新任の騎士ロドリゴ・ディアス・デ・ビバールの最初の任地は、カスティーリヤ城の地下墓所だった。 「王墓の寝ずの番は、騎士の最も栄誉ある務めである」 上官はそう力説していたが、結局はその気味悪さから誰も志願しようとしないのであり、人が良いところのあるロドリゴが無理矢理に押しつけられた形になった。 地下墓所の中は冷え冷えと暗く、の匂いに満ちていた。松明に照らされた壁は、白い漆喰がところどころ剥げて灰色の石がむき出しになり、まるで皮膚から骨が覗いているように見えるのだ。 地下への階段を降りるたびに、ロドリゴは自分が生者の世界から一歩一歩遠ざかっていくように思えた。夜通しの任務が終わって地上へ戻ったときは、爪の先までがカビ臭く、朝陽の光が自分の青白い体を素通りしてしまうように感じていた。
その夜は、満月がことさらに大きく輝く夜だった。 ロドリゴは地下に降り立ったとたん、漂ってくる異様な冷気に身震いした。静寂に満ちているはずの墓所で、何か得体の知れぬかちゃかちゃという音が、壁や天井に幾重にも反響しているのだ。 回れ右しようとする足を叱咤激励して、彼は最奥の王の墓所へと入っていった。 石の棺を椅子代わりにして、体が座っていた。 今度こそ、全力で回れ右しようとするが、足が言うことを聞かない。 「そこな騎士よ、わがもとへ」 「は、は、はい!」 有無を言わせぬ調子に促され、気がつけば、体の足元にひざまずいていた。 「余は、どうしてこのような場所におる」 「あ、あなたさまは、もしやサンチョ国王陛下であらせられますか」 なにしろ、体が座しているのが、二年ほど前に崩御したサンチョ二世の棺であった。 「いかにも、余はサンチョじゃ」 そんなこともわからぬのかと言いたげな口ぶりだ。 「しかし、恐れながら、陛下はすでに亡くなっておられます」 たっぷりの沈黙があった。 ロドリゴは、王が元どおりの物言わぬ骸に戻っているのではないかと半分期待して、顔を上げた。 サンチョの皮膚は、にかわのように硬く、青黒かった。豊かだった髪と髭は、糊で貼りつけられた縮絨布のようだった。 そして、落ちくぼんだ眼窩には、遠浅の海を思わせる青色の瞳はなく、ただひたすら暗い井戸の底を覗き込んでいるような果てしなさだけがあった。 「余がんだ、じゃと」 「は、はい」 「思い出せぬ。いったい何があった。因は何じゃ」 「お許しくださいませ。わたくしは位の低い騎士でございますれば、宮殿の事情にはひどく疎く、しかしながら漏れ聞いた噂によりますれば、陛下は毒蜘蛛に噛まれて、みまかられたと」 「毒蜘蛛とな」 かちゃかちゃと鎧が音を立てて、体が立ち上がった。その拍子に気の遠くなるような腐敗臭が、埃とともに舞い上がった。 彼は首を反らして、笑った。しかし肺が空気を吸えないために、壊れたふいごのような音になっただけだった。 「それは、さだめし二本足で歩く蜘蛛じゃろうな」 「……と、おっしゃいますと?」 「余の腹違いの弟アルフォンソと、その姉ウラカじゃ」 「え、そ、そんなまさか」 アルフォンソ六世は、兄サンチョのをたいそう悲しみ、国を挙げての盛大な葬儀を執り行った後、定めにしたがって王座を継いだ。つまり、カスティーリヤ王国の現国王である。 暗殺だという噂はないわけではなかったが、誰も声をあげることはできず、ましてロドリゴのような小心者には思い浮かべることさえ許されないような、恐ろしい考えだった。 「もし、それが真実ならば、余は、弟めらに正義の鉄槌をくださねばならぬ」 体はおごそかな声で述べた。「若き騎士よ。名はなんと申す」 「は、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバールでございます」 「では、ロドリゴ。わが使いとなり、弟のもとへ行って真偽をただしてまいれ」 「ひえっ」 ロドリゴは、腰を抜かしてひっくり返り、尺取虫のように足をばたばたさせて後ずさった。 「そ、そんなご無体な。国王にそのような嫌疑をかけたとあらば、わたくしはその場で打ち首にされてしまいます」 「しかたがない。それでは、余が直々に問いただすとしよう」 サンチョ王は、腰の鞘からすらりと剣をぬいた。「わが愛剣コラーダにかけて」 鞘の中から現れたのは、金メッキをしたぺらぺらの偽物だった。者に稀代の名剣を帯びさせる必要はない。 「お待ちくださいませ。アル・サイード(我が君)」 ロドリゴは、泣きながら懇願した。「二年間も狭い棺の中でお休みになっていたのです。まずは、このあたりを歩いてお体を慣らされてから」 「ふむ。それもそうじゃな」 サンチョはゆっくりと一歩ずつ踏み出した。そのたびに、みしみしと骨がきしむ音がする。 「ロドリゴ。余の供を命じる」 「お、仰せのままに」 者の意に逆らうなどという恐ろしいことは、とてもできなかった。
