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[613] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜4 名前:コレクター 投稿日:2024年08月19日 (月) 05時46分

通り雨に不意を衝かれたというより、それらしき気配は何気に空を見上げるまでもなく、道なりに臨む街の雰囲気が照り返しを休めたからであって、格別そうした陰りに驚きを覚えたわけではなかった。
むしろ太陽と土と埃が日向特有の匂いを放つとき、驟雨の知らせは気忙しい胸中と異なって、ちょうど渇いた光景が待っていた湿地に赴くような安楽を少しだけ含み入れた。
晴天の透明度がもし確実であったなら、いささか見通しの悪い路地の加減はその段差を伝えるだろうが、濃い筆先で塗りつぶされた陰影はまだ陽光の牙で削られているのであり、用土に溶けこむような手堅い感覚が打ち返される。どうにも自然な、ありふれたわけでもなさそうだけれど、そちらは勝手にやってくれとでも捨て台詞を吐きだしそうな、適当でも意味深でも偶然でもない、日頃の意中に鑑みるまでもなかろう、いちいち文句ばかり垂れている境遇さえ、もはや風化、雨音は調べになり得なかった。
にしてはどこか不機嫌な顔つき保ったままの淑女を思わせたりし、先の十字路まで同じ雨脚で煙る様子に紛れこんだまではよかったのだが、遠近を忘れた恋慕と、鉛色に染まる網膜が教える自堕落な面映ゆい心持ちが、まるで塀の片隅で立ち小便をするときみたいな気まずさを垂れ流していたから、瞬時に消えゆく幻影は空模様と一緒の希薄さを抱えこんでしまっている。
その由縁に探りを入れた途端、やはり興ざめしてしまい、たぶん際どさがおもてだっていたのか、それともへし曲がった軟弱思考で引きずられたのか、どちらにせよ垂れ籠めた灰色の雲の言いなりになった雨脚の強弱には感銘できず、濡れそぼった髪や衣服が心地よいはずはなかったけれど、しかしながら何処へ急ごうという思惑を抱いていない身軽さにはちょうどよかったから、こうもり傘を買ってまで雨空に向き合おうなんて気分とははなはだ無縁であった。靴底が水びたしになった違和感がかつての幼童を取り戻してしたにもかかわらず。
そもそも所用を持たないから、こんな決まりのない双眸で景色を捉えているではなかろうか、違う用向きはすでに済ましている。ホルンベルグの指示だと上の者から伝えられ、機密書類を隣国まで出向き手渡して来た帰路、日程に余暇が生まれたのを幸いに、まだ見ぬこの繁華街へ立ち寄った。ふらりではない、他愛のないうわさ話しにつられ、実証という興味をうしろめたく掲げ、さらには悪夢に苛まれたく、忘却の日々の裂け目を縫い上げる邂逅に冷ややかな笑みを浮かべながら。 
もっともな事由はいつも殊勝でひかえめな、そのくせ祈りにも似た期待を隠しつつ平静を装う。いや、装いが平静を演じていると断じても過言ではない。
発露に席を譲る。実際の腰掛けはなく、宝石店の広い軒下に佇んでいるだけだったけれど、誰かへの贈り物を求めたいわけでもなかったエミールは、冷やかしにしろ店内で雨宿りをしようとは思わなく、この行き当りばったりの緊縛とまでは呼べない怠惰を見届けているのだった。どしゃぶりの外は困りものだという表情を生き生きさせて。
 
目の前を駆けてゆく精悍な顔つきの馭者が握りしめた手綱の緊張にしろ、雨粒を全身で受けては弾く従順な馬の鼻息にしろ、愁いと困惑で張りつけた仮面をとらない主人にしろ、陰鬱な光景が魅せるありきたりでいくらか面倒な感じに底知れない雰囲気が漂っている限り、雨水と泥の配分の悪いはね返りや、印刷を見苦しくにじませてしまった紙煙草の空箱や、水たまりを避けてひざまずく物貰い、小走りに得意顔で遠ざかってゆく小僧の鼻水などは、嫌な胸騒ぎと同様、勝手に振舞われる虚飾の絵物語りを見つめている自失であって、鈍色が投げかける夢想のすそにたな引く淑女の面影を明確にさせることはない。
晴れやかな心意気と一緒でそれは透徹した悪女を恋い慕っているときの、寝ても覚めてもいらだしさに包まれた肉感だけを天空へ浮かべているようなもの、貞淑なる様相は過分な罪責感をまとった攻撃的な構えに他ならず、幻影が置き忘れた淫欲に向ける冷ややかなまなざし以上の何者でもなく、封印という重しに美徳を得るための方便であり、卑屈さに小刻みな快感を覚えることだけ学習してきた能力を最大限に発揮しているだけに過ぎない。
かくべつ自分が昏い眼をしているとエミールは考えなかった。
現にさきほど雨に打たれながら花売り娘から買った赤い一輪を手にし、なにかしらすがすがしい気持ちが胸を占拠したばかりで、どれほど深くかは知るよしもなかったが、用向きを終えてしまうと、あとは滅多に訪れる機会のないこの港街をさまよい歩いてみようと案じたのだったけれど、決して闊達な歩幅で踏みしめるような天候ではなくなったので、一気に陰気臭くなりかけたりしたものの、立ち飲みの酒場で二杯ばかりあおって雨宿りのていであえて萎縮しているのだと、自分に言い聞かせるのだった。
振り返るまでもなく宝石店のガラスは水滴を寄せつけてなお、澄み渡ったきらびやかな貴金属が放つ光を歪ませることなかった。反対ににじむ色彩があたりに飛び交うような見栄えさえ打ち出し、いつしか店主と思われる品のいい口髭をたくわえた相貌がにこやかに微笑むのを知ると、妙な羞恥は雨脚に駆け寄ったのか、そして濡れた衣服は低俗のきわみを夢見たのか、返す踵は脳内の運動であって、実質のエミールはまだ見ぬ架空の淑女に贈り物を手渡す情景を描き始めた。
「ある男が銀行強盗を試みて失敗し、手配者となったあげく、女にかくまってもらっていたけど、ついには拳銃自殺したそうだ」
エミールは流言に耳を貸すほど自分は軽薄ではないとうぬぼれていたが、
「その女がこれまたえらい美人だとよ」
「で、どうしたんだ」
「どうもこうもない、一番大きな劇場の近くにある果物店で働いているそうだ」
「なるほど、つまり見物客が大勢ってことかい」
「まあ、そんなところさ」
エミールはその劇場を覚えていた。まだ子供の時分だが旅行で立ち寄った折、ヴェニスの商人が掛っているのを観劇したことがあった。
玩具のブリキの船が家の小さな池に浮かび、燦々と光線を浴びている思い出は遠く儚い。しかし絵本のなかにあるような特定の、もしくは得難い美しさの逃げ去ったあとを追いかける意欲の薄らいでしまいそうなもどかしさを演劇は記憶の底に埋めていた。
見切り発車が身上と意識しなくとも、ブリキの船は常に浮かび上がるエミールの情緒を乗せて回遊していた。言葉の接点が見出されなかったあの頃、香ばしいクッキーの匂いや色味さまざまなゼリーがあたえる感覚は、他の玩具、リスの置物だの、弓矢の模型だの、小型のカスタネットだの、錆びて古びた王冠だの、いかがわしい悪魔の像だの、金色の笛だの、そして裏窓にへばりついていた昆虫の数々と一列の連なりで味覚を越えて胸をときめかすのだった。


[612] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜3 名前:コレクター 投稿日:2024年07月31日 (水) 06時19分

河岸の向こうを遠く歩く人影が蜃気楼に思えてくる。
日頃ならばこちらでなく、今は対岸である見慣れた道筋の連なりに茫洋とした風景を、まばらな民家にそって青葉を揺らす木々や、その木洩れ陽へ霧がかるふうにして煙を吐き出す煙突の、頼りなく視界を止め置く存在が、川面に流れ散る落ち葉と掛け合って、定まりようのない柔らかな断層を隆起させると、春風が抱く映発する土地の色彩はなおのこと、淡色に霞んだ空気の淀み漂う匂いを消し去ってしまうのだった。
ケイトの提案をどう受け止めてよいのやら、気軽な返事にいくぶん戸惑いを見せていたジュディは、
「ていよく二人乗りなのはいいけど、無断で漕ぎ出したりしてかわまないのかしら」
そう困惑を底辺からそよがせると、
「誰に断りを入れればいいの、置き去りにされているのよ。またここへ戻しておけばそれで大丈夫よ。別に盗むのでもあるまいし」
説得力は持ち得てないが、歯切れのいい口吻に同意している自分をジュディは薄っすら認めていた。
昨日の取り決め通り、二人はいたって軽装の、編み上げ靴に乗馬ふうのズボン、木綿のテラード、手荷物といっても肩掛けの鞄だけで、中には水筒と紙で包んだライ麦パン、地図もコンパスも持たず、紙幣の束を二つ折りにしポケットへしまっていた。
ただケイトは髪を三つ編みにしていたので、きっと風にあおられるのを避けたいのだろうと思い、ジュディは鳥打帽を被って来たことに安心するのだった。
繋留された小舟を難なく自由にしてしまったケイトの手際に感心する間もなく、川の流れはごく自然の理であることを無造作に伝えたまま、さほど力まなくとも漕ぎ出す加減は軽く、岸から離れた流れの真ん中あたりを進む感覚はそれなりの開放感に満たされている。
晴天に恵まれた心持ちは打つ立つような調子までいかなかったが、暗雲が胸のうちに生じていたのなら視界を牛耳る按配は決して悪くない。相殺の意が空気抵抗を受けずとも成り立っているという、発露さえ覚束ずに、受け身であることの皮膚感覚やら体温やら、擦過する塵芥の、明滅する気分の変動やらも消えてなくなり、なだらかに横すべりしてゆく光景だけが、振り向き加減の偶然に未練がましく留め置かれる。それは当然ながら機微を含んだ燃立つような意想でも、忘却の彼方に置き忘れたもどかしさの原型でもなく、来たるべき将来の縮図に畳まれた理想のありかでもなかった。
無作法な呼吸に添って繰り返されるだけの網膜の連動でしかない。風景はおおむねそれくらいのとらえ方で成り立っている。とすれば、思考らしさにこと欠いた断片の散らばりは、どうしてこれほど不思議な落ち着きに結ばれているのだろうか。
ジュデイはもっともらしいまなざしでケイトの顔色をうかがってみたのだが、すぐに相手の表情に同列の気分を見出せないことに気づき、むしろ他愛もない会話がせっかくの雰囲気を乱してしまうときのよう、寡黙な横顔を架空の鉛筆で何気になぞっている方が、意図も趣旨も生じていない静謐な実感を得るのだと思えてくる。
さらには早瀬を知った船底から感じ得る律動には、波打つ勢いで揺れる両肩の背後へと流れる景色の、近寄りがたい感じが放ち続ける遠望の原理を説かれているふうなまとまりがあって、それはちょうど甘く淡い透き通った水菓子のように、食すまえに涼しげに眺めてしまう瞬きが氷解した、焦点に恍惚が溶け出した、味覚に先行するいささか大仰な想いに占拠させてしまうので、おのずと広大な青空の下に色づく点描はおぼろげな囲いを取りはずし、脈絡に導かれるのかどうかも分からない不分明な、しかし空洞にしろ、穴あきの下着にしろ、見つめきれないわだかまりにしろ、川のさざ波が流暢であるほどに、思念は時間の連鎖から解き放たれ、食した水菓子の食感を虚実に訴えるのだった。
「もう帰ろうか」
「なによ、それ、まだ正午にもなってないわ」
「でもね。遠すぎるのよ」
「ライ麦パンでも食べる」
「そういうことじゃないのね」
「じゃあ、どういうことかしら」
「ほら、あっちの空」
ケイトはいたずらっ子みたいな破顔のなかにいかにも厳粛な眉根を寄せたものだから、
「空がなによ」
そう言い返しながらも自分の問いかけはすでに理解されてしまい。
「雲ゆきが怪しいってことね。雨具は用意してないし、大雨にでもなったら転覆してしまうからでしょう。災難は可能な限り早く察知しなければ、あたふたするまえに引き返そう、それで無難な方向へ意識を傾けようってことなの」
ジュデイは憤怒の面持ちを隠しきれないまま声高になった。が、ケイトは悪びれた様子もなく、
「そのとおりだわ。で、ほらこの先の入り江、どう、あそこに上陸しない」
「はあ、上陸、わたしたち兵隊なの」
「上陸は上陸よ、そう言わないでケイト、あそこから港にへ入るとけっこう栄えてる街があるけど知ってる」
「行ったことないけど、地名くらいは、けどなんでよ」
「小さな花の都だわ。本場と似たような劇場や宝石店があるのよ」
ジュデイは眼をつり上げながら言った。
「ああそうか、そういう算段だったのね。はなからあの街へ行きたかった、そうでしょう」
「まあ、結果的にはそうなるけど、でも春の嵐に巻きこまれるよりは賢明だわ」
「誰も好きこのんで雨風に打たれたくないわよ、もう分かったからそれでいいから、先を急ぎましょう」
憮然として了解したジョデイだったけれど、櫂を握りしめた手は豊かな力でみなぎっており、にじむ汗が春の光りを透過させていると感じられるのだった。


[611] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜2 名前:コレクター 投稿日:2024年07月23日 (火) 06時55分

書類の整理はなだらかな坂を踏みしめる感覚と似て、軽い倦怠に終始していたけれど、筆記の誤りは見過ごされてはならなかったので、口もとはときに緩んだまま、だらしなく半開きの、ちょうど子供の放心のような、あるいは情熱の接吻を待ち受ける艶やかな無邪気さを保ったり、反対に保ちきれない尿意できつく結ばれたり、自在な困惑に流されていたのだったが、その目視に一切の散漫が許されないことは自明で、重苦しい疲れと呼んで差しつかえなく、習慣が裏打ちする怠慢はほとんど振り返られなかったから、おしらく気まずさの手前で顔を歪めてしまう緊張の薄着れに包まれてるのだろう、妙齢ふたりの表情は窓の外に映る天候の加減とほとんど関わり合っていない。
経理と事務を担った一室にみなぎる気配は、気ごころ知れた友人の間に平然と割りこんで呼吸にも遠ざかりを命じているかのようであった。
「ちょっといい、ケイト」
ややあって、ひと段落ついたという面持ちが相手にも差しているのを見届けたジョディは、
「この前のことだけど、あれからなにかあった」
と、ことさら声を低めて話しかけ、いかにも罰の悪そうに顎を引けば、
「わたしもけっこう気になっていたの。いえ、特に変わったことはないけど、あと始末っていうか、とにかく仕事が済んでから話すわ」
同じく森の茂みから街道をうかがっているふうなケイトも内心引っかかりがある様子で、このわずかの会話の余韻は窓硝子を響かせる壮重な鐘の音のごとく、村でも評判の器量を曇らせる陰鬱さに沈みこんでいた。
それはさして深みを持たない小池の底で青黒い光りが鈍く放たれている古銭の価値のように、つかみどころのない懸隔で支えられたもどかしさをはらんでいた。
すぐさま実務に立ち返ったにしろ、おさない時分より仲の良かったうら若きふたりを律する境遇は、どこかしら悪魔的な規範が植えつられているみたいで、はっきり諭されたわけではないが、ジョディの家柄は連綿と馬蹄職人を生み続けてきた由緒ある古式の、そしてケイトの父は石工組合に属しており、両者ともにホルンベルグからの信頼が厚いという縁故ゆえ、貿易商を標榜する組織へ身があずけられたが、一説には強要だの、身請けだの、あらぬ風説がささやかれたりした。しかしどの奉公でも均しく内密は守られるべきであって、ホルンベルグの商会が危険分子を秘匿している根拠もまた流言でしかなかったので、確かに潔癖な煉瓦造りが堅牢であればあるほどに、その厳格な雰囲気からは不浄で怪しげな感じは、ほころびと同等の裂け目を、ちょうど古色の壁面からにじみ出す岩清水を想起させては、ただちに汚濁を重ねあわすという按配だったから、威厳と蔑視はやはり他者の心理において発動させるべき粗雑さを組しているのだろう。
格別ふたりの令嬢に対して非常な箝口令は敷かれておらず、その明け透けなところが強いていえば、清濁を呑むような格調を起立させていた。
一般に通底するよう事務処理の的確が要求されるのは当然で、厳密さは実務のかなめなのだと首肯しており、なにも父親らとの関係を穿つまでもなく、さながら中世の暗黒の掟が長い歴史と歩んできた家風の、教える優美な振る舞いの影にうずくまる嘲笑の残酷へと思い馳せるときの、地ならしされた伝説の厚みがはかりきえれないに過ぎず、恐怖の記憶は曖昧にして浅薄な感覚を培っているのであった。
生まれてあることの疑念が日々をおびやかすほどに精神は鮮明ではない。ジュデイとケイトは単に仲が良いというだけでなく、振り返ることを強要しない馥郁たる安寧を共有していた。
いくぶんか心配性で、こと異性に関する話題には敏感だったジョディにしてみれば、ホルンベルグ商会に属しているという立場の比重はあくまで軽い。先日の復活祭の折、ケイトとちょっとした冒険を試みたのだったが、そのあまりに無謀な行ないを恥じているのであって、きわめて個人的な問いかけに過ぎなかった。
手繰るよう懸命に書類をあつかいながら、意識の大半は復活祭の前日、何気なくもらした言葉の、意味する次元にとても手が届かないことを覚えつつ、しかしながら吐き出した淡い願いの、どうしようもない切なさに満ちている気分の高揚まで思い返しながら、疾風の突き抜ける激烈な幻影で胸のなかは朱に染まり、収まりのつかないまま大胆な意想へと拡散されてしまうのだった。
「どう、花の都まで行ってみない」
虚ろな吐息にさりげなく反応したケイトは、いかにも悪友らしい茶目っ気たっぷりの声色を使い、
「いいわよ。でも遠いわね」
そう嘆息してみせたのだったが、華々しい思いつきには妙に感心した様子で、困りきった表情させ浮かべながら時間を静かに眺めていた。ややあって口にした提案もまた悪びれた調子に乗っており、ジョディを驚かせた。
なんでも向こう岸の河口に以前より繋留されたままの小舟がある。通りかかるたび目に止まるのだが、ついこのあいだも捨て置かれた情景として映ったことで、いや反面、朽ちかけてもおらず手入れの行き届いた一艘であるのが変に気にかかり、どこそこの貴族の若者と姫君が夜気にまぎれて忍んで来ただの、変幻自在の怪盗が逃亡に用いただの、果ては麗しの吟遊詩人を運んだ抜け殻だの、とりとめもない妄想に浸食させてしまい、どうこうするつもりなど毛頭ないにも係わらず、勝手に川を下ってゆく自由さは白紙が風にさらわれるような心持ちを抱かせ、舞い上がる白紙を押させるふうな勢いさえめぐらせると、さながら壁に画鋲で留め置く気概でことのなりゆきを緩やかに案じてみたりした。
「いい考えがあるわ」
目に輝きが宿るのと及びもつかなかった提案がなされたのは、ケイト自身も不思議そうな面持ちを作るしかなさそうなくらい、奇抜な予感を内に秘めていた証拠だったから、突拍子がないというより、ほのかな白日夢がいつもの河べりに張りついた風景を奇妙になぞっている。そして擦過してゆく唐突さには生じて間違いのない罪悪感をも希釈された風合いで示されているのだった。


