――英国、ロンドン、ヒルトンホテル、7/27、現地時刻22:00――
「……」 ホテルの階段を上りながら、私はおもむろにポケットから数枚のカードを取り出した。 免許証やどこぞのスポーツクラブの会員証、病院の診察券など様々だ。 それらは全て、同一の人物から奪い取ったものであったが、氏名の欄には、全て別の名前が記されている。 「……やっぱり無駄足だったみたいね」 ポツリ、そう呟く。 そこそこ規模の大きいブラックな組織というのは、その存在を知られにくくするよう、所属する人間にも身分を確定されるようなものを持たせないというのは、よくあることだ。 今までの経験上わかってはいたことだったが、どうやら今回も同じパターンのようだった。
――ま、初めからある程度予想は出来てたことだから、別に良いんだけど。
正直、この淡い期待が実らないであろうことは、予想の範疇だった。 当初の予定では、私が一人で出向き、紗弥に危険が及ばないところで色々と尋問して情報を吐かせてやるつもりだったのだけれど……そうそう楽に事は運んでくれないらしい。 何を聞いても頑なに口を閉ざしたままで、結局死ぬまで何一つと口を割ることはなかった。 自白剤の類いも、持っていないわけではなかったが……正直言って、あれはあまり宛てになるものではない。 警察モノのフィクションでたまに使われてるけど、あんなのは本当に頼る情報が一切ないときに用いる、いわば最後の手段だ。 自白剤というのは、脳の一部を麻痺させて相手を自白しやすい状況にもっていく為の薬物であり、相手の意思を完全無視して自白を強要するような万能性はなく、そういう意味では拷問とそう大差ない。 むしろ、脳の一部が麻痺して朦朧とした意識の中の自白は、記憶の食い違い等が起き、逆に信憑性に欠けるところさえあるのだから、お世辞にも実用性が高いとは言えない。 私が常日頃から所持していながらも、ほとんど使ったことがないのはこれが理由だ。 「誰か、凄い効用の自白剤とか作ってくれないもんかしらねぇ……」 うんざりといった様子で肩を落とし、ぼそりと呟く。 無論、そんなものできるはずがないことくらい、私自身理解している。 それにもし、そのような薬物が発明されれば、ありとあらゆる人間からプライバシーの保護という概念が消え去りかねない。 どれだけ極秘裏に作成しようと、その社会的問題性が許されはしないだろう。 などと考えている内に、見覚えのある部屋番号が視界に映った。
――コンコン。
「紗弥〜。戻ったわよ〜」 扉の前に立ち、軽くノックする。
――ガチャッ。
鍵の外れる音と共に、ドレス姿の紗弥が笑顔で出迎えてくれた。 「姉さん、お帰りなさい」 「ただいま。……なんだかんだ言って、気に入ってるみたいね。そのドレス」 「なっ……そ、そんなわけ……」 否定の言葉を口にしようとする紗弥。 「……」 そんな彼女を、私は黙ったままニヤニヤと見つめ続けた。 私が何を言わんとしているかくらい、紗弥とてとうに分かっているだろう。 「……ある、かも……」 「素直でよろしい」 指先をもじもじとさせながら、頬を染めうつ向きがちに答える紗弥の頭を軽く撫で、私は室内へと足を踏み入れた。 「……そ、それで、どうでした? 何か収穫はありましたか?」 「ダメね。役立ちそうな情報はからきしだったわ」 一応程度に押収してきたカードを紗弥に手渡し、私はベッドに身を投げた。 ボフッと小さくバウンドした後、体中が柔らかい感触に沈み込む。 大して疲れていなくても、やはりベッドに倒れ込む瞬間の感覚はたまらない。 しかし、それもこれが良質のベッドだからに他ならない。 もし、自宅のベッドに向かって同じようにすれば、鼻に強烈な痛みを覚えて悶絶することは必至だ。 ……なんて下らないことを考えていたから、次に紗弥が口にした言葉に、私は少し驚くを溢した。 「……姉さん、ちょっと、パソコン貸してもらえます?」 「パソコン?」 「はい。ダメですか?」 「いや、全然良いけど……」 一体何を調べるつもりだろう? そこまで考えてから、私はイギリスへ発つ直前のことを思い出した。 そういえばこの子、相当パソコンが得意みたいだったけど……。
