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タイトル:静動〜Silent Rushing〜 アクション

――紗弥の助力の下、遂に今回の敵の正体が明らかとなり、水亜は本格的に行動を開始すべく動き始める……が、紗弥を引き連れて敵の本拠地に乗り込むようなマネはできない。何より優先すべきは彼女の身の安全。そう考えた水亜は、とある人物に彼女の護衛を頼むのだが……。とうとう長かった前置きが終了! 水亜のこれからの活躍により判明する(であろう)謎の数々は、果たして作者の予期していたシナリオ通りに進むのか!? 物語の中核へと切り込む前哨戦とも言うべき今作、次回からの激動の程を思わせる静かな動きは、まさに嵐の前の静けさそのもの!

月夜 2010年07月09日 (金) 23時49分(146)
 
題名:静動〜Silent Rushing〜(第一章)

――英国、ロンドン、ヒルトンホテル、7/27、現地時刻22:00――

「……」
ホテルの階段を上りながら、私はおもむろにポケットから数枚のカードを取り出した。
免許証やどこぞのスポーツクラブの会員証、病院の診察券など様々だ。
それらは全て、同一の人物から奪い取ったものであったが、氏名の欄には、全て別の名前が記されている。
「……やっぱり無駄足だったみたいね」
ポツリ、そう呟く。
そこそこ規模の大きいブラックな組織というのは、その存在を知られにくくするよう、所属する人間にも身分を確定されるようなものを持たせないというのは、よくあることだ。
今までの経験上わかってはいたことだったが、どうやら今回も同じパターンのようだった。

――ま、初めからある程度予想は出来てたことだから、別に良いんだけど。

正直、この淡い期待が実らないであろうことは、予想の範疇だった。
当初の予定では、私が一人で出向き、紗弥に危険が及ばないところで色々と尋問して情報を吐かせてやるつもりだったのだけれど……そうそう楽に事は運んでくれないらしい。
何を聞いても頑なに口を閉ざしたままで、結局死ぬまで何一つと口を割ることはなかった。
自白剤の類いも、持っていないわけではなかったが……正直言って、あれはあまり宛てになるものではない。
警察モノのフィクションでたまに使われてるけど、あんなのは本当に頼る情報が一切ないときに用いる、いわば最後の手段だ。
自白剤というのは、脳の一部を麻痺させて相手を自白しやすい状況にもっていく為の薬物であり、相手の意思を完全無視して自白を強要するような万能性はなく、そういう意味では拷問とそう大差ない。
むしろ、脳の一部が麻痺して朦朧とした意識の中の自白は、記憶の食い違い等が起き、逆に信憑性に欠けるところさえあるのだから、お世辞にも実用性が高いとは言えない。
私が常日頃から所持していながらも、ほとんど使ったことがないのはこれが理由だ。
「誰か、凄い効用の自白剤とか作ってくれないもんかしらねぇ……」
うんざりといった様子で肩を落とし、ぼそりと呟く。
無論、そんなものできるはずがないことくらい、私自身理解している。
それにもし、そのような薬物が発明されれば、ありとあらゆる人間からプライバシーの保護という概念が消え去りかねない。
どれだけ極秘裏に作成しようと、その社会的問題性が許されはしないだろう。
などと考えている内に、見覚えのある部屋番号が視界に映った。

――コンコン。

「紗弥〜。戻ったわよ〜」
扉の前に立ち、軽くノックする。

――ガチャッ。

鍵の外れる音と共に、ドレス姿の紗弥が笑顔で出迎えてくれた。
「姉さん、お帰りなさい」
「ただいま。……なんだかんだ言って、気に入ってるみたいね。そのドレス」
「なっ……そ、そんなわけ……」
否定の言葉を口にしようとする紗弥。
「……」
そんな彼女を、私は黙ったままニヤニヤと見つめ続けた。
私が何を言わんとしているかくらい、紗弥とてとうに分かっているだろう。
「……ある、かも……」
「素直でよろしい」
指先をもじもじとさせながら、頬を染めうつ向きがちに答える紗弥の頭を軽く撫で、私は室内へと足を踏み入れた。
「……そ、それで、どうでした? 何か収穫はありましたか?」
「ダメね。役立ちそうな情報はからきしだったわ」
一応程度に押収してきたカードを紗弥に手渡し、私はベッドに身を投げた。
ボフッと小さくバウンドした後、体中が柔らかい感触に沈み込む。
大して疲れていなくても、やはりベッドに倒れ込む瞬間の感覚はたまらない。
しかし、それもこれが良質のベッドだからに他ならない。
もし、自宅のベッドに向かって同じようにすれば、鼻に強烈な痛みを覚えて悶絶することは必至だ。
……なんて下らないことを考えていたから、次に紗弥が口にした言葉に、私は少し驚くを溢した。
「……姉さん、ちょっと、パソコン貸してもらえます?」
「パソコン?」
「はい。ダメですか?」
「いや、全然良いけど……」
一体何を調べるつもりだろう?
そこまで考えてから、私はイギリスへ発つ直前のことを思い出した。
そういえばこの子、相当パソコンが得意みたいだったけど……。

――同行者、か……。

改めて、その言葉が脳裏をよぎった。
正直なところ、私はまだ、紗弥が本当に同行者なのかどうか、その確信を抱いてはいない。
あの事件の時、私は咸枷総理の紗弥を想う気持ちの強さの程を、その行動を以て感じている。
そんな娘想いの父親が、彼女をこのような危険に晒すとは、到底思えなかった。
恐らく、いや、9分9厘、彼女は私の同行者ではない。
本来なら、空港で出会ったその時に、彼女を無理にでも自宅へ返すべきだったのだろう。
しかし万が一、あの時既に何者かの監視の目があったとしたら、下手に彼女を一人にするより、同行させた方がかえって安全と考え連れてきたのだが……それが正解だったのかどうかは、現状未だわからない。
だからといって、ただの足手まといにしかならないのかどうかと問われれば、それには答えを返しかねる。
その日、その時間に、あの空港から私が英国へ発つという情報は、国防省の極秘情報のはず。
彼女が同行者でなかったのなら、いかにしてその情報を掴んだのか、興味が湧かなくもない。
そしてもし、紗弥が私の真の同行者だったなら、その能力が本物である何よりの証拠ともなる。
それなら、ここで一つ、お手並み拝見といこうかしら?
「……わかったわ。ちょっと待ってなさい」
私はベッドから立ち上がると、大型のスーツケースの中からノートパソコンを取り出し、紗弥に手渡した。
「ありがとうございます」
受け取るなり、慣れた手つきで周辺機器を接続していく紗弥。
「慣れたもんね。良く使ってるの? ノーパソ」
「いえ、一応持ってはいますけど、基本デスクトップですね。そっちの方が性能良いんで」
などと言っている内に、もう起ち上げたようだ。
エメラルドグリーンの起動画面を経て、液晶に様々な種類のアイコンが並ぶ。
「え〜っと……あ、あったあった」
ブラウザを開き、携帯を片手にどこかのURLを打ち込んでいく。
「姉さん、一つインストールしたいものがあるんですけど、良いですか?」
「危険なものじゃないなら、別に良いわよ」
「それなら大丈夫です。ちゃんと検証済みですから」
そう言って微笑むと、紗弥は入力したURL先から何かのソフトウェアをダウンロードし始めた。
「これ、何なの?」
「パソコンを遠隔操作するためのソフトですよ。IPアドレスと所有者パスワードさえわかってれば、遠くにあるパソコンを別のハードで動かせるっていうスグレモノなんです」
「ふ〜ん。何でそんなものを?」
「それは、見てからのお楽しみってやつですよ」
どこか楽しそうにそう言うと、インストールしたソフトを開き、ブランクの部分にIPアドレスとパスワードを打ち込み、エンターキーを叩いた。
どこかのパソコンに繋がったのか、再び液晶が起動画面へと変化した。
しばしの後、起ち上がった画面には、先ほど私のパソコンにあったものとは明らかに違う、幾つかのアイコンが浮かんでいる。
その内、紗弥はマイドキュメントのアイコンをクリックし、中にあるファイルの一つを開いた。
何かのPDFファイルのようだ。
格子組の枠の中に、幾つもの人名が記載されている。
「紗弥、これは……」
「とある機関の、とある極秘リストですよ。こんなこともあろうかと、日本にいる間にちょちょいと事前準備してたんですよね〜」
私が持ち帰った各種証明書と、画面に示される氏名とを見比べる紗弥。
「……」
そんな彼女に対し、私は言葉を失っていた。
紗弥がどんな手法を使ったかは知らないが、これは彼女の言う通り、紛れもなく極秘情報だ。
簡単そうに言っているが、どんな組織であれ、そこに所属する個人の情報を盗み見るなど、並大抵の技術でできることではない。
間違いない。
彼女が同行者であるかどうかの真偽こそ謎のままだが、これだけははっきりした。
紗弥の情報関連の技術や知識は、私のそれを遥かに凌駕している。
彼女なら、このパソコンの有するハイスペックを、私以上に引き出せることだろう。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時51分(147)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第二章)

「……あっ、ありましたよ、姉さん」
「本当!?」
思わず大声を上げる。
まさか、あんな何の宛にもならなさそうなカード数枚から、敵組織の正体を掴めるなどと予想だにしていなかったのだから、無理もない。
「ほら、ここに」
そう言って紗弥が指差す先にある名前と、彼女が手に持っている免許証に記されている名前とを見比べる。
両者の氏名は、一文字の違いもなく一致していた。
根絶やしひたすらに数調べた訳ではない以上、同姓同名などといった偶然は、まず起こり得ない。
「これ、どこの組織の名簿なの?」
「姉さん、SISって知ってます?」
「SIS? もちろん知ってるけど……」
SISと言えば、イギリスでも指折りの情報機関だ。
スパイものの映画やら書籍やらで良く目にする、007ことジェームス・ボンド。
これの著者である人物が属していた組織であり、現役時代の経験を基に彼を産み出したという有名な話もあって、一般人の中にも知っている人は多いのではないだろうか。
「……まさか……」
「そのまさかってやつですよ」
目を丸くする私に向かって、紗弥は小さく頷いてみせた。
SISの中にも様々な部署があるが、原則的に英国外務大臣の指揮下にあり、その機能は英国内部だけに留まらず、世界各国へと向けられている。
「……」