[610] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ 〜1 名前:コレクター 投稿日:2024年07月03日 (水) 05時35分

「身に覚えのない背徳感が街道筋をひた走る駅馬車のごとくまかり通るなんて、よくもまあ言ったものさ。駆け抜ける趣旨はどうやら夏の木洩れ陽を背に受け、まだらが放たれた颯爽とした刻印で写し取られるのか、寝起きの心ばえは深い眠りを誘ったあまり、まだ見ぬ景色の放蕩に染め上げられた空へと昇りつめてゆくのか、勝手気ままな居眠りの優美な心地が昼寝ばかり推奨しているとしたらだよ、それじゃ、いかにも裏窓から覗きこんでいる真夜中に目玉のにじむ充血具合を知りつくし、あり得ようもない幻滅に得意がっては、ねじ曲がった風紀をたれ流したことになる。目玉の大きさかい、そうだな、あまりにでか過ぎて飛び出すのも困りものだが、ふとした痒みにそそのかされてだよ、億劫なくらいとでも言いたい手つきで掻きむしる程度がちょうどいいと思うね。大きさはあまり関係ないさ、そんなものだよ。で、痛くなってからじゃ、所詮残念な気持ちしか湧いてこないから、些細な仕草には違いないけど、誰だって変な癖を持っているように、たとえば公共の場で偶然に隣り合わせたすこぶる可愛い娘よりも、街角の向こうでちらりと見かけた健康そうで、なのにどこか陰気臭く野暮ったい、ひかえめな横顔を思い返しては、そのふくよかな柔肌にまとわりついた淡い幻影の中へ溶け出す空気みたいな希薄さが逆に意識を整わせることだってあり得るだろう。
言い直しは簡単、やっぱり掻きむしるのは感心できないし、掻くなとは言えないけど、適度とも最適とも好都合とも口にしづらい。しかし、長年にわたる秘密結社への帰属はだよ、飼い慣らされた従僕にあたえられ、受け継がれる宿命にある節度への横着を決めこむことなんだ。何分にも過大な覚悟でのぞむ小心さこそ、亀裂を恐れ身を縛る氷の冷たさに打たれつつも、寝そべった傲岸なまなざしを隙間へ投げかける。すると、そこには従順で上役の顔色だけをうかがっている、机上にへばりついた書類の重さに押しつぶされそうな影の薄さの、いわれなき卑屈な精神の曙光が見出されるはずさ。
しっかり見届ける必然なんてないね。すべてを眺めていればいるほどに隙間は閉ざされてしまうんだよ。はたして誰が閉所恐怖症なんだろう。これは問いではなく、ある種の事態でしかない。そう言われ続けたのさ。いい加減そんなふうに厳しく、しかしながらまるでこわれものに触れるような声色で教えこまれると、こんな奥まったところではつい無駄口のひとつもききたくなる。
おっと、気をつけてくれ、手もとは慎重に、無駄口を叩いていいのはここではおれのみさ。もっとも今はおまえだけだから話すけどな、おれにしたって新入りのおまえがまじめそうだから、なんとなく口が軽くなってしまう。そんなびっくりした顔で見ないでくれよ、おれは責任重大なんだ。それでなんだ、わざと軽率な素ぶりでないと、なんて言うか意識の収まり悪くて、すこし頭のネジをゆるめたくらいが世界も認めてくれるとか信じてしまうものだから、気楽な雰囲気は足取りによく働きかけてしまうし、うつろな気分はことさら晴れ間を待つほどでもなく、ていよく順番がめぐってくるようにさりげなく訪れて、今にも踊りだしそうなほど気前がよくて仕方ない。どうやら踏み足はけっこう調教されていると思う。迅速な場面やはやる意識に適確な動きをもって応じるのさ。そうだとも、わざとゆっくり、手持ち無沙汰に泣かされているくらいの姿勢も要求されるし、反対に無謀なまでの企てだと知りつつ、相手の陰険な目つきに怖気づき、今日の疲労は明日の鋭気を包み隠しているなんて知るよしもないね。だけど、手つきはそうでない。ほら、さっきおまえが雑に持ち運んでいたときの不注意、今後しっかり気をつけることだ。なにせ、おれたちは今夜、爆薬の成分に触れていて、まあ一応、技師の伝言によればさほど危険はなさそうなんだけど。とにかく、そういうわけだから気をつけてくれよ」

「なんだ、それならすぐにでも話してくれたらよかったじゃないか。この部屋には新入りでも、あんたと似たりよったりの仕事はしてきたつもりだよ。別にあんたの無駄口が聞きたいわけじゃないけど、危なっかしいのがおっかないのなら、正直にそう口にすればよかったんだよ。あんたひとりで重荷を背負ったふうな苦しまぎれの鼻歌まじりって、感傷を呼ぶほど引っかかりはしないけど、空まわりの気安さを少量の潤滑油で働かせているようでけっこう嘆かわしいし、意気盛んに振る舞ってみたところでどうだろう、踊りの名手なら実物を間近に見たことあるから別段どうこうない。特に問題ないのさ。自分だって最初にきちんと説明してくれてたなら、そうさ、あんたとうまくやろうって気になったよ」
「そうかい、ことさら隠したわけじゃない。えらそうに言うつもりもなかった。危険物は危険物、さほどにないにしても話しておくべきだった。でも勘違いしないでくれ、もったいぶった雰囲気でおまえを萎縮させ、日頃の憂さを晴らそうとしたわけじゃないんだ。とにかく悪かったよ、たしかにおれは気負い過ぎていたみたいだ。新入りのあんたは、じゃなかった名前は・・・」
「名乗ったところでどうこうないよ。かまわないよ新入りで、積荷を運び終えたらもうここへは戻らない。そういう取り決めだった。おれは火薬庫ばかりあちこちまわされてる使用人なんだ。自分の雑な仕事ぶりに苛立ってるくらい感じてたよ。あんたけっこう神経が細かいだろう、いや、無駄口だけど弁明に終始していたので、気の毒やらうんざりやら、自分がもう少し人格者だったら受け流していただろう、きっと。
黙って聞いてたのは自分にも落ち度があるせいさ。つまり火薬そのものじゃない成分を察したから適当にあしらったと言うより、この狭っ苦しい部屋にそれらしい匂いがなかったから驚いていたのさ。ほぼ専門職のたわごとに過ぎないけど、あんたがさっき言った横着だの、隙間が生まれたということかも知れない」
「じゃあ、おれの名前もいいな」
「いや、ここへ来るまえに係員から聴かされたよ」
「ちぇっ、そうかい。ならあんたでいい、名前なんか呼ぶんじゃない」
「なにをそうカリカリ怒っている。そうか、よほど先輩風を吹かせたかったようだな。けど、多分おれの方が専門家だよ。まあ、あとは気張らずに、おっと慎重にだったな、わかったよ、あんたの指示にしたがうさ、それで問題ないだろ」
無駄口はともかく、作業着の裏地に縫いこませた気難しさを仕事でさらけ出すのが苦手だったエミールは、細やかな人事につきものの齟齬に対し、過敏な神経を働かせてしまった後悔に苛まれていた。
たかだか下働きに過ぎない深更の秘匿の作業、だがきっとホルンベルグは細やかな報告書の提出を求める。それがどんなにつまらない事柄であっても、欠落は許されない。そういう意味ではエミールに課された責任は重大に違いなかった。


[609] 題名:夜明けの口笛吹き22(最終話) 名前:コレクター 投稿日:2024年06月25日 (火) 06時03分

手足の自由は夫人の醸す濃艶な重圧で封じられているかのようで、それに泳ぐ目線の奔放さもどうやら監視されたときの緊縛を感じていたから、いつもの交わりへの運びは断たれ、由緒ある官能の調べが奏でられることなく、ニーナのひとりよがりは流路を失って、見事な成人女性の体躯を受けたまま変調をきたすと、自分がいかに小人であるか、その証左は同じく抑揚のなさで瞬いているロベルト夫人が放つ、悲愁と猥雑に組み敷かれてしまい、卑屈な気分へ陥りつつも仄かな畏敬を抱かせるのだった。
互いに絡まり汗に浮かんだ熱気の果てはゆき詰まる愛撫を叫んでいるのだろうか、まったく願っているはずなどない拷問の場面がニーナを動揺させてしまい、人形師の秘密は肉体の苦しみで漏れることなく堅牢な意志に託されているのだという、城主らがもっとも慎重にあつかう構えが回廊を抜けるごとく駆けていった。全幅の思惑は満たされない欲望の数々で埋め尽くされており、裏読みしてしまう探りは怯懦に突き当たる。
夫人の妖しげな興奮には過敏な魂胆が張りついているみたいで仕方なく、かといって交わりが整える放恣な動きは影を仕切っている本体の弁明になり得ず、どこまでも直情に結びついた快感を演じて見せるのだが、なにせ際どい演技であるとともに、もはや明瞭さなど微塵もない領域に溺れていたので、さながら不快な思いに蓋をするような調子でいわれなき肉感と向き合っているのであった。
夫人はすっぽり根元まで咥えこんだニーナの男根へより蠢動する体感をあたえるべく、いかにも重そうな腰つきで小さな裸身に波打ち、隠微でありながら健全な体勢を保ったまま、どういう顔つきがふさわしいのか一瞬ためらってしまいそうな、たとえば身分の垣根を越えて触れあうときの、よそよそしさにとまどい程よく距離感をせばめてしまったときの、反対に親密な友情と敬意が支配している間柄の、一線をまたいだ震えに忠実であるときの、礼節をはらってしかるべき体面の崩れ去ろうとしている苦しまぎれの表情とは、一体なにを包摂した感性で歪むのだろうか、このにわか仕立ての背徳心を形成する苦笑いほど不届きな、許しがたい面持ちはなさそうで、もっともな方便として照れ臭さをもよおすのだろうけれど、軽率な行為がその身のこなしを容認してしまうように、唐突な肉体関係は実情に無関心を装ってやまない。そして変容に揺れ動いた証しとして大胆で淫靡な言葉が投げかけられる。
聞き飽きたかも知れず、うらはらに聞き足りないのかも知れず、快感を賛美するかのよがり声はただただ甘いだけの菓子に似て、罪深さとは疎遠の方向へたなびいてゆく。
幾度となくささやかれるため息に共鳴しなくてはと、ついつい本業に専念する態度を持たざる得ないニーナに対し、夫人はさきほどのぎこちなさを含んだ不釣り合いな接吻で応じたきた。年長者が子供に仕掛けるような、不意ではないけれど、いたいけな様子と淫らさの入り組んだ顔色でニーナの口をふさげば、すでにむき出しの下半身が織りなしている交わりにいっそう嫌らしい気持ちを押しかぶせ、いつになく男性の本然である劣情が湧き起こってしまったふうで、忘れ去られた色香の輝かしき光芒はよみがえり、切なくうしろめたい感じを駆逐しつつ、尚更もどかしさに浸ったままでありたい錯綜した思念を横づけする。
「ああっ」
時計の針に小指を掛けるような短くも粘りのある声がくり返される。
不純な動機であれ、淫売の専売特許であれ、耳もとをかすめゆく睦言にすら成りきらない嘆息は嫌味なく閨に沈んで美しい。
ニーナは生業とは別趣の肉感を授けられた負い目に身のやり場を失いかけたのだが、豊満な夫人に押さえられた体位でことを為している以上、無垢なる少年に降りかかった性愛の瞬間にめまいを覚え、どこまでも続けばいいと祈った快感に対する純粋な想いを胸にひろげるのだった。
「おそらくペイルだってこんなふうだったに違いない」
ニーナは男娼としての気概がなにやら無雑作に解体していく様子をひとごとみたいに眺めている。
見た目は少女で肉体は小人の男という異形にあたえられた、もっとも気高き肉欲の解放。人形師の教えを忠実に守り、異形であることの絶望から切り出された誉れと快感を同時進行しただけの劣弱意識。永遠に成長を遂げないであろう歪んだ自我を奮起させる冒険譚。徹底して奉仕することにより歓心を得て賞賛も浴びてきた刹那の居場所。
思いがけない恭順の姿勢は、急に開けた海岸線が描く豊かな湾曲の燦々としたまばゆい立ちくらみに示されそうだけれども、むしろ官能の間延びより強烈な、足もとをすくわれる陥穽の不意に張りめぐらされた暗幕にこそ見出されるのであって、これはいかにも取り零しやら失態を素直に認めているようだが、肉体の死は白日を好まず闇の腐敗を願うごとくに、意識の終焉もまた夜のしじまへと反響されるよう、屈する意識が抱く恩寵は露悪的な影をいつも踏みしめている。
「人形師が時折もらしていたことなら覚えてるわ」
「あら、それはどんなことなの、ニーナ些細なことでもいい、話して欲しいわ」
精を吐き出した肉体の気だるさからつぶやかれる言葉は、突然の本題を前にした明快さで想起される。
「夫人との口火が小規模でも鮮明に渦巻く限り陥落だわ。いけない」
そう念じたところで恭順の意はすでに優っており、おさなげな表情と一緒に引きつってしまうから、悔しくないと言えば嘘になるけれど、まわりの用意立てした囲いのなかへきちんと本腰を据えた。
ただ、これまでにない精通が股間に伝わり、夫人の陰りへ噴出した勢いに驚き、これはうれし涙なのだろうか、そう唱えながら割れ目のぬめりに複雑な嫌悪をよぎらせたのだが、むしろ親しみに近い怖さだと納得してしまうのだった。
弁疏はあらかじめ計算された夫人の心得にあったとしたなら、大鏡の真下へ佇むペイルの演じた忠義のはじまりがすでに駆け引きだったのであり、右往左往の韜晦は大火に臨んだ燻りに等しく字義通り、焚刑の予感におののく心性をもさらわれてしまっている。
延命の願望が激しいわけじゃなかったろうけど、火照りと虚脱に打ちひしがれたニーナの胸は、城内のあちこちで散見される壁面や天井を伝う細やかなひび割れをなぞり続けるしかなかった。
「素直なあなたと触れあえてよかったわ、ニーナ。疲れたでしょう」
ややあって夫人は実務に立ち返るべき面持ちを十分含ませながらそう言った。
見る見るうちに雲間を退けて蒼穹を澄み渡らせた女神の姿すら想起させる遠謀、自らの生業まで崩された失意を追いやるにはもっと憎しみが求められたけれど、不思議と湧き立つような感情に支配されることなく、その場の空気になじんでいるかに思えた。さらには憂慮すべき光景を呼び出しているにもかかわらず、皮肉にもロベルト夫人が口にした労わりは、以外な効果をニーナに及ぼした様子。陰謀と逸脱が手を交わす夢を逃した代わりとばかり、投げやりな声色で、けれども半ば微熱に冒されたときのような朦朧とした目色を使い、
「ええ、あれは確か星降る夜更け、馬車に揺られた無言のざわめきが軋轢の下へと回転する厳かで静かな格式の、よこしまな目配りさえ自尊心を傷つけかねない、用途から離れた使い古された道具に染みた、その垢のような上澄みの汚らわしさに、そこはかとない親しみを覚えたりして、大広間の柱時計の知らせた蠱惑の予兆といささか遅れた時間でいざなわれる歩幅の名残りに魔物を見届けたわたしは、いつしかあの鮮烈な悪夢を身に背負うであろう不安と向き合って来た。
疲れたわ、ロベルト夫人、そう、今ならきっと似たような口調で答えるに違いない。しかしながら注意をはらってたどり着いたこの地で、不気味な相をひた隠しにした、いわれもなき恐怖で迎えられたわたしは何も想い出したくなかった。どうやら不条理を騙ったありきたりの運命が予感を的中させるのね。
さあ、人形師ホルンベルグについて聞き及んでいることがらを語りましょう。伯爵はまだわたしを用済みにしない、そうですわね。で、色ごとはもう沢山なのかしら、失礼ながら威厳をもう一度、火あぶりには猶予があることでしょう。どうぞこちらへ」
小さな貴婦人は過ぎ去りし日の、ジャン・ジャックの舞踏をまねたつもりか、優雅な足取りで部屋の奥まで進みゆき、軽やかにして華美な物腰、尊大な仕草で手招きして見せるのだった。



