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O.L.作品置き場

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タイトル:交差する思惑〜Crossed Emotion〜 アクション

――イギリスに着いた水亜たちを監視する不穏な影。時を同じくして英国の土を踏む嘉治。某所にて行われる非人道的生物実験と、それによって産み出された悲しき負の産物。そして、水亜に接触を試みる無邪気を装った妖艶な美女。それぞれの思惑が絡み合いながら交差する、O.L.長編第二作目!

月夜 2010年07月09日 (金) 22時44分(98)
 
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第一章)

――英国、マンチェスター国際空港、7/25、現地時間9:00――

――皆様、ただ今当機はイギリス、マンチェスター国際空港に着陸いたしました。皆様の安全の為、ベルト着用のサインが消えるまで、座席にお座りのままでお待ち下さい……。

機内アナウンスに耳を傾けながら、高礼嘉治は閉じていた瞼を持ち上げた。
備え付けの窓から外に目をやれば、そこに見える光景は白き雲海ではなく、大きな建築物に数本の木々、そして長く伸びる滑走路と、そこに止まる数台の飛行機たちが織り成す、地上の景色だった。
赤く光るサインが消えるのを待ってから、ベルトを外す。
ファーストクラスの心地良いソファーから、嘉治は名残惜しむようにゆっくりと腰を上げた。
長い間、ずっと座り続けていたからだろう。
立ち上がると同時に、関節の節々がギシギシと鈍い悲鳴を上げた。
軽く体を捻り、固まってしまった筋肉に刺激を与える。
次いで、天井近くの荷物置きを開き、中から焦げ茶色のウエストポーチを取り出した。
腰に巻き付け、しっかりと固定する。
「さて、と」
そう小さく呟くと、嘉治はゆったりとした足取りで降車口へと向かった。
途中、すれ違うスチュワーデスの恭しい会釈を受ける度、軽く片手を上げて礼を告げる。
そして、降車口まで後一区画となった頃、

――ドンッ!

「わっ!?」
何かが足に勢い良くぶつかった衝撃と共に、下方から子供の声が聞こえた。
そちらに目線を下げてみれば、尻餅を付いたまま、怖々とした表情でこちらを見上げる、幼い男の子の姿が見えた。
「あ、え、えっと……」
地に座した状態のまま、立ち上がろうともせずに口ごもる男の子。
その様子から察するに、次に言うべき言葉を知っておりながらも、言えないでいるといったところだろうか。
その場に屈み込み、嘉治は彼と目線の高さを合わせた。
「大丈夫? 怪我はないかい?」
「う、うん……」
嘉治の問いに、男の子は戸惑いながらも大きく頷いた。
「それは良かった。君、名前は?」
「……こ、弘輝」
「弘輝君か。さて、見たところ、弘輝君は賢い男の子のようだ。なら、こういうとき、君は次に何と言うべきかな?」
物腰柔らかな口調と、柔和な表情で、嘉治は優しく彼に次の行動を促した。
「え……あ、えと……ご、ごめんなさい……」
そんな嘉治に背を押され、少しもじもじしながらも、その男の子は躊躇いがちに謝罪の言葉を述べた。
「よろしい。自分が悪いことをしたと思ったら、ちゃんと謝る。大事なことだよ」
「うん。お父さんも似たようなこと言ってた」
「それは立派なお父さんだね」
「うん! 僕、大きくなったらお父さんみたいな大人になるんだ!」
「……そうか。大丈夫。君はしっかりした子だから、きっとお父さんみたいな立派な大人になれるよ」
「本当? おじさん、ありがとう!」
「弘輝? 誰と話してるんだ?」
不意に聞こえてきた声に、嘉治はそちらへと視線を動かした。
こちらを見つめるのは、歳のほどまだ30前後と思しき、品の良さそうな青年だった。
「あ、お父さん! 僕、このおじさんとお話してたんだ」
「あ、こ、これはどうもすみません。う、家の弘輝がご迷惑をお掛けしたようで……」
その男の子の父親は、申し訳なさそうに表情を歪め、嘉治に向かって深々と頭を下げた。
ちょっとどもっている辺りが、先ほどまでの男の子と重なり、それが細やかながら血の繋がりというものを感じさせる。
「いえ、お気になさらず。では、私はこの辺で。バイバイ、弘輝君」
「バイバ〜イ!」
立ち上がり、去って行く嘉治の背に向かって、男の子が元気に手を振る。
「……」
降車口のすぐ手前まできてから、嘉治は一度背後を振り返った。
視界に映るのは、先ほどの男の子と青年の互いに笑い合う姿。

――僕、大きくなったらお父さんみたいな大人になるんだ!

脳裏でリピートされるのは、彼の元気な言葉と眩しいくらいに輝く笑顔。
「お父さんみたいな大人になる……か」
呟く口元に浮かぶ苦笑い。
それは、果たして何を思っての笑みなのか。
知るのは当人のみ……いや、本人でも良くわからないからこその苦笑か。
視線を前に戻す。
その先に見えるのは、しばらくぶりに見る外の景色。
とは言っても、空港内という意味では、外とは言えないのかもしれないが。
「本日は、誠にありがとうございました。またのご利用を、心からお待ちしております」
「あぁ、どうもありがとう」
降車口のすぐ側に立ち、深々と頭を垂れるスチュワーデスに礼を述べながら、嘉治は機内を後にした。
何気ない足取りで、階段を下りてゆく。
しかし、その眼差しはまさに鷹の如く、微塵の隙も見当たらない。
己の周囲全てに意識を張り巡らし、且つ全身の筋肉に無用な力みや緊張は与えない。
一般人の目では何も感じ得ないかもしれないが、そこそこの修羅場をくぐり抜けてきた者には、その何気なさの裏側に潜む彼の真の姿が垣間見えることだろう。

――……見たところ、こちらを監視しているような気配もなければ、殺気も感じられない……か。

「ふ……ナメられたものだな、私も」
誰に言うともなくそう呟き、悠然と歩みを進める嘉治。
その口元に浮かんだ笑みは、社長としての彼の優しい笑みでも、特命安全理事会としての彼の余裕の笑みでもなく、一人のO.L.としての不敵な微笑だった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時45分(99)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第二章)

