩いている廊下だから、どれくらい歩けば玄関まで辿り着けるかなんて、重々承知だ。
向こうに見える大きな扉が、この廊下の行き着く果て。
見えているのに、いくら歩いても着く気がしなかった。
こんなに歩いているのに、どうしてまだ着かない?
そもそも、私は今、本当に歩いているの?
歩いているという感覚だけを、電気信号として脳が受けていて、本当の私はあの部屋を出てから一歩も動いていないんじゃないの?
いや、それ以前に、これは現実に起きていること?
もしかしたら、全部夢なんじゃないの?
あの日、国防省のデータを改算したこと自体、私の幻想だったのではないか
そうよ。
普通に、極一般的に考えてみれば分かることじゃない。
私みたいな小娘に、国防省のデータベースに忍び込むなんて真似、いくらなんでも出来っこないわ。
そう、だからこれは、きっと私が見ている長い長い夢。
罪深い楽しさと許されぬ苦しみによって彩られた、儚い夢幻。 これは夢、ただの夢、これはユメ、ただのユメ、コレハユメ、タダノユメ……。

――ナラ、ドコカラガユメ?

「っ!?」
我に帰った時、私は既に玄関口に立っていた。
何故か、足元がおぼつかない。
全身に悪寒が走る。
目眩がして、意識も虚ろだ。
私は崩れ落ちるようにして、その場にへたり込んだ。
幸いにしてここは玄関口。
座り込んでいたとしても、端からは靴を履くためだろうと見えて、何も不自然ことはない。
何か……私は今何か、とてつもなく恐ろしい考えをしていたような気がする。
「くっ……!」
私は勢いをつけて首を左右に振り、虚ろだった意識を呼び戻すと同時に、脳裏に張り付いた嫌なイメージを振り払った。
どうした、私!
彼女に……姉さんに会うのを、私はあんなに楽しみにしていたんじゃないか。
それが、何故こんなにも不安になる?
恐れるな。
恐怖は心を蝕む。
怯えるな。
怯えは心に付け入る隙を生む。
振り替えるな、全て過ぎた事。
もう……私は戻れないんだ
再度、自分の背中を押す。
家政婦さんの誰かに、こんな体勢でずっと玄関前に座り込んでいるのを見つかったら、またややこしいことになりそうだ。
そう思い、私は手近の靴を引き寄せ、足を通した。
リュックの重みを背に負い、立ち上がる。
少しふらつきそうになったが、なんとかこらえる。
仰々しいまでに大きな扉を押し開き、私は外界へと足を踏み出した。
澄みきった空からは、さんさんと陽光が降り注ぎ、頬をそよ風が撫で抜ける。
私は、そんな陽光に薄ら寒さを、青空に憂いを、そよ風には身体中にまとわりつくような不気味さを覚えながら、足を前へと進めた。
目的地は……成田国際空港。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時33分(92)
題名:発端〜The Biggining〜(第十六章)