[608] 題名:夜明けの口笛吹き21 名前:コレクター 投稿日:2024年06月11日 (火) 05時49分

世知辛い境遇を嘆く寡婦のような雰囲気すらまとったロベルト夫人は、いつの間にやら不順な天候へと移ろってしまったときに表立つだろう、抑えがたくもいい加減な目配りを促していたので、ついつい軽んじることの、もっと詰めて言えば、相手に同調する手筈自体が省かれたのであって、ニーナの笑みの底からは不穏な気泡にともなわれた圧迫が、静かに音を立てるのだった。
やるせない葛藤の、場合によっては不可分な心象風景がなぞられるごとく、先行する函数の並びは夫人の生み出した暗号の解読を容易くしてしまい、ニーナ自らが打ち出すべき指針も曖昧な位置へ溶け落ちてしまった。
透徹した方向があるとすれば、それはよく熟れた果実の芳香を含み、弾んでいる夫人の肉付きいい太ももが知らしめる悩ましい輪郭の、蛇性をはらんだ蠱惑のうねりであって、同時に抜けるような白い肌の教える気品が汚れ、遠のいてゆく点描にこそ、名状しがたい好色の染まりが認められた。その色づきはニーナの性愛を形作る淫らさに被さる王冠のごとく、異性と母性の神々しい勢いでもって降臨する情景を肉感へ塗りこんだ。
偽善と独断の結びつきの、由縁の由縁はそのつど異なる説明が求められてはならないのだと、傍若無人な顔を掲げて言い放ち、憮然とした空気で編まれた人垣に列する判定に倣い、刑罰のいばらに備わった刺々しさを身近な痛点に変える。こうしてうらやむべき人格への接点は、さながら甘酸っぱい体臭が匂わせ、ことさら嫌悪や反感を用いるまでもく、やや不快な気分をかき分けてなお、危険物の明証が見出されない限り、すべては強固であるべき、そう周囲に訴えかける叫び声を胸へ響かせてしまうから、自他の境界を軽やかにまたいだ感覚は総動員されるしかない。
肉感の激しさは摩擦のみで燃え上がるなどという、お粗末で尾籠な考えは常に棚上げされている。
消費されよう生ものが新鮮なうろ覚えに包まれていたなら、あなたは息を飲むくらい決定的な景色に溺れ、すぐさま関わることの戸惑いに揺れ、あるいはまた忘却の図式がひも解かれ、くすぶる火種の根強い温かさに胸打たれてしまって、冒頭で陳述すべき肝心なところをいかにもめくり飛ばしたといった風情で、心やすさの肌ざわりに感心してしまうだろう。
好奇と罪悪はいにしえより伝わる秘薬に依拠しつつ、典雅な時間に入り混じり、純然たる親愛の念を、解放された裸体の上に押しひろげてみれば、無防備で惰弱な感性はあたかも水たまりにちいさな波紋を映し出すよう、汚れのない気持ちで支える証しとして交接が営まれるであり、ニーナが無感情に寄せた肉感はほとんど軋轢なく全身へと伝わるのだった。
「あら、苦しげな眉間ね」
ロベルト夫人は本心から悦に入った様子でニーナを眺めているのか、まだ不透明ではあったものの、相手の快楽を無粋になぞったことで、鎖骨の辺りにわだかまったままの伝播すべき意味合いは円滑に流れ、そして交互でなぐさめ合っていた裸身の影へ踏み入る問いかけになった。
「不思議な感じがします」
いかにも照れ隠しじみた、ときとして年配者に媚びいる浅薄な、膏薬の効き目でもうかがうかのような、邪気をへし折った声でニーナは答えた。
「あなたに奉仕したいのよ。わかる、ねえ、どうなの」
土足で踏みにじられるより前に、不潔な手で破かれた気概の居場所があまりに呆気なく知られてしまったので、
「それはわたしの領分なのですけど・・・どうしたものかしら」
と、いつしか体位が入れ替わって大振りの下半身を眼前に仰いでいるぎこちなさを素直に話す。返答には間を置くつもりなのか、夫人は鮮やかな、けれども生まじめさを手のひらを残したままの、ニーナにとってはためらい勝ちな姿勢でおこなわれる愛撫へと持ちこんだ様子。
女体を波打つ未知なる躍動に腰つきは否が応でも従ってしまい、ねじ伏せたつもりだった異性と母性が織りなす逃れようのない重圧に身を委ねた。分岐点は薄明の山稜が意思表示してみせる、薄もやの彼方へと沈みゆく加減に等しく、身支度の整わない、節度のともなっているかさえおぼつかない、眠たげで神妙で、もしくは敗北の宣言が成されてしまったあとの気だるい後悔を想わせるさざ波へと推移していった。
しかし睡魔も痛恨もあふれることはない。伯爵はおろか、他者からみても決して月並みの交わりには映ろうはずのない行為において、この瞑想めいた気分を抱くのがまた不思議で、たとえば日頃から鞭打たれる過激さに声上げる男娼の身震いがいかにあざとい仕草であったか、斟酌なしの獣らしい欲に縛られた貴い人の目線に下り、瞳を潤ませるのがどれほど品位に欠けたことか、身の丈の同じほどのいくらか年長の少女から受ける寵愛になぜ見苦しく応じてしまったのか、同性の仮面に隠された児戯とも、変装の外連味で世界観を撃ち壊す尊大さとも、さらに穿つなら、似たような交接を演じなくてもよかった幸運が悲愴な面構えを浮き彫りにして、外交官が懐にしまうであろう反復の苦味をたしなんだに過ぎないのだろうか。
いずれにせよ、大男にだって身を預けたニーナは、夫人の持つ抑制ある弾力の、豊かに透けるような肌が無邪気さに笑い転げていた幼き日を思い出させてしまうからで、それはどこがどうといった記憶の片鱗ではなくて、謎解きに近い願望と先まわりに押された意志を少しばかり見出していたので、偽善と名乗る嫌味な感性は日没の景色によって大らかにかき消され、虚飾と斜に構える陽のあたり具合へ腰を降ろすのだった。
すると今まで懸隔で阻まれていたと思われるむず痒い快感が局所的に訪れて、ようは男根の先から根元まで締めつける女陰の襞が感じられて仕方なく、としたところで、実際はさかしまに重なり合った格好での滑らかな口もとによる愛撫だったので、本来こすれ合うのが果たしてどこであったのか、眉間を寄せたついでに双眸がきつく閉じられたせい、醒めきった心持ちながら以外やこの情況に、不変である通常の触れ合いがもっとも不安定な室内でおこなわれ、半ば行き当りばったりの調子が妙な歯車を生み出して、脳髄の変調に見合うよう好都合の体感が快楽を呼びつけているかも知れない。
口唇を駆使した技がいかに快感をもたらすのかを忘れたわけでなかったけど、なりわいとしていた身分がこの瞬間だけでも宙に浮き、その重力の呪縛から解き放たれたのであれば、にわかに信じ難い景色のなかへ滑りこんでしまったような奇しくも愉快な気持ちがするのだった。
「ああ、いいわ」
我慢しきれないと言わんばかりの、いや、声高にもらしてしまわなけば成り立たない純朴な振る舞いは、意に反して飾り気のなさを訴えているようで、
「そうですか。わたしもです」
そう、意地を張り合ったあげく仲直りする様相がたおやかに横たわる。
「ニーナ、もっとそうして、お願い」
懇願の相に慈悲は必要なかった。慈悲はすでに懇願であったから。
身分を越えた結ばれは濡れそぼった股間の潤滑を枯らさなかった。この歴然たる事実は快楽の質を高め、融和への幻想を後押しすると、燭台の灯影は左右へ蠢き、閉じた空間をいっそう凝縮するのだった。


[607] 題名:夜明けの口笛吹き20 名前:コレクター 投稿日:2024年06月04日 (火) 05時35分

開けっ放しの平行な広間へ浮ぶ面影ほど、切ない紋様に飾られた情念は見当たらなく、なぜなら粗忽で当惑気味な想いこそ、捻出された気概とは程遠い隔たりを感じさせるからで、釈然としないまま突風で煽られるような衝動に身をまかせてしまう凋落は、歴史の面積に対して真率な感覚で揺らいでいる。
悪鬼を追い払い、運気を高めたかのまぶしき幻想は、いつの時代も勝ち誇った厳粛な面差しを欲しているので、底辺に傾いた卑下はどうしてもその正当性を認めてしまうと、吹き鳴らす角笛の音は猛々しく自堕落の調べを謳いあげて止まなかった。
泥にまみれたガラスの破片が偶然の恩寵を授かったごとく、空疎な一歩は絶え間ない月日の後ろ立てとなり、陽光が集約されたかの陸離たる美意識を内面の襞へ忌まわしく這いめぐらせるしかない。
それは自他ともに廃人であると認めたふうな蔑視が、宙を這うより速く人格の疎外に勤しみ、いかにも見知らぬ者と向き合っている醒めた脈拍を約束させ、満ち潮と対峙したときの潤沢な、溢れ出す量感に支えられた、あの恍惚としてなお無関心を装ってしまう不完全な全能感に等しい。その虚脱は最良の知己なり恋人を前にしても、ときめきはおろか、愁い陰りが教えた引き潮に寄せる甘い感傷も失い、遙か彼方まで遠ざかってゆく好奇の水滴すら蒸発していて、ほぼ意識がかき消えている奇妙な倒錯の静かな訪れを夢のみぎわに知るのみだった。
同時に無謀な活力でもって、常日頃なら愛玩物のように抱えこみ離さない過剰な自己愛を裏窓へ追いやってしまい、あらためて本来の小心さに頷いているのが風刺画のように、よそよそしく意地らしくさらされると、ようやく踏ん切りがついたとばかり意を得たニーナは、
「ねえジャン・ジャック、これもあなたの計らいなのでしょう。きっと、そう、あなたはわたしに内緒で何ごとかを押しすすめているのよ」
すでにむき出しの下半身は交わっており、ロベルト夫人の視線が結ぶ鈍い曲線の短さを、ひかり少ない場所に見遣ってから耳にも入らないくらいの声でささやいた。
弾け出すはずの廃人が魂を操られたまま不気味に踊る。極限の憑依が下世話な疑心暗鬼を踏み台にして跳躍するように。
肉塊の揺らぎに構えることなくニーナは小刻みな腰を使って、次第にうねりだす夫人の快感の居場所を無意識に探り当てていた。遅く早く、ただ上下するだけではこと足りず、斜に回転するくらいの機敏をもって、あたかも早朝の体操で使われる身体の、ほとんど勝手な動きではなく、的確な訓練に促されているという、ありきたりにして尊き自動な結果を噛みしめ、また無きにしもあらず股間に伝わる快楽を捨て去るのではなく、うち響くのは淫らにして怪しき関係なのだと、薄ら寒さに忍ばせた渇きが緩やかに浸されてゆくのを覚えた。
けれども打ち勝つのはジャン・ジャックに投げかける猜疑に他ならなかった。
ことさら大仰なありさまを取り繕うのでも、見苦しさに悶えるだけの純情でもなく、娼婦としての気位が平静と興奮の狭間にあるのなら、この城の危殆な人々にしたところで、逸することの出来ない執着にしがみついているだけ、我が身がなにより恋しいのは霊長なる生き物たる由縁であって、悦楽をゆだねる装置はあの世に存在しないのだから、もっと手短で、どうしょうもない未熟さや蒙昧の限りにそそのかせる偏執などいちいち取り上げるまでもなかろう。
激しい交接のさなかにあって蚊に刺された箇所を猛烈に意識するのは逃げ口上でなく、虚ろな精神のとばりを開く鮮明な妄想と呼んで差し支えない。廃人は廃人、淫乱は淫乱、その先に出口などあるものか。
幽閉とおののいて仕方のなかった先細りの場面はこうして、優雅な室内楽と化してニーナの演劇に華やぎをあたえた。するとその壇上からこぼれだす台詞の数々は極めて個人の憂慮でありながらも、唐突にして急進的な遅鈍の舞台へと艶やかに横滑りしていくのだった。
「わたしを売ったのね。ジャン、そうよ、一緒にこの城から脱出しようなんて言ったけど、ええ、言ったけど、嘘だったのね。でも怒ってなんかいないわ。そもそもこんなにいとも簡単にあなたに出会えるほうが変だったし、よくよく考えなくたって、めぐりあわせなんて誰かが算段しない限りあり得ないのよ。わかっていて身を震わせた自分がとても子供じみて感じられる。
背丈も子供で身なりと顔つきだけは剣呑、そんな、わたしを好む者なんてはなからいなかったのよ。せいぜい本当に少女らしい年頃だった、あの美しくも呪わしい過去の栄光だけがなんの役にも立たない自負をこ招いている。うるわしの置き土産をこの手にしたのは、わたしの手を借りた人形師の遠謀であって、卑近な影しか踏むしか能のない小人の役目に淫猥が加わったのも、世界中が淫猥で機能している証拠だわ。生物的な意味合いだけじゃない、いやらしい場面に陶酔する人々の叡智を愛でるために用意されたただの人形に過ぎないわたしは使い捨ての玩具、機能がほどよく、まちがいなく機能するよう、明日のための栄達に彩られる高貴で薄汚れた人面をすげ替える。
人世の汚濁を、口にするのも照れ臭い仕草で演じつつ、その股ぐらに集中し、暗黒の叫びを喜悦の旗艦として好色の限りを曳航する淫行機械、ねじで巻かれた恥じらいを下半身に泳がせ、そよがせた秋波に気品なんてとってつけた風情を乗せて飛び立つ未完成の、しかし目的遂行には絶対の人力飛行機。
眺望ほどよく低空の操作を得意とし、夫人方の裾をめくり上げるだけの従順なる蜻蛉。近視眼より脳内に悪影響を、その反対の最善を尽くすための万華鏡。見届けるのは湿気でべたついた股間に巣食う隠れ猥褻の、輝かしき解放とその殲滅を願う歪んだ罪悪感。ついでにかき消してしまいたい赫耀とした出会い、その引き裂かれるような感情の亀裂を正確に物語る想い出。返す返すも鮮明さにこと欠きつつ、嫌味なくらい美しい刃こぼれのような青い火花を散らして浮かべる底深い記憶のうわ澄み液。そして焼き払われる水の神話。
めぐるめぐる演題のうわついた、そうね、うわついてしまったわ。あのとき、わたしはあなたを呪った。決して豪奢とはいえない、だけど古風な曲調があれほど似合う、芳しげなほこりの舞う古道具で囲まれた穏やかで打ち沈んだような音域を保った室内に佇み笑みを含んだあなたがどれくらい美しかったことか。少女のあどけさを残しながら冷徹な肉感を閉じこめただけのわたしなんて、所詮は成長できない未熟児だった。けどあなたはきちんと伸び盛りを伝えた青年の甘酸っぱさを仄かに漂わせ、作られた女性像など足元にも及ばない崇高な清らかさを見せつけていたのよ。
ジャン・ジャック、それからのわたしは魂まで人形に成り果ててしまったのだと、回想するけれど、それはとてもたやすいことね。ちゃんと帰る寝床の巣がある野鳥みたいにありていな型で推し嵌めた形容は溶け出すことのないまま、そうだわ、あなたに対する呪詛は愛欲へと移ろう代わりに腐れ落ちることのない凍結を望んだのよ。
あなたは憶えてるでしょう。いかにも垢じみたぼろ切れみたいな奴が港で襲ってきたのを。あなたに傷を負わせて満足したはずもないわ。そうでしょう、心苦しさに苛まれるのをほくそ笑んでるあなたの顔が憎かった。知っていたから余計に愛憎の波紋は消え失せたりしなかったのよ。
ジャン・ジャック、あなたは人形師がわたしに託したであろう秘密を嗅ぎとろうとしている」
焦点が定まらないのは独語の流路と同じ、ニーナの虚ろなまなざし奥深く、異様な黒点が虹彩を覆うのを見てとったのか、ロベルト夫人は過敏な自意識をより自然な向きへ放とうとしているようで、
「まあニーナ、そんなうわついた顔をして」
と自分自身、怪訝な表情をしめしたのだったが、瞬時にして我に戻ったニーナは、来たるべき明日に手を掛ける仕草で夫人の肩を抱き寄せ、
「駆け引きは先にこのひとからね。ジャン・ジャック待っていて」
不敵な声はここで初めて明るい、そして気怠い興奮をともなってほころんだ。


[606] 題名:夜明けの口笛吹き19 名前:コレクター 投稿日:2024年05月29日 (水) 03時07分

夜のしじまは厳粛な相好であることの謂われを、不必要に迷走しがちな、すべてのささやきにこと欠いた自堕落な者らへ伝えようとしている。
女陰への愛撫が誠実であればあるほど、散漫な意識はその場に居合すはずのない儚いめぐり合わせを空高く描き、それはまるで実際の筆づかいが宙に浮かんで、どこまでも彩色のひろがりにまたがる汚濁の一点を凝視するごとく、舌先の感触は木蔭が抱き続けた静かな睨みを映し取ろうとしていた。
森の奥深くまで吸いこまれてゆく生臭い吐息は性急な血気を保ったまま、あたかも夫人の悲願へ寄り添うようにして、そのなまめかしい姿態を闇の敷布に大きく包み描いてしまったのか、大胆ですらある媚態を押し殺した待ち遠しさが立ち上ってくるようで、困惑の陰りを眉間に乗せたかと思えば、たちまち薄笑いにそそのかされた悪意を若々しく眼光へたぎらせ、険阻な鼻梁が一変して無邪気に小鼻をふくらませると、激しい接吻を受けながら、あたかも母性の仕草のように、ニーナの一物をこすり続ける手は緩みを忘れたのだろうか、なお粘着な慈愛を尽くしてどこまでも止まないのだった。
普段より散策も乗馬も行なわず、城内のひんやりとした空気に触れているのを好んだ夫人の森の奥は、ただ単に数奇なひかり具合で情念を昂ぶらせただけでなく、やはり奥底にひそんだ冷気が集約され、照りつける光線の鮮明さに答えるよう、よこしまな歪みなど排した無垢なる反応へ先まわりしたふうな火照りに身を焦がそうと務めているかに見えた。だからこそ、晴れやかな髪型、麗しいまでの化粧に彩られていない裸身に少年そのものを見出したのだが、承知のごとくニーナは異形の小人であり、少年を気取った美しき魔性でしかなかった。
相反する好奇心が極端を渡ってから落下を選び取らざる得ない趣意に等しく、この場合、おそらくロベルト夫人は城主が幅を利かせてやまない放蕩に嫌悪をしめしたわけでなく、実際はもっと以前に芽生えていたであろう憎悪の由縁を探り見たのであって、偏奇な好みに従ったり、かといって波風を立てまいとして淫婦を演じた様子もなさそうだし、その明証はどれだけ異性愛のからまりとは云えども、児童の成りに収まったニーナと夫人のまぐわいはぎこちなさをともなっているからで、どれだけ場数を踏んだにしても男色が授ける圧力の加減とは異なっているはず、彩色の滲みがいみじくも雁行の序列に乱れをうながすごとく、天空へと舞い昇ることしか能のない不断の気組みは真皮の形成には到らない。
暗愚な組織への結びつきは所詮ひとりぼっちの哀しみを他愛ない詩に置きかえただけ、理性を見通し悪さへ追いやった夫人の欲情と、なりわいでしかないニーナの奮闘は決して溶け合うような快感を共有することはなく、むしろ窮地そのものである小さな貴婦人は快感から遠のいた位置においてしか、相手の陶酔を高めゆくすべがないのであり、受け身へ徹する大人げのなさでほくそ笑むロベルトの気まずさは一層なり振り構わない心持ちへ横すべりしていくのであった。
産卵をひかえた鮭が豊かな水底に身を沈めるように、懐妊の我が身は本能が教える使令を程よくなぞっており、それは同室にて眺め入っている伯爵の沈着の視線からもっともらしく逃れるための方便となった。
羞恥と威厳の溝はこうして埋められたので、煩悶と緊張の調べはニーナの背をどこまでも流れるのだったが、ひとつ救いとなったのはロベルト夫人と別の森でありながら、迷い入り、さまよい歩き、味覚と嗅覚をたよりに陰の奥へ忍べた容易さであって、むきだしの恥部が差し出されていることの安直な感じは、隷属の身分に終始しなければいけない悔しさを希釈させた。
それは例えのありきたりな、多分に気安さだけを呼び入れただけの、遊び半分かも知れない悪ふざけだと思いなされる記憶の、過分な横やりに染み渡る粘り気で留めおかれ、本来など知りようのない性技のあり方もまた、男根の硬い含みとまったくは異なる沼地への柔らかな感触しか得なかったから、痛恨の涙は失笑の鼻水と一緒くたになり、さらには自分の唾液か濡れそぼった箇所の湧き水か判別つかない可笑しみがあって、そうなると顔中からあふれ出す体液と夫人の股間には不純なのか純粋なのか、どうにも言い当ての出来ない侵蝕でまみれてしまい、その酸味や塩味はもちろん、微かに漂う腐葉土の重苦しさやら、時折ならあり得るだろう香水の軽薄な感じさえ放たれ、芳香につき従う微動だにしない格調と気品は揺らぐと、不意にこんがり焼かれた肉片からしたたり落ちる薄赤い匂いに囚われたりしたのだった。
この瞬間ニーナは埋没したのは自分の口先ばかりか、どうせ流されてしまう感情をも含んでいるような気がし、肉体にその都度、花瓶のように口をひろげ待ち受けている決して気まぐれだけではない、どこかしら実用性を持った受け皿にも思えてきて、幾分か刺々しさが抜き取られたような安堵を感じたところ、やはり女陰の知らしめる愛液の活用だと落ち着ついた。なにしろ大仰に映る女体のうねりは小さな貴婦人からしてみれば、多少なりとも妬みを宿した躍動を謳っているようで仕方なく、それはどう意気込んでみようとも豊満な乳房や大らかな腰つきを持ち得ない以上、歯がゆいまでの苦悩を生むはずだったが、自分にはない秘所から湧いているぬめった液体を吸い上げると、どうやら自然の理が働いているようも思えてきて、男女の境い、それに背丈の違いはあっても人間としての共感はさほど傾きを覚えないまま、慌ただしさに阻まれる隔たりや、付加価値の優先された意識の照りつけが過敏に働いてはおらず、つまりことさらに認め合うような偽善めいた約束事とは異なった、隣り合わせの影かたちが作り出す片鱗に貼りつく苔のような、花弁を開くことはないかも知れないけれど、植物の寡黙さはとりわけ言葉を欲しない馥郁たる事由に指先が少しだけ触れたような心持ちがして、ならば尚のこと、発火してしまった劣等感は拘泥を望んだりしない、そして空駆ける意想に鮮やかさばかり見出そうとする不遜に準じる必要もないだろう、地平から浮き立つ弁明はもちろん空疎の限りを尽くせばいいのだ。
首筋を掻いたとき、腰のあたりがむず痒さに反射するような実直な解釈に落ち着いたニーナは、その刹那、叫びなのか、悶えなのか、女身が肉感に突き動かされ発する声を耳にして、ふと思い立った。
「黙していよう」
そう、こころの中で唱え、ゆっくり首を上げ、はじめて夫人の潤んだ瞳を見つめながら、
「焼かれてしまうのは嫌だけど、このまま昇天しまえ」
と、密かに胸を鎮める。
やがて少年らしく誇示したものを股間の奥へと突き刺す映像を留意してから、ふたたびニーナは獰猛な動物みたいに全身くねらす夫人を高みまで連れ去るため、割れ目にそって丁寧な接吻を重ねゆき、淫猥な思考のこぼれ落ちる加減に図らずも、豊かさに満ち満ちたししおきの揺るぎなさと相まって、とめどもない流星群の瞬きを感じた瞬間、やや集中に欠ける、もとより構図の導いたであろう悪あがきを祭り上げたい一心が、背後から攻め入るに違いない、伯爵の廃人ぶりを脳裏へ弾き出すのだった。