――日本、成田国際空港、7/25、現地時間12:50――

人々でごった返す空港内。
そこは、楽しそうな話し声とアナウンス、それに旅行用のキャリーケースのキャスターが転がる、カラカラという渇いた音たちが、幾重にも重なり合って、賑やかな喧騒が生まれていた。
この時期のせいか、中でもやはり、仲睦まじそうなカップルや楽しそうな家族連れの姿が目に多く映る。
そのとある一角。
「……あっるぇ〜?」
何とも間の抜けた声が上がった。
その方を見てみれば、首を捻りながら電光掲示板とにらめっこをしている、一人の女性の姿が目に映った。
端正の整ったキレイな顔立ちは、ただ黙って無表情でいたなら、美しいというより少しきつめで近寄り難い印象を与えていたかもしれない。
だが、彼女は恐らく、生来あまり気難しい性格ではないのだろう。
小首を傾げながら人差し指を顎に突き、眉をひそめて考え込むその様などは、まるで無垢な子どものようだった。
すらっと伸びた長身は、まさに理想的なモデル体型。
女性なら誰しもが、少なからず羨望の念を抱くに違いない。
締まるとこは締まり、出るとこは出ているその豊かな体つきを、今の彼女のTシャツにジーンズというラフな服飾が、より強調している。
先ほどから、すれ違う男性のことごとくが彼女を振り返っていることも頷けた。
しかし、そんな多種多様の特徴を持つ彼女の体の中でも、見る者に最も強い印象を与えるのは、腰の下くらいにまで伸びた紅い長髪だろうか。
ただの赤などではない。
赤、朱、緋、紅……“あか”という色を表す言葉は色々あるが、そのどれにも当てはまらないほどに、それは深く、濃く、暗く、そして鮮烈な“あか”だった。
見る者の目を惹き付ける、などという生易しい表現ではきかない、視覚を狂わさんばかりの、危険な魔力さえ感じられた。
「おっかしいな〜……ちゃんと時間も場所も合ってるはずなのに……」
壁にかけられた時計に目を向け、時間を確認しながら再度首を捻る。
肩から提げたショルダーバッグに手を伸ばし、そこから携帯を取り出した。
そこに示される時刻も、先ほどみた時計の指し示す時刻も、ついでに言うなら電光掲示板に表示されている時刻も、それらのどれもが誤差一分以内。
昼の一時少し前を表していた。
一時発のイギリス行きの飛行機は、もうそろそろ乗客の搭乗が完了している頃だ。
「参ったな〜。飛行機のチケット、あの娘が私の分も持ってるから、このままじゃどうしようもないわね〜。困ったなぁ……」
口で言うほどさして困った様子は見せず、彼女は何かを探すように周囲を見回した。
そんな彼女と目を合わせたのは、二人組の男性だった。
お世辞にも良識人には見えない、と言うか、見るからに不良な男たち。
そんな連中に向かって、何を思ったのか、彼女は柔らかに微笑みながら手を振った。
一瞬、何事かとお互いに顔を見合せた後、その二人組はいやらしい笑顔を浮かべながら、彼女の元へと歩み寄った。
「よぅ。姉ちゃん、どっからどう見ても外人さんだな。どうかしたのか?」
そんな笑みのまま、親切そうに声を掛ける。
だが、そのような優しさは上辺を取り繕っただけの、見せかけのもの。
その裏に隠れる下心は、顔を見れば一目瞭然だ。
普通の女性なら、こういう状況に陥った場合、個人によって度合いこそ違えど怯えるのが普通だろう。
だが、彼女は違った。
「えぇ。彼とイギリスへ旅行に行くはずだったんだけど、その彼がちょっと待ち合わせ時間に遅れちゃってて……」
臆することもなく口を開く。
声音も、平常時のものと何ら変わらない。
「酷ぇ彼氏だな。そんな奴、放っておいたら良いんじゃね?」
「そうそう。そんなろくでなしの男を健気に待つより、俺たちと居た方がよっぽど楽しいぜ? イギリスなら、俺らと行き先一緒だしな」
なんとも定番な台詞だ。
その面に浮かぶ下卑た笑いには、誰もが嫌悪感を覚えるに違いない。
だが、そこでも彼女の発言は意外なものだった。
「そうね」
何の躊躇いもなく首を縦に振ったのだった。
「へぇ……えらく物わかりの良い姉ちゃんじゃねぇか」
「そう? 退屈なのより、楽しい方が良いじゃない」
よほどの世間知らずなのだろうか?
その返答の何気ない口調からは、危機感や恐怖などは微塵と感じ取れなかった。
その純粋な瞳は、今も先も純真無垢な輝きのまま。
「……で、楽しいことって、ナニ?」
幼い少女のような好奇の眼差しで、その女性は彼らに問いかけた。
「なんだ、今更そんなこと聞くのか? 分かってるんだろ、あんたも」
「そうそう。大人の男と女が楽しむことって言ったら、もう一つしかないじゃん?」
口々にそう言い放つ声は、既に卑猥な響きを湛えていた。
これから情事を行うのだと、言外ながらも明確に宣言している。
「ふふっ……それもそうね。じゃあ、どこか人気のないところへ行きましょうか……?」
そう言って、彼女は微笑んだ。
汚れなく、底抜けに明るい笑顔で。
だが、それはさっきまでの笑みとは明らかに違った。
なんと言えば良いのだろう……無邪気な妖艶さ、とでも表現するべきなのだろうか。
そこはかとなく妖しげな雰囲気を漂わすその微笑は、少なくとも、普通の女性が浮かべられるようなものではなかった。
「……な、なぁ……なんか、こいつヤバくね?」
「あ、あぁ……」
そんなただならぬ気配を感じ取ってか、踵を返し、誘うように歩みを進める彼女の背を横目に、男たちは互いに小声で耳打ちをした。
理性は敏感に危険を察知していたが、本能に基づく欲望も、その危機感を上回らんばかりに膨張していた。
「どうしたの? 私とイケナイ遊び、したかったんじゃないのかしら?」
立ち止まり、髪をたなびかせながら後ろを振り返る。
「大丈夫。こう見えても私、経験豊富だから。二人まとめて相手してあげる。それとも、いざヤるとなると怖くなっちゃった?」
まるで挑発するかのように言葉を紡ぎながら、彼女は口元を妖しげに歪めた。
男たちの背筋を、得体の知れぬ薄ら寒い悪寒が走り抜ける。
止めておけ。
こいつは余りに危険だ。
危機を告げる理性の声が、一層大きくなる。
「へっ、上等じゃねぇか」
「そっちこそ、いざとなってから逃げるんじゃねぇぞ」
だが、男たちは愚かな選択肢しか選べなかった。
一人の男として、女に良いように弄ばれる訳にはいかないという無駄なプライドが、彼らに逃げを許さなかった。
「じゃあ、ついてきて……」
そう呟くと、彼女は二人の男を引き連れるようにして、人気のない空港の裏へと足を進めた。
依然として、空港内に満ちるのは鳴り止まぬ喧騒。
人々の意識は、己が事で手一杯だった。
……だから、次に彼女がここへ戻ってきたとき、そこに先ほどの男たちの姿がなかったことを知るのは、当事者である彼女だけであった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時45分(100)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第三章)

――英国、パディントン駅、7/25、現地時間20:00――

日の暮れた英国は、夏だというのにやけに肌寒かった。
すぐ側を吹き抜ける、冷涼とした風が心地よい。
……が、素肌の上から浴びるには、いささか寒気を覚えるものがあるだろう。
そのことを裏付けるように、道行く人々のほとんどが、薄めの上着を羽織っていた。
夜も蒸し暑く寝苦しい、日本の夏とは大違いだ。
どちらも気候区分では温帯に属するというのに、これほどまでに違うものか。
気候区分についてもう少し詳しく言うと、温帯の中でも更にもう三つの区分けがあり“温暖湿潤気候”“西岸海洋性気候”“地中海性気候”のそれぞれに分けられる。
日本は温帯の中でも、温暖湿潤気候に分けられ、読んで字の如く、これは暖かく湿った気候だ。
一方、イギリスは西岸海洋性気候に該当する。
ヨーロッパの国に多いこの気候は、日本のように湿度の高い島国と比べ、比較的空気が乾燥しているのが特徴だ。
そのため、夏でも比較的湿度が低く、気温的には大差ない日本と比べても、涼しく感じるという訳だ。
「ん〜……っと。あ〜っ、風が気持ちいい〜♪」
「そうね……」
そんな涼しげな風の吹きそよぐ駅前にて上がるのは、明暗分かたれた両極端な声。
「イギリスが日本と比べて涼しいというのは、知識として知ってはいましたけど、やっぱり体感してみるとその違いがよく分かります」
そう言って、栗色のショートヘアーを風に遊ばせながら、その少女――咸枷紗弥――は楽しそうに両手を広げた。
「そうね……」
そんな彼女の姿を見つめながら、荷物片手に佇む青く長い髪を持つ女性――明神水亜――は、がっくりと肩を落としていた。
ずっとうつ向いたままのその瞳に映るのは、人工的な明かりに照らされたアスファルトのみ。
180cmという長身を持つ彼女だが、今この時ばかりはやけに小さく見える。
何故、こんなにも彼女がうなだれているかというと……
「……姉さん、まだ落ち込んでるんですか?」
「うっさいわね〜……」
「そんなに私に負けたのがショックだったんですか?」
「当たり前よ……私、これでも結構自信あったのに……それが……それが、こんな小娘に完敗だなんてっ……!」
「むっ! 小娘とは失敬な。言うなら才女と言っていただきたいものです。それに、やる前に言ったでしょ? 私、腕前は全国クラスだって」
「だけど……だけど……あぁっ! もう私ぷよぷよしないっ!」
……とまぁ、こういう訳だ。
成田からイギリス、ヒースロー空港までの空の旅の間、ただボーッと外の景色を眺めてるだけじゃつまらないということで、例のハイテクノートパソコンを使ってぷよぷよでも勝負しようと水亜が提案したのが、全ての事の発端だ。
国配給の装備品で何をしているんだと思うかもしれないが、そこは敢えて言及しないことにしよう。
確かに水亜も自分から誘うだけあって、なかなかの腕前ではあった。
そんじょそこらのアマチュアプレーヤーでは、おそらくてんで相手にならないことだろう。
だが、紗弥は……もう何と言うか、次元が違った。
一般人と比べて上手いとか、結構強い程度の力量で立ち向かえるような相手ではなかったのだ。
100を越える挑戦の末、無惨にも全敗。
幾多の連鎖の末、画面を埋め尽くすは透明なお邪魔ぷよたち。
開始一分も経てば、もう死亡フラグしか立っていない凄惨な状況。
手も足も出ないとは、まさにこのことだった。
着陸後、ヒースロー空港〜パディントン駅間を繋ぐ電車の中でさえ、無謀な戦いを挑み続け、結果更に傷を深くし、そして今に至る。
「私とゲームでガチンコして、勝てると思わないでくださいね〜」
「くぅっ……かっわいくない奴め〜! 見てらっしゃい! 帰国までに絶対負かせてやるわ!」
「楽しみにしてます♪」
どこからどう聞いても、敗者の負け惜しみと勝者の余裕な応答にしか聞こえない。
これでは、どちらが歳上か分かったものではない。
「……さて、もうこんな時間だし、とりあえず宿をとるとしましょうか」
「そうですね。こんなところで負け惜しみしてても、しょうがないですしね」
「……しつこい娘ね〜。置いてくわよ?」
得意げな笑みを浮かべたままの紗弥を置き去りにするかのように、水亜はキャリーケースを転がしながら歩みを進め始めた。
「あ、待ってくださいよ〜」
そんな彼女の後ろを、小走りで追いかける紗弥。
その姿を見ていると、なんとなく親鳥の後を追うカルガモの親子が思い出された。
「そういえば、私たちって何処に泊まるんですか?」
「ヒルトンホテルってとこよ。知ってる?」
「えぇっ!? ヒルトンホテルって、あの超有名で超豪華で超一流な、あのヒルトン!?」
紗弥の大声が、夜のロンドンに騒がしくこだます。
「そうよ。やっぱ知ってる?」
「そりゃ知ってますよ。ホテルでヒルトンと名が付けば、それだけで世界最高峰ですもん」
抑揚に満ちた口調で、紗弥が興奮気味に頷く。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時46分(101)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第四章)

