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忘れ得ぬ風景掲示板

皆さま個々の忘れ得ぬ風景に感謝します

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滝の歌






[396] 題名:忘れ得ぬ風景完結に燃ゆ! 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月03日 (木) 07時40分

栄光の5・3「創価学会の日」に師は詠まれた。

冴えわたる 五月三日の 師弟かな
  世界に轟く 勝鬨 嬉しや

「わが友が、家庭でも、職場でも、地域でも、
 汝自身の堂々たる勝利の城を創り上げていかれることを、
 私も妻も祈る日々である。」(2012/5/3聖教新聞より)

本日より愚壮さまの『忘れ得ぬ風景』が新たな展開を始めます。

『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』
Once again I taike my life into account for moving forward

[397] 題名: 名前:菜月 投稿日:2012年05月03日 (木) 08時11分

厚田の海、拝見しました。
開いたとたん、息を飲むほど美しい風景に
癒されました。
ありがとうございます。

[399] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月03日 (木) 17時37分

菜月さま ご無沙汰しています。ようこそ^^

『厚田の海』愚壮さまの原風景なのです。
それが何故か・・・
是非とも風景を読み解いて下さいませ。 ありがとぅ♪

[407] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月04日 (金) 10時17分

『厚田の海』が『忘れ得ぬ風景』の原風景である。

私(愚壮)にとって、誠に不可思議極まりない、この時の事を、チクと再現すると。
昭和38年2月4日 熱に悶える末期症状の瘧(おこり)の如く、私は自衛隊に入隊した。(於・信太山)
その1年7ヶ月後の1964年9月。 『厚田の岸壁』に私は在った。(この時 19歳)

渡○小隊長(当時・V尉)が「厚田村役場」(現今の石狩市役所分所とは位置が違う)に所用で訪問し、
用件を終えて「ジープ」に戻ってくる迄の短時間、「ここで待て」との渡○小隊長の指示に随った。

それだけである…。唯それだけの… 単なる「通過点」の『厚田の海』のはずである。 
ましてや44年前 1920年初春の20歳の戸田青年が『父母への永別』に、厚田を訪れている事など、解る由なし。
その「知る由もなき」人間が、この5年後の昭和44年12月17日に「創価学会」の信心に入会し、
その後、ワシを捨てた両親を、捜し出して折伏し、 尚。愚壮本人が「還暦」を5年も越えた時に、
『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』との言葉を遺して失踪するのであるから
…何と粋ではないか。

オリジナルでは、第一幕の後半に『池田先生・御勇退』にと、ハショッタが、
実際は「15年間」の歳月を数えたのである。

これからの『再風景』は、終盤へ向かう道程の中での『藁の中の針』との遭遇だ。
『宗門&学会』という範疇を越え越えて『風景を紡ぐ』時も、ワシの余命の上では有る事も有る。

「やれ裏切った。の 言葉が足らん」だの言わずに、読んでくれ。と、言う事も…ま、たまには、あろう。

が、しかし。 『『新編・御書全集』に於ける『第59世:堀日亨上人猊下』の御著文 
『序』を何百回・幾千遍と拝読した『新生・愚壮』である事も、付け加えたい。

あ。 それと、もうひとつ。『御書』は、編年体御書を認めていない事を明記する。

[408] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月04日 (金) 20時11分

私と妻女と長女が、約三十八年過ごした街を去ったのは、2009年の桜の頃である。
この三十八年間の、あらゆる出来事は…『忘れ得ぬ風景』に全部書いた。

扨(さて)。 
この間に築いた、殆んど総てを失った私への「同志」の姿勢は…というと。
大勢の殆んどの人達は「これには何か、深い意味がある」と激励してくださったが。   
「それ見た事か」と公言愧(は)ばかり無き人も、正直 居た訳である。

昭和54年7月26日 『K圏』は誕生した。  
これは『池田大作創価学会第三代会長御勇退』の僅か95日後であった。

初代圏長は「T氏」(あの『2008年10月27日の風景』で「愚壮宅」を訪ねた人である) 
初代圏婦人部長は「M女史⇒現・常勝O総県婦人部総主事」であった。
爾来30幾星霜…   
毎年巡り来る『3・9』を、「K圏」の壮婦男女(四者)同志は、老若男女総出で祝い、役職など無関係に全員で歓呼した。

個々それぞれ、諸々の苦難も、又悩みも…この『3・9』を目指して乗り越え打ち破り、
「変毒為薬」の実証の事実を目指し、示し来た。
正に、毎年巡り来る『3・9』こそが「K圏」の同志にとっての『登竜門』であったといってよい。

愚壮の生き様も、この『3・9』の歴史の渦の中に在った。    
自身の幾度かの苦闘にも、全て「同志」の同苦と激励で乗り越え得た。
が。そんな…平成21年3月26日…。        
愚壮自身の文字通りの『忘れ得ぬ風景』が展開される。   

…武運も拙ないのか、奮闘も空しいのか、それとも『願兼於業』の故か…
私と妻と長女が「栄光のK市」を去る日が来た。

愚壮(支部長)にとっての、この最後の「支部幹部会」は、
昭和59年1月19日の落慶以来の35年間の御提供たる「T宅」であった。


会場は立錐の余地なく揺れていたが、   
それより増して、参加者の「支部員さん」全員の真心が溢れていたのであった。

未来部の健気なコーラスに泣き濡れ…   真心の御婦人の言葉に泣き濡れたが…  
真意は…N支部婦人部長を投げ捨てた「私自身」にのみ、大恨誡の懺悔の涙を流したのであった。
 
誠心誠意の真心の発露で参加頂いた「壮年幹部」の御実名を記したい。 否。記するべきである。
それが 「Y圏長」 「N副圏長」 「H本部長」 であった。 (筆者 備忘録には実名で記述)

「H本部長」が立った。
「H本部長」の手には、B4の原稿5枚が握られていた。
「本部長」はいう。 (以下概意) 
【 此の原稿こそ、今から29年前。 
あの昭和55年3月9日の前夜 学会本部を訪れた私に、
先生から戴いた「恩師への報恩」の直筆原稿だ。 


 私(H本部長自身)の家宝であるので、(この原稿の)本物は差し上げられないが…  】
と、筆者に下さったのが 『恩師と桜』(複写)である。       
つまり…此の『恩師と桜』こそ、紛れも無く 我が「家宝」たる所以なのだ。

誠に不思議な事であるが、「H本部長」は、私の『K圏最後の日』の餞(はなむけ)に 
上記の『恩師と桜』の原稿を選ばれたのだ。


『恩師と桜』の原稿とは、言い換えれば
『池田先生』と『K圏』の「師弟不二の絆」の奥底の淵源(真の出発点)ではないか。
つまり「H本部長」は…。
『 愚壮よ! いずこの地に変わっても お前の「原点」はKなんだ!』と言いたかった。


只。最後に「H本部長」は妙な事を言った…『 但し、俺は読む事が出来ないでいるが…』 
(これは原稿を一目見れば納得がいく…読めないのである)

これが 平成21年3月26日の夜の事である。           
遂に…私達は38年間住み慣れし『門真』を去ったのだ。        

振り返れば…      
昭和47年8月21日(『K圏』が誕生する7年前)。 私達家族は「K市石原町」に辿り着いた。
私が27歳。妻が26歳。長男2歳。長女0歳であった。   

私の入信は昭和44年12月17日であるので、当時の信心歴は3年であった。
次女の誕生(昭和51年)頃から「信心」に目覚めだしていた私は、
『3・22』(長居)に向かって昇華しゆく。

『教学歴』は、昭和45年6月24日の「任用」から、
平成12年11月18日の「教授」までに「30年」を要した。


『役職歴』(役職なんぞは己の歴史に無関係だが…)は、
昭和61年2月19日の「壮年部B長」に始まり、平成17年12月10日の「副本部長」までを拝命している。

その他、『圏・副地域部長』『儀典長』『教学部研究会第10期生』
『関西人材育成研修終了』『公明党副支部長』『地区新聞長』を歴任。

又。昭和54年より、平成21年までの30年間。自宅を個人拠点として提供し、
その間の「個人折伏」は両親を筆頭に40人程度である。
 
又。地元地域では、
『子ども会会長』『自治会防犯部長』『会計監査』『自治会副会長』等を歴任した。

是といった「取り柄」の無い臭い人間が「創価学会」の薫陶で今まで来た事に感謝こそすれ、
「一点の疑念」も無かったのは当然であったのである。

[412] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月05日 (土) 07時09分

【 平成21年3月26日の夜の事である。 】という記述に続いて 【 遂に…私達は38年間住み慣れし『門真』を去ったのだ。 】と結んだ実景…。        
『学会員・愚壮』ではない人物。つまり(人間・愚壮)は、単に唯々諾々・「無血開城」に臨んだのか どうか…。である。
彼が『K市』を(心身ともに)去らなければ(棄てなければ)ならない。と、「腹を括る」までには、実は多くの難関があった。
その「難関」の一つ一つをここで書くと、多くの「欠陥のシステム」の解説になるので『弊害』が大きすぎる。

ここでいう『弊害』とは、
『創価学会』という巨大組織は「信者」の苦悩の解決の為に「頓服薬」としての機能をも持って存在する。…ゆえに…。
「創価学会員」は、仮に人生に頓挫しても、多くの同志が決して苦悩の人を見捨てないで、救援の手を差し伸べて呉れる。
上記の如き『思い込み・誤謬』が、一部の学会員さんが、現実に持っていた。…とすれば、『弊害』なのである。

『日蓮仏法』の根幹は、ありとあらゆる「生命体に逆行」する苦難・障害の元凶を、『前世』にまで遡(さかのぼ)って根絶する事だ。
つまり。 『個人』に対する「あらゆるマイナス現象」は、全部その個人への「試金石的受難」で、解決するのも『その人』なのである。
もっと解り易くいえば、苦楽併せて『全部・自分持ち』なのである。 簡素といえば簡素。  薄情といえば、 これは薄情である。 
そんな『簡素で薄情』にみえる原点にも、絶対不滅の論理がある。 それが【 他人の不幸の上に、自分の幸せを築いてはいけない事 】である。

とまれ… 「K市」を去る『愚壮一家』の後姿は、「敗北者」の悲哀に満ちたものであったろう。
( 『愚壮』はよい。「自業自得」であるから…  しかし。女房や子供は違うだろう。  まったく、イイ迷惑だよ。と村雀が騒ぐ。)
「本当は どうなんだ?愚壮よ。」と聞いて呉れる人とて居ない…と、蹲(うずくま)った『愚壮』ほど、似合わない役ドコロはない。

そんな『愚壮』でも、懐深く仕舞い込んでいた物があった。
それが 『若き指導者は勝った』の冊子であった。 
( 若き指導者は勝った⇒「聖教新聞連載」 実配日 2008年12月30日〜2009年2月4日 )
上記の冊子は、昭和24年1月3日から昭和31年7月9日までの 2743日間(7年と187日間)の実録である。(『序』〜『第18回』)

…もうひとつある。    
この頃(2009年の4月〜2010年の4月)の『愚壮』が、目の色を変えて肉薄していった「もの」とは…『御書』である。
それも「全編読了」を旨とするが如きの 薄っぺらい『御書』への対峙ではなかった。  「ひとつの御文字」への肉薄であったのである。
この「ただ拝読するだけではない」という『実風景』の事を、後日の妻はこう言った『鬼気迫るものであった』と…。

その最も最初に、愚壮が繙いた『御書』とは… 『御義口伝上 731P』(第三 捨是身已の事)と『四条金吾殿御返事 1164P 1〜2行目』だ。
つまり… この時の『愚壮』には既に、『死魔』が纏わりついていたのであった。

[414] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月05日 (土) 16時51分

【 設(たと)ひ所領をめ(召)され追い出し給うとも 十羅刹女の御計(はから)いにてぞ・あるらむと・ふか(深)く恃(たの)ませ給うべし 】
上記は『四条金吾殿御返事  1164P』 冒頭の御聖訓である。

第三 捨是身已の事 【 御義口伝に云く 此(こ)の文段より捨不捨の起りなり 
転捨にして永捨に非ず 転捨は本門なり 永捨は迹門なり  
此(こ)の身を捨るは 煩悩即菩提 生死即涅槃の旨に背くなり 云云 】 『 御義口伝上 731P 』
自死・自殺は、『末法流布の日蓮仏法』に逆行の行為であるとの御聖訓なのである。           つまり…
「余経・迹門・爾前」の類での『煩悩即菩提⇒(生死に伴う苦悩を離れる事)』や『生死即涅槃』はあり得ないとの御断言である。

逆に「余経・迹門・爾前」の類を『師門』と成すは、臨終は『自害』あるのみ。 ⇒『念仏無間地獄抄  100P 3〜4行目』と辛辣である。

( 『K市』在住間に築いた、殆んど総てを失った私である… )その姿は、痛々しいを通り越して、予想だにせぬ「皆無の設定」である。
そんな私の行き先は…隣接の地「N市」であった。      はたして「N市」の「組織・同志」に、私達はどう応えたのか。

この地での約375日間とは、「愚壮家族」にとっての『巨大なる風景』として、いついつまでも 奥底に残っていくのである。
たとえば…こうである。
私達が引っ越して来て、片付けもヤヤ完了した頃に。 先ず「S地区部長」と「O圏長」が訪問なさってくださった。
そして「県長」と「本部長」   「総県長」と「支部長」と…  総ての壮年幹部が、日を置かずに「愚壮」を訪ねてくだされた。

その姿たるや…決めて「上から目線」でなく、遜(へりくだ)るでなく、慇懃でなく、放埓でない。
私は思った…『嗚呼… 麗しい哉…』    そこには、全くの「原点」の同志の姿が有ったのである。

正直。私は…。その『鬼気迫る』表情での、御聖訓への挑戦を続ける中で、一抹の安堵感を久しぶりに感じていた。

[415] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月06日 (日) 01時14分


『2012年5月3日 忘れ得ぬ風景完結に燃ゆ!』

ページ作成致しました。 いやいやビルダーの進化に私の頭脳が付いて行かない(汗
ページは作れても、サイトにアップが出来なくて悪戦苦闘いたしました。

>正直。私は…。その『鬼気迫る』表情での、御聖訓への挑戦を続ける中で、一抹の安堵感を久しぶりに感じていた。
私は記憶を辿りつつ、『鬼気迫る』表情での、HP作成への挑戦・・・えらい違いや!

鬼様が どこぞで笑ろていはるんちゃうやろか・・・・(-ω-) ボソッ

[416] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月06日 (日) 06時08分

『おにゆり様』
誠に御苦労を掛けております。 ありがとう。
愚筆の『風景』は、かくの如く「護られ切って」の存在です。
重ねて御礼を申します。 ありがとうございます。


扨(さて)『風景』のその後です。
「N市」に辿り着いた私達3人(妻と娘と拙)を、
当地の『同志』は、どう御迎えくだすったのか。


この、僅か「一年間」という短期の『風景』を 今思う時。
その『風景の背景』には、いつも燦然たる陽光が降り注ぐのです。

雨の日も、風の日も  厳然と在った筈なのに…。

「N市」…。 私はここで、再びの『忘れ得ぬ風景』に出会うのです。   

[417] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月06日 (日) 08時32分

>その『風景の背景』には、いつも燦然たる陽光が降り注ぐ。
『忘れ得ぬ風景』を繙こうとする時、真っ先に迫ってくるのが『奥入瀬の滝』。

燦々たる光彩に彩られた『瀧』は、如何なる「非難や中傷や罵詈雑言」にも、
微動だにせず「涛々」と往くのです。



『瀧の詩』の淵源   
1994年(平成6年)6月・英グラスゴー大学に於いて『名誉博士号』授与式が行われた。
同大学の J・F・マンロー博士はその時『池田名誉会長』の『瀧の詩』を引用し英文で朗読した。

その日から13年後の2007年(平成19年)5月19・20日 青森文化会館での聖教文化講演会に於いて、
英グラスゴー大学 J・F・マンロー博士は、池田名誉会長と再会し、『瀧の詩』引用の感動を語った。

原 詩  と  その正規英訳   

瀧の如く    激しく      Like the waterfall fierce  
瀧の如く  撓(たゆ)まず    Like the waterfall unflagging  
瀧の如く   恐れず       Like the waterfall unfearing  
瀧の如く   朗らかに      Like the waterfall merrily  
瀧の如く   堂々と       Like the waterfall proudly  
男は 王者の風格を持て   A man should have the bearing of a king  

【 man should(男は〜の方が良い)   bearing of a king(王者らしい)】

この時から『瀧の詩』は 「英グラスゴー大学」と「創価大学」を繋ぐシンボルになっている。
※『瀧の詩』は 昭和46年6月に「奥入瀬」で詠まれ、
 マンロー博士の英訳は『原詩』創作の23年後にG大学で紹介された。

[420] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月07日 (月) 08時24分

出勤前のティタイム『瀧の詩』を聞いて居ます。
東北健児に想いを馳せつつ・・・
愚壮さまの帰還を誰よりも喜び『俺も頑張る!』と
瀧が如く撓まず 前進している姿が目に浮かびます♪
仕事に行ってきます♪

[421] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月07日 (月) 16時48分

糸を文(あや)なす故『紋』という。  私にとって、忘れ難き文字が『紋』だ。

『紋』…。 一体どのような意味が有るのか…。
『織る』事から、その文意が起き上がったとして、概ね間違いないのだろうか。

「糸」扁の文字にある、『紡ぐ』『繙く』等は、そういう意味でも深いものを感じる。

例えば『絆』という字を何と読む…といえば   正解は(きずな)である。 
しかし、もう一つ有る、それが…(ほだし)である。 
『紲』とも書く(ほだし)の意味は「自由を束縛する」である。
『絆』を分解すると「糸」扁に「心」である。 

「心」とは「りっしん⇒ 立っ心⇒ 立つ心」であり。
その「立つ心」に「横向きの楔」を二本打ち込んで「半」となる。
ここにいう「横向きの楔」とは「寄り添う事」であり。「同苦」の事なのか。      「糸」扁の糸とは『紡ぎ出す』である。  

つまり『絆』とは『同苦・寄り添う心』を『紡ぎ出す』事であり『創価学会』の原点である…と、愚壮は思うのです。

[422] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月08日 (火) 05時28分

「N市」の生活が始まった。 
この街の東側は、山が真近に迫っており 当然の如く「坂」が多く。最高点は海抜も百米を越えておる。 
それに反して「N市」の西側は古来からの低湿地で、人口密度も集中して高い。
この、歴史深き「街」に紛れ込んだ「愚壮家族」を、『創価学会』の庶民は決して放置しなかった。

早速の濃密なる連繋で、『創価学会組織』に直結して下さった人が居る。
それが『N地区婦人部長(現在・支部婦人部長)』であった。
少し間合いを置かれる姿が特徴の彼女は、実に細かく『家内と長女』に接してくださった。
結局は、全て この「N地区婦人部長」の振舞で、「愚壮家族」が息を吹き返したといえる。

一切の「思い込み」や「先入観」や「レッテル」や「役職視線」  
つまり…全ての『烙印』を廃した組織がここにある。

…とはいえ、「愚壮家族」。 就中…。「家内」や「長女」が『烙印押印』の対象者ではない。
無理やり『烙印』を押すとすれば…『愚壮』自身であったであろう。
(…と、ワシがこう言うのも、亡霊に対する有りもせぬ「ヤッカミ」 つまり「被害妄想」の一種である…)

が…。 ともあれ、 「N市」での新生活・総てをやり直すべきの新生活がはじまったのである。
ただ、 一人『愚壮』は、  『俺がこうなるのは、何か深い意味がある筈だ』と思っていた。

その顕著な変化が、『御書』に対する「肉薄」であった。

[423] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月08日 (火) 05時52分

何故。  ≫ただ一人『愚壮』は、『俺がこうなるのは、何か深い意味がある筈だ』と思っていたのか。
それは『K市』での末期(2008年最終日から2009年2月の初旬) 『愚壮』が手にした『実録』に依る。
その実録が 『若き指導者は勝った』であったのだ。

つまり…。 「N市」の愚壮は… 「K市」の愚壮ではなかったのである。

[424] 題名: 名前:mei 投稿日:2012年05月08日 (火) 14時16分

おにゆり様&愚壮様

お久しぶりです!!!

遂に再開ですか?!待ってました!!!
ときどき、再開を期待しながらのぞいておりました。。。
愚壮さま、どうかお忙しいのだろうとは思いますが、
ずーーーーっと、待ってました。続きをお願いいたします。
とてもとてもとても・・・楽しみです☆

私は現在、大都市の広州から片田舎に引越し、
まさに、この市で一粒種のSGIメンバーになりました。
旦那の故郷(ギャンブルで有名なマカオの近くです)に住んでおります。

バスで国境へ出て、月に二度ほどマカオSGIに参加しております。
とても小さなマカオSGIですが、手作りなかんじというか、
巨大組織で、めまぐるしく華やかな香港SGIとは叉違う味わいが、
のんびりな自分には合うなと嬉しいです。

あれから、旦那が信心に猛反対になってしまって、仏壇を破壊されたりで、、、
ご本尊様をお巻きして、逃げたこともありました。。。
旦那が、原因不明の頭痛と耳鳴りに悩みはじめてから、
私が変な宗教をしているからでは?と、思い込んでしまったのです。

最初はキリスト教を熱心にやって治す!といっていましたが、、、
今では、まったく教会にも行かなくなり、聖書にホコリが積もってます。

今年の4月には、家族も交えて離婚の話し合いまでになったのですが、
突然にいろんな変化があり、、、
なんとか今は旦那も落ち着いています。

先日「あなたのほうが、精神的に強いことを認める」と、
突如、ぽつりと申しておりました。。。

自分の人生も信心も、いよいよこれからだと思ってます。
ここで、「忘れえぬ風景」が再開・・・追い風というか、、、
本当に励みになりますので、
楽しみに拝見させていただきます。

[425] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月08日 (火) 19時00分

meiさま お久しぶりです。
ず〜と待っていて下さったのですね 嬉しいことです感謝致します<(_ _)>

そうなんだ御主人さまが・・・大変でしたね。
逆境にめげずにmeiさまは頑張りぬかれたのですね。

遠い広州の地で どんなに心細かったことでしょう
大都市からの転居。そして『妙法のひとつぶ種』
meiさまの使命は益々に輝きを発していくのですね。

全てが意味のあることだと思います。
『意味がある』と、自覚する時に人間革命できるのだと思います。

私もmeiさまと共に成長してまいります。
愚壮さまも 健気なマカオSGI婦人部の愛読者がいることに歓喜し
きっと ペンが進むことでせぅ♪

『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』
Once again I taike my life into account for moving forward

meiさまの『風景』が、青葉薫る幸の風吹く章となりますように(^Λ^)
おにゆり拝

[427] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月09日 (水) 05時30分

『御書だ。 御書しか今の私の、自身への疑問に答えられるものはない』…こう腹が決まるまでに、時間は掛からない。
「N市」の生活が始まって、直ちに私は、私の持つ総ての余暇を『御書を繙く』事のみに没頭していった。
具体的には、早朝2時半には「机」に座し、『御書』への挑戦に向かった。(これは、粗(ほぼ)現在も続いている)

先ず。規範・法理を御明示された『御聖訓』の抜書きから始めた私は、冒頭から「底なし沼」に身を晒した。
『行けども行けども、輪郭さえ掴めない…』と、没頭していった。
五十音に整理しつつの「骨子・項目」は、それでも「千項目・二千項目」と数を増していく。(現在・5004項目)

参考資料・参考文献を求める時は、『御聖訓』及び『日興上人・御記述』以外には、
主に『第26世:日寛上人』『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述・論文に限定した。
(この、『第26世:日寛上人』『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述・論文に限定)とは、今も「正解である」と確信する。

特に、多大な助力と為ったのが『富士宗学要集・堀日亨上人猊下御著作』であった。
『日蓮大聖人』の仏法の根幹が、第二祖(開祖・日蓮大聖人でも、日興上人(開山上人)でもない)あたりから、
揺らぎだす始末を見るのである。 (これは、各位に申すが…富士宗学要集の精読・熟読を期すものである)

「N市」に来て三ヶ月、『御書・御聖訓』の研鑚に没頭する頃。 2009年の7月の末頃、とんでもない事に出くわすのである。
この(とんでもない事)とは、 総てへの始まりである。  しかし、この公開は『愚壮』の死活にも関わってくるのである。
(私個人への 死活問題等ここに来て、 はなから眼中にはないので 「屁」とも悩んでいないのを 付け加える)

[429] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月09日 (水) 06時03分

参考資料・参考文献に位置付けた『書簡』を言っておくと。
『第26世:日寛上人・著』⇒「六巻抄」 
『第59世:堀日亨上人猊下・著』⇒「身延離山史(上下)」「富士日興上人伝(上下)」「富士宗学要集・全巻」 (聖教文庫)
である。

何故か。  真正の『師弟不二』を語るに、上記以外の『論文』に『正鵠』を見た験しがないから。
つまり…上記の精読のみ。 全くの『正史』に行き当たるからである。
現在の「宗門」如きの垂れる「ヨタ」が、いかに底悪・底浅(ママゴト)であるかが、容易に解明するのである。

[430] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月09日 (水) 09時42分

愚壮が何故、『第59世:堀日亨上人猊下』の御著作・論文に着目し、依処を『第59世:堀日亨上人猊下』に置いたのか。
答えは簡単・簡素。 非の打ち所がない「人選」だからである。
つまり…「宗・創」共々に『ヨタ』を挟み込む余地が見出せないのである。

もっと突っ込んで言えば『第59世:堀日亨上人猊下』を否定する蛮行は、己の「血脈」を否定する事なのである。
昨今。あらゆる場面で『日蓮大聖人』の教相が「我田引水」の自己解釈が成されてきた。
特段。『宗門』の言うそれは、噴飯の最右翼で、目を覆う代物である。

昔からの諺に「燈台下(もと) 暗し」というのがあるが、『日蓮仏法』の根幹も、足下にある。
…そこで登場するのが、『新編・御書全集』の『序』である。

すこし本文を記述するが…
【 爾来五百年 ※斯業(しぎょう)に精進するの名師出(い)でず 
漸(ようや)く近古になって細草談林の化主で 又 大石本山の学頭であった   
『久遠院 日騰上人』が始めて新定祖書の目録だけを作り
※祖書 ※拾遺(しゅうい)の編輯(へんしゅう)もあったが 全編ではない、 】 とあられる。

下記は、ごく簡単な通解。
※斯業(しぎょう)⇒御書の編纂作業
※祖書⇒『日蓮大聖人』の全ての御記述文献
※拾遺(しゅうい)⇒漏れや欠落を拾い集める事

この中で、着目すべき事項は 【 爾来五百年 ※斯業(しぎょう)に精進するの名師出(い)でず…】だ。
つまり『日興上人(開山上人)滅後の500年。 御書編纂に没頭する「名師」が存在しない』との 御嘆きである。

まったくもって… 言語道断。 僧侶としての「素質」から疑うものであるのだ。 …冗談ではないわい。

[431] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月09日 (水) 09時53分

≫「N市」に来て三ヶ月。 2009年の7月の末頃、とんでもない事に出くわす。
この事が、総てへの始まりである。  

覚悟を決めて読む可(べ)し。 愚壮記。

[432] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月10日 (木) 04時13分

≫ とんでもない事に出くわす。⇒(§1とする)
この詳細の記述は(もう一度、記述内容を重複すれば⇒§1とする) 時期尚早と、不記。
何故に不記か…。 それは本日・今朝が、『初代 K市 I 圏長』の「一周忌」であるからだ。
『初代 K市 I 圏長』といえば…
あの「忘れ得ぬ風景」の最後の投稿の(2008年10月27日(月) 11:03分 記述日)人である。
今日。2012年5月10日が、上記「T氏」のその日(御逝去の日)である事を、非常に重く感じている。
…故に、上記(§1の記述)は、今回は書かない。

それは云わば…今は亡き「T氏」が『愚壮よ、今は書くな』と聞こえるからである。

平成23年(2012年)5月10日  『初代 K市 I 圏長』遂に隠れる。 享年80であった。
この人の『訃報』に接した時。 私(愚壮)は率直に「一つの時代の終焉」を見た。
これに纏わる実話は(§1とは全く別の話)、この『風景』にも必然と登場するが、今ではないのである。

※ 今後の『風景』に、(§⇔セクション分別)が多く登場するが…それらは全て実話である。

[433] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月10日 (木) 04時37分

「N市」に流れ着いたその年(2009年)の夏。
『創価学会』にとって、最も苦渋の時を迎えた。

当地「N市」にあっても…『負けたらあかん』と闘った。
K市からも「N市」に多くの「総県長匹敵の幹部」が入った。

『愚壮』はどうしたのか。
『あの地域は、ワシでないと聞いてくれない人も多い』…と、
行きたくもない・見たくもない「K市T町」へ走ったのだ。

これを見た『T氏(三十数年超の刎頚の同志・支部長)』は言ったと聞く。
「あいつ(愚壮)が「K市」から消えた翌年の法戦に、
もしも、あいつの姿が「K市」の中で見る事がなかったら…」
「俺(T氏)は愚壮を見限った」と言ったとか言わなかったとか…

ワシにとって…(この年以外もそうだったが)『F候補』とは、
一切を乗り越えた『存在』であった故。刎頚の「T氏」の危惧は徒労じゃ。

この『未曾有の敗北』に纏わる実話も、今は『時期尚早』と言わざるを得まい。
(この手の話題は、どうも 気が腐るが… ここは辛抱して頂きたい。)

[434] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月10日 (木) 04時50分

…『闘いは敗れた…』 事実 敗戦したのである。
直後の『同時中継』の事を、よもや「忘れた」と放言する輩は居まい。

あの一瞬の『実話』に、一体誰が「緘口令」を敷いたのか…
是非とも『御伺いしたい』とは、気骨溢れた「勇者」の「炯眼」であろう。

ともあれ。2009年8月の痛恨事を「忘却の彼方」へ押し込めるのは異端児だ。
『何の為』とは、底流に不滅の不文律。決めて「原点」である。

[435] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月10日 (木) 05時03分

『常勝』を死語にし…『負けたら あかん』を踏み潰す。
つまり『歴史』を塗り替えた。… 一体・全体 何が有ったのだ。
そして、何が違ったのだ。

『(負けたのには)意味が有るのか』…と、(個人差は有ろうが)苦しんだ。
『これでは 腑抜けだ』と、落ち込んだ者も居ただろう。
(屁程も悩まなかった、似非者も居たのかね…信じられないが)…と。
『風景』は2009年の後半に入っていく。

[436] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月10日 (木) 05時25分

2009年8月最後の月曜日の早朝。「N市」の愚壮宅の玄関に泣く人あり。
一人は「我が長女」 もう御一人は『N地区婦人部長』であられた。

この御二人の御悲哀に代表する『多くの御悲嘆』を、一体誰が「看過」できるのか。

『実際に、走り回ったのは誰なんだ』と問い質す気概さえも起きない。
命懸けで闘った人・半信半疑で闘った人・闘っている振りのみの人…。
様々の懸念や建て前や確信を連れて、『創価学会』は存在する。

[437] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月11日 (金) 05時18分

ともあれ…   「N市」で迎えた生涯ではじめての「法戦」は惨敗した。
この敗戦は単に…「自候補が他候補に敗れた」という出来事ではなかった。
『愚壮』が『愚壮』に負けたのである…と。徹底的に落ち込んだ。

つまり…。起るべき「敗戦」であったのか。 …つまるところ 『時』は大きく転進しつつあったのか。
彼我の価値観を、もう一度「攪拌」する如き「異変」が起っている…。そも!『転進』とは聞こえが良すぎるのか。
『号令を掛けるだけの幹部は不要だ』とは、『創価学会』の底辺の大原則でなないのか。

『民衆』『庶民』という語彙の本意は、「彼ら民衆に真相を語らない事」ではない。
『負けるが勝ち』とまで『師匠』に語らせて憚らない連中が、一切の責任を回避したのも事実である。
案の定。その後の「N文化会館」でも、「敗戦」への総括は無かった。
『血の汗を流し、必死で駆け巡った』尊い同志の労苦を、なんの事はない…関西の責任者たちは踏みにじった。

[438] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月11日 (金) 05時23分

閑話休題 
『愚壮』の最終章は見えている。と向き合った「死線」を、『愚壮自身』が乗り越えた或る日。それは起る。
「N市」から「K市」への毎朝の通勤は、長男が愚壮に与えた「軽自動車」であった。
この、約三十分の行程を連日に勤(いそ)しむ事に「何か」を求めるが如く… 私は走った。

その朝も又、そうであった。
『時間の余裕は充分ある…』と、通い慣れし道を 私は走っていた。
途中…「N市」「M市」「K市」の境界に、一本の橋が掛っている。
「これを渡って、道を右にとれば 一本道で「K市」だ」…と速度を上げた時であった。

一人の壮年が「リハビリの杖」を片手にして、橋上に在る。
一瞬の交錯に、その「壮年」が『S前総県長』御本人である事に気付いた愚壮は。
瞬間の車中に、叫んでいた。

[439] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月11日 (金) 05時43分

その瞬間を待つように、軽自動車の屋根を「バラバラ!」と大粒の雨が叩いた。
驟雨(俄雨)である。

目前の右側の「コンビニ」の駐車場へ車を突っ込んだ私は、逡巡する事なく走り出た。
『総県長!』と叫んで、後は言葉にならない。
私の両手を、不自由な手で握り締めて『氏』は言った。   「Yちゃん お前 何をしとるんや」

愚壮は今、何処に居て 何をしているのか。 (…そんな時か)と、『氏』は言うのである。
そして、こう言ったのである。
『K市』を見捨てるのか…と。                私は言葉が無かったのである。         
この出来事が、「N市」移住の年の秋であった。

[447] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月12日 (土) 05時21分

『K市を見捨てるのか』は、この短期間に三人の先輩から戴いた。
それぞれの御言葉を、私は「心肝」に染め抜き、前方を凝視した。とは事実である。

その第一回目の『御警鐘』が『S前総県長』の一言であった。
橋の上の『氏』を見た時に、偶然…大粒の降雨に出会ったが。
「この雨では濡れてしまう」と引き返しかけた矢先の邂逅であった。とは…
『前総県長』の「後日談」である。

私はこの時。「素通り」してしまう勇気をば持って居なかった。
『引き返そう』と踵を返した人と「素通り」出来ない人が出遭った『絶妙』である。

ともあれ…この一瞬の出来事が、消えかけていた「私とK市」との関係を再燃させた。

[448] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月12日 (土) 05時48分

『一年間やそこいらで、K市に再び還るのなら…』
お前は何故。三十八年以上も住み慣れた「K市」を棄てた。

「K市」を捨てるに至った「折り重なるが如き事態」は、当事者でなければわからぬが。
それでも予想される「他人の口には蓋はできない事象」…と『烙印』の重ね押しを耐えれるか。  
要は…『闘志を燃やし続けられるのか』の一点である。

よく俗にいう「人間。死ぬ気になれば 何でも出来る」との難事が、大きく立ちはだかる。

そんな「自己との闘いの渦中」の愚壮に、新天地「N市」の壮年同志は暖たかかった。
『S地区部長様』『S支部長様』『O圏長』それに『副役職』の諸先輩方々である。
就中。『A本部長』の御激励には、言辞に尽せぬ御報恩を感じたのだ。

[449] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月12日 (土) 06時09分

『「N市」の『A本部長』の御恩に報じたい』この篤き思いは、どう御返しするのか。

私は『A本部長』にお願いして、「本部壮年部」の皆様に『歴史』を熱弁した事がある。
それが『若き指導者は勝った』であった。


( 『O圏長』も居られたが 若干の「場違い的雰囲気」を忘れる事が出来ない )
…つまりは、こうだ。
『正史』を語るには、ある種の「緊迫感」の闘いの中でしか語れない。
「ぬるま湯」の日常に、敢えて選んで臨戦の中へ我が身を置く等、意味無き事なのか。

私は『此処こそが、絶対に違う』と、思っている。
『常勝』とは『常なる闘い』の中からしか、生れない…とは、言い過ぎか。

空回りの過過重は、やがて「化けの皮」の露呈に繋がる…と、愚壮悶絶する。

[450] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月12日 (土) 07時51分

そんな2009年初秋目前の候。僅かではあるが、一つの誤謬が露呈した。
【首の座二十三人で、女人が一人云々】と、ある『出版物』が書いたのである。

問題の出版物の誌名は書かぬが、 2009年8月号(第715号)26P
【婦人部に与(あた)う特集連載】であった。

これは、所謂「宗門(日尊派)」が垂れ流した『濁史料』である。
   

先ず。日教(日尊派)は「穆作(むかさ)抄」で『熱原の法難で殉教した中に、
女が一人いた』と虚構を撒く。
これは、『熱原法難』の斬首三人の史実(聖人等御返事 1455p )を捻じ曲げて
【首の座二十三人で、女人が一人云々】としたのである。

つまりは『熱原の法難で殉教した中に、女人の存在があった』との大ヨタである。

※『女人』の「不惜身命」という語彙・信念(法の為には男女共等しい旨の主題)では「美談」である。 

が、女人斬首は誤謬である。『仏法』の偉大さを、殊更に語りたいが為に「勇み足の美談」に陶酔する…

つまり『熱原の法難』即『女人斬首』は史実に完璧に反するのである。

ここでもう一度『富士日興上人詳伝(上)聖教文庫 140P』に於ける破折の文を再掲して、
『熱原法難』に対する誤謬を完全に破折しておこう。

【 (是くの如く…)六百七十余年の往昔にさかのぼりて、
直接関係の方々の直筆正文書が現存することは珍しきことであり、
大々不可思議である。

仏法の正邪、信仰の真偽によって、賞罰の厳正なることも、鑑むべきである。
しかるに、正史料を顧みずに、みだりに臆説を加えて為にする筆を弄するもの、
いまに絶えぬは、憂うべきことである。

(中略)筆者の怠慢無精のために、探求に手足を労せずして、
いたずらに既刊の書籍を気の向く辺(あたり)の孫引をして
得々たるもの多きは、残念至極のことである。
遺憾千万(程度の謝罪)では読者を誤らせた罪悪の償いようはあるまい。 

以上『第59世:堀日亨上人猊下・御著文』 】

孫引とは、検証皆無の丸写しであって。
『創価学会教学部』が書くべきではない。

つまり、非常に紛然とではあるが『正規機関紙』に齟齬を見たのである。

[451] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月12日 (土) 08時09分

是(ここ)で、具体的に【富士日興上人詳伝(上)】に於ける類似文章。更に
『第59世:堀日亨上人猊下』の「誤謬への破折文」の御記述を一部列記しておく。


168p 【 左京阿(阿闍梨)日教が、何かで聞きかじりたる誤伝を(中略)…累(わずら)いをなして…
   特殊の美談として贔屓(ひいき)の引き倒しで…(後略) 】

170p【 後の研史より支離滅裂の ありさまに見ゆるを いかにせん… 】

293p【 他教団への伝播はともかくにも、吾が門の僧俗に
※慢爾に稗史小説的に宣伝せられおるかと思えば肌に粟を生ずるの恐れがある 】 

※⇒【慢爾に稗史小説的の宣伝】とは 
『漫然と、大衆受けする事柄を、背景の精査も検証も無く、能天気に喧伝する事』
つまり『迎合』である。

[453] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月13日 (日) 05時49分


拙文『忘れ得ぬ風景』に『第59世:堀日亨上人猊下』がヤヤ茂く登場されたので…
ここで『第59世:堀日亨上人猊下』の持たれる「御存在・御立場」にふれる。
(触れると言っても大仰ではなく、付け焼き刃の部類で恐れ入るが…)

…そこで 『第59世:堀日亨上人猊下』を語ろうとするには、
私達の『師匠』の謂われている【対:堀日亨上人観】を述べるのが「最も強力」である。
そこで『富士日興上人詳伝』発刊にあたっての「池田先生」の序文を抜粋しておく。


【  ここにおいて日亨上人は、六十有余年にわたり、
あらゆる文献、すべての史料を、あますところなく踏査され、
先師の史伝を整備し、芳躅(ほうたく)の高顕につとめられた。 

その最も御研究に心血をそそがれしが、
この 『(富士)日興上人詳伝』であらせられるのである。(中略)

この正確無比の詳伝を手にする時は、仏法の精髄、宗祖日蓮大聖人の御精神が、
赫々と輝いていることに気がつくであろう。 (後略) 】

上記は、繰り返すようであるが『富士日興上人詳伝(上下巻)聖教文庫発刊  序・序文』だ。
大凡(おおよそ)『序・序文』とは、文章の格式から見ても、最も重要文である。
『大辞林』の類でも、『序』の意味が深く述べられておる故、読者は是非 御一見されたい。

[454] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月13日 (日) 06時08分

更に謹んで上記【富士日興上人詳伝】の巻頭(一部前掲)の序文を複書する。

尚 もう一度言うが、此の『序』の執筆者は『創価学会第三代会長 池田先生』であり。その意義たるや
もっと「ひつこく」言うと…『この序文は 執筆時には見ての通りに書きましたが…、
今は、決してそうは思っていません』等という軽い文章ではなく、永劫の性格を持つ『重書』である。

【  『序』  堀日亨上人猊下御逝去あそばされてより、はやくも、本年は七回忌法要を迎えるにいたった。
この時にあたり、総本山日達上人の格別の御允可(ごいんか)と御監修をいただき、
かって日亨上人が五年半にわたり、大白蓮華に連載された原稿を再編して、
ここに『富士日興上人詳伝』を発刊するはこびとなったことは
宗門のひとりとして、まことに感激に耐えないところである。

日亨上人は、総本山大石寺第59世嗣法であらせられたが、
すでに上人の仏教上における該博なる御研究の成果は、
宗門内外の等しく渇仰するところであって、
全仏教界の至宝として、崇仰の的であらせられたのである。

そもそも末法の慧日、宗祖日蓮大聖人の付法の嫡弟は日興上人であらせられ、
五老僧のごときは、宗祖の御滅後、師敵対謗法の徒となったことは、歴史の示す事実である。(中略)
 
日亨上人が御逝去の直前に編纂なされた、【富士宗学要集第九巻法難編】の創価学会の項において、
(第59世:堀日亨)上人は「学会の復興も忽(たちまち)に成り、意気中天に達し(略)
法滅の末法忽ちに変じて正法流布の浄界と成り、広宣流布の大願成就近きに在り、悦ぶべし、喜ぶべし」 
とおおせられている。(後略)

昭和三十八年十月二十四日      
七回忌法要の日に      創価学会会長 池田大作  】

[455] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月13日 (日) 06時54分

宗祖大聖人 諸法実相抄 (1361P) にのたまわく 
【 行学の二道を はげみ候べし、行学たへなば仏法は あるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心より をこ(起)るべく候、 
力あらば 一文一句なりとも かた(語)らせ給うべし 】

上記は『戸田城聖第二代創価学会会長』の『新編・御書全集』の「発刊」冒頭の辞である。

本抄の重厚は一度たりとも色褪せる事なく、以下と続いている。
【 創価学会は 初代牧口常三郎先生 之を創設して以来、 
此の金言を遵奉(じゅんぽう)して純真強盛な信心に基き、
行学の二道を励むと共に 如説の折伏行に邁進して来たが… 】
と、言われ。弥(いよいよ)文章は白熱の「名文」に入っていく。

【 剣豪の修行を思わせるが如き その厳格なる鍛錬は、
学会の伝統・名誉ある特徴となっている。 】

尚。文中の遵奉(じゅんぽう)とは⇒対象に対し、遵守し奉る事であり
⇒ 御聖訓の御教示を全てその儘(まま)実践する事。である。

以下本文
【 従って 大聖人の『御書』を敬い 之に親しむこと 天日を拝するが如く、
又 学会一同 上下新旧の差別なく 之が研究に多大の時間を当てているのである。】
現今の『創価学会の師弟』の根本理念が上記である。

巷間流布の偽書氾濫を深く嘆かれた『戸田城聖第二代創価学会会長』の御煩悶は、
当該『発刊の辞』に余す所無くの御記述で、弟子の弟子たる我々の深読こそ課題だ。

更に本文は続く
【 然るに 宗祖日蓮大聖人、建長五年四月二十八日、 
三大秘法の南無妙法蓮華経を御唱え始められてから七百年を迎えるに当り、
信憑(しんぴょう)すべき『御書』の発刊を要望する声が学会内に起り、
余(戸田先生御自身の事)も亦 正確なる『御書全集』の出現は御奉公の一分なりと信じ、
是非功罪 及び世人の批判等に逡巡(しゅんじゅん)することなく 
只 仏意を頼り大御本尊に祈り奉り、
遂に 慶祝祈念事業として 之(御書全集)を発刊せんと発願したのである。 】

近代の『創価学会教学部』は、ここまでを何度も繰り返して言い伝えて来たが…。
重要な部分は、実は【ここから始まる】という事なのである。
わざと欠落させ、割愛しては『師匠の師匠』の顔に泥を塗るのだ。

以下本文
【 これに応えられて 永年 古文書研究に没頭せられて ※斯学(しがく)に造詣深き 
(四文字削除)第五十九世の法主たりし堀日亨上人猊下が、六十有余年の※薀蓄(うんちく)を傾けて
之(『新編・御書全集』)が編纂の大事業に立たれたのは、大聖人門下にとって此の上なき幸せな事である。
※斯学(しがく)⇒仏法・仏門・法理に関する総ての学問    ※薀蓄⇒蓄積され尽くした透徹した学蹟

堀日亨上人猊下は 八十六歳の御高齢にて日夜不断にも拘らず、身心共に何等の障魔無く
数十年の亘る御研究を結集せられて ここに本書の完成を見たのである。
其の内容たるや 古今を通じて最も誇り得べきものであると共に、
初信の者も仏意を会得するに 容易ならしむるよう 
字句の上にも細心の注意が払われている。 】

更に本文は、最もの「急所」に差し掛かる。
【 …然るに 余の不敏(※不敏⇒鋭敏ならざる事)は幾多の過誤を おか(犯)して     
堀日亨上人猊下が生涯を通じての大研究に 疵つくることなきやと ひたすら之を虞(おそ)れ、 
今後の補正に最善の努力を尽さんことを誓う者である 

と共に、   
この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事を ひたすら祈念して止まぬものである。
願わくは 世の識者諸兄・余の微意を諒とせられて 御批正あられん事を。

昭和二十七年四月二十八日               
創価学会  会長  戸田城聖  】

上記の中に『第59世:堀日亨上人猊下』御自身の御存在の不思議が、
余す所無く顕されている。   深く拝読せよ。

[456] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月13日 (日) 07時30分

扨(さて)も・扨も、静かな朝である。
「この日曜日を、どう過ごすか」という思考も出ぬ程 弛緩した朝である。

妻女の御就寝は、今暫く続行しそうな時間帯じゃが…思い出した事がある。
ワシの昨夜の『晩メシ』は、主体が「お湯割」であった。
「老妻」はといえば、向かいの席で「喰いつつ」「見つつ」であった。

そんな時、長女から「画像メール」が届いたらしい。
黙って晩酌の眼前に細君の携帯が覆って視界を奪った。

『いと、賑々しい絵じゃ』と上目で観た画像は…『華燭の宴』であった。
そういえば、今日は『H本部長』御子息の佳日である。

『若い時の出来事は 全部が良い事である』と思う。

[461] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月14日 (月) 04時56分

≫そういえば、今日は『H本部長』御子息の佳日である。
ここに在る【 今日― 】とは、挙式の日(2012年5月12日)である。為念

扨(さて)。昨日の続きじゃ。
正確な時間は忘れたが…長女夫妻が可憐な生け花を持って、我が『細君』を訪ねた。
その又。暫くの後…今度は「名古屋」の次女からの「宅急便」で、瑞々しい華が来た。

この両方に、老妻がメールを返しておったのは、いかにも平和で、誰が見ても麗しい風景だ。
そんな直後に『老妻自身』が、「私、三人子供を産んだのにね」と言いおった。
これは、もうひとりの子供である「長男夫妻」からの『母の日』の祝いが無い事への揶揄である。

この『母の日』の由来など。ワシにはまったく興味も何も湧く事ではないが…。
『今日のうちに…』と、母に電話をいれた愚壮である。

『母の日です。いつもありがとう』と普通に言うと、
受話器の向こうの「八十三歳の母」は、こう言った。
「私はあなたを捨てたので、母と呼ばれる事そのものが、勿体無い」

『私が今、こうして居るのは親である あなたの存在に全てが起因しており…
感謝は 計り知れなく重く深い』旨を、押し付けるふうでなく言った。

『母』は非常に恐縮していたが…「親を恐縮させるようでは、孝養の子ではない」
少々の思い出話は、今は亡き「祖母」への事に尽きる。

…が 然し。 『母』の『母』は、大阪西区新町の「芸妓」である。
つまり…。私の実母は、自分の実母さえ知らぬのである。
これは、『我が母』が持つ、拭えぬ因果である。

『唱題に唱題を重ねる事が大事です故。御題目だけは続けてね』という私に、
母は、受話器の向こうで『ハイ』と言った。   

[462] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月14日 (月) 05時25分

つまり…。素性も家風も格式も無き『愚壮』
「食い扶持を稼ぐが為に産まれ落ちた少年」とは『マグマグ殿』の「愚壮評」で、
ズバリ 言い当てておるが…。別の話に脱線しそうなので止めておく。           

そんな(素性も家風も格式も無き)『愚壮』が出会ったのが『創価学会』であった。
『創価の有り様』を悪く言う人も多いが… (確かに、間違っている部分もあるが)
「是正・軌道修正」する機能・及び「浄化力」を持つ組織と思っておる。

この、ワシ如きの言う『是正・軌道修正する機能・及び 浄化力』云云は、
『宗門』の側から見た『宗門自体の持つ、杜撰さ』を、強く嘆くからである。

『戸田城聖第二代創価学会会長』が、御自身の『師匠・牧口先生』に学んだのは、
実は「その一点」であった。と、信ずる者でもある。

『創価学会は発迹顕本せねばならぬ』とは、元々から在る「自浄能力」の事を指す。

「宗門」に狂いを見るのは、草創の頃である。
これは、一に「出家せる者」の怠慢で、大いなる「反省」が望まれる。
…といっても。それは無理であろうよ。通津浦浦に点在する各寺院を観れば…。
  
(通津浦浦に点在する各寺院)に、いとも他愛なく迎合したのが、
晩年の『創価学会』である。 てな事を言うから、『愚壮』は皆から嫌われるのだ。

[463] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月14日 (月) 05時33分

≫「宗門」に狂いを見るのは、草創の頃である。
これは、一に「出家せる者」の怠慢で、大いなる「反省」が望まれる。
…といっても。それは無理であろうよ。通津浦浦に点在する各寺院を観れば…。

上記は『折伏精神』の牙を抜かれた『宗門』を指摘した文言である。
しかし。敢えて…曰うと。
その『熾烈なる折伏』を実践し、所払い・拷問・死刑に処せられた『法華講』の
実在をも、又。知らねばならない。 以下(時間が無いので)次稿

[464] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月14日 (月) 23時57分

富士宮ボーイにてマグマグ様からの戴きもの。
風景の末尾に置かせて戴きました。マグマグ様に感謝致します<(_ _)>

【雑感再掲】無題、改。 投稿者:マグマグ 投稿日:2012-05-04 08:07:24

死への恐怖と禁忌――生者の妄念は尽きない。
目に見えないものを祀り、死者なら、霊をなぐさめ、
生者なら、魂をしずめる。人は鎮魂にいそしむ。

愛別離苦――は、わけてもしずめにくい。
怖ろしく人の想念を支配し、
無常の闇にいざない、奈落へ突き落とす。

生死一如――遠い故郷の人々は、今の私の想いの産物。
生きているか、死んでいるか、本当のところは分からない。

死者と生者のどちらにも、
恋しさだけが想念でない。憎しみから想うこともある。
が、私には死者に会いに行く力がない。どこにいるかも分からない。

見えないものがあり、言葉に困り、それを「魂」と名づけ、
ここに「いる」と心をしずる。灯りをともし、香をたき、こうべを垂れる。
――声にすれば、それが鎮魂歌。

鎮魂は、生者のためだけのもの、かもしれない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


愚壮の生死は、現実の私に何の影響も与えない。

例えば、一昨年の10月27日、私にその日の記憶はない。
何をしていたか思い返しても、まったく思い出せない。

しかし、彼が綴った文章の数々は、
私に強烈な印象を与え、多くの難問を突きつけて来る。

現世での生死と無関係に、それらは、
惰弱な精神を責めたてて、生きる難しさを思い知らせる。

行間に、人々の日常の声の響き、
鋭く輝くまなざしが描き出され、次への欲望をかきたてる。

――魂の錬金術士。

愚壮の文章は、現実を如実に映し出し、
描かれた瞬間のことが、いつまでも過去のものとならない。

時を文字の羅列に封じ込め、
ページを開いた途端、眼前に蘇らせる。

魔術を、愚壮は使っている。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として
四味八教の材木を取り集め・
正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・
醍醐一実のくぎ(釘)を丁(ちょう)と・うつて
生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしら(帆柱)に
界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひて(追風)をえて・
以信得入の一切衆生を取りのせて・
釈迦如来はかぢ(楫)を取り・
多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば・
上行等の四菩薩は函蓋相応して・
きりきりとこ(漕)ぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、
是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ
            (椎地四郎殿御書、御書全集1448〜1449頁)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


蓮祖大聖は、大海のほとりに生まれた。
長じて、人足(にんそく)の大番匠。大船を建造し、
自ら船上の人、水手(かこ)の大棟梁として船出する。

帆柱に旗や帆をなびかせ、錨をあげて、綱手をとって返す。
見はるかす生死の大海へ向け、航路がとられた。
水手の力の見せどころ。沖に出るまで誰もが気を抜けない。

風にのり、潮にのり、航海はひたすら遠洋に続く。
嵐のときも、日照のときも、
交替で休みながら、水手たちは、いつも漕ぎつづける。

愚壮は、もとは道普請、下働きの小僧。
はるか海の向こうの世界にひかれ、大棟梁の一声で馳せ参じた。
その日から、絶海の炎天に塩をなめる、水手のひとり。

天空が未来なら、板一枚下の海は過去。
そして、彼には、この船上が現在。
今生人界は、仲間と苦楽を分かつ、この船の上だけ。

今、海の果てに、むなしい思いやあこがれはない。
もともと天涯孤独。実の親と仰ぐ大棟梁からさずかったお役目、
それを果たすのが、漕ぎ手の名手、彼の自信、満足なのだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり
               (総勘文抄、全集563頁)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


ここに愚壮の、むねのうちが記されている。
想念の結集、平がなで綴った彼自身の八万四千。
肉体は朽ちても、なお霧消しない魂の歌が綴られている。

装丁済みの、店頭販売でない。
ゆえに、私はこれを「愚壮文選」と呼ぶ。完結にもまだ早い。

綴ったものは、擦りきれたドンゴロス(麻袋)にしのばせ、
私には、選りすぐったものしか、読ませない。
――意地の悪い、ふところのちょっと狭い爺さんだ。

が、若い衆や孫の話しでは、たちまち、こわれた鬼瓦。
嵐をのり切った自慢話しを、百面相で語ってくれる。
彼を、水手たちがいつまでも慕いつづけるのも、人情だ。

今日もまた店開き。が、講釈師、見て来たような、ではない。
見て来たものを、彼は、そのままに語る。
愚壮の話しには、人の「真実の力」が光っている。

(2010年11月11日題。2012年5月3日改。マグマグ)

[465] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月15日 (火) 05時35分

昭和期に入って『創価学会』という(正確には「創価教育学会」)「日蓮仏法」の信徒団体が弾圧された。
国家を挙げて『神道絶対』を突き進む世相を構築する為に設けた『不敬罪』の根幹に抵触したのだ。

又。昭和期以前の「法華講」に対する厳しい『法難』に(これは昨日に)触れたのは、信徒には『法難』が実在した事実だ。
『日興上人』滅後、急速に落ちぶれていく「宗門」の重大なる過失・またはその要素に、『俗の王』に庇護を求めた事実がある。
この時代(群雄割拠)の『賢王』の栄枯盛衰は儚く、極端にいえば…「昨日の覇」王は今日の絶滅を呈している。
「宗門」のこの時代も、幸か不幸か(一例をあげれば)「北山・西山」くんだりで、『我田引水』にうつつを垂れている。

『宗祖・日蓮大聖人』の「国家観」を透徹された、『末法・御本仏』を知ろうともしない「宗門の実像」がここにある。
ゆえに『第59世:堀日亨上人猊下』がその『序』で 【 爾来五百年、斯業に精進するの名師出(い)でず…】と嘆いておる。

『日蓮大聖人』の仏法の根幹は「法華折伏・破権門理」である。
これは、世の中がどう変わろうとも『不変』の大原則でなければならない。但し『正史』を脚色してはならない。
(この部分に直結する議論⇒『謗法厳戒』実在の揺らぎは、別項〔§2〕に語るとして)

例えば…『熱原法難』と後世に意義付けた「大法難」が、実際には狭隘なる『一農村』で起ったが。
この事件が、『日蓮大聖人』をして『一閻浮堤総与の大御本尊・御図顕』の「出世本懐」とされた。
この根幹には、一般の農夫が「不惜身命・死身弘法」のため『贖命』した事実を愛でられた伏線があるのだ。

ところで…『熱原の三烈士・神四郎・弥五郎・弥六郎』が斬首されたのは一体 何月何日だろうか。  これは『御書』の中でも確定は無い。
然し、処刑執行日・あるいは判決を予想されるべき『御書』は現存するのである。それが⇒『聖人等御返事 1455p 』である。

★【 今月十五日(夕刻に投函した)御文 同じき(同月)十七日(夕刻に)到来す、
彼等(神四郎・弥五郎・弥六郎)御勘気を蒙る(斬首か?又は判決の瞬間か)の時・
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、 偏(ひとえ)に只事に非(あら)ず…】  十月十七日 戌時

本文から、当時の事件の推移(文意が明瞭であるので通解は不要)を見てみると…
※ 鎌倉の平左衛門尉頼綱邸で熱原の農民三人に斬首(あるいは斬首の判決)が決定された旨の報告が、
(熱原地区の)日興に届いた。これが十五日の昼前後であろう。

◎即刻斬首されたとすれば、その時刻は何時か
(遅くても十五日の早朝…早くても十四日の夕刻であるが。処刑の執行に早朝は馴染まない)

斬首の日付に関して『日興上人・身延離山史(日亨上人著)』では、全く違う時期を顕されている。
従って、上記◎は確定ではない。 為念。
(この『斬首の日』については富士日興上人詳伝(上)聖教文庫版 140P〜144Pを熟読されたく熱望する)

※以下は富士日興上人詳伝(上)聖教文庫版144Pの証文を抜粋して記述しておく。

下記の(一族誅殺)とは、『平左衛門尉頼綱一族の絶滅を言う』
本文 【 …(一族誅殺の時が)「十四年を経て」といわれしを、年歴をたどれば(逆算する事を指す)弘安三年に当り、
これが祈念曼荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、二十人の御勘気すなわち処分(裁判)の年月日は、
弘安2年10月15日が一同 ひとまず禁獄すなわち入牢で、神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、
弘安3年4月8日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。 】 『富士日興上人詳伝(下)聖教文庫 抜粋』

(この記述の本意は、『熱原の法難で殉教した中に、女人の存在があった』という虚偽を破す為にある事を了解されたい)
※『祈念曼荼羅』⇒ 徳治三戊申(つちのえ・さる)年(1308年)卯(四)月八日 日興上人御書写の御本尊の事(同 140P 8〜12行目参照) 

『祈念曼荼羅』の脇書 ↓  
【 駿河の国 富士下方熱原郷の住人 神四郎 法華衆と号し 平の左衛門尉の為に頸を切らるる三人の内なり 云云】

(前日の誤字への訂正 ⇒ 津々浦々が正解)

[466] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月15日 (火) 09時26分

※(一例をあげれば)「北山・西山」くんだりで…      参考の為に「宗門」の憐れむべき実態を書く。

江戸時代(1600年〜1867年・267年間)といえば、『徳川家康』(1542〜1616)
彼(家康)の『日蓮仏法』に対する姿勢は、どうであったか。興味深い事であるので記述しておく。 (1585年頃の古文)
宗派の存続を賭して※「重須(北山本門寺(身延派))」と「西山(西山本門寺・昭和32年日蓮正宗に帰一)」が「法論」をした。
その座に居たのが『邪教(念仏者)の高僧』2名を従えた『徳川家康』であった。

核論に欠き、「我田引水」に終始する法論に対して、業を煮やした『徳川家康』の言葉は辛辣である。【 】内は本文。
【…家康の云はく 御僧達は如何様(いかよう)義有って踞(うずくま)れ候やと御尋(おたずね)成(な)され候へども、
両住持(りょうじゅうじ・二人の僧侶)共に相互に辞退有って 兎角(兎の角の有無を追求する等、採るに足らぬ事柄ばかりで静聴価値)之無し、
又 家康の云はく 『世間と仏法とは 同か異か』と云へり (この質問は「日蓮仏法」の根幹中の根幹で『諸法実相』そのものである)
御傍に他宗の長老二人有って云はく『同(同じである)』と云云 】 (根幹を邪教の僧侶に先んじられる処が漫然・惰性の所以で、情けない)

そのような為体(ていたらく)の「日蓮宗の僧侶達」に、家康は釘を刺す。(後年 江戸幕府による過酷な迫害(折伏の牙を抜く事)の原点となろう)
【 (武田勝頼(1546〜1582)滅亡以来、煮え切らない「宗門」の姿勢を見て)さては(既に)二十年過ぎ候、
公時(政権に伴う総ての行事)は入るべからず候 】

何の事は無い、宗門はここで次期の為政者(江戸時代 初代将軍徳川家康・在位1603〜1605)に見限られたのである。
そこで、機先を制せられた『西山・日春』は、更なる「ヨタ」を垂れて『師匠・日蓮大聖人』に泥を塗る(情け無くて書くのも躊躇(ためら)う)

【 其時「西山日春」の云はく 釈迦の説教は二千五百余年に 罷(まか・終る事)り成り候 (諸法実相を釈迦仏法の説法と言い及んでいる) 
夫々(それぞれ)沙汰(さた・事情が有る事)至つて以(もっ)て 仏法と云ふ時は『異』なり(諸法は必ずしも実相では無い⇔とんでもない大ヨタ) 】


※此の「西山日春」の言う『世間と仏法とは異』という僻見には、驚きを通り越して「噴飯」である。
【 仏法は体のごとし 世間はかげのごとし 体曲がれば影なな(斜)めなり 】 『諸経と法華経と難易の事 992P』を拝読していないのだ。

これを聞いた『徳川家康』は、すかさず言い放つ。(以下 概意)
「聞くところに拠り日蓮仏法は一切衆生に功徳を与える為に立宗したと(私は)思っているが、
今。貴殿が言うところの「へこ難かしい宗教」であるとは、何と珍しい法門だ。 話は終わりとしよう。
それは、私(家康)は至つて無智で戒律など守らないので、貴殿の言う「釈迦仏法の事情(沙汰)」など、
まったく興味が無い。 その上「日蓮宗」は「今川義元」の庇護が多大であったと聞き及んでいる。
そんな過去の栄光を『徳川家康』に押し付ける事は、
私(家康)の確信で三百年間護持してきた当家伝来の家宝を否定する事で聞きたくない。」

以上が『関が原』の15年程以前の実話である。  この会話の中に『法華折伏・破権門理』の果敢な誓願など、一片も見えない。
【 富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕 24P    第二十二 久遠寺の古状の項 抜粋 】

[467] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月15日 (火) 20時00分

『第59世:堀日亨上人猊下』を中心に『風景』を書き進んできたが、ここで『第26世:日寛上人』の言及したい。
「寛師」をして一般に、皆。『中興の祖』と言う。

ここで「借問」を読者諸兄にするが…『中興の祖』の意味を端的に答えてほしい。
そう。 その通りである。   深く言えば 『中興』とは、それ以前が「正規ではなかった」事である。
何度も何度も言うが…。  『日蓮仏法』は『日興上人(開山上人)』で一旦 終ったのである。 (過言ではなかろう)

こう言うと、待て待て!『日目上人』はどうなるんだ。と「メクジラ」をたてると思う。
では聞く。  何故『日目上人』御遷化の元号が「宗門」と「学会」で異なるのかね? (年代は、1333年で 当然同じだが)
(この問題は、別の時点で語るとして… 話題を前に進める。)

ある人は『日寛上人』を、すこぶる悪く言い。ある人は『日寛上人』を持ち上げる。
このような事を平気でやるから…『宗門』全体が低く見られておる。  まったく話にならない。

ま。閑話休題(ソレハサテオキ)。 本題に入りたい。

第26世:日寛上人(1665-1726 61歳入寂):『日蓮大聖人』御入滅383年後に御出現され444年後に寂となる。
享年は61歳で『蓮祖大聖人』と全く同じである。
上記383年間に不相伝家の学匠(大石寺貫主:法主)が13名出現し、本尊雑乱と邪義を構えた。
第26世:日寛上人は前記の邪義が出尽くした後に出現された。
その後直ちに、それまでの『邪義』を全てに亘って破折された尽したので『第26世:日寛上人』のことを『中興の祖』というのである。
学ぶべき著書『六巻抄』とは
@三重秘伝抄 A文底秘沈抄 B依義判文抄 C末法相応抄 D当流行事抄 E当家三衣抄である。

この「六巻抄」では、完璧に正邪を捉えられておる。 圧巻は以下である。
「三重秘伝抄」から「末法相応抄」までの咀嚼は日蓮仏法教学の根幹である。 
その中で『創価学会版・依義判文抄講義』に対する池田先生の『序』と、同じく『創価学会版・六巻抄講義』の解説文を抜粋する。

ここで『池田先生』が御記述された 『日寛上人』著である『六巻抄』の序を拝する。(下記二段は再掲)
『序文』の持つ意義を学ぶと…  『序文』ほど、重要且つ、格調高い品格を持つ『文言』は無い。
『序・序文』⇒書物・詩文などの成立の事情や意図を述べる巻頭の文  (三省堂大辞林1162p)

『創価学会版・依義判文抄講義書   序文 』   著・池田大作創価学会第三代会長
【 日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、化儀の広宣流布の未来に流れ通わしめんがため
全魂をこめて著された破邪顕正の書である。   彼の天台、伝教が釈尊の正統を顕揚したのに幾千倍勝る大偉業であると共に、
未来永劫にわたる源遠長流の教学の大基盤であると信ずる。(中略)戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と申されていた。

事実、学会教学の不滅の伝統は、日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといっても過言ではない。(中略)
六巻抄は いわば仏法哲学の精髄である。これを無量に展開していくことこそ学会教学部の使命であり、責任であることを訴えたい。
(中略)   もはや、一宗門の六巻抄にあらずして、万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。  (後略) 】
                                      昭和四十四年三月十六日   創価学会会長    池田大作
※ 実は、上記の年代(昭和四十四年)に御注目願いたい。 この年代は生きているのだ。(参考:2012年5月15日 聖教新聞・沖縄の項)

『創価学会版・六巻抄講義』の解説文(全文)    著・創価学会教学部
この六巻抄の全文 および三重秘伝抄の註解は、「日蓮正宗第五十九世法主堀日亨上人猊下」が訳解され、
また註解を付されたものを、ここに再版させていただいたものである。     創価学会教学部
上記の解説文は『創価学会教学部』が、『第59世:堀日亨上人猊下』の御註解に対して、全面的に依処している証左である。

付録⇒『日蓮大聖人』と『日寛上人』の「符合点」  (これは、教学全般のどの分野にも入らないが… まあ。付録である)
中興の祖『第26世:日寛上人』の御生誕は1665年で、その御遷化は1726年  享年61歳である。
江戸時代(1600〜1867)の中間点は享保18年(1733年)で、「日寛上人」は、まさに江戸時代中期の法嗣であられた。
『享保(きょうほう)時代』とは、1716年6月22日から1736年4月28日までの20年間を指し、将軍は『第八代:徳川吉宗』であった。
常々「戸田先生」が叫ばれた事は『教学は日寛上人の時代に帰れ!』であった。これは「宗門」に於ける『本物の法嗣』が出現されたからである。
原点である「鎌倉時代」は130年間(1203〜1333)続いたが、その中間点は弘長5年(1268年)であり、最初の蒙古牒状が届いた時であった。
弘長5年(1268年)といえば、この3年後に『竜の口法難』が起る(出世本懐)時期であり、この時の鎌倉幕府の執権も亦『第八代:北条時宗』であった。

※ 気が付かれたかな? 『日蓮大聖人』と『日寛上人』の御在世時代の『王』は、ともに「第八代」という事を…。
以下 次稿。

[468] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月16日 (水) 00時07分

>本日は『5・3』  昭和26年の『5・3』から『61年目』じゃ。

>「61」といえば…『第59世:堀日亨上人猊下』が御生誕されて『61年後』に
>『池田先生』が出現された。
>『61』には その他にも深い意義があるようじゃが。

『61』愚壮さまが帰還の日を選ばれた意味が 
やっと判りかけて来たような・・・気が致します(遅)

[469] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月16日 (水) 04時58分

『日蓮仏法』の持つ意義(正統中の正統という事実)を、こうも(継ぐべき人間が)長年 放置していたか…気が腐る。
又。読まれる人も、長文の連続で、嫌になろう。   そこで、ここで…『新編・御書全集』に於ける『序』の現代語訳を記述する。
「長文」の連続で煩わせたが、一旦 打ち切って。2009年限定の「N市」初冬の『風景』をつづけていく。

『第59世:堀日亨上人猊下』 御書『序文』(現代語訳)  訳者・愚壮文責

日蓮大聖人の立宗宣言から、七百年を記念する報恩事業として 昨年(昭和26年)の6月に創価学会で御書全集刊行の壮挙が決定され、
其の編纂を 私に是非とも引き受けてくれとの事であった。

其れは当時の私が、日興上人門下の長老でもあり、宗史を学び尽した研究者であるからであると思うが、兎も角、年齢は86歳で、
出家して66年であり、仏道に入って以来、仏法の法理と正邪、及び古文の解読を学び続けている事を見て、
私を学者の様に思っているのであろう。

本当は素質が暗く愚かで、どうにもならない。やっと他人の真似事ぐらいでは、とても御書編纂のような難解な事が出来る才能など無い。と、
そのような理由を付けて丁寧にお断りし他の学僧に委ねるのが最良策であるのに無謀にも歓喜・快諾したのは、※吾ながら不覚であったが、
実は、この事(快諾した理由)には、御書編纂の事業を受けるべきの事情があった。                  
(その快諾した理由・事情を述べると…以下である)
御開山日興上人が、御書の五大部と十大部の御決定をされ、(興尊が決定されたのが75歳前後の最熟達期であろうならば1320年頃)
@本尊問答抄 A唱法華題目抄 B立正安国論 C開目抄 D観心本尊抄 
E法華取要抄 F撰時抄 G報恩抄 H四信五品抄 I下山御消息

又、その他の長編の御聖訓が家宝として厳伝されているが、それぞれの門下の縁故関係に限定された家伝や写本されて伝えられたもので、
必ずしも日蓮大聖人の全編の御正筆では無い。

日興上人が、御書の散逸や遺棄・漉返し(すきかえし)を強く御警告されてから、※約500年。  (概略 1333年〜1833年の500年間の事) 
御正筆の編纂に没頭する学僧が宗門の中で出現しなかったが、(筆者所感・500年間「御書」補完の正師が出現しなかった事に驚愕する) 

ようやく江戸時代後期(1840年前後)になって、千葉の細草談(檀)林(ほそくさ だんりん・日蓮派の学僧養成塾)の塾長で  
又 日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)の学頭でもあった   
『久遠院 日騰上人』という学僧が始めて、改めて新しく収集すべき御正筆の目録だけを作り、
散逸された御正筆・御書の編纂を試みたが、御書全編には至つていない。

その後、日蓮大聖人御書集・66巻を作製し、学僧学徒に督励して校正原稿の完成直近にまで漕ぎつけたが、
不孝にして印刷出版が出来なかったのみならず、
引き続いて継承して、校正や出版に臨む者さえも見つからず、この重要な原版が転々として、
関東大震災(1923年9月1日)で被災し、横浜で一切が灰燼に帰したのは、
護持すべき責任者の、日蓮大聖人の御聖訓に対する杜撰さや重要性の不認識さを、今更糾弾し、
強く咎めても追付かない、慙愧の事件(富士日興上人詳伝では『宗門の瑕瑾』とさえ断定されている)である。
(筆者所感⇒後年「日顕」如きの輩が跳梁する「宗門」自体の杜撰・漫然・惰性体質が見える)

妙道院『日霑上人』(第52世法主・細草談(檀)林 第89代塾長)は私の師匠である。 
その日霑上人が、先輩の「日騰」の御書目録に強度の修復・補完をして、
日蓮大聖人御正筆集44巻 同じく続編12巻を集成した。 

その後 この御書集は、久留米の霑妙寺(日亨上人得度の寺院 1887年7月 21歳)に蔵(おさ)めてあったが 
いつしか再び散逸し落丁しつつあったのを 復元と修補と充実を(師:日霑に)命ぜられ、
完成の御書として、今は私の雪山文庫(伊豆畑毛・雪山荘)に在るのである。

私は元来、諸事に暗く性格も愚昧なので、とても現代の寺院に篭(こも)った生活では満足できないので、
大正4年から 性に合わない僧侶の生活を願い下げして、
総本山大石寺の隅(現在の雪山坊)を拠点として、学究生活(東大史料編纂所・全国寺院踏査・古文書研究)に入っていた。   

そのような大正8年か9年の頃に、東京の法華講の『妙道居士:田井惣太郎氏』が発願し、  
時の学頭『慈鑑院:日柱上人(第58世法主)』を通して 再び御書編纂の企画があったのである。
日柱上人(後の第58世法主)は、其の御書編纂作業の責任者に、私を指名されたが、御書編纂という難事には肌が合わず固辞した。

この同じ頃に、東京の法華講『素啓居士:三谷六郎氏』が、大石寺塔中に住まいする『慈豊房:日明』と二人で来訪されて、
御書編纂作業の責任者を(再再度)丁寧に要請されたが、
情に絆(ほだ)されて、此(こ)の事を安易に承諾するという 向こう見ずの考え(蛮勇)は、起らなかった。

が、然し。自身が今まで研究して蒐集した全資料は、御書編纂の為に提供する事を「吝かでない」と承知したから、 
『慈豊房:日明』は夜の目も寝ずに研鑚に励まれた。         私も最大に持てる資料を提出していたが、  
法華講の『三谷六郎氏』は思いあきらめず(慈豊房の御書編纂作業とは別に)何度も丁寧な要請を私に続けられた。

『慈豊房:日明』がその後、赴任先の新潟県より東京に転勤し、昭和4年に『御書新集』発行の事を聞いて 私は当初、
大いに驚き 大いに喜んだ。 その訳は(昭和4年までの)数年の間、御書編纂の重要事の顛末・経緯を耳にしなかったのとあわせて、
(慈豊房:日明が)此の困難な事を成し遂げた事への歓喜であった。            早速取り寄せて見ると 
其の編纂され完成された御書の内容が、私が予め期待した事と、大いに隔っている事に驚き、愕然としたのである。


思えば、 私がいかに非力であったとしても、要請の当初から参画して居たら、こんな事にはならなかったと、
今更※悔やんでも悔やみ切れない思いで、後悔の何年かを忸怩(じくじ)と思い続けていたところに、
考えもしていなかった 創価学会会長『戸田城聖氏』の御書編纂への篤い信心の要請に遭遇するとは… 
※上記の御文章が、『御書』の編纂事業そのものが、如何に難事であるかを物語るのである。 

戸田城聖氏からの御書編纂の偉業を冒頭述べたように歓喜・快諾したのは
(このように、何度もの御書編纂の挫折を目撃した)遠因があったからであり…更に言い重ねれば、
日頃常々思っていたが、私が老体でこの偉業を開始すれば、必ずその補佐を買って出る義侠の学僧が存在する筈と思ったからである。

そんな時、幸便に上京し、ある会合の折に参加を懇請してみたが 
(掛け合ったどの僧も)何れも多忙の自寺院生活を言いながら、
暗に…この『創価学会版:新編 御書全集』の編纂事業に拘束されるのを厭い、
不孝にして一人の学僧僧侶も編纂助力の手を挙げず、(のみならず)
難事中の難事である編纂事業そのものが、若しも途中で憂慮すべき事態の発生の時、
それを支える宗門内の人材すら突嗟(とっさ)に見当たらず、
しかも、この時点で残された時間(昭和26年末まで)は、微かに6ヶ月で全国の学者に助力要請の日も無く、
御書編纂の望みは絶たれてしまった。

事ここに至つては只々、御本仏と諸天善神の冥益と助力を仰ぎ 極、少数の学僧所化に 御聖訓の転写を助けさせて、
その年の歳末に総てが完稿した事実には、全くの御本仏・御本尊の大功徳に依るものと、感極まって涙が止まらない。

殊に特筆は、創価学会の教学部の爽々たる青年達が、大挙して校正の任に就き、
世間日常の勤務を割愛して、幾日間も伊豆や静岡と東京を往復せられた事。
亦。御書付録に、略伝年表まで作成された事は、 望みもしない思いがけない素晴らしい事で、未来の教学の為にも幸運であった。

私の本音・本意は、
今回の御書編纂の内容に、漏れや粗いところがないか、御本仏の御意志や御理念に合うか否か、
恐れ多く懼(かしこ)まる心境であるが。             それでも敢て私は強く断言をする。 
それは(この御書全集の内容に万が一瑕瑾が有っても)老身の混乱を、その間違いの理由にして、
責任全体から逃げたりする事はない。 【日亨上人の究極の確信部分である】
昭和27年(1952年)4月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』が書き残す

[470] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月16日 (水) 06時07分

「K市」から「N市」への変遷は、尋常な設定ではない。とは、ワシの周りがワシに向かって言う科白であった。
その「尋常の無さ」は、「屋移り」の際に持参できた「書籍」の数の激減が、よく物語っておる。
殆んど一切を、止む無く処分したが。 肌身を離さず連れて行った書物も、又。あった。

そんな中。本冊子の存在は、実に不思議である。  先ず、入手の経緯に行き当たらない。つまり、記憶が無い。
覚えておる部分も、勿論ある。 それが下記である。
『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』は、青娥書房の刊行で 著者は『戸田先生』の実の甥「中村薫氏」と記憶する。

この「冊子」の『序』(巻頭)は、『池田大作創価学会第三代会長』とある。 …とする事は、かなり意義深いのか。と思った。
圧巻は、『戸田先生』御自身の七度の「改名」等であろう…。
決して、興味本位で拝読してはいけないのだ。と、直感しておるのだ。

[471] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月16日 (水) 11時03分

この『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』。 これは。非常に重厚な書籍である。
先ず。弟子『池田先生』の巻頭を紹介するが、その前に。 本書は『創価学会の出版物』ではない事を言っておく。
近しい親戚とは⇒『戸田城聖第二代創価学会会長』の実甥「中村薫氏」である。 又。総発行部数は非常に小数である。

☆  『戸田城聖先生のこと』 恩師 戸田城聖先生の十三回忌にあたり、御自宅に秘蔵されていた手記・書簡等を、近しい親戚の方々が、
記念出版しようとの企画から、この度、『若き日の日記・獄中記』として、刊行される運びになったことは、誠に喜びに堪えない。
戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が47,8歳、私が十九歳の時であった。

それは私の生涯における決定的な瞬間であった。
(中略)不肖の弟子である私が、今日まで辿りえたのも、常に恩師が見守って下さっていたからであると信じている。
いかなる逆境にも、毅然として揺るがぬ姿勢、天衣無縫ともいうべき豪放磊落さ、
それでいて、鋭い英知の輝きと、細やかな心づかいを忘れぬ美しい情け深さ、
その人柄を語るには、言葉が尽きず、ただ感慨が胸にこみあげてくるばかりである。(後略)    

ここに、実物の書籍の中の『日記部分』がある。 それが1919年3月18日 (戸田先生 19歳)の記述である。 下記↓
☆ 地の利にある。(中略) よろしく座を『阪神』とすべし。阪神の地これ商工の中心…
上記1919年とは、大正7年である。  この頃に、若き戸田先生は『関西・阪神』の重要性に言及されていたのである。
☆ 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は『大阪』か『神戸』ではあるまいか。これが同年の4月。

上記二本の「日記」は、92年という期間を置いて、非常に重たい意味の記述となる。 鋭い御人は既に正解を見つけておろう。

その他にも、肉迫すべき御記述に 何度も突き当る故。抜粋してみる事に吝かではない。

例えば、1920年(大正9年)4月24日の記述には、こうある。
☆ 戸田は万事を捨てた 東京で祈る。(夕張・真谷地を去り、帝都へ赴く日・戸田『生涯の師』邂逅の時 目前)
『戸田城聖』が生涯の師匠『『牧口常三郎創価学会初代会長』に邂逅する直前の記述が、上記である。…というよりも。
『厚田村』の両親に永訣の心情を吐露された。あの有名な『抒情の風景』の時期である。

いわば『在在諸仏土常与師倶生』を、目の当りにされる『戸田城聖の発迹顕本』の時である。
扨(さて)。 『日蓮大聖人』が一閻浮堤総与の大御本尊を顕されたのが聖寿五十八才であった。(弘安二年十月十二日 1279年)
第二代創価学会会長『戸田城聖』の生誕は明治三十三年。 その逝去は昭和三十三年である。 五十八才の人生であった。
上記☆印、戸田の『在在諸仏土常与師倶生』の発端の日付は1920年4月24日である。この日から五十八年後の1978年4月24日。
第三代『池田大作創価学会会長』が御勇退となる。  しこうして…『五十八年』の妙用符合を漫然偶然と看過されるや 之如何。

まだまだ、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』には、御紹介すべき部分があるぞ。

[473] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月17日 (木) 04時47分

『忘れ得ぬ風景』の原風景とは『厚田』である。

『戸田少年』が父の仕事の関係で『厚田』へ移ったのは、2歳頃か…
ともあれ、産まれたのが『大聖寺』という北陸であるのも、事実である。  

それよりも…『愚壮』が迫りたいのは、1919年当時の『厚田村』での実風景だ。

後世…弟子の魂が師匠に迫る『厚田村』の不滅の讃嘆詩がある。
『厚田村』とは…池田先生が『師匠:戸田城聖』を偲んで詠んだ珠玉の「名曲」であるが、
その第三節に以下の銘文がある。

【 少年動かず月明り  伝記と歴史の書をよみて  
紅顔可憐に涙あり  正義の心の鼓動樂 】  

この一節に、歴史と伝統と継承の根幹が息づいているのである。 
戸田少年の鼓動熱請の描写の中に『弟子:池田大作』の『心』があるのだ。

『歴史』とは『正史』でなくてはならない。      

[474] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月17日 (木) 05時01分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』の中で下記の記述があるので抜粋する。
(愚壮如きの、いい加減な記憶での概略は、この際。よくない。…と、原本を引っ張り出す)


※ 戸田城聖は、明治33年2月11日に生まれ、戸籍名は戸田甚一(じんいち)である。
三歳のとき、一家は石川県江沼郡大聖寺町(現在加賀市)から、北海道厚田郡厚田村に移り住んだ。
父は漁業を持つかたわら、回漕業もやっていた。厚田村は戸田が少年時代を過ごした故郷である。

…とある。(本文のママ)

[475] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月17日 (木) 05時22分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』は、ごく一般的に出版された書籍である。
当然、そこには (今で言う)『創価学会&宗門』との対立・抗争云云には無関係である。
そんな中での、記述を抜粋する。

(記述内容の所感は、愚壮自身の読後感である。)
…創価学会総会に毎回出席されていた『第65世法主 堀米日淳猊下』と
『戸田第二代会長』との関りは以外に深い。

例えば…時代をさかのぼる昭和十九年九月。
『戸田城聖』の獄中からの書簡には、以下の記述(若き日の手記・獄中記・146P)が残っている。  

【 (本文はカタカナ表記) 去年、堀米先生を謗(そし)った罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。
「法の師を謗りし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る」と(戸田自身が獄中で)言っておりますと。】

上記は、『宗門のトップ』と『在家信徒のトップ』との間にも『厳格な法理』を超える人間性が見えて、
妙に安心するのは筆者ばかりではなかろう。

扨(さて)。この文証の中で、非常に重大なる部分がある。
それが⇒戸田先生の文言の【法の師を謗りし罪】である。

池田先生の師匠『戸田城聖第二代創価学会会長』が、「
第65世法主 堀米日淳猊下」を『法の師』と断言されているのである。


『法の師』とは、最大限の尊崇・仰敬の詞(ことば)だ。
かって「戸田先生」は、寸鉄に於て「御僧侶と坊主」に言及された事があった。
「剃髪」し「法衣」さえ着ていれば、全部『僧侶』ではない。

而(しこう)して『戸田城聖第二代創価学会会長』は、
決して『味噌糞・十羽一絡げの暴論』等、されていないのだ。

又。『宗門』といえどもその組織構造は『十界互具』の範疇である。 
厳然と「善悪」が存在するのである。
これは「創価学会」の組織とて例外ではない。


その証左が「矢島・竜・竹下・原島・山友・福島・矢野・大橋・藤原・信平 等々」の存在である。   
皆、厳然たる学会員(鬼籍の人も現存する)だ。


『宗門⇔総て悪』という論法は、
「堀米日淳猊下」を指して『法の師』と言われた『戸田先生』を否定する事なのだ。

更に、『戸田先生の否定』は、その弟子である『池田名誉会長』の否定に直結する。  仏法の裾野の広大無辺を舐めてはいかん。

最も、忌み恐れる事は『御書』そのものをも、否定する事の直結する。
何故かならば…。『御書』とは 『第59世:堀日亨上人猊下』の御存在あっての『御書』であるからだ。


因みに余談だが…
『日蓮正宗(にちれんせいしゅう)』を、日蓮正宗⇔(にちれんしょうしゅう)と呼称するのは『堀米日淳猊下』の時代からである。

[476] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月18日 (金) 05時01分

@  土を破って地上に出でんとする種子の如し。 1917年(大正6年)8月17日 戸田先生・17歳
A  われ 地より湧き出でんとするか  1947年(昭和22年)8月14日 池田先生・19歳
上記 @は、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』からの抜粋である。
下記 Aは、『池田青年』が初めて参加した座談会で詠じた「即興詩歌」の締め括りである。

この『地より出る』 乃至は『涌き出でる』とは『日蓮仏法』の根幹中の根幹である。
これを、まったく『日蓮仏法』に縁していない当時の二人が言うのである。ここを『仏勅』だ。と愚壮はいうのだ。

【 其の上に 地涌千界の大菩薩・大地より出来せり 釈尊に第一の御弟子と をぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、(中略)
十六の大菩薩なんども 此(こ)の菩薩[地涌の菩薩の事]に対当すれば[猿の群れの中に帝釈天が居たり (中略)
高貴な人の中に 庶民が群れているようなもので、『地湧(涌)の菩薩』そのものの気位が違う ] 】 と、
(いささか愚壮のいう通解の品位が低いが…地湧(涌)の菩薩が如何(いかに)凄いか、を御記述だ。)ここまで『開目抄下 211P』

【 此(こ)の釈に 闘諍の時 と云云、 今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、
此(こ)の時 地涌千界出現して 本門の釈尊を脇士と為す一閻浮堤第一の本尊 此(こ)の国に立つ可(べ)し
月支震旦に未だ此(こ)の本尊 有(ましま)さず、(中略)

此(こ)の菩薩(地涌の菩薩)仏勅を蒙りて近く 大地の下(もと)に在り 
正像に未だ出現せず 末法にも又 出(い)で来り給わずば 代妄語の大士なり、(中略)

正像に無き 大地震・大彗星等出来(しゅったい)す、 (中略)
此等は 金翅鳥(こんじちょう)・修羅・竜神等の動変に非(あら)ず
偏(ひとえ)に四大菩薩を出現せしも可(べ)き先兆なるか、

天台云く  「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なるを知り 
花の盛(さかん)なるを見て池の深きことを知る」等云云、
妙楽云く  「智人は起を知り 蛇は自ら蛇を識(し)る」等云云、
天晴れぬれば 地 明らかなり 法華を識(し)る者は 世法を得可(べ)きか。 】
以上の十二行は 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』 254P の最も有名な御聖訓である。

その他 下記等の『御書』にも、詳しい意義・解説等が御記述されておるので、武装の一端とされたい。
『御義口伝上 751P』 『法華行者(値)逢難事 965P』 『右衛門太夫殿御返事 1102P』 『諸法実相抄 1360P』

尚。 己の生命に脈々たる『地湧(涌)の菩薩』の使命が存在する事を、キッパリと覚悟する振舞の御示唆がある。
それが⇒【 各各我が弟子たらん者は 深く此(こ)の由(よし)を存ぜよ…
設(たと・万が一にも)い 身命に及ぶとも 退転すること莫(なか)れ。 】  『法華行者(値)逢難事  965P』

[477] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月18日 (金) 05時11分

つまり『地湧(涌)の眷属』とは、命懸けの(御本仏との)契約なのだ。


では聞く。 何の為の契約か。

『法華経の敵人』を呵責する事である。
原点を思い起せば、『謗法を責める為の日蓮仏法』である。

決めて、それ以外の何者でもないのである。

[478] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月18日 (金) 09時16分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』からの抜粋は まだある。
が、しかし… 「N市」の事もそのままの放置となっておるので、
『若き日の戸田先生』の七度の御改名の事実で『手記・獄中記(仮称)』を閉める。

『若き日の戸田先生』の改名とは、
桜心、桜桃、晴通、雅晧(がこう)、博方、城外、城聖である。
御存知の通り 『城聖』が最後となった。

[481] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月18日 (金) 18時54分

この『忘れ得ぬ風景』の事であるが…
チクと言っておかねばいかんと、言わせて頂けば。
(読者諸兄の皆様は、すでにトックの昔に御存知であるが)この『風景』の総監督は『おにゆり殿』である。
そんな『風景』が、ノッピキナラヌ理由で中断した事実がある。
この時、訳の解らぬ「ボケ」共が、 あれ(『風景』中断)の理由が『料金不払い』とかどうとかと、言った。

こんな輩を、「ボケ」とは言わずに、「ホゲ」と称するのが本筋だそうなが、誠。「ホゲ」が多い事よ。
もう一度、「ホゲ(ボケ)共」に言っておく。 『風景』の中断は、それこそ深〜い意味があるのじゃ。

も少しすれば、本意が解る。 黙って観ておけ。…とは、これも「チク」と言い様が悪いのかね。

[482] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月18日 (金) 21時51分

『料金不払い』と言ったのは お一人様だけでした クスクス
周囲の方々は「謝った方が良いですよ」と諭されていたようです。
数行の訂正文を掲載されたようですが・・・
謝ってすむもんかい『ボケ!』と、私は今も思っております。

なぜなら数名の友人たちが「あのような記事を書かれて悔しいと」
私に、わざわざ書簡を送ってきて教えて下さったのですから・・・
大切な友人たちに無用の心配を、おかけしたことが申し訳なかった。
一度発信された情報は、訂正したから消えるってもんじゃないですしね^^

FBでチョイと吠えたら、友人たちがスッキリした〜〜と
喜んでましたがね。
どちらのブログ・掲示板にもHNを置かない創価家族の方々ですが
見るべきところは見て居ます。(厳しい人たちです)
「人気があるから良いサイトとは限らない」と、正眼の人々も居るのです。

たかがネット、されどネットでございます。
ちなみに私は現在、風景とFBしか開いておりません
それだけで ほぼネット界隈事情は、お腹一杯故に^^

まぁ『風景』は、どちらさんも黙って見ていてもらいませぅ♪
わずらわしいのは、御遠慮申し上げたい。

[483] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月19日 (土) 05時53分

「N市」での生活の実際の『約375日間』は何であったのか…。先ずこれを言おう。  

以前の町の在住期間や、ありとあらゆる「諸事情」がどのようなものであれ、受け入れ組織に温度差はない。 
『創価学会』の組織は津々浦々、いずこに在っても 変わる事などない。いや。『変わってはいけない』
特段。「受け入れ側」が、最も重点的に見ていたのが【新しく来た人が、最も馴染める組織の構築】であった。

事実。過去何人もの「同志」を、そのような【痒い所に、手が届く】配慮の下(もと)で、愚壮自身も行ってきた。
          ここに、一枚の『付箋』がある。  この『付箋』が『創価学会』の最大の武器であった。
「個人情報満載」の一枚の『付箋』を手に、新しく越されてきた「同志」宅に急行し、暖かく「激励」する。
『困っている事はないか』『要る物はないか』『最初に言っておく事はないか』と、実際上「身内」である。
当初に書いた。(その姿たるや…決めて「上から目線」でなく、遜(へりくだ)るでなく、慇懃でなく、放埓でない。)
とは、そのまま、そのとおりなのである。      これが私達の誇る 『創価家族』なのである。

古傷の痛みは完治したかのように疼かない。 新しい病巣も、薄幕を貼った如く、日々回復する。
やがて…閉ざされた「食欲」も徐々にではあるが戻ろうとしている。  

しかし… 積み重ねた『実績に対する自負心』や、『実績を認める周囲の作り笑い』に馴らされて来た自分は誤魔化せない。
『やあ!愚壮さん』とか『おう!愚壮さん』とかが消えてしまった中での『屹立・一人立ち』には、余分な労力が倍も要る。
それが、知らず知らずに「力み」となり 「余分な披瀝」に直結していくのである。

本来の『組織内の安堵感』が、『組織内での緊迫』に変わった。 つまり、逃げ場が無くなったのだ。
これが、目に見えずに、しかも確実に『愚壮』を包囲する時、『死魔』さえも顔を出す。  
『四面楚歌』とは実に巧みにその人を追い込んでくる。と思いだした時には 『御書』のゴの字も無い。  

いやはや… 体調も悪い。酒も不味い。  と、寒さがやけに堪える候となる。

[485] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月19日 (土) 09時59分

これは、本日の事となるが。
長女の『夫君』が御形木様を御受けする。(13:00 於・K会館)
これで文字通り、三人の子供達が事実上の『学会員』として独立する。

親としては、『御本尊』を持するの深理・真意を末永く探求して、正しい『日蓮門下』と成ってほしい。

[486] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 07時35分

私が「N市」に逃避するとき、捨てずに(捨てられずに、が正しいか…)持っていったものがある。
先ず。 『師匠』のみを想う心である。     「のみ」に語弊が在る。とは『全くの遺憾である』
それは…『師匠を想う心』があってはじめて。本物の「同志」を恋焦がれ、思い詰め、同苦し、共に舞うのである。

ここにいう『本物の同志』とは、訳の解らぬ「役職」に拘泥し、自らは胡坐をかくのみで「率先垂範」の欠片(かけら)もなく。
自分より一段階でも上の「役職」には 『金魚の糞』よろしく列を為す。  こんな中に『本物の人』は絶対に居ない。

ましてや…たとえば「某会館」で、地元幹部をゾロゾロ従えて『大広間』に御悠然と御登場の『輩』にも『本物』は居ない。

『本物の人(弟子)』とは、人知れぬ寒風に凍える「同志」を擁き。 間断無き宿命に慄く「同志」と共に泣く事である。
『副導師』の勤行のスピードが遅い。と「文句」をいったり。 巷の「ヤング」の流行の語調を早速取り込んだりする等々。
こんな中に、本物などあるものかい。『…それが、たとえ副会長や、関西トップ幹部であっても』と、見抜いている。

ところで。私が「N市」に逃避するとき『師匠を想う心』以外に、捨てられずに持っていったものとは…。(思いつくママ・順不同)

『御本尊』『新編・御書全集』『編年体御書』『若き指導者は勝った』『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』その他は…。
『パソコン内の資料』位である。
書いても意味はないが 趣味に関する 全ての物は放棄した。  つまり『徒手空拳』 完全にゼロであった。

それでも酔った時など 『こんなはずではない』と愚癡がでる。
「老妻(老妻に追いやったのは、当の俺だが)」が、私の『御書』への執着を⇒【鬼気迫る】と揶揄したのもこの頃だ。

『世界中が学会員になっても、俺はやらない』筈の私が、今こうして入会して四十年の月日が流れ。
少々忙し過ぎる人生の中に「N市」にある。 これは、面白すぎて「話にも、洒落にもならん」と、仕方なく『御書』を繙く。

『稀有の師匠・池田先生』の片言隻句を総て網羅した。「凄い弟子」に遭遇したのも『ネット世界』ではあったが。

『御書』の御記述の総ての『御聖訓』を、『池田先生の全部の振舞に、納得する手法で直結させる』⇒これを実施した。
この『Excel』の一枚のシートは、『御書』を繙く。と題して 2,490KBという膨大な資料になった。
(この 2,490KB の一枚に『御書』5,004箇所(現在進行形)の  「通解」「読解」「意義」等々が、愚壮手法で残されておる)

蛇足ながら…それ以外の「学会関係」の フォルダは、多くの項目別に保管してある。

『鬼気迫る』と称された日々は、『冬枯れの季節』となる。
山が真近の「N市」で、俺は骨を埋めるのか…と。 時は移っていく。

[487] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 08時16分

≫ この 2,490KB の一枚に『御書』5,004箇所(現在進行形)の  「通解」「読解」「意義」等々が残されておる。 】
上記の『全資料』は、これ又総て。『塩飽の后』に差し上げる。と、勝手に決めている。
閑話休題 。

「N市」での  いうところの『学会活動』は、誠 充実した・楽しくてワクワクする日々であった。
例えば…ちょうどうFMで「トイレの神様」がブレイクのズッと初期の頃であった。
愚壮ごとき「爺々ィ」が、女子部本部長あたりを捕まえて、『「トイレの神様」知ってるか』と聞いたりしたのもこの頃だ。
『学会の女子部が、心に沁みる「歌」は、しらねばならん』と言って、嫌われたのも この頃だ。

『N地区婦人部長』は、お若いのに随分と苦労多き人であった。(今は 支部婦人部長として 寧日なき日々である)
この『N地区婦人部長』には、特段の記憶がある。
(これは 書いてはいけない事かも知れんが、書かなければ真意が伝わらん…故に 書く。)
或る日。この人と私の間で『日顕』に関する話題となる。
この時、私は言う『日顕は、何故「宗門最高の法主」でありながら、「創価学会」を破門したのか、解るか』…

この愚問に彼女は即答した。(それが下記である… 彼女の一切ブレない達観・炯眼に感動したのである)
『私は、日顕そのものに怒りや哀れみを感じていません。一番憎むのは、日顕の心に取付いた【魔性】です』
簡単といえば簡単。当然といえば当然である。
しかし、彼女の言には「味噌糞・十羽一絡げの暴論」の片鱗さえもないのである。
つまり…『宗門と名の付くものは、総て「是れは悪」という※烙印が無い』のである。

このような『正論』の御方が「地区婦人部長」から「支部婦人部長」へとして闘っておられる。
それが「N市」であった。

[488] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 09時30分

ここに『AM本部長』が居る。
私よりも若干に御若い「氏」の風貌は『丈夫(ますらお)』であられる。

『氏』との短い懇談で、大阪市内の人と解ったのが、「N市」に越してきての直後であった。
『筋金も歴史も御持ちである』とは、私の『AM本部長』観・である。
約一年間の「N市」生活で、誤解を恐れずに言えば…『AM本部長』ほど私の胸中に突き刺さった人は居ない。
『その為に、絶対に御発信せねばならぬ』と、その後、私は『若き指導者は勝った』の全項目の通解文を御送りした。

【 弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事 】『日興遺誡置文  1618P』  
上記「難解なる誤謬」は、当時『そう遠くない時空に、『日蓮仏法』の根幹は崩壊する』と、悲しき的中を恐れての御記述です。
これを今「引用」した真意は、私が『AM本部長』と御逢いした刹那の直感であるゆえの記述です。
上記『日興遺誡置文』の「通解」は、こうです。
【 能書きではなく、実践を最優先にする人に対しては。 仮に「年数」や「役職」が下位であっても「草創の大先輩」と思え。】
※ ここでの「僧」には、多々の判読がある。 愚壮はここでは『和合僧』を用いた。(「出家」「沙門」「僧侶」「入道」「坊主」「聖僧」etc)

『人材の宝庫』の中から『真の人材』を確かに確認する事。これは…いずこの世界でも、どんな時代でも、最も重要な事です。
所以は何(いか)ん… それは「その同時代の民衆の苦楽に直結する」からだ。
この理論は『創価学会』の組織も、全く同じなのです。

僅かなる『誤謬』が、やがて手が付けられなくなるほど「増殖」する。
誰もが「気が付かなくなった」その時。 『王道』は崩壊します…。 それは恰(あたか)も、海に堕ちる瞬間の氷河です。
『忘れ得ぬ風景』は、弥(いよいよ)の本筋へと止む無く入っていく。

[489] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 10時06分

「N市」の県長が刷新され、前職の『O氏』が退かれた。  
この前職の『O氏』という人は、責任ある世界への御奉職では屈指の「王道」の人である。

御後任の人も、前職に劣らぬ優材である。と、たれもが口を揃えた。
が、皮肉にも、この「後任の県長」の行き届かぬ発言が、『愚壮個人』の「N市」での篤熱を瞬時に欠き消した。

ある夜の「N会館」(新会館落成は後年)での事である。
最後に立たれた「新任・県長」が、居並ぶ壮年の同志の皆様に向かって、下記と叫ばれた。
「さあ!壮年部の皆さん。ここで『婦人部の皆様、有難う』と声を合せて言いましょう」と言ったのである。
私は、一瞬。耳を疑った。 そして「こんな馬鹿な事が、有ってたまるものか」と感じたのである。

当時の大広間で、果たして何人が唱和し、何人が黙したのか…。それは知らない。
何故知らないのか。 バカバカしくて、知りたくも無いからである。
一体全体。この「県長」の提案の、どこに『創価学会』があるというのか。

そこで愚壮は、とんでもない言い掛かりを思うのである。(「N市」のトップ幹部への言い掛かりである。為念)
「味噌糞・十羽一絡げの暴論」とは、『池田先生が言われている事柄は、誰が言っても良い』事では断じてない。

[490] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 11時08分

一部の軋みはあった。 否。 確かな実感として軋みが有った…という方が当っておる。
最高幹部の一言とは、『なるほど 重いものだ』と、簡単に責任を他人に押し付けている『愚壮』も居る。

永住の地…とまでは決めずとも、「K市」に舞い戻る選択など 既に無い。…と決め込んだ『風景』が崩れてくる。

それは…弥生の候であった。(日付・曜日 共々、はっきりと記憶するが)
『聖教新聞』の体験欄に、予期せぬ人の顔写真と既に知る記事が載っている。
写真の主は、昔日の『忘れ得ぬ風景』で何度も御紹介申し上げた『M本部長(現在・副圏長)』であった。

燦々たる陽光輝くリビングで、私は記事を開げたママ 凍り付いていた。
『八年も以前の体験談が、今再び蘇っている… そも!故は如何!』
時間の経過に…全くの記憶がない…。と、動揺している。

しかし。 この「記事」にだけは 『黙認看過』する道理も勇気も皆無であった。
上昇する「血圧」をば者ともせずに、私は『O崎のM本部長』に電話をいれた。

「兄貴!」と『氏』は呼んで呉れている。 
私は 泣いて泣いて・泣き濡れていた。

『O崎のM本部長』は言う。 「愚壮さん。 あなたは K市を本当に捨てるのか」

返事に窮する私に、追い討ちが掛った。…「じゃあ…支部員さんは、どうなる」
この一言で『俺は卑怯者だ』との実感が皮膚を捲り挙げる様に襲ってきた。
『還る。 俺は絶対にK市に還る』    こう叫んだ時、何かが大音響で崩れていった。

「S地区部長さん」が居る
かれは、何くれと私の一年間を支えてくださった。
その人が言う。
『愚壮さん。 あなたは、この「N市」から、もうどこへも行かないと言ったではないですか』

「N市」で教わった数々の「同志愛」を、私は決して忘れる事はない。
「N市」から「K市」へ…  再び『愚壮』は(残された時間も無いが)王道を求めて歩み往く。

[491] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月20日 (日) 12時14分

職場の「Oさん」に引越しの事を話すと、彼は快く 仕事で使っている「台車」を貸してくだすった。
その日からの「土・日」 私は一人で多くもない家具の運搬を行なった。
行き先は「K市T町」 不思議な事であるが…この地は「昭和47年」に辿り着いた、辻向かいであった。

私が命を削って新築し、今は他人が住む『家』は、僅か三区画の近距離である…と、足も向けない。
「再環」の家は、襖も畳も何もかも…と、汚れが積年であった。
『女房共々の帰還は4月24日』 こう決めたのには、学会員なら誰でも知ってる意義の日の、単なる拝借であった。


『2010年(平成22年)4月24日』は大晴天であった。 あらかじめの「コツコツ運搬」が幸運で 午後の早い時間に作業は完了した。
そんな夕刻。「S地区部長御夫妻」が 作業に叶う服装で来られた。
非常に恐縮して「作業の完了」を申し述べたが、 胸を打つの「御好意」に、再び感涙したのであった。

「再環」は正否を問われる時点には、既にない。とは「捏ね回した」言い方である。
『還ってきたの? 還ってこなくてもイイのに』
『よくも還ってきたものだ』(どうも、これには二意(心)があるようだが…)
ともあれ   こんな中に、再び『愚壮』は身を置いた。とはいえ、 放浪の宿業は終った訳ではない。

[493] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月20日 (日) 12時32分

愚壮さま
長女様の独立。誠におめでとうございます。

今日は愚壮さまと『徒競争』の様ですね。
温かいものが胸を打ちます。感謝致します<(_ _)>

[496] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月21日 (月) 19時58分

≫ 投稿日:2012年05月10日 (木) 『T氏(三十数年超の刎頚の同志・支部長)』

本日の仕事先で、上記記述の『T支部長』と公園内木陰座談会実施。
早速「氏」は言う。 『忘れ得ぬ風景』を読んだ。
続けて「日頃のお前の持論は、未だ全部書いていない」と言った。

『持論』とは大袈裟であるが、ホボその言う理屈は間違いない。
解り易く言えば…。僅かな誤謬への指摘。つまり『瑕瑾』への肉迫である。

然し、この作業は 多きに弊害がある。
例えば 「ミイラ取りがミイラになる」⇒ひどい症状では、「誤伝」を「正史」と思い込む。とか…
「森に入って 木を見ず」⇒物事の主体・構成・大局観を注意深く識別出来ない。とか…。
「重箱の隅を突付く」とか…。なんせ、ろくな事はない。
それでも私は(致命傷になるぞ!との助言を聞きつつ)、この『瑕瑾』に迫って往きたい…と。 思うておる。

この『T氏』  昨日は「交流」で京都に赴いたとか…。
『創価学会』の最前線に、彼は身を置いている事には 間違い無い。

扨(さて)。全く話題は変わるが…。 今日(2012年5月21日)の聖教新聞『新・人間革命』の『牧口先生』の詳細。
これは必ず複写しておくように。              絶対の重文である故に…。

[497] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月22日 (火) 05時45分

とかく、『愚壮』の如く 物事を素直に考えない人間ほど、難儀な者はない。…と、『日蓮大聖人』が顕された御聖訓がある。
それが…弘安元年卯月(四月)二十三日に「四条金吾」に与えられたとされる『御書』である。(御真筆・京都)

【 此(こ)の法門の一行 いかなる本意なき事ありとも・み(見)ず き(聞)かず・い(言)わずして・むつばせ給え、 】 
御聖訓 『陰徳陽報御書 1178p 5〜6行目』に御記述である。
これは『原則』を聊(いささ)かも踏み越してはならんという事だ。 

御指導の大綱は⇒【 行動は常に謹みなさい 】という事であり。
その御本意は⇒【 和合僧の組織の、少々の過誤は、メクジラ立てて責めてはいけない 】という事である。
この『大綱と本意』を踏み外す事なく、『相手の法華経誹謗を徹底的に攻める振舞』を『陰徳』という…とは本筋だ。

【 我が主に 法華経を信じまいらせんと・をぼしめす 御心の ふかき故か 】『 四条金吾殿御返事 1180P 』とは
まさに「正真正銘」の「陰徳陽報」が発動する、その起点は 『深き 信心だ』という事である。

この二つの「一見なる矛盾」を、正確に咀嚼しなければ「イイとこ取り」のみとなる。
『盲信』『確信』という「紛然の隘路」を、どう見極めるのか… これが課題である。
そうでなければ、『誠の使命の立ち枯れ』となってしまうのである。

扨(さて)。又々話題は変わるが…。 今日(2012年5月22日)の聖教新聞『新・人間革命』の『牧口先生』の詳細も。
必ず複写しておくように。              絶対の重文である故に…。

[498] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月22日 (火) 10時15分

『祈祷抄』 約10,750文字に亘る重書  対告衆・最蓮房である。
又。その『御署名』は※本朝沙門日蓮撰とされている。 そこで…『御書』に見られる『蓮祖大聖人御署名』を学ぶ。

下記の『御署名』は、一般に多い 『日蓮花押』以外の御筆体である。  尚。重複に見えるのは「巻頭・文末」の御筆である。
日蓮阿闍梨  『当世念仏者無間地獄事 104』
本朝沙門日蓮撰  『如来滅後五五百歳始観心本尊抄 238』  『顕謗法抄 443』 『祈祷抄 1344』 
釈子日蓮述ぶ 『撰時抄 256』

日蓮之を撰す 『報恩抄 293』 『三世諸仏総勘文教相廃立 558』
扶桑沙門日蓮之を述ぶ 『法華取要抄 331』
日蓮撰 『一代聖教大意 405』 『立正観抄 527』

沙門日蓮撰 『十法界明因果抄 427』
本朝沙門日蓮之を註す 『教機時国抄 438』
沙門日蓮之を勘う 『顕仏未来記 505』

桑門日蓮之を記す 『顕仏未来記 509』
日蓮之を勘う 『当体義抄 510』
日蓮之を記す 『顕立正意抄 538』 『諸法実相抄 1358』 『十八円満抄 1362』

本因妙の教主・本門の大師・日蓮謹んで之を結要す 『百六箇抄 854』
本因妙の行者日蓮之を記す 『本因妙抄 870』
根本大師門人日蓮撰 『法華経題目抄 940』

沙門観恵上(かんえ たてまつ)る 『法華行者逢難事 967』
日蓮 『曾谷二郎入道殿御返事 1065』
身延山日蓮花押 『中興入道消息 1335』

日蓮記之 『生死一大事血脈抄 1336』
桑門日蓮花押 『生死一大事血脈抄 1338』
法華経の行者日蓮花押 『法華証明抄 1586』

続いて『祈祷抄』を学ぼう。

[499] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月23日 (水) 10時21分

≫ 続いて『祈祷抄』1344P を学ぼう。
何故突然『祈祷抄』か…。これは、近日の聖教新聞の紙面で『座談会御書:祈祷抄』を見たからで他意はない。
只 然し。本抄『祈祷抄』は、深いといえば、之ほど深き『御聖訓』は無く、超々・難解であるという事である。
先ず『対告衆』の最蓮房自体の生き様や、価値観や、求道心の根幹などを、
師匠の『日蓮大聖人』がどう捉えていたかである。
(最蓮房が師匠『日蓮大聖人』をどう捉えていたかではない)

その為にも、以下の暗示的な御記述を先ず注目して頂きたい。
それが『最蓮房御返事 1340P』の冒頭の【 夕ざり(薄暮〜夕闇の迫る時刻)は 相構え相構えて御入り候へ 】
『日蓮大聖人』を慕いに慕って、日夜連日の訪問を繰り返す『最蓮房』に対して、細部への御指導であった。

直弟子の多くが『流罪地・佐渡』への同道を許されなかった中での「僧形・最蓮房」の連日の(弟子への)懇請に、
「貴殿こそ在在諸仏土常与師倶生を身読の如くの人で、(私の弟子となられた事は)素晴らしい事だ」1342P 8〜10行目とされる。

そんな私(日蓮大聖人)の揺るがぬ『師弟不二』の証明として…と。最も重要極まる御聖訓を述べられるのである。↓
【 何となくとも 貴辺に去る二月の比(ころ・頃)より 大事の法門を教え奉(たてまつ)りぬ、
結句は卯月八日・夜半・寅の時(刻)に 妙法の本円戒を以て 受職灌頂(授戒)せしめ奉る者なり
此(こ)の受職を得るの人 争(いかで)か現在なりとも 妙覚の仏を成ぜざるらん 】  1342P  15〜16行目

誠に恐るべき御記述である。
『日蓮大聖人』は「最蓮房」に対して、『日蓮仏法の後継たる契約』の『授戒』⇒『受職灌頂』を実施されたのだ。
※此の「本門授戒」の実際は『日蓮大聖人門下』では「最蓮房」一人のみである。というから『恐るべき』…というのだ。
これは『富士日興上人詳伝(下)聖教文庫 194〜195Pに詳細されておられるので、是非とも拝読されたい。

その上で『祈祷抄』を「繙き」「拝読」していくのなら、概ね『正読』と申すものである。
「薮から棒」と『祈祷抄』の事に触れたのには、このような伏意があるのだ。

扨(さて)。 私が「N市」を去ったのは  2010年4月24日であった。
これを契機に『長女』は一人、離れて住んだ。(偶然 「S前総県長宅」から徒歩五分の近場であった)

『T氏 (三十数年超の刎頚の同志・支部長・前出)』は、そんな私に新品のプリンターを下さった。
この時の「パソコン」と「プリンター」が、再びの『愚壮』を生み出していく。

満を待していたかのように…というか。  「水を得た魚の如く」といおうか。 
この二人の往年の「男子部」は、一人の『壮年幹部』の元へ馳せ参じたのである。
これなん。 『S前総県長』その人であった。


追伸申候・本日(三日目)の『新・人間革命』も保存版であります。

[500] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月23日 (水) 16時52分

『T支部長』と『愚壮』が駆けつけた時。 『S前総県長』は「ウワオ!」と奇声を発した。  
「やっと来たか!」とも申された。
「愚壮ちゃん!な〜んも心配せんでえ〜で〜(通解・何も心配しなくて良いのだよ)」とも申された。
そして「俺は ひとつも 心配しとらんでェ〜」と、結論を言われたのである。

還暦をトックに過ぎた『ジジイ』が、辺り憚らず泣いても『絵』にならん…と、ワシは又。泣いた。

実は言う。この二人の往年の「男子部」は、手ぶらで『S前総県長』を訪問したのではない。
その「手ぶら」でない事の説明は『T支部長』が担当した。
『T支部長』が、案外の無表情(じつは、照れ屋)で『S前総県長』に言った。
『じつはふたりして、お願いに来た』と、これも不器用に切り出した。

『実は…』今回(愚壮の帰還も鑑みて)の事であるが『S前総県長』に是非とも御書講義をお願いしたい。
「H本部長」にその旨を言ったら、「本部単位ではなく支部単位でお願いしろ」との事であるので…。
私の支部の中で『池田先生の勝利の経典・御書を繙く』の講義をお願いしたい。

更に『T支部長』の説明と懇請は続いていく。
「…その支部単位の御書学習会の命名を『T水滸会』とする事に対して、『池田先生』から御押印も頂いた」と。
『S前総県長』の逃げ道を遮断した説明に…。断わる口実を失った、『S前総県長』は閉口した。

「そこで…『T水滸会』は、毎月の第一日曜日の10:30から『T支部長宅』とし、
式次第は @勤行 A合唱『瀧の詩』 B水滸会の意義 C御書講義 です。」とたたみ掛けた。    

これに対する『S前総県長』の御返答は、『了解! 全力で臨むよ』と、スラリと受けられている。

因みに 『水滸会の意義』は下記である。
◎ 『水滸会』の淵源   (2010年11月7日10:30  「T水滸会」開催)
我らに開けぬ道はない。我らに破れぬ壁はない。勝利できぬ戦いはない。
戦おうではないか!