ガタガタという鈍い金属音で目が覚めた。
多分、強風が窓を打ち鳴らしているのだろう。
そんなことを考えながら、私は瞼を持ち上げた。
薄暗い部屋の天井では、黄褐色の小さな豆電球が、仄かな明かりを灯している。
寝転がったその体勢のまま、頭上に片手を伸ばした。
私がこの時間まで安穏と寝ていたのだ。
何も起きてはいないと思うけど……まぁ、念のためというやつだ。
と、そんな折り、指先に硬くて冷たい感触を覚えた。
常時仕掛けてある、煙幕手榴弾のトラップだ。
敵がこの家の中にまで侵入、強襲をかけてきたとき、これを引けば窓際と扉の近くに設置された煙幕手榴弾が炸裂するようになってある。
ここは私の部屋だ。
視界を奪ってしまえば、私の絶対的優位性が確立される。
まぁ、未だかつて一度も使ったことはないんだけど。
そんなことをしている間に、意識は徐々に覚醒してゆく。
目覚めは悪くないが、かといって良いかと聞かれれば、決して良くもない。
早い話が、いつも通りということだ。
壁にかけられた時計をみれば、時刻は朝の6時半を示していた。
「ん〜っ……」
上半身だけを起こし、私は大きく伸びをした。
眠りの最中にありながらも、常に握っていた短刀が、カーテンの隙間から差し込む薄明かりを反射し、鈍い輝きを帯びている。
その短刀を枕元に置き、ベッドから立ち上がる。
軽く左右に腰を捻り、何度か適当に屈伸。
これだけで、脳も体も十分な覚醒状態まで持っていける。
窓の側まで歩み寄り、陽光を遮っていたカーテンを、左右へと一気に開いた。
すぐ目の前に立った電柱が、窓からの視界の約3分の1程度を埋めていた。
なんでも、聞くところによると、本来の設計予定では、こんなに電柱が近くになるはずじゃなかったらしい。
このマンションを建設中、建設予定地の端で、何やら人骨らしき物が出たという話を聞いたことがある。
実際は、マンション建設に反対していた団体による、悪質な偽装工作だったということらしいが、真偽の程は定かではない。
ともあれ、結局マンションの建設予定地は大きく北へとズレてしまい、そのせいでこの窓の目の前には、このように電柱が仁王立ちしているのである。
その分、この電柱がそびえる縦のラインの部屋は、マンション内でも最安値だったりするのだが。
遠くから聞こえる、少しくぐもった小鳥のさえずり。
窓を開け放っていたなら、きっと澄んだ歌声となって耳に届いていたに違いない。
まだ朝も早かったが、休日ということもあってか、車道は平日のこの時間帯よりはいささか賑やかだ。
リュックを背負って、自転車で坂道を勢い良く下っていく、数人の子供たちの姿も見える。
眼下に広がるのは、いつもとなんら変わりない、休日の朝の風景。
そこに生きる人々にとっても、多分今日はいつも通り。
しかし私にとって、今日から始まるのは非日常の日々。
いや、私にとってしてみれば、これこそ日常と言えるかもしれないな。
ま、今さら普通の一般人のように暮らせと言われても、多分無理だろう。
私自身、今のこの習慣が抜けないだろうし、何より私を取り囲む状況が、それを許しはしない。
「ふ……」
そんなことを考え、自然と自嘲気味な笑いが溢れた。
再度、時計を見る。
時刻はそろそろ7時を迎ようとしていた。
「さて、と」
私は窓に背を向けると、腰の帯を緩めて寝間着代わりのガウンを脱ぎ、予め用意しておいた服に袖を通す。
次いで、デスクトップ型のパソコンが置かれている机の椅子から、いつも着ているコートを手に取った。
それを羽織り、昨日まとめた荷物を持てば、それで準備は完了。
……おっと、忘れるところだった。
ベッドへと歩み寄ると、私は枕元の短刀を手に取った。
窓からさんさんと差し込む陽光を受けて、その刀身が美しくも冷たい白銀の輝きを放っている。
そういえばこれ、いつから持ってるんだっけ。
あの頃……人の道から外れた堕生を送っていた時には、もう既に持っていた。
その時分から、これはずっと剥き身だった。
触れようとする物全てを、無意識且つ無差別に切り刻む。
……まるで、当時の私みたいだな。
もしもあの時、あの場所で、あの人と出会っていなければ、私は今もあの薄暗い路地裏という名の監獄に囚われ、日の下を歩くことすら叶わなかっただろう。
いや、もしかしたら、もう今頃とっくに死んでいたかもしれない。
そう考えると、今の暮らしの何と贅沢なことか。
安定した収入の元、日々の衣食住に困ることなく、友や同僚と呼べる人たちと共に同じ時間を過ごし、夜になれば暖かい布団に包まれて眠ることができる。
会社に遅刻したとか、仕事の量が多すぎて嫌になるとか、上司に怒鳴り散らされたとか、そんな生殺与奪とは関係のない些細なことで、一喜一憂できるこちら側の世界は、どこまでも平和だった。
ともすれば、常に死と隣り合わせの生を送っていることを、忘れてしまいそうなくらいに。
でも、私は知っている。
人の命の儚さも、その軽さも。
心臓を刃物で軽く一突き。
それだけのことで、人というものは一瞬で死んでしまう。
だから誰だって、それこそ本当に幼い子供でさえ、その気になれば人なんて簡単に殺せてしまうのだ。
……昔の私がそうだったように。
陽光を浴びて美しく輝く刃を見つめる。
あれほど昔から使っているというのに、刃こぼれ一つ見つからない。
視覚による情報のみで判断するなら、これは新品と変わりないだろう。
しかし、染み付いた血の臭いは拭えるはずもなく、その生臭い香りが嗅覚を絶えず刺激していた。
今まで、これで何人の人間の命を絶ってきたことだろう。
最初、初めて人を殺したのも、この短刀だった。
あの時の記憶は、今も生々しい感触と共に脳裏に焼き付いている。
刃が肉を穿つ、あのなんとも言えない感覚。
皮膚を突き破り、筋繊維を断ち切り、血管を断裂させ、心臓に刃を到達させる。
あともう一押しで殺せる。
まだ、人なんて誰も殺したことはなかったけど、直感的にそう感じた。
震えもなければ、恐怖もない。 ただ、生きることしか考えていなかった。
だから、取り返しのつかないことをしたという自覚も、罪悪感などというものも、何も感じなかった。
動かぬ骸と化した死体から、衣服を剥ぎ取り、金を抜き取り、用済みとなった亡骸を近場の廃倉庫に放り捨てる。
路地裏を通りがかる人間を、出来るだけ一人の奴を選び、死角から襲い、殺し、剥ぎ、奪い、そして捨てる。
そして噂が広まって、人通りが無くなったら、別の場所へと拠点を移す。
いつも最後の方は、放置された死体の腐敗臭で充満した部屋と、その骸に群がる数多の蛆のせいで、新しい死体を捨てにいく 度吐きそうになっていたものだ。
拠点を変えた理由の内、何度かはその腐敗臭に耐えきれなくなって移動したこともあった気がする。
……そういえば、あれはどこだったっけ?
ふと、そんな思考が頭をよぎった。
記憶に残っているのは、薄暗く湿った路地裏の光景と、殺した人間の断末魔の表情と悲鳴、それに鼻を突く腐敗した刺激臭のみ。