――同行者、か……。
改めて、その言葉が脳裏をよぎった。 正直なところ、私はまだ、紗弥が本当に同行者なのかどうか、その確信を抱いてはいない。 あの事件の時、私は咸枷総理の紗弥を想う気持ちの強さの程を、その行動を以て感じている。 そんな娘想いの父親が、彼女をこのような危険に晒すとは、到底思えなかった。 恐らく、いや、9分9厘、彼女は私の同行者ではない。 本来なら、空港で出会ったその時に、彼女を無理にでも自宅へ返すべきだったのだろう。 しかし万が一、あの時既に何者かの監視の目があったとしたら、下手に彼女を一人にするより、同行させた方がかえって安全と考え連れてきたのだが……それが正解だったのかどうかは、現状未だわからない。 だからといって、ただの足手まといにしかならないのかどうかと問われれば、それには答えを返しかねる。 その日、その時間に、あの空港から私が英国へ発つという情報は、国防省の極秘情報のはず。 彼女が同行者でなかったのなら、いかにしてその情報を掴んだのか、興味が湧かなくもない。 そしてもし、紗弥が私の真の同行者だったなら、その能力が本物である何よりの証拠ともなる。 それなら、ここで一つ、お手並み拝見といこうかしら? 「……わかったわ。ちょっと待ってなさい」 私はベッドから立ち上がると、大型のスーツケースの中からノートパソコンを取り出し、紗弥に手渡した。 「ありがとうございます」 受け取るなり、慣れた手つきで周辺機器を接続していく紗弥。 「慣れたもんね。良く使ってるの? ノーパソ」 「いえ、一応持ってはいますけど、基本デスクトップですね。そっちの方が性能良いんで」 などと言っている内に、もう起ち上げたようだ。 エメラルドグリーンの起動画面を経て、液晶に様々な種類のアイコンが並ぶ。 「え〜っと……あ、あったあった」 ブラウザを開き、携帯を片手にどこかのURLを打ち込んでいく。 「姉さん、一つインストールしたいものがあるんですけど、良いですか?」 「危険なものじゃないなら、別に良いわよ」 「それなら大丈夫です。ちゃんと検証済みですから」 そう言って微笑むと、紗弥は入力したURL先から何かのソフトウェアをダウンロードし始めた。 「これ、何なの?」 「パソコンを遠隔操作するためのソフトですよ。IPアドレスと所有者パスワードさえわかってれば、遠くにあるパソコンを別のハードで動かせるっていうスグレモノなんです」 「ふ〜ん。何でそんなものを?」 「それは、見てからのお楽しみってやつですよ」 どこか楽しそうにそう言うと、インストールしたソフトを開き、ブランクの部分にIPアドレスとパスワードを打ち込み、エンターキーを叩いた。 どこかのパソコンに繋がったのか、再び液晶が起動画面へと変化した。 しばしの後、起ち上がった画面には、先ほど私のパソコンにあったものとは明らかに違う、幾つかのアイコンが浮かんでいる。 その内、紗弥はマイドキュメントのアイコンをクリックし、中にあるファイルの一つを開いた。 何かのPDFファイルのようだ。 格子組の枠の中に、幾つもの人名が記載されている。 「紗弥、これは……」 「とある機関の、とある極秘リストですよ。こんなこともあろうかと、日本にいる間にちょちょいと事前準備してたんですよね〜」 私が持ち帰った各種証明書と、画面に示される氏名とを見比べる紗弥。 「……」 そんな彼女に対し、私は言葉を失っていた。 紗弥がどんな手法を使ったかは知らないが、これは彼女の言う通り、紛れもなく極秘情報だ。 簡単そうに言っているが、どんな組織であれ、そこに所属する個人の情報を盗み見るなど、並大抵の技術でできることではない。 間違いない。 彼女が同行者であるかどうかの真偽こそ謎のままだが、これだけははっきりした。 紗弥の情報関連の技術や知識は、私のそれを遥かに凌駕している。 彼女なら、このパソコンの有するハイスペックを、私以上に引き出せることだろう。
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