COLLECTOR BBS
[647] 題名:悪魔の首飾り〜8 名前:コレクター 投稿日:2025年10月29日 (水) 02時11分
見通しのよくない路地に迷い、夢中で駆け出したおぼろげな記憶の底が、深い森の入り口に妖しく通じているのであれば、まわれ右の姿勢を促す怯懦は必ずしも欠落ではなく、むしろ補填なのかも知れない。
「今なら断固として退けられる」
望みが託された悪魔のささやきに耳を傾け、その植物的な粘り気をふり払うようにして軽い嫌味と受け止める。方便は怯えの感性がたどるであろう行方を見届けている。そして悲劇の訪れは近場で待機しており、すぐさま襲いかかりそうな予感が降り注ぐ。
「青ざめているわよジョディ、どうやら思い返したようね」
「いいえ、まだよ。すぐそこに風景が見えるのに顔を背けているから」
「ねえ、あまりきついこと言いたくないけれど、強情と駄々は似てるようで違うわよ。賢明な判断はあなたを救うことでしょうし、わたしの意志だってあなたを尊重しているからこそなの、いえ詭弁ではないわ、心底そう願っているのよ」
真顔がつくられる瞬間というのは、居心地の悪さを提示しつつ、森然とした囲いに漂う空気を張りつめて、崇高な彫刻をまえにしたような威厳を固定する。たとえ虚言であり懐柔に導かれようとも、動揺は静まって気まずい足踏みもおさまり、対峙した相手に矛盾を知ったうえで諦観と希望を託してしまう。いたいけな情感、けれども得難い瞬間。
「そんなに見つめないでシレーヌ、まるで白状するのを待ち受けているみたい」
ジョディはこの不意な訪問者に慣れ親しむどころか、ぼんやりした思考をさらに揺るがす得体の知れない人物と見切っていたにもかかわらず、こころの片隅のどこかで出会いの鮮烈さを感じていた。それは水槽のなかに沈んだ色彩が定まらない色紙のように、にじむ光線の歪みに違和感を生じさせて、焦点を絞りこもうと躍起になっているちいさな奮闘であった。
「あら、そこまで陰険じゃないわ」
応じるシレーヌもまた摩擦熱より柔らかな光線のぬくもりを伝えているのか、
「目醒めには強烈な反動や衝撃がつきもの、いいわ、この際だから時間をかけましょう。その方があなたらしくすべてを認めてもらえそうだわ」
と言って、談笑めいた顔色を優雅にふりまいた。
「けど差し迫っているのでしょう。あわてふためいて屋敷へ赴き、真相を告げ、絶望と失意の狭間から解き放とうとしているわ。きわめて重篤な病人に向かって奇跡的な曙光を授けておきながら、魅惑と堕落の影でもって呪縛で数珠つなぎにされてしまうのよ。
光芒は闇を切り裂き、隷属された宿命には飼い殺しの刻印をあたえられ、反転した悦楽がまわり始めるのを瞑想でもするふうなまなざしで見届けなくていけない。さながら悪魔の首飾りのように、わたしの喉もとをしめつけは華やかな心象を植えつけ翻弄する」
「いえ翻弄などしないわ。解放するのよ、自由と恍惚に魅入られたしもべたちを侍らせ、戴きに君臨するの」
「それがホルンベルグの悲願だとおっしゃるの、わかったわ。で、さっきアランはわたしの家系を探ったって聞いたけど、その辺りから話してもらいましょうか」
「わかったわ。そのつもりよ、次第に目醒めるかどうかはわかないけど、気分はだいじょうぶかしら」
「ええ」
シレーヌの冷たい美貌に雪解けのような感触を得たジョディは、忌まわしい謎解きに向い合う宿痾のあこがれに似た想いに包まれた。そして冷酷な仕打ちの歴史が務めあげた、石畳を伝う清冽な輝きに胸ときめかせるのだった。
「商会の事務局において唱えた独り言を知り得たホルンベルグはただちに案を講じたわ。そう、幼少時に亡くしてしまったケイトの亡魂を呼び寄せているものだから、機は熟したと判断したのよ。いよいよ巫術の本領が見出され、それは母親ゆずりの才覚あり、まごうかたなき憑依の萌芽をしめしたの。