日本でなかったことだけは確かなんだけど……。

――ピピピッ! ピピピッ!

と、不意に鳴り響いた目覚ましのアラーム音に、私の意識は強制的に現へと引き戻された。
反射的にその音源の方へと視線を向けてみると、アナログ形式の時計の針が、7時過ぎを示しているのが見えた。
あ、もうこんな時間か。
ちょっとボーッとし過ぎたかもしれない。
後もうしばらくここでのんびりしていても、時間的には十分だと思うけど、やはり誰かとの待ち合わせとなれば多少の余裕は持っておきたいところ。
それに、事前に下準備しているとはいえ、やはり色々と再確認しておきたいことはある。
「さて、そろそろ行こうかな」
肩から鞄を下げ、手に持っていた剥き出しの短刀を、背側の腰のベルト部分に差す。
家の中の戸締まりを確認した後、私は我が家を後にした。
空から降り注ぐ眩いほどの陽光が、直接私の全身を照らす。
見上げる先は、澄んだ青空とそこに浮かぶさんさんたる太陽。
雲一つとない快晴。
見ているだけで、心まで晴れ渡っていきそうだ。
でも、この空もここから見るからこそ、快い空なんだろうな。
あの時、あの場所で仰いだ空は、どんなに澄みきった青空だったとしても、心地よさを感じることはなかった。
大前提としてまず、心地よいという感情を抱くことそのものがなかった気もするが。
ま、そんなものは所詮、忌々しいだけの過去。
私が今、第一に考えるべきは、これから先のことだ。
「ま、狙撃されることはないでしょうが、一応念のためっと」
コートのポケットに手を突っ込み、四角い鉄製の箱のボタンを押す。
瞬間、全身に走る、軽い痛みを伴った痺れ。
「痛っ……も〜、相変わらずだけどこの電流、何とかなんないもんかしら」
……などと、ここで文句を言っても仕方がない。
時間は待ってはくれないのだから。
休日の朝の賑やかな喧騒の中を、私は少し早足で歩みを進めた。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時34分(93)
題名:発端〜The Biggining〜(第十七章)