――ボフッ。

背中からベッドへと倒れ込む。
帰ってきた時同様、柔らかい感触が全身を包むが、心地よさなどまるで感じなかった。
「どうしたんですか? 姉さん」
「ん、何でもないわよ?」
努めて冷静を装い、本当に何でもないかのように答える。
紗弥は分かっていないようだが、これは私が当初予期していたより、かなり危険な状態だ
参った。
これは本気で参った。
この展開は、正直予想だにしていなかった。
私たちの動きを監視しているのが本当にSISであるなら、今回の計画は英国国内だけの話ではないと考えられる。
逆に、この件の情報が英国内だけで循環しているのなら、外務的機関であるSISが、ここまで前面には出てこない。
つまりどういうことか。
今回の事件、生物兵器の研究過程等の情報に関して、他国と何らかのやり取りがある可能性が高いということだ。
確かに、良く良く考えてみれば、何故今まで疑問を抱かなかったのか不思議なくらい、おかしな点がある。
この生物兵器研究がいつから始まったのか、その正確な時期こそ不明ではあるものの、社長から聞いた話や受け取った資料を見た限り、つい最近ということはなさそうだった。
ならば、今頃になって初めてこの件に関する情報が漏れるなんて、況してや、遠く離れた日本に対して最初に発覚したとは、いくらなんでも考えにくい。
常識的に考えて、日本以前に欧州の近隣諸国に気付かれて然るべきだ。
そして、英国のそのような危険極まりない研究を、他の国々がみすみす進行させるとは考えにくく、その考え方でいくなら、私が動くより先にそれらの国が何かしらの妨害工作を行っていたはず。
にもかかわらず、そのようなことは聞かない。
それはつまり、他の国々と英国は、この件に関する様々な外交を行っていたからに他ならない。
こう考えれば、SISが前面に出てきていることにも合点がいく。
私としたことが……こんなことに気付かないだなんて、どうかしている。
……でも、私が気付かなかったとしても、普段から思慮深い社長まで、この事実をみすみす見逃すだろうか?
「……」
何か言い知れぬ不安に駆られ、私は携帯を取り出した。
発信履歴の中から、社長の携帯の番号を探し、通話ボタンを押す。

――プルルルルル、プルルルルル。

耳元で鳴り続けるコール音。
しかし、待てども待てども繋がる気配はない。

――只今、電話に出ることができません。ご用件のある方は……。

無機的でお決まりな音声案内。
残す伝言なんて考えていなかった私は、それが終わる前に通話を切った。
「……」
しばしの逡巡の後、私は別の場所へと電話を掛けた。

――プルルルルル、プルルル、ガチャッ。

先ほどとは打って代わり、ほとんど間を置くことなく電話が繋がった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時52分(148)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第三章)

――日本、芹川ビル6F応接室、7/27、現地時刻13:00――

――プルルルルル。

昼休みの最中、早めに昼食を済まし、応接室の来客用ソファーに身を横たえて微睡んでいた私の意識を、携帯の着信音が呼び戻す。
「ん〜?」
眠り目をこすりながら携帯を開く。
液晶に映し出される名前を見るなり、私は直ぐに通話ボタンを押した。
「ハロー、みーちゃん。ナイストゥーミーチュー」
「あんた、もっかい中学生からやり直してきなさい」
電話越しに聞こえる、いつも通りちょっと無愛想なみーちゃんの声。
全く……みーちゃんってば、美人な上に根は優しくて良い子なんだから、もっと話し方に親しみさえ込めたら、きっと社内でも人気者になれるのに。
「つれないな〜、マイフレンド。そこは、みーちゃんも鮮やかに英語で返してくれないと」
「You have to study over again in junior high school」
「ゆ、ゆーはふとぅ?」
「中学校から勉強し直してきなさいって言ったのよ」
「もっと簡単な英語にしてよ〜」
「使ってた単語は全部中学生クラスだったはずなんだけどね。……ところで、今社内に社長はいるかしら?」
話が急に切り替わる。
どうやらこれが本題らしいけど……何だか、いつものみーちゃんの話し方じゃない。
何て言うんだろう……別に声の調子はいつもと変わらないんだけど、どことなく焦ってるというか……。
本人はなんともないように装ってるつもりなんだろうけど、誤魔化しきれてないな。
まぁ、この僅かな変化に気付けるのなんて私と……後はさっちゃんくらいのものだろう。
「いないよ〜。ってか、みーちゃん知らないの?」
「知らないのって?」
「おじいちゃんも、みーちゃんと同じ日にイギリスに行ったんだよ」
「えっ?」
滅多に驚かないみーちゃんにしては珍しく、素直な驚きの声が上がる。
「本当に知らないの? 私は、てっきりみーちゃんが何か知ってるんだと思ってたのに……」
「初耳だわ。そっちのお祖母さんも何も知らないの?」
「うん。おばあちゃんは基本、仕事には関与しないから、今回も特には聞いてないみたい。イギリスへ行くってことと、多分2、3日で戻るってことだけ言い残してったんだってさ」
「そう……」
私の言葉に対するみーちゃんの反応は、その一言だけだった。
……何だろう、この感覚。
全身に得体の知れない悪寒が走る。
みーちゃんのこの態度……いつもと違うなんて表現だけで、到底表せるものじゃない。
嫌な予感がする。
「ねぇ、みーちゃん……」
「分かったわ。妙な電話して悪かったわね。それじゃ」
「あ、ちょ、ちょっと待っ……!!」
ソファーに寝転がっていた体勢から、慌てて跳ね起きる。

――ツー、ツー、ツー。

しかし、私の呼び止めの声も虚しく、今鼓膜を響かせるのは、定間隔置きに鳴る無機質な電子音だけ。
液晶には、通話時間を示す表示のみが、電話が切れたことを冷徹に示している。
「……」
アドレス帳からおじいちゃんの携帯番号を探し出し、通話ボタンを押す。

――プルルルルル、プルルルルル……

―――おじいちゃん、お願い……出て……。

――プルルルルル、プッ。

「あ、おじいちゃ……」

――只今、電話に出ることが出来ません。ご用件のある方は、発信音の後にメッセージをどうぞ。

ピーッという甲高く不快な音が、無慈悲に反響する。
「……おじいちゃん」
しばらく黙り込んだ後、私は静かに口を開いた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時52分(149)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第四章)

――英国、ロンドン、SIS本部、7/27、現地時刻24:00――

「……」
受け取った資料の束を見据えながら、レグリスは険しい表情を浮かべていた。
それら一枚一枚には、今日一日の活動内容の大まかな情報が記されている。
SISは外務大臣下の組織であるため、その活動は原則外交関係のものがほとんどだ。
その原則に漏れず、レグリスの手にある大量の資料も、その大部分が外交に関するものだった。
しかし、今彼の表情を厳しいものにしている要因は、その大多数には含まれていない。
今、資料の束の最前面にあるもの。
そこに書かれているのは、今日一日の明神水亜の行動についてだった。

――7/27、10時頃、ホテルを出る。
外出時、例の少女は彼女と行動を共にはせず。

――同日11時、領事館を来訪。
対応には直接鹿狩遊樹氏が出向く。

質疑応答の内容

@:今回の事件の発端である事故、その責を日本に転嫁した理由。

A:現場であるマンチェスターにおける現状。

B:マンチェスターにあるとされている研究施設に関する情報提供。

それら全てに際し、鹿狩氏の発言は適切と判断。
特にこれといった反論を述べることなく、明神水亜は席を立つ。
但し、直ちにマンチェスターへ向かうかという問いには否定的返答。

《同日13時、明神水亜と行動を共にしていたと思しき少女が、一人で外出。無力化したというドミニィの情報より、監視の必要なしと判断》

――同日15時、ヒルトンホテルに戻る。
だが、その10分後、再度外出。

――同日17時、とある廃ビルに侵入。30分後、同ビルより少女と共に現れる。ゲームセンター、洋服店、レストランと回った後、同日21時30分、ヒルトンホテルへと帰着。

……と、ここまでは、いささか不思議な行動こそあるものの、特にこれといって大きな問題はない。
レグリスにとって苦悩の種となっているのは、次の項目だ。

――同日22時、明神水亜一人で再度外出。2分後、尾行に失敗し、行方を見失う。更に2分後、監視員の一人より緊急信号発信。直ぐ様駆け付けるも、当監視員は路地裏にて死亡。身分証明カード数枚が紛失――

――パサッ。

そこまで読み返してから、レグリスは机の上に資料を放り投げた。
「……侮っていたか」
誰もいなくなった室内で、ポツリと呟く。
相手はありとあらゆる組織から畏怖され、死神とまで呼ばれる人物。
監視するだけでも、そう容易いことではないということか。
しかし、まさかいきなり、ここまで急な動きを見せるとは思わなかった。

――監視の目を振り切るのに2分、そして監視員の一人を殺害するのに2分……ドミニィが言っていた通り、確かに化け物じみている。

これはつまり、彼女がその気にさえなれば、ものの10分程度で監視員全員を殺害できるということだ。
やはり、かの死神に対しての行動となれば、たかが監視と言えど、単独行動を取るのは無謀が過ぎたか。
明日からは、最低でも三人一組で動くようにしておく必要がありそうだ。
しかし、何より気になるのは、監視員一人を殺害の上、その身分証明書の類いを略奪という内容だ。
誰からいくら身分証明書を盗ったところで、どこにもSISという組織名は記載されていない。
故に、その存在が明るみに出ることは、決してない。
……そう、ただ一つの可能性を除いて。
まだ死神が日本に居た頃、SISにハッキングを行った人物。
それが彼女と共にいる少女であり、その時既にSISに関する情報を入手していたという可能性。
レグリスは思考する。
その可能性の孕む現実性と、確率を。
直接見たわけではない以上何とも言えないが、聞いた話に写真等の資料を参考にすれば、その少女の年齢は高く見積もってもせいぜい中学、高校生が限度。
まだまだ幼いほんの子供だ。
常識的に考えて、SISにハッキングを行えるほどの情報技術があるとは、極めて考えにくい。
そういう点では、この可能性は限りなく0に近いと言える。
しかし、例の死神が引き連れている少女ともなれば、彼女がただのどこにでもいるような少女とは思えない。
何かしら優れた技能を有していると見るのが、一番適切だろう。
そして、身体的に未成熟な少女に、死神に匹敵するほどの高い運動性など期待できないとなれば、少女の持ち得る能力として、極度に高い情報技能が上がるのは至極自然な流れとも言える。
そういう点では、逆にこの可能性が最も高いとさえ言えなくはない。
だが、先日ドミニィは、確かにこう言っていた。