[605] 題名:夜明けの口笛吹き18 名前:コレクター 投稿日:2024年05月22日 (水) 07時23分

眼光より贈られた好奇に満ちあふれる思惑ほど明瞭な歩み寄りはない。
品格を薫らせたにせよ、同軸を伝った羞恥はすぐさま消え失せてしまい、たとえば身をまとった毛皮の手触りが、その下の肌のぬくもりによって微かに香るひと懐こさが、また眼には映らない産毛の光線を浴びて揺らめくであろう確信が、そつなく移ろう色合いの加減をなぞり、お互い相違ないよう柔らかに確かめ合う卑俗へと結ばれる。
そこでの恥じらいはこらえきれない無邪気な楽しみに包まれ、かつてのニーナに向けた淫蕩な振る舞いを呼び戻すのか、内心にわだかまる急激な渦はあらゆる色彩をもて遊び、過ぎ去りし幻影がただちによみがえったとしか感じられなかった。以心伝心、もやもやとした情念のよりどころは明快にして堂々と完結している。
もうすべてを終えたとして、何の問題もなく、その方がいかに呪縛から解き放たれることだろうか。ロベルト夫人の堕落は今ここに始まったという倒錯に支えられており、ニーナはさながら小花を摘む手先のようにか弱い力添えをあたえたに過ぎなかった。
野性を我が身に宿した伯爵の獰猛な加減は見つめ合うふたりを萎縮させるどころか、密林に奥深く響き渡る獣の咆哮がまるで冒険譚の口火であるごとく、蒸し暑い夜に流れる異国趣味にふさわしい甘い果実の匂いを漂わせている。その麻薬的な雰囲気に酔ったとはいえ、ニーナはふたなりの下半身を有しておらず、あくまで少女を模した男性と認識されていたので、伯爵の偏愛する美少女趣味には応えられそうもない。
蒙昧な内でもそれくらいは判断出来たロベルト夫人は、伯爵の遺憾な想いを察しつつ、自らの優位を確信すると、先の謁見でニーナに申し渡した正当な男女の営みの専念が、しっかり叶えられているのを痛感している様子に見えた。
犬のシシリーに倣うまでもなく、床へ手足をついたままのニーナは当然ながら背後の気配に過敏になり、ことあらば先んじて懐中より油分を湛えた小瓶を密かに取り出そうと身構えていたけれど、どうやら尻には突入して来ない様子、つまり伯爵は性戯を止揚したのち、淫猥の限りを尽くすつもりなのか、兎にも角にも夫人との交接を優先している。
おそらく反重力が働けばもっと別次元の事態がここで引き起こされただろうけど、シシリーを機敏に演じたニーナは半獣の勢いでもって、そのまま夫人の足もとまで駆けていった。そして優雅な侮蔑と薄っぺらな親しみのまなざしで見下ろされたまま、陽だまりのように屈折した安堵の小円に寝そべり、相手が低身に構えるまで惰眠でもむさぼる鷹揚な態度を露わにするのだった。
夫人の眼光は陽だまりなど呑気な雰囲気を醸したとは認めておらず、半ば怒気に押されたような、羞恥を噛み殺した親密さで、ニーナのあたまを幾度も撫でつけてから、おもむろにまだ怒張を覚えていない少年のような男根をなぶり始めた。指先をまるめて先っちょを擦ったと思えば、てのひらでもみ込む具合で睾丸の体熱を確認し、あたかも軟体生物の膨張を願っているふうな不敵な愛撫を用いながら、卑猥な加減が未成熟の身体に芽生えていく様子をしみじみ鑑賞していた。
これらは交接に至る硬さを欲しているだけに限らず、片輪が作りだした美少年の異形のすべてを味わい尽くしたがための奥ゆかしく、ひかえめな、しかしながらかつての悦楽を呼び返す行為の反復に徹した極めて貪欲な前戯を施しているかに映った。いみじくも清掃がゆき届き、反照の気位をそばだてようと務める床へと這いつくばったお陰か、ちりあくたの細かさにいり混じる微生物の死骸が瞳の奥で捕らえられて、いや、ひょっとしたら小さ過ぎる生命の転がりが一点から連なり、どうした按配なのだろう、貪欲さが抱くに違いない大仰な翼のような重苦しい気配と反転し、多分それは微細であることの厳粛さで今現在ここに降りかかっている事態を鈍麻させようとしているのか、過分な感覚に分け入った地平の領分には途方もない異相が開けており、しかし瞬時にして寝落ちの切断面にすぎない感覚が目覚めると、この世の地獄を取り仕切っている脳内の空騒ぎに吹き流されるのだった。
股間を慰撫されようとも、快感は無縁の彼方に遊んでいるような心持ちがし、あからさまに手淫が意識される行為の影の下へうつぶせになれば、豪奢な天井からの燭台で照り返した床に落ちてしゃがんだ婦人の、深い草叢を想起させる半開きになった脚は雄弁そのもの、あたかも悦楽と倨傲が組み合い敷きつめられた厳命を伝えている。
視界より消え失せたかの微生物の蠢動は拡大鏡の縁まではみ出てしまったときの、焦点の定まらなさを訴えているようで、だとしたら失せたのは意識の連鎖に巣喰った恐怖や不安であって、地獄が天国を蒙昧に差し示したのでも、異界の落差を教えたのでもなく、ただ単に女体に住まう暗き生命をのぞき見ただけかも知れない。ニーナは身籠っていると静かに語った夫人の生々しい箇所へ歩み寄った。
贈りものは懐妊とともに膨れ上がった仄かな欲望だと察した限り、下着を剥いだ夫人の女陰に顔を近づけるのが天命だと、気配すら押し殺している伯爵のまぎれもなく歪んでいるだろう面差しをあえて思い浮かべつつ、もはやそこにはじれったい打擲や過剰な攻撃心など見出すことなく、身勝手なまぼろしを尻目に至極ありふれたいつもの振る舞いに終始するべきであって、胸裏をよぎるのは久しい異性愛へのおぼろげな体感だけだった。
あたまの中をからっぽにしてしまうのが功を奏したのか、伯爵は退室を余儀なくされた亡霊のごとく、沈黙のくさびを引きずったまま呼気を隠しているので、いよいよ夫人の裸身に触れかかるときには、静粛な動作が求められるほど、押し静まった情欲のほとりは熱気を帯びているのかどうか分からなくなり、とまどいは児童が朝礼で整列するような弱々しさと惰性に案内されていた。が、その児戯にも等しい従順で、適当な言いなりのもの腰は却って淫猥の純度を一気に高め、というのも豊満な白さに包まれた熟した果実こそがその味わいに色づけするのであって、表面の気取りやら羞恥は思い切り飛ばされており、どうやら息づかいにひそむ間合いの機微は無用でしかなく、獰猛な奪い合いまで発展しかけた醜い過去の残影は見事切り捨てられたということになる。
はらはら衣擦れの音すら立てない厳かな感じがニーナの疑心に遠く響いていた。なので近づけた顔はいきなり夫人のむき出しになった恥部に貼りつき、蜜がすでにぬめっているのを幸いに大きく接吻すると、しなやかな太ももが躍動しはじめ、ついには身をのけぞらせ煩悶を擬した長い吐息がもらされるのだった。


[604] 題名:夜明けの口笛吹き17 名前:コレクター 投稿日:2024年04月23日 (火) 05時29分

失意と欝屈が織りなす堅苦しい網目にすくわれる負の遺産は、いったい誰から授かったというのか、憂愁と沈滞の風は果たしてどこから舞いあがって来るのだろうか。
待ち続けた面影へそっと寄り添う仕草を忘れてしまい、ふてぶてしい態度ではないけれど、ありきたりの日々のなかに没する手堅さへ類してしまうその贈り物が、どれほどかけがない時間の瞬きであったのかを、知らず知らずの間に鈍磨する感受性は新たな照りを受け取ることが出来なかったから、目の当たりにする景色の誤差はやはり単なる誤差であり、輝かしき思い入れに至ることはない。
算段も値踏みも計れないまま、ひたすら丁寧にあふれる意欲に対しては、ただ細やかな務めを果たしたまでのこと、この衛生的な循環に必要なのは一差しの油より、手狭な机上を整頓する気分の高揚であって、高揚はなにかの動機に基づくというより、不断の空模様が見せる大らかな気配りに紛れもなく左右されていて、折り目正しい意欲や衝動でためらう怪訝な回避、行き当たりばったりの蒙昧もおおむね雲の流れを模している。
迫りつつある嵐の気配を知りながら雨具が用意されなかった悔恨、冬ざれに退色した荒野を体感しきれなった失態、炎天下を突き抜けようとした尊大な軽躁、あるいは枯れ色の染まる森林と向き合った畏敬、これらは過ぎゆく日々を絶え間なく豊かにする反動的な失態であり、先走る軌道を諌め諌められる不純な動機であり、正当な解釈なのだが、つまるところ埋没する冒険でしかなく、雄麗な墓碑銘に掛け合う魂がいつも揺蕩っている。
ニーナの予感もまた先送りの栄達の声枯れに導かれていた。日々への偏愛は潤沢な希望を生み出し、殺伐とした光景には湿気を帯びた音色が求められた。口笛の響きはいつまでも夜明けを待ち続けており、一言一句は流浪の民が抱くであろう祈りを捨象するのだった。
見つめ合ったジャンと自分のうしろ姿を脳裏に保ちながら部屋に戻ったのち、間髪を入れず小間使いから知らせを受けたニーナは無駄口、つまり動揺と興ざめの狭間に引っ掛ったときの足掻きでもってこう訊ねた。
「どうやら今すぐというわけですの」
無表情が誇らしげに湛えられている小間使いの女は丁重な体勢を崩さず、
「はい、身支度はあちらで整えてとの仰せでございます」
そう答えるや否や、
「一刻の猶予すら与えないのは逃げ出さないようにとの厳命ね」
すでに苦い抵抗が微塵と砕けているのを察し、
「ジャンとの久しい談話も筒抜けみたいね」
うなづく声は歯切れよかったけれど、あとの返答は望むすべもなく、
「恩情なんかじゃないわ。伯爵には律儀な狂乱しか残されてないのよ。最期の引き合わせなんて受けとる方が甘ったるいわ。あれもきっと有意義な余興なんでしょう。こうして時間が貼りつけられているのだから。しかし、まさか直ぐさま火あぶりでもなさそうね、それとも拷問かしら、ねえ、あなたならこういう場合どうする、なんて言っても仕方ないけど」
相手は無言でうつむき加減の目線をニーナの足元に送る。それがやや愁いを帯びているようにも見えたニーナは、さながら隣人との諍いで業を煮やしている了見のなさへ訪れる裏庭のつむじ風のように、その愁いを吹きとばしたくなり、
「ちょっといい、そこの窓を閉めておきたいの、自分の手で」
承諾など得る必要もなかろう、つかつかと窓際へ駆け寄り、部屋のなかに暗幕を張る勢いで、呪詛を込めた手つきでもって、大鏡に恩恵を授けていた陽光をさえぎり、それはつむじ風を封じるまじないでもあるのか、空からの使者を、無防備な兵士を、多情な妖婦を、ちいさなもののけを鎮めたようであった。そして出入り口の扉から細長く床を這う光線を踏みしめたニーナは、
「さあ、行きましょう」
と、自らの孤影がひとまたぎに擦過するのを凝視しながら、小間使いの佇みをいびつに形取った陰りの向こうへ歩みだした。
「願いは叶うものだわ」
独り言にしては明瞭な発声が暗闇に残され、伯爵のもとへ引き連れられたのだった。
置き去りにしたつむじ風に乱舞する光線が描き出す夢想には、長い回廊へ軽く刻まれた跫音の隠微な兆しが溶けこんでいて、それは紛うことなき淫猥のこぼれであり、娼婦のなりわいとともに胸裏へ巣喰う厚顔な嗤い、険呑のすべてを打ち消す奮起だったから、本然とした自己像を取り戻したのかも知れない。
人形師の駆け引きだと信じていた部分は良くも悪くも氷塊し、こけおどしと思えた伯爵からの注文がいよいよ現実感でもって昂まっていくのが清々しく、どうやら探りは終わったみたいでついに本領発揮、娼婦としての威厳と気品、そして何より狂おしい快楽に身を染めなくてはならない、たとえ供犠に用いられようともちいさな貴婦人の営みに手抜きは無粋、交わる男女の品性など灼熱の淫情で、生まじめな考え方は下半身に集中させたのち、空中分解する玉手箱のごとく色とりどりに散らばせては骨の髄まで悦楽の痺れをもたらしてあげる。
やがてどこかの国の先住民が得意としたブーメランのように、離れつつある淫猥の限りを立ち返らせ、むろん獲物は先んじて捕獲された顧客に他ならず、この世の性地獄をかいま見せることによって、なお一層の自堕落に甘んじていただくとしよう。
小間使いの背に従いつつ歩を進めたニーナは夢幻の彼方へ到達していた。

前と同じ室内へ赴いた刹那、夢幻の形態は時間による懲らしめを直感した。古風で雅やかな調度がしめやかに威圧するその雰囲気に相まって、より典雅な狂気であたりを睥睨している伯爵の双眸に萎縮せざるを得なかったからである。
そして開口一番、
「裸になりなさい、簡単な身支度だろう、そのまま犬のようにしゃがむんだ。もし手本が入り用ならシシリーを呼んで来ようか」
その薄笑いに乗った声色はあきらかに獰猛な情欲をみなぎらせており、すべからく攻撃的な態度で構えられていた。
「かしこまりました」
ニーナは衣服をすべて脱ぎ捨て、伯爵の間近で四つん這いになり、真っ白な小ぶりの尻を突き出して露わにしたところ、前方の奥から不敵な笑みを漂わせているロベルト夫人と奥ゆかしい気な意志を通わせるのであった。


[603] 題名:夜明けの口笛吹き16 名前:コレクター 投稿日:2024年04月19日 (金) 05時15分

かつての天敵だと憚らずに呼んだ美形を前にし、さきほどから念頭から離れないのは、意外であった船乗りへの転身だけにとどまることなく、さらには家業である骨董商を隠れ蓑にした、媚薬だの、魔除けや珍獣の肉だの、怪しげな密売を経て、やがて身持ちの悪い女人にとりなし、あるいは純潔な乙女を篭絡しながら無為の日々に埋没したあげく、果てはどうやら人形師に倣ったらしき、人買いのまねごとまで手を染めたという裏街道を渡り歩いて来た風格威厳の間合いであってしかべきところ、その実、成育すべきして型どられたジャンのすべてが、なにものにも代え難いニーナの本能から打ち出された理想であることへ帰着するに及んで、その僻見が培うあだ花の奇抜に束ねられた抱きさこそ、自らの生き様へしっかり重ね合わせてしまう幻像だと承知したのだったが、それはあくまで類推から切り取られた花びらの拾い集めであるはず、深い思慮とは別の間口にたたずむ寡黙な霊が伝える儚さへ歩みよっただけであり、過敏に近似系の特性を謳いあげたいわけではなかった。
もの忘れが仕切り直している穏やかな感情に添うよう、言い直しの効く侮蔑が緩やかな翳りへと導かれるよう、稟性の相違こそ趣向の意義を際立たせるのではないか、そうニーナは開き直っていた。しかし対するジャン・ジャックの面持ちには懺悔を願う殊勝な生まじめさが目立つばかりで、この相反の事情を飲みこむのがなにやら辛くも寂しくもあったから、いっそのこと、
「伯爵が求めていた乱行とか、あなたとの見世物をこの際だからどうでしょう。実行してみないこと」
などと軽口を叩きたくなった。
それがどれほど今の立場にあるジャンを苛むことか、瞭然としていたので口にはしなかったけれど、投げやりな態度に反応する相手の冷ややかさを我が身に照らしてみれば、余計にみじめさが増すだけで、体温も意欲も低下の一途をたどるのは判っていたし、諦観に近しければ近しいほどに軽躁が著しくなると戒めたのだった。
ニーナは地団駄を踏みかけてはいるが、際どいところで自分を抑えているようだと映ったのか、浮ついた思いはすぐにでも静まるから、なにも性急な非難を投げかける必要はない、そう含んだジャンの面持ちには戸惑いに揺れる心情と向き合わないような冷めた愁いが漂っている。
情感の懸隔に感づいた小さな貴婦人は、いかにも機転を効かせたふうな話頭に切り換えたのだが、その深意に流れる煩瑣で穿ち難い水路へとますます迷いこんでしまうのだった。