賑やかな喧騒で埋め尽くされた空港内では、沢山の人たちで溢れ返っていた。
さすがは休日の空港といったところか。
この建物の中だけで、一体何千人居るのか、想像もつかない。
そんな人混みの中、私は何をするでもなく、柱にもたれ掛かりながら辺りを見渡していた。
こうしていると、いろんな人たちの姿が目に映った。
スーツ姿に大型の旅行鞄のあの人は、きっと遠くに出張に行くんだろうな。
いや、もしかしたら単身赴任なのかもしれない。
だとしたら、家族や恋人は見送りに来ないのかな?
私だったら、絶対に来るのに。
あ、あの二人は、きっと恋人同士ね。
二人で観光旅行……いやいや、もしかしたら新婚旅行かもしれないわ。
どこへ行くんだろう?
この時間にチェックインだとすると、イギリスかイタリア、オランダに韓国……あ、グアムなんかもあるじゃない。
となると、やっぱり恋人同士での旅行≒ハワイorグアムorサイパンという方程式がある以上、きっとグアムね。
あっちは家族連れだ。
見た感じ、荷物はあんまり多くないから、きっと休みを利用しての家族旅行だろうな。
家族旅行……か。
早くにお母さんがいなくなってしまった私にとって、それは夢物語と同じだった。
……羨ましいな。
素直にそう思った。
少し前までなら……姉さんに会う前の、過去に縛られていた私なら、その羨ましさも、きっと悲しさにしか繋がらなかっただろう。
でも今なら、それも一つの現実として受け止められる。
決して叶わぬ夢物語に思いを馳せ、それが叶わない望みであることに絶望を抱く。
そんな自分を棄てられたのも、他ならぬ姉さんのおかげだ。
その姿を求め、キョロキョロと周りを見回すが、その姿を見つけることはできなかった。

――ドスッ!