彼女の言ったヒルトンとは、世界的にも有名なホテルの名称だ。
世界最高峰という表現も、あながち間違ってはいない。
なんと言ったって、出入口の扉の前には四六時中ドアマンが立っており、外出時には「行ってらっしゃいませ」の見送り付きに、帰宅時には「お帰りなさいませ」の出迎え付きなのだから、その奉仕の徹底っぷりは凄まじい。
雑誌には毎回最高の5つ星で紹介されており、今回彼女たちが宿泊するのは“ヒルトン・ロンドン・パディントン”というホテルだ。
「またそんな大袈裟なこと言って〜。ご令嬢を字に書いたようなお嬢様にとっては、これくらいは当たり前なんじゃないの〜?」
「もぉ〜、からかわないでくださいよ〜。私、海外旅行なんてしたことないんですから」
「あれ? そうなの?」
海外旅行は初めてと言う紗弥の言葉に、水亜は首を傾げて問い返した。
総理の娘さんが、この年になるまで海外に行ったことがないなんて、なんだか意外だった。
「はい。お母さんが生きてた頃に何度か旅行に行ったことはありますけど、全部国内でしたから。それに、物心つく前のことがほとんどでしたし」
「なら、外国へ行くのはこれが初めてなんだ?」
「はい。だから、実は今から結構楽しみなんです」
「そっか〜、それは残念ね〜」
「え?」
「だって、せっかくの初海外が、旅行じゃなく仕事だってんだから。遊ぶ暇、ないかもよ〜?」
「あれ? 私の記憶が正しければ、ピカデリーサーカス行って買い物したい〜とか言ってませんでした?」
「……な〜んのことかしら〜?」
「しらばっくれないでくださいよ〜。姉さんだって、ちょっとは旅行気分を味わいたいくせに〜」
そう言って、紗弥は意地悪く笑いながら、水亜の脇腹を肘で軽く小突いた。
以前、水亜に会う前のネガティブな彼女なら、こんな些細な皮肉にも、暗く沈んで無口になってしまっていたに違いない。
そう考えると、今の彼女は強くなった。
辛い過去を笑い飛ばせるくらい、精神的に逞しくなった。
不意に、水亜の口元を微かな笑みが彩る。
昔の彼女を知っているからこその、優しく暖かい笑みだ。
「姉さん? どうしたんですか、ニヤニヤしちゃって」
「ん? そう見えた?」
「そう見えたって……どっからどう見ても、あからさまにニヤついてましたよ?」
「ふふっ、そうかしら? ま、気のせいでしょ」
「……な〜んか気になるなぁ……」
依然として笑みの絶えない水亜に、怪訝そうな眼差しを向ける紗弥。
「細かいことは気にしない、気にしない。ほら、着いたわよ」
「え? おぉ〜っ!」
水亜の言葉に、紗弥はホテルを見上げながら感嘆の声を漏らした。
「すご〜い! 雑誌とかで見たのより全然大きい〜! さっすがヒルトン! こんなホテルに泊まれるんだ〜!」
年頃の少女のようにはしゃぐ紗弥。
「はいはい、そんなに騒がないの。周りの人に、変な目で見られるでしょ」
そんな彼女を軽く諌めながら、水亜はさりげなく周囲を見渡した。
行き交う人々の全てを視界に入れ、不穏な動きや動作がないか。
停車している各車両に、不審な点がないか。
そして、路地裏や物陰から、妙な気配や監視するような視線がないか。
狙撃手の有無に気を配らなくて良いことが、せめてもの救いだった。
「……」
辺り一面を見回す視線が、とある路地裏にて止まる。
闇の支配する細い裏道。
そこに、街道の光は一切射し込んでいない。

――……ふっ。

そんな路地裏に顔を向けたまま、水亜は冷ややかな冷笑を浮かべた。
それは、紗弥に向けていたような、優しくい包容力に満ちた笑みとは程遠い、見る者の背筋を凍らせるかの如き冷酷な笑い。
「……姉さん?」
「ん?」
「どうかしたんですか? ……もしかして、あの路地裏に誰か……」
「だいじょ〜ぶ。紗弥が心配するようなことは何もないわ」
不安げな表情を浮かべる紗弥に、水亜は明るく口元を綻ばせて答えた。
「ささ、早くチェックインを済ませちゃおう。私ゃ長旅で疲れたよ」
「長旅って……ずっと座ってぷよぷよしてただけじゃないですか。あぁ、肉体的疲労じゃなく、負け続けたことによる心労ですね。なるほどなるほど」
「……紗弥、あなたは外で野宿したい?」
「姉さんと一緒なら、それでも構いませんよ?」
「何言ってんの。私はちゃんとホテルに泊まって、ふかふかのベッドで安眠させてもらうわ」
「じゃ、私も泊まります」
「なら、私の機嫌は損ねないように」
「は〜い」
駅前の時と同じく、明暗両極端な表情を浮かべて、ドアマンに促されるまま、水亜と紗弥はホテルのドアをくぐるのだった。
「……」
その背後、漆黒の闇に包まれた路地裏に潜む視線。
二人の姿が消えるのと時を同じくして、それは辺りに漂う闇と同化するかのように、陰の中へと消え失せた。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時47分(102)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第五章)

――英国某所、7/25、現地時間13:00――

あぁ、今日もまたこの時間がやってきやがった。
毎度毎度のことながら、嫌になるぜ。
「お前、そろそろ時間じゃないのか?」
「……そうだな」
うるせぇな。
こちとら毎日やってんだ。
そのくらい、誰かに言われなくともわかってるっての……ったく。
内心密かにぼやきながら、俺は固くて座り心地の悪い椅子から腰を上げ、白一色で染め尽くされた味気ない休憩部屋の隅へと向かった。
そこにあるのは、地下へと伸びる長い階段。
「はぁ……気が重いぜ……」
溜め息混じりに呟きながら、俺は段に足をかけた。
一段下りる毎に、乾いた靴音が壁で跳ね回り、幾重に重なって響き渡る。
毎回のことながら、今からやることを考えると、それだけで気分が滅入ってくるぜ。
……いや、正確に言うなら、見るモノと言い直した方がいいかもしれないな。
どちらにせよ、階下へと下りきるまでには、決まってテンションは最低だ。
こんなことなら、多少給料が安くても、どこぞのコンビニでレジ打ちでもしていた方がまだマシだったぜ。
……などと考えている内に、どうやら着いてしまったようだ。
階段を下りた先に広がるのは、左右へと伸びる長い廊下。
そこにも余計な装飾や色彩は一切なく、ただ明るいだけの白い壁しか見えはしない。
その行き当たりにある、どことなく厳かな自動ドア。
それは、スーパーやなんかの透明で薄っぺらい自動ドアなどではなく、どちらかと言えば隔壁の様相を呈している。
いつも通り、俺は左手側の廊下を進み、その扉をくぐった。
途端、鼻腔を刺激する生臭い匂い。
慣れていない人間なら、思わず鼻を覆うことだろう。
……が、悲しきかな、俺はもうここに勤めて結構長い。
慣れというのは怖いもので、最初こそ吐き気をもよおしていたこの異臭にも、今じゃ眉一つ動かなかった。
さて、それじゃあ、そろそろ仕事を始めるとするか。
大きな長テーブルが一つと、それを囲むように椅子が数脚置かれているだけの、四角く白い質素な部屋。
そして今、そのテーブルの上には、6つの白く大きな布の袋が乗っていた。
これが、先の生臭い匂いの源で、且つ俺の飯の種だ。
「これまた毎回ご苦労なこって。ここまで用意してくれるなら、ついでに最後までやってくれないもんかねぇ……」
ぶつくさと愚痴りながらも、俺は両手で二つの袋を手に取ると、それらを両肩に担ぎ、三方にある扉の内の一つをくぐった。
開ける視界。
その向こうに広がるのは、凄惨極まりない景観だ。
言うなれば、この世ならざる生命のるつぼ。
または、地獄と表現してもいいかもしれない。
耳に届く奇怪な音。
それが、助けを懇願する悲鳴だと、一体非関係者の誰が分かるものか。
大小様々な形の堅牢なカゴの中にいるのは、その約半数が見たこともないような奇形生物。
残りの半数が、精神的、または肉体的にイカれた生物だ。
それら全てに共通するのが、生物実験による失敗作だということ。
だが、それはあくまでも“現段階”での失敗作なだけであり、その生物が終末を迎える、つまり死ぬまでは、まだ改善、覚醒の余地が残っているから、生かさず殺さずを保つというのがここの方針らしい。
白目を向いたまま、一心不乱に何かを……己の指を食べているチンパンジー。
血の涎を垂れ流しながら、恍惚の表情を浮かべるその様は、もはや見るに絶えない。
その隣の騒がしい小さなケージでは、血走った眼のラットたちが共食いをしている。
動かぬ肉塊と化した同族に群がり、歯を突き立てては肉を食いちぎる。
酷いもんだ。
足元のカゴには、ぐったりとして動かない何か……これは、犬か?
牙は折れ、眼球は飛び出し、脚部の筋肉は半液状化していて、全身の体毛が抜けきってしまっている。
視界の端に映る、カゴの隅に張り付けられた一枚の紙。
そこには大きくAとだけ書かれていた。
ちなみに、@は