しばらくすると、地下の墓所で前国王の幽霊が歩き回っているという噂が立った。 その話を聞きつけたアルフォンソ王と姉のドンナ・ウラカは、半信半疑のまま墓所警備の若者を呼びよせた。 問いただされたロドリゴは、冷や汗を流しながら、消え入るような声で答えた。「はい。確かにいらっしゃいます」 「兄君の幽霊が?」 「はい、毎夜、わたくしといっしょに墓所内を散策しておられます」 「散策?」 「はい。足腰を鍛えて、やがての日には、陛下に直々ご挨拶なさりたいと」 「ひいい」 ドンナ・ウラカは、その場で気を失い、アルフォンソ王は顔面蒼白になった。 「もうよい、下がれ。このことは他言無用じゃ。王宮を警護する騎士の名にかけて、そのような物の怪を余に近づけるでないぞ」 「承知いたしました」 墓所の周りには聖水が巻かれ、聖職者たちの祈祷の声が昼夜を問わず流れるようになった。
主よ、永遠の安息をかれに与え、絶えざる光をかれの上に照らし給え。 主よ、かれの霊魂を受け取りて、御国へ導き給え。 かれの安らかに憩わんことを。
聖職者の列の間をロドリゴはすり抜け、毎夜の勤めのために降りていく。 王は、『先王を決して王宮に近づけぬ』という条件と引き換えに、彼の位を高く引き上げ、広大な領地を加増した。それまでロドリゴを馬鹿にしていた騎士仲間たちも、いまや畏怖の目で彼を見るようになっていた。 ロドリゴは、いつもたくさんの薔薇水を持っていき、ひどい匂いのする王の骸に大量にふりかけた。 地下の散策のたびに、ぽろりぽろりと剥がれ落ちていく皮膚や骨を元通りの位置にはめ込むのも、大切な仕事だった。 「ロドリゴよ」 「はい。アル・サイード」 「余の暗殺の背後には、トレド王国の影が見える。トレドのサラセン人が弟たちを焚きつけたのじゃ」 「トレドが?」 「余がここで弟の断罪を試みれば、政は乱れ、民を苦しめることになる。異教徒はここぞとばかりに、攻め入ってくるであろうな」 松明の明かりに浮かび上がるサンチョの横顔は、鼻先が腐敗のために削がれていたが、神々しいほどの威厳に満ちていた。 「わたくしごときに、そのような政治のことはわかりません」 「隙を見せてはならぬ。カスティーリヤを異教徒の脅威にさらしてはならぬのだ」 「大御心のとおりにございます」 「余はここを出て、隣国バレンシアに行く」 かつて射抜くような眼光を放っていたふたつの穴は、あたかも星のない夜のよう、地平のかなたのはるけき夢を見るかのごとくだった。「かの地を異教徒の手から取り戻し、周囲を固め、わが国を平和と安全に導くのじゃ」 ややためらった後、ロドリゴはこう答えた。 「どこまでも、お供いたします」
当時のイベリア半島は、南のモーロ人の寄せては返す波のような侵略にさらされていた。 『サンチョ王はしてなお神の加護によりて甦られ、炎のような情熱をもて、異教徒と戦われるのだ』 ロドリゴは王の旗と名剣コラーダを高く掲げて触れ回った。コラーダは、カスティーリヤの城の宝物倉から勝手に持ち出してきたものだ。 それを見て、名のある戦士たちが続々と彼らのもとに馳せ参じた。 その数、およそ六百。少数ながら精鋭であるサンチョの軍勢は、次々に大軍との戦いに勝利し、バレンシアの地を掌中に収めていった。 ロドリゴは、相変わらず王のそばにつき従い、腐っていく体に香水や酒をふりかけ、欠けていく骨を、せっせと繕っていた。 世話を受けているあいだ、気持ちよさそうに顎をかくかくと鳴らしながら、せる王は騎士にいろいろな昔話を語り聞かせた。 「余はかつて、たくさんのモーロの友を持っていた。彼らのもとで戦ったこともある」 「はい。モーロ人は敬愛と畏怖をこめて、陛下を『アル・サイード』の二つ名で呼びたてまつったと聞き及んでおります」 「異教徒の中にも、善良な者、賢き者、敬うべき者たちがたくさんおる。平和な時代には、ふたつの民は互いに入り混じって暮らしていた。