私は背中にのしかかる重い荷物を、まるで叩き下ろすかの如き勢いで床に置いた。

次いで、自らの体を手近な椅子へと放り投げる。
柔らかいクッションの感覚が、私の下半身を優しく包み込んだ。
「ふぅ……」
疲労からか、小さな溜め息が溢れた。
まぁ、元々体力に自信がある方じゃないんだけど……不慣れなことはするもんじゃないわね。
今現段階で、もう既に全身の筋肉を、気だるさが襲い始めていた。
明日、筋肉痛に悶えることはほぼ確定だ。
「私って、こんなにひ弱だったかなぁ……」
肩を揉みながら、腕をぐるぐると回す。
軽い痺れと、骨の鳴る乾いた音。
痛みはないけど、筋肉が疲弊してるのは間違いなかった。
いくら重いリュックを背負っているとはいえ、この程度で疲労困憊とは……。
自分でも悲しくなるくらいの体力の無さに、もはや泣けてきた。
いつもダルいという理由だけで、学校の体育をサボっていたことが、今更になって少し悔やまれる。
次からは、ちゃんと出るようにしようかな。
何気なく携帯を取りだし、時刻を確認する。
8時を少し過ぎたところだった。
姉さん……そろそろ来る頃かな。
そう思った、次の瞬間。
「……あっ」
視界の端に映った、澄んだ大空を思わせるような青に、私は思わず声を上げた。
人の群れの真っ只中。
その波に呑まれながらも、その群の内の一つになどは、決してなることのない確かな存在感。
油断なく周囲に目配せをしながら、それでも毅然としたその足取りは、怯えや迷いとは無縁に見えた。
何気なく懐に差し込まれた腕の先にあるのは、拳銃だろうか。
しかし、やはりどこへ行っても目立つのは、彼女の持つ長く鮮やかな青髪だ。
一歩足を進める度、腰まで伸びるその髪が緩やかにたなびき、その様はさながら、局部的に生み出される大空か大海のようだった。
以前、初めて会った時も思ったが、見とれてしまいそうなくらいキレイな髪だ。
同じ女性として、少なからず羨ましさを覚える。
「……ん?」
と、不意に、こちらに向けられた姉さんの目と、彼女を見つめていた私の目が合った。
「沙弥……?」
首を傾げながら近づいてくる姉さん。
私は、彼女を迎えるかのように、その場に立ち上がった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時36分(94)
題名:発端〜The Biggining〜(第十八章)