「放浪のすべてはあなたにとって必要不可欠な影響であり、悪徳の航海もまた人身の深みを知るための彷徨でしかなく、一夜の不思議が翌朝の不実をなじっているなんて考えたりしないのは当然、退屈な日々から逸脱した自覚はどうあれ後悔なんかあとまわしにして、去りゆく想い出の空気をそれぞれの街角に留め置きながら、気だるい足の重みを引きずりつつ、次の旅路に心地よい疲弊を覚えていたはずよ。
昨日の湖畔のしじまは美しく、そして土着的な風は水面から逃れようとしないまま、ある種の生活感を風化させようとしているのね。結びつかない光景が教える荒廃のくすみは晴れやかさを持ち得ないから、山間の隔絶にため息するしかなくて、だからこそジャン・ジャック、あなたは鉛色の街道へ新たな一歩を踏み出すのでしょうけど、明朗な気分と暗鬱な加減が強ければ強いほど、激しい焦りが働きだすのだわ。別に逃げ出したんじゃない、ただ先を急いだだけのこと」
ジャンの眼窩には鈍い光が宿っている。随分と以前からだがその謂われに囚われてはいない。
「さあ、どろうだろう、きみは少しも嫌味なんか口にしていないし、おれの放浪をあまり理解できなので、薄曇りの景色のなかに背を見せる姿をついつい想像してしまうようだね。よくよく思えば、きみだって決して自由を束縛されてなんかないよ。由緒ある名家や王族に乞われてはその気位にふさわしい旅装で各地をめぐったのだろう。ああ、違うよ、似たりよったりなんて言うつもりなんかあるものか。きみはうるわしの娼婦としての気品をそびえ立つ城の高みから放っていたに違いない。
年少のころ出会ってお互い感じ通ずるものはあったけど、今はこのとおり、おれは朽ちた生熟の影を背負ったまま一応、背丈は人並みだけど、ニーナおまえは無垢な魂を封じてしまい、その呪縛から体躯の発育を止めてしまった。無論おまえが望んだとは思ってないよ、しかし小さな貴婦人を演ずるにはこの上ない格好だったはずだ」
「ジャン・ジャック、わたしたちはかなり異なる生き方をしているし、過去のなりゆきに接点こそあれ、ほとんど同様の気概なんて持ち合わせていないわ。幽閉者の脅えは永続的な諦観に連らないし、むしろ解放の沙汰が大仰であるほど名残惜しさで胸を染めるものなの。かなり矛盾した言い方だけれど、不自由であって自由であるふうなどっちつかずの立場を噛みしめているとね。自分でもつかみどころのない面倒な気持ちのなかにひたってしまうのよ。今日の牢獄は明日の郷愁にすり替わろうと努め、ちょうど心底震えながら帰還を願った兵士の、その傷つかなかった身体を休めた土地に愛着が残されていくように、好い思い出なんかないにもかかわらず、ごくありきたりの風景が焼きつけられるさまを望郷と交差させてしまうのだわ。
さかしまの想念は色彩を塗り替え、形状を反転させるかも知れないけど、未熟な成長は肉体の盛りに厳しいから、延長線に揺曳する輪郭はとても無様でしかない、なので装飾は演じるためだけのものじゃなく、勝手に延びた排水溝の出口までを補佐するために、息苦しさを忘れるよう絶え間ない事実と思いなして、刻み続ける手作業なのよ。しかも案外すすんで自ら実行している」
瞬時ジャン・ジャックの顔は硬直したが、相手の外面に対して侮蔑を投げかけたことには留意せず、やはり取り急ぎ、自分本位でまくしたてた。
「あれこれ試行錯誤した結果なんて言うと聞こえは良くないが、おれには痙攣的に自分を縛りつけるような余裕はなかったよ。名残りを告げるのは夕陽だけなんて例えると紋切り型かも知れないけど、そのくらい安っぽい劇化がお似合いだったのさ。いや、そうあって欲しかったのかもな。端的でしかも絵画的な馥郁とした余韻が未練を洗い流してくれるじゃないか」
不敵な微笑を見せたニーナは、
「お粗末ではないけど、あなたらしくないわ、でもあなたらしさなんてどこにもなかったのなら、それは仕方ないのでしょうね。どうやらわたしは自己憐憫が過剰みたい、あなたとの邂逅を一途に願っていたのに、嫌味しか出てこないわ。困ったものね、ジャン・ジャック」
そう応えながら丁寧なお辞儀をした。
「長話しはとにかく、ニーナに伝えておかなくてはならないことがある」
「あら、早くそれを・・・」
と言いつつ、今度は深く親愛を示した。
「メデューサの像は調達されたよ。もちろん別物さ、にせ物と言ってもいいかもな。例の航海日誌が思わぬ場所で効果を発揮したらしく、ある業者がなんとか都合してくれた。フランツはその段取りに信憑を持たせるため、わざと遠征しているのさ。ああ、伯爵も承知の上だし、城内でもおおむね勘づいているよ。だからなおのこと儀式は執り行なわれるし、かなり際どい余興、つまり体面の繕いは間違いなく優先されるだろう。で、おれが心配してるのは人形師との関わりがなく、引導を渡されたのが本当だと知れたとき、ニーナよ、おまえが本当の供犠にされてしまうような気がしてないらないんだ。
おそらく伯爵は自分の命も投げ打つだろうから、なにが引き起こされるか考えただけで恐ろしいよ。おれはこれまでの骨折りに対する報酬を手にしたら、すぐにでも領地を離れるつもりだけど、儀式の手順は執事フランツも正確に把握してないみたいでね、そうなるといよいよおまえの身が心配になってくる」
「なんと、ええ、それではわたしを救うがためにここへ」
ジャン・ジャックは眼を細め、
「それだけじゃないけど、これもめぐり合わせさ」
と、申し訳なさそうに返事したので、
「わたしがあなたをこの城で想っていたのはそういう模様だったのね、必ずや届けられると信じた光線の、そして鏡の伝えだったのね、いえ、ジャンあなたの意識じゃない、わたしの脆弱な気持ちが過敏にそうさせただけ」
虚脱はここにきて本然に返った。
「うれしいわ、とてもうれしいわ。それに死ぬほど楽しいわ。ねえ、わたしに出来ることはないの、むざむざと生け贄なんかになってたまるものですか。反乱を起こしましょうよ。どうなのジャン」
「そうあわてるなよニーナ。メデューサの到着を待とう、フランツの意向も耳にしなくては。あとは伯爵がどう切り出してくるかだ。おそらくこれまでみたいに牽制したり機嫌を窺ったりはしないだろう。きわめて暴君にふさわしい態度を見せるから、こっちは裏をかくよう姿勢を正しておき、逃亡の道をつくっておくしかないのさ」


[602] 題名:夜明けの口笛吹き15 名前:コレクター 投稿日:2024年04月09日 (火) 04時19分

脇の壁へ視線をゆっくり送ると、その風景の打ち出した形状にはどこか雑多な意想が波打っているようで、まぶしさや見えづらさとは異なる位置関係の定まらない不明瞭な輪郭のみが揺れ動いており、その定点の危うさに遅れをとっているのだと、理解したときニーナは、
「待ちくたびれてしまったのだわ」
大義名分に十分そそのかされたであろう言い訳を胸に刻むのだった。
幽閉の身を案じては強い緊張を漲らせ、世捨ての想念に吹かれては甘い誘惑に溺れた結果、ニーナはすっかり年老いた無邪気さの影を踏みしめてしまい、破壊的な情動の瞬きさえも止め置いていた。走馬灯のめぐりを追えば生じるであろう、あの淡く抜けゆく郷愁に染まる加減を忘れて。
「ジャン・ジャック、どうしたのよ。あなたらしくないじゃない、なぜもっと早く堂々とわたしの前に現れなかったの」
そんなニーナの歯がゆさを補足するよう、執事フランツは悲しげに親しみを押し殺した厳粛な表情をつくり、
「気おくれしている場合ではなかろう。いいか、奴の態度はおまえ自身の気持ちだろうよ。なにをためらっている。時間の隔たりは妙な邪推しか育てない、ためらいの裏側には束れきれない光線があふれているからな」
と、子息にでも言い聞かすような口調で場面を取り持った。
「ええ、やはりまぶしいのでしょう、そうじゃなくてもそう思えてしまうのです。違う言い方なんか出来ないのです」
フランツの胸裏に答えるよういくらか明瞭な声色ではあったが、自覚に及ばない語尾の震えが相互の距離を縮める代わり、懐かしのジャン・ジャックは余計に遠目に映るばかり、けれども錯綜でもなければ背馳でもないという確信めいた気分の高まりは瞬時にして、まことしやかな航海日誌を綴った船乗りとしての異相でもってニーナの畏れを波打ち、蒼く果てを知らない海原に遠望される孤島の岩礁を洗い流してしまった。
さらにはそうした光景を背に新たな船出へと臨むジャンの毅然たる姿勢が立ちふさがって、幽閉者が抱くであろう屈折した自由な怨嗟をこの身に浴びせると、わずかの類推と広大な裾野へ溶けこんでいった記憶の残滓は今現在の彼に結ばれ、そして微かな希望があたかも予期せぬ事態を招いているのだという、地下水脈のような連なりを響かせ、ニーナは排水の勢いでしぶきを上げる高揚に渦巻かれるのだった。
「うれしいのか、うれしくないのか、よくわからない、ねえ、ジャン・ジャック、あなたはそんな眼でわたしを見ている」
独り言に歩みよる様態はふらふらとして覚束ない。しかし、魂を抜かれた無心の足取りは確実に神話の頁を飛ばし、白紙へ近づく侵略者の音を大理石の上に伝えた。
はにかみはときとして児戯でありつつ、微笑ましさを保ったまま殺意に似た暗晦を不意にあたえる。それは唐突なゆえ、まるで取り残された陥穽のごとく失意を埋め、同時に虚構の道行きを指し示すものだから、とまどいは脱力の区分を忘れ去り、ひどく遠まわしな好意がいばらの花束とともに手渡せられるよう、甘酸っぱい想いはひとまず退き、砂を噛むような渇いた苦味が歓びに先んじて、謂われのない根拠にしがみつく惰性は期待を保証してしまうのだった。
「どうか、そのまま動かないで」
ニーナの驚きがゆっくり氷解してゆく様を見届けるのが賢明と察したジャンは、歪んだ笑みを面につくりかけたまま、相手の感情に触れないぎこちなさで迎い入れるため、醜い形相を仮面とし、かつての美貌には決して頼ろうとしない素ぶりを見せた。
「ずいぶんね。ジャン・ジャック、執事の陰に隠れているなんて、どうしたものかしら」
ここでようやく晴れやか笑顔をふりまいたせいか、
「かくれんぼさ。昔どおりのね」
そういかにも軽く反応し、
「落ち着いて聞いてほしい、これでよかったんだよ。凝縮された時間をひもとくには大変だろう。だからこうした邂逅が望ましいとフランツに提案したのさ」
ちらっと横目で執事を見ながら、間延びした事態へと追われる情況が一転してしたのを幸いに、いかにも荒波をくぐったふうなおおような物腰で、こう言った。
「では遠慮なく昔なじみの縁を噛みしめますよ。別室へ行こうかニーナ」
仮面の造りに美貌は覆われていなかったけれど、天真な美しさは模造である仮面の支配下へ収まっている。ジャンは果たしてどれくらい城内の紛糾に関わっているのやら、先の説明でははっきりとつかみとれなかったけれど、自分の心境が彼と等しいとか、光線の加減を適当に美化し、透明度の彼方へと連れ去る斟酌が用いられていたから、あきらかに短絡的な関係の糸で操られている感を拭うことは不可能で、なぜならそこに苦言を呈することはすぐさま澄み切った空気を濁す汚点に他ならず、強大な児戯のなかへと囲まれる褒め言葉の響きは決して堕落を許さなかったから。
そして抜け出すことも叶わぬ以上、服従はある意味、陽のあたる場所にたたずむ安堵に等しく、これまでの経緯、つまりペイルや伯爵らからの仕掛けに甘んじた悔恨やら焦燥やら認めにくい意識を踏まてみれば尚のこと、幼き日々のはにかみには罪がなく、ただ美徳だの悪徳だの汚らわしい現実が覗かせる側面を頼みにするしかない始末、すると錯綜した現実感はより明確な兆しを提案するので、つい煩わしさに顔を背ける勢いが増し、記憶と予知の反転をも疑ぐらずに壮大な展望は足先を遥か離れて浮遊する。この猜疑心と同格の良識は非常に風通しが良かったから、多面体にきらめく想像をも含みいれた幻想は実権を握り、昵懇なる記憶は非地のそしりを受けることなく和平の気配に覆われているのだ。
こののちメデューサにまつわる進展がいかなる帰結へ運ばれようとも、フランツの焦慮に胸を焦がそうとも、あれこれの事象は決してまとまりなど得ることはないだろう。あるのはそれぞれの日まいを抜って描かれる曲線の張り詰めた様子や、風に入り交じる数えきれない香りであり、少なくともいかがわしき偶像のかがやきではない。
フランツは逆光線の理で結ばれた夜の支配を深く悟っているのだから、簡潔な実務を見届けるのが今のニーナにはふさわしい。またもや執事の背をやるせない眼で送ったと感じたが、その弱い優しさは時計の針先にひっかりはしなかった。そして振り子の音色はまどろみをよく告げていた。

なんてことはない、別室とはニーナが与えたれた部屋であった。無駄話の延長でたどり着いてみればなどと、ことさら註釈を入れる必要もなく、ジャンはすでに今回のめぐり合わせの確信に迫っていたし、動揺を鎮めようにも意外と冷静な面持ちで経年と向き合い、ひりつく想いで待ちわびたジャンの相貌さえどこかしら日常の延長を軋みなく滑っているような感慨から逸脱しなかった。
ただ務めていたのかも知れないけれど、微妙な悲哀は静まりかえった港町の夜更けのごとく、霊妙な空気を含んでなお悪意を冷笑していたので、ジャンの説話が教える簡明さに襟を正さなくてはならなかったのだが、
「どうあれ、きみは脅されすかされ、その口から秘密を吐く運命にさらされていたんだ。ここに来てからの待遇やら命令やらを振り返れば、はっきりしてるじゃないか。そうだよ、伯爵は人形師をもっとも恐れているに違いない。だからニーナをただの使者とも賓客とも扱えなく、秘密裏に暗躍する間諜だと信じきっていのだろう。おれと交われだの見世物だのすべて適当な牽制だよ。メデューサもそう、あの人心を惑わす置き土産の人形に対する威圧としか思えない。他の貴族や王家が人形師の擁する敵対国に滅ぼされたのはあまり公にはなってないけど、いや、その実情にはかなりの尾ひれがついていてね、そうさ、小悪魔的な色仕掛けで骨抜きにされたなどとは、気高さに連なる貴族の名誉にかけ口外されるはずがないのさ」
眉間にしわを深めた言葉の走りに、ことさら目新しい驚きは訪れなかった。
ニーナからすれば同格の誉れを自他ともに認め合う不甲斐なさが、いささか寂しいだけで、内政の混迷に麻痺してしまった不随意筋のしたたかさにほくそ笑むと、城内を跳梁している魔物の眼球に恐れおののくことなく、むしろ落ち着くべきはジャン・ジャックが否が応でも語るであろう冒険の軋みと、下半身の乱れに対してであるはず、そんな男娼としての気概がわき起こり、同格の由縁を物語る風合いを鮮やかに分離させ、めぐりあわせの余韻だけを空疎に浮かばせては、伯爵夫人の股ぐらへと食らいつく小さな貴婦人のすがたを映し出し、さながら秘蔵の肖像画が匂わせる淫猥を夢見るのだった。


[601] 題名:夜明けの口笛吹き14 名前:コレクター 投稿日:2023年12月12日 (火) 07時02分

心変わりなのだとペイルの胸を痛めたであろうスージーの場合と異なり、ハンナに寄せるまなざしには浮かびきれない景色の沈潜があらかじめ生じていて、その不確かさは吟味されることなく送り返された裏書きのように、異変を告げる間もないまま波に揺れ、水面の漂いだけが光線を放っているだから、まったくもって促された静けさには以心伝心の音響が立ち籠めており、森閑とした風雅だけを頼りにして息は泳いでいた。
次いで想起されるのは波間に遠ざかっていく心許なさを囲繞した広大さが、果たして海原のような規模なのか、霧を前方に張り巡らせた湖畔の暗き眺めなのか、あるいは近視眼で映し出される小池の照り返しなのか、どうにも他者を介した風景は屹立されず、独断によって味わうことの出来る歯痒さだけが視聴覚へと訴えている。
自分では結構な落ち着きを払っていたつもりだけれど、怒気によって押し流された破片の散らばりが波の力を借りずとも遠のいていく様子は、口内の渇きとともに訪れる静けさを脅かす動悸に他ならず、そうなるとハンナの取り澄ました感じが一層不気味に思えてきて、あれこれ思索をたぐり寄せる行間を持ち得たくもあり、ひいては間延びした時間のなかへ潤沢に注ぎこまれた貯水に溺れ、その身を横たえてみたいと念じた。
なにも早足が災いしているわけでもなかろう、今のニーナには不器用な覚悟がなにより似合っていたので、往生際の悪さは決してぶざまとは言えず、胸を打つ鼓動の強弱がかえって出鱈目な現実を描いているのだとさえ意識するのだった。
「ねえ、ハンナ。あなたはペイルの気持ちを知っていたの」
実際には口になしない問い掛けがニーナの動悸へ乗ると、
「知っていても同じことだわ」
そんな響きが直ぐさま返ってきた。同時にまだペイルの轍を踏みしめなくてはいられない脆弱な姿勢におののく。自身の鼓舞どころか、いい加減な方便で相手をなだめる振りをしながら、その反応に感心を示すという、自己憐憫が賛美へ転化されたまでのこと。
やはり大振りの尻は圧倒的な魅惑であり続けるに違いない。これがせめてものペイルに捧げる同感だった。