“実験体の生死にかかわらず本日中に焼却処分”

Aは

“実験体が死亡次第焼却処分”

Bは

“実験体が死亡次第、皮を剥いだ後他実験体用食料として再利用”

という意味だ。
こいつは1週間くらい前からこの紙が貼られ、それ以来飲まず食わずでここまでよく頑張ってきたんだが……そうか、遂に逝っちまったか。
まぁ、こんな世界に長居するより、あっちの方が断然マシだろう。
それに、ここでこれだけ悲惨な目にあったんだ。
次生まれてくるときは、きっと幸せになれるぜ。
にしても……こいつら、揃いも揃って不幸な奴らだぜ。
こんなことになるくらいなら、いっそ保健所で一思いに毒殺された方が、まだ幾分マシだったろうに。
そんなことを思いながら、俺はズボンにくくり付けられた鍵束を手に取り、それらの中でも一際大きなケージの扉の前に立つと、その鍵穴に鍵を差し込んだ。

――カチャッ。

錠の外れる独特の金属音の後、錆びた鉄の擦れる耳障りな音を立てて、扉が開け放たれた。
そこに封じられているのは、あまりに巨大な何か。
動物であることは間違いなさそうだが、それが何かと問われれば、世界中のどんなに高名な生物学者でも、答えを返すことは能わないだろう。
それもそのはず。
なぜなら、このような動物は、この自然界に存在していようはずがないからだ。

“多異種間遺伝子混在生命体”

こう言えばまだ聞こえはいいかもしれないが、今俺の目の前にいる存在は、そんな文字の羅列で表せられるほど生易しいものではなかった。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時47分(103)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第六章)

もはや、基盤となっていた生物が何なのか、その面影すら見えない。
巨大な体躯からは、それ相応の大きさを備えたものが数本と、後はその体と比較するとあまりにも矮小な足が無数に生えている。
もちろん、自由に動けないよう、足には頑丈な鎖が繋がれていた。
それも、ただ頑丈なだけではない。
鎖の内側には棘がついており、外そうともがいたり逃走を試みた場合、その棘がより一層深く肉を抉り、それでもなお暴れ続けた場合、足ごと爆発するような仕組みになっている。
よくよく見てみれば、その内何本かは足首から下がなくなっていることに気付くはずだ。
おそらく、こいつには蠍の遺伝子も混ぜられているのだろう。
長く伸びる尾は、蠍のそれを体の大きさに比例して肥大化させたような感じだ。
胴体の背側に生えた漆黒の翼は、今は小さく折り畳まれているものの、思い切り開いたときの凄まじいまでの大きさは、俺が一番良く知っている。
なんせ、このカゴはおろか、部屋全体を使っても到底足りない程なのだから。
体毛は薄く、その隙間から覗ける地肌は赤みがかっており、生まれたての赤子を連想させた。
顔と思しき場所には、 今は閉じられている、何の規則性もなく無造作に置いただけのような大量の目と、異常なくらい縦に長い口があった。
いや、縦に長いのではなく、普通横に長い口を90度回転させたものと言った方が、まだ幾分イメージはしやすいだろうか。
それも、一つだけではない。
中央のものに比べて多少小さいものの、両側面にも同じような口があるのだ。
使われるのを見たことはないが、歯や舌があるということは、ちゃんと口として使うこともできると思われる。
これだけ言えば、どんな生物か想像できなくとも、どれほど人知の枠を外れた生物かということだけはわかってもらえたことだろう。

――グククルルゥゥゥ……。

と、重く低い唸り声を上げながら、そいつは閉じていた目を一斉に開いた。
無数の黒い眼全てが、俺の立ち位置へと向けられる。
これも、普通の人間なら怖じ気付いて逃げ出しかねない……いや、肝っ玉の小さい奴なら、気を失ったっておかしくないところだが、こんな状況も日常に組み込まれてしまえば何ということもない。
我ながら、この適応能力の高さには驚きを禁じ得ないぜ。
「お休みのところ悪いな。飯の時間だぜ」
そう告げると、俺は持ってきた袋を床に置いた。
「……毎日、私なんかのために、すみません……」
「これも仕事だ。お前が謝ることじゃない」
袋の口の封をほどきながら、俺は素っ気なく言葉を返した。
そう、こいつはこんな異様な容をしているが、人語を解し、また喋ることもできるのだ。
だが、何故か俺以外の奴には一言として口を開かないらしい。
仕事仲間にそのことを話すと、「お前、モテモテじゃねぇか」などと冷やかされた。
バカなことを。
こんな化け物に好かれたところで、何も嬉しくないってーの。
……だが、
「……ですが、こんな気味の悪い生物、一瞬たりとて見たくはないでしょう? 況してやその世話なんて……」
そう言って、悲しそうに目を伏せる様子は、姿容こそ巨大な化け物だが、何故か他のどの生物より弱々しく儚げに見えた。
「いや、そんなことは……」

――ない。

そう言いかけて、俺は口ごもった。
……ちっ、俺は何を考えているんだ。
こんな失敗作に感情移入するのか?
こいつは、俺が飯を食うための仕事道具の一つ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……そのはずなのに……。
「……仕事、だからな」
「……そう、ですか」
そうとだけ呟く哀しげな声が、この胸を痛く締め付けた。
もう、これ以上ここにはいたくない……。
「飯、ここに置いておくからな。それじゃ……」
自らの気持ちを誤魔化すように、封を開いた布の袋を横倒しにして、俺はその場を去った。
背を悲哀に満ちた数多の視線に刺されながら、俺は静かにケージを後にし、扉を閉める。

――ガシャン!

何故か、その音がやたら大きく聞こえた。
いつもそうだ。
ここの扉は、俺が去るときだけ大きな音を上げる。
今さっきも、昨日も、一昨日も、その前も……。
「……ちゃんと食べておけよ。残したりされたら、俺が怒られるんだからな」
「……はい」
だが、俺は今日もそれを気のせいだと思い込ませ、錠をかけるなり、さっきの部屋へと歩みを戻した。
「……」
その途中、扉の前で立ち止まり、俺は首だけを捻って背後をそっと振り返った。
「……」
あいつの目は、何も見てはいなかった。
目の前に置かれた食事も、己が身を縛る鎖も、次々と狂っては逝く他の生物たちも、そして俺のことも……。
ただ、黙したままそこに居るだけ。
居たくないが、居なければならず、誰からも居てほしいとは望まれない存在。
誰かが、その存在を肯定してやらない限り、あいつに存在価値は生まれない。
そして、それを与えてやれるのは、おそらく……。

――……チッ。

そこまで考えてから、俺は心の中で舌打ちをした。
目の前の扉を乱暴に開け放ち、その部屋を後にすると同時に思い切り叩き閉める。
自分でもよく分からない、モヤモヤとして煮え切らない憤りにも似た不満感。
くそっ……イラつくぜ。
こんな日はさっさと切り上げて、どこかでこのストレスを発散しとかねぇとな。
そんなことを思いながら、俺はさっきと同じように袋を両手に取り、残りの部屋へと足を急かした。

月夜 2010年07月09日 (金) 22時48分(104)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第七章)