やはり、予想に反せず、空港内は凄まじいとさえ言えるほどの人々で、文字通りごった返していた。
充満する熱気も尋常ではなく、冷房の効いた空港内とは思えない程蒸し暑い。
どこをどう歩こうと、誰かしらと肩なり腕なりがぶつかってしまうのは、避けようがなかった。
肩から下げた鞄が、ひっきりなしに何かとぶつかって、歩きにくいことこの上ない。
館内に響き渡る放送が、せわしなく本日の航空便予定を告げると同時に、迷子の案内をしている。
まぁ、こんな人混みの中じゃ、しっかり手でも繋いでおくか、さもなくば首輪でも使っておかないと、幼い子どもなんかは簡単に迷っちゃうだろうな。
「……ん?」
と、何気なさを装って周囲に目配せをしていた折、見覚えのある容姿が視界に映った。
椅子に座る、短めに切り揃えられた栗色の髪をもつ少女。
その眼差しも、私同様こちらへと向けられていた。
最初は目の錯覚かと思ったが、幻にしては像がはっきりし過ぎている。
「……沙弥?」
無意識の内に、私の口はその名を呟いていた。
私は、周囲への警戒を緩めることなく、人波をかき分けながら彼女の方へと歩みを進める。
そんな私を迎えるように、彼女はその場に立ち上がった。
人の壁に阻まれながらも、私はやっとの思いで彼女の元へたどり着いた。
「お久しぶりです。姉さん」
最初に口を開いたのは、沙弥の方だった。
「えぇ、久しぶりね。沙弥。元気にしてた?」
「はい。そりゃもうバッチリ♪」
嬉しそうにそう答える沙弥の表情は、まさに満面の笑みというやつだった。
何だか、見ているこっちまで、無性に嬉しくなってきそうな笑顔だ。
足下の大きなリュックから察するに、これからどこかに旅行にでも行くのかしら?
「これからどこかに旅行?」
「はい。イギリスの方まで」
「へぇ〜、それじゃ……」
私と同じだねと言おうとした、その時だった。
「姉さんと同じですね」
「えっ……?」
沙弥のその言葉に、私は思わず驚きの声を上げた。
何故、沙弥がそのことを?
「知ってますよ。だって……」
そこで一旦言葉を区切ると、沙弥は一瞬顔を俯かせた後、私の目を真っ直ぐに見つめて、
「姉さんの同行者って、私のことですから」
迷いなくそう告げた。
「……えっ!?」
騒音に近い喧騒の中でも一際目立つ、驚愕の色に満ちた大きな声。
それが、私が上げたものだと気づいたのは、その声が周りの雑音に呑まれて消えてからだった。
「……」
「……」
呆気に取られる私を、沙弥はただ黙って見つめていた。
まるで、私の言葉を待っているかのように。
だから、私は口を開いた。
「……くっ、あっはははははは!」
否、言葉を紡ぐことなく、さも可笑しそうに大笑いした。
笑い飛ばすという言葉があるが、それを連想させるような笑い方だなと、自分でも思った。
「ね、姉さん……?」
「あはは……貴女が、私の同行者ですって? なかなか面白いこと言うのね。私の仕事がどんなものか、分かって言ってるの?」
茶化すように、さも軽々しい口調で、戸惑いを露わにする沙弥に向かって尋ねた。
答えを求めてはいない。
むしろ、答えて欲しくなかった。
「えぇ。先日放送されたイギリスの動物園起きた事件の調査、及び黒幕組織の壊滅……でしょう?」
しかし、沙弥はさも当たり前のことのように、躊躇なく答えた。
本来、彼女が知っているはずのないこと、知っていてはいけないことなのにもかかわらず、だ。
これは、もう認めざるを得なかった。
この子は……沙弥は、知ってしまっている。
今回の私の任務を。
「……そのこと、どうして知っているのかな?」
私は笑うのを止め、真剣な面持ちで問いかけた。
「さっきも言った通りですよ。私が、姉さんの同行者だからです」
確信に満ちた顔で答える沙弥。
その眼差しは、私の瞳を真っ直ぐに捕らえ、揺るがない。
本当に、彼女が私の同行者なのか?
だとしたら、何故今までその正体が明かされなかった?
彼女が同行者ならば、別に隠さなければならない理由などないはずだ。
あの時の社長の憂いを帯びた顔と、気を付けろという言葉が、脳裏に蘇る。
私は、同行者が明かされなかったのは、その人物がどこぞの国際級のテロ組織から送り込まれた人間であり、イギリスへ立つまでの間に、隙あらば私を殺すつもりだったからだと思っていた。
それが無理であるなら、同行者として私の仕事を手伝い、終わった後何らかの形で裏切るつもりだと、そう考えていた。
そんな危険な任務、何故政府が了承するのかと思うかもしれないが、これは信頼の程を裏付けるものとも言えるのだ。
逆を言えば、この程度で討たれるようなOLには、その資格がないということでもある。
とまぁ、そんな物騒なことばかり考えていただけに、この展開はあまりに予想外過ぎた。
まさか、内閣総理大臣の一人娘が、こんな危険な任務の同行者などと、お釈迦様でも想像だにしまい。
本当かもしれない。
だけど、嘘かもしれない。
真偽の狭間で決断に迷っていた私に、沙弥が突然語りかけてきた。
「姉さん、まだ疑ってるんですね? 私が本当に同行者かどうか」
「……えぇ、そうよ。正直、貴女が私に同行する理由が分からない。こう言っちゃなんだけど、沙弥みたいな女の子じゃ、足手まといにしかならないからね」
私は、事実を包み隠さず述べた。
そう、彼女が私に同行することで生じるメリット。
それが、どうしても分からなかった。
「言うと思った。それじゃあこれ、見てもらえますか?」
そう言って、彼女はしゃがみこむと、リュックのサブポケットから折り曲げたA4用紙を取りだし、私に手渡してきた。
なんだろう?
何か印刷したみたいな感じだけど……。
「あれ、これ……」
四つ折りにされたその用紙を開いてみると、そこに記されていたのは、意外なことだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時37分(95)
題名:発端〜The Biggining〜(第十九章)

