――日本、防衛省内部、7/26、現地時間7:30――
「あぁ……そうか。分かった」 電話主の荘厳な声が、密閉された空間にて幾重にも反響し合い低くこだます。 それは、彼の声質によるものというより、室内環境に起因するところが多くを占めていた。 隙間なく綺麗に敷き詰められたフローリングの床は、手入れが行き届いており、塵や埃の類いは一切見受けられない。 また、本来壁や天井には施工しないはずのこのフローリングだが、この室内に限ってはその常識の範疇を逸脱していた。 壁から天井に至るまで、細い木材が定間隔置きに美しく組み合わさっている。 そんな辺り一面を埋め尽くす木材の影響で、ここが木の持つ色を基調とした自然色の強い色彩の部屋であることは、訪れた人々の誰しもにとって一目瞭然であろう。 だが、そんな単一的な色の中でも、壁の所々に掛けられた絵画や、各所に置かれた調度品と思しき骨董品たちのおかげで、飽きのこない程よい色調のバランスが取れていた。 そんな中においても一際目立つ、光を反射し光沢を放つ漆塗りの長机。 机上は様々な資料でごった返しており、これではどこになにが埋もれているか、部屋主ですら把握しきれていないことだろう。 申し訳程度に置かれたブックスタンドが、重量に耐えられなかったのか横倒しに倒れており、元来中に収まっていたはずの資料の束が、だらしなく垂れ流されている。 この机の持ち主が、整理整頓を苦手としていることは明白だ。 「……いや、それで十分だ。後はワシがやろう。お前さんは引いてくれ」 そんな机のすぐ手前、見るからに高級そうな革張りの黒い椅子に深々と腰掛け、受話器を耳にあてがっている一人の老人の姿。 鼻下と顎の部位に髭を生やし、髪はその大半が白髪と化している。 同年代の一般的な老人と比較すると、体格的には多少痩せ細っているように見えたが、恐らくは彼の高い身長がそう見せるのであって、平均体重は優にあるのだと思われる。 しかし、彼はどこにでもいるような老人とは、決定的に違った。 そのことは、彼の力強さに満ちた瞳の輝きと、眼前に立つだけで思わず気圧されてしまいそうになる、彼という存在そのものが放つ荘厳な気配にありありと示されていた。 だが、何よりそれを物理的に証明しているのは、眉間から頭部にかけて斜めに走る、痛々しい傷痕だ。 この傷について話をする時、彼は“昔、前線で活躍していた時に負った名誉の負傷”としか語らず、その真実について深く知る者は本人しかいない。 「あぁ……あぁ、それでいい。ご苦労だった」 最後に、そんな簡素な労いの言葉を電話越しの相手に手向け、彼は受話器を置いた。
――カチャッ。
子機の置かれる乾いた音が、無音の空気中に深く染み入る。 「さて……面倒なことになってきたわい」 背もたれに身を預けながらそう呟き、彼は懐から煙草を取り出した。 以前はニコチンが多量に含まれたキツい煙草を吸っていたのだが、家内や孫娘に加えて秘書にまで健康に気を使うよう説教され、最近ではニコチン量の少ないメンソール系の煙草へと銘柄を変えていた。 「ふぅ……」 深く煙を吸い込み、肺一杯に満たしたそれを惜しむように吐き出す……が、やはり既に体が以前の銘柄に慣れてしまっているのだろう。 あまり、煙草を吸っているという感覚がしなかった。 これでは、あってもなくても大して変わりない。 ……等ということをこの前口にしたら、遊びにきていた孫娘に
――じゃあタバコ止めちゃえばいいのに。大体、おじいちゃんがそんなんじゃ、誰がにほんのへいわを守るの?