先の謁見と極めて似た時間の折り重なりがニーナの動悸に終曲の調べを溶けこませ、気まぐれな旋律の楽譜を几帳面に躍らせれば、その性質が開眼させた様相に行き当たり、それはこれまでにない、たとえ短い間でも確実によそよそしさが除かれた、つまり伯爵にとってはこれ以上ない天啓が得られたと了解するしかない喜悦で包まれていたのであり、その喜悦はあろうことかニーナにもはね返ってくるのが明らかだったから、瞬時にして遡った走馬灯の不穏なきらめきが、メデューサと並んで研究されたという東洋の風水、その死生観を神妙に伝えている淡く輝く走馬灯の、生まれてあることの厳粛な記憶の連なりが一気に壊れてしまったのであった。
権力者の渦中にあってどうしようもない惨めな虜囚の末期に準じるよりも、自分自身の生き様を追想しつつ、退色した風合いの移り変わりに生涯のすべてをめくるめく見遣っていくことがどれほど美しいだろうか。しかし伯爵のただならぬ様子はニーナに走馬灯と向き合うことを許してはおらず、まったく別の事態へ連れ去ろうとしている。
石像の積荷の遅れがただ事でないにもかかわらず、かような喜悦と自信に満ちた表情がいったいどこから生まれるというのだ。夫人はいかにも複雑な心境を押し殺しているかのようで、はっきりと落胆やら失意の相貌を垣間見せることなく、むしろ事態の唐突さに自らの立場をどう表明するのか腐心していて、病魔に冒された伯爵の異常な興奮を今は静観するしかなさそうであった。
丁重な挨拶もそこそこに伯爵はニーナを前にし、
メデューサのゆくえは簡単に判明しそうにもない。フランツは地の果てまで探ってゆくと言ってきたのだが、なんと以前の航海で怪異に見舞われた船長のジャン・ジャックはこの城へ赴き、ことの次第と今後の至上のあり方を論ずると知らされた。しかも今日すでにこの場へその麗しの姿を見せるから、そうニーナに対し明言したのである。
あの人形師がかつて古道具屋の看板少年だったジャンを男娼に仕立て上げたことは周知であったし、人形師の規律を破るような破格の待遇で、それはつまりある特定の期間だけを、それに王家や貴族のなかでも最上級の位置にある客人だけを周旋し、ほぼ社交界の花形である皇子と見まごうばかりの高尚な雰囲気を纏っていた。やがてはむろん正常なのだから骨格も髭面も立派な青年の美しさを育んでゆき、とても花柄のドレスで身を縛った可憐な見た目は望めなくなり、契約通りに男娼から足を洗い、方々を流転したのち、積荷船の持ち主へ収まった。相当際どい仕事もこなし、あちこちの港でその名が知れてきた頃には、かなりわけありの航海をすすんで選ぶようになっていて、あのメデューサだってさぞかそ背中をぞくぞくさせ、右舷の方角から神秘の匂いを嗅いでいたと思われる。
そののちの不可解な蒸発事件はほぼ手記にしたためられた通りなのだが、あまりに馬鹿馬鹿しいので、つまりメデュサーが夜な夜な船員を石にしてしまい海底に沈めたとやら。ジャンが釈明するには船員らの狂騒じみた博打打ちのせいで、みんな船から飛び降りたに過ぎない。だが、石像は無事に目的の港まで届けたし、航海日誌には腹立たしさまじりに怪異譚をしたためたという具合、それから船乗りが嫌になり、またもや放浪の旅へ、その時分だが同じく放浪をしていたフランツとも幾度となく、顔を合わせていて昵懇とまではいかないが、それなりの目配せやら仕事の世話をしたりと、ことさら敵対する間柄ではなかった。
今回の積荷の遅れは過失ではなく意図的な強奪によるものらしく、ジャンは出来うるだけの力添えをしてくれたので、フランツの伝言を持ってこの城に臨んだ。しかもニーナの名を聞き及んでいたから。馬車馬を飛ばしてやってきたのだと話したそうである。
「なあ、ニーナよ。おまえはジャンをどう思っているのだ」
「まえも執事にお話ししましたけれど、いわば天敵だったのです」
伯爵の笑いは心底充満しているようだった。
「儀式は延期だから、このままでは統制が執れない。そこでだ。もう夫人の相手なんか勤めなくてよいから、ぜひともジャンと交わってもらいたい。ああ、見物人が大勢いるなかでな」
「なんと、申されます」
「ほう、断るのか」
「いえ、仰せとあれば」
「そうだろう、おまえは娼婦なのだからな」
「で、近隣の王家にも声をかけて、近々儀式の前夜祭としたいのだ」
「ああ、ジャンはすでに了承している。ほら、あの壁の横からおまえの顔をちらちら見てるじゃないか、ここへ呼ぼう」
「昔なじみなのだろう。ゆっくり話しをすればいいさ」
「はい。わかりました」
ニーナの走馬灯は天高く逃げ去ってしまったようで、こらえようのない喜びに腹を押さえたまましゃがみこんでしまったのだった。


[600] 題名:夜明けの口笛吹き13 名前:コレクター 投稿日:2023年12月05日 (火) 03時33分

もう鋭利な牙の残像は消えたにもかかわらず、犬の匂いをまだ地べたは惜しむようにして漂わせていると
感じるのは、危機に瀕したこの身へ訪れる安堵のもたらす使命感に類しているのか、不意の驚懼と背中合わせになった救いへの渇望はいかなる機能を発揮したのか、窮地に追い詰められた息苦しさのうちにさえ、開き直りのような視力を開かせている生命の不思議を知るに及んで、ニーナはあらためて胸をなでおろすのであった。
この地で執り行われる儀式へと近づきつつあった動悸が高まるのは当然であり、未踏の出来事だから震撼のふところへこだまする蒼い熱気で翻弄されるだろうし、大鏡の霊力はなにも内面だけを周到に映し取っているわけでなく、外界への参画を知らしめ、そして前説のごとく予感めいた警戒心を授けたのち、禍殃に直面するであろう胸騒ぎを用意している。
なにより一匹の番犬にまつわる城内のあわただしさや、反対に暴君の手腕が色濃く反映されたことの次第を耳にしたことは、ちょうど急激な砂埃が舞い上がって視界をさえぎったあとの、静かに、風景が戻って来るときの穏やかで劇的な感動すらささやかに覚えさせ、踏み外してしまった足元へと立ち上る不甲斐なさも含め、妙な愛おしさに包まれてしまった。
神経を過敏にすり減らしてしまった埋め合わせは、実に他愛なく些細な実感のうちに躍動していて、それは等価交換のように厳密な力学の意味合いはもたず、むしろ忘れ去ったありがたみに似た比重を持ち、それらがいつの日にか遠巻きの記憶をたぐっては、混じり合う情感の襞をかすめてゆく無防備な交易と化して浮き沈みに重なるとき、茫洋とした連鎖はいくらか窮屈に思えてくるだろうという、独善的で柔らかな了解に落ち着きを見せる。たったひとつの思い出は人を縛りつけるよりも、解放区を目指しているのだから。

部屋に小間使いが運んできた昼食に口をつけた際、めぐって来るのはどこかしら理屈めいたそんな心象だったけれど、パンと芋のスープらしき簡素な食餌を提供され、ことさら蛇だの媚薬だの毒々しさに色づいたまやかしの正当に傾斜することなく、ペイルの体験談に寄り添った期待はすでに薄くなっていた。
薄く軽くなったおかげか、心構えは一層なにもかも美化してしまいそうで、同時にその考えを導いているのはどうやら急進的な、無駄口も惜しんである目的を成し遂げようとする勢いだったから、得体の知れない薬膳やら美味な食である必要もないのだと、聞こえ通りに居並び整列の乱れなどあらわにしない兵士に付与された禁欲的な姿勢が貫かれた。
それはこころならず導かれてしまう、あの重力の風の中へたたずむ孤影の気位を横滑りに投げこんだのか、独善的な恣意から逃れられない性分の正当化であり、この貫きが自覚的な演戯であったなら、それを指弾する動きも道化の域から出ておらず、王室と下賤、君主と従僕、令嬢と男娼など貴賎を問わず、その光と影はもちろん天空と大地がつちかっており、燭台の揺らめきにしても風雅な炎を、ステンドグラスのまばゆく神々しい色彩も、職人の細やかで真摯な情熱に支えられた痙攣を照らし出し、覆い隠す大義は利権にあらず、自然の理にある。
旅慣れて大勢の他者に触れ、裸形がもたらす奇異な感興を売りものに、少女でも少年でもない年齢が朽ちる爛れた淫欲がなりわいだったニーナも、今度だけは汚れた快感がまるで黒い泡立ちみたいに暗く表立ったので、再び脳裏に渦巻く理屈がなんらかの明解さに位置づけようとしているのを痛感してしまった。
艶羨と失意をその身支度に匂わせたロベルト夫人にせよ、狂乱が弾く圧制の波風に乗った伯爵にせよ、石像の遅れを人形師やジャン・ジャックに結びつけているところをうかがえば、おのずと自分に対する仕打ちは単なる酔狂や歪んだ嗜好に収まるはずもなく、半ば拷問に等しい情況が繰りひろげられそうで、早々と幽閉や焚刑の予感に怯えている身には陽気な顔つきすら浮かべられるのか、どうにも怪しかった。
夫人相手の異型でない交接を求められているけれど、あの棺桶へ片足以上に踏みこんでいる伯爵も背後から尻を攻めてくるに違いなく、しかも自身のものだけでは済まされず、なにかこん棒やら槍やらが用いられ暴虐の限りが尽くされそうで身震いがする。
あからじめ潤滑油をたっぷり塗りこめておこうかとか考えてみたところで、人形師への不信がニーナに直結している以上、生身の受け入れなどあり得ない、ぬめり滑って暗き箇所がくわえられるわけもなく、尻が血みどろになる光景を紅蓮の花のごとく想い描くと、無事にこの地を放れられないはず、やはり最後は焼き払われるのかと愕然とうなだれたのだったが、まぎれもなく身内から引導を渡された境遇に意を宿せば、それは借り住まいを蹴破るごとき憤怒だってわき起こるというもの。これが開き直りの視界なら儀式に騒乱を呼び起こし、メデューサにも石像をあることを呼び覚ますため、粉々に打ち砕いてやる。あの薪小屋へうず高く積み重なった木片にことごとく火をつけ、山々の古き住人らに歓喜の狼煙として合図を送り、我が身に邪性の徴しを纏わすよう促し、ちいさな貴婦人が悪鬼に変化する地獄を城内の隅々まで知らしめるのだ。あの番犬が飛びかかってこようとも両手に握りしめた鎌で八つ裂きにしてから、その細切れ肉を業火へ捧げてやる。焦げ臭い獣の匂いが食欲をそそるというのならわしは伝授などされない。
ニーナは先ほどペイルに諭すよう聞かせた鋼の重しの例えが、他でもない、自分自身を奮い立たすための詩であったことに気づいた。そして子供が頑是ない景色の先に極端な色合いを見出し、興奮と諧謔のゆかりを覚えてゆく狭路に出会い、その精神風景を日常の空気へと希釈して送っている健気な心性につまづいたのだった。
大鏡の光沢は自らの手で得るよりも、まったく敵愾する者の手のほうが望ましく、なぜなら染みついた異相はもはや異相にあらず、それは慣習と時間が濁す屈折でしかないから、透明度はある意味憎しみの彼方へとひろがった、あたかも旋回する不吉な鳥の羽で撫でられ、夜のしじまが決して破られない神話を生み出され、無音の空間は悠久の調べをたたえながら、柔らかな悪意と清らかな殺意は夢から流れ落ちるようにして鏡面を洗い、つまづきの由縁を明快にするからだ。
一気に憤怒の形相は解かれ、囚人が抱くであろう薄く強固な仮面の肌触りを確かめてから、直後に出迎えたハンナのとり澄ました顔を静かに見つめていた。


[599] 題名:夜明けの口笛吹き12 名前:コレクター 投稿日:2023年10月24日 (火) 05時36分

残された時間がどれほど貴重なのか、しかし時間そのものを抱きしめられるはずもなく、それは通りゆく風の舞いを眺めることは出来ても、心地よく感ずることがあっても、この身に留め置き誰にも渡さないなんて、どうあろうが不可能でしかなく、もし声を限りに叫んでみたところで、その響きは残像として切り取られた静止画の身にあまる郷愁の彼方に捧げられるばかりか、思いつめた熱情が刃こぼれしてしまう、あの無邪気で残酷な風景の底へと埋没してしまうだろう。
柔らかな感覚のすぐ後ろには鈍く光る硬質な壁が取り囲んでいる。あるいは取り囲まれた肌触りが感覚を目覚めさせるのだった。
「望んだに違ありません。ええ、こらえきれないのか、押し殺すべきなのか、どのような確信が働いていたとも考えられずに、ただ一心に望んだのです」
「きみはそうあるべきだと願ったのね」
ためらう指針がすでに軌跡を記している。この忠実なしもべの朴訥とした口ぶりに好感を寄せながらニーナは言った。
「どこまで見渡せたら満足するのかしら。ねえ、ペイル、主人の命令は鋼の重しであると同時にきみの思考をさらってゆく風なのよ。身軽に遊泳しながら空を感じるほどにね。だから、きみは儀式の一役を担っているのかも知れないし、まったく無意味な愚挙でしかない城主の企てに溶けこんでいるのかも知れない。どちらにせよ、歪んだ墓標を立て直す真摯な手つきが求められ、その優しい手のぬくもりは揺籃に触れるよう慎重であるとともに、何も思い返さない白痴が持つ空漠としたひろがりの中に延びていくのだわ。とても清潔な絨毯の上を歩む靴底みたいに、汚れを知るのが罪であると天上をまたぐうろこ雲からささやかれるの、そして以外なほどわだかまりのない意想が訪れる。
ふと生じたハンナの尻に関する欲望はきみの背後にあって、今、空高く映し出されているとね」
ペイルの瞳が透き通るのと、虚脱に見える肯定があらわになったのが一緒で、
「ニーナさん、あなたを騙しておきながら、どうして・・・自分を許して下さるのですか。望みを託してもかまわないのですか」
と、もう終わりかけている密談の緊張を全身に知らしめつつ、安堵の息を吐いた。
「儀式で再会しましょう。先に行って伯爵らに報告してくるのよ。わたしの目的とやらを聞きだすもなにも、いえ、こう伝えて、会って直接にお話ししますから、すべて明白にしましょう。ゆく手をさえぎる黒い影を振りはらいましょう、そう言ってくれればいいわ。未熟な異形の言葉なんか信じられないだろうけど
頼んだわ」
「あの、ニーナさん」
ペイルは放心しているのか、それとも妙に肝が座ってしまったのか、判別つかない様子で、
「聞きづらいのですけど、あなたが子供のままなんて違うと思うのです。本当はもっと大人じゃありませんか」
そういかにもまじめに問いかけてきたので、思わず吹き出しそうになったけれど、
「なにを言い出すやら、背が伸びなかったのよ。成長しなかったの、でも子供じゃないわ。あっ、どうでしょう、やっぱり子供なのよ、ひねくれた子供なのよ、わたしは」
ペイルは最初から鏡に映る悪童ではなく、近しい、どこにでもいる、けれどもどこにもいない影の友だちだと、心で念じてから真顔になった。
幾分引きしまったその表情で我に返ったのか、
「そんな・・・そうですか。すいません、変なこと口にしまして」
恐縮した素振りに曇りはなく、惜別の情は湖水の表面のように透き通っていた。
「さあ、お行き、ペイル、きみと話せてよかったわ」

薪小屋に立ちこめた木の年月から放たれるよう、ニーナは勢いよく続いて外気に触れたかったのだが、刹那によぎる戸惑いで立ち塞がれてしまい、それはこの狭く薄暗い空間に皮膚が貼りついてしまったのか、窮屈でありながら、その密度を成立させている鎧みたいな自己緊縛に保全を見出しているようで、いかにも相反する意識の明滅がここぞとばかり声明を上げ、足を引っ張るのも当然なら、どう案じても好都合ではなさそうな状況へ飛びこんでゆくのが不安で仕方なく、いっそこのまま、さっきペイルが言ったように子供が子供であることの正当を盾にし、ひたすら怖いものに怯え、すすり泣く幼さを前面に打ち出せば、無論これは同情を求めてやまない姿勢に堕ちるけれども、大人の分別さえ捨て去って頑是ない風貌に徹したなら、もはや人形師の思惑を背負った品性は洗い流され、綺麗さっぱりとまではいかないだろうが、年長者が幼児に向かって注ぐ目線の滑らかさくらいは正されて上の空、そんな甘い想念をよぎらすのもある意味ただがむしゃらに突き進んでゆく暴走の失策を諌めることに等しかったから、たとえ疾走だとしても少しばかりの準備体操で心身をほぐすごとく、ちいさな貴婦人の奥底へ巣食った寂寥、つまり無常観を反目で支えている、あの根拠なき全能感を稼働させたのだった。
だが、それも束の間、粘着質な躊躇に時間は割けない。分かりきっているこの命題は完全に解かれていないのだから、同情への点滅する横滑りは単なる軽い事故であり、惨事を回避するための予習でしかない。
早駆けで出ていったペイルの心中を察したとき、ニーナの意識は初霜のような冷たい美しさをまとえたのだった。
小屋の扉は紙で作られたみたいに薄く感じ、その開閉もまた頼りなかったが、破れ目を見せることなく侵入者の気配を追い出した。
世界は破れ裂けているのだろうか。庭園の小径から渡り廊下へ連なるあたりまで特にあわてるわけでも、悲劇の主人公の足取りに倣ったのでもなく、ましてや光におい満ちた楽園を散策するような浮いた境地にさまよったのでもなかった。想起するものといえば、ペイルがスージーと交わるまえに食したという蛇のスープがなにやら気にかかり、また別の意味で魔界の妙味へとつま先が忍んでいくのを感じ、際どい場面にあったとしてもどうやら生きてあることの興味は、出来うる限りの印象と警戒心を発しているのだと、つくづく感心するのだった。
そこに一匹の犬が現れた。ほとんど手の届きそうな、すぐにでも食いつかれそうなほど目の前をうろついたのでニーナは早くも恐れおののき、棒立ちのまま、かなり勇気をもって遠めにまなざしを送り、助けを呼ばなくてはと意識を集中した。とはいえ、その犬はまるで狼のように獰猛で狡猾で鋭い感覚と牙を兼ね備えているので、なんとか自力でなだめたり出来ないものかと思案してみたが、その絶対に獲物を取り逃がさない険しさを湛えた眼光に向き合うだけで膝がすくんでしまい、なすべきことはひたすら戦慄するしかなかった。
ややあって「おいでシシリー」
と、若い小間使いが涼しげな声で呼び、それに素早く反応してニーナのもとを遠のいたので、ほっとひと息ついたのだった。
心配そうにニーナの方をうかがっていた職人がいたので、なにごとかと大仰に訊ねてみたところ、城で代々にわたって飼われている猟犬だと教えてくれ、もとは十匹ほどいたけれど、ある日あのシシリーという奴が他の犬をことごとく噛み殺してしまったそうで、城内はもとより出入りの者らも、凶暴とまではいかないが温厚なたちでもなかったシシリーの突然の残忍さに震え上がったとか、しかし伯爵と夫人はことの次第と理由をとらえた上での判断なのか、異様な可愛がり方をし、見事に手なずけてしまったと、そして城内の人間すべての匂いを嗅がせ、いっさい牙を向かないようしつけたから、はじめて庭園に足を踏み入れたニーナにはどうしても敏感になったのだろう、危ないところだったと言われる始末、まったくここで噛み殺されら身も蓋もない、油断大敵、機微や些事にこだわって避けては通れない門の空洞を塗り固めるよう、異常な執念でほとんど不毛に没頭する日々の構築を気取った排水に溺れているさなか、あらためて人生の陥穽を痛感するのだった