勝って勝って、深く大きい歴史を子孫に残すのだ。 後世に残すのだ。
勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ。

わが大切な大切な、壮年の同志よ!
偉大なる道を歩みゆく、 わが不二の戦友よ!

私たちを、君たちを、諸天善神は、万歳を叫びながら見守り、
喝采しながら未来永劫に護ることを、忘れてはならない。

上記は 2010年10月17日の聖教紙上に掲載された師匠の叫びである。


この日から遡(さかのぼ)る事 58星霜。   
時、恰(あたか)も昭和27年12月。  『水滸会』は結成された。

構成は精鋭男子部幹部 総勢38名であったと歴史は語っている。
『水滸会』の大綱とは、徹底的なる「実学論」である。
日本民族論・革命思想論・戦争とは…・指導者とは… 等々と多岐に亘(わた)り。
又、その論調は総てが「外」に向って開かれていた。と、伝わっている。
「内」を向いた『観念論』が皆無であった…とは、一体何を示唆しているのか。

敗戦で総ての価値観が喪失され尽くした世相にあって、
民衆・就中「青年」達の挫折観は、筆舌を超越するものであったと推察される。

そんな閉塞観の真っ只中にあって…
創価学会第二代会長・戸田城聖 そのものの存在。
あるいは、結成された『水滸会』の存在が。
行き場を失った青年達の渇仰を満たす「道場」となった事は、想像に難くない。

が、然し。  現実は、そんなに甘くはなかった。
集い来る青年達の胸中に
「俺たちは稀有の師匠・戸田城聖第二代会長の膝下に我々は集っているんだ!」という自負心が、
やがて、増長と慢心を助長させる結果となる。
こうして『水滸会』は、結成僅か半年で解体するのである。

この時に至って、唯々オロオロするばかりの青年部幹部達をまとめきった青年が居た。
その青年こそ、若干25歳の「池田大作」その人であった。

一旦『水滸会』を崩壊させたのは、「師匠」か「弟子」か!
又。『水滸会』を切り崩した深意は 一体何なのか。

「第一次水滸会に巣食う功名心を、必然的に生じさせて一旦切り捨てる…」
この構図の中にこそ、「真の門下生」を見極める意図があったのである。

つまり。『新生:水滸会』は、当時の※末端役職である「池田班長」に依って
その姿を歴史の中に現すのである。
(※ 池田先生の男子部第一部隊長就任は、翌年 昭和28年1月 )

爰(ここ)に、『新生:水滸会』の会則を再掲し 往時の「獅子吼」を確認する。

@ 時間厳守 (一分一秒たりとも遅刻厳禁)
A 今日の仕事を全部やりきって参加
B 仕事も活動も ゆるがせ(緩枷)にしない
C 周到なる準備
D 発言内容に責任を持つ
E 全会合を通じて 絶対にメモは許さない

『新生:水滸会』とは…『人材帝王学』であり、師弟不二以外の何者でもないのである。
(以上 『若き指導者は勝った』より抜粋文)

[501] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月25日 (金) 05時58分

『T水滸会』の『T』とは当然支部名であり「地名」である。
ここへの参加者は、どのように募ったのか…この人選は、総て『T支部長』と『愚壮』が担当した。

この会合に『待っていた』と馳せ参じた奴等とは、どのような男達か…。
先ず。絶対に参加していない『類』の人間が居た。
@ 幹部に必要以上ゴマを擦る奴。
A 自分より役職が下位に人を呼び捨てにする奴。
B 青年部を呼び捨てにする奴。
C 『御書・御聖訓・正史』を根本的に学ぼうとしていない奴。
D 『師弟不二』を根底で否定している奴。

まだまだあるが、概ねこういう連中は「絶対に不参加」であった。
否。たまさか一回は参加しても、次には決めて参加していない。
『不思議なもんだ…』とは、後年の『T支部長』の述懐であった。

では…。参加の男はどうか。

例えば… とある日の夜の事である。
それは『K文化会館』では有名な、「降格人事」の事である。
この日。ある男子部員が「降格」の対象となった。
普通、「降格」される側の人間は会合には参加せず、
又。その「降格の発表」も隠密で公開しない…が。
この時は、まったく情勢が違って「公開の発表」となった。

その「禁断の発表」に、考えられない誤算が連動する。
…それが『当の本人(降格される当人)』の、当日の参加である。
『氏』はその瞬間。「大広間」で発表の「降格人事」に大声で『ハイ!』と叫んだ。
「大広間」が極度の驚きでざわめいた…とは、実話である。 この人(現在・地区部長)⇒水滸会参加。

『京都乃鬼』という人がいる。
この『日本刀』の如き「切れ味」の関連の知人に、『UD支部長』が居る。
彼は「愚壮」地域に近々の人で、『京都乃鬼』氏とも連絡が可能と聞く。
この『UD支部長』。 ⇒水滸会参加。

…こうした颯爽の参加者十七名を揃えて 『T水滸会』は船出した。

[503] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月26日 (土) 06時38分

≫この「水滸会」の参加者の人選は、総て『T支部長』と『愚壮』が担当し。
≫その上で、参加しない連中を、
≫@ 幹部に必要以上ゴマを擦る奴。
≫A 自分より役職が下位に人を呼び捨てにする奴。
≫B 青年部を呼び捨てにする奴。
≫C 『御書・御聖訓・正史』を根本的に学ぼうとしていない奴。
≫D 『師弟不二』を根底で否定している奴。

上記D種類と「大別」しているが、 これらは ⇒   『先ず、君達は不参加』とは断じているのではない。

『参加して学びたい』とした人間は、総て受け入れた事を言っておく。
…実は、此れこそ当然の事で、「アラカジメの 色分け」こそ『創価学会』に最も馴染まない事であるからだ。

それよりも、何よりも…水滸の誓い(その淵源)とは、
青梅・永川の水際(滸)での野外研修で、戸田城聖第二代創価学会会長が「広宣流布」の一切を、
池田大作創価学会第三代会長以下、全ての青年の後継者に託した源流の地。となす意義にある。

その後に出現するの歌詞に『父の滸(もと)集いし』とあるのも、全部一つの規範に添う中での事である。
(『紅の歌』が完成したのは、昭和56年(1981年)11月14日。(於・四国研修道場)

扨(さて)。 それからの『S前総県長』の講義は、全くの自由奔放であった。
ある時は、一度も「教材」を開かずに進行する。
また、ある時は… 『K大学生会発足』の家宝の正影を披露され、決然の『池田先生』の眼光の鋭さに、参加者が膝を正した。


とまれ。『T水滸会』は、その巨大なる使命の全貌を示したのである。
その存在を質すが如く、一層の難問が、彼我の行く末(て)を遮断する。

[504] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月26日 (土) 11時47分

そのような、2011年1月23日(日)『聖教新聞』に【御書の編纂は創価学会…云云】という恐るべき記事が出た。     
これは…。この記述は、『御書』編纂者(第59世:堀日亨上人猊下)への完全な冒涜。つまり確信犯である。
上記では、『日亨上人』を正面から否定せず、やんわりと『無視』している。 
然し『無視』も立派な『師敵対』なのだ。(御書全集の『序』を咀嚼せよと申したい ⇒ 現代語・通解は本欄にて掲載済)

更に引き続き『大白蓮華』2011年3月号44P下段に、『謗法厳誡』を緩(ゆる)めた記事が堂々と表記された。  
この本文は【 法華経以外の諸教をも、謗法と呼ばない】という代物であるから、驚きを通り越してしまう。
そして尚且。この文章が「反論出来得ない」部分に活字となったら。読者諸賢はどうするのか。 
その「反論出来得ない」部分とは。
『池田先生』の口述筆記とされる【勝利の経典『御書』に学ぶ】の中に紛れ込ませたのである。

ここに言う。『第59世:堀日亨上人猊下』への確信的冒涜も、『謗法厳戒』への計画的弛緩も、
『三代の歴代会長』の奔流たるの御講義の中で表記される道理など 皆無であると強く強靭に断言するものだ。

『神本仏迹論』の邪義を正面に掲げた「小笠原慈聞」が、我が ※初代『牧口先生』を獄死に追い込んだ。
その愛弟子である『戸田城聖』。又、その愛弟子である『池田大作』という御二人の巨人が、
仮染め(仮初)にも、『御書』の直接の御編纂者である『第59世:堀日亨上人猊下』の御否定や。
『日蓮仏法』の根幹中の根幹。精髄中の精髄の『謗法厳戒』を、御容認される道理など皆無である。

「聖教新聞」「大白蓮華」といえば…『創価学会』屈指の機関紙そのものである。
この中に、臆面も無く「誤謬・ヨタ」を、あろう事か『池田先生』の御口述に紛れ込ませて垂れ流す。
この『創価学会教学部』の顛倒の御託に、腐りきった『真相』を垣間見たのである。
この時点での『草創の創価の父母』の慟哭を何と聞く…。

…と。 『T水滸会』参加の「武士(もののふ)」達の涙は堰をきったのだ。
(  ※ 『牧口先生』に関する詳細記事が、初めて聖教新聞『新・人間革命』に登場するのは、
誠に不思議な巡り合わせか…2012年5月23日〜26日であった。)

[507] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月26日 (土) 20時02分

【 …漆千杯に蟹の足一つ 『曾谷殿御返事』 1056P 】                                    

【 謗法の供養をば銅焔(溶解した金属を飲む如し)とこそ おほせられたれ  (中略) 
…人の子として 我が親を殺したらんもの(者)の 我に物を得させんに 是を取るべきや、
…いかなる 智者 聖人も 無間地獄を 遁(まぬが)るべからず、 
又 それにも近づくべからず与同罪 恐るべし 恐るべし 】  『新池御書 1441P』

【 謗法を呵責せず遊戲雑談の化義 並に外書歌道を好む可(べ)からざる事 】『日興遺誡置文  1617P』 ←「日顕宗」

【 今 日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸・
険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従 等よりも 此(これ)に超過し 
以(もっ)て恐怖(くふ)すべきこと 百千億倍なれば 持戒・邪見の高僧等なり  富木殿御書 970P 】

【 とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし 謗ぜん者は「毒鼓の縁」となって仏になるべし  】 552p 

【若し 末法に於て 本迹一致と修行し 所化等に教ゆる者あらば 我が身も五逆罪を造らずして
無間に堕ち 其れに随従せん ともがら(輩)も 阿鼻に沈まん事 疑無き者なり、】 『本因妙抄』 876p     

【 又 立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け 勝劣を弁ず可(べ)きなり 】 『百六箇抄』 869p

【 仏法の正邪、信仰の真偽によって、賞罰の厳正なることも、鑑むべきである。しかるに、正史料を顧みずに、
みだりに臆説を加えて為にする筆を弄するもの、いまに絶えぬは、憂うべきことである。
(中略)筆者の怠慢無精のために、探求に手足を労せずして、
いたずらに既刊の書籍を気の向く辺(あたり)の孫引(検証なき記述)をして得々たるもの多きは、
残念至極のことである。遺憾千万(程度の謝罪)では読者を誤らせた罪悪の償いようはあるまい。        
以上『第59世:堀日亨上人猊下・御著文』 】(徒(いたずら)に謗法を攻めない風潮に対して…)

上記は極く一部の『謗法厳戒』への御聖訓である。
『謗法厳戒』を、蔑(ないがし)ろにして『日蓮仏法』の片鱗すらをも語れない。
これは、代々の大先輩の人々が御教えくださった「大教訓・大基本」
『創価学会』のイロハの「イ」。一丁目一番地である。

2011年1月23日(日)『聖教新聞』の【御書の編纂は創価学会…云云】は、     
どこから見ても「デッチアゲ」  幼稚園の子供さんでさえ知る『大ヨタ』である。

然し。 「何故、そのようなデマが書けるのか」という根幹は、今は不問とする。

[508] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月27日 (日) 07時00分

『T水滸会』の昇華が、曲折の世相を糺すのだ。
そのような気概で、来る月も変わる日も…と、優駿は集い来たった。

『S前総県長』は、在る時は思沈し、又。在る時は「割れ鐘」の如く叫んでいる。
『師匠』の説かれる「御講義」から、何を掴むのか…と、形相が噛み付いている。
正味・二時間に迫る「毎回」の『T水滸会』に、全身全霊で打ち込んでいたのである。

そんな中での『誤謬』の噴出にも、『S前総県長』は言う。
『そんなもん ほっとけ(放っておけ) 相手にするな(言わしておけ)』と一蹴するのである。
『配慮が足りない』とは、決して言わないところが。 明らかに皆と違っている。

そんな「春・三月」 未曾有の大惨事が『東日本』を襲った。
『嗚呼!』と悶絶する恐怖に、一歩も進めない。

愕然たる大惨状は、如何なる表現も『不謹慎』の極みへと押しやった。

『復興こそ総力有る可(べ)き』とは、決然の決意であった。



この大事件の数日前。関西の小さな街で、一つの会合があった。
「昭和55年」の第一回を記念した「当該会合」は。今回『M平和講堂』での挙行である。

当日の「愚壮夫妻」も、大盛況の会合の端に居た。
「名物部長御夫妻」も又。満席の『広間』には入れない…と、私達の近くであられた。

「式次第」は進んでゆく…。
やがて、「S男子部圏長」が、メーン体験に登壇した。
『一家和楽』の晴れ姿に、場内の拍手は 留まる事なく響いている。

私は爾の時。席を立った。 『講堂』を出て、正門へ向かう私に、声が掛った。
「愚壮さん。愚壮さんではないのか」 見れば、『県・教宣部長 Y副圏長』であられた。

誰にも言わずに「N市」へ去って。再び「舞い戻ってきた」愚壮を、氏は知らずに呼び止めた。

この人『県・教宣部長 Y副圏長』との再邂逅は、2012年の4月までが必要であった。
ともあれ・この人『県・教宣部長 Y副圏長』との邂逅に、真実の総てが説き明かされるのである。

[509] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月27日 (日) 07時07分

正 ⇒ 「S圏男子部長」
誤 ⇒ 「S男子部圏長」

[510] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月27日 (日) 07時55分

2011年8月12日(金)の聖教新聞方面版の左上の『8.14』
云く…『広宣流布の大拠点は大阪・関西だと「戸田先生」に教えたのは「池田先生」である』
この上記の記述は「Y関西婦人部長」の御高説である。   全くの出鱈目である。噴飯だ。
ここに、実物の戸田先生の『日記部分』がある。 それが1919年3月18日 (戸田先生 19歳)の記述である。 下記↓
☆ 地の利にある。(中略) よろしく座を『阪神』とすべし。阪神の地これ商工の中心…
上記1919年とは、大正7年である。  この頃に、若き戸田先生は『関西・阪神』の重要性に言及されていたのである。
☆ 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は『大阪』か『神戸』ではあるまいか。これが同年の4月。
(上記二編は  青娥書房発行・『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』より抜粋)

2011年9月号の大白蓮華『勝利の経典』の四恩抄講義の際の「僧の恩」の部分で突然講義の論点をすり替えた。熟読すれば直ぐに分かる。

最もひどいのが、2011年10月12日(水) 第17441号の『聖教新聞』の社説だ。 ↓
以下抜粋 【  (中略)そして、日興上人の精神を継承したはずの日興門流も 今では完全に「葬式仏教」と化している。(後略)】

平成23年12月9日掲載  ∴M氏口演(聖教新聞談話記事抜粋・大綱⇒三ヵ条分割)
【 学会には、日蓮大聖人直結たる本物の三代(牧口先生・戸田先生・池田先生)の師弟があります。これが決定的な違いです 】
上記二編は『日蓮大聖人』から『日興上人』への師弟の相承を真っ向から否定する、師敵対である。
(筆者・愚壮は、現宗門を擁護しているのではない)

尚。(下段 ∴印)M氏の談話の趣旨では『御書』の否定に直結する。
@ 『本因妙抄』 877p     【 又 此(こ)の血脈 並に本尊の大事は日蓮嫡嫡 座主伝法の書・塔中相承の…
禀承唯授一人(日蓮大聖人⇒日興上人)の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し、法華本門血脈相承 畢んぬ 】    

A 『百六箇抄』 869p 【 白蓮阿闍梨日興を以(もっ)て 惣(そう)貫首と為して 日蓮が正(しょう)義 
悉(ことごと)く以(もっ)て  毛頭程も之れを残さず 悉く 付属せしめ畢(おわ)んぬ】
(M氏が、日蓮大聖人の『悉(ことごと)く付属せしめ畢んぬ』を否定している事だ)

【そもそも、創価学会と宗門で何が決定的に違うのか(中略)まさに見た目は本物そっくりの偽者。(後略)】と述べている部分である。
つまり「日顕宗」を表面に攻めながら、本論(奥底)として『宗門総体』を「偽者」と言及しておる。
「馬鹿も休み休み言え」と云いたい。 一体全体 『創価学会』はどこから発生(派生)したのか。
「M氏」の論法では、【母体が偽者で、派生の一団体が本物】となり、それこそ『普遍性』を否定する覆相教である。
「母体」が偽者なら、派生の一団体も又、偽者なのである。(「味噌糞・十羽一絡げの暴論」を、いつまで続けるのか)

日顕、及び「日顕宗」が『創価学会』に対して行ったのは、
『日蓮大聖人』『日興上人』『三代の歴代会長』と続く本物の師弟を分断したのである。

平成24年4月8日 聖教新聞「新入会者への項」に『御書』を説明する欄が別掲されている。
ここでも、「編集子」は「誤謬」を垂れておる。
『御書編纂の偉人・第59世:堀日亨上人猊下』の御存在を抜いておる。 これは『確信犯の師敵対』で、最も性質(タチ)が悪い。
このような『ヨタ』を、あろう事か「新入会」に人々に対して放言する愚行。呆れるばかりである。

『三代の歴代会長』を「捨・閉・閣・抛」しつつある真犯人は、一体誰か。 実在するのか否か。
『風景』は完結するのか。 それとも「筆者・愚壮」が消えるのか。 佳境である。

[511] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月27日 (日) 08時56分

再確認の意味を込めて、ここに記述しておく。
先ず断言しておく。  『御書全集』の御編纂は『第59世:堀日亨上人猊下』である。 
又。御書全集発行願主は『戸田城聖第二代創価学会会長』即『創価学会』である。

『編年体御書』に於いても『底本(基盤)』即『御書全集』であるので編者はあくまでも『日亨上人』だ。
(『編年体御書』に対して創価学会が施した事は『御聖訓』の並べ替えと『原殿御返事』『美作房御返事』の追加)

『原殿御返事』『美作房御返事』は日興上人の御述作で後世の弟子必読の重書。(編纂は創価学会ではない)
それを簡単に『御書全集』の編纂が創価学会であると言う…
こうも『正史』『正義』を捻じ曲げ『辯駁』してもよいのかと危惧する。 
重複するが。 【 …漆千杯に蟹の足一つ 『曾谷殿御返事』 1056P 】 は御聖訓ではないのか。                                   

ここで『もう一つの伏意』を追記したい。 
@『編年体御書』の発行日は昭和48年(1973年)10月12日。 当時の創価学会会長は『池田先生』である。
A池田先生が『創価学会第三代会長』を勇退された(させられた)のが、昭和54年(1979年)4月24日。
B『日蓮正宗総本山:大石寺(宗門)』が「破和合僧」(創価学会破門)に及んだのが、平成2年(1990年)12月27日。
※『破門通告書』平成3年(1991年)11月28日

問う。
何故『編年体御書』の初版発行者の名前が『故:北条 浩氏』なのか。   
『池田先生』でなければならないのではないのか。

重書『編年体御書』に於いて 
由緒正しき書籍には絶対有るべき『序』及び『発刊の辞』が省略されおるのは何故か。

上記 @昭和48年(1973年) から A昭和54年(1979年) の間の ※6年間に一体何が起っていたのか。
(参考資料⇒『北条 浩 1923-1981』後の創価学会第四代会長・昭和56年(1981年)7月18日逝去 享年58歳)

『池田先生』を会長職から追い落とす画策の糸口が『編年体御書』の発行日あたりから見え隠れするのは、
まんざら筆者(愚壮)の僻目でもあるまい。

「創価学会内の似非弟子達」と「嫉妬の宗門」の利害が、
この時期(※六年間)に「一致の輪郭」を一層ハッキリとさせたのではないのか。

又。『池田会長勇退』当時の「創価の似非弟子」の残党が
今も『創価学会の組織』の中に息をひそめて、密かに棲息して居るのではないか。
それとも、『剣豪の修行』の如き峻厳なる『師弟不二』が、もはや忘れ去られ、
「会合屋」「数字のみの成果屋」の『創価学会』になってしまったのか。

更にはそれとも『日蓮大聖人』が、御書に御指摘の幾多の御聖訓の儘(まま)に、 
※三類の強敵は、『万年尽未来際』まで永遠に健在なのか。
三類の強敵⇒(俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢)

何かが 僅かに違っている… それは何か。

[513] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月28日 (月) 05時07分

それは…一気呵成と、ここまで書いた時であった。
(たれも信じまいが…)愚壮が夢枕に佇む翳がある。

『吉夢』か『凶夢』か…。
そは、我に被さり、我を凝視するなり。

『人間』の本質を突き破り…
且又『人間』の相克を恐ろしく見極め。
その『人間』の持つ、瞬間の心痛までも「得手勝手」と翫(もてあそ)ぶ。

汝。そも『魔』なりや。
「魔」ならば…「敵わぬまでも 受けて立つなり」

最早。『人の仏種までも凌駕したか』と、私は叫ぶ。
『人』の性善をも、汝は「食い物」にするのか。

『愚壮』は狂っていない。 闘っているのだ。
その「巨大」なる化け物は、もう既に、万人の襞に巣食っている。
『何かが 僅かに違いだし、狂いだしている』…「何かが…」

[514] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月28日 (月) 05時20分

それは、直後の『勇魂』であった。
「疲れすぎた」愚壮を、『M氏』は強く背後を支えている。

唯々。有り難く…万感の謝意を表す。  愚壮拝

[516] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月29日 (火) 05時11分

平成24年5月26日の午後。 隣接の『N支部長』が来宅になる。
用件は、明日(平成24年5月27日)の「壮年塾」での『御書講義』に、急遽『N支部長』が携わる事になった故だ。

前回までの長期間に亘って、「愚壮」の講義は止む事はなかった。
これには、周囲の雑音を振り切って、その当の「愚壮」に『御書講義』を頑なに依頼して来た
『N支部長』にこそ、根本の責務が、在ったと言えば…そうである。   ともあれの土曜日。
今回の講義冊子は既に仕上がっている…と、『N支部長』と「愚壮」での勉学となった。
教材は『種種御振舞御書(佐渡抄)』の池田先生の御講義である。少々の長編であるが
謹んで記述したものである (尚。冊子は前編・中編・後編とわかれておる)


池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ                       コピー 絶対厳禁
大白蓮華718号 2012年4月号
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・前編 御書全集 909P〜925P (約12,780文字)
本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)      聖寿55歳    於・身延  
対告衆⇒光日房     御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

先ず。本抄『種種御振舞御書』を学ぶ前に…。
大白蓮華  34P  (上段〜下段)      御述作年月日・対告衆の事  (この項・講義時の※音読禁止)
※@…門下・光日尼に与えられたともされましたが、正確にはわかっていません。(※@こういう事は書くべきでは無い)
『光日房御書』の931Pの11行目に【 けさん(見参・対面)に入りて くわしく申し候はばや 】との御記述がある。そこで
『光日房御書』(建治2年3月)の御述作の文面から―。『光日尼』は3月の時点で『大聖人に御逢いしていない』と断じ…
同じ建治2年の『種種御振舞御書』の925P 9行目の【 殊に今年は雪深く… 】の季節に大聖人を訪ねたのは「別人」とした。

つまり「教学部」が『種種御振舞御書の対告衆は光日尼』に疑いを持った事を、そのまま大白蓮華に書いたのである。
御託を垂れるなら「光日房と光日尼は別人か」という方が整合性がある。 然し、言っておく…両人は同一人物である。
兎も角――。『御書』御記述に対する「難くせ」は『第59世:堀日亨上人猊下』(御書の編纂者)への大侮辱である。
『新編・御書全集』の冒頭。戸田城聖第二代創価学会会長の「発刊の辞」・及び「序」を熟読せよ。
※@⇒『池田先生』の口述講義部分に紛れ込んで記述した「創価学会教学部」の誤謬記事に対する批判である。

大白蓮華  32P        『青年』
『青年』という文言を筆頭に『池田先生』の講義は始まっている。(全8箇所)
『青年』への訓育とは、「上から目線の命令調」で言い包(くる)める事ではない。
【 下劣の者為(な)りと雖(いえど)も 我より智 勝れたる者をば 仰いで『師匠』と す可(べ)き事。 】『日興遺誡置文 1618P』
『我より智 勝れたる者』とは、洋々たる「前途」を指す。 『青年』のもつ可能性・純粋性は、誰にも迫れない。という事である。

大白蓮華  33P            『戸田先生のもとでの人生』
「よし、戸田先生の※もと(滸)での人生であるならば、何でこの身を惜しもうか。(中略)凡愚の身であるが、尽させていただこう」
上記は、大いに割愛された文言である。
この当時(昭和22年〜昭和31年)の『師匠・戸田先生』に対する強烈な確信は、この程度の軽いものではない。
実際の『師弟不二』とはどのようなものか…  実録『若き指導者は勝った』の熱読を期すものだ。
※もと(滸)⇒後年の「水滸会」にも…又、更なる積年の『紅の歌』の第二節にも…『滸』たる文字が存する。 意義を学べ!

ただ然し。 一点だけ 当時を彷彿とさせる記述がある。それが下記である。
大白蓮華  34P            『上段』
彷彿の記述とは⇒   「私は、戸田先生と心を一つに、※A最前線に立って戦いました」である。
『※A最前線に立って』とは、一体何処であったのか。順は不同であるが記述しておく。

天王寺・東住吉・道頓堀・日本橋・上本町・天神橋・中崎町・阿倍野・なんば・堺・舞鶴・大淀区・築港・大東市・東大阪市(現在)
鴻池新田・花園・河内・西成区・北攝・北河内・中河内・和泉・豊中市・布施(現 東大阪)・庄内・伊丹・枚方市・京阪沿線・京都
高石市・梅田 etc…   これは枚挙に暇がない。 2008年12月30日〜2009年2月4日『実録・若き指導者は勝った』抜粋

大白蓮華  35P  (上段)          『賢王と愚王』
『立正安国論』での予言の的中は、「賢王」の時代であれば、最も権威ある場での詮議もあったであろうが…と。
当時の「鎌倉幕府」の「愚王」ぶりを嘆かれている。 『立正安国論』を請けての「為政者」の狼狽。これが骨子だ。

3行目⇒『政治を司る者たちは(諌言を)用いるどころか、かえって蔑(さげす)んだ』
【 或は使(使者)を悪口し 或はあざむ(欺)き 或はとりも入れず(検討し採用しない事) 或は返事もなし
或は返事をなせども上(上司)へも申さず これ ひとえに ただ事には あらず 】 909P 7〜8行目

4行目⇒『ますます日蓮を憎んで、処刑せよ、追放せよ、日蓮の門下も、さまざまに懲らしめよ』と謀議するありさまであった。
上記にあたる「本文」は 大白蓮華34〜35Pの欄外 〈注・3〉を参照されたし。
「釈尊」の予言通りの『愚王』の狂気の沙汰(実態)をみて、『日蓮大聖人』が叫ばれた言葉が
大白蓮華  34P (上段)太字 【 日蓮 悦こんで云く 本(もと)より存知の旨なり 】である 910P 3行目
…と。 その「為政者達」の有り様は「哀れ」でさえある。

大白蓮華  35P  (上段) 11〜19行目          『それはなぜか―― 〜 どれほど心強く拝したことでしょう』
『御書』の御聖訓では、この段で『日蓮仏法』の根幹が御記述されている。 910P 3〜12行目
それが『死身弘法』『適時而已』であり 『法華経の行者』出現の予言・『法華経の行者』に対する迫害。
そして理不尽の迫害『正法誹謗』に依る競い起る『七難』の一部である。
『七難』⇒人衆疾疫の難 他国侵逼の難 自界叛逆の難 星宿変怪の難 日月薄蝕の難 非時風雨の難 過時不雨の難

大白蓮華  35P  (下段)        『本 文』
【 各各我弟子となのらん(名乗る)人人は 〜※B仏の御使と・なのりながら・をく(臆)せんは※C無下の人人なりと申しふくめぬ 】

大白蓮華  35P  (上段)           『仏の御使と・なのりながら・をく(臆)せんは』 911P 2行目
この解説には、こうある。    ( 「一人も」との仰せから、日蓮大聖人の深き慈悲が伝わる…。)
※B  然し。自身を『仏の御使』と名乗る人が「臆病」であってはいけない。
何故か―。それが⇒※C【無下の(話にならない)人人なり】という事ではないのか。 
つまり 【各各 我 弟子と なのらん(名乗る)人人は一人も をく(臆)し をも(思)はる べからず】 
↑910P 12行目が主題である。

大白蓮華  37P  (上段)           『転捨にして 永捨に非(あら)ず』  731P
「不惜身命」とは「法華経弘通」の為に競(きそ)い起る「諸難」に対して寸毫(すんごう)も命を惜しまない事である。
そんな最も究極の状態であっても、「不惜」の深義を説かれます。 それが「転捨」と「永捨」だ。
ここでいう【転捨にして 永捨に非(あら)ず】『御義口伝上 731P』の御聖訓の真意は…。
「転捨」とは本門であり『転』とは「転重軽受」の「転」である。   「永捨」とは迹門 という意味である。

大白蓮華  37P  (下段)         『わずかの小島のぬしら(主等)』 911P 1行目
ここでいう「主」とは『為政者・権力者』の事である。 
『大聖人』を、虚構を構築した上で毀辱(きにく)した「輩(やから)」である。
この構図は、現代も全く同じである。(これは、「烙印」や「決め付け」に連動するもので、『同志間』では絶対悪である)

では「何者(輩)」が虚構を作り上げるのか―。  「総」は『天子魔』であり、「別」は『一人の人間』である。
『大聖人』御在世当時の個々にいえば【念仏者・持斎・真言師(良観房)等】 911P 4行目 とある。

又。彼等は【 訴状も叶わざれば※C上郎(臈)・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかま(構)へ申す 】と、手段を選ばない。
「※C上郎(臈)・尼ごぜんたち」とは「為政者・権力者」の女房の事である。
【 又 頸を切り 或は遠国につかはし 或は籠(ろう)に入れよと 尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり 】
上記は『報恩抄 322P』 15〜16行目 である。

大白蓮華  37P  (下段)        『本 文』
【 詮ずるところ、上件(かみ くだん)の事どもは― 〜 ※D太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう 】
【上件(かみ くだん)の事】とは、『虚構と真実』の開陳(披瀝)である。 もっといえば「真実」が勝つとは言えないという事。
この事は、現代社会でも生きている。 つまり『正義』が勝つとは断言できなく、『真実』が最善とは限らないのだ。

大白蓮華  39P  (下段)15〜16行目         『(良観らの画策・陰謀は)遂に最後まで表に出る事はなかった』 
まったく忸怩(じくじ・やりきれない)たる思いである。 何故『正義』が埋没し、虚構がバレずにまかり通るのか…。    

実は、この事こそ『仏法の深義』であり、『日蓮仏法』の白眉である。 (『池田先生』の御講義に先走るが)下記を拝する。↓
【 法華経の行者を怨む者は頭破作七分と とかれて候に・日蓮房を謗れども頭もわれぬは
 日蓮房は法華経の行者にあらざるか 】 (この御文証・御書多見の此(こ)の種(趣)の御記述こそ重要だ)
上記は『本抄』 924P 10〜18行目の『御金言』である。深く 尚々深く 真意を拝読すべきである。

【 ※D太政(だじょう)入道の くる(狂)ひし 】 911P 13行目 とは『平清盛』の故事である。
【 平氏の大将(中略)清盛と申せし人(中略)七寺の内の 東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいて ありしかば・
其の大重罪・入道(平清盛)の身にかかりて・かへるとし(年)養和元年潤二月四日 
身はすみ(炭)のごとく  面(かお)は火のごとく すみ(炭)がおこれるやうにて 
結句は 炎 身より出(い)でて あつじに(熱死・焼死)に死ににき 】
上記は『盂蘭盆御書 1429P』の御聖訓である。 恐るべしとは…正に『還着於本人』ではなかろうか。

大白蓮華  40P  (上段)1行目         『平左衛門尉は、異常なまでに逆上した』 
これが。【 太政入道のくるひしやうに 】の【やうに】である。

つまり『賢王』を旨とするべき『平左衛門尉頼綱』自身に取付いた『魔性』そのものの狂乱の様である。
国自体の安穏を図るべき立場の人間(賢王)が、自ら「破国」の暴挙に至る…。
これは「平左衛門尉頼綱」自身が、日本の背骨(柱橦(はしら))を踏み折る事をいう。
                            ↑(柱橦⇒『撰時抄 287P 12行目』)
それ(その事自体の構図)が『竜の口の法難』である。 ⇒  ※文永8年(1271年)9月12日

∴ 編者注記⇒鎌倉時代の中間点(1260年)は、奇しくも『日蓮大聖人・立正安国論上梓』の年である。
この中間点の9年後(1271年)。鎌倉幕府が『日蓮大聖人』を「頸の座(竜の口)」に据えた。
この瞬間に「鎌倉幕府」そのものの命運は尽き果てたといっても過言ではあるまい。

一人(平左衛門尉)の人間の「異常なまでの狂乱」が、日本を「総罰」に導くのである。
つまりは、この年から※674年後に起った『正史』にも関わってくるのである。(歴史を繙く可し)
※674年後↓
『撰時抄 265P 16〜17行目』『清澄寺大衆中 895P 9〜10行目』『富木尼御前御返事 975P 10行目〜976P 5行目』
『諸人御返事 1284P 2行目 【 仏記 宛(あたかも・恰も)符契の如し 】』

大白蓮華  40P  (上段)        『本 文』
【 去(いぬる)文永八年(太歳辛未 たいさい かのとひつじ )九月十二日 〜 石に珠を あきなえる(貿・商)がごとし 】
『鎌倉幕府』が自ら墓穴を掘っていった最右翼の不祥事が、実は「竜の口」への構図であった。
それが…『貞永式目』を「鎌倉幕府」自ら違反・破壊した事件が、件(くだん)の『竜の口の法難』であるからだ。
その事を⇒大白蓮華 40P (下段) 3行目で 「法(貞永式目)を超えた異常さ」というのだ。

現に、「松葉ヶ谷」の草庵で起った実態は、(委細は敢えて書かぬが)おおよそ「人間業」ではない程の蹂躙が行われている。
『日蓮大聖人』の御頭(こうべ)を、「法華経第五巻」で打擲する史実があるが、実際はそれだけではない。
(ここでは書かぬ(書けぬ)が、実史は『その人の 人間性への冒涜』である つまり『その尊厳の拒否』である)
正に…『日本国家』として「国」をあげての『末法御本仏・日蓮大聖人』と「弟子檀那」への迫害であったのである。

この「異常なまでの執拗さ」「うむを言わさぬ弾圧」「過酷な迫害」は、その後の『熱原法難』へと直結しゆく。
『日蓮仏法』への「為政者」の圧迫はその後。千葉・金沢・尾張と続き、『牧口先生・戸田先生・池田先生』へと到達する。

『正史』を学ぶ。とは「事実(史実)」を埋没させ割愛し、隠蔽する事では断じて無い。
これを「己心の善質」に対して真摯に自問自答せずに、何が「研鑚」か。と問いたい。

事実。『戸田城聖第二代創価学会会長』を過酷に取り調べた「検察官」が、実名で「懺悔の手記」を顕している。(富士宗学要集)
『正法』に対する「弾圧・迫害」は、絶対不可避(避けられない)の「大骨子・大原則」である時に…。
自身の「安寧」のみを頑(かたく)なに言い張っては、誉れ尊き『創価の師弟』ではあるまい。

それが ⇒ 大白蓮華  41P (下段)    『同苦』
『友のため、同志のため、民衆のために、『生涯・骨身(生命そのもの)』を惜しまず尽し抜く――
ここに『創価の師弟』の「不二の道」があることを、忘れないでいただきたい』である。
これは― まごう事なき『師匠・池田先生』の言葉(御指導・獅子吼・同苦の心)なのだ。

大白蓮華  41〜42P  太字        『本 文(大高声・だいこうじょう)』
【 日蓮・大高声を放ちて申す 〜 只今 日本国の柱を たを(倒)す 〜 兵者(つわもの)どものいろこそ・へんじて見えしか 】
【 あらおもしろや 平左衛門尉が・もの(事象)にくるう(狂態)を見よ 】 これが誠の『大高声・獅子吼』である。
この段で「戸田先生」は、『声の響き』と言及されている。 この『声の響き(大高声)』とは何か―。という事である。

【 『大高声・だいこうじょう』 我等衆生の朝夕吐く所の言語なり、(中略)廿八品とは小高声・題目は大高声なり 】
↑『御義口伝上 740P』
【 …音声(おんじょう)かへって形を あらはして文字と成って衆生を利益するなり、  】『木絵二像開眼之事 469P』

大白蓮華  42〜43P 引用の『報恩抄』          『平左衛門尉 日本国の柱を倒す』 
ここに引用された『柱』とは、『末法万年尽未来際に亘る・末法の御本仏・日蓮大聖人』の御事である。
『日本国の柱』は『日蓮大聖人』以外に求めては論外である…と拝する事を『御書の身読』というのである。

大白蓮華  43P (上段)          『日本・世界の広宣流布に立ち上がったのは創価学会だけ』 
これは…誠に残念ながら『真実』である。
何故「残念」か。  その解答が、『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述に歴然と明示されている。
それが『新編・御書全集』の『序』の全文である。 
これこそ総ての「学会員」が咀嚼し身読せねばならない「重大文献」である。

大白蓮華  43P  太字        『本 文』
【 一丈の堀 〜 つま(絶句)り ふし(伏)し事どもは しげければ かかず 】
【 つま(絶句)り ふし(伏)し事 】とある事で『日蓮大聖人』の御振舞・御相貌に圧倒されている実景が見えるのだ。
『御書』に…  『日蓮大聖人』が流浪される先々で、
武士や民衆が「数珠」を切って「法華経」に帰依する場面が、多々御記述されている。
筆者はここでも…「なるほど… むべなるかな(当然の事で無理はない)」と痛感するものである。

大白蓮華  44P (上段)          『良観は人々から「生仏」と崇められていた(中略)実は…』 
「極楽寺良観は生仏」とは『妙法比丘尼御返事 1416P』の引用であるが、これで「良観」の実態の総てではいない。
実は『極楽寺良観』の正体とは 放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)なのである。これは近代「宗門」にそっくりだ。
上記『放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)』の事は 『下山御消息 350P』に詳しい。 
又。「宗門」とは「日顕」である事に、誰も異論はあるまい。   (尚。極楽寺良観の実態は 多くの御書で御記述されている)

大白蓮華  45P (下段)         「いよいよ人間革命の真髄を!」
今回(勝利の経典『御書』に学ぶ)の締め括りは『真の人間革命』である。
『真の人間革命』を端的に言い顕せば…『正史の伝承』である。
そして、その『正史』の舞台は…。『池田青年室長』そのものの振舞である。

極言すれば…これ(『池田青年室長』の闘い・振舞)を知らずに『正史』などは語れない。
なぜかならば…そこにのみ真正の『師弟不二』が脈打っているからである。
怖れずに言えば『種種御振舞御書』を学ぶ根幹とは、
近代の師弟の『種種の御振舞』を伝承するが為の『御書』なのだ。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・前編 完
2012-03-25 編
※『本抄・種種御振舞御書(佐渡抄)』の講義文については、
内容が一部過激である為「コピー絶対厳禁」とする。  編者為念  (文責・愚壮)

[518] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月29日 (火) 10時05分

愚壮さま
ページ仕様も『右クリック禁止』に致しました。
とりあえずアップ完了(帰宅したら学ばせて戴きます)では・・

[519] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月29日 (火) 10時45分

池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ                       コピー 絶対厳禁
大白蓮華749号  2012年5月号  50P〜63P
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・中編 本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)      聖寿55歳    於・身延  
対告衆⇒光日房     御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

先ず。「前編」で締め括った、『種種御振舞御書』を学ぶ意義を記述しておく。
☆『種種御振舞御書』を学ぶ根幹とは、創価三代の歴代会長の師弟の『種種の御振舞』を伝承する為。
今回の『種種御振舞御書』の講義は、前編・中編・後編に分割してあり、本編は「中編」である。

『種種御振舞御書(佐渡抄)』とは、一体『何の為』の御書か。その全貌を再度確認する。
文永5年の「蒙古の牒状到来」から建治2年(『報恩抄』御述作の年)までの9年間の『日蓮大聖人』の御振舞。
此(こ)の『日蓮大聖人』47歳〜55歳までの9年間の背景の確認は、『創価学会』に連なる我等の必須である。

大白蓮華 50P 冒頭           それは『創価学会の発迹顕本』から始まった。
昭和26年(1951年)5月3日 『戸田城聖第二代創価学会会長』が誕生した。
この日(木曜日)は「大快晴」であった。
実録『若き指導者は勝った』に、この『戸田城聖第二代創価学会会長誕生』の意義があるので転記する。
【 大将軍(戸田城聖)を先頭に進撃が始まったものの、兵站(学会の運営)を考える者は誰もいない。
その(実質的な運営の実務の)ため、(池田青年は)最末端の役職(男子部班長)にとどまる。
苦境の戸田城聖を支え、復活への血路を開き、矢島周平の野望を砕き、
(矢島周平:創価学会理事長職を戸田先生から盗んだ男)
(戸田城聖を)第二代会長に就かせたのは、池田青年に ほかならない。 】

大白蓮華(50P)には『創価学会の発迹顕本』とだけの記述であるが、もう一つの、重大な事実が抜けている。
それが⇒『創価学会⇔宗教法人の認可』…つまり、『創価学会』は「宗門」から分離したスタンスを実行したのである。

この『創価学会独自の宗教法人認可』が「宗門側」をして疑心暗鬼を生んだのか。『学会独自』の※B法理の確立のためか。
はたまた『既にその頃、堕落し尽していた宗門』との決別の伏線となったのか…は、ここでは書かない。  
が、しかし。 大白蓮華 51P 5行目 『牧口先生の御期待に応える事…』とある深意は、読者に伝えねばなるまい。

それが…完全に逸脱した法理(神本仏迹論)でさえも、平然と学会員に押し付ける「宗門・出家」の体質からの防御であった。
『牧口先生の御期待』とは、「宗門」から『学会員』を護る事(深意)であったのである。
※『創価学会⇔宗教法人の認可』 ⇒ 昭和27年8月27日     ※B法理の確立(非常に深いので辯駁無用)

偽文書を駆使した『竜の口の法難』と八幡への叱責
【 さては十二日の夜・※武蔵守殿の預かりにて夜半に及び 頸を切らんがために鎌倉を いでし 】 912P 16〜17行目
※武蔵守殿(北条宣時・八代連署)の預かり とは「身柄拘束許可状の事だが、後続の御記述から∴「偽文書」である事が明白だ。 

大白蓮華 53P (上段)  【 八幡大菩薩に最後に申すべき事あり(中略)いかに八幡大菩薩は まこと(真実)の神か(中略)
日本国の一切衆生の法華経を謗じて 無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、
又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか 】 912P〜913P 4行目
大白蓮華 53P (下段)14〜16行目 又。この時の叱責は、【全宇宙に向かっての大叱責であった】とは戸田先生の講義である。
ともかく、この大叱責の獅子吼に『八幡大菩薩』が縮みあがった。否。『八幡が八幡自身の誓願』に覚醒したのだ。


【 八幡大菩薩をば世間の智者・愚者・大体は阿弥陀仏の化身(中略)其れ実には釈迦仏にて おはしまし候ぞ 】 1195P 6〜9行目
【 八幡大菩薩の御誓いは(中略)日本国にしては 正直の頂に・やどらん(常住)と誓い給ふ 】 1196P 14〜15行目
【 法華経の行者を見ては(中略)八幡大菩薩は 此(ここ)にわたらせ給うなり 】 1197P 15〜16行目
上記の3編の御聖訓は『四条金吾許御文』からの、それぞれの抜粋である。

『日蓮大聖人』が「八幡大菩薩」を叱責したのは、仏前(二仏並座)での「八幡自身」の誓状を忘れ果てた事への「叱責」であった。
上記もまた、本抄『種種御振舞御書』の913P 1〜10行目に詳しく御記述である故、深く咀嚼せよ。

【 ゆい(由比)のはま(浜)に・うちいでて 御りやう(御霊)のまへ(前)に・いた(至)りて 又(再度⇒先刻は、対「八幡」)云く
しばし・とのばら・(警護の武士達に『しばし(少しの間、待ちなさい)』と言った事)これに つ(告)ぐべく人 あり…
…とて(伝持の人⇒法華経の命を継ぐ人) 】…と童子(熊王丸)を走らせた。913P 11〜12行目
この『告ぐべき人⇒伝持の人⇒法華経の命を継ぐ人 1169P 』というのが『中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)』である。

『馬の轡(くつわ)にとりすがり…』
ここで『日蓮大聖人』は「中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)」に対して、凄絶・究極の一言を述べられる。大白蓮華 52P 本文
それが 【 この数年が間・願いつる事 これ(斬首)なり 】である。   913P 13行目 更に究極は続いていく。
【 今度 頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん 其のあまり(余・残余という意ではない・本意は『広大無辺』)は
弟子檀那等に はぶく(配り当てる事)べしと申せしは これなり 】 913P 15〜16行目 である。

大白蓮華 54P (上段)本文 
しかし、周囲の雰囲気は【…さわがしかば…】913P 18行目  いよいよ「斬首」の瞬間が迫っている事を告げる。
その事を察知した『中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)』が、【 只今なり!(嗚呼!斬首は今である!)】と絶叫す。

それに対して、『日蓮大聖人』は下記の如く「四条金吾」を諭すのである。(『発迹顕本』の凄さがここに在る)
【 不覚の四条金吾である! 今『日蓮』が斬首される此の大歓喜を、貴殿も笑って歓喜せよ。(そうなければいけないのに)
何故、貴方は私(日蓮大聖人)との約束を違えて、そう泣き悲しむのか。 (通解) 】 913〜4P 18〜1行目

☆ これ以降の御記述(914P 1〜7行目)は『竜の口』の実景である。個々の読者が拝読して深く感ずべき「史実」である。
『不惜身命』や『贖命』という言葉の重さを、この御記述の行間から拝読するべきではないだろうか。

『竜の口』は仏勅
『竜の口』の頸の座(※文永8年(1271年)9月12日)が無かったら…。
『竜の口』の頸の座が無かったら『日蓮大聖人の宗史』は後世で、どうなったか…。
この仮定には「誤解・反論・叱責」等々・非難轟々であろう。(そういう意味では記述を憚(はばか)るが)

それでも書く…。ここに聖教新聞の連載で『若き指導者は勝った』と題された「正史書」がある。 
この第三回「日本正学館」に括目すべき記事がある。    
その日は「竜の口」から678年後の昭和24年10月25日である…。
【 もし日本正学館の経営が順調で、師弟(戸田先生と池田先生)が幸福な編集者生活を送ったとしたら――。
結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である。 】 2009年1月7日(水)版

筆者が「誤解」を恐れず『竜の口』が無かったら…と記述した真意は…『仏意・仏勅』という事を書きたかったのだ。


想定外の『依智』      (現在の神奈川県厚木市)  
「竜の口」の刑場で『日蓮大聖人』の斬首を果たせなかった「幕府」は、直後、依智に『大聖人』の身柄を護送する。
【 此(こ)れは道知る者なし・さきうち(先打・先遣)すべしと申せども 
うつ人(先行して諸事の用意・段取りをする役目の人)もなかりし(中略)その道にて候へと…】914P 8〜9行目
上記は「依智(本間六郎左衛門領地)」に向う事が、全くの「想定外」の事で、警護の武士達が経路すら知らなかった事を示す。

つまり、この『日蓮大聖人』に対する『竜の口斬首』自体が「平左衛門尉頼綱」の個人的指示であった事の証拠である。
『竜の口』で『日蓮大聖人』を完全に抹殺してしまう事(事態の完結)。これが「平左衛門尉頼綱」の元々の狙いであった。

その、「想定外の依智」で、一体。何が起ったのか…。  (少々の予想外の展開にも、オタオタするなという事だ)
『末法御本仏』たる御相貌    大白蓮華 56P (上段)『念仏を捨てる兵士たち』(太字)
『日蓮大聖人』が到着した「依智」では、驚くべき事が起っている。 

…それが「警護の武士達」「依智地元の武士達」の変貌である。
【 かうべ(頭)を うなたれ 手を あさ(叉)えて申すやう(やう⇒には) 
このほどは・いかなる人にてや・をはすらん 】 (この『日蓮』という御僧は、 どのような高貴な御僧侶であられるのか!)
【(中略)  にく(憎)みまいらせて候いつるに 】(世相の中の噂話を鵜呑みにして憎んできたが ) 
【まのあたり (御相貌を)をが(拝)みまいらせ候いつる事どもを見て候へば   たうとさに 】
(直接こうして、その御姿・御振舞・御声等を拝するに、その尊い御姿に…)と絶句しているのだ。
【 ・としごろ申しつる念仏は すて候いぬとて・ひうちぶくろ(火打袋)より すず(珠数)とりいだして・すつる者あり、
今は念仏申さじと・せいじゃう(誓状)をたつる者もあり、 】 914P 11〜15行目

上記・この御記述に、何の説明も不要であろう。

『鎌倉幕府』の二心
『種種御振舞御書』のこの段(依智での逗留期間)では、再度、驚くべき事実が述べられている。 
 『竜の口』での斬首計画が、「鎌倉幕府」あげての「弾圧」ではなく あくまでも平左衛門尉頼綱の私怨であった事である。

この「平左衛門尉頼綱」が偽書を捏造してまで『大聖人』を殺そうとした背景には、「極楽寺良観」や「念仏者」の、
莫大な「賄賂」と強力なる「讒言」があった証拠とも言えよう。 (この構図に関しては、既に冒頭で述べている)

ともあれ事態は「斬首の日」当日のうちに、大きく動いていた。  …それが、下記の御記述である。
∴⇒【 此(こ)の人(日蓮大聖人を示す)は とが(失・落度)なき人なり(中略)あやまちしては後悔あるべし 】 915P 3行目
※驚くべき事実とは、上記の「鎌倉幕府第八代執権・北条時宗」の正規書簡である。

『讒言(ざんげん)・マッチポンプ』   大白蓮華  56P (下段) ※御書本文
本来ならば、時の執権のこの書簡で事態は一気に解決するのが常識といえば、そのとおりである。
…が、実際はそうではない。

『日蓮大聖人』が「依智」に逗留されている間(約一ヶ月)に、
鎌倉では「讒言者・聖職者」等による悪意極まりない事件が多発する。
※【 依智にして二十余日・其の間 鎌倉に或は火をつくる事・
  …七八度・或は人をころ(殺)す事ひまなし 】 915〜916P 18〜1行目

大白蓮華  57P (上段)太字⇒  『悪僧たちの謀略(讒言)で、流罪が決定』
(上記から6行目の本文) 実はその間、大聖人を無罪放免にさせまいとする悪僧たちの謀略の嵐が、
鎌倉の門下を巻き込んで吹き荒れていたのです。(抜粋)

実際に行われた暴挙とは⇒「讒言者」が放火・殺人を犯して、『日蓮大聖人』の弟子等の仕業にデッチ上げる事である。
司法の最高司令官「平左衛門尉頼綱」にとって、この讒言者による蛮行こそ『日蓮門下弾圧続行』の最高の口実であった。
【 火をつく(点け)る等は 持斎念仏者が計事(はかりごと)なり ※余はしげければ かかず 】 916P 3行目
【 ※余はしげければ かかず 】とは、類似の「デッチ上げ(マッチポンプ)」事件が他にも多く起った事への示唆であろう。


『流罪地・佐渡』
【 同(文永8年・1271年)十月十日に依智を立って 同十月二十八日に佐渡の国へ著(つき)ぬ 】 916P 4行目
『佐渡流罪』は防げなかったのか。   
逆に又。 『佐渡流罪』は「釈尊」の全予言の正しさを証明する為の『必然』であったのか。

【 仏滅後二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず 
数数見擯出の明文(の身読は)但 日蓮一人なり  】 916P 10〜11行目
『日蓮大聖人』の真意は『末法御本仏』としての「誓願」の成就以外に無い。(この頃『開目抄』の起草)

「助命」への懇願等は芥子粒も無いのである。  
強いて在るとすれば『一切衆生』の根源の無明を除く事のみである。
その所以(意義)は…流罪・死罪の類は あくまでも「国法」の範疇であり、透徹された『仏法』の敵ではない。

【 行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競(きそ)い起る 】 916P 14行目 とは、その集約の御文証である。
究極の法理である「法華経」に対して、諸宗(爾前を含む)の高僧(聖職者)が結託する構図。これが『魔』の実態である。

【 善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば
魔王 親のおもひをなして その人間(邪僧)につきて 其の人をもてなし供養す
(その訳は)世間の人に (爾前の高僧等を)実(まこと)の僧と思はせんが為なり 】 917P 2〜4行目

上記にいう『魔王』とは「第六天の魔王」の事である。 ⇒ 本抄 916P 16行目


『塚原三昧堂』
酷寒・熾烈の頂点にあった『塚原三昧堂』を、徹底的に描写し、その深々(じんじん)の意義を解剖する事…
そこで闘い切った『日蓮大聖人』を語り尽くす事で…今回の『種種御振舞御書(佐渡抄)』中編の講義は終っている。       

   大白蓮華 58P(上段)7行目「依智を出発された…」 〜  大白蓮華 62P(下段)12行目迄。

又。その主旨に呼応して、依処とすべき『御書・本文』も、「二編」に亘って講義されている。
@  法華経に説かれている『法華経の行者』への肝心の大原則である「諸法実相乃至本末究竟等」
   大白蓮華  58P (下段)御書本文  
〈日蓮大聖人の確信の骨子〉 : 妙法の五字を弘通する故の諸難(責め)は、
恐らく「聖賢」とされた偉人・先達でさえ「経文通り」に実践していないから、
『難』そのもの…例えば『数数見擯出⇒数(しばし)ば処を追われる』等をも、体験していないであろう。
つまり「釈尊が予言して顕した経文」を一文一句違わず、
経文通り行じたのは、私(日蓮大聖人)一人なのである。
ゆえに『阿耨多羅三藐三菩提』の境地(絶対に成仏する境涯)は疑いない。
そういう意味では、現在の私の周りの『強敵・敵人』達は、
実は『釈尊の経文の正しさを如実に証明する為の』最も重要な「味方」なのである。
「経文の正しさ」とは、端的に言えば『諸法実相乃至本末究竟等』の事であり、それ以外の何者でもない。

A  誠の『発迹顕本』には、徹底的に敵対した『強敵』の存在こそ、第一である事の喝破。  
   大白蓮華  61P ((上段))御書本文  
〈日蓮大聖人の確信の骨子〉 : 濁悪の世にあって、最も中心的に闘う立場の『人』に、
最強の『第六天の魔王』が挑んでくる。例えば『釈尊に対する、堤婆達多のように…』である。
世が「濁悪」であればあるほど、『真の法華経の行者』に対する敵対は強烈であるが…
『敵対』が強いほど、(実は)正しい「史観」では『仏記を強く証明するもの』である。     
例えば…。
今の『鎌倉(源氏・北条)幕府』の存在は
『和田義盛一族』との闘いや『承久の乱」の闘いを勝ち越えての事(現在の繁栄)だ。
そう見るならば…
※@『和田義盛一族』や※A『隠岐の法皇』の存在こそ「鎌倉幕府」にとっての「大味方」である。
※@ 1213年『北条氏』との闘いで滅亡した『和田義盛一族』 
※A1221年『鎌倉幕府』との闘い(承久の乱・朝廷政治の敗北)

私(日蓮大聖人)が誠の『法華経の行者』として振舞えるか否かのポイントは、ただ一つ…。
「東条景信」や「良観房・道隆」「平左衛門尉頼綱」や「北条時宗」等の存在が不可欠である。
※@A参照御書  『兄弟抄 1084P』『高橋入道殿御返事 1461P〜1462P』

『三障四魔(煩悩障・業障・報障  煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔)』   〈注15〉 60P
と  『三類の強敵(俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢)』  〈注16〉 61P

大白蓮華  60P (下段) 5行目〜19行目まで。
『三障四魔』のうち、最も熾烈な「天子魔」〜創価の三代の師弟です。

この御記述の中で最も重要な『三類の強敵』に関する「戸田先生」の発言が以下である。   
∴ 三類の強敵は必ず現れて来るが、…と言われた後 こう続けられた。〈大白蓮華 60P (下段) 13〜16行目〉
「私は喜んでおっても、あなた方が腰を抜かして、退転したのではだめなのです」と語られた。


『発迹顕本』
『発迹顕本』とは、漆黒の混沌(カオス)から『黎明』への脱皮の瞬間である。
大白蓮華  62P (下段) 後から5行目   
『生き詰まりを感じた時にこそ、それら(難・行き詰まり)を悠々と乗り越えよ!』 それが私達の『発迹顕本』である。
その数え切れない実証(一人一人の『発迹顕本』)の上に、  はじめて『創価学会の発迹顕本』が成り立つ。

大白蓮華  63P (上段) 12行目〜最後まで。 
※この部分は、講義参加者全員が、大白蓮華を拝読をして研鑚される事を強く言いたい。

是(ここ)で、数多の御聖訓から『何の為』の真髄たる御記述を拝する。
【 日蓮は法華経のゆへに 度度 所を おは(追)れ 
戦(いくさ)をし 身に手(手傷・深手の事)を お(負)ひ 弟子達を殺され
両度まで遠流(伊豆と佐渡) 既に頸(竜の口)に及べリ。是れ偏(ひとえ)に法華経の御為なり 】 
…とされた後、以下の御金言を顕されている。  以下は通解で顕らわす。

【 通解⇒私(釈尊)の説いた法華経(経典)の中に、 
私(釈尊自身)の滅後の二千二百余年頃に出生・出現し、 
この経典(法華経・南無妙法蓮華経)を閻浮堤(全世界)に流布しようと試み実践する者に対して、
周囲の者の人の身に「天魔」が乗り移って、『この経』の弘通を妨害・阻止するであろう。その「阻止」の手段は、
「悪言・讒言し、罵詈(めり)・毀辱(きにく)し、何度も所を追い、殺戮する」事を行なうだろう。  】
『 妙法比丘尼御返事 1415P 8〜11行目 』

漆黒の闇の中に『暁』を見出す時…『発迹顕本』は既に始まっている。
その「闇・混沌(カオス)」を突き抜ける瞬間とは、正に『太陽が地平線を割って出る瞬間・黎明』である。
『三代の歴代会長』の獄中の闘争こそ、『発迹顕本』から『黎明』への瞬間である。

グングンと中天を指して上昇を続ける「太陽」の存在とは、
『赫々たる青年(弟子)』を指し、『黙然たる王者(師匠)』を言う。
恩師『池田先生』が、かって言われた『午前八時の青年の太陽(かれ)は…』とは、この事(個々の発迹顕本)である。
『個々の発迹顕本』とは、弟子一人一人の勝利を言う。(ここでいう「勝利」とは『蔵の財』ではない)
『種種御振舞御書』が『師弟不二』の重書と結論される所以は、実にここにあるのだ。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・中編 完    (文責・愚壮)
2012-04-28 再編

[524] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月29日 (火) 21時13分

池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ                       コピー 絶対厳禁
大白蓮華 2012年6月号 (本項に関しては、大白蓮華との照合実行せず・筆者)
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・後編 御書全集 909P〜925P (約12,780文字)
本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)      聖寿55歳    於・身延  
対告衆⇒光日房     御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

『塚原三昧堂』
【 かくて・すごす程に 庭には雪つもりて・人も かよ(通)はず 】 917P 10行目
「塚原三昧堂」に『日蓮』は 【 只 一人 】917P 15行目 と。『大聖人暗殺』の企てが「念仏者」の間で表面化する。

その計画を未然に察知し、『日蓮大聖人』を影で護ったのが「本間六郎左衛門尉」であった。
※「影で護った」というより、『日蓮大聖人・流罪』に際しての「添状(副状)」を、忠実に遵守したとの表現が正しい。
【 上(かみ・幕府)より 殺しまう(申)すまじき副状下りて あな(蔑)ずるべき 流人にはあらず 】 917P 18行目
上記の発言は「本間六郎左衛門尉」である… 彼(六郎左衛門尉)は続けて、こう言った。
【 只 法門(法論)にて 攻めよかし(論争すべきだ) 】 918P 1行目

これに呼応した人々の数は【 数百人 】918P 4行目 と御記述である。
上記から、本抄は「塚原問答」(文永9年(1272年)1月16日)の実景に移っていく。

※一般には「塚原問答」の日は1月16日とされておるが、実際は2日間に亘って行われている。
【 今年正月(むつき)一月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等 数百人… 】 『佐渡御書 959P 11行目』
1月17日の「公場法論対決」の要旨(内容と趣旨)を詳しく述べられたのが 『法華浄土問答抄 117〜120P』

『塚原問答』
「本間六郎左衛門尉」や家臣たちが見守るなか、続々と「僧侶」や「地元の百姓達」が庭や山野に参集した。
【 佐渡の国のみならず 越後・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等 】 918P 3行目   とある。

「塚原三昧堂」に集った多くの僧侶たちに混じって、聴衆の中に「阿仏房」の姿もあったであろう。
そのような中で迎えた定刻…『日蓮大聖人』は「法論」の座の臨まれた。その瞬間の御記述が以下である。
【 念仏者は口口に悪口をなし 真言師は面面に色を失ひ 天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、
在家の者どもは 聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、】 918P 5〜7行目

『獅子吼』
聴衆を騒ぐだけ騒がせた後、『日蓮大聖人』は「獅子吼」される。
【 各各 しずまらせ給え・法門の御為にこそ 御渡りあるらめ 悪口等 よしなし 】 918P 6〜7行目
【 御渡りあるらめ 】とは⇒「この場に来た意図の事」を指し   
【 よしなし 】とは⇒「埒が開かない・良い訳が無い事」である。

それを合図に「本間六郎左衛門尉」が
「日蓮御房の言うとおり皆 静かにせよ」と叫びつつ扇動の法師を名指しで叱責した。
※騒ぐ聴衆も 扇動の法師も『正義の獅子吼・言動』の前では、只の「烏合の衆」なのである。

観点を替えれば、『獅子吼(勇気の正論)』があって始めて「諸天善神(ここでは六郎左衛門尉の発言)」が動くのだ。
更に言えば「諸天善神」は『難を打ち破る真の勇気(獅子吼)』を確認してからでないと、決して動かない。
『難』自体に怯むな、という本意は是(ここ)に在るのである。 正に「竹膜を隔つ」のである。『観心本尊抄  249P』

※『御本尊』を日夜朝暮に信受する私達は、如何なる事にも「泰然自若」と甘受せよ。とはこの事である。
※ついでに言っておくが… 『難』が起らないように日々祈念する者が「信者」で、『難』を呼び起こすのが「行者」だ。

扨(さて)。『塚原三昧堂』での「法論」である。
【 利剣をもて(以って)・うり(瓜)を き(切)り 大風の草を なびかすが如し 】 918P 10行目
北国の法師達の爾前の法門など、まったく歯が立たないのは当然といえば当然であった。
ここでも、あの「依智」の時とおなじように、多くの僧・俗が『日蓮仏法』の前に数珠を切るのであった。
やがてスゴスゴと帰る「念仏者」達。 勝負は正に「鎧袖一触」もなく「爾前の完敗」であった。
諸経の王者『法華経』と「爾前経」との「法論」など、交わす前から勝劣は決まりきっている。

『本間六郎左衛門』への諌暁
「死身弘法」の実践を旨とする『日蓮大聖人』には、流罪地での「法論」の勝敗など、毛ほども眼中に無い。 
あるとすれば唯一点。佐渡国の最高権力者「本間六郎左衛門尉」への諌暁である。それが以下である。

『正鵠を射る』
『日蓮大聖人』は「本間六郎左衛門尉」に対して、「武将たる者」の真の振舞を御指導になっている。
『大聖人』の首都鎌倉での卓見と展望。又、「経文の予言」を規範とした御金言が、死地「佐渡」での炯眼だ。

『日蓮大聖人』が「本間六郎左衛門尉」に対して強烈に指摘された事とは、以下である。
【 只今 いくさのあらんずるに 急ぎうちのぼり 高名して 所知を給らぬか…(中略)
田舎にて 田つく(作)り・いくさ(軍備)に・はず(外)れたらんは 恥なるべし… 】 918P 16〜18行目
(通解) 今、鎌倉では軍の配備を展開している時であるので急遽出兵して(俗言⇒「いざ・鎌倉」の語源)
佐渡国に「本間六郎左衛門尉」あり。と名を挙げて、幕府中央からの認知・評価を得べきではないのか。(中略)
(そのような火急の時期に、平穏の生活に拘泥して)安閑と平常の農作業などに没頭して、
※国家(鎌倉幕府)の存亡に関わる防衛軍備に参画・参戦できない事などは、武家として最大の恥辱ではないのか。

※国家(鎌倉幕府)の存亡 ⇒ 【 ををやけ(公務・国家)の御大事 】 918P 16行目 という事である。 
※『日蓮大聖人』の「大炯眼」に接した「六郎左衛門」も、
この時点では 未だ『日蓮仏法』に疑いを持っていたのである。 919P 9行目

厳密にいえば、この時「六郎左衛門」が『日蓮仏法』に瞑目したかどうかは、
『大聖人』の眼中にはない、 あるのは唯ひとつ。 一切衆生への済度(救済)のみである。

『開目抄』
【 此(こ)の文(開目抄)の心は 日蓮に よ(依)りて 日本国の有無は あるべし 】 919P 3行目
『日蓮大聖人』の御存在そのものは『開目抄』の御執筆の為にあった。 これこそ「絶対の根幹」「絶対の至言」である。

【 頸切(きら)るるならば 日蓮が不思議 とど(留)めんと思いて 勘(かんが)えたり 】 919P 2〜3行目 
(通解)若しも私が、このまま斬首されたなら、私自身が身読した「法華経」の真意が後世に正伝されない。
(斬首を怖れてはいないが)その、私自身が身読した「法華経」の真意を、後世に勧進させる為に述作したのだ。

しかし今。我が身の立場は『流罪』である。 つまり「流罪」とは『死罪』である。
【 此の国へ流されたる人の始終 いけ(活)らるる事なし(中略)又 打ちころしたりとも 御とがめなし】 917P 13〜15行目
『開目抄』は「佐渡流罪」が決定した時点の起草で、既に『大聖人』は「流罪即死罪」を読み切られていたのだ。

この『開目抄』御記述の由来の中で『大聖人』が再三に亘って『国家諌暁』をされている。
【 日蓮は日本の人の魂(たましい)なり 平左衛門尉(頼綱) 既に日本の柱をたを(倒)しぬ 】 919P 3行目 とされた後…
日本国を襲うであろう「他国侵逼の難・自界叛逆の難」の二難を『開目抄』の中でも「予言」されているのである。  919P 4行目

『日蓮大聖人』の真骨頂たる国家諌暁は、誠に熾烈であった…とは、『本抄・種種御振舞御書』の御記述である。
【 つきたる弟子等も あらぎ(強義・国家諌暁の内容が強烈の意)かなと思へども 力及ばざりげにて… 】 919P 6〜7行目

※ つきたる弟子等 と。御記述である。  
(筆者の浅識では「佐渡時代の常随給仕」の弟子は「日興上人」のみと理解している。)
つまり…つきたる弟子等の『等』という複数形が、難読である。…が…この御表現は他の御書に※散見される故、ここで止める。
※散見⇒読者の誤読を恐れるゆえ…参考の為に御題号のみ記述しておく。  『富木殿御書』 『妙法比丘尼御返事』

中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)の使者
【 …中務三郎左衛門尉が使(使者)にとらせぬ 】 919P 6行目 (これが文永9年(1272年)の2月中旬頃である)
ここで、世紀の巨編『開目抄』は、偉大な仏法史の中に燦然たる『正史』としての存在と 昇華するのである。
『仏法』には「符合」という重大な意義・法理がある。
重書『開目抄』が『日蓮大聖人の所在地・(御本仏の在る所⇔霊鷲山)』を離れて「謗法の首都・鎌倉」へ討ち入る日…
時を同じくして…。「首都」に惹起した大異変を告ぐ早舟が「佐渡」に到着するのだ。 (これが時の『符合』である)

地頭・本間六郎左衛門尉の帰依
【 二月の十八日に 島に船つく、鎌倉に軍(いくさ)あり京にもあり・そのやう申す計りなし、(本間)六郎左衛門尉・
其の夜に はやふね(早舟)をもって 一門 相具(あいぐ)してわた(渡)る  】 919P 7〜8行目
(通解) 2月18日、鎌倉の異変を告げる船が来て「首都・鎌倉や京都で紛争が起っているが委細は判らない」という。
その報に接した「本間六郎左衛門尉」は、その夜に『緊急出動』し、一族の武士達全員が武装を調えて出陣船出した。

その「出陣の船出」の直前、本間六郎左衛門尉が『日蓮大聖人』に向って合掌しつつ、以下の発言をしている。
【 たすけさせ給え、去(いぬ)る正月十六日(塚原問答の日)の御言 いかにやと此程 疑い申しつるに・  
いくほどなく三十日が内に あひ候いぬ、又 蒙古国も一定 渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にて候はんずらん 】
(通解) 私を助けて下さい。思えば…先月の16日の塚原での御言葉を「まさか鎌倉で内乱が起るなんて」と、
疑っていました。  しかし、一ヶ月の間に『予言』は的中しました。この事から鑑みても「蒙古軍の襲来」も
「念仏を信じる者は無間地獄に堕ちる」も、決まりきった事(一定)と思います。     919P 8〜10行目 
※「塚原問答」から33日目… ここで「本間六郎左衛門尉」は正式に『日蓮大聖人門下』として傘下に連なるのである。

『追撃の手を緩めるな』
「本抄・種種御振舞御書」の根幹は全編之『国家諌暁』『謗法厳戒』である。
就中。「佐渡流罪中」は、究極の御聖訓を複数に亘って拝する事が出来る。
その理由は何処に在るのか。又 何故なのか。

繰り返す事に気が滅入るが、言っておかねば『種種御振舞御書講義』にならないので記述しておく。
それが『法華経の行者』の存在自体の量れない「厳格さ・重さ」である。(厳格⇒法理の為には一歩も譲らぬ事)

その「厳格」を知る為に、ここで再び「本間六郎左衛門」への厳しき御記述を確認する。
【 いかに云うとも 相模守殿(北条時宗)等の 用ひ給はざらんには日本国の人 用うまじ 
用ゐずば 国必ず亡ぶべし、
日蓮は幼若(ようにゃく・御謙遜語)の者なれども法華経を弘むれば 釈迦仏の御使ぞかし、
わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは 此(こ)の国には重けれども 
梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、(中略)   教主釈尊の御使なれば 
天照太神・正八幡宮も頭(こうべ)をかたぶ(傾)け手を合せて地に伏し給うべき事なり 】919P 10〜15行目
(通解) 貴方(本間六郎左衛門尉)が法華経に帰依しても、
日本国の執権(国主)が帰依しなければ日本国の民衆は帰依しない。
又更に、日本国全体が「正法・法華経」に帰依しなければ この国は必ず滅亡する。
私の知識は非常に浅く経験も積んでいないが、
『法華経』を経文の如く弘通しているので「釈尊の使者」なのである。
それに比べて日本国の神である「天照太神」や「八幡大菩薩」などは、日本国にとっては最上の神であるが、
「釈尊」の弟子である「梵天」や「帝釈天」。
或は「大日天・大月天」。四大天王の持国・増長・広目・毘沙門に比べれば、
位の低い、又 力の弱い神である(中略) …私(日蓮)が「釈尊の使者」という事は、
「天照太神」や「八幡大菩薩」も 私(日蓮)の前に来れば頭を下げて礼拝し、
合掌し「五体投地」しなければいけないほどなのである。 (以上ここまで 通解)

上記の長文を引用したのは「流罪地」にあっても悠然と『破権門理・破折』を実践される『大聖人』の御振舞を知る為だ。
『法華経の敵(謗法)』に対する「厳格」さとは、三代の歴代会長の御振舞を彷彿するものである。

その上で、次下の御聖訓を身読して、『日蓮仏法』の深義を学びたいのである。
【 かかる日蓮を用いぬるとも あ(悪)しく うや(敬)まえば 国亡ぶべし 】 919P 16行目 が、それである。

つまり…今まで私(日蓮大聖人)に、多くの「迫害」を成して来た日本国が、此の度は「斬首」にまで及んだのだ。
それでも私は、この国の恩に報じる為「護国の祈念」をしてきた。極言すれば…私が居るから「日本国」は安穏であったのだ。
しかし…これ以上『仏法・正法』を疎んじる蛮行を(幕府と謗法の高僧達が)続けるとすれば「厳罰」は止められない。

もとより『大聖人』御自身の安泰を願う選択など毛頭ない。とする事が『末法御本仏』としての究極の御振舞である。
『断じて此(こ)の国を亡ぼしてはならない』という熱請(御誓願)が、「病根部分」への直言となるのである。

『精髄』
【 此(こ)の度も用ひずば 大蒙古国より打手(うちて・うって)を向けて日本国 ほろ(滅・亡)ぼさるべし 】 919P 最終行
こう断言された『日蓮大聖人』は、返す刀で「平左衛門尉頼綱」を強烈に「破折」されている。
【 ただ(この事⇒自界叛逆の難・他国侵逼の難の惹起は)平左衛門尉が好む わざわ(禍)ひなり 】 920P 1行目

『平穏の中で蠢く讒言』
文永9年(1272年)2月に「首都鎌倉」と「京都」で起った内紛(二月騒動)を契機に
「佐渡」の世論は一応沈静した。又、民衆の中には『日蓮仏法』に共感を示した者も居た。
更に、念仏からの離脱などが見られる様相となる。  920P 1〜4行目

一旦「なりを潜めた」かに見えた「※念仏僧」は、
この後「二年間」に亘って『日蓮大聖人』への「迫害」を続けたのである。
※「念仏僧」とは、
「鎌倉在住」の宗教家(良観)や「鎌倉幕府の重鎮(武蔵前司・第三代執権 北条義時)」と
常に緊密に連繋をとり、『日蓮大聖人』の抹殺を最後まで企んだ連中の事である。
『日蓮大聖人』を何が何でも抹殺する。  この為には思いつく事を何でもした。  920P 5〜12行目


「大聖人御自身への虚言」「偽の御教書での脅迫」「権力者の女房(上掾jへの吹聴」「日蓮門下の身柄拘束」
鎌倉近郊の大聖人の弟子檀那達が「讒言」で入牢した第一期の多くは「竜の口」から「佐渡流罪」の時期である。
注:入牢多発の第二期は鎌倉幕府からの「寺房寄進」「法華経允許」を『日蓮大聖人』が拒否して「身延入山」された後である。

『佐渡流罪の赦免』
【 文永十一年(1275年)二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ 】920P 12〜13行目
これを知った佐渡の念仏者は、
「※善導和尚や法然上人を公然と罵(のの)しった者が赦免とは何事か」と悔しがった。
※善導和尚⇒中国浄土宗の開祖    ※法然上人⇒日本浄土宗の開祖

『日蓮大聖人』を生きて海を越えさせない為の、あらゆる画策も「思わぬ順風」で頓挫している。
【 思わざるに順風吹き来たりて島をば(中略)須臾(短時間の事)の間に渡りぬ 】 920P 15〜16行目

これを知って「佐渡の法師は何をモタモタしているのか」と憤慨したのが「越後・信濃」方面の「念仏者」である。
【 我等は いかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とを(通)すまじ 】 920P 17〜18行目 と意気込んでいた。

そのような、極めて厳しい状況が重なるの中で、非常に興味深い御記述がある。 それが下記である。
【 越後の こう(国府)より兵者(つわもの・警護の武士達)ども・あまた(数多)日蓮に そ(添)ひて 】 920P 最終行
『日蓮大聖人』に対して、鎌倉幕府は厳重な警護隊で護衛した。 これは鎌倉幕府自体が決定した事であった。
これ(護衛)は、『大聖人』の鎌倉帰還後に「北条時宗」の法華経帰依・寺院寄贈・法門允許など懐柔策の一環である。

法華経帰依・寺院寄贈・法門允許など懐柔策の中で、非常に興味深い『ヨタ』を紹介しよう。
【 富士日興上人詳伝(上)聖教文庫抜粋 60〜61P 】
御赦免により帰鎌後に、平の左衛門尉頼綱を通して、時の執権時宗(法光寺殿)の内意は
大聖人を優待して法的外護に当らしめんの意が動いたのであるけれども(中略)思い切ったは(出来なかった)
(中略) その優待法(方法)が区々(まちまち)に伝説せられてある。
なかにも百六箇御相伝の付記(富士宗学要集 第一巻 相伝信条部〔22P〕)に…
「然るに鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り(云云)」とある。(中略)
わが宗門の多くの弁舌家が このことを「高閣に束ねて」むしろ十万貫のヨタを飛ばすであろうことを寒心する。
(これが、「宗門」の実態である)

『鎌倉帰還』とは、あくまでも「闘争(戦い)」だ。
文永十一年(1275年)3月26日。遂に『日蓮大聖人』は「鎌倉帰還」を果たす。実に『竜の口』から925日目の事であった。
【 三月十三日に島をた立ちて 同三月二十六日に 鎌倉に打ち入りぬ。 】 921P 1行目(打ち入るとは⇒闘争)
※ 上記の詳細は『光日房御書 928P 2〜5行目』の御記述を参考にされたい。

『三度目の高名』
「鎌倉帰還」を果たされた『日蓮大聖人』は、文永十一年(1275年)4月8日 「平左衛門尉頼綱」に御対面される。
この事を『三度目の高名(国家諌暁)』という。⇒ 『 撰時抄 287P 8〜18行目(14〜15行目) 』
『日蓮大聖人』の御命を狙った「平左衛門尉頼綱」の、この時の豹変ぶりは凄まじいものであった。
【に(似)るべくもなく威儀を和(やわ)らげて】921P 2行目 …と、日蓮大聖人に擦り寄ってくる。


『平左衛門尉頼綱』の本音
【 平の左衛門尉は上(かみ⇒執権)の御使の様(てい⇒装い⇒仮体)にて 】 921P 4行目
当日の会見には「平左衛門尉」の他にも何人かの幕府高官が居た事が本抄でも覗える。
会見の主旨は「蒙古軍は本当に日本に攻めて来るのか」であり、それ以外はない。
【 大蒙古国は いつか(何頃) 渡り(日本へ攻め来る)候べき 】  『本抄 921P 3行目』 
【 頼綱 問うて云く いつごろ(何頃) よせ(寄せ・攻め寄せ)候べき 】 『撰時抄 287P 18行目』
『日蓮大聖人』の御記述を検証する時⇒「この質問こそ、鎌倉幕府の重大関心事である事」が判るのだ.。

『一定』とは、決まりきった事。という意味である。
「平左衛門尉頼綱」の問いに対する『日蓮大聖人』の御金言は。『一定なり!』である。
『蒙古軍は、絶対に日本国に攻め上る』  この『日蓮大聖人』の大獅子吼に「鎌倉幕府中枢」は縮み上がった。

縮み上がったのには訳が有る…「鎌倉幕府設立時」に「否定できない、過去の規範破り」があったのだ。
その法則違反の歴史を断じて認めたくなかった。      が「史実」は認めざるを得なかったのである。
それが『@廃仏派の惨敗  A承久の乱に於いての下克上  B弘法の祈祷による朝廷の敗北』
等々という大原則である。

※『廃仏派(平清盛)の惨死・惨敗 1429P』とは「鎌倉幕府自身」が勝者となった直近・現実の歴史であった。
つまり…「飛ぶ鳥をも落とす」と言われ。「栄華の限り」を尽した「平家」の滅亡の因が「廃仏主義」であったのだ。

「鎌倉幕府中枢」が縮み上がり怖れたのは「平家」の国王(平清盛・太政大臣)が「廃仏主義(下克上)」で亡びた事だ。
※「下克上」とは一般に「武家如きの「下輩」が朝廷に敵対した事」をいう。
しかし『正法毀謗・正法誹謗』以上の「下克上」は無い。
実は『一定』とは、「廃仏主義」就中。根幹の『正法』を毀謗する罪科への「還着於本人」を謳ったものなのだ。

『祈雨』
例えば…「祈雨」である。 これは、「祈った時点」から即。結果として、すぐに顕れなければ祈雨ではない。
「祈雨」と称して、拙(つたな)い「邪祈(通力)」を駆使して「遅まきの雨を降らす」等は、猿芝居の類である。
それも…「二週間」も過ぎてから降った風雨を「祈雨の霊験」と、弘法などは強弁するのである。
こんなものは、「祈雨」とは言わない。とは『日蓮大聖人』の痛烈な御記述である。 922P 11行目
いずれにしても…『正法誹謗・正法毀謗』の延長線上の祈りは「祈雨の祈り」を含めて「呪詛の類」である。

そして…『身延入山』
【 本より ご(期)せし事なれば  三度・国を いさ(諌)めんに・もち(用)ゐずば国をさるべし 】 923P 1行目
『本より ご(期)せし事』とは⇒内奥で『未萌』を知り尽くしている事なのであるが。
公説(公の説明・表向き)理由は⇒古(いにしえ)の賢聖に倣(なら)って…と、『日蓮大聖人』は鎌倉を去る。

身延に至たる道程。又、その時の御心情の詳細・意義等は、下記『御書』を深く深く拝読せよ。
『下山御消息 357〜8P』   『百六箇抄(細字) 869P』   『富木殿御書 964P』
『妙法比丘尼御返事 1413〜4P』  『高橋入道殿御返事 1460〜1P』  『三沢抄 1489P』
上記にて「平左衛門尉頼綱」が諌暁を聞き入れ無かったので『身延入山』したという軽いものでは無い事がわかる。
【 夫(そ)れ 宝山には曲林をき(伐)る 大海には死骸をとどめず 】 923P 10行目
上記御金言の次下に『日蓮大聖人』の御筆で通解が御記述されている…よくよく咀嚼すべきである。


(その通解文)⇒【 仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫・※四重の濁水をば入るれども
誹謗の死骸と一闡堤の曲林をば・をさ(収)めざるなり 】 923P 10〜11行目
※四重⇒比丘(僧侶)の戒(四重禁)⇒殺生・倫盗・邪淫・妄語

したがって『身延入山』は、逃避でも厭世でも遁世でもない。唯々深山に在って『国の安泰を祈念する為』であった。
『安国の祈念』の奥底・根源は『一切衆生の元品の無明を断切る事』(如我昔所願(にょがしゃく・しょがん))という。
※ 如我昔所願(にょがしゃく・しょがん)⇒ 『御義口伝上 720P』

『喝破』
国王・世間含めて「真言」や「念仏」を尊崇している。
その「尊崇の的」である「弘法・慈覚」等を、呵責なく攻める『日蓮大聖人』。

恐らくは…当時の世論に完全に逆行しているのが『日蓮仏法』の精髄であろう。
…では、何故鋭く「破折」されたのか。
【 弘法・慈覚等は あさましき(仏語に違反している)事どもは あれども 
弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず、末の代は・いよいよ・あを(仰)ぐなり、
あらは(顕わ)す人なくば 未来永劫までも・さであるべし 】 924P 1〜2行目

『間違っている事は毅然とその旨を、その場で指摘する』
…その「法理」の正邪を「命」に及んでも、叫んでいく。
「烙印」を押されても、「遠流」されても、「頸の座」に臨んでも 
…『敢然と、正義を叫びつづける』。

※『そこが違う!』と具申しても、聴く耳も持たずに無視し、
逆に「反逆者」のレッテルを貼る事こそ、自滅の道だ。
つまり。圧倒的に多くの「人」が支持する事象が「捏造・誤謬」で、
必ずしも「正論」ではない。という危惧である。

『味方は少なし 敵多し』というのが証左であり、
圧倒的多数の「世論」が「邪論」というのが『御書』の御指摘・根幹である。
結論は、あくまでも謙虚に、あくまでも冷静に、
あくまでも正確に、『正史』を学べ。という事である。
それこそ 正しい『日蓮仏法』ではないのか。    
これこそ正真正銘の『創価仏法』ではないのか。

『結論』
【 法華経の行者を  あだ(怨)む者は 頭破作七分と と(説)かれて候に  
…日蓮房をそし(謗)れども  頭(こうべ)も わ(割)れぬは
日蓮房は法華経の行者には あらざるか 】   924P 10〜11行目
…と。 最も皆が思っている事 (誠に恐ろしい事だが、弟子も含んでいる事)の御記述である。

『法華経の行者』
【 日蓮は 南無妙法蓮華経と唱うる故に 二十余年 所を追はれ 
…二度まで御勘気を蒙(こうむ)り 】 925P 6行目
…とは、『法華経の行者』の『法華経の行者』たる重大なる結論である。

※もう一度言っておくが… 
『難』が起らないように日々祈念する者が「信者」で、『難』を呼び起こすのが「行者」だ。

最後に、雪の深い中を訪れた『光日尼』に対して、最大の御讃嘆の御言葉で結ばれている。 925P 9〜11行目
終に書いておく…  『種種御振舞御書』とは、近世に於ける『若き指導者は勝った』である。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・後編(総体の記述) 完  (文責・愚壮)
2012-04-28  編

[525] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月30日 (水) 04時17分

『種種御振舞御書(佐渡抄)』を「大白蓮華」に添って三分割し、
あろう事か『池田先生』の高度の御講義に紛れて、「前・中・後編」と、一応の終了をした。

元より「愚壮」は、毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ)の類以下で、大凡(おおよそ)の取り柄すらもない。               
…とは、かかる「毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ)」の諸君にも申し訳ない位の下劣漢でもある。