――例の少女を無力化した。

今まで、彼女がこう言って尚、牙を剥いてきた例は一つもない。
ならば今回も……そう考えるのが自然だろうが、レグリスは違った。
恐らく、多分、九分九厘……そういった楽観的、希望的観測は一切抱かず、そうであったらそれに越したことはない……その程度にしか、レグリスは考えていなかった。
だからといって、ドミニィを信用していないのかと問われれば、そういう訳でもない。
彼は、あくまでも彼女を信じて用いているのであって、彼女を信じるあまり頼ってはいない。
それだけのことだった。
結論から言ってレグリスは、先のハッキングはこの少女の手によるものだと、確信していた。
例えそうでなかったとしても、そう仮定して動くことに、デメリットはない。
戦場で生き残るには、常に物事を悲観的に見つつ、しかし決して絶望しない、強い精神と先見性を持つことが不可欠。
そのことを、長年の経験から身を以て知っているレグリスである。
彼がこの結論に至ることは、想像に難くない。
ここで真に提起される問題は、この仮定の元で、明神水亜が次に取るであろう行動、その予測である。
こちらの存在が知られた以上、彼女が当初の思惑通りマンチェスターに向かってくれる可能性は皆無だ。
恐らく、SISを潰しにくるだろう。
当然だ。
この事件の裏に、SISが絡んでいることが判明したのだから。
それは間違いない。
しかし、大事なのはそのタイミング。
一体いつ、それを実行に移してくるか。
もし、彼女が一人で英国へ渡ってきていたなら、今すぐにでもという選択肢もあったろうが……例の少女を引き連れたまま乗り込んでくることはまずあり得ない。
一旦、どこか安全な所へ避難させてから、単独行動を取るだろう。
なら、より一層監視を強め、そのような暇を一切与えないことが必要。
監視体制の更なる強化のため、そちらに多目の人員を割いておくべきか。
「ふぅ……」
そこで一旦思考を止めると、レグリスはこめかみを押さえながら、背もたれに身を預けた。
ギシッという鈍い音を上げて、椅子が軋む。
かなり疲労が溜まっているのか、軽く目を閉じただけで、直ぐに睡魔がやってきた。
全盛期の頃なら、数日の徹夜程度慣れたものだったのだが……やはり、この歳にもなると、いささか負担が大きい。
「……老いたものだな」
自らに嘲笑を向ける。
まだやるべきことは残っているが、このまま無理に業務を続けても、まともな判断を下せるとは限らない。
正常な思考力を取り戻すためにも、しばしの休息は必要不可欠だろう。
レグリスは瞳を閉じたまま腕を組み、思考という行為を完全に停止させた。
即座に解離していく現と夢の境界。
次に目を覚ましてから、以後休む暇などないことを悟りながら、今のこの疲労を解消すべく、レグリスは束の間の休息に身を委ねるのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時53分(150)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第五章)

――英国、某所、7/28、現地時刻8:00――

ロンドン郊外の、人目につかない路地。
そこを抜けた先に、それはあった。
白く四角い建造物。
仮設住宅のような小さな建物で、窓から覗く限り、中には小さな事務所があるだけといった感じだ。
白とは表現したが、かなり色褪せていて、正確には薄汚れた灰色といったところだろうか。
一見しただけでは、何のために建てられたものか、さっぱり分からない。
直ぐ隣にある巨大な建築物と比べてあまりに矮小なため、その存在すら知らない人がほとんどであろう。
「ここを直接訪れるのは、随分久しぶりだな」
「……私は、あんまり来たくなかったんですけどね〜」
そんな建築物の前に立つ、遊樹とドミニィの姿。
遊樹は足腰まで伸びる長い白衣に、ドミニィは漆黒色をしたスーツ姿と、両者共に正装であることから、何かしら重大な要件があってここを訪れていることは、想像に難くない。
「まぁ……お前はそうだろうな。悪いことをしたとは思ってるよ」
「いえ、おと……遊樹さんが謝ることではありませんよ。確かに、良い思い出は無いですけど」
頬をかきながらバツの悪そうな表情を浮かべる遊樹を、ドミニィが軽く笑い飛ばす。
本当は、そんな風に簡単に笑い飛ばせるような小さな問題ではないのだろうが、彼女のその笑顔を見ていると、本当に大して気にしていないように感じられるから不思議だ。
「俺は行かなきゃならないから行くが……嫌なら、お前は別に無理しなくてもいいんだぞ?」
「遊樹さんが行くのなら、私もお供させていただきます」
不安げな声色で気を遣う遊樹に向かって、ドミニィは少し拗ねたような口調でそう返す。
まるで、お前にはまだ早いんじゃないかと心配する親に対し、子ども扱いしないでと反発している子どもを見ているようだ。
「なら構わないが……気分が悪くなったりしたら、直ぐに言えよ?」
「大丈夫ですって。昔の私じゃない……」
「強がらず、ちゃんと言うんだぞ?」
ドミニィが全てを言い終わる前に、遊樹が強調してさっきの言葉を繰り返す。
「……は〜い」
「よろしい」
ちょっと不服そうに目を細めながらも、肯定的な返事をしたドミニィに、遊樹は小さく微笑むと、目の前の四角い建物へと歩みを進めた。
「もう……心配性なんだから」
「何か言ったか?」
「い〜え、別にぃ」
彼の背を追って、ドミニィもその建築物の中へと足を踏み入れる。
その先にあったのは、申し訳程度に置かれたいくつかの机や椅子と、そこに座る白い作業服に身を包んだ、数人の男性の姿だった。
人が来ることなど滅多にないからなのか、それとも本当にすることがないからなのか、どこからどう見ても働いているようには見えなかった。
「……あんた、名前は?」
そんな中、一番奥の椅子に腰掛け、煙草をふかしていた男性が、その場に静かに立ち上がった。
「鹿狩遊樹だ」
「……そっちのあんたは?」
「……ドミニィよ」
そうぶっきらぼうに問いかけた後、近場の引き出しから何やらファイルを取り出し、その内容と遊樹たちの方とを見比べる。
おそらく、二人がここの関係者であるかどうかをチェックしているのだろう。
しばらくの間、そうやって念入りに比較してから、その男は持っていたファイルを閉じ、元あったように引き出しへとしまった。
「……本日は何の用で?」
「あぁ。フェデラル氏は今日おられるかな?」
「フェデラル? ……あぁ、ガルのことか。あいつなら、今まさに勤務中だぜ。多分、あの羽の生えた化け物のところにいるんじゃねぇか?」
「っ……」
「……わかった。ありがとう」
そうとだけ答えると、遊樹はドミニィの手を引き、室内の隅に位置する、地下へ続く階段の方へと向かった。
蛍光灯の無機質で冷たい光が照らす、地下深くまで伸びる長い階段。
「……平気か?」
それを一段一段ゆっくり下りながら、遊樹は深刻な表情でドミニィにそう問いかけた。
「え? 何のことですか?」
しかし、そんな遊樹の態度とは対照的に、ドミニィの様子は実にあっけらかんとしたものだった。
なんのことかさっぱりわからないといった表情で、小首を傾げて見せる。
彼女のことを良く知らない者なら、自分の気のせいだったかと考えを改めることだろう。
だが、遊樹は彼女とそんな浅い付き合いをしてはいない。
何でもないかのような白々しい態度を示しながら、その実本心は真逆ということを、彼は長年の経験から理解していた。
「……ここに入る前の約束、忘れたのか?」
「……」
威圧するかの如く暗く低いその声音に、ドミニィが思わず押し黙る。
「……」
「……」
しばしの無言の時。
階段を下りる二人の靴音だけが、話し声のない空間にて反響し重なり合う。
「……ごめんなさい」
そんな気まずい沈黙を、ドミニィが消え入るような謝罪の言葉で破った。
「でも、もう大丈夫です。大丈夫ですから……」
懇願するかのような弱々しい声。
かように儚い彼女を知る人間は、この世で遊樹ただ一人だけだろう。
常に明るく振る舞い、多少のことは笑って誤魔化す、強く逞しい女性。
その本質が、実はこんなにも脆く、危なげなほんの少女であることなど、一体自分以外の誰が知り得るだろうか。
その事実に、彼女に対する愛しさと同じくして、筆舌にし難い優越感のようなものを、遊樹は覚えていた。
「……次は、絶対にちゃんと言うんだぞ」
「は、はい……」
今度は億劫な表情などせず、真摯な態度でしっかりと頷く。
それを見て、遊樹は彼女の手を静かに離すと、階段を下りきったところで、通路の左手側へと折れた。
見るからに分厚い仰々しい扉を開き、中へと足を進める。
中央に置かれた白い台座の上に、あるべきはずの巨大な白い袋はなかった。
どうやら、上で聞いた通り、彼はちょうど例の化け物のところにいるようだった。
そちらへと続く扉の方へ進み……その手前で、遊樹は一旦立ち止まった。
「……準備はいいか?」
「はい」
躊躇いなく首を縦に振るドミニィ。
「……よし」
遊樹は歩みを前に進め、開いた扉をくぐった。
瞬間、耳に届くのは、様々な不快音の入り雑じった怨鎖の悲鳴。
常人なら、耳を塞がずにはいられないであろう、無数の悲痛な叫びが渦巻いていた。
そんな中を、遊樹とドミニィは涼しげな顔のまま歩いてゆく。
そのような叫び声など、まるで聞こえていないかのように。
その目的地は、一番奥に位置する、巨大な檻だった。
その中には、上で見た男たちと同じように、白の作業着を着込んだ男性と、この世のものとは思えない、巨大かつ異形な生命体がいた。
黒い体躯に点在する無数の目と、そこから伸びる数多の足。
縦に裂けた三つの切れ目が、口を形成しているなどと、一体初見の誰が分かるものか。
長く伸びた尻尾は、蠍のそれを体に併せて巨大化させたものといったところだろう。
今はたたまれているものの、その背に生える羽の大きさたるや、思い切り広げれば、この部屋からはみ出してしまいかねない。
それは、こう呼ばれていた。

“多異種間遺伝子混在生命体”

……と。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時54分(151)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第六章)

「君がフェデラル君かな?」
だが、その巨大な生物になど目もくれず、遊樹は隣にいる作業員に声を掛けた。
「あ、あぁ……そうだけど……」
突然の訪問者に驚いているのか、彼が返す返事には戸惑いが露わに示されていた。
まぁ、こんな場所を訪れる人間など、そうそういるはずもない。
況してや、その目的が自分ともなれば、驚くなと言う方が無理だ。
「ちょっと話を聞きたいんだが、構わないかな?」
一目見て、今自分に話し掛けている人物が、見たことはないものの、おそらく自分にとっては上司に当たる人物だと、ガルは予想したのだろう。
「あ、あぁ、構わな……じゃなかった。はい、わかりました」
いい掛けた言葉を途中で訂正し、敬語で言い直す。
一見粗暴な若者に見えるが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「それじゃあ、少しこちらまで来てくれ」
「はい」
「……」
そんなやり取りを、その巨大な生物は、ただ黙って見つめていた。
何を言うでもなく、何をするでもなく、静かに見つめるだけ。
「……」
檻から出ようとして、ふと後ろを振り返ったガルの視界に映るその姿。
「……あの」
少し考え込む素振りを見せてから、彼は目を再び遊樹の方へと直した。
「何かな?」
「話っていうのは、もしかしてこいつに関することですか?」
「……当たらずとも遠からず、というところだ」
「なら、俺なんかに聞くより、直接こいつに聞いてやって下さい」
「えっ……」
「……」
その言葉に、遊樹は微かに目を見開いた。
「こいつのことを一番良く知っているのは、こいつ自身です。俺を経由して聞く情報より、こいつの口から直接聞く情報の方が、より正確だと思います」
「ガルさん……」
「……確かに、君の言う通りだな」
だが、と言葉を続けながら、遊樹は出口へ向けていた体を、彼の方へと直した。
「私はさっき、当たらずとも遠からずと言っただろう? 本当に用事があるのは、君の方なんだよ」
「俺に……ですか?」
「あぁ。それに、あまり聞かれたくはない話なのでな」
遊樹の言葉に、ガルが目を丸くする。
自分など、所詮はここにいる連中の飼育係、言ってしまえば、雑用をこなすだけの底辺従業員だ。
そんな自分に、見るからにお偉いさんな人が、用事があると言う。
一体どんな用なのか、ガルには予想もつかなかった。
「時間を取らせて済まないが、少し付き合ってはくれないか?」
本来なら、遊樹にとってガルなど、命令一つで従順に動くコマでなければならない。
だが、彼に対して遊樹が見せる態度は、あくまで低姿勢。
そのような態度を示されては、拒絶することなど出来ようはずがなかった。
「……はい、わかりました」
「助かる」
「……」
檻から出ていくガルの背に、彼女がどこか悲しげな目線を送る。
「……じゃあな」
そんな眼差しに対し、彼は仏頂面でそう言い放つと、遊樹に後ろについてその部屋を後にしていった。
その後、部屋に残ったのは、ドミニィとその異形の生物のみ。
「……貴女は……?」
「……」
彼女の問いには答えることなく、ドミニィは黙したまま、その巨大な体躯をじっと見上げていた。
「あの……」
……次の瞬間。
「なっ!?」

――ガァン!!

月夜 2010年07月09日 (金) 23時54分(152)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第七章)

――日本、流川邸、7/27、現地時刻22:00――

――ジリリリリ!

「っ!?」
電話のけたたましいコール音に、居間で寛いでいた流川清治は、反射的に大きく肩を震わせた。
「? どうかしたの、あなた」
そんな彼の様子に、向かい合って座っていた妻が、不思議そうに首を傾げる。
「あ、い、いや……なんでもない」
額に浮かんだ冷や汗を拭い、強張った表情のまま、流川は慌てて首を振った。
「そ、それより、早く出なくていいのか?」
「あ、いけない」
清治の言葉に、今気付いたように立ち上がると、トタトタと小走りで電話機の元へと駆けていく。
「……はぁ」
その後ろ姿を見つめながら、流川は深い溜め息を溢した。
だが、依然として険しいままの表情が、それが決して安堵の溜め息ではないことを証明していた。
目の前に置かれている湯飲みを手に取り、その縁に口を付ける。
茶の渋味が口内にじんわりと広がる。
本来なら心落ち着くこの苦味も、今は何の役にも立たなかった。
「あなたー。電話よー」
玄関口の方から聞こえてくる妻の声。
「俺宛てに電話? 誰からだ?」
「さぁ。でも、国際電話みたいだから、少なくとも私宛てではないわ」
「っ……!」
国際電話という単語を聞いた瞬間、流川の全身を悪寒が走り抜けた。
勢い良く立ち上がり、慌てて電話口まで走り寄ると、半ば引ったくるようにして妻の手から受話器を奪った。
「きゃっ!? っもう、乱暴なんだから……」
そんな彼の態度に不快感を露わにしながら、居間へと戻っていく彼女。
だが、今の彼にその言葉はまるで届いていなかった。
「……お電話代わりました、流川です」
「やぁ、流川君。ご機嫌はいかがかな」
電話越しに聞こえてくる流暢な英語。
その余裕に満ちた声音とは対照的に、流川の声は隠しきれない不安と動揺に揺れていた。
「……何の用だ?」
「いきなり何の用だとは、良きパートナーに対してなんとも無愛想じゃないか」
「パートナーとは笑わせてくれる。俺は、あんたたちの片棒を担ぐ気はない」
「それにしては、君は私たちの言う通りに動いてくれたがな」
「そ、それは……」
「まぁ君がどう思っているかなど、私たちにとってはどうでもいいことなんだがね。……話は変わるが、もう一つ、君にやってもらいたいことが……」
「ふざけるなっ!!」
相手が言い終わる前に、流川は大声でその言葉を断ち切った。
「あんたたちが課してきたことはこなしたはずだ! これ以上の裏切り行為は、断固拒否させてもらう! もう話すことなどない!」

――ガチャン!

そう一方的に言い放ち、流川は荒々しく受話器を叩き付けた。
「……」
しばしの間、無言でその場に立ち尽くす。
「あなた……」
直ぐ側から聞こえてくる妻の声。
急に大声を上げた夫を心配に思ったのだろう。
ゆらゆらと揺れる瞳の奥に、抱えきれないほどの不安が感じられた。
「……大丈夫。心配するな」
そう呟き、流川はすれ違い様その小さな肩に、ポンと優しく手を置いた。
「……はい」
彼の言葉に深く頷き、居間へと戻るその背を追って後ろを振り返る……ちょうどその時だった。

――ピンポーン。

不意に鳴り響いた呼び鈴に、二人は同時に足を止めた。
互いに顔を見合わせる。
このような時間に訪れる訪問者など、思い当たる節はない。
だが、薄々感じていた。
この扉を開ければ、きっと良くないことが起きる……そんな、漠然とした予感を。

――ピンポーン。

再度、呼び鈴の音が廊下に響く。
「……俺が出よう。お前は戻っていなさい」
「え、で、でも……」
「良いから、戻っていなさい」
優しく諭すように、それでいて有無を言わさぬ強制力を湛えた声。
何かを決意したかのような強い眼差しが、返す言葉に詰まらせる。
「……わかりました」
結局、彼女は不安を拭えないまま、後ろ髪を引かれる思いで静かに居間へと戻っていった。
その姿が消えるのを確認した後、流川は玄関の鍵を外した。
強い決意を胸に、ゆっくりと扉を開いてゆく。
「……え?」
だが、その奥に認められたものは、意外な人物の姿だった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時55分(153)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第八章)

――英国、ロンドン、ヒルトンホテル、7/28、現地時刻9:00――

――シャッ。

カーテンが開かれる時の衣擦れの音が、微睡みの中を漂っていた私の意識を、にわかに覚醒させる。
あぁ、もう朝か、早く起きないと。
頭では理解する。
けれど、その意に反するかのように、全身はまるで大きな鉛を背負わされているかのように、ずっしりと重い。
「……んぅ」
瞼の上からでも眩しく感じる光を避けるため、反対方向へと寝返りを打った。
「姉さん」
私を呼ぶ紗弥の声が、近くから聞こえてくる。
「姉さん、起きてください。もうとっくに朝ですよ」
彼女の小さな手が、ゆさゆさと私の体を揺らす。
何だか、昨日とは真逆の展開だな。
「うん……わかってる……」
「わかってるなら起きてくださいよ〜。姉さん、姉さんってば!」
私の体をゆさゆさと揺らす手が、一層強さと勢いを増す。
これじゃ、おちおち二度寝もできやしない。
「じゃあ、おはようのキスして〜……」
「え、えぇっ!!?」
私の言葉に、紗弥は大きな驚きの声を上げた。
「お、おはようのキ、キキキ、キスだなんて、そ、そそ、そんな……」
動揺のあまり、まるでろれつが回っていない。
相変わらず分かりやすい娘ねぇ。
「ほら、早くぅ……」
寝返りを打って横向きになっていた体を、彼女を迎えるべく仰向けに戻す。
「う、うぅっ……」
そんな私の受け入れ体勢に、口ごもってしまう紗弥。
室内に漂う、何とも言えない無言の時間。

――チュッ。

それがしばらく過ぎた頃、唐突に唇に柔らかい感触を覚えた。
「ほ、ほら、ちゃんとしましたよ! だ、だから、早く起きてください!!」
恥ずかしさを隠すためか、紗弥が早口でまくし立てる。
まさか、本当にしてくるとは思わなかったわ。
こりゃ、起きて上げないとさすがに可哀想ね。
「ふあああぁぁ……」
上体を起こし、大きく欠伸をする。
うっすらと開いた目に、射し込む陽光がとても眩しい。
「おはよ、紗弥」
「お、おはようございます……」
挨拶を返しつつも、私から目を剃らす紗弥。
昨日までとは別の意味で、私とは目を合わせようとしない。
可愛いわね、相変わらず。
「よいしょ、っと」
ベッドから降り立ち、軽く体を捻って、まだ目覚めていない神経の覚醒を促す。
洗面所に行き、歯を磨いて顔を洗ってから鏡を覗き込む。
……うん、いつも通り、健康状態に異常なしっと。
寝間着を脱ぎ捨て着替えた後、その上からいつものコートを羽織れば、それで準備は完了だ。
「さ〜て、そろそろ行動開始といきましょうか」
「……行くんですか、姉さん」
こちらを見上げる紗弥の眼差し。
その瞳を滲ませるのは、これから私の身に降り注ぐであろう危険に対する、不安と恐れだろうか。
「えぇ、もちろんよ」
「……そう、ですよね」
「そんなに心配しなくても大丈夫。こんなの、いつものことだし。それに……」
「それに……?」
「今回は、力強いパートナーがいるしね」
そう言って、私は彼女の肩を軽く叩き、ウィンクしてみせた。
「姉さん……!」
私の言葉に、暗く沈んでいた紗弥の顔が見る間に輝きを取り戻していく。
実際、彼女ほどの情報能力があれば、行動を共にしていなくとも、私のサポートはいくらでもできる。
しかし、それはあくまでも彼女の身の安全が保証されているという条件付きで、初めて有用性をもつものだ。
私が側にいられないなら、何らかの方法を用いて、彼女の身に確固たる安全を与えてやらなければならない。
そして、その方法は既に思い付いている。
「……でも、その前に」
「?」
私が言わんとしていることが理解できずに、紗弥が不思議そうに首を傾げる。
そんな彼女を他所に、私は懐から携帯を取り出し、ある場所に電話をかけた。
「……もしもし」
数回のコール音を経て、久しく聞いていなかった声が聞こえてくる。
「ハーイ、久しぶりね、ボブ。今からそっち行くから、それまでそこで待ってなさい。じゃあね」
「……なっ、ちょ、ちょっと待っ……」

――ピッ。

言いたいことだけを一方的に告げ、私は同じく一方的に電話を切った。
うん、声聞く限りは元気みたいね。
普段なら断られる可能性大だけど……、
「……」
「……な、何ですか、そんなにジロジロと……」
「……ま、貴女なら200%いけるわね」
「何の話です?」
「いいのいいの、こっちの話よ。とりあえず……」
私は部屋に備え付けられているクローゼットへと向かい、その中から昨日買ったドレスを取り出した。
「もっかい、これを着ちゃってくれる?」
「えぇっ!!?」
朝の空気中に、紗弥の大声が響き渡る。
「な、何でですか!? 今更、こんなの着る必要は……」
「それが大アリなのよ。ほらほら、時間ないから、ちゃっちゃと着る!」
紗弥の眼前にドレスを突き出し、半ば急かすように着用を強制する。
「う、うぅ……わ、わかりましたよぉ……」
私の勢いに負け、何が何だかわからないといった様子でいそいそと着替えを始める紗弥。
「じゃ、今のうちに、私は荷まとめでもしておこうかな」
持ってきた荷物を簡単にまとめ、それをいつでも持ち出せるよう準備しておく。
「……」
何気なく、窓から外の様子を伺う。
……昨夜に比べて、監視の目が大分増えていることが、ここからでも容易にわかった。
さすがに、これを全部振り切ろうとするのは無理ね。
彼には悪いけど……まぁ、なんとかなるでしょ。
「ね、姉さん……」
「ん? おぉ、やっぱ良いわね〜。まさにお姫様って感じね〜」
「か、からかわないで下さいよぉ……」
うつ向き加減に恥じらう様子が、より一層その可愛らしさを増大させている。
これなら、どこぞのそういった類いのコンテストで優勝狙えるんじゃないかしら?
「よし、それじゃ行くわよ。紗弥の荷物はこれだけね?」
「はい。あ、でも、自分のくらい自分で持ちますよ」
「良いの良いの。お姫様は、使用人に全部任せちゃうもんなんだから」
「だ、だから、からかわないで下さいってば!」
「おぉ、怖い怖い」
腕を振り上げ、甲高く声を荒げる紗弥を引き連れて、私たちはホテルの一室を後にした。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時56分(154)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第九章)

――英国、ロンドン某所、7/28、現地時刻12:00――

「ここに来るのも、随分久しぶりね〜」
そう感慨深く呟く水亜の目の前にあるのは、真っ赤な屋根が特徴的な一軒家だ。
一見する限り、何の変哲もないただの家にしか見えないだろう……が、その実、ここがとてつもない防御性を持っていることを、水亜は知っている。
そして、そのことを知るのは、家主を除けば彼女ただ一人だろう。
「ここ……ですか?」
しかし、そんなことを知らない紗弥は、訝しげに眉をひそめるばかりだ。
まぁ、こんな普通の一軒家が、特別な防衛機能を持っているなどと、一般人には到底理解できないだろう。
況して、ここに来るまでの間、水亜は彼女に、今の英国で最も安全な場所としか説明してないのだから、無理もない。
「そ、ここよ。意外かしら?」
「そりゃあ……だって、英国で一番安全とか言ってたから、もっと厳かで仰々しい建物かなって思ってましたもん」
眼前の建造物を、上下左右となめ回すように見つめながら、紗弥はやっぱり納得いかないといった感じだ。
「ま、そうよね。でも、ここが英国で一番安全ってのは間違いないわよ。……ただ一点を除いてね」
「え? それってどういう……」

――ピンポーン。

意味ありげにそう呟いた後、紗弥の問いに答える前に、水亜はインターホンを押した。

――ガチャッ。

「……はい」
受話器を外す音に次いで、電話の時同様の無愛想な声が聞こえてくる。
「私よ。開けてくれるかしら」
「……」

――ガチャン。

無言のまま、受話器の置かれる音だけが聞こえた。
来客に対するものとしては、随分無愛想な応対だった。
「姉さん……」
どこか怯えた様子で、紗弥が水亜のコートの袖を掴む。
あの低く暗い声音だ。
正直、あの声を聞いただけで、好印象を抱く人はまずいない。
「大丈夫よ、心配しないで。あ、紗弥、ちょっと私の後ろに隠れててくれない?」
「え、何で?」
「いいから」
「う、うん……」
元より若干怖がっていたこともあってか、大して疑問を抱くこともなく、紗弥はそそくさと水亜の後ろに身を隠した。

――ガチャッ。

扉が開き、その奥から姿を現したのは、ガタイの良い筋肉質の黒人男性だった。
黒の革ジャンにジーンズ、そしてサングラスを掛けたその容姿は、初対面の人を怖がらせるには十分過ぎるほどだろう。
「ハーイ、ボブ。元気してた?」
「……ボブはよせ。俺の名前はスラッグだと、何度言ったら分かるんだ」
そう言って、ボブ、もといスラッグという名の男性は、額に手を当て小さく頭を振った。
「良いじゃない。いかにもボブって感じだし」
「……見た目で勝手に人の名前を決めるな」
「ま、その話は置いといて。今日は、ちょっとあんたに用……」
「断る」
水亜が全てを言い終わるのを待つどころか、、半分を言い切る前に、スラッグはピシャリと拒絶の意を示した。
「ちょっ、あんた、まだ私用件について何にも言ってないわよ?」
「お前のことだ。どうせろくでもないことに巻き込むつもりだろう」
そう言って、スラッグは鋭い目付きで水亜を睨み付けてから、辺りに目配せをした。
「……ろくでもない連中が、そこら中にゴロゴロいるみたいだしな」
「さっすがボブ。でも、あんたならこれくらい何てことないでしょ?」
「だから、ボブと呼ぶなとあれほど……いや、もういい。何の用かは知らんが、質の悪いクソ共を山のように連れてくる奴の頼みなんぞ、聞いてやる義理はない。とっとと帰んな」
これで話は終わりと言わんばかりに踵を返し、扉を閉めようとするスラッグ。
「……ちょいと待ちなよ」
その背を、水亜が引き止める。
あれほど拒絶されたにもかかわらず、諦める様子は微塵となく、それどころか口元には笑みを浮かべ、余裕ささえ伺わせていた。
「何を言っても無駄だ。お前の頼みは受けない」
「そう言わないでよ。もちろん、タダで聞いてくれなんて思っちゃいない。ちゃんと、それ相応の対価は用意してる」
「何……」
「ふっふっふ……これでどう!?」
スラッグが振り返るのに合わせて、水亜は後ろに隠れている紗弥を彼の目の前に押し出した。
「……」
「……」
互いに見つめ合い、押し黙る二人。
その沈黙に気まずさを覚えたのか、紗弥がおずおずと口を開いた。
「……は、はじめまして……」
……瞬間!
「FOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」
「っ!!?」
奇っ怪な雄叫びを上げ、スラッグの手が神速で懐へと伸びる。
そこから取り出したるは……速すぎて良く見えなかったが、黒く四角い塊のようなものだった。
「甘いわ!」
紗弥の前に身を呈し、その何かを水亜がすかさず蹴り飛ばす。
ガツッという鈍い音と、少し遅れてゴシャッという破砕音が、どこか遠くから聞こえてくる。
「HYAHHAAAAAAAAAAAA!!」
だが、その鈍い破壊の音が辺りに響くより早く、一体どこから取り出したのか、スラッグの手は再度、別の黒い塊を掴んでいた。
「させるかっ!」
それが照準を定める前に、鋭い手刀をスラッグの手首に叩き込む。
その衝撃に耐えきれず、手放されたそれが地面に落下し、またしても不気味な崩壊の音がこだます。
あれほどの勢いで手刀を、それも手首に叩き込まれたのだ。
しばらくは、まともに箸を持つことすら叶わないだろう。
「……ふっ」
だというのに、スラッグは笑っていた。
圧倒的不利なはずの状況に立たされているはずなのに、嘲るかの如く吊り上がった唇に、そんな切迫感はまるで見受けられない。
それはつまり、まだ自分は追い詰められてなどいない、まだまだ手は残っているぞと宣言しているようなものだ。

――まだ、何かある……!?

一瞬、まさにほんの僅かだったが、視界の隅、開け放たれたままの扉の向こう側に、光を感じた。
それが何であるかなど、この状況では思考するまでもない。
「そこだっ!」
一切無駄のない、滑らかな動きでグロックを手に取る。

――ガァン!

構え即ち射撃。
大気に轟く銃声が、何か固いものを撃ち砕いた時の轟音へと変化する。
「何っ!?」
そこで初めて、スラッグの口から驚きの声が漏れた。
「ふっふっふ……何? その程度なの? 私の買い被りだったかしら?」
「ぐぬぬ……」
余裕を見せる水亜に対し、面に苦渋の色を浮かべるスラッグ。
「……」
そして、そんな二人を茫然自失とした様子で見つめる紗弥。
この時、水亜は勝利を確信していたのかもしれない。
しかし、それが過ちであることを、彼女は数瞬の後理解することとなる。
「……とでも言うと思ったか?」
「えっ……?」
苦虫を噛み潰したような表情が一転、不敵な笑いを形作る。
いつの間にか、スラッグの手の中には、白いスイッチのようなものが握られていた。

――ピッ。

短い電子音。
それが消えると同時に、水亜の頭上で妙な駆動音が発生する。
「上かっ!」
視界がその音源を捉える頃には、既に銃口も同じ場所に照準を当てていた。

――ガァンッ!

二発目の銃声も、先と同じ破壊音を巻き起こして大気に轟く。
「かかったな、水亜よ!」
だが、それこそがスラッグの真の狙い。
直ぐ足下に感じる何かの気配。
「なっ……!?」
慌てて銃を下ろす……が、間に合わない。
「紗弥っ! 逃げてっ!」
紗弥に向かって、水亜が鬼気迫る声で叫ぶ。
だが、いきなりそんなことを言われて、直ぐに対応できるはずもない。
「え、えっ!?」
驚愕と戸惑いに立ちすくむのみだった。
「無駄だ! もう遅い!」
「紗弥ーっ!!」
「っ!!」
反射的に目を固く閉じ、全身を強張らせる。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時56分(155)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第十章)

――パシャッ。

「……え?」
だが、予期していたような衝撃が訪れる気配はなく、その代わりに聞こえてきたのは、カメラのシャッター音のようなものだった。
「HYAHHOOOOOOOOOOOOOO!!」
刹那、スラッグの口から漏れる雄叫び。
それは、さながら獣の上げる勝利の勝鬨か。
「こいつはナイスアングルだ! 俺のベストショットコレクションの一角に……」
「このド変態がぁっ!!」

――ゴスッ!

「べふぉばっ!?」

――ドゴォン!!

だが、それは直ぐに痛々しいな悲鳴へと変わり、人間砲弾となって中空を駆けたスラッグは、土塀を抉り土煙を上げて沈黙した。
「ごめんね紗弥、私というものが付いていながら……」
「え、え……?」
悲壮感を漂わせ、謝罪の言葉を述べる水亜に、紗弥はただただ困惑するばかり。
彼女が何について謝罪しているのか、さっぱりわからなかった。
だが、その疑問は、直ぐに解消されることとなる。
「下、見てご覧なさい」
「下?」
水亜の指が差し示す先を追って、目線を地面へと落とす。
そこにあったのは、土からレンズだけを覗かせている黒い物体だった。
「これは……」
「カメラだよ。見て分からないかい、お嬢さん」
そう言って、紗弥の元へと歩み寄るスラッグ。
先ほど、水亜に思いきり蹴り飛ばされたにもかかわらず、大した負傷を負ってはいないようだった。
「なんでカメラなんか……」
「なんでって……そんなもの、撮るために決まってるじゃないか」
「……何を?」
「もちろん、君をだよ」
「……はい?」
噛み合わない両者の会話。
片やさも当然のように語り、片やその事実に対する理由が全く理解できずにいるのだから、そうなるのは当然だ。
「……はぁ」
見るに見かねた水亜が、溜め息混じりに割って入った。
「こいつはね。私の知り合いで、便利屋をやってる男よ。破壊工作、暗殺、ボディーガード……なんでも手広くこなす、まぁ、腕だけで言ったら相当立つ奴よ」
「はぁ……」
その説明に相槌を打つ紗弥。
だが、その話では、今の現状に関する何の説明にもなっていない。
「ただ、人間性に若干難があってね……男女問わず極めて無愛想なのよ。たった一つの例外を除いて、ね」
「例外?」
「そ。こいつ、救い様のないロリコンなのよ」
「なっ……!?」
思いもよらない事実に、紗弥が言葉を失う。
「失礼なことを言うな。俺はロリコンじゃない。幼女愛至上主義者だ」
「どこら辺が違うってのよ。むしろ、そっちの方がよっぽど変態じみてるわ」
「大分違うぞ。ロリコンというのはただのコンプレックスに過ぎないが、幼女愛至上主義は……」
「あぁ、はいはい。分かったからもういいわよ」
「……」
二人のそんなやり取りを、紗弥は真っ白な頭で聞いていた。
「あぁ、そうだ。紗弥ちゃん」
「……あ、はい……えっと、な、何でしょう……?」
いきなり声を掛けられ、紗弥がぎこちない返事を返す。
「……」
スラッグは、上着のポケットから手のひらサイズの四角い機械を取り出すと、それと紗弥とを見比べる。
「……」
「……」
……そして一言。
「……オーソドックスに白、か」
「――っ!!?」

――ヒュッ。

「きゃああああああああぁぁぁっ!!!」

――ビシィッ!!

「へぶしっ!?」
遠心力任せに思いきりビンタされたスラッグは、地面を勢いよく滑走し、再度土埃にまみれ撃沈したのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時57分(156)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第十一章)

「はい、お茶だよ、紗弥ちゃん」
「……ありがとうございます」
紗弥が無感動な声で、投げやりに礼を述べる。
礼は口だけで、本心はそんなこと欠片とて思っていないといった口振りだ。
まぁ、さっきあんなことがあった後だから、無理もないとは言え……いつもの紗弥とは別人みたいね。
……ところで、
「ねぇ、私にはお茶出してくれないの?」
「お前のように、人様のカメラをああ何台も何台も破壊するような輩に、出す茶はねぇよ」
「そんなの、あんたが礼を失するからでしょ。初対面の人をいきなり被写体にしようだなんて、失礼だと思わないの?」
「何をふざけたことを。ここは俺の家だ。俺の敷地内で俺が何をしようと勝手だろう。本来なら、器物破損でカメラ代を弁償してもらいたいところだが、それを我慢してやってるだけありがたいと思え」
「ぐっ……」
い、痛いところを突いてくるわね……。
ついついノリで壊しまくっちゃったけど、いくらなんでもやり過ぎたか。
あれ、総額でいくらくらいするんだろう。
……って言うか、私と紗弥とで、声のトーンと待遇、あからさまに違い過ぎない?
「だからって、自分の敷地内なら人様のスカートの中を盗撮してもいいんですか?」
「そ、そう怒らないでよ紗弥ちゃ〜ん。ほら、クッキーやビスケットだってあるからさ〜」

――バン!

「子供扱いしないで! 私は、もう十分に大人なんだから!」
テーブルを叩き、怒声で声を荒げる紗弥。
いつも大人しいこの子が、こんなに怒鳴るのを見るのは珍しい……いや、初めてね。
「姉さん! 私、ここに居るのは嫌です!」
「そう言わないでってば〜。ほら、さっきのデータなら、もうちゃんと消したからさ〜」
「そういう問題じゃありません!」
あちゃ〜……相当お怒りのご様子ね〜。
紗弥が怒ったところなんて、ほとんど見たことなかったから、このくらい愛想笑いで上手くやってくれるかと思ってたんだけど……まさか、ここまではっきりと拒絶してくるとは、予想外だったわ。
「う〜ん……困ったわね〜」
「困ったわね〜じゃありませんよ! 私、こんなところ一分一秒たりとて居たくないです!」
「紗弥ちゃん、それはさすがに酷い……」
「ボブは黙ってて!」
「……イエス、マム」
あーあー、泣く子も黙る英国裏社会孤高のドンが、こんな女の子に黙らされちゃうだなんて、他の連中が知ったらどうなることやら。
「でもね、紗弥。ここが英国で一番安全な場所ってのは、覆しようのない真実なのよ」
「ここのどこがどう安全なんです!? 外敵からの安全どころか、家主が一番の超究極変態危険生物じゃないですか!?」
「さ、紗弥ちゃん、それはいくらなんでも言い過ぎ……」
「シャラーップ!!」
「……アイ、アイ、マム」
ショボくれて、力なくうつ向くボブ。
世の平均男性より背が高い私と比較しても、更に大きな体格をしているはずなのに、今はなんだかやけに小さく見えてならない。
にしても、超究極変態危険生物とは、ご令嬢のくせしてすごいこと言うわね。
さすがの私も同情を禁じ得ないわ。
「姉さんは、私を貞操の危機的状況に置いて、何とも思わないんですか!?」
「大丈夫、俺は幼女愛至上主義者だ。幼女の嫌がることはしないし、幼女の望むことならなんでも……」
「幼女幼女うるさーい!」

――ドスッ。

「へぶぁっ!」
顔面にパンチをもらい、ボブがもんどりうって倒れる。
さっきの強烈なビンタといい、今のパンチといい、執拗に顔面狙ってくるわね、この子。
「ボブ、大丈夫?」
「ふっ……英国紳士の辞書にノックアウトの文字はない」
……何カッコつけてんだか。
「もっと良い条件の場所はないんですか!? 見つかりさえしなきゃいいんでしょう!?」
「あー、そりゃ無理よ。どうやったって絶対見つかるに決まってるわ」
「何でです?」
「簡単なことよ。私の道案内をするにしろ、施設の機能妨害をするにしろ、あちらさんのパソコンにアクセスしないことには、どうにもならないでしょ? どれだけ上手く隠れたって、逆探知されるのがオチよ」
そう。
どこにどう隠れたところで、見つからない道理がない。
一つ加えて言うなら、紗弥が私のサポートをしてもしなくても、まず間違いなく見つかるだろう。
前日までと比べて、監視の数は明らかに増している。
その目を掻い潜って密かに紗弥を連れ出すのは、いくら私でも不可能と言わざるを得ない。
だからこそ、わざわざ無理を言ってボブに頼みにきたのだ。
そうでもなければ、誰が好き好んでこんな危険に他者を巻き込みたいものか。
裏を返せば、これは彼なら大丈夫という、私の信頼の表れでもあるのだ。
「でも……だからって、こんな……」
「紗弥」
未だ納得のいかないといった表情を浮かべる紗弥の頬に手のひらを添え、私は彼女と目を合わせた。
「確かに、こいつはロリコンで、幼女愛至上主義者で、超究極変態危険生物かもしれないけど……」
「……フォロー入れろよ」
何か聞こえた気がするけど、とりあえずはスルーの方向で。
「でも、信頼するに足る人物よ。そうでもなけりゃ、貴女を連れてくるわけないじゃない。なんてったって、私の大切な妹分なんだから」
「……姉さん」
私の言葉に、紗弥の声から先ほどまでの怒りが陰をひそめ始める。
それでも、やはりまだ抵抗が無くなった訳ではないのか、表情は依然として複雑そうだった。
「……わかりました」
紗弥からしてみれば、苦汁を呑む決断だったのだろう。
思い詰めたような表情で、重くだがしっかりと頷いてくれた。
「おぉ、分かってくれたかい紗弥ちゃん! それじゃあ、早速撮影会の準備をぶげょげぷぁっ!!?」

――ドガシャアン!

……折角上手くまとまったんだから、あんたはちょっと眠ってなさい。
「そう、ありがとう、紗弥」
「……はい」
「……まだちょっと不安?」
「……はい」
「なら、これを渡しといてあげるわ」
私は普段使っていないコートのポケットから、常に携帯している小型の拳銃を取り出し、それを紗弥に手渡した。
「これは……」
「私がいっつも持ち歩いてる、非常用の小型拳銃よ」
「レミントン・デリンジャー。アメリカ、レミントン社が開発した小型拳銃で、全長124ミリ、重さ312グラムと非常にコンパクト。ただ、装弾数が2発しかないのが難点」
……さっき、みぞおちに全力で裏拳ぶち込んだはずなのに、なんでもう回復してんのよ。
「相変わらずガンオタやってるのね。スペック解説どうもありがとう」
「いやいや、英国紳士として当然の礼儀というやつだよ」
……あんたのどこに紳士的要素があるのか、是非とも聞きたいところね。
「で、何故こんな物騒なものを紗弥ちゃんに? 俺がいるんだ。そんな必要ないだろ?」
「もしかしたら必要になるかもしれないわよ?」
そこで私はボブから紗弥へと視線を戻して、こう言った。
「もし、あそこの超究極変態危険生物に貞操を奪われそうになったら、これで“ピー”を撃ち抜いちゃいなさい」
「っ!!!??」
ボブの息を呑む声なき声がする。
「なにビビってんの? これは“もしも”あんたがこの子に何か性的悪戯をしようとした時の為の、文字通り非常用よ。そんなことしなきゃ、使う機会もないわ」
もしも、の部分をいやに強調して、私はジト目でボブの方へと視線を流した。
「そうですね。“もしも”の為の保険って、大事ですもんね……」
私と同じく、口の端にうっすらと残酷な微笑を浮かべ、紗弥が虫けらを見下ろすかの如く冷たい眼差しをボブに向ける。
へぇ、紗弥ってば、そんな顔も出来たのね。
普段とのギャップも相まって、なかなか様になってるじゃない。
「は、ははは、冗談きついなぁ、二人とも。あ、あははは……」
そんな私たちを、乾いた笑いを上げて見返すボブ。
その額には、じんわりと冷や汗が滲んでいた。
ま、とにもかくにも、これで紗弥の精神的安全の確保もできた訳だ。
「さて、と。そろそろ行こうかしら」
そう言って、私はおもむろに立ち上がり、玄関の方へと足を向けた。
「……」
「……」
そんな私の後に続いて、ボブと紗弥も、無言のまま玄関口まで見送りにくる。
靴を履き、つま先で床を叩いて履き心地を整える。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ。紗弥のこと、頼んだわよ」
「あぁ、任せておけ」
ボブが力強く頷く。
ついさっきまで、ただの変態でしかなかった弛みきった表情も、今この時は強い意思に固く引き締まっていた。
だが、そんな中でも僅かに弛んだ口元が、見る者に余裕さを示している。
何だかんだ言って、やっぱり頼りになる奴ね。
「紗弥も、私のサポートよろしくね。到着次第、また連絡入れるわ」
「はい……」
そんなボブとは対照的に、暗く沈んだ表情で、怯えた小動物のような目を向けてくる紗弥。
どうやら、まだ私のことが心配みたいだ。
やれやれ、困った子ね。

――ポフッ。

「え……?」
突然頭に手を乗せられ、紗弥がキョトンとした眼差しをこちらに向ける。
「そう心配しないの。あの程度の連中、かる〜く蹴散らしてきてあげるわ。帰ってきて時間が余ったら、まったり観光でもして帰りましょ。ね?」
「姉さん……はい!」
うん、良い返事だわ。
まだ不安が完全に消えたわけじゃないだろうけど……随分とマシになったみたい。
これなら安心ね。
「じゃね」
「あぁ。俺の分まで、クソッタレ共をぶっ飛ばしてこい」
「行ってらっしゃい! 姉さん!」
二人の見送りを一身に受け、私は一抹の不安を抱くこともなくこの場を後にした。
「……ねぇ、ボブ」
「ん? 何だい、紗弥ちゃん」
「これ、どうやって撃つの?」
「え、あ、えぇっと……」
「……ふふっ」
そして、背後から聞こえてきたそんな会話に、思わず笑いを溢すのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時58分(157)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第十二章)

――英国、某所、7/28、現地時刻13:00――

――ガシュッ。

研究所の扉が開く時独特の重低音に、俺は背後を振り返った。
「ただいま戻りました〜」
その奥から姿を現し、こちらへ歩み寄るドミニィ。
なんとも気の入らない、いつも通りの声だ。
だが、その涼しげな表情や声色とは裏腹に、着ていたスーツはズタズタに切り裂かれ、見るも無惨な有り様だった。
随所に見られる赤い染みや、裂け目から覗ける下着や地肌、それにほつれた繊維が絡まりあって、さき程まで高級感に溢れていた正装も、今や着衣としてさえ認られない。
しかし、そのような一見して惨状にしか見えない風体にありながら、その実彼女は全くと言っても良いほど、傷を負っていなかった。
裂けているのはあくまで衣服のみ。
その下に見える素肌は、裂傷一つとして見当たらない。
「どうだった?」
ロッカーへと向かう彼女に向かって、俺は漠然と問う。
「そうですねぇ〜……」
言葉を濁しながら、ロッカーを開け放ち、ドミニィはその場で着ていた衣服を脱ぎ始めた。
「彼女の本当の力を知らない以上、何とも言い難いところはありますが、少なくとも有用性はあると思います」
肩から腰、そして脚へと上から露わになってゆく、滑らかで透き通った美しい肌。
それは、男性を惑わす淫魔のようでありながら、また生まれたての天使をも思わせる。
「と言うことは、お前もそこそこ手を焼いたようだな」
「……まぁ、そういうことです」
どことなく拗ねたような口調で、小さく呟く。
ふむ。
負けず嫌いで強がりの塊みたいなこいつが、苦戦したと自分で認めざるを得ない辺り、かなりの力はあるようだ。
「……」

――バタン!

俺と同じ白衣を身に纏い、代わりにボロボロになった衣類を投げ込んでから、ドミニィは乱暴にロッカーの扉を叩き閉めた。
「どうした、やけに不機嫌じゃないか」
「別にぃ……」
相変わらず子どもみたいな奴だな。
まぁ、その理由は大方分かってはいるんだが。
「苦戦したのがそんなに不満か?」
「いえ、苦戦したことそのものは別に構わないんです。元々、私がそう易々と倒せてしまう程度なら、あの女に対する障壁として機能しないでしょうから」
「じゃあ、何をそんなに怒っているんだ?」
「……あいつ、最後の最後まで、本気を出さなかったんです」
ははぁ、なるほど。
軽くあしらわれたのが、癪に障ったってわけか。
「だが、それを言うなら、お前だって本気には程遠かっただろう」
「それは……そうですけど……」
答えながら、ドミニィが顔をうつ向かせる。
一体どうしたと言うんだ?
確かにこいつは、一度不機嫌になるとなかなか機嫌を直さない方だが、今回は何だかいつもと様子が違う。
普段なら、怒りまかせに放送コードに引っ掛かるような暴言を乱発して、俺の苦笑いを買うこと必至なんだが、今日はえらく大人しいな。
まさか……
「……」
……いや、考え過ぎか。
第一、今はそんなことを呑気に考えている場合ではない。
とりあえず、彼女が……アレが十分に使えるということは分かった。
なら、こいつも有効活用できそうだな。
そんなことを考えながら、俺は視線を元に戻した。
そこには、椅子に座した体勢のままがっくりと項垂れ、深い眠りに落ちているガルの姿があった。
「彼は?」
「眠っているだけだ。アレが使えるというなら、彼にも役に立ってもらわないといけないからな」
「人質ってやつですね。まぁ、こうでもしないと、アレはその気にならないでしょうからね」
「人質とは聞こえが悪いな。別にこいつを傷付けるつもりはないぞ」
「でも、必要とあらばやるんでしょう?」
「アレがそんなに物わかりの悪い奴だったならば、な。さぁ、行くぞドミニィ。そいつを連れてきてくれ」
「あ、はい。分かりました」
俺の言葉に、ドミニィはガルの直ぐ傍で微かに腰を曲げた。
左手を彼の背に、右手を膝下に差し込み、軽々と抱き上げる。
俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
性別的に考えて、普通なら逆であって然るべき滑稽な光景。
だが、彼女の場合、こちらの方が自然にさえ見えて、それが余計滑稽だった。
「……クスッ」
思わず吹き出してしまう。
「むっ、今のは何ですか」
そんな俺の態度が気に入らなかったのか、彼を抱き抱えたまま、ドミニィがふくれっ面をこちらに向ける。
「ん? 今のってなんのことだ?」
「しらばっくれないで下さい。遊樹さん、今、私のこと見て笑ったでしょ?」
「気のせいじゃないか?」
「い〜え! 絶対笑ってました! 私が彼をお姫様抱っこして、何が可笑しいんですか!? 寝ている人をズルズル引きずっていく訳にもいかないでしょ!」
俺が何故笑っていたのか、どうやら彼女も理解しているようだ。
自覚症状ありということか。
「そう怒るな。むしろ似合ってるぞ」
「似合ってるってどういうことですか! 本来なら、私が抱き抱えられる側ですよ!? その逆の状況で似合ってるって、どういうことですか! 私だって、れっきとした女の子なんですからね!」
「あぁ、悪かった悪かった。お前は可愛らしい女の子だよ。だから、そう騒がず静かにそいつを連れてきてくれ」
「ぶー……」
未だにむくれたままのドミニィを後目に、俺は研究所の奥へと進んでいくのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時58分(158)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第十三章)

――日本、流川邸、7/27、現地時刻22:30――

流川宅を訪れた季慈と佐奈は、来客用と思われる和室に案内された。
相模の家ほど和に拘った部屋ではなかったものの、敷き詰められた畳の香りと、壁に掛けられた掛け軸が、なかなかに趣深い。
そんな和室の中央に位置するテーブルにて、季慈とその隣に佐奈、向かい合って流川が座っていた。
「……」
「……」
「……」
三者揃って無言の為、漂う空気はずっしりと重い。
何も知らぬ第三者が見たとしても、その緊迫した雰囲気から、何かただならぬ予感を感じずにはいられないだろう。
「そ、粗末なものですが、どうぞ……」
そのような息苦しい沈黙に気圧されてか、おずおずとした様子で、彼の妻がそっとテーブルにお茶と茶請けを置く。
特別洗練された動作ではなかったが、ぎこちない動作の一つ一つに、緊張混じりの丁寧さが見受けられた。
「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。ですが、どうぞお気遣いなく」
「あ、はい……では、失礼します」
季慈の軽い礼の言葉に、彼女は胸にお盆を抱え、深々とお辞儀をしてから、静かに部屋を後にした。
襖が閉まり、足音がゆっくりと遠のいてゆく。
「……さて。早速だが、本題に入ろうか」
それが聞こえなくなったことを確認して、季慈が重たい口を開いた。
「……はい」
それに応え、流川も重々しく頷く。
声の調子は両者共に暗く深い。
だが、その暗さ、深さには決定的な違いがあった。
季慈の放つ言葉は、あくまで冷静沈着且つ冷徹。
威圧的なその声に、迷いや温情の色は欠片と見受けられない。
それに対し流川の声には、その節々に明瞭な恐怖と動揺が浮かび上がっていた。
彼の妻は理解していなかったようだが、今、この室内に居る三人全員が、無言の内に感じ取っていた。
今より始まるのは、討論や質問、況してやただの世間話などでは、断じてない。
これは、尋問だ。
「ワシはまどろっこしいことは嫌いなんで、ズバリ聞くぞ。今回の件、同行者に関するデータをいじくったのは、お前だな」
「……」
黙り込む流川。
だが、ここでのだんまりは、肯定と全くもって同義でしかなかった。
「否定しない辺り、往生際は良いようだな……良いか?」
「……どうぞ」
懐から煙草を取り出す季慈に、流川は近くにあった灰皿を渡すことで返事とした。
煙草をくわえると同時に、横に居た佐奈から火が差し出される。
「ありがとう」
煙草の先端を火に近づける。
白い煙を胸一杯に吸い込み、そして吐き出した。
「……理由は何だ?」
「……」
再び流川が口を閉ざす。
「言っておくが、君に黙秘権はない。全てを語ってくれるまで、ワシらはここを離れるつもりはないし、必要とあらば強行策も辞さぬ」
そう言い放つ季慈の目は、本気だった。
このまま彼が口を開かないのなら、無理やりにでも聞き出すつもりでいた。
それはつまり、この尋問が、その瞬間から拷問へ変わるという意味だ。
「……わかりました」
しばらくの後、やがて流川は全てを諦めたように口を開いた。
「あれは、ちょうど先月頃でした。突然、私の自宅にある電話がかかってきたんです」
「ある電話とは……英国からの電話だな」
「はい」
「向こうは何と名乗った?」
「いいえ、何も名乗りませんでした」
「でしたら何故、その場でお切りにならなかったのですか? 名を名乗りもしない相手の話など、聞くに値しません」
「おっしゃる通りです」
佐奈のきつい言葉に、流川が思わず苦笑いを浮かべる。
「ただ、誰だか知らないが、わざわざ国際電話まで使って、こんな下らないいたずら電話などしてはこないだろうと思いまして……」
「ふむ。して、その電話の内容は?」
「最初は普通の会話でした。危機管理官就任おめでとうとか、最初忙しいのかといった、どこもおかしくはない世間話ですよ。……まぁ、初対面の相手に対してとなれば、これも十分異常なのかもしれませんが」
「ふむ……最初はと言うことは、後々何かしら普通ならざる話題が出てきたということだな」
「はい……しばらくして、そいつはいきなりこう切り出してきたんです。「明神水亜という人物を知っているか」……と」
「……その問いには、何と返した?」
「直接会ったことはなくとも、彼女が我々にとってジョーカー的役割を担っていることは知っていましたので、知らないとだけ答えました」
「正しい返答だな」
「ありがとうございます。その次に奴は、「近々届く彼女の資料を、改ざんしろ」と強要してきました」
「……それで?」
「無論断りましたよ。その場で電話を切り、一旦は落ち着きました。ですが……」
そこで、流川の面に深い陰りが差した。
いや、それは陰りと言うのも生易しい、暗澹たる絶望の色だった。
「何があったのです?」
「……後日、私の家内が車に轢かれかけたのです。そしてその日の晩、また国際電話がかかってきました」
「……その内容は?」
「前回とほぼ同じです。もし拒絶し続けるつもりなら、次はないという脅し文句がつけられた以外は……」
そこで一旦言葉を切ると、流川は季慈から目線を外し、表情を見られぬように深くうつ向いた。
「……私は、怖かったんです。国を裏切ることより、自分が命の危険に晒されることより、何より彼女を失うことが怖かった……!」
ともすれば、今にも溢れ出しそうになる涙と嗚咽を必死に押し殺し、流川は拳を固く握り締めていた。
「……」
「……」
季慈も佐奈も、そんな彼の姿を、黙したまま見つめていた。
我が身など意にも介さず、ひた向きに妻を愛したが故の謀反は、国そのものを敵に回してでも、愛する人を護りたいという強い決意。
それは、許されざる行為と知り、自身が罪に問われることを理解した上での、決死の覚悟の元に下した決断。
その先に待っている、逃れようのない己の破滅を前に、彼が一体どれほどの苦悩と戦ってきたのか、彼以外の誰が分かるというのか。
誰も分かりはしない。
ならば、そんな彼を、一体誰が責められるというのか。
誰も責められはしない。
しかし、それは英断であると同時に、罰せられるべき罪。
彼の秘めたる覚悟を汲み取る為にも、誰かが彼に裁きを下さなければならない。
そうしなければ、彼は愛に殉ずる勇者ではなく、ただの罪人に成り下がってしまう。
「……流川」
季慈が、重く静かに口を開いた。
「ワシは、お前が下した決断を責めようとは思わぬ。だからといって、理解しようとも思わない。日本の国防の長として、お前の行為を見て見ぬフリはできん。……わかるな?」
「……はい」
神妙な面持ちで、目線を床に向けたまま流川が頷く。
「私から告訴したりはしないし、他の連中に口外したりもする気はない。これがどういう意味か、それもわかるな?」
「……はい」
自首しろ。
だが、そのタイミングはお前に任せる。
季慈の言いたいことは、つまりそういうこうだった。
「……お前の彼女を想う気持ち、理解に難くはない。だが、お前一人が苦しみ抜くような選択を、真に彼女が望んでいたと思うか?」
「……」
「確かに、愛する女一人護れないようでは、男として最低だ。だからといって、愛する女を護ろうとするあまり、己が身を犠牲にするようでは、お前の自己満足しか満たされはしない」
「……」
「本当の意味での強さとは何か。本当の意味で護るとはどういうことか……お前の犯した過ちは、護る強さの意味を取り違えたことだ」
「……はい」
季慈の言葉に、流川は小さく頷いた。
その瞳から溢れ出した涙は、頬に一筋の透明な線を残し、拳の上に零れ落ちては音もなく弾ける。
「……」
佐奈もまた、黙りこくったまま、目線を伏せていた。
その場で静かに佇む彼女の目は、微かに潤み、何も捉えてはいなかった。
涙に滲んだ焦点の合わぬ眼で、彼女は何を見、何を思っているのか。
「……」
そんな佐奈の隣で、季慈は僅かに残った煙草を吸い尽くし、肺に溜めた煙を惜しむように吐き出した。
「……苦いな」
そう小さく呟き、季慈は短くなった煙草を押し潰した。
ゆっくりと天井へ昇ってゆく白い煙は、昇るにつれ次第に薄まり、やがて空気中へと消え入った。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時01分(159)
題名:静動〜Silent Rushing〜(第十四章)

――英国、ロンドン、SIS本部付近、7/28、現地時刻23:00――

宵闇深くなりゆく空には、真円の如き美しき望月が、静まる街を冷たく照らす。
道々を行き交う人々は、徐々にその姿を減らし、いつしか辺りは静寂と呼ぶに等しい静けさを湛えていた。
大通りに建ち並ぶ各種商店も、一つ、また一つとシャッターを降ろし始め、未だ明かりの消えない店はもう数える程しかない。
「……」
そんな静穏な空気に抱かれた街の中、水亜は路端の電信柱に身を預け、立ち尽くしたまま瞳を閉じていた。
監視員の存在を警戒するでもなく、いつ起きてもおかしくない襲撃に備えるわけでもなく、ただただ寡黙に佇むその姿は、生死を賭した激しい戦いに、今まさに身を置かんとしている者の立ち居振舞いとは思えないほど、落ち着き払っていた。
何故、彼女はどこかに身を隠そうとしないのか。
もう、彼女に監視員はついていないから?
そんなはずはない。
紗弥をスラッグに任し、一人になったからといって、それが監視の目を緩める理由にはならない。
むしろ、彼女が一人になったということはつまり、いつ何時であろうと、直接乗り込めるだけの用意が整ったということ。
であるなら、むしろ見張る人員は増やすべきだろう。
そして事実、彼女に対して割かれた監視員の数は、当初に比べて増加していた。
無論、その事に気づかない水亜ではない。
彼女は悟っていたのだ。
これほどの人数による監視体制を振り切ることは、いかなる手段をもってしても不可能だろう。
それなら、突入前にいたずらに体力を浪費するより、こうやって大人しくしていた方が効率的だと。
道路の中央付近に立つ、背の低い時計台へと目を向ける。
示される時刻は、そろそろ日付を変える刻。
「……そろそろ頃合いかしら」
消え入るような小さな声でそう呟き、水亜はもたれ掛かっていた電信柱から背を離した。
人気のない大通りをしばらく歩き、一際大きな曲がり角で向きを変える。
その眼前にそびえるは、巨大と表現しても何ら差し支えはない大きさの建造物。
黒塗りの壁は、夜の闇を吸ってもはや漆黒。
定間隔置きに設置された窓から漏れる光はなく、出入口の扉も固く閉ざされている。
中から人の気配は感じられない。
だが、その内部を見据える水亜の眼差しは、どこまでも鋭利。
油断や隙の類いは、微塵と見受けられない。
「さて、と……」
そこで水亜は、コートのポケットから小さな物体を取り出す。
丸く平たい形状で、一見しただけでは何なのかさっぱりわからない。
それを耳にはめ込む……いや、正確に言うなら、耳孔のすぐ横に張り付けると言うべきだろうか。
次に、コートの一番上のボタンを掴み、手でその周囲を撫で回す。
何かを探しているようだ。
「……お、あったあった」
掌に感じる突起物の感覚。
それを押しながら、水亜はそのボタンに向かって声を発した。
「あー、あー、マイクテストマイクテスト……紗弥、聞こえる?」
《はい、聞こえますよ、姉さん》
先ほど耳元に貼り付けた物体から、紗弥の声が聞こえてくる。
「お〜、やっぱ凄いわね〜、これ。こんなに小さな通信機は、私もさすがに初めてだわ」
水亜が素直に感嘆の声をあげる。
そう。
先ほど水亜が耳元に着けていたのは、極小サイズの受信機だ。
潜入時、外部と通信する為にイヤホンを付けて方耳を塞いでしまうことは、一歩間違えば死を招くとも限らない。
その対策として考えられたのが、耳孔の直ぐ近くに貼り付けるだけで良い、この受信機なのだが……さっきの水亜の反応を見れば分かる通り、彼女がこれを使うのは、今回が初めてだ。
専ら単独行動を原則とし、特に誰かと連絡を取り合うこと自体なかったことが、その理由だ。
「そっちは準備良いかしら?」
『はい。道案内から妨害工作まで、いつでもいけますよ。姉さんの方は?』
「こっちもオーケーよ」
『……あ、何かボブが言いたいことあるみたいなんで、代わりますね』
『水亜、聞こえるか』
少しのノイズ音を挟んで、スラッグの低い声が水亜の耳に届く。
「えぇ、聞こえるわよ」
『お前も知ってると思うが、俺の業界は情報が命だ。仕事を取る前も取った後も、それに関する情報は欠かせない。そんな俺だが、今回の事件は耳に掠りすらしなかった』
「みたいね、もし知っていたら、あんたが全然動かないってのも変な話だもの」
『……気を付けろよ、水亜。今回の件は、今までとは何かが違うぞ』
「あら、ボブが私の心配をしてくれるだなんて、明日は季節外れの雪かしら?」
『茶化すな、水亜』
「わかってるわよ。でも、私はいつも通り、やるべきことをやるだけ。そういう点では何も変わらないわ。それに……」
そこで一旦言葉を区切ると、水亜は口元に微かな笑みを浮かべた。
「今回は、あんたや紗弥がいるしね」
『……そうだな』
聞こえてくるスラッグの低い声に、微かな優しさが混じる。
通信機の向こう側で、控えめに笑っている彼の姿が、水亜には容易に想像することができた。
「とりあえず、あんたは私の身を案じるより前に、自分と紗弥のことを考えてなさい」
『あんなクソみてぇな連中に、俺が遅れを取ると思ってんのか? お前が俺の心配なんて、百年早ぇんだよ』
「ふふっ、その様子なら大丈夫そうね。じゃ、そっちは任せたわよ?」
『あぁ、お前もしっかりな』
ザザッという耳障りなノイズを経て、聞こえる声が紗弥のものに戻る。
『お話は済みましたか?』
「えぇ。それじゃあ、改めて聞くけど、準備はいいわね」
『はい』
返ってくる、自信に満ち溢れた紗弥の声に、水亜は満足気に頷いた。
「……行くわよ」
『はい!』
マイクに近付けていた口を離し、前方の建物へと、水亜はゆったりとした足取りで向かった。

――嵐の前の静けさ――

街を包み込む静謐な暗がりは、そんな言葉を思い起こさせた。

月夜 2010年07月10日 (土) 00時02分(160)
題名:静動〜Silent Rushing〜(あとがき)




























(ロリコンも)アリだ―!!





でも、やっぱり私は断然姉派ですね、うん(´・ω・`)








さてさて、皆さんおはにちばんわ(´・ω・`)
これでOL長編も第5の区切りとなりました。
ようやく物語も佳境に差し掛かり、次回からは展開が早くなりそうですね〜。

そして今回、新たに現れたちょいキャラのボブ。
ごつい体格にグラサン着けときながら、趣味は幼女の盗撮とか、どこの変態ですか。
幼女愛至上主義を公言してのける辺り、私が言うのもなんですが、もう救いようがありませんね
挙げ句、紗弥ちゃんにまで超究極変態危険生物呼ばわりされる始末。
水亜姉さんは同情していましたが、私はその必要はないと思います。
だってきっと、その時の彼は内心密かに

もっとだ! もっと俺を責めてくれ、もっと俺を蔑んでくれ、もっと俺を罵ってくれヒャッホオォォウ!! 

なんてことを思って、トランスしていたはずですから。


……誰だ、こんなド変態キャラを生み出した変人は(´・ω・`)


さてさて、今回はこの辺りで幕としましょうか。
この作品に対する感想等ございましたら、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」の方まで、ドシドシどぞー。


ここまでは、今日も今日とて怠惰に身を任せる私こと、月夜がお送りしました。















働きたくないでござ(ry

月夜 2010年07月10日 (土) 00時04分(161)


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