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作品名:腐食 [I Need You, I Feed You] 自由(小説)

愛する人との死別は悲しいことでしょう。では、死後も死ねない恋人と共に生き続けるのは?

卯月音由杞 2011年10月09日 (日) 11時42分(54)
 
作品名:腐食 [I Need You, I Feed You]

『奴らは捕食者で我々は食らわれる餌食にすぎないかと言えば、それは不正確だ。奴らは寄生生物で、人類こそがその宿主なのだ』
 --- Max Brooks "The Zombie Survival Guide : Complete Protection from the Living Dead"


【Prologue】 Need

 ほら、あーん。
 ユリはそう言いながら、待ちきれない様子のトウマの口に食べ物を運んだ。今日も肉、新鮮な肉だった。トウマの好きなメニュー。
 格子窓の隙間から差しだされた豚の腎臓にかぶりつく姿を見て、ユリは口元だけで微笑む。トウマはいつも自分の用意した食事をおいしそうに食べてくれたし、今だってそうだ。
 扉越しに見つめるユリの目はしかし、焦点があわないまま。映っているのはそのころのトウマの姿。いま、血と体液とを口から垂らしながら動物の内臓に食らいついている、灰色の肌をした男ではない。
「今日も安く分けてもらえたからね。ほら、まだこんなに」
 ユリは手元の袋から長い腸を引きずりだしてみせる。もう前菜を貪り尽くしていたトウマの口からは、血混じりのよだれを泡立たせながらのうなり声が搾りだされた。低く、長く、普通の人間があげたものなら苦しみのせいとしか思えない声。臓物の異臭を嗅ぎつけた喜びか、茶色く染みのついた歯をむきだしている。
 やはり焦点の合わないトウマの目にはなにが映っているのだろうと、切れかけて点滅する蛍光灯の下でユリは思う。灰色の床と壁以外にはなにもない部屋で、ただ自分が差しだす肉を待つだけのトウマの目には。
 ユリはもうそんなことを考えるのにも疲れてしまった。錆の浮いたコンクリートを引っかく爪の音にも、トウマの体から漂う耐え難い腐臭にも、慣れてしまった。
「お店の準備は進めてるんだよ」
 ユリは腸を格子の向こうに垂れ下げ、端から食らいつこうとするトウマを見おろす。きっと自分が何を言っているかもわからないのだろう、と思いながら。
「新しいメニューだって考えてるからね。だからいまは心配しないで、きっとよくなるから。ほら、もっと食べて」