死んでしまったケイトはまだ見ぬ夢をかき抱くよう、舟遊びへと、前世の婚約者へと、子供じみた、けれど大人になりきれなかった怨念にあやつられ、無垢と早熟との裂け目にあなたを引きずりこんだ。いえ操作は自在、怨念さえ我がものとし、その不可思議にして危うい感覚から予兆を嗅ぎ取るすべも体得していた」
「少しいい、わたしの母がどうしたって言うのよ」
ジョディの虹彩が開く。
「先に説明すべきだったけど、遅らせたわ。でも端的に話せば、あなたの母こそ類い稀な予知能力者だった。それを聞きつけたホルンベルグは若き馬蹄職人だったあなたの父に好意的に近づき、無償の融資を施すなどして元締めの地位までのぼらせ格式をもたせたのよ。本当は母ヘレンが目的だったけど、すでにあなたを身籠っていて引き離すより、ふたりを祝福するかたちで留め置いていたの。
むろん父のマイケルはヘレンの異常な能力を心得ていたから、ホルンベルグの支援や庇護は大変ありがかったはずよ。下手したら魔女あつかいされ、悲惨な将来に繋がると懸念していた。
そこで進んで実験や研究に応じたし、ますますもってヘレンが稀代の才覚をあらわにすると、三者は一心同体の運命をたどり出したの。しかしヘレンの早逝が輝かしくも暗黒へと連なる時間を止めてしまった。おわかりでしょう、その娘に向後を託したわけ。統計学の問題をひもとくよりホルンベルグは狂信的な熱情であなたを見守っていた。
反して父のマイケルはヘレンの死から立ち直れず、ホルンベルグとも距離をとりだしたけど、そうはさせないのが商会の掟、いかにも温室で飼育する愛玩動物のごとく穏便な姿勢を提案し、ほとんど有無を言わせないやり口でもってあなたの成育を約束させた。ニーナ人形で培った粘着さがここでも援用されたというわけね」
「母にはそれほどまで能力があったと」
唖然としたジョディの口ぶりを見やりつつシレーヌは、
「そういうこと、ホルンベルグの周到さがあなたを開眼させたと言っても過言じゃないけど、来たるべきときが来たとしか言いようがないし、今ここで倦怠感だの、逆に焦燥感だの、定めてみたところで実験精神に取り憑かれた博士の魔手から逃れることは不可能よ」
取り澄ました口調だが、幾分いたわりに近い響きでそう話した。
「信じるも信じないも、作りごとだろうがなかろが、仕方なさそうね。あがらうこと自体が無意味に思えてきたわ」
「あらっ、ずいぶん聞き分けいいのね。ほっとしたわ」
「どうかしら、しらけているだけかも」
「その方が気楽よ、激しい情動や狂おしい意識より波風は立たないし安全」
「嵐のまえの静けさじゃないとだけ祈っておくわ」
「ふふ、元気出たみたいね」
「知らない、けどシレーヌ、初見にしては悪い心持ちばかりでもなかった。あなたのことどこか好ましく感じるわ、少しだけ」
「うれしいわ、もちろん同じよ、けどわたしはあなたの補佐役、もっと好ましく思っているのです」
代償行為、いや行為ではなく受け取り方、ジョディの胸中に様々な思惑が渦巻いたとして、それらは峻厳な峰々を駆け抜けるような暴風とは限らず、見晴らしをさまたげ視界をにごらせる悪天候にも例えられない。
なぜなら回転する意識の強度は自在だから。母の血は体内をめぐっている。
[646] 題名:悪魔の首飾り〜7 名前:コレクター 投稿日:2025年10月23日 (木) 02時44分
「アランのことはひとまずって言ったけど、そもそも行方をくらましたのはあなたとの婚姻にあるのだわ。ホルンベルクは彼みたいに穏やかな性質が順当だと踏んでいたし、実際あなたが発揮するであろう能力を陰で支えるには権勢欲を持たない書斎人が適していたと思う。
