――英国、マンチェスター国際空港、7/25、現地時間9:00――
――皆様、ただ今当機はイギリス、マンチェスター国際空港に着陸いたしました。皆様の安全の為、ベルト着用のサインが消えるまで、座席にお座りのままでお待ち下さい……。
機内アナウンスに耳を傾けながら、高礼嘉治は閉じていた瞼を持ち上げた。 備え付けの窓から外に目をやれば、そこに見える光景は白き雲海ではなく、大きな建築物に数本の木々、そして長く伸びる滑走路と、そこに止まる数台の飛行機たちが織り成す、地上の景色だった。 赤く光るサインが消えるのを待ってから、ベルトを外す。 ファーストクラスの心地良いソファーから、嘉治は名残惜しむようにゆっくりと腰を上げた。 長い間、ずっと座り続けていたからだろう。 立ち上がると同時に、関節の節々がギシギシと鈍い悲鳴を上げた。 軽く体を捻り、固まってしまった筋肉に刺激を与える。 次いで、天井近くの荷物置きを開き、中から焦げ茶色のウエストポーチを取り出した。 腰に巻き付け、しっかりと固定する。 「さて、と」 そう小さく呟くと、嘉治はゆったりとした足取りで降車口へと向かった。 途中、すれ違うスチュワーデスの恭しい会釈を受ける度、軽く片手を上げて礼を告げる。 そして、降車口まで後一区画となった頃、
――ドンッ!
「わっ!?」 何かが足に勢い良くぶつかった衝撃と共に、下方から子供の声が聞こえた。 そちらに目線を下げてみれば、尻餅を付いたまま、怖々とした表情でこちらを見上げる、幼い男の子の姿が見えた。 「あ、え、えっと……」 地に座した状態のまま、立ち上がろうともせずに口ごもる男の子。 その様子から察するに、次に言うべき言葉を知っておりながらも、言えないでいるといったところだろうか。 その場に屈み込み、嘉治は彼と目線の高さを合わせた。 「大丈夫? 怪我はないかい?」 「う、うん……」 嘉治の問いに、男の子は戸惑いながらも大きく頷いた。 「それは良かった。君、名前は?」 「……こ、弘輝」 「弘輝君か。さて、見たところ、弘輝君は賢い男の子のようだ。なら、こういうとき、君は次に何と言うべきかな?」 物腰柔らかな口調と、柔和な表情で、嘉治は優しく彼に次の行動を促した。 「え……あ、えと……ご、ごめんなさい……」 そんな嘉治に背を押され、少しもじもじしながらも、その男の子は躊躇いがちに謝罪の言葉を述べた。 「よろしい。自分が悪いことをしたと思ったら、ちゃんと謝る。大事なことだよ」 「うん。お父さんも似たようなこと言ってた」 「それは立派なお父さんだね」 「うん! 僕、大きくなったらお父さんみたいな大人になるんだ!」 「……そうか。大丈夫。君はしっかりした子だから、きっとお父さんみたいな立派な大人になれるよ」 「本当? おじさん、ありがとう!」 「弘輝? 誰と話してるんだ?」 不意に聞こえてきた声に、嘉治はそちらへと視線を動かした。 こちらを見つめるのは、歳のほどまだ30前後と思しき、品の良さそうな青年だった。 「あ、お父さん! 僕、このおじさんとお話してたんだ」 「あ、こ、これはどうもすみません。う、家の弘輝がご迷惑をお掛けしたようで……」 その男の子の父親は、申し訳なさそうに表情を歪め、嘉治に向かって深々と頭を下げた。 ちょっとどもっている辺りが、先ほどまでの男の子と重なり、それが細やかながら血の繋がりというものを感じさせる。 「いえ、お気になさらず。では、私はこの辺で。バイバイ、弘輝君」 「バイバ〜イ!」 立ち上がり、去って行く嘉治の背に向かって、男の子が元気に手を振る。 「……」 降車口のすぐ手前まできてから、嘉治は一度背後を振り返った。 視界に映るのは、先ほどの男の子と青年の互いに笑い合う姿。
――僕、大きくなったらお父さんみたいな大人になるんだ!
脳裏でリピートされるのは、彼の元気な言葉と眩しいくらいに輝く笑顔。 「お父さんみたいな大人になる……か」 呟く口元に浮かぶ苦笑い。 それは、果たして何を思っての笑みなのか。 知るのは当人のみ……いや、本人でも良くわからないからこその苦笑か。 視線を前に戻す。 その先に見えるのは、しばらくぶりに見る外の景色。 とは言っても、空港内という意味では、外とは言えないのかもしれないが。 「本日は、誠にありがとうございました。またのご利用を、心からお待ちしております」 「あぁ、どうもありがとう」 降車口のすぐ側に立ち、深々と頭を垂れるスチュワーデスに礼を述べながら、嘉治は機内を後にした。 何気ない足取りで、階段を下りてゆく。 しかし、その眼差しはまさに鷹の如く、微塵の隙も見当たらない。 己の周囲全てに意識を張り巡らし、且つ全身の筋肉に無用な力みや緊張は与えない。 一般人の目では何も感じ得ないかもしれないが、そこそこの修羅場をくぐり抜けてきた者には、その何気なさの裏側に潜む彼の真の姿が垣間見えることだろう。
――……見たところ、こちらを監視しているような気配もなければ、殺気も感じられない……か。
「ふ……ナメられたものだな、私も」 誰に言うともなくそう呟き、悠然と歩みを進める嘉治。 その口元に浮かんだ笑みは、社長としての彼の優しい笑みでも、特命安全理事会としての彼の余裕の笑みでもなく、一人のO.L.としての不敵な微笑だった。
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