「フンフンフーン♪」 部屋に鳴り響くのは、キーボードを打つカタカタという音と、その主のご機嫌そうな鼻歌。 パソコンの画面中央には“認証”という文字が、緑の枠に囲まれて浮かんでいた。 「よしよし、今日も鮮やかに防壁突破っと。毎日毎日、大して難しくもない暗証コードの変更、ご苦労様です。私ってば天才じゃない?」 などと、本当にろくでもない独り言を言っているのは、現内閣総理大臣、咸枷大善の一人娘、咸枷紗弥嬢だ。 今までは物静かで大人しく、気の弱い虚弱な少女という絵に描いたようなお嬢様だった彼女だが、前回の一件以来、水亜に対してただならぬ想いを抱いたようで、性格が一変。 彼女のように明るくポジティブで行動的な女性になろうと、日々努力しているとのことだ。 父親である大善は、そんな娘の健気な姿に満足気だそうだが、家政婦の面々はその激しい変貌振りに未だ戸惑いを拭い切れていないらしい。 そして今は、夜の彼女にとって最大のお楽しみ、ハッキングタイムの真っ最だ。 総理の娘が何をやってるんだと思うかもしれないが、まさにその通りである。 しかし彼女曰く、原則決められた場所で決められたことしか出来ない渇ききった毎日に、背徳的潤いを与える大切な時間だそうな。 問題のハッキング先なのだが、最初は簡単な、例えば学校のパソコンの他生徒のID程度のものだったのだが、最近その技量の上達と共にハッキング先も性質が悪くなる一方で、今では国防省や財務省等の日本の中枢機関にまで侵入するようになってきている。 中学生如きに突破される政府各省庁がだらしないのか、それともそれを可能にしてしまう彼女の才能を賞賛すべきか。 どちらにせよ、せめてもの救いは、彼女が内閣総理大臣の娘であることだ。 一般家庭の女子中学生が、政府の最高機密を握っているとなれば、それこそ大問題である。 まぁ、だからといって内閣総理大臣の娘であれば良いということでもないのだが。 「さてさて、今日は何か新しい情報、入ってるかな〜?」 ウキウキ気分で画面をスクロールさせていく……と、不意にその動きが止まった。 「あ、これ……」 カーソルの示す場所には一つのファイルがあり、その左側に“New File”と書かれてあった。 名目の欄には“O.L. 明神水亜”とある。 「姉さん、また任務を言い渡されたんだ……」 複雑な気分だった。 自分の知り合い、それも尊敬する慕い人が活躍するのは、まるで自分のことのように嬉しくて、胸が高鳴る。 その反面、そんな人が命の危険に晒されるようなことになるのは、やっぱり心安いものではない。 自分が安穏と暮らしている今も、彼女は一人、自分達のために命をかけて戦っているのかと思うと、彼女を応援する気持ち以上に、何もできない自分自身がやりきれなくてたまらなくなってしまう。
――一緒について行きたい……。
いつからか、そんな気持ちが芽生えるようになった。
彼女に一緒についていって……何ができるというわけではないけど、その苦しみを分かち合いたい。 心の底からそう思った。 でも、それは決して叶わぬ願い。 付いて行ったところで、足手まといにしかならない自分では、決して……。 「……」 そんな思いを胸に、紗弥はマウスをクリックした。 次の瞬間、画面を埋め尽くした文字の羅列。 その内容に目を通していくに従って、どこか悲しげだった紗弥の瞳に輝きが取り戻されていく。 少し伏し目がちだった顔は持ち上がり、その眼差しは何かに取り付かれたように液晶を見つめていた。 ふと我に帰ると、私の手はいつの間にかマウスを握っていて、閲覧していたファイルのとある部分にまでアイコンを動かしていた。 範囲化した部分を右クリック、編集を選んだところで、 「……」 その指が止まった。 脳内でせめぎあう、善の理性と悪の欲求。 分かっている。 これは、間違いなく犯罪だ。 しかも、国防省のデータベースに忍び込み、そのデータを改算するなんて、下手をすれば死刑並の重犯罪だろう。 いくら自分が、内閣総理大臣の娘とはいえども、だ。 紗弥の脳裏に描かれる、自分の理想とする結果。 それを導く手段は、今この手に揃っている。 しかし、それを実行に移すことは、絶対にしてはいけないこと。 日本という国に生きる一人の国民として、絶対に。
でも、それでも……。
――カタン。
キーボードを叩く乾いた音。 範囲化されていた部分が、刹那の内に消去される。 そこからは、自分でも驚く程素早く指が動いた。 消去した部分に、数値だけを変えた偽の情報を打ち込む。 以前の最終更新日時をコピーペーストし、ファイルを更新。 直ぐ様、そのファイルの編集ページを開く。 最終更新日に先ほどコピーした情報を上書きし、ここを訪れた痕跡を消去した。 これで作業は終了。 私がデータをいじくったことはもちろん、私がここを訪れたという事実すら闇の中だ。 平衡感覚を失ったかのように、グラグラと揺れる視界。 様々な思念が頭の中で渦を巻き、脳髄が痺れたような不思議な虚脱感と倦怠感。 まるで、自分の体なのに自分のものじゃないかのような感覚に、私はしばらくの間、ただ黙って液晶を見つめていた。
――コンコン。
「!!?」 と、不意に背後で鳴ったノックの音に、紗弥はビクンと大きく身を震わせた。 反射的に右上の×印をクリックして、開いていたファイルを閉じる。 「な、なにー!?」 次いで、扉の向こうにいるであろう誰か、おそらく家政婦の一人に向かって、必要以上に大きな声で問いかける。 「お嬢様、お風呂が湧きましたので、お呼びに上がったのですけれど……どうかなされましたか?」 家政婦の人が、訝しげな口調で尋ねる。 あんな声で問いかけられたのだから、これは至極普通の反応と言えるだろう。 「な、なんでもない! すぐ行くよっ!」
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