「愚壮」の実像は、むしろ…(棘や毒針を抜いてしまった 毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ))である。
ましてや、同じく刺さっても…。 ヤマアラシ・針鼠達が持つ程の「風格」も無い。

而して…。   『謗法厳戒』とは『日蓮仏法』に於ける根幹・精髄である。
この「根幹」に翳りが見えたのが…「重須(おもす)時代」の頃。…とすれば、
その「病根」の深さは深層である。 

例えば…  例えばであるが。
もしやその時代に、かの『百六箇抄(血脈抄)』等は無く、
ずっと後期に、 (『百六箇抄』さえもが) 創り添えられたのではないのか…と、疑う程の「乱脈」である。
『なにが迹門で、何が本門なのか…』とは、2012年6月号の36Pを拝読するまでもないとする。

『松柏風波・万声一如』須(すべから)く此れ『諸法実相』とは、『百六箇抄』の曰う「本門」である。
『諸法実相乃至本末究竟等』と指し示された「根底」とは、是である。

といいつつ…2012年5月23日23:00頃、私は「救急搬送」されていた。
その深夜。付き添いの「長男」が…「これは無理だ」と『T支部長』に勤務欠勤の連絡を急遽した。
( 急遽御連絡の理由は ⇒ 「愚壮」の職場が『T支部長』と同じである故 )

昭和60年か、その付近の年頭初出勤の朝。私は強烈なる「大転倒」をして死線を彷徨ったが…。
それに匹敵するほどの「大怪我」に、   この直近の5月23日に「愚壮」は再び遭遇した。

「裂傷の鼻下」は八針の縫合で…「長男」が『これでは(明日の仕事は無理だ)』と判断した。
それでも、一日も欠勤しない私は、結局皆に御心配と「無謀への顰蹙」を頂いた。

然しても…『愚壮』は思う。 
『懸案の種種御振舞御書(佐渡抄)』であるので、及ばず乍らも 「書けてよかった」と…。

ところで… 抜糸は 6月1日の予定じゃ…(アイタタタ)

[526] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月30日 (水) 17時31分

『中興入道御消息』1331〜1335p 勝利の経典『御書』に学ぶ…本抄の白眉は 1332p-7行目 〜 1333p-7行目 である。
時代背景⇒弘安2年(1279年)己卯11月30日  身延発  対告衆⇒身延を訪れていた『中興入道の妻女』
対告衆の夫⇒『中興入道』  『中興入道』の父親が『中興次郎入道』である。     

 以下は対告衆への称賛部分 1334p
【 御前は又(中興入道の)嫁なり・(中略)・故入道殿のあとを継ぎ
 国主(北条時宗)も御用いなき法華経を(信じている・のみならず)
・法華経の行者を養わせ給いて・(毎年、身延までの遠路に「夫」を送り出している、
又幼くして逝去した娘の供養も続けている 】

日蓮大聖人を見て【ゆえある人にや  1333p 】と直感した中興次郎入道の炯眼   
(日蓮大聖人の存在の真意を見抜いた人⇒北条時頼〔915p〕 一谷入道〔1315p 1329p〕)

佐渡で『日蓮大聖人』を守り抜いた帰依者⇒阿仏房夫妻と子息・国府入道夫妻・中興入道夫妻と父・是日尼 1335p
帰依はしていないが『日蓮大聖人』を守り抜いた人々⇒松野六郎左衛門と一族郎党 ・一谷入道夫妻
 
『大白蓮華』本文の抜粋      池田名誉会長は叫ぶ!『究極は宿命転換である』そして『いよいよ、これからだ』である!
『広宣流布』とは何か。『善性の触発』とは何か。        『広宣流布』とは人と人との友情と信頼と尊敬の広がりである。
『同苦』とは何か。『激励』とは何か。人間はどこまで『同苦』できるのか。          『同苦』とは『願兼於業』である。

2011年○月度の『T水滸会』の教材は『中興入道消息』である。と、上記の如くの編集は「愚壮」の任務であった。
『S前総県長』との呼吸も宜しく、万端の準備も『少し時期が早すぎるか…』と、全く問題の無い ○月の10日すぎである。
『初代K市のT圏長 昨夜御逝去・今夕 通夜式』という驚愕の訃報が かすかに聞こえた。

『かすかに聞こえた』とは、正式の訃報が『愚壮』には届かなかったという事実であった。
(悲報第一報を「愚壮」に もたらした『T支部長』にも、直接の報は無かったとか)
『初代 T 圏長』といえば、あの昭和54年4月に御勇退になられた『生涯の恩師』を…
翌55年3月9日。六百余名の同志を引き連れて『東京の学会本部』に求めた「関西屈指」の直弟子であられる。

亦。「愚壮」こそ、その『初代 T 圏長』鎮座地域の『支部長』を任じた人間である。
『その「愚壮」に「訃報」どころか、通夜式・告別式の時間帯を知らせないとは何事か』…と、逆上した。

「中○副圏長」と言う人が居る。
入会以来。私が何かと御世話をかけている人である。
怒りに震える私は、この「中○副圏長」のところへ飛んで行く。

「中○副圏長」は、シラッとこう言った。「俺のところへも、知らせは無いよ」
「…しかしなあ。 俺は、直接の知らせは無くても 知った時点で「通夜」に参列したよ…」
「…それが、『同志』というもんだ」

私は、この「中○副圏長」の一言に、忘れていたものを『思い出した』
「被害者根性」丸出しの私自身に、ホトホト嫌気が差した瞬間であった。

ともあれ。『初代 T 圏長』の御逝去は、一つの時代の「句読点」を打ったのである。
平成23年○月10日 享年80歳であられた。

[528] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月31日 (木) 09時30分

下記は「聖教新聞 2012年1月24日付の(2月度御書講義)」の講義文抜粋である。
その記事の最右辺 最下段の文章に 「賢王ですから、その(折伏の事)担い手は在家です。」とある。
【 以下 】
在家の人々が愚王すなわち仏法を理解しない勢力と戦いながら妙法を弘めていくことが化儀の折伏なのです。
それでは、末法において現実の社会に妙法を弘通してきた在家とは何かといえば
事実に照らして、それは創価学会以外にありません(中略)この御文は、創価学会の仏法上の意義云云(後略)」

抜粋部の要約とは⇒『賢王』⇔『在家』⇔『創価学会』となる。
概論として⇒『観心本尊抄』そのものが創価学会の存在意義の御聖訓としている。

   ここで『開目抄』を拝読する。
【 日本の諸人(一闡堤の一切衆生)は爪上の土か 日蓮は十方の土か よくよく思惟あるべし 
賢王の世には道理かつべし 愚主(愚王)の世に 非道・先 を(押)すべし 】『開目抄上 195P』
通解・「日本の総ての人々が爪上の土(悪世に於ける稀少の正法弘持(ぐじ)の者)なのか、
経典を身読して数々の大難を起している『日蓮大聖人』が十方の土(掃いて棄てるほど、どこにでも存在する愚者)なのか、
私の門下を名乗る者は、深く思索しなさい。
   このような対比(一切衆生が「爪上の土」⇔『日蓮大聖人』が十方の土)の解答は、考えなくても理解できるであろう。

世が「善(よ)き為政者・賢王」の時代には、釈尊の仏記の通り「仏法の道理・教範」は通用するが、
反対に「為政者」が諸悪の根源を知ろうとしない『末法』の世では、
   「非道・邪(よこしま)な思想」が真っ先に押し出て来るのである。

【 大集経二十八に云く「若し国王(賢王・為政者)有って 我が法の滅せんことを見て捨てて擁護(おうご)せずんば
無量世に於て 施戒慧(正法を供養し持戒し一切の法に達観する事)を修すとも
悉(ことごと)く皆 滅失し 其の国に三種の不祥の事を出(いだ)さん 】『守護国家論 59P』
通解・大集経にはこう説いている「もしも国王・為政者が「仏法」の衰退・「思想」の混乱を見捨てて擁護しなければ
(仮に、その賢王が反省して)未来永劫の生死の間、その正法を供養し持戒し一切の法に達観する事を続けても、
賢王の国土に所有する全ての人材・資産は瓦壊し、国家には三災が惹起して、不幸の事態に陥るであろう」

『日蓮大聖人』の御聖訓の、どこをどう解釈したら『賢王即在家』となるのか、バカバカしくて涙が止まらん。 (以下。破折する)
『日蓮大聖人』の御記述にある「賢王」とは、最善・最悪(正法への認識の正誤)に達観した為政者を示唆するものである。
つまり、「為政者」の善悪(正法の認識度)が庶民の幸不幸を左右するのである。
「賢王」即「在家の門下」を示すものではない。

聖教新聞 2012年1月24日の2月度御書講義で言う⇒「賢王即在家」は僻見である。
不変の原点の「長(庶民のリーダー)の一念」を、ある意味 遠回しで否定する事で「自語相違」である。

「長(庶民のリーダー)の一念」の『長』とは「庶民(普遍的視野層)から派生した長」であり「賢王⇔為政者⇔上層階級」ではない。

【 …一句をも 人にかた(語)らん人は 如来の使と見えたり、貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし 】『椎地四郎殿御書 1448P 9行目』
上記の「御聖訓」【貴辺 ※すでに俗なり(王ではない) 善男子の人なるべし】を、一体全体 何と拝読しているのか伺いたいものである。
※すでにとは⇒元々という意味である。
強く言えば⇒『日蓮大聖人』は四郎に『あなたは元々、出家して法理を学んでいないのに奥義に迫っている』との讃嘆だ。

∴強調の為の記述        是(ここ)で再度強く確認をしておくのは『賢王・愚王』の御記述の深義であろう。

先ず。『一文一句でも(正法・正義を)語る人』とは即「如来の使い」つまり『仏』の派遣した使者なのである。(戸田先生の御指導)
それに対し、『賢王・愚王(為政者)』の如きは所詮いつの世も「二乗(声聞・縁覚)の人」でしかなく、『法華経の行者』ではない。
真の『法華経の行者』とは庶民の範疇で、遠くは神四郎・弥五郎・弥六郎。近くは「三代の歴代会長」である。

「賢王即在家」という僻見・曲解(拡がり過ぎた論旨)が「一見正論・正体は愚論」と、筆者が破折するのは是(ここ)に有るのである。 
『御書』に在る『王者』(鷲と鯱で譬喩されている門下の振舞の事)とは、
『忍難弘通』の名声なき庶民を指すのであって「為政者」の類ではない。

本抄(観心本尊抄の講義範囲の御聖訓)の「賢王・愚王」の真意は
その為政者が『正法』を見る目(炯眼か否か)の尺度の分類だ。
つまり、『正法』を『正法』として認める「為政者」を賢王と顕わし、
『法』の善悪を見抜けぬ「為政者」を愚王と御記述されているのである。

要は、そのような「ヨタ」を『550万部発行』の聖教新聞に掲載して、無数の同志を狂わすのが黙認出来ないのである。
「賢王即在家」…。   どこにそのような『日蓮仏法』を捻じ曲げる如き記述があるのか、御指摘願いたいものである。

『御書 上野殿御返事 1560P』には、武家の棟梁である「源氏と平家」でさえ『番犬』と言い放たれているではないか。
【 日本国の武士の中に 「源平二家」と申して 『王(朝廷・帝)』の門守(もんまもり)の犬 二疋(二匹)候 】

緩枷にしてはいけない原点(源流)故に、『数数見擯出』等の御身読の事実は、隠蔽するべきではないのである。

[532] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年05月31日 (木) 19時41分

平成24年2月11日 この日の聖教新聞第二面に『正史』の記述があった。
『創価班・大学校入卒式』での「渡辺委員長」の発言が『正史中の正史』であるので抜粋して賞嘆する。

(以下 抜粋文) 【 本年、1月6日が「創価班、師弟誓願の日」に決定しました(中略)
この「1・6」は、51年(昭和26年)に、23歳の池田先生が
恩師・戸田先生から公私にわたる一切の後事を託された日でありました。 】(以上 聖教新聞抜粋)

『師弟不二』の誠を再確認する「熱文」を目の当たりにした「愚壮」は、
上記の文章が『正史』の極みである事に感涙した。

『愚壮』が甚(いた)く感嘆した「渡辺委員長」の『正視眼』である。    
この淵源となった、昭和26年1月6日の実際の出来事を記述する。

以下抜粋(ママ)・『若き指導者は勝った 第6回 第二代会長 3    2009年1月13日(実配)』
【 1月6日の土曜日、師(戸田城聖)の自宅に呼ばれた。
大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、戸田と妻のほかは、だれもいない。
(中略)心労から戸田の頬はこけていた。
(戸田は)万一の場合、学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
弟子は、すでに一生を師匠の捧げる覚悟ができていることを述べ、
大楠公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合せた。(中略)

しばらくあとの日記に、(池田先生は)こう記した。「師弟ノ道ヲ、学会永遠ニ、留メオクコト」  】以上抜粋
この記述に続く文面にも、思わず身を引き締める箇所があるが、
『池田先生の格調高き誓願』を、「愚壮」如きが所感を述べて汚すべきではない。

[533] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年05月31日 (木) 20時03分

愚壮さま

2012年5月30日〜忘れ得ぬ風景

背景は、東北健児より画像が届き次第差し替えます。
暫くは借りものです。お許し下さいませ<(_ _)>

[535] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月01日 (金) 04時46分

平成11年の今朝。『ケンちゃん』は憤死した。 訃報は、現在は宮崎県に在住である『Y支部長(当時)』から聞く。
昭和47年秋。当地に流れ着いた「愚壮」を、度々のその御訪問で私を組織の中に誘い…
今の「愚壮」の礎を造って下さった人であった。

この「49歳」での早逝は、当時の諸事の中でも特筆の衝撃であった。
その頃、東京から還られていた「名物部長」と「愚壮」とが、余人を入れずに「枕経」を奉行した事さえ…
今。微かなる『色褪せ』もなく、万事鮮明に蘇っている。

「早梅雨」の蒸し暑き早朝…。と   悲劇はよみがえる。
『嗚呼… あれから既に、13年の時が流れたのか…』と、 私は今も「同志」を念(おも)うのである。

合掌   南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経   南無妙法蓮華経

追伸候  『背景』の事。
誠に行き届いた御配慮です。衷心より御礼申すのみです。
ありがとうございます。

[536] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月01日 (金) 09時56分

※愚壮の思い・『御書』について。   
以下を、このように何度も書く意味は、強く確認しておきたい事がある為である。 

先ず御述作されたのは『日蓮大聖人』である。      御記述内容の分類では(但し、便宜上の連番で、順不同)
@『論文(法理の根幹書)』 A『日蓮大聖人即末法御本仏の告知状』 B『法嗣の相承書』 
C『国家への質問状』 D『弟子への訓戒書』E『日蓮大聖人御自身の振舞状』 F『御指導の書(指南書)』
G『供養への礼状』 H『門下の質問への返書』 I『門下への近況報告書』等々である。

この内、後世に残さなければいけない『重抄』とされるものは、(保管者の意思で)書写をした。
つまり…「これは遺す可(べ)き」という「書簡」のみ書写(今でいうコピー)をして、
その最も誤りの無い・誤字皆無の正本を、家宝として厳重に保管をした(時代写しという)。

特に、『血脈抄(百六箇抄)』・『本因妙抄』等、宗門・門外不出の『御書』は厳格に護持されてきた。
(…と断言出来ない悲しさは余談として…)

しかるに…『十大部』を含む殆んどの『御書』は、主に「門下(対告衆)」宛に送付されたのが実際であった。
(つまり…殆んどの『御書』は、書写・時代写しが不可能という厳しい現実に思い当たれ)
「散逸」という、最も忌むべき事態が多発したのは、「保管者」の杜撰さにもよるが…
重要性を具(つぶさ)に伝え得なかった※『直弟子(僧分)』の怠慢の方が、厳しく指弾・指摘されよう。

この事(※『直弟子(僧分)』の怠慢)を、『第59世:堀日亨上人猊下』がその「序」で訴えられているのである。
『御書』の「散逸」に関して、あまりクドクドと書きたくないのでこのくらいにする。 このくらいにするが…
最も重要な事を書いて、確かめておく。

『御書』とは、『対告衆』に対して与えられたもの⇒その性格上『全国各地に散らばっている文献』なのである。
故に『編纂・編集』が大難事なのだ。
であれば、尚の事。この『新編・御書全集』編纂・編集という重大事に、
御生涯の薀蓄の全てを傾けられた『第59世:堀日亨上人猊下』への報恩を忘れてはならぬのだ。

私達が今。常にいつでも『御書』を繙けるのは、
これ総て。『第59世:堀日亨上人猊下』の全国御踏破・御走破の御成果・御研鑚の賜物である。
その上で、絶対に言える事は『第59世:堀日亨上人猊下』の御生涯の薀蓄・御研究に対する『巨大なる熱請』だ。

この人こそ、この『巨大なる熱請』の『仏勅の巨人』こそ、『戸田城聖第二代創価学会会長』である。
「戸田先生」は、その編纂事業の全ての「財務」にあたられた。  …それは、「巨費」でもっても表現できぬ。
更に『膨大な校正作業』への没頭であった。  それが「学会の全英知」の集約である。
温暖の「伊豆・新田」での『第59世:堀日亨上人猊下・戸田城聖第二代創価学会会長』の談笑の奥には…
余人の絶対迫れぬ『大偉業達成』の歓喜であろう…と思う。

『御書』とは、何者にも量り得ない「重厚」と・誰にも迫れない「迷路の如き」達観が実在するのだ。
この『一事』を。 いかなる時、いかなる設定。 否。 総ての活動の根底にも、
厳然と中央に据えて欲しいのである。
考えられる全ての『多様の現実』にも…である。  決めて、「現実(リアルの現象)」に流されてはいけない。

この最後の一瞬の「勝利」の為に『唱題・南無妙法蓮華経』の力用を、繰り返し言われているのだ。

ところで…話は全く変わるが。 最近に本格的に立ち上がった(…と言えば、失礼かもしれぬが)青年が居る。
『氏』・昭和46年6月1日に御誕生といえば、満41歳を迎えられた人である。
青年は、そう遠くなき日に『母』を失われた。            不治の病であられた。と聞いている。
この「故・御母堂」の膨大なる手記が、今「愚壮」の手元に在る。  いつか近日。御遺族の御了解を得て記述する。

それは何故か。 遠き日・早逝の『ケンちゃん』が、土壇場で叫んだ「声無き声」と…
その『御母堂』の声が、見事に重なるからである。   …それだけである。

[537] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月01日 (金) 20時02分

『忘れ得ぬ風景』は「戯作」である… という割には、その内容に真実味がある…のか、無いのか。
『種種御振舞御書(佐渡抄)』の長文といい、『御書』誕生の秘話といい、「色を脚した」ものではなかろう。

ま。「他人様」がどのように申されても、そのような事は、どうでもよい。

どうでもよい…といえば、 誠に「どうでもよい」事であるが、 今夕。「抜糸」をした。
担当の医師が、「これほど深い傷も 又、珍しい」といいつつ「糸」を抜く。
そういえば、縫合の時  傍に居た長男と長女が『お母さん、見たらあかんよ』と言うとった。

特に長女は、深く反省して沈むワシを捉まえて…『お父さん。鼻が捲れ上がって 歯茎が外から見えていた』と言う。
慰めの言葉も無く、恐ろしい形状を得々と説明する長女には、既に「女らしさ」というものがない。…と落ち込んだが。
やっと「抜糸」に漕ぎつけた。 

酒は飲めん・タバコも吸う気にならん。 それよりも「風呂」に入れんから臭くて仕方がない。
こころなし、近くに寄らない「老妻」にさえ、むやみに腹が立つ。  

「抜糸」直前のワシの顔は、どこから見ても「ネズミオヤジ」だ。との説明に、『身も世も無く、笑い転げる』人が居る。
『踏んだり・蹴ったり』とは、今の愚壮である。と思えば宜しい。

ところで…嬉しい話がある。 それは、来週の日曜日の『座談会』に御招聘いただいた事である。
『B長さん』が、『御書もやれ』と仰る。  これは倍増に嬉しいのです。

[539] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月03日 (日) 07時28分

『酒も旨くないので寝る!』と強く心に決めているところに、『Hさん』が来られた。
結論をいうと、 都合二時間程、話が弾んでしまった。
彼は、私の一番最初の御推薦の「地区部長」さんである。

若干、健康の面で問題を抱えて居られたが、持ち前の強き御意志で難関をも突破された。
が、しかし。 そんな「最高学府出」の優駿も、愛妻の重い御病苦には「音(ね)」を挙げかけた。

同志の中でも、彼は「人一倍」の御努力家であり、「生真面目」である。とは、皆が知る。
( 因みに…氏は『T水滸会』のメンバーでもあられるが、これはこの際 余談である )

「地区部長・最初の推薦」といっても、その推薦者なんぞは 「K市」を捨てた「ネズミオトコ」である。
『何故、私に…』という卑屈な問いに、氏は言った。   
「愚壮」でなければいけないので…と続けられた 「目前の 我がブロック座談会に参加せよ」。

私は歓喜して御招聘を受ける。  御自宅に帰られる「後姿」が街路の角を曲がるまで見送った時。
既に「眠気」は去っている…と。 重複する事を厭わずに『御書』を繙いていた。

『祈祷抄』講義   大白蓮華2012年6月度座談会教材 『新編・御書全集』1344P 
1272年(文永9年) 最蓮房の質問への返書  (在・佐渡)
特徴 『御署名』 ⇒ 本朝沙門 日  蓮 撰

今回の講義部分 ⇒ 『法華経の行者(私達・総ての者)』の祈りは必ず叶う。
【 大地は ささば はづるるとも 虚空(おおぞら)を つなぐ者は ありとも・
潮の みちひ(満干)ぬ事は ありとも 日は西より出づるとも・
法華経の行者の 祈りの かな(叶)はぬ事は あるべからず 】 1352P

☆【 大地は指(ささ)ば・はづるとも  春は・花は・さかずとも 】『開目抄下 225P』

☆【 大地は ささば・はづ(外)るとも・日月は地に堕ち給うとも・
しを(潮)は みちひ(満干)ぬ世はありとも・花はなつ(夏)にならずとも・
南無妙法蓮華経と申す女人の・をも(思)う子に・あわずという事は なし 】『上野殿尼御前御返事 1576P』

『祈祷経送状』 1357Pには こう顕されています。
【 其れに付いても 法華経の行者は信心に退転なく 身に詐親なく・一切「法華経」に
其の身を任せて 金言(仏語)の如く修行せば、慥(たしか)に 後生は申すに及ばず
今生も 息災延命にして 勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可(べ)きなり 】

つまり。一切の例外なく、「広宣流布」を根本にする祈りは「叶う」という事である。
○ 然し「叶う」為には条件がある。 ⇒ 自身を『法華経の行者』としての「分類」の中に置く事だ。
こうある ⇒ 【 但 法華経をもつて いの(祈)らむ祈は 必ず祈となるべし 】 本抄 1344-2行目

( 自身の事を祈るのは「信者」 広宣流布の事を祈るのは「行者」 という牧口先生の箴言・指導を踏まえつつ。)
『法華経(御本尊)に対して祈る人⇒(法華経の行者)』を、舎利弗や迦葉等の「一切の二乗界の仏」は護る。
どころか…その『法華経の行者』の一切の「苦」をも、千二百・万二千の二乗界の仏達が総じて受け持つ。
1344-45〜行目

とどめを指すように 『日蓮大聖人』は、こう述べられている。↓
【 一切二乗界 『法華経の行者』を まほ(護)り給はん事は 疑あるべからず、
あやし(下劣・下衆(げす))の畜生なんども 恩をば報ずる事に候ぞかし、 】 1345-1〜2行目
とした後。仏達(一切二乗界)の成仏を、実現させたのは 他ならぬ『法華経の行者』であったのだ。
だから…『法華経の行者』の祈りが、全部叶うように 今度は二乗界の仏達が動くのだ。 
『諸天善神が動く』とは、この事をいうのである。 1345-12行目

【 法華経の行者をば 諸天・善神・守護すべきよし 属累品にして誓状をたて給い 】
とは この事である。  『四条金吾殿御返事 1192-3〜4行目』

簡単明瞭といえば、これほど解り易い『御聖訓』はない。

然し。本抄『祈祷抄』の深さは底が無い。     超々・難解であるという事である。
先ず『対告衆』の最蓮房自体の生き様や、価値観や、求道心の根幹などを、
師匠の『日蓮大聖人』がどう捉えていたかである。
(最蓮房が師匠『日蓮大聖人』をどう捉えていたかではない)

その為にも、以下の暗示的な御記述を先ず注目して頂きたい。
それが『最蓮房御返事 1340P』の冒頭の【 夕ざり(薄暮〜夕闇の迫る時刻)は 相構え相構えて御入り候へ 】
『日蓮大聖人』を慕いに慕って、日夜連日の訪問を繰り返す『最蓮房』に対して、細部への御指導であった。

直弟子の多くが『流罪地・佐渡』への同道を許されなかった中での「僧形・最蓮房」の連日の(弟子への)懇請に、
「貴殿こそ在在諸仏土常与師倶生を身読の如くの人で、(私の弟子となられた事は)素晴らしい事だ」1342P 8〜10行目とされる。

そんな私(日蓮大聖人)の揺るがぬ『師弟不二』の証明として…と。最も重要極まる御聖訓を述べられるのである。↓
【 何となくとも 貴辺に去る二月の比(ころ・頃)より 大事の法門を教え奉(たてまつ)りぬ、
結句は卯月八日・夜半・寅の時(刻)に 妙法の本円戒を以て 受職灌頂(授戒)せしめ奉る者なり
此(こ)の受職を得るの人 争(いかで)か現在なりとも 妙覚の仏を成ぜざるらん 】  1342P  15〜16行目

誠に恐るべき御記述である。
『日蓮大聖人』は「最蓮房」に対して、『日蓮仏法の後継たる契約』の『授戒』⇒『受職灌頂』を実施されたのだ。
※此の「本門授戒」の実際は『日蓮大聖人門下』では「最蓮房」一人のみである。というから『恐るべき』…というのだ。
↑これは『富士日興上人詳伝(下)聖教文庫 194〜195Pに詳細されておられるので、是非とも拝読されたい。

その上で『祈祷抄』を「繙き」「拝読」していくのなら、概ね『正読』と申すものである。

その『正しい読み方』を左右する急所とは ⇒ 私こそ『法華経の行者』なり!という「確信」だ。

[540] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月03日 (日) 07時54分

ところで…嬉しい話がある。 それは、来週の日曜日の『座談会』に御招聘いただいた事である。
『B長さん』が、『御書もやれ』と仰る。  これは倍増に嬉しいのです。

「愚壮」でなければいけないので…と続けられた 「目前の 我がブロック座談会に参加せよ」。
私は歓喜して御招聘を受ける。  御自宅に帰られる「後姿」が街路の角を曲がるまで見送った時。
既に「眠気」は去っている…と。 重複する事を厭わずに『御書』を繙いていた。

上の二段の記述は10日(日)の座談会。 下の三段は9日(土)の座談会。
この二箇所からの御招聘に、私の歓喜は『坩堝』なのです。  為念愚壮

[541] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月04日 (月) 05時37分

『T水滸会』  その後の経過が霞んで見える…と。記述を続ける。

御紹介の如く、『S前総県長』を中心にした『T水滸会』は、2010年11月7日に第一回を開催している。
式次第の片鱗も、既に御紹介申したが… 『式次第』等は、二・三の次と、参加者は『S前総県長』の講義を求めた。

続行中の「リハビリ」の関係で、『S前総県長』は経机の左側、最前列の「安楽椅子」に在る。
『T支部長』導師の朝の勤行は、研ぎ澄まされた日本刀の如くの「一閃」であった。

しわぶきのない会場に「司会者」が屹立し、『瀧の詩』が厳かである。

やがて…『S前総県長』の講義となる。
『氏』には、大きな癖があった。 それが「自分自身」での「大納得・大確信」の『御自身への叫び』であった。
参加の人に混じって、「ソッ」とした風情で、 ごく少数の御婦人部の姿が覗える頃、講義は佳境となる。

下記は、そのような『T水滸会』の、最後(突然中断された)の「講義骨子」である。
勝利の経典 『御書』に学ぶ       池田名誉会長講義 大白蓮華 12月号            コピー : 注意
『日女御前御返事(御本尊相貌抄) 1243P〜1245P』 約2,000文字    御述作地⇒身延    御述作年月日⇒建治3年(1277年)8月23日
 対告衆⇒『日女御前』の事 ⇒ 池上宗仲の妻女・松野後家尼御前の娘(二説あり)⇒身分・財力の豊かな婦人・信心強盛の人 
本抄の次年・弘安元年(1278年)6月25日に顕された『日女御前御返事 1245P〜1250P』では甚深・難解の御書を賜る。
その中で『日蓮大聖人』は「日女御前」の事を【法華経の命を継ぐ人(趣意) 1250P】と称えられている。約4,500文字
 
【 抑(そもそも) 此(こ)の御本尊は  〜〜  諸仏 すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり  】
上記の御書本文冒頭 (1243P 1〜9行目迄) の重要部を学ぶ。云云。

上記を最後に、『T水滸会』は急遽の中断となった。

では、その『S前総県長』は、如何されておるのか…
又。次の『T水滸会』を待ち焦がれている『十七人の猛者達』はどうしているのか。

いや。それよりも… 本『T水滸会』を企画した二人は、果たして悩んでいるのか。
『T水滸会』を企画・実行に漕ぎつけた二人(『T支部長・愚壮』)は、苦しんでいるのか…
そこが、最も大事な一点である。     ここに、急所たる事象がある。

[542] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月05日 (火) 05時02分

『T水滸会』 U
上記・『日女御前御返事(御本尊相貌抄) 1243P〜1245P』が2011年12月4日である。
これが、第9回である、という事は…「母体」の日程の大綱に合せて、連続の開催ではない。
第一回の、2010年11月7日で、上記が第9回とは、途中の開催が順月(毎月の実施)ではなかったという事である。

そんな(連続開催でない)会合が、急遽の中断とは、全く「納得」なんぞ出来る訳がない。…
という程、十七名の猛者達が皆 待ちに待った『T水滸会』ではあった。
そのような2011年12月5日。 一人の『訃報』が世間に聞こえた。
勢い、この人の生前の振舞にも『悲喜賛否』交々(こもごも)の話題が持ち上がった。
が…既に「鬼籍の人」である。

ただ一点いえば…
「絶対負けない」とされた闘いが負けた時、この(鬼籍の)人はマスコミのマイクにこう言ってのけた。
『敗軍の将 兵を語らず…』と。

これは「将」が優秀であったが   「兵」の未熟・誤算ゆえに、戦いの負けたのである。
しかし『優秀な将』たる私は、「兵」のせいで敗れた戦いの総括をして、「兵」を攻めない。
つまり。『闘いの敗因は、兵にある』

この際言うが…。   「兵」とは。    交流に・F活動にと、必死で戦った「健気の人の群」の事だ。
こんな根底で、無垢の庶民を「内心」で見下げていた。   そういう事なんだ。と、猛者は言う。

[543] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月06日 (水) 04時37分

『おにゆり様』へ  
2012年6月5日 05:02分 投稿の訂正を申し上げます。 
後から5行目  ≫戦いの。←は×であります。   正解は⇒ 『戦いに』です。
更に     ≫攻めない。←は×であります。   正解は⇒ 『責めない』です。

平成23年12月11日15:10頃、 私は『S前総県長』宅へ赴いた。
用件は、最も重要と思われる記述文を御届けする事であった。  

『最も重要と思われる記述文』 それが…。
『日亨上人著作:御書&序』の「本文とその現代語訳の全文」
及び  『戸田城聖先生・発刊の辞』(原文)である。
(『日亨上人:御書の序』の現代語訳全文と、 『戸田城聖先生・発刊の辞』(原文)の一部は『風景』に記述済)
『S前総県長』はあいにく不在であった。  私は、その分厚い原稿を奥様に御預けし、帰路についた。

そして、3日を経た平成23年12月13日。『S前総県長』から、上記の三通の文章に対する返礼メール届いた。

云く 【 あなたは 凄い人だったのですね。 今まで解らなくて 許して下さい 】であった。
その時の率直なる「愚壮」の心境は…『S前総県長』には悪いが、真逆である。

『S前総県長』!愚壮は貴方との出会いの日から、『愚壮』となったのです。
それ以外。私が「愚壮」に成る設定は皆無でありました。    私はこう叫んだのである。

どうも私は、物事を解りにくく言う癖がある。 そこで、もっと簡単に言うならば…
『S前総県長』に初めてお会いして、「人が変った」ように『第59世:堀日亨上人猊下』の序文の拝読に向かう。
『S前総県長』と『第59世:堀日亨上人猊下の御書・序文』との接点は、説明に何百年もかかるが…
『S前総県長』 貴方はそういう暗示を備えた人であったのである。

但。暗示を暗示と気付く人は、先ず殆んど居ないと断言できた。
とにかく。『S前総県長』とは、そういう変な(言い方が見つからない)人であった。

『S前総県長』との出会いの日とは、昭和56年の「名物部長」率いる男子部『折伏方面制覇』だ。
あの時の『鬼の方面青年部書記長』の「S氏」が、今の『S前総県長』であり…。  
又 当時。『熊本県学生部』出身の「S氏」が、現今の『S前総県長』である。  

この時、『T支部長(当時・男子部大B長⇒32歳)』 『愚壮(当時・男子部副大B長⇒36歳)』

かくして…『T水滸会』の突然急遽の中断を、最も苦しみ悩んだのが、この二人であった。
(これは、内緒話であるが… 急遽の中断は今も続いている。    が… 
遮二無二の持続も叶わぬ 諸般の事情も、是は無くはない)

これは、上記に深く関連する事であるが…。
今日。本日(6月5日午後・於 公園)。くだんの『T支部長』に実際に話した。
『T水滸会』…いつまでも「中断」は、チト困るのではないか。…と。
これには『T支部長』も、即答ならず 困っていた。
『どうしたものか…』 二人の悩みは、当分続きそうである。

[544] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月06日 (水) 10時20分

2012年(平成24年)6月6日は『牧口常三郎創価学会初代会長』の生誕の日である。
「聖教新聞」連載の『新・人間革命』に於いて、「牧口先生」に関する御記述が開始されたのが…
本年の5月21日であった。  ワシなんぞが「大事であるから保存しておけ」と言ったものである。

『牧口先生』の御生誕は、明治4年である、という事は「太陽暦」が一般に起用される壱年半前となる。
したがって、この『御生誕の6月6日』を、「旧暦」と但し書きをしておられるのだ。
すこし余計な事かも知れんが…   6月6日が新暦では「7・3」となる。とは、 誠に不思議ではある。

以下。大きく割愛した概略で恐縮するが…、
『新・人間革命』では「虐げられた守子(子守の子供にも容赦なき差別)」を、大きなテーマとし。
その「虐げられた庶民の子供」を最大に守護する事を、生涯の指針とした『巨人・牧口先生』を細描している。

感動のエピソードが、幾重にも綴られる中で、輪郭が見え出す物がある。 それが『正法』である。
『牧口常三郎創価学会初代会長』が着目した『未曾有の方程式』とは、『日蓮仏法』への直射であった。
この、都合五〜六回に分筆された『牧口常三郎論』が、
最近では滅多にない「保存文章」だと決め付けた所以がここに在る。

『牧口先生』は柏崎県刈羽郡荒浜村で御生誕とある。
この地は『日蓮大聖人』が「竜の口法難」直後、「依智」経由で着かれた『寺泊』(寺泊御書 951P)に至近である。 

又。『日蓮大聖人』が、この地(寺泊)に到着されたのが1271年(文永8年)であられ。
『牧口先生』の御生誕が、その「六百年後」の1871年である。
こういう部分を、やれ「偶然」だの・「たまさか」だの…と、言っている様では『森羅万象』をナメきっておる。

『戸田城聖第二代創価学会会長』『池田大作創価学会第三代会長』に比べて(くらべる如きではないが)
若干、情報の少ないきらいの『牧口常三郎創価学会初代会長』が、ここにきて「巨大」なる御姿・御存在となる。

故に「愚壮」は声高に訴えるのである。 
「牧口先生の事は、特段。謹んで勉学・研究・保存せと。」…と。

『牧口常三郎創価学会初代会長』の総ての御足跡を真摯に学ぶ中でのみ、
『師匠』及び『師匠の師匠』が、俄然浮上する。
極言すれば、『牧口常三郎創価学会初代会長』を学ばない「師弟論」は『煙』の如きで、
何の値打ちも、意義も…ましてや説得力も無いのである…と、決めて『学べ!』。
…それが 『創価学会』である。

[545] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月07日 (木) 04時39分

牧口先生の少年期の記述には、【 養父のもとで働く事になった(彼は)成績優秀であった(ので)
周囲から才能を惜しまれ、進学を勧められたは、家庭の事情がそれを許さなかった。】 とある。
牧口少年も又。働く為、食い扶持を得る為に生きていたのである。

その「牧口少年」が、小樽警察署で給仕をしながら。勉学に励めるように状況が好転している。
直後記載の「北海道尋常師範学校」第一種生入学に至っては、卓抜を放置しない『救い・糺眼』を見る。

牧口先生が「北海道尋常師範学校」を卒業されて、教職に就く事自体が『創価学会』の胎動と見てよい。
『牧口常三郎創価学会初代会長』が決められているが如く、牧口先生の人生そのものが「昇華」されていく。

その代表が『人生地理学』の出版である。 この概要に関しては『新・人間革命』を参照されるとして…
筆者には、『人生地理学』とは『地湧(涌)の菩薩の義』に直結してならない。

とまれ。「牧口先生」は自署『『人生地理学』を引っ下げて、上京している。
この頃、福井県の海辺の街『大聖寺』で、戸田先生が御生誕されている。

牧口先生が、東京・本所「三笠尋常小学校」の校長に就任したのは、1920年(大正9年)である。
『新・人間革命』には書かれていないが…この年の4月24日「戸田先生」は夕張から東京に飛んでいる。
つまり『牧口・戸田』という、稀有の師弟がこの地で邂逅していたのである。
『創価学会』の産声は、『東京・本所』であったのだ。

後の『牧口常三郎創価学会初代会長』をして、「価値論」と『日蓮仏法』との融合こそ『彼の全人生』と言える。
それが…今回(2012年5月21日からの五・六回)の『新・人間革命』の記述である。
ゆえに、もう一度言っておく。  保存するように…。


扨(さて)も。人生とは辛く儚く短いものである。
以下の御訃報は、昨日(2012年6月6日)の事であった。
『ヒゲの殿下』と万人に親しまれた『三笠宮寛仁(ともひと)親王』が御薨去となられた。享年66歳という御若さであられる。
この際。誤解を招く「語呂合わせ」は絶対に不適当であるが、『三笠』とは…実に由緒の正しい語句である。

[548] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月08日 (金) 05時56分

秘話『忘れ得ぬ風景』
2008年10月27日付の投稿は、爾後約4年の空白『風景』の締めである。 それが以下だ。

(  2008年10月27日 (月) 11時06分
今年の夏が、特段に「猛暑」等ではない…と。 私は納得していた。
『どうやら ワシの方にガタが来ている』 これなら納得であった。(中略)
そんな「風景」は、面白くもなんでもないじゃろうが…
ワシの生涯では此の「風景」。きっと上位にランクと思うのである。
以上。  長文。且つ駄文であったが、
是非とも、御読み戴きたい。と、書きました。  愚壮遺す  )

最後尾の「愚壮遺す」は… 
『この投稿が最後になるかも知れない』という危機感が、無意識のうちに『遺す…』を使ったのであろう。

これ(上記の投稿)が、2008年10月27日 (月) 11時06分であった…。   

しかし、この投稿文章が発表されたのは2010年11月09日である。
〈 愚壮さま  遅くなりました  2008年10月27日の稿 風景に載せました 
 お約束の「書き続ける」を お待ちしています  2010年11月09日 (火) 23時57分 〉

『風景』全体を、命懸けで護られた『一人の人』は…最後になるかもしれない原稿を「二年間」も保持された。
実際同時に、多くの同志の暖かき御激励に触れているが。 私にとって、この「二年間」の御信頼以上の感謝はない。
これは、只事ではないのである。 
つまり…(もし復帰して、今後も投稿を続けるのであれば)
「絶対に、文章全体の責任性・正確性を死守しなければならない」のだ。
「表現が違うようだが、言っている事は「本筋」で間違っていない」  これは…多様な価値観の中では「大難事」である。

その煩悶を打ち消すが如くの…  「寒風の中の毅然」を、愚壮は見る。
それが、私の逡巡を「蹴散らした」のである (以下)

〈 2009年11月02日 (月) 22時09分
突如としての寒波到来に 桜を仰ぐ
木々の揺れる中で
その桜は紅葉し 強風を受け流す (以下 略)〉

2008年10月27日の投稿は、予めの予測でも、起こり得る事への期待でもない。
『何故、氏(『初代 K市 I 圏長』)は非常時に、私宅に来られたのか』 
この一点が、話の本筋を露呈させたのである。…と。 これは、今も思っている。

極言はこうである。『師弟』とは「順風満帆」の時は、放っておいても生きている。
問題は『瀕死の中の貫徹』である。

[549] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月08日 (金) 19時19分

≫「表現が違うようだが、言っている事は「本筋」で間違っていない」
≫せめて、最低上記の事くらいは、守り貫く可(べ)きである。

もう一度(もう一度だけ)確認しておく。
『初代 K市 I 圏長』は、あの炎暑の中。何故『愚壮宅』に来られたのか。
氏の周辺には当時。多くの『壮年幹部』が実在していた筈である。
が…しかし。『初代 K市 I 圏長』は既に『鬼籍』に入られている。 確かめも侭ならぬ。


当時の愚壮の特筆は『絶対に曲がった事・理屈に反する事』を梃子でも認めない事であった。
梃子(テコ)でも駄目。とは、誰が来ても『駄目なものは駄目』という事だ。
…これが『愚壮』こと私を、コチコチに凝り固めた「オッサン」にした。
「オッサン」の癖は、口を開けば『謗法厳戒』である。
この『謗法厳戒』なんぞは、総本家の宗門でさえ、トックの大昔に忘れ去った『宗門(宗教)の根幹』である。

閑話休題 。
『T支部長』とは、20代の真ん中くらいからのつきあいで…『忘れ得ぬ風景』にも何度も顔を出す。 
「愚壮」にとってこの人は、つまり「刎頚・竹馬」の括りでも通用する『同志』である。

この『T支部長』が、職場の近くの公園で言った。
「4日(月)の「県」の地区部長会に『Y氏 (O長)』が担当幹部で入った」
『Y氏 (O長)』 若き「次代の人材」として確たる幹部である。   ※(O長)の「O」とは地名を言っている。

他の人の 『Y氏 (O長)』の「評価」。    これには、全く興味はない。
但し。私の評価は良好とは言えぬ。
それは…随分以前の※『K長』辺りから、柔らかいのか硬いのかが不明の人である故だ。
※『K長』⇒これも地名。現在のK市
私が地区部長時代の頃。座談会の担当を要請したが、 非常に手続きの煩雑な「幹部」で困った経緯がある。

この『Y氏 (O長)』の不運さは、
「絶対に負けた事のない戦い」を、衝撃の敗戦に追い込んだ時(2009年8月)の「長」であった事である。

「『絶対不敗』を虚言にした責任者が、あの屈辱から三年も経ない時期の会合に、御登場かね?」
とは、その時の『T支部長』の会合の話への、皮肉たっぷりの『愚壮』の言い分であった。

私は続けた。「さしずめ話は、過日(2年9ヶ月前)のあの「法戦・敗戦」の総括に及ばれ、謝罪された事であろう」

『T支部長』は即答された。「そのような愁傷な言葉など、ある訳も無い」…。
つまりは、誰一人として、重い責任など「負おうとしない」どころか…深く反省して噛み締めていない。

…あの時、深く苦しまれていたのは『池田先生』御一人のみであった…とは、
周りの、その類(たぐい)の御偉方の言動で 容易に見当が付くのである。
否。これが『創価学会の大幹部達』の実態・不抜の構図だ。と言い切るから…
皆はワシの事を、やれ『幹部批判』だの 『学会批判』だのと、出来損ないの鸚鵡のように垂れ流す。

しかし。言っておく…。  この事を含めて、「無垢・無辜」の草創の同志の方々は見ておられる。
健気なる『学会員さん』の御諸賢の皆様が、ジッと『師匠の御振舞』と「貴様らの付け焼き刃」を見ているのである。
伊達や酔狂での「草創⇔長期間」ではない。  つまり…インチキ幹部は見透かされているのだ。 

…と書く愚壮は…  「今日は機嫌が悪いから言う」のではなく。
言わなければ、「ノサバル」から言っておるのだ。

[550] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月09日 (土) 06時26分

『跳梁跋扈』という言葉がある。
一体 何者が、我理を申し通して「跳梁」し、黙殺しても「跋扈」するのか。
この輩を指して、「己心の魔」と一括して言い当てている。

「己心の魔」は、ソロリと御出現などせず「跳梁」する。
いわば、所在が定着していない。 まったく「跳梁」であり『蚤』である。
否。『蚤』では、当の「蚤」に申し訳ない。…と、  付けた名前が『魑魅魍魎』である。

結句はこうだ。
『魑も・魅も・魍でも・魎でも』皆是れ、「己心發」の産物であり、性善者の突然変異なのである。

『日蓮大聖人』の抹殺を、本気で画策した人物の類似は、近代には存在しないのか。
答えは『厳然と存在する』である。

では 誰か。                 
それは言えない。 言い当てれば、必ず最悪の展開になるからである。

否。もっと…。  事は深くて複雑である。
例えば…『キング博士』は最悪を言い当てた直後、暗殺された。
『ガンジー』とて同じ枠内である。     

誠に残念であるが… 
「殺戮」による「あらゆる諸活動」への終止符ほど、簡単で効果的で能率的なものはない。
…と。 歴史の暗部は、あの独特の濁声(ダミゴエ)で語り残そうとしているのだ。

『正』と『邪』との闘いである            …所詮。
であるから、『正しい側の内に生息する悪』を指摘・指弾しているのだ。

『理想』は、言い放すのみの「無責任」に安住している。
そのうえで、「正鵠を射る(無責任への指摘)」の論者を     巧みに疎外しゆくのである。
何故か。 そのほうが、断然 居心地が良いからである。

『居心地』の良否を求める組織の末路は、『崩壊』が確実に襲い来る。
『創価学会』とは、正史を紡ぐ通過点にある組織である。  後世(こうせい)を慮(おもんぱか)れ。
「真の伝持の人」たるの「使命」は、 『これでよいのか』と、再度我が身を「糺す」事である。


今日。 その『父君』との永別に、甚深の達観の同志(盟友)の書を拝す。
引用は直近なれども、結論は高潔遠望なり。 これぞ『創価』である。

閑話休題。
昨夜。『H氏(B長さん)』が来宅されて、こう言われた。
「明日(9日)の座談会。宜しくお願い致します」

私は言う。
B長さん。わざわざの御連絡、勿体無い事です。
その用件は、電話で『明日の夜、座談会に来い』で充分です。と申し上げた。

B長さんは言われた。
『それは、愚壮さんはそれで良いけど、こっちが駄目です』

慇懃無礼  そうです。「慇懃」すぎるは 「無礼」なのです。
                    …正論です。

[551] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月09日 (土) 10時45分

『謗法厳戒』は鉄則である。
大白2011年3月号「上野殿御返事」(勝利の経典「御書」に学ぶ、第26回 抜粋)
謗法呵責は、人間の可能性を閉ざす諸宗に向けられているが、
法華経以外のすべてを「直ちに謗法と断ずる」ものでない、とある。
逆に、直ちに謗法とすれば、
僅かながらでも残されている「可能性」をも否定することにつながる。
(※ここで言う「可能性」とは、元々無智・元品の無明から出たもので、性善である事だ。)
(それとも ここに言う「可能性」とは、先祖伝来の宗教を「謗法である」と『嘘』をついてくれた
学会員さんに対して、目出度く入会する「可能性」なのか…。 これは嬉しくない )

法華経以外のすべてを「直ちに謗法」と断じた側も、謗法となり、独善の塊になる。
(※法華経の中に『随方毘尼』という方程式が確在する事を認識し、踏まえた上で言っても。
この隙間を縫って 『師匠が外道をも認めている』 と言うが如きの「ヨタ」が蛆虫よろしく涌くのだ。)


学会の宗教革命の基準は「人間のための宗教」の実現。民衆の幸福を目指す宗教の復権で、
これを基調とし、平和・文化・教育の運動にも高めて実証を示して来た。
(※ 人間の幸福を目指す宗教の復権の為に選んだものが『謗法厳戒』の破棄(弛緩か?)である事か。
「人間のための宗教」と称して、盲説をブチ撒いて来た「似非宗教家」を、私は「謗法」と呼んでいる。 )

主体者は学会で、依拠とするものが法華経、いや、末法では御書にほかならない。
(御書が御書としての体裁を整える為に、いかに膨大な資料として『経典』が繙かれたかは既に御存知)

が、仮に御書、御書と一方的に主張しても、
(この御記述は、一見、事有る毎(ごと)に『御書』に言及する論法を推奨しているようで、
実は、最も激しく『御書』そのものを卑下しているものである)

思想性や哲理性で相互認識、理解を持たない限り、議論は空理空論に陥る。
( 上記は、目晦(くら)ましの論法で、言いたい事は『(三つ目の)一方通行への警鐘』であろう
しかし、併せて言っておきたい。     ネットでの『対話(相互認識)』は「貧困の思想の炙り出し」に落着し
揚げ句の果ては『空理空論』と対手を罵倒するからだ。 )


ゆえに、社会に開かれたコミュニケーションの「基準」が必要となる。
正論の発信とあくなき対話の展開、現実相での実証を目指すのが、
学会の、人間のための理念に基づく行動。その行動基準は、日蓮仏法の大哲理に揺るぎなく根ざしている。
( 上記の為に、『日蓮仏法』の集大成でなければならない『御書』の更なる「超克」を期す。
余計な事だが    誰が、『創価学会』を ここまで潰したのか…と、嘆きながらの記述である。 )

最後に、諸悪の根源たる『念仏・弥陀』の誑惑に関する「断簡」を紹介する。

【 同時に二仏に亘るか 将(は)た又 一方は妄語なるか
近来 念仏者 天下を誑惑するか、早早 御存知有る可きか。 (後略) 】 
『石本日仲聖人御返事  1454P』   (断簡)

[552] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月10日 (日) 07時28分

【 ※経文に我が身・普合せり 御勘気を かほれ(蒙)ば・いよいよ悦びをますべし
例せば小乗の菩薩の未断惑なるが 願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども
父母等の地獄に堕ちて 大苦を・うくるを見て かた(形)のごとく 其の業を造って
願って地獄に堕ちて苦(くるしむ)に 同じ苦(同苦)に代れるを悦びとするがごとし、
此れも又 かく(※印の一連の御記述の事)のごとし
当時の責(せめ・苦の実態)は た(耐)うべくも・なけれども
未来の悪道を 脱すらんと・をもえば 悦びなり。 】『開目抄上 203P』

【 涅槃経に云く「一切衆生 異の苦を受くるは 悉(ことごと)く是 如来一人の苦なり」等云云、
日蓮云く 一切衆生の同一苦(同苦)は 悉(ことごと)く是 日蓮一人の苦と申すべし。 】
『諌暁八幡抄 587P』

【 第十六 我亦為世父(がやくいせぶ)の事
【 涅槃経に云く「一切衆生 異の苦を受くるは 悉(ことごと)く是 如来一人の苦なり」等云云、
日蓮云く 一切衆生の同一苦(同苦)は 悉(ことごと)く是 日蓮一人の苦と申すべし。 】
『 御義口伝下 758P』

【 尼ごぜんの御所労の御事  我身一身の上(正しく同苦)と をもい候へば
昼夜に 天に申し候なり、 】 『富木殿御返事 978P』

【 いかなる事も 出来 候はば 是(これ)へ御わ(亘)たり あるべし 見奉らん・
山中にて 共に(同苦の極限) うえ(餓)死に し(仕)候はん 】『乙御前御消息 1222P』

『法華経本門』の「同苦」に比類する物がないという御聖訓がある。
それが ⇒ 「治部房の祖母」への御書とされる『盂蘭盆御書 1427〜1430P』である。
【 全文の通解 ⇒ 例えば ⇒ 浄名経(維摩経・ゆいまきょう・小乗経を痛烈に破折した大乗仏法)にても
目連は「貧道の母」を済度できなかった事をあげて、
『法華経』以外の「諸経」で祈るところの、一切衆生救済が「不可能」と説く。
かの『平清盛(太政大臣)』さえ、如何ともならなかった「法門」が『法華経以外の仏法』である。
この事を ⇒ 『悪の中の大悪』と断言されている。  以上⇒『盂蘭盆御書』

逆に拝せば ↓ 
『法華経(御本尊)以外の「爾前の諸法」に、寸毫の活路(悪法にも良い部分があると言う事)を…
認めたり、求めたりする者は 最早。『日蓮仏法』の末裔でもなんでもない。
これは。『法華講』『日顕宗』『日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)』『創価学会』等々という、
一連の『日蓮仏法』の範疇・分類から、自分自身の離脱を確定した重大なる事実である。
勿論。『創価学会員』を名乗る事などは、『自ら否定している、大明白の事である』

ある人々が (これは誰にも平等に…) ある人々の『苦悩』を、自分の「苦」として「悩む」
そして、「苦悩」の中に「打算・計算・演出」がない限り、彼と共に苦悩して往く。(とことん行く)
これが「同苦」である。   しかし、是れでも尚。漠然の域は脱していない。

何故「漠然」か…。   
異議もあろうが言う。  それは、『願兼於業』が抜け落ちておる。
『仏法』・就中『創価学会』とは、 その部分を強調し実践してきたのではなかったか。

今。それさえも、消えつつある…と。申しておるのだ。

[553] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月10日 (日) 16時06分

『同志誹謗』とは、卑近な例だが『飲酒運転』である… そう 『一発アウト』なのじゃ!

【 譬喩品の十四誹謗も不信を以(もっ)て 体と為すせり  今の念仏門は…
不信と云い 誹謗と云い 争(いかで)か 入阿鼻獄の句を遁(のが)れんや 】
『 念仏無間地獄抄 97P 』  引き続きの御記述を書す。
【 其の上 浄土宗には 現在の父たる教主釈尊を捨て 他人たる阿弥陀仏を信ずる故に
五逆罪の咎(とが)に依って 必ず無間地獄に堕つ可(べ)きなり、 】
「同志誹謗・十四誹謗」は「念仏者」が常に行う得意技なんだ。だから『謗法厳戒』なのだ。という事。

【 夫(そ)れ 以(おもんみ)れば 法華経第四の法師品に云く
「若し悪人有って 不善の心を以(もっ)て 一劫の中に於て常に仏を毀罵(きめ)せん
其の罪 尚 軽し
若し人 一つの悪言を以(もっ)て 在家・出家の 法華経を読誦する者を毀呰(きし)せん
其の罪 甚だ重し」 】  『法蓮抄 1040P』

【 末代の法華経の行者を 怨(あだ)める者は 何(いか)なる地獄に堕つるや、
答えて云く 法華経の第二に云く 「経を読誦し書持すること有らん者を見て
軽賤憎嫉(きょうせん・ぞうしつ)して結恨(けっこん・うらみきめる)を懐かん 乃至
其の人 命終して阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫 尽きなば 復(また) 死し
展転して 無数劫に至らん」等云云、  『法蓮抄 1042P』

【 …夜廻りの殿原は・ひとりも・たのもしき事は なけれども・
法華経の故に 屋敷を取られたる人々なり、常にむつ(眤・昵懇)ばせ給うべし、
(中略)吾方(故有りの、あの方たち)の人人をば 少少の事をば・みず きかず あるべし】
上記は「法華経」故 『日蓮大聖人』の門下故に、家・屋敷を没収されてしまった「同志」にも、
一切の差別的な言動(同志誹謗)を強く禁じた御聖訓である。 『四条金吾殿御返事 1169P』

【 …鎌倉の えがら(荏柄)夜廻りの殿原には すぎじ、 いかに 心に あはぬ事ありとも
・かたらひ給え  】 『 崇峻天皇御書 1172P』

【 又 法華経をば 経の如く持つ人人も・法華経の行者を 或は貪瞋癡(どんじんち)により
或は世間の事により 或は・しなじな(品品)の ふるまひ(振舞)によって憎む人あり、
此(これ)は法華経を信ずれども信ずる功徳なし かへりて 罰(ばつ)をかほるなり 】
『 日女御前御返事 1247P 』

【  「若しは在家にてもあれ 出家にてもあれ、 法華経を持ち 説く者を…
一言にても毀る事あらば 其の罪 多き事、釈迦仏を一劫の間…
直ちに毀り奉る罪には勝れたり」 と見えたり、 或は(この事を)
「若実若不実(にゃくじつ・にゃくふじつ⇔本当であれ・嘘であれ)」とも説かれたり、

之れを以(もっ)て 之れを思ふに 
忘れても法華経を持つ者をば 互に毀る べからざるか、
其故(そのゆえ)は 法華経を持つ者は 必ず皆 仏なり
仏を毀(そし)りては 罪を得るなり。 】 『 松野殿御返事 1382P』

『御書』は絶対だ。 これに異論など ある訳がない。
上記抜粋は、そんな『御書』御記述の、ホンの一部である。 

あ。 言っとくが、『同志誹謗』とは、「行住坐臥」に亘っての警鐘。
特別の減免処置・減刑処置なんぞは、悪いが無いよ。

[554] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月11日 (月) 06時04分

『演繹と帰納』
『日蓮大聖人』の仏法は、「帰納法」で拝す…
先輩が御教え下さった、この言葉は。  聞いた瞬間から「心」に刻印された。

生まれつきの粗雑・薄学で、ともかく「学問」に一切、縁の無かった私は、
当然。上記『演繹と帰納』の本意を知らない。

唯。『演繹』は ⇒ 物事・事象の沿革を、始点から順次に説き。
『帰納』は ⇒ 先ず。その提起する事の、結論を言ってしまう。
…と。 甚だ「非弱」な覚え方で、こんにちまで来たが。

しかし。 この潰れかけた「脳味噌」にさえ、ハッキリと残っておるのが『帰納』だ。
これは確か…「戸田先生」が こう言われた中に在った。
『仏法・就中  「日蓮大聖人」の仏法は、 先ず「結論」を言ってしまう事だ』
『これは、「帰納法」と言って、全哲学の二大形態のひとつだ』
概ね、この様であった…。

そこで、恥も外聞もなく、その通りに『御書』を拝した。
これは勿論。「愚壮」だけの秘密で、皆には言わず。内緒で行った。

教材は『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の巻末である。(いずれも 254〜255P)

【 (ゆえに…)仏・大慈悲を起こし 五字(妙法蓮華経⇔御本尊)の内に此(こ)の珠を裏(つつ)み
末代(五番目の五百年以降時代の一切衆生)幼稚の頸に懸け さしめ給う、
(上行・安立行・浄行・無辺行の)四大菩薩の 此(こ)の人を 守護し給わん 】

↑…という事は、こう言い切っても過言ではない。
【 「智人は起(物事の発端・縁起)を知り 蛇は自ら蛇を 識(し)る」等云云、
天 晴れぬれば 地 明かなり 法華を識(し)る者は 世法を得可(べ)きか。 】

↑…と。 当然の進捗で『帰納』されている。

それでは、何故、必然と。そうなっていくのか。 (『御書』の展開の凄さが、ここにある)

それは。こういう事が、そうさせるのだ。↓
【 此(こ)の時 地涌千界出現して 
本門の釈尊を脇士と為す一閻浮堤第一の本尊 此(こ)の国に立つ可し
月氏(インド) 震旦(しんたん)に未だ此(こ)の本尊 有(ましま)さず 】

上記一連の究極の御記述に、『…だから …何の為』という骨組の論旨がある。
「…なぁるほど…」と、御書を閉じる。

一生涯で、何万キロと遊弋する『鮪』に向かって…
「田植」だけの時期に、溝から溝へ必死に泳ぐ如きの「愚壮鮒」が物を言う。
誠に、御笑いであるが、聞いて頂きたい。      と、記述した。

[555] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月11日 (月) 09時52分

『落とし穴』
これの規模(大きさ)は、戦車をスッポリ落とせる物から、小さなケダモノの罠まで…種種雑多だが。
事。『仏法』に関する「落とし穴」は、これは笑い事ではない。

何故。「笑っている場合ではない」のか、というと。
「仏法の落とし穴」に限って、自身が『既に自分は堕ちている…』という認識がないから困るのだ。

その危険性を顕されているのが『御書』である。
ここに言う「危険性」とは、皆が共通に『堕ちる資格』の所持者である…という、幅の広さだ。
「…皆が堕ちる」 これは、聞き捨てならぬ…と。 『御書を繙く』

【 止観に云く 「若し信無きは  ※高く聖境に推して 己が智分に非ずとす、
若し 智無きは 増上慢を起し 己れ仏に均(ひと)しと謂う」等云云、 】
上記の通解は、要らんじゃろう   『 開目抄下 226P』 
唯 言えば。 (※高く聖境に推して)とは、『ある高説を展開するには、
その(説く人の)境涯からして讃嘆・推挙すべきである…と。謙虚であれ』とする。

今少し難度の高い『落とし穴』を学びたい。
【 (宗派毎の雑多の本尊を示した後の問い)何ぞ天台宗に 独り法華経を本尊とするや、
答う 彼等は仏を本尊とするに 是は 経を本尊とす 其の義あるべし、
問う 其の義 如何  仏と経と いずれか勝れたるや、
答えて云く 本尊とは 勝れたるを用うべし、(中略)仏家にも又 釈迦を以(もっ)て本尊とすべし。
※問うて云く 然らば汝云 何ぞ釈迦を以(もっ)て本尊とせずして 法華経の題目を本尊とするや。
答う 上(かみ・先述)に挙ぐるところの経釈(経典の解釈)を見給え (この釈は)私の義には あらず
釈尊と天台とは 法華経を本尊と定め給へり、 】
だから、私(日蓮大聖人)も本尊を法華経(題目)なのだ。との御金言である。 『 本尊問答抄 366P』


以下は『堂々の切り返しである』(『落とし穴』関連)
【 …疑って云く  法華経の行者を あだ(怨)む者は頭破作七分と とかれて候に・
日蓮房を そし(毀)れども頭も われ(割)ぬは日蓮房は法華経の行者には あらざるか 
…と申すは道理なりと をぼへ(覚える・認識する)候は いかん、
答えて云く 日蓮を法華経の行者にてなし と申さば…】と「邪僧」の名前を実際に挙げて
痛烈に「破折」されている。   『 種種御振舞御書(佐渡抄) 924P』

「邪僧」の名前 ⇒ 法然(念仏) 弘法・善無畏・慈覚(真言)

『落とし穴』の表現は、あまり感心出来ない?  ふん。 何とでも言え。
日がな一日 仏門に居た『宗門』の大半が、この『落とし穴』をも見抜けなかった。
『出家』が上品で『在家』が下輩。 この感覚が拭いきれなかったのは、一体誰じゃ。

『法衣(衣)の権威』に、一瞬でも寄りかかった「創価学会」の反省は否定しないが、
能天気に、別世界の幻を追い求めた『宗門』の百害は一利とて見出せぬ。

少なくとも、『訳の解らぬ御託』を速(すみやか)に廃して、宗教家らしく振舞え。
「時間切れ目前」が、まだ解せぬのか…と。 嘆いている。


話題は変わるが。
最近の私は、ずっと「京都」だ。
「京都」というところは、さすがに「寺社・仏閣の天地」とあって、凄い規模の物量である。
その中で 『西本願寺』の正面を毎日走る。
この『本願寺』の正面には、概意こうある
「あの大震災の総ての被災の皆様の、一日もの復旧・復興を祈ります」

全ての人々と同じく 「愚壮」もまったく同じ苦悩であります。
どうぞ、国を挙げての「復旧・復興」でありますように、  祈ります。

(次回も『落とし穴』である)

[556] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月11日 (月) 16時50分

≫ この『本願寺』の正面には、概意こうある


早速、確かめたら『被災の皆様の苦しみに寄り添って…』とあった。
まったく言われる通りである。
「日本国全体」で寄り添うべきだ。

[557] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月12日 (火) 05時12分

『落とし穴』U
【 (問者⇔客 業を煮やして言う)…問うて云く 汝(日蓮大聖人の事)が義の如きは
我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭(てんぺんちよう)等あり  と、
(例えば…経文を引用して)⇒ 法華経の第八に云く「頭破れて七分と作(な)らん」と、
法華経の第五に云く「若し人 悪(にく)み罵(ののし)れば 口則(すなわ)ち閉塞す」等云云、
如何ぞ数年が間・罵(のる)とも 怨(あだむ)とも 其の義なきや、】 ←ここが『落とし穴』の真骨頂 

『日蓮大聖人』の反問・切り替えし(破折)は、 「あくまでも冷静」の中に、有無を言わせぬ冷厳がある。
【 答う 反詰(はんきつ)して云く 不軽菩薩を毀呰(きし)し 罵詈(めり)し 打擲せし人は
口閉頭破(こうへい・ずは)ありけるか 如何、 】

然し問者は…。それでも未だ、たたみ掛ける様に、こう続ける。 
【 問う 然れば 経文に相違する事 如何 】↓通解文
(不軽菩薩を毀呰・罵詈・打擲した人の、口閉頭破なきは 経文に反するのではないか)

そこで再び『日蓮大聖人』は 深き法理を説かれる。
【 答う 法華経を怨(あだむ)人に二人(二種類のパターン)あり、
一人は先生(せんじょう・元々)に善根ありて 今生に縁を求めて菩提心を発(おこ)して
仏になるべき者は 或は口閉ぢ 或は頭破る、

一人は先生(せんじょう・元々)に謗人なり(※ 此(こ)の人を「未生怨」といい「日顕」である)
(未生怨の人は)今生にも謗じ 生生に無間地獄の業を成就せる者あり
是は のれ(罵)ども 口則(すなわ)ち閉塞せず、
(この以下の御聖訓を 正しく咀嚼せよ)⇒ 譬えば 獄に入って死罪に定まる者は
獄の中にて 何(いか)なる僻事あれども 死罪を行うまでにて 別の失(とが)なし、
ゆり(免・免罪)ぬべき者は 獄中にて僻事(悪事)あれば・これをいましむるが如し 】

本抄は、この直後で完了しているが、問者の「発心」の言葉は、いかにも深い。
【 問うて云く 此(こ)の事 第一の大事なり 委細に承るべし… 】『 法蓮抄 1054P』

『落とし穴』は更に続く…。

[558] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月12日 (火) 06時08分

『落とし穴』V
「即身成仏」は唯 法華経に限る」…。  
この根幹中の根幹に 難癖をつけたのが『真言宗(大日経・金剛頂経)』であった。
どこから挑んでも「法華経」には勝てない。と、悟った「問者」は、時空の限定部分を持ち出す。
【 求めて云く 慈覚大師は伝教大師に値い奉りて習い相伝せり…(伝教:西暦806年比叡山延暦寺建立)
(それにひきかえ) 汝(日蓮大聖人の事)は四百余年の年紀をへだてたり 如何 】

次下・答えて云く 【 師の口より伝うる人】からの六行は(煩雑を厭うて全文不記)非常に重要である。
つまり…
[ 師匠の口伝を誤りなく後世に伝えたのか。
…であれば、何故 伝教の宗風(天台)が、慈覚によって「真言臭」に成り下がったのか ]
これが、本抄のこの部分(6行間)の急所である。
諸兄等は、どう読まれているのか。「愚壮」が聞きたいものである。

本抄結びの、【 遅々せさせ給いて 日蓮をうらみさせ給うなよ 】を、軽く読み流しては いけない。
以上 『 妙一女御返事 1258P』 抜粋

[562] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月12日 (火) 19時35分

『西本願寺』の被災者への想い…。 これは誰もが同じである。
然し。『法理』を云云する時は、 誠に残念であるが、「念仏系・浄土宗系」では根本的に堕獄である。
【 専修念仏の行は 諸宗衰微の基なり 】とは『念仏無間地獄抄 101P』の御記述である。

『日蓮大聖人』は、その『御書』に於いて 「念仏」に対して峻烈に「破折」をされている。
一部を抜粋して、『念仏宗』の害毒を確認してみる。
これは、ひとえに『謗法厳戒』が何故『日蓮仏法』の最右翼かを学ぶ為である。

【 三昧発得(さんまい・ほっとく ⇒ 自身の静観を完成した僧)の行者・
生身の弥陀仏と あが(崇)むる善導和尚・五種の雑行を立てて
法華経をば千中無一とて 千人持(たも)つとも一人も仏に なるべからずと立てたり、
(中略)善導の言と 法華経の文と 実に以(もっ)て 天地雲泥せり 何(いず)れに付くべきや
就中 其の(念仏の)道理を思うに 諸仏衆経の怨敵・聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり、
経文の如くならば争(いかで)か無間(地獄)を免(まぬか)るべきや。 】『聖愚問答抄上 481P』

【 今の世を見るに 正法一純に弘まる国か 邪法の興盛する国か 勘(かんが)ふべし、
然るを 浄土宗の法然は 念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ 善導は法華経を雑行と名(なず)け
剰(あまっさ)え千中無一とて千人信ずとも 一人得道の者 あるべからずと書けり 】
『聖愚問答抄下 495P』

ここで確認すると。
『千中無一』と、最も口汚く『法華経』を誹謗しているのが「専修念仏」である。

【 父母の面(顔)を ふ(踏)み  天子(帝⇔天皇)の頂(御頭)を ふ(踏)むがごとくなる者
・国中に充満して 上下の師と なれり 】 『瑞相御書 1142P』

【 日蓮・涅槃経の三十二と三十六を開き見るに 
(念仏・浄土とは⇒)誹謗正法の一闡堤常没の大魚と名けたり 】『 浄蓮房御書 1433P』

兎に角、言い切れる事は…。  『念仏』と冠する物・語句には、ろくな物が無いのだ。

[564] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月13日 (水) 05時17分

『念仏』の事 (順不同)
【 浄土門は 春 沙(いさご・砂)を田に蒔いて 秋 米を求め
天月(実際の月)を捨てて 水に(写る・虚像の)月を求るに似たり 】
『題目弥陀名号勝劣事 112〜113P』


【 当世に父母を殺す人よりも 謀叛を をこす人よりも (中略)
然公(法然の事)が 念仏を さえず(囀)る人人は・をそろしく候なり。】
『 十章抄 1275P』


【 南無阿弥陀仏を 無間地獄の業なりと申し候ゆへに・食に石を たひ(炊)たる様に・
がんせき(巌石)に馬のはね(跳)たるやうに・渡りに・大風(この場合は逆風)の吹き来たるやうに
じゅらく(聚落・村落)に大火のつきたるやうに・(中略)をどろ(驚)き・そね(嫉)み・ねたみ候 】
『 中興入道消息 1332P』


【 然るに今世にして 法華経は機(衆生の機根)に叶はずと云い
うとめて西方浄土にて 法華経を さとるべし と云はん者は 阿弥陀の浄土にても
法華経を さとるべからず 十方の浄土にも生るべからず、
法華経に背く咎(とが)重きが故に 永く地獄に堕つべしと見えたり、
其人命終入阿鼻獄(ごじんみょうじゅ・にゅうあびごく)と云へるは是なり。】
『 法華初心成仏抄 553P』


上記は『御書』に於ける「念仏破折」の、極々一部である。(多すぎて書けん)
ここに来て、『念仏を冠する諸事』に帰依するが如きは、『獅子身中の虫』であり。
『師敵対』という、永遠の不名誉を被(こうむ)る事であろう。    為念。

[565] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月13日 (水) 05時41分

『贈! ブラジル広布の母へ』
シルビア・E・サイトウ女史  1983年(昭和58年) 4月28日 逝去  享年57歳

【 多くの月日を送り 読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空(大空)にも余りぬべし 】
『 通解:これまでの多くの月日の間、日夜読誦実践している所の 妙法の功徳は
大空にも 余っているであろう 』   【 四条金吾殿御返事 1194P 】

上記は『池田先生』が贈られた『御書』の一節である。 彼女の生き様とは『御聖訓』のままである。
立宗宣言から、七百参拾年目の時の御逝去であった。

[566] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月13日 (水) 09時49分

『ブラジル広布の母』の誉れも高き、シルビア・E・サイトウ女史に触れた。
そこで、『日蓮仏法(法華経)と女性』に(恐る恐る)言及する。
…何故、恐(おそ)るるのか。  それは、言い間違えると トンでもない事になるからである。
然し。 猛然と『恐(おそ)れず』挑戦する。  (但し 抜粋文は全部『御聖訓』引用であるので念の為)

そこで。これこそ『創価の女性なり』と断言の『御書』を拝読して、
出来るだけ叱られぬ様にしよう…と、「愚壮」は、どこまでも姑息である。

【 女人の御身・男にも をくれ(遅れるとは、全福運への遅れ・差別の事:爾前の骨子である)
親類をも・はなれ 一二人ある・娘も はかばかしからず(二人の娘も病弱であったりで、低調である事)
便りなき上(活発な母子の対話も途絶え勝ちで)・
法門の故に 人にもあだまれさせ給ふ女人、(学会婦人部である為だけの理由で疎外されている事実は)
さながら不軽菩薩の如し、(さしずめ、あらゆる人の仏性を尊んだ『不軽菩薩』の生き様を見る思いである)】

もう一度、通解文を連続して記述する…  はたして、『創価の御婦人』としての根幹がはっきりと見えてくる。
『 通解⇒ 貴女は御自身。御主人と死別されました。  更に、法華経ゆえに、親族にも疎まれ、
娘さん(一人は乙御前)も まだ若く孤立した様な立場の上。日蓮の弟子である故に、他人にも罵られている。
これは、全く『不軽菩薩の行体』の実践である。 』  【 妙法比丘尼御前御返事 1419P 】

本抄で見逃せない『御記述』は、【 同抄 1420P 】の…。
【 彼の比丘尼の御名(みな)を 一切衆生喜見仏と申すは(中略)
今の 妙法尼御前の名にて候べし 】である。


又。「貴女は、このような不安定な世相の中で、一人の幼子を健気に御育てになっている、 
その上。頼りとする御主人も、思いの外で、既に離別して久しい時がたっている。
そんな女人が、「鎌倉」から「佐渡」への、私(日蓮大聖人)を訪れる事は『不軽菩薩』の義である。」
この御賞賛の「対告衆」は『日妙聖人御書 1216〜1217P 』である。

前述の『妙法比丘尼御前』といい、この『日妙聖人』といい… 『創価学会婦人部』である。(キッパリ)

では… 『日蓮大聖人』は『御書』に於いて、「女人」をどう捉えられているのか、学びたい。

[567] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月13日 (水) 10時03分

抜粋し、記述した筆者が読み返して『紛れておる』ので再度書きます。
  
『妙法尼御前御返事』も『日妙聖人御書』も、等しく言えるのは。
両編とも『不軽菩薩』を以(もっ)て御賞賛されている事実です。

これが、最も重要な部分と思います。

[568] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月13日 (水) 18時52分

『新編・御書全集』の975〜976Pに、【 富木尼御前御返事 】と言う御書がある。
本抄は建治2年(1276年)3月27日。身延発の御書である。
対告衆は「富木常忍」の妻女・『富木尼御前』だ。

尚。この年の同月16日 『日蓮大聖人』の師匠・道善房が逝去したが。(大石寺 過去帳)
本件には関係ないので、記述のみしておく。

扨(さて)。 本抄 表向きの御聖訓は…
【 をとこ(夫)の しわざは め(婦人・嫁)のちからなり 】である。 975P 1〜2行目
通解は(あまり乗り気になれんが…) 「夫・主人・男の実力は、影の存在である「御夫人」に依る」である。
上記の『御金言』は、あまりにも有名で…皆がしょっちゅう言うておるので『面白くない』

が、然し。 本抄の白眉は実は、違う部分に有ったのである。
それが…【 又又 これより 百千万億倍 たへがたき(耐え難き)事 ども(⇒等) いで来るべし】である。
上記は(976P 4行目)の御文証である。この内容は、非常に重大・且つ 深刻であって、表記も危ぶまれる。

何故『重大・深刻』か。 本当は書きたくないが…恐れずに「記述」する。 それが(同ページの2〜4行目)である。
【 これ・ひとへに 失(とが)もなくて 日本国」の一切衆生の父母となる『法華経の行者・日蓮』を
ゆへ(謂・理由)もなく 或はの(罵)り 或は打ち 或は こうじ(街路)をわたし(公開引き回し等)、
ものに くる(狂)いしか 十羅刹のせめを かほ(被)りて なれ(結果を見)る事なり 】
「日蓮大聖人を国を挙げての「迫害・弾圧」は、好む好まざるに拘わらず、国全体に総罰となるのだ」

私が「白眉」と指摘した一連の御記述 ↓
【 又又 これより 百千万億倍 たへがたき(耐え難き)事 ども(⇒等) いで来るべし】
とは(恐ろしい事であるが…)唯一の『○被○国』への警鐘ではないのか。
又。そのような『破壊的受難』も、敢えてその時「婦人」の潜在的非暴力思考を『主題』とするなら避けられた。
故に『日蓮大聖人』は【 をとこ(夫)の しわざは め(婦人・嫁)のちからなり 】と、言い切られた。

それが…(975P 2〜3行目の)
【 けぶり(煙)をみれば火をみる あめ(雨)をみれば りう(竜)をみる 
をとこ(男・夫)をみれば め(御婦人)をみる 】と言う事なのではないのか。

これは「ワシ」たる者 相当「ヨイショ」しているのか…それとも『御書』をしっかり読んだのか。
総評は任せる。

[569] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月14日 (木) 05時01分

≫ これは「ワシ」たる者 相当「ヨイショ」しているのか…
言うて置くが…性格は、御婦人に対して『ヨイショ』する人間ではない。

然し。現実に  御婦人に「ヨイショ」を しなければいけない時も、まま多い。
そういう「ヨイショの事柄」を、関西弁では『けった くそわるい』という。
詳しく書くと…『けった くそわるい』とは  『蹴った糞 悪い』と書くが、これは非常に下品である。

閑話休題 
私達が過去学んだ中に、御婦人が『日蓮仏法』の流布に対して、まともに阻止してきた『歴史』が現存する。
記憶に鮮明なのが(中には記憶にさえ、跡形なく消え失せた人も居ろうが)…『権力者の女房達』であった。
これらは、絶対に「忘れて・書き落として」はいけない(正史を学ぶ上での)急所中の急所である。
(御書に関する『御婦人』の件は、引き続き細描する)

その『日蓮仏法』を阻止してきた『同類項』が、現在の学会組織に「息を潜めて棲息する」と言うと。
今まで静聴していた連中が「待ってたホイ」と、『やれ 組織批判だ』『それ 幹部批判だ』と騒ぎ立てる。

『獅子身中虫(日蓮時代と同類の魔)』とは、死にかけの「瀕死の手負いの獅子」に存在しない。
『獅子身中虫』は、健全強健に見える「獅子」にこそ「巣食う」のである。
『巨大な創価の組織』の底部に、本来の使命と全く異質の生き物が蠢いている。これが「魔」だ。

この「魔」は、最近になって、時々 その「存在の片鱗」を(皆に気付かれずに)覗かせておる。
…と。「愚壮」はここまで『判じ物』の如く「魔」を言っておるが…やはり、キッチリと書いておく。

彼の「七百年祭」で、『神本仏迹論』という邪義を唱えた「小笠原慈聞」という「正宗僧侶」が居た。
この人間は『日蓮仏法』に正対する「神本仏迹論」をして、宗門内を攪拌した。…のみならず。
『牧口常三郎創価学会初代会長』が獄死を遂げられる「起爆剤」も、慈聞の邪説に依る。
ここで…「小笠原慈聞」は『創価学会』の仇敵である。…は、言い過ぎか。

『仇敵』は過言として百歩も千歩も譲っても、「慈聞」の事を『不許』とする人は多い。
そんな慈聞が言った言葉に…『そんな事…そういう事(神本仏迹の事)も、これは あるんじゃ」である。
冗談ではない。 そのような「言いくるめ」が、通じるとでも思ったのであろうか。

これと同じ構図の「言いくるめ」が起った。 (当然、この事実は既に記述したが。もう一度書いておく)
それが⇒ 2011年8月12日(金)の聖教新聞方面版の左上の『8.14』の意義である。

云く…『広宣流布の大拠点は大阪・関西だと「戸田先生」に教えたのは「池田先生」である』
この上記の記述は「Y関西婦人部長」の御高説である。   全くの出鱈目。 目から火が出る噴飯だ。

ここに、実物の戸田先生の『日記部分』がある。 それが1919年3月18日 (戸田先生 19歳)の記述である。 下記↓
☆ 地の利にある。(中略) よろしく座を『阪神』とすべし。阪神の地これ商工の中心…
上記1919年とは、大正7年である。  この頃に、若き戸田先生は『関西・阪神』の重要性に言及されていたのである。

☆ 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は『大阪』か『神戸』ではあるまいか。これが同年の4月。
(上記二編は  青娥書房発行・『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』より抜粋)

『事程左様』に、組織内での安穏の持続のみを願う「生命」を、私は『魔』と指摘する。
最初に戻って…  「蹴った糞が悪い」なら、『踏んだ糞は 尚 悪い』 と、話は「脱線」しておる。

[572] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月14日 (木) 18時30分

「女性が成仏する?」  「そのような事は、信じられない」…これが『爾前の教え』である。
当然といえば「当然」…。 そんな程度の事が『世の中の常識』で、「女人とは言うが、人ではない」 
という事は、女人が正面に出る等。 「正邪真贋」に亘って あるわけない。と、 これが普通であった。
これは「迹仏たちの言う世相」で、誰の責任でもない。  極、自然の事なのだ。
これは、当の女性にとっては『℃壺』(特許文言借用)であるに違いない


そのような『時代順応正視眼』で歴史を繙けば…「熱原法難」に女人が介在した事なんぞは絶対に無い事で、
解りやすく言えば、とんでもない『ヨタ』…。つまり「御涙頂戴の浪花節的・歪脾談」である。

富士日興上人詳伝では『堀日亨上人』が、以下の如く嘆かれておる。
【 左京阿(阿闍梨)日教が、何かで聞きかじりたる誤伝を(中略)…累(わずら)いをなして…
特殊の美談 (『熱原の法難で殉教した中に、女人の存在があった』 )として贔屓(ひいき)の引き倒しで… 】

まァ。然し      これは、この場面では「余談」となる。
『 鎌倉時代 』とは、そんな生優しい、おセンチな背景の国家ではない。

『こうなると、女人は一切駄目なのかと、正直。落ち込む』のも人情である。 
…ところが、然し。 『日蓮大聖人』は『御書』で、こう御記述になっておられる。
天照太神の事で、こうある。  
【 問う (我が国で)神の次第(順位の事) 如何、 】
【 答う 天照太神を一の座と為し 八幡大菩薩を第二の座と為す 
是より 已下(いか)の神は 三千二百三十二社なり 】 『 真言七重勝劣事 133P 』
これで、どうやら「女人」の復権は、『神⇔帝』の分野では、まんざらでもなさそうだ。
…そういえば「戯歌」に、こうある。
【 日之本は 天(あま)の岩戸の昔より 女(おんな)無しでは 夜も明けぬ国 】(ウロ憶え也)


そこで、真面目に『御書』を繙こうと念(おも)う。
【 …女人は垢穢(くえ・あかでけがれている)にして 是れ法器に非ずと 
小乗権経の意を以て離ぜられ候いしかば… 文殊が竜女成仏の有無の現証は
 今 仏前にして見え候べしと仰せられ候しに、】 『 女人成仏抄 472P 14〜16行目 』
「通解 ⇒ 女性は身心共に穢れておるので、本来『成仏』を望むの器ではない。
これは「小乗経」本筋の理念で、既に良い方向に変革されているにもかかわらず、(殆んどの衆生達は)
文殊師利菩薩が八才の竜女が蛇身のママ 『成仏』した事を指摘するまで、信用をしない。」

【 案に たが(違)はず八歳の竜女蛇身を あらためずして 仏前に参詣し
価(あたい・値打ち)直(ちょく・そく・ただちに)
三千大千世界と説かれて候、如意宝樹を 仏に奉りしに、
仏 悦(よろこ)んで是れを請取り給いしかば
此(こ)の時 智積菩薩(ちしゃくぼさつ)も舎利弗も不審を開き
女人成仏の路を ふみわけ候、 】    『 女人成仏抄 472P 16〜18行目 』
「通解 ⇒ (衆生達は)想像した通り 
「八歳の竜女が蛇身のママで成仏した」を信じる事は無かった。
然し『仏』は「今世の全仏果は、八歳竜女成仏のように、直ちに結果と現出する」と断言し
「『正法』に依る祈りは、一念三千に仏果を影響させる事などは、意の向くままである」
「また。(直ちに叶う事)に対する、私(仏)の保証は絶対に間違いない」と言って憚らなかった。
「それを聞いた「智積菩薩(ちしゃくぼさつ)」や舎利弗も、
仏の大確信に接して、『女人成仏』という未曾有の誓願の実現を確信した。 」

『法華経』(御本尊)への祈りに不可能は無いのだ。 これが数多の「仏弟子」の確信である。
『女人成仏』  この画期的な革命が『法華経』の真骨頂なのである。

[575] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月14日 (木) 20時04分

≫ 『女人成仏』  この画期的な革命が『法華経』の真骨頂なのである。

竜女が蛇身の姿を改めずして、その「法華経」で『即身成仏』した。
これは、考えられない事・想像も出来ない出来事である。  
又それ以上に。数多(あまた)の「女人」にとって…覚醒・驚異の事である。

八歳の「蛇女」が成仏した?
この噂は、即(たちま)ちのうちに『女性』の間に知れ渡り、多くの羨望を生んだ。

「摩詞波闍波堤比丘尼(まかはじゃはだいびくに)」とは、釈尊の姨母(おば)であるが。
この人が先ず。八歳の竜女の即身成仏を見て『発心』した。
即(たちま)ちにして、「法華経」に帰依した彼女は、『勧持品』で成仏を勝ち取る。
後は「将棋(ドミノ)倒し」で、当時の才媛達が 我れ先に、『即身成仏』の大仏果を得るのである。

残念ながら…この『女人即身成仏』には、最もオゾマシイ者までが混じっている。
それが『十羅刹女』である。

『羅刹』とは別称を悪鬼といい、男女の『羅刹』が存在する。 
好物は「人間」の生き血と、「人間」の生肉である。つまり「人肉のユッケ」だ。
この『羅刹』に目を付けられたら、   言うて悪いが「最早最後」である。

絶対に逃げ果(おお)せない…  何故か。
それは『羅刹』は、猛烈なる速さで地を駆ける。
それだけではない… 『羅刹』は、空も飛ぶ事が出来るのだ。
今晩の夢に…仮に『羅刹』は出てくるとしたら。 悪いが「諦めて頂こう」
…と言う位、大変な者までが『成仏』したのである。 困ると言えば、困る。

…以上の記述が『女人成仏抄 473P 4〜7行目』である。
あとは、明日の早朝に続けようと思います。

[576] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 05時14分

【 口に南無妙法蓮華経と唱え奉る女人は 
在世の竜女・憍曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅女(やしゅたらにょ)の如くに・
やすやすと仏になるべし という経文なり 】 『 法華初心成仏抄 554P 11〜12行目』
(憍曇弥(きょうどんみ)⇒釈尊の姨母(おば)「摩詞波闍波堤比丘尼の事」)
(耶輸陀羅女(やしゅたらにょ)⇒『出家』前の釈尊の妻女)  いずれも境涯の高い女人。

【 法華経は女人の御ためには 暗きに・ともしび(燈)・海に船・おそろしき所には・
まほ(守)りと・なるべきよし・ちか(誓)はせ給へり 】 『 乙御前御消息 1220P 4〜5行目 』

【 弥陀念仏は女人 たす(助)くるの法にあらず 必ず地獄に堕ち給うべし 】
『千日尼御前御返事 1312P  8〜9行目 』

【 彼(か)の女人仏(女人成仏)に成らせ給わん事 疑いなし 】『松野殿御返事 1390P 1行目』

【 此(こ)の法華経の「薬王品」に 女人の往生(成仏)をゆるされ候ぬる事 又 不思議に候 】
『 薬王品得意抄 1503P 7行目 』


『女性』として生を受けて、究極の『王道・正法』の中に『真の師匠』を求め抜く。
『御書』に示された「先達の女人」を見る通りの、その共通点は『師弟不二』である。

『創価の婦人』たる実像が上記とすれば、
筆者の目には(実名は控えるが)「虚像」も見え隠れしておる。
これは、この。ワシの「眼力」が間違っている事を偏に願い・祈る者である。

「非力」であり、宿命に泣くばかりの『女人』を、心底から勇気付けたのが『日蓮大聖人』と
その直結の『三代の歴代会長』である。 その事を忘れ去ってはいけない。
先月号「巻頭言」にて『池田先生』が…。
何故「五障三従【女人の持つ本源的な失(とが)】」に言及されたのか。賢明に思索するべし。 

[577] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 10時23分

≫ 五障三従【女人の持つ本源的な失(とが)】
実は…この事(『女人』とは元々こうである)とした事が、重要なのである。  

『爾前』の経典が流布している時代。
つまり『衆生の機根』も『聖者の格式』も低い(言い換えれば累積された罪障が少ない)時代は、
「煩雑」の教範や複雑な規範はかえって紛れるから…。と、簡素であったかもしれない。
いや、「煩雑」かどうかの比較さえも「不必要」ではなかったか。
はるか彼方の時には、訳の解らん「不気味」な存在そのものが無かった。
つまり…存在も無いものへの「対処」など、 考える前に「不必要」なのだ。

それとも、全くの逆であって、圧倒的な数の「戒律」で「衆生」の素行を縛っていたのかもしれない。
それは恰(あたか)も。 現今、膨大に新規に存在する「雑菌・ウイルス」に似ている。

いずれにしても、世相の機根が「シンプル」であればあるほど、目指す「対比範囲」も勢い狭まるだろう。
( 目指す「対比範囲」とは、『女人』から強力な発言権を取り去る事 )
『女人』が、男性に依る浅い検討(突発的本能)で疎外されたのも、そこに理由がある。

『女人』が先天的に備えている「多様性」は、『権謀術数』の男性社会では邪魔である。
女性特有の「深き機微」や「絶対に飽きない持続」は、『子育て』のみに発揮すればよい。
『女人』を彼方へ押しやる、主な訳は、『繊細すぎて埒が開かない』事であった。

…と。 いろいろ記述したが、
とまれ『爾前経』は、あらゆる手段を駆使して『女人』の可能性を閉じ込めた。

一般に、『釈尊』滅後の二千年を「白法」と意義付ける。 『御書』では、釈尊入滅は紀元前951年である。
【 而(しか)るに 仏・御入滅ありては 既に二千二百二十七年なり 】 
上記は、弘安元年の御述作  『 妙法比丘尼御返事 1407P』抜粋
(仏教国:タイでは 釈尊入滅は紀元前544年(2012年現在))

『日蓮大聖人』の御生誕は1222年であるので、釈迦入滅から2173年の月日が流れておる。
これは、『末法』に突入して、173年が経過した事になる。

『日蓮大聖人』の最大の御存在意義は、これは順位に悩むが『立宗宣言』と言っても破門とはならん。
『末法の法華経』とは『南無妙法蓮華経の御本尊』である。 これは「不動」である。
つまり、本来の『女人成仏』は、
『日蓮大聖人 32歳』の折の『立宗宣言』⇒(建長5年4月28日)から、有効になるのだ。

『女性』が、いかに暗闇の生息を強要されていたのか。
本当の『女人成仏』とは、ここからの「歴史」を読まねばならん。

「永い間の偏見を、よく辛抱した」と、御慰めを申したいが…。 それにしても。
とんでもない、勘違いをして「高見(高い視線)」の御婦人が散見するのは何とかならんのか。
中には「男性」を「屁」とも思っとらん『御婦人』も居るのである。
ワシが逃避した「N市」にも、再環した「K市」にも、この手の御婦人が居るが、
困った『勘違い御仁』で…、   見る度に、嘔(反)吐が出る。(吐き気がする事)

本当の『創価の婦人』は、このような低俗なる「御存在」では絶対に有り得ない。
『宿命・宿業にも、健気(けなげ)に闘い続ける人』『徹底的の同苦・激励の人』こそ、
誠の『御婦人部』であり『法華経の行者』である。  これは強く言っておく。

[578] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 18時46分

『五障三従』とは。( 『法華初心成仏抄 554P』に詳しいので御参照を乞う )
「女性」の持つ五つの障り⇒その主題は『不成仏(成仏できない)』である。
『五障』 @梵天王  A帝釈   B魔王  C転輪聖王  D仏身  (これには、なれない)
『三従』 @父母   A夫   B子                     (これに、従がう) 
【 女人を指して(中略)五障三従と申して
三つ したがふ事有って 五つの障(さわ)りあり 】 『 主師親御書 389P 』

【 女人には五障三従の罪深しと申す、其れは内典には五障を明し 外典には三従を教えたり 】
『 女人成仏抄  472P 』

【 女人をば鬼と よ(読)めるにこそ侍(はべ)れ、
又 女人には五障三従と云う事有るが故に 罪深しと見えたり 】『法華初心成仏抄 554P』

【 …五障の雲 厚うして 三従の・きずな(絆・紲)に・つな(繋)がれ給へる女人なんどの御身として
法華経を御信用候は・ありがたしなんど・とも申すに 限りなく候 】『月水御書 1199〜1200P』

【 其の上 女人は 五障三従と申して 世間出世に嫌われ 一代の聖教に捨てられ畢(おわ)んぬ 】
『 善無畏抄 1235P 』

『女人』というだけで、これだけの障りがある。
という事は、その中で『妙法』を「身・口・意」で貫く事が いかに大難事か。

『ありのままの自分自身が 尊極なる妙法の当体であることに歓喜して…』
大白蓮華5月号の『巻頭言』の御指導は、「ズバリ」この事なのである。

『師と共に人々を救いゆく 地湧(涌)の菩薩』とは「同苦溢れる・単己の菩薩」なのだ。
そう自覚し、そう実践する事が『世界一の創価学会の婦人部』なのである。

[579] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 19時12分

『単己の菩薩』とは「眷属」を引き連れない『菩薩』の総称である。
呼び名は『単己の菩薩』であるが、歴(れっき)とした『地湧(涌)の菩薩』である。

[580] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 19時39分

忘れ得ぬ風景が、此処に来て『御書講義』の様相を呈しておる…。
悪い事ではないのだが、読者諸氏には 「…何じゃい。又、御書かよ」とは言わないまでも…
案外、近いのではないか。    そこで、最近の座談会点描を申し上げる。

この九日(土)の午後19:30 『栄光B』の座談会に喜々と参加をした。
例の「愚壮最初推薦の地区部長さん」の座談会であった。
『設営』の「紫陽花」が、見事に咲き誇る会場は、少人数でも賑やかである。
『御書講義』は「祈祷抄」である。  今まで、何度も何度も学んだ御聖訓である…と。
「地区部長さん」の講義は熱気を帯びている。

座談会とは「一家和楽」の展示会だ。  「何が有っても、堂々と朗らかに」
こんな決意が『最高なんだなァー』と、笑顔が弾ける座談会であった。

翌日十日(日)は、13:30分の開場であった。
やはり『設営』は「紫陽花」    談合の疑いがある。と、皆は言う。
この座談会は「立錐の余地なし」と混雑していた。

「N市」からは「副支部長さん」 「H市」からは二人の青年が「交流」での御参加である。
ここの「B長さん」は、『御書も「愚壮」がやるように』との仰せで、私は元気よく「講義」を実施した。

その後の話は、『新・人間革命』から「牧口先生の特集」を、これも強き確信で訴えた。
大成功の二つの座談会。   やはり何と言っても、基本は座談会である。

[581] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月15日 (金) 20時26分

『獅子身中虫』に最も関連しているのが『単己の菩薩』である。
『六万恒河沙』とは、御存知の通り「地湧(涌)の菩薩」の数である。
「無数」といっても良いのが『六万恒河沙』 つまり六万のガンジス河の砂の数である。

この一人一人の地湧(涌)の菩薩にも、個性がある。
勿論、男も居れば女人も存在する。否。「中性」も居るかも知れない。

この『地湧(涌)の菩薩』には、共通点が有る。
それが『屹立』つまり「仁王立ち・一人立ち」である。介助・合力などは不要なのだ。
「敵」は「周りが全部・敵」である。これは『地湧(涌)の菩薩』の宿命だ。
助っ人も無ければ、味方も居ない。

そんな中での奮戦が『地湧(涌)の菩薩』の地湧たる所以である。

『獅子身中虫』   これは強健の獅子に喰らい附く。
間違っても「死にかけ」の獅子には寄生しない。
獣(けだもの)の死体から、「ダニ・蚤」が先を争って退避するのは、その事だ。
「虱(シラミ)」の集(たか)る人間の寿命は、全く心配不要。とは、その事である。

扨(さて)。  『獅子』が『単己の菩薩』の如く闘う時。
敵である『獅子身中虫』は群を成す。
つまり…『魔』・『奪命魔』は、闘う闘士に取りつくのである。
『走るから髪は揺らぐ』とは、この事だ。

『平穏の中に、勝利は無い』とは、この事なんだ。
『絶対に負けない!』とは、この事の裏打ちなのである。

[582] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年06月15日 (金) 20時47分

愚壮さま
ありがとうございます。『単己の菩薩』納得です。

おにゆり拝

[583] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月16日 (土) 06時05分

『女人成仏』へ向かって猛然と闘う。
この時「地涌千界に住する菩薩」も闘う…? 「誰の為に?」
そうです。『地湧(涌)の菩薩』は貴女の為に、満身創痍で闘います。
『何(誰)と?』        貴女の敵人・貴女にとっての『魔・獅子身中虫』と闘います。
それが、『単己の地湧(涌)の菩薩』たる実像です。

ここで確認すれば…『獅子身中虫』も、実は「貴女」に内在する者なのです。

【 獅子身中の虫の 自ら師子を食うが如し 】 『 二乗作仏事 594P』です。
すこし穿(うが)って言えば、 『獅子身中虫』とは自分の留まり木の枝を切り落とすのです。
これは、まったく「道理」に悖(もと)らない事。というものです。


下記は、少し長文ですが。是非とも頭に入れて欲しい御金言ですので記述します。
【 …我が未来に於て 与(日蓮大聖人御自身を指す文言)が仏法を破らん為に
一切衆生の 元品の大石(無明)・大六天の魔王・獅子身中の蝗蟲(いなむし)と成って
名を 日蓮に仮りて 本迹一致と云う邪義を申し出して 多(々)の衆生を
当(まさ)に 悪道に引くべし 】 『 本因妙抄 873P 』  これは根幹です。
上記は、聞いた事 あるでしょう? 近くにも棲息していますから…。

【 悪人は如来の正法を破り難し 仏弟子等・必ず仏法を破るべし 
獅子身中の虫の師子を食(はむ) 等云云、
大果報の人(創価の女人)をば 他の敵 やぶりがたし 
親しみより破るべし 】 『 佐渡御書 957P 』 
自分を食い破るのは、他ならぬ「自分」なのです。

【  師子身中の虫・師子をくらう、仏教をば外道は やぶりがたし 
内道の内(仏法の中・範疇)に事いできたりて(教義に対する紛糾が起きて)
仏道を失うべし (これは)仏の遺言なり 】 『 法門申さるべき様の事 1271P 』

【 さど(佐渡)の国にても そらみげうそ(虚御教書)を 三度まで つくりて候しぞ、
(中略)木のしたなる(下⇒内部に巣食う)むし(虫)の木をくら(喰)ひ たお(倒・たう)し 
師子の中のむし(虫)の師子を食らい うしなふやうに… 】『窪尼御前御返事 1478P』

上記数編の『御書』  対告衆を確認するのも、又。別の方面からの「研鑚」となります。

ともあれ・「これは、勝てないかもしれない…」 こう思った時、既に負けている。
『獅子身中虫』と雖も・羅刹と同等…「我が信心を 試す存在だ」と腹を決めて闘え。
「負ける道理は、皆無である」故に。

[584] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月16日 (土) 08時46分

『獅子身中虫』を述べるとき、必ず連動するのが 『獅子奮迅之力』と『獅子吼』である。
『王者』をも抹殺し頓死させる者。とは『獅子身中之虫』である。
『勝負』とは、両者が同時に作用する(立ち上がる)事を指すのだ。
この時。『獅子吼』を忘れ去った『王者』は 勝てない。  とする。
逆に今度は…『獅子身中之虫』とて 『獅子吼』しつつ闘う『王者』には勝てない。

「獅子」が一たび吼えると、余の獣は震え上がり、仮死(死んだ振り)さえ演ずる。
ここで結論。     『日蓮仏法』とは『獅子吼』である。  是れが根幹である。
此(こ)の『獅子吼』の前には、生きる全ての者が沈黙し、逃避し、死んだ振りさえする。