[598] 題名:夜明けの口笛吹き11 名前:コレクター 投稿日:2023年10月17日 (火) 04時25分

醒めてなお熱い視線だと、どうにも定まりようのなく、いかがわしくもほどよい加減で現状が慰められた気がしたニーナは、夢追い人の背にすがりながら、引きずられていく孤影を描きだしたのか、
「ねえ、ペイル、どうしてだろう。どうしてきみは執事の前に踊り出てまで、そうだよ、進んでメデューサにまつわる秘事に関わりたくなったの。わたしの場合は別、ほぼ売られて来たようなものだから」
と、胸の内を簡素にまとめ上げ、相手の返答にも確実な明快さを求めてみれば、
「たぶん、そう、たぶんですけど、一介の下僕に甘んじてしまうのがとても怖くなってきたといいますか、これから先を思い浮かべてみても、淀んだ色合いしか見出せなく、それは今もこれからもずっと、そう思ったらいい知れないもどかしさだけしか残らなくてしまい、衝動でしょうか、反動でしょうか、つい自分でも信じられない振る舞いを演じてしまったのです」
ややうつむきになりながらペイルは答えた。
「案外そういうことってあるものだわ。機運の訪れを待っていたというのか、なにかに賭けてみたかったのよ、それを待ち望んでいたのね。あまり意識しなくても」
「そうなんです。ことさら意識していたわけじゃありません。毎日毎日そんなふうに焦っていたとは言えません。いつしかわだかまりの波が高くうねるよう、そのうねりに乗れる日が来るとも考えてなかったのです。でも・・・」
「でも、きみは自分から申し出た。それがどれほど怪しく危険な滑り出しかも心得ず、いや、危うさは承知の上だった。危うさをともなわない感興なんてあり得ないとどこかで学んでいたのだろう。そうしなければ欲するものを欲し得ないと」
「ええ、そうに違いないでしょう。すでに悪習に囚われていましたから」
「しかし、きみにとっての悪習は日陰者につきまとう、あの陰湿な念いに朽ちてゆく行為でなかったのですね。ある意味、飛び立つための羽ばたき、過剰なくらいの瞬き、因果を越え出るための閃き、燃え上がり燃え尽きる日を夢見る輝き、なにより哀しくなるほどの疼き、ねえ、ペイル、これらは情動だけど、きみはあえて意識しなかった。つまり鏡を見つめなかった」
「それは・・・」
「わたしは何も懺悔しろなんて言うつもりはないし、そんなこと馬鹿げている」
紅潮しかけた頬を保ったままペイルはうなづく。
「ニーナさんはあの大鏡をどう思われますか」
いくぶん気を許したのか、それとも言葉に行きづまったのか、自分への詰問から転じる空気を吸ったようで、
「自分はあんな大きな鏡を見たことはありません。ニーナさんも驚かれたのですね」
と、やはり相手の出方をうかがう様子だった。
「もちろんよ。背丈どころか、魂まですっぽり吸いこまれていきそうで、まともに向き合っていると気が変になるわ」
そうニーナは嘆いて見せた。
「誰だってあんな大鏡見たらギョッとします」
「で、やはりきみも手伝ったの」
「えっ」
「いや、ひとりでは無理でしょう。大勢であの部屋まで運んだのね。わたしのために」
「それは・・・」
「ああ、適当だったのよ、けど、そうなのね」
額に細かい汗を光らせたペイルは、闇にまぎれることを願ったのか、
「かなり以前です。ことさらニーナさんに用意したわけじゃありません」
簡明な返答だったが、打ち消す語尾に歯切れが目立てば、もはや正直者に言いわけは似つかわしくなく、冷や汗は不健康でしかない。
「あまりに不自然だった。あの威圧感、ほとんど拷問だわ。だから反対に慣れ親しもうと努めたのよ。そうでもしないと本当どうにかなってしまうもの。伯爵はなんて安直なんだろう、いろんな思惑からたやすく導かれたのは当然の帰結ね。内省、いえ猛省、そんなものをうながしたんじゃない、わたしを混乱させただけなのよ。それでもわたしは鏡面に近づいてゆく、実際そうだったから仕方ないけど、二日とはもたないわ。ようするに鏡のなかの自画像に嫌悪して、それは無理やり描かれた肖像みたいなものだったから、そうでしょうペイル、きみが老境まで通じるような心持ちであるとき、飛翔を念じたようにね。さきほどロベルト夫人はまるで詩でも読み上げるふうにしてわたしを籠絡しようとしたわ。
気晴らしに外光の下へと目線が泳ぐのは仕方ないこと、いえ、そうあるべきだと大鏡はわたしを脅迫していたと言ってもいいわ。そしてきみを見つけた。偶然そこにいたきみをね」
「そうだったのですか」
ニーナはほとんど投げやりなペイルの相槌に憤慨したのか、
「冗談じゃないわ、きみはあの場所に居つづけたじゃないの。わたしが気に止めるまでずっと」
少しばかり睨むようにして、
「時間がかかり過ぎたのかしら、そうでもないでしょう。でもきみにはご苦労だったわ、まるで振り向いてくれない想い人を待つような心構えでこらえていたのですもの。夫人に命じられたのね、唯一の外部者を装ってわたしに歩み寄り、わたしの目的を探り出す。人形師が仕組んだ新たな罠をどうにか嗅ぎとろうとしたのね。あまりにあからさまだったわ。なのでまんまと引っかかってしまったけど、これはどうなのかしら、こちらの方で引っ掛けたのか、その逆なのかよくわからないのよ。だとしたら、夫人の策略はかなり思慮深く、ここでわたしがきみを難詰したみたところで、すんなり視野が開けてくるとも思えないわ」
「申し訳ありません。おっしゃる通りなのです。使いの者から城主さまの重大なことづてだと・・・命令を受けた自分はニーナさんが今言ったように、確実に見晴らしの利くであろう場所へ佇んでいたのです」
「見返りは」
「はっ」
「報酬よ」
「それは・・・」
「第二のスージーかしら」
すでに女体を用いた淫靡なことの次第に聞き及んでいたニーナは、浮かべたくもない薄笑いを捧げつつ、
「言いたくないならそれでいいわ」
冷たくそう言い放つと、
「いいえ、命令ではもし見抜かれた場合はありのまま伝えろ、別のそれは失策ではない、想定内にあることだから心配するな」
そこでニーナは鋭く、
「あくまで孤独者の負い目に沿ったわけね。うれしくて涙が出てくるわ」
と、言い捨てた。
ペイルは予想していたとはいえ、かなり動揺しており、
「スージーはあれから顔を合わせても素っ気なくて、義務だったとしか口にしませんでした。ですから、今度の報酬はハンナでした。見抜かれていたのでしょうね。いえ、最初に望んだからじゃありません。一番弱い箇所を突かれたといいますか、失意が呼び戻されたような気がして、あらがえませんでした。自分の胸のなかに色づく不可解な関心には」
「ペイル、わたしは謝らないといけないわ。きみの胸の色づきを無残に消し去ってしまったから」
「仕方ありません。ニーナさんの責任とは思えません」
「では、こうしたら。どうせありのまま報告するなら、わたしはわたしで約束の午後の場で夫人に懇願してみるわ」
「いったいどうしたことです」
「きみはハンナと寝たいのだろう、それが叶うようお願いしてみるのよ」
「いくらなんでも・・・それは」
「どうしたの、不届きものと処罰されそうで怯えてるのかしら。きみが望まないのならそうするけど」
「はあ、どうしたものでしょう」
思い切りが悪そうなペイルをよそに、
「このわたしだって処罰どころか、生きてられるか知れたものじゃないわ。そう思わない」
不敵な笑みだったが、立場が変わったことにより、自虐と慈愛に包まれた笑顔はペイルに遠く届けられたのだった。


[597] 題名:夜明けの口笛吹き10 名前:コレクター 投稿日:2023年10月10日 (火) 06時24分

空の青みは室内へこもった凄愴な雰囲気に横やりを入れず、ニーナの瞳の奥にうごめく色彩の欠けらを照らした。
偏西風の気ままに踊らされた草木の戯れが階下から聞こえてくる。その微かなもの音に耳を傾けるわけでもなく、ただ全身を緩やかに、けれどもきっと抑えがたい気ぜわさに移りゆくような、決して明瞭ではないけれど強い消毒液を近くに嗅いだとき感ずる、あの捉えがたい胸さわぎが陶酔のさなかに降りてきて、いつになく陽気な気分とすり替えてしまい、それは関わりたくないはずなのに、ちょうど磁力で操られてしまう砂鉄の移動に似て軽く、適当な感心と恥辱ともいえる後悔の念を一緒に運ぶ荷車のごとく、不明瞭な渦中へとさまよいだすのだった。
鏡のなかにある現実はほの暗く、鈍い動作で斜陽から曙光へと重々しく遡行し、ニーナの機嫌をうかがっている。信憑だけが空まわりしながら摩擦熱を発していた。
「一年の月日が明るみにしたこと・・・それは成育という悪夢への直面に他ならないわ」
ロベルト夫人の稚拙な畏れは期待に添うよう見届けられ、伯爵の狂騒は避けがたい官能へと追いこまれていった。うるわしの置き土産が保持したであろう夢は時間の過ぎゆきによって壊され、繭が破れるように発育をまのあたりにしたふたりは、人形師の仕掛けた爆弾をまざまざと認めざる得なかったし、流言がことごとく外れ飛び散ったのを思い知るのだった。
知ることの悲劇の内訳はたやすく明快で健全な証しでしかない。背格好がひとまわり大きくなって、胸のふくらみから尻にいたる曲線は悩ましき魅力を放って止まず、その顔つきはとまどいにも似た初心な恥じらいが瑠璃色の花のつぼみを想わせ、幼さを残した可憐な仕草はどこかしら意識的な優麗へと変わりつつあった。紛れもなくニーナは乙女が薫らす清らかな肉感を有している。
半ば爽快な気持ちとともに弾ける美徳の破片を見送りながら。そして互いの傷口を確かめ合うまなざしに宿った聖域の影に、人形師の悪意という名の誉れを感じた。いい様のない残滓に溺れつつ。
侏儒の神話が美しく壊れたあとに残されたものは、敬虔なる肉体への讃美しかない。そのたぐいまれな美貌に増してなお神々しく均等であったふたなりの下半身は、あたかも野生の草花が撩乱する勢いを模しているのか、やがて夏の盛りを迎える草叢の兆しさえほのめかして甘酸っぱく、苔むす湿地の際をもかいま見せたが、本来の毒々しさを包摂するはずだった茸の生え具合は浅く、そのこじんまりした様子には打ちひしがれた愁いが漂っていて、もっと穿つなら、ひとつかみの塩でまぶされたナメクジのように溶け始めており、夫人の理想郷を大きく揺らつかせ激しい失望へ導けば、反射的に伯爵の気概は高められ、しかし並行するごとく空恐ろしい感情が押し寄せてきたので、いよいよもって狂騒の歯車はかみ合わず、崩れ落ちる伽藍だけに収斂すると、それでもあだ花に近寄った理性の鱗粉が底辺から伝ったのか、巨大な女陰にのみこまれてゆく戯画へ微笑みながら、これ見よがしの素振りで芝居がかった狂気の相貌を描き出したのだった。
あまりに素早い所業にも映ったのは他でもない、その浅い胸襟に秘められた願望が見事まわりの風景を押しこめてしまったからで、焼き払われたのはやはり置き土産でしかなく、生身のニーナは外連味たっぷりの発狂ぶりに隠れ、まんまと伯爵の思惑通り幽閉の門出へ導かれ、人形師の欺瞞を公けにすることで外罰的な意向を表明し、返す睥睨でロベルト夫人の反撥もへし折ったのである。
そのあと青白き植物の血をただちに想起させる狂気を演じ続ければ、ニーナは永遠に手中に収まったも同然、ただし、いつしか訪れるであろう神経の完全な麻痺へ連なり、残酷にも過剰な色香を振りまく女体に向き合うとき、すでに伯爵の魂は煉獄にあり、夫人からの妬心と侮蔑を避けられない運命にあった。

「どの部屋に閉じこめられているの・・・わたしの言動に耳を澄ましているのね」
現在のニーナも自らの夢想に追随すべく、正当な判断を失いつつあったけれど、もうこれ以上なにが消えさってゆくのか知れない情況において、唯一の淡い光がジャン・ジャックであるのなら、今にも出会えそうな予感はさながら薄い皮膜で守られたシャボン玉のなかにきらめく色となって瞬き、結局のところ遡行していくような感覚は虚空へなぞらえ切れない鉛色を後退させており、時計は律儀に無常を刻んでいるのだった。
「どれだけ年月が過ぎ去ったのかしら・・・ねえ、ニーナ、これが橋渡しなの」
押し殺した胸の痛みは肉離れを起こした足の吊りのように、とめどもない痺れを訴えていた。なにかを告訴すれば痛みの根源もやわらぐと信じて。
ニーナのため息はとどまることを知らなかったけれど、つい目前に迫りつつある生々しい夫人との交わりや、ペイルという従僕から聞き及ぶであろう未知なる展開が、ただの肉塊でしかない娼婦の自覚を促し、精神の在りようを鈍麻させた。零落する宿命を背負っているような実感だけが浮き立っていた。

強く柔らかな陽光を背にした栃の木の茂りが細やかに騒ぎだしたころ、ニーナはほぼ夢遊病者のような足取りでペイルから教えられた薪小屋へ向かった。
心なしか擦れ違う人らの好奇な視線が気になったが、足取りに現実味を欠いているニーナにとって、それは似つかわしい相殺だとぼんやり算段し、踏みしめる緑の色濃さに大きい呼吸が望ましいなどと、いくらか殊勝な気持ちを覚えたところで早くも相当に朽ちた構えの小屋の扉に手をかけた。
案じていたより気弱そうな表情のペイルが待っていたので、これでようやく地下納骨堂の思考から解放されるのだと、相手に負けず劣らずの情けない気分を顔に出してしまった。
挨拶もそこそこ限られた時間に縛られている空間の狭さは、ふたりの距離を一気に縮め、声をひそめながらことの次第を語りだしたペイルの眼に魅入ってしまうと、お互いが持ち得る秘密を解き放つような調子で綿密な会話が進められた。
「で、きみも儀式に参加するのは間違いないのね」
「それがです。延期にはなりましたが、果たして自分はどうなるのか」
「執事からわたしは何らかの責務を与えられたのよ」
ニーナはこれから行なう夫人との交接もまた儀式への予備段階であることを教え、驚きを隠せないペイルに同調を求めると、
「それではロベルトさまから今後の成りゆきなど聞き出せそうですね」
扉を閉めた陽の明かりも覚束ない内にあって、もはや気弱さなどうかがえない前のめりな意見を吐いた。
「無論そうだが、伯爵も夫人もどこか常軌を逸してるような感じがして・・・わたしだってどうなるのやら」
ためらい勝ちではあったけれど、これまでのいきさつとかつてのニーナにまつわる見解を述べてから、
「きみはどう思うのです。というか、どんなふうに他の人たちは受けとめているのだろう」
早くも核心へと迫った。
「自分は過去の出来事を聞かされて日が浅く、フランツさまには先急ぐなと申されました次第で、どうでしょう、皆の者らにしてみれば歴史というより伝説と言った方が呑みこみがいいのでは。必要以上の詮索が許されるはずもなく、以前の振る舞いを探ることすら意味がないように思われます」
「すると成人したニーナを見たとか、そんな風聞もないのかしら」
「ええ、聞いたことがありません」
幼少からこの城に仕えている従僕さえ知らない・・・ニーナはふたたび地下納骨堂めいた古色蒼然とした薄闇の考えが恋しくなった。それはつまるところ自意識の領域で渦巻いている異国の絵巻物を手繰り寄せたに過ぎず、世界の果てはわが身にこそ開いているというすえた性根に端を発しており、ひねた容姿の悪あがきこそ独善的な意想へ転じてしまうお粗末に落胆するしかなかった。
「すべては伯爵らの考えで決定するだろうね」
ニーナは夢遊病者がやっと本来の眠気を感じたとでもいう口ぶりでそう言い切ると、ペイルが体験した淫靡かつ感嘆に値するこれまでの情勢に聞き入っていた。
滔々と眼を輝かせながら馥郁たる想い出にひたるペイルをうらやましく思ったが、ふとジャン・ジャックに関する噂を知らないかと尋ねてみたところ、
「おそらく積荷の遅れも含め、どうやら問題はかの人物にありそうでございます」
そう、めくるめく女体への感触を脳裏に引き寄せたまま、優しくニーナを見つめるのだった。


[596] 題名:夜明けの口笛吹き9 名前:コレクター 投稿日:2023年10月09日 (月) 07時04分

小気味いい足取りで自室に戻ったニーナは、先ほどまでの渦巻きやら焦げつきで悩ましかった気分が少し和らいでいるのを知ると、窓からそよぐ興味に乗った風を背にしたまま、振り返ろうともせず、底なしに晴れ渡る青空の画一的な色味を帯びた鏡のなかの等身大へこうつぶやいた。
「あのニーナはわたしと違ったのでは・・・」
この蒼穹を走る稲妻に似たひらめきは、不気味さと無縁でありながら、痙攣的な爽快感をあたえるに十分な思いつきだったから、なおのこと窓枠へと歩み寄る姿勢に反撥するよう晴天が隠し抱き、塗りこめている挑発的なまぶしさに眼を閉ざし、そのまぶたの裏へ輝かしき赤いめまいが生じてしまうので、鮮明な色彩のみによって埋め尽くされた血の池のような感じが残されるだけだった。虚空が虚空であることに悶え苦しむように。
そもそもこの地へ送られた由縁は、小人のまま成長せず妙な色香をまとってはいるものの、いよいよひねてきたと自他ともに認めたからであって、おそらく城主たちにしてもかつてのニーナの面影に期待こそすれ、過ぎ去りし日と寸分違わない少女を求めていたはずもなかろう。ロベルト夫人の言葉通りメデューサへの異様な執心を飾る程度の招きに過ぎず、それはつまり自分はふたなりでなかったし、いや、判然とはしていないけれど、先のニーナにまつわる栄光の影におさまるとき、容貌の優劣など遥かに越えた魅惑を有していたのは明白であり、そうなると淡麗な欲情をめぐって繰り広げられた世にもおぞましき実態が透けてくるではないか。
伯爵はまれに見る美少女として愛でるかたわら、夫人は奇矯な少年として寵したのだった。
どんな人形より精巧なその美しさは両性具有でありながら、決して成人に至ってないという悪魔的な容姿は人心を際限なく惑わす。あまつさえ、愛玩物としてかたわらに置き続ける幸甚はあらかじめ承認されておらず、たとえ王家であろうが貴族であろうが権力者の本来もって然るべき常例に組しないという、この逆転した立場は伯爵らに限らずとも、またとない歯がゆさをもたらし、そこに生じる汚辱じみた傷口さえもが、疎ましき美徳となってくすぐり続けるのだった。
うるわしの置き土産はこうして高貴な品格への最小にして最大の慰めの機能を有していた。その仕掛けもより確実な快楽であり、捨て去るべき威信を有意義に保つための方便は気高い想像力を保証していたから、いみじくも生み出された人形師の意匠は蔑まされることなく、幾代にも渡って静かな、まるで闇夜に聞こえてくる美しい鳴咽のように胸の奥へ響き、傀儡の動きはいい知れない心地よさを股間に伝えた。
もちろん置き土産の造形は当てずっぽうと正反対の綿密な工夫によって施されており、その仕上がりはさながら寸分も違わない着心地に等しい肉感をあたえ続け、また後々まで残照を受け倦むことなく肌にまつらう揺るぎない深い充足へと沈みゆくのだった。親善会議が何度も交わされたあとの結末のように。