「……私の携帯?」
用紙から外した目線を沙弥の方へと向けながら、私は小さく首を傾げた。
私の携帯の契約会社から、機種、製造年月日に製造番号等、様々な情報が記載されていた。
「えぇ、そうです」
「だけど、これが一体何の……?」
「あら、姉さんも案外鈍いんですね。これ、どうやって入手したと思います?」
「え? どうやってって……!?」
その沙弥の言葉で、私は彼女の意図するところが掴めた。
これは、私の携帯の詳細情報で、私“しか”知らないはずのこと。
なるほど……つまりは、そういうことか。
「……貴女の趣味は、いけないパソコンいじりってことね」
「まぁ、そういうことです」
沙弥が、ちょっとばつが悪そうに、苦笑いを浮かべる。
ハッキングが特技とは、なかなか趣味の悪い子だ。
しかし、ここまでの詳細情報を入手出来るということは、なかなかその技能は高等そうね。
多分、その手の知識に関してのみなら、私より優秀なのだろう。
そうでなければ、私の同行者に選定されるはずがない。
これは、いよいよもって認めざるを得なくなってきたようだ。
「最後に、一つだけ聞いてもいい?」
「何ですか?」
「……これは、貴女の望んだことなの?」
私は、真剣な口調で尋ねた。
この仕事が、真に死と隣合わせであることは、沙弥も頭では理解しているだろう。
しかし、それは所詮脳内での理解の範疇を越えることはない。
身をもって体験したことがない以上、その恐怖の程のほんの一欠片も分からないのだ。
そして、出来ることなら、沙弥にはそんな体験をして欲しくなかった。
非日常の世界に足を踏み入れることなく、普通の少女として、木漏れ日の差す平和な日常の中で育って欲しい。
私みたいな人間は、私だけで十分だから……。
そんな私の思いを知ってか知らずか、沙弥は私の眼差しを正面から見つめ返したまま、
「はい」
とだけ答えた。
彼女の意思の強さ、その全てが詰まった、短い答えだった。
どうあっても、心変わりしそうにない。
こうなってしまった以上、私に出来ることはただ一つだった。
「そう……それじゃあ……」
私は、沙弥の前に自分の手を差し出した。
「これからよろしく頼むわよ。沙弥」
「はい!」
沙弥の小さな手が、私の手を強く握りしめる。
本当に嬉しそうな笑顔。
それは、嘘偽りのない心からの笑顔だった。
だからこそ、私は不安を拭えなかった。
この顔は、今から死地へ赴くことを自覚しているものではない。
彼女はやはりまだ、少し学校の遠足に似た感情を抱いているのではないだろうか。
「だけどね、沙弥」
そう思い、私は口を開いた。
「もしかしたら、私がいるから安全だろうと思ってるのかもしれないけど、だとしたら大間違いよ?」
「……」
先ほどの無邪気な笑みとは対極的な険しい面持ちで、黙したまま、しかしうつ向くことなく私の言葉に耳を傾ける。
「いざという時、私が沙弥に対して常に気を配っていられる状況にあるかどうかは分からない。もしかしたら……」
「姉さん、そこまでです」
と、突然沙弥が、私の言葉に割って入ってきた。
「姉さんの言いたいことは分かってます。その覚悟は、もうしてきました。でも……」
そこで一旦間を置くと、
「私、姉さんを信じてますから」
彼女は、そう言って明るい笑顔を浮かべた。
……そうきたか。
なかなか卑怯な手を使うじゃない。
そんなことを、こんなにも良い笑顔で言われちゃ、もう信じてもらうしかないわね。
「……後悔しても知らないわよ?」
「姉さんと一緒なんですもの。後悔なんてするはずがありませんよ」