――英国、日本領事館、7/25、現地時間22:30――

「……そうですか」
カタッ、というティーカップを置く音が、豪奢な応接室に短く響いた。
豪奢と言ったが、それは金色に光輝くきらびやかなものではなく、シックで清楚な雰囲気を漂わせた、趣味の良い華やかさだった。
日本領事館ということもあってか、漆塗りの陶器や水墨画の掛け軸など、和製の装飾品が多く見受けられる。
そんな部屋の中央、見るからに高級そうな大理石製の机を挟み、向かい合って座る二人の男性。
双方共にスーツ姿で、ネクタイは上までしっかりと締められており、また、きつく引き締まったその表情からも、二人の間で交わされている話が、決して和気藹々と話せる話題でないことは明確だった。
「誠に申し訳ありません……全責任は私にあります」
「いえいえ、そんなに頭をお下げにならずに……」
深々と頭を垂れる初老の男性を、明らかに年下と思われる青年が軽く手で制する。
初老の男性の方は、がっしりとした体つきが特徴的で、歴戦の強者だけが持つ荘厳な雰囲気が、そこにただ居るだけでひしひしと感じられた。
彼の名は、レグリス・ヴォルケイム。
SISの最高責任者である人物だ。
その経歴も凄まじく、元英国陸軍特殊部隊、第22SAS連隊の中隊長を務めていたという過去を持つ。
第22SAS連隊とは、敵陣内の主要施設に潜入しての破壊工作に特化した、世界最初の特殊工作部隊のことだ。
第二次世界対戦中に結成され、国内外かかわらず、様々な戦場で暗躍していたと言われている。
今、世界中にある特殊部隊と名のつく組織は、そのほとんどがこの部隊を手本としているらしい。
そして、彼はそのSAS連隊の中でも随一の部隊長だった。
ありとあらゆる技能に関して、他を寄せ付けない実力を持っていたが、中でも彼が最も得意としたのは、情報戦、心理戦による敵部隊の撹乱、組織力の喪失だ。
様々な組織が、“奴にとって、情報は核兵器に勝るとも劣らない”と言って、彼にこちらの情報を掴まれることをこの上なく恐れた。
だが、その彼とてもう結構な歳。
長年の鍛練の賜物と言うべきか、外見はまだまだ50代で通るだろうが、実年齢は既に70近い。
一瞬の判断力、決断力が要求されることのある情報戦は、今の自分には荷が重いと考え、SAS連隊から身を引いたのは、ちょうど二年前だ。
一般的な企業と違い、特殊部隊に定年退職というような概念はない。
だが、ほとんどの人物は、それまでに己の限界を知り、身を退くのが普通だ。
その引き際を取り違えれば、その人間には死しか待っていない。
だから、これほどの年齢まで第一線で活躍できたという事実が、何より彼の有能さを表していると言えるだろう。
そして、一昨年遂に引退を決めた彼の現在の居場所が、このSISという訳だ。
そんな彼が今、平伏している相手の青年は、お世辞にも良い体格とは言えなかった。
ほっそりとした手足は、ただ痩せ細っていると言うより、ここまで行くと些か行き過ぎだろう。
これでは、骨と皮だけと言っても過言ではない。
世の痩せたいと願う数々の女性も、さすがにここまでは思うまい。
また、その肌の白さも異常だった。
生まれてこのかた、一度も日光に当たったことのないような白さは、美しく透き通った白磁のような白ではなく、虚弱な病人を思わせる、血の気なんか欠片も感じられない蒼白だった。
そのくせ、目だけは異様にギラついていて、油断や隙などは微塵と見受けられない。
見る者に恐怖さえ抱かせるその瞳の輝きは、恐らく万人に共通する彼の初印象だろう。

――鹿狩遊樹(ししがり ゆき)

それが彼の名だ。
名前の響きだけ聞けば女性に聞こえるかもしれないが、れっきとした男性だ。
東大の大学院を首席で卒業し、30代前半で英国の日本領事館総領事まで登り詰めた、エリート中のエリート。
大変な野心家でありながら、表面上は低姿勢を装っているため、周囲からはあまりそのように見られていない。
良く言えば真面目、悪く言えば頑固という気難しい性格で、友人と呼べる存在は数少ない。
水面下で色々と公言できない行為を行っているとの噂だが、彼の排他的な振る舞いのせいで、公に知られることは全くもってなかった。
「其方だけではなく、当方にも不手際はあったのですから。まさか、SISと領事館の両方に対して、同時にハッキングを仕掛けてこれるようなハッカーが、この件に絡んでくるとは思いませんでした」
そう言って、遊樹は紅茶の入ったティーカップを手に取った。
目を閉じながら口元へ運び、軽くすする。
「しかし、一体誰が……」
呟きながら、レグリスは顎に手を添えて考え込む素振りを見せた。
SISと領事館に対し、同時にハッキングを仕掛け、更には密かに監視型のスパイウェアを仕込むなどと、生半可なハッカーにできることではない。
領事館は定かではないが、SISのパソコンには全て高機能のファイアウォールが備わっている。
それをくぐり抜けようとするなら、既存のものではない独自のスパイウェアを新たに創り出すしかない。
そして、それを感染させ、尚且つ自身の侵入した痕跡を跡形も残さず断つ。
この類いの技術は、どちらかと言えばレグリスの得意な部門だったが、これ程の芸当、彼でさえできるかどうか保証はない。
……いや、恐らく不可能だろう、と彼は思った。
いくら下準備をしていたとしても、やらなければならないことが多すぎる。
迅速な行動力と判断力に加えて、相手の行動に対する臨機応変な対応を可能とする柔軟な思考力も必要不可欠だ。
一体、それほどの力量を持つ人間が、なぜ今まで何も動きを見せなかったのか……。
「……どうしましたか?」
「え……あ、いえ、何でもありません」
急に声をかけられ、レグリスはふと我に返った。
「そうですか。何か考え事をしているようにも見えましたが……」
「……これ程の技能を持つハッカーが、何故今まで何の動きも見せなかったのか。そして何故、今このときになって急に動き始めたのか……少し、気になりましてね」
そう口にする彼の声色からは、いつもの気丈さがまるで感じられなかった。
常日頃から、自信に満ちた口調を保っている彼にしては、このような弱々しい口振りは珍しいことと言えた。
「気に掛けるほどのことではないでしょう。その気にさえなれば、貴方にもできることではないですか?」

月夜 2010年07月09日 (金) 22時49分(105)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第八章)

「……どうですかね」
遊樹の言葉に、彼は曖昧に答えを返した。
「まぁ、そのような終わったことを悔いていても仕方ありません。それより、真に大事なのはこれからのことです」
そう言って一旦言葉を区切ると、ずっと手に持っていたティーカップを置き、少し間を取ってから再度口を開いた。
「彼女は今、こちらへ一人で向かっている、ということでよろしいですか?」
「えぇ。例の事件によりO.L.、明神水亜との合流には失敗。独自の手法で英国行きのフライトチケットを入手し、現在移動中とのことです」
「独自の手法、ねぇ……」
そう言うと、何を思ってか、遊樹は口元に苦笑いを浮かべた。

――全く、あいつは……。

後頭部に手を回し、軽く髪をかきむしる。
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありませんよ。それで、明神水亜の居場所は掴めていますか?」
「はい。現在はパディントンのヒルトンホテル、331号室に宿を取っているようです。ただ……」
「ただ……何です?」
「ホテルに入っていく彼女の隣に、一人の少女の姿があったとの報告が入っていましてね」
「少女……ですか?」
思いがけないレグリスの言葉に、遊樹は怪訝そうに眉を細めた。
「えぇ。その少女がどこの誰で、明神水亜にとってどのような存在であるかは、現在のところまだ不明です」
「そうですか……」
顎に手を添えながら、遊樹は思考を巡らせた。
明神水亜と共に行動する少女。
今回の事件と直接的な関係を持っているのか、それとも空港かどこかでたまたま出会っただけの、この件に関して何の意味もない無関係な一少女なのか……。
不確定要素が多すぎて、現段階では何とも言えなかった。
だが、それ以上に気になるのは、この報告そのものだ。
果たして、かのO.L.こと明神水亜ほどの人物が、こうも簡単に己の所在を掴ませるだろうか?
もし、わざと知らせたのだとしたら?
その目的は?
次々に浮かんでくる疑問の数々。
考え出せばキリがない。
「……どうかなさいましたか? やはり、その少女のことが気になりますか?」
「……いえ、あの明神水亜が、こうも簡単に自分の在駐場所を敵に知らせるものかと思いましてね」
「なんだ、そんなことですか。心配には及びませんよ。SISの連中は皆極めて優秀です。いくら相手が世界から畏れられているかのO.L.と言えど、これくらいのことなら造作もありません」
「……なら、いいんですけどね」
依然として疑わしげな態度のまま、遊樹は何気なくその場に立ち上がった。
窓際へと歩み寄り、透き通った窓ガラスを透過して、澄み渡った夏の空を見上げる。
頭上高くに広がる果てしなき黒のステージ。
そこに瞬く数多の星々たちを眺めながら、耽る思いは果たして何に対してか。
「さて、それでは、私はこの辺りで失礼させていただきます」
そう言うと、レグリスは冷めた残りの紅茶を一息で飲み干し、膝に手をつきながら腰を上げた。
「もう夜も遅い。今日はここに泊まっていかれてはいかがです?」
「いえ、遠慮しておきます。こう見えましても、一応はSISのトップですので。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます」
「そうですか。では、また……」
「えぇ。では、失礼します」