【Memoir 1】 Speed

 なにか新しいことをはじめようとする夜、私たちはよくここまでドライブにきた。お互い仕事に就いたとき、別れてしまったけどまたよりを戻した後、一緒に暮らすことにした日。冬でも夏でも、この山奥のダム湖は穏やかに星や月の光を映し出していた。新しくお店を持つことを決めて二人とも仕事を辞めた、そのときも。
「新しいメニュー、考えなくちゃ」
 他に誰もいない駐車場で静かな水面を見つめながらそう言ったら、トウマは笑ったっけ。私を後ろから優しく抱きしめながら、まだ気が早いよって。
「まずは物件が決まってからだな。おととい見に行った駅前のなんてよかったけど」
「でも高い割に狭かったじゃない」
 しばらくは二人だけで回すつもりのお店だから、狭さはかまわない。でも、できたら運転資金は少なめに抑えておきたいし、準備中の生活費も限られてる。
 少し不安そうにため息をついた私に気づいたトウマは言った。
「まあ、焦らないで少しずつ片付けていけばいいって。今は二人でがんばろうよ、ユリ。いつもみたいに」
「これまでみたいに、トウマ」
 背の高いトウマを肩越しに見あげて、お互いに笑みを浮かべる。十月も半ばをすぎて急に冷えこむ日が多くなったけれど、今は背中越しにトウマの熱を感じた。いつもみたいに、これまでみたいに、私を支えてきてくれたトウマを。
 唇同士でもそれを感じようとした瞬間だった。少し先の茂みがざわめくあの音、あのうなり声を聞いたのは。
 現れたのは、汚れたトレーニングウェアを着た男。湖を巡る遊歩道を走る人を何度も見たことがあったから、ジョギングをしていて道に迷ったのかと最初は思った。
 でも、こんな夜中にだなんて。私は反射的にトウマの腕を強くつかんだ。
 足を引きずりながら、ひとつだけある街灯の下まできたときにはっきり姿が見えた。こちらをぼんやりと見つめる濁った目、硬くこわばったように不自然に動く手足と、灰色の肌、荒く息をつく開いたままの口元。
「どうしました。怪我ですか?」
 私をその男から遠ざけるように車のほうに押しやりながら、トウマが声をかける。困っている人を見つけると手を貸さずにはいられない、そういう人だけれど、このときはおかしいと感じていたみたいだった。男はなんの反応も見せず、まだゆっくりとこちらに向かってくる。
「ユリ、エンジンかけておいて」
 キーを渡された私は、トウマの真剣な声の調子に無言でうなずき、十メートルほど離れたミニバンに向かって後ずさりした。足が震えて、もつれかける。その動きか、アスファルトに響く靴音か、ひょっとしたら私の呼吸に恐怖を嗅ぎ取ったのか。わからないけれど、その男は急にこちらに向き直り、よろめきながら近寄ってきた。
「止まれ! 逃げろユリ!」
 トウマが男の進路をふさぐように飛びかかる。私は振り向いて車まで駆け出しながら、なぜか恐怖が怒りに変わるのを感じていた。その男が何者かはどうでもよくて、二人だけの大切な場所に、こんな形で嫌な思い出を押し付けられたことに腹を立てたのかもしれない。
 運転席に滑りこんでキーを回すと、ヘッドライトがもみあう二人の姿を照らした。男がトウマにしがみつき、腕に噛みついている。ようやく男を引き剥がして突き飛ばし、二つの影が離れて地面に倒れた。トウマが痛みに苦しむ叫び声と、男の興奮したうなりとが、エンジン音に混じりあう。私はさっきの怒りが頭の中に熱く、強く燃えあがるのを感じ、反射的に思い切りアクセルを踏み込んでいた。
 ゆっくりと起き上がりかけた男に向かって、固く握りしめていたハンドルを切る。バンパーに衝撃、それからなにかに乗りあげる感触。それが私を正気に戻したみたいで、今度はブレーキを強くかけた。
 鋭い音を立ててタイヤが止まると、私は急いで外に出た。倒れているトウマに向かって走る。はね飛ばした男のほうなんて見る余裕もなく、全力で。
「トウマ! 大丈夫?」
「たいしたことない。ユリは? 大丈夫か?」
 トウマは顔をゆがめて苦しそうにそう言ってみせたけど、大丈夫なんかじゃなさそうだった。右の上腕を服ごと、肉まで噛みちぎられている。上着を脱いで縛りつけても血はどんどん染み出し、布地を真っ黒に染めてしまった。急いで病院に行かないと。
 トウマを立たせて助手席に乗せる途中に、私は見てしまった。手足がおかしな角度に曲がったままでうつぶせに横たわる男の体を。
 それに街灯の下、胴体からもぎ取られて転がり、こちらを向いている頭を。まだ動いている口元を、赤い血が染めているのを。
 曲がりくねる山道を街へと戻っている最中も、助手席のシートに流れ落ちて染みを作っている、トウマの血が。


【Scene 1】 Breed

 車を止めてドアを開けたユリは、吹きつける風の強さを感じた。降りる前に助手席に置いたコートを取ろうとした瞬間、思わず動きを止める。
 そのまましばらく、座席に深くもたれていた。食肉処理場から漂ってくる臭気も気にかけず、駐車場を囲うフェンスの網目を、無意識に目で追う。剥げた塗装と、にきびのように点状に広がる赤黒い錆。
 再び助手席を見たユリの目には、同じように赤黒い血の跡が浮くシートが映った。

 大須賀という恰幅のいい中年の男が、切り落としの肉や内臓を安く譲ってくれた。トウマが運送業者で働いていたときに知りあったのだという。
「ほらよ、これ。店のほうはトウマが探してるんだって?」
「ええ。私は何を出すのか考えないと。これは試作用と、それに食事も安く上げなくちゃいけないから」
 いくつものビニール袋に分けられた肝臓、腸、心臓、スジ肉や骨片を受け取ってユリは微笑んだ。不自然な笑いに見えないだろうかと不安になりながら。
「イタリア料理だっけ? モツも結構使うんだってな。でも、あんまり切り詰めすぎて無理するなよ。あいつによろしく」
「ありがとう」
 家畜の血が飛んだゴムエプロンを身に着けた大須賀が手を振る姿にまた頭を下げ、ユリは歩きだした。両手に持った肉と血とがの詰まった袋を、トウマの求めているものの重さを感じながら。