「はぁ、貴女もまたえらく楽観主義ね」
私は複雑な笑みを浮かべた。
「私、こう見えても結構現実主義なんですよ……って、そういえば、そろそろチェックインしなきゃいけないんじゃないですか? ほら、もうすぐ離陸30分前ですよ」
「そうね。そろそろ行こっか。あ、ちゃんとパスポートとか持ってきてるんでしょうね」
「私を誰だと思ってるんです? そんなイージーミス、するはずがありませんって」
「えらく自信満々ね。これは、イージーミスした時が見物だわ」
「そんな時は未来永劫来ませんけどね〜。よいしょ……っと」
足下に置かれたリュックを、沙弥が重そうに持ち上げる。
「えらく重そうね。何が入ってんのよ」
「着替えとか洗面具とか、生活に必要なものばっかりですよ。本当は、可愛いパジャマとかミュールとかも持ってきたかったんですけど」
「貴女ねぇ……そんなん持ってきてど〜すんのよ」
「冗談ですよ。冗談」
「疑わしいものだわ。ほら、貸しなさい。持ったげるから」
「あ、ありがとうございます。姉さん」
「全く、非力なんだから。ねぇねぇ、ところで、イギリス着いたらどこ行きたい?」
「姉さん。遊びに行くんじゃないんですよ」
「あら、意外な言葉がでてきたわね。いくら仕事でとは言っても、少しくらいは観光気分を味わいたいじゃない?」
「あ、それならビッグベンとか見てみたいですね」
「あんなのただでっかいだけの時計塔じゃない。やっぱ行くなら、ピカデリーサーカスでショッピングでしょ」
「いやいや、それよりロンドン・アイに乗りましょうよ。世界一大きな観覧車って、どんなのか興味あるじゃないですか」
「いやいやいや、それより……」
そんな他愛のない会話に花を咲かせながら、私と沙弥は受け付けへと足を向かわせた。
……まるで、これから起きる大きな不幸の前の、小さな幸せを精一杯楽しむかのように。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時38分(96)
題名:発端〜The Biggining〜(あとがき)


みょん可愛いよ、可愛いよみょん♪





はい、東方ネタです。
知らない人は、鮮やかにスルーしてやってくださいませ(´・ω・`)
いや〜、最近とある友人に東方を勧められてやってみたところ、見事にハマっちゃいましてね〜。
その勢いで、ニコニコの東方M1グランプリなるものを視聴したところ










みょん可愛ぇ〜( ̄▽ ̄;)




と、妖夢萌えに目覚めそうになってます(´・ω・`)
あれは皆さん、一回見てみて下さい。
きっと、今まで人生損してきたことに気付くはず。



ま、人生Very Hard通り越してもはやExtremeな私には、損とか得とか関係ありませんが。
日々生きていくだけでいっぱいいっぱいですから。


誰か、恵まれない私に朱い月募金を……(-_-;)





さて、バカもこの辺りで終わりにして、本題へと移りましょうか(´・ω・`)
今回、またしても長編モードへと突入の予感を、感じずにはいられない作品となってしまいました。
これで新世界、P.Dに続いて、三作品目となる長編小説が……(´・ω・`)

己が力量を、激しく見誤った気がしてなりません(;‐∀‐)

とりま、そんなことは置いといて、今作品はいかがでしたでしょうか?
前回は、主人公が脇役に甘んずるという展開だったので、今回は彼女にはふんだんに暴れてもらう予定です。
そして、前回ほぼ主役だったICお嬢様、咸枷沙弥嬢がまたしても出演。
この前のあとがきでも言ったように、私個人的に結構気に入っているキャラなので、今作にも結構良いポジションで登場させてみました。




……ただの犯罪者じゃん。




とかいう突っ込みは受け付けていませんので、ご了承下さいませ(爆)


なんだかんだで長編作品多いですが、投げ出すつもりはないので、よろしければ生暖かい目で見守ってやって下さいな(´・ω・`)ノ


それでは、今回はこの辺で幕をおろすと致しましょうか。
この作品に関する批判、アドバイス、ざけんなゴルァ等々ございましたら、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」の方まで、フルミックにしにきてやって下さい(ノ_<。)
では、次の舞台でまた邂逅せんその時まで、ごきげんよう。





ここまでは、今日も今日とてバイト先で売り物の電球を粉々に砕いたアホこと、月夜がお送りいたしましたm(_ _)m

月夜 2010年07月09日 (金) 22時42分(97)


Number
Pass

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