何てことを言われてしまい、返す言葉に詰まって苦笑いを浮かべてしまったことが、まるで昨日のように思い返された。 「……参ったのう」 後頭部に手をやりながら、自然と口元に浮かぶのは、やはり自嘲気味な苦笑。 細々と白煙を立ち上らせる煙草を、しばしの間逡巡するように凝視した後、 「……ふぅ」 溜め息と共に、手に持っていた煙草を、まだ半分と吸わない内に灰皿へと押し付けた。 「禁煙でもしてみるか」 「またまた、心にも無いことを」 突如として部屋に響いた、彼以外の何者かの声。 其方へと向けた視界に映るのは、扉を開け、室内へと足を踏み入れる一人の女性の姿だった。 身長、体つき共に、世間一般的な女性と評して何ら問題ない体格で、見る者の気持ちを穏やかにしてくれそうな、おっとりとした柔和な顔つきが特徴的だ。 そんな身体的特徴柄、着込んでいるスーツとは奇妙な不協和音を奏でており、お世辞にも似合っているとは言い難かった。 「禁煙だなんて、一体どの口がそんなお戯れをおっしゃるのやら」 開けた時と同じように静かに扉を閉め、彼女は半ば呆れたような口調で言葉を繋げた。 艶やかな短めの黒髪を、後頭部で結わえたポニーテールが、彼女の動きに合わせて小さく揺れる。 「おぉ、さっちゃんか。今日も早いのう」 「今日は些か遅いくらいです。後、そのさっちゃんという呼び方、いい加減なんとかならないんですか? 私には、ちゃんと佐奈っていう名前があるんです」 そう言って、その女性―西谷佐奈(さいたにさな)―は呆れ顔の上から不機嫌さを露わにした。 彼女は、長きに渡り彼の秘書を務めており、公私に及んで仲の深い、彼にとってみれば最も信頼の置ける片腕のような存在だった。 というのも、相手の気持ちを読むことに長け、細かな気配りのできる優れた人間性もさることながら、何よりそのおっとりとした雰囲気からは想像もつかないくらい、秘書として業務の面でも極めて優秀な能力を持っているからだ。 「良いじゃないか。西谷にしろ佐奈にしろ、さっちゃん一つで姓名両方の呼び方ができるんじゃぞ?」 「ちっとも良くありません。長官がそんな呼び方をするせいで、周りの皆さんもさっちゃんさっちゃんって呼ぶものですから、誰も私の本名知らないんですよ?」 「そうふてくされるな。この省内で、さっちゃん程皆から親しまれている呼び名はないぞ」 がっはっはと豪快に笑い散らしながら、その長官と呼ばれた男性はゆったりとした動作で立ち上がった。 そう、何を隠そう彼こそが、日本の防衛における要、防衛省長官こと季慈克時(きじかつとき)その人である。 この職に就いて、もう早十数年にはなろうかという、国防の熟達たる人物だ。 それ以前は、海外の紛争地帯を転々とし、その惨状を記事や写真として伝える、戦場記者兼カメラマンという異色の経歴を持ち合わせていたりもする。 それ故、平和ボケも甚だしいと言われる日本人には珍しく、戦争の凄惨さと残忍さを誰より理解しており、国を守るという姿勢には余念がない。 現実主義を理念とし、常に事態を悲観的に想定してその対応策を練るというスタイルで、今までに幾度となく日本をテロの脅威から救ってきており、国内外から日本の防衛省史上最高の逸材とその評価は高い。 だが、普段の彼、つまりはその本質的なものなのだが、良く言えば豪快、悪く言えば非常にずぼらな性格で、周囲の人物、主に佐奈に多大な迷惑をかけていたりする。 その代表例が、散らかり放題資料の散乱した彼の机だ。 一日にして荒れ果てた机上を、佐奈が朝早くに出勤して綺麗に整理整頓し、それをまた季慈が散らかしてというイタチごっこを繰り返すのが、二人にとっての日常、日課だったりする。 つまり、このことが示す事実は、今日が何の変哲もない日常ではないということに他ならなかった。 「お出掛けですか?」 立ち上がり、出掛け支度を整え始める季慈に向かって、佐奈が問いかける。 「あぁ。少し出てくる」 「いつ頃お戻りになられますか?」 「それほど時間は掛からんよ。夕刻までには戻る」 「かしこまりました。では、いってらっしゃいませ」 出掛けてくると言う季慈に対し、佐奈は特に問いただすようなことはせず、恭しく頭を下げた。 秘書として最も重要なことは、付き添う上司を信頼することであるという彼女の信念が、さりげないこの動作に良く示されている。 むやみやたらと首を突っ込まず、必要とあらば自ら一歩身を引く彼女のそんな慎ましやかな態度を、口にすることはなかったが、季慈は心底気に入っていた。 「あぁ、そうだ」 扉の前に立ち、ドアノブを捻ったところで、季慈は何かを思い出したように佐奈の方を振り返った。 「もしかしたら、誰かお偉いさんが急に訪ねてくるかもしれんが、その時は頭を下げるなり居留守を使うなり、さっちゃん流の接待をするなりして、丁重に断っておいてくれ」 「了解しました。留守の間のことは、どうぞお任せください」 「うむ。それじゃ、行ってくるぞ」 「行ってらっしゃいませ」 もう一度、深々と頭を垂れる佐奈に背を向けて、季慈は口元に笑みを浮かべながら自室を後にした。 扉の閉まるバタンという音が、佐奈一人となってしまった空間に響き渡る。 「さて……と」 軽く伸びをしながら、先ほどまで季慈が腰かけていた長机の方へと目を向ける。 そこに見える、乱雑に折り重なった資料の数々。 「来客の方がお見えになる前に、ここの片付けを済ませておきますか」 誰に言うともなくそう呟くと、彼女は小さく微笑みながら、己の日課に手を付けるのだった。
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