さて、ふたりは交互してニーナに触れたのか、それとも同衾の協調へ落ち着いたのか、少なくとも険悪な関係を露わにしてまで修羅場が演じられたとは想像しがたく、瀰漫した空気は城内を満たしたりしなかった。
まことしやかな風聞では、傲岸不遜なニーナの自己愛が盲目的だった伯爵を覚醒させ、逆鱗とともに焼き払われた、そう言われているがあくまで人形師はこうした事態を、つまり独占欲に対する懸念から置き土産を準備したのであって、往々にして予期される執着を鎮めるため、そして何より身分ある顧客の威厳をそこなわない経緯は先の通りで、この領地も同じく短期間の滞在をもって契約されたのである。
しかしどれだけこの世に希少な形貌であれ、あるいは堕天使のごとく神々しさに包まれていたとすれ、売笑の本然を忘れてしまっては天と地があべこべになるようなもの、伯爵の神経でなくともニーナの無駄口には救いがなく、どれだけ深い寵愛の懐にあろうが、はかり知れない甘言と赦されるものではなった。連綿たる貴族の誇りは大いに傷つけられたに違いない。
と、まあこれが通説なら格別珍しい取りざたでもなかろう。現在のニーナがめぐらした推測はもっと生々しく爛れた体温に肉薄していた。
ふたりの執心は契約の更新、つまり長逗留を願って人形師のもとへ嘆願に近い言葉が送られた。
ややあって我に返ったのはロベルト夫人の方で、理由は両性具有ならば伯爵の子種を宿しはしないかという焦燥をともなった嫉妬に過ぎなかったけれど、それは覚束ない生理の迷信めいた憂慮でしかなく、果たしてふたなりの小人が懐妊などするのか、百科全書や錬金術の危うくも棘たつ知識に怯える蒼い影なんて、些事を拡大鏡で覗きこんだときの光線の歪みだと本人も自覚しているつもりだったのだが、かりにもそんな情勢に流れていったなら、地位の後退は揺るぎなきもの、伯爵がニーナを身篭らせて嫡子を得る、そしてロベルトは貫通のあげく子宝に恵まれるという最悪の事態を招いてしまう。
元来、政略婚儀であったけれど、夫婦間に亀裂など微塵もなく、これといった確執もなかった。仲睦まじいと称賛されてなんの不服なきまま、理想的な、ある意味においてこれ以上の品位を持ち得ない貴族の横顔を顕現していた。
どういった手まわしが計られ、あるいはいかにして法制より重い歴史に切りこんだのか、風説によれば、狂気に苛まれた伯爵への対応に窮したあまりだの、慣例を曲げてでも廃人の熱意に応えようとしただの、爵位そのものと引き換えにしただの、もしくはロベルト夫人に横恋慕しただの、様々な憶測が飛び交うなか、実際には相当額の代価を人形師へ支払い、あと一年の長逗留が可能になったのだったが、現在のニーナがおぼろげに感じる想いもおそらくこの情況へと漂うよう重なり合い、良くも悪くも暗雲をたなびかせているのであり、同時に、これはロベルト夫人にとっても伯爵にとっても、極めて見過ごすことの不可能な事象と向き合う結果になるのだった。
鏡のなかの視線がほとんど真正面に位置するように。


[595] 題名:夜明けの口笛吹き8 名前:コレクター 投稿日:2023年09月26日 (火) 02時47分

謁見を終え自室へと下がったニーナは渦巻く脳裏の慌ただしさに押しつぶされそうであり、また焦げつくような胸の痛みが抑えきれずに、ベッドへうつ伏せになったまま苦渋を味わっていたのだが、夫人との交接にかかわる懸念は差し迫った行為に他ならず、もやは逃れ難く、反対にまったく確証など得ていないジャンの存在は、あたかも孤独な境遇へと色づくなぐさめに思えてしまい、しかしこのどちらかが煩悶である由縁を失くしたとき、さながらより強烈な偏西風に巻きこまれる予感を抱いてしまうのだった。
眺めのよい部屋には施錠されておらず、べつだん散策を禁じられていたわけでもなかったので、このまま寝具へ顔を突っ伏して震えるなり、世をすねるなりして、無為な緊縛を噛みしめてばかりはいたくなかったから、ちょうど真下に広がる庭園と脇道の行商人らしき者らがちらほらうかがえる景色をぼんやり見つめていたのだったが、そうしたなかに混じり下働きに従事ている小間使いや庭師、下僕然とした人影を追っていると、いよいよもってこの身に降りかかった奇態な情況が重苦しくなり、一層の孤絶感を深めてしまうばかりで、これまでたどった辺境の地における肌寒さなど遥かに通り越し、いてもたってもいられず、それはニーナの弱音に違いなかったけれど、この城全域を支配しているある独特の自由な感じは、熟考するまでもなく石像や儀式に関する実情が知れ渡っているのではないかという雰囲気がやわらげな風に吹かれていて、人々の面持ちには城主の趣向など秘匿されてないような気がもたげてくる。
慄然した想念に包まれているものの、どこか投げやりで遠く霞む眺めのうちに一定の距離感が結ばれ、その狭間が柔らかな糸で縫い上げ重なり合うとき、好意という近づき易さを孕んだ磁場が形成され、そこから送られてくるようなある種の打ち解けをニーナはいい意味で受け入れたのだった。
自分ひとりだけが絶対の秘密を抱えている孤影は、少なくとも高尚な気概でなかったし、むしろ鋭い刃物で切り取られた不穏な明徴でしかないから、その明らかな痛みを分散させる方が今は望ましかったのだ。たとえ弱者が備え持つ方便だとしても、ニーナは焚刑の恐怖に相当おびえていたので、儀式にまつわる些細な風説でもいいから耳にしたかった。そしてあわよくば恐怖の対極にあるジャン・ジャックの噂を網の目ですくいとりたくもあった。
取り立てて凝視の先へ意識を留めたわけではなかったが、庭師を相手に生まじめそうな顔つきでうなずいている青年が色濃く映り、そのやや猫背な姿勢や控えめだけれど勤勉さを徳とした眉根に、今現在の不安定な気分を投影したのだろう。浅瀬の岩肌をなぞるよう尾びれ返す魚の背がしなやかに水面へ浮かび上がるごとく、他の人々を垣間見る視線は泳いだ。
とりとめない意識に誘われた刹那、ニーナは鷹揚な素振りを示しつつ、けれどもちいさなからだにふさわしい早足で部屋を飛び出していた。長い廊下も優雅な階段も薄暗く感じなかったのが不思議、外の光線は踊り出すかの勢いではやる気持ちを迎え、燦々とした緑と土の色は鮮やかにスカートの下へ延びた両脚の白さを浮き立たせた。外光が教える距離はすぐそこにあった。
庭師と話し終えたと見え、背中をまるめて脇道へ歩き出した青年を真正面にしたニーナは、
「ちょっといいですか」
自分でも何を問いかけようとしているのか分からないまま、そう声を掛けると、
「はい」
以外なほど機敏な反応でこちらを振り返ったものだから、
「わたしはニーナという旅客でして」
とにかく気を引くための、自分を認めて欲しい一心で思わぬあいさつなどしてしまった。
するとどうだろう、相手は生まじめそうな加減とは不釣り合いな笑顔で、
「知ってますよ。ニーナさん、どんなご用件でしょうか」
その声づかいも穏やかな調子で返されたので、ほとんど整理できないまま、
「旅の目的は石像にかかわることでして、もはやその件は公然なのかと、庭師の人たちらもその段取りをしているのかと・・・」
どうにも気恥ずかしさを糊塗しているふうな、出し抜けなのか、本音をぶつけてしまっただけなのか、よく判別できない衝動にどぎまぎしているのを察したのか青年は、
「これは驚きました」
心底なのだろう、背丈の低い性の芽生えを香らせたような少女の正体を心得ているというよりも、不意の質問が氷の棘でもあるかのごとく、さっと表情をただして、いかにも慎重な意想をめぐらせ、が、ニーナの風貌や境遇へ言及することなく、まるで風車が鈍い軋みとともに爽快な音を響かせるように、その残響には外連味も懐疑も備わっておらず、むしろ自然の理に対し冷静な眼光を輝かせるに似た真摯な言葉をつなげた。
「ええ、おっしゃる通りです。城主さまのお考えではなにやら東洋の風水に即さなくてはいけないらしく、到着の遅れを理由に石像の配置場所が二転三転しております。そういう事情なので城内の庭師では足りず、村から人夫を雇い入れる算段をしていたところです」
「そうだったのか。忙しいなか呼び止めて申しわけありません。となると城全体にまでゆきわたっているのですね。メデューサの神秘が」
最後の言葉が引っかかったのか、
「どうにも奇妙な成りゆきといいますか、雲ゆきは怪しく、下々の自分にさえ、儀式の命が申しつけられたのでして・・・もしかしたらニーナさんも同様の・・・」
いさかさ語尾が頼りなくなっているのを知ったニーナは、
「どうやら似通った立場にあるみたいだね」
ややあって静かにそう訊いてみると、
「あっ、失礼しました。私はペイルという従僕です。積荷の遅れを憂慮した執事のフランツさまが異国まで掛け合いに行かれまして、その事後をどうしたものか、途方に暮れているのです。ニーナさんはもしやご存知なのでは」
逆に問いかけられてしまい戸惑ったものの、もう一度、間をあけてゆっくり適確だと思える謂いで青年を鼓舞する始末。もはや素面をあらわにして安堵の息を吐いた。
「ニーナでいいよ。わたしはなんら旅芸人と変わりない。身分があるわけでもなし」
「そんな、賓客だと伺っております。高貴な方だとも」
「きみは知っているのだろう。ちいさな貴婦人がこの城でどういった扱いを受けるのか」
諭すふうに言ったつもりだったけれど、あまりに見え透いたお世辞に聞こえたので、つい語気を荒げてしまった。青年からすれば、少女のなりをした異形のほとんどしおらしくない口ぶりに違和感を覚えるだろうし、娼婦の身にまとっている華美な雰囲気があまり見受けられない分、接し方に躊躇するのは当然で、かといって清楚な乙女の透き通るような淡さを感じられないくらい、自分でも承知していたから、ペイルの胸中に出入りする好奇と関心はよく理解され、このときおり見せる暗い素顔にはある期待と焦燥が入り組んでおり、それは身売りをなりわいとしているニーナの哀しみを越え、直感の作用を頼みにするまでもない、すべてはペイルの秘めごとへとひも解かれていった。
「もう仕事は片づいたのかい。いや、そんなはずはないね。ただ、わたしはもっときみと色々話しがしたいのさ。でもここでこうしていると人目が気にかかる。なにせ、わたしは幽閉者だから」
妙な顔をしたペイルだったが、
「確かに、これは内密ですが反勢力の兆しも取りざたされております。あとひとつ庭師との打ち合わせがあります。これから向かうところでした。どうでしょう、そのあとあの先に見える薪小屋で落ち合いませんか。ニーナさんさえよろしければ」
窓から見下ろした姿に視線を休めたときに判じた生まじめさはまぎれもなく健康そのもので、照れくさそうに頬を赤らめている。昼食までには、いや約束までにはことの次第を綿密に語り合えるほど、また身の上に降りかかった煩慮を宥めるほどの猶予は潤沢ではないけれど、この邂逅に時間は正確な刻みを記してれるに違いない。
「そうしよう、ペイル。きみと出会えてよかったよ」
「どうして自分なのでしょう。それだけよろしければ」
「さあ、ぼんやりした気持ちが風に乗ったのさ。そう思うしかない」
「私がフランツさまに歩みよったときとは異なるようですね」
「きみにも深い事情がありそうだ。あとで聞かせてもらうよ、では失礼」
「ニーナさん、ほら太陽があの栃の木の上にさしかかる頃です」
ペイルはすっと背をのばし、右手の指で大きな枝ぶりを指し示めすのだった。


[594] 題名:夜明けの口笛吹き7 名前:コレクター 投稿日:2023年09月20日 (水) 04時33分

いつになく急ぎ足で、ほとんど怖いもの見たさにそそのかされたニーナの歩幅は大きく、けれども素早さから得る体感に狂いはなく、おそらく自重に即した想像となって、白い靄があふれ出す柔らかさの先へ映し出されていた。
ハンナと名のった何かしら身分のありそうな女が差し出す微笑の向こうに、伯爵の青ざめて尚ひとときを愛でているような眼が、そして過分な威厳を奥ゆかしげに色香へ添わしている夫人の姿がある。
少しばかり違和が生じたものの、自らの不安と欲望が織りなしたふたりの風貌には言い知れない懐かしさが香っていて、その匂いは願い事と一緒に絡まる沈滞へ導き、ニーナの鼻孔をくすぐるのだった。どの辺りから漂うのか、その距離さえ現実を凌駕し、ひとまたぎしたような実感もまた微かな残像を介して立ち現われるので、嫌でも間合いは縮められた。
薄暗い室内だと見渡す仕草がにわかに巻き起こった防衛本能であるとこさえ忘れてしまい。
ロベルト夫人の発するきびきびした声の通りが、すでに伯爵の衰弱をなぞっており、伯爵自身もこの初見に満足しているのか、ほんのわずかだけ見せた親しみの表情を了解した。古びた壁に浮きだす青かびに嫌悪を抱かないように。
それはおそらくこれまで散々気遣ってやまなかった畏れが隠微に現れているからだろうし、なにより夫人への関心を高めなくてはならないニーナの心意気に対比していたので、これ以上の充足はあり得ない、そう胸をなで下ろしたのだった。同時に男色を専らとしていたニーナにとって久々である女体の顕現は、細く嫋やかな緊張をもよおし、うしろめたさに支えられた安堵を生み出した。
「ごらんのように伯爵の病状は芳しくありません。おわかりでしょう、ニーナ。待っていたのよ、もう何年になるかしら」
艶やかで親情ある口吻に接した喜びと、かなり飛躍している設定にとまどったのもつかの間、それがいかに簡潔で今後のなりゆきを示唆しているのか、あまりに切れの良いロベルト夫人の姿勢の感服していたところ、
「わたしの幻影を非難することは許しません。命じられるままにこの城へとどまるのです。よろしいですわね」
変わらぬ優しげな声色だったけれど、その顔つきにはどこかしら冷徹な血を通わせている。
が、この地に限らずともこうした扱いに慣れっこだったニーナは、臆するわけでなく、
「仰せのように。あらぬ詮索もいたしません。雇われの身を心得ております」
さざなみ打つ電流みたいなものを神経に走らせつつ、そう答えた。
「ねえ、ニーナ、そんなかたくならなくていいのよ。あの頃のわたくしを想い出して欲しいの。伯爵はもう石像のことで目一杯だから、わたくしにさえ従ってくれれば」
以前のニーナに扮する擬態など大して難しくないはず、夫人はただの幻影に過ぎないと確信めいた演技を欲しているのだから、盲目的な忠誠をしめせば特に問題はあるまい。ただ、循環する過去に基づいた、あの焼却処分がくりかえされるのは回避したいし、まあ持参した置き土産なら好きにしてもらってかまわないが、生身の焚刑だけは幻影から除外されないと本当に困る。
発狂寸前の重篤な病に冒された城主、そして過ぎ去ったまぼろしに耽溺する夫人に果たして良心やら道義が息づいているのやら、決して触れてこなかった危惧ではないけれども、いざ対面し風変わりな謂いを耳にしてしまうと、せっかく立ち上がった想像の底辺が侵食されている現実を見定めざる得ない。
「約束は昼食後にです。すでに承知のようにわたくしは身籠っています。でも、儀式という名分のもと積年の解放を自らに知らしめるため、失われた白い羽をふたたび呼び戻すために、あなたは先のニーナがまとっていた霊をなぐさめなくてはなりません。それはあなたにとって不可解な行為というより、三位一体の教えが生き生きとわが身に曙光となって降り注ぐよう、なにかしらの欠落を嘆く以前の神聖なる境地へと歩んで、いえ、天翔けていくことになるのです。油断すら大敵です。なぜなら底知れない快楽にゆだねられた典雅な園は決して汚されてはいけない、かつてのわたくしを苦しめた恥辱がどこのどうというべきことか、ただひたすらに夢見心地のまなざしで青空を見上げ、祈り続けた理想郷がなし崩しに消え失せた無念を今こそ、そうよ、この城の瓦解をも胸に刻んだ焼けつくような想いを晴らすために、出産をひかえた斯様な実情ゆえの困苦を聖なるものへ捧げるのよ。
そしてとてつもない快感となるべく、あなたはあなたのなかに潜んだニーナを甦らせなくてはならない。わたくしにも伯爵にもそれは大切なことなのです。大丈夫、伯爵の研究成果によれば、儀式へ連なる者は至上の交接をもって身を清めておくとのしきたり。ねえ、そうでしたわね」
罪深くも理念に燃えさかるようなまなざしを受けた伯爵は、
「そのとおり。必要不可欠なしきたりだ。私はもう長くない、この城にもっとも艶やかで神秘的な歴史を刻むまでのこと。儀式の詳細ならびに石像にまつわる秘密をおまえに授ける。だから心して交わるのだ」
驚いてしまうのが無理もないほど、とても痩せ衰え青ざめた相貌から発せられたと思えないほどに、その語気はまるで地底深きところから鳴り響いてくる断末魔のような、もしくは生誕のうめきが闇をかき分けるあの産声を想起させた。しかしそれらはどうしようもないくらい安直な符丁で結ばれ、爛れた没落の調べがこれまた同等の軽佻に鳴り渡るのを覚え、もどかしく、いらだたしくすらあった。
神秘に儀式に偶像、淫行、さながら手引き書をひも解くときに覚える雑駁で簡便な思い、いにしえの古城であろうが、王家の華美であろうが、当事者であればあるほど、関わりが濃くなればなるほど、ますますもって薄ら寒さと蒸し暑さを交互に感じているみたいな不快が時間をねじ曲げ、ある種の憎しみと蔑みを隆起させるのだったが、あの大鏡の反射のなかにおのれの影を見出すと、気分は真っすぐな方向へ逃避して、新たな経路をぼんやり模索するしかなく、やはりニーナは幽閉の意義へとゆき当たるのだった。
この開き直りともいえる心境の渦中にうごめくものが、さらに身を縛りつけてしまう女体への埋没であることで、快楽は時代を流れる他人の唄声かも知れないと嘆息し、ここにきてようよう自分を育てあげた人形師の世渡りが、いかがわしくも美しき不吉さで彩られているのが理解されてくるのだった。
そんなさなか、ニーナの流露が大鏡の反射のさらに光を投げ合ったのは、遠い記憶のまばゆく切ないジャン・ジャックの悩ましくも胸に宿った美少年の面影、切なく忘却の彼方へ過ぎ去ったあの端麗な冷たさへと焦点が絞られていることだった。朦朧とした密度でありながら。


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