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生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)

このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。 生長の家に関連する話題なら、上記に話題に限定しないで、広く受け付けます。 またどの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え を支持、共鳴する人のためにサイトです。 生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など 明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。 ご理解下さい。

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生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

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現象を超えて生長の家にいる人、榎本一子さん (2747)
日時:2021年03月24日 (水) 17時06分
名前:長崎の晩霞(諍いの外)


遠くなる程近くなる
10月5日の私たち夫婦の55回目の結婚記念日は
15年前に夫は幽り世に移りましたので
私一人の心の中の記念日になりました。
結婚40年経った時に、夫は逝きました。
その時、4人の娘達はそれぞれの家庭が与えられ
託せる人に恵まれたことを、
私はどれだけ感謝したかわかりません。
結婚当初、夫婦2人の生活は、
忙しさに追われるわけでもなく、
夕食の準備を済ませると、
駅に着く時間を見計っては、
歩いて20分位の道のりも遠しとせず、
駅に迎えに行っていました。
家で待っていれば良いものを、、、と思うのですが、
一刻も早く逢いたい!
という想いが強く働いていたようです。
一年半後、長女が生まれました。
長女を、ベビーカーに乗せたり、
おんぶしたりして、
又駅に迎えに行っていました。
次女が生まれても、ベビーカーに次女を乗せて、
長女をベビーカーに掴まり乗せさせて、
迎えに行っていました。
三女が生まれた頃は、
歩いて15分都立大学前が最寄駅でしたが、
「お父さんお迎えに行く?」というと、
子供達も「行きたい、行きたい!」というので、
また赤ん坊の三女をベビーカーに乗せ、
次女を掴まり乗せして、
長女を歩かせて、駅へ行きました。
別に何があるわけではないのですが、
改札口から出て来る夫を待つことが幸せでした。
四女が生まれた頃は小田急線沿線の柿生駅近くに
住まっていましたが、4人と私で
今日は帰りが早いという時には
迎えに行っていました。
夫の嬉しそうな顔が見られるのが、
喜びだったのでしょうか。
子供達が小学校も高学年になると、
駅のお迎えも廃れて行きました。
62才で、私が本山に
お勤めさせていただくようになると、
出張に出たり、帰って来る夫を、
何時でも駅まで送り迎えできなくなったことは、
さびしいことでした。
そうなってからどちらからともなしに始まったのが、
置き手紙でした。
夫が出張で出かける時、私が出張に出かける時、
リビングのテーブルに書いたものを置くのが
習慣になっていました。散逸したものもありますが、
夫が書き置いてくれた
「遠くなる程近くなる」
を、年が経るほどに益々深く感じて、
若き日、改札から嬉しそうに私を見つけてくれた夫、
嬉しかった私、幼かった子供達のことを
あらためて懐かしく思い出す結婚記念日になりました。
榎本 一子
        宇治のface bookより


転載 (2748)
日時:2021年03月24日 (水) 17時09分
名前:長崎の晩霞(諍いの外)

榎本一子さんの実話、本当に素晴らしいですね。 (34673)
日時:2020年10月11日 (日) 09時43分
名前:志恩

榎本一子さんは、
亡き藤原敏之本部講師のご長女で、
亡き榎本恵吾本部講師の奥様でいらっしゃいますが、

現在は、
一子さんは
宇治の練成部の本部講師補として、
オンライン講話もされておられます。
お話も とても上手でいらっしゃいます。

83歳だそうですが、若々しくて、可愛い雰囲気の先生で
私は、前から、榎本一子さんのフアンの一人ですので、
オンラインで自宅にいながらご講話が拝聴できて、幸せに
思っています。

皆様も宇治別格本山の練成部で、検索されますと
ダイジェスト版でしたら

どなたでも無料で視聴できますから、
是非一度、視聴されますことを
お勧めします。

一子さんは、教団とか学ぶ会とかの組織を超越された
ホンモノの生長の家の
お話をされていらっしゃると思います。





「彼らの負っている重い荷物を分けてもらうんですよ」。「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人 重松@修(まさなお)物語」 (34682)
日時:2020年10月11日 (日) 14時11分
名前:諍いの外

重松は日本の朝鮮統治35年のうち、31年を当地で暮らしている。おまけに、有名な3・1独立運動で暴徒に拳銃で右足を撃たれて死にかけ、一生を不具の身となった体験を持っている。つまり朝鮮人の憎悪のこもった銃弾を受け止めた身で、貧しく報われない朝鮮農民の中に入っていき、その暮らしを豊かにし、感謝されて頌徳碑を建てられたのである。

いわば彼は朝鮮人の憎悪を大いなる愛へと昇華させた奇跡の人物なのである。朝鮮統治も昭和の時代になると「内鮮融和」から「内鮮一体」というスローガンが謳われるが、ある意味で、重松という人物はその象徴的存在だったのだろう。

彼は貧しい小作農民を医師にもしている。彼の持つ潜在力を引き出したのである。そういったことから彼は朝鮮中で名を知られていく。遂には戦時中には朝鮮人の戦争への協力を促すために朝鮮聯盟の実践部長になる。その経歴が戦後は問題とされて牢獄に入れられてしまう。しかし彼を逃がそうとする検事がいた。重松のおかげで早稲田大学に進めた人物である。彼は重松をひそかに日本に逃がすのである。」

http://www.yamamotomasaki.com/archives/1369より
________________________________________________________

「彼らの負っている重い荷物を分けてもらうんですよ」

この心で居れば諍いの外に居られる
信仰する故に諍うなどとはお笑いにもならない



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