――バタン。

扉の閉まる音が、遊樹一人となった部屋で小さく反響する。
「……」
しばしの間、月のない星空を仰いだ後、遊樹はスーツの胸ポケットから携帯を取り出した。
それを開き、履歴の一番上の番号を押そうとして、

――……あぁ、そういえば、あいつはまだ空の旅の途中か。

そう思い直し、遊樹は携帯を閉じると、元あった場所にしまい込んだ。
「まぁ、あいつのことだ。こちらから掛けずとも、降りるなりすぐに連絡してくるだろう」
再び、夜空の彼方へと目を向ける。
口元に浮かぶ柔らかな笑み。
この時ばかりは、その目に宿る野心に満ちたぎらついた輝きも、陰をひそめているように見えた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時14分(106)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第九章)

――英国、リバプール郊外、7/26、現地時間8:00――

マンチェスターから西へ行くこと数十キロ。
ここ、リバプールという街は、ロンドンのような主要都市の体裁を擁してはいないが、かといって辺境の片田舎というほど寂れてもいない。
ちょうど両者の中間的なポジション、早い話が、それなりに人気な観光名所という感じだ。
ビートルズの出身地として、日本人にもそこそこ馴染みのある場所なのではないだろうか。
今日は天気も良く、東から昇り行く太陽が、雲に遮られることなく視界に飛び込んでくる。
すぐ側を吹き抜ける、僅かに朝の冷気を孕んだ涼しげな風が肌に、そして、遠くから聞こえてくる小鳥の囀りが耳に心地よい。
これでソファーに腰掛け、開け放った窓から空を眺めながらモーニングティーともなれば、日本人の誰もが描くであろう、理想的な英国の朝の完成だ。
そんな気持ち良い朝の空気の中、義治はまだ人波のまばらな街道を歩いていた。
今、彼はマンチェスターではなく、この街に滞在している。
理由は2つ。
現在、彼にとってマンチェスターとは、いわば敵の巣窟。
相手の本拠地も、その正体もある程度把握はしているが、その正確な様相や周辺地理を自分の目で見ないまま襲撃を掛けるのは、あまりにも無用心すぎる。
見える限り、調べられる限りは入念な下見を行い、最大限の下準備をするのは必要不可欠。
それができていない内は、不用意に相手の懐に飛び込む訳にはいかない。
そういうわけで、今はマンチェスターから少し離れたこの地に宿を構えているという訳だ。
そして、もう一つの理由はというと……いや、果たしてこれは理由と言っていいものか……。
実は、その理由はもうすぐ近くにあった。
「……ここだな」
呟きながら、義治は歩みを止めた。
視界に広がるのは、昔、一度だけ見たことのある光景。
薄暗くじめじめとした、光の射さない路地裏。
漂う悪臭からは、心なしか腐敗臭も漂ってくるような気がした。
両サイドにいくつかある建造物の内、数ヶ所の扉は何枚もの板を打ち付けられて、二度と開くことがないようにされている。
そう、その扉は、二度と開かれることがあってはならないのだ。
きっとその奥には、未だにあの時の苦い記憶の爪痕が、目に見える何らかの形として残っているであろうから。
あの時の記憶が、鮮明な映像を伴って脳裏に蘇る。



鼻をつく血の匂い。
ざらついたアスファルト上に形成された血溜まりと、そこに沈む名も知らぬ誰かの死体。
そして、小さな体でそれを引きずる、まだ幼い一人の少女の姿。
澄んだ青に彩られた美しい髪も、その時ばかりは赤黒い血に汚されていて、空を思わせるような鮮やかさなど微塵も感じさせなかった。
こちらを振り返る眼差し。
その無垢で純真な瞳に宿る研ぎ澄まされた殺意に、初めて背筋が凍り付くという感覚を味わった気がする。
どこまでも純粋で、裏表のない実直な殺気。
そこには、相手に対する憎しみもなければ、これから行う非人道的行為に対する躊躇いもなく、それ故、真っ当な人間なら、その後確実に訪れるはずの後悔や懺悔も何もないことだろう。
ただ、そこに生きているモノがいるから、殺す。
道端に生える雑草を抜くよりも、砂利道を這う虫を踏み潰すよりも容易く、さも当然のように人を殺す。
当時の彼女にとって、殺人という行いは、日々の日常生活に組み込まれたルーティンの一つでしかなかったに違いない。
長年に渡り、数限りない死線をくぐり抜けてきた。
いつも、死とは自分のすぐ隣にあるモノであり、死神とは誰より身近な隣人……いや、神であるから隣神と呼ぶべきか。
とにかく、死という文字は、自分にとって何より馴染み深い響きを湛えていたのだ。
そんな毎日を送りながらも、私は今まで一度もしなかったことがある。
それは、相手が身構える前の先制攻撃、いわゆる不意打ちだ。
例え、相手がどれほどの兵器を所持していようと、こちらがどれほどの痛手を負っていようと、そんなことは関係なかった。
これは、私の中での揺るがない法、譲ることのできない美学だったのだ。
……あの日、ここを訪れた、その時までは。
死体を背に負い、首だけを捻ってこちらを見つめる瞳。
その奥に満ちる深い闇は、他のどのような色彩も含有されることなく、またどれほど眩い光でさえも、瞬時の内に呑み込んでしまえるくらいの、真の暗黒を思わせた。
全員を駆け巡る、いまだかつて体験したことのない死の予感。
私の体は、私が何かを考えるよりも早く、反射的にその少女の方へと動いていた。
邪魔な死体を放り捨て、こちらへ向き直ろうとする彼女。
同時に、片方の手を後腰へと回す。
何の迷いも戸惑いもない、流れるような滑らかな動き。
だが、それでも彼女より、既にその眼前まで肉迫していた私の方が、先に臨戦態勢を取っていた。
ならば、先手を取る権利はこちらにあるのが条理。
体勢を低くし、腕を前方へと伸ばして彼女の首を絞めにかかる。
「っ……!」
僅かに顔を歪めながら、彼女が後腰から現した手には、鋭利な短刀が握られていた。
先ほど、あの男を殺したものだろうか。
元来は神々しく光を反射していたであろう白銀色の刃は、今や暗憺たる真紅に包まれ、見る者に恐怖を植え付ける妖刀と成り果てていた。
己の首を拘束する腕を切り飛ばそうと、血塗られた刃が残像を纏いながら剣閃を走らせる。
それがこの腕へと到達する前に、私は空いた方の腕で彼女の手首に手刀を叩き込んだ。
ガッという鈍い音を上げて、衝撃に耐えきれなかった手が開かれる。
支えを失い、重力に誘われるまま自由落下する短刀。
しかし、それは地に落ちなかった。
短刀をはたき落とされるや否や、彼女は自分の首を羽交い締めにする私の腕を掴み、一気に体重を後ろへと倒しながら足を払ってきたのだ。
「なっ……!?」
予想外の行動に、思わず驚愕の声が上がる。
前のめりに倒れ込みながら、私は視界の端に何かを捉えた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時14分(107)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第十章)

それは、赤と銀で彩られた、鈍い光を放つモノ。
先ほど、私が叩き落とした短刀だった。

――ちっ……!

予想外に続く予想外の事態。
しかし、毎日死と隣り合わせの日常を生き抜いてきた経験が、私に現在の状況を瞬間的に把握させてくれた。
さっき、彼女は私の足を払うと同時に、もう一方の足に落とされた短刀の柄の部分を乗せた。
そして、回し蹴りを放つ要領で、その刃を私に突き刺そうとしているのだ。
狙いは、恐らく陰腹。
この勢いのまま刺されば、確実に致命傷だ。
考えている暇は、既になかった。
「くそっ……!」
私は敢えて避けようとはせず、倒れ込むまま重力に身を任せ、彼女の首に噛み付かせた手により一層の力を込めた。
一気に喉を絞め上げ、気を失わせるしかないと、そう判断したのだ。
この状況では、どうせ避けられはしない。
上手く身を捻れば、もしかしたら致命傷は免れるかもしれないが、決して無傷では済まない。
それに、そのような余計な動きに意識を割いていたのでは、この一瞬で彼女を気絶させることなどできはしない。
まだやり合って数秒しか経っていなかったが、すぐに分かった。
この娘の格闘センスは凄まじい。
私のような後付けの格闘技術では、彼女の生来の能力には遠く及ばない。
もし、今この機を逃せば、傷を負った私は間違いなく殺される。
だから、私はこの一瞬にかけた。
彼女が意識を失うのが先か、それとも私が致命傷を負うのが先か……!
「ぐぁっ……!!」
不意に、脇腹を鋭い痛みが襲う。
思考回路にノイズが混じる中、私は最後の力を振り絞って、彼女の首を絞め上げた。
そのすぐ後、地に叩きつけられる激しい衝撃をもって、不気味な浮遊感は終わりを告げた。

――ぐっ……!