しかしアランはあなたの家系を独自に調べた結果、嫌気がさしたというより、小刻みな震えではおさまりつかない驚懼を抱えこんでしまって、いくら表に立たないにしても貿易や政務との関わりはおろか、居座ることの忌まわしさに取り憑かれ、それは根源的な悪夢にたずさわるような心持ちでしかなかったのでしょう。
候補としてエミールの名も連ねてはいたけれど、意志薄弱の小心者だったから、いち早くジャン・ジャックの計略にまんまと乗せられ人質になってしまい、あと血統を引き継ぐものはいても商会から距離をとっていたり疎遠な者ばかり、わかるわよね。
こうしてわたしが直談判に当たったのは同性だけど、今後あなたを補佐し見守る役割に命じられた次第で、もはや主人は必要なくあなたが女帝の地位にあればこと足りる、これがアランをめぐる顛末になるの。
出自はともかく境遇が孕んでいる避けられない由縁に対し、ゆっくり呪縛を解こうとしなかったのが何よりの汚点、もっとも悠長な態度が通らないのは自明だけど、気構えの向きをあざとくそらしたのは失格の烙印を自ら押しているようなもので、そうね、ニーナ人形の出来そこないを囲って別の研究に専念するような姿勢を示したのも、まったくの逃げ口上だったし、以前の夫人にしたって来るべき日の模擬に他ならないとさとっていたから、当然気乗りするはずもない、要は荷が重すぎたのでしょうよ。
現在の陣営だっていくつかに枝分かれしたのちの会員も加わっていて、庭師も料理人もそれぞれ別角度、つまり派閥違いの目論見でもって各人を見張ってますわ。アランの失踪は予期されていたので、ジョディあなたに焦点を当てることが今後の流れを把握すると察してしたのね」
「ではアランはもう戻らないと」
「おそらく」
「主人なき屋敷にてわたしが君臨・・・さあ、どういうことかしら、いまひとつ意味が分からないし、情勢がどうあれケイトを水先案内にしてまで周到に奇妙な立場が築かれている。こころ乱すさまを遠目に眺めているふうな意地の悪い、手ひどい仕打ちが信義に結ばれ、恭しく迎え入れる方便というなら、そうよ、まったくもって巧妙な、けどネジを巻き違えたであろう装置の不具合、平然と故障を称えてしまう薄ら寒い感性の置き場所、それとも簡易なねずみ捕りの愛好者、おかし過ぎるわ、消えた親友に神隠しの誉れをあたえるなんて、ふざけているし、とぼけた面々に取り巻かれて見張られているなんて、どうかしてる、みんな狂っているとさえ思えてしまう」
感情を昂ぶらせるジョディを待ち望んでいたとばかり、シレーヌは得意気な表情をつくると、
「はなから狂っているのよ、ホルンベルクの面々は。貴族連中の少年愛を逆手にとり、高級娼館の秘密網よろしく特注品の異形を提供したまでは、俗悪か高尚趣味かよく知らないけど人道の域にあったわ。でも国境をまたぎ敵国への武器調達にまで発展してしまい、人倫を踏みはずし戦火へと積極的に関わるって、ほとんど悪魔の所業でしょう。爆発仕掛けの人形なんて誰が考案するものですか」
相手の憤怒に寄り添いながらも忠実な笑みを絶やさず、身内まで汚辱する口調だったが、シレーヌの鼻梁には動かぬ誇りが留め置かれている。
「で、これまで秘伝であった高性能火薬の製造法を開示して、無論これはジャン・ジャックに対する先制ね、そして本来の貿易業に立ち返り、もう二度と好戦的な姿勢はとらない、本当に実務としてこれまでの縁故を大切にし平和主義を標榜する。とまあ、聞こえはいいけどそんな堅気に縮こまる組織じゃない、まっとうな商いの裏には常に暗躍が要求されるの、進化と平和の推進力にも影は落ちる、ええ、こぼれ落ちながら、見苦しさをぬぐって、新たな局面が切り出されるのよ。その展開にはあなたが介在が不可欠なの」