 車もまばらな真昼の幹線道路を、ユリの運転するミニバンが走り抜けていく。灰色の雲の下は、秋を通り越して冬になってしまったような冷たい空気で満たされていた。沿道には並ぶのは、夜以外はひどく間が抜けて見えるけばけばしいパチンコ屋、看板が取り外されてずいぶん経つレストラン、ひび割れたアスファルトの駐車場。
 大手の工場が相次いで撤退してしまった地方都市の末路が、数キロにわたって無残に姿を見せていた。ひっきりなしにトラックが行きかうせいでひどかった排ガスのにおいさえ、ユリは懐かしく感じる。少なくとも、街も道も生きてはいた。いまではもう死んでしまったように静かで、それでもまだ細々と命をつないでいるように思える。
 生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからない街。
 ユリは頭を振ってその考えを追いやった。

 幹線道から支線を入ってしばらく行った先、山のふもとに程近いところに、トウマの探し出してきた二人の仮の住まいがあった。南側の山が日をさえぎるせいでトタンの壁は黒く水汚れし、窓の一部は破れたままの、昔は農作物の加工場だった小さな建物だ。
 不動産業者にかけあって破格で借りられた物件で、一緒に建てられた宿直所にはまだ生活できそうだった。工場に設置された広い厨房のガスや冷蔵倉庫がまだ生きていたのも都合がよく、資金を抑えながら新しい店のメニューを考えられる。多少の不便は仕方ないけどいろいろ役に立ちそうな建物だろ、とトウマは言っていた。
 人の寄り付きそうにない場所に建っていること、頑丈な倉庫があったことは、いま、違う理由で役立ってはいる。

 倉庫の開閉できる覗き窓からユリが差しだした牛の肝臓に、トウマはすぐに食らいついた。壁を引っかくせいで磨り減った爪で臓物を握り締めると、すぐに血がしたたり落ちてコンクリートの床を汚す。
 口の端から泡を飛ばしながら食らいつくトウマの姿を見て、ユリの瞳にほんの少しだけ感情が戻った。自然と微笑が浮かぶ。
「お待たせ。お腹すいてたよね」


【Memoir 2】 Bead

 本当にお腹すいてたみたい。作り置きのポテトサラダも、梅干しをはさんだササミのフライも、母さんから教えてもらった得意のアジの南蛮漬けも、ご飯と一緒にどんどんトウマの胃袋の中に消えていった。
「もっとゆっくり食べなよ」
「いや、だって、おいしくてさこれ。ユリちゃんなんでこんな料理うまいの?」
 嬉しそうに話すトウマにお茶を出しながらテーブルの向かいに座る。なんでって、父さんが亡くなって以来、働いている母さんの代わりに私が作っているだけだけど。
「本当においしい? トウマくんがお腹へってただけじゃない?」
「本当だって。まあ、弁当忘れて腹へってたのは確かだけどさ」
 同じ高校に通っていたトウマは野球部員で、私はマネージャー。そんなに強いチームじゃなかったけど、夏休みもみんな楽しそうに練習してたな。
 帰り道、本当に死にそうな顔してたから家に誘ってみたけど、こんなに食べるなんて思わなかった。でも、自分の作った料理で喜んでもらえるのは少し嬉しい。母さんは、いつもありがとう、とは言ってくれるけど。
 そうじゃなくって、夢中になって食べてるトウマを見てると、自分もお腹が一杯になってくる。そんな気分。
「なんならまたきてもいいけど。女二人だと、いつも余らせちゃうし」
 さりげなくそう聞いてみたけど、私、汗かいてたと思う。トウマが部活の間中ずっと浮かべてた玉のような汗の粒じゃなく、首の後ろから背中に降りていく冷たい糸筋。
 トウマはまたご飯をほおばりながら首を何度も縦に振った。後で聞いたら、このときはやっぱりトウマもドキドキしてたんだって。でも、そもそも前からちょっと気になってなければ、家に呼んだりしないってば。
 なのに私はまたいつもどおりを装って、野球部の麦茶は何リットル用意すればいいの、って聞くときみたいに、食べたいものがあれば作っとくけど、なんて聞いてしまった。
「なんだって食べるよ」
 トウマはトウマで、朝練は八時からだから! って言うのと同じような表情で、私のほうをまっすぐ向いて言ったんだ。
 ユリちゃんが作ってくれたなら、なんだっておいしいよって。