それゆえ、わが国の文化は彼らの影響を色濃く受けておるのじゃ」 「それでは、戦うことに何の意味があるのですか。戦とは、広い地平をせばめ、おのれの腹を食い尽くす愚行に他ならないのではありませんか」 「ほう、そなた、戦は嫌か」 「嫌にございます。できれば安穏と人生を送りたかった。わたくしは、騎士には向いておりませぬ」 「それでも、天命あらば人は戦わねばならぬ。敵が異教徒であろうと、おのれの身の内のものであろうとな。余の生涯は、おのれの民のために、国のためにあった。カスティーリヤの先行きを案じたままでは、安らかにんではおれぬのじゃ」 「神はきっと、イベリアの平和のために陛下をお選びになり、ふたたびの命を与えられたのでしょう」 「うれしいことを言ってくれる。ロドリゴ。褒美をつかわそう」 サンチョは頭にかぶっていた冠をはずした。 「ここに嵌めてある宝石の、どれでも好きなものを取るがよい」 者のための冠は、薄ぺらの金メッキの板でできていた。そのメッキも剥がれ落ちて黒ずみ、もちろん宝石などはどこにもない。 「ありがたき幸せ」 ロドリゴは深く拝礼して、冠を受け取った。
バレンシアの奥深く進軍し、いよいよ一番大きな王城を取る段になって、サンチョ王の様子がおかしくなった。 「そこな騎士。そなた、名をなんと申すか」 ロドリゴの名前すら忘れることが多くなり、ときおり用もないのに、あてどもなく歩き続けて行方不明になる。その足跡には、骨がぽろりぽろりと落ちているので、なんとか見つけ出して連れ戻す。 「腐敗がついに脳にまで達したのじゃな」 とうとう骨が足りなくなり、鎧の中に針金やおがくずを詰めこまれた主は、途方に暮れたように座り込んだ。 「余はやがて、己が何者かもわからなくなり、ただの朽ち果てた骸に戻るのだろう。情けなきことよ」 「何をおっしゃいます。お気をしっかりお持ちください」 「そなたの言うとおりじゃ。今は、眼前の戦いをやめるわけには行かぬ」 だが、確乎たる指揮を欠いた自軍は、敵の反撃に押し返されて、あっという間に総崩れになった。 混乱のきわみに達したとき、ロドリゴは三人の敵兵に取り囲まれているのに気づいた。 「ああっ」 を覚悟して思わず目をつぶった瞬間、立ちはだかる影があった。 「陛下!」 おどろおどろしい咆哮と同時に、サンチョ王の体は、敵の槍に貫かれ、斬撃に切り裂かれていた。 夕闇が訪れるころ、戦場には、およそ半数にあたる味方の体がころがっていた。あとの半数は、散り散りに敗走していった。 ロドリゴはようやく、襤褸のように崩れ落ちたサンチョ王の体を見つけた。その付近を這いずり回って、切り離された右腕を持って駆け戻った。 しかし、元どおりにつなげようとしたとたん、腕はさらさらと塵になって崩れてしまった。 「ロドリゴよ」 サンチョは、彼に助け起こされると、月明かりの中で微笑んだように見えた。「無傷であったか」 「なぜ、わたくしなどをかばったのです。わたくしは僕で、あなたは王ではありませんか」 ロドリゴはすすり泣いた。「、あなたと同じ骸となり、いつまでも、おそばでお仕えするつもりでしたのに」 「いや、そなたは生きよ」 威厳に満ちた声で、王は答えた。「ときには生にまさることもあろう。だが、余はそなたに生きることを命ずる。命は天よりの贈り物であり、褒美であるゆえに」 「……わが君」 「これを遣わそう。余にはもう要らぬものじゃ」 残った片方の腕で、サンチョは名剣コラーダを手渡した。「これからは、そなたが我が二つ名を名乗るがよい。余は、この体が塵と消ゆるまで地を駆けめぐり、イベリアを異教徒たちの手から守ってみせよう」 気がつけば、戦場の兵の体が次々に起き上がって、王の回りに集まってきた。 そして彼の体を肩の上に高々と持ち上げた。たちまちにしてサンチョは、騎馬の王となった。 「進軍せよ」 亡者たちはしずしずと行進を始め、騎士はひとり草原に残された。命ある者はこれより先、付き従うことは許されないのだ。 羊皮紙色の満月の下、人の軍勢はひたひたと、黒くそびえる敵の城砦に歩いていく。 「アル・サイード、アル・サイード、アル・サイード!」 ロドリゴは戦場にひざまずき、胸を打ち叩きながら、天に向かって獣の遠吠えのような声で泣き続けた。
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