「ちょっと待ってくれる、そもそもケイトの蒸発はわたしにどう関係してくるわけ、アランとの婚約ならこの街まで訪れなくたって成立したはずよ、わたしの意向はさておいても」
「そうね、疑問点は明確だし、前世での婚約者と出会う旅はあなたと無関係であり、ケイトの偏執的な夢見に付き合う形なんて必要なかった、にも関わらず船出したふたりはどこか情念をたぎらせていたのよ、ジョディあなただって」
なだめられたのだろうか、ひりつくような場面にあって、なお緩んでしまうもの言いはことさら格別ではない。
「そう言われれば軽い気持ちで臨んだわ、そうね、なにか宿命的な異変が起こるような胸騒ぎは否定できない」
再び微笑を浮かべたシレーヌは、
「時間をかけて動揺を軽減しながら不安を取り除くのがアランの役目だったけど、やはり性急な説明が望ましようね、そうでしょうジョディ」
はかりごとの喧騒から遠ざかって親密を売るよう言った。
「いくらかでも推量が得られればいいけど、皆目だから、いいわよ、きちんと話してもらいたいの」
「心得たわジョディ、では商会の事務局の仕事を思いかえして」
「えっ」
「いいから、口にせずとも脳裏に描き直してもらいたいのよ。あの船出の計画というか発案、さぞかし狂おしい閃きだったのでは」
「いいえ、楽しい思いつきだったわ」
「誰の」
「誰ってケイトが言い出したと思うけど」
「事務局にはあなた一人しか勤めていなかったわ、ずっと。そうあるべきだとホルンベルグも要職にある者も認めていた」
「なに言っているの、いつもお喋りしながら仕事してたのよ」
「こころのなかでね」
「ケイトという少女はあなたがそうであった同じ年頃に溺死している。つたなさを恐れない舟遊びの最中に」
「死んでるですって・・・子供の時分」
「そうあなたの不手際のせいで」
「信じないわ、そんな刷りこみ、神隠しも稚拙だけど溺死なんてむごすぎて信じられない、よくもまあ抜けぬけと」
そこまで矢継ぎ早に言い交わすと、ジョディは急激な口もとの渇きを覚え、疲労感が波紋のごとく寄せてくるのを知った。湖畔に翳る静けさをともなって。
「で、作り話の真相はどうしたわけかしら」
虚脱を演じるのも疲れる。が、端的な問いかけにも多少の響きが求められる。
「あなたに巣喰ったケイトの魂魄はいつも陽気な加減でうるおい、孤独を意識させた。その方がケイトの実在を確かめられたし、仲違いという二人称の織りなす道程を歩みやすくして、童心に宿った罪悪感らしき比重のゆくえを風化させては、いつか裏切られるであろう予感を贖罪に置き換えたのよ。
さほど複雑な精神風景ではないわ。それをあなたは心得ていた、前世の花婿こそ死者への贈り物であり、宿した時間を遡行する算段だったのね。別に花向けが実らずとも、ふとした歓喜はあなたを襲い、そう、極度の困憊や不安に苛まれた瞬間以外でも、ケイトの幼い笑いを横顔で見遣ったときみたいに、自分への励ましへと転調したのよ、見つけたわよって、鬼ごっこに戯れる歓喜となって。決して頻繁ではないけれど、少なくともジョディ、あなた自身が孤独感にひたったとき」
「真相は威光を放たないのね。ついでに残酷な記憶も生彩に欠けるのかしら。それでわたしにどうしろって言うの」
敵意ではない投げやりな問い掛け、ジョディの虚脱は今始まろうとしていた。
[645] 題名:悪魔の首飾り〜6 名前:コレクター 投稿日:2025年09月30日 (火) 02時02分
さえぎる壁が保っている輪郭や土台にわずかながらの揺らぎを、頑なに塗りこまれた灰色に満ちた誇示がいくらか弱まる兆しを得たとき、もの想いは穏やかな水先の青みから支流へと向かうべく、気だるくも冷やかな、甘く澄んだ薄明の空気を吸ながら、邪念の渦巻きも銀河になぞらえ悠久に遠ざかってゆくのだと、心許ない視線は夜明けの景色を下書きする。
過剰な色彩は用いられず、淡色の情感に相応しい取り留めのなさは瞬きそのものかのように、検証はおろか、まぼろしと実像の境い目も曖昧にし、そのどちらか優位に立つことすら忘れてしまうのが本望であり、叡智を含んだ刺激や過剰な固執から隔てられているのは心地よく、もっとも瞬時に閃く高揚感に乗って滑り落ちる儚さこそ、かけがえない人生の欠けらに他ならないのだから、極彩色が放つであろう鋭利なきらめきは満天の星空の点描だけにしか認められず、暗黒を従えた全能の光が地上の景色に降り注ぐという希望は、得難い夢に胸焦がしつつ神々の黄昏を賛美する芳しさに相通じ、どこまでも危険な感情の橋渡しであろうと勤めてやまない。
海上や湖畔のさざ波によって淡く揺さぶれる確信的な自由は、荒波を忘れ去った平和の影絵に過ぎず、それらを感じることより論ずることに傾くのなら、美的効果以前の見栄えを望んでいるだけであって、良し悪しの記述は紙の上で溺れる葛藤そのもの、穏やかさに包まれるという現象こそ、他愛のない日常にあるのだから。
深更から目覚めへ、たゆまない意思の眠たげな夢幻の訪れは五感を緩ませたまま、手堅い広がりのうちに気品ある、だが少しだけ無茶な奥ゆきを手前に引き寄せ、恥ずかし気な面持ちを知ると、その戸惑いは重みに傾くことなく、まるで駄々っ子を抱く乳母の健気さに不機嫌が加わったよう、一歩一歩ゆっくり情景は動きだして、暖色と寒色が静かに混じり始めるのだった。
もの想い、空気抵抗を知りつつ、浮かび上がることの尊大さに打ち震え、未知なる風景を既視感からそっと脇へ、それとなく座り直しするような、花瓶や置き時計の配置を確め、何げに手を伸ばしてしまいそうな、実感こそ確かだけれど特に大仰でもなく、仕掛けも前触れもない単調な時刻の映しだす適当な、まさに想像とか理想とか願望とはおかまいなしに、胸の襞にまとわり、ちゃんと居座るものだからつい安心して惚けてしまい、危険視など上の空、白日夢のさなかにおいて真っ当な意識がめぐらないのと等しく、しかし長居は無用と一体どこで誰が、いや自身どの辺りで判断が下されるのやら、わずかなひとときが懐かしくて仕方ないのか、その想いすら一緒に流れてしまう、引いてしまう、消えてしまう、ならば後づけの残像がたゆたう夢を拾い直すのは同じ原理で動いているのだろうか。
あれから足を運んでいない宝石店の先の十字路、ケイトを見失ったあの場所が、位置関係のまったく異なる方角に、しかも夜目の明るさを越えた、薄明の見通しを無視した明瞭にして甘く切ない感情がともなわれ、それは打ち消されるべき要因をあまりに吸収していて、ちょうど純白の柔らかで清潔な真綿に染みいった摩擦ともいえる予兆のごとく、素早い反応は胸さわぎへと転じるはずなのに、錯綜であることも否定せず何故か、だだっ広い空間に置かれたような静かな畏怖が伝わってくる。自分自身の卑近さをなじりながら、どこか見知らぬ場所と掛け合いをおこなっている。
そういう瞬間、ジョディはいつも、
「見つけたわよ、ケイト」と囁いてしまうのだった。
アランの帰り支度を心得た庭師と料理人の目色に異変が現れて間もなく、それは三日経っても帰宅しなかったせいであり、自らの顔ばせだって鏡面に頼るまでもない、周到な報せを待つことの都合不都合が去来する最中、なにやら物々しい雰囲気をともなってシレーヌという女性が屋敷へ赴いた。
アランとは異母の従姉妹と名乗っていたけれど、ジョディには初耳、むろんサラも誰も正体を見極められず、シレーヌの悽愴な妖しい美しさに混乱してしまう始末、それこそホルンベルグ特有の魂胆やら画策、うさん臭さは一流品らしき服装や宝飾の輝きに比例してしまうありさま、夫の不明をついた外連味ある訪問はジョディに嫌悪感を抱かせて当然だったが、どうしたわけかそれほど悪感情は働かず、代わりに彼女が仄かに漂わせている芳香に死臭を感じとってしまった。
その方がもっと不気味な思惑を宿した明証になるはずだったけれど、辛辣で陰鬱な美徳が殊勝で陽気な悪徳にすり替わる詩集をひも解き、そらんじることに比べれば、他者の風貌や体臭から思い描く現象はすでに体良く畳まれており、あとはどう開示するか、音無しの仕草は淑女の誉れに違うことなく気風を通し、さほど骨折りではなく感じた。
この屋敷に来てからというもの、果たしてジョディは自分を押し殺していたのだろうか。
うわべには波風立てない感情へなびいている様子だったが、それにしても突然の暗転にしろ、思わぬ展開をひとごとみたいに眺めている神経が、忌まわしき境遇との折り合いで培われた鈍麻の末、身についた防衛だとしたなら、そつない健全さは枯渇を装って余りあり、静けさに愛でられた貴婦人の面影は哀しみを背負ったまま、不吉な貞淑ぶりが守られる。
そして訪問客シレーヌの華美な冷たさはジョディが演じる仮面劇をいっそう引き立てた。慰撫なのか、挑発なのか、てきぱきとした身のこなしから受ける印象は横長に切れたまなじりに添って恭しくも躍然としていて、声の基調がすでに定まったふうに聞こえてしまうのも、笑みと口角が寸分の狂いもなく同期して見えるのも、横顔に陰りをあたえる為、さらっと一条ほつれ髪をなびかせている風情も、恬淡な境地から抜け出す周到な身だしなみにすら映ってしまう。
これは直感でありながら、もっと親密に結ばれる花束となって、より近しい距離に花弁が匂い立ち、初見の場面はさながら深い森のなかで邂逅する隠しきれない驚きを生じさせ、嗅覚を優先させるのだった。しなやかな女狐の戯れのように。
停滞と沈潜の安らぎにあったジョディの心模様に艶やかなひびが入り、見定めが時間の圧縮を成し遂げると、印象に先立つ予感めいたざわめきが走ったけれど、深追いは間合いを見計るまでもなく、神妙な気分が朝もやのよう揺らぐままにしておいた。
簡単な挨拶をすませると、シレーヌは話頭を緊迫に転じた。
「連絡はなし、間違いありませんね、あなたに書き置きとかされてませんか、まだ見つかっていない、しかし探り当てられるかも知れない、慎重にアランの性癖を手繰ってもう一度、お確かめいただけませんこと、なければ、仕方ありません。となると、やはりアランは失踪したとみなされますけど、いかがでしょう」
しとやかな聞き手に甘んじようと願っていたジョディは、眠気が急に飛んだとばかり、
「一日遅れているだけですし、いえ、アランは几帳面でしたので安直な言い方は禁物ですね。でも急によんどころない責務を命じられ、秘密裏の行動を余儀なくされたとか、事故なども念頭に置いてよろしいのでは。いきなり失踪と呼んでしまうのは抵抗があります」
なるだけ穏便なもの言いで応じる。
「それは心情ですか、それとも覚めた推測ですか」
「両方です。もっとも覚めきったというほど冷徹な見解ではありません」
「失礼しました。わたしどもが懸念するのはアランの人格にあるのです」
「と申されますのは」
「ホルンベルグ陣営、ええ、このような名称は変ですけど今はかつての正統な親族を中心とした結束が肝要、だからあえてなのですが陣営はもとよりアランの後継だけを願っていたのではありません。もっと重大な、世界中を震撼させると同時に生命の根源まで切りこむ秘匿された大儀を掲げているのです」
「ずいぶん壮大な展望ですね」
「これはホルンベルグが爆薬や錬金術より悲願としていた研究であり、そうですわ、この際まわりくどい話しは時間の無駄ですから、本当はね、アランが失踪するまえに得心いくよう伝えたかった。でもどうやらジョディあなたは思っていたよりもの分りが良さそうだわ。だからアランの行方うんぬんは棚上げしておき、あなたの身の振り方、いえ安全を最優先したのち、わたしが語る方針に従ってもらいたいの」
明け方の空に向かいもの想いに耽っていたジョディは薄く苦笑した。が、すぐに真顔に戻りこう言った。
「従うって、それは命令ですね」
「ええ、残念ながら、しかし宿命だったと知れば、意識は変わるに違いないはず」
シレーヌの声色にも凄みが加わる。
「まさか、あのエミールの後を受けて今度はわたしが愛娘だったなんてことでは」
茶化すつもりはなかったが、相手の表情に焦りを見てしまったせいで、失言なのかどうなのか、戸惑いだけが残された。置いてきぼりになった心細さを支えにして。
「安心してそれはないわジョディ、父上の記憶は鮮明でしょう、それとも暗示とか催眠術の類いがなせる業かしら」
「そう言われると余計に分からなくなってしまうわ」
「ねえ、あなたはこれから眼を覚ますのよ、分かる、だから落ち着いて聞いて」
そのときジョディは覚醒よりも記憶の刃で切り裂かれている自己像におののいた。
確かあの街角でアランは似たような台詞で近づき、あれよあれという間にここでの生活が始まり、それが切実とした意味合いを持ち、歯ぎしりするような軋轢もまた不本意ではなく、矛盾に矛盾を重ね透徹した了見に収まっていたとしたなら、しかし浮遊する怨嗟は亡霊であるわけもなく、ただ前世に取り憑かれ死に場所を選び、道連れを求めたに等しいケイトの情念は謎のまま、感覚が死んでしまったのだから、世情がどうあれ、婚姻を強いられ生家に帰れなくなってしまった嘆きは大きく、根深い。
「次は覚醒ですって」
呆気にとられたような声を出したが、世迷い言はもうたくさん、内実には燃えるような怒りがこめられていた。
[644] 題名:悪魔の首飾り〜5 名前:コレクター 投稿日:2025年09月16日 (火) 05時26分
ねえ、煙草持ってきてくれた、一本欲しいわ、時間はないけどかまわないでしょう。要領よく受け答えするから、それくらい心得てるわ、ここへ来るまでに頭のなかでまとめておいたのよ、これまでもあったことだし、慣れたもの、あら、ちゃんと頼まれていたようね。いいわよ、そんな箱ごと貰っても仕方ないわ、お屋敷では吸えない、もし見つかったらことでしょう。話しの途中で二、三本もらうからあんたに預けとくわよ、と言ってもまた会う機会はそうないか。
で、用心深いのはわかるけど、こんな辺鄙なところまで呼び出して、言いつくろうの大変だったのよ、あらかじめアランを外出させてくれたのは助かったわ。ラルフの奴、馴れ馴れしい態度で一緒に行くってきかないものだから、うまくおどけてさ、ご主人さまに花飾りをつくるからこっそり野原まで行って来るって、ええっ、ラルフも別口で呼び出されてるの、それは安心、密かにあとを着けてこないか気がかりだったのよ。
あたしのこと見張っているの間違いないから、色仕掛けに持ちこんだのはいいけど、べたべたされたりするの好みじゃないのね、主人の言いつけであっても公然と乳くりあっていたら、気分の緩んだ快楽ついでに戯事なんて軽く転がって、ちょっとした隙を見せてしまうこともあるだろうし、浮ついた恋情っていい加減な割には堅苦しくって、ふっとした瞬間のよそよそしさなんてさ、どれだけ愛撫で埋めようとしても妙に律儀な格好になってしまうから、そういう時はなるだけ眼を合わせず、軽い抱擁でもって虚脱の素ぶりを演じるの、ぎこちない軋みを感じたままじゃ、相手に油断をあたