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タイトル:新渡戸先生の祝辞 投稿者:冬将軍
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国際連盟事務次長となりたる新渡戸稲造、1922年東京女子大学の第一回卒業式に際してジュネーヴより寄せたる祝辞より;

『此の学校はご承知の通り我邦に於ける一つの新しい試みであります。従来我邦の教育は兎角形式に流れ易く、知識の詰込に力を注ぎ、人間とし、又一個の女性としての教育を軽んじ、個性の発達を重んぜず、婦人を社会而も狭苦しき社会の一小機関と見做す傾向があるのに対して、本校に於いては基督教の精神に基づいて個性を重んじ、世の所謂最小者(いとちいさきもの)をも神の子と見做して、知識より見識、学問よりも人格を尊び、人材よりは人物の養成を主としたのであります。』

出所
「逆境を越えてゆく者へ」(実業の日本社、2011年7月6日刊、1500円+税)
[51]2011年07月08日 (金) 16時08分
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タイトル:「稲むらの火」 投稿者:冬将軍
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 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。

 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

 村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。』

出所
尋常小学校の国語教科書 昭和12-22年

[47]2011年04月22日 (金) 14時14分
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  投稿者:常陸山
『 平成十一年には、皇后陛下が御誕生日の記者会見で「子供のころ教科書に、確か『稲むらの火』と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残ったことでしたが、津波であれ、洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で、具体的に教えられた一つの例として思い出されます」と御回答をされてゐたこともある。』

以上、下記のブログより引用させていただきました。

http://www.jinja.co.jp/news/news_005119.html
[48]2011年04月25日 (月) 16時54分
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  投稿者:冬将軍
旧仮名遣いバージョンにて候;


 「これはたヾ事ではない。」とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであつた。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭りの支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
 「大変だ。津波がやってくるに違ひない。」と、五兵衛は思つた。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。
 「よし。」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛び出して来た。そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救へるのだ。」と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上がつた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。
 かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまま、沖の方を眺めてゐた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。
 山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。莊屋さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
 高台から見下ろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言つた。
 「うつちやつておけ。大変だ。村中の人に来てもらふんだ。」
 村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人一人数えた。集まつて来た人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見くらべた。其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
 「見ろ。やつて来たぞ。」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。広くなつた。非常な速さで押寄せて来た。
  「津波だ。」と、誰かが叫んだ。 海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思うと、山がのしかかって来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。 雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、何物も見えなかつた。人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。 高台では、しばらく何の話し声もなかつた。 一同は波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たヾあきれて見下していた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。
 始めて我にかえつた村人は、此の火によつて救われたのだと気がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。』
[49]2011年04月26日 (火) 15時37分
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タイトル:与謝野晶子、関東大震災の折に詠める歌 投稿者:冬将軍
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下記ブログより引用仕り候。
http://hpcgi2.nifty.com/yosanoakiko/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=68;id=


 誰みても親はらからのここちすれ地震(なゐ)をさまりて朝に到れば
  (歌集『瑠璃光』収録)


 これは大正12年の関東大震災で被災した晶子が詠んだ歌で、
最近では中国での地震の時や中越地震の時にも人々を励ました歌として
知られています。
 「被災者の誰を見ても親のように兄弟姉妹のように思える」という心情は
被災していない私たちも、時代が異なって変わることの無い同じ想いがいたします。』
[46]2011年04月20日 (水) 13時28分
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  投稿者:冬将軍
某ブログより方丈記引用;



また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震(おほなゐ)ふること侍(り)き。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地((ろくじ))をひたせり。土裂(さ)けて水涌(わ)き出(い)で、巖(いはほ)割(わ)れて谷にまろび入(い)る。なぎさ漕(こ)ぐ船は波にたゞよひ、道行(ゆ)く馬はあしの立(た)ちどをまどはす。都(みやこ)のほとりには、在々所々((ざいざいしよしよ))、堂舍塔廟((だうしやたふめう))、一(ひと)つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛(さか)りなる煙の如し。地動(うご)き、家のやぶるゝ音(おと)、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽((たちまち))にひしげなんとす。走(はし)り出(い)づれば、地割(わ)れ裂(さ)く。羽(はね)なければ、空(そら)をも飛(と)ぶべからず。龍ならばや、雲にも乘(の)らむ。
[50]2011年05月17日 (火) 16時43分
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タイトル:高橋是清 「随想録」より 投稿者:冬将軍
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例へば茲に、一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円は之れを貯蓄する事とすれば、其の人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、是れを国の経済の上から見る時は、其の倹約に依て、是迄其の人が消費して居った二万円だけは、どこかに物資の需用が減る訳であって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。(中略)更に一層砕けて言ふならば、仮に或る人が待合へ行って、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を消費したとする。是れは風紀道徳の上から云へば、さうした使方をして貰ひ度くは無いけれども、仮に使ったとして、此の使はれた金はどういふ風に散らばって行くかといふのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部となり、又料理に使はれた魚類、野菜類、調味品等の代価及其等の運搬費並に商人の稼ぎ料として支払はれる。此の分は、即ちそれだけ、農業者、漁業者其の他の生産業者の懐を潤すものである。而して此等の代金を受取たる農業者や、漁業者、商人等は、それを以て各自の衣食住其の他の費用に充てる。それから芸者代として支払はれた金は、其の一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、其の他の代償として支出せられる。(中略)然るに、此の人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それが又諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。故に、個人経済から云へば、二千円の節約をする事は、其の人に取って、誠に結構であるが、国の経済から云へば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、寧ろ其の方が望ましい訳である。
[45]2011年04月13日 (水) 11時58分
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タイトル:福田恆存が文語觀 投稿者:ぼろんぢい
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『批評家の手帖』なる作品に二葉亭四迷の文體を論じたる箇所あり。以下はその引用なり。
[明治の中頃、わが國に言文一致體が生じたとき、文語體を抛棄することによつて、私たちの散文は多くのものを得たが、その代りに大切なものを、あるいは言葉の藝術にとつて最も大切なものを失つたのではないか。言ふまでもなく、私たちが失つたものは詩であり、詩との關聯である。私たちの散文は第一に律を失ひ、語勢や格調を失つた。第二に造型的抽象力を失つた。私たちは、和文脈の、あるいは漢文脈の、さらにまた兩者の融合によつて完成された文體の修辭學とあへて絶縁したのである。]
[言文一致とは言ふものの、それはあくまで文語體、文語脈であつて、ただわづかに文尾を所々くづして口語化したものにすぎない。しかもそれすら嫌つて「浮雲」では多くの體言や動詞の連用形でとどめてゐる。のみならず、「浮雲」では七五調の律がしばしば顔をのぞかせる。]
[二葉亭は言文一致體を發明する手段として、落語家圓朝の文體を借用した。が、そのために語る文體が生れたのではない。初めから語る文體をさがして圓朝に想ひ到つたのであらう。問題は、彼においては散文といふものが語る文體、聲を伴ふ文體としてしか考へられてゐなかつたといふことにある。]
[いはゆる文語の方がいはゆる口語よりも聲を有し、語るに適してゐたといふことにある。文語が日常會話の言葉と異るがゆゑに、肉聲をもたぬと考へるのは俗見にすぎない。が、この俗見が明治以來、私たちの國語を、したがつて文學を墮落させてきた。そして今日、私たちはこの傾向を助長するために、さらに努めてゐるやうに思はれる。]
[44]2011年04月05日 (火) 22時22分
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タイトル:神戸大学「新聞記事文庫」より引用 投稿者:冬将軍
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大阪毎日新聞 1935年6月26日付け

耐震耐火だけでは不安“耐浪性”を加えよ
公共建築物を津浪の防塞に きのう開いた震災予防評議会の決定
________________________________________
三辺文部次官を会長とし地震に関係ある科学界の権威者を網羅した震災予防評議会が二十五日午後四時から文部省で開かれた、出席者は貴族院議員田中館愛橘博士、同長岡半太郎博士、中央気象台長岡田武松博士、今村明恒博士、寺田寅彦博士、佐野利器博士ほか評議員十数名で、この日の議題は
一、拓務大臣ならびに台湾総督あて提出すべき台湾における震災予防施設に関する建譲案
二、大都市における津浪災害予防に関する注意書案
の二項で地震、津浪に関する頗る重要な研究がとげられたが第一案では今回の新竹、台中両州大震災にかんがみ、かねて同会が建議した台湾の地震の災禍と家屋耐震構造上の欠陥の改善方実施励行を再建議することを申合せた、第二案は矢張り同会がさきに三陸地方災害当時に編纂した津浪の災害予防に関する注意書の増補として東京大阪のような臨海大都市の広漠として高地のない街□に連なるところでは、津浪の侵入、阻止あるいはその勢いを減殺させる設備をしまたたとい侵入してもこれに耐え得る家屋を高いところに築造し人命を安全に保護する一方、この避難施設を空襲、大風、火災、地震などの変事にも役立たせたいということになり施設の具体案として
一、小学校を完全な耐浪建築とし非常時には生徒およびその通学区域内の居住者の避難所にあつること
(イ)構造は鉄筋コンクリート造り(ロ)三階建で屋上運動場を設けること(ハ)外側出入口、一階講堂には堅牢な外開きの扉を設けること(ニ)外部から直接二階以上に達する露出階段を設けること
二、小学校以外の学校、公共建築物、倉庫などもなるべく耐浪建築物とし非常避難所とする
三、鉄道線路(市街電車を除く)を高架式とすること
(イ)線路はかつてその場所で経験した津浪の水位以上にすること(ロ)非難道路の側面に適当の階段をつくること
四、四辺に避難道路を欠く場合には高架式の市街電車線、或は自動車道路をもってこれを補い得るように施設すること
五、地下鉄道あるいは地下道は出水に不利につき災害防止には十分な考慮をすること
などをあげ、さらに非常時に際して訓練のないため徒らに混乱して却って災禍を増すことがあるため平常訓練に関する組織を定めて置くことを附加えて協議決定事項とした、なお右は印刷物にして府県市など各方面に送達されることになり同七時散会したが当日の研究は最も機宜に適した貴重な研究で各方面に好評を博している(東京発)
[43]2011年03月18日 (金) 15時55分
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タイトル:『日本語こそ世界遺産に相応しい』 投稿者:常陸山
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ベストセラー竹田恒泰著「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(PHP新書)の106ページより。

『日本語は原始日本人の価値観を詰め込んだタイムカプセルのようなもの』

『日本語は、大自然との調和を重んじた縄文人の発想を世界に伝える道具として今機能している』

[41]2011年03月10日 (木) 14時50分
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タイトル:お江の手紙 投稿者:冬将軍
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前田とし子著『近世女人の書』(淡交社)を古書にて入手しました!

大河ドラマの主人公、お江の手紙の写真が掲載されています!

「今日は将軍(家光)が北の丸(忠長邸)へ御成りになるめでたい日ですが、
幸い天気も良くひとしお嬉しゅうございます。
大御所(秀忠)へもお手紙のよし申し伝えます。
また祝儀としてお魚をいただきました。めでたいことです。」
[39]2011年03月07日 (月) 14時58分
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  投稿者:冬将軍
原文:

けふは将くんの御かた きたの丸へ 御成の 御事にて かすかす めてたく うれしく 思ひまいらせ候 

ことに 天気もよく候て ひとしほ 御うれしく 思ひまいらせ候

大御所へも文のよし よく申入候へく候

御しうきとて 御さかな もくろくのことく めてたく祝入まいらせ候
[42]2011年03月10日 (木) 15時20分
Pass
タイトル:メールを文語で 投稿者:asahi
返信する
最近、ヤフー知恵袋には不愉快なニュースあれども、次の如き心温まる書込みもあり。ご令嬢のメール、文語にて書かばなお感動深からむ。

・・・・・・・・・・・(以下引用)
先日最後の受験を済ませた娘から届いたメール全文です。
情報交換と挨拶ぐらいしか使ったことがなかった娘からのメールに初めて
驚きと感動を覚えると共に、子供の成長に感激いたしました。

今終わりました(^-^)
受験生終了です。
もう悔いはなしです。

今までサポート
ありがとうございました〓
またこれからも
またよろしくです(>_<)

・・・・・・・・(次に現古訳の案)

只今試験終了致し候。これにて受験生の身分を終る次第、後悔これあり申さず。

これまでのご後援、謝し奉り候。今後もよろしくご指導のほど御願い申上げそろ。
[35]2011年03月04日 (金) 09時59分
Pass
  投稿者:asahi
斯かるものを現古訳するは品なき仕業と承知致し居れども「文語でメール」。

・・・・・・・・・・・
次の文を英訳してください⇒以下の文を英訳被下度、御願申上候。

長文でお手数おかけしますがよろしくお願いいたします⇒長文なれば御手数心苦しく存知候へどもよろしくご協力被下度候。
・・・・・・・・・・・・
文語で書くと、何か「背筋を伸ばして、良いことをやっているような感じ」が出てくるのが不思議。
[37]2011年03月04日 (金) 16時40分
Pass
  投稿者:asahi
入試不正メールは良くないが、現実のメール文ではある。品の無い序にもうひとつの現古訳。
・・・・・・・
数学の問題です⇒数学の問題に候。

塾で出された問題です。さっぱりわかりません⇒塾にて出で来たる問題に候へどもいっかなわかり申さず。

解答だけでなく途中計算もよろしくお願いいたします⇒回答のみでなく途中計算につきても御願い申上げ候
・・・・・・・・
他の案お出し下さらば勉強になり幸甚なり。
[38]2011年03月04日 (金) 17時00分
Pass
タイトル:文語の品格 投稿者:冬将軍
返信する
下記ブログより引用させていただきます。
http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/51364496.html


「風と共に去りぬ」は古い言葉遣いだからこそ品があるのであって、「風と共に去ってしまった」ではどこか響きが間抜けである。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は「ツァラトゥストラはこう言った」では題なのかどうかすらわからない(もっとも、岩波文庫版は「ツァラトゥストラはこう言った」である)。

文語体は大体語数が短くなることが多い。凝縮して意味を伝えられるからこそ、文語は素晴らしいのである。
[32]2011年02月25日 (金) 14時36分
Pass
  投稿者:常陸山
「風と共に去りぬ」の翻訳者


『大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 1987年1月12日)は、日本の翻訳家。
 日本における専門翻訳家の草分けである。

茨城県生まれ。本名・保雄。慶應義塾大学英文科中退。

大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、1937年にはヒトラーの『わが闘争』を訳したが、日本の悪口を書いてある部分は削除している。38年、『風と共に去りぬ』の完訳を、友人・竹内道之助の三笠書房から刊行、また41年頃には、竹内、宮西豊逸、小出節子らと霜月会を結成して同人雑誌に小説を書いていた。』

以上の情報は、下記サイトより貼り付けました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1332947493
[34]2011年03月02日 (水) 17時37分
Pass
  投稿者:冬将軍
トリノ・オリンピック金メダリスト荒川静香のイナバウアーにて一躍有名になりしプッチーニの歌劇「トゥーランドット」のカラフの詠唱のタイトルは、「誰も寝てはならぬ」。

いと格調高き表現にて御座候。
[40]2011年03月09日 (水) 11時24分
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