【 眠れる師子に 手をつくれば 大いに吼ゆ 】 『 開目抄下 233P 』とは、それである。

逆説は、こう言っている。   (先ず 通解文 )
「 若しも悪を見聞しても、放置してそれを攻めなければ 当然『獅子吼』でもなんでもない 」
これ(悪の放置)は「懈怠懶惰(けたいらんだ)」以外の何者でもなく、話にならない。と言う。
【 是くの如く 種種に法を説くも 然も故(なお) 師子吼を作(な)すことを能(あた)わず
非法の悪人を降伏することを 能(あた)わず、(中略)当(まさ)に知るべし 是の輩は
懈怠懶惰(けたいらんだ)なり 能(よ)く戒を持(たも)ち 浄行を守護すと雖も
当(まさ)に知るべし 是の人は 能(よ)く為す所 無からん、】 『 開目抄下 235〜236P 』
※⇒つまり「悪の放置」は、実の蓋も無いのだ。

ここで『御義口伝』から、「作 師子吼」を抽出する。
【 第五 作師子吼の事 】 『 御義口伝上 748P 』である。
本文 ⇒ 【 御義口伝に云く 師子吼とは仏の説なり 説法とは法華
別しては 南無妙法蓮華経なり、
[師]とは師匠 授くる所の妙法      [子]とは弟子 受くる所に妙法・
[吼]とは師弟共に唱うる所の音声なり [作]とは おこすと読むなり 】とある。

『師子身中の虫・獅子吼・作師子吼・獅子奮迅之力』は総て『師弟不二』からの派生である。
上記が解決すれば、最早「宿命」に泣く事も霧散する。
『日蓮仏法』『創価仏法』が『師弟』からのみ入れる所以が、実は此処に在る。

【 いよいよ(弥)・をづる(恐れる)心ね(心根・心境)すがた(恐れた振舞)・をはすべからず、
(中略)  がうじゃう(強盛)に はがみ(歯ぎしり・歯を噛み締め)をして たゆむ(弛)心なかれ
(中略)  すこ(少)しも・を(畏)づる心なかれ 】 『 兄弟抄 1084P 』
愈々(いよいよ)・土壇場・背後を絶つ… ここから奇跡と思える逆転劇が幕を上げる。
本抄を拝読する時  「池上兄弟」の大歓喜・巌の如き大決意が窺われるではないか。

【 仏の説法をば 師子吼と申す 乃至(← 中略と同意) 法華経は師子吼の第一歩なり 】
『 四条金吾殿御返事 1122P 』

是の段の結びは『獅子奮迅之力』に付きるであろう。
【 師子王は 前三後一 と申して・
あり(蟻)の子を取(獲)らんとするにも 又 たけ(猛・猛獣)きものを取(獲)らんとする時も・
いきをひ(勢い)を出す事は・ただ をな(同)じき事なり 】 『 経王殿御返事 1124P 』
【 日蓮守護たる処の御本尊を・したた(認)め参らせ候事も 師子王に・をと(劣)るべからず、
経に云く 「獅子奮迅之力」とは 是なり 】 『 経王殿御返事 1124P 』

上記に言う『前三後一』とは「贖命の闘い」の異名であろう。
何としても、何が起っても…生命で拝読すべき御聖訓である。

[585] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月16日 (土) 09時48分

隣接「T・O支部」の『N支部長』からメールがあった。

『種種御振舞御書(別名:佐渡抄)』
この御聖訓は御存知の如く「大白蓮華・『勝利の経典:御書を学ぶ』の4・5・6月号の教材だ。
私の不注意の切創の件もあって、隣接「T・O支部」の『壮年塾(御書勉強会)』の講師が代わっていた。

代役の『N支部長』は、最高学府を卒業された秀才で『三世諸仏総勘文教相廃立』を講義は抜群だ。
その『支部長』からのメールは、「6月度の御書講義は、お前がやれ」
これは…完璧なる約束違反で「往生」しておる。

愚癡ではないが…。
本抄の講義は非常に長編で、『池田先生』の御講義も分割されていた通りである。
私が携わった「本抄の講義原本」も、案に相違せず、長編となった。(5月29日 投稿済)

そこで、「メゲないで、再び勉強するが」 なるほど、非常に重い『御書』である。

ところで…と、考えた。 「何故。今。 種種御振舞御書(佐渡抄)なのだ」…と。
この「時と所」に関知しない『何故』という感覚は、無意味ではない。

『何故』 『何の為』とは、なにも若者の専売ではない。
ワシの如き「老人」も、こうして常に考えを巡らせておる。

『なんでやねん…』

[586] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月16日 (土) 17時03分

『師子吼(獅子吼)』を学んだ。  『師子吼』とは主に『末法御本仏』の御振舞に感じて曰う。
では、『弟子』はどうあるべきか。 手当たり次第に同志と思われる人を糞糟(クソカス)に言う事か。
これは、たぶん違う。     
では、何でもかんでも「功徳だ 功徳だ」と吹聴する戯(たわ)け事か。
…それも違うのか。   

当り前だわな。 全々違うんだよ。         そんな事に『弟子道』はない。
『弟子』は、 『師匠の振舞』から、本来の為す可(べ)き事を的確に伝承する事だ。
実践だけでは『猴猿(こうえん⇒猿)』でも行う…と。 伝承・伝持する者である。

【 日蓮が御免(佐渡流罪の即刻中止)を蒙らんと欲するの事を
色に出す弟子は 不孝の者なり 】 『 真言諸宗違目 139P』
『弟子』を貫く事は、普通の価値観では追従不可能である。

外典賢聖に「顔回(顔淵・がんえん)」という人が居た。この人は、彼の『孔子』の弟子であるが。
これが、『師・孔子』より先に逝く。 この時、師匠の『孔子』はこう言ったと伝わる。
「嗚呼・天、我れを滅ぼせり…」 然し。こう嘆いたのは師匠の『孔子』である。
『師匠と弟子』という観点から、『日蓮大聖人』はこう御記述になっている。
【 而(しか)りりといえども 過去未来を知らざれば父母・主君・師匠の
後世をも たすけず 不知恩の者なり 】 『 開目抄上 186〜187P 』
尚。『「顔回(顔淵・がんえん)」の、又。違う故事は『 日女御前御返事 1243P』にある。

『弟子』と、いままで勘違いしていた人が居るが…その人への御記述は、非常に厳しい。
【 (貴女は) 今まで『唱題』など唱えていないではないか。 と、いう事は 最早。
『日蓮』の弟子でもなんでもない。 (向後、私との対面を望むなら)
よくよく 本心の在り様を申しなさい 】 『 大尼御前御返事 908P 』と、ある。

『弟子』への御記述で最も厳しい『御書』が、本抄である。
この御文面を拝読して、恐ろしいまでの「厳しさ」を感ずるものである。
【 小蒙古の人・大日本の寄せ来るの事、我が門弟(弟子)並びに檀那等の中に
若し 他人に向い 将又(はたまた)自ら言語に及ぶ可からず、
若し此の旨に 違背せば ※門弟を離す(破門)べき等の由・存知せる所なり、
此(こ)の旨を以(もっ)て 人人に示す可(べ)く候なり。 】『 小蒙古御書(全文) 1248P 』

【  …(前部を略す)妙楽・伝教の聖言に随って
善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿(なか)れ、予が門家等 深く此(こ)の由を存ぜよ、
今生に人(他人の言・風聞)を恐れて 後生に悪果を招く事勿(なか)れ 】『 大田殿許御書 1005P 』

本抄の最後の御聖訓を、何と捉えるか。 『日蓮仏法』の門下として、直視できるや否や。
誠に甚深の御金言である。
【 (前部を略す)一見の後・秘して 他見ある可からず 口外(他に話す事)も詮なし 】
『 三大秘法禀承事 1023P 』

非常に興味の涌く御記述が、以下である。 諸賢は何(いか)かに拝するや。
【 我が弟子等の出家は 主上・上皇の師と為らん  
在家は左右の臣下に列(つら)ならん 】 『 諸人御返事  1284P 』

『日蓮仏法』に於ける「弟子」の振舞こそ、最大の命脈である。
『御書』に御記述の「弟子」に関する論文は、無尽蔵である。
この勉学には、生涯の時空を費やしても、埋めきるには至らない。

[587] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月17日 (日) 07時23分

『弟子道』 ⇒ いつから私達は、「弟子」を名乗る事(時)を許されたのでしょうか?
…こうも、その瞬間(弟子になった時)を限定されては…困るのか。困らないのか。
「あなたが、本当に弟子になったと言える瞬間を 説明して下さい」

そう言って迫られた時。 あなたは(自分も納得出来る)明快な答えが出せるか、否か。

そのような時…。  どこが「原点・源流」かを把握したい時。
仏法でいう、『適時而已』⇒「(すべて)時に依る可し」と言う「大原則」が、顕れて来ます。
物事の「原点」を語る時に外せない「骨子」とは…、全部『道理』に添っている事なのです。

【 譬(たと)へば 秋の終りに種子を下し 田畠を かえ(排⇒耕)さんに 
稲米(とうまい)をう(得)ること かた(難)し 】 『 開目抄下 236P 』

【  夫(そ)れ 仏法を学せん法は 先ず 時を ならうべし 】『撰時抄 256P』
「何をか 云わんや…」である。   『先ず、時。』である、という事です。

【  あたか(恰)も これ 大海の しを(潮)の 時を たが(違)へざるがごとし 】 
『 撰時抄 265P 』

【 譬(たと)へば 春の薬は秋の薬とならず 設(たと)い なれども 春夏のごとくならず 】
『 治病大小権実違目 996P 』 物事・処方箋の瞬間から決定しているのです。

【 外典の賢人すら時を待つ 郭公(ほととぎす・かっこう)と申す鳥は卯月五月に限る 】
『 呵責謗法滅罪抄 1128P 』 「郭公(ほととぎす・かっこう)への譬喩は絶妙です」

【 月はいみじ(巧み)けれども秋に あらざれば光を惜む・花は目(芽)出たけれども
春に あらざれば さ(咲)かず、一切 時による事なり 】『妙密上人御消息 1238P』

【 (前部を略す)折伏無きに非ず 各(おのおの)一端(全体の一部)を挙げて
時に適う而已(のみ)】 『 開目抄下 235P 』

【 天台の云く「適時而已」等云云、 仏法は時に よるべし 】『開目抄下 237P』

【 雪山童子は半偈のために身をなげ 常啼(じょうたい)菩薩は身をうり
善財童子は火に入り 楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は皮をはぐ 薬王菩薩は臂をやく
不軽菩薩は杖木を かうむり 師子尊者は頭をはねられ 堤婆菩薩は外道にころさる、
此等は いかなりける時ぞやと勘(かんが)うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ
章安大師は「取捨宜きを得て 一向(頑なに一つに拘(こだわ)る事)にすべからず」としるされ、
法華経は一法なれども 機(機根)にしたがひ 時によりて 其の行(行体)万差なるべし 】
『 種種御振舞御書(佐渡抄) 910P 』 

【 (前部を略す)一には時来らず 二には機なし 三には譲(ゆず)られ給はざる故なり、 】
『 治病大小権実違目 996P 』

【 一には自身堪(た)えざるが故に 二には所被の機無きが故に 三には仏より譲り与えざるが故に
四には時来らざるが故なり 】 『 曾谷入道殿許御書 1028P 』

【 是は 時の然らしむる故なり 】 『 四条金吾殿御返事 1194P 』
この御記述は、「何故、私(日蓮大聖人)が 『天台大師や伝教大師』を越えて
「法華経弘通」故の諸難を受けるのか。 この自問自答の直後の文言。
これは全て、「末法本仏たる適時而已」であるとの御金言の事だ。

【 (前部を略す)付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・
仏の久遠の弟子にあらざる故に 】 『 諸法実相抄  1358P 』 
上記は、最も私達が学んだ御金言の一節であろう。

『適時而已』…。     語彙が重なるが、甚だ深い。つまり、甚深である。

[588] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月18日 (月) 05時41分

やはり…。 次に書くなら『報恩』だ。  今日(2012年6月17日)の聖教新聞を読んで、そう感じた。

宗教全般が、皆に最も求める事は何か。 又逆に、一体何を皆に教えたいのか。
…それが『恩』。 感謝に報いる思い。 ではないか。 


【 此(こ)の功徳を以(もっ)て 父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候 】
『 本尊問答抄  374P 』  「御本尊への報恩が、すべてを包含する」

【 さど(佐渡)の国と申し これ(身延の事)と申し 下人一人つけられて候は・
いつの世にか わすれ候べき、此(こ)の恩は・かへりて・つか(仕)へたてまつり候べし 】
『 妙一尼御前御消息 1254P 』


次下(つぎしも)の御記述は、『感情なき畜生すら恩を報ずる…』という示唆である。
【 川獺(せんだつ・かわうそ)祭魚のこころざし・林烏(りん・カラス)父祖の食を通ず
鳩鴿(きゅうご・ハト)三枝の礼あり  行雁(こうがん)連(つら)を乱(みだ)らず・
羔羊(こうよう・ヒツジ)蹄(うずくまり・ひずめ)て乳を飲む・
賤しき畜生すら 礼を知ること 是くの如し、何(いかん)ぞ人倫に於て
其の礼 なからんやと あそばされたり 取意、 】『新池御書 1444P』

『報恩』  恩とは報うべき…  報うてこそ「恩」が成り立つ。
若干、時間がないので、 明日に譲る。

[590] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月18日 (月) 09時14分

前回。時間の都合で、「簡素にした部分」の詳細を記述しておく。(御存知の人の多きを承知で記述す)

【 @川獺(せんだつ⇒かわうそ)祭魚のこころざし・A林烏(りんう)父祖(ふそ)の食を通ず
B・鳩鴿(きゅうごう⇒はと)三枝の礼ありC行雁(こうがん) 連(つら)を乱(みだ)らず・
D羔羊(こうよう⇒子羊)踞(うずくま)りて乳を飲む 】   『 新池御書 1444 P 』

@  カワウソさえ、正月(旬)には「魚」の供養をする。
A  カラスは、自分を育ててくれた「親」や、その又「親」のために「エサ」を運ぶ。
B  鳩でさえ、親鳥の3本下の枝(三枝の礼)にとまる。
C  雁は、先頭を飛ぶ「リーダー」を追い越さない。
※戸田先生の『雁(かりがね)行進の否定』は、安易な人材推薦の話で、別次元だ。
D  「子羊」さえ、親から乳を飲む時は踞(うずくま)り「膝」を折る。
上記は全て『報恩』の持つ意義・重要性を御教示されている『御聖訓』である。  


【  夫(そ)れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず    
白亀は毛宝(もうほう⇒古代中国の武将)が 恩を ほう(報)ず  】『報恩抄 293P 』
上記は『報恩』の核心の御記述である。これは…あまりにも有名な 『報恩抄』の冒頭文だ。
『塚をあとにせず』…とは、自分の育った巣穴に対して、
粗末に軽んじない、後足で砂を蹴らない、永劫に疎(うと)んじない事。
又。白亀(はっき⇒年老いた亀)の故事は…
昔「毛宝」に助けてもらった亀が、「毛宝」の最大の危機を救った話である。

この「白亀(はっき⇒年老いた亀)」に関して、『日蓮大聖人』は別の『御書』で
【 亀魚(かめ)すら 恩を報ずる事あり 何(いか)に況(いわん)や人倫をや 】 
と、憤慨の気色で御記述になっておられる。 『 善無畏三蔵抄 888P 』

この 『報恩抄』の冒頭文を「再掲」する。
【 (前部を略す)…畜生すら かくのごとし いわうや人倫をや 】
『日蓮大聖人』の叫びは、 『畜生すら (このように) 恩を知るのではないのか!』である。
『日蓮大聖人』の叫びは、 『人間として、「不知恩」は最悪・最低ではないのか!』である。

五・十大部にも属する『報恩抄』は、(これも御存知の通り)「通・別」の二義を説かれている。
ここで「義」の詳細に触れると「紛れる」ので、大意を申して置くと。
『通』 ⇒ 「四恩を報ず」であり。    『別』 ⇒ 師恩への報謝である。

又。『報恩抄』の主題は…  以下である。
【  日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は 万年の外・ 
未来までも ながる(流布)べし 日本国の一切衆生の盲目を 
ひらける功徳あり、無間地獄の道を ふさ(塞)ぎぬ 】 『 報恩抄 329P 』

決めて『報恩抄』に係わる事が、『恩』への肉迫ではない。
そこで、『御書』に於ける『恩』を探ってみる。

先ず。若干「難解な恩」に迫ってみる。
【 内典(仏説全般)には 恩を棄て 無為(の位・一切万象に影響されない境地)に入るは 
真実の恩を報ずる者なりと 仏 定め給いぬ 】『 下山御消息 364P』
(この【 無為の位 】を、「宗門」では『出家』と定義した。)

『恩義』という言葉の深さを、『御書の御聖訓』で充分に味わって欲しいものである。

【 我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて 一切の仏に擯出せられたる我等を
唯我一人・能為救護と はげませ給ふ、其の『恩』 大海よりも深し
其の『恩』 大地よりも厚し 其の『恩』 虚空よりも広し、(中略)
(其の仏恩に報いる為) (自分の)身の血肉を無量劫・仏前に 山の如く積み
大海の如く 湛(たと)ふとも 此(こ)の仏の一分の『御恩』も報じ尽くしがたし 】
『 善無畏三蔵抄 886P 』

『御書全篇是報恩也』とは「愚壮」の造語であるが、『御書 即 報恩』は正解である。
以下。次回

[591] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月19日 (火) 04時00分

『日蓮大聖人』御自身が「報恩」を決意された時の御心境は、どのようなものか…。
これは「凡夫」には、量り知れない事である。
然し『御書』の御記述には、その事が端的に示されている。(重大な部分は、『』で囲んだ)
【 本より(言わずもがな・当初から…)学問し候し事は、
『仏教を  きは(極)めて 仏になり』 恩ある人をも たすけんと思ふ 】
上は『 佐渡御勘気抄 891P 冒頭文 』  これは説明不要である。


『恩』と ひと口で言うが、その最深部は、一体何処にあるのか。又、何処に向う可(べ)きなのか。
この、ひと口で表現出来る『恩』への解剖は、一筋縄では どうにもならない。
【 父母を知るも 師の恩なり  
黒白(正誤・表裏・正邪・正否・真贋・勝敗・雌雄(しゆう)…etc)を弁(わきも)うも 釈尊の恩なり 】
つまり、得々と・堂々と「誤謬」を垂れる※輩は、『報恩』部分が抜け落ちているのだ。
( ※『輩』 ⇒ 黒・白をも弁(わきまえ)ずに 『ヨタ』を吐く奴は、「不知恩」である。という事 )
又。『ヨタ』とは、過去の発言を「紛れて翻す事」である…   納得されるかな…。

訳の判らん「俗世の常識」を、『鬼の首』の如く吹聴し、一切の「省み」が無い。
吐き並べる「御託」は、一見正論・再検証の暁は…何処から斬っても『世迷い事』である。
…これが上記の「御聖訓」の御指導(通解)である。
それが 『 一谷入道御書 1327P 』である。

更に申せば。 
更に申せば とは、 もっと別の、もっと深い『報恩』に関する御金言を拝読せよという事だ。 

それが。   『上野殿御消息』(四徳四恩抄)の全文である。 1526〜1528P
これの「身・口・意」での咀嚼は、『人間革命』の直道である。
『人間革命の直道』とは。      
『御書』を拝読している時に『感動・感謝・報恩』の『涙』に咽ぶ事である。 

これが…  真実の叫びである。

[592] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月19日 (火) 17時02分

『四大声聞』の領解文では、
世尊の『大恩』それ自体が「稀有」であり、
その巨大なる『恩』に「報ずる事」は、(深すぎて)不可能  (能〔あた〕わじ)としている。
『 開目抄上 204〜205P 』

扨(さて)。  
『恩義』という事を学ぶ上で、絶対に避けては通れぬ『御書』が在る…。

それが『四恩抄』である。

弘長元年(1262年)正月16日  聖寿41歳の御述作であられた。    
対告衆 ⇒ 工藤吉隆(小松原の法難で大聖人を護り討ち死にをした)

御述作地:伊豆(流罪地)        別名『伊豆御勘気抄』  約3,600文字の短簡
※小松原の法難の詳細 
『南条兵衛七郎殿御書 1498P 』  小松原の法難の意義 『上野殿御返事 1555P 』

本抄の大骨格は『報恩』である。            
それは『報恩』こそ人間本来の目指す『本源』であるからだ。

『恩』を知り(知恩) 『恩』に報いる(報恩)            
これこそが、人間が人間らしく生き行く為の「根本」。
☆『人間』が永劫に正しく前進しゆく原動力は『報恩』である。

『四恩抄』 の他に 
『報恩抄  293P』『本尊問答抄  374P』『妙一尼御前御消息  1254P』『新池御書  1444P』
上記は全て『報恩』の持つ意義・重要性を御教示されている『御聖訓』である。(一部・御書名が重複)

【 仏法を習う身には 必ず四恩を報ずるべきに候か、
四恩とは(中略) 一には 一切衆生の恩
一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願い 発(おこ)し難し、 
又 悪人 無くして 菩薩に留難を なさずば 
いかでか 功徳をば増長せしめ候べき 】  『四恩抄 937P』

『 仏法を習う身には 必ず四恩を報ずるべきに候か 』 
 この御文証こそ「本抄」の急所である。

四恩とは  ↓ 以下を指す。
@一切衆生の恩  A父母の恩  B国主(王)の恩  C三宝(仏・法・僧)の恩

@(一切衆生)に報いるとは、
滅後悪世で万人を救済するという崇高な「使命(衆生無辺誓願度)」を果たせる恩だ。

A  母に関する御聖訓は 
 233P 733P 929〜30P 933〜4P 1131P   ☆1398P 1481P 1490P
『開目抄下』  『御義口伝上』  『光日房御書』 『光日上人御返事』 『呵責謗法滅罪抄』 
☆『刑部左衛門尉女房御返事』  『窪尼御前御返事』  『三沢抄』 

A  父に関する御聖訓は ⇒ 858P 1033P 1481P  ☆1532P 1557P
『百六箇抄』 『曾谷入道等許御書』 『窪尼御前御返事』☆『南条殿御返事』 『上野殿御返事』

B国主(王)の恩に関しては⇒大白蓮華 47P (上段)
『国主の迫害によって、仏果(道)を得(極め)る』とする。
『日蓮大聖人』と門下への「迫害」は『御書』により明らかであり、
その『難』ゆえに、『宿命転換』出来得たのも事実だ。

又。国主(王)の恩を、『帝(みかど)』に限定すれば…。
※『紫宸殿御本尊』の意義がある。 しかし… これは、紛れるので割愛する。
紫宸殿御本尊⇒紫宸殿(天皇の居所・帝の内裏)に奉掲すべき御本尊の事。 
 ※ 紫宸殿⇒『本尊問答抄 372P 』
 
『報恩』(恩に報いる行為・恩を刻み込む姿勢)こそ、
自己の狭い料簡を乗り越える『跳躍台』である。
ここで言う『跳躍台』とは正に、『人間革命』そのものと捉えてよい。

逆に「狭い料簡」の人間とは『不知恩』の事なのである。 
『報恩』に相反して、厳しく誡められているのが『不知恩』だ 

つまり『不知恩』とは「利己主義」。これを『自利』と切る。
「自利」とは「不知恩」 「不知恩」とは「利己主義」 
「利己主義」とは「異体同心の否定」 
「異体同心の否定」は『同志誹謗』と『師敵対』に直結している。

これでは『人間革命』など、「夢」の又「夢」である。 
ましてや『折伏弘教』など「何億年」掛っても出来ない。

Cの『三宝(仏・法・僧)』への『恩』
これは。 最も基本であり、中枢であり、難解であるので。
次回とする。

[593] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月19日 (火) 19時34分

『三宝(仏・法・僧)の恩』
『日寛上人』の六巻抄の中の『当流行事抄』にはこうある。
仏宝 ⇒ 久遠元初自受用身報身如来即日蓮大聖人
(例えば『第59世:堀日亨上人猊下』は、「六巻抄・当流行事抄」の御註解に於て、
自受用身に関して「ホシ(自)イママニウケ(受)モチ(用)ユルミ(身)」とされる。
(が、しかし。 これ以上の細部への検証は、煩雑すぎよう。)
法宝 ⇒ 本門の本尊即南無妙法蓮華経
僧宝 ⇒ 日蓮大聖人血脈付法の開山上人『白蓮阿闍梨日興』
としている。

『御書』に於ける『三宝(仏宝・法宝・僧宝)』への「恩」は、もっと凄い。
…というか…『難解』すぎる。  『四恩抄 938P』
【 (前部を略す)…残る所の四十年の寿命を留め置きて… 】
(本来「釈尊」は百二十歳の寿命であったが…一応、八十歳で入滅し、
残りを全ての衆生の為に『恩』として与え置いた。…)

それに続く『御聖訓』には。
世界中の海の水を「硯(スズリ)」の水とし、世界中の植物を焼いて墨汁とする。
…だけではない。 世界中の獣の毛で筆を作って。地球上の全大地に…
『仏(釈尊)』への『報恩の謝辞』を書いても、 未だ足らない。という。

こうなると。  『恩』の深さ等は天文学的で、生きている間には量れない。

更に、この『御聖訓』には、 『この三宝への「報恩」で、一番重要なものが『僧』への恩』という。
【 僧の恩を いはば(言及すれば) 仏宝 法宝は 必ず 僧によりて住す 】938Pとある。

これを拝して、「未だ『僧への恩』を否定する気か!」と、叫ぶものである。
【 然れば 僧の恩を報じ難し 】938P を、一体。どのように拝するのか伺いたい。

但し。声を惜しまず叫んでおく。
ここでいう『僧宝』の御資格を有する『正僧』『聖僧』とは、恐れ多くも。
『御本仏・日蓮大聖人』を除いて 『日興上人』『日目上人』『日有上人』
『日寛上人』『日霑上人』『日亨上人』に代表されるのである。

『三宝への報恩』及び『聖僧』たる意義・等々は次回で記述する。  
特筆『日寛上人』に対する「三代歴代会長」の絶対姿勢等々も、又。次回に譲る。


唯一言える事がある。   「三代歴代会長」は、紛れも無く私達の「師匠」である。
この『三代の歴代会長』は『卓抜で不動」である。と言っても、異議はなかろう…
否。 一切の反論は無い筈である。 
「第26世:日寛上人」を指して、よもや「偽者」とホザク『師敵対』の輩は居るまいと確信する。

[594] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月19日 (火) 20時25分

ところで…『独り言』じゃ。
話は『御書』に関してである。
「句読点」や「中点」等は、名詞が和字(かな)で連続している為の判読を容易にする為、
後世で書き添えられたものである。(第59世:堀日亨上人猊下の御努力)
又。『御書本文』の御記述順序も、きっちりと「分類」されており。
特に、御門下への『消息文』等は、『日蓮大聖人』の御事跡に沿ったものである。
上記の四行に関して、『御書』に詳しいので、御読み頂きたい。

近々。ネット等で(例えば)『満月城 岡山』(だったかな…)等。
『御書』の検索が、非常に便利であって。   大きな助力となっている。

然し この(例えば)『満月城』。語記方法に於いては。 
⇒『・』(中点と呼ぶ)等が省略されている。  (他の同種が、どうかは知らない。)

勢い。そのままの「貼り付け」が、当然 非常に便利である。
が、ともあれ。【 全文の「コピー」「貼り付け」は、どうも有り難くない】とは、ジジィのヒガミか。 

私が『御書御本文』の引用に及ぶ時は、一字一字 キーを打つ。
その為、時間は掛かる (…それでも、誤植が発生するのには閉口する)

ま  。『御書』の御引用に、便利な「ツール」の御使用も結構じゃが…
散見する『丸写し』は、あまり感心できたものではない。
せめて、「中点」や「句読点」や『特別な御文証』への「通解」位は実施せよ。

ママの丸写し等…「猿でも出来る」
但し… これは『満月城 岡山』様に言ってるのではない。

[595] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月20日 (水) 05時07分

蓮祖大聖人滅後383年目に御出現された「御正師」の存在が在る。  
(日寛上人⇒南条兵衛七郎直系の子孫)
後の『第26世:日寛上人(1665-1726)』である。 
この『寛師』の御出現で、汚れた宗史の軟風・己義・邪義は一挙に打ち払われたのだ。

所以(いわゆる)『中興の祖』の御出現である。 
( 『中興』という文言は、一旦崩れた正法を、正道に戻す事をいう )  

扨(さて)。『六巻抄御講義』の「序文」である。
六巻抄とは、正式には以下の「六巻」の論文を言う。
それが  @三重秘伝抄 A文底秘沈抄 B依義判文抄 
C末法相応抄 D当流行事抄 E当家三衣抄の『全六巻』である。

日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、
化儀の広宣流布の未来に流れ通わしめんがため
全魂をこめて著された破邪顕正の書である。

即(すなわ)ち、六巻抄全体は、当時の邪義を摧破(砕き破る)した「破邪の書」であり、
正像の仏法と、末法摘時の大仏法を峻別し、日蓮大聖人の御書の真意を知らしむ、
顕正の書である。(中略)

当時の『池田先生』をして ⇒ 『彼の天台、伝教が釈尊の正統を顕揚したのに
幾千倍勝る大偉業であると共に、未来永劫にわたる源遠長流の
教学の大基盤であると信ずる。』とは、 一切の予断を排した『池田先生』自体の心である。

更に「序文」は格調高く続いている。
『戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と申されていた。
事実、学会教学の不滅の伝統は、
日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといっても過言ではない。(中略)

六巻抄は いわば仏法哲学の精髄である。
これを無量に展開していくことこそ学会教学部の使命であり、責任であることを訴えたい。

(中略)   もはや、一宗門の六巻抄にあらずして、
万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。  (後略)
昭和四十四年三月十六日   創価学会会長    池田大作

『戸田城聖第二代創価学会会長』
『池田大作創価学会第三代会長』
が、併記された『六巻抄』への「帰依の御心」を、我等は継承せねばならぬ。
それが『創価の弟子道』であるからだ。

巻末に、『戸田城聖第二代創価学会会長』の「宗門観」の参考となる御記述を再掲する。
(これは現今の「顕・如に見る」 ひん曲がった「宗門」を指す物ではない。念の為…)
【 (本文はカタカナ表記) 去年、堀米先生を謗った罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。
「法の師を謗りし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る」と言っておりますと。】
青娥書房「若き日の手記・獄中記」抜粋

[596] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月20日 (水) 09時33分

蓮祖大聖人滅後383年目に御出現された「御正師」の存在が在る。  
(日寛上人⇒南条兵衛七郎直系の子孫)
この人が   『第26世:日寛上人(1665-1726)』である。 
この『寛師』の御出現で、汚れた宗史の軟風・己義・邪義は一挙に打ち払われたのだ。
所以(いわゆる)『中興の祖』の御出現である。   有名な著書は『六巻抄』である。 
( 『中興』という文言は、一旦崩れた正法を、正道に戻す事をいう )  

扨(さて)。『六巻抄御講義』の「序文」である。
六巻抄とは、正式には以下の「六巻」の論文を言う。
それが  @三重秘伝抄 A文底秘沈抄 B依義判文抄 
C末法相応抄 D当流行事抄 E当家三衣抄の『全六巻』である。

『日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、
化儀の広宣流布の未来に流れ通わしめんがため
全魂をこめて著された破邪顕正の書である』。

『即(すなわ)ち、六巻抄全体は、当時の邪義を摧破(砕き破る)した「破邪の書」であり、
正像の仏法と、末法摘時の大仏法を峻別し、日蓮大聖人の御書の真意を知らしむ、
顕正の書である。(中略)』

当時の『池田先生』をして ⇒ 『彼の天台、伝教が釈尊の正統を顕揚したのに
幾千倍勝る大偉業であると共に、未来永劫にわたる源遠長流の
教学の大基盤であると信ずる。』とは、 
一切の予断を排した『池田先生』自体の誠心である。

更に「序文」は格調高く続いていく…。
『戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と申されていた。』
『事実、学会教学の不滅の伝統は、
日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといっても過言ではない。(中略)』

『六巻抄は いわば仏法哲学の精髄である。
これを無量に展開していくことこそ学会教学部の使命であり、責任であることを訴えたい。』

『(中略)   もはや、一宗門の六巻抄にあらずして、
万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。  (後略)』
昭和四十四年三月十六日   創価学会会長    池田大作

『戸田城聖第二代創価学会会長』
『池田大作創価学会第三代会長』
が、併記された『六巻抄』への「帰依の御心」を、我等は継承せねばならぬ。
それが『創価の弟子道』であるからだ。

巻末に、『戸田城聖第二代創価学会会長』の「宗門観」の参考となる御記述を再掲する。
( これは現今の「顕・如に見る」 ひん曲がった「宗門」を指す物ではない。念の為… )
【 (本文はカタカナ表記) 去年、堀米先生を謗った罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。
「法の師を謗りし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る」と言っておりますと。】
青娥書房「若き日の手記・獄中記」重複抜粋


今・何故『六巻抄』に言及するのか。
それは『第26世:日寛上人』御自身の実像に肉迫するが為である。

六巻抄の中に『依義判文抄』という重書がある。
これへの『第59世:堀日亨上人猊下』の註解文を拝読するに、以下とある。
【 依義判文 】 
或る義を依拠とし標準として 次第に他の文を判断する事である。 という。
つまり『義に依って、文の真理を判ずる事』である。

『大聖滅後』四百年という時空の経過は、正否に亘って『法理』をも巻き込んだ。
これを如実に語るのが、「法主」の出張・交替…つまり「権威」の輪番である。

厳密に考えれば、
この辺りから『一切衆生・衆生無辺誓願度』という「大原則」さえ色褪せた。
『宗祖』が「命懸け」で伝えようとした「基盤」が忘れられかけた宗風である。


まあ、そう硬い事を言わずにいえば…『中興の祖』と言われる『日寛上人』が、
二十六番目の「嗣法」という事実は、厳然であり。
少なくとも「二十人と少々」は脱線した、も「逆算」の真実(史実)である。

弛みきった『箍(たが)』を、『第26世:日寛上人』が締め直したのは間違いない。

『三重秘伝抄』(日寛上人・著)の本文を抜粋する。
【 ※今謂(いわ)く 前来の諸説は 皆是れ 文上なり、
不相伝の輩 焉(いずくん)ぞ 文底を知らんや、
若し文底を知らずんば 何ぞ「蓮祖」の門人と称せんや。】
「我れこそは、真の池田門下生と言う輩こそ、臭い者である」
と指弾されている文言である。      何とか言ってみろ。

『 ※今謂く 』 ⇒ を特別に「日亨上人」が御講義になっている。
( 今謂(いわ)く ⇒ 本師(釈尊)上来(元々)の憶説(処説)を排除して
蓮祖正伝の実義を述べたもう事 )である。
これを「深く通解」すると。
「釈尊」の通説も『日蓮大聖人』の口伝に裏打されて、初めて『実義』となる。

更に、その「深義」(三重秘伝抄)を『日寛上人』が御記述される。
これが、誠の「血脈」である。(とは、言い過ぎか)

次回も『日寛上人』に迫りたい。

[597] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月21日 (木) 05時12分

扨(さて)。 『日寛上人』
『演繹と帰納』の両方で評価しても、
『第26世:日寛上人』は中興の祖であり「稀代」の名僧である。
その上で、私が断言するのは。 
『日寛上人』を卑下する輩は、『日蓮大聖人』の弟子ではないと言う事だ。

『日寛上人』を申す以前に、是非。記述しておきたい事がある。

非常に不孝な事であるが、『日蓮正宗:大石寺』と『創価学会』が袂を別った。
一方は『破門された』と言い。      一方は『己義を立てた』と言う。
この時。最も苦しんだのが『法華講員・学会員』であった。

その後、両者の 恥も外聞も捨てた「詰(なじり)り合い」は『我田引水』の羅列である。
『草創の学会員さん』の、隠れた顰蹙を買ったのも、又 この『我田引水』部分であるのだ。

ここでは、一例のみ『我田引水』の実例を挙げて、
この『創宗戦争』が、全く実益のない歴史上の愚行である事の 指摘だけしておく。

2011年10月12日(水) 第17441号の『聖教新聞』の社説。
以下抜粋 【  (中略)そして、日興上人の精神を継承したはずの日興門流も 
今では完全に「葬式仏教」と化している。(後略)】

『創価学会教学部』が、日興上人を否定する瞬間の記述が上記である。 
まったくもって、冗談ではない…何をほざくのか。
「創価学会教学部」が『日興上人』を否定する。
これは『師敵対』の極致であり、「三代の歴代会長」への冒涜である。

「愚壮自身」の実体験の中に、『総本山・大石寺」での『風景』がある。
これは、確か…「大化城」の近くであったと記憶する。(記憶は確定ではない)

ここに在った「蓮池」の事が、『四信五品抄』の講義レコードに紹介されていた。
この「戸田先生」の御講義が、筆者の印象に深く残った原因は、どこにあったのか。

その後、実際の『池』を訪れた「愚壮」に目に飛び込んできた「歌碑」があった。
それは…      夢か幻か…、こうあった。
『 あな嬉し   とわ(永遠)の故郷  大石寺 』

『池』のほとりに立ち止まり、生涯の安楽を、この「歌碑」に認めた幾多の人々。
この人々の…『深奥からの安逸』を消し去ったのは、 一体誰だ。

もう、二度と帰らぬ『失われた時』を求めて…
今、私は。 『六巻抄』を再び繙いた。

そうした私の目に、一句の語句の解説が飛び込んだ。
その「語句」は…一冊の『六巻抄講義』の最後のページにあった。

【 皎然 】とだけあった。当然あるべき(読み)もない…。
下部の「語句の解説」には、こうある。
『 あきらかの意。 目の前に明らかであること。 』とあった。

私は思った。
この『創宗戦争』は、このままでは、未来永劫に続くであろうが…。
【 皎然 】としている事は、山ほど有る。
いつか何時の日か、「発足の初心」に戻らなければ。
総てが「死ぬ」。

その「死ぬ」中に、『日蓮大聖人』も『日興上人』も『日寛上人』も『日亨上人』も。
厳然。 含まれて居られるのである。

それが謂う処の…多寡の論理では無い事象の根幹である。『聖愚問答抄下 493P』

[598] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月21日 (木) 17時14分

余話
ところで…。 
私は今。『日寛上人』を称えるが為にのみ繙く 一書がある。
一書とは『六巻抄講義』集である。
この『六巻抄講義』集を拝読していて、突然に思い起こした事がある。

それは過日。 この『風景』にて…である。
いつものように、甚だ「舌っ足らず」の御託を並べる「愚壮」に横槍が入った。
「横槍」の内容は的確で、  私はいっぺんに『横槍の人』が嫌いになった。

この際。 「嫌い」が冗談で…      「的確」が急所であった。

私のいう『謗法厳戒』は、これは正論である。
その上で、あるべき流れは…これは、ある。

『氏』が私を諌めた「文言」は、   前出の(あるべき流れ)で、正論である。
正直私は、「氏は、よくここまで読んでいる」と感動をしたのである。
(これは、決めて…ヨイショではない)

然しながら言っておきたい。   氏「引用」の文章に。(…と喧嘩を売るのではない)
非常に類似した記述文がある。  それが、
この『講義の巻』の、 147〜148P。 これは当時の『創価学会教学部』の記述だ。
(違っておったら、言い訳に「汗」をかくので、(セコイが)書名は伏せる。

この文章。当然『池田先生・監修』の範疇ではあるが、 記述は『創価学会教学部』だ。
記述内容の持つ意味は大きい。     つまり、私はここで  『教学部』に言って置く。
意義が深そうであっても、      「誤解」の余地ある構文は控えねばならん。
それは何故か… 全責任が『池田先生』に向うからである。

因みに…この『横槍・正論の人』は、御若いのに(…と、勝手に決めてる)尊敬できる人である。
愚壮・拜

[599] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月21日 (木) 18時18分

若干 横道に外れた…と。 『日寛上人』の話を戻す。
先ず。 『橋を問う』という急所から「講義」は始まる。 本文は
【 (前部を略す)苟(いやし)くも糟糠(そうこう)を執し ※橋を問う 何の益あらん 】

糟糠(そうこう) ⇒ 酒のカス・米のヌカ ⇒ 最も劣ったもの。
※橋を問う ⇒ 文言に拘泥(こだわって)奥底の思想・哲理・本質を読み取ろうとしない事。

須(すべから)く…。     文章を翫(もてあそ)ぶ「輩」の陥りそうな指摘である。
こういう部分から『講義を始める事』に、『日寛上人』御自身の、急所を飲み込まれた凄さがある。
『 一を聞いて 十を悟れ 』 とは、確か。『御書』に存在している。
【 一をもつて万を察せよ 庭戸(ていこ)を出でずして天下をしるとはこれなり 】
『 報恩抄 295P 』

【 一は万が母と いへり 】 『 聖愚問答抄下 498P 』
【 母は唯・一なるべし 】 『 妙密上人御消息 1237P 』

『日寛上人』が、先ず「橋を問う」如きの愚かな進行に終止符を打たれたのである。
その上での「急所」が以下である。
※「橋を問う」如きの愚かな進行…とは  『両者が、相反する事を示すのではなく』
理に走り原典を離れる事・文章の枝葉に拘泥する事の「二極端」の誤謬を排している。

もう既に、この「一点」から、『宗・創』は『日寛教学』身読しておらず、話にならない。
誰かが『教学は日寛上人の時代に帰れ』等と、声高に請売りする値打ちもない。

よくよく 反省して頂きたい。
…と言っても、これは『戸田城聖第二代創価学会会長』を指しているのではない。

何度も繰り返すが。
『牧口先生・戸田先生・池田先生』は私達にとって、「稀有」の『師匠』である。

[600] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月22日 (金) 05時03分

『日寛上人』が、其の『本門戒壇本尊』の元意に、直ちに当てはめられたのが、
※「応受持斯経」の文。就中。『受持』の二字である。
「受持」する事自体が『本門戒壇本尊』で、そこから総てが出発する。

※「応受持斯経」の文。と言われても、何の事やら、さっぱり解らん…と人は言う。

少し挿むが…元々『六巻抄』自体が全て「漢文表記(漢文体)」である。
これを後世の研究家が、
当該研究家の対告衆の素地に合わせて「訓み下した」書物である。

そこで前出の「応受持斯経」を「訓み下した」形態に変換表記する。
『 応(まさ)に斯(こ)の経を受持する事が即本門戒壇の意義 』と読む。
(他にも いろいろの読み方があり、漢文の専門家の訳文に期待するが)
概ね、上記の読み方が「日興上人(開山上人)」の本意である。


何故。この「講義書」の内容を言うのに、ここから入ったのか…。
それは、『日寛上人』が単独で「己義」の「本尊論」を展開などされてなく。
あくまでも、日興上人(開山上人)の所説を御踏襲されているからである。

『日寛上人』書写の御本尊に対する、甚だしい「悩乱」の解釈は論外なれど。
看過しての「其の侭」は。 決めて『宗・創』の「魔への屈服」である。

『事。御本尊』である。    黙殺宜しき筈がない。

[601] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月23日 (土) 06時53分

『六巻抄』とは「六巻」に顕されている『日寛上人』の重書である。
(「中興の祖」と謂われる・エキスが「本編」のどこを摂っても、我が身に附く)

こう簡単に考えたのが『六巻抄』を教材に選んだ理由の一つ。
もうひとつは、『日寛上人』を(諺 ⇒ 盲目・蛇に怖じず)と「こき下ろす」輩への警鐘だ。

『日寛上人の六巻抄』 就中「依義判文抄」を選んだ理由は、上記に依るものである。
然し…。 『講義書』を繙いて、ものの二日とせぬ内に、私は大きく後悔した。
…と。 その「難解」な構図に、悲鳴をあげたのだ。


その「講義」は、冒頭に下記を言って始まっている。↓
【 義に依って文を判ずる 】 この場合の「義」とは、『日蓮大聖人』の三大秘法の仏法である。
「文」とは 釈迦の説いた「法華経二十八品」の文である。

つまり…『依義判文抄』という題号の真意は。
『日蓮大聖人』の仏法に「依って」 法華経の「文を判じる事」ととし、更に。
『三大秘法』が「法華経が(元々・顕わそうとした)法体そのものである」とする。

この辺(あた)りから、「隙間だらけ」の愚壮の脳味噌の限界を露呈してくるが…
引き続いての「講義文」に遭遇して、「恥も外聞もなく・悲鳴するの」である。

それが、以下に続ける「講義文」である。
【 この事 ⇒即(すなわ)ち『依義判文抄』という題号の真意・
ひいては『依義判文抄全体』の持つ「底意」とは  】
『日蓮大聖人』が建立された三大秘法の仏法が、
『日蓮大聖人』御自身をして「勝手」に造ったものではなく、
釈迦も知り、ひいては「一切の仏」も知っていた事を
知らしめる・宣言する・決言する「書」である事。という。

私は、ふかく反省した。
「しまった。これ(『日寛上人』の『六巻抄』)に言及してはいけなかったのだ」


そんな事で悩むな。という声までが私を責めているやうな今朝。
『池田先生』は『 寂日房御書  902〜903P 』を捉えてくださった。

「水を得た 魚」とは、こう云う心境の「言葉」である。と 私は歓喜した。

【 夫(そ)れ人身を うくる事は  まれ(稀)なるなり、
已(すで)に まれなる人身を うけたり
又 あひがたきは仏法・  是も又 あへり、 】と更に御金言は続く。

【 同じ仏法の中にも 「法華経の題目」に あひ たてまつ(奉)る
結句 「題目の行者」となれり、
まことに まことに  過去十万億の諸仏を 供養する者なり  】 

この「通解」は、深く言えば(ママであるが)下記である。
『 人と生れて、御本尊に会う事は 過去世の深い「宿縁」である。
「広布」を怠るな。 「信心」を怠るな。 』 という事である。

…という事は、今 私が繙く『依義判文抄・講義集』に登場する御聖訓も、
当(まさ)に・『寂日房御書』そのものではないのか。

『依義判文抄』の真骨頂は、多編の中の『寂日房御書』であり…
その中でも、特筆の『神力品 第二十一』である。

ここに来て… 殆んど 微(かす)かではあるが、
『依義判文抄』が遠くに見え始めたのである。

それにしても……と。 私は心底にと、 こう想う。
『日寛上人』とは、誠に凄絶の「御示現」であったのだ。

中興の祖『第26世:日寛上人』の御生誕は1665年(日蓮大聖人滅後383年)
その御遷化は1726年(日蓮大聖人滅後444年)享年61歳である。

江戸時代(1600〜1867)の中間点は享保18年(1733年)で、
「日寛上人」は、まさに江戸時代中期の法嗣であられた。

『享保(きょうほう)時代』とは、
(諸説があれども・概ね…)1716年6月22日から1736年4月28日までの20年間を指す。
尚。 その時の江戸幕府の将軍は『第八代:徳川吉宗』であった。

常々「戸田先生」が叫ばれた事実とは。
『教学は日寛上人の時代に帰れ!』であったが。
これは…「宗門」に『本物の法嗣・日寛上人』が出現されたからである。

『日蓮仏法』の、原点である「鎌倉時代」は130年間(1203〜1333)続いた。
又。その中間点は弘長5年(1268年)であり、最初の蒙古牒状が届いた時であった。

弘長5年(1268年)といえば…。
この3年後に『竜の口法難』が起る時期であり、
この時の鎌倉幕府の執権も亦『第八代:北条時宗』であった。

この「二つの第八代」…。 読者諸賢諸氏は、『偶然』と片付けるのか。

[602] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月24日 (日) 07時09分

『我れ真の弟子なり』と言って一歩も退かない人が多く居る。
これと、全く同じ様に、「私こそ釈迦の誠の弟子である」と、常時 明言した人々が居る。

『釈尊』が最も近き世に。「如我等無畏(にょがとうむい)」という決意を抱いて、
今世に、皆の識(し)る出現の体現をされ、「方便としての涅槃」の直前に「二十八品」を説く。
これは、皆が知る「釈尊に依る 近代仏法開闢の風景」である。

『釈尊』は…。  この「法華経」の十六番目に来て『如来寿量品』を説かれる。
ここに初めて、「地湧千界の諸菩薩群」が大地を割って登場する。
その数たるや……。 「無数」である。

これを見た、「迹化の諸菩薩」は…
今までの「長時の空間」(永い時間)に亘って、「釈尊の弟子」を自認してきた自信を押し出した。

然し…『釈尊』は、いとも簡単に、こう言う。
「あなた達(迹化の菩薩達)」は、私の「今世(つい最近)」の弟子にすぎない。
それに引き換え、ここに居る『地湧(涌)の菩薩』達は、気の遠くなる以前から…
「末法広宣流布」を、誓い・願い・自認した『六万恒河沙』に及ぶ「菩薩群」なのだ。

これを聞いた「迹化の菩薩達」は大きに驚く。その有名な言辞を ⇒ 『驚天動地』と言うのだ。

『法華経・如来寿量品』で出現した「地湧(涌)の菩薩」が、
『法華経・神力品』で、具体的な「時期⇒末法」や「行為⇒破折・折伏」を自らに課す。

然し。この「一連」の流れ、   実は…。
『釈尊己心の法華経』や、天台・伝教等の「理の論述」には示されていた…が「輪郭」のみである。
(実際は釈迦が「ケチ」で言わないのではなく、「一切衆生の機根」が「至つていない事」を言う)

ところが…事実は冷酷である。
『釈尊自身』が予言した「白法隠没」が、遂に到来する。
「況滅度後・況滅度後」と、あれほど「鸚鵡」のように恐れた時代が来たのである。

『一切衆生』の機根は最下限の「底辺」まで堕ち。
「第六天魔王」は「此の世の春」と『奪命』の限りを尽くし(血塗られ)ていく。

既に、世界中が…。
『最も信じていた者が、実は、最悪の「奪命魔」であった』…という世相になっている。

『日蓮大聖人』が、最も恐れられ、最も闘われたのが、(上記の…)末法であった。
『最も闘われた』事とは ⇒ 最終の『悟達』の結果に「顕された三大秘法」の『大御本尊』である。
この『三大秘法の御本尊』即『南無妙法蓮華経』即『末法御本仏』が、『未曾有の法理』である。

これを「懇切」に順記され尽くしたのが ⇒ 『六巻抄』である。
つまり…『日寛上人』の御存在が「宗・創の要(かなめ)・扇の芯」なのである。

『御書』・『日寛上人』と出れば…次に控えて居るのは「地湧(涌)の菩薩」と決まっておる。

[603] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月24日 (日) 08時12分

≫ 「第六天魔王」は「此の世の春」と『奪命』の限りを尽くし(血塗られ)ていく。

「念仏無間地獄抄」を繙くまでもなく、「地獄」の様相は『人々の悪業の積み重ね』を自重させた。
「顕謗法抄」を繙くまでもなく、「地獄」の様相は『人々の悪業の積み重ね』を自重させた。
「如何なる妖艶美人」も、その死体を三日も放置すれば「蛆(ウジ)」が沸く。
…上記の警告等、「どこ吹く風」と、聞く耳をも持たない。

どのような「最高に秀でた人間」も、最初と最後の「各五・六年間」位は(個人差は有れ)手間もかかる。
と、諭(さと)しても…上記の「納得出来る仕組み」等、『屁』ほども気に止めない。
『なんせ、やる事がいっぱいあって… アア 忙しい・忙しい…と、「皆」死期に向って街角を走り抜ける』

人々は「己の主義思想」を貫く為に、『人間』を簡単に「謀(たばか)」る。
「謀(たばか)」る事・「謀(たばか)」られる事で…… 何千万の人々が抹殺されてきた。
それが、動かぬ「歴史・正史」である。

何も、今。ここで改めて…『拷問の事実』を語るまでもない。
然し。 現実は、「主義・主張」「人種」「宗教」に依って、人々は殺されて来た。
これは、絶対に動かない「事実」である。

「その場で殺す」「死(公)刑に処す」「無期に拘束する」「毒を盛る」「便槽に落し込める」「割礼を施す」
「拷問にかける」「私刑で殺す」「抹殺する」「陵辱する」…等々、これはオゾマシイ程、一部である。

『日蓮大聖人』が何度も御示唆された…『死は一定』という真意は、
「命」自体が持つ「不思議」なる「貴重」さ・「稀有」さ・である。
又。その「使命」(何に命を贖い 使い終わるのか)という事である。

「死んで三日もすれば、人々の記憶からも消えていく」儚(はかな)き今世であれば…
『愚」にも附かない ・ 『屁』にも劣る類の事はもうやめようよ。
どこかの「宰相」が、こう言った ⇒ 『ノー・サイドにしましょう。もう…』
主義主張に拘泥せず、イイ言葉だとは思わんかね。

優曇華の如き「人界」の現実を、どうか「性善」に全(まっとう)して頂きたい。

こう 念(おも)う   昨今である。

ところで…。 今日。
『O・T支部・壮年塾』である。  教材は『種種御振舞御書(佐渡抄)』後半。
講師は「拙」。   ずっと悩んでおるが…「質問形式」の方が、楽しく学べるのかナ。

[606] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月25日 (月) 05時46分

日曜日の昼前の一時間。恒例の『支部壮年塾』を行っている。
「今日。私は仕事なので『壮年塾』に参加出来ないが…」と、「N支部長」からは何度も確認があった。
定刻の十分前。四階建の「四階・拠点」に向った。

「拠点」の街路を挟んだ北側は「H小学校」
私は、その「グランド」を   立ち止まって、暫く眺めていた。
それは…昔日の、ヤンチャな「愛孫達」の勧声が聞こえたような気がしたからである…。

目指す「拠点(M田宅)」は、閑静な陽光の中にある。
『若干・四階までの階段。これは、少々こたえる…』と思うワシの、身体がなまっておる。

「四者」の「支部唱題会」の締め括りの「幹部」による談話の中。ワシは音も無く「会場」に滑り込んだ。

目聡い「担当の壮年幹部」は、同志の群れの「最後列」に身を潜める私に声を掛けた。
「愚壮さん。この後の『御書勉強会』…」 よろしくたのむと、こう申された。


「本日。N支部長が欠席されております」と、切り出した私は。
「今日の『御書勉強会』は、講義ではなく、「共に切磋琢磨すると言う意義を込めて…」と。
『御書に関するディスカッション』にしたいと、御提案した。

参加者各位の『御了解』を得た私は、御用意いただいた「小机」の前に在る。
『机』の上に…『御書』『大白蓮華』『眼鏡』『腕時計』を並べた私は…
最後に、今日の為に造った『種種御振舞御書(佐渡抄)』の冊子を開き、こう申しあげる。
『いつも、このような「高い場所」を与えて頂き、誠に恐縮です』
『それでは…今回の『勝利の経典』  共々に学んでいきましょう』


「睨み付けるが如き」の各参加者さんの視線の中。
『御書』に対する「畏敬の念」は、いやまし高まってゆく気概あり。
上記は。   一つの、「トアル支部」での『御書学習会』の『風景』である…。

この『御書学習会』で見えるものがある。とすれば… 『真摯に唯ひたすら』の空気である。
私は、思う。  『こうでなければ、御書学習ではない』…と。

[607] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月25日 (月) 19時43分

『日寛上人』に関しての論評は 甚(はなはだ)甚深であり、元より「愚壮」如きの出番ではない。
然し。余りにも『愚弄・恣(ほしいまま)』では、それを垂れた御本人の為にも宜しくない。

そこで、難解な注釈は『博学のM氏』に任せるとして、「これ以上は無い」という『講義』を書き写す。
( 『御講義』といっても、全文ではない  ごく一部である )
但し…言っとくが。  是れは「池田先生」の『御講義』である事を、最初に言っておく。

その前に、 『日蓮仏法』の数多(あまた)の「法理」の中で、主軸となる部分がある。
それが『宗教全般が所持する規範:五綱』である。

何故『宗教全般』か。    その解答は「全ての聖職者」に聴聞すれば「ケリ」がつく。
どういう事かと言えば…「全ての聖職者」は白々と こう言うのである。
「我が宗派にも、当然   教・機・時・国・教法流布の先後という 五綱は存在する」…と。

(上記なんぞは 全くの戯れ事で、眉唾ではあるが    しかし )
是くの如くの『ヨタ』に、目クジラ(?)をたてるようでは 『際限なきヨタ』にも対処は不可能である。
ここで問題にしているのは。 『日蓮仏法の五綱』である。
是れへの『真意』は、『御書』を経なければ絶対に咀嚼出来ない。 是れは「断言」である。

『釈尊』が声高に決意された「一大事」は『如我等無畏(にょがとうむい)』である。(通解:略)
然らば 『日蓮大聖人』が、死殃(しおう・頓死の禍)を御覚悟の上での『御決意』は何か。
それが 『衆生無辺誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど)』である。(通解:略)

『日蓮大聖人』御自ら、その為に 殆んど想像できる あらゆる『難』に向われた。
  ※  言っておく⇒ 「あらゆる『難』に耐えられた」ではなく『向われた』のだ。

説話にあるやうな、「スジャータの差し出した乳粥」を飲んだのではない。

『日蓮大聖人』が言われた「対告衆」とは、『一切衆生』であった。
御自身を『脾民・賎民』と意義された所以が、この『一切衆生の機(機根)』にあったのだ。

『一切衆生の機根』を「我と同等」に引き上げる… これが『日蓮大聖人』の悲願である。
得度直後の清澄寺で「虚空蔵菩薩」に御誓われたのは、実は『衆生無辺誓願度』に他ならない。

誠に遺憾であるが…御存知の如く『日興上人(開山上人)』滅後の直後。「宗門」は一旦死ぬ。
※『御書』を根幹とする『日蓮仏法の門下』は、「日亨上人」御記述の『新編・御書全集:序』を読め。

「全日蓮門下が知る可(べ)き宗旨」とは、「ここを外しては成立しない事実」を肝に命ずる事がある。
「ここを外しては成立しない事実」とは⇒『中興の祖:日寛上人』の御存在である。

『日寛上人』が最も「真ん中」で拜読した「法理」とは何か。
それが『末法広宣流布』に欠くべからざる『五綱』である。

ここで云う「五綱」は、前文の如く…五綱の どれ一つも「皎然たる根幹」である。
就中。二つ目の『機根』は、一切の民衆に対する『日蓮大聖人』の願望であった。
【 仏果に至らしめる機根(機縁) 】とは、『日寛上人』が『御聖訓』のママに達した結論だ。

『日蓮大聖人』が『曾谷入道殿許御書(太田抄)』で括目されたのは ↓
【 仏法では「機を知る」事を重要視した 】という「衆生」に対する大慈悲であった。
『日寛上人』が上記の御金言を…「文に互顕あり」とダイレクトに「機根」を直射された。
これだけを拜しても…凡智には量れぬ「達観・炯眼」である。

これを手始めに、「御講義」は延々と続くが…ワシの如くの浅識では追付かん。
(実は…記述自体が「追付かない」のだが…)


もう一度、強調しておく。 「中興の祖」とは『日寛上人』である。
上記の御講義の総ては、『池田大作創価学会第三代会長(当時)』の御記述である。
※ 抜粋⇒『依義判文抄・講義』

更に重ねて申し上げる。 私は『御聖訓』の記述に及ぶ際は、絶対「コピー」等は無い。
『・』(中点)一つにまで、『新編・御書全集』を繙き、そのママ記述する。(故に疲れる…)

[608] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月26日 (火) 06時17分

『機根』について、若干の確認と「論旨」の補強が疎(おろそ)かなる部分に言えば。
(以下 ⇒ 短文抜粋の通解)
【 機根とは「一切衆生」の生命の奥底に、多様・雑多(雨後の筍の如き)の思想の、
一体・何を求めているのか。 例えば…数多の「仏教」の、どの教えなら受け入れるのか。 
自ら(一切衆生)の求道(講義では「幸福指向」というが)の「傾向性」を、それぞれの「機根」という。
『機根⇔素地』と喝破する具体性の「総論」が ⇒ 『機根(機)を知る』という事の主軸である 】

云う【 仏教は摂受・折伏 時に よ(依)る可し 】『佐渡御書 957P』は…
「一切衆生」が自分の置かれている「厳然たる「時(じ)」を弁えない「無明」を指摘する部分である。
『賢王・愚王』が、それぞれに席捲する「時」に、「摂・折」の二道(時)をも知らない事への警鐘だ。

本抄(佐渡御書)のかかる御聖訓(摂・折は「時」にこそ全て)の主題は、次下への「大綱」である。
「次下の大綱」とは⇒【 明珠と牛驢の二乳を(も)弁えざる 】にある如く、11行の『時(じ)』の事だ。

『佐渡御書』は、諸賢御存知の如く。
『牧口常三郎創価学会初代会長』座右の重書である。
「恩師:池田先生」は、事ある毎(ごと)の機会を捉えて、本抄を御講義くださった。
その珠玉の文中にも、彼(か)の「切り文」は厳しく自他 誡められた。
【 日蓮は(中略)棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり 】『佐渡御書 957P』を、何と拜すのか。

『佐渡御書』は、御自ら『佐渡流罪』の中の「我」をさて置き。 
在鎌の門下の生死安否のみを 強く案じられた『日蓮大聖人・真骨頂』の抄である。
この時期の『大聖人』の、最も代表される御気概は『機根』ではなく『時(じ)』であられた。

それでも尚。強靭の『大慈悲』の発露は、重ね重ねと厳しく側近を戒め、弟子檀那を慰撫された。
【 (前部を略す)蛍火が日月を わら(嗃)ひ 蟻塚が華山(古代中国五名山の一)を下し…
井江(細い澪)が河海を あな(侮)ずり 烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を わら(嗃)ふ 】
とは、是れである。 『 佐渡御書 961P 』

私達同志は、『同じ師』を仰ぐ者である。
決めて「同志誹謗」を排し、「己義・己理」を排し、「心の財」を積まねばならん。
間違っても、比類の『王道』を毀罵(きめ)し、且・曲解してはならない。
この事は、『死んでも厳守』しなければ弟子ではない。

『御書・御金言』に、「極楽寺良観」への辛辣なる譬喩(この際・譬喩ではなく直言か…)がある。

「極楽寺良観は生仏」とは『妙法比丘尼御返事 1416P』の引用であるが、これで「良観」の実態の総てではいない。
実は『極楽寺良観』の正体とは 放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)なのである。これは近代「宗門」にそっくりだ。
上記『放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)』の事は 『下山御消息 350P』に詳しい。 
又。「宗門」とは「日顕」である事に、誰も異論はあるまい。   (尚。極楽寺良観の実態は 多くの御書で御記述されている)

[610] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月26日 (火) 19時35分

本日。私の地域に「大白蓮華 No,751   2012年7月号」が届いた。
早速。「池田先生」の御講義のページを開いた。 (大白蓮華 38P )

『四条金吾殿御返事』(別名・石虎(李広)将軍御書)である。
本抄は(人に依って感想・観想に違いはあるが)、愚壮は「男の中の男」の『御書』と心得る。
…ってな事を平気で口走るから  『御婦人部』から徹底的に敬遠されるのだが…
とまれ。 「確信する・信じきる」事が、如何(いか)に凄いか。という『御書』である。

又。「 必仮心固 神守即強 御書 」という別名もある。
これは「摩詞止観」の抜粋経文であり、読んで字の如くの『御文証』でもある。
【 必ず心の固きに 仮(よ)って 神の守り即(すなわ)ち強し 】1186P 
( 大白蓮華 39P  (上段)の太字 )⇒『絶対の確信に立つ事』である。

これを、もっと突っ込んで言えば、『絶対の確信に立つ事』とは『絶対に勝つ』という事だ。
更に言えば、『絶対に勝つ』とは『地涌の菩薩』そのものの意義でもある。
『地涌の菩薩』の意義とは、『人間革命』をしていく事への異名である。
( 大白蓮華 39P 太字の後の9行 就中・「戸田先生」の御指導 )

それでは、『絶対の確信に立つ事』とは どういう事を指すのか。 それが。↓
『 怯(ひる)まない・焦らない・恐れない・逃げない 』とする。
その為の「智慧の湧現」を、『人間革命』というのだ。( 大白蓮華 40P  (上段) 10〜11行目 )

少々戻るが…冒頭に飛び込んできたのが  『石に立つ(貫通)矢の例(ためし)あり』である。
( 大白蓮華 38P  (上段) 17〜18行目 )  

※『李広(石虎)将軍』の故事をすこし述べておく (皆は、とっくに知っているじゃろうが…)。
( 「岩」を、母を食い殺した「虎」と信じた将軍の射た矢が、羽ブクラまで貫いた事。) 
これは、「岩」を「虎」と信じきった『強固な確信』が、矢の貫通を招いた故事であり…
『虎と信じ切った心の堅固さが、岩を射抜いた』という「一念」の譬喩である。
『石虎(李広)将軍』への言及・御指導は(愚壮の勝手な解釈だが…)
『日蓮大聖人』に対する「四条金吾」の「心の強さ・固さ」を述べられていると思う。

本抄『四条金吾殿御返事』の骨子とは…
「頼基自身」の最大の苦境の中でも、「大聖人所在地」の身延に泊り込んで、
『日蓮大聖人』に迫り来る老病を懸命に治療した頼基の献身。
又。 「登山」の折りに携えた、数多(あまた)の御供養への礼状でもある。

文面から拜するに…『日蓮大聖人』及び弟子僧たちの「日常」の逼迫が、具(つぶさ)に読み取れる。
その程度も、「単なる「逼迫」如きではない」つまり「尋常ではない」と、拜読の度「涙」を流すのである。
正に 『人の人としての振舞』そのものである。 ( 大白蓮華 41P  (上段) 14行目 )

絶対に泣き言を言わない…と言えば 「俗言」で恐縮するが、本文で『御心境』を吐露されている。
【 而(しか)るに 日蓮は 他人に こと(異)なる上 】 1185P 6行目
「他人に こと(異)なる」の「文上」は、極限の不自由な生活を(幕府・権力に)強制されている事だが。
「文底」は『末法・御本仏』としての無量の使命・『一切衆生衆生無辺誓願度』への「願兼於業」である。

更に 【 就中 今年は 疫癘飢渇(えきれい・けかち)に(中略)身に当りて 所労 大事になりて 】
特段、本年になって…「痩せ病・腹の気(下痢)」が急悪し(中略)身心ともに、その疲労は極限なのだ。
上記の(通解を含めた)御記述は、『日蓮大聖人』の御体調が最終局面に至つている事を示している。
↑ 1185P 6〜7行目

そのような中での「真心」からの金吾の訪問であった。
【 命 たす(助)かり候は 】貴殿(頼基)の身体に「釈尊」が入って、私(大聖人)の窮地を救ったのだ。
1185P 10行目        本抄を拜した「四条金吾」の大歓喜は、想像に難くない。

そんな健気の「中務左衛門尉頼基」に対して、『大聖人』の御記述は続いていく。
『師匠・日蓮大聖人』の御配慮・御慈悲には、誠。際限が無い。
【 是より後は… 】と、御自身の激しかろう「飢餓」をも省みない御文証が、それである。
【 是より後は…おぼろげならずば 御渡り あるべからず 】 1185P 14行目
「おぼろげならずば」とは、超火急の用件以外は、身延に来てはいけない。と言う。

『日蓮大聖人』の「中務左衛門尉頼基」への慈悲は、更に続いていく…。
【 返(かえ)す返(がえ)す 今度(このたび)の道(往復の道中)は・
あまりに(心から非常に・本当に)・おぼつかなく候いつるなり(心配した次第です) 】
どこまでも、弟子の安否のみを心に掛けている御記述である。 1185P 最終行
『創価学会の三代の歴代会長』の御心境そのものであるから、愚壮は涙を流すのだ。
『師匠は、常に弟子を念(おも)う』のである。 これは『池田先生』の我々への「心」に通じるのである。

この後 (1185P 最終行から 1186P 冒頭まで )
「決めて 油断を廃して 万全の備えを!」と御指導されている。  
この『油断を廃せ』関連は、 下記御聖訓を参照されたし。
【 主君耳入此法門免与同罪事 1133P 最終付近行 】
【 四条金吾殿御返事 1164P 最終行 】 【 四条金吾殿御書 1175P 11行目以降 】

そして。最後の御金言は『面談・対面の重要性』である。

【 委(くわし)く 紙には尽し がた(難)し 】 ⇒これは、本抄の結びの言辞だ。
例えば…「本来は、もっと詳しく申したいが、紙面(紙は当時の貴重品)にも限りがあり、
伝えたい事も、全部は言い顕せないので、『対話⇔面談』が望ましい」という事であろう。

『日蓮大聖人』の弟子檀那中への慮りが彷彿する。
( 但し・下記記述の中には、対告衆によっては『法論』等への心構えも含まれている )
『建長寺道隆への御状 173P』 『強仁状御返事 185P』 『土木殿御返事 964P』 
『法華行者(値)逢難事 967P』 『道場神守護事 979P』 『太田入道殿御返事 1012P』 

『太田左衛門尉御返事 1017P』 『兵衛志殿御返事 1099P』  『☆四条金吾殿御返事 1186P』
『日妙聖人御書 1217P』  『棧敷女房御返事 1232P』   『御輿振御書 1264P』 

『新池御書 1444P』 『南条兵衛七郎殿御書 1498P』 『上野殿御返事 1551P』  
『九郎太郎殿御返事 1554P』 『上野殿御返事 1559P』 『上野殿御返事 1564P』
『上野殿御返事 1566P』 『上野殿母御前御返事 1573P』 『上野殿御返事 1575P』 『白米一俵御書 1597P』

尚。大白蓮華の御指導は、適宜に拜して頂きたい。  『愚壮敬具』

[611] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月27日 (水) 06時25分

昨夜  『忘れ得ぬ風景』を全篇読み返す。
昔日の『風景』が、「あの時・あの一瞬が」ものの見事に復元され、私に迫り来る。
『嗚呼、よくぞ…遺して下さった』と、深き感慨・感謝の中 夜は更けていく。

然し…と、感じた事がある。
『…歓喜と勢いが、今の愚壮とは隔世だ…』


『これでは、いかん…』 これではいけないという直感は、当っていよう。
「ワシも、老けたか…」と、雀躍の聖教誌面に 珍しく素直な私を見た。

伏線は…これは在る。
昨日の『京都』への走行中、『ジュンちゃん』との電話での会話があった。
彼は言う 「あの…昔の気迫が影を潜めている」…と。

多いに反省し、大いに奮起す。
『父の日』に彼から頂いた「一輪」の造花が「開け放った車窓の風」に揺れている。
私は再び、こう誓った。
『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』…と。

[613] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月27日 (水) 18時53分

『生死一大事血脈抄』
本抄は1272年(文永9年)2月11日に「塚原三昧堂」に於いて顕された。
対告衆は『最蓮房』である。

先ず。 『生死一大事血脈抄』とは何ぞや…。
答えは ⇒ それは『南無妙法蓮華経』の異名であり、
唱題する『師弟』にのみ、『生死一大事』の血脈が受け継がれる。との御指導である。
更に言い加えれば。
その血脈は。『異体同心』で題目を唱える『師弟』の中にのみ伝わっている。
これが『在在諸仏土常与師倶生』なのだ。      『宿縁』なのだ。

【 夫(そ)れ 生死一大事血脈とは 所謂(いわゆる)妙法蓮華経 是(これ)なり 】
上記は本抄冒頭の「御聖訓」である。 典型的な『演繹』(大結論を先に云う事)である。

直後の『御聖訓』で『日蓮大聖人』は、二仏並座の(特筆「虚空会」)の座で、
『末法広宣流布』たるの主体者「上行菩薩」に譲った『血脈』とは
『妙法蓮華経』が即。
「一切衆生・衆生無辺誓願度」の『血脈』だと、結論されている。
『日蓮仏法』の根幹(いかなる人々にも無差別の抜苦与楽)は、これ以外に無い。

更に、「血脈」への深義たる『御金言』は続いている。
【 然れば 「久遠実成」の釈尊と「皆成仏道」の法華経と「我等衆生」の三つ
全く差別無しと解(さと)りて 妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る処を
生死一大事の血脈とは云うなり 】 1337P 1〜2行目

以下 次稿 (すまん。 急用勃発じゃ…)

[614] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月27日 (水) 21時05分

『生死一大事血脈抄』は、御存知の如く「短編」です。
これが途中で「急遽中断する。すまん」とは何事か!…との御叱りが聞こえます。
誠に申し訳なく思います。 

本抄 1337P 4行目に、「血脈」についての究極の「御金言」があります。
それが ⇒ ※@【 法華経を持(たも)つとは 是なり 】 です。
結論は ⇒ 「生死一大事」の「血脈」の第一歩は『受持』から始まるのだ。という事です。

『日蓮大聖人』は、本抄『生死一大事血脈抄』の根幹の根幹を『受持』だと言われるのです。
その結論が ⇒ ※@の直前に、実は述べられているのです。
【 此(こ)の事 但 日蓮が弟子檀那等の肝要なり 】 1337P 3〜4行目なのです。
↑「日蓮が弟子檀那等」とは何か!…これが本抄の大結論『受持』なのです。
『受持』 ⇒ 過日の拙著。『日寛上人』の「機根」を思い起こして頂ければ光栄です。

少し横道に逸(そ)れました。          本題に戻ります。
「日蓮が弟子檀那等」とは『師弟共戦・師弟不二』という事に他ならない。という事です。
その御文証が下記であると思います。 ↓
【 総じて 「日蓮が弟子檀那等」 ・自他彼此の心なく 水魚の思(おもい)を成して 
異体同心にして 南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり 】
1337P 12〜13行目

この御聖訓のママに、私達『創価学会員』は『在在諸仏土常与師倶生』を実践しているのです。

「創価三代の歴代会長」自体の御存在が何故「稀有」であり、何故「凄い」のか…とは。
『難即悟達』を、『末法・御本仏』の御意のママに生き抜いたからなのです。
【 貴辺・日蓮に随順し 又 「難」に値い給う事 】 同P 16行目 とは、その御文証なのです。

ともあれ…「異体同心」以外は「広宣流布」の大願は果たせない。 これが結論です。
『日蓮大聖人』は 【異体同心事】 1463P 7行目に御記述です。
【 此(こ)の一門も 又 かくの如し 】 ⇒ この一門とは、私達『日蓮門下』の事です。

最後に『生死一大事血脈抄』の結文を記述致します。
【 信心の血脈なくん(無けれ)ば 法華経(御本尊)を持(たも)つとも無益なり 】

この『御書』を拜した私達は、もう一度「原点・初心」に帰ってゆきたく思います。

※『付録』
本抄の直後の『御書』 【草木成仏口決 1338P】の御記述日に御注目して下さい。
『生死一大事血脈抄』の9日後 1272年(文永9年)2月20日です。
正に、「寧日無き」そのママの闘いであります。      

反省と 御詫びの心を込めて、丁寧な言葉で書きました。       愚壮頓首

[615] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月28日 (木) 06時16分

『御書』には  ⇒ 『未萌を知る』という御表現で、『仏の資格』(安易に言えば…であるが)に言及されている。

これを、粗く抽出すると
『北条時宗への御状 169P』 『寿福寺への御状 175P』  『多宝寺への御状 176P』
『一昨日御書 183P』 『四十九院申状 849P』 『滝泉寺申状 850P』 『法門申さるべき様の事 1272P』
『祈祷抄 1351P』  『聖人等御返事 1455P』 『三沢抄 1488P』等々であろう。 (…と思う )

『未萌を知る』が示す「キーワード」は、 その『聖者・聖人』と呼ばれる人の「予言能力の有無」である。
翻って言えば ⇒ 『未来への的確・正確な予言』の事を ⇒ 『未萌を知る』と言う事である。

更に補強して言えば ⇒ 『覚知未萌』(未萌の予知)は、それ自体が『仏の知る所(仏意・仏智)』と言う。
【 (この事⇔未萌を知る事は) ⇒ 天(仏)の御計らいなり 】 『聖人等御返事 1455P 11行目 】

今回は、少々。 この『未萌』に迫りたい。   乞う御期待。     愚壮

[616] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月28日 (木) 17時39分

『未萌を知る』の御記述の中で『立正安国論』での「予言的中」を強く訴えられたのが、
『北条時宗への御状 169P』 『寿福寺への御状 175P』  『多宝寺への御状 176P』
及び『四十九院申状 849P』の「四編」である。
是は、『日蓮大聖人』御自身が『末法・御本仏』たる事の「序曲」であるといったよい。
実際に拜読されて、御確認される事を希望するものである。

今。愚壮は、これらの対告衆について記述したが、正確に「対告衆」を示せば「十一名」である。
これを『十一通御書』と(一般に)呼んでいるが、御記述の主題は「公場での対決(法論)」であった。

「明らかに、幕府への挑戦だ!」と、鎌倉幕府の主だった者は「総立ちで色めいた」とは、
恐らくは、『正鵠』であったと断言する。

『御書』⇒177Pに『弟子檀那中への御状』という御文証がある。
「愚壮」如きの通解は、誠に拙(つたな)くて恐縮するが、記述しておく。

※(通解)⇒「この度、蒙古国より 日本を「属国化」する旨の「挑発状」を見聞して、
既掲の「十一方面」へ、『仏意に照らした 諌書」を認(したた)めた。
この上は(これを書き送ったからには)、我が弟子檀那には必ず…
「国家権力」。及び、是れ(鎌倉幕府)に加担する事を『可』とする指導層(指導階級)からの、
無慚・問答無用の反発は、必至であろう。
然し。 少しも、怯(ひる)んだり・恐れたり してはならない。
それは… 彼等(幕府首脳・当時の一切の聖職者達)が、『而強毒之』充満しているからだ。

この事(迫害の加速化)は、既に私(日蓮大聖人)が『予知』していた事実である。
かかる上は、それぞれの弟子檀那達は、用心を怠ってはいけない。
間違っても…(脅迫・迫害に恐怖のあまり) 妻や子や家族・親族の事を慮って、
『法華経』を捨ててはいけない。
なぜかならば、『法華経』を捨てては、尊い『仏果』を得る事が出来ないからせある。」
以上 (通解 完了)

『未萌を知る』事が『末法・御本仏』の、最低の条件である…とは、
上記の観点で言っても、いかに重要な一点であるかが御納得出来よう。

続きます。

[617] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月29日 (金) 04時43分

『未萠を知る事』
前々回の『風景』で、十編の『御書名』を記述して、そのうちの四編の意義を申し上げた。
これらは『立正安国論』での「予言的中」を強く訴えられる内容であった。

それでは、他編の御聖訓は 一体。何を御教示なのか…。 それを確認しよう。

先ず。 ※@ 
「未萌」を知るのは、聖人のみであり…若しも此のような聖人が現実に居るのなら『国宝』だ。とされ…
万が一。 隣国に、このような「未萌を知る聖人」が居たなら「自国」最大の憂いだ。と御断言されている。

※@ この御聖訓に関して『一昨日御書 183P 8〜9行目』では、下記である。
【 夫(そ)れ未萠を知る者は 六正の聖臣なり  法華経を弘むる者は 諸仏の使者なり 】である。
「六正の聖臣」とは⇒儒教(外道)に言う六種の正臣で「未萌を知る力」のある良臣とされる者達である。

※@ 更に『滝泉寺申状 850P 』では、下記である。
【 外書(外道の経典)に云く 「未萠を知るは聖人なり」  
内典(仏典)に云く「智人は起(起点・道理の出発点)を知り 蛇は自ら 蛇を知る」(中略)
此(こ)の本文(外典の経々)を見るに 聖人・国に在るは 日本国の大喜にして
蒙古国の大憂(だいゆう・大いなる憂い)なり 】 『850P 7〜11行目』

又。『法門申さるべき様の事 1272P 17行目』では、ズバリと『未萌を知る』事を述べられている。
【  又 今に顕れざる後(のち)を し(知)るを聖人と申すか 日蓮は聖人の一分に あたれり 】

更に又。『祈祷抄 1351P 最初の行』では、「釈尊」自身の驚愕の「予言」を顕されている。
【 (前部を略す)「郤後三月当般涅槃」(釈迦自身の入滅の予言)と 唱えさせ給いし事 】
※ ⇒『釈尊』は、この「郤後三月当般涅槃」の大予言の如く、三ヶ月後に入滅した事を指す。

『聖人等御返事』では、前回に記述したとおりである。 ↓
【 (この事⇔未萌を知る事は) ⇒ 天(仏)の御計らいなり 】 『聖人等御返事 1455P 11行目 】

そして『三沢抄』に於いて。究極の『未萌を知る』⇔『聖人』を御教示になっている。
【 聖人は未萠を知ると申して ※三世の中に 未来の事を知るを・
誠の 聖人とは申すなり 】 『 1488P 9〜10行目 』
※「三世の中に」とは ⇒ 巳今当に亘っての「悟り」であり「慧眼」である。

『未萌を知る』とは、是くの如く「偉大」であり、且又。深遠なのである。

昨日投稿 ⇒の『未萌を知る』に…  『而強毒之』という経文があった。(弟子檀那中への御状 177P)  
これの「読み下し」は ⇒ 【 而(しか)も 強(し)いて 之(これ)を毒す 】である。 
上記文意は⇒「正法を聞く事を好まない衆生に、強いて説いて「仏縁」を結ばせる事」である。

[618] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年06月29日 (金) 23時58分


≫ 『法華経(御本尊の力用(りきゆう)を、強いて説いて「仏縁」を結ばせる…』
これが「折伏」の深義である。  つまり…日蓮仏法の『原点』だ。  

『動執生疑』 御本尊に対して、敢えて疑いを起させた過程を経て、『受持』の道を開く。
『毒鼓の縁』 御本尊に対しての「誹謗」の行為の中から、『受持』の道を開く。
( これは「謗法厳戒」を容認する事とは、全く次元の違う事。 )

『還着於本人』という鉄則を教え伝えるには。
『絶対に、この人を救い切る』という「誠の心」を持続していく事が重要だ。

『若き指導者は勝った』の2009年1月31日(土)版に、「池田先生」の以下の御指導があった。(抜粋)
【 もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、
大阪に一人でもいてはいけません!もし、そんな組織があれば、担当の幹部は
責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!】(抜粋 ここまで)
「折伏」と雖も、その本体は『慈悲』である。 
何かの優遇や「引き換え」。 ましてや「成果」や「成績」や「数字」ではない。

又。高見(上からの睥睨目線)からの「高邁」な態度の「折伏」の前に、人は心を解かないのだ。
『他人の不孝の上に、自分の幸福を置く』の姿勢・行為・口調で…「真意」は届かない。

つまり…あくまでも・どこまで行っても 『同苦』であり『真実・誠実』である。
再び強調すれば⇒「功徳と引き換え」の「折伏」などは、最も忌むべき発想である。

勘違いをしては困る…。私は「功徳」を否定していない。 否! 「功徳」こそ「実証」だ。
「学会は「貧乏と病人の集り」とした原点」を、 『これを。忘れるな!』と言うておる。

日蓮仏法の「深義」が『難即悟達』であるならば、  安易な「正法誹謗」は厳に回避するべきだ。

言う「厳父の愛」とは、「同信の同志」への、万が一の「乱脈自失」への忠言である。
『法華経は厳父の愛』の所以が、ここにある。
でなければ…「同信退転」の亡骸(なきがら)を踏み越えて。という「御指導(戸田先生)」が死語になろう。
この「踏み越える…」は慈悲であり排他ではない。一切の妥協を許さぬ『剣豪の修行』とは、実はここに在る。

この意味でも、安直なる『御書』の引用は、(自問自答を含めて)之は謹むべきである。
況(いわん)や、ママの「貼り付け」等は、(なるほど便利だが)「法を下げる事」著しい。
私が(勿体無くも)『御書を※御引用する時』に『全御文』一字々々を記述するのは、そこに在る。

「私は、御書の上に 他の物を置く事すら許さない」…と言いながら、見境なく『御聖訓』をコピーする。
そんな、「口先だけのパホーマンス」を『賢者』は、とうの昔に見抜いている。
届かぬまでも、せめてもの「恩を知り・礼を尽す」…  それを忘れて何が残るのかと、言いたい。

「せめてもの…」とは、人にのみ与えられた『慮り』の「深義」であろう。
たとえば… ある悪事から「足を洗った」のなら、 その悪事に関連する事からも「隔絶」する事だ。
仮面を被って、「あれはあれ、これはこれ」と、開き直るのは『人格』の為せる業である。

その昔、自らに「陰・陽」携わった人や場所を「罵倒」するの行為は、「忘恩の極み」である。
【 ひり(非理)に 主を うら(妬)みなんど し候へば・いかに申せども 
天(諸天善神を含む・世法や世論) まほ(護)り給う事なし、
訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、
※申さぬに叶うべきを 申せば叶わぬ事も候 】 『四条金吾殿御返事 1151P 5〜6行目』
※⇒通解  簡単に発言せず、推移・真理を見極めようとする姿勢が、大事である。
思うママを、即 口外する軽薄は、「人柄」の低俗さを証明する愚行で、好展開は望めない。

深く思慮を乞う…  『贖罪(罪をアガナう)』という言葉は、厳然と生きているのである。 
「真摯に自己に問う可(べ)き」という言葉を忘れない…、     それが『人』である。
相手が立ち上がれない程の『罵倒』は、総ての「味方」をも捨てる事になる。
『今、こう言ってしまったら…結果は どうなるか』 ⇒ これを【 九思一言 】と言うのではないか。

下記は『九思一言』に関する『御書』である。 是非 繙いて頂きたい。
『撰時抄 278P』 『下山御消息 362P』 『崇峻天皇御書 1174P』 『☆四条金吾御書(九思一言事) 1175P』


[622] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月02日 (月) 05時30分

以下は終戦間際の『牧口常三郎創価学会初代会長』『戸田城聖第二代創価学会会長』を、
当時の獄中に於いて、熾烈・苛烈なる訊問をした、当事者の(特高警察官)実録書簡である。
ここで、筆者如きが その所感を述べる『権利』もなければ、『深淵』を語る如きの資格も識学もない。
唯一。あるとすれば…。
『日蓮仏法』に、総てが適(かな)っている『末法即折伏行』が、不動の大根幹である事への確信である。

『末法広宣流布』を、後続の弟子に託された『日蓮大聖人』の胸中に、常に秘められていたのは、
「法華折伏・破権門理」以外(例えば「摂受に依る広宣流布」の如き「世迷い言」)は絶対に無い事であった。

この「瑕瑾なき原点」を確認し、御同意を得る為。 以下の投稿を申し上げる。
私の真意は 『百六箇抄』を繙き、本抄に御記述された『日蓮大聖人の御命』当体を謹述する事である。
…その前に。  『百六箇抄』の持つ重大なる本義を、「大前提」として記述申して置きたい。

『戸田城聖第二代創価学会会長』は、『新編・御書全集』の発刊の辞に於いて以下と述べられた。
§『発刊の辞』    【 (前部を略す)相伝なき流流・学者等の編纂した書は 
『観心本尊抄』を始め その他種種の重要なる御抄に於て 大聖人に叛(そむ)く読み方をなし、
或(あるい)は 誤(あやまり)を その儘(まま)伝え 
又は偽書を真書となし、 真書を偽書と歪曲する等
読者を迷わすこと甚(はなはだ)しく、到底之を信頼する事が出来ない上、
最も重要なる  ※『血脈抄(百六箇抄)』・『本因妙抄』等 日蓮正宗門外不出の御抄は
已(すで)に上梓(じょうし)を見た 如何なる「御書全集」にも掲載されず、
宗祖の御真意を拝せんと ひたすら念願する者をして
久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。 】 (抜粋⇒ここまで)

『創価三代の歴代会長』の三巨人。就中・戸田先生の裂帛の獅子吼(師子吼)が上記(一部)である。
この中に・【 最も重要なる『血脈抄(百六箇抄)』・『本因妙抄』等 日蓮正宗門外不出の御抄 】とある。
そこで私は    この『百六箇抄』に御述べになられた「御金言」を、恐れ多くも拜読する。

    ※『百六箇抄(血脈抄) 867P』       ◎ 「下種摂折二門の本迹」の項目 ◎     
【 日蓮(一門)は 折伏を『本』とし  摂受を『迹』と定む  法華折伏・破権門理とは是なり 】

『折伏』こそ、末法法華経弘通の『大原則』・即(すなわ)ち 『皆是真実の法理』である。
『折伏』こそ、真の「宿命転換・人間革命」の直道であって、他の手段に依る「成仏」はない。

【 仏法の道理を 人に語らむ者をば 男女僧尼 必ず にく(憎・怨)むべし、
(中略)法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安 等の金言に身を まかすべし 】 
『 阿仏房尼御前御返事 1308P 4〜5行目 』
『宗祖 日蓮大聖人』の「御命の当体」が 上記御聖訓である。
…とした上で『三代の歴代会長』就中「牧口先生」「戸田先生」の無実を責め立てた人の「手記」を掲す。

※(尚。以下記述の文中の『 』「 」(、)等の加筆を行い、構文体裁を整えたのは、筆者である)

【本文】 (3)弾圧当時の特高刑事で追放されてから日蓮正宗に入信した木下氏の回想記
   杉並区方南町二六八  元警視庁警視 木  下  英  二

     (私が) 昭和二十一年五月  所謂G号該当で追放を受け退職する迄で、
     二十五年間の大半を特高警察に捧げて来た
     私が(携わった)数ある事件の中で、最も慚愧に堪へないことは
     創価学会事件であることを、つくづく悟らされた。

     史上にも曽て経験したことのない敗戦を味ひ 追放から失業、
     そして生活に総ゆる苦難の十年間は、全く虚脱状態に陥つて
     自分の将来には再度起つ機会は到底来らずと、幾度か観念させられたか知れないが、
     奇しくも亦 創価学会の「戸田先生」に救われるとは、予想だにし得なかつた事であつた。

     当時は唯『創価学会』の峻厳なる『折伏運動』が、
     他を顧みない我田引水の唯我独尊の行動としか「とれなかつた」のであるが、
     斯(かか)る考え方が 『全く間違であつた』ことである
     (私は)大謗法罪を犯したことになる。      (中略)

     惟(おも)うに大聖人の御生涯は、
     法華経・南無妙法蓮華経の正法護持広宣流布のための徹底的な折伏運動であり、
     幾度か其身を危機にさらされたけれども、一歩も退かず敢然と遂行されたのである。

     斯(かか)る御業跡を知つて、
     成程創価学会の峻厳なる『折伏運動』は決して我田引水式の唯我独尊でないことがわかり、
     大聖人の足跡を其儘(そのまま) 実行実践される真正の宗教団体であることを感得したのである。

     そして戸田先生 牧口先師の後を継がれて、
     現代に於ける学会唯一人の最高指導者として常に吾々人間生活の幸福は、
     此の正法を護持することに因つてのみ得られると教へて居られるのである。
     私も終戦以来いろいろの仕事に失敗し、又就職もなかなか好く行かず苦労十年の歳月を閲したのであるが、
     計からずも戸田先生の御指導を受けるようになつてから不思議にも昨年来急に就職が定まり、
     其他の事柄に就いても総べてが好く行きつゝあるので、歓喜に満ちた今日を送らせて貰らつて居ります。

     而(しこう)して之に応ふるのは道は、
     唯一つ南無妙法蓮華経の御法即ち 日蓮正宗創価学会の御法を信じ
     又世の人々にも広く之を信じさせる(折伏)自行化他の信行こそ
     吾々に果せられたる責務であり、又なすべき正道であると確信して居る次第であります。
( 以上  富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕    抜粋ここまで )


『風景』御閲覧の読者諸氏に於いては、この事件が発端となり、『牧口先生』が獄死なされた事実に鑑み。
『末法の御本仏』を『日蓮大聖人』と定める者は、深くその、経緯と真実を思索すべき事である。 …つまり。
「自薦・他薦を問わず、創価学会員という自覚の存する者の、之(末法⇔折伏のみ)は基盤である」
したがって…  断腸の涙を新たにしつつ、拜読するものである。  2012年6月28日  愚壮・記

追伸  
『日蓮仏法』の門下・及び『創価学会員』以外の人々が、この「論」を否定する事に、吝(やぶさ)かではない。
としつつ、今後も私は。あられもない『ヨタ』『誤謬』の類には、断固たる「破折」は続ける。
なぜかならば… 「破折」は『日蓮仏法』を信奉する者にとって、緩枷に出来ぬ「命脈」であるからだ。

再追伸 ⇒ おにゆり様へ。 2012年6月27日付の『風景』・『生死一大事血脈抄』の11行目。 
ここに私は、とんでもない誤記をしております。願わくは御訂正あられん事を御願い致します。
『演繹』⇒×であります。  正しくは⇒『帰納』です。  誠に申し訳ない事です。
何卒よろしく御願い申し上げます。 尚。本年後半も、御手数のほどをかけます。すまぬ事です。

[623] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月03日 (火) 05時02分

下記は、当『忘れ得ぬ風景』の管理人様である人が、上掲を控えられた文章である。
再読するに、『御書』に関するものであった。
管理人様も、「不掲載では勿体無い」意味を言われているので…御了解なしで復活する。
但し。「不掲載では勿体無い」という文章への、得手勝手なる解釈は「愚壮」の自画自賛です。 

扨。『御書』
「創立78周年記念 最高協議会」での「師匠」のスピーチである。
短文ながら、謹んで引用申し上げる。

先生(戸田先生)の確信は、御書根本の精神に支えられていた。
先生は厳しく言い残されている。

「御書は、末法の御本仏の教典である。
一行一行、一語一語をば、
絶対なりと南無しながらの拝読でなければならない。
いささかたりとも、我見でわかったように錯覚してはならない 」、

ご自身(戸田先生)が、この言葉の通りに御書を拝された。
(御引用 ここまで)

『いささかたりとも』 とは、毛筋程も自己流で読むな。である。
『我見でわかったように 錯覚してはならない』  ⇒これに関しては 文句はあるまい。

以上が『御書』対する基本の姿勢です。 ここから全てが始まります。

『御書』に関しての極言は、「切り文」を排する事(断固 否とする事)です。
それとも 「切り文」を「切り文」と認識していない『拜読者』の傲慢を排する事でしょうか。

答は「どちらも 正解」  「誤謬」や「ヨタ」を吐く輩は「排するべき」です。   
『御書』とは、もっと尊厳で崇高なのです。

(誤解を恐れず言えば) 私は決めて…『創価 即 極善』とは思いません。
なぜか ⇒ それは「近年」 散見される『誤謬』の垂れ流しです。
明らかに「間違った歴史の**(確認後掲載)」がある。というのが、その理由の最右翼です。

然し。 『創価学会』の中には、「厳然たる正史」に真正面から向き合っている「人」も多く存在します。
【 『日蓮仏法』の持つ「深淵」を、誤まりなく見抜いている「人」が、必ず居る。】
これの発見が、真の『創価』の存在価値を証明する事になると思っております。

然し。「宗門」と「学会」が、我田引水している間は、『日蓮仏法』の「稀有の正当性」等、判らない。
※ ( 我田引水 ⇒ 我れの方が正しいと思い込み、それを吹聴する行為・要するに「悩乱思想」 )

『これが(「宗門」と「学会」の我田引水)    諸悪を引き起こしている…』とは、 
「第六天魔王」の安堵の実声(本音)なのです。 御笑いになるでしょう? …だから駄目なのです。
…諺に曰う 『画竜点睛を欠く』の『点』とは、この事(「宗門」と「学会」の我田引水)です。
※ ( 『画竜点睛』の「睛」とは「ヒトミ」という事。 「晴」ではない )

※@『前に言っていた事と、今言っている事が違う宗教は邪宗である』
とは、応(まさ)に殊言(しゅげん・殊更に的を射た言葉)である。【 借用文 】
上記の御指導(※@印)は、『何方(どなた)』の発言か御存知ですか?    
そうです。『戸田城聖第二代創価学会会長』その人です。

では、上記の御指摘は、『何方(どなた)』か御存知ですか?    

以下。私の言うところの、所謂『宗門』とは…(これは何度も訴えてきたが)
「買春」の法主や、『御書』不読の法主・及び「僧侶」をいうものではありません。
反対に、所謂『学会』も…
単に「成果」や「数字」だけを追求する、『役職一辺倒』の似非幹部の事を指しません。
上記の「良識皆無」の輩。 「宗門と学会」にそれぞれ巣食う輩をいうのではないのです。

私達は、『御書』を繙き、『日蓮大聖人』の仏法を研鑚する、その道程で、
現今の「宗門と学会」の両者の中に、(これは、誠に残念ですが)
『信者を食い物にしているだけ』の「似非者幹部」が在る事を見つけました。
当然。「信者」の中にも「似非」は派生したのです。

…『何かが違う…』 これが、偽らざる「信者」の真意です。
…『何かが違う…』 これが、偽らざる「両者」の歴史です。
これが、今現在の私の「直感」です。   『直感』とは「正鵠を射る」のです。

「最善も一つ」ならば、又。「最悪も一つ」なのです。
「善でも悪でもない」というのは、本来 存在しない理論です。
「善でも悪でもない」のは蝙蝠です(これは、蝙蝠御本人には気の毒ですが…)
もっと言うならば「宗門と学会」(記順に拘(こだわ)るなら、学会と宗門でも可)は、
キッチリとした説明が必要です。  お互いが別の土俵での「詰(なじ)りあい」は沢山です。

「学会員」は学会の言う事を信じ。「法華講員」は宗門の言う事を信じる…当然です。
然し このママでは「真相」は、それこそ『神 のみぞ知る』永遠の謎です。
それでは「無責任」です。        否!「無責任」だと反省を促します。
「宗門と学会」の首脳は、 私達は「無責任」ではないのだろうか。と思った事。ありますか?
それとも…両者共。純粋無辜な『一般信者さん』を単に利用しているだけなのですか?

[624] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月04日 (水) 04時43分

『三大秘法禀承事 1021〜1023P』という重書の御存在。  諸兄には、よく御存知と思う。
対告衆は「大田金吾」    当時の下総・現在の千葉在住の『大聖人門下』である。
大田金吾の生誕は1222年。  これは『日蓮大聖人』と同年齢である。
この『大田金吾』とは、正式名を「大田五郎左衛門尉乗明」。通称『太田乗明』という。

鎌倉幕府「問注所」勤務の「官人(役人)」であった彼の同僚には『富木常忍』が居る。
※(「問注所」⇒現代の裁判所)
亦。『同志』には「曾谷二郎平衛尉教信」の存在がある。

つまり…『富木常忍・曾谷教信・太田乗明』とは、互いに切磋琢磨した門下であった。

『日蓮大聖人』の上記三人への御信頼が、多くの「信徒」の中でも抜群であった事は、
この「三人」へ賜わった、多編の「重書」を見ても、容易に判断できる。
然し。 これ等の事も、既に諸兄にはよく御存知の事である。

然し。「大田金吾」に与えられた「本抄」は別格である。
なぜかならば、『三大秘法禀承事(別名 三大秘法抄)』とは『本門戒壇本尊』の脳髄であるからだ。

では…『本門戒壇本尊』とは何か。

「愚壮」如き「最下級の凡人」が、この精髄( 『本門戒壇本尊』とは何か )に触れる事自体。
多くの諸兄・先輩から 「堕獄の傲慢」との毀(そし)りは これは免(まぬが)れぬ。
然し。 不遜を承知で、敢えて言う事を御許し頂きたいのである。


そこで…何故『日蓮大聖人』は、この「究極の大事」を御生涯の切迫の期に顕されたのか。
『三大秘法禀承事』の講義を拜読する時に、その一つの理由に突当る。
それが下記。
※『日蓮大聖人』御自身の滅後の為に『三大秘法』の法門の詳細を説き明かす為。とある。

『三大秘法』の「総別の詳細」とは、
私達が学んだ『本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇』の事を指すのであろうか。
それとも『本抄』に御教示の「上行菩薩(本眷属)の事・末法の事・寿量品の事」なのであろうか。
そうではなく 三徳具備の『末法御本仏』の本懐・独一本門の肝要を示唆するのであろうか。

そこで、解らぬママ「本抄」の拜読を進めるほどに、以下の御聖訓に行き当たる。
【 但(ただ) 専(もっぱ)ら本門寿量の一品に限りて 出離生死の要法なり 】 1022P 1〜2行目
※ ( 出離生死 ⇒ 「生死」・生死に亘る苦悩を 「出離」・解放(菩提)する事 ⇔ 煩悩即菩提 )
↑ 【 】内の御教示は…「一切衆生の苦悩を抜本的に解放する要点の示唆である」という位はわかる。
しかし【 寿量の一品に限る 】とは、どういう事なのか。おまけに【 専(もっぱ)ら 】と断言されている。

そこで「対告衆」は、こう問うのである。 ⇒ 1022P 7行目
(通解) 寿量品の経文が、悪世と言われる「末法時代」専用に対応している事は解りました。
然し。これは「言い掛かり(本文⇒難勢)」ではなく聞きますが…あなた(大聖人)が最初に言った、
三大秘法の持つ「意義」「真理」は、それぞれ何を示すのですか。  (通解ここまで)   

「対告衆」の問いは、急所を外さない「非常に良い質問」である。
それは、本抄の冒頭で『日蓮大聖人』が言った言葉を聞き逃さない部分であった。
「冒頭の言葉」とは、以下。↓
【 (前部を略す)当初修行し給いし処の寿量品の『本尊と戒壇と題目の五字』なり(中略)
されば 此(こ)の『秘法』を 説かせ給いし (後部を略す) 】 1021P 4〜6行目

この御聖訓は、一応は「釈尊」自身の述べる、「会座」での実際の振舞である。
然し。再応は『日蓮大聖人』己心の「釈迦如来」の決心であった。
本抄『三大秘法禀承事』の根幹は、実は冒頭(釈迦の決意)にあったのだ。

茲に。『本門戒壇本尊』の甚深の意味が具(つぶさ)に顕されている事を拜さねばならない。
もう一度言う。『三大秘法』は既に、在世の釈迦の決意の中に顕然(けんねん)と具足していた。

諸兄は思い出して頂きたい。それが『撰時抄』に云う処の「教・機・時・国・教法流布の先後」である。
「釈尊」が何(いか)に歯噛みをしても、衆生の『機根』が至らなければ如何(いかん)ともならなかった。

「末法」とは、御承知の如く 「一切衆生の機根」自体が底に在る。
【 底下の凡夫 】 1023P 9行目 とは、そういう意味なのである。

『三大秘法禀承事』は非常に簡素である。とは、ある意味「達観」ではある。

『本門戒壇本尊』それ自体の『体(真理・意義)』と『相貌』が非常に「感動的」に顕されている。
これが『三大秘法禀承事』の※持つ魅力でもある。

次回は、この『三大秘法禀承事』を もうすこし深く(※持つ魅力を含めて)探求致したい。
キーワードは、前述の「対告衆」の質問だ。
云く (何故 寿量品の経文が、悪世と言われる「末法時代」専用に対応していたのか)

[625] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月05日 (木) 04時51分

『三大秘法禀承事』の魅力 U

『御義口伝 下  781P』に云く
【 (前部を略す) 釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり
八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり 此(こ)の文までにて 経は終るなり (中略)
八年の御説法の 口開きは 南無妙法蓮華経 方便品の諸仏智慧
終りは 当起遠迎当如敬仏の八字なり、(中略)
「当起遠迎当如敬仏よりは 其の信者の功徳を結することを述す」と、
法華一部は 信の一字を以(もっ)て 本とせり 云云。 】
上記は 釈尊が『法華経』に留めた意義を、最も簡素に開陳された部分である。

釈尊が説いた経文「法華経」の持つ「主眼」に、諸々の仏菩薩は皆 賛同した…とある。
その根幹が「南無妙法蓮華経による衆生願度」と結論している。
更に、その「衆生願度」の基本姿勢は「当起遠迎当如敬仏」。  …つまり大慈悲である。

『末法・御本仏 日蓮大聖人』の根底には、この「衆生教化への慈悲」しか存在しない。


『三大秘法禀承事』が顕されたのは、弘安4年4月8日(1281年)であった。
この日、4月8日。  生れ故郷で「広宣流布」に闘う愛弟子に「究極の重書」を贈る。
本抄を顕らわしつつ、往年昔日を偲ばれたであろう『日蓮大聖人』の心奥に去来したのは何か。

草庵の朝霞  その日(弘安4年4月8日)も、少々肌寒むかった… しかし最早「残雪」は僅かである…
そんな中、「俗の弟子」の顔(かんばせ)を思い起しつつ『三大秘法禀承事』を起稿されたであろう。

実は『日蓮大聖人』は、この日の到来を、ズット 心待ちされていた。
それは、この「四月」は… かの『立宗宣言』(建長5年4月28日)から二十八年目を数えるからである。

「二十八年間、私は言い続けてきた…」とは、『日蓮大聖人』御自身の胸中から湧き出る叫びだ。
同時に「廿八年か…」と指折り数えた『日蓮大聖人』はその時、「示同凡夫」としての終焉も把握していた。


二十八に直結するものは『法華経』と『八幡大菩薩』である。
【二十八品 悉(ことごと)く南無妙法蓮華経の事】793P  とは『御義口伝 下』に認めた自筆である。

【 今 日蓮は 去(い)ぬる建長五年 癸丑(みずのと・うし)四月二十八日より
今年 弘安三年太歳(たいさい)庚辰(かのえ・たつ)十二月に いたるまで二十八年が間(中略)
只 妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんと はげむ計(ばか)りなり】
『 諌暁八幡抄  585P 1〜2行目 』

【 日蓮 此(こ)の二十八年が間・今此(こんし)三界の文を引いて 
此(こ)の迷(まとい)をしめせば 信ぜずば 】『 智妙房御返事 1287P 4〜5行目 』 
【 日蓮が一るい(日蓮大聖人の弟子檀那)を 二十八年が間 責め候いし むく(報)いに 】 
『 智妙房御返事 1287P 8行目 』


四月と廿八と…もう一つ。  と、 『日蓮大聖人』は、今日が八日である事に謂(おも)いを巡らせた。
【 抑(そもそも)八日は 各各の御父・釈迦仏の生れさせ給いし日なり、… 
彼(か)の日に三十二のふしぎ(不思議)あり・…(中略)
…吉事には 八日を つかい給い候なり。 】 『四条金吾殿御返事 1198P』

『日蓮大聖人』が、その冒頭に於いて『法華経の神力品』の経文を掲げられた深義は何か。
「更に、ここに迫ろう」とは「愚壮」の蛮勇である。 
重書・『三大秘法禀承事』に肉迫しようとする気概はあっても、実際は無理な事だ。

冒頭の御引用は『神力品』である…は、先ほど言ったとおりである。
【 夫(そ)れ法華経の第七 神力品に云く…
「要を以(もっ)て之(これ)を言(いわ)ば…」  】 『1021P 冒頭御聖訓』 と本抄は始まっている。
つまり、『神力品の中の※要言』を、一番最初に言い極わめられているのだ。
( 「神力品」の主眼は「末法広布は上行菩薩への付属」であるが、細述は別稿 )

是の「冒頭文」を受けて「対告衆」が問うのが 以下である。
【  所説の要言の 法とは何者ぞや  】 『1021P 3行目』   
通解 ⇒「あなた(日蓮大聖人)が冒頭。第七神力品を引用して言った、
※『要』を思惟して『言う』ところの『法』とは、何を指して言うのですか」

この質問に対する(日蓮大聖人の)解答が、『三大秘法禀承事』の中核なのである。
されば! 『中核』とは何ぞや!  ズバリ。【 三大秘法 】つまり『本門戒壇本尊』である。

これ以上『三大秘法禀承事』の事を続けると、頭が「グチャグチャ」になろう故…
次回に「第三回」を記述する。 (但し… ワシの脳味噌が働けば…)

[626] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月06日 (金) 05時14分

頭が「グチャグチャ」になろうが、脳味噌が壊れようが…書く事は書く。

『三大秘法禀承事』の魅力 V
『日蓮大聖人』が即答した事は⇒「一切の実相は、全て一瞬の中に厳然と具わっている」である。
一瞬の中とは⇒『一念三千』以外の何者でもないという事だ。 『総てが包含している』事だ。

では、「何が一瞬(一念三千)の中に具足し尽くしているのか」…。
『真理・真如・    仏意本来の在る可(べ)き姿』が含まれている(具足・包含)事である。
そして、その本来のあるべき姿・状態を『実相』というと御教示になられ…
その『実相』の存在を実際に確認する為の「不可欠」の行体が、
【 寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である 】と即答されたのだ。 1021P 3〜5行目

更に更に、大事な事は。
実は、  『釈尊』は「迹化の菩薩」さえにも、「三大秘法」の末法広布の資格を与えなかった。
詰めて言えば、久遠長大の釈尊の仏寿は、「上行菩薩」等の四菩薩に資格付随の為だった。

この「上行等の四菩薩」に、寸分の誤差もなく連環・連動しているのが『地湧(涌)の菩薩』だ。
『日蓮大聖人』が、何故釈迦が『地涌の菩薩』に付属したのかという事を
「道暹(どうぜん)」の釈を引用されてまで、言及するのも注目である。
※ 『道暹律師』 妙楽大師の法華文句を解説した・天台宗の僧

つまり『(※永遠の力用の)正法弘通は、是亦。永遠の生命の保持者「地涌の菩薩」の資格』だ。
1021P 5〜9行目の『日蓮大聖人』の御記述は、概ねこのような意味である。

※永遠の力用の適応範囲は、『末法万年尽未来際』 (釈尊滅後の二千年から先の(永遠の)時空の事)
【 後(五番目)の五百歳・闘諍堅固・白法隠没に広宣流布して断絶せしむること無けん 】
↑ 1021P 10行目   ⇒ これ(断絶せしむること無けん)が「※永遠の力用」たる最強の御文証である。

これを聞いた「対告衆」は、又々「屁理屈」を言っている。
【 問うて云く… 】 1021P 11行目  (長文を厭う故に、通解を言う)
(通解) 是非 聞きたい、諸仏菩薩の慈悲は、まるで天の月のようだ。
それ(天の月)は、。人智を越えて雄大ではないのか。
又。衆生に、仏縁の機根が高まり整った時や、仏法を求める気運が高まった時は
仏の功徳は(これも時空を越えて・時を選ばず)一切衆生に差別なく及ぶのではないか。
…にもかかわらず。「正像末の三時という法理」にこだわって、「末法の衆生だけ救う」という。
これは、常々『釈迦如来』が言っている事に、かたよ(偏)りがあるが、どうか。(通解ここまで)

『日蓮大聖人』の答は、ここでも『機根』と『時』を中心に『仏法の根本法則』を説かれる。
それが、「正像末の三時」それぞれに適う『法理の浅深』である。
【 但(ただ) 専(もっぱ)ら本門寿量の一品に限りて 出離生死の要法なり 】1022P 1〜2行目
↑ これが「本抄」の結論であって、 その他では絶対に無いのだ。


ここまで聞いても、尚。 「対告衆」は「言い掛かり的」な質問をしている。
(通解) ただ「寿量品」のみが、末法一闡堤衆生の悪業を除くとは、信じられない。
一体。そのような「経文」が、どこにあるのか。 はっきり判っていないのではないのか。
「確かに是の経文に書いてある」という「実際の経文」を聞きたいものだ。(通解ここまで)

上記の「言い掛かり」に、『大聖人』の答は強烈である。 「本文」⇒1022P 5行目
【 汝 強(あながち)に 之を問う  聞(きき)て後(のち) 堅く信を取る可(べ)きなり 】
(通解) あなたが、そこまで強硬に「法華経の真意」を聞くのであれば、申し上げましょう。
然し、これだけは前もって言っておきますが。この「法華経の真理」を聞いた後、
どんな事が有ろうと『法華経』への「信仰心」を、最優先にするべきです。(通解ここまで)
上記の『日蓮大聖人』の御聖訓こそ、『日蓮仏法』の精髄・根幹である。

今。私達は、事ある毎(ごと)に『以信得入』『以信得入』と言って憚(はばか)らないが…
実際・正真正銘。 鋼の決意で『以信得入』と言っているのか、自問自答すべきである。
何故か。 それは 『以信得入』こそ、信仰の「一丁目一番地」なのである。
『御本尊への唱題』こそ、信仰の「一丁目一番地」なのである。

その上で『三大秘法禀承事』 1022P 12行目以降の御金言を拜すれば、
拜読者の信心は、最早や「金剛力」である。

『三大秘法禀承事』の最後に『超 大肝心』の御文証を謹んで記述する。

【 今 日蓮が『※ 時』に感(感応)じて 此(こ)の法門 広宣流布するなり 】 1023P 10〜11行目

【 予(よ・我)年来(常に・日頃に)己心に秘すと雖(いえど)も 此(こ)の法門を書き付けて
留め置(おか)ずんば 門家(弟子檀那達)の遺弟(ゆいてい・末裔の事)等
定めて  (私に対して)無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可(べ)し 】 1023P 11行目

【 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 
此(こ)の「三大秘法」を含めたる経にて渡らせ給えばなり 】 『 1023P 13行目 』
(通解) 諸仏菩薩の存在自体は、唯一 「法華経」の「三大秘法の為のみ」の事(存在)である。

上記御聖訓の直前。『日蓮大聖人』認められた御文に接した時。
「対告衆・大田金吾(太田乗明)」は、驚愕のあまり震えたであろう事は難(か)たくない。
【 其の後は 何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間 貴辺に対し 書き送り候 】 
1023P 11〜12行目
(通解) 私(日蓮大聖人)の滅後に、誰かに、この重大書簡の存在を知らさなかったら
何と後悔しても「末法の広宣流布」は叶わないと (私は)知るので、
貴殿(あなた・太田乗明)に対して、本抄を書き遺すのである。   (通解ここまで)  

『 三大秘法禀承事 』 完

[627] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月07日 (土) 03時31分

『三大秘法禀承事』を長文に亘って記述した。

何故「大田五郎左衛門尉乗明」を『三大秘法禀承事』の対告衆に定めたのか。

そこで『御書』を繙く。       『太田左衛門尉御返事』 1014〜1017P。
この御記述の中に「太田乗明」自体がよく判る部分が有るので、少々触れよう。

本抄大意から見る「大田五郎左衛門尉乗明」。
五十七の厄年を迎えた「太田乗明」が、その心痛・苦悩の深さを『日蓮大聖人』に訴えた。
当の「太田乗明」は、その「厄除祈願」を『大聖人』に頼み込んだのであったが…
『日蓮大聖人』からは次の言葉で 御諌めがあった。 それは…
『法華経のみが、身心の苦悩を治す「大良薬」なのだ』と御教示になられた上に、
『方便品・寿量品の二品を認(したた)めたので、貴殿の厄病の平癒は間違いない』と断言。
さらに。 『貴殿の厄苦は、私に任せよ』と激励されている。(因みに、厄除祈願を拒否されていない)

【 貴辺は日来(日頃)は 此等の法門に迷い給いしかども 日蓮が(の)法門を聞いて
賢者なれば 本執(ほんしゅう)を翻(ひるがえ)し給いて方便品を持(たも)ち給うのみならず、
結句は 身命よりも 此(こ)の経を大事と思食(おぼしめ)す事・不思議が中の不思議なり 】
↑ 1015P 16〜17行目
この「太田乗明(大田金吾)」の愚直さが、『大聖人』に直接響いたのであろう。


                  扨(さて)。 「太田乗明」のみならず。 
己心の基盤に在るべきものを申し上げれば…、『以信得入』 『無疑曰信』である。

【 有解無信とて 法門をば解(さと)りて信心なき者は 更に成仏すべからず、
有信無解とて解(げ)はなくとも 信心ある者は 成仏すべし、
皆此(こ)の経(法華経)の心也』私の言にはあらず されば 二の巻には
「信を以(もっ)て入ることを得 己が智分に非(あら)ず」 】 『新池御書 1443P 14〜15行目』

【 況(いわん)や 我等衆生 少分の法門を心得たりとも 信心なくば
                仏に ならんこと おぼつかなし 】 『新池御書 1443P 17行目』

下記は有名な御聖訓である。 別名は『如渡得船事』だ。
又。若き日の池田先生が、好んで暗誦(暗唱)された御文証でもある。
【 抑(そもそも)法華経の如渡得船と申す事は・(中略)
諸法実相のおひて(追手・追い風)をえ(得)て・※以信得入の一切衆生を取りの(乗)せて・
(中略)上行等の四菩薩は函蓋相応(境智冥合の事)して(中略)如渡得船の船とは申すなり、
是に の(乗)るべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能(よ)く能く ※信じさせ給へ 】
『 椎地四郎殿御書 1448P 13行目 から 1449P 3行目の抜粋 』

『以信得入』 これも又。『日蓮仏法』の精髄と言っても差し支(つか)えは無い。

[628] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月08日 (日) 07時13分

『無疑曰信』
【 今 日蓮等の類(たぐ)い 南無妙法蓮華経と信受領納する故に
無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり 
信は智慧の種なり 不信は堕獄の因なり (中略) 
文句(法華経文句⇒天台著)の九に云く ※疑い無きを信と曰い… 】
↑ 『 御義口伝上 725P 第一信解品の事 7〜9行目 』

『顕立正意抄  537P 13〜18行目』に云く
【 今 日蓮が弟子等も 亦 是くの如し ※或は信じ 或は伏し 或は随い
或は従う 但(た)だ名のみ之を仮りて 心中に染まざる※信心薄き者は
設(たと)い千劫をば経(へ)ずとも 或は一無間 或は二無間乃至十百無間
疑(うたがい)無からん者か(中略) 
※@ 四悉檀(四種の教法⇔仏法の説き方)を以(もっ)て「時」に適うのみ、
我 弟子等の中にも 信心薄淡(うす)き者は臨終の時 阿鼻獄の相を現ず 】

※@ 四悉檀について。  当然であるが、これは「仏法用語」だ。
「悉檀(しつだん)」の『悉』とは「悉(ことごと)く」  そこに在るもの全て。という意味。

『檀』 罪障消滅・怨霊退散・所願成就という、あらゆる人類の願望の為に在る。
が…。  『御書』に顕された「悉檀」とは、そういう意味ではない。(意義は同じだが)

この云う「四悉檀」とは「四種の教法⇔仏法の説き方」以下だ。 ↓
@ ⇒ 世間に応じて説く     
A ⇒ 人に応じて説く
B ⇒ 宿業に応じて説く
C ⇒ 真理を直ちに説く
実は、この定句 「応じて説く」には大事な語句が隠れている。
それが ⇒『時を鑑み』という定句である。 
【時を鑑み、それに応じて説く】  御聖訓の【時に適うのみ】とは之である。 

更に、上記の@Aは『摂受』を旨とし、 BCは『折伏⇔末法』を旨とする
確定に申せば、『末法即折伏』が「時に適った事」であるという「不動の規範」だ。
つまり 『末法』⇔『折伏』⇔『適時而已』⇔『以信得入・無疑曰信』は「絶対の枷」だ。

「末法には摂受もある」如きは「宵から夜更に鳴く鶏⇔物怪(もっけ)」の「大ヨタ」である。
【 鶏の暁に鳴くは用(ゆう)なり 宵(夕方直後)に鳴くは物怪なり 】『如説修行抄 503P』
【 若し本迹一致と修行せば 本門の付属を失う物怪なり 】『本因妙抄 873P 5〜6行目』


『御義口伝上 751P 14〜15行目』 第一 唱導之師の事に云く
【 此(こ)の本法を受持するは 信の一字なり、
元品の無明を対治する利剣は 信の一字なり
無疑曰信の釈 之を思ふ可(べ)し 云云。 】

「信義」「信頼」「信望」「信用」等々、殊更熟語を書かずとも、
『信』という語彙の重さが、改めて迫り来る。

[629] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月09日 (月) 04時38分

『物怪』と『物怪』は、お友達。
『物怪』と『物怪』はお友達とは、「一部自称創価学会員」と「法華講員」でもよい。
それは…最も重要なる「時」を見失う事自体が『物怪』である。という示唆である。 

『五綱』とは⇒ 仏法弘通の基本的規範である。  この規範。
実は御存知の如く、誠に謹厳であって、ちょっと見「我田引水」に思う。
ここが「急所」であって、恐らく他宗が最も忌み嫌う「我田引水」の部分でもある。
否。なにも「他宗」のみではない、 自称『日蓮仏法帰依者』もこれを嫌う。

今。ここで、仮に…
邪義垂れ流しの貴殿よ! よくよく考えてみて欲しい…。等と言っても、相手に聞く気がない。

こちらも【 時を見失う事自体が『物怪』である 】という「嫌(きら)われ言」など言いたくない。
が… 黙ってはおれん。         

そこで  この⇒『物怪』と『物怪』は、お友達。…を少し確認したい。

【 此(こ)れ乃(すなわ)ち 物類冥召(もつるい・みょうしょう)して世間を誑惑す 】 
『 開目抄上 201P 17行目 』とは「顕戒論 (伝教大師・著)」の抜粋だ。
これは、「ヨタ論者」と「ヨタ論者」は、放っておいても「吹き溜まりの塵」と烏合する。
ただ。この「ヨタ論者」は、 密かに通じ合うから始末に悪い。
ま。密かに通じ合うから「物類冥召」と名付けたのだ。  いずれにしても絶妙である。 

これは内緒であるが…。  本当に「愚壮」が言いたかったのは、
【 此(こ)れ乃(すなわ)ち 物類冥召(もつるい・みょうしょう)して世間を誑惑す 】 
の直前の御文証である。 
【 顕戒論 (伝教大師・著)に云く 「僧統  奏して曰く 西夏に鬼弁(邪義)婆羅門有り 
東土に巧言(誑惑の言)を吐く禿頭(とくず)沙門あり、】『開目抄上 201P 1〜16行目』

結論は    『物怪(もっけ)』と揶揄される者の共通項は、「邪義の吹聴」なのだ。
この『物怪』  どのように時代が変遷しても「雨後の筍」の如く惹起する。
つまり、「相手にせずに(かまわずに) 放置する」が、最上の手段である。
但し。 「雨後の筍」への「根伐り」(含・除草剤散布)は時々必要である。

更に言えば この『物怪』殿の特徴を若干申し上げる。
それが『新編・御書全集』(通称『御書』)の基本理念を無視した「自己流多用」だ。

元より、この連中の『繙いた』とされる『御書』には、大きな見落としが存在していた。
『御書』自体が、厳然と備えている最大の特徴は 『完璧な(瑕瑾絶無)』の普遍性である。
どのような人・どのような事・どのような時にも適応する「解決書」「解答集」が解り易い。

『物怪』が撒き散らす『御書』には、理念が欠如している。
何の「理念」か。
それが、「自らを省みる」という『普通の人間の理念』である。
『御書』は、『末法御本仏・日蓮大聖人』が、人間それぞれの「人間革命」の為の御記述だ。
(衆生 無辺 誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど)がその要点)

『物怪』の全体を覆うもの…とは、『完璧なる排他』である。
「他者は劣」 「己は優」 これを、どこまでも変えない。     
これを、どこまでも変えない限り。 取り合う必要は無い。
因みに、『創価学会』の(あるべき)基本姿勢の原点は『他者は優』 『自己は劣』である。
( 注・『他者は優』 『自己は劣』は、殆んどの宗教の表意(教義)です )

而(しこう)して 『物怪』の最大の特徴は「物怪自ら、一顧(いっこ)だにせず」なのである。

[632] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月10日 (火) 04時36分

「宗門」が『御書』に向う姿勢・『御書』に対する気構えは、甚(はなは)だ杜撰であった。
…と。  私如き「在家のペーペー」が言っても、 宗門は「グゥ」の音(ね)も出ん。
それは何故か。    それは、宗門の『御書』への「大々的手抜き」が…
「宗門」を代表する碩学、『第59世:堀日亨上人猊下』の御指摘であるからだ。

上記の断言には、絶対の御文証が存在する。
これは、多くを語らずとも 『第59世:堀日亨上人猊下著文⇔序』に明確である。
更に!
その『序』を、更に強固に補強した御記述が『発刊の辞⇔戸田城聖著文』であった。

今頃になって「宗門」は『御書』を懸命に垰(もてあそ)んでおるが、実は最近まで、
表層「日蓮仏法」を奉行しているやうに見えた「宗門」は、『御書』の「ゴ」も言わなかった。
「これは、間違っている」と感じられた『御僧侶』も存在されたが、詰めが甘い。

「詰めが甘い」とは、私言ではなく。これが『日亨上人』の「大諌暁」の言葉であった。
『斯業(しぎょう)の編纂』とは、「対告衆」の手元にある『御書』そのものを蒐集し、
「御記述内容」に沿って整理・研究し、この「巨編」を伝承する事である。

『第59世:堀日亨上人猊下御著文⇔序』を拜する時、
この「宗門自体」の杜撰さ、  想像を絶する鈍感さが浮き彫りにされている。

然し。後世の人が、見落としてはいけない部分が在る。
それが ⇒ 『日亨上人』も。「歴たる宗門人⇔御僧侶(聖僧)」 という事実だ。

扨(さて)。そこで    『日亨上人』が其の「序」に、こう云われている。(一部再掲)
【 爾来五百年 斯業(しぎょう)に精進するの名師出(い)でず 
漸(ようや)く近古になって細草談林の化主で 又 大石本山の学頭であった   
『久遠院 日騰上人』が始めて新定祖書の目録だけを作り
祖書 拾遺(しゅうい)の編輯(へんしゅう)もあったが 全編ではない、 】

(通解) ↓
日興上人が、御書の散逸や遺棄・漉返し(すきかえし)を強く御警告されてから、約500年。  
御正筆の編纂に没頭する学僧が宗門の中で出現しなかったが、 
ようやく江戸時代後期(1840年前後)になって、千葉の細草談林(学僧養成熟)の塾長で
又 日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)の学頭でもあった   
『久遠院 日騰上人』という学僧が始めて、改めて新しく収集すべき御正筆の目録だけを作り、
散逸された御正筆・御書の編纂を試みたが、御書全編には至つていない。(通解ここまで)
( まったく あきれ果てて 言葉を失うが、こんな事で驚いては、次が読めん )

『日亨上人』の断腸の御記述は続いている。   ↓以下
【 更に 本化文集六十六巻を製して門下を労して版下に清書させたが
不孝にして版行が出来なかったのみで無い  写伝者すら無く本書が転転として
大正の大震火災(1923年9月1日)で横浜で※烏有(うゆう)に帰したのは
護持者の※疎浪(そろう)を咎めても追付かぬ残念千万の事である、 】

(通解) ↓
その後、日蓮大聖人御書集・66巻を作製し、
学僧学徒に督励して校正原稿の完成直近にまで漕ぎつけたが、
不孝にして印刷出版が出来なかったのみならず、
引き続いての校正出版の実施者さえも見つからず、この重要な原版が転々として、
関東大震災(1923年9月1日)で被災し、横浜で一切が灰燼になってしまったのは、
護持すべき責任者の、日蓮大聖人の御聖訓に対する杜撰さや重要性の不認識さを、
今更糾弾し、強く咎めても追付かない、慙愧の事件である。  (通解ここまで)
( キッパリ言う。日蓮仏法の護持者であるという自覚が、宗門人には皆無である )

『日亨上人』の御悲嘆。  それを終らせるが如く「戸田先生」が現出する。 ↓以下
【 慈豊房(序 参照)が信濃(新潟県)より東京に転じて 
昭和四年に『御書新集』発行の事を聞いて 一たびは驚き 一たびは喜んだ、
其れは 数年の間 斯業(しぎょう)の消息を耳にしなかったのと 
此の困難な事(御書の編纂作業)を成し遂げた事であった、
早速取り寄せて見ると 其の成果の予期に大(おおい)に反したのに驚愕した、

思うに 予 非器(ひき)なりとも 親しく参加して居たならば 此の悔いなかりしかと 
※慙恨(ざんこん)茲(ここ)に年を久しうした処に     
豈 図らんや 創価学会会長『戸田城聖氏』の※熱請に値はんとは、 】

(通解) ↓
『慈豊房:日明』がその後、赴任先の新潟県より東京に転勤し、
昭和4年に『御書新集』発行の事を聞いて 私は当初、大いに驚き 大いに喜んだ。
その訳は、数年の間、御書編纂の重要事の顛末・経緯を耳にしなかったのとあわせて、 
此の困難な事を成し遂げた事への歓喜であった。

早速取り寄せて見ると 其の編纂され完成された御書の内容が、
私が予め期待した事と、大いに隔っている事に驚き、愕然としたのである。

思えば、 私がいかに非力であったとしても、要請の当初から参画して居たら、
こんな事にはならなかったと、今更※悔やんでも悔やみ切れない思いで、
後悔の何年かを忸怩と思い続けていたところに、
考えもしていなかった   原文⇒豈 図らんや    
創価学会会長『戸田城聖氏』の御書編纂への篤い信心の要請に遭遇するとは…
(通解 上記まで)
( 何をか曰わんや…「宗門」に仏法伝承の資格なんぞは、欠片(かけら)も無い )
( と同時に、『戸田城聖先生』の御出現こそ⇒『仏意・仏勅』たる所以がここにある )

『日亨上人』の『序』は、この後 かの有名な「白眉」の御記述に移っていく。
【 偏(ひとえ)に仏天の冥助を仰ぎ 僅に一二の学徒に 淨写を助けしめて
歳末に成稿(じょうこう)せしは 全く冥加(みょうが)に依るものと感泣する、
殊に ※学会の教学部に於いて  ←(この御記述は、『御書』蘇生の最大根幹である)
大挙校正に当り 世務(せむ)を割きて長日 長途を往復せられた事
及び 略伝年表まで作成された事は 望外の僥倖(ぎょうこう)であった、

但し 編纂の成果に※麁浪(そろう⇒麁⇒粗い)なきや 
将(はた)して本仏の冥慮に協(かな)ふべきや否や恐懼(きょうく)する所であるが、
敢(あえ)て老身の廃朽(はいこう)に託して 其の責任を回避するものではない。
昭和二十七年(1952年)四月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』識す 】

(通解) ↓
事ここに至つては只々、御本仏と諸天善神の冥益と助力を仰ぎ 
極、少数の学僧所化に 御聖訓の転写を助けさせて、
その年の歳末に総てが完稿した事実には、
全くの御本仏・御本尊の大功徳に依るものと、感極まって涙が止まらない。

殊に特筆は、※創価学会の教学部の爽々たる青年が、大挙して校正の任に就き、
世間日常の勤務を割愛して、幾日間も伊豆や静岡と 東京を往復せられた事。
亦。御書付録に、略伝年表まで作成された事は、思いがけない素晴らしい事で、
未来の教学の為にも幸運であった。

私の本音は、今回のこの編纂の内容に、漏れたところや粗いところがないか、
御本仏の御意志や御理念に合致するのか否か、恐れ多く懼(かしこ)まる心境であるが。

それでも敢て私は断言する。それは(この御書全集の内容に万が一 瑕瑾が有っても)
老身の混乱を、その間違いの理由にして、責任全体から逃げたりする事はない。 
↑【日亨上人の究極の確信部分である】
昭和27年(1952年)4月の初め伊豆畑毛の雪山荘にて『日亨老僧』識す(通解ここまで)                          

上記は他文(どのような宗門人)の何(いず)れの「論文」と較べても、
薀蓄の深さ、論意の甚深さ、遜意の奥床しさ、ユーモア溢れる中の鋭意さ、 等々。
誠に『法理』に則ったもので、御人格彷彿の瑕瑾なき名文である。

この『名文』に対する「日蓮正宗」の讃嘆の事実は(一部を除いて)見聞していない。
「先ずこの名文を、よく咀嚼し、最大の讃辞をすべきは「宗門」であるのに」
こう 嘆いた人は、雲霞と存在する。

が。 然し!
『戸田城聖第二代創価学会会長』の巻頭文で、この「序」は、本来の輝きを見るのだ。
『戸田先生』の『発刊の辞』は、次回に記述する。

[637] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月11日 (水) 05時07分

『新編・御書全集』    発刊の辞
先ず。『戸田先生』の  『御書発刊の発願』への根本の気概を述べよう。 ↓
【 (前部を略す)遂に 慶祝祈念事業として之(御書)を発刊せんと発願したのである。 】
( ※是非功罪⇒是か非かと迷い、功か罪かと逡巡した。 こう言われている。 )

そうして「戸田先生」は、遂に「行き着くべき人」に突当る。
此(こ)の人こそ『日蓮正宗:大石寺 第59世法主:堀日亨上人猊下』その人であった。
( 宗門⇒全て悪。と言う『ヨタ』を吐く者は、戸田先生の以下の文を深読・身読せよ )

【  これに応えられて 永年 古文書研究に没頭せられて 
※斯学(しがく)に造詣深き 日蓮正宗 第五十九世の法主たりし堀日亨上人猊下が、
六十有余年の※薀蓄(うんちく)を傾けて之が編纂の大事業に立たれたのは、
大聖人門下にとって此の上なき幸せな事である。 】
( ※斯学(しがく)⇒仏法・仏門・法理に関する総ての学問 )    
( ※薀蓄⇒蓄積され尽くした透徹した学蹟 )

【 堀日亨上人猊下は 
八十六歳の御高齢にて日夜不断にも拘らず、身心共に何等の障魔無く
数十年の亘る御研究を結集せられて ここに本書の完成を見たのである。
其の内容たるや古今を通じて最も誇り得べきものであると共に、初信の者も仏意を
会得するに容易ならしむるよう 字句の上にも細心の注意が払われている。 】
(※ 『御書全集』の全編纂が『堀日亨上人猊下』である事の、不抜の証文である。)

【然るに 余の※不敏は幾多の過誤を おか(犯)して(※不敏⇒鋭敏ならざる事)
堀日亨上人猊下が「生涯を通じての大研究」に 疵つくることなきやと  
ひたすら之を虞(おそ)れ、今後の補正に最善の努力を尽さんことを誓う者である  
と共に、  この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事を  
ひたすら祈念して止まぬものである。
願わくは 世の識者諸兄・余の微意を諒とせられて 御批正あられん事を。
昭和二十七年四月二十八日      創価学会  会長  戸田城聖 】

上記が、私達が日夜に『繙き』学んでいる 『新編・御書全集』である。
「日顕」如きの「買春」頭で再編した、誤字・逸字氾濫の「雑誌」ではない。
ったく…冗談ではない。 なにが「平成の法難」か!
因みに言っとく。 『聖僧 及び 日蓮門下』とは、「少欲知足」の異名なのである。

あ。  ついでに言っておく。 
少欲知足とは、そこの『ヨタ屋・成果屋・数字屋』の一部の学会最高幹部様は含んでおらん。 

[638] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月12日 (木) 04時43分

今や、『日蓮大聖人』の御本尊を受持しながら 「毛虫」の如き者が多すぎる。
(ここへきて 急に「完璧なる毛虫(物怪)」が 多くなったように感じる…)
否。「毛虫」でさえ、時期を数えて『蝶』になるが、上記の「悩乱毛虫」は始末に困る。

『御書』には、虫の持つ「秘められた力」を示唆されたものもある。
【 鋤(スキ)を以(もっ)て地を す(鋤)けば 虫・自然に四寸 去る 】
上記は 『一代聖教大意 392P 16行目』の御記述である。
つまり…『虫』でさえ、その「生死・正邪・正誤・等々」自らの覚知能力は凄いのだ。
故に。言うところの「邪義・悩乱」を、辺り構わず撒き散らす「輩」は、それ以下と言う事だ。

『日蓮大聖人』は、その御聖訓の中で、『法華経(御本尊)』の偉大さを語った。
そこで…『虫』で思い出す御文証を記述してみる。

【 糞虫を仏になす 】 『四条金吾許御文 1197P 12行目』である。
これは「蜣蜋蝮蠍」という「害虫」の代表も、『法華経』の功力で「成仏」するという。
『四条金吾許御文 1197P 11行目』
※ 「蜣蜋蝮蠍」(こうろう・ふく・かつ)
蜣蜋 ⇒フンコロガシ・糞虫  蝮 ⇒マムシ  蠍 ⇒サソリの安堵の声がする。

その反面、「どうにもならない」⇔「外道」の譬喩が「尺取虫」である。
【 屈歩虫(くっぷちゅう⇔尺取虫)のごと(如)く・ (中略)三悪道に堕(お)つ 】
『 開目抄上 187P 15行目 』

「蝗(イナゴ)」も、これも(蝗に)気の毒だが、あまり「良い譬喩」では登場しない。
@【 皆一同に持斎(じさい⇔行体良く戒を保つ事)になりて 
国の百姓を く(食)らう蝗虫(イナムシ)となりぬ 】『撰時抄 275P 4行目』

A【 七月七日 已下 天(そら)より 忽(たちま)ちに石灰虫(いなご)と申す虫 】 
『土木殿御返事 964P』 佐渡にいなごが大発生して稲や穀物に被害が出た。

B【 七月十五日より上下 いしはい(イナゴ)と申す虫ふ(降)りて… 】 
『大果報御書 1298P』 佐渡の国の三割の農作物に被害が出た。(Aと同意)

又。「蟻」であるが… これは「良否」共々の御記述を観る事が出来る。
( 当の蟻には、たぶん…多いに迷っておる )
【 耆年の宿老(ぎねんのしゅくろう⇔経験豊かな老人)を笑(嘲笑)うて 
螻・蟻・蟁・蝱(るぎもんもう)の類いに擬(ぎ)す 】『念仏者・勘文状 96P』
上記は、典型的な念仏破折の御聖訓である。
(通解) 念仏宗などは、「耆年の宿老」を侮(あなど)る輩である。
それは、経験豊かな老人を見て、嘲笑するに等しい。
※ ( 螻・蟻・蟁・蝱(るぎもんもう)⇒ケラ・アリ・蚊・アブ⇒つまらない者 )

『日蓮大聖人』が一切の殺生を 否定された御記述が以下である。
【 日蓮は さ(爾)せる妻子をも帯せず (中略)螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども 】
『四恩抄 936P 11〜12行目』 ※螻蟻(ろうぎ⇔ケラとアリ⇔つまらない者)

『牧口常三郎創価学会初代会長』が座右とされた有名な御聖訓。 ↓
【 蛍火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し 井江(せいこう)が河海を あなず(侮)り
烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を わら(笑)ふなるべし 】
『佐渡御書 961P 2行目』  ※「華山」中国五名山の主峰 (西岳)

又。「蝦(かえる⇔蛙)」にも興味深い御記述が多くある。  
先ずは、以下。
『末法の一切衆生(一闡堤)』にとって 『御本尊(法華経本門)』の凄さは判らない事。
【 譬(たと)へば井底(いてい⇔井戸の底)の蝦(かえる⇔蛙)が大海を見ず
山左(やまかつ⇒きこり)が洛中を・しらざるがごとし 】『開目抄上 199P 7〜8行目』
( 只 法華経本門の寿量品に限ると注釈されている )

同じ蝦(かえる⇔蛙)でも、「真言への破折」は強烈である。 ↓
( 弘法が「法華経」の法意を盗み取った事への破折 )
【 此(こ)れ即(すなわ)ち 鶴の頸を切って蝦(かえる⇔蛙)の頸に付けけるか
真言の蝦も死にぬ 法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候、】
『慈覚大師事 1019P 8〜9行目』

『昆虫』でさえ、是ほどの御譬喩が存在する。伝説の求羅は言うに及ばず…。
竜・師子・象・虎・犀・馬・牛・驢馬・鹿(善悪の鹿)・狐・土竜・獺・蝙蝠・
金翅鳥・鸞鳳・頻伽・雉・鴫・鷺・鷲・カラス・鳩・燕・鶉
鯱・蟹・亀・鯉・鮒・蛤…等々  この記述など、ごく一部である。
つまりは、『日蓮大聖人』御記述の『生物』とは、「生命に対する慮り」だ。

『御書』に登場する、全ての「生命」の網羅には、大きな意味が有るのだ。
『先ず。生きている事なのだ』と。『御書』は語りかけているのかも知れない。

[642] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月13日 (金) 04時40分

『池田大作創価学会第三代会長』(現在の池田名誉会長)への「誤謬」
これは、最近騒々しい『ヨタ』に対する反論の記述ではない。

耆年の宿老(ぎねんのしゅくろう⇔経験豊かな老人)の曰く。
『三代目の優劣で、その(当該)率いる「組織の命運」が決まる』とは至信である。

そこで…。「愚壮」は『池田先生』の青年時代の実録を繙く。
本論は、その名を
【  『若き指導者は勝った』 池田大作−その行動と軌跡  】 とされた。

又。この実録は、
2009年1月1日(実配日 2008年12月30日)〜2009年2月4日の聖教新聞連載である。

それでは、実際に記事にされた期間は、いつ頃の事か…といえば。
昭和24年(1949年)1月3日〜昭和31年(1956年)7月9日まで、2473日間。
つまり、『池田門下』として「知っておくべき」7年187日間の実録である。

この、あまり皆は言わない『若き指導者は勝った』とは、
「何の為」の連載であったのか… ここに迫る意味で、骨子のみを記述する。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『秘録』とも云うべき其の実景は、昭和24年1月3日(月)早朝の『風景』から始まる。
根幹は「7年と187日間に亘る、師弟不二の軌跡」である。
…と、同時に。その「師弟」の周りの、「常在の似非弟子」達の愚かな実像。
更に、「八風」の如き陰惨な「毀誉褒貶」の渦巻く中で、
誠の『師弟不二』の「在りよう」を後世に伝承する為に示された実録だ。
言い換えれば…
『師弟不二』を断固として継承する為の『葛藤の構図』を教える書である。

もっと云うあらば…。
将来の創価学会を正しく担う「青年群」への為。
絶対に伝うべき『王道』を、余す所なく 披瀝開陳し尽くした『正史書』である。


連載記述の構成を、ここで若干述べておく。
@  『序』 (オープニング)
A  『日本正学館』  3編
B  『第二代会長』  4編
C  『水滸会』     5編
D  『大阪の戦い』  6編

尚。  「本文」の確認と検証について書いておく。「愚壮」如きの無智なる解説は、
これを書いて 徒(いたずら)に誤解を招かぬ為。実録本文を【 】で囲んだ。
念を押せば、「愚壮」自体の「確認文言」は、これは記述したが、
「愚壮」自体の『解説の文言』は記述していない。 之を最初に「確認」しておく。

[648] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月14日 (土) 06時03分

『若き指導者は勝った』  @ 『序』

昭和24年(1949年)1月3日(月)       この日の天候は、
「小雨混じりながらも 時々日差しが覗いていたが…少々寒かった」とは
前日に21歳の誕生日を迎えたばかりの「池田大作青年」の述懐であった。

上記「小雨混じり…」は、池田青年の「日本正学館」初出勤の『風景』である。

『西神田』には 恩師『戸田城聖(後の第二代会長)』の「日本正学館」がある。

此(こ)の「正月の三日」を初出勤に決めたのは『師』か『弟子』か…。
【 この日を(初出勤に)選んだのは 戸田理事長に、
「来年からこい」と言われたからで、ほかに理由はない。
「少し早いか」と思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートにきめた。】とあり、
すぐに続く文章に、池田青年の基盤を彷彿とさせる記述がある。

※ 池田青年の基盤を彷彿とさせる記述 とは以下である。
【 つまり 師が何かを決め、細かく指示するのではなく、
(師は)根本の大綱のみを示す。 …
むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。
「初出勤」の日にして、既に『師弟の命運』は決定づけられていたかのようだ 】

この (弟子の側が具体化をしていく… )という記述は、
後に出てくる「水滸会」の場面をも又。彷彿とさせるのである。

( 当然、戸田城聖が信奉する『日蓮仏法』の事をも、池田青年は知るのだが…)
ここで 「池田青年の対・宗教観」についての記述がある、(これも『秘録』であろう)
【 …この時点での池田青年は、
決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった 】

池田先生の言葉(記者の代弁)によれば、納得どころか、辛辣である。
以下の記述は、この関連の部分の通解的解説は、誠に興味深い。
特に「時代背景」を学ぶには、非常に示唆に富んでいるので書いておく。


少年時代から青年時代にかけて、池田大作自身が感じた「宗教観」とは…
それは⇒無智・盲信・狭い視野・独善性・閉鎖的言語感覚・息苦しい上下関係
上記の直感は、正直且 辛辣である。

特段。当時の「日本国」が、その国家・国民を総動員して
『神道(しんとう)』を 真正面に押し立て、破局していく件(くだり)への心情だ。
『神道』を押し立て、破局していく…。  これは池田青年の「炯眼」の記述だ。
【 宗教は懲々(こりごり)である 】 短文であるが…これぞ池田青年の心である。

上記の証左として、面白い記述がある。(面白い…を、『茶々・御託』しない事!)
(そんな池田青年は、)創価学会入会後も、こう思っていた。
【 なんとか自らの運命から、免れないものかと 一年間ほど悩み、
抗(あらが)っている。(宗教家の経営する会社に就職してしまった事)
それは、小説・人間革命 第三巻「漣(さざなみ)の章」で告白している 】


本項は『池田大作創価学会第三代会長』の下記の回想で締め括られている。

【宗教、仏法の事が理解できて(日本正学館での就労を)納得したのではない】

【 宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、
どうすることもできなかった… 】
『戸田城聖の持つ、人間的な魅力』…
上記の記述に接した瞬間に私は ある種の結論を見た。

[650] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月15日 (日) 04時04分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第一回 『日本正学館 1 』

第一回は、主に「師・戸田城聖」の人物像に迫っている。(伝記的記述である)
【 (戸田は…)ある者には「受験の神様」に見え、
ある者には「危なっかしい素人事業家」に見え、
ある者には「山師ふうの法螺ふき」のように見えたりして、
出会った多くのひとの記憶に さまざまな貌(かお)を のこしている 】
( ※愚壮注記  『戸田先生』のこういう部分に、池田青年は惹かれた。と思う )
『戸田先生』のこういう部分 ⇒ これを後世の池田名誉会長は『豪放磊落』とされる。

上記を具体的にいえば。
@ 経営私塾「時習学館」の教材をまとめた「推理式指導算術」が
百万部を超える ベストセラーになった事。
A 神田淡路町にあった印刷工場を入手し 出版会社を設立し
「子母沢 寛 選集」を発刊し、戦前には十七の「子会社」を運営する軌道にまで
発展した事。 等々である。

本文では、
【 徒手空拳から 事業をおこす手腕に すぐれていた 】とも述べている。

また。昭和の初期には、進学希望の小学生を対象に
「東京府(当時)綜合模擬試験」を実施し、数千人が受講した事も記述してある。

この「師弟」の邂逅(かいこう⇒予期せぬ出会い)を、本文は言う。
【 宗教への抵抗がある青年。 さまざまな貌(かお)を持っている宗教者。
では、この二人が「稀有の師弟関係」を結び得た理由とは…… 】と言いつつ
直後の本文でも、「豪放磊落の戸田先生」の横顔を語っている。

戸田城聖は…所謂(いわゆる)。
抹香くさい人物ではない。「聖人君子」ではない。…と断言し。
「戦後の荒波」のド真ん中を、抜き手をきって泳いでいる。と形容している。

又。「宗教家の戸田理事長」については、こう語っている。
【 (戸田先生の)法華経講義も おもしろい。
善男善女を煙(けむ)に巻く 厳(おごそ)かな説法ではない。
金襴の袈裟衣で幻惑させるどころか…夏など「もろ肌」脱いで法を説く。
ときには、落語家も顔負けのユーモアであった… 】 というのは実話だ。
これは、池田青年でなくても心酔する場面であろう。

(これは余談じゃが)…実際愚壮も、随分昔、
『四信五品抄』の講義L・Pを聞いたが「抱腹絶倒」であった。

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扨…。  この章での主戦場は、「日本正学館」(出版会社)である。
この中で、ジャーナリスト志望の「一青年」に語った、池田先生の言葉である。
( この「語った言葉」とは、当時を振り返って語った…という意味である)
【 本当は(池田青年自身は)新聞記者に なりたかった。
それが戦争の為 叶わなかった。
私(池田青年自身)も、戦争犠牲者の一人だ。 】


この章の最後に、池田先生の  『弟子』として心に刻印すべき記述がある。
【 戸田先生は、仕事に厳しかった。 些細なミスも見逃さない。
(ミスが発覚した時は)百雷の如き 叱咤が下った。
「私(戸田城聖)から逃げたいなら、逃げろ!ついて来るならば、ついて来い!」
池田青年は必死で 食らいついた。 】

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☆ この第一回から、連載誌面の形態は意義を正していく。
それは、欄外に『時代と背景』という、横書きの枠が新しく設けられた。
枠内の記述が、本文の補佐役を果たしていて、読者の興味は尽きない。

『時代と背景』(抜粋)
【  「私はやがて、ルビコンを渡った」池田大作著『私の履歴書』 
昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い入会(8月24日)する】
池田青年が戸田城聖の下(もと)で働く事が決まるまでの、青年の心境が、
古代ローマの故事になぞらえて記述されている。

又。「第一回」という事で、本編執筆責任者の※実名も記述されている。
「聖教新聞東京本社 編集局」
局長  丹治正弘
次長  大島範之
その他  特別取材班    以上である。

『若き指導者は勝った』  第一回 『日本正学館  1 』  A完

[652] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月15日 (日) 05時27分

【  「私はやがて、ルビコンを渡った」 池田大作著『私の履歴書』 
昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い入会(8月24日)する】
上記は『第一回・日本正学館 1 』の『時代と背景』欄からの抜粋である。

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『近代創価の歴史』は、昭和22年8月14日の座談会から出発したといってよい。
この夜。若き池田先生(19歳)は、生涯の師匠となる『戸田城聖』に邂逅する。
(会合を、支部協議会とする説や地区座談会と言う説があるが、形式は問題外)

青年「池田大作」をみて、戸田は問うた…『 いくつになったのか…』と…。   
青年は答える 「19歳です」   ※『…そうか、 19歳か…』

その後に続く青年の真摯な問いに、戸田も真摯に即答した…とは、
その場に居た多くの人々の伝える『正史』である。

…しばらくの時を得て、意を決した如く青年は立ち上がり、
満腔決意の即興詩を詠(えい)じたのである。
周りの人は、この即興詩を吟じた「池田青年」を見て驚いた。とある、
然し。殆んどの人は『驚いた』だけで終っていたが…『戸田城聖』は違った。

何故。「戸田」だけは違ったのか。
今。池田青年が吟じた 【 旅人よ… 】で、始まる詩歌の一言一文に、
『日蓮仏法』の究極の法理が、光り輝いていたのであった。

それこそが、生涯を決めた「青年の心」を披瀝した瞬間でもあり、
『仏勅』がもたらした「妙法伝持」の不可思議なる瞬間であった。
…だから「愚壮」は 「不思議極まるのが仏意・仏勅である」と、叫ぶのだ。

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池田先生の奥底から湧き出(い)でた『即興詩』を、爰(ここ)に謹んで書す。

【 旅びとよ   いずこより来(きた)り    いずこへ往(ゆ)かんとするか

月は沈みぬ  日いまだ昇らず 

夜明け前の混沌(カオス)に   光 求めて    われ進みゆく

嵐に動かぬ大樹求めて  われ 地より湧き出でんとするか  】

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尚。 下段に( )で綴じた文言は、『日蓮仏法』根幹直射の通解である。

@  旅びとよ                        
( 無明の一切衆生を直射している文言である )

A  いずこより来(きた)り        
( 三世⇒「旅人:流浪の人は」巳今当をも知らず…  尚 )

B  いずこへ往(ゆ)かんとするか    
( 自己の使命すらも知ろうとしない事だ )

C  月は  沈みぬ            
( 正に白法隠没を指している)

D  日  いまだ昇らず          
( 正法弘通の王道は、未だ端緒にあるのだ )

E  夜明け前の 混沌(カオス)に   
( Cであり Dであるから 「混沌」なのである )

F  光 求めて                 
( 絶対普遍の王道・一切衆生の根源の苦を抜く「法」を求める事 ) 

G  われ  進みゆく           
( 戸田城聖を生涯の師匠と決めた瞬間の、池田青年の悟達である )

H  心の暗雲を はらわんと       
( 池田青年自身の「過去世の呻吟」を「心の暗雲」という )

I  嵐に動かぬ大樹求めて       
( 大樹とは『嗣法』・『師匠』である。 戸田城聖そのものである。)

J  われ 地より湧き出でんとするか  
( 『日蓮仏法』の根幹を言い切り 『仏勅』を言い当てた瞬間である )

[665] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月16日 (月) 05時41分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第二回 『日本正学館 2 』
この章の前半は、幾人かの証人が、時代を象徴するが如く登場する。
例 小松崎 茂 ・ 根本 圭助 ・ 西條 八十 ・ 横溝 正史 (敬称略)
等々の各氏である。

就中・特筆は「手塚 治虫氏」である。
※手塚治虫⇒漫画家   代表作⇒「鉄腕アトム (上梓・昭和27年)」 

その手塚治虫氏の発言(時期は昭和34年頃であろうか)が本章に残っている。
それが、アシスタント達の前で、終戦直後の日本の雑誌に言及する場面である。
言葉を続ける「手塚治虫」の手には、古びた戦後の雑誌「冒険少年」があった。

【 あの頃(終戦直後)は子供向けの雑誌が続々と創刊されていてね。(中略)
「冒険少年」は 是非 描きたい雑誌だった。 】

あの 「世界の手塚」に、是非とも描きたい雑誌」と言わしめた「冒険少年」
この「冒険少年」の編集長こそ、「池田青年」だったのである。

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※ 『手塚治虫』
生誕 昭和四年(1929年)  平成三年(1989年)2月9日逝去   享年60歳
************************************************************

更に本章では、混沌たる世相(時代背景)を、次のように述べている。
戦後の混乱は続き、国鉄をめぐる「下山事件」「三鷹事件」続発の記述がある。

そんな世相の混乱は、「戸田」の率いる出版界にも、容赦無く襲い掛かった。
本文の記述では、これを述べている。
【 出口の見えないインフレ 】 

「インフレ」に関する記述を、本文から抜粋すれば…。
【 GHQ・(連合国軍総司令部)は、「資金の貸し出し統制」(を施行した) 】
【 今風に言えば「貸し渋り」だった。 中小企業の金詰まりは 日ごとにつのり、
目をおおうばかりの惨状を呈した。  …日本正学館とて、例外ではない 】
と、述べている。
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昭和24年(1949年)10月25日 もっとも恐れていた その日が来る。
【 (その日の)朝九時前、二階に居る「戸田城聖」のもとに、
日本正学館の 全社員が集められた… 】

ここで本文は、日本正学館閉鎖への模様が、具体的に述べられているが、
筆者(愚壮)は、煩雑を厭う(逃げ)て 割愛する。

然し。割愛を許さぬ記述は、これを抜粋転写する。
【 …まず、売れ行きが鈍ったのは 単行本である。
次に 女性向けの雑誌「ルビー」が 採算を割った 】

上記「ルビー」の編集長こそ、「忘恩の徒」 矢島周平(詳細後述)であった。

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本章 『日本正学館  2 』の白眉の記述が以下である。
(日本正学館の 全社員が集められた…後 )
【 戸田城聖はキッパリと宣言した。
「雑誌は全て休刊する。 誰でも下すに違いない、当然すぎる結論だよ」
(中略)虚脱感が押し広がる事務所で、
池田青年は師(戸田城聖)の姿だけを見つめていた 】

【 休刊を告げた後は、ふだんとまったく変わらない。
「おい、一局どうだ」。 来客者をつかまえ、愉快そうに将棋を指している。
…「何という人だ。 何があろうと変わらない。ぶれない。
ならば、自分もまた。  】…と。
池田青年は胸を張って残務整理に事務所を飛び出している。


【 …今年の冬も、外套(オーバー・防寒着)は無しだな。
心につぶやいたとき、すでに腹は決まっていた。 】

第二回 『日本正学館  2 』  B完

[667] 題名: 名前:隼人 投稿日:2012年07月16日 (月) 12時03分

朝からプランターに水を遣り、その後ここの愚壮殿の書き込みを読ませていただきました。

さきほど、虫退治してきた身には殺生は慎まねばと感じ居ります。

蒸してくる 虫は多くて 限りなし
      わては眼も悪し 耳もはかなし 隼人拝

[673] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月17日 (火) 05時28分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第三回 『日本正学館 3 』

私(愚壮)は先ず、『時代と背景』の欄に着目した。
その意図は何故かという理由は…。
上記の『時代と背景』にこそ、この年の池田青年の真意が述べているからだ。

『時代と背景』抜粋
【 ホイットマン「草の葉」より(昭和24年刊)
「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!
極(き)められた決勝点は 取り消すことができないのだ」 】

************************************************************

昭和24年(1949年)10月25日の「日本正学館」閉鎖を経て、
師弟は、激浪大難の時代に不可避と入っていく。

本文の冒頭。
【 予期せぬ恩師の 事業の暗転 】

池田先生は後年、この昭和24年当時を振り返って、こう述べられている。
【 信心というものは、こういう試練を経なければ いけないのです。
社会の荒波を乗り越えなければならない。
その目的のため、あらゆる苦労をしていった 】…と。

************************************************************

下記は「聖教新聞東京本社 編集局」の独自の論説である。
基盤が憶測であるので、述べる事を躊躇したが、意義はあるので記述する。
【 もし日本正学館の経営が順調で、師弟が幸福な編集者生活を送ったとしたら。
結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である 】
( 百歩譲って言えば、成功に至る道程に、苦難は避けられない事か。 )

日本正学館閉鎖の苦衷の中、戸田城聖は即刻 次の手を打った。
それが「東京建設信用組合」の設立(昭和24年(1949年)12月4日)であった。


下記は池田青年の偽らざる心情の吐露であろう。
【 出版編集から金融事務へ。
(それは)池田青年にとって 晴天の霹靂(へきれき)だったと言ってよい 】

池田青年の真実の思いは、続く文面で察しがつく。
【 事務所に向う足取りは重い、 気分も晴れなかった…。
まったく 畑ちがいの信用組合の仕事は(池田青年の)性分にあわない。 】


いや。それだけではない…。更なる追い討ち的なる事態に陥る
【 夜学の方も、断念してもらえないだろうか 】
上記は、戸田理事長の池田青年への言葉である。

それに対する「池田青年」の答こそ、永遠の師弟不二を顕現した瞬間だ。

「夜学の方も、断念してもらえないだろうか」という師の言に…。
「弟子・池田大作」は、次のように即答した。
【 喜んで(夜学を)やめます。
必ず事業を立て直して、先生を お守りします 】


「聖教新聞東京本社 編集局」の編集記者はここで、傍証を示す。
【 この時の、この決断こそ、池田会長の人生と、
学会の未来を決定づけた「大英断」だった 】とは、
多くの識者の見識である。

上智大学名誉教授でもある「安斎 伸 博士」は、
夜学断念の決断に対して、下記二点の論説を顕されている。

@【 その(夜学断念)原点には、戸田第二代会長に自らの人生を投じた、
青年の純粋な「賭け」があったと、私には思える 】
A【 牧口初代会長と戸田第二代会長が 生命を賭して貫いた信仰に、
池田会長も賭けた。
その初心、生き方を貫くことで 信仰を深化させ、
揺るぎない基盤を築かれたのでしょう 】  (以上、二点の論説)

この談話で、特別に目を引くのは…。
A【 揺るぎない基盤 】であろう。
この「基盤」を、『師弟不二』と呼ぶのではないのか。

…が、事業は更に暗転しゆく。
戸田は、あらゆる手段をこうじた。 とあり。
池田青年も又。先兵となって「東奔西走」した。とある。

本文
【 牧口門下の実業家グループは、利あらずと見るや、
われ先に 戸田城聖のもとから離れていった 】
と、同時に。本章では…。 
『師匠・戸田城聖』に付ききる、池田青年の凄絶な生き様も述べている。

それだけではない。この本章では、
戸田城聖が、日に日に孤立無援に堕ちていく現実も如実に描かれている。
そのような中での、池田青年の言葉が印象的である。


【 …何があっても、創価学会と共にね!戸田先生と共にね! 】

「孤立無援」の師匠に対して  「孤立無援」の弟子が叫び続けた。
『先生。先生!』と…。

後年の『池田名誉会長』の「師弟不二」の御指導の骨格とは。
実は、ここの事を指している。

第三回 『日本正学館  3 』  C完

[674] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月17日 (火) 09時08分

折りしも、【7・17】である。
この朝…。私は、身震いを成す想いで、拜した。

************************************************************

今朝の聖教新聞(2012年7月17日)には、
『忘れまじ 常勝不敗の原点』と大書された記述がある。
この第三面(3段目 7〜10行目)の記事を抜粋する。
【 55年前、池田室長は、※最後にこう語りかけている。
『大阪の砦は門真だ。門真が磐石であれば大阪は安泰だ』
今再びの激戦に挑みゆく友への、不滅の指針となったのである】
(↑ 以上。ママの抜粋転記 )

又。同誌面の「 I 副本」は、いつもいつも微笑を絶やさず…
愚壮如きの振舞を見守り、賛同して下さった。勿体無い限りである。

感動と興奮の「愚壮」に、家人は言う…(概意)
「【7・17】は私達の原点。これは、骨子・大綱です。
その根本は、第一面の『わが友に贈る』にある【題目根本】です。」

私は深く同意し、即時『塩飽の王(但し女人)』御編纂の『風景』を辿った。

「あった」 それは、今から六年以前の『忘れ得ぬ風景』であった。
謹んで転記する。 (謹む…とは、当然、『池田名誉会長』への言である)

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> 2006/07/17(月) 05:51:30  再掲(一部校正)

不快な熱帯夜が続いている。   【7・17】を告げる太陽が在る。
息を殺すが如く、先程より私は風の動きを探ってはいる…  微風すら無し。

あの日も酷暑であった。と、※@先輩の副支部長は言う。
(※@ 2007年7月23日 早朝御逝去 享年76歳  通夜式・告別式⇒愚壮奉行)
『池田先生が出獄された日の夕刻、信じ難い豪雨を体験した』…と。

昭和32年7月17日。  
姿無き魔性は、第二代創価学会会長・戸田城聖の獄殺を断念す。

昭和18年7月6日には 
初代・二代を同時に捕縛する事に成功した官憲は、牧口に与死。

昭和20年7月3日。
巨躯偉人(戸田先生)は孤高の出獄を余儀なくし、『我、師を殺す』と、慟哭す。

昭和32年7月3日。  官憲の真意は『戸田の捕殺』
終戦時。官憲が一旦 殺し損なった創価学会。
然し。創価学会は『不世出』の師弟道の中に現存している…

弟子は死身。 師を厳護申される。   これが 【7・17】だ。 
戸田先生をして『第三代会長を護れば学会は不壊』との真意がここにある。

『作獅子吼』
豪雨の中ノ島公会堂に目撃の大阪の庶民は、「会座」への証人か。

ともあれ、「7・3から7・17」を語り継いでいく我々は、心せねばならぬ。
そは。「7・6  7・17」を抜いては、炎熱は語りきれてはいない。…である。

[676] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月17日 (火) 21時06分

【7・17】に関する記述は、まだあります。
以下は『東北健児・紋様』の御投稿がそれであります。

『忘れ得ぬ風景』掲示板・あしあと帳♪より抜粋引用しました。

324 名前:紋 投稿日:2009年03月09日 (月) 00時38分

( 以下は、全て『紋様』の文章であります。 )
※小説『人間革命』第11巻<大阪>から
大阪大会はこれで一切の式次第は終了したが、
場外の一万人の同志は、そのまま立ち尽くしていた。
−(中略)−

急に激しい拍手が沸き起こり、歓声があがった。
見ると、玄関の上の2階の窓に山本伸一が身を乗り出して立ち、扇を振っていた。
−(中略)−

この日、朝から演奏を続けていた音楽隊は、最後の力を振る絞るように、
ここぞとばかりに、高らかに躍動の調べを奏でた。
力強く『日本男児の歌』が演奏された。
ドラムを叩く者の手には豆ができ、吹奏者唇をはらしていた。

そのとき、山本伸一が玄関口に姿を現した。
見るまに表の階段横の石の上にあがると、扇子を手に歌の指揮を取った。
伸一は、自分のために
嘆き、悲しみ、怒り、祈ってくれたこの関西の同志を心から励まし、勇気づけたかった。
たちまち大合唱が起こり、歌声は公会堂をつつみ、夜空に舞った。

『紋ちゃん』! ワシは、いつも待ってるんやでー。

[677] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月18日 (水) 04時41分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第4回 『第二代会長 1』  

この章こそ、正に。
秘録『若き指導者は勝った』の白眉である。

昭和25年(1950年)8月23日
遂に この日をもって「東京建設信用組合」の業務停止命令が下った。
郵送での命令(大蔵大臣行政命令)は、昭和25年(1950年)8月22日付。
この設立が昭和24年12月4日であるから、8ヶ月半ほどの短命である。

「東京建設信用組合」の負債額は、約七千万円(現在の換算・25億円)
一般世間では、この時点で「戸田」の命運は絶たれたと言ってよい。

その翌日。昭和25年(1950年)8月24日の実景が以下であった…
【 法華経講義に、一区切りつけると戸田理事長は切り出した 】
…とある。
それは【 常(平常)と変わらない声だった 】と証言者は言う。


戸田は、こう続けた。
【 思うところあって、創価学会の理事長の職を
              今日限りで辞任することにしました 】

上記は「法華経講義」を終えた直後の発言である。
つまり…、この発言を聞いた者は、多く居たのである。
別角度で言及すれば、上記【思うところあって今日で辞任する】とは
「似非弟子・矢島周平」が表舞台に登場する瞬間でもある。

当然、僅か三年前の同じ8月24日に入会した池田青年も居た。
(この瞬間の池田青年の心境は、言い表す方法がない)
が然し。 この「秘録」を、ここで中断する訳にはいかないのだ。

************************************************************

その瞬間の池田青年の心境とは、下記である。
【 彼(池田青年)は瞬事に、事の重大さを知った。】
と、(後世・池田名誉会長談)述懐され、引き続いて
【 戸田先生は、全て(の責任を)一身に負う覚悟である 】と、
戸田の心の中をも見抜いている。

************************************************************

この上記の「史実」。
即(すなわ)ち、戸田の事業の壊滅的現状と「戸田理事長の辞任」
更に、次の瞬間に展開され「刻印」された『永遠の師弟の契り』。
これらを厳粛に見極める時、私達の脳裡に去来するものがある。

…それが『仏意』であり『仏勅』であるという「深義」である。
誠。これらは、土壇場ギリギリまで 読み取れるものではない。

************************************************************

理事長辞任を表明し、後任理事長に「矢島周平」を指名し…
戸田は…中二階の部屋に消えた。
その直後であった…。   後世に永遠に語り継がれるべき情景が起きる。


次の瞬間 『池田大作青年』は、こう思った。
「恩師に確かめたい事がある…」と。

【 どうしても確かめたいことがある。ギシギシときしむ階段をのぼりはじめた。
(中略)声をかけると、奥から「師(戸田城聖)」が 身を起した。 】
弟子はここで、絶対に確かめたかった事を聞く…

【 …戸田先生、理事長が矢島周平に変わると、
自分(池田青年)の師匠も矢島になってしまうのでしょうか。 】
この問いを、戸田は言下(間髪を入れず)に否定する。
【 (いや 大ちゃん…それは違うよ)苦労ばかり掛けてしまうが、
君の師匠は ぼくだよ… 】  ☆(ここが本章の『白眉』である!)

愚壮は言う。
この「愛する弟子の思い」に対する「師」の即答の瞬間こそ。
「弟子」が『師弟不二』を、(否! 言い換える)「池田青年御自身」が
『在在諸仏土常与師倶生』と言う『仏言』を身読した瞬間と拜する。

池田青年は然し。この時、もっと強い確信があった。
それは、次の本文(取材記者の解説文)に顕著である。
【 (君の師匠は ぼくだよ。という)解答が返ってくることを、
池田青年は確信していたにちがいない 】

************************************************************

ここで愚壮は、後継の青年諸氏に御確認の意味で謹述したい事がある。
それが、『師弟不二・在在諸仏土常与師倶生』そのものの文言である。

『弟子から師匠へ』
【 古(いにしえ)の  奇しき縁(えにし)に   仕えしを 
  人は変われど    我は変わらじ 】

『師匠から弟子へ』(二首あり)
【 幾度か   戦の庭に   起(た)てる身の
  捨てず持(たも)つは   君の太刀ぞよ  】
【 色は褪せ   力は抜けし   吾が王者
  死すとも残すは   君が冠  】

************************************************************

上記の「和歌」は  胸中の琴線を、そのまま吐露した「珠玉」である。
更に直後。 池田青年の言葉は平易な中に、「燃える決意」に満ちている。

【 矢島さんではなく、戸田先生に必ず創価学会の会長になっていただきます。 
そのために 私が全力で戦い、(戸田先生を)お守りします 】
「師弟不二」「師弟不二」というけれど、本当の「師弟不二」を貫く事は、
役職や経験や教学などには無関係の場所 ⇒  『師匠を求める心』にある。


昭和25年10月初旬。
「東京建設信用組合」の残債処理の受け皿として「大蔵商事梶vが設立された。
場所は、これもやはり『西神田』である。

この時期の「師弟」(昭和25年の後半から昭和26年の初期)は、
空前絶後の苦闘の渦中であるが、余りにも悲惨で不記とする。

昭和25年11月27日。
池田青年は「大蔵商事梶vの営業部長に就任している(部下⇒0)
この時。弟子・池田青年 22歳。

第4回 『第二代会長 1』  D完 

[678] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月19日 (木) 04時38分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第5回 『第二代会長 2』  
この章では、前半の殆どと、後半の約半分を割いて
「忘恩の徒輩・矢島周平」を語っている。

これ(矢島)への糾弾と、この手の人物の「虚像と実像」を峻別しなければ、
「師弟不二」等、語る資格は無い。と断言する。  
悪への糾弾とは、間違いなく「歴史の変遷の機軸」を把握し、
その全体を、確実に咀嚼していなければ、出来ない事なのだ。

更に又。「咀嚼」し切るには、相応の「理論武装」を備えなければならぬ。
…なぜかならば。
中途半端な史観は、必ず「足を掬われ」て、己が浅学の馬脚を現し、
確実に「自滅」するからである。

☆後世に「正論」「王道」「規範となる真の沿革」等を寸分の狂いもなく、
これを継承しゆく事は、かくの如く「至難中の至難」である。

現に…。
『宗祖・日蓮大聖人』御在世と、同じ時空間に同居しつつ、
『師恩』に報いず、反(かえ)って反逆する「直弟子擬(もど)き」が居た。
これ等の史実を学び確認する度に、諸賢は「実に空しい」と思われた。

『このままでは、実に空しい…』と、「正史」を学ばれた人も居れば。
「正史と誤謬」を混同して敢えて添削の労を厭うた人も居た。

愚壮はここで、「改竄史」をママ伝えた「伝持の人の怠慢」を糾弾する。

氾濫しすぎた誤伝とは、「肥大した我田引水」の上塗りである。
ここからは、取り返しのつかない「悔恨の呻(うめ)き」さえ聞こえるのだ。

卑近な例として(※ 鬼籍含む)多くの「似非学会員・公明議員」が実在した。
然し。決まって  「私等だけが悪いのか」と彼等は揃って言う。
「これらは皆、信頼に足る同志である」と、吹聴した者にも罪があると言うのだ。
この論方は、最近氾濫する「訳のわからんヨタ吹きの輩」の特技でもある。

『矢島周平』という「師敵対」の人物が行った行動は明快である。

では、『青年・池田大作』は、その時 どんな行動をとったのか。
【 だれが本当の師匠か分からなくなっていた学会を
一人の青年が救ったのである 】  答は必然「明確」であった。

************************************************************

扨(さて)。この矢島周平。
この男が正式に理事長に就任したのは、昭和25年(1950年)11月12日である。

昭和10年の正月、牧口初代会長に破折された時
矢島は自ら信奉する共産主義を捨てた。
牧口先生に救われた「矢島」は、戦時中の「学会弾圧」によって投獄された。
( 富士宗学要集 第九巻 御参照 )

『学会弾圧』で投獄。とは 誉れある「殉教」である…が。
「殉教」という千載一隅のチャンスを、矢島周平は捨てた。

以下は、最後は戸田先生から理事長職まで盗った『矢島周平』評である。
【 矢島は軍部政府の弾圧に屈した 】
これは、絶対の「師敵対」である。

【 (矢島は)共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨てたのである 】

【 そのまま学会ち縁を切るかと思いきや、
戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。
女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている 】

【 これだけの変節をして尚、混乱のすきを突いて理事長になるとは、
相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。  】

【 物わかりのいい顔をして、若手の歓心を買う。
いずこの組織にも、ありがちな先輩である 】

************************************************************

…やがて…「戸田城聖」は一旦去る。
それは、「似非弟子・矢島周平」の新理事長就任の二ヶ月後であった。
その折の証人は言う。
「まるで、追われるように西神田を去られた」と…。
これが、昭和25年の12月だ。

************************************************************
ここに、「大蔵商事梶vの事務所は『新宿百人町』に移った。
戸田と同行した者は池田青年以外、2・3人の戸田の親戚のみ、と伝わる。

※ ここで、昭和25年12月12日の池田先生の『若き日の日記』を繙く。

☆ 若き日の日記 ☆
【 昨日まで、水魚の仲の親友も、今日は、腕を振るう敵となる。
今朝まで、心から愛していた人が、夕べには、水の如く、心移り変わる。
先日まで、親しく会話していた客人も、
一瞬の心の動揺にて、血相を変えて怒る  】

************************************************************
「まるで、追われるように西神田を去られた」という戸田先生。
この事を「忘恩者・矢島周平」はどういう行動で反応したのか。
本文では下記と記述する。
【 矢島にとっては一世一代のチャンス到来だった。百人町に移ってから、 
戸田城聖が西神田の本部に現れる回数も減ったのをいい事に…。 】
矢島周平が企てた、この時の手段は「師弟」の更なる乖離策であった。

師匠と弟子を分断する事が「組織解体」の早道である事を、
矢島周平は獣の如く、本能的に嗅ぎ分けたのだ。

『乖離策』といえば…。
忘れもしない 昭和54年4月24日。
宗門と学会幹部(一部)が結託して引き起こした事件だあった。
『池田大作創価学会第三代会長』を辞任せしめた暗部に乖離策がある。

この事件の構図(狙い)は、
『若き指導者は勝った』の実景を「根本的に覆す意図」があったのは明白だ。
この「根本的に覆す意図」を  『正史の改竄』というのである。
( 『若き指導者は勝った』が『正史』である事への確認が上記 )

とまれ、この昭和54年の「事件」から…僅か29年前におきた事実が、
『戸田理事長辞任事件』である。
では。この事件に「共通点」はあるのか。

『池田大作創価学会第三代会長』勇退の際の最高幹部の弁は、
「時の流れには 逆らえません」であった。

それは、『戸田理事長辞任』の際の…
【 だれもが あきらめ、傍観していた 】に符合する。

「誰もが皆、傍観していた」…   想像も出来ない事が起っていたのだ。

本文は語る…
【 矢島の増長をたしなめ、その暴走を食い止める者もない。
( 矢島の増長 ⇒ 「戸田先生」の事を「戸田君」と名指しした事など ) 
当時の学会首脳は、遠巻きにして「洞ヶ峠」を決め込むばかりである 】
※「洞ヶ峠」⇔(旗幟・立場を明確にしない事  見て見ぬ振りをする事)

その時、「池田青年」は末端に居て何を思ったのか…。

【 誰も「戸田先生」と言わなかった時、
私が一人 「戸田先生、戸田先生」と叫び続けたんだ。
師匠の名前を呼ぶ。叫ぶ。 これが大事なんだ。
「戸田先生」と叫ぶことで、私は学会を守ったんだ 】(後年の述懐)

************************************************************

危うく「矢島」に乗っ取られそうになった学会を、22歳の池田青年が救った。
『新宿百人町』…。
この町こそ、「師弟不二」を貫き通した「原点」  つまり…。
『戸田理事長』と『池田青年』の「反転攻勢の原点の地」となるのだ。

第5回 『第二代会長 2』  E完

[689] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月20日 (金) 04時21分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第6回 『第二代会長 3』  

『時代と背景』より抜粋
【 民主化が始まる。     信教の自由も認められた。
戸田は、マッカァーサーを「梵天」になぞらえ 弘教を開始した 】
( ※ マッカァーサー ⇔ マック・アーサー将軍の事 )

『時代と背景』を最初に紹介したのは…。
それが…「師弟」の今後の、広大なる構想を語る場面の骨子であるからだ。

本文では、この骨子に則って述べている。 
 例えば『西神田』…。
【 神田は学生の街である。 
戸田城聖の事務所から外に出れば、専修大学が見えた。
日本大学までも 歩いて数分である。
駿河台の なだらかな坂をのぼっていくと 明治大学があった。 】

この記述背景の時期は実を言えば、特定されている。
それが 昭和25年11月16日なのである。

昭和25年11月16日といえば、「矢島周平」が新理事長に就任してから四日後。
「戸田」の引責とはいえ『創価学会理事長』の職を辞任して四日後…。 
常人なら、とことん落ち込んでいる筈である。

本文を続ける。
【 (昭和25年)11月16日、日本大学の学生食堂で、
創価大学を設立する構想を(戸田城聖と池田青年で)練った… 】 
これが、切れ目のない大難の渦中の「師弟」の会話とは、信じがたい。

大学設立の構想の会話は、下記と続いている。

『戸田城聖』 ⇒ 「大作、頼むよ」
『池田青年』 ⇒ 「必ず創ります。世界第一の大学にします」
【 …こんな風に、安いメシをかき込みながら しぜんと話が弾む。 】

以下も同じ時期の会話。
【 (戸田の発言)新聞をつくろうよ。 機関紙をつくろうよ。
これからは 言論の時代だ 】

【 はた(傍・外部)から見れば噴飯もの… 】と、手厳しい。
又。【 はた 】とは、戸田・池田以外の学会員も、これに入るのではないか。

本文の手厳しさは、更に続く。
【 何の資金もないのに、大学をつくる、新聞をつくる。
(どう見ても)正気の沙汰ではない 】

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が…。 「弟子・池田大作」は、決して(戸田の構想を)聞き流してはいなかった。
本文 ⇒ 【 しかし池田青年は 本気で受け止めた。
たとえ冗談のように聞こえる言葉でも、一つ残らず実行した 】

本文は、そのほか。
「徳川家康」の事。 「GHQと高級車」の事 等々、是非 拜読して頂きたい。
必ず、唸るほどの価値がある。

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昭和26年(1951年)1月6日
【 債権者に戸田は告訴された。 】
この時 「弟子・池田青年」 23歳。

この日(昭和26年1月6日)の「実録」は、非常に重要。且、甚深だ。

読者諸賢は、本年2月11日付の聖教記事。
『創価班・大学校入卒式』での「渡辺委員長」の発言を御記憶であろうか。
( 渡辺委員長の発言は、本年5月31日の『風景』投稿文でも触れたが… )
もう一度、改めて その発言の精髄部分を記述しておく。 ↓
≪ 本年、1月6日が「創価班、師弟誓願の日」に決定しました(中略)
この「1・6」は、51年(1951年 昭和26年の事)に、23歳の池田先生が 
恩師・戸田先生から公私にわたる一切の後事を
託された日でありました。 ≫(以上 聖教新聞抜粋)

債権者に告訴された日。(昭和26年(1951年)1月6日)
一体、何があったのか。 又。『61年後』の「創価班・大学校入卒式」で、
「渡辺委員長」が、「61年」も以前の事を、何故言及したのか。
…つまり。ここでも、あの「符合の妙値・61」が 再び姿を顕らわすのだ。

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『若き指導者は勝った』に話を戻そう。
( 「公私にわたる一切の後事を託された日」は本当にあったのか )
少々長文になるが、2009年1月13日付の本文を以下、転載する。

【 1月6日の土曜日、師(戸田城聖)の自宅に呼ばれた。
大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、
戸田と妻のほかは、だれもいない。 (中略)

…心労から戸田の頬はこけていた。       万一の場合、
学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
弟子は、すでに一生を師匠の捧げる覚悟ができていることを述べ、
大楠公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合せた。(中略)

しばらくあとの日記に、(池田先生は)こう記した。
「 師 弟 ノ 道 ヲ 、学 会 永 遠 ニ 、留 メ オ ク コ ト 」  】

… 正に。 『凄絶』の一語に尽きる。
( 私「愚壮」は、この瞬間に重ね合せた御聖訓がある。 ) 
それが、『日興遺誡置文』である。 
曰く。 
【 下劣の者為(な)りと雖(いえど)も 我より智 勝れたる者をば 
仰いで『師匠』と す可(べ)き事。 】『日興遺誡置文 1618P』
( 上記は『戸田城聖』の、あくまでも…「己心の達観」である。  
「戸田城聖」の弟子は、『池田大作創価学会第三代会長』だ )

若干読者が、話が逸(そ)れている様に勘違いされておると思うが。↓
池田先生が今。諸会合で好んで「大楠公」を弾かれる意義は、
この 昭和26年1月6日の実風景に、その意義が隠されているのだ。


私(愚壮)は先程。「池田先生」の若き日の日記に少し触れた。
【  「 師 弟 ノ 道 ヲ 、学 会 永 遠 ニ 、留 メ オ ク コ ト 」  】である。 
…もうひとつある。↓
【 謗る者は 汝の謗るに任せ 嗃う者は 汝の嗃うに任す (以下 略)】…

然し。事態は急変する。
「東京建設信用組合」の解散が、大蔵省から認められたのである。
つまり…戸田の法的責務が一切消滅し、当局への出頭さえ避けられたのだ。

ここで初めて、『戸田城聖第二代創価学会会長』誕生が敢然と焦点になる。

第6回 『第二代会長 3』  F完

[693] 題名: 名前:河内平野 投稿日:2012年07月20日 (金) 17時40分

愚壮さんのすばらしい考察と史実の提示。

読んでいて勉強になります。がんばってください。

[699] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月21日 (土) 04時49分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第7回 『第二代会長 4』  

『時代と背景』欄よりの抜粋。
【 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に(池田青年が)躍り出た。
蒲田では 月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った (中略) 】
更に『時代と背景』は記述する。
【 最下位クラスに低迷していた支部も A級支部に押し上げた。 】

上記の記述は「伝統の2月」と、後世に語り継がれた『史実』である。
時期は、昭和27年(1952年)2月。

実は、この同じ時に、もう一つの大きな流れが起っておる。
それが
『昭和27年2月1日 白木義一郎が大阪支部初代支部長』に就任した事である。
正確には「大阪支部長心得」という役職名であった。
これが今に曰う『常勝関西』胎動の日である。( 以上 『時代と背景』より )

本『若き指導者は勝った』の順序としては、少々話を遡る。

************************************************************

昭和26年(1951年)5月3日。
『戸田城聖』は『創価学会・第二代会長』に就任する。
矢島周平に理事長職を奪われたのが、昭和25年11月12日であった。
この、約165日前後、「創価学会丸」は、船長不在の航行を続けた事になる。

ここで、本章の冒頭の記述を述べておこう。(池田青年の役職の件)
【 大将軍を先頭に進撃が始まったものの、兵站を考える者は誰もいない。
そのため(兵站を考える事)、最末端の役職にとどまる。 】
(最末端 ⇒ こう言う方は、余り好まないのは余談であるが…)

この「池田青年の男子部班長」の役職であるが。
昭和27年5月3日の「香峯子」との結婚式当時も、そのままである。
役職の事は、これで終っておく。

【 苦境の戸田を支え、復活の活路を開き、
矢島周平の野望を砕き、第二代会長に就かせたのは、
池田青年に ほかならない 】
この証言記述こそ、私は…『若き指導者は勝った』の根幹と位置付けている。

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とまれ。創価学会をば「矢島周平」の手から奪還する事ができた。

時 恰(あたか)も・昭和26年(1951年)5月3日。
『戸田城聖第二代創価学会会長』が誕生した。
その「推戴式」の当日は、天も寿ぐの「大晴天」であったと「史実」は伝う。
( 於・東京向島 日蓮正宗寺院「常泉寺」 )

※ この『戸田第二代会長・推戴式』を「知らない!」と言い切る者が居た。
( 居た。とは驚くが…実際に「居る」のである )

この「池田青年」の獅子奮迅の事実を「不知!」と開き直る者こそ
当時の青年部の先輩幹部達(自称牧口戸田門下生・似非弟子群)であった。

彼等「似非弟子群」は、その後も池田青年に嫉妬し、苦しめた。

「我こそ 牧口・戸田門下生と言って憚(はばか)らなかった。
池田先生が『創価学会第三代会長』に御就任された後も、それは続く。
極端な輩は、現職会長の事を「池田さん」と呼ぶのである。

閑話休題 。
『新宿百人町』が「反転攻勢の原点の地」…つまり『礎(いしずえ)』である。
その証左に、戸田の事業は 新しい段階に入っていく。

先ず。事務所が「新宿百人町」から『市ヶ谷』の貸ビルに移転した。

『市ヶ谷』には、三箇の意義がある。
@ 戸田の個人指導の室
A 学会本部分室
B 聖教新聞編集室
新進創価学会の原点である。

いよいよ。戸田の構想が表舞台に躍り出た。
【 機は熟したか…。 (戸田は)重大な決断を下した。
「大作を(正面に)出しても いいころだな…」
戸田会長は 池田青年を組織の第一線に出す。 】

第7回 『第二代会長 4』  G完

[701] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月21日 (土) 16時27分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第8回 『 水滸会 1 』  

「市ヶ谷分室」の誕生に併せて復活した、学会の伝統がある。
@ 戸田大学
A 個人指導(1対1の対話)
この上記、二点である。

就中。@の戸田大学では、「人材育成」にもっとも重点が置かれていた。
『人材育成』の中で、有名な その一つが「早朝講義」であった。
これは、戸田出獄の直後から始まったものの、重点は法華経講義であった。
ところが…この「法華経講義」に、じつは『落とし穴』が存在した。

本章では、『落とし穴』の事に触れてはいないが、事実は知るべきであろう。
戸田が戸田自身を痛烈に省みた文章は、これは多く存在している。
最近の書籍では、潮出版社発行の『偉大なる「師弟」の道・戸田城聖』がある。

ここで『落とし穴』の概略を記述しておく。
「出獄直後の戸田の「法華経講義」は天台臭味(正・像の法華経)が色濃かった。
この事が結果、戦後の新興宗教の跋扈を許した。
のみならず、戸田本人の事業の破綻をも招いた」
戸田城聖が塔中で、御宝蔵に向って懺悔の唱題に、夜を徹したのがそれである。

『王法である法華経』ですら、その「弘教の細目」に強い束縛の法理がある…。
言い替えれば…。   大凡 総て、宗教には厳然とした不動の掟がある。
それを⇒五綱といい⇒教・機・時・国・教法流布の先後という「リトマス試験紙」である。
宗教の「曰う 魔性」とは、ここにある。 然し…話は今。元に戻さねばならない。

************************************************************

戸田にとって  池田青年は「懐刀」である。
これを第一線に躍り出させる…の意図は、青年部の嵩上げにほかならない。
戸田が、この事(人材育成)に全魂を傾注した訳が、ここにある。
而して…『水滸会』が必然と登場する。

「水滸会」とは…。
帝王学であり、強靭なる人材城構築の矩計(カナバカリ)であったと言える。
又。「水滸会」には、厳しき(普通の実生活では語れない)「掟」があった。
この『掟』を、「現実離れしている…」と見れば、 それは…見る人の底が浅い。
つまり、この「水滸会」には意図のママ 『絶対に妥協を許さぬ 掟』を位置付けた。

この『水滸会』の章の記述が、何故重要な意味が含まれているのかは。
「第二代会長」よりも多くの紙面を割いている事に想いを寄せていだだきたい。

************************************************************

扨(さて)。  市ヶ谷分室。
ここが「水滸会」の主戦場であった。

少々ここで、「水滸会」の実像に迫ってみるには、規範の記述が手っ取り早い。
T 時間厳守 (一分一秒たりとも遅刻厳禁)
U 今日の仕事を全部やりきって参加
V 仕事も活動も ゆるがせ(緩枷)にしない
W 周到なる準備
X 発言内容に責任を持つ
Y 全会合を通じて 絶対にメモは許さない

これは愚壮の「独り言」じゃが… 特段 E番は意義が大きい。
『メモ』⇒「地元の学会員さん」に正しく伝えるの為には、これは絶対要るが、
「味噌 糞」のメモは、これは「紙とペン」が聞いているだけである。

「水滸会」への戸田城聖の基本理念は、戸田が常に言った事で判る。
【 要するに、人材を見極める力が必要なのだよ。
そうでなければ、適材を適所へ出すことはできない 】

一回の会合の所要時間は、約 2時間であったと伝わっている。
そして、最後には 池田青年の指揮で合唱をした…。と伝わる。
合唱をした…。 すなわち 歌の名は『星落秋風五丈原』


身の引き締まる如くの その『風景』を、本文に求める。
【 …池田青年の指揮で『星落秋風五丈原』の合唱が始まった。
戸田会長が 最も好きな歌である。
( 戸田は…)ふたたび腰をおろし、静かに目を閉じた。

四番、五番の歌詞にさしかかると、おもむろに席を立つ。
池田青年が先導し、歌声に送られて 退場した。… 】

第8回 『 水滸会 1 』   H完 

[705] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月22日 (日) 06時26分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第9回 『 水滸会 2 』  

先ず。本章の大綱を『時代と背景』欄に求める。
昭和27年(1952年)10月21日。
戸田会長は最初に、女子部に対しての人材グループを発足させた。
『華陽会』である。

************************************************************

上記。『華陽会』の発足から57年後に、『池田華陽会』が発展的再結成されて、
誉れの「女子部・登竜門」として、世界規模で昇華されている正史を知る者として、
誠に慶祝の至りである。

************************************************************

本章に戻る。
「水滸会」の結成は、昭和27年12月とあり、 当初の陣容は38名。
因みに、池田青年の結婚は、昭和27年5月3日。(再掲)
又。当時の池田先生の青年部での役職は「班長」(再掲)であった。
( 男子部 第一部隊長就任は 昭和28年1月である )

ここで本文の抜粋
【 新たに発見された 水滸会の資料… 】とある。
一体、どのような資料であって、そこで一体。何があったのか…。

【 学会の目的である「広宣流布」を論じた個所もあるが… 】
上記の文言でも予想されるが如く、「水滸会」の論点が言い及ばれている。
それが「多岐に亘る、実学の事」である。

【 日本民族論や革命思想、戦争、指導者、処世など、
外に話を開いた項目が目についた 】
つまり、とことん実学を重んじている。
⇒ 【 観念論など無い 】とは、断定である。

************************************************************

時代は混沌としている…。
敗戦で、一切の価値観が崩壊し尽くしている…。
結句。青年は枯渇している…。

「水滸会」の存在は。
そんな青年達の、枯渇を満たしきる道場とも言えた。
が。

やがて…、青年達の心に。
「我々は稀有の師匠の膝下に集っている」という「自負心・増長」が芽生える。
増長が慢心に増殖しつつ変幻した半年後。「水滸会」は解体される。

冗長沸騰の「紹興酒」の件(くだり)で、遂に戸田城聖は烈火の如く憤怒する。
激怒の戸田城聖には、既に翻意は無い。

唯々「オロオロ」する青年達を、見事にまとめて、三項目の誓願を立てて、
( ※ 『三項目の誓願』は、記述には躊躇する。是非、読者諸賢の身読を願う。 )
この、悠久の青年塾 「新生水滸会」の再発進を実現させた青年が居た。

この人こそ、25歳。  「稀有の弟子」池田大作青年。その人である。

************************************************************

再出発した「新生水滸会」は、大脱皮の形態を示した。
【 ( 新生水滸会は )人選、教材の選定、日程、討議内容など、
運営に関する すべてが池田青年を中心に進む 】

水滸会から脱皮した「新生水滸会」への記述は、続いていく。
【 戸田会長は水滸会を一時的に中断させた段階で、
すでに 新しい体制への切り替えを企画していたのかもしれない 】

意図的なる中断への真意には迫り難いが、言える事は…これはある。
つまり。最初の「水滸会」の中に、元来巣食う「功名心」を、生じさせる。
その「必然的に生じさせた功名心」を、切り捨てる。
その上で、「真の門下生」を選抜して「新生水滸会」を再び結成する。


これは、草創期の学会の青年部に対する『発迹顕本だ!』とは、
まんざら「愚壮」の勇み足でもあるまい。

ともかく、この本章全体を拜読するに…。
現今の「世界に飛翔する創価学会」の原点が発芽している事は確かだ。

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【 公明党の創立。創価一貫教育の完成。
民主音楽協会、東京富士美術館を両輪にした文化事業。
国際平和研究所の創立。 】
上記はすべて。
弟子・池田大作が「恩師・戸田城聖」の示した青写真を、
如実に顕現させた実像である。

「思い上がり」 「傲慢」 「増長」に対して…
過激に見えるほど厳しかった「新生水滸会」である。

はたして…。
その存在使命は、『何の為』にあるのか。

第9回 『 水滸会 2 』   I完 

[706] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月23日 (月) 04時37分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第10回 『 水滸会 3 』  

「新生水滸会」が再出発したのは昭和28年(1953年)7月。
この頃、朝鮮半島では 北緯38°ラインで同一民族が南北に分断されていた。

同じ時、東京・西神田の学会本部では「新生水滸会」が新出発する。
この43名が集った、芥子粒ほどの集団の目指すは何か。

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この集団のド真ん中に陣取った。痩身長身の壮年…。
「缶入りピース」を吸いながら、盛んに仁丹をボリボリ噛んでいる、
鼻の下のヒゲが、彼の風貌を柔らかくしているが…
青年達を見つめる眼鏡の奥の眼光は、厳父の如く厳しい。
一見。武将を思わせる切れ味を感じさせるが…
喋り口調は少々ベランメエでテンポがあり、人を惹きつける親しみがある。

これなん『第二代創価学会会長・戸田城聖』その人である。


…この日の教材は「長州(現今の山口県)」
戸田は、(講義の中で)
「幕末思想家・吉田松陰」とその門下生を描いた「作家・尾崎士郎」を言う。
【 (尾崎士郎は)日本の文学者の中では、
ひとつの思想を、ちゃんと持っている点で尊敬できる… 】

その、「ひとつの思想を、ちゃんと持っている」作家の作品。
戸田は「尾崎士郎の作中の人物」にも迫っている。

高杉晋作…【 面白いじゃないか。…悠々と指揮した晋作は、
よほどの大人物だ。 】…とした後、こう続けている。
【 我々の人生も、晋作のように 悠々といきたいものだ 】
( 高杉晋作は幕府軍への進攻の際、三味線を乱奏した(風聞)とか… 
この時。「歌⇔闘争士気…」 これを、フと結んだのは「愚壮」ならずともである )

戸田は更に続けている。
【 ( 彼等、幕末から維新にかけての志士は )国家の事のみを考え…
自分の事を考えていない。 】 
【 これでは駄目だ 】…と、一刀両断した後、青年達に言う。
( 青年達に言うよりも…この中に居るであろう『誠の弟子』に言った )

『師匠』とは実に、何でもない会話・指導の中で「ヒョイ」と正鵠を示す。

この日の「高杉晋作に事よせた」何気なく聞こえる会話。
実は…戸田会長の「新生水滸会」に於ける話の精髄を聞いていた弟子がある。

それが、昭和31年(1956年)7月6日。
あの『まさか!』を指揮した直後に「人知れず」起っている。
白木義一郎勝利に沸く「大阪」の地に、連綿「座を暖めず」山口に走った人。
勝利に酔う事なく次を目指した「池田青年」その人である。

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「新生水滸会」に話を戻す。
戸田のこの頃の発言は、そのまま「遺言」と捉えるべき…という。
【 千鈞の重みがあった 】が、その証左である。

その中の基本的な指導が下記だ。
【 人の信用を得る根本は 約束を守ることだ。 何を犠牲にしても、
絶対に約束をがっちりと守ることにより、 信用が得られる。
これは青年の絶対の社交術である。 】

この指導は、更に続いている。
【 できないことは、はっきりできないと断る。
引き受けたら、絶対にやる。
これが信用の根本であり、金はかからない 】

宿命転換の指導もある。
【 自分自身を、じっと見つめなければ宿命の打開はできない。
指導に際しても、宿習に悩む自分の姿を そのまま見せてやればよい。
決して偉そうな顔をしてはいけない 】( そこの御仁よ!聞いとるかい )

又曰く
【 人材を輩出させるためには、忙しく※させるのだ。
そうすれば 組織が若返る。 その中で
人材は 養成されるのだ 】(※させる、を勘違いの御仁、お前だよ…)


『根幹の指導』と捉えるべき発言もある。
【 東洋の広宣流布といっても、( 次下が非常に重い内容だ )
その根本は T対Tの個人折伏と座談会以外にない。(中略)
…学会は、
どこまでも 座談会を中心にした折伏が原則である 】

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又。現在「千客万来」で賑わう全国の会館を、願望する場面もある。


この章の最後には「新生水滸会」への戸田会長の思いが述べられている。
『師匠』を求める者は、いつでも来い。いつでも会長室に入って来い。
…が然し。「会いたくない」と断るのも、わしの勝手だ。
断られても会いに来るのも、又、お前たちの勝手だ。

学会青年部の特定メンバーが垂涎の「新生水滸会」から、
特権意識を排した指導である。


…が。この上記の指導を、「生命全体」で聞いていた弟子は、
誠に残念ながら、池田大作青年 たったひとりであった。

第10回 『 水滸会 3 』   J完 

[708] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月24日 (火) 04時39分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第11回 『 水滸会 4 』  

昭和29年(1954年)1月1日。
聖教新聞誌上に「新生水滸会」の存在が初めて一般に公開された。
この、聖教紙面に公表した伏線は、「尚。拭いきれない危惧」にあった。

読者諸兄に強く訴えたいのは…。
当時の「創価青年部」とて、油断をすると特権意識という「魔」に食われたのだ。
いくら「師匠」が偉人でも、その「弟子」が偉人とは限らない。
上記は、決め付けでも、格言でもない。 最も有りそうな事なのだ。
『聖教紙面に一般公表』には、戸田の強い特権意識への嫌悪感すらが見える。

では、当の「青年部」は どんな考えを持っていたのか。

『戸田城聖会長の膝下に、直接集わなければ、男子青年部ではない』
↑ これが、当時の男子部の実態である。
戸田が最も嫌った「特権意識」は、これは払拭されていないのだ。

※『マイ聖教を購読しなければ、活動家ではない』
↑ これが現在もある、一部・暴走の実態である。
いろいろの理由で、したくとも購読できない同志も居られるのだ。
師匠が最も嫌った「決め付け意識」は、払拭されていない。

【 宿習に悩む自分の姿を そのまま見せてやればよい。】
直上【 】内は、第10回 『 水滸会 3 』の戸田先生の指導だ。


昭和28年の暮。
「新生水滸会」の会場が、西神田から信濃町の「新・学会本部」に移ってからも、
この風潮(特権意識)は、蠢(うごめ)いている。
(これは愚壮の所感だが、この「特権意識」は「側近意識」と同列だ)

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そんな昭和29年(1954年)2月8日。     戸田城聖会長が倒れた。 
一説ではこの頃。
戸田の健康は、絶望的に損ねいたと伝わっている。
内科所見では五拾数箇所(ある記録では五十四箇所)の疾患があった。
(『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』や『小説・人間革命』参照)

戸田の寝汗の跡が、人形に濡れていたのも この頃の前後である。

いずれにしても、この昭和29年の発作は。
「戸田の余命」を限定するに、極めて重大な事態といわねばならない。

【 「大・大はいないか、大作は……」 熱にうなされながら
池田大作部隊長の名を呼びつづけた 】
これが、発作中の戸田城聖である。 

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【 「新生水滸会」での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく 】
↑の本文と、戸田先生への「池田青年の質問の内容」を拜読する時。
読者は膝を正す。

『 師匠・戸田城聖会長への質問 』
戸田の愛弟子・池田大作部隊長が聞きたかった「師匠」への質問とは何か!
…それが。『組織論』であった。

この質問に対する戸田城聖の指導は、あくまでも平易である。 ↓
【 水滸会( 新生水滸会 )のことだけを考え、
青年部のことを考えないようでは、それは いけない。
青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ 】

【 それだけではない。 学会のことのみを考え、
社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。
(学会も社会全体も併せて)大きく考えることが必要だ 】

上記の指導の直後戸田は、その達観・炯眼を吐露している。
( 以下は昭和29年の発言である )
【 宗門が崩れたのも 組織が老いたからで、
学会が発展してきたのは 組織年齢が若いからだ 】
( 戸田先生が昭和29年当時に、既に「宗門が崩れた」との認識だ )
↑は、非常に重く深い発言と断ずる。


「組織論」は更に。将来の創価学会についてダイレクトに迫っている。
【 学会も組織が大きくなり、
幹部が偉そうにしていることを 厳しく戒める。 】と言及し…
【 もし、そういう威張った幹部がいたら 知らせてくれ 】と。言い切る。

この時であった。
この時、池田大作は 更なる質問を電光石火としている。 ↓
【 先生。 (学会の)組織が 古くなった時には、
…どうしたら よいでしょうか 】

いずこの組織も、時と共に…  何かが忘れられていく。
池田大作青年の質問への『戸田城聖創価学会会長』の返事は
本文中の流れを汲みつつ、感じるべきである。

第11回 『 水滸会 4 』   K完 

[709] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月24日 (火) 04時59分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第12回 『 水滸会 5 』  

前章の「新生水滸会」の議論の中で、私達は何を学んだのか。
…それは。
弟子・池田青年の質問が急所(組織論)を衝き、
而して「師匠」の結論を引き出すという『師弟の阿吽の呼吸』を学んだのだ。

下記は前回割愛した本文である。
【 ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質問を起点に話を展開する 】

然し。実景では…「池田部隊長」の質問を待っていたかの如く、
戸田城聖会長が結論を展開している。
↑は、『御聖訓・作獅子吼』そのものを具体的に顕現する場面である。


『作獅子吼』については、『御書』を繙いていただきたい。
【 第五 作獅子吼の事 】 『 御義口伝上 748P 』

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「若き指導者は勝った」本文へ戻る。
【 「新生水滸会」の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点がある 】
この章で、いきなり捉えた部分である。
ここで編集の記者は、水滸会⇔指導会と捉えているが、私(愚壮)は図星と思う。↓

【 この指導会(水滸会)は、戸田城聖会長が第三代会長のために
構想を語り残す機会ではなかったのか 】これが急所かもしれない。

その証左は、戸田城聖の以下の「断定された発言」だ。
【 今に 三代目の会長が、この中から出るだろう 】 
↑に続いて、こう発言を補強している。【 明確に宣言した 】

「この中から出る」から続く「明確に宣言した」とは『断定の断定』だ。
つまり、戸田城聖には「芥子粒」ほどの躊躇(ちゅうちょ・ためらい)が無い。

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少々話が逸(そ)れるが…
1972年(昭和47年)10月12日。
総本山大石寺に建立寄進された正本堂の完成奉告大法要の際、
当時の日達法主が慶讃文を述べている。
その中で、正本堂の意義を、『本門(寺)の戒壇たるべき』と讃辞した。
この 『 た る べ き 』 も、断定の断定である。…が、これは余談である。

後世の日顕による「正本堂破壊」は、一宗の暴挙ではなく「人類・久遠の汚点」だ。

この場面で、選りも選って「宗門」の話は気が腐るので、水滸会に戻る。

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戸田の三代会長への「断定」は「指導会(水滸会)」の中で更に続いていく。
【 おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる 】
【 …したがって三代目は 非常に難しい事になる 】
【 三代目の会長は、この中から出るのだ 】


昭和26年(1951年)7月11日。
沛然たる驟雨に精鋭が集った…。それが「創価学会の屋台骨・男子部結成」だ。
その時の「戸田城聖」の至言を、よもや忘れたとは言えるのか。
曰く。↓
『今日 集られた諸君の中から、必ずや 次の学会会長が現れる』

漫然と上記の言葉だけに目を奪われてはいけない。
もっと深く考えて、この発言の背景・意図に想いを寄せよ!…と申す。

実はこの日(昭和26年7月11日)に下された、上記の発言の深義とは。
戸田自身の、己心の中の「牧口初代会長」との誓願への叫びでもあった。
読者は、考えても見ていただきたい…。
この日は『自らの会長就任』から起算して、僅か「六十九日目」だ。
そんな時点での、次期会長論。 凡人には想像すらできない。
…然し論旨の底部はそのような、活字に見える部分ではない。  
この「戸田会長」発言の真意は…
「時」は一瞬も停滞なく大河の如く流れている。 という事ではないのか。

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…が。
池田部隊長には、三代会長就任への拘泥等、当然 微塵の執着もない。
池田青年は今日も、渉外の闘いに「疾風」と勤(いそ)しんでいる。
つまり、この頃の池田部隊長には、恩師・戸田城聖会長の指導すら聞けないのだ。

この章に記述の  「池田青年の本音」を見落としてはならない。
【 一度でいい…。一度でいいから、戸田先生の講義を、
席に座って 最後まで伺いたいものだ。 】
この池田青年の本音は、もうひとつある。
「私は、ずっと無名のままでよいから、なんとか「戸田先生」の役に立ちたい」

そのような「健気の弟子」を、戸田城聖は表舞台へ引っ張り出す。

実は、この(弟子を表舞台へ引っ張り出す)事には、重大なる伏線がある。
それが、戸田自身が若くからの秘めていた大確信の「実像の飛翔」である。

曰く⇒  以下・青娥書房:若き日の手記(大正7年3月18日)抜粋
【 地の利にある。(中略) よろしく座を阪神とすべし。
阪神の地これ商工の中心…  62P 】とある。
つまり戸田は、19歳(1919年)にして既に
『阪神(関西)』に「座(拠点)」をつくるべし。 と、言い切っていたのだ。

而(しこう)して… 戸田城聖は「池田大作」を表舞台へ引っ張り出したのだ。
そして…その『表舞台』とは ⇒ 『大阪(関西)』であった。

この事実・この正史を、後世に「デングリガエシタ」大バカ者が実在する。
              ↓
『関西の重要性を戸田先生に具申した池田先生』という『ヨタ(我田引水)』は、
中村 薫・著・青娥書房:若き日の手記が、木っ端微塵に粉砕するのである。

第12回 『 水滸会 5 』   L完 

[712] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月25日 (水) 04時46分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第13回 『 大阪の戦い 1 』  

『時代と背景』より
昭和27年(1952年)2月1日。 白木義一郎が「大阪支部長心得」として赴任した。
(この白木義一郎は、現役(当時)のプロ野球の投手であった事も話題になった)
※ 白木義一郎⇒平成16年(2004年)1月24日 逝去 享年84歳

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前章(第12回 『 水滸会 5 』)での戸田城聖会長の発言骨子 ↓
【 第三代を守れば 広宣流布はできる 】 と、遺言した。

【 第三代とは池田部隊長を指す事は明白であったが、未だ公にはしていない 】

【 又、実学を好む戸田は、
大本営の作戦本部の建物の中で構想を練るタイプではなく、
最前線の幕舎のなかで戦いつつ作戦を立てる司令官である
(ということは)戸田の後継者も、そうでなければならない 】

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この章( 大阪の戦い 1 )から、池田部隊長の呼称が「池田室長」に変わっている。
( 言い過ぎる…といわれそうじゃが、この「役職呼称」の変化も、見逃してはいかん )


池田室長が、初めて大阪の地を踏んだのは昭和27年(1952年)8月14日。

8月14日。あの『日蓮仏法』根幹直射の即興詩 ↓ を詠んだ時と同じ日付だ。

【 旅びとよ   いずこより来(きた)り    いずこへ往(ゆ)かんとするか
月は沈みぬ  日いまだ昇らず 
夜明け前の混沌(カオス)に   光 求めて    われ進みゆく
嵐に動かぬ大樹求めて  われ 地より湧き出でんとするか 】…。

この詩歌を詠んだ日。つまり、生涯の恩師と邂逅を果たした運命の日。
この「五年後の符合の日」。 池田室長は初めて大阪の地に立ったのである。
こうして『常勝関西』の起点が「大阪」である事を、後世の皆が知るのであった。。

『関西』…       本章文末の短文を記述すれば…。
【 学会は「学ぶ会」と書くが、ここ(関西)には妙な序列もなく、
互いに助け合う 学校に似ていた 】

『 大阪の戦い 1 』
この章を深く咀嚼せずに、「何の為」の弟子かと断言する。

第13回 『 大阪の戦い 1 』   M完 

[713] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月25日 (水) 05時23分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第14回 『 大阪の戦い 2 』  

『時代と背景』抜粋
【 池田室長の御書講義により、関西の会員は短時日のうちに急成長を遂げる
昭和31年1月、大阪支部は 蒲田支部を引き離し、いきなり全国一を達成 】とある。

友の苦を自分の苦と受け止めて、唱題の渦の中で闘いきる折伏とは、
末法今時の最高峰の「行」である事は、御書・経文に照らして間違いない。
又これ(折伏の真理)は、その友が「御本尊」を受持する事を言うのではなく、
「あなたの悩みを、根本的に解決する仏法がある」と説き聞かせる事(下種)を言う。

「この事(行躰)が、彼我の生命に喰らい付いた「業」を切る。」
これが仏説。つまり『日蓮仏法』の根幹である。 他には何もない。
三代の歴代会長の指導も、決めて「この事」のみで、余は枝葉である。

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上記の『時代と背景』の基本を弁えて、『 大阪の戦い 2 』本文を学ぶ。 

【  昭和29年9月26日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった 】
この室長の御書講義に、関西の草創の友は、とにかく驚いた。

一体何に驚いたのか、整理すると…。
@ 新鮮この上ない。
A 講義なのに理屈っぽくない。
B (聞いていて)頭が整然と整理できる。
C 遠い存在を語るのではなく、現実生活を見つめる話である。
D 生活に密着している。
E ビシッと心に入る。
F なにか身体がウズウズして、動き出さずにいられない。
G 喜んで動き働くから、生活も改善される。
H なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語っている。

具体的な実証も多く出る。
驚くべき実証を突きつけられた壮年は、友人に言った。
( この ↑「驚くべき実証」とは、宿業から起きている病(病名・本文参照)の完治である )
「おい!池田室長の講義は、今までのんと 全然ちゃうでェ〜」とは実話だ。

中には、(関西人らしく)講義の休憩時間に、池田室長の御書を盗み見した。
そうして、こう吹聴したと言う ⇒ 「室長の御書   きれいやったでェ〜」

又。有名な女史は、自分の御書を持たなかったが…
池田室長からの、それに関する即興詩を聞き、大いに恥じて御書を求めた。
この「即興の和歌」が、どういう内容であるかは秘せられておる。

真逆の場面もある。
御書講義に、池田室長より遅れてダラダラと入室する青年部幹部には、
「その態度は何事だ!」 と、烈火の如く叱責し、幹部達は立ちすくんだ。
( こんなダラダラ光景は、こんにちでも時たま見受けられる… )

【 私は、師匠である戸田先生の名代として御書講義を行っている。
いつも戸田先生が、そばに居る思いで 講義をしている 】
誠に……。「師弟不二」を見る思いだ。

ここで、最近特に散見する『御書講義』の模様に、いちゃもんを言う。
( 先ず。「師匠の名代として御書講義を命じられた」という自覚が皆無だ )
( であるから、自分自身で御書に迫っていない。あらかじめの研鑚も当然無い )
( 解説文の棒読みで、感動もヘチマも当然無い。)
( 大体、全部「大白蓮華」でことを済ませ、「御書を繙く姿」も無い。)
( だから(…か、どうか 分からんが) 聞いておって苦痛である。)
上記は、ごく一部であるが…。 情けなくて涙がでる。

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『若き指導者は勝った』という一連の中に。余事を差し挟む事になるが、
以下は『御書講義』に関するもので、その点を読者諸兄の御了解を得た上で云えば。
記:「愚壮・風景」に何度か御登場願っておる「T支部長」は、刎頚の同志である。
私の現在の職場への御世話も、この人の斡旋が有ったからで、感謝は尽きない。
過日。その上記の支部で『壮年部・御書学』が実施され、愚壮が講師に命じられた。

会場は「T支部長」宅であった。
勤行が終って、小さな机に座した時に、「忘れ去られていた事」は起った。
司会の支部長が最初に立ち上がり、拠点側面の墨痕鮮やかな「大書」を先唱された。

箇条書きの文章は、数項目あったと記憶する。(詳細は今度確かめておく)
概ねの文意には…。
『御書』そのものの重要性の事
御書学に臨んで、予習をして参加する事
真摯な態度で受講する事…等。 大切な原点が書かれてあった。
その中で特筆すべき(全部大事だが…)記述が以下である。
※『御書講義』に携わる講師には、敬意の姿勢で向う事。とある

拜読唱和しつつ、(繰り返すが)私は思う。 『ここを、一部の同志は忘れている…』。

御書講義を受けるとは、『日蓮大聖人・三代歴代会長』に対面しているのだ。
『御書』とは、それほど重要で究極の御存在なのである。
埃まみれで 書架の片隅に放置したママでは、先哲の偉人に申し訳なかろう。
(↑ このような御仁は、無いと思いたい… )

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扨。本章の最後は、最高幹部への名指しの記述である。 
この、自称・戸田門下生たち(石田や竜)のインチキ振りは共通している。
「ほとんどの幹部が 号令をかけてばかりいた。」
「自分では動かない」
「そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりを あげつらい、罵倒した。」

上記の「似非弟子」の群れが実在する事が、「創価学会組織」の実状であった。
それは…
入会して日の浅い大阪の会員と、同じ目線で語りかける『池田先生』とは雲泥である。

この差・この一点の違い…。

池田大作室長が、常に貫いたであろう事とは。
『先生(師匠・戸田会長)なら、こんな時 どうされるであろうか』という思索だ。
その思索・基点が、池田青年の行動にはある。

【 自分自身を、じっと見つめなければ宿命の打開はできない。 】
    ↑ 第10回 『 水滸会 3 』での指導(再掲)
この上記の、戸田城聖の指導を「池田青年」は実践し続けていた。
私達が、心しなければならない事が、これであろう。

第14回 『 大阪の戦い 2 』   N完 

[715] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月26日 (木) 04時33分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第15回 『 大阪の戦い 3 』  

本文を語る前に、『時代と背景』の文章の根幹に触れておく。
【 昭和31年1月4日、特急「つばめ」で来阪した池田室長は
『大法興隆諸願成就』と脇書された関西本部の御本尊への勤行。
(その際)「戦いは勝った!」と獅子吼する。 (中略)
…その日の(池田室長自身の)日記には
「痛烈ある、全力を尽した指導をなす」と。
すべては 一念に億劫の辛労を尽しての指導だった 】

( 一念に億劫の辛労とは、一瞬の発露の中に無量無辺の労苦を観ずる事 )

「関西が鍵だ!」とは、戸田会長の背骨を貫く「大信念」である。
それは既に、戸田の「若き日の日記・獄中記」に明白である。

【 …よろしく 座を阪神(関西)とすべし… 】

【 世界に飛翔するためには、まず関西で勝ち上がっていくしかない 】

【 関西がカギだった。
ここを押さえれば、全国への展開は大きく開かれる 】
( 以上が、、戸田先生の「若き日の日記・獄中記」抜粋である )

************************************************************

そして、遂に戸田城聖は、行き着くべき「大結論」に至る。
【 だからこそ 青年部の池田大作室長を大阪の責任者にしたのである 】

この日(昭和31年1月4日)を基点に、全関西の同志は「発迹顕本」した。
それは、池田門下生としての「発迹顕本」。を指していた。
『池田大作室長』でなければならなかった…⇒ これが結論である。

例えば…在世の迹化の菩薩群が、末法濁悪の正法弘通を釈尊に乞うた時。
釈迦牟尼仏は、「お前達では無理である」と、言下に彼等の願望を拒否した。
(これは恰(あたか)も、戸田の次の会長は俺だと思っていた似非門下生と極似する)

「在世の迹化の菩薩群」云云は、御書にも明確に御教示になっているので後述する。
…釈尊が言下に拒否した理由は、四項目ある(復習の意味を込めて・以下)
( 四項目を通告された菩薩群には、誠に気の毒じゃが…) 
@ 末法弘通の大難に堪えられない。
A 菩薩自身の機根がない。
B 仏の記莂(符嘱)がない。(真の弟子ではない事)
C 時に適わない。(これが重要である…つまり、適時而已。)
『新尼御前御返事 905〜906P』 『曾谷入道殿許御書 1028P』
上記が釈尊が具申を拒んだ理由である。


愚壮が言いたいのは、下記の如くの事実である。
『池田大作室長が、直接 指揮を執るや否や…。
全関西の同志は、身震いをするが如く勇み立った』 という事だ。

「室長は神出鬼没や!」とは、私(愚壮)の知る草創の人の言葉だ。
( K市在住の草創の「池田門下生」であられる「Y先生」の回想 )

その「神出鬼没」の実態を、本章では 具体的な街の名を記述してある。


この間。
乗り潰した自転車は三台。
履き潰した靴は数を知れぬ。
激励指導に訪れた拠点は、一日 約三十軒。
会った人々の数は、八千人以上。

来る日も、又 来る日も…。
民衆の中に、庶民の中に 「室長」の勇姿が 舞いに舞ったのである。

その様な歓喜の「折伏行」に、不滅の金字塔が姿を現す。
それが! 昭和31年5月に達成した ⇒ 11,111世帯の史実である。

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今回の章の最後に、絶対に触れなければならない事がある。

【 室長が指導していると、電話が鳴った。
東京の戸田会長から 連絡のある時間だった。
その瞬間、
室長は機敏な動作で、腕まくりしていたワイシャツの袖を伸ばす。
背広を着て、ボタンも留める。
きちんと正座してから、受話器を取った。
…厳粛な姿だった 】

第15回 『 大阪の戦い 3 』  O完 

[716] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月26日 (木) 04時39分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第16回 『 大阪の戦い 4 』  

先ず。本文の抜粋から始める。

【 室長は行く先々で、人智を超えたような、  
いわゆる 神懸かり的な振る舞いをしたわけではない 】
…という事は、常の振舞いが「幹部面」していない。
(幹部面とは「かんぶずら」と読むが、これほど唾棄すべきものはない)

では…。池田大作室長の振る舞いを、本文から探りたい。
【 …むしろ 皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、
身をもって示し、教えた。 】

【 和気あいあいとした 一体感があるから、(室長の)指導が スッと胸に入る 】
↑ 関西の同志の、当時の率直な感想である。

************************************************************

池田室長は  行く先々で、歴史を残しつつ走り抜ける。
その「歴史」の主役が、『揮毫』であった。

当時 「池田青年室長」の認(したた)めた「書」はどうなっているのか。

『揮毫』の文躰は、ここでは紹介出来得ないほど多い。
( 愚壮が印象深く拜見したものが…『抜刀』 『誓』 『大勝』 『勇戦』 『大戦』等である )
それらは、今現在も当然。関西の草創の同志宅の仏間に「家宝」として鎮座している。

又。白扇への『揮毫』  これも、家宝として「鎮護」されている。

池田先生の師匠 「戸田先生」も又。心の襞に染み込む如きの『揮毫』を、
そのサラサラした中に骨格があって豪放磊落。かつ奔放たる書体で遺されている。

************************************************************

扨(さて)。     本章『 大阪の戦い 4 』で、最も重要な記述を書かねばならない。  
これは、池田先生が述べられた中で『最大の精髄・根幹』である。
【  もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、
大阪に一人でもいてはいけません!もし、そんな組織があれば、
担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!】

上記こそ これ『要の要 ・ 範の範』である。

池田先生の指導は、更に続いている。
【  平らな川の水の流れではない。
嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、
その岩を乗り越えていくような信心だ。
難を乗り越える信心をしていきなさい 】


昭和31年(1956年)6月12日(木)。
遂に「参院選」公示さる。

第16回 『 大阪の戦い 4 』  P完 

[717] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月27日 (金) 05時08分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第17回 『 大阪の戦い 5 』  

【 大阪市西成区に坂本 堅(さかもと かたし)という大工がいた。 】
…から始まる本章は、稿頭の段落で「池田室長」の指導者としての厳格が見える。
いや。   厳格と繊細の同居が正しい。

それが、「無名の弟子」に贈った一本の白扇の『揮毫』であった。
そこには「一編の文辞」に煌(きら)めく、不敗への道標である。

白扇に曰く
【 鬼神も泣かむ斗争からんことを 君の健斗を祈る 】
坂本 堅は、白扇を抱きしめて西成区の隅々まで駆け巡った。とある。

京阪沿線の枚方では、「大斗争」の『揮毫』が歴史を刻んでいる。
【 枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。
室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。 】

************************************************************

この章の中に、一見読み飛ばしそうな逸話が記述されている。
それが、昭和31年6月27日。炎天下の「布施公設市場」での出来事だ。

この日。戸田会長は、白木義一郎の支援演説会に東京から駆けつけていた。
その大混雑の会場に、多くの青年が整理役員として着任していた。
汗だくの、そんな青年群の中に、右手の五指を欠損させた若者が居た。
池田青年室長は、そんな彼の右手を 両手で静かにすくいあげて、こう言った。
「…痛かっただろうな…」

この時、その青年は想う。
「嗚呼、池田先生は…。
こんな雑踏の戦いの中で、僕の指先を見ていてくれた」


これと同じ『風景』が、全国津々浦々の同志の目前で、
密やかに展開されていた事は間違いない。

いつぞやの大白蓮華(6P⇒「未来を創る」)で、大勢の合唱団の中から、
ブカブカの靴を履く二人の子供を、目聡く見つけて「靴代にしなさい」と言った先生。
これぞ、正真正銘の『忘れ得ぬ風景』であろう。

************************************************************

…やがて、世間を「アッ」と言わせる闘いが展開する。
これが、歴史を塗り替えた。…とは、 正しく言い当てている。

『青年・池田先生』を中心に横一線。
鼎(かなえ)となった「庶民」は、大阪の街を闊歩した。
その「媒体」は、白木義一郎であった。

第17回 『 大阪の戦い 5 』  Q完 

[718] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月27日 (金) 05時15分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第18回 『 大阪の戦い 6 』  
( 最終回 )

白木義一郎の得票数は、218,915票であった。
この時期の、大阪地方選挙区の学会員の有権者総数は約30,000名といわれている。

表面的の計算であるが、簡単に見てみる。
( 218,915−30,000 )÷30,000=6.2692
つまり、 全学会員の全有権者が「6人の友人」に「白木」と実際に書かせたのである。
( 但し。上記はあくまでも、数式の事であって 一つの結果である。 )

では、同じ時期の 東京はどうであったのか。
東京地方選挙区の(我が候補の)得票数は、203,623票。
結果は、次点での敗北であった。

東京の総責任者は石田次男である。
この負け戦が、「戸田城聖第二代創価学会会長」の死期を早めた。
正しく。『師敵対』そのものであった。

************************************************************

この「大阪の戦い」で『池田大作室長』が最も訴えた事は何か。
非常に荒っぽく、二点に絞れば…。
@ 諸会合を、理由も無く不参加する事の『愚』
A 仕事より、学会活動を優先する事の『愚』である。

上記の二点を、全く勘違いする事への、警鐘が以下である。
【 組織にアグラをかいてはいけない。魚も頭から腐る 】である。

【 たとえ 白木(義一郎)が勝っても、
自分自身が生活に負けてしまったら 惨敗だ 】である。

【 室長は甘えを許さない。徹頭徹尾「自分に勝つ」ことを教えた 】

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昭和31年(1956年)7月8日。
この日が投票日であった。 『まさか!』と皆が叫んだ。

では!   大阪は何故勝ったのか。
本章から、その精髄を学ぶには、かなりの思考が必要であろう。
然し。ヒントはある。   以下に、そのヒントを記述して…
この『若き指導者は勝った』の投稿の総てを終了する。

************************************************************

【 大阪の勝利が もたらしたものは何か…
「この人と一緒なら、どんな戦いにも勝てる」という 強烈な確信である。
…それは世代を超え、伝えられていく。
ここに 大阪の強さの秘訣がある 】

【 室長が誰よりも先頭に立って行動したことで、幹部が動く大阪になった。 】
【 室長が会員と同じ目線で語った事で、いばる幹部を許さない大阪になった。 】
【 室長が愉快に前進の指揮を執った事で、楽しい大阪になった。 】

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本章の総括は、日本列島を東西に分断していた「目に見えない既製宗教の壁」を
池田先生が破ったのだとしている。

【 池田大作青年という一人の若き指導者によって、戸田会長は勝った。
そして学会という 一大民衆勢力も また勝ったのである 】

ここで、2,743日に亘る「師弟不二」の秘録は完結している。


『若き指導者は勝った』 終

[720] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月28日 (土) 09時22分

所感       『若き指導者は勝った』の編集を終えて。

率直に言って、この『若き指導者は勝った』の連載が聖教新聞紙面に掲載されてから、
私は幾日も、『何か』を待っていた。
それが、大小を問わず。「諸会合に於いて、この実録が取り上げられる事」であった。

然し。不幸にも、私が参加した場所での言及はない。つまり。 
一度たりとも幹部の話になかったのである。

…「この実録は秘録だ!」と、連載発表以後の三年間、じっと待っていた私。
それでも触れない幹部に、 「今回も(何故に)触れないのか…」という不満がつのる…
『何故 言わぬ。  何故 伝えぬ。』…と。
「この、似非幹部達奴!」←(この批判めいた発言をしている間は、ワシの人間革命は無い)

今。これを述べてなければ、厳しく麗しい創価学会は腐っていく。 
平成24年(2012年)5月3日。 私は…今まで切断を余儀なくされていた『風景』に帰還した。

この「帰還」には、もう一つの理由があった。
こんな私を応援してくださる幾人かの同志の皆様と再会できる悦びである。
それと何より増して、折節に拜した「忘れ得ぬ風景・管理人様」の『深き心』であった。

結句。 それ(帰還)は「触発されたから・感動したから」と、言ってよい。

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扨。 本章『若き指導者は勝った』は、かなりのページを割(さ)いた実録である。
故に。
この総てを、記述していない。(全部の記述は、到底出来ない。が本当じゃが…)

例えば ↓
@ 全段落と段落の間の図案は、池田先生のイニシシャル(INITIAL)である事。
A 『まさか』が実現した直後、池田大作室長は勝利に酔う事なく「山口指導」に飛んだ事。
B 大阪(関西)の街々に「神出鬼没」したという、三十以上の具体的な地名の事。
C 戸田会長に関する、総ての場所での「師匠を顕彰」する振る舞いの事。 
D 「伝統の二月」に関して本章では『大阪の戦い2』で、僅かの記述しかない事。


又。 最も重要な『御書御聖訓』等々。書き切れていない事の方が多い。
これには、大きな後悔もあるが、それでなくても「読む気」を無くす文量であった。

今も私は 『若き指導者は勝った』をいつも拜読し、その都度の発見をしている。
就中。
近々に於ける『恩師・池田名誉会長』の、全ての御振舞に接する時。
これの記述は、「今を置いては時を失う」と判断したものである。

『我田引水』的発想や、『贔屓の引き倒し』的発言は、益々「創価学会」を下げていく。
『時代』は、その正誤を引き連れて、こうしている今も「滔々」と流れている。
その中から、取捨選択を宜しく「正史」を峻別して語り継いで行く…。
『青年』には、それが出来る。

…つまり。 『青年は、正史伝持の人』であるべきなのだ。     

『青年学会』と呼ばれるに相応しい敢闘を、私は祈っている。   多謝謹曰

『若き指導者は勝った』  完結

[722] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月29日 (日) 05時51分

『五枚の恩師と桜』
下記の8行は『忘れ得ぬ風景』で既記の本文だ。 (若干添削)

************************************************************

「H本部長」の手には、B4の原稿5枚が握られていた。
「本部長」はいう。 (以下概意) 
【 此の原稿こそ(中略) あの昭和55年3月9日の前夜 (中略) 「恩師への報恩」の直筆原稿だ。 
 私(H本部長自身)の家宝であるので、(この原稿の)本物は差し上げられないが…  】
と、筆者に下さったのが 『五枚の恩師と桜』(複写)である。       つまり…我が「家宝」でもあるのだ。

只。最後に「H本部長」は言った…『 但し、俺は読んでいないが…』 
(これは原稿を一目見れば納得がいく…     読めないのである)
遂に…私達は38年間住み慣れし『K市』を去ったのだ。        

************************************************************

上記の8行は、『風景』にも記述した「実風景」である。

愚壮が「家宝である」と言い切った『恩師と桜』
この書簡の持つ誠の意味は何か。 
意義は、 真意は、 対告衆(誰に向って顕されたのか)は、 伏意は、 そして本意は。

私は今。 この秘蔵とされた『恩師と桜』の全てを公開する。
「創価学会」の存在を強く否定する人も含めて、読んで頂きたい。
以下は、先生の御記述のママに転写したものである。 尚( )及び( )内は愚壮の後記である。

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(原文) 『恩師と桜』     池田大作    
それは、美しい絵であった。 
落花紛々、青山墓地の桜の木々から、白い雪の如き、花びらが舞っていた。

昭和三十三年(1958年)四月八日の昼のことである。
その日は、恩師戸田先生の告別式の日であった。 
戸田家の葬儀は、(師の)遺言通りに、一週間つづいた。

(昭和三十三年四月)八日の日の午前九時、目黒の御自宅を出発した。
御遺体にお供して、常在寺に向う途中、車は青山墓地の桜並木にさしかかった−。
その刹那の歴史的な光景は忘れることが出来ない。


思えば、四月二日、午後六時すぎであった。
日大の病院から、
私に「父が、ただ今亡くなりました」との御連絡を、御子息より、受けたのである。  
私は絶口した。 その時の生命の震動は、生涯にわたって言葉に表す事はできない。

恩師によって拾われ、恩師によって育てられ、
恩師によって厳たる信心をしり、また、佛法を学んだ私。
さらに、恩師により、人生いかに生くべきかの道を教わり、
恩師によって、現実社会への開花を教わった私。

これこそ、私にとって、この世の人生の崇高なる劇であり、現実であり、
確かなる青春の調べであったといってよい。その恩は、山よりも高く、海よりも深い。

私は、この御恩を報ぜんがために、
恩師の指向する壮絶なる広宣流布と(の?)戦野につづいた。

誰人の批難があろうが、いかなる怒涛の社会に立ち向かうとも恐れない。
それは大御本尊様の御もとに、妙法流布に殉死せる、この恩師の理念と行動と信仰をば、
必ずや、世界に証明せんと、決意したからである。

恩師の信心の炎の叫びと、そして私の肉団との共鳴は、誰人たりとも、おか(侵)し得ぬ
麗しき波動が、波動となって流れたと確信したい。

私の一個の人間にあって、青春という、心の桜花であり、まさに生命の満開の姿といってよい。


恩師の人生は、波乱万丈であった。

特に人生の最終章にあっても
「法華経のために命を捨てよ」との御聖訓のままに、生死流転なされた。
獄中にあっては、不退の信仰(を)またぐ佛意を深く深く読み切られた。
戦後の焼野原にあっては、一人、獅子の如く、地湧の戦士の旗を引っ下げ、
ありとあらゆる人間群に突入していった。
あの慈悲の勇姿に、門下も勇んで後に続いた。
今、その金の道は、世界へと拡がっている。

五十八才の人生であった。
幾百年にも通じゆく生涯であったといえる。

学会葬は、四月二十日(1958年)であった。
本部より青山墓地を廻り、青山斎場へと向った。   
遺族、代表幹部の門下生の列は、それに続いた。

あの美しき、万朶の桜は、いまや葉桜とかわり、緑濃く、青々と、薫風に揺(ゆら)いでいた。
これもまた、一幅の名画であった。

恩師には、私はよく烈火の如く叱られた。
この叱咤が慈言となって、心に留まり懐かしい。   
これが発光し、光明の道を常に開きゆく源泉となった。 
と ともに、慈父の如く、いつも愛された。
私にとって、この人こそ「人生の師」と云わずして何といおうか。

恩師と私は、幾たびか散歩した。
(その折の)さりげなき、一つ一つの言葉が、私の胸中の宝となっていった。
市ヶ谷より、満開の桜を眺めつつ、お堀端を佇(たたず)む時もあった。
「厳冬の冬に耐えて、また、あの桜が咲いた」と、もらされた。
そして「冬は必ず 春となる」と、※沁々(しみじみ)と述懐されていた。 (※原典は『泌々』)

私にとっての恩師、※@戸田先生逝いて二十二年。ここに、二十三回忌法要をば、
総本山大石寺にて迎えることができ、感慨ひとしおである。
常に、そして特に、大導師を賜りし、代々の御法主上人猊下に南無し合掌し感謝し奉る。
( ここにある※@とは、昭和55年4月2日を指し示している。 )

「桜の花の咲く頃に死にたい」と恩師は、もらしていた。
その願いのままに、四月二日、あの山にも、あの道にも、桜の花が匂っていたのだ。

今年の春も、総本山には、桜の山が微笑む。

あの村にも、あの町にも、桜の道で、平和を謳う人が多いにちがいない。

今年(1980年:昭和55年)もまた、青山墓地通りの桜の花は咲く。

しかし、時代とともに、二十二年という星霜を経た、
その桜も、老樹となり、咲く花も、少なくなっている。

************************************************************

以上で『恩師と桜』の本文の転写を終る。
実は…。 この「池田先生の手記を、どう見るか」が、私の真意である。
以下は次回とする。

[723] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2012年07月29日 (日) 11時37分

忘れ得ぬ風景完結に燃ゆ!『恩師と桜』

ページを新しく用意致しました。
>【 此の原稿こそ(中略) あの昭和55年3月9日の前夜 (中略) 「恩師への報恩」の直筆原稿だ。 
> 私(H本部長自身)の家宝であるので、(この原稿の)本物は差し上げられないが…  】
>と、筆者に下さったのが 『五枚の恩師と桜』(複写)である。     つまり…我が「家宝」でもあるのだ。

心おきなく ご自身と対話なされて下さいませ。
耳を澄ませ 更新を楽しみにする私が居ます。幸せ者です。感謝♪

[725] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月30日 (月) 05時31分


繰り返すが、この原典『恩師と桜』は、池田先生の直筆原稿の(ママの)全編である。
就中、注目の文章を指摘確認しておきたい。それが(※@の部分)である。
池田先生はここで 『戸田先生逝いて二十二年…』と記述されている。つまり、この文章は。
昭和五十五年の春の御記述であると拝す。

池田先生が 『宗門:総本山大石寺』と『師敵対の学会幹部たち』に依って、
会長勇退されたのが、昭和五十四年四月二十四日である。

という事は…
自ら「会長勇退」という大難の渦中に身を置きながら、
恩師『戸田城聖先生』の二十三回忌法要を迎えんとなさっている。
ここにこそ、    誠の。真の『弟子』の姿が、鬼気として迫り来るのである。

************************************************************

上記の原典『恩師と桜』の入手の経緯は、既に書いた。
では。この近辺の実景はどうであったのか。

昭和55年3月9日 「K市」の同志(六百余名)は、
前年の4月24日に創価学会会長を御勇退された(させられた)池田先生を求めた。
この史実は、『K市同志の永遠の金字塔』と、誰もが思っている。
 
現に…。  『日蓮大聖人』の御書を繙くと、
弟子が師匠を求める「行為」を最も讃歎された多くの御聖訓が顕されている。
此の「師弟不二の急所」ともいうべき「K圏」の『師匠を求める』の壮挙が  
『昭和55年3月9日  第一回K圏勤行会』なのだ。

昭和54年7月26日 『K圏』は誕生した。  
これは『池田大作創価学会第三代会長御勇退』の僅か95日後であった。

初代圏長は「T氏」 初代圏婦人部長は「M氏⇒現・総県婦人部総主事」であった。

爾来30幾星霜…  
毎年巡り来る『3・9』を、「K圏」の壮婦男女(四者)同志は、老若男女総出で祝い、
役職など無関係に全員で歓呼した。

個々それぞれ、諸々の苦難も、又悩みも…。
この『3・9』を目指して乗り越え打ち破り、「変毒為薬」の実証の事実を目指し、示し来た。
正に、毎年巡り来る『3・9』こそが「K圏」の同志にとっての『登竜門』であったといってよい。

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原典『恩師と桜』の正筆と写しは、厳然と「H本部長」と「筆者」が所持するのみ…。
私は。    此(こ)の⇒『のみ』を胸中深くに、秘匿し「鍵」を掛けた。
「言いたい事は…これは言えば愚癡になる…」と。私は『恩師と桜』を抱いて「K市」を去った。

然し。『恩師と桜』は不思議にも、私を「栄光のK市」へ引き戻した。
それが…3氏に依る『凄まじい御激励』であった。

ここで、もう一度『恩師と桜』の最後の一行を、再び記述する。
【 しかし、時代とともに、二十二年という星霜を経た、その桜も、老樹となり、咲く花も、少なくなっている。】
『H本部長』から戴いた 『恩師と桜』の原稿コピーは、ここで終わっている。
…が。衝撃の事実が後年、明らかになっている。 それは平成23年9月7日の夕刻であった。

以下を続けるか…と、迷いつつ「筆」を置く。
(迷いのヒントは、『恩師と桜』に起承転結が整っていない事への疑問であった。)

[728] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年07月31日 (火) 04時50分

『五枚の恩師と桜』 B

◎ この日、それは平成23年9月7日の夕刻であった。   
自己の人生の(恐らくや)最終の分岐点を迎えた筆者は、勤務の終了後『K弁護士』を尋ねていた。
綿密な打ち合わせが終り、岐路につく「東天満」付近で電話が鳴った。  『N県長』であった。


『N県長』から電話など… 「あるべく筈の無き想定」であるが、内容は更に衝撃であった。

実は……と、県長が切り出した。
「あの、『恩師と桜』には  六枚目の原稿が存在する…」

そういえば私は。  「K市」へ戻った幾日かの後、『N県長』には報告をしている。 
その報告の中でか、『御書』の解説を御届けした時か、『T水滸会』の案内の折か。
ともかく、何かの時期に『恩師と桜』の事も言い及んでいた。

それにしても  『六枚目の存在』…この一言は愚壮にとって、晴天の霹靂である。  
「私の命より大事であった『恩師と桜』に、欠落が有った」 これは衝撃でなくて何という。

と同時に、この事の推移には何かが隠されている…とは、私の直感・危惧であった。
それは…。 (論旨を飛躍して)詰まるところ ↓
【 貴重・重要なる文献が、安易に晒されすぎているのではないのか 】に行き着く。

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入信以来。何かにつけて「指導」を仰いで来た『草創の大先輩』の下(もと)に。
私は直感・危惧を抱えて走った。

その『草創の大先輩』とは。
前回【 3氏に依る『凄まじい御激励』であった 】と申したが…。そのうちの御一人である。

私の顔を見て、『草創の大先輩』は申された。 
「お前は言ったとおり、やっぱり この『K市』に還ってきたか」であったが…それはさておく。

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氏は、私の説明を黙って聞かずに、こう即答された。
「…これは、お前のハナをあかす為の最後の一枚の明示(六枚目の暴露)だよ…」

「お前の思い込みや、その鼻につく「押売り的な情熱」を否定し、
先生の文章の持つ深い意味に迫ろうとするお前の気迫に、茶々を入れているんだ…」

「つまり…『お前さんに言われなくても、K市の草創の人は皆知ってる事だよ』との意味だ…」

私は正直。その時に思った…        「これでは、平手打ち・三行半(みくだりはん)だ!」

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とも角…『H本部長』が、確か「俺の宝」と言いつつ、
私へ与えられた『恩師と桜』の原稿は、五枚であった。
…何故『六枚目』が抜け落ちていたのか。

私は、何度も『恩師と桜』に目をこらした。
そして、この原稿の『起承転結』が整っていない事を、感ぜざるを得なかったのである。
それが、この文章の顕された日付けだ。  「先生は、何時これを書かれたのだろうか…」であった。

私が県長宅に、正式に訪れた時。
『N県長』は、『六枚目』の本文と共に、この『恩師と桜』の原稿の真実を語った。

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県長の曰く。
「この『恩師と桜』の原稿は複数が流布しており、又、その持ち主も、皆がよく知る人である…」と。 

『皆がよく知る人』とは、初代K圏婦人部長(M氏)であり、壮年では「Y氏」である。
『県長』の漏らした此の御二人は、いずれも「K市:草創の人」である。 

瞬間。私は、こう思った  「いや。所持は御二人だけでは無いのかも知れぬ」

つまり…他にも『恩師と桜』を密かに所持し、
当時の『池田先生』の思いに学ぶ人は多いのではないか。

********************************************************************************

とまれ 私は、ここで。 この『恩師と桜』の六枚目を謹んで書き残しておきたい。  

『恩師と桜』の六枚目   (転結文)
【 私は、今、  功徳爛漫の人生たれ― を祈りつつ 「大桜」の揮毫を、友に贈る日々である。
昭和五十五年 四(これを訂正し) 三月五日     随筆として したたむ 】とある。
( 六枚目の文章は、上記のみである )

池田先生は、この文章の最後に『随筆として記述した』と言われている。
又。御記述の年月日を明示されている。
御記述日が三月五日であれば『H本部長』の言う 「昭和55年3月9日前日に頂いた」が整合する。
 
「何が、どうなっているんだ」と、頭をかかえる愚壮に、もう一人の愚壮が言った。
『そう、物事を突き詰めるから、今のお前があるんじゃよ…』

いやいや。実際の正解は、「愚壮は、K市に戻ってきてはいけない」かも知れない。
錯乱は、益々と続きゆく。

[729] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月01日 (水) 04時34分


『五枚の恩師と桜』C

@ 『H男子部本部長』が、この『恩師と桜』との邂逅は「昭和55年3月9日前日」つまり…1980年である。
A 「H本部長」が 『 但し、俺は読んでいないが…』と、愚壮に下さったのが 2009年3月26日の夜。

前年の春に「会長御勇退」を甘んじられた『池田先生』を求めたのが「K市」の同志である。
その先遣隊が、前述の『H男子部本部長』であった。
この「弟子道」を貫く『K市』に対して、「随筆」とはいえ…『恩師・戸田城聖』を直射する秘録を与えた。
( 実際に与えたのは本部職員であろうと、「池田先生」の御了解を得た事には間違いない )

********************************************************************************

ここに、大きな『落とし穴』が存在するのである。

本章冒頭で、私は敢えて。 @・Aの付箋的数字を示した。
つまり…@で頂いた『恩師と桜』を、H氏は 『 但し、俺は読んでいないが…』と言われた。
これは、裏返せば… A愚壮にコピーを手渡した29年間 『読もうとしなかった』事である。

確かに無理はない。…と言えば 「言い訳・逃げ口上」     否。「与同罪」の類であろう。
『H男子部本部長・現在の壮年本部長』には、叶わぬまでも「拜読しよう」と挑戦して欲しかった。

私が、敢えて  (これは原稿を一目見れば納得がいく… 読めないのである)と書いたのは。
私の「慮り」であって、読者諸賢に 一番判って欲しい部分でもある。
建前では「先生・先生」と言い…「本音」では、世間の多忙に飲み込まれる。  これが実態だ。

因みに…この『恩師と桜』の複写を、氏によって手渡された愚壮は、
この2.3日後に『恩師と桜』の解読の全文を「H本部長」宅に届けておる。
( 礼を期待しての行為(本文解読)ではないが…その後も今も、H氏からの反応はない )

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私が云うのは、決めて「H本部長」への個人攻撃ではない。
「H本部長」への個人攻撃ではない強き「証左」がある。

昭和57年(1982年)3月22日とは、あの『六段円筒』が「長居競技場」に屹立した日である。
この日。37歳の愚壮は 「男子部副大B長」であった。
当時の男子部部長は「K氏(名物部長)」。  この人を「要」に、私達は一丸となって走った。
「一丸となって走った」結果が、『折伏・方面制覇』という金字塔であった。
この時の直属の「男子部本部長」こそ、他ならぬ「H本部長」であった。

「H本部長」はこの時。 とんでもない決断をされている。
…それが、私をして『創価班』としての着任(於・長居競技場)を命じたのである。
『憧れの 青いブレザー』を身に着けた緊迫感と大感動は、今もはっきりと蘇る。

…だけではない。 私が「K市」を去る時に、「H本部長」は最高の振舞で御送りくだすった。
それが…『恩師と桜』が 改めて正面に躍り出た瞬間である。
私が生涯。 この事(「H本部長」への御恩)を忘れることは無い。

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敢えて、もう一度 強く言っておきたい。
今。私は…、 この『恩師と桜』の一件を通して 「H本部長」を責めているのではない。
これは  須(すべか)らく、皆が持っている「己心の魔」への警鐘である。

…どこまで行っても『師弟の箍(たが)』は、これを弛めてはならない。    と云うのである。

『恩師と桜』 完

[730] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月02日 (木) 05時35分

『母』

『母』を語るに欠かせない『御聖訓』は、多編に亘って存在する。
就中。 『母』そのものの心境に迫った『御書』がある。 
それが…『刑部左衛門尉女房御返事 1398〜1399P』である。

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さらば。
『恩師と桜』を贈られた人・「戸田城聖」は、『母』をどう詠んでいるのか。
その「心」に近づかなければ… 『恩師と桜』の底流に迫れない。
なぜかならば。 『母こそが日蓮仏法の根底』であるからだ。

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☆ 母に(中略)心配させ、またこれ以上の心配なさしむは、
人間 いな(否)子として最大の不孝と、我れは知る。

☆ 思恩思孝正道   孝を懐わずして玉を抱き難し  恩を想わずして人となり難し

☆ お母さんには必ず、恩に報いよ、戸田晴通よ。

☆ 報恩せねばならぬ。報恩すべき時節到来、
報恩すべき時節に報恩せずして、畜生となりたくない。
戸田晴通は報恩せねばならず、国忠侠桜桃は人の弱さを援けねば。

☆ お母さんに対する恩義だ。(←非常に断片的だが急所である・同一文章 二通あり)

( 昭和十八年七月六日に突然、警視庁から朝 寝込みを襲われて、獄舎に下る身となった。
その間の記憶を歌にして、忘れない様にとした記録である。 )
☆ 独房に なすなく生きて夕暮に 日ごよみ(暦)消して 母を呼びにき
☆ 帰りたさに 泣きわめきつつ御仏に  だだをこねつつ 年をおくりぬ
(上記のU首の注釈 ⇒ こんな生活が昭和20年の春まで続いた)

☆ つかれ果て 生きる力も失いて 独房の窓に 母を呼びにき
【戸田城聖自身の注釈】 この境地(歌の事)は弱かった。
もし父人を知りなば この歌はなかったであろうか。それとも…
こんなに弱くなってこそ、真の父を知ったのであろうか。
永久の命を感得する前、仏を見る前の境地であったろうか。

上記☆印・「青娥書房発刊・若き日の獄中記」より抜粋

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『…生きる力も失いて 』が最もの悪である。  これが要諦なのである。
【 殊更に嘆いて、自らこそ不幸の渦中の人と喧伝してはならない 】
『 崇峻天皇御書 1173P 9〜12行目 』(概意・通解)

誠の『母』の 誠の思い…  次回は ここに迫ろう…自他を含めて。

[731] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月03日 (金) 05時37分

『母』以前に存在する者がある。  『親』である。  それを短文で書く。

地獄界とは五逆罪 『 十法界明因果抄 427P 』 行き先は「大阿鼻地獄(無間地獄)」
五逆罪⇒殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧    『顕謗法抄 447P』
これに「誹謗正法」が加わると、天下無双の「地獄行直行便特急券」で、どうにもならん。
死殃(しおう・頓死の禍)から免れないので、御安心願いたい。 嘘だと思うなら、実行してみなさい。

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逆に言えば、「誹謗正法」の輩を責めなければ、「二乗」たりとも堕獄であり。
既に「五逆罪」を犯した人も、「誹謗正法」の輩を責めれば人界に生を受ける。
つまり、中心に『御本尊⇔法華経』が存在している。
上記が『主君耳入此法門免与同罪事  1133P』に顕されている要点である。 


『正法⇔御本尊⇔法華経』を中心に全てが動いているのだ。
間違っても「自分中心」ではなく、その尺度は「見た目」ではない。


親を殺す事が、どれほどの重罪であるか。
親に孝養する事が、どれほどの善根であるか。

この正法の法理に則った、最大・最高の善行が『法華経の行者』たる行動である。

いくら「創価学会の組織」の中で、高役職・高教学に飾られても…
他人に見えない自宅の一室で、「アルツハイマー」の老母を殴っていては話にならぬ。

そういう事だ。

[733] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月04日 (土) 05時45分

誠の『母』の 誠の思い…。

『M・O氏』という青年が在る。 (堅苦しいので以降は「Mちゃん」と書く)
氏の御生まれは、1971年というから、私よりは26歳の年少であられる。

この昭和46年生れの青年が以前。
『牙城会』の中で諸々の訓練を受けられていた事を、私は『長女』からの伝聞で知る。
「…が、誠に残念ながら、今はその『牙城会』も降任されている。 」とも聞いていた。
…だけではない。


この「Mちゃん」は同時に、「青年学会員」としての全行動を停止した。
『牙城会降任』の風聞が少々先行していたが、「降任」の理由は察っしがついた。

この場合。辞めた方に責任は少なく、「辞める事に了解した側」に責任がある。
「どんな訳が有っても辞めてはいかん」と言わずに平気で辞めさせる。 性急すぎる判断だ。
この 「性急すぎる判断」をば、『烙印』という事さえも気付かぬ「ボケ幹部」が多いのも事実だ。
…が。 これを続けると 言いたくも無い「幹部批判」になるので、本筋に戻す。

ただ。
この『牙城会降任』を、最も悩んだ人がいるのを、見落としてはならぬ。
…その「悩んだ人」が。 青年の『母』であった。

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平成19年の秋。 「Mちゃん」のお母さんは黄泉に旅立たれた。  享年は六十四。
定業とは言え。 この「御母堂様」の『死』は、早過ぎる。

『母』は草創後期の人であった。
これが、「Mちゃん」の心に『何故 あれだけ闘った人が、早く逝くのか』という疑問を生じさせた。
…という事も、 私は聞いていない。

然し  『何故 あれだけ闘った人が、早く逝くのか』とは、最も説得力のある「退転」への序曲で。
たれもが、大いに悩ましく想う『落とし穴』でもある。

「Mちゃん」は、はたして「退転」したのか。 御主人は、御家族は…。

ひとりの「初老の草創後期の御婦人の早逝」は、いかなる波紋を周囲に及ぼしたのか。

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『母』は「不思議な豊かな力を持っている」とは、『池田先生』の本意である。

及ばないが… そこに迫りたい。

[737] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月05日 (日) 06時02分


先ず。 その手記の公開について、『M氏』の御了解を得ている事を申し述べる。

その上で、「広布に生き抜いた母」が終焉の目前に、何を望み、何を語り、何を遺したのか。
平易な言葉の中に在るであろう『究極の願望』を、筆者と読者は見いだせるのか。
「及ばないが… そこに迫りたい」とは、広布に生き抜いた「一個」の命の持つ重さにある。
「愚壮如きが迫れるか…」 と申さずに、何卒 御読み頂きたい。   合掌。

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「Mちゃん」から、『書いてよい』との御承諾を得たが、はたして その文章は膨大であった。
「何から、どこから書けばよいものか…」  
いや。 単に書き連ねるだけで、故人の言い伝えたかった『真意』に本当に添えるのか…。
「…今私が。 最も恐れるのは、亡き『母』の真意のみだ。…それを外すと「冒涜」が残るだけだ」

簡素で、字体の乱れの少ない文章の、隅々に煌めく「広布」と「師弟不二」への達観。
それは 【 老いたる母の 築きたる … 】という堅固なる証文であった。

私の逡巡は、「語り部に徹せよ」という人の御激励の前にある。
「よし!思い切って、書こう」 こう決めた時。 愚壮の目前に「Mちゃん」の笑顔が浮かんだ。

腹は決まった。
御預りした文書の量に圧倒されつつも、それを目前にした私の思索は、恐れ逃げる事はなかった。

そこで私が選んだのは、やはり…『N子さん』終焉の直近の文章であった。(  御逝去の二日前 )

『N子さん』の呼吸の途切れさえ感じられ、 又。 御遺言ともとれる重い書簡である。
(尚。書体はママである。△は欠字 書中の実名は、全て書き変えてある)

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【 私が もしかの時 見て下さい  皆 ありがとう   ○月8日  
私も一しょうけん命 頑張れました  
短歌も三十九回 △せて頂けました(註・聖教拝壇か) 最高です   

お父とT(長女のT子さん?) ほんとうにありがとう 
Hちゃん(同志のH・Sさん)ほんとうにありがとう

マコ(長男・M氏の事か) ヒロ(次男?) Y子さん(次男の嫁) 孫達 
ありがとう 孫達の活動成長を楽しみにしています

来世では こんな私ですが 皆と一生(一緒か?)に生まれ変わって 
元気になって いろいろ信心を頑張ります 妙法流布の為に頑張ります

どうか 地区の皆様に どうぞよろしく! ありがとう
母上、Yちゃん Kちゃんにも くれぐれもよろしく。

Kさん、Kさんにもよろしく      N子 】

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ここで注目するのは 「私も一しょうけん命 頑張れました」 という御記述だ。 
恐らく、「命を召し取る病魔」との、一進一退の攻防であられた。
『悲嘆と落胆』の無き、渾身の闘いの期日は、一体いつから始まっていたのか。
…これを辿ってみる。

[739] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月06日 (月) 05時06分

『N子』さんの持つ、池田先生への思い。
先ずここから始まっている。

「非力」であるはずの「一人の女性」が、物事に左右されずに冷静に御自身の「定業」と対治する。
いずれは何人にも避けられないとはいえ、自らに近づいている「命終」にもオタオタしない。
…何事にも恐れていないこの強さ(達観)は、どこから湧きだしているのか。

『日蓮大聖人』の顕された『御書』の究極は、「総て、生かされている…」であっても、
ひとみな総て。その終焉を恐れているのではないのか。
勿論、『御本尊』」に対する絶対の帰命に関しては、ここで殊更に言う必要はない。

私が御長男より御借りした多くの文章には、今世を離れる慄きは微塵もない。

「なぜなのか…」  なぜ彼女は、こんなに強いのか…。
私がやるべき事は、彼女の云わんとする主旨を、静かに探索していくのみだ。

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◎ 『今回 池田先生が こんな私に和歌を下さった、先生のすごさ   
そして私に下さった和歌の なんと素晴らしいことでしょう、
言葉では いいあらわせません 本当にすごい先生です、  

行動も心も「ともなう」本当にすごい先生です 心底わかりました
先生に手紙を出させて頂いて 本当に良かったです、』

※ 一体 どのような「和歌」を戴いたのか…。 これは、不明である。

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◎ 本当にすごい池田先生です、 こんな紙に書いて 申し訳ない思いです
「マコ(御長男の事)」 池田先生についていったら 絶対に間違いありません   
新聞の先生の書かれてるところ ゆっくりしっかり読んで下さい
私の心をわかると同じように それ以上に 池田先生の心のわかる人間になってください    
祈っています     あとは 私のことをします 

※ 「池田先生の心」とある。 つまり「師弟は不二」であるゆえに、先生の心は『N子』さんの心である。

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生き様に直接迫った言葉もある。(対告衆は御長男「M氏」)

◎ とにかく信心根本に信念を持って生きて下さい 信念について考えて下さい…自分の信念です。
(まわりに左右されるのでなく 自分はこう生きるのだという しっかりした考えを持って生きる)
これが『信念』です。

池田先生のスピーチなど読んで下さい   
私は「Mちゃん」のことが とても気になります とにかく さいごは 祈るしかないと思います、
(池田先生のスピーチを)信心根本に読んでいく中で 変わってくるし わかってくる
信念が生れてくると確信します

今のうちに たくさん たくさん 池田先生が書いた本を読んで下さい
戸田先生が池田先生の(何のために生きてるのか という)質問に こたえられたことと同じです
「信心している中に わかってくるよ…」と    中途はんぱ(半端)な信心では だめと思います。

※ これ等は、「Mちゃん」にではなく、愚壮に言われているようである。

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一見「母」としての記述のようだが、よく読むと 『同志』への激励が垣間見える。

◎ 私がどうなっても…「Mちゃん」には  と思って書いています  
「Mちゃん」の事は一生けん命祈っています
私も以前は「Mちゃん」のようでしたから よけい わかります

今も(私は)まだまだ だめです、でも すこし わかってきました  
ここもで来るのに 長いことかかりました
だから 「Mちゃん」の事が よけいに気になるのです

気性 = 生命を変える 成長するのは とてもむつかしい しんどいです、 
それが宿命転換に つながるのですね    お互いに 頑張りましょう、 

※以下は急所である。

◎ とにかく 本気になって やって下さい
真剣になれなければ (真剣に)なろうと努力してやって下さい

中途はんぱ(半端)な気持ちで わかるような信心ではないです
(中途はんぱ(半端)な気持ちでは)信心の深さは わかりませんし 自分も変わりません

私も「Mちゃん」と同じ お互いに まずは… 自分のために「信心・題目(唱題)」することです
そして 自分をかえながら まわりも かえていける信心です 
お互い 一人の人間として 頑張って競(きそ)い合っていきましょう 心を みがいていきましょう 

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実は、昨日の事である。
私は近郊に御住まいの「御長男」に、再度電話をいれた。
「この文章を『忘れ得ぬ風景』に書かせて頂いてよいものか」

これに対して、「Mちゃん」は電話の向こうで言われた。
「書いても構わない (概意)」

「Mちゃん」にも…であるが。『N子さん』にも御了解を得たような、一人合点である。

[740] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月07日 (火) 05時25分


『N子』さんの書簡
※ 同サイズのメモ帳(複数枚) 裏表に多く書き込まれている  

以下は御自身への自問自答
◎  「Mちゃん」のこと    まっすぐな心に
・ほめること  子供には大事、
がまんさせること― 悩み、苦しみ、こまったこと、を信心させること
(中略)
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◎ (「Mちゃん」の) 仕事―  自分にあった  能力を少し高めていけるものが 
技術を〃(少し高めていけるものが) 楽しいと思う
仕事に生きがい―  ただし どこに行っても何をしても  根本(信)を忘れないこと

※ 文面の錯綜が見える…
◎ 転いことば(意味不明) 文のとこ(文のこと…か)   書き方 おかしくなった、 文の―こと
要するに 仏の生命になろうと努力 ― 人間革命 ― 宿命 ―
出来る ― 生きてる間に仏になる ― 仏の病人ない
        ↑ むつかしい  これを頑張ってる ― 学会

※ 少々混濁する部分がある。
◎ 私  耳、目、声出ない (『N子』さん御自身の体調・病状が、非常に苦しい状態である)   
だんだん大変だけど  仏の生命で(めざして)頑張るしかない  (縦書きと横書きが混じる)   

※ 走り書き
◎ だいもく中・頭にうかぶこと かんじることある  
1〜2こと〔少々なら…と言う意味か?〕書いてもいいと思う
(文章が)長いと― こちらに(文の方に、重点・エネルギーが)とられてしまう

〃(題目中)   あげながら書けること       信心のこと
〃(題目中)   他のこと考えると ― 頭 おかしくなる   私は

※ この辺りから 『N子』さんの言葉は、難度が高くなる。  
※  表現が難しくなるが…その意図は極めて明瞭である。

◎ ほめるのは―  ほめる うそ(嘘)について 相手のことを思う
うそについて、 相手の汚い生命を増長させることになる うそは いけない
括弧書き(そのとき相手が よろこぶことであっても)

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※ 根幹中の根幹・精髄中の精髄である⇒(折伏と摂受の是非)
◎ 相手に法を言う 教えられるようになる  ― 時間かかる
相手の心を開くため(入っていくため)はじめは ほめるうそは いいときもあると思う
私利私欲のためのうそは 絶対いけない   法にうそをつくのは もっといけない 

※ これも裏面
◎ 「Mちゃん」は聞いてくれる ― 必ず出来る
T、H(二人の御名前) ― 機会(チャンス)を大事に(して)話す

※ 以下は御婦人独特の鋭い観察眼である。 男性たる者、深く反省せよ。
◎ お父(御主人の事) ― 永遠の生命 感じようとしない 
あさ(朝) (題目)三唱(しかしないので)   
大聖人―言われる事 信じていない  信じられない (辛辣で的確である)

※ 写真(誌名は不明)
◎ 3月号(池田)先生の顔 人を思いやる心にみちてる ― 全部 仏の生命

※ 祈り  (若干の意味不明もあるが、教えられる事が多い)
◎ いろいろ自分の汚い生命に気づいて おとそし(?) 変えるのは今から  
何でも祈、小さいこと祈ったらいい そのつみかさね

◎ (題目)三唱(だけ)でも しんけんに 必ずちがう ― 
たとえうまくいかなくても それでも守られてる だいもくは通じてる むだはない

◎ 祈り かなう              要 ― 心を変
かなわない ― 大きい魔      よからんはふしぎ 悪からんを 一定と思え
                         ↑ あたりまえ

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※ 基本姿勢
◎ 私は お題目している時に、感じた事(行動する事などにも関する)ひらめきは 
題目あげながら 書きとめています。(短歌なども)

(書き残している行動が)題目根本になら いいと思っています
(しかし、その事が)書く事に流されてしまわないようにまた題目にかえる(打ち込む)ようにしていますが… 
でも(それでも続きを)どうしても書きたいときは、
題目をとるか、書くほうをとるかした方がいいと思うのは、私の感じです。


※ 勤行・唱題の時は、真剣に御本尊に向かうべきであると言っている。実に深い事である。 
◎ 題目をあげながら考えるのはいい事ではないと思う、
御本尊が『それはやめた方が…』と言ってるように思います。

※ 「…ながら題目」は、結論としては否定されているが、自然体を重んじてよい事だ。
『日蓮仏法』には、へこむつかしい戒は無い。  ただし「行躰即信心」は否定しない。

少息愚壮

[741] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月08日 (水) 05時29分

『N子』さんが、自らに迫る事態を直感して残した「胸の内」は周囲に影響したのか。
これはやはり、一番気掛かりなところである。

…やがて。そう遠くない日に、不幸は『彼女の死』という形で現実となる。
この「手記」が「Mちゃん」の手元に握られた頃、もう『N子』さんは居ない。

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「諸活動」から遥かに遠のき、「青年部」としても現実の距離を置いていた「Mちゃん」は苦悩した。

『これは、動かしようのない遺言だ』と、悩まれた。 …と、私は推察する。

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この「手記」が実際に「Mちゃん」御自身を動かすには、尚、何年かの時間を要した。

「Mちゃん」の以前の同僚に、愚壮の「長女」が居た。
「Mちゃん」が、「元・牙城会」も勤めた人を知る彼女は、彼の今の姿の落差を見た。

「母の手記」が、彼女の目に届いた経緯は、委細は私には判らないが…。
この「手記」を読んだ彼女は、泣いて「Mちゃん」の優柔不断を責めたと言う。

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いずれにしても…。
人は『苦悩の淵』から立ち上がらなくてはならない。

「長女」の涙で、「Mちゃん」が再度立ち上がったとすれば、 それは「大称賛」である。

亡き母『N子』さんの遺書は、最も立ち上がって欲しい人に通じた。
手記が膨大であっただけに、残された遺族への「思い」も深いものがある。

『師弟不二』に、強く裏打ちされた「手記」は、こんな理由で書き続ける。

[742] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月09日 (木) 05時35分

亡母が残した言葉は、そのまま後進の人への「遺言」である。

※ そのままの「話し言葉」が、かえって読者の胸に響けば…と記述する。
◎ 信心のことは テレビを見ながらというわけにはいきませんし 耳も遠くて(も)悲しいかぎりです
感じた事 やっぱり書きます、なるべく しつこくならないように 気をつけます、
また読んで下さい、「Mちゃん」が読んでくれるのでとても嬉しいです
重複する事 多いかと思いますが あしからず なるべく気をつけます
これは 「Mちゃん」に書きながら 自分に言っていることです、
自分がなかなか変わらない(本当に心というのは むつかしい)ので 何回も自分に言っています


※ 『N子』さんの言葉は、あくまでも平易で飾りがなく続いていく。
◎ いつも信心の話ばかりだと しんどくて いやになる気がします
信心の話は心をひきしめて 他の事に気をそらさないでする (でないと 心が入らない)
( この後、『N子』さんは一転して鋭く核心に及んでいる。
つまり。学会の会合が忙しすぎるのは、暇が多いと「心」が「余事」に流される事が多いとして、
そこが、一番難しく、厳しい部分であるという。)←これは水滸会の「戸田先生」の指導に重なる。  

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※ 『他の事を きちんとするためには 先ず『勤行・唱題』を正確に実施せよ』とある。  
これは全くの「炯眼」で非の打ち所がない。
そんななかで『雑念』にたいする記述があるが、実に見事に喝破されている。
池田先生が日頃 『母は人生の達人』といわれるのが 良く解る。
雑念が浮かんできたら、(どうせ内容は)大したことがないので、後から考えればよい。
そして…『祈り』とは、こう有る可(べ)きと結論されている。  
◎ 落ち着いた祈り・腰の落ち着いた祈り・地に着いた祈り。境智冥合した祈り。 

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※ 今までの「語り言葉」から一変した文言がある。 (ママ転記する) 
◎ 頑張っても なかなか結果の出ないこともある  思わしくないときもある
でも 頑張らなくして よくなることは 絶対ない。  今までは 信じる力が弱かった…だから結果がでない

(ここから『N子』さんの言葉は根幹に入る)⇒弱い幹部の下の人はかわいそう(私もB担として弱かった)
強くても 動かない幹部…も いけない(慈悲がない)  身体がよわくて動けなくてもいけない…
動きが(現実がともなわなければ)おそくてもいけない  強い身体になること、祈ること

折伏は、今はだめでも下種   
仏法対話すれば いつか必ず信心する時が来る、そう信じて、祈り話すこと、
…それによって(このくりかえし)だんだんつよくなる 確信心も信心も、
必ず良くなる…と祈ること  何事も信じて祈ること、三世永遠の生命を信じるように
…ということは今がよくならないと 次がよくなる(いい)はずがない 

「暗鏡も磨かざれば 珠と見ゆるが如し」(題目) 必ず宿命転換出来る
入試のこと 運動会のこと   (その他多くの記述があるが「線」で消してある。)

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※ 書面の言葉は、行き着くところを目指している。 (以下)

◎ 信心は自発能動にするものです   
人に教えられ、勧められたりして、そして自分もしようと決めて やってみようとするものです。
人に命令されて むりやり いやいやするものではないですね、

子供の場合は少しちがってくると思います、
親にいわれ すなおに出来る子は だいもくの力をかんじると思います、
だいもくが あげられるという事じたいが すごいことですから、 
なかなか おだいもくは 凡夫(ぼんぷ)ふつうの人間には あげられないですから
まして心から あげるようになる事はもっと むつかしいと思います

親が子(小さい子)に だいもくしなさいよ というのはいい事ですが 
親が信心わからずに命令調に言っていてはだめですね
以前 私は「Mちゃん」にそうだったかもしれません あやまります、


◎ この御本尊は  悪しく敬わば『頭破作七分』になる   
その反対にすれば『福過十号に過ぐ』とあります
たしか これは『御本尊』に認められていると思います
とにかく すごい力ごあるという事です  とにかく すごい信心です

池田先生が入信当時 生きていく意味を戸田先生に質問されてとき
「信心していけば わかってくるよ」と言われたそうです、
この前もいいましたが このところが私はとても好きです 心に残っています

※ 「師匠」の言葉に、忠実について行け。 これに急所がある。

[747] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月10日 (金) 05時16分

※ 「師匠」の言葉に、忠実について行け。 具体的には以下である。

◎ 文章・話・スピーチなどは 文を通して読む 
一番大事なことは 文を通して 相手の心を知ることです  芸術などもそうですね 
その心を知っていく人になっていくこと  
信心をしていると そういう「人の心のわかる人間」になっていくのです
心の広い 境涯が高い広い人間ということです   
人間革命していくことです 私もまだまだですが 少しわかってきました

※ 相手(この場合は「Mちゃん」)も諭すが、同時に自らも省みる。これが聞き手には納得できる。

※ 自らを責める『N子』さんの記述。
◎ 真剣になろうとしているけれど…(真剣に)なれない生命がある
( ぎりぎりにならないと出来ない )
素直に 〃        そうなろうと一生けん命に する事は出来る
(中略) 一番良いのは 前向きな人 頑張れる人 

※ 少し乱脈に書かれている。
◎ (縦書き) 悔いの無い生き方とは  一生けん命になれるものを もつこと
それが自身の成長(が)少しでも出来ると 思えるものであること。

※ 先ず、自分の生命の欠点に気付く事だ、とあり。すぐに紛動されてはいけないとある。 
そして、その事を『N子』さん自身も、最近気付いたとある。 どこまでも自身を見つめている。

********************************************************************************

※ そして、『信心』そのものの姿勢を言われている。 誠に必然だ。

◎ いいかげんな信心では むつかしいと思います 本気になって やって下さい。
波はあると思いますが、だんだん強くなっていけばいいです  いろいろ つきあたると思います
信心をするのは 本当はとても大変なことです 
その変わり(←その労苦の分) 境涯高くなり 人間革命・宿命転換できるのです
今から 池田先生に200号受賞のお祝いのお手紙を書きます では  

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※ 「薬の注意書き」の裏への走り書き(非常に字体が崩れている  判読 難たし)
◎ いいことは全部守れたと、多・少・弱・大なりに功徳のある・すべて自分の祈りのしせいにある
じゅうなんなしせい        悪いときに どれだけ自分に(ここで切れている)

※ NHK「短歌大会」参加申込書裏面への走り書き(非常に字体が崩れている)
◎ いろいろと少しは深くわかってきたけれど 実践は なかなかむつかしい  
みんな・自分(弱い)と思う)との戦いと思う これが一番むつかしい
すべて自分の業(ごう)  (業の)大きさによって 祈り・信心も大に    
じゅうなんなしせい・考え ( ←じゅうなんなしせいという言葉が、ここでも出てくる ) 
自分の祈りの大小によって 宿命転換、変毒為薬していける             
祈りプラス「自行」プラス「化他行」 ⇒ 心がともなってくれば最高
よいしょう(?)→したいに 勤行も そう  】

※ メモ的走り書き
◎ 大変なときに どれだけ 頑…   生命…きれいな生命で…
久々に息子といいあう 帰りぎわ久々いいあいをする 思いやりについての見方が 息子と合わず  


『N子』さんの葛藤は、その終焉の間際まで続いている。

[753] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月11日 (土) 04時14分


【 七月十五日に 十方の聖僧をあつめて百味  をんじき(飲食)を とと(調)へて 
母のくをは(苦をば)すく(救)うべし と云云 】 『盂蘭盆御書 1428P 10〜11行目』

( 広い意味での解説 ⇒ ) 遺児である「目連」が、上記の仏言に従った。
すると、餓鬼界に一劫の長期の苦悩に沈んでいる「目連の母(青提女)」は即(たちま)ち救われた。
この事により、釈迦滅後から現在に至るまで、故人の菩提をこの時期に『法』に則って行うのだ。
※(七月十五日とは陰暦での表記である)

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※ 『N子』さん御逝去までの、病床に於ける短期間の御記述を御紹介をしているが…。 
内容の要約は「Mちゃん」への深淵なる「愛情」以外には無い。


※ この頃『N子』さん御自身の難聴や幻聴が、彼女に襲い掛かっている。    
然し。『N子』さんは闘病生活の中にさえ「安易な惰性」を見出し排除されている。

※ 恩師・池田先生については、何度も強く念を押されるように…
その『稀有の高邁性・指導者としての完成度』を声高に宣言されて、圧倒される思いである。

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又。この多くのメモ帳の中に「普遍的」に漂っている『基盤』がある。
それが…『心こそ大切なり』『永遠の生命』という部分である。

※ この『心』という深淵の部分への媒介は…。
「文章」であり「短歌」であり「紡がれた文言」である。
 …これは…。  刮目の境地(人間革命の成就)と言えよう。
この文章の中に、「一首」の和歌が存在するので、御紹介したい。
☆ 『越して来し 息子にとりて 新年は   決意と希望の  船出の年たれ』

※ 『短命』という語彙にさえ、『N子』さんは決して怯まずに 
真正面から直視されて…『愛息「Mちゃん」に伝承しようと闘い続ける』

※ 命脈が尽きる直前の『母』は、
ここに来て尚、『歯切れの良さ』を求めて『生き抜く意義に挑み続ける…』  
なんと崇高ではないか。

※ 『池田先生の志を継げ!』と…。 『母』は「Mちゃん」に叫んでいる。  
雲霞の如くの弟子群の中でも「唯一の真弟子となれ!」と言うのだ。

※ 『N子』さんの言う「おかしな幹部」達に鉄槌を下す事こそ、真の弟子の生き様である。 
『獅子身中の虫』を最も忌み嫌うのが『真弟子』である。

※ 「Mちゃん」に対して、『母・N子さん』は言い切っている。
『「Mちゃん」は信心の深さのわかるリーダーになれる人』である。と…

※ 正しい「唱題・勤行」が、正しい「弟子」の直道である。と『母』は叫んでいる。 
まったくそのとうりである。  なんの愚壮に… 異存などあるものか。

※ 「メモ帳」の何番目かに、
『N子』さんは「役職と健康・及び心の隙間と魔」の事を端的に書いている。
これは、非常に深い記述である。

※ 又。「家族の信心」と「戦いつづける信心」の意味がメモ帳に書かれている。 
「広宣流布と健康」という深い意義が解かれている。

※ この項の最後に、「音楽隊・牙城会」に在籍した「Mちゃん」の使命が綴られている。
命を賭けた記述とは、何者も追い越せないものなのだ。

これ以外の『御記述』の方が圧倒的に多いが、これは拙き愚壮如きが書くべきではない。
然し。全ての人の『母』と同意の、この文集の片鱗は、伝えたかった。
「時期も時期である」と、御読み頂ければ幸甚ではある。 (まったく言い足りないが)

※ 「Mちゃん」様へ。   以上で『N子』さんの御遺言の記述を終ります。
御了解を得た事に、深く感謝致します。 A・Y(愚壮)

[758] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月13日 (月) 10時31分

『烙印』  (理由無き 悪しき決め付け)
「烙印は悪意に同居する」
これは… 歴たる創価学会員と自負して憚(はばか)らない「愚壮」が言う確信の『独り言』である。

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万が一   人知れず『烙印』に泣き 『烙印』に慄(おのの)く「同志」が居るとするなら、
それは、最も悲しむべき事であり、最も糾弾すべき事である。

想像もおぞましい事実を、再度指摘しておく。
悲しむべき『烙印』の典型は、最近の『創価学会教学部』が犯してしまった悲劇である。
( いや、これは…。 元々内在していた事であって「確信犯」なのかどうか、触れたくもない )

   以下抜粋は、迷ごう事なき『烙印』の証左である。 
   2011年10月12日(水) 第17441号の『聖教新聞』の社説。(再掲)
   以下抜粋 (再掲)
【 日興上人の精神を継承したはずの日興門流も今では完全に「葬式仏教」と化している。】 
        
上記の記事は、「文言への配慮が足りない・誤解を招く」という範疇を、飛びぬけておる。
『日興上人⇔宗門⇔極悪』という「十羽一絡げ」は『新編・御書全集』に照らしても、完璧なる『烙印』だ。

つまり…。上記の「宗門」という言葉を、とんでもない拡大解釈されている人がおるのようである。
いや。 「宗門」と聞くだけで、全身に拒否反応を起こして、言葉つきまで豹変する人がおる。

愚壮が(嫌われ 疎まれるのを覚悟で)言うのは、『宗門』にも「真贋」が厳然と有るという事だ。
「宗門」と聞くだけで、全身に拒否反応を起こす人に、ワシは言う。
「それなら、『新編・御書全集(御書)』を拝読する資格をも放棄せよ!」

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本来の『宗門』とは、これを披(ひら)けば 『(日蓮大聖人)宗祖の門下』である。
又。『門下』を披(ひら)けば、広く「僧俗」に亘る。 言い換えれば「全弟子檀那」である。

その上で、「宗門」に即。拒否反応を起こす人に、勧進する事がある。
それが『新編・御書全集』に御記載の、「冒頭の書」である。
@ 『発刊の辞』 戸田城聖第二代創価学会会長・御著文
A 『序』 第59世:堀日亨上人猊下・御著文

上記の文章を 「深く深く…更に深く」拝読した時に、「愚壮」のいう真意が見えてくる。
それが見えた瞬間に、諸々の難義は氷解するのだ。

書くのも反吐が出るが。
中興の祖『第26世:日寛上人』を、面罵の如く御卑下申す「似非者」が実在する。
此れ等の野放しの「原構図」が、かかる「歪曲」の増長に直結したのだ。

時間の経過 時代の変遷の中で「紛然」と何かが変わっていく…。
それの「顕著」が、下記であろう。
※『創価学会教学部の主説 ⇒ 日興上人を含む宗門否定』  
然し。残念ながら「上記」は、勿体なくも『御書否定』に直結する。


ここでもう一度繰り返して言っておく。   『私は 歴たる創価学会員である』

[763] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月14日 (火) 07時42分

今日は、8月14日である。
私は今。 初めて経験する「凄絶」の雷鳴の中…『六十五年前の今日』に、思いを馳せている。

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風聞ではあるが「正史」を述べる。

昭和22年8月14日 池田青年に会った「戸田城聖」は、先ず、青年の年齢を『いくつになった』と聞き、
そしてこう言ったと伝わっている。  『…そうか、19歳か…』
この瞬間、戸田城聖は…遥か彼方の自己を探すように、視線を宙に上げた…。

はたして「戸田城聖」の想いは何か…。
私はこの「戸田城聖」の想いを探る為、今迄何度も、時代を遡った。
それが1919年である。

1919年といえば、「戸田城聖」 19歳であった。  
されば…19歳の戸田先生は一体、どのような青年であったのか。    

而(しこう)して私は。
この年(1919年・大正7年)3月18日の「戸田先生」の日記に遭遇し、瞑目する。  

※@【 地の利にある。(中略) よろしく座を阪神とすべし。阪神の地これ商工の中心… 62P 】とある。
 (青娥書房:若き日の手記・獄中記)

つまり戸田先生は、
19歳(1919年・大正7年)にして既に 『阪神(関西)に座をつくるべし。』 と、言い切っていたのである。
又。この『青娥書房:若き日の手記・獄中記』発刊には、「池田先生」が『序』を書かれている。

その中で『池田先生』は 「恩師・戸田先生」との出会いの日を述懐されているので抜粋しておく。
 【  それ(昭和22年8月14日)は私の生涯における決定的な瞬間であった。 (以上抜粋) 】
 …つまり、上記の※@への、最強の証文である。 (既述 『若き指導者は勝った』)

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時代が「平成」に遷って、既に20年以上の時が流れた。
然し。 此(ここ)に来て、「聖教新聞」では何度もの虚偽を連ねている。
それが 【 「戸田先生」に、関西(阪神)の重要性を具申したのは『池田先生』であった 】だ。
上記こそ、『最大の**(確認後掲載)』であり、もっとも深刻な「師敵対」である。

近代の「創価学会」の歴史を繙いてみるに。
この記事に象徴されるほど致命的に『創価三代』を貶(おとし)める時代はあるまい。

殊更に『池田先生』を「偶像化」させる為に「誤謬」を垂れる…。
これは「側近」とされる 「最高幹部達」脚色の『大ヨタ』である。

「愚壮」という人間が今迄。 声を枯らして語ってきたのは『何の為』か。
延々と意味無く『御聖訓』を記述して、それで終わってしまうだけなのか。
(荒削りじゃが…)『若き指導者は勝った』の抜粋に、早朝から挑んだのは『何の為』か。

言っとくが…。『何の為』とは、
訳のわからん「歴史や法理の改竄」に血道を上げる「最高幹部達」への覚醒じゃよ。


これは「独り言」であるが…。ワシが「厚田の岸壁」に佇んだのも『十九歳』じゃったが、
この事(愚壮の19歳)は  『忘れ得ぬ風景』の今日の文章には、な〜んにも関係ない。

[764] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月15日 (水) 05時17分

『誤謬』
私説(己義)を吹聴するな。  『破良観等御書』
云く
【 経論(歴史の解説を含む)に わたくし(私)の言をまじへて 事(その解説の事)を仏説によせ・
或は 事を月氏(印度)の経によせ(依託)なんどして・私の筆(私言)をそへ(添)仏説のよしを称す】
以上 ⇒ 1291P 16〜17行目

【 在家の徳人等 挙(こぞっ)て  ※@日蓮を あだ(怨・敵視)するほどに・(中略)
※A 上(上層部・主体者・権力者)の奏すれども 
※B 人の主となる人は・さすが 戒力といゐ 福田と申し 子細あるべきかと をもいて 
左右なく 失(とが)にも・なされざりしかば・ きり(権)のもの(臣)ども・よりあひて
まちうど(町人・民衆)等を かたらひて(謀って・煽動して) 】 1294P 5〜8行目

※@ 日蓮を あだ(怨・敵視)するほどに ⇒ 『日蓮仏法』の正史を改竄する事。
※A 上(上層部・主体者・権力者)の奏すれども ⇒ 指導層が説く「誤謬」の事。
※B 人の主となる人は・さすが 戒力といゐ 福田と申し 子細あるべきかと をもいて ↓
指導層(上層部)の説を、その威力に由って「深い真相があるのだろう」と妄信する事。

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『六万恒河沙』とされる「地涌の菩薩」は、皆総て「法華経の行者」とするならば…
その「行者」である筈の「学会上層部」よる、たった一片の「誤謬・誤伝・ヨタ」も、これは許されない。

万が一。「学会上層部」が この瑕瑾を強弁するのなら、以下の『御聖訓』への冒涜である。
【 日蓮と同意ならば 地涌の菩薩たらんか 】 『諸法実相抄 1360P 6〜7行目』

…が。 これ以上の「学会上層部」批判は、気が滅入るので、今回は留める。

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扨(さて)。 今日は『忘れ得ぬ日』でもある。
今から六十七年前の今日 昭和20年8月15日。 日本は未曾有の「無条件降伏」に甘んじた。

「戦争ほど 悲惨なものはない…」とは、すべての同胞の同じ思いである。
あらゆる「思想」を乗り越えて、謹んで哀悼の誠を示すものである。

[767] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月16日 (木) 07時16分

『雑感の風景』
今朝の私には、ある人(御婦人)の「叫び声」が迫ってくる。

それは…私が長年住み慣れた街と「離別の日」であった。

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『この街を去らねばならない』という事実は、私には重荷であったが…。
「伝えなければいけない人」には言わなければならない。
御訪問の足取りは、重く 切ない。

何軒目かの御挨拶に、その「叫び声」は私を貫いた。
それが、以下である。

『 どこかへ行ってしまうの? 』と、初老の御婦人は申された。
『 何故 私達を捨てて行ってしまうの? 』とも申された。
然し。次の言葉に、私は凍りつく。

それが、関西弁で叫ばれた『声』であった。

『 なんで 愚壮はんが居れへんようにならなアカンねん 』
『 学会の上は なにを考えとんねん! 』
『 公明党は なにをしとんねん! 』

辛辣ではあるが、庶民の『声』は 最後にこう言った。
『 公明党は、何の為にあんねん! 』

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なぜか今朝は…。   あの日の『風景』が甦(よみがえ)る。

[769] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月17日 (金) 05時33分

『師弟』

「師弟の規範は、先輩・後輩で決めてはいけない」
これが『日蓮仏法』の不動の原点である。

『在在諸仏土常与師倶生』という誠に重い文言は、その事でもある。
これは「戸田先生」が語った御指導の中にも、はっきりと書かれてある。

されば 『御書・御聖訓』の中では、どうなのか。
【 日本の聖徳太子は 人王第三十二代・用明天皇の御子なり、
御年六歳の時・百済・高麗(こま)・唐土より 老人どもの わたりたりしを…
六歳の太子・我が弟子なりと・をほ(仰)せありしかば…
彼の老人ども 又合掌して (太子は)我が師なり 等云云 】
『開目抄下 212P 15〜17行目』

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誠の師匠は、「自分より経験の少ない人を排斥する者」には、探し当てる事は出来ない。
極論すれば…誠の師匠は『青年』の中に居る。

…これが『規範』である。

[774] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月18日 (土) 05時27分

『自然』

【 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし (後略) 】
『開目抄下 234P』
全ての(…と言っても過言ではないだろう)同志が、この御聖訓に奮い立った。
直近の「きょうの発心」でも、本講義が成されておる。

この御金言の中に 『自然』という文言がある。
皆は、ここを「自然(しぜん)」と読む。 (御書の読みは「ジネン」であるが…)
現に、直近の「きょうの発心」でも講義の中で、単に「自然(しぜん)」と解釈しておる。

然し。 愚壮は「しぜん」とは読まない。 
所以は何(いか)ん…  自然(しぜん)とは「トコロテン(労なき押し出し)」であるからだ。
「トコロテン(労なき押し出し)」とは、な〜んにも悩まずに『仏界の境涯』に至たると思い込む事だ。

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云うて悪いが…。
「自然」とは  『自ら然らしむ』 つまり「毅然たる能動」である。

『日蓮仏法』の根幹は、「座して宿命転換を待つ」のでは、断じて無い。
闘い・悪口罵詈される過程での「人間革命」の完成である。

ところで… この『人間革命』だが。   これにも『落とし穴』がある。
『開目抄』の上記の御聖訓を、「自然⇔しぜん」と読む人に言う。
「成仏の境涯」も「人間革命の完成」も、「しぜん」と拝する間は、
貴殿の「信心」は、これは覚束(おぼつか)ない。 いや、視野の幅が狭い。

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「愚壮よ、それでは お前はどうなんだ」という人に、謹んで『御書』を贈る。
【  法華経の行者として・かかる大難にあひ候は・くやしく おもひ候はず、 
いかほど生をうけ 死にあひ候とも 是(これ)ほどの果報の生死は候はじ、
又 「三類の強敵・三障四魔」にこそ候いつらめ、
今は生死一切断し 仏果をう(得)べき身となれば・よろこばしく候。 】
『四条金吾殿御返事 1116P 1〜3行目』

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昔からの「諺(ことわざ)」に 『名は態(体)を顕(現)らわす』 というのがある。

今般。 愚壮が、 「或る人(T氏)」との対話に踏み切ったのには、極めての決意がある。
それが、
「見識の深さ・重厚さ・人と足るべき配慮・慎ましき人柄」等々を直感したからである。

「貧乏人と病人の集まり」と揶揄さえた事は、それがそのまま「創価学会」の誇りであった。
それが今や。 創価学会の表看板である『聖教・御書講義』にして「勘違い」を垂れる。

『日蓮仏法』とは、『創価学会』とは、そんな浅い処には無い。
その典型が、今般「きょうの発心」の通解の間違いである。

もう一度言う。「自然」は「しぜん」ではなく『自ら然らしむ』である。

[777] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月19日 (日) 06時06分

『在在諸仏土常与師倶生』
>これは「戸田先生」が語った御指導の中にも、はっきりと書かれてある。
↑ 『忘れ得ぬ風景』8月17日投稿  (青娥書房・若き日の手記獄中記・抜粋)

(ママ) 【  K雄さん(妹の主人宛ての手紙)、
城聖(城外改め)三日(昭和二十年七月三日)の夜 拘置所を出所しました。
思えば、三年以来、恩師牧口先生のお供をして、法華経の難に連らなり、
独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。

おかげをもちまして、身「法華経を読む」という境涯を体験し、
仏経典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、
現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、
日本を救い、東洋を救う一代(一大か?)秘策を体得いたしました。(中略)

※ ここからが『戸田先生』の本意・究極である。

私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。

『在在諸仏土常与師倶生』と申しまして、
師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供(功?)力によりまして、
同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、
何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。

私と牧口常三郎先生は、この代きりの師匠弟子ではなくて、
※@ 私の(が?)師匠の時には牧口先生が弟子になり、
先生が師匠の時には私が弟子になり(ま)して、過去も将来も離れない仲なのです。 】

********************************************************************************

ここ(※@)での「戸田先生」の『法華経の経文』への炯眼を、見逃しては話にならん。
つまり。言い換えれば「炯眼」とは、比類なき「洞察力」である。

「正法」を正しく「正法」と観る。 これを「最高幹部」の皆が、正しく出来ておらん。
正しく出来ておらんクセに、「高みからモノを言う」…。

「ほう… 腐れ儒者の愚壮よ。 貴様は言わせておけば限(きり)がない、一体全体…どこが悪いんだ」
『そこまで垂れるかヨ 腐臭の自称最高幹部殿よ。 …それなら言ってやるワイ』
『日蓮大聖人が、その御記述の中で申された 【偏頗の法師 ⇒ 『新尼御前御返事 907P』】とはお前じゃよ』
『教えておくが…「偏頗の法師」とは、お前等の如き「不公平の指導者」を言うんじゃよ。』

逆心を隠然と闇に隠して生息し 『創価三代』の威光にすがって「メシ」にありつくのみの「一部の似非幹部」は
【草創の無辜の「学会員さん」の『師弟不二』の信心を、そのまま継承している真の弟子】には、不要の存在じゃ。

…と。鼹(もぐら)如きの「愚壮」が垂れても、たれも聞かぬ。
然しワシは、死んでも「退転・黙視」という「最下品(さいげほん)」の選択は 決めて無い。  悪いがのゥ…

[778] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月21日 (火) 05時36分

『使命』を見据える。

「俺は 今までも十分(結構)やっている」と言い
「俺は これからも十分(結構)やっていく」と思っている。
こんな人間に限って、「学会員さん」を『末端』と蔑んでいる。

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『やるべき事』を探求もしなければ、薄っぺらい自我に塗(まみ)れた実績に満足している。
それでいて、放置されるや「顔色を変えて」噛み付く。
こんな奴に限って、「日程」のメールなどに「自分の言葉」をいれないで送りつける。

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煎じ詰めれば…。
『同苦』がない。 『何の為』がない。  『配慮』がない。 
…つまり 『使命』を見据えていない。 

【 火は 焼照(やきてらす)を以(もっ)て行(使命)と為し・
水は垢穢(くえ)を浄(きよむ)るを以て行と為し・
風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し・又 人畜草木の為に 魂となるを以て行と為し
・大地は草木を生ずる(萌えて初めて)行と為し・天は潤すを以て行と為す 】
『草木成仏口決 1338P』

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「やるべき事」を『使命』というのだ。
連綿・自己を慰撫するのみが、「使命(行)」である筈がない。

『やるべき事を黙ってやり抜く』 ここに本来の「大丈夫(ますらお)」が存在する。
…といっても、「会合屋」「日程屋」「数字屋」には死んでも納得出来まい。

[779] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月22日 (水) 05時36分

『同志誹謗』と『幹部批判』
これは「転地雲泥」「黄金と糞」 決めて同列で議論すべき課題ではない。

『同志誹謗』は「法理の根幹」であり、本源的に「有ってならぬ事」「謬事」である。

それに対して『幹部批判』は「曲直の行為」で、云う人は「人柱・捨て身の覚醒」である。
但し、『幹部批判』の当該者は…「言われてナンボ」と開き直って、聞きもしない。
そこで残るのは、言った奴への『無視と烙印』である。

それは何故か…。

それが、組織が長年かけて(徐々に)やってきた『誤謬の歴史』が効奏しているからである。
つまり「圧倒的大多数の善良な学会員さん」への『洗脳』が成功していると、彼等は思っている。

********************************************************************************

故に、「厳格な仏法の法則」を、微かに密やかに曲げて、恰(あたか)も『正史』と吹聴する。
それも、「公然と反論出来ぬ人の名」を利用し、「反論」を封殺して「誤謬の吹聴」をする。

御念の「最右翼」は、その『誤謬・誤正史』を「正統の機関誌」等で撒き散らす。
その根元にあるのが「最高幹部達自身」の『保身』のみである。

『誤謬を垂れてはいけない』という「声なき声」を、彼等 中枢の人間は強行したきた。
それはあの、「どっちに何人付くか」という貧困の発想の産物で、
『日蓮仏法』の痕跡も風味も「とっくの昔」に置き忘れた「抜け殻」である。

********************************************************************************

「牧口初代会長」が申された『偽札は精巧な程 罪が深い』とは、この事である。

善良な筈の「学会員さん」までも「勘違い」させる『誤謬』は、「百罪の源」である。
このような『末法万年尽未来際』を、反古にするような「愚行」は即刻、撤回せよ。

[786] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月23日 (木) 04時54分

『幹部批判』 A

『 ○○ 副総大阪長』という御人が居た。
( 為念 : 人名のイニシャルを記述しないのは、その人の特定を避ける為 )

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この人は、愚壮が「支部長時代」に、殆んどの「B座」に入って下さった。
何がキッカケで、そうなったのか…は、これも「個人」の特定に繋がるので書かないが。
徹底した「同苦」の人・「学会員さん」念(おも)いの人であった。

この人の欠点は、これは有った。
それが、愚壮が(勿体なくも)担当させて頂いた「支部」の地理が把握できない事であった。
(  いや。本当は(地理を)全部掴んでおられたのかもしれない… )

この「支部の地理が掴めない」事が幸甚して、勢い毎回、私が道案内をした。
なんせ、「猫の通り道」まで知り尽くした愚壮である…とは、「聞かれもしない自慢話」だ。
( これも、「道案内」という役目を私に与えて、「精髄拝聴」の機会を頂いていたのか )

繰り返すが… 「副総大阪長が、支部の地理が掴めない」事は、実不実の幸運である。 
…という事は。 その都度の「座談会」に、私も同座できたのであるから…。

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この「最高幹部」が、駅までの道々に 必ず私に言われた言葉がある。
『愚壮さん…、  今夜の僕の話。 あれでよかっただろうか』
『あのような話の内容で、皆さんは喜んで下さっただろうか…』

前回も、前々回も 副総大阪長は 同じ事を言われた。
『会員さんは、喜んで下さったのか』 これしか問わない最高幹部。
私は、この人の中に 「真実の幹部の姿勢」をみたのである。

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どこまでいっても  唯だ唯だ「学会員さん」の事だけを念(おも)う人。
この人が 『真実・本当の学会幹部』である。

「金魚の糞」よろしく、ゾロゾロと「地元幹部」を従えて大広間に御登場の『輩』が、
なんで「幹部」であるものか。

口では「お一人 お一人」言いながら、口振りは「高見」であり「睥睨」であり「高慢」である。
こんな奴に限って、二言目には「先生・先生」と、心にも無い事を吐く。

愚壮が声高に『ヨタ幹部・似非幹部』と言うのは、こんな輩であって。
『 ○○ 副総大阪長』の如きの人ではない。

なんなら、「冥土の土産」に実名をかいてもよい。
…と。 興奮醒めやらぬ「愚壮」である。

ついでだから言っておくと…。
この『座談会幹部』に、こんな事もあった。
それは、私が「地区部長時代」の出来事である。
当時新進の「H圏男子部長」。 この人を座談会の担当幹部として御招聘したのも、
この愚壮地区部長の「離れ業」であった。
上記の類似は、数えれば限(キリ)がない。

つまり私は、「役職」ではなく 「人物の品位」で判断していたのである。
ワシの真意(心)は、『役職』を※拝命した人(男女に関係なく)に来て頂く。
「役職」でものを言う奴は、絶対に呼ばない。 これは「当然」であった。

[788] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月24日 (金) 05時28分

「批判をしなければいけない者達」の共通点。

【 方人(かとうど)なるやうにて 御けうくむ(教訓)候なれば・
賢人までも 人のたばか(謀)りは・おそろしき事なれば・
一定 法華経を す(捨)て候いなん…】
『上野殿御返事  1539P 7〜12行目』

味方のふりをして退転を(暗に)迫る者が居る
(我れは「確かなる弟子」なりと高言する者が退転を助長する)
この御聖訓の骨子は⇒ 同志の退転を助長する者は、「弟子」であるという事だ。

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こういう「自称弟子」には、共通の顔を持っておる。
同志を平気で「睥睨」し、  同志を平気で口汚く罵(ののし)る。
たとえば…「あなたは駄目」 「あれらは邪義」等々 枚挙にイトマがない。
( 先ず、 どうしようもなく言葉が 汚い )

一転して自分の事となると 「俺はその点 賢いんだ」という際限なき「高慢」である。
まったく「鼻持ちならない」と断言しておくが…なんか、どこかで見た記憶がある連中だ。
とも角、この者たちは 真摯に『御書』を拝していない最強の証拠でもある。

「私は池田先生から任命された、高度の幹部である」と高言する輩が、「魔」の筆頭である。
『御書』の「御聖訓」を どのようにヒン曲ゲテ拝読しているのか…伺いたい。
( …というよりも。 これは、伺う事自体が空恐ろしい。 )

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そこで『同志誹謗』が出てくる。
何がどうであれ 『同志誹謗』が最もの避けるべき事である。
【 殿は 腹悪(あし)き人にて よも用ひさせ給はじ、
若し さるならば 日蓮が祈りの力 及びがたし 】
『崇峻天皇御書 1172P 14行目』

※ 腹悪(あし)き人 ⇔ 激情の人・境涯で同志の高低を量る人
※ よも用ひさせ給はじ ⇔ 万が一にも(祈りが)叶わない事 
極言は ⇒ 「同志誹謗の人の祈りは絶対に叶わない」である。 

そんな「同志誹謗」に明け暮れる連中を
【 恩をしらぬ人 】 『清澄寺大衆中 895P』と謂い。
【 よく(欲)ふかく・心 をくびやう(臆病)に・愚癡にして・
而(しか)も智者となのり(名乗)し・やつばら(奴原)なりしかば 】という。

『新尼御前御返事  904P 906〜7P』  『聖人御難事  1191P』


つまり、本稿で言いたいのは。
口汚く、必要以上に「同志」を罵る輩は ↓
【 日蓮が弟子にも をはせず 】 『大尼御前御返事 908P』なのである。

[797] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月25日 (土) 06時38分

『同志誹謗』は最極の悪である。

【 法華経をば 経のごとく持(たも)つ人人も・
法華経の行者を貪瞋癡(三種類の退転思想)により
或(あるい)は世間の事により 或は・品々のふるまひ(振舞)によって憎む人あり、
此(これ)は法華経を信ずれども 信ずる功徳なし か(変)へりて罰を かほ(被)るなり、
(中略)  何(いか)に況や 出世間の師をや、何(いか)に況や 法華経の御師をや 】
『 日女御前御返事 1247P 抜粋 』

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通解は、こうだ。
今現在 『日蓮仏法』の究極の規範のママ    「創価学会」の同志としての立場でおる者。
つまり、日々に『御本尊』を拝し、『御書』を繙き、「広宣流布」を祈念している者も…
『御聖訓』に説かれている「法華経の行者」の行動の人を 掴まえては、論(あげつら)う。
( 論(あげつら)うとは、一般の学会員さんへの侮蔑・軽蔑・睥睨・罵倒等々が含まれている )

その「法華経の行者」への誹謗の内容も、
例えば… 誹謗する者自身の三毒(貪・瞋・癡)に誑(たぼら)かされる故の言動であったり。
又 一般世間・一般世論への「付和雷同」であったり、 
「法華経の行者」の日々の振舞への「難癖」であったり。…と、様々である。

然し。こういう「難癖の輩」には、
いくら『私は創価です』と壮言しても、根本的な「法華経の功徳」は得られない。
こういう「輩たち」は。
必ず「仏罰」を蒙(こうむ)り、現身に「阿鼻の依正⇔極聖の自身(十界互具の真理)」を見る。

なぜか。  それは「根本の師匠(日蓮大聖人)」に対する「反逆」であるからだ。(通解 ここまで)

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…これは、一昨日の事じゃが。
聖教新聞連載の『新・人間革命 厚田の章』を、感慨も深く拝読しておった。

この記述の中で、ワシは「ある事」に気が付いた。
(ママの最描は 面倒なのでハショルが…。)

それは、「善と悪」の中での、一節であった。
『敵 味方を峻別せよ』という「戸田先生」の御指導からはじまり、
『悪を 悪と見破る』で決着する部分である。

ワシは、腐った脳味噌で考えた。
「この指導には、悪への指摘はあるが 悪の実態が省かれている…。」
つまり『悪とは これだ!』という解答が無い。

そういえば、私が「出来の悪い男子部時代」の先輩の言葉がある。
『行間を読め』が、それである。

「行間もヘチマもあるものか…最近は文字も忘れた…」とも言えずに困っていた。
すると、横の「老妻」が このようにほざいた。
「悪を見破るなんて、婦人部はみんな知ってるわ」
「悪は己心の魔の事よ」

この瞬間に閃いた事がある。
『同志誹謗』も実は… 「己心の魔」の仕業なのか…と。
言っとくが 「老妻」とて 同志であるワイ。

[803] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月28日 (火) 05時52分

『同志誹謗』の原点は「御本尊」を信じていない事である。 つまり⇒『不信』である。

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では問うが、『同志』とは何か。  それは、読んでの如く「同じ志」の人。
つまるところ…。 『日蓮大聖人』が顕されてた『御本尊』を信じて、日々に生きている者を言う。
これは、『日蓮仏法の根幹たる御本尊を信じて、正法を供奉している人』全てを言う。
ここには、あらゆる「垣根」が存在する事はない。

問題は、「御本尊を正しく奉じながら、同信の人を誹謗する」事にある。
これは、(卑近だが)「猿の尻(ケツ)笑い」の行為で、愚行の最たるものである。
※「猿の尻(ケツ)笑い」 ⇒ オノレの尻の赤いのを知らずに、他の猿の赤尻を嘲笑う事。

【 十四誹謗も不信を以て 体(原点⇔基幹)と為せり 】『念仏無間地獄抄 97P』である。

【 若し人 一つの悪言を以(もっ)て 在家・出家の「法華経を読誦する者」を毀訾(きし)せん
其の罪 甚(はなは)だ重し 】  『法蓮抄 1040P』

【 末代の「法華経の行者」を怨(あだ)める者は 何(いか)なる地獄に堕つるや、
答えて云く (中略) 経を読誦し書持すること有らん者を見て 軽賤憎嫉して
結恨(けっこん)を懐かん 乃至 其の人命終して阿鼻獄に入らん (尚 その後)
一劫を具足して 劫 尽きなば 復(再び)死し 展転して無数劫に至らん 】
『法蓮抄 1042P』

上記は、『同志誹謗』の結末の、ほんのサワリの御聖訓である。

[804] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月29日 (水) 05時36分

『同志誹謗』は厳然たる「法華経誹謗」そのものである。

【 蒙古国は雪山の下王のごとし (※雪山の下王⇒憂国の士・誅殺の志士) 
天の御使として「法華経の行者」をあだ(怨)む人人を罰せらるるか 】
『異体同心事 1464P 3〜4行目』

(通解) 国を挙げて『日蓮大聖人』とその師檀に対する迫害に、
憂えた「天⇔不動の規範」が「法華経と法華経の行者」への誹謗を諫めた「蒙古事件」である。
( 法華経の実践者への誹謗は、森羅万象への反逆という意味である )

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【 「若しは 在家にてもあれ 出家にてもあれ、法華経を持(たも)ち説く者を
一言にても毀(そし)る事あらば 
其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間 直ちに毀(そし)り奉(たてまつ)る罪には勝れたり」
(中略) ※ 或は 「若実若不実」とも説かれたり、
(中略) 忘れても法華経を持つ者をば 互に毀(そし)るべからざるか、
其故は 法華経を持(たも)つ者は 必ず皆 仏なり
仏を毀(そし)りては 罪を得るなり。 】 『松野殿御返事 1382P 8〜11行目』

上記『松野殿御返事』の御聖訓は、同志誹謗を徹底して責められた御文である。
特段 ※印からの以降は、「若実若不実」⇒たとえそれが真実でも虚偽でも…
「御本尊」を供奉する者への誹謗は、絶対に避けよ。 とある。

この「大原則(若実若不実)」を悪しく利用して、『同志誹謗』に明け暮れる者に申す。

今。日夜朝暮に、さんざん垂れる「悪口」は、『誤謬への警鐘』以外はやってはならん。
つまり…。 御聖訓が適用されるかの「正否」は論外としても、百悪の極限は『同志誹謗』である。

[806] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月30日 (木) 05時37分

我れは、同志を軽んじていないか、同志を賤(いや)しんでいないか…と 胸に問え。
常にこの事を自問自答しゆけ…。 これは、私の先輩が与えてくだすった言葉だ。

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【 「※此の四人」は(煎じ詰めればこの者達は)遠くは法華経のゆへ 近くは日蓮がゆへに 
命を懸けたるやしき(家・屋敷)を 上(かみ⇔国家)へ召(没収)されたり、
日蓮と法華経を信ずる人人(※此の四人)をば 前前(さきざき⇔爾後・向後・今後)・
彼の人人(※此の四人)いかなる事ありとも・かへり(顧)み給うべし 】
『崇峻天皇御書 1172P 10〜12行目』

上記は、「荏柄の殿原(四人の武士)」たちに対する、
四条金吾の持つ、潜在の偏見素地を破折された「御指導」である。
( 御書の、その御記述全体の大綱を拝読しないから、誰かの如く…
『弟子の中では四条金吾が最右翼の秀才』と、ベタほめの「誤謬」を垂れる。
つまり、『日蓮大聖人』を「師」と仰ぐ弟子達に、第三者が「あれはドウ、これは駄目」とは言えない。
最後は「御本尊と自分」「師匠と自分」という意味は、この事である )

「俺が一番エライ…」と称する「輩」には(何を言っても無駄だろうが)以下を拝読せよ。
【 …四に 劣れる者(経験や教学が未熟の者)に慈悲あれとは
我より劣りたらん人をば・我が子の如く思ふて礼儀 いささ(聊)か・をろ(疎)かに思うべからず 】
『上野殿御消息 1527P 6〜7行目』

その経験の有無に関わらず、『同志誹謗』を決めて自ら根断せよとは、これである。
然し…。何度も言うが「反論でない構造をイイ事に、「誤謬」を吹聴する輩には、どこまでも言え。

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…と言っても、 聞かぬ奴は聞かぬ。 哀れな事じゃ。
【 忠言は耳に逆(さから)い 良薬は口に苦しとは 先賢の言なりや 】 
【 命をきらう 佞人(ねいじん⇔おもねる者)は諫(いさめ)を用いずと申すなり 】 
『八幡宮造営事 1105P 4行目』

ともかく、きっちりと拝読せねば つまらん。

[810] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年08月31日 (金) 05時34分

『同志誹謗』は、即『師敵対』に直結する。
日頃、事ある毎(ごと)に「村雀」の如く『先生・先生』と垂れる。
それはまるで「電車内で遭遇した園児の群れ」よりも五月蝿く、往生する。
言ってる御本人は、その『先生・先生』と垂れる「心」で、同志を睥睨する。

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「時・不相応」の先生の御指導の片言を掴み出して、自らの「善き弟子振り」を喧伝してみせる。
このような「輩」の本心は、『舌先三寸の大嘘』で創価学会の組織を「篭絡」こそすれ…
『御書』を根幹にした「末法の真正の仏法」を身・口・意で実践する気配もない。

「人として、信頼に値する言動」が、おのずから(自然体の振舞)の中にも滲みでる…。
賢明な民衆(学会員さん)の総意は、その部分に着目している。これが「直感」である。

無辜の人たちが具足する『この人は なんか、おかしい』という部分を、どう擦り抜けるか…。
これが「自称・最高幹部達」の第一義でもある。
これが、知らず知らずの間に「師匠」に対する揉手となっている、言い換えれば「保身」なのだ。

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【 日蓮を信ずるやうなりし者どもが 日蓮が か(斯)くなれば (「かくなる」とは「流罪」)
疑(うたがい)を をこして法華経を すつ(捨)るのみならず 
かへりて (師敵対の心が惹起する事) 日蓮を教訓して
我 賢(かしこ)しと思はん 僻人等が 念仏者よりも久(ひさし・長期)く
阿鼻地獄に あらん事 不便(ふびん)とも申す計(ばか)りなし 】 『佐渡御書 960P 1718行目』

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上記の如くの「輩」が、現代にも蠢いている。
それが「牧口先生・戸田先生・池田先生」の「最深部」に継承されて来た「事実の破壊」である。

【 若し聖人の製作と号し 後代に伝えんと欲せば 宜しく卑賤の倭言を改め 漢字を用ゆべし 】
『五人所破抄 1612P 5行目』

そのまま・ありのまま、の真意を歪めてまで「師匠」を神格化する。
これが 最たる『師敵対』である。

[811] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年09月01日 (土) 08時16分

『同志誹謗』は『師敵対』に直結する。
加之(しかのみならず)…。それは『忘恩の極み』である。

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【 譬(たと)へば 小臣が大王に敵し 子が親に不幸(孝養を尽くさない事)なるがごとし 】
『諌暁八幡抄 581P 14行目』

何故『忘恩』が『師敵対』か。
【 日蓮云く 一切衆生の同一苦は 悉(ことごと)く 是 日蓮一人の苦と申すべし 】
『諌暁八幡抄 587P 9行目』

【 親に背(そむ)いて敵に付き 刀を持ちて自(みずから)を破る 】
『忘持経事 977P 初段』

【 父母の面をふ(踏)み 天子の頂(いただき)をふむがごとくなる者
国中に充満して 上下の師となれり 】 『瑞相御書 1142P 13〜14行目』

【 譬へば 若き夫婦が 夫は女を愛し 女は夫を いとおしむ程に・
父母ののゆくへ(行方)を しらず 】『一谷入道御書 1328P 10〜11行目』

【 内へ入れば主なし・やぶれたる家の柱なきが如し 】『妙法比丘尼御返事 1418P 12行目』

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本来を見失う…。
是ほどの最悪はない、  ここをいつも、思惟せよ。
…こう思う。

[812] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年09月01日 (土) 16時03分

これは、富士宮ボーイ掲示板に於いての事である。
ここで「S」という人物が、非常に筋の通らぬ「難癖」を垂れておった。
常連の『A氏』から、早速の御丁寧なる投稿があったが…、面白くは無い。

所謂(いわゆる)、「宗門信徒」(法華講)の人に対して、
ワシの論調は、最近 ヤヤ穏便になってきておる。
これには、アチコチから。
「愚壮よ、そうではなく もっと厳しくなければいかん」という声も知っておる。

…が。 じつは最近。(…と言っても、小十年くらいの事だが )
我が「創価学会員」にも、甚(はなはだ)しい『異端児』が居って、
のべつ「悩乱言」を吹聴するようになった。

「完全に狂っておる」とは、『日蓮大聖人』の顕された「精髄」からをいうのであって、
御当人の精神状態を云云するものではないが…。
どう斜めに見ても、承服致し兼ねるのは、愚壮一人ではなかろう。

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この手の状態の惹起は 残念ながら…、ひとり『宗門』の責任ではない。
『宗門』を、そのように「大怨嫉」させてしまった『創価学会』にも問題は、これは在る。
( そのような能天気を、公開の場所でホザク「愚壮」も悩乱しておる。と言うから 物議があるのだ ) 

反問すると。こうである。
元々(元来) 『宗門』と『創価学会』は「濃血の親族」である。
それが、何故 こうなったのか。というのが「根幹」である。

よく見聞する「言葉」に…。
「死身弘法の三代の歴代会長」というのがある。
又。『法燈連綿七百年』という言葉も実在した。

「大石寺には塩も貸すな」というふうに貶(おとし)めたのは、紛れもなく宗門自身である。
それを(紆余曲折はあったが) 本筋の苛烈な「折伏行」で興したのは、一体誰か。
この事実は、宗門にとっては「一応の弱み」でもあった。
だからこそ。 「神秘の血脈相承」を、殊更に表面に無理押ししたのだ。

「創価学会」にも、痛くない腹を探られる出来事があった。
「宗教法人」の取得が、それである。
これは(真義はともかく) 『宗門』から見れば、背信にみえた。

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…が  然し。
この事すら(死身弘法や法燈連綿七百年や宗教法人) 枝葉である。

本筋は、『御書』にあった。
実は、 この『最もの究極』である、『御書に纏わる正史』こそ、真相を知る「要(かなめ)」である。

誠に、『第59世:堀日亨上人猊下』の御存在ほど、不思議極まる事はない。
この事を中心にして、現今の「ボヤケタ部分」を探索すると、
あの有名なる「御聖訓」が姿を顕され…。 自ずからの視界も、又、開かれるのだ。

その時初めて  「俺が正しい お前が悪い」という「ナスクリアイ」が、
何(いか)に虚しく、非発展的であるかが、如実に納得できるのだ。

『何としても 納得したくない』…。
今。双方は ここに固執している。

[815] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年09月02日 (日) 11時04分

この『忘れ得ぬ風景』が「公開」されたのは2003年6月ころ(であろうと記憶する)
「創価仏法研鑽掲示板」(管理者・小野不一氏⇔通称「斧板」)に投稿を始めたものであった。

これへの初投稿の文章の「題名」が『忘れ得ぬ風景』であり、ハンドル・ネームが『愚壮』であった。
その内容は、自身の「自衛隊時代」に訪れた、厚田の思い出と、
その後に入会した「創価学会」への思いを重ね合わせて綴った「自伝」である。

その記述内容は、今現在であったり、幼少時であったりと、まとまりはなかったが、
「創価学会員・愚壮」としての思い入れは、(大いに自画自賛だが)充分に表現されていた。

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「斧板」に於いての「自身の掲示板デビュー」は、覗き見を好む風潮とあいまって好評であった。
具体的には「創価道場(ネットの名前)」でのセンセーショナルな『―風景』の紹介もあり。
ほぼ、「一部学会員のネットユーザー」の中に浸透していった。
(これには、管理者・小野不一氏の特別の好意があった事を見逃してはいけない)

『創価学会の諸活動』の重要性に主眼を置いた投稿は、その後も続いて、今にある。

然し。 この「斧板」で事件は起きた。
それが、「死刑の是非」を巡る論争であった。
「極悪には死刑も止む無し」とする私に、「創価学会」の根幹は「死刑否認」であった。
( これは、創価学会云云の已前の問題で、『日蓮仏法』即『生命の尊厳』である )
この「本音と建前」の彼我の譲らぬ「拡大解釈」が、管理者・不一氏の「愚壮への」批難になった。

その事があって 私は「創価仏法研鑽掲示板」(管理者・小野不一氏⇔通称「斧板」)を去る。

「創価仏法研鑽掲示板」を去った私は、「富士宮ボーイ掲示板」に移行して投稿を続けた。
ここでも、私特有の「硬派・自在・穏健・確信」が、ネットのそれぞれの人に、ある意味の興味を与える。


K市 I町で、私が「支部長」を拝命したのは 平成12年11月18日である。
この「支部長時代」に、中部・岡崎のメンバーと「支部交流座談会」が当地であった。
この支部交流の中に、あの『M支部長(現在・副圏長)』が居られた、

『M支部長(現在・副圏長)』との初対面の挨拶は、普段と何ら変わる事なく交されていたが、
突然、『M支部長』が言った言葉が、いろいろな意味で「大きな役割」を語っている。

では、『M支部長(当時)』は 初対面の私に、何と言われたのか…。
【 Y支部長! あなたは…「愚壮さん」ではありませんか? 】であった。

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「富士宮ボーイ掲示板」での『忘れ得ぬ風景』の投稿は続いていたが、
ある日、「おにゆり氏」より打診の連絡が入った(2007年の末頃か、2008年の始め頃か…)

打診の内容は以下。
@ 「創価仏法研鑽掲示板」以来の長期間『忘れ得ぬ風景』を読んでいる。
A 「富士宮ボーイ掲示板」(以降「FB」と表記する)への移行後も、読み続けている。 
B しかし「FB」は、その(掲示板の)構造上、当該文章が下がって行く。
(※ 「FB」は、全ての「投稿文」(以降「ログ」と表記)を一箇所で掲示するので早く消える )
C そこで、『忘れ得ぬ風景』専用の掲示板を作成して、継続を待つ読者の為に提供したい。

以上が、見知らぬ「おにゆり氏」からの連絡の大意である。(実際の御文は丁寧である)
この時点で、『忘れ得ぬ風景』の流離(さすらい・彷徨)は、事実上完了した。

私は「FB」に於ける『忘れ得ぬ風景』の「ログ」が、過去に流れ消える事は知っていた。
然し。何の接点もない「おにゆり氏」からの提案には、驚いた。

ただ・岡崎の『M支部長(現在・副圏長)』との間に実際に起こった事は伏線としては有った。
そもそれが…率直な「学会員さん」の、『忘れ得ぬ風景』に対する評価であるとするならば。
「もし、この『風景』を読まれた人が、勇気と確信を掴んでくれるなら…」と昇華する。
私はその時初めて、「おにゆり氏」の懇切な申し出を請けたのである。

ところが、又しても「事件」は起きた。
それが「K市を去らなければいけない」という事態への直面であった。
平成21年4月5日。 私達夫婦はK市を去った。
K市への「再帰還」は、平成22年(2010年)4月25日である。

『忘れ得ぬ風景』の遮断は、平成20年8月(初代圏長の事)〜平成24年5月3日までである。
この約四年間の空白を突きつけられた現実は、
今まで延々と『忘れ得ぬ風景』に委細を紹介していた手前、誠に辛かった。
それは…「創価学会員」として「負けている自分」を認識せざるを得なかった事である。
また。私達夫婦にとっても、それは「労苦と辛吟」の連続であったと言ってもよい。

『日蓮仏法』を生き甲斐とし、実践してきた人間が「負けたまま」ではいけない。
この上記の重圧は、より一層、私の(対・創価組織への)言動を過激にしていった。
『御書』を狂ったように拝読し始めたのも、「現実への反感」であった。
そんな中で、一つだけだが掴んだ事がある。それが良否併せた「現実への直視」である。

私自身の晩年の生甲斐でもあった「ネット」が、「Mちゃん」の御労力で繋がった。
これが、平成24年5月の初めである。

本年(2012年)の『忘れ得ぬ風景』の「再投稿」に先んじて、
ハヤル気持ちを抑えて 『忘れ得ぬ風景』の「ページ」を開いた。
実に… 四年振りの興奮であった。
「もう、消滅しているだろう」とも思った。


然し。事実は違った。 『待っていてくれた!』と私はその時 叫んでいる。
この『忘れ得ぬ風景』の復活を待ってくれる人が「複数」に亘って存在した。
就中。 管理を買って出た「おにゆり氏」の心情には、大きな衝撃を受けたのである。

「おにゆり氏」への感謝の気持ちは、『忘れ得ぬ風景』のように続くであろう。

この「報恩」の心を無くした時。 私の人間性(否。人生それ自体)も消え往くのだ。

[825] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2012年09月13日 (木) 05時30分

2012年(平成24年)9月13日 遂にこの日を迎えた。
思い起こせば2007年7月17日に、合同庁舎(過日の地裁)に赴いた日からの五年間であった。

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この、濃縮された五年間の集大成が今日であるならば。
私の今までの人生の総てが、又。今日である事に、全く異論を挟める余地はない。
悲喜交々(こもごも)の『情景』が、走馬灯の如く浮かんでは消えていく中で、
『今日の為に、今迄の日々が在ったのだ』と、私は強く感じている。

特段。思い起こす『忘れ得ぬ風景』とは、
ゴミの様に私と妹を捨て去った「両親」と、捨てられた兄妹を「命懸け」で拾い上げた「祖母」である。

深々たる唱題の際に霧散した「不安と激痛」は、今。改めて
『御本尊』への対治の姿に、(これも)総てが凝縮されていた事を、実感している。

委(くわ)しくは書けないが、長期に私を悩ませた事態が、今日決着する。
どういう結果があっても、私に残された「短期間の人生」に、弊害とはさせない。
…そう決めている。

[841] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年03月20日 (水) 16時06分

…。誠に残念乍ら…。   「元・地区婦人部長・Hさん』御逝去から五箇月たった。

『H子』さん―。   2012年(平成24年)10月29日16時03分に永眠された。    58歳であられた。
それは…あの「余命 一年」という告知から、実に「382日目(一年と二十七日)」の痛恨事であった。
御逝去の夜。はたして 夫君・H氏が拙宅を訪ねられた。(夫君⇒ 元・地区部長・現在B長)

氏は明らかに悲嘆の極致にあられた…が。少刻の後 突然に端座され両手を畳にして伏せられた。
それが「亡き妻の通夜・葬儀の儀典を、必ず愚壮が執行せよ」との事であった。

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私は即座に、この重大事を辞退申した。     「拒否の即答」  これは、私の当然の対応である。
「学会には『三代の歴代会長の生命』よりも重たい組織がある」 これは極めての正論であった。
然し。H氏はこう言って私の正論を遮った。 「これ(愚壮への儀典の依頼)は、妻の遺言です」
…であるので、通夜・葬儀の儀典は、決めて愚壮が執り行え。    という事であった。

『氏』に強い援護をしたのは私の妻女であった。
「お父さんはもう「儀典長」では無いが、H(亡妻)さんの最後の願いを、叶えてあげてください」

…実際の彼我の切羽詰った「粛然」たる心境や言辞は、「他人」には一切解らぬ事態であったろう。

通夜式の「導師挨拶」が長文であったのは、『故人・H子と愚壮導師』の、今生の決別譜であったのだ。

やがて案の定(予想したとおり)、時を必要とせずに「御託」が聞こえた。  
この私の、『H子儀』の「仮通夜・通夜」の執行に、一部から「横槍」が入ったのであった。

当然予測された「茶々」ではあったが、その出処は 甚だ信じられない人物からである。
元々 ※それらの連中は、人を見て『烙印』を押すのが常套手段ではある。
        ※それらの連中 ⇒ (「K市」創価学会の一部の幹部達)

その『烙印』の実際も、やれ「反逆者」だの 「退転者」だの 「敗残者」だの…と。誠に辛辣であった。
この ⇒ 「他人の苦渋を、色眼鏡でしか見れない連中」が、
大凡(おおよそ)「宗教者」であるから、尚更「噴飯」沙汰ではある。

「こういう馬鹿者共が組織に「幹部」として蔓延(のさば)る時。 最早、その「当該組織」は末期だ」
…と、こう    仮に私が言ったら―。
奴らは、亦復(またまた)  言った私に「退転者」という『烙印』を幾重にも貼るだろう。

更に、H家 『御葬儀』の直後、直近の人(当事者)から驚くべき報告も聞いた。
この内容こそ、「愚壮には、今後指導を受けるな」という信じられない『烙印』の事であった。
「葬儀」の直後に、その「儀典」に携わった者(愚壮)に、更なる「追い討ち」に『烙印』を押す。
この「輩」こそ、『創価学会員』の誇りを根底から汚す『獅子身中虫』である。と 断言する。

「愚壮」が何故・何の為に葬儀導師を請けたのか。 表面も碌に読めない「輩」に教えてやろう。
つまり。 何時(いつ)に在っても、『何の為』を忘れてはならぬ。
『何の為』…。  これ程言っても…自己の立身出世のみにウツツを垂れている輩には解るまい。


2013年3月16日付の「聖教新聞・寸鉄欄」 (第四項 抜粋)
【 一番苦労している人を救うのが 学会の使命 ― 恩師       徹して「一人を大切に」  】

ここに曰う『恩師』とは、一体どなたを指すのか。 御存知なのか。   
亦 『一番苦労している人を救う』のが『日蓮仏法』の根幹である。という事も御存知なのか。

時・恰(あたか)も「彼岸」である…   そういう意味でも、この事は是非とも『投稿』させて頂いた。

[843] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年04月02日 (火) 06時39分

昨年(2012年10月10日)の事であったが…。
私は「義弟であるA雄氏」に、緊急の電話を入れている…。
妻の妹(Tちゃん)の前の夫。「K氏」の病状の件であった。
『「K氏」の病状が、予断を許さないようだ』…。
↑この一連の「義弟A雄氏」への報告が昨年の秋の事だ。

あの夜の病院での「義弟・K氏」との語らいは、短時間であった。
然し―。
幾日か後の「愚妻」への「K氏」からのメールでは饒舌の中にも、こうあった。

【 欲を言えば(あの見舞いの室内に)酒とつまみがあれば最高なのですが、
( …と、いつもの調子で言いつつも、以下と続けている。 )
(愚壮に)約束してもらうのを忘れていましたが、
病院へ行く様に言って下さい。家族を大切に思うのだったら 】
…と、(自身の健康などを無視して突っ走る愚壮に)急所の釘を刺された。

妻への「義弟・K氏」のメールは、こう続いている。
【 (私・愚壮に早期の診療を督促するのは)…今の、僕だから言える事です。
それが(愚壮をして)本物の男だと思います。】

更に、短文のメールは以下と続く―。
【 Kちゃん(愚壮の長女)と僕の約束でもあり、このメールそのまま見せて下さい。
今度は一緒に「酒」でも、酌み交わしながら…楽しみにしています。 】

が―。 誠に慙愧に耐えないが―。 彼は逝った。
あの夜 病室から出て 長い廊下を歩みつつの語らいが―。最終日であったのか。
…たった六日前の 2013年3月27日 彼は長逝した。 享年61。
誠に―。   慙愧に耐えぬ。

[849] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年08月13日 (火) 21時01分

親友であり「刎頚の同志」であるT氏(現・副本部長)と私は…
上津島屋橋(流れ橋)に立っていた。

この「流れ橋」は 久御山と八幡の境目に流れる「暴れ川」に架かる「橋」である。
この「暴れ川」の名は『木津川』で、 その源(みなもと・水元)は「笠置」のまだ奥ときく。

否々。  私が云いたいのは、この「橋」の諸元などではない。
( この「流れ橋」の、悠久の歴史に迫れる道理なんぞ…私には無いのだ )

平成24年8月12日の此の日。
私と… 親友であり「刎頚の同志」であるT氏とで、この場所に在った。
…酷暑の土手に立つ二人に、何の会話も無かったが…。
ワシはこの日の「風景」を、早速 彼(か)の人におくった。


今 「あの日から、もう一年も開いてしまった…」という慙愧に、追討ちも加わる。
愚壮自身の怠慢も、これは確実に在ったかも知れぬ、というのが「追討ち」である。
が、逃げ口はある。
それは  「願兼於業」といえば、それまでかもしれぬ…。 とも思ったりしたからだ。

何かがあれば、
『紅の歌』の歌碑が助けてでも呉れる。 こうも思った。

そして、その暗示のやうに、 私は「一年間」を怠慢に待っていた。

が。 違うのだ。
正解は。
その間の「彼の人」の苦渋に、私には「慮る」資質もないのかもしれぬが。
懺悔の気概も明白に、「忘れ得ぬ風景」は甦れるのだ。

[854] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月05日 (木) 18時12分

2013年8月26日の早朝、「老妻」に一報が入った。
急報の主は一番下の妹(現・地区婦人部長)で。
その内容は 『母の高熱が下らない』であった。 

この急報を受けた時の私は 「一番恐れていた事が、起こりつつある」という直感であった。
世間では此の年齢は、(人にもよるが) そんなに老婆ではない…と言うのが。
一発で掻き消えた瞬間でもあった。
…が。 もっと「我」を失ったのは、実娘である「老妻」である。

1919年生まれの「未女(ヒツジオンナ)」である『義母』は94。
「老妻」の母とは、   私にとっては「義母」である。
然し、私は『大義母』である…。と決めておる。

昭和33年の春。 義父(故人)の受けた『御本尊』を、最も命に刻んだ人であり、
一族とその「連れ合い」の全てに 『創価の魂』を注ぎ込んだ人。
( 末席を汚して、申し訳ないが… 私自身の存在も含んでおる )
それが『大義母』である。


急報のその日から、「老いたる母・重篤の母」への「実子達」の実像が露わとなった。
当然。私の妻女も「例外」ではなく… 総てに優先させて「老母」の膝下に座している。

入院の当初に 「生命維持装置」という言葉が「医師」から告げられた時。
枕頭の多くの人々は、凍り付いたのだ。

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とまれ…。 今年の夏は「炎暑」であった。
その炎暑が「二日間」だけ、小休止した日があったが。
そんな時の『大義母・重篤』の報であった。

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やがては「秋風」も吹くであろう…と。 たれもが感じた近日。
『大義母』の容態の「好転」を見た。
早速私は、同じ職場の「刎頚の同志(副本)」に、詳細を報告している。

去年の夏の『流れ橋』では寡黙であった「T氏」が、こう云った。
「愚壮よ、それが本当の『功力』だよ」…
正に 正解である。

[856] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月16日 (月) 18時57分

1919年生まれの『大義母』は、九十四歳であられる。

この人の「高熱と好転」に一喜一憂の日々が流れたが…。
実は、愚壮の恐怖(くふ)は、もっと大きな「悩まねばならぬであろう事態」であった。
「伏線」は『生命維持装置』である。

…「胃瘻(イロウ)」という言葉が、実子達の話題に出るのが、ワシは怖い…。
「何が怖い」とは、胃瘻という措置に見え隠れする「真意」が 怖いのだ。

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…つまり。 「嚥下(物を飲み下す行為)」が、絶望された時の次善策が「胃瘻」なんだ…
と、 こんなふうに理解をしていたからであった。 …だから、怖い。

『擁護 及び 介護』の労苦は、その事に寧日なき人には、絶対にわからない。
又 その経験や近々の親族に「要介護者不在」の人間が、言うべきでもない。
要は「介護の労苦」を、絶対に理解できない人間は、事「胃瘻」などに言い及ぶ可きではない。

はたして、「胃瘻」の実行は「絶望された嚥下」の次善策か。

言い極めれば… 『大義母』が「嚥下」の能力をも失ったのではなく、 
「嚥下」すら忘れさせたのではないのか。
『口腔内ケア』が、隅っこに置き去られた故の「胃瘻」の急迫ではないのか。
(近代医療術の「胃瘻」そのものへの否定を言うものではない)

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『大義母』への長年の「介護」を、末っ子の「実娘」がされてきた。
現実の介護の修羅場は、直視出来得ぬ場面も多くあった。
そんな事をも慮(おもんぱか)れずに、他の実子達は「胃瘻」に言及するのか。
…とも叫べずに、 時空は終幕へと時を刻んでゆく。
それが 
> 一族とその「連れ合い」の全てに 『創価の魂』を注ぎ込んだ人への仕打ちか。
…とも叫べずに、 時空は終幕へと時を刻んでゆく。

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2013年(平成25年)9月14日。 名古屋から愚壮の次女が『大義母』を見舞った。
私の妻と、実際の介護に明け暮れた「末娘」との目前での次女の振舞いに絶句した。
(「次女の振舞い」とは、自発的に看護師さんの「介護行為」を助手した事)

…それは、実の子でさえ躊躇する行為であった。
「次女」の行動を私は見… そして思った。
『これを毎日おこなう看護師さんという御仕事は、正に「究極の菩薩行」なんだ。』
つまり  『看護師さん』と簡単に述べてはならん… という事だった。

[857] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月17日 (火) 18時34分

2013年(平成25年)9月17日の台風一過の午後。  車は「高槻新橋」へ指しかかった。
眼下は「淀川」である。

平素。 深緑色のユッタリした流れは、その圧倒的な水量も「誇らしげ」である。
「ソンジョそこいらの悩みなんぞはクソ喰らえ」とばかりに、その勇姿は微動もしていない。
…が。 今日の「淀川」は、いつもと明らかに違っておった。

あの「全てを吸い込む」が如きの『深々たる緑藍色』ではない…と、私は唸った。

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「茶褐色」の濁流は、狂乱の様相である― だけではない。
両岸の「河川敷ゴルフ場」の広大なる「生芝」も、 総てが「ズタズタ」である。
否。 左岸・右岸の巨大な堤防も、河川敷側の半分程の法面(のりめん・斜面)さえ
茶褐色に染められて「芥(あくた)」の蹂躙の痕跡が生々しい。

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確かに…最近の「天変地夭」は、牙を剥き過ぎておる。
かの「渡月橋」が、濁流に翻弄される画面など、私にも「記憶」がなかった。
…と、思いつつ。  私は、次の大きな懸念を抱いて車を走らせた。

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14:45頃、 自車は「新木津川大橋」を北側から進入した。
それは…「久御山市」から「八幡市」の方へ差し掛かった橋上であった。
「全長 430M」の『大橋』の左側。
その「左側」で、私の視線に飛び込んだ「風景」に、息を飲んだ。

『流れ橋が消えている!』

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上津島屋橋(流れ橋)は、今迄も何度か「流失」していた。
地元の人には、貴重な「生活の道」でもあった 此の「橋」は…。
実は、もっと深い「使命」を担っている。

その(使命の)為の「見えない熱請」を、たれぞ知るや。


今回の「流失」も、重傷である。 
涙が伝う… 息が詰まる… と。 私は「新木津川大橋」を渡りきった。

[858] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月21日 (土) 07時21分

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炎暑収まらず…とは、過日の2008年8月17日の昼頃であった。
事務所のドアを性急に叩く人がある。  この日も「猛暑」である。

「外開き」のドアが引き開けられた。猛然「沸騰の外気」が襲来する。
其処に立つ人を見て、わたしは凍りついた。 
額に流れる「滝の汗」と蒼白の御表情。 『毛筋』もの予想なき人である。
(中略)

とまれ。  「炎暑」に訪れた長身の人こそ。 憤怒の弟子「初代圏長」だ。
( 氏の圏長任命(「K圏の発足」)は、昭和54年7月26日 )
私は極端に狼狽した。  『何事ですか!』でも間に合わない「氏」である。

「嫁が倒れた」とは…  (嫁とは 氏の奥様で御高齢である)
非常に憔悴された「氏」の、 ヤット言われた言葉である。

『何故に! 愚壮宅に!』…と、一瞬。脳味噌は急速に回転した。
が、事は急を告げている。   (中略)  

連絡を入れてある「病院」の地図を示す「氏」の震えは…気のせいか。
昔日の会館大広間の会合の「壇上」で拝見した御婦人を、長男が抱く。

「ソロリ」と乗って戴き、再び「車」は路地を何度も折れ曲がった。
はたして…「病院」は救急扉を全開にして「看護士」さんは待っていた。

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上記は拙著『忘れ得ぬ風景』(投稿日 2008年10月27日  編者・おにゆり氏)の一部である。 
この「奥様の昏倒事件」から2年9ヶ月後の平成23年5月10日 
初代圏長は御逝去になられた。享年80歳であられた。

「氏」が初代圏長を拝命(昭和54年7月26日)されるの直前。
つまり【昭和54年4月24日】に事件が勃発した。

この、突然の【池田先生会長御勇退事件】は、当然「仕組まれた事件」であった。
この事件に呼応して、全国の「真正の池田門下」が立ち上がった。

新生「K圏」とて同じである。
『先生が動かれへんかったら、弟子の方から「先生」を求めるんや』
『汝自身から勇んで「師匠」を求めよ!』 これが「真の門下生」の振舞である。


つまりこれが「初代圏長」の振舞であった。
この結実を『55年3月9日の壮挙』という。

「T 初代K圏々長」の御逝去は、この『55年3月9日の壮挙』から実に11,383日。
31年2ヶ月後の痛恨であった。

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…そして。
本年(2013年)の9月(中秋)  遺された「奥様」が逝かれた。
「初代圏長」と「愚壮支部長」が、救急搬送申し上げた日から僅か「五年」である。

「正史を知る人」が、こうして消えゆく。
『歴史を学ぶは 何の為…』   これは、深く想はねばならぬのだ。

[859] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月22日 (日) 08時19分

『持妙法華問答抄』講義  「大白蓮華」 2013年9月号 766号

本抄御執筆  弘長3年(1263年) 於・鎌倉(日蓮大聖人伊豆御赦免直後 聖寿四十二歳)  

根幹抜粋(大白 61P) 
@【 法華経が最も優れている故に、法華経を持(たも)つ人も第一である。
(その事は、恰も)
(法華経を持す人を誹るのは)法華経自体を謗る事となり、
厳に慎まなければならない。 】

A【 又 △「人生は無常」であるので、我見のみに支配されて、
名誉(蔵の財)のみを求めるのは愚かである 】

△「人生は無常」  
御書 466P 7行目( 暮行空の〜 ) 467P 2行目( 水沫泡焔の如し)迄

B【 妙法(南無妙法蓮華経)を自らも唱え、人にも勧めていく事(抜苦与楽)こそが、
人間として生まれてきた、この一生の思い出となる事を示されている。 】  
根幹抜粋 以上

本文
【 願くは「現世安穏・後生善処」の 妙法を持つのみこそ
只 今生の名聞 ・ 後世の弄引(ろういん)なるべけれ
須(すべから)く 心を一(いつ)にして
南無妙法蓮華経と我も唱へ 他をも勧(すすめ)んのみこそ
今生 人界の思出(おもいで)なるべき   】

語句  【現世安穏・後生善処】
法華経(御本尊)を身・口・意で信受し続ける時に、
はじめて現世では安穏な境地を得。
来世(未来の生)では、絶対に福徳満帆の境涯に生まれる。 
法華経二十八品『薬草喩品』の経文

語句  【妙法を持つ】
正に 『持妙法華』の事である。

語句  【弄引】
ロウイン⇒ほしいままに導く事 ・ 最高最大の好条件で引導する事 

語句  【 須(すべから)く 心を一(いつ)にして 】
何事も「異体同心」である事 ・ 「君も往け 我も往く! ……である」

語句  【 我も唱へ 他をも勧(すすめ)んのみこそ 】
『日蓮仏法』の根幹中の根幹。 基盤の中の基盤。 
「第一の大事・抜苦与楽・折伏」である。

大白蓮華 63P(下段)3行目〜。 「自行化他の学会活動にほかなりません。(中略)
どこまでも御本尊根本、信心一筋で、全魂を傾けて実践していく事。 」

語句  【 今生 人界の思出なるべき 】 
池田先生の御指導
【 一つ一つの苦労が『今生 人界の思出(善・成仏の刻印)』となり、
金剛不壊の『心の財』となる。
仏法(日蓮仏法 ・ 末法の法華経)の世界に無駄は無い。
『決意』を 即 『行動』として、わが人生を「勝ち戦」で飾りゆけ!」 


池田先生が今回の「巻頭言(大白蓮華 2・4・5P)」に於て、
『人間革命の歌』を御引用された意図を計れ!

折 伏
つまり… 今世に於いて、
御本尊を受得しながら「折伏」を実践しないといふ事は…。
【 去年(こぞ)の暦を用ゐ 烏を鵜に つかはん が如し 】『持妙法華問答抄 467P 10〜11行目』である。

通解:今日や明日の生活に、去年の暦(カレンダー)を基準にしたり、
「鵜飼の匠」が、鵜の代役に「カラス」を使うというようなもので、
御笑い種(ぐさ)で話にならない。


[860] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年09月29日 (日) 12時16分

新任の「H支部長」の信仰体験が「聖教新聞」に掲載されたのは盛夏の候であった。
この日は、関西・就中 大阪にとって、誠に意義深い日でもある。
…というのは、方面歌・『常勝の空』が事実上完成した日と「同日」であるからだ。

愚壮がこの事 (『常勝の空』が事実上完成した日) を「新任の支部長」に申した時、
当の「H氏」は、その日(掲載日)が、偶然にも「意義ある日」である事を御存知なかった。

…が。    愚壮奴が『忘れ得ぬ風景』に「新任支部長」を書き及んだ真意は…。
その「意義ある日」だからではない。 (⇒『常勝の空』が公表された日ではない)

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以下は、随分以前の実風景である。

> …とある日の夜の事である。
> それは『K文化会館』では、知る人ぞ知る「降格人事」の事である。
> この夜。 ある男子部員が「降格」の対象となった。
> 普通、「降格」される側の人間は会合には参加せず、
> 又。その「降格の発表」も隠密で公開しない…が。
> この時は、まったく情勢が違って「公開の発表」となった。

> その「禁断の発表」に、考えられない誤算が連動する。
> …それが『当の本人(降格される当人)』の参加であった。
> 『氏』はその瞬間。「大広間」で発表の「降格人事」に大声で『ハイ!』と叫んだ。
> 「大広間」が極度の驚きでざわめいた…… とは、実話である。

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上記は既載『忘れ得ぬ風景』の「一コマ」であるが…。
ここに登場する、所謂「降格人事の男子部」が過日。「聖教新聞」を賑わしたのである。
つまり。 「新任支部長 H氏」とは、 「降格人事発表」にも退かなかった「猛者」であった。

「気骨に溢れた男である」とは…。 もう十年も以前からの愚壮の「氏観」であったが。
正に「画に書いた如く」の『獅子』である。

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この「H 新任支部長」には、もう一つの風格がある。
…それが。 『御書』への「行住坐臥の御姿勢」であられる。
つまり…。「隙が無い」    のみならず、悠々「背筋」を伸ばしての「対峙」をされる。

愚壮は思う…。 『御書』に向かう態度は、「そうでなければイカン」
下記はこれも、以前の『忘れ得ぬ風景』の投稿文章(抜粋編集)である。

> 『御書』とは、何者にも量り得ない「重厚」と・誰にも迫れない「迷路の如き」達観が実在するのだ。
> この『一事』を。 いかなる時、いかなる設定。 否。 総ての活動の根底にも、
> 厳然と中央に据えて欲しいのである。
> 考えられる全ての『多様の現実』にも…である。  決めて、「現実(リアルの現象)」に流されてはいけない。

> この最後の一瞬の「勝利」の為に『唱題・南無妙法蓮華経』の力用を、繰り返し言われているのだ。

> 但し 自身の事を祈るのは「信者」 広宣流布の事を祈るのは「行者」 という牧口先生の箴言を踏まえよ。

…もう一度申せば。 『御書』こそ、  決めて弄(もてあそ)んではならぬ。

[861] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月05日 (土) 09時15分

勝利の経典『御書』に学ぶ
2013年10月号 767 『四条金吾殿御返事(八風抄)』     
『新編・御書全集』 1150P〜1152P

大白蓮華 8P   
☆ 今から32年前(1981年・昭和56年11月)  
―― から始まる本抄の「骨格」は、『師弟不二』である。
この「史実」が 『紅の歌』誕生の時であり、
この雄渾(師弟共戦)の場面こそ昭和56年(1981年)11月14日であった。(於・四国研修道場)

師匠「池田名誉会長」が、一体 何に感動し、何に対して「行動」を起こしたのか。 
…それが「大白蓮華 8P 7行目」の記述である。

「池田先生」が 『何に対して』行動を起こしたのか。 
それは唯一『青年の熱と力』という「たましい」に感応したのだ。
☆ 師匠が青年の熱意の篤志・懇請に感応し、行動する。 
これが『三代の歴代会長』の基点だ。

実際の「この時(1981年の晩秋に)」 
僻地である四国の一隅で一体何が起こったのか…。 これを深く慮(おもんぱか)れ。

…時は「昭和56年(1981年)11月14日」である。 (以下は 大白蓮華 8P 7行目の記述だ)  
――『自分たちが (師弟不二に根差した広宣流布達成の)一切の魁(さきがけ)となる』――。

それでは問う。 『師弟不二の魁(さきがけ)』とは、何を指すのか。

『師弟不二の魁(さきがけ)』とは  
八風⇒(人心を扇動する風)に犯されない事(一喜一憂しない事)である。
『毀誉褒貶の人降し』(2番の歌詞)とは、そういう意味なのである。  …更に
『師弟不二の魁(さきがけ)』とは  「反転攻勢の魁」という事でもある。


つまり。 ここにいう「人」とは、自身をも含んでいる。という事である。
※ 八風とは四順・四違。 (大白蓮華 14〜15Pに詳細)

ここで「本抄・四条金吾殿御返事(八風抄)を繙く。 
(尚。本講義は、大白蓮華の御講義を全て踏襲したものではない)


『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』
1277年・建治3年  56歳の御時に「身延」で顕された『御書』である。
(大白蓮華 68P 略年譜参照)

「対告衆」 ⇒ 四条金吾(中務三郎左衛門尉頼基)である。

そこで。 本抄の細部に亘る前に、最も大切と思われる『御聖訓』を列記しておきたい。
@ 【ひり(非理)に主(しゅ)を うらみなんど し候へば・いかに申せども 天まほり給う事なし】
1151P 5行目

A 【訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、申さぬにかなうべきを 申せば叶わぬ事も候】 
1151P 6行目

B 【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】 
1151P 14行目

C 【あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず】    
1152P 15行目 等々の御記述であろう。


扨。冒頭  
『日蓮大聖人』は、屈指の青年檀那(弟子)であった「四条金吾」にこう述べられている。

【 はるかに申し奉り候はざりつれば・いぶせく候いつるに… 】 と仰せである。
前節 ( はるかに申し奉り候はざりつれば )とは、
暫らく貴方からの音信が無くて…という意味だ。

その上で 日蓮大聖人は(いぶせく候いつる)と申されている。 
御自身は「深山・身延」に隠棲されている。  
更に「愛弟子・金吾(頼基)」からの音信も途絶えている…
故に 「いぶせく候いつる」(寂寞たる疎外感に苛まれておられる)のである。


師匠が「青年」を慮る…。  ここが「創価の師弟」なのである。
( この「師弟感」は、「近代の宗門」などには一片も存在していない事を強調しておく。 )

…が。  
と本抄の直後で『日蓮大聖人』は「愛弟子・四条金吾」に申される。

【 上(この場合主君)には最大事と・おぼしめされて候へども―
御きんず(近習)の人人の ざんそう(讒奏)にて―
あまりに所領をきらい 上(かみ・主君)をかろしめたてまつり候、 】

この 【 上は最大事と 】から 【 かろしめたてまつり候、 】までが、実は本抄の急所なのだ。
いわば、今回の「四条金吾」の報告への御返事の中枢部分である。
敷衍されている事柄は「主への報恩」であるが、
強調されているのは「理屈の適った対応」である。
@からC(前述の御聖訓)が骨格たる所以が、ここにある。

あろう事か、最も腹割って語れる「同僚・同輩」が 
陰に廻って「中務三郎左衛門尉頼基」を売ったのである。

「構図は嫉妬だ!」とは、師匠『日蓮大聖人』の喝破である。
「一読して「悪の構図」を見破る」  
これを「炯眼(けいがん)」というが、本抄の場合は『仏眼』である。

『師匠・日蓮大聖人』は、「いぶせく候いつる」中でも青年「四条金吾」を渾身で慮ったのだ。
大白蓮華 8P 11行目 「分かった。 君たちのために手伝うよ」とは、その踏襲なのだ。

※ 長文になるので、今回はここで終了する。 

[862] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月05日 (土) 19時47分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』A
前回は、『日蓮大聖人』の御記述の冒頭(五行)を掲げた。
大綱は「四条金吾」という人間が 元々から持っている「欠点」
つまり『主君への報恩の篤味』が招く弊害である。
この「頼基」の「主家への忠節」が、同僚の嫉妬を惹起させている事であった。

この、冒頭の御教示(前回記述の5行)を拜した時、
「頼基」は既に『日蓮大聖人』の的確な「炯眼」と「推察」と「甚深の御慈悲」に突き当たったろう。

「俺は今まで、主君や同輩を裏切った事なはい」という自負心に燃えて生き抜いてきた彼である。
この「一途な正義感」が、ともすれば「他者への蔑(そね)み」に見えたのではないか…。

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中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)の猛省は下記の御記述で、更に深まっていった。
それが 大白蓮華(10〜11P)に記述されている本文である。

【我が身と申し をや(親)るいしん(類親)と申し】から【御とがにあらずや】
この『師匠・日蓮大聖人』の、奥底に響く御指南が身を責める。

いや。…それだけではない。
『頼基陳状』という御記述(本抄の直後の書)では、勿体無くも『日蓮大聖人』が御代筆されて、
金吾自体の主家への忠誠が具体的に書き記されている。 『頼基陳状』 1161P 1〜7行目

再び「本抄」に戻る。
扨。  この『八風抄』の急所を、前回で申し上げた。  …それが ↓
【訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、申さぬにかなうべきを 申せば叶わぬ事も候】である。
大白蓮華では、ここの御講義は割愛されているが、非常に大切なる部分であるので触れておく。
( 『新編・御書全集』 1151P 6〜10行目 )

※ 長文になるので、2回目はここで終了します。 

[863] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月05日 (土) 20時10分

あの「Hさん」の御主人が拙宅に来られて言うには…。
『嫁の一周忌が来るので―』私に儀典をやれという。

断る理由なぞ どこにもない。
…が。 私で皆が納得するのか。

そんな私の、謂(おも)いが通じたのかどうか、
「H氏」は、言っている。

「愚壮さん。 あなたでなければならないのは」
…故人の「遺言」であると言う。

―これは、「断れない…」
そう思っておる。

この月末の日曜日、その法要が挙行される。
「K市」の幹部共よ。 来なくてイイよ…

そんな「ツクラレタ偽善」などは不要だよ。
ってな事を言うから、愚壮に「レッテル」を貼ってしまう。

…この「忘れ得ぬ風景」の中で、これも「言わずばならぬ」のだ。


[864] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月06日 (日) 09時59分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』B   1277年・建治3年御述作 
『訴訟と荏柄の殿原達』

此の御書の中で『日蓮大聖人』は頼基(四条金吾)に対して何を御教示になられたのか。
いや。 一体何事を第一に「四条金吾」に教えようとされたのか…。
それを一言で曰うとすれば、『法華経の肝心』である「異体同心」の真理の追求であった。

一口に『日蓮仏法』と開いても、実に多くの「根幹たる真理」が存在した筈である。
例えば、「僧と俗」では、その理解度に温度差が生じていたのではないのか。
…が。『法華経』総体を「一切衆生の抜苦与楽の中央」に置かれた意図を見る時。
「僧(出家)」よりも「俗(一般在家)」に『法理の主眼』を置かれた。
(ここいらの曲解が、『大聖人』滅後、そんなに時間を経ずして狂いが生じたのではないのか)

「師匠・池田先生」は大白蓮華の中で、この「多岐の真理」の頂点を示唆されている。それが↓
☆ 『日蓮大聖人』が述べられた御聖訓の「重要なキーワード」は『非理』である。

大白蓮華 16P 下段 【 道理に背いた者は 諸天(勝利・完結への合力)は護らない 】である。
道理に逆行する…とは、文字通り「八風に犯される」事であり「毀誉褒貶の人」なのである。

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大白蓮華 16P 下段   『負けない人』
『負けない人』とは、道理に忠実な人…。つまり「森羅(法理)に実直の人」である。
そは 「同苦の人」であり「激励の人」であり「絆の人」である。
そして…その『負けない人』の共通項こそ 『日蓮仏法の根幹』である『負けない心』だ。
【 ただ心こそ大切なれ 】とは、その事である。 ↓
 ↑『四条金吾殿御返事(剣形書)』 1192P 14行目 
↑『千日尼御前御返事(雷門鼓御書)』 1316P 最終行

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真実の『負けない人』とは たれか。    それこそ「荏柄の殿原」ではないのか。
大白蓮華講義で割愛された部分(『御書』 1151P 6〜10行目)が 実は『主題』であり。
「割愛された人」こそ、『法華経(帰依)』の故に屋敷を没収され入牢に甘んじた『人々』だ。
もう一度繰り返すが、その人々こそ 『荏柄の殿原』達なのであった。

※ 長文になるので、3回目はここで終了します。 

[865] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月06日 (日) 15時12分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』C  1277年・建治3年御述作 
『訴訟と荏柄の殿原達』

『日蓮大聖人』は「荏柄の殿原」の事を常に慮っていた。
それは   大白蓮華 17P (上段)にある『御聖訓』に代表される御記述であった。
【 苦楽ともに思い合せて 南無妙法蓮華経と うちとなへゐさせ給へ 】
上記の御聖訓の「対告衆」は中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)である。 
しかし。この「御教示」こそ、『日蓮仏法』を捧持する「一切衆生」への亀鑑。
就中。 「荏柄の殿原」への振舞への「ダイレクトの御聖訓」でもあるのだ。

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文永8年9月12日  『竜口の法難』が惹起した。『大聖人』の聖寿50歳の折であった。
この上記の「大事件」は、実不実「鎌倉幕府」の命終を決定付けた。
『日蓮大聖人』を「竜口刑場」で斬首出来得なかった「幕府」は、御身柄の処置に困り果て―
近郊の松野六郎左衛門の領内へ移送する。

こうして。
『一修行僧』から『末法の御本仏』に「発迹顕本」された『日蓮大聖人』は「相模国・依智」に在られた。
そんな『竜口の法難』 から僅か二十日後の10月3日。
一通の封書が「依智」を発った。

書状の「現代名」は『五人土篭御書』  対告衆は「日朗・日心・坂部入道・伊沢入道・得業寺」だ。

『日蓮大聖人』は、この五人の囹僧(れいそう:牢獄の弟子僧)に、こう書き送っておられる。
【 我が身より 心くるしさ申すばかりなし、 ろう(牢)を いで(出)させ給いなば
明年のはる(春) かならず きたり給え みみえ(御見)・まいらすべし、】

この対告衆の「日朗」。を除く四人が「荏柄の殿原」と伝わっている
※ 又。「土牢」は宿屋光則邸内にあったとされている。

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上記『五人土篭御書』の御発信の日から更に5ヶ月後。『日蓮大聖人』は重書を発せられる。
御書名は『佐渡御書』  対告衆は「弟子檀那中」とある。
御承知の如く、『佐渡御書』とは『牧口常三郎創価学会初代会長』の「座右の御書」である。

この「御書」の追伸文の中頃に、こうある。
【 いざは(伊沢)の入道 さかべ(坂部)の入道 いかにぬらん
かはのべ(河辺) 山城得業寺殿等の事 いかにと書付て候べし 】

上記の追伸文の四人も 「荏柄の殿原」と伝わっている。

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『新尼御前御返事』 907P 7〜8行目にはこうある。
【 それのみならず・かまくら(鎌倉)にも御勘気の時・
千が九百九十九人は堕ちて候人人 】

平時は「私こそ日蓮御房の弟子だ」と嘯いて居たその殆んどが…。
イザ 諸難が『日蓮大聖人』に降り懸かるや、先を争って「退転」したのである。

が。 「荏柄の殿原」達は違った。 
 『法華経』故に屋敷は没収され、身は拘束であっても、『信』を貫いたのである。
…だけではない。 『師・日蓮大聖人』は、その者達への「訴訟事」にも筆を持たれたのだ。

正に
【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】
である。
4回目終了。

[866] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月12日 (土) 08時53分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』D  1277年・建治3年御述作 

【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】
上記は「本抄」1151P 14行目の『御金言』である。

この上記の「御聖訓」に直結しているのが
『 が…然し もし相違背(アイイハイ⇒ をも(想)ひあわぬ いの(祈)り )を互いにするなら
…つまり、私(日蓮大聖人)と貴方(四条金吾殿)の祈りに、クイチガイがあるとせば―。
私も貴方も、今後 近いうちに 必ず消滅するよ 』というのだ。

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それが、もっと具体的に、大白蓮華 18P (上段)の「本文」に、明示されておる。
ズバリ ⇒ 【 我が身も・だんな(檀那⇔弟子)も・ほろび候なり 】なのだ。

文底の本意である『御指南』を一括りに拜すれば下記となる。
【 だんなと師と をもひあわぬ いのりは 水の上に火を たくがごとし 】
「師弟の不一致」は【 我が身も・だんな(檀那⇔弟子)も・ほろび候なり 】
今風に書けば 「俺もお前も アッケなく、高転びじゃ」…と申されておる。


例えば、かの有名なる「御聖訓」の直後には、かかる御金言がある。
【 をも(想)ひあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき 
空にいゑ(舎・家)を・つくるなり 】 『辧殿御消息 1225P 13〜14行目』

『日蓮大聖人』の御教示は「的確・辛辣」で、オオヨソも何も…「情け容赦」がない。

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尚。愚壮奴が「荏柄の殿原・夜廻の殿原」と壊れた鸚鵡の如く繰り返すのは、
何も「中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)」をして卑下申すのではない。
( 創価壮年の愚壮として、どこから指しても「御卑下」出来る訳もないが…)

…というのも下記の『御記述』が、「対・四条金吾」への「重厚の御信頼」を知悉しておる故だ。
☆【法門の事 先程(文永9年2月18日已前・919P5〜6行目)四条三郎左衛門尉殿に
書持せしむ 其の書(開目抄!) 能(よ)く能く 御覧有る可(べ)し 】
上記「御聖訓」は、同年4月(於・一の谷初稿文)『富木殿御返事962P3〜4行目』抜粋。

御存知の如く、「富木常忍」と申せば。広く関東一円の「信徒代表」である。
( 『御書・弟子檀那等列伝』では 「房総武相関東方面の信徒の棟梁」とまである )

ここまでくると  「優駿・中務三郎左衛門尉頼基」に対して―。
『末法御本仏・日蓮大聖人』の心奥(深奥)の御信頼が見えるやうである。
『末法御本仏・日蓮大聖人』の心奥(深奥)の御叫びが聞えるやうである。

いやなに当然。「弟子・四条金吾」にも、『大聖人の深奥の御叫び』が聞えていた。
それを「池田先生」は我々に、こう述べられている。 下記・大白蓮華18P(下段)
「師匠ならば、どう祈り、どう考え、どう行動するのか。」
更に「先生」は言う。
『この一点を「心」の中央に置け』…と。

『師匠ならば、こんな時  どうされるのか』  これが「大原点」なのだ。


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『本抄(八風抄)』を拜した「中務三郎左衛門尉頼基」は意を決した。
その「意」も、「堅意」である。
「堅意」とは つまり、「四条金吾」に向かう八風(毀誉褒貶に代表されるもの)は、
全て「法華経(御本尊)故に現じられている諸々の証のイッコにすぎない」…と見破る事を指す。

「堅意」が生まれて、初めて「誓願」はその姿を顕らわす。
「私は今後。何があっても法華経(御本尊)は捨て参らせない」という「自署の誓状」が、それであった。

『師匠・日蓮大聖人』は上記の御返状にて、四条金吾にこんな「御指導」をされている。
【夜廻の殿原 かた(語)らいて用い 常には・よりあは(寄合う・打合せ)るべし 】 
↑ 『四条金吾殿御返事 1164P 15〜16行目』

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「支離滅裂の御書講義」で、恐縮汗顔の至りであるが…懲りずに書けば、更にこうある。
【 又 夜廻の殿原(荏柄の殿原)は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・ 
法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常(日頃)は むつ(昵)ばせ給うべし、
又 夜の用心の為と申し かたがた 殿(四条金吾)の守りとなるべし 】
↑ 『四条金吾殿御返事(世雄御書) 1169P 10〜11行目』

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『日蓮仏法』の根幹は「異体同心」である。 つまり「烙印の廃絶」だ。
少なくとも… 「同志」を指して ⇒「アナタハ ダメデス」なんぞは言ってはいかん。
仮に、このやうな「強弁者」が居ったとせば。 これこそ「獅子身中虫」である。

『八風抄』 完

[867] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月13日 (日) 12時13分

『流れ橋』の流失から、もう幾日経たのか。
毎日の往復 「新木津川大橋」に差し渡るたび、そう思う。

いつの間にか、橋脚に絡まった「流木群」もきれいに排除された。
「静々と往く「暴れ川」ほど、絵にならん物はない」…と、車窓に去り行く「橋」を視る。
見れば、 相変わらず…その河の「澪筋」は、広い河川敷の「北端」(久御山市側)である。

…が。 本当は「木津川」の澪筋は突然、この『流れ橋』を境に「変進」している。
つまり…。   その橋にさしかかるまで「木津川」は、ホボ中央部である。

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閑話休題
『流れ橋の風景』に合せて、その「背景」も一新されているが…
私は、この「背景の流れ橋」に、深い感慨を持っている。

例えば 【 編集の人が、この『流れ橋』の背景を、なぜ選ばれたのか… 】 と思う。
諸氏御存知のやうに、この『流れ橋』という「橋」には、実に多くの「構図の画」がある。
それよりも…、巷間溢れる幾多の『流れ橋の写真』には、時節が漂っている。
つまり、他の画には「限定された時」がある。


「背景の流れ橋」の意図を探れば…。
この『背景の橋』には、「ワザと曖昧にされた、背景の風景」があった。

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『もう一度、この「背景の流れ橋」を凝視してみよう』…と、私は思った。

『背景の流れ橋』
この「背景」を実際に見るには、二地点のみしかない。
いや。 現今の時点では、一箇所であろう。
…それを判ずるには、その『流れ橋』の橋脚の姿を見る事だ。

七十数脚の「橋げた」の一部は、幾度もの流失で「補強・新設」されている。
久御山側の「最北の橋脚」の数本は、コンクリートで新設された「三本脚」である。

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もう一度、この「背景の流れ橋」を凝視してみる。
「脚は従来の木製五本だ」
…が。 遠景の木々も草々も、その手前の川面も… 霞んでいる。
「河筋が随分こちら側だから…」 この背景の流れ橋は「南西の茶畑からの風景だ!」

「八幡市側の視点の背景の流れ橋」は。
その後面の「ナダラカなる山々」の重なる稜線を消している。

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…が。
編者は…  この「背景の流れ橋」の「意図への拘泥(こだわり)」なんぞは無いだろう。
ただ。 唯一「有る」とするなら。
編者御自身の云われる「見逃してはならぬ物」であろう。

[868] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月14日 (月) 08時37分

> 地元の人には、貴重な「生活の道」でもあった 此の「橋」は…。
> 実は、もっと深い「使命」を担っている。
上記の拙文は、「編纂の人」の言う  ∴ 『見逃してはならぬ物』に帰結する。


この【見逃してはならぬ物】こそが、「使命」でなくて何であろう。
結句。 この『流れ橋』は…
☆ 流れに翻弄され「流失する事」に、その「使命」がある。

「頑張って流されない」のでは、困るのだ。
…頑張り過ぎると、天板(床版)を支えていた「橋脚」までもが流され、致命傷に直結する。
( 今回の出水・洪水では、「流失してはいけない橋脚」が、二ヶ所まで消失している )

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ところで……と、    話題は関連しゆく。 
随分已前に、私は『日寛上人』を称える「一書」を繙いている。
一書とは『六巻抄講義』集である。
この『六巻抄講義』集を拜読していて、突然に思い起こした事があった。

それが。 『橋を問う』という急所から始まる「講義」であった。 
本文は、こうだ↓
【 苟(いやし)くも糟糠(そうこう)を執し ※橋を問う 何の益あらん 】
糟糠とは酒カス・米ヌカの類。つまり最も劣った物だ。

又 『※橋を問う』とは、明らかな「聞かずもがな」の類である。
いわば 「眼前の文言に拘泥し過ぎて、その奥底敷衍の法理を読まぬ事」である。

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『先ず「橋を問う」如きの愚かな進行に終止符を打った』とは、『日寛上人』の英断であり…
それが、日寛上人をして『中興の祖』と讃える証左でもある。

既記の「風景」で書き留めた下記は―。
【 須(すべから)く…。 文章を翫(もてあそ)ぶ「輩」の陥りそうな指摘だ 】であった。

「橋を問う」如きの愚と、『日寛上人』の御英智を知る「編集の人」は  
故に… この『流れ橋』の「使命」を、詩歌(しいか)として詠んだのだ。

僭越ながら、私もそれを知る。
『流れ橋』の「使命」とは、「此岸と彼岸への近道」だけでは収めきれない「熱請」の内にある。
つまり…。 「橋を問う」のではなく。「橋の正鵠・声(使命)」を聞く事であろう。

そのうえでいえば…。 私達の『使命(大願)』とは何ぞや。
それが 『法華弘通』である。  『御義口伝上 736P』

[869] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月19日 (土) 10時06分

平成25年(2013年)10月13日 夕刻19:00頃であった。
遂に『大義母』御長逝となられた。 
1919年の生まれであるので、「94歳」という事になる。

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愚壮が所縁で「義子」として『大義母』に繋がったのが、1969年であるが…それよりも。
その11年前の昭和33年(1958年)6月初旬。彼女は『御本尊』を御受得された。
つまり…一家にとって、名実たる「一粒種」であられた。

爾来五十五星霜。
『大義母』は、此の『御本尊』を抱締めて、全ての「艱難」を完璧に乗越えられた。

この…書けば僅か数行に埋蔵されし「偉大なる歴史」に、確在するものぞある。
それが。 確かなる「創価(王道・正史)の風格」であられる。


この「御逝去」の幾日か已前に、私は妻に言っている。
【 『大義母』の御終焉に、
カリソメにも「見とどけられなかった」なんぞの「最大の親不孝」は、犯してはいかん。
それは…「最も静かで、且。最も「母」に心痛煩わした貴女であった」ので、事は尚更だ。】
※ 「母に最も 心痛を煩わせた」…とは、昭和44年11月の「愚壮との駆落ち事件」を指す。

その際「妻女」は概意こう言った。
「早朝から仕事に全精力を注ぐ貴方へ、妻として当然の責務を短日と雖も放棄は出来ない」
更に妻は下記と続けた。
「…が。 私には、母の最期を絶対に見看らなければならない義務がある」
更に続けた。
「でも… 貴方が許してくださるなら。 私は天空を駆けてでも、「母」の傍らに参りたい」

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「俺も、出来る事なら…。 仕事を捨ててでも「枕頭」に馳せる可しだが。 それは出来ない」
…と。 涙は堰をきった。



そんな平成25年(2013年)10月13日 夕刻19:00頃。
遂に『大義母』は 力尽きた。

御長兄の指示に依り、通夜・告別・初七日の「儀典長」を務めた。
「副導師」は 御長兄の「長男」と 愚壮の「長男」が補佐を申し出た。

参列は、全ての『大義母』の実子とその御家族であった。
『大義母』の「孫達」や「曾孫達」も、全員が打ち揃っていた。

係員が「最後の御別れです」と告げた時。
私は不覚にも、滂々たる「涙」を流していた。

[870] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月20日 (日) 09時37分

通夜が平成25年10月17日。  告別式が翌18日。 これで『大義母』との永別となる。
多くの親族の見守る中で、『大義母』は微笑み続けている。
「眠っていらっしゃるようだ…」と皆が言い。
「ヒーバァーちゃん!」と、本気で起こしにかかる「曾孫」に、新たな涙を流した。

通夜式直前の「ロビー」の片隅で、私は二人の青年に申した。
「御長兄の強き指示で、不肖愚壮が儀典長を務めさせて頂くが」…と続ける。
「その上で私は、  副導師には『故人の孫』である君達を、敢えて指名した」

…つまりはこうだ。 と、私は更に言う。
御長兄が、図らずも「家族葬」に踏み切られたのは…
『大義母』のみに、愛惜の念を注ぎたいが為なのではないのか。
それが仮に、「異体同心」や「水魚の思い」という
「御近隣の長年の共戦の同志の熱請」に逆行しても…である。

この御長兄の言われる「悲しみの独り占め」にも黙って従うのが、この際「筋」ならば。
私達「儀典」を勤める者も…。と 肝心に言及した。
それが 「唯々『大義母』のみの事を想い   『大義母』に迫ればよい」である。
…この私の強弁に、二人の青年は、一切を飲み込んでくだすった。

やがて儀式は、翌日の「告別式」に向かって、粛々と奉行されたのである。
『師匠・池田先生』からの「御弔辞」に及んだ時、 『大義母』の更なる微笑を私は見た。

*************************************************************************

参列親族全員が、その「御骨上げ」に臨んだ時、一陣の「風」が吹いた。
「御骨」は恐ろしい位に小さく、白かった…否。 白く透き通る感さえした。

総てが完結した日の翌日。 愚壮は再環「K市」の壮年同志を訪問している。
「むしょうに 会いたい…」と。 その御訪問件数は多くなっていた。

[871] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年10月28日 (月) 19時34分

…ところで…。下記が「初七日法要」の折の「拙」の挨拶の抜粋だ。
( と、又「ショーモナイ」事を書く ) 

【 少々 突飛に御思いになられるかも知れませんが…。 
作曲家でもあり・作家でもあり そして「詩人」でもあった『やなせたかし』さんが亡くなりました。
その御逝去は、この10月13日。 享年は94歳…つまり「故・『大義母』様」と オナイドシでした。 
私事で申し訳ありませんが…
私の携帯電話には、孫の「Hちゃん」が歌う『アンパンマン』の画像があり、いつも「ニヤツイテ」開きます。

その『やなせたかし』さんの、『アンパンマン』の歌詞の秘話が、
今日の聖教新聞(名字の言)に載っていました。
それが  「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」という箴言です。

「大切なのは 生きる事ではなく 善く(善くとは正しく完成されたという意味)生きる事」とは
同じ「聖教新聞」の寸鉄欄のことばでした。
この二つの「言葉」に、私は即。思い浮かべた人があります。
それが、御生前の、 凛たる「『大義母』様」でした。】
(故・『大義母』様 初七日忌、導師挨拶)      2013年10月18日 於・○○斎場
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…とした後、通常の導師挨拶に戻った。

つまり。 愚壮が会葬の人々に伝えたかったのは、
その個々の「生き様」であった。

大きな課題がある。   それが…『何の為』であろう。
これ(何の為)は、 最も吟味し・思慮せねばならぬ。
私は常に、そう思っている。

[872] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年11月02日 (土) 08時59分

『報恩抄』講義 (約33,200文字)    大白蓮華2013年11月号
『報恩』  恩とは報うべき…  報うてこそ「恩」が成り立つと言う事。
本抄の大綱
五大部・十大部である事
五大部 ⇒ 立正安国論  開目抄  観心本尊抄  撰時抄  報恩抄             十大部 ↓               
本尊問答抄・唱法華題目抄・立正安国論・開目抄・観心本尊抄・法華取要抄・撰時抄・報恩抄・四信五品抄・下山御消息

本抄の背景  ( 『御書』329Pの最後に詳しく御記述されている。)
1276年(建治2年)7月21日  大聖人、聖寿55歳の折「身延」で(※2通)著された。
対告衆 ⇒ 兄弟子である「淨顕房・義浄房」である。 (※ もう1通は『報恩抄送文』)
本抄の主旨 ⇒ 師匠「道善房」への供養の書。
本抄の主題 ⇒ 今回拜読部分である。
本抄の意義 ⇒ 大事の中の「大事」である御書 (その訳が『報恩抄送文 330P 1行目』にある)

今回拜読部分を学ぶ前に、『報恩抄』の冒頭の御金言に触れておく。
【  夫(そ)れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず    
白亀は毛宝(もうほう⇒古代中国の武将)が 恩を ほう(報)ず  】『報恩抄 293P 』
上記は『報恩』の核心の御記述である。これは…あまりにも有名な 『報恩抄』の冒頭文だ。
『塚をあとにせず』…とは、自分の育った巣穴に対して、
粗末に軽んじない、後足で砂を蹴らない、永劫に疎(うと)んじない事。

又。白亀(はっき⇒年老いた亀)の故事は…
昔「毛宝」に助けてもらった亀が、「毛宝」の最大の危機を救った話である。

この「白亀(はっき⇒年老いた亀)」に関して、『日蓮大聖人』は別の『御書』で
【 亀魚(かめ)すら 恩を報ずる事あり 何(いか)に況(いわん)や人倫をや 】 
と、憤慨の気色で御記述になっておられる。 『 善無畏三蔵抄 888P 』

亦。「亀」以外にも、多くの譬喩で『報恩の大事』に言及されている。
【 @川獺(せんだつ⇒かわうそ)祭魚のこころざし・A林烏(りんう)父祖(ふそ)の食を通ず
B・鳩鴿(きゅうごう⇒はと)三枝の礼ありC行雁(こうがん) 連(つら)を乱(みだ)らず・
D羔羊(こうよう⇒子羊)踞(うずくま)りて乳を飲む 】とした後、引き続き…
【 …賤しき畜生すら 礼を知ること 是くの如し、何(いかん)ぞ人倫に於て
其の礼 なからんやと あそばされたり 】『新池御書 1444P』




@  カワウソさえ、正月(旬)には「魚」の供養をする。
A  カラスは、自分を育ててくれた「親」や、その又「親」のために「エサ」を運ぶ。
B  鳩でさえ、親鳥の3本下の枝(三枝の礼)にとまる。
C  雁は、先頭を飛ぶ「リーダー」を追い越さない。
D  「子羊」さえ、親から乳を飲む時は踞(うずくま)り「膝」を折る。
上記は全て『報恩』の持つ意義・重要性を御教示されている『御聖訓』である。  

そこで、もう一度 『報恩抄』の冒頭文を拜しておきたい。
【 …畜生すら かくのごとし いわうや人倫をや 】 293P 1行目
『日蓮大聖人』の叫びは、 『畜生すら (このように) 恩を知るのではないのか!』と言われている。
この叫びを逆に言えば 『人間として、「不知恩」は最悪・最低ではないのか!』ではないのか。という事だ。

五・十大部にも属する『報恩抄』は、「通・別」の二義を説かれている。
『通』 ⇒ 「四恩を報ず」であり。    『別』 ⇒ 師恩への報謝である。
※四恩⇒( @一切衆生の恩  A父母の恩  B国主の恩  C三宝の恩 )
【 師恩 】  この『別義の師恩』こそ、本抄を貫く「第二の根幹」といってよい。
【 師檀(師弟)となる事は 三世(巳今当)の契り 】 『秋元殿御返事 1070P  14〜15行目』だ。

『恩』と ひと口で言うが、その最深部は、一体何処にあるのか…  それが「師恩」である。
【 父母を知るも 師の恩なり ※黒白を弁(わきま)うも 釈尊の恩なり 】 
※黒白⇒正誤・表裏・正邪・正否・真贋・勝敗・雌雄 等々。
『 一谷入道御書 1327P 16〜17行目』

その。『報恩抄』329Pの主題が…  今回拜読の部分である。
【  日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は 万年の外・未来までも ながる(流布)べし 
 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道を ふさ(塞)ぎぬ 】 

この本文について、大白蓮華では『主・師・親(三徳)』について記述している。
@ 【 日蓮が慈悲曠大 】            「親の徳」
A 【 一切衆生の盲目をひらける功徳あり 】「主の徳」
B 【 無間地獄の道を ふさぎぬ 】      「師の徳」

※ 三徳⇒主・師・親の基本   『聖愚問答抄下 491P 11〜12行目』
( ここで「日蓮大聖人」は、三徳⇒主・師・親の御記述を、@『師』 A『主』 B『親』とされている。 )
※ 弘演(こうえん)・予譲(よじょう)  際限なき忠孝の臣
※ 丁蘭(ていらん)・伯瑜(はくゆ) 母への孝養の人 

【 我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて 一切の仏に擯出せられたる我等を
唯我一人・能為救護(その法を説く)と はげませ給ふ、其の『恩』 大海よりも深し
其の『恩』 大地よりも厚し 其の『恩』 虚空よりも広し、(中略)
(其の仏恩に報いる為、自分の)身の血肉を無量劫・仏前に 山の如く積み
大海の如く 湛(たと)ふとも 此(こ)の仏の一分の『御恩』も報じ尽くしがたし 】
『 善無畏三蔵抄 886P 』

最後に、少しながくなるが…。 ここで兄弟子「淨顕房」に与えられた御書を拜する。
『本尊問答抄 373P 11〜16行目』 (十大部 御記述年・弘安元年九月 1278年)
【 故 道善御房は師匠にて おはしまししかども 〜 法華経の御奉公と おぼしめして 生死をはなれさせ給うべし 】 

通解 : 私の師匠は道善房である。 然し「師・道善房」は、念仏地頭「影信」の逆鱗を恐れて
内心には、「法華経」こそが、各時代(正法・像法)の「正師」が説くが如く 「正法」と思っていたであろうが…。
実際表面上(真言密教を取り入れてしまった「清澄寺」の運営上)は「法華経こそ仏法の仇」という姿勢を貫いてきた。
然しその後。 少し「法華経(御本尊)」の事を信じたような素振りもあったように聞いている。
…が、その師匠「道善御房」が御逝去になられた日(建治2年3月16日)は、どうであったのか、不安である。
まさか、師匠・道善御房が「地獄」にまで堕ちている事はないであろうとも思っている。
といって。師匠がそのまま、「煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」の冥加を得たとも思ってはいない。
【 中有(ちゅうう)にや ただよ(漂)い ましますらむ と なげ(嘆)かし 】
※「中有にただよい」 ⇒ 生と死の中間点 ⇒ 「三途の河が越えられない事」

ところが貴方(淨顕房)は、私の『立宗宣言』⇒建長5年4月28日の日。
命を狙う「地頭・東条景信」から私を護り、兄弟分である「義浄房」とともに「清澄寺」を逐電した。
この。私(日蓮大聖人)を守護した事そのものが、「法華経の身読」に他ならないのである。
ゆえに。 その瞬間に。
「淨顕房・義浄房」の宿業は切れ。見事に「煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」を達成されたのである。


つまり…。 『報恩』とは、「宿命転換 煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」への最もの近道なのだ。





『報恩抄』講義              完

[873] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年11月03日 (日) 08時21分

先週の日曜日(2013年10月27日)、「Hさん(享年58歳)」の一周忌法要が挙行さる。
開催は13:00。 式場は「K文化会館・法話室」であった。

私がその式場に(長男の車で)到着したのは、開式の約40分前であった。
既に一人の「壮年」が「法話室」に居り、法要の諸準備に万般の怠りなく…と精励であられた。

「壮年であられるので… 牙城会の青年ではない」…が、 私としては先ず御挨拶を…と。
その「壮年」の前に、歩みを進めた。
そして瞬間。私は「あっ」と言った。

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近々であったが…この『忘れ得ぬ風景』で御紹介申した「新任支部長 H氏」の快挙があった。
それも、その「壮挙」を、少々荒削りに書いてしまった…あの「降格人事の男子部」の猛者。

> 「気骨に溢れた男である」とは…。 もう十年も以前からの愚壮の「氏観」であったが。
> 正に「画に書いた如く」の『獅子』である。
↑ 上記が、その『風景』の一部であるが…。 
この「新任支部長」が、「H家」法要の諸準備に万般の怠りなく…との 黙々たる壮年である。
…であるから。   私は「あっ」と言ったのだ。


「本来は、この法要等の諸準備には、青年部が担当している」という「私念」を氏は打ち消す。
「今日。私は一日会館長です」…が、と。以下は「声なき声」で続けられた。
「H家」一周忌法要といえば…あの「Hさん」の事しかない。 …だからこうして参加する。

氏の「…だからこうして参加する」という想いは、決めて基本であろう。

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やがて定刻が近づく。
御遺族の続々の到着のなかには、御遠来の人もある。
「悲しき顔見知り」になってしまった私は、その人達の輪の中で、こう申した。
『御遠路はるばる、誠に有難う御座います。本日の一周忌法要、謹んで奉行させて戴きます』

やがて副導師が着座し、静寂の場内に式次第の案内がながれた時
厳(おごそ)かに鈴(りん)の音が、低くきから高きに連打された。

[874] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年11月04日 (月) 09時52分

2013年10月27日の「H家・一周忌法要」
この時の、愚壮の挨拶を記述すれば下記であった。

【 一言、御挨拶をさせて頂きます。
只今は 故 「H ○子」 様の一周忌法要に際しまして。
最高の経典である、法華経の方便品と寿量品を、皆様とともに読経・唱題申し上げました。

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『日蓮大聖人』は「治病大小権実違目 998P」の中で、こう述べられておられます。
【 法華経は一念三千なり天地はるかに殊(こと)なりと御臨終の御時は御心へ有るべく候 】…と。
通解はこうです。  この御本尊への祈りは、一言(一瞬)の祈りの中に全てが包含されている。
…であるから、爾前・迹門の教え等とは全く違っているのだ…と知りなさい。
殊に。 (…と言い重ねている )
今 正に、今世の命が尽きる瞬間に唱える「法華経の題目」にこそ真の力が有る事を心得なさい。
これを、亡き御母上は、臨終の極みにあたっても【天地はるかに殊(こと)なり】…と、そう確信したでしょう。

(更に更に、導師はこう言い重ねた)
『一旦 御本尊を受得した人の題目に(個人の宿業自体が善き方向に)感応して、
例外なく・厳然と「成仏の境地・境涯」を得るのだ』 という事です。

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(また更に、 この『題目』の究極の力用を「御聖訓」を引用して述べている)
【 聖人(日蓮大聖人)の唱えさせ給う「題目の功徳」と 我れ等が唱え申す「題目の功徳」と
何程(いかほど)の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候 】  「松野殿御返事 1381P」
つまり…。
余事を交えずに『南無妙法蓮華経』と、唱える人の祈りに「芥子粒ほどの差異も無い」という事です。

思えば…。  
一昨年の菊の季節。 正確に言えば…平成23年10月2日。彼女の「余命は一年」と宣告されました。 
過酷な「病魔」との闘いは一年間にわたり…    
遂に、平成24年10月29日。 彼女の人生(五十八年)は「終焉」したのです。

その瞬間から彼女の、あの屈託のない「笑顔」を、たれもが望む術は 無くなったのでしょうか。
その臨終の時から…、あの「母」の笑顔は誰も見る事は出来ないのでしょうか。
答えは『否(いな)』です。

「H ○子」さんは、御家族の心の中に、「厳然と生き続けている」
特に、三人の御子様達の『命』に、生きています。
妙法を受持した「母」は…。 厳然と「後継者であられる御子様達の心」に生きておられます。
『ただ心こそ 大切なれ  四条金吾殿御返事 1192P』 とは、その事です。

「ただ心こそ 大切なれ」  
…であるから、三人の御子達は強く立ちあがらなければならない…とは言いません。
その訳は、「立ちあがらなければならない」ではなく「既に立ち上がっているから」なのです。
「ただ心こそ 大切なれ」  
これが『日蓮仏法』の根幹である。 と同時に。「創価学会」の基本の理念でもあります。

この一年間。実は「お父さん」も「立ち上がるため」に闘ってきました。
そうして今度は、自分達よりも、もっと苦しんでいる人の居る所に駆けつけて「激励」してゆく。
それが…「故・H ○子様」の遺された御家族・御親族の本当の・真実の「創価の振舞」です。

最後に『御書』をもう一度拜しましょう。    それが「千日尼御前御返事 1311P」です。
【 父母の恩の中に 慈父をば天に譬へ 悲母をば大地に譬へたり・いずれも・わけがたし、
其の中にも悲母の大恩 ことに・ほう(報)じがたし 】

更に「上野殿御消息 1527P」には こう述べられています。
【 仏教を信ずれば 先ず此の 父と母との恩を報ずべし 】

おわりに、本日の「故・H ○子様」一周忌法要に御列席の皆様に衷心よりの御礼を申します。
御遠路はるばると、ようこそ御参列戴きました。 ありがとうございました。

[875] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年11月17日 (日) 08時03分

平成25年11月17日の今日、『大義母』の五七日忌(三十五日忌法要)が挙行される。
愚壮も「外婿」とはいえ参列させていただくが…
それ以上に「儀典」という大役をも授かっているので、自身の緊張も「極」にある。

とまれ。 本日の「節」に於いて、『大義母』の御法事に臨める事に感謝を申す。
( 喪中ではあるが、その「挨拶全文」を『大義母』の許諾なしに『風景』に書き留める。)

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(故・○ ○子様 三十五日忌、導師挨拶)      2013年11月27日 於・○ ○様宅
 喪主・○ ○様に成り代りまして…。亦「儀典長」として、  謹んで御挨拶をさせて頂きます。

「毅然であり、強盛たる信心の母であられた…」  それが、御生前の「○ ○様」の不動の姿です。
その「強気の母が、危篤に陥った…」    この一報が私達を「悲しみのどん底」に落とし込みました。
…思えば…。 その○ ○様が、今世「九十四年間」の全てをやり終えて「御自身の終焉」に臨んだ日…。
それは又。  周りの人々には、考えたくもなかった「絶望の日」でもありました。
平成25年10月1○日の此の日。  多くの「○ ○様」直系の御子様たちの御心と、その配偶の人達の心。 
亦、そのそれぞれの御家族の後継の人々たち(故人からでは孫の世代)の心に激震が走りました。
『母の死』… それはいつの日か突き付けられると、皆が覚悟はしていたものの、
現実には受け入れ難い事でした。
では。  『○ ○様』は、その「死」で一体  何を後世へ遺されたのか…。  何を遺言したかったのか…。

その為にも…先ず『御書』を拜したいと思います。  『刑部左衛門尉女房御返事』です。
あまり馴染の無い『御書』とは思いますが、本抄には何かしら考えさせられる御文証が存在します。
【 …母の御恩の事 殊に心肝に染みて貴(たっと)く をぼえ候 1398P 16行目 】
…とされたあと、本文は…。
親と子 就中「母と子」の、有りがちな「惰性の姿勢」を鋭く御指摘された、非常に厳しい「御教示」に及びます。

… それが、以下の「御聖訓」であります…。 『刑部左衛門尉女房御返事 1399P 10〜14行目』
【 @ 母の生(いき)て をはせしには 心には思はねども 一月に一度・一年に一度は問いしかども 
A 死し給いてより後は 初七日より二七日(14日) 乃至 第三年(三回忌)までは
B 人目の事なれば 形(かた)の如く 問い訪(とぶら)ひ候へども・
C 十三年・四千余日が間の程は・かきた(欠き絶)え問う人は なし

D 生て をはせし時は 一日片時のわかれ(別)をば 千万日とこそ 思はれしかども
E 十三年・四千余日の程は つやつや をとづれなし  
F 如何に  き か ま ほ し く  ましますらん 】

通解はこうです。
「 @ お母さんが御元気な時は、特に思い入れもなく 
一ヶ月に一度位や、年に一度位は顔を見て近況を聞いたりするが
A その母上がお亡くなりになった後は、初七日や十四日目の回忌法要や三回忌位までは
B 単に世間体の事などがあって、一応の形での法事で、親族が訪れて来たりはする……が。
C それが十三回忌・大凡4,383日間もたてば、母への恩も欠き消えて、問い訪れ、弔う人もいない。

D お母さんが御存命中は、もしも今。母が死んだら、
私の苦悩は「私が生きている限り続くだろう」と思うくせに
E 御母さんが死んで ものの十三年もすれば、「母の事」を思い出して、集まり来もしない
F 一体どうしたら そんな心境に陥(おちい)るのか 聞き糺(ただ)してみたくもなる 」

では… 
この御聖訓を顕された時の『日蓮大聖人』の御真意・本意は、一体 どうであられたのでしょうか。

「初七日・三十五日忌・一周忌から十三回忌」等々の法事に、御遺族が集まる事への意義を御教示か。
それとも。 初七日・及び十三回忌等々には、万難を排しても一族は馳せ参じなければいけない事か。
故人回忌の事も、確かに含まれてはいるでしょうが。どうもそれは「核心」を衝いていないと思います。

本当の「核心」は、「親」。 
とりわけ母親への報恩は、一切の事に優先させ、その思いは「死後も永遠」でなければならない事。
これをもっと解り易く言えば、
「亡き母」が居たからこそ。私達が、この『日蓮仏法』に巡り会えた事を「まさしく自覚」する事です。
それが… 【 …母の御恩の事 殊に心肝に染みて貴(たっと)く をぼえ候  】という御記述です。

だからこそ…
「全ての縁者が、この場に集って「亡き母」の深き信仰を永遠に学び・偲ぶ…」これが基本であるのです。
逆に。 
亡き母の貫いた「王道」を学び、後世に正しく引き継ぐという「基本」。
この基本が抜けた法事には何の意味も無いのです。

止むを得ず「疎遠」になっていた多くの人達を呼び寄せた 今は亡き「○ ○様」
貴女の命懸けのその行動は、こうして「再びの、新しく輝く信仰」を実現させました。

私は、この『信心』の再出発こそ。
厳格であった 『亡き「母」・○ ○様』の「大願」つまり…待ち望んでいた事であったのです。

結論は。 「故・○ ○様」こそ、私達の「信心の要」であった。
それが「御金言」に度々謂われる『異体同心』であり『水魚の思い』ではないのでしょうか。

もう一度。 あの最後の御別れの時の、
お母様の「語りかけるような」見事なる御相貌を思い出していただきたい。
その上で、亡き母が心の奥底で望みつづけていた「信仰の原点」 
又、その継承に、英知を輝かせて行って下さい。

扨。  本日の「三十五日忌法要」にあたり、必ず触れる可き事があります。
それが…○ ○様の御家族。
就中。 故人・○ ○様の最後の直系「○ ○様」の長期に亘る「御看病」です。
この、ひとくちでは言い表せない連日の、過酷極まりなき「現実の労苦」に…。
「儀典長」として、衷心より感謝の誠を申し上げます。   本当に有難う御座いました。

最後に…。喪主・○ ○として、申し上げます。
本日 今は亡き母「故・○ ○儀 三十五日忌 法要」の挙行にあたりまして。
「○ ○・○○様御夫妻」を筆頭に、こうして御参列いただき 
誠に有り難く衷心より御礼を申します。     有り難とうございます。

尚。 皆々様に於かれましては、どうぞ今後ともの御鞭撻・御助力を賜りますよう、心より御願いを致します。
本日は誠に有り難とうございました。

[878] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2013年12月29日 (日) 11時24分

巳年である本年も愈々押し詰まった。
中秋の候の『大義母』の御長逝を筆頭に、我が身辺にも急変の多き時であった。
が…。其れでも尚。 私自身は、「未だ息をしておる」…と。何とか生きている。

扨。  この2,013年の巳年の納期にあたって、この『忘れ得ぬ風景』に書き遺しておきたい。

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先ず。 本稿の発起人であり、総支配人でもあられる『おにゆり氏』に、満腔の感謝を申し上げたい。
特段、当初より。 
この編集作業に費やされた、気の遠くなるやうな時間と、倦む事無き御労力には言葉が無い。
誠に ありがとうございます。


先日…(12月の初旬頃) 私の御尊敬申し上げる「現役支部長・UD氏」より電話が入った。
時間は夕刻。 着信場所は自車。 用件は「今、どこか? 差し支えなければ寄れ」であった。
「御社の近辺ですので、 すぐに伺います」というのが私の返事である。

支部長の会社に着き、二階の事務所に来訪を告げると、待っていたかのやうに降りてらした。
『 これ、カレンダーです。 二部ありますので一部は息子さんに… 』と、来年の暦を戴いた。
「 これはこれは、有難う御座います 」と受け取り 「…ところで」と続けた。

「今年の(カレンダーの)最後の月の箴言。 マジ 胸に刺さりました」と申した。
『えぇ? し・箴言ですか?』と、UD支部長は酷く狼狽しておる。
「何の事はない…。当の送り主の人間でさえ、見逃しておる」とは言わない。
…が。 当然と在るべき物を、自然に漫然と看過してはいないか。    と自問する。
この「当然と在るべき物を、自然に漫然と看過する」が、 実は『人生の落とし穴』ではないのか。

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去年の暮、「UD支部長から戴いた 2,013年の暦」の最終ページの箴言は下記である。
【 今日という日は 残りの人生の最初の一日である 】
私は直観想った。 「凡庸で平易じゃが、極めての炯眼だ」

「靖国への宰相の参拝」や、「国家秘密への賛否」等々、世はキナ臭い。
それは…「ナチスの大蛮行」を語るまでもなく。である。 

かの「アンパンマン」の『故 やなせたかし氏』の座右に匹敵する「やなせ氏自身」の言葉がある。
【 正義を行う人は、自分が傷付く事を恐れない(又は「覚悟している」) 】(概意)


諸兄各位様の穏やかなる迎春を、謹んで御祈念申し上げます。

[880] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月04日 (土) 08時34分

2014年1月2日の朝、私達「老夫妻」は「新年勤行会」に臨んだ。 
『本年は 昭和で言えば八十九年…。  師匠は86歳になられる。』
『…という事は、師匠より17歳年少のワシは69じゃ…』

同輩の中には既に一線を離脱し、広間左右の椅子席に屯しておる者も居る。
( 本来、信心に一線も二線も無い… その訳は、この信仰で「三世」の存在を知ったのだ )
…が。 そんな理屈は、この際 あまり馴染まないので…と周りを見渡す。
そういえば…顔を知らぬ若者が大半を占めておるワイ…と、積年を振り返らざるを得ぬ。

若き司会者が、懸命に式次第の進行に携わっておる場内に、
晴れ着を着飾った若き女性の姿の「艶(あで)やかさ」が、初春独特の風景を醸し出す。

雛壇 向かって左を見れば…。
長年「支部婦人部長」として愚壮と共に闘った御婦人が、今は「本部長」として緊張の面持ちであり…
何処の何様やも知れぬ者が「圏婦人部長」としてふんぞり返っておる。
「では…右側はどうなんじゃ…」との視線の先に、真贋取り混ぜての赤ら顔が並んでおる。


「式次第」の進行はやがて… 『学会歌・常勝の空!』と宣せられた。
「次代の雄」として、日頃から見上げている「男子部諸氏」の指揮は…。
『何の事はない、アレでは高速道路で赤旗を振る「警備員を模した人形」だ』と涙が出る。

『誰が創価学会の組織をコンナ腑抜けにしたんだ!』とも叫べずに落ち込んだ。

『否。 確かに云える事がある…  汝の正体は、はたして それでよいのか』
とは…先達の炯眼か。摂るに足らぬワシの幻聴か。それとも正論の覚醒か。

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この「新年勤行会」で、御一人の壮年が「新入会」された。
この人の「折伏」に、去年から渾身に振舞い、陣頭に立った人がいる。
それが「我が妻」であった。  

愚壮は言う。 愚壮の残りは僅かであるが、ワシは「冥の照覧」をこそ信じて、生きてゆく。

[883] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月09日 (木) 20時40分

2014年1月度「座談会御書」  大白蓮華 770号(2014年1月号 58〜63P)
『大悪大善御書 (断簡 ・ 御述作年月日 及び「対告衆」不明)』  『新編・御書全集』1300P

本文
【 大事には小瑞なし、 大悪 を(起)これば 大善きたる、
すでに大謗法・国にあり 大正法 必ずひろまるべし、
各各(おのおの)なにをか なげ(嘆)かせ給うべき、 】

元々古来から、大きな出来事の直前には何かしらの「兆・きざし(兆候)」が必ずあった。
「兆候」それ自体も、何も信仰の有無と深い関わりが有るという事ではない。
従ってこれは、万人が知る事で、大悪も大善も「人間の力」では どしようもない事でもある。
この「万人が知る事」というのは、歴史を繙いて学ばずとも、極く当然の事であったと言ってもよい。
「予兆」…   言葉を返せば、これ程「不可思議極まる」事もない。
たとえば… 「限り無き宿命に翻弄(ほんろう)された人生」という事柄などは、大袈裟にいえば「日常茶飯事」だ。

だからこそ、御書の中に於いて 『日蓮大聖人』は、この「予兆」という事を 何編も顕されておる。
例えばこうじゃ。 …と、恐れ多くも『御聖訓』を譬喩してはならぬが。
御書 『強仁状御返事』185P には、こうある。
【 青天は眼を瞋(いか)らして我が国を睨み 黄地は憤を含んで 動もすれば夭孼(ようげつ)を発す、 】
( 青天も黄地も、これは「万法に息づく摂理」であり。 夭孼こそが「兆候」である )
又。こうある
【 皆 しるしあり 】 『四条金吾釈迦仏供養事』 1145P
更に 【 不可思議の事の候へば・さが(兆)候はんずらむ 】 『檀越某御返事』 1295P
更に 【 強敵を仏法の中に あらそい出来すべき たね(種) 国のみだ(乱)るべき せんてう(先兆)なり 】
↑ 『帰伏正法御書』 1301P
【 経文の如くならば 日蓮を流罪するは国土滅亡の先兆なり 】 『波木井三郎殿御返事』 1372P

上記の引用はごく一部であって、枚挙に暇がない。

つまり…。
『日蓮大聖人』が、本抄の冒頭で 「大悪 を(起)これば 大善きたる、」と述べられたのは、
この事 ( 「大悪 を(起)これば 大善きたる」が、ともすれば忘れがちな、人間環境の本質なんだよ )と云われた。
「人間環境の本質」とは、極言すれば 『摂理 ・ 法理』である。

故に 「大白蓮華 61P  (上段)」で、こう書いてある。
『 門下の一人一人は 嘆く必要など 少しもない 』
いやいや。むしろ…   『 嘆かずに、思い切れ! 』 であろう。
…でなければ、 この「創価の信心」が虚妄になろう。

…が。  この後に続く「重鎮なる言葉」は、とっくの昔に 皆 知っておる。
と言っても、「消化不良」であろうから言っておく。
それが『同苦』じゃ。  「同苦」の出来ん奴に、 大悪を大善に覆す事などは、これも出来ん。

[884] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月10日 (金) 20時18分

2014年1月度「座談会御書」  大白蓮華 770号(2014年1月号 58〜63P)
『大悪大善御書 A』  『新編・御書全集』1300P

初回の講義部分。 稍(やや)粗削りで「誤解」も招こうとて、若干補填しておく。

重複するが「本文」は以下であった。
【 大事には小瑞なし、 大悪 を(起)これば 大善きたる、
すでに大謗法・国にあり 大正法 必ずひろまるべし、
各各(おのおの)なにをか なげ(嘆)かせ給うべき、 】

上記の御聖訓で『日蓮大聖人』が強調されているのは、『 嘆かずに、思い切れ! 』である。
解り易く言えば 『大悪(命を断ぜられる如きの最悪の事態)に臨んでもオタオタするな』と言う事だ。
この『 嘆かずに、思い切れ! 』を、弟子檀那に何度も何度も御教示になられた。
つまり 【 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、 】であり。
【 朝夕教えしかども・疑いを・をこして 皆すてけん 】なのである。  ←『 開目抄下 234P 引用 』

「大悪に遭遇しても 決してビビるな!」 これが『大聖人御自身』の大結論だ。
そうでなければ、「末法の法華経の行者」なんぞ 貫けない。

少々長くなるが、こういう御金言が存在する。 下記引用 『富木殿御返事』 962P 7〜8行目
【 但 生涯 本より思い切て候  (この決心・決意は)今に飜返ること無く
其の上 又 違恨(いこん)無し 諸(もろもろ)の悪人は 又 善知識なり 】

…と云いつつも、『日蓮大聖人』は何も「思い切る事」に拘泥していない。
それが「大白蓮華」63P 1〜4行目である。  ま、つまり「同苦」なんじゃ。

これ(大白 63P 1〜4行目)のルーツは、下記である…といっても、皆 知っとるわい。
【 人のために火をともせば・我がまへ あきら(明)かなるがごとし 】 『食物三徳御書』 1598P

であるから、 前回の結びにワシは「同苦」と云ったのじゃ。

[885] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月10日 (金) 20時27分

ところでじゃが。
大白蓮華の解説など棒読みして「解った心算」の奴が多い。
だから駄目なんじゃ。

最低。座談会御書くらいは、自己の研鑽を入れよ。
「自分の言葉」で講義しなさい。 

さいて

[886] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月11日 (土) 08時15分

座敷机の上に放り出しておいた携帯が、暗がりの中で「ピカピカ」と着信を示しておる…とは。
2014年1月10日(金)の明け方に迫る時刻であった。
「どうも近頃頻繁の、夜中の小用がオモロクない」とか言いつつ、階段を降りきった時に見えた風景である。

「ピカピカ」の正体はメール。 発信者は長女。
さきごろ女子部を卒業した彼女は、すぐさま「ハワイ」なんぞで結婚式を挙げよった。
そんな「訳の分からん行動」をする娘じゃが、信心は「我が老妻」以上で、ヒヤヒヤしておる。

「その娘が、ワシにメールで何の用じゃ」と、冷気の暗がりで携帯を開いた。
『お父さん、お誕生日 おめでとうございます。 いつまでも元気でね』とあった。
こんな「クソ寒い」なかで父親を泣かしてはいかん…と、私は娘のメールに云っておった。

その日の午前八時ころ、仕事中のワシの携帯が再び鳴った。
見れば「母親」からであった。

「お誕生日 おめでとうございます」と、これも開口一番に母は言う。
「態々電話までしてくれて、どうもありがとう」と言う。 
母は続ける 「酉の年の 酉の日の 酉の刻に 私は確かに貴方を産んだ」
『母』とは85歳の御高齢の人であられる。 その人が、こうして私に祝ってくれるのだ。
私を産んだ時の「風景」まで語り聞かせる母に、車を走らせつつ静聴した。

そんな昼前。長女の夫君からのメール着信に気が付いた。
「メール」には、誕生日を祝す言葉の後に こうあった。
『おとうさん 御健康に留意されて、どうか長生きして頂きたい』
私は又泣いた。   
一体、何度泣かせれば…と思つつ、京都に向かって車のアクセルを踏みこんだ。

[887] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月11日 (土) 10時45分

ワシの友人数は少ない。 が、「同志」は多い。
そんな中でもあいつは…男子部時代からの「腐れ縁」で、当然 今も「同志」としても「友人」としても続いている。

組織役職でも「支部長」を長期に勤めて、支部員さんの労苦にも迫っていた。
又。地域活動でも「民生委員」「自治会トップ役員」「体育振興委員」と忙しい。
そんな「あいつ」が役職を降り、副本部長専任になって、年を越した。

先日の事であった。
「どないしてん、エライ元気が無いやないかい」と直感で言うワシに、奴はヤット顔をあげた。
『元の多くの支部員さんと、あまり喋るなと言われた』と、柄にもなくショゲた口調である。
「なんやとー  誰がそんなホゲた事 ぬかしよるんじゃぃ」と、ワシのほうが切れておる。

奴は言う 『かっての支部員さんと、あまり喋るなと言ったのは…』で、案の定「同志」の男は黙っている。
ワシはすかさず言った 「お前に、そのような愚にも付かぬ事をいった奴の名を聞いてるんじゃ」
「誰じゃ!」と、追い討ちをかけるワシを、逆に哀れんでいる如くの眼差しで「元・支部長」は見ておる。

「こいつは 俺への与同罪を恐れておる…」とは、ワシの微々たる炯眼である。


やがて…『圏長から言われた』と彼は言う。
この圏長(ゾーン長)の言には、実は多くの意図・伏線があろう。
…が、この(圏長の発言)は、配慮が足りないどころか、大いなる過ちである。
あの麗しい団結の組織を、誰がここまで貶めたのか…と、涙が止まらん。

「役職重視・数重視」 誠。落ちぶれたもんである。

[888] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月12日 (日) 08時50分

『邪宗』について。


秋晴れ様御記述への返信

下記の御記述について、賛同の趣旨を以って申し上げます。

*******************************************************************

> 現、創価学会では邪教とは日蓮正宗のことをいうのであって、
> 他の宗教団体を他宗教といい、邪教よばわりはしてないとの認識です。
> 学会の意味するところは、私には分かりかねます。

*******************************************************************

現、創価学会では邪教とは日蓮正宗のことをいうのであって、云云。
※ 創価学会は「日蓮正宗:大石寺(宗門)」を邪宗と表現してはいけません。
その基本理念をば述べるに、証左とする事例・文献は  (譬えは悪いが)腐る程あります。
邪宗とは、邪義を吹聴した「人師」を直射して謂うのであって、「正師の母体(日蓮正宗)」を指してはいけない。

【 此(これ)に超過し 以(もっ)て恐怖(くふ)すべきこと 百千億倍なれば 持戒・邪見の高僧等なり     富木殿御書 970P 】
この上記の「御金言」を、虚妄にする権利・資格 或は伏意が。はたして創価学会 就中『三代の歴代会長』にあったのか。
…と言う事です。

今、私が引用した御聖訓の直前には、下記の如く顕されています。
【 今 日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・
悪妻・悪子・悪所従等よりも 】 とある。  …つまり 諸悪の根源は「持戒・邪見の高僧」所謂、人師にあります。
この「人師」を『日顕・日如』等に代表限定していうならば、「邪宗・邪家・邪法」でよいのです。

*******************************************************************

現今の宗門を、恰も「仏教歴史の襟を正させた日蓮仏法の拠点・大石寺」と混同させる如きの論法は、
それこそ「味噌糞・十羽一絡の荒くれ論旨」であり、絶対に「諒」とは言わない。

それでも尚。日蓮正宗:大石寺(宗門)全体を「邪宗」と創価学会が呼ぶのなら、
明日から『御書』を拜してはいけない。  …こう思います。

※ 創価学会は「日蓮正宗:大石寺(宗門)」を邪宗と表現してはいけない。
その証左とする事例・文献は「三代の歴代会長の御指導」を含めて、数多くあるのです。
愚壮謹拜

[889] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年01月13日 (月) 08時48分

これは昨日(2,014年1月12日)の事である。   
その日の朝。 タマタマ「BS放送」を視聴していた私は、映し出された画面に注目した。
『大船渡だ』 『あの大震災で、生活の全てを根こそぎ失った、大船渡だ』と叫ぶ。

この「火野某」という名優が、視聴者からの手紙をもとに、その視聴者の昔日の風景を辿る。
主体は「火野氏と製作スタッフ」の自転車での探訪であるが、時には「鉄路・陸路」を走っている。
この「火野氏版・忘れ得ぬ風景」は、私の数少ない「好きな番組」である…と、楽しみにしている。

閑話休題

私が この「大船渡」の風景を見た時、即刻・躊躇なく執った行動がある。
それが、愚息(長男)への電話であった。
『…大船渡とは、長男の嫁の実家の地だ…』が、即刻の電話の理由でもあったが、
実は、もう一つの訳があった。  それが、復興の現状を知れる事である。

ワシは『今いいか。 仕事をしていないのなら…』と、チャンネルを言った。
息子は「わかった」と言って、すぐに電話を切った。  …が。直ちに携帯が鳴った。
電話の発信は息子である。

「お父さん、 …実は」と、彼は続けた。
「お父さん、実は 大船渡の叔父さん。 今日が告別式なんだ」と言った。

東北の人達は、あの震災で家が流失した。 
その後、仮設住宅へ変わったが、大きな失意は埋めようもなかった。
「御一家の半数を失なった叔父さんに、俺は声も掛けられなかった…」
「そんな叔父さんが、遂に力尽きた。 それが一昨日だった…」と長男の声は咽ぶ。

『偶然は無い!』  それがワシの根幹である。
今は…。 御冥福を謹んで祈るのみである。

[891] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年02月01日 (土) 08時42分

大きな会合や、折々の特定の研修会などで、著名なゲストを招く。

唯…、念の為にいえば。著名人とは、決めて有名人ではなく 「強信の弟子群」の中に居る。
その夜の「K氏」も、その「著名人たるゲスト」であった。
会合名は「県・壮年部研修会」(於・K文化会館)である。

愚壮が「地区部長」及び「支部長」を拝命していた時代(…と言っても 大昔ではないが)
なぜか「配車」という任務に着任する事が多かった。
例えば…「S全国副教学部長」や「T精神科女医」「K女優」等々と、人皆知る人である。
(この「配車任務」には後日譚があって…「あいつは時間が正確だったから…」と、それのみじゃが)

*******************************************************************

そんな中に「K氏」も居た。
『「K氏」とは、屈指の池田門下である…』と、 その夜の私の緊張も…今は懐かしい。
扨。 その夜の会合が終った。
三々五々と帰宅される「壮年諸氏」のその顔が輝いていた。

やがて… 森閑となった会館正面に、私は愛車を回した。
既に、時刻は深夜に近い。

御自宅までの後席の「K氏」は、存外と沈黙の中にあられたが…。
突然(実際に そうであった)「K氏」が云われた言葉が、私の心に電撃が走った。

それが、以下である。
『…愚壮さん。私はいつもこう念(おも)うのですが…』
『…創価学会は「貧乏人と病人の集まりなんだ」という事こそ、真の誇りです』
『 何も無い、何の取り柄も無い…。 これが「創価学会」の誇りなんです 』

「名聞名利のみを追う人」「蔵の財に拘る人」には、自己の「使命」を見逃がす「隙」がある。
…ともすれば、その事(煩悩即菩提⇒生死を離れる事)を忘れてはいないか。と煩悶した。
故に…あの夜の車内での出来事は、私の偉大なる「忘れ得ぬ風景」なのである。

*******************************************************************

今般。 『おにゆり様』から戴いた「風景」は…
その「K氏」よりの一様  「富岳(富士山)」である。

今から大凡(オオヨソ)772年前 『日蓮大聖人(当時は蓮長)』は「富士山」を仰がれた。
この時、初めて「富士山」を仰がれた『日蓮大聖人』は、「おぉ!富士の山」と叫ばれた。
その日から9年後の、1253年(建長5年3月)に、再び「蓮長」は富士を仰ぎ、こう叫んだ。
『富士の山… 不死の山…!』と。 ( 湊 邦三師 御著作抜粋 )

*******************************************************************

『富士山』とは、我が国の象徴たる「独立峰」である。
その広大無比の裾野には、万人を圧倒させる威厳さえある。
つまり…「生死を備えている」と感歎している。

捨つる命は 惜しまねど
旗持つ若人 いずこにか
富士の高嶺を 知らざるか
競うて来たれ 速やかに
…とは、戸田城聖先生作詞に依る『同志の歌』の一節だ。

この『富士』に…。 今 忘れ去った「何か」が秘められている。
恐々多謝

[892] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年02月02日 (日) 11時28分

『追記・富士山』

下記は「富士山」に関する御聖訓である、 是非 御拜読願いたい。 『新編・御書全集』抜粋 
聖愚問答抄上・486P  百六箇抄・867P  産湯相承事・878P 879P  日女御前御返事・1245P 
身延相承書・1600P   富士一跡門徒存知の事・1607P   五人所破抄・1613P

*******************************************************************

この『富士の山』に…。 今 「忘れ去った何か」が秘められている。とは(今 拜読された)此の事である。
そして ⇒ 「忘れ去った何か」とは、
御金言に「ダイレクト」に迫る、各々諸賢の御書拜読の根幹姿勢のみにあり…。
その「根幹の姿勢」とは下記以外には存在しないのだ。

その基本姿勢とは!
『新池御書 1443p 』14〜15行目の御聖訓。就中、16行目の御金言だ。
それが… 【 信を以って入る事を得 己が智分に非ず 】である。
【 己が智分に非ず 】……この原点を骨格としなければ、全てが虚妄である。 
【 己が智分に非ず 】の【 智分 】とは、取りも直さず「私見で言わない」という事である。

…そうでなければ。
『日蓮大聖人』直結の「正統の御正師(僧)」や…。
「創価三代の師匠(俗)」の御箴言・御指導が虚妄になり…
就中。    「K氏」の呻き(創価学会とは貧乏と病人の集団である ・ 概意)が嘘になる。

然らば…。 この真実の「呻き」を
 『日蓮大聖人』はその多編の御指導・御記述の中で どう顕されているのか。
【 苦をば苦とさとり 楽をば楽とひらき 苦楽ともに思い合せて (御本尊に強く唱題せよ!とされた後)
いよいよ強盛の信力を いたし給へ 】と、強く述べられておられる。  
上記  『四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)』 1143P

つまり…。 「一幅の富士山の俯瞰写真」に秘められた、強烈な「メッセージ」とは
「汝自身の力で屹立せよ!」という事なのだ。
これが「K氏」の真正の「メッセージ」である、と共に。 『おにゆり様』の強き「メッセージ」でもある。

Once again I taike my life into account for moving forward.
であるから 『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』のである。
愚壮謹曰

[893] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年02月03日 (月) 19時31分

前回の愚壮奴の下記表現で、「我意を得たり」と糠喜びする御仁に追記しておく。
>> 『日蓮大聖人』直結の「正統の御正師(僧)」や…。
↑この文言は、云うて悪いが現今の「日蓮正宗:大石寺(宗門)」の僧俗モドキを指してはいない。

( 誠に勿体無い事じゃが、列記させて頂ければ )
ワシの言う「正統の御正師(僧)」とは、以下に代表される御僧侶である。
『日蓮大聖人』『日興上人』『日目上人』『日有上人』『日寛上人』『日霑上人』『日亨上人』だ。

ソレハソウト 【現今の「日蓮正宗:大石寺(宗門)」の僧俗モドキ】とは、実に「至言」である…と
ワシが「ウマイ事 書きよるわい…」自分で自分を褒めておる位、現今の『宗門』は出来が悪い。

では、どう 「出来が悪い」のか。
下記は、もう随分以前の「忘れ得ぬ風景」じゃが、臆面も無く再掲する。

2003年10月23日(木)08:00 投稿者:愚壮 (創価仏法研鑽掲示板 抜粋)
( 愚壮の実妹の折伏風景の再描の為、小野不一様の掲示板の引用をしております )

……そんな強い彼女も 歯が立たなかった苦難があった。
他人を頼らぬ妹が 初めて見せた挫折の姿に 壁の高さが見える。 
愚壮は言う「心配御無用 俺を見ろ、絶対揺るがぬ法がある」と。
積年の兄の祈りに妹うなずく。大歓声の部拠点に「名物部長」の大泣き嬉し。

いそいそと又、晴れ晴れと着きし寺院の玄関に「継命」なる書籍あり。
ひとりの仏子の誉れの門出、講(講員の事)も祝ってくれるだろう。
僧の導師で始まる(御受戒の)儀式、おもいもかけぬ暴挙を受く。
四、五人の講員が宝前にかけあがり、箒、ハタキで掃除をはじめた。
激怒の愚壮と 絶望蒼白のいもうと。  無惨、地獄図。
「K部長」は今も言う、しみじみ言う「あれが 正体だったんですねえ」

これが「今の宗門」の正体である。 (邪宗たる所以が、ココに在る)
従って、本日の「新・人間革命(5247号)」に書かれている事は、紛れもない事実である。

つまり… 「日顕」から宗門は、如実に「極悪」に変身したのである。
…そういう事じゃ。

( 尚。 「K部長」が登場されているので、この記述の背景は「昭和57年頃」と思う )

[894] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年02月05日 (水) 20時48分

【 当世・日本国に第一に富める者は 日蓮なるべし…
(そのいわれは…)命は法華経に たてまつ(奉)り 
(…それ故に…)名をば 後代に留(とどむ)べし、 】
上記が「T支部長」が持参された色紙(壮年部総会参加記念)の『御聖訓』の一節であった。
「これは… 『開目抄 下』にある御金言の前半ではないか!」とは、その時の私の叫びだ。

…その前に。
「T支部長」とは、愚壮の後任の支部長であって、いかにも温和しく、優雅に見える人じゃ。
この「優雅支部長」。
トシはワシよりも、かなり御若い…  
が、長く「創価班」で鍛えぬいた人。言わば「絵に描いたやうな創価人」でもある。
その「優雅支部長」が、こう言った。
「愚壮さん。 『御金言の前半』って、どういう意味ですか?」

*******************************************************************

「御聖訓」に「前半と後半」というような、フザケタ分類法が 一体…ある訳などない。
…と。 クダンの「優雅支部長」は、顔で仰(おっしゃ)る。

「ボケタレメ!」とは決して言わない愚壮は、続きの言葉を飲み込んだ。…が
誠に残念ながら、今回のこの、色紙の『御聖訓』に「後半」は確実に存在する。

*******************************************************************

【 当世・日本国に第一に富める者は 日蓮なるべし 命は法華経に たてまつり 
名をば 後代に留(とどむ)べし、 大海の主となれば 諸(もろもろ)の河神・皆したがう
須弥山の王に 諸の山神 したが(従)はあざるべしや、
法華経の六難九易を弁(わきま)うれば 一切経 よ(読)まざるに したがうべし 】
『 開目抄下 』 223P 2〜4行目

私所持の『御書』には、
上記の御文証の前後に カギ括弧がある。
( 御書自体に、こういったメモの類は良くないが… )
その『御文証』から鉛筆で欄外にまで線が引いてあって、こう書いてある。
「我こそは 王者なり!」と…。

そう。この『御金言』は、 
【当世・日本国に第一に富める者 〜 名をば 後代に留(とどむ)べし、 】
…が 一括りである。 きめて「色紙」の如く分断すべき『御教示』ではない。

いやいや。 まだある。
実はこの『御聖訓』は、おなじページの16行目に直結して、初めて「一つの強烈な意味」を持つ。
それが 【 日蓮と いゐし者は 去年(こぞ)九月十二日 子丑(ねうし)の時に頸 はねられぬ 】である。

凡夫の御姿は、あくまでも「見た目」なんだ…と 「16行目」は語っている。
これ  ここが『人本尊開顕の書・開目抄』…つまり『末法御本仏』の眼目である。
…と内心で思ったが、 「優雅支部長」には、そんな理屈は通じまい。

「愚壮さん。 『御金言の前半』って、どういう意味ですか?」という言葉を遮って…
「支部長 わざわざ御持ち戴いて 有難う御座います」と、こう言って彼と別れた。

[895] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年02月09日 (日) 09時51分

【 『常勝関西』という桂冠をも含めた関西の「公明党(国政での連携与党・公党)」と、
その支持者である「宗教団体」及び「当該宗教者」とも闘う… (本人の談話) 】
上記 【 】で閉じた部分は、今朝(2014年2月9日)のTVでの「報道」である。

その前に、『橋下 徹氏』本人(昭和44年6月生れ)の「公式見解」を下記する。
【 公明が法定協での区割り案の絞り込みに反対したことを「約束違反」と非難。
「宗教の前に人の道がある」と
強い口調で創価学会が支持基盤となっている公明への怒りをぶちまけた。】

上記は、現時点での「橋下 徹氏」45歳の真意である…。と これは「断言」してもよいだろう。

扨…。その『常勝関西』という冠詞じゃが。
『若き指導者は勝った』 第7回の中に、関連された記述があるので抜粋する。  

*******************************************************************

『時代と背景』欄よりの抜粋。
【 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に(池田青年が)躍り出た。
蒲田では 月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った (中略) 】
つまり…。
【 最下位クラスに低迷していた支部も A級支部に押し上げた。 】のである。
上記の記述は「伝統の2月」と、後世に語り継がれた『史実』で、時は昭和27年(1952年)2月。

実は、この同じ時に、もう一つの大きな・大事な流れが起っておる。
それが
『昭和27年2月1日 白木義一郎が大阪支部初代支部長』に就任した事である。
正確には「大阪支部長心得」という役職名であった。
これが今に曰う 『常勝関西』胎動の日である。( 以上 『時代と背景』より抜粋 )

関西の草創学会員は、この『常勝関西』の不動の構築に、師弟共戦され、死身弘法された。
それが、昭和27年2月からである。
つまるところ、  昭和27年とは…。 前述の「橋下 徹氏」が生まれる【17年】も已前の事だ。 

『戸田城聖第二代創価学会会長』の箴言を引用するまでもなく。
「貧乏人と病人の巣窟」とさえ揶揄され、卑下された「関西」に、その篤信の熱意を注がれ、
その「大衆の嘲笑の源」である『貧乏と病人』の存在を『学会の誇り』とまで昇華された。
これが『常勝関西』の原点である。

これ(『常勝関西』)を、「弱冠の徒輩」である「橋下 徹氏」が潰すと言うのだ。
特定の現存団体の、その実名を論(あげつら)っての「論法」は、
決めて「公人たる橋下 徹氏」が吐くべき言葉ではない。
《 ウサギも 三年弄(なぶ)れば 食いつく 》 とは「祖母」が私に教えた諺じゃが。
真正の師弟に「噛み付く」と、大いなる後悔に、悔やみ懺悔する日がくる。という事か。

赤子を「ネンネコ」に背負って「折伏」に励む御婦人に向かって罵声を浴びせる人が居る。
「お前のとこの貧乏が良くなったら、信心してやる!」…と言い。
「これは オマケや」と、その御婦人に「塩」をかけた。

この上記の実話を、今に「よみがえらせた」のが…。
「橋下 徹氏」の【 『常勝関西』を潰す (大意)】発言である。

[897] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月02日 (日) 12時06分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  @
(大白蓮華のページに倣(ともな)って関連の御聖訓の引用をする。)

大白蓮華 28P 17〜18行目 ↓
【 御書を拜すると、日蓮大聖人が門下の質問を大切にされたことが… 】
云云と書かれている。

「これは門下が、教学上の ※質問 をする事・そのもの」の重要性を
 『強く示唆された』 御教示である。

@ 『辧殿御消息 1223P』には、こうある。 ↓
【 不審 有らば 諍論(じょうろん)無く書き付けて 一日進らしむべし。 】

A 『教行証御書 1282P』には、こうある。 ↓
【 随問而答(ずいもんにとう)の法門 申す可(べ)し、 】

B 『阿仏房御書 1304P』には、こうある。 ↓
【 一御文に云く(中略)、此の法門 ゆゆしき大事なり… 】
↑ この上記の文意は「非常に大事な ※質問 です」という意味である。

更に「法門への ※質問」の重要性を強調する御教示は、以下と続いていく。 ↓
C 『阿仏房尼御前御返事 1307P(関連御聖訓⇒1308P)』には、こうある。 ↓
【 御文に云く 謗法の浅深軽重に於ては 罪報如何(いかが)なりや云云 】
上記の【 御文 】とは 
「日蓮大聖人に対する 千日尼の『法門への ※質問』の事である。

千日尼は女人の身でありながら、
「日蓮大聖人」に『謗法の浅深軽重への罪報』に関する「※質問」を、手紙に託した。
それを読まれた「大聖人」は、
法華経の法理の急所である「法華経への謗法厳誡」の依文を述べられた上で、
御返書の最後(1308P 13〜14行目)で、下記の如きの御金言を顕されている。 ↓
即ち 【 其の義趣(ぎしゅ⇔法理の急所)を問うは 是れ即ち難しと為す 】であり。
続いて 
【 法華経の義理(法義と法理)を問う人は・かた(難)しと (経文に)説かれて候 】と
最高の御賛辞を「対告衆の千日尼御前」に対して、御記述になられている。

之をして是を念(おも)うに…。 
『知ったかぶり』を一切排して、素直な心で師匠に「法理の真意の開陳」を請い願っていく…。
これが、今回の『勝利の経典『御書』に学ぶ』の骨格ではなかろうか。

それが本来の「師弟不二」(犯してはならない部分)を、正しく継承していく事なのである。
( …この「犯し難き部分」を利用して、巧みに私言を弄する「自称・最高幹部」をも見抜かねばならんのは「師弟不二」の必須じゃ )


例えば…今回の『日妙聖人御書』の骨子でもある「女人成仏」に関して、前述の千日尼御前は下記の※質問をしている。

D 『千日尼御前御返事 1309P 2〜3行目』 ↓
【 女人の罪障は・いかが (女人の罪障が深い事は漠然と知っているが…)と存じ候へども
(日頃「日蓮大聖人様」から伺っている)御法門に「法華経は女人の成仏を・さき(眼目)とするぞ」と候いしを 
万事は・たのみ(深く信じて) まいらせ候いて等 云云。 】…と、
真摯な※質問をしている事が記述されている。

当然。
この「※質問」に対しても師匠である「日蓮大聖人」は、
一切の「手抜き」をせず「全力」で『女人成仏』の大事を説かれる。

更に…。    
最も重要な『血脈相承』についても、その解答(正論)を引き出したのも「師匠への※質問」である。

E 『生死一大事血脈抄 1338P 3行目』 (対告衆⇒最蓮房)
【 殊に 生死一大事の血脈相承の御尋ね 先代未聞の事なり 貴貴 】

そして…。
この「教学上(法理)の※質問」への讃歎の『御聖訓』は頂点となる。
( 大白蓮華 28P 最終行から 29P 1行目 ↓)
【 先 法華経につけて御不審をたてて 其趣を御尋ね候事 ありがたき大善根にて候、 】
上記は F『妙法尼御前御返事 1402P 冒頭』の御聖訓である。

「日蓮大聖人」が、
一人の門下の「素朴な※質問」を 『同抄 1402P 3行目』では 下記の如く御褒めになられている。
【 末法の けふ(今日)このごろ(此の頃) 
法華経の一句一偈の いはれ(理由・正史)をも尋ね問う人は ありがたし 】

今回の『勝利の経典『御書』に学ぶ』は…。
大白蓮華 28P(僅か1ページ)の「※質問」に関する事柄に関しても、
『御書』を御引用申せば この紙量である。

次回は「対告衆・日妙聖人(日妙尼)」を若干掘り下げてみたい。
@ 完


[898] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月09日 (日) 08時55分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  A
(大白蓮華のページに倣(ともな)って関連の御聖訓の引用をする。)

大白蓮華2014年3月号 29Pの本文 ↓
【 (日蓮大聖人の御在世に)鎌倉から遠く佐渡の地まで大聖人のもとへ… 】とある。
書けば「これだけ」であるが…。 この「これだけ」の中に。 
『誠の日蓮仏法・誠の創価仏法』の根幹がある。
その「信心の根幹」を貫き徹(とう)した「女人」こそ『日妙尼』なのだ。

そこで、この本抄『日妙聖人御書』の対告衆である「一女人・日妙尼の生き様」を「別抄」に迫りたい。

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大白蓮華 30Pの上段に
【 うつつ(現)ならざる不思議なり 】という御記述の引用がある。
これは 『乙御前御消息 1220P 3行目』の引用であるが…
 実は、この前後の御記述に 『日妙尼』に「聖人」を冠した真意がある。

この『日蓮大聖人』が吐露された「真意」とは、一体 何処にあるのか。
『真意の序章』とは ↓
【 女人は夫を魂(たましい)とす・夫なければ 女人 魂なし 】 (御書 1219P 17行目)である。

この【 夫なければ 】という御記述。 これは「寡婦(かふ)」を指している。
つまり ⇒(夫とは死別・離別した身でありながら、その後「後添」を求めずに『師を求める女人』) である。
※ ( 日妙尼(日妙聖人)の場合は「離別」 1217P 13行目 )

『日蓮大聖人』の『真意の序章』は  更に続いてゆく…。
【 此の世に 夫ある女人すら 世の中 渡りがたふ(難とう)みえて候に、
魂(この場合は夫を指す)もなくして世を渡らせ給うが・
魂(夫・再掲)ある女人にも すぐ(勝)れて 心中 かいがいしく おはする上・
(中略) 人に勝れて おはする女人なり 】…。

であるから、尚更 【 うつつ(現)ならざる不思議なり (再掲)】なのである…と御記述なのだ。

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だから ↓
【 其の上 いまのまうで(今回の佐渡への来訪の事) 又 申すばかりなし 】1220P 3〜4行目
なのであり、更に ↓
大白蓮華 30P(下段)4〜5行目
「 前例のない女性門下の求道心を賞賛 」なのである。

 本抄の真意とは…「法(師匠)を唯々求める弟子(門下)の生き様そのもの」を言う事…
つまり…。いつの世になろうが、その「真理」を求め往かねばならんと言う事なのだ。

僅か3,600文字前後の短編の御記述である『日妙聖人御書』
しかし。 この御記述には規範とすべき御教示が輝いている。

続く

[899] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月09日 (日) 12時39分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  B

『贖命の弘法』(死身弘法)の先駆者の列記
贖命(しょくみょう)とは文字の通り「命を贖う事」であり、弘法とは「法華経」。所謂「正法」である。

本抄『日妙聖人御書』では、この上記を冒頭に列挙して「日妙尼自身」の求道を讃えられた。
その『贖命の弘法』(死身弘法)の先駆者の列記とは ↓
楽法梵志・釈迦菩薩(菩薩時の釈尊)・雪山童子・薬王菩薩・不軽菩薩 等々だ。

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…が。     『日蓮大聖人』が、上記にて顕された弘教の先駆者の業績も
『 これは「正史」ではあるが… 然し。 時には適っていない 』と御記述されている。
【 取捨 宜しきを得て 一向にすべからず 】 1216P 9行目 
上記は「章安大師」(唐・天台宗 第5祖)の嚼論引用である。
これが 「時に適応していない事象を用いてはいけない」…という事であろう。

が然し。 御聖訓に列挙された『死身弘法』の先駆者達(本抄・1213P〜1215P)
を「全否定」されていない事は、これを忘れてはいけない。

それが ⇒ 大白蓮華 31P(上段)の
「ここで一点、確認をしておく」という記述である。

その上で、大白蓮華 31P (下段)の 「戸田城聖先生」の『今』という事柄を拜さねばならぬ。

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「戸田先生」の曰う『今』とは、「今 要る物を得る事」「今 やらなければいけない事」を…
敢然と実践しゆく事である。
これが 【 取捨 宜しきを得て 一向にすべからず 】 1216P 9行目である。
いや。  もっと究極の「御金言」が実在するので、その部分を顕そう。
【 仏に やすやす(易々)となる事の候ぞ・をしへ(教え)まいらせ候はん、
(中略) 仏に なりやすき事は 別のやう候はず、 (中略)
二つなき物を 人にあたへ(与え)・
命のたゆる(絶える)人の 施(贖⇔あがない)に あふ(遭う)がごとし 】
上記 『上野殿御返事 1574P 2〜5行目』

仏法の根幹は須(すべから)く、その行住坐臥(行躯そのもの)が『適時而已』である事だ。
それのみが「何の為」に直結している事を、芥子粒も忘れてはいかん。
( 「何の為」 ⇒ 大白蓮華 31P (下段) 21行目 )

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(が然し。 御聖訓に列挙された『死身弘法』の先駆者達(本抄・1213P〜1215P)
を「全否定」されていない事は、これを忘れてはいけない。)とは今回の再掲じゃが…。
この ⇒ 『「全否定」されていない事』の文証を示唆しておく。 ↓
【 いまだきかず 女人の仏法をもと(求)めて 千里の路をわけし事を 】1216P 13行目

幼子(乙姫)の手をひいての「師匠」を渇仰する行脚である。
「誰ぞ忘るるや」である。

B 完

[900] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月15日 (土) 08時55分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  C

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【 うつつ(現)ならざる不思議なり … 】 『乙御前御消息 1220P 3行目』
上記(大白蓮華30P ・上段)は『日蓮大聖人』の心奥の叫び(…の一部)である。

【 佐渡の島まで流されしかば 問い訪(とぶら)う人も なかりしに・  
女人の御身として・かたがた御志(微動なき行住坐臥の求道心)ありし上・
我と来り給いし事 うつつならざる不思議なり 】『乙御前御消息 1220P 2〜3行目』
上記が『日蓮大聖人』の偽らざる心境の吐露であられた。
尚。【我と来り給いし事】とは、『この日蓮を師匠と定め、求めて佐渡まで来た事』と拜す。

そのやうな本抄 『日妙聖人御書』が顕された「1272年」(文永9年)の時代背景とは…
健脚の壮年武人でさえ、道中の多難を簡単に予想される世相である。

一体「何故」に『日妙尼』は「幼き乙御前」の手を引いて、遠路『師匠・日蓮大聖人』を求めたか。
そも何故か。 抑(そもそも) 『何の為』の行動なのか。
大白蓮華 31P 下段 にある、『「何のため」という原点が大事』の【何】とは何か。

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『正史の継承』
「正しい歴史を、正しく後世に伝える」 つまり『正史の継承』が、謂う「何の為」の【何】である。
逆に云えば… 『正史の継承の人』となる事の為のみに、日妙尼は遠路、師匠を求めたのだ。

その『正史の継承』の実践の人に対峙して、「諸悪・諸難」は先を争って畢(ことごと)く立ち阻む。
「畢く」とは、一切の手抜き無く・目溢し無く・例外なく…と、諸悪・諸難は立ち阻む事だ。

たとえば… 「この人は絶対に欠くべからざる人」に、ある日「短命を保障する」病魔が襲った時。
さらに、この「絶対に欠くべからざる人々」が連続して消滅の危機に晒される時。
また 今まで同志として尊敬していた人の、突然の「信じられなき本性」を見る時。
↑こんな事態に陥った時。 決めて私達は「現実から逃げて、事態を回避」しないであろう。

大白蓮華の文章を写すのみでよいものを、稚拙なる筆者(愚壮)の想いを書いた。
…が、然し。 この本意は 『諸悪・諸難に遭遇した時こそ、逃げない事』を云いたいのである。
それを、この『日妙聖人御書』から学びたいからである。

**********************************************************************

『諸悪・諸難』と言えども 之こそ『願兼於業』なり。

だから『我深敬汝等・不敢軽慢・所以者何・汝等皆行菩薩道・当得作仏』なのである。
↑ 大白蓮華 33P

…が。 是れとても 『十界互具』の広大無辺な法理から俯瞰すれば物足らぬ。
なぜ「二十四文字の法華経」でも言い足りないのか。
答えは一つ。 「正法とは時代の変遷に応じて、その姿を変える」からである。
では、どう「変わったのか」  

**********************************************************************

『妙法』とは【何】ぞや。
なぜ『南無妙法蓮華経(末法始顕の妙法蓮華経に帰命する事)』が究極なのか。
大白蓮華 34〜35Pには「諸仏の結論」としての『妙法』の有態(ありてい)が書かれてある。

C 完


[901] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月16日 (日) 08時19分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  D

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『妙法』とは【何】ぞや。
なぜ『南無妙法蓮華経(末法始顕の妙法蓮華経に帰命する事)』が究極なのか。

大白蓮華 34P     『妙理』(衆生本有の妙理)
一切衆生の最深に、元来から具わる「仏界(仏性)」
その「仏界」を顕現させる唯一の方途こそ『南無妙法蓮華経』である。
…と結論し、潔く実践する事であり…。
これが『日蓮仏法』の根幹であり、残余は「枝葉」であると悟る事。
↑ これが… 謂うところの 『妙理』(衆生本有の妙理)である。

**********************************************************************

【 妙とは蘇生の義なり 蘇生と申すは よみがへる義なり (中略)
法華経は 死せる者をも治するが故に 妙といふ釈なり 】『法華経題目抄 947P 2〜9行目』
倩(つらつ)ら思い起すまでもなく、上記の「御金言」に私達は立ち上がった。
それは何故か。  …それは、行住坐臥の『妙法(南無妙法蓮華経)』こそ、万薬と知ったからだ。
では、何処で どのようにして  『生きゆく為の根幹(煩悩即菩提)』を知ったのか。  
「常に根幹に置け」と、私達が確かに教わった『御書』は、
一体 どなたの御編纂で、現今に蘇えったのか。
亦。 どなたの御篤請が、それ(再編纂)を促したのか。 …と問いたい。

**********************************************************************

再び、妙に関する『御祖書⇒『日蓮大聖人』の全ての御記述文献(いわゆる御書)』を繙く。

曰く    【 抑(そもそも) 妙とは 何という心ぞや
只 我が一念の心・不思議なる処を 妙とは云うなり
不思議とは 心も及ばず 語も及ばず と云う事なり (中略)
而(しか)も 有無に徧(へん)して中道一実の妙体にして不思議なるを
妙とは 名くるなり、  此の 妙なる心を 名けて 法とも云うなり、(中略)
此の旨を深く信じて 南無妙法蓮華経と唱へば 一生成仏 更に疑あるべからず 
(中略) 努努(ゆめゆめ)不審を なすべからず 】『一生成仏抄 384P 6〜14行目』

亦曰く 【 天台大師の血脈相承の最要の法は 妙法の一言なり 】
↑ 『立正観抄 531P 18行目』

【 妙法蓮華経の妙の一字は (中略) 「能(よ)く毒を変じて薬と為す」云云 】
↑ 『道場神守護事 979P 12〜13行目』

更に 女性門下の「千日尼御前」には、下記の『御聖訓』を述べておられる。
【 十方の仏と申すは (中略) 皆 悉(ことごと)く
法華経の妙の一字より出生し給へり 】 『千日尼御前御返事 1315P 2〜6行目』

「妙心尼御前」には以下の『御教示』をされておられる。
【 又 此の妙の文字は
月なり 日なり 星なり かがみなり 衣なり 食なり 花なり 大地なり 大海なり、
一切の功徳を合せて 妙の一字 と ならせ給う、
又は 如意宝珠の たまなり 】 『妙心尼御前御返事 1484P 11〜13行目』

更に更に 「上野殿後家尼」には 煩悩即菩提の急所が窺える。
【 逆即是順の法華経なればなり・これ 妙の一字の功徳なり。 】
 ↑ 『上野殿後家尼御返事 1505P〜1506P』


つまり…。  『妙法』とは。
『南無妙法蓮華経』が「無二の究極」なのである。

D 完

[902] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月22日 (土) 08時56分


日亨上人『御書』序     原文
聖祖建宗七百年を記念する報恩行として 
昨年(昭和26年)の六月に創価学会で御書全集刊行の美挙が決定せられ、
其の編纂を 予に是非とも引き受けてくれとの事であった、

以下 ☆印が「通解文」である。
☆日亨上人『御書』序     現代語(通解)
日蓮大聖人の立宗宣言から、七百年を記念する報恩事業として 
昨年(昭和26年・1951年)の6月に創価学会で御書全集刊行の壮挙が決定され、
其の編纂を 私に是非とも引き受けてくれとの事であった。



其れは予が 富士門下の長老でもあり 学究でもあるからであろうが、
兎も角 世寿は八十六で法臘(ほうろう)が六十六であり
入道以来 ※孜孜(しし)として一日も巻軸を離さぬ勉強家であることを 
学者並に見込まれたものと見ゆる、
   ※孜孜(しし)⇒熱心に励む事

☆其れは当時の私が、日興上人門下の長老でもあり、
宗史を学び尽した研究者であるからであると思うが、
どちらにしても 兎も角、年齢は86歳で、出家して66年である。
仏道に入って以来、仏法の法理と正邪、及び古文の解読を学び続けている事を見て、
私を学者の様に思っているのであろう。



実は資性暗愚(しせいあんぐ)で如何(いかん)する事も出来ぬ、
やっと人様の真似ぐらいでは迚(とて)も斯(こ)の大任に当るの器でない、
宜しく御辞退申して 他の学匠に委ねるのが賢策であるのに 
無謀にも悦んで此れを受託したのは吾ながら不覚であったが、

☆本当は素質が暗く愚かで、どうにもならない。
やっと他人の真似事ぐらいでは、
とても御書編纂のような難解な事が出来る才能など無い。と、
そのような理由を付けて丁寧にお断りし、他の学僧に委ねるのが最良策であるのに
無謀にも歓喜・快諾したのは、※吾ながら不覚であったが、
( ↑ この独特の書風に、師の豪放磊落さが如実に顕れている。 )
実は、この事(快諾した理由)には、
御書編纂の事業を受けるべきの事情があった。
(その快諾した理由・事情を述べると…以下である)



御開山日興上人に五・十大部の御撰定があり 
又長編の御筆集が現存して居(お)るが
※所縁(しょえん)を写録されたもので聖祖の全編では無い、
   ※所縁(しょえん)⇒ ゆかり・縁故関係を指す。 

☆御開山日興上人が、御書の五大部と十大部の御決定をされた。
(興尊が決定されたのが、75歳前後の最熟達期であろうならば、1320年頃となる)
@本尊問答抄 A唱法華題目抄 B立正安国論 C開目抄 D観心本尊抄 
E法華取要抄 F撰時抄 G報恩抄 H四信五品抄 I下山御消息
↑上記は十大部
又、その他の長編の御聖訓が家宝として厳伝されているが、
それぞれの門下の縁故関係に限定された家伝や写本されて伝えられたもので、
必ずしも日蓮大聖人の全編の御正筆では無い。



※爾来五百年 
※斯業(しぎょう ⇒日蓮仏法の根幹)に精進するの名師出(い)でず 
漸(ようや)く近古になって細草談林の化主で 又 大石本山の学頭であった   
『久遠院 日騰上人』が始めて新定祖書の目録だけを作り
※祖書 ※拾遺(しゅうい)の編輯(へんしゅう)もあったが 全編ではない、
   ※斯業(しぎょう)⇒御書の編纂作業
   ※祖書⇒『日蓮大聖人』の全ての御記述文献
   ※拾遺(しゅうい)⇒漏れや欠落を拾い集める事

☆日興上人が、
御書の散逸や遺棄・漉返し(すきかえし)を強く御警告されてから、※約500年。  
( ↑  概略 1333年〜1833年の500年間の事) 
御正筆の編纂に没頭する学僧が宗門の中で出現しなかったが、
( ↑ 500年間「御書」補完の正師が出現しなかった「宗門の基本的体質」が如実である ) 
ようやく江戸時代後期(1840年前後)になって、 
千葉の細草談(檀)林(ほそくさ だんりん ⇔ 日蓮派の学僧養成塾)の塾長で 
又 日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)の学頭でもあった   
『久遠院 日騰上人』という学僧が始めて、改めて新しく収集すべき御正筆の目録だけを作り、
散逸された御正筆・御書の編纂を試みたが、御書全編には至つていない。



更に 本化文集六十六巻を製して門下を労して版下に清書させたが
不孝にして版行が出来なかったのみで無い
写伝者すら無く本書が転転として
大正の大震火災(1923年9月1日)で横浜で※烏有(うゆう)に帰したのは
護持者の※疎浪(そろう)を咎めても追付かぬ残念千万の事である、
   ※烏有(うゆう)に帰す⇒その(当該の)災いで全て無くなる事     
   ※疎浪(そろう)⇒扱いがいいかげんな事

☆その後、日蓮大聖人御書集・66巻を作製し、
学僧学徒に督励して校正原稿の完成直近にまで漕ぎつけたが、
不孝にして印刷出版が出来なかったのみならず、
引き続いて継承して、校正や出版に臨む者さえも見つからず、
この重要な原版が転々として、関東大震災(1923年9月1日)で被災し、
横浜で一切が灰燼に帰したのは、
護持すべき責任者の、日蓮大聖人の御聖訓に対する杜撰さや、
重要性の認識の欠如を、今更糾弾し、強く咎めても追付かない、
※慙愧の事件である。
( ↑ ※ 富士日興上人詳伝では『宗門の瑕瑾』とさえ断定されている )
( ↑ 後年「日顕」如きの輩が跳梁する、宗門自体の杜撰・漫然・惰性である)



日騰師の後輩 妙道院『日霑上人』は 予が師匠であるが、
騰師の新定祖書目録を修補して本祖文集四十四巻 同続集十二巻を集成し
其れが後に 久留米の霑妙寺に蔵(おさ)めてあったが 
何時しか欠本と為ったのを 補充を命ぜられて完本とし 
今は吾が雪山文庫に在る、

☆妙道院『日霑上人』(第52世法主・細草談(檀)林 第89代塾長)は私の師匠である。 
その日霑上人が、先輩の「日騰」の御書目録に強度の修復・補完をして、
日蓮大聖人御正筆集44巻 同じく続編12巻を集成した。 
その後 この御書集は、久留米の霑妙寺(日亨上人得度の寺院)に蔵(おさ)めてあったが 
いつしか再び散逸し落丁しつつあったのを 復元と修補と充実を(師:日霑上人から)命ぜられ、
完成の御書として、今は私の雪山文庫(伊豆畑毛・雪山荘)に在るのである。



予 暗愚で迚(とて)も現代の寺院生活は覚束ないので 
大正四年から 性に合わぬ万務を放下(ほうげ)して
本山の一隅に閉居し、学究生活に入ってから 同(大正)八・九年の頃に 
東京人で 『妙道居士:田井惣太郎氏』の発願で 
時の学頭『慈鑑院:日柱上人』を通して 御書編纂の企てがあった、
日柱上人は 其の主任を 自分に嘱(まか)せられたが 慮学を恥じて固く辞退した、

☆私は元来、諸事に暗く性格も愚昧なので、
とても現代の寺院に篭(こも)った生活では満足できないので、
大正4年から 性に合わない僧侶(宗務寧身)の生活を願い下げして、
総本山大石寺の隅(現在の雪山坊)を拠点として、
学究生活(東大史料編纂所・全国寺院踏査・古文書研究)に入っていた。   

そのような大正8年(1919年)か9年(1920年)の頃に、
東京の法華講の『妙道居士:田井惣太郎氏』が発願し、  
時の学頭『慈鑑院:日柱上人(第58世法主)』を通介して 
再び御書編纂の企画があったのである。
日柱上人(後の第58世法主)は、其の御書編纂作業の責任者に、
私を指名されたが、御書編纂という難事には肌が合わず固辞した。



此れと粗(ほぼ)同年に 東京人の『素啓居士:三谷六郎氏』が 
山内(大石寺内)に在坊せし『慈豊房:日明』と共に来たりて
(御書)全集編纂の主任を懇請されたが 
俄(にわか)に之に応ずるの蛮勇は起らぬ、

其の代りに私蔵の材料は此れを提供するに吝(やぶさ)かでないとしたから 
慈豊房は ※夜を以て日に続(つ)ぎ研鑚に力(つと)めて 
予も大(おおい)に資料を傾けたが 素啓居士は思いあきらめず 
幾度か懇請を続けられた、
   ※夜を以て日に続(つ)ぎ ⇒ 止暇断眠の様である事。

☆この同じ頃に、東京の法華講『素啓居士:三谷六郎氏』が、
大石寺塔中に住まいする『慈豊房:日明』と二人で来訪されて、
御書編纂作業の責任者を(再再度、私に)丁寧に要請されたが、
情に絆(ほだ)されて、此(こ)の事を安易に承諾するという 
向こう見ずの考え(蛮勇)は、起らなかった。

が、然し。自身が今まで研究して蒐集した全資料は、
御書編纂の為に提供する事を「吝かでない」と承知したから、 
『慈豊房:日明』は、夜の目も寝ずに研鑚に励まれた。        
私も又、最大に持てる資料を提出していたが、  
法華講の『三谷六郎氏』は思いあきらめず
(慈豊房の御書編纂作業とは別に)何度も丁寧な要請を私に続けられた。



慈豊房が信濃(新潟県)より東京に転じて 
昭和四年に『御書新集』発行の事を聞いて 一たびは驚き 一たびは喜んだ、
其れは 数年の間 斯業(しぎょう)の消息を耳にしなかったのと 
此の困難な事を成し遂げた事であった、

☆『慈豊房:日明』がその後、赴任先の新潟県より東京に転勤し、 
昭和4年(1929年)に『御書新集』発行の事を聞いて、
私は当初、大いに驚き 大いに喜んだ。 

その訳は(昭和4年・1929年までの)数年の間、
御書編纂の重要事の顛末・経緯を耳にしなかったのとあわせて、
(慈豊房:日明が)此の困難な事を成し遂げた事への歓喜であった。            



早速取り寄せて見ると 其の成果の予期に大(おおい)に反したのに驚愕した、
思うに 予 非器(ひき)なりとも 親しく参加して居たならば 此の悔いなかりしかと 
※慙恨(ざんこん)茲(ここ)に年を久しうした処に 豈 図らんや 
創価学会会長『戸田城聖氏』の※熱請に値はんとは、    
   ※慙恨(ざんこん)⇒悔やんでも悔やみ切れない事。  
『御書』の編纂事業そのものが、如何に難事であるかという事である。 
   ※熱請⇒『戸田会長』が御書全集の編纂を『日亨上人』に強く要請した事。 

☆早速取り寄せて見ると、其の編纂され完成された御書の内容が、 
私が予(あらかじ)め期待した事と、大いに隔っている事に驚き、愕然としたのである。

思えば、 
私がいかに非力であったとしても、要請の当初から参画して居たら、
こんな事にはならなかったと、今更※悔やんでも悔やみ切れない思いで、
後悔の何年かを忸怩(じくじ)と思い続けていたところに、

考えもしていなかった 
創価学会会長『戸田城聖氏』の御書編纂への篤い信心の要請に遭遇するとは
※ 上記の御文章が、『御書』の編纂事業そのものが、如何に難事であるかを物語るのである。 



茲(ここ)に 漫(みだり)に此の大任を受諾(じゅたく)したのは
全く已上(いじょう)の遠因があったからであり、
且又(かつまた) ※去来(きょらい)と云えば 
老駑(ろうど)を鞭(むちう)ってくれる 義侠の学匠(がくしょう)の必ずあるべきを予期し
   ※ 去来⇒常に脳裡をかすめる事・いつも思う事

☆戸田城聖氏からの御書編纂の偉業を冒頭述べたように歓喜・快諾したのは
(何度もの御書編纂の挫折を目撃した)遠因があったからであった。
更に言い重ねれば、  
日頃常々思っていたが、私が老体でこの偉業を開始すれば、
必ずその補佐を買って出る義侠の学僧が、これも必ず存在する筈と思ったからである。



幸(さいわい)に東上して 
ある会合の折に参加を懇請したが 何れも繁多の常務の外(ほか)に
同 ※記念出版に特務を負わせられたりとの事で 不孝にして一人の同志をも得ず
止むなくば 万一 途中失敗の補助たるべき仁すら突嗟(とっさ)に見当たらず、
此時(このとき)已(すで)に 年末まで微(わずか)に六ヶ月で 
地方の学匠(がくしょう)に交渉するの余日も無く百方 計尽きて
   ※記念出版⇒立宗七百年記念『御書』出版の事

☆そんな時、幸便に上京し、ある会合の折に参加を懇請してみたが 
(掛け合ったどの僧も)何れも多忙の自寺院生活を言いながら、

暗に… 
この『創価学会版:新編 御書全集』の編纂出版事業に「※拘束」されるのを厭(いと)い、
   ※拘束 ⇒ 「御書編纂という特務」を負わせられると思う事
不孝にして一人の学僧僧侶も編纂助力の手を挙げない。
難事中の難事である編纂事業そのものが、若しも途中で憂慮すべき事態の発生の時、
それを支える宗門内の人材すら突嗟(とっさ)に見当たらず、
しかも、この時点で残された時間(昭和26年・1951年末まで)は 微かに6ヶ月で、
全国の学者に助力要請の日も無く、御書編纂の望みは絶たれてしまった。



偏(ひとえ)に仏天の冥助を仰ぎ 
僅に一二の学徒に 淨写を助けしめて歳末に成稿(じょうこう)せしは
全く冥加(みょうが)に依るものと感泣する、

事ここに至つては只々、御本仏と諸天善神の冥益と助力を仰ぎ 
極、少数の学僧所化に 御聖訓の転写を助けさせて、
その年の歳末に総てが完稿した事実には、
全くの御本仏・御本尊の大功徳に依るものと、感極まって涙が止まらない。



殊に 学会の教学部に於いて 大挙校正に当り 
世務(せむ)を割きて長日 長途を往復せられた事
及び 略伝年表まで作成された事は 望外の※僥倖(ぎょうこう)であった、
   ※僥倖(ぎょうこう)⇒思いがけない幸運

☆殊に特筆は、
創価学会の教学部の爽々たる青年達が、大挙して校正の任に就き、
世間日常の勤務を割愛して、幾日間も伊豆や静岡と東京を往復せられた事。
亦。御書付録に、略伝年表まで作成された事は、 望みもしない思いがけない素晴らしい事で、
未来の教学の為にも幸運であった。



但し 編纂の成果に※麁浪(そろう⇒麁⇒粗い)なきや 
将(はた)して本仏の冥慮に協(かな)ふべきや否や※恐懼(きょうく)する所であるが、
敢(あえ)て老身の※廃朽(はいこう)に託して 
其の責任を回避するものではない。  【日亨上人の究極の確信部分である】

昭和二十七年(1952年)四月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』識す
   ※麁浪(そろう)⇒麁(あら)い・粗い事
   ※恐懼(きょうく)⇒恐れ・かしこまる事
   ※廃朽(はいこう)⇒廃(すた)れ朽(く)ちる事

☆私の本音・本意は、
今回の御書編纂の内容に、漏れや粗いところがないか、
御本仏の御意志や御理念に合うか否か、
恐れ多く懼(かしこ)まる心境であるが。
それでも敢て私は強く断言をする。 
それは ( この御書全集の内容に万が一瑕瑾が有っても ↓ )
老身の混乱を、その間違いの理由にして、責任全体から逃げたりする事はない。 
     ↑【日亨上人の究極の確信部分である】

昭和27年(1952年)4月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』が書き残す

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※ 上記が『新編・御書全集』(私達が最も親しんでいる「御書」の事)の冒頭の『序』である。
通解(現代語訳)は、浅学を恐れずに「筆者」が行った。 (難語は大辞林を参考とした)
『日蓮仏法』を、特に『御書』の真実の顛末を真剣に学ぶのなら―。 
この『序』の御文を精読すべきである。

『御本尊』に「南無」し奉り、『御本尊』に対して真剣に祈る者なら―。 
この『序』の御文を精読すべきである。

つまり―。 私が。
「最近の創価学会教学部」の、行き過ぎた「洗脳的我田引水論調」に辯駁する訳は茲にある。


而(しこう)して…   
たれも―。 私(筆者)のこの「精読・咀嚼の重要性への指摘」に関して、異議などあるまい。

2013-0216 筆者・愚壮

(御書『日妙聖人御書』Eは続けます)

[903] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月29日 (土) 12時40分

御書を繙く・勝利の経典『御書』に学ぶ・第61回『日妙聖人御書』
2014年平成26年3月号「大白蓮華」  池田名誉会長御書講義抜粋  E

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前回の締めくくりは、『妙の一字』への結論である。
つまり『三大秘法の南無妙法蓮華経』こそが「無二の究極」である…という事である。


ここで、大白蓮華 34P (上段〜下段)の文言で、この事を思索しておく。
この事とは⇒(『三大秘法の南無妙法蓮華経』こそが「無二の究極」である…という事だ)
【 一切の生きとし生けるものの中に、尊極な生命が具わっている。
誰人も「仏」と同じ生命を持ち、
一切を育む慈悲と、人々の闇を照らす智慧と、
無明と戦いゆく勇気を持っている。 (中略) 】とある。

これは、「一切の生命に最勝の仏性が厳然と存在する」が、『妙法』以外では顕現しない。
…という断言である。    言い変えれば…。
「各人が、必然常備の『仏性(仏界)』を顕わすには、『南無妙法蓮華経』しか無い」という事である。

 『無明と戦いゆく勇気』
ここでいう無明とは、「元品の無明」という事である。
この「無明」と戦うのだから、只事ではない。 なぜかならば…。
『元品の無明』とは、『仏性』の最大の怨敵であるからだ。
つまり、 『日蓮仏法』の最大の敵が⇒「個々に具わる、元品の無明」なのだ。 
『御書』を繙くと、この「元品の無明」に関する御記述が多く拜せられる。

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例えば 『祈祷抄 1349P』では、 「元品の無明」こそ『謗法の大石』と謂われている。
同 『祈祷抄 1346P』では、 「元品の無明」即『第六天魔王』と、これは究極の御文証である。
(『第六天魔王』⇒他化自在天王(波旬)欲界の王・三障四魔の天子魔・仏道の成就を妨げ賺(すか)す)

これらの大敵と戦う時の「武装」が ⇒ 『妙』である。  
つまり 『妙法の力用(妙理)』(衆生本有の妙理)の最大の昇華・顕現法は ↓
↑ 唯一『南無妙法蓮華経』と唱うる事なのだ。

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『如我等無畏(にょがとうむい)』

我等が大敵(仏敵・成仏させまいとする力)と戦う時の為に、 
『妙』と『法』の二文字で「武装」する以外、その済度の術は閉ざされているのか。 

否。 そうではない…  とするのが『如我等無畏』という仏語・仏意である。
大白蓮華 36P (下段)では、「如我等無畏こそ仏の願い」であると断言されている。
「仏の願い」とは、則(すなわ)ち 『十方諸仏の誓願』と言い切れよう。

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【一切衆生を 我が如く (全てに於て)等しくして 異なること無からしめん】
なるほど… これなら安心と、 たれもが一旦は感じる… が。 そうではない。
つまり、 『如我等無畏』自体こそ、「爾前の釈尊」の仏説でしかない。

この事を、大白蓮華 37Pでは、「肯定」しつつ 硬く「否定」している。
「釈尊自身」と同等にはなれない。とも聞こえる裏に、断固とした意図がある。
結論はこうである ⇒ あくまでも 『如我等無畏』とは本果妙(久遠実成の仏語)である。

【 日本国の一切衆生を 我が成仏せしめんと云う所の願 併(しかしなが)ら 如我昔所願なり
(中略) 如我昔所願は本因妙 如我等無畏は本果妙(久遠実成の教主・釈尊)なり 】
『御義口伝上 720P ・ 第六 如我等無畏 如我昔所願の事』

大白蓮華 37P には伏字がまだある。  それが ⇒ 【適時而已】なのだ。

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更に大白蓮華 38P (下段) 9〜16行目では 敢然と「釈尊の所願」を否定している。
実は… この「否定の根幹」が、 『日蓮仏法』の根幹でもある。

大白蓮華 40P (下段)に、 その部分(日蓮仏法の根幹とする部分)の記述の一端がある。
「 大聖人が賞讃されているのは、命懸けの行動をしたということだけではなく 」とある。
つまり。 
「『贖命の弘法』(死身弘法)がなければ、『日蓮仏法』が今日(こんにち)には輝かない。」

いや。 まだある。
それが ⇒ 「同じ心」。 『激励』であり『同苦』である。

本抄『日妙聖人御書』の最後の部分に、こう顕されている。  1217P 10〜11行目
【 相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり、 
山海はるかに・へだて 山は峨峨(がが)・海は濤濤・風雨・時に したがふ事なし、
山賊・海賊・充満せり、宿宿と(泊)まり・とまり・ 民の心・虎のごとし・犬のごとし 】
上記などは、「同苦の心」が無ければ絶対に顕わせない事を拜するべきである。

『日妙聖人御書』  完

[904] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年03月30日 (日) 09時29分

『諫暁八幡抄』 1280年(弘安3年)12月 御執筆  聖寿59歳  於・身延
『新編・御書全集』 576P〜589P 約11,700文字
2014年4月 座談会御書教材 (同月号 773号 大白蓮華 46P〜51P 参照)

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先ず書いておく。
大白蓮華 2014年4月号には本講義の「主題」を『折伏こそ慈悲の表れ』としている。
…が。
残念ながら…  本抄御著作の背景は、そのやうな「生易しい」ものではない。

確かに、今回の御講義部分(折伏)は『日蓮仏法』の根幹(法華折伏・破権門理)ではあるが、
事。『諫暁八幡抄』に至っては、この「折伏行」を凌駕(超克)する真意がある。

特に、『新編・御書全集』の冒頭に、『日蓮大聖人・御直筆』が掲示されておる所以。
亦。 その「御正筆」の在所等々…。  深い意味を感じとらねば「烏合の輩」のままとなる。

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扨。 本抄『諫暁八幡抄』である。

武家社会の勃興を先鞭した「鎌倉幕府」は、その卓抜した経験と知識を駆使している。
「駆使した目的」とは…。      「上一人から下万人」への統率であった。
『万民・衆生への(見てくれの)庇護』には当然、圧迫や弾圧も在れば、懐柔もある…と邁進した。
…がやがて。 「魚も頭から腐る」「腐敗した指導者は、その腐臭に気付かない」を地のママに、
「幕府」は急速に(諸々の経文で暗示したとおり)没落してゆく。

その 『鎌倉幕府の没落』を、より顕著に示したのが ↓
↑ 『下克上事件(承久の乱)』と『日蓮大聖人(末法御本仏)への大弾圧』であった。
…やがて。
『未萌を知る』とは、「夭孼」をも含んでいる…と。 「扶桑国」は滅亡の危機へ走る。

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「八幡大菩薩は天子(帝)である!」(和漢王代記 608P)を「反故」にした鎌倉幕府。
『末法の御本仏・日蓮大聖人』を死罪に追いやった鎌倉幕府。
この上記の「二つの暴挙」を、漫然と見逃しかけた『八幡大菩薩』。
殊程然様に、である。      …事態は火急であった。

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それは『日蓮大聖人』が発迹顕本(示同凡夫の御姿のママ)の寸前であった。
【 いかに八幡大菩薩は まこと(実)の神か! 】 『種種御振舞御書(佐渡抄) 912P 18行目』

上記の叱咤に、安眠貪りし「八幡大菩薩」は、 恐らくや覚醒し、
この日から九年後、社(鶴岡八幡宮)を焼滅(弘安3年11月14日)させて、去るのである。

この「焼亡(弘安3年11月14日)」を知られた『日蓮大聖人』が文机に向かわれた。
それが ⇒ 『諫暁八幡抄』である。

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『日蓮大聖人』は何故 八幡大菩薩を諫め暁されたのか…。
「八幡大菩薩」に対して、直接に言わねばならない事とは。
いや。 言われなければならない 八幡大菩薩の「使命」とは…。
ここを知らなければ、『諫暁八幡抄』が『諫暁八幡抄』でなくなるのだ。

『八幡大菩薩の使命』
それを如実に示された『御書』がある。

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【 八幡大菩薩をば (中略) 其れ 実には釈迦仏にて おはしまし候ぞ、
其の故は (中略) 石体の銘と申す事あり、 (中略)
一つの石われて二つになる、 一つの石には八幡と申す二字あり、 
(残る もう)一つの石の銘には 「昔 霊鷲山に於て妙法蓮華経を説き
今 正宮の中に在りて 大菩薩と示現す」云云、
是れ (八幡を)釈迦仏と申す 第一の証文なり 】 『四条金吾許御文 1195P 6〜11行目』

是れを以て 是れを思うに…。
本抄『諫暁八幡抄』は
@ 八幡の怠慢を戒める為 であり
A 八幡を諫暁する事は、一重に「全民衆」への慈悲心の為 である。
@ A ⇒ 「御書辞典」引用

最後に、 大白蓮華 48P 本文にふれておく。

【 …一切衆生の口に入れんと はげむ 計りなり 】 と御教示である。
この 【 はげむ 計り 】 の 【 はげむ 】 とは、
『日蓮大聖人の所願』 『日蓮大聖人の誓願』で、断じてそれ以外ではない。


[905] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年04月17日 (木) 17時44分

あれは  本年(2014年)の「ひなまつり」の日(月曜日)だった。 
私の車は、毎日渡る復路の「新木津川橋」へ久御山町側からさしかかった。

「橋が流失して(上津島屋橋)、この(三月)十日すぎで半年か…」
「『流れ橋』は何時復旧するんやろ…」
その日も、そんな事を想いながら「430M」のR・1のバイパス橋に進入した。

ところが…。 その日の風景は、あきらかに今迄の『風景』と違っていた。
つまり「三月三日」に… 水色の小型ユンボが入っていたのが見えたのだ。
「今日が トッ掛かりや!」…と、車のスピードを落としはしなかったが…。
この日を待ち望んでいたのには間違いない。

昭和28年にか架橋された『流れ橋』が、今回二十回目の流失である事とか、
その流失の殆んどが、台風に依る増水である事なんぞは 知る術もないが…。
地元の人々にとっては、生活に密着している分、その復活は「何より」であろう。

とまれ。 完全に破壊してしまった「二脚」の木造橋げたも(少々時間は費やしたが)復活した。

とくに…。
久御山町側の数基の「コンクリート製の橋脚」にかかる床板工は苦労されたろう。

そんな昨日(4月16日)。 遠目、「工事関係者ではない人」が渡っている。
公称「365M」の『流れ橋』は見事 開通したのだ。

八幡市と久御山町の「架橋工事関係者」への敬意と同時に、私は強く以下を云う。
【 …仮に、「本年も来るであろう」 台風に流失しようとも『流れ橋』は懲りないだろう。 】
否。絶対に【 『流れ橋』は再び。その優雅な全景を見せて呉れるだろう。 】と念(おも)った。

[906] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年04月26日 (土) 16時45分

勝利の経典『御書』に学ぶ    大白蓮華 2014年5月号(774号)
『生死一大事血脈抄』 聖寿51歳
御述作年月日  文永9年(1272年)2月11日 (この628年後の同月同日、戸田会長御生誕)
御述作地 ⇒ 佐渡塚原    対告衆 ⇒ 最蓮房         
( 亦。本抄御述作の前日 『草木成仏口決 1338〜9P』を顕され、同・最蓮房に与えられている )

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先ず。本抄『生死一大事血脈抄』の根幹たる御聖訓を確認する。
@ 【 夫(そ)れ 生死一大事血脈とは 所謂(いわゆる) 妙法蓮華経 是(これ)なり、 】 本抄冒頭
A 【 相構え相構えて 強盛の大信力を致して 南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ
生死一大事の血脈 此れより外に全く求むること なかれ (中略) 信心の血脈なくんば
法華経(御本尊)を持(たも)つとも 無益なり  】   1338P 8〜10行目

究極を論ずれば ↓ 
『信心の実(まこと)の血脈は、南無妙法蓮華経の御本尊に、異体同心(水魚の思いを成して)
且つ。臨終正念と「自分に与えられた使命に着目する事」を祈るのみに存在する』という事である。 
つまり 「日常の総ての振舞・表現の根底に、この基盤(先ず御本尊)が存する事」 である。

大白蓮華 29Pに、こうある。
「広布の師弟は、久遠の妙法の光に包まれながら、三世の生死を※永遠に共に生きるのです。
共に苦楽を分かち合い、共に戦い、共に苦難の山を越え、そして共に勝利するのです。」
ただし…。
上記の※部分に【各々(弟子)の本地のままに…】と曰うのが、真実の師弟の姿ではある。 
この【 本地のまま ⇔ 桜梅桃杏 】を抜いてしまうと『生死一大事血脈抄』が、完成しないのだ。

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大白蓮華 30P (下段)には、こうある。
創価学会は永遠に「師弟不二の信心」と「異体同心の信心」で勝負する。
上記はそのまま 直近直下(大白蓮華30P)の欄外の最後の四行に直結する。
曰く 【 生死一大事血脈という成仏の要諦に関する法門への質問に対する回答 】

大白蓮華 31〜32P 掲載の本文全文を拜読する。
【 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく 〜 城者として城を破るが如し 】

この御聖訓には、「生死一大事血脈抄」の大事が顕されている。
つまり 『私は日蓮大聖人の弟子である』と言うのならば、一切の自他彼此の心を廃して、
異体同心に『御本尊』に祈る事なのである。 【所詮 是なり】なのである。
では、『何』を祈るのか…。  「広宣流布」を祈るのか…?

「先ず広宣流布を祈る」? そうではあるまい。
『日蓮仏法』の根幹(生死一大事の血脈)は、 ズバリ「臨終正念」 つまり生死を悟る事にある。
【所詮 是なり】との御教示は、一切の差別を廃して生死即涅槃と悟るにある。

その事を悟れば、「広宣流布(法華折伏・破権門理の完結)」も「叶うかもしれない」
つまり 【 若し 然らば 広宣流布の大願を 叶うべき者か 】なのである。
そうなのだ。 「広宣流布の完結」とは、「生死一大事の血脈の信心」に付随する一つにすぎない。

本文を続けると…
【 剰(あまっさ)え 日蓮が弟子(と、自ら呼称する者)の中に
異体異心の者 之有れば 例せば 城者として城を破るが如し 】
【 日蓮が弟子の中に異体異心の者… 】これが腐る程居る。 何故か。
「異体異心」とは、各々に例外なく内在する「無明:悪」である。
亦。 この「悪の部分」であるが… これは、誠に残念ながら「無くす事」は出来ない。

なぜかならば…。 これこそ「十界互具」という 欠かすべからざる『大原理』であるからだ。
では。  「悪性」は野放しなのか。
残念ながら…  解答は「野放しではない」 …それが『祈り』である。 1242P 参照

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扨 大白蓮華である。
大白蓮華 31P  (上段) 8行目 『中心軸』
「 日蓮大聖人に直結する師弟の中心軸がすべての根幹。 」
『日蓮大聖人』の弟子檀那に格差を設けてはいけない。

人は 即ち「人」として、一切 差別を犯してはいけない…とは、「生死一大事血脈抄」の根幹だ。
【 然れば (中略) 全く 差別無しと解(さと)りて… 】と、あるではないのか。
繰返すが…。
【所詮 是なり】との御教示は、一切の差別を廃して…とある。
従って「中心軸」という文言は造語であり、断固「不要」である。
何故「不要」か…。
決めて 『日蓮大聖人』の弟子は、特定され人選された「人」ではない。

大白蓮華 31P  (上段) 11行目 『万人』
折伏する人も、折伏される人も  須(すべか)らく『万人』なのである。
結句。中心軸ではないのが 『日蓮大聖人』と、その直弟子(創価三代会長を含む)の真意である。

その意味からも ⇒ 大白蓮華 31P (下段) 10行目の 
広布の師匠と「同じ心」 の『広布の師匠』とは 『日蓮大聖人』唯 御一人である。

大白蓮華 32P (下段) 14行目    『日蓮が一門』
「 日蓮大聖人直結の「日蓮が一門」 」
これこそ正しい記述である。
つまり。 「弟子」とは 『一門』であり 決めて「個人」ではない。
敢えて言えば、『御本尊に南無妙法蓮華経と祈る人』全員が「弟子」である。
当然それには、 『日蓮大聖人』の御心を基本と「仰敬」する事に他ならない。

その原点からも…。  大白蓮華 34P  (上段) 2行目は「正鵠」である。 ↓
『 師弟ノ道ヲ、 学会永遠ニ 留メオクコト 』  これは「三代の歴代会長」の叫びでもある。

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大白蓮華 34P  (上段) 20行目
インド独立の父 マハトマ・ガンジー。
『日蓮仏法』を讃歎する時、上記のような「外道の箴言」等を 引用すべきではない。
これは 同(下段)の「和合僧=サンガ」も同列であり、書くべきではない。

大白蓮華 35P (下段) 19行目
「 この和合僧を破壊することは… 」
上記は、現今の「日蓮正宗自身」の破壊である。 『日顕宗の振舞い』そのものだ。

大白蓮華 36P (下段) 最終行 〜 大白蓮華 37P  (上段) 12行目
この部分は、総て「正論」である。

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大白蓮華 37P (下段) 最終行
「日蓮が一門」は、一人ももれなく、…。
この『一人ももれなく』を、現在の創価学会は忘れている。
( まぁ  『烙印を捺す』のがお好きな幹部達が多い事 誠 「噴飯」だよ )

大白蓮華 40P (下段) 最終行 〜 41P  (上段) 1行目
万人成仏の妙法を 世界に広宣流布(途上ではあるが)、 一体、誰か。
↑ 少なくとも「宗門」ではない。 茲に『創価学会』の真の姿がある。

大白蓮華 41P  (上段) 5〜7行目
『 自らも困難と戦いながら、悩める友の心に寄り添い、
粘り強く、生きる勇気と生命力を呼び覚ます対話を重ねてきたのは 誰か。 』
↑ これこそも又。 真の『創価学会』の存在価値の『雄』である。

大白蓮華 41P  (下段) 4〜6行目
『 あの満々たる確信と励ましを送り続けてきたのは (中略) 同志の方々です 』
↑ 同志はそうだった。 然し「一部の幹部」はどうか…。 さぞかし「インチキ」も多いだろう。

大白蓮華 41P (下段) 19行目   『創価学会仏』
これは確かに「戸田先生」は言われたが…あくまでも戸田先生の「予見」である。
つまり「末法の今時」は、『日蓮大聖人御一人』が御本仏である。
従って、「創価学会仏」は 「仏敵」に隙を提供しているも同じである。

大白蓮華 42P  (上段) 「戸田城聖第二代創価学会会長」の詩。
『 妙法の 広布の旅は遠けれど 共に励まし 共々に往かなむ 』
上記の御詩を補強する 「あな嬉し…」が在ったが…。 これを死語にしたのは、「宗門」だ。

大白蓮華 43P 1行目
『 前途に いかなる嵐があろうとも 』
「嵐」はある。

大白蓮華 9行目
『 麗しい「異体同心」の民衆の団結 』
これは…。
「正しい僧」と「正しい俗」との『異体同心』こそが実現しなければ、
誠の「功徳 」などは絶無である。
…という事は。  『日蓮大聖人』をば別格として…。
日興上人・日目上人・日寛上人・日亨上人に代表される
「正法血脈踏襲の御僧侶」こそ重要だ。

結論は ⇒ 『正しい僧俗』の異体同心の祈りこそ、本抄の根幹である。
『生死一大事血脈抄』 完

[907] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年04月29日 (火) 18時04分

2014年4月27日(日)夕刻。  私は「中○副圏長」を訪ねた。
用件は二つであった。

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「中○副圏長」いえば…拙著「忘れ得ぬ風景」に最も登場する人である。
「箸が倒れた…」と、 私は「氏」を訪ねているが
その日の「用件の一つ」も、はたして そうであった。

実は… 先々週の「聖教新聞」に人事が公開されたが、
そこに私は、「中○副圏長」の名前を見た。
「ん? 移動?」あの「中○副圏長」が移動?


『「K市・生え抜き」とは副圏長の事ではないのですか?』
『「K市」から貴方を除く事は、歴史の分断になるのではないですか?』
こう言って食い下がる愚壮に「中○副圏長」は言う。

「いや。 俺が移動を頼んだんや」

『嘘言うたらアカン!』とは直接言えないが、それは「嘘」だと思う。


…やがて話は終わった。
『ホナ帰ります…』という私に、「中○副圏長」はこう言った。
「(この度の移動の件で)俺ンとこへ来たんは、お前だけや」
あとにもさきにも…誰も来ない。とは 実にフザケタ話ではある。

閑話休題。
「中○副圏長」は、もう一言 こう申された。
「お前 三大秘法禀承事 拜しとるか…」
『さ・三大秘法禀承事!』と絶口し…帰宅後 慌てて拜読したのだ。

[908] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2014年04月29日 (火) 18時07分

『三大秘法禀承事(三大秘法抄)』  弘安四年(1281年)4月8日  聖寿60歳
対告衆 ⇒ 太田(左衛門尉)乗明 ・ 鎌倉幕府問注所の役人(同僚⇒富木常忍)

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本抄の形式  問答形式である。
本抄の大意  (創価学会版御書辞典抜粋)
大聖人入滅後の為に、三大秘法の法門を説き明かした。
本法は独一本門の肝要で、全御書中でも三大秘法を総括して御記述された重書である。
それは 「上行菩薩のみ・末法のみ・寿量品のみ・等々の他、本法の体と相貌が明かされている。
( 凡人たる我が言えば、恐れ多いが、深く深く研鑽し、学び重ねるべき御書である)

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『根 幹』 @
【 但 専(もっぱ)ら 本門寿量の一品に限りて 出離生死の要法なり 】 1022P 2〜3行目
釈尊滅後2,000年を経た今時末法は、一切衆生の機根が著しく低下し(謗法一闡堤思想の遍満)
法華経・就中、後半(15品〜28品)の第16番目の「寿量品」でなければ、衆生を救えない時であると喝破した。
これは、釈尊仏法の機根と、その法理の一致を指しているに他ならない(機法相応 1021P 15行目)。
…だから当然。末法の今時は、爾前経や迹門では「一切衆生の全ての苦」を救えないと断言している。

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『根 幹』 A
【 汝 強(あなが)ちに 之を問う聞て後 堅く信を取る可(べ)きなり 】 1022P 5行目
上記の「根幹 @ ⇒ 寿量品に限って出離生死の要法だ!」を聞いた問者はまだ理解できない、
そこで問者は 「いや、釈尊滅後の正法・像法・末法(三時)に於いての代表格仏菩薩は、
その資格に応じて適正に配属されている」として、更に続ける。
「貴方(答者・日蓮大聖人)がいう、末法濁悪の衆生済度は寿量品に限る、というのは
見た事も聞いた事もない、 そこで乞う。 貴方のいう「寿量に限る」の顕文を示して欲しい…と。
そういって食い下がる問者に、「答者である日蓮大聖人」は云う。 それが ↑(根幹 A)である。

【 汝 強(あなが)ちに 之を問う聞て後 堅く信を取る可(べ)きなり 】
…つまり「聞くからには、信に重きを置いて 文句を言わずに実践しろよ」…と言う事だ。

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然し…、 問者の疑問も、 これは無理は無い。
なぜかといえば、 問者自身。「寿量品の文底秘沈も三大秘法の本尊も」 想像も及ばぬ事なのだ。

そこで問者は、(本抄の根幹たる)三大秘法とは 一体「何ぞや」と肝心を問うのだ。
【 三大秘法 其の「体」 如何 】  1022P 7行目
問者の感心な所は、 この重大な質問の際に見せた 謙虚な姿勢である。
それが⇒【 私に難勢(なんせい)を加う可からず 】 1022P 7行目 であろう。
【私に難勢を加う可からず】とは、「決して私的な言い掛りではありません」という事だ。

この問者の謙虚さを見た『日蓮大聖人』は、こう言う。
【 予が己心の大事 之に如かず 】   1022P 8行目  ↓ 
「 私の言う、末法の法門の最も重要な部分で 他に並んで是に匹敵する物もないが 」
【 汝が志 無二なれば 少し之を云わん 】 1022P 8行目  ↓
「 貴殿(問者)の心根や態度が 前向き且つ謙虚であるので、この根幹の大事を言おう 」
…と。 【 三大秘法禀承事 】の最大の秘法を開陳するのだ。

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それが 『 三 大 秘 法 』 である。 
三大秘法とは 本門の本尊・戒檀・題目であり。
唯一末法に流布する法理を指している。
この三大秘法を、『日蓮大聖人』は、その御述作【 法華取要抄 336P 3〜4行目 】で…↓  
【 正像(時代)に 之(三大秘法の事)を弘通せば 
小乗・権大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可(べ)きなり 】
と御教示されている事を鑑みるに、『日蓮仏法』の根幹である。と断言出来る。

『本 尊』
扨。    『三大秘法禀承事』に戻る。
『日蓮大聖人』が本抄で【 汝が志 無二なれば 少し之を云わん 】とされた最初は『本尊』である。
この「南無妙法蓮華経の本尊」は…。
五百塵点劫の当初(そのかみ)よりの本有無作三身(法報応の三身)の当体である。とされる。
つまり本尊は、元々(五百塵点劫当初)の釈尊の当体。否!釈尊已前からの根本である…。
従って、それが在世の「法華経」に来て、本門・寿量品に唯一秘沈されているのだ…と説かれる。
但し元来。 あくまでも 「秘沈」であり。 「不伝」(言い伝えない)…とする。
【 諸宗は 本尊に まどえり 】 『開目抄上 215P 1行目』とは、けだし この事であろう。

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『題 目』
本抄(三大秘法禀承事)では次に、『三種類の題目』を御教示になられている。
『三種類の題目』とは、「正法・像法・末法」それぞれの題目を指す。

@ 正法時代の『題目』   「自行の題目」
この@は、天親(世親)菩薩・竜樹菩薩等が「自行の為のみ」に唱えたとする。

A 像法時代の『題目』   「理行の題目」「内鑒冷然の題目」
このAは、南岳大師や天台大師等が「自行の題目」として唱えたが、題目の持つ力用は知悉していた。

B 末法時代の『題目』    「自行化他の題目」
『日蓮大聖人』の説く「題目」は、「下種仏法の根幹・折伏の南無妙法蓮華経」なのである。
【 自行化他に亘りて 南無妙法蓮華経なり 】 1022P 14行目 とは、この事である。
【 五重玄の五字なり 】とは、 天台大師の説いた『法華経経題そのものの解釈』で、
釈名・弁体・明宗・論用・判教。の五重である。

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『戒 檀』
この「戒檀」の持つ意義には、特に甚々である。
【 時を待つ可(べ)きのみ 】という御記述に、我等後世門下の一人として思沈せざるを得ぬ。
本抄の「 1022P 15行目〜18行目 」までは特に。我々末弟の曲解を、最も恐れねばならぬ。
唯 【 王法 仏法に冥じ 仏法 王法に合して 王臣一同 云云 】の御文は…。
『王仏冥合』という、決して「空論」としてはならぬ御教示であろう。

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最後に…。
『日蓮大聖人』直々の獅子吼を記述する。
【 此の三大秘法は 二千余年の当初(そのかみ)・地湧千界の上首として
日蓮 慥(たし)かに 教主大覚世尊より口決相承せしなり 】 1023P 5〜6行目

【 今 日蓮が時に感じて 此の法門 広宣流布するなり 】 1023P 10〜11行目
『日蓮大聖人』御自身が 【 広宣流布するなり 】と断言なされている。
之を以(もっ)て 是れを念(おも)うに 「広宣流布は末弟に遺されし偉業」ではない。
なぜかならば…。 『日蓮大聖人御自身』がこう云われているのだ。
『広宣流布するなり!』 と。


[929] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年11月30日 (月) 14時37分

おにゆり様。 御無沙汰致して申し訳ない。
のっぴきならぬ事情で、休んでおりました。

御察しの如く、私の休業理由は、胃癌への罹患です。
然し、このまま休んでいても、埒は開かないので…と、
ヤオラ 起き上った次第です。

今、こうして書けるのも、多くの同志の激励の賜物です。

[930] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年11月30日 (月) 16時19分

実は、いろいろとあった。
その筆頭が、『中○副圏長』の御逝去である。

その次が、「Т副本」の心筋梗塞での闘病。
「N副本」の御逝去。(これは急逝)


そして、ワシの罹癌とそれに関する身辺の急変であろう。

しかし。
何と言っても、その事に纏わる組織の激励じゃ。

何度も書くが…、『激励』に勝るものはないョ。
それを、強く感じる。

[931] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2015年11月30日 (月) 17時48分

愚壮さまお帰りなさいませ。
ご無理のない程度で書き進めて下さいませ。
ゆっくり ゆっくりと。

新しいページ作成致しました。いかがでせぅか?
http://oniyuri.fc2web.com/wasureenufukei22.html

[934] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月01日 (火) 16時29分

おにゆり様・諸兄様。ありがとうございます。

この、全身副作用に悶絶する私奴に、暖かい御言葉。
感激です。

さて、私じゃが…。
その後の たった一年で、急転直下と全てが変わった。

然し。
とある組織の「常勝長」が、私を見兼ねたのかどうか。
「風景」に繫いで下さった。(…だから、滞っている礼も言えたんじゃが)

とまれ。完結まで「風景」は書きたいと思うておる。
こうなれば、ワシの寿命と、「忘れ得ぬ風景」との『兎と亀』じゃ。

…と言うわけで…。  おにゆりさん、たのむよ! 

[935] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2015年12月01日 (火) 19時39分

愚壮さま
>とある組織の「常勝長」が、私を見兼ねたのかどうか
>「風景」に繫いで下さった。
常勝長に感謝申し上げます。

『兎と亀』私には「どちらも大切」です。
ゆっくり ゆっくりと(⌒‐⌒)

[936] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月02日 (水) 10時00分

『聖教歌壇』実母の投稿

『週に一度 子にメールする約束の 元気な証 いかに示さん』
上記は、平成27年9月23日の「聖教歌壇」の、入選作品である。
この句の投稿者は母。
私は早速電話を入れ、 彼女はさかんに照れている。

母は… 因みに八十六歳である。(此の度、任用に受かった)
その息子の私は、七十歳。  つまり、母十六歳の時の子である。

「風聞」じゃが…。ワシを身籠った時、彼女は 腹を叩いて泣いたそうじゃ。
無理はない。十六じゃものナァ。

そんなワシは、『何もしてやれない』と、御本尊だけは、御受けさせた。


親子で、いろいろな「宿業」に翻弄された人生であったが。
それでもよいと、思うておる。
『御本尊を素直に御受けする』これに越した人生はない。  

私の「胃癌」は、「ステージ4」であって、
下手をすれば、母より先に逝くかもしれん…が。  
それも、今では、よいと、考えている。

[937] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月03日 (木) 04時50分

平成27年の3月12日 遂に私は(我慢の限界を迎えて)入院した。
それは、(素人愚壮の)病・軽視の「現実への冒瀆」であった。
その証拠に…。    即・私は「手術台の重篤患者」として、
「死線を四日間」も漂っている。

この時に、私を襲った「完全に失われた記憶」に、私は恐怖する。

手術室から集中治療室(ICU)へ。
そして、集中治療室から一般個室へ。
一般個室から、一般大部屋へ。
この当初の、四日間。 私は何処へ行って居たのだらうか。


ただ、かすかに残された記憶では。
手術室の在り処が、「遠く・長浜」であったり。
仕切のカーテンを、突然 押しのけて…。
ロシア軍と北朝鮮軍の正規兵が、戦車で乱入したり、

とにかく、幻覚に恐怖の叫びをあげていた。

そうした、4月29日 私は「覇気」を完璧に抜かれて退院する。
その退院の日から、計5回の「抗癌剤治療」に対峙したおる。

いやはや…。
参ったよ。 (否さ! 生きている事に 参ってはいないよ)

[938] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月03日 (木) 05時23分

そんな私の、約五十日の入院にも、温情の見舞が多々あった。
この人達の細目は避けるが、感謝は「私」が死ぬまで続くだろう。

そんな中で、ガソリンスタンドの会長だけは、書かねばならん。

「氏」は昭和九年生まれで、今年、八十一歳であられる。
私が、氏のスタンドで初めて燃料をいれたのが、昭和四十七年。

それからの御つき合いを、単なる「顧客」として見ておられない。
そんなところが、私には解るので、筆頭・申し上げた。

もう御一人居る。

その人が「とある組織の常勝長」である。
彼の暖かい御存在は、
「私の女房」をして『白ゆり長』への新規受諾の決心を促した。

幹部カードに、嬉々として向かう様子に、涙が止まらん。

とまれ。  もう一度、スタートする。

[939] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2015年12月03日 (木) 10時19分

愚壮さま
>計5回の「抗癌剤治療」に対峙したおる。
「た」を「て」に校正いたしました→対峙しておる。
よろしかったでせぅか?

[940] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月03日 (木) 10時57分

ありがとう。  助かります。

おにゆり様は、きっちり 読んでいらしゃるんですね。
感激です。

ところで… この、誤植は「副作用」の為せる業ですよ。
書き込み速度も、健康の時の何倍も掛かります。

[941] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月03日 (木) 11時27分

ところで…。 今、御書御聖訓の急所を、新しく編集しています。
これは、予想ですが。 2万語をかるく超えるでしょう。

例えば↓
(Ctrl+F)キーで 
『 法華経が群を抜いて優れている事 』を探すと、
一発で、何種類もの解答が、その御記述のP(ページ)を含めて、表示されます。

これは、私の闘病(リハビリ)の柱で、退院のその日から挑戦しています。
これの持続は、非常に苦痛ですが、続けています。
一日も早くこれを完成して、「常勝長」さんにプレゼントします。

完成は命懸けですが、必ず上梓して、
「おにゆり様」にも是非 御受け願いたく思います。


[942] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2015年12月03日 (木) 11時53分

愚壮さま
>この、誤植は「副作用」の為せる業ですよ。
>書き込み速度も、健康の時の何倍も掛かります
よくわかります。理解しております。

>今、御書御聖訓の急所を、新しく編集しています。
>これは、予想ですが。 2万語をかるく超えるでしょう。
『御書を繙く!(見事なる譬喩)』
2008/7/30に愚壮さまから頂戴した研鑽の証がPCに保存されています。

さらに研鑽を重ねておられることに驚きと尊敬の念にかられます。
完成を楽しみに待ちます(お前が学べよ・・・自らに叱咤する)

[943] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月04日 (金) 10時50分

義妹の癌が重篤で、かつ末期である。
これは当時の(二年前)の義妹の余命を言う。

最近は、点滴の後にも必ず顕れる高熱にも、参っている。
↑ これが、姉である「老妻」の、最近の言じゃ。


義妹。罹患して早や二年。この肝臓癌は確実に義妹を、蝕んでいる。
…にもかかわらず、義妹は、私の癌の方を 強く気に掛ける。
(かく言うワシも、自分の胃癌よりも、義妹の肝臓癌完治を祈っておる)


彼女は、 罹患の冬に 自分自身が拝命している役職を降りた。
「部員さんに御迷惑をかけたくない」 これが唯一の理由じゃった。
…が。
本当は『地区婦人部長』という職責に疵をつけたくなかったのじゃろう。

その事を 微(かす)かに感じた故。
ワシは、自分の病よりも、彼女の完治を祈っておる。

この仏法の『祈念』は、あらゆる願いも同時に叶うが、
ワシは、義妹の完治を 優先して祈っておる。


この土曜日も、彼女は「笑顔いっぱい」で来るじゃろう。
だからこそ、ワシは祈るのじゃ。

[944] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月06日 (日) 12時59分

御書の30Pに、萎言(ゆうげん)という言葉がある。
その項には、通解の更に通解で、こうある。

「莠(はぐさ)は稷(きび)に似た悪草」とある。
はたして、どういう悪草か… と、思索する。

この、「思索する事」が殆んどの御書講義者に抜けておる。
大白蓮華の鵜飲みだから、そうなるんじゃが…。 困ったもんじゃ。

正解は「莠を不信と読み、稷を有信と読む」である。

もっと正解をいえば、不信の篤信も、紛然として判り難いという事である。

更に正解は、この「紛然」を、見破れ!という事じゃ。



御書の更なる凄さは、
この事を、「立正安国論」(佐前の重抄)に書かれた事である。

こう拝すれば…。 概ね正解である。

[945] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月24日 (木) 13時07分

大白(一月号)59Pの『御書』の件だが、どうも面白くない。

そもそも『御書』御自体への考えが、まちがっとる。
『この仰せのとおりだ!』『この御聖訓は、私に戴いたものだ!』
と、感謝して拝読せよ。とは…  戸田先生の御指導じゃ。


正座にしても そうじゃが…。何かが違っておるぞ。

[946] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月25日 (金) 13時31分

☆『弟子』は本物か。
平成27年10月23日(金)の聖教新聞(三面)に山口指導の記述がある。
(山口指導とは 昭和31年10月9日からの「若き指導者・池田先生」の折伏闘争の事である)

その三段目の32行目〜38行目の「 」の記述に、とんでもない誤記がある。
つまり ↓ である。
「吉田松陰だけが偉大であったのではない、
弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。
戸田先生が、どんなに偉大でも、
弟子のわれわれが しっかりしなければ、なんにもならない」

↑ この「もっともらしい」文章には実は、とんでもない『洗脳・誤謬』が隠匿されておる。
それが、「戸田先生が、どんなに偉大でも…」である。

言うに殊(事)欠いて 『戸田先生が、どんなに偉大でも…』とは何事か。
では・「池田先生が、何(いか)に偉大でも、私たちが悪ければ駄目なのか」

『ヨタ』も、休み休み言え!
『御書』をキチンと拜読し直せ、!

戸田城聖第二代創価学会会長を貶(おとし)めて、一体、どういう積りだ。
聞いてみたいものである。

[947] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2015年12月26日 (土) 11時19分

大白 2,016年 795号 座談会御書講義

『諸法実相抄』 抜粋



背景と大意の拝読の前に 是非とも書くべき事がある。

それが、日蓮大聖人御自身の「出世の本懐」である。

じつは、この「出世の本懐は諸法実相である」という、驚くべき御記述は、

今回の御書講義『諸法実相』を説く為に、態々説き起こされた中にあった。



それが以下である。

【 今経は出世の本懐・一切衆生 〜 全くなきなり 】である。

この御聖訓が『一句万了の一言』である!と。結論を言われている。



要は 『万法(総ての生命)の元々の生き様(当体)が、すべて妙法である事を、

『諸法実相』といい、この事が又。「妙法」の総括なんだ。という。

又。さらに 傍証として『戸田先生御記述』の「発刊の辞」を拝読されたい。





『背景と大意の拝読』

本抄「諸法実相抄」の対告衆 ⇒ 最蓮房日浄

最蓮房は「日蓮大聖人」の弟子で、唯一「御受職灌頂(受戒)」を受けた。





又。 『諸法実相』そのものの形態を『虚空会の儀式』で象徴されている。

1,030P 15行目〜1,031P 5行目 曾谷入道殿許御書。



その上で、【 私(日蓮大聖人)こそ・上行再誕である 】と宣せられている。↓

【 百六箇抄(血脈抄) 854P 】  【 寂日房御書 903P 】

【 右衛門太夫殿御返事 1,102P 全文 】

【 頼基陳状 1,161P 】  【 諸法実相抄 1,359P 】  

【 五人所破抄 1,611P 】  …他



本文拝読 (大白 56P)

【 いかにも今度 〜 とは是なり 】

※解説 ⇒ 本文2行目 ⇒ 【 とをし 】 ⇒ 貫き通す



主意 ⇒ 『 末法にして妙法の五字を弘通(広宣流布)する者の男女は問わぬ、

それは、「広宣流布する者 即 地涌の本義」であるからだ。 





[949] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月02日 (土) 06時12分

義妹が、この正月に夫君と御子息を伴って来宅下すった。
夫君は「禁煙成就」の成果と御一緒に、御子息は、外出用暖套御持参と。
…これも毎回の、うれしい 情尽くしでこちらが暖かくなる。

然し。何といっても「義妹御自身」の「ヤマイとの闘争精神」には、
これは、掛値なしに 圧倒されておる。

たのしい懇談と、味わい深い会食は…。名古屋の末っ子家族の参加もあって、
ひさしぶりの、意義ある一夜となった。

ワシは少し先に寝ませていただいたが、有り難い事ではある。

[950] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月04日 (月) 05時36分

今年の「三が日」が、例年と明かに違う風情で時を刻んで行った。
元日の義妹の御一家の来宅に端を発した風景は、
その後、三日間に亘って「総勢14名」。
意義を変えたて、
わたしの脳裏に、刻まれていった。

爾の時の「嬌声」が、いろいろな意味をもって今も響いている。
いや、『残響として、鳴り渡っている』といったほうが解りやすい。

「三日間の時空の恩恵」は、それでも残ってみせる…。と
今も「老脳」を賑わしてはいるが、
「残響と現実の違いくらい。
今未だ解っておるワイ。」…と、 やおら、布団をでる。


『О常勝長』の その強力な御助力を交えて、
「今日から、又。抗癌治療諸々が始まるぞ」と、
我が身を、鞭打ちながらじゃから、偉いではないか…。

[951] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月04日 (月) 18時26分

昼前であったか…『I支部長』が来宅された。
なんせの「重病」で、激励の御訪問も、こちらが恐縮するが…。
用事があれば、こちらから御伺いしますとも言う状態ではないので困る。

いやなに。元々「こちらから伺います」の人生であったので…。という事だ。

その『支部長』の用件はこうである。

『後続の壮年の為に、御書の講義をせよ』 という事である。
私は、この『支部長』の御提案に、我れを忘れて飛び付いた。

『健康状態はどうか?』に…、
「この際、副作用(抗癌剤の)は、何ともない」と言い切った。

この「カラダ」は、御本尊の為にある。とは言わなかったが
素直に、そう思っておる。

[952] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月06日 (水) 04時36分

それは一昨日の夜中である。
突然の発熱(37.7度)で往生した。

元々平熱の低いワシは、上記の数値は天文学的で、
「死ぬか」と思った。

兎に角、「時間が時間である」…と、悶えつつ朝を迎えた。
早々に『О常勝長』の御尽力で「事なき」を得たが…、
油断は「命とり」になる。

桑原・桑原である。

[953] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月07日 (木) 12時40分








沖浦氏への(…というか、からというか)遣り取りがあったので 書く

沖浦さん。 投稿者:愚壮 投稿日:2013年 9月28日(土)09時40分53秒  

通報
> 649 沖氏投稿 2013/09/15(日) 07:04:52
> 愚壮さん、おはようございます。
> 貴方が寛師がお好きならそれはそれで良いと思います。
> 私はあれは習い損ないと思います。


> 816  沖氏投稿 : 2013/09/27(金) 05:58:14
> 私は、浅井先生でも、顕師でも如師でも、来て下さるなら喜んでもてなし致します。
> 一切衆生のお一人ですので、信じる宗派で差別を致しません。
> これでも創価の末席におりますもので・・・

************************************************************

【勝利の経典『御書』に学ぶ】(2013年10月号 767)を繙けば、
【 又 だんなと師と をもひあひて候へども
大法を小法をもつて・をかして としひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、
我が身も・だんなも・ほろび候なり 】 『四条金吾殿御返事(八風抄)』1151P 抜粋
上は御貴殿が最も讃歎する「四条金吾殿(中務三郎左衛門尉頼基)」への『御記述』である。

(日蓮大聖人御指摘の 『弟子檀那と師匠』への「正しい御指南」を基軸として)
上記にいう「だんな」とは弟子であり、「師」とは『師匠・牧口先生・戸田先生・池田先生』である。

更に 〔大法を小法をもつて・をかして〕とは、「正法」を「邪家の法・邪法」で「犯して」であり、
〔としひさしき人人〕とは、『御聖訓』を長年曲解し続けて尚 「王道への研鑽を怠る人々」である。
そういう人々の「祈り(呪詛と表現する)」は叶うどころか、返って「師弟不二」をも滅ぼすのだ。

ところが御貴殿は、顕正会の「浅○」や、宗門の「顕や如」を讃歎し、更にその口で、
(勿体無くも)『第26世:日寛上人』を 「> 私はあれは習い損ないと思います。」と言い切る。

私は「浅識」だが、『日蓮大聖人・日興上人・日寛上人』を堅軸とする「正道」を揶揄した事はない。
当然。その『日蓮大聖人・日興上人・日寛上人』の隷下に在るべき「創価学会」を誇っておる。

『末法御本仏・開山上人』への「御尊崇」は当然として、
「中興の祖・第26世:日寛上人」の御深義を「届かぬまでも学ぶ…」。これが「創価学会員」の真骨頂だ。

御貴殿が往年、肉薄され公演された「熱原の法難」
御承知の如く、かの法難こそ「一閻浮堤総与御本尊」御現出の直因であった。
私(愚壮)如きが言わずとも、これこそ『日蓮仏法のイロハのイ』である。

登山(総本山参詣)の折り「御影堂」裏側に赴き、「神四郎・弥五郎・弥六郎」の墓前に「広布」を誓った。
…その「誓い」とは、そも『何の為』であったのか。
ひとつひとつは、書くに「紙面」が不足しているが、「水魚の思い・異体同心」が根幹であった。
いや。 「水魚の思い・異体同心」が根幹であると教わった。
…閑話休題。

扨  この「根幹の大法難・熱原事件」の本筋で、深く関連されたのが「上野郷の地頭・南条家」であった。
つまり、 「熱原の法難」に関連した 多くの人々に対して、「楔」の如く食込んでいかれたのが「南条家」だ。
「熱原の神四郎・弥五郎・弥六郎」と『日蓮仏法の根幹』は、個別に語る「歴史」ではない…。これが真相である。

(多くは言わんが)その「南条家直系」の御僧こそ 「第26世:日寛上人」である。
その「日寛上人を習い損ない」と卑下申し上げる。
アマッサエ その『第26世:日寛上人』を蔑ろにする「同じ口」で   
( > これでも創価の末席におる。) とは…
『支離滅裂・自語相違』の極みであるので、慎んでいただきたい。

[954] 題名: 名前:ぐ 投稿日:2016年01月08日 (金) 13時36分

少し遅くなったが、御参考になれば幸甚。

世界を照らす『大要の仏法』 池田先生御講義 抜粋
2,016年 大白28P 795号

学会の指針とは ↓
一  一家和楽の信心
二  幸福をつかむ信心
三  難を乗り越える信心
四  健康長寿に信心
五  絶対勝利の信心
である。
これは、昭和26年の「戸田先生・創価学会会長就任式」を機に表された「三指針」と、
昭和36年年頭に、池田先生が追記された二指針とを指すが…。
元より、後の二項目は、内容からして「永遠の指針」とは成り難い。
…とは、「産まれながらに不具の人」と、「負けたまま死ぬ人」との存在である。
このふた通りは、なにびとも絶対に否定できないからである。

扨(さて)。 此(ここ)で曰う『テーマ』とはなにか。
かけがえのないテーマとは『永遠の成長家族』を指すのか。
大白 30P 本文拝読
【 一切は・をやに随(したが)うべき にてこそ候へども・
仏になる道は  (自らの信念に)随わぬが孝養の本(もと)にて候か 】
↑ 兄弟抄 1,085P 7〜8g
【仏になる道】とは、「出家」という事で、 「子が親」の出家の要請にに随わぬが孝養の本道だという。
…と、いうと。 かけがえのないテーマとは『永遠の成長家族』が指針ではない。

つまりは、『難を乗り越える信心』が、第一義ではないのか。
……と綴って行くと、家族や家庭をも、否定しかねない。
そこで…【 一切は・をやに随(したが)うべき にてこそ候へども…】
仏法の真意は、そこにはないという事なのである。

それでは「仏法の本来の真意」はどこか。↓
大白 31P 下段 9g 「釈尊が 父・浄飯王(じょうぼんのう)の心に随わず出家した」
↑ が「上品」の親への孝養である。

『孝養』とは本当に【 一切は・をやに随(したが)うべき…】なのか。
これを・どう拝するのか。
【 法華経のかたきになる親に随いて 一乗の行者なる兄(宗仲)をすてば
親の孝養となりなんや 】 兵衛志殿御返事 1,091P 5〜6g

それでは、以下の三編はどう拝すのか。
【 例せば 父母の殺す人は 何(いか)なる大善根をなせども
〜 父母なれども殺しぬれば大悪 還って大善根となり候 】治部房御返事 1,426P 9〜10g

【 父母の仰せを背けば 不孝の罪に堕ちて 天に捨てられ 】 治部房御返事 1,425 4g

【 若き夫妻等が 夫が妻を愛し 女は夫をいとおしむ程に
・父母のゆくへ(行方)をしらず 】 一谷入道御書 10〜11g

つまり「親」と雖も その幸福追求の存在の根本は、子の成就ではないのか。
もう、こうなると   何が究極の和楽なのか解らない。

大白蓮華(31P)で、『孝養か信仰の二者択一ではない』とは、そういう事なのだ。
つまり、穿(うが)って言えば、『和楽が最終目的ではない』のである。

次のテーマは、実は。短いが…。『和楽』よりも難しい。
それが、「真実に信仰が好きになれるか」と、いうことである。
大白蓮華(32P)に、興味深い話が、紹介されている。

じつは、『若き指導者は勝った』という池田先生の指導集で、こうある。
(池田先生の談話・抜粋) 【宗教は、懲々である。】  
上記は短文であるが、当時の池田先生の言葉である。

又。これに匹敵する辛辣な言葉も、残ってある。
(池田先生は)  創価学会入会後も、こうおもっていた。
【 何とか自らの運命(創価学会員である事)から、免れないものかと、
一年間ほど悩み、あらがっている。】  「人間革命  漣(さざなみ)の章 抜粋」

ここで、対告衆を訪ねて見る。

大白蓮華 33P  (上段) 本文拝読
【 光日上人は子を思うあまりに 法華経の行者と成り給ふ、
〜 御対面 いかに うれしかるべき・いかに うれしかるべき 】 (934P)

@【 其の故は子の肉は母の肉母の骨は子の骨なり、松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく 】 
↑ 光日房御書 934P
本文にある @【母と子倶に 霊山浄土へ参り給うべし 】が、そういう事である。

扨(さて)。 問題の光日尼に、もう一歩 話は迫る。
対告衆の光日尼は「日蓮大聖人」と同郷であった。
その故かどうか、「日蓮大聖人」は光日尼に『堕獄の様相』までも送っている。

【 無間地獄の先相に七処に悪瘡出生して玉体しづかならず 】
上記は、『光日房御書 930P 16〜17行目』である。
要するに、光日尼の如き「猛者」にまでも、急所の激励を欠かさない。
誠。  「真の師匠」を彷彿させるではないか。

つまり、「光日尼」は、私(大聖人)の母だはないか…。
否! 釈迦そのものではないか。と、讃されている。
↑ 【種種御振舞御書(佐渡抄) 925P 最終行】

信心全般の『猛者』といえば、忘れてはならぬ人が居る。
それが、南条親子であろう。

これから、その親子の、子の方への御書本文の通解を拝読する。
【 (父の)故 上野(南条兵衛七郎)殿こそ、色(男らしさ)ある お(を)とこと 人は申せしに
その御子である「時光」であれば。益々の「駿逸」でありましょう。
正に、藍より尚 青く。 水より尚「すざしい」氷の如きだ、感動している。 】

つまり、こうである。
「孝子」が後を継ぐのは、親の「最高の喜び」である。 「上野殿御返事  1566P」

では「女子」はどうか。
安心しなさい。「女は 子を出生す 〜 諸法を出生せり」である。
↑ 御講聞書 841P

私の御書講義は、これで終わる。  (この後 幹部指導)

[955] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月08日 (金) 13時40分

上記は愚壮だす。(相スマン)

[956] 題名: 名前:おにゆり 投稿日:2016年01月08日 (金) 16時24分

ありがとうございます<(_ _)>

[958] 題名: 名前:愚壮 投稿日:2016年01月09日 (土) 14時00分

母は云う。私は貴方を、酉の年の酉の日の酉の刻に産み落とした。
「産み落とした」とは、なにも「産婆が手を滑らした」という意味では無い…。


どうやら、私を「ひって」七十年の月日が流れたのは、事実じゃ。
その母が。電話でコウ云う。

「Aさん、体、どうでっか… なんとかあんたの体と、かわりたい」
ワシの『胃がん』を慮っての発言じゃろうが、軟らかく断る。

それは、…。
いつも、涙声を悟られんやうに、苦労をしながら やっとる。
しんどいことじゃ。

愚壮誕生。1,945年 1月10日。 古稀である。   



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