【Scene 2】 Read

 おいしいでしょ、トウマ。
 ユリは声に出さずに尋ねながら、まだ肉のこびりついた豚の脚を骨ごとトウマに与えた。ひどいにおいの内臓も、筋張った腱や軟骨もたちまち食べ尽くされてしまう。日を追うごとに食欲が増しているのがユリにはわかった。

 湖で襲われた夜、トウマは、病院には行くなと言いはった。たいしたことない、すぐに血も止まると。それはきっと自分をかばっているのだろう、とユリは察した。突然噛みつかれたとはいえ、倒れた人間に車で突っこんだ上に、首を。ユリはそのときのことはもう思い出したくなかった。
 人に噛まれた傷口なのは、医者なら一見してわかってしまうだろう。正当防衛でもなんでも、面倒なことになるのは間違いない。それに、ユリたちがあそこにいたことは誰も知らない。黙ってさえいれば。
 ある限りの消毒薬とガーゼ、包帯でなんとか傷口をふさぐと、次の朝にはトウマは落ち着いたように見えた。痛みはあっても冗談を言えるくらいには元気で、ただひどく空腹だと言う。早く店を開いてまかない料理を出してくれないと餓死するぞ、と笑うトウマに、ユリは安心して食料と医療品とを買い物に出かけた。
 昼過ぎに戻ると、ユリは倉庫の中で座りこんでいるトウマに気づいた。怪我が悪化したのかと近づこうとしたら、扉を閉めて制される。
「気分が悪い」「人が側にいると苦しい」「なにか食べることしか考えられなくなってきてる」
 それが、トウマの口からでた最後のまともな言葉になった。

 絶えずうめきをあげながら、固いスネの骨もバラバラに噛み砕き、骨髄をすすっている。そんなトウマの姿をユリは優しげに見つめたままだった。ダム湖で噛みつかれたあの男にそっくりの肌の色と濁った目をしていることなど、見えないかのように。
「早く元気になってね。いまは、なんでもわがまま聞いてあげるから」
 今度は声に出してそう言ってみたユリだが、汚れた口でほおばった骨片に興奮するだけのトウマは、何の反応も示さない。
「また今度は私が、一杯わがまま聞いてもらうからね」


【Memoir 3】 Steed

 遊園地なんて子供っぽいよな。野球部のみんなで遊びに行ったとき、トウマがそう笑ってたのを覚えてた。まだ私たちがつきあい始める前の話だ。
 だから伝えにくかったけど、今度は二人だけで行きたい、って言ってみた。
「いいよ、行こう
 って簡単に受け入れられたのには驚いた。でも後になって、これがトウマのいいところだってわかったんだ。ううん、悪いところなのかもしれないけれど。
 トウマは自分の思ったことはすぐ口に出してしまうし、言い出したことは曲げない。だから気のあわない人とはうまくいかなかったりする。
 私にだけは、別だった。トウマはそのときみたいに、いいよ、ってにすぐ言ってくれる。
 ちょっと甘やかされてるのかなって思った私も、そのうち気づいた。初めてのことでよくわからなかったけれど、大切にされているのかなって。
 だから、思い返すだけで顔が赤くなるけれど、愛されてるのかなって気づいたそのときのことは忘れないようにしてる。
 薄曇りの寒い冬の日で、お互い鼻の頭が赤いって笑いあった。なぜかメリーゴーラウンドに乗りたがったトウマ。お昼に持ってきたお弁当をカラスに持っていかれそうになったりもしたっけ。
 それに観覧車に乗って見た、少しだけ雲が晴れた瞬間の夕焼けも。
 灰色の空もゴンドラの中も、少しの間だけ水色、ピンク、オレンジが混じりあう淡い光に満たされてた。
「どうしよっか」
 私はそうつぶやいてた。今日これから、ってことじゃなくて。空の色を見てたらもう、いますぐに世界が終わってしまうんじゃないか、トウマだっていなくなるんじゃないか、そんな気持ちになって。もうすぐ進路を決めなきゃいけない時期で、不安で悩んでいたせいもあったのかもしれないけれど。
 トウマは、なにも言わなかった。ただいつもみたいな笑顔で、私の肩を強く抱いていただけ。その熱のせいで、感じたんだ。愛されてるってこういうことなのか、って。
 ゴンドラの中はすきま風が入り込んで、寒くて。目を閉じると、まるで冷たい宇宙に取り残されたみたいだった。
 もしそうなったとき隣にいてほしい人と、二人きりで。


【Scene 3】 Stampede

 二人だけしかいないはずの場所なのに、なにかが、誰かがいる。夜遅くに戻ったユリは、はじめぼんやりとそう感じただけだった。
 あれから一週間、新聞やテレビを見ていても、あのダム湖での事件はまったく報道されないまま。不審に思ったユリは車で現場に行ってみたが、それらしい痕跡も、警察が捜査をしている様子もなく、不思議に思って帰ってきたところだった。
 あいまいな予感の正体にユリはすぐに気づいた。嗅ぎ慣れてしまった、死んだ動物の血のにおいとは違うものが鼻をつく。もっと鋭く刺すような、目の奥が焼けるような感覚。流れだしたばかりの新しい血の香り。
 山から怪我をした動物でも降りてきたのだろうか、とユリは考えた。イタチやタヌキ、時にはサルの姿を見たこともある。だが、茂みで隠すように見慣れないものが置かれていることに気づき、息を止めた。
 原付バイクとヘルメットが二つ。
 飛びつくようにドアを開けた。カギがかかっていない、と思ったのも一瞬のこと。ユリが想像したとおりの光景がそこにあった。開け放たれた倉庫の扉から流れだした液体が、天窓からの月明かりを不自然なほどまぶしい赤色にはね返している。
 一歩近づくごとに、錆びた釘を口に含んだような不愉快さがユリの舌の上に広がる。扉の前までくると、それはもっと醜悪な感覚に変わった。真夏に下水道から漏れだした臭気に似た、こもった熱と酸味と、糞尿のにおい。
 おそらく多くの人間が、死臭と呼ぶはずのもの。
 血が流れだしている源は二つ。男と女、少なくともユリにはそう見えた。骨が露出した顔は爪で引き裂かれ、ねじれた首には歯形が残っている。男の頭部はコンクリートの床に打ち付けられ、血と一緒に白いゼリー状のものがあふれだしていた。女のほうは焦点のあわない目で扉のほうを、ユリを見あげたままだ。
 その下腹部に顔をうずめたトウマは、荒く興奮した息を立てながら、長く引きずりだした腸にかぶりついていた。
 ユリは扉を閉めながら血の海の中に座りこみ、下を向いて口を開いた。
 絶叫をあげるのではなく、胃の中身をすべて吐きだすために。


【Memoir 4】 Creed

 なにを食べてもすぐに吐いてしまうほど、ひどかった。勤めているレストランが年末の繁忙期で、疲労がたまっていたんだろう。いつもなら一日寝ていれば治るような風邪が思ったより悪化したみたい。さむけと熱が引いても腹痛、ひどいせきこみ、のどの痛みが次々に襲ってきて、その間ずっと吐き気は止まらないまま。
 おかげで、正月は寝こんだままで終わってしまった。せっかくトウマと暮らしはじめてから最初の年越しだったのに。
「今日から仕事でしょ? 休んで平気?」
「大丈夫だって。まだできないから寝て待ってろよ。絶対うまいから。ユリが作るよりうまいかも」
 狭いキッチンでおかゆを作っているトウマが陽気に答える。たぶん、大丈夫じゃない。いつもみたいに私のことになるとトウマは無理をしているのがすぐわかってしまう。
 でも、いまみたいに体も心も弱ってるときには、本当にそのことが嬉しく思える。
 大みそか、私の具合が一番悪かったとき、うなされて眠れない私の手をトウマがずっと握ってくれていた。それがどれだけ心強かったかって言っても、眠そうな目でただ笑ってるだけ。
 どんなことになってもこの手を覚えていれば大丈夫、ってそのとき感じたんだ。気取って言ってくれる「愛してる」なんて言葉より、ずっと忘れられないもの。
 あの大きくて、温かくて、私を優しく包んでくれる手を。