痛みを意に介している暇さえない。
直ぐ様起き上がり、自分の腕の先を見つめる。
そこには、静かに横たわる少女の姿があった。
瞼を閉じ、微動だにしない。
気を失っている。
そう思った。
だが、まだそれは確定事項ではない。
この少女は、そんじょそこらにいる年頃の女子では、断じてないのだ。
もしかすると、これは演技かもしれない。
私の脇腹に短刀を刺した感触は、靴越しであろうと確かに感じたことだろう。
ならば、気を失ったフリをして、この手がほどかれるその瞬間を待っている可能性がある。

――確かめなければ……。

脇腹を中心に走る痛みをこらえ、私は空いた方の手をズボンの後ろに回すと、そこから一本のペンライトを取り出した。
彼女の目のすぐ手前でそれを点灯させると、そこでようやく、私は首に噛み付かせていた手を離した。
その手を彼女の瞳にそっとあてがい、無理やり瞼を開かせる。
瞳孔に光を注ぐが、何も反応はない。
どうやら、演技やフリなどではなく、本気で意識を失っているようだ。
「……ふぅ」
そのことに確信を抱いてから、私はやっとのことで息を付くことができた。
傷を負った脇腹の部分に目をやる。
さすがにあの状況下では、陰腹を正確に狙うことも、全力で刃を刺しきることもできなかったらしい。
刺さった短刀は、陰腹を捉えてもいなければ、危惧していたほど深々と刺さってもいなかった。
肌を貫くそれを引き抜き、傷口を確認する。
裂傷部から溢れる血液。
だが、意外にもその勢いは大したことなかった。
これなら、激しい運動さえせずに大人しくしていれば、特に処置をしなくとも問題ないだろう。
己が身の安全を確認してから、私は少女の方へと再度目を向けた。
眠るように意識を失っている彼女。
その穏やかな表情を見ていると、彼女がまだまだあどけなさの残るほんの少女であることを、改めて認識させられるようだ。
だが、その実彼女がただの平凡な一少女でないことは、他ならぬ私が一番良く理解している。
このまま、この娘をここに置き去りにすれば、目を覚ました彼女はまた、今まで通りの間違った生き方を貫くだろう。
恐らく、最期を迎えるその時まで。

――それだけは、決して……。

暫しの瞬巡の後、私は彼女の小さな体を両の腕に抱えて立ち上がると、その路地裏を後にし、日の下へと歩みを進めた。



「……」
無言のまま、瞼を持ち上げる。
視界に広がる景観は、あのときとは少しだけ違った。
転がる空き缶に、錆びた鉄屑、埃の積もった木箱……どこの街にも見られる、典型的な路地の裏側だ。
路地の脇を怖々と歩く黒猫の親子や、我が物顔で闊歩する数羽の鴉、新聞にくるまり、横たわったまま動かない、ホームレスと思しき人々の姿も見受けられた。
形はどうあれ、今のここには、生きとし生ける命があった。
かつて、血の匂いと腐敗臭に満ちていたこの場所に、再び死が蔓延することはもうないだろう。
空を見上げる。
建造物の隙間から、僅かに覗ける青海。
さっき見たときは、晴れ渡った快晴の空に心地よさを覚えたが、ここから見上げると、何故か憂鬱さに胸が締め付けられるようだった。
最も感受性に溢れる幼少時代、毎日こんな空を見て彼女は育ってきたのかと考えると、自分たちの生活のどれほど幸せなことか。
今までの不幸を補ってあまりある幸せを、あの娘に与えてやりたい。
……確かに、彼女を取り巻く現在の環境が、それを許しはしないだろう。
それでも……ほんの少しで良い。
人間らしい心を殺し、殺伐とした非日常を送り続けてきた彼女に、少しでも他人と同じような日常を過ごすことで、その中にありきたりな幸せというものを見つけてもらいたい。

――そのためにも、この件だけは、必ず私が……!

「……」
強い決意を改めて胸に刻み、義治は踵を返した。
背後から聞こえてくる、空き缶の転がる乾いた甲高い音。
だが、彼は振り返らない。
眼前を真っ直ぐに見据える、その瞳は揺るぎなく。
凛と引き締まった表情に、隙や油断は微塵となく。
歩む足取りは、一歩一歩を力強く。
彼の全身から放たれる気配に、迷いはなかった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時15分(108)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第十一章)

――英国、ロンドンヒルトンホテル、7/26、現地時間9:00――

「ふ〜、やっぱりヒルトンともなると、朝から豪勢ね〜」
ホテル内部に備えられているレストランにて、豪華な朝食を平らげた私は、部屋に戻るなりベッドの上へと身を投げた。
そんじょそこらの生半可なベッドとは明らかに格の違う、高級感とクッション性溢れる柔らかな感触が心地良い。
あ〜、私の家にも、これくらい良い寝床が欲しいな〜。
……次のボーナス出たら、思いきって買っちゃおうかしら。
「そ、そうですね〜……」
などと考える私のすぐ後ろで、紗弥がどことなく元気の無い声で相槌を打つ。
どうしたんだろう?
さっき、朝ごはんを食べてる途中からずっとこんな調子だ。
「どうかした? 体の調子でも悪いの?」
「あ、いえ、そうじゃなくて……ちょっと胸焼けが……」
「胸焼け? 貴女、そんなに食べてたっけ?」
私が見ていた限り、一回しかおかわりに行ってなかったはずだけど。
「……姉さんの食べっぷりをすぐ近くで見てたら、誰だってそうなりますよ」
「私の? そんなに食べてたっけ?」
「えぇ……私の分を補ってあまりあるぐらい、元は取ってましたね……」
「何言ってんの、当たり前じゃない。せっかくのバイキング形式なんだから、食べなきゃ損でしょ」
「にしても、限度ってものがあるでしょう……」
「ん〜……でも、そんなに言うほど食べたかな〜」
今、胃の中に収まっている数々の食べ物たちを、過去へ時を遡りながら指折り数えてみる。
最初サラダから始まって、次はソーセージとかベーコンとか肉類を三皿ほど食べ散らかして……そうそう、和食とか中華もあったから、寿司やら酢豚やらも数皿いって……おぉ、こうして数えてみると、結構食べてるかも。
「もうメチャクチャでしたよ……特に、最後あれだけ食べてから、パフェやらソフトクリームやらをありったけってのはちょっと……」
「あぁ、そういや最後はそんな締め方したっけ。紗弥も食べれば良かったのに。ここのデザート、美味しいって評判なのよ?」
「端から見てるだけで、もうお腹いっぱいでしたよ……」
そう言って、げんなりとした表情のまま深い溜め息を付く紗弥。
まだまだ育ち盛りなんだから、もっとちゃんと食べないとダメだと思うんだけどな〜。
姉的立場として、この娘の今後が心配だわ。
「それより、今日はこれからどうするんです?」
横たわる私の隣に腰を下ろしながら、紗弥が問いかけてくる。
「領事館の方に出向くんですか?」
「そうね……」
ベッドの上に上体を起こしながら、思考回路を開く。
領事館に出向くというのも、選択肢として無くはない。
寧ろ、手渡された資料に基づいて行動するなら、そうするのが当たり前とさえ言える。
だけど、今回の指令は、どこかいつもと違うような気がした。
納得のいかない節がいくつもある。
中でも一番気になるのは、今回の事件の発端。
英国にて起きたはずの事件に対し、わざわざ日本が身代わりになった理由がわからない。
例の生物兵器を後ろ楯に、英国から何らかの圧力があったと考えるのが一番自然だが、それでも不可解な点は多々残る。
そもそも、日本を身代わりに選ぶ理由がない。
日本という国家ほど、国民のメディア依存度の高い国はそうそうない。
メディアへの依存性が高いということは、それだけ事実の発覚が早く、またその情報の国内波及も迅速だ。
情報の偽造捏造をするに当たり、これは不利にしか働かない。
ならば、日本にしなければならない、何らかの理由があったと考えるべきだろう。
それが何かまでは、今はまだわからない。
私の存在が邪魔で、消そうとしているだけなら、ここまで回りくどいことはせず、日本国内で殺しにくるはず。
つまり、その目的は私ではないと考えられる。
だが、一つだけはっきりしていることがある。
領事館へ赴き、そこで情報を得ることとあるが、そこで掴まされる情報が信用するに値しないということだ。
今回の件の裏に英国の政府上層部が関わっていて、その発端となる事件を日本になすりつけたのだとしたら、両国の間に領事館が絡んでいる確率は非常に高い。
昨晩、私たちがこのホテルに入るところを、少なくとも数人が監視していたことから考えれば、十中八九間違いないだろう。
そして、その仮説が真であるとするならば、我が国の上層部にも、奴らと直接繋がってる輩がいると考える必要がある。
もしかしたら、例の生物兵器開発に、領事館内部の人間が関わっているという可能性だって否定はできない。
となれば、筋書きに沿って動くこともない……か。
「……よし! 紗弥!」
「は、はい!」
「遊びに行くわよ!」
「……はい?」
間の抜けた声を上げ、はてなマークを頭上に浮かべる紗弥をよそに、私は外出の準備を始めた。
「え……っと……遊びに……?」
「えぇ。せっかくイギリスに来たんだもの。なのに仕事一色だなんてつまらなくない?」
「いや、それはそうかもしれませんけど……」
「でしょ? じゃあ、ほら。紗弥もちゃちゃっと準備しなさい」
「は、はい……」
依然として納得のいかないといった表情を浮かべながら、紗弥はいそいそと出掛け仕度を始めた。
さて、これであちらさんはどう出るかしら?
焦らされて何らかの動きを見せるか、それとも動かざること山の如しを貫くか。
どちらにせよ、今回の事件は全体像が不透明過ぎる。
ある程度見通しを立てておかないと、深い霧の中をさ迷うことになりかねない。
とりあえず、今日一日はこちらからは一切動かず、あちらさんの対応を見るとしましょうか。
「紗弥、準備できた?」
「あ、えっと……ち、ちょっと待ってください〜」
何気なく、紗弥の方へと視線を向けると、荷物の前に座り込み、ゴソゴソと中身を漁っている彼女の姿が見えた。
「まだなの? 遅いわね〜、何やってんの?」
「お気に入りのワンピースが見つからないんですよ〜……おっかしいな〜、確かに入れてきたはずなんだけど……」
せわしなく腕を動かし、内容物を次から次へと外に放り出しながら、目的の物を探して悪戦苦闘している紗弥。
「まぁ、ゆっくり探していいわよ。どうせ今日はの〜んびりの予定なんだし」
そんな微笑ましい光景に口元を綻ばせながら、私は日本から持ち込んだ緑茶のパックを片手に、のんびりと一息つくことにした。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時15分(109)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(第十二章)

――英国、日本領事館、7/26、現地時間10:30――

「はい……はい……そうですか、わかりました。引き続きお願いします」
そう答えて、俺は携帯を閉じた。
SISからの連絡で、明神水亜がたった今ホテルを出たらしい。
その傍らには、例の少女の姿があったとのことだ。
これで、空港かどこかでたまたま出会っただけの少女という説は否定された。
どういう形でかはわからないが、その少女は今回の件に何らかの関わりがあるということだ。
立ち位置としては、恐らくあいつの代わり、同行者としてだろう。
……そうか、例のハッキングを実行したのは、その少女という説も出てくるな。
何らかの目論みがあり、明神水亜と行動を共にしたい、またはしなければならない理由があったから、今回の件を利用した……あり得ない話ではない。
まだ幼い子どもと聞いていたせいで、そんなことは考えもしなかったが、これは易々と棄てきれない一つの仮定だ。
そうであるなら、その少女はこちら側にとって、厄介な敵ということになる。
この領事館はともかくとしても、あのSISを相手にハッキングを仕掛けて、尚且つ尻尾を掴ませないその圧倒的知識と技術。
情報戦になったとき、これほど脅威的な存在はない。
「だとすれば、早い内に何とか対処しておきたいところだな……」
誰に言うともなくぼやく。
だが、それもまだ確定事項ではない。
それより、本当に気にかけるべきはこれからのことだ。
ホテルを出たということは、今から明神水亜は、ここ、日本領事館に向かって歩みを進めるということだろう。
これは、当初俺の予定したプラン通りと言える。
余計な邪魔が入ったせいで、あいつを日本国内で接触させることには失敗したが、ここで確実に懐に潜り込ませられるな。
それさえ出来れば、後はもう時間の問題だ。
いや、あわよくば、その時にでも……。
「……ってのは、無理か。さすがに」
ということを少し考えてから、俺は力なく首を横に振った。
相手はあの明神水亜だ。
特殊機関に所属するその手のプロフェッショナルでさえ、てんで相手にならない化け物を、そう容易く無力化できるとは思えない。
いくらあいつでも、少なからず手こずることは間違いない。
況してや今は昼の領事館。
暴れるには色々な意味で問題がある。
やはり、潜り込ませるのが限界か。

――コンココン。

と、そんな折り、不意に耳に届いた、一種独特なノックの音。
やれやれ、ようやく戻ってきたか。
「入っていいぞ」
「失礼しま〜す」
扉の奥から聞こえる、何とも気の抜けた声。
相変わらず、緊張感の欠片もない声だな。

――ガチャッ。

開かれた扉の向こうから姿を現したのは、見慣れた一人の女性の姿だった。
引き締まりつつも豊満な長身は、大人の女性の持つ妖艶さを、そして、あどけなさの残る人懐っこい柔和な表情は、まだ未成熟な少女の持つ純真さを醸し出している。
この本来相容れないはずの二つの要素を、不協和音奏でることなく含む彼女という女性は、世の男性全てにとって、少なからず恋慕の念を抱かずにはいられない存在であることだろう。
美しさと繊細さを兼ね備えた、神々しいとさえ言えるその姿は、まさに芸術と呼ぶに相応しい。
そんなことを考えながら、俺は彼女の方へと向き直った。
「たっだいま戻りました〜♪」
真紅の長髪をなびかせながら、満面の笑顔を向ける彼女。
「あぁ、お帰り、ドミニィ」
その名を呼びながら、俺もまた面に笑みを浮かべた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時17分(110)
題名:交差する思惑〜Crossed Emotion〜(あとがき)

やふー(´・ω・`)


皆さん、今日も元気にニコニコしてますか〜?


私こと月夜は、今日も今日とてPC使ってテラニコニコ。
やっぱりいつ見ても深空実況とはっちさんの実況は面白いね。
一回ああいう実況を、メルブラで熱帯しながらやってみたいものです(´・ω・`)

さて、既にご存知の方が大半だとは思われますが、私の昔のプロフィールがあまりに嘘偽りの嵐だったもので、この度新しいプロフィール作成の為にという名目で、私への質問コーナーを作ってみました。

雑談所にも書いた通り、予想外の賑わいに驚く反面嬉しさでイパ〜イです。

ただ、質問の内容とそれに対する答えを見て、とある友人が一言(´・ω・`)

















鞍:質問の6割方が、月夜の性癖についてだよね












月:いいえ、ただの趣味です















鞍:趣味って言った方が、響き危ないよね















(´・ω・`)















はい、ホントにその通りでございます。
父上、母上、こんな変態に生まれてきて、どうもすいませんでした。







゜。゜(つ∀`)ノ゜。゜






皆さん、こんな廃人ですが、見捨てないでやってくだしあ(´・ω・`)


さて、話は変わって、OL長編第二章、楽しんでいただけましたでしょうか?

黒幕らしき存在も出てきましたが、一体この先どうなるのか。
私にもさっぱりです(何

紗弥ちゃんが、歳の割には何気に物凄い子になっちゃってますが、ここは自重しない方針で。
作戦はいつでもガンガン逝こうぜなのです(´・ω・`)

ちなみに、劇中に登場した組織ですが、一応実在しているものばかりです。
ただ、その活動内容などに関しては、事実とでたらめごちゃ混ぜになっちゃってるので、ほとんどオリジナルのものと考えてください。


では、今回もこの辺りで締めるとしましょうか。
この作品に対する感想は、いつも通り「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」の方までよろです。

それでは、また会う日まで……っと、危ない、忘れるところでした。

今日は、皆さんに特別アンケートを取りたいと思います。
まだ先の話になりますが、クリスマス&お正月という、ビッグなイベントがもう直やってきますね。

ということで、季節ネタです。
クリスマス&お正月に、それ用の小説を書きたいと思うのですが、それに関するアンケートを取りたいのです。

まず、誰と誰をメインにした作品が良いか(別に異性である必要はなし)

次に、どういう話が良いか(純愛やらコメディやら、敢えてダーククリスマスとかもありっちゃあり)

最後に、実はこれが一番大切なんだけど、これだけは入れて欲しい決め台詞的なモノ(ちゃんとジャンルに沿ったもの、キャラ属性完全崩壊しないものをお願い)

を募集いたします。

これは感想掲示板ではなく、メールボックスにお願いしますね。
無茶な要望にも、なるたけ頑張って答えるつもりですので、じゃんじゃん送りつけてやってください。
予定としては、私が最も苦手とするSS形式にして、皆さんからの依頼には全て答えたいなと思ってます。

……あまりに多い場合は、私の独断でいくつか選ぶことになるやもしれませんが(´・ω・`)
あ、お一人様一通限りでお願いね。
複数とかにしたら、死亡フラグな予感がするので(´・ω・`)

ではでは、皆さんからの妄想力溢れるメールを待っておりますね。

ここまでは、そろそろ小説の更新速度を上げたいと思いつつも、未だニコニコから離れられない廃人、月夜がお送りしまし……アッ――――――!

月夜 2010年07月09日 (金) 23時18分(111)


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