【Scene 4】 Greed

 のぞき窓から触ったトウマの手は冷たく、固くこわばり、ユリの手を握り返そうともしなかった。ただ、新しいお気に入りを夢中で貪っているだけだ。
 あの夜以来のトウマのお気に入りを。
 トウマに襲われた二人は、持ち物からは数十キロ先の町に住む男女だとわかった。そんなことはどうでもいい、と思いながら、ユリはトウマの冷たい手を強く握る。問題は、トウマがこれまで好んで食べていた動物の肉に興味を示さなくなったことだ。
 右腕の骨にこびりついた肉をしゃぶり尽くそうとするトウマを見ながら、ユリは冷凍庫の中身を思い返した。いまはまだ、男のほうの肉が残っている。左腕、胸郭、頭。両足と腹部はとっくに食い尽くされてしまった後だ。
 遅かれ早かれ、食材を調達しなければならなくなる。トウマのために、とユリは思う。いつも支えてきてくれた恋人を今度は自分が支える番だと。
 ユリの頭にあるのはそのことだけだった。もうこちらを向こうともしない、背を向けて骨を噛み砕くだけのトウマの姿を見ても。


【Memoir 5】 Weed

 話を聞いてくれないし、こっちを見ようともしない。まるで私なんていないみたいに。私とケンカしているときのトウマは、いつもそうだった。
 原因はいつもつまらないこと。自分が疲れているのに相手は楽しそうにしているのが気にいらなかったり、済ませておくべき家事や買い物ができていないことを責めたり。どれも笑い飛ばせばそれで終わりになるようなことだけれど、ストレスか、タイミングが悪かったか、許せないと思ってしまうときがお互いにあった。
 二人とも不完全な人間だって、きれいな花じゃなく雑草みたいなものだってわかってるはずなのに、ときどきそれを忘れてしまう。私たちの間が冷えこむのはいつもそんなときだった。
 仕事の都合で食事や睡眠の時間があわないことはよくあった。それでも話をする時間はたくさんあったはずなのに、ケンカが始まったらもうだめだ。話しかけても答えはなし。家で食事も取ろうとしない。高校のころと同じように絶対に残したりしないはずの、私の料理を。
 ただ寝て起きて、仕事に行って帰ってくるだけの、トウマではないトウマになってしまう。
 私もそれがわかってて、意地でも普通に話しかけてた。でも、そのうちに疲れてしまう。トウマに暴力を振るわれたり罵倒されたりしたことはなかったけれど、きっと無視される続けるこの時間ほど苦しくはかっただろう。
 だから先に折れるのはいつも私。たいてい、泣きながらトウマの背中にしがみついて、ごめんなさいって言い続ける。
 トウマもそのうちため息付きながら振り返って、俺も悪かったよ、って言うんだけど、私はまだ涙を流したままで、ごめんなさい、ごめんなさいってかすれた声で謝ってた。


【Scene 5】 Meed

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 かすれた声でそう言い続けながら、細く涙を流しながら、ユリは男の延髄に突きたてたナイフに力を込めた。自分にのしかかる、名前も知らない男の首に。
 垢と汗とで汚れた服から漂うひどいにおいも、ユリは気にならなかった。トウマの、そしてその餌食の腐臭に比べればなんでもない。

 トウマの新しい「好物」を手に入れるために、ユリは離れた街の公園を選んだ。身元のはっきりしない、行方不明になっても誰も心配しない「好物」たちが大勢住みついていたからだ。
 どうすれば誘い込めるだろうか、とユリは考えた。金か、食料か。弱った年寄りばかりとはいえ男相手では、油断させないと仕留められないかもしれない。
 木の葉も落ちてすっかり冬の様相を見せ始めた公園には、ダンボールにくるまり、ゴミ箱をあさるホームレスがところどころにいた。ユリは比較的肉付きのよさそうな男の一人に目をつけ、自分の持っている中で一番露出の多い服を着て近づいた。

 バンの後部座席で男に胸を触られながら、ユリは機会を待っていた。油断させるだけさせて、それから。
 男は欠けた歯の間からひどいにおいの息を吐きだしながら、なまあたたけえ、やわらけえ、と興奮した様子でつぶやいている。どうせもうすぐ死ぬこの男に、少しだけいい目を見させてやっているのだ。
 ユリはそう思って指の、舌の感触に耐えた。トウマの腹に収まることになる肉の、代金なのだと。足の間に顔を突っこんだ男がユリのほうを見あげながら、ゆがんだ笑顔と血走った目を見せながら、言うまでは。
「あんたあ、こおんなとこに傷あるんだな。男にでも、へへ、噛まれたか」
 体中の血が沸騰するような感覚に襲われたユリは、シートの下に隠したナイフに手を伸ばし、振りあげ。


【Memoir 6】 Lead

 トウマにはじめて抱かれた後だったと思う。お互いちょっと夢中になりすぎて苦しかったんだけど、ようやく落ち着いて、痛みと疲れと気恥ずかしさと、それらを全部忘れてしまうほど幸せな気分と一緒に、トウマの腕と胸に顔を押しつけてたときだった。
「なあ、これどうしたの」
 私の内腿に触りながらトウマが聞く。五センチほどの長さの、ミミズのように細く腫れた傷。小さいころ、山で遊んでいたときに木片が刺さった跡だった。
「丸太かなにかまたいだときかな。しばらく気づかなかったんだけど、小さい破片が残ってたみたいで、化膿してきちゃったから手術したの」
「ふうん。だから短いスカートはいてなかったのか」
「別に関係ないって。こんなとこまで見えちゃったら短すぎでしょ」
 そう笑うと、トウマが急に抱きしめてきた。まるまる腕の中に収まってしまうくらい小さい私を引き寄せて、髪にキスする。
「じゃあ見ていいのは俺だけね」
 それからお互い、顔を見つめあいながら眠った。私たちの間の小さな秘密、トウマだけが知っている秘密。全部見られてしまうって、お互い隠し事ができないって、恥ずかしいのかなって思っていたけれど、そうじゃない。温かくて気持ちのいいものなんだって私はこのとき初めて知った。
 他の誰にも知られたくない、ずっと隠しておきたい二人だけの秘密。


【Scene 6】 Exceed

 もう、隠し通せそうにない。
 最初のホームレスから三人、ユリは場所を変えながらトウマの「食料」を調達していた。どんどん手口が荒くなって警戒感が薄れ、バンが目撃されたかもしれない、という疑念がわきあがる。ホームレスが行方不明になっている、という記事を新聞で見つけたときには足が震えて立っていられなくなってしまった。
 一週間も外に出られず、残っていた肉も尽きた。もう、無理だ。ユリは倉庫の扉を開け、床に倒れているトウマを見おろした。
 灰色だった皮膚はさらに黒ずみかけている。右の目玉は腐り、干からびて流れ落ちてしまっていた。足首は関節が折れてしまったのか、どちらも不自然な方向に曲がって、もう這い回ることしかできない。
 死にかけているんだ。ユリはそう思ってから、小さく笑う。もう、気づいていた。きっとトウマはとっくに死んでいたのだと。
 死んでほしくない、いなくなってほしくない、そう思っていた自分にとってだけ生きていたのだと。
 それならば、本当に死んでしまうときにはせめて一緒に。
 服をすべて脱いだユリはトウマの頬を優しくなでながら、コンクリートの床に横たわった。細く、軽くなってしまった体を抱きしめたら、指の下で腐った肉が崩れる感触。トウマの残った左目はユリのほうを向くが濁ったままで、背筋が凍るようなうめき声も途切れ、潰れた肺が吐きだす泡交じりの音だけしか聞こえない。
 ユリはトウマの頭を優しくなでる。髪がブツブツと音を立てながら固まりになって抜け、指に絡みついた。
「もう疲れたよ、トウマ。休ませて」
 ユリは目を閉じ、ちぎれかけた鼻に、とっくになくなってしまった耳のあたりに触れ、顔と顔とを近づける。
「いつもみたいに、キスしてから少し眠ろう」
 半分に欠けたトウマの唇に、ユリは自分の唇を強く押し付ける。皮膚がはがれ、むきだしになった歯がユリの唇に刺さり、血が流れた。


【Memoir 7】 Deed

 トウマはとても緊張してたみたいで、肩に置かれた手が震えてるのがわかった。
 固くなってたのは私も同じで、上を向いてトウマの目を見つめたまま。戸惑ったようなトウマの顔を見て、そうか、目を閉じるんだ、ってやっと気づいたくらい。
 唇でトウマの熱を感じた瞬間、心臓が胸から飛びだしそうなほど大きく鳴ったのが自分でもわかって、驚いた私は思わず、爪先立ちに伸びあがってしまった。
「いたっ!」
 二人同時にそう叫んで飛びのくと、お互い唇から少し血が出てた。歯が当たって切ってしまったみたい。
 初めてのキスが台無し。なのに、私たち二人とも顔を見あわせて笑ってしまった。
「俺のこと食べようとしたの?」
 トウマの指が私の唇にそっと触れながら言う。
「トウマじゃないんだから、そんなに食いしん坊じゃないよ」
 私もトウマの唇に触れて笑った。
「ロマンチックにできてないみたいだね、俺たち」
「じゃあ、やり直し」
 今度は震えてもいなかったし、緊張もしていなかった。優しく私の背中に腕を回したトウマを見つめて、目を閉じる。
 この先何度もすることになるキスだったけれど、最初はそんな風に特別で、忘れられない味がした。


【Scene 7】 Feed

 トウマの潰れかけた目が、血の匂いを嗅いだ瞬間に黒く光った。もげ落ちた唇の奥から汚れた歯をのぞかせ、ユリの喉元に深く、深く噛みつく。
「そう、食べて。私を」
 それだけ言ったところでトウマの弱ったアゴがユリの気道を押し潰し、あとに残ったのは泡の立つような泣き声のみ。
 トウマはユリの首の肉をかじり取り、裂けた口からあふれないよう手で押さえた。これまでと違い、歓喜のうめきとともにむさぼりつくすのでなく、じっくりと噛みしめるように味わっている。
 やがて音を立てながら喉の奥に肉を飲みこむと、トウマはユリの裸の体に覆いかぶさった。口から血を滴らせながら、顔を舐め始める。見えない代わりに舌の先で覚えている味で、なにかを思い出そうとするように。ユリの顔が赤く染まり、血が目に流れこむが、なんの反応もなかった。
 腕に、胸に、脚に、腹に。トウマは舌を這わせ、もげ落ちかけた下アゴで小さく肉を食いちぎっては血と脂と体液とで満たされた口をゆっくりと動かし続けた。

 一昼夜がすぎたころ、虫食いだらけになったユリの体が再び動き出した。
 血の気が失せた皮膚は灰色に汚れ、白く濁りかけた目は焦点があわないままだったが、やがて、自分の右の乳房を食いちぎろうとしているトウマにゆっくりと顔を向ける。
 潰れた喉から鋭く高い笛のようなうなり声を立てながら、ユリはトウマの腕にかぶりついた。
 飢えと血の匂いとで興奮が加速していく。ユリに噛みちぎられた指が骨までしゃぶり尽くされる間、トウマはそれを意に介さずやわらかい脇腹の肉を引き裂こうと夢中だ。まだ柔らかく熱さえ持っていたユリの眼球がえぐり出されたとき、赤黒く固まった血の詰まったトウマの心臓が肋骨の間から引きずりだされる。それでも、二人の動きは、飢えは、お互いの体を貪り尽くそうとする肉欲は、止まることがなかった。


【Epilogue】 Disagreed

 数日後、ホームレスの行方不明事件を追っていた警察が、現場で目撃されたのと同型のミニバンが山裾の廃工場に止まっているのを突き止めた。
 工場の中では、ほとんど骨だけになった数人分のバラバラ死体が見つかった。なくなっている部位もあり、復元と身元の確認には時間がかかるという。
 また、元は倉庫だったらしい狭い部屋では、血で汚れた床の上でお互いを抱きしめ、唇を押しつけあう形で倒れた二体の腐乱死体が発見された。
 犯行に関与した男女が心中する形で命を絶ったとおぼしき状況だが、どちらも手足が四散し、体の一部や内臓が欠如していることから、警察は第三者の関与、あるいは飢えた野犬などが侵入した可能性があると考えて捜査を進めている。

卯月音由杞 2011年10月09日 (日) 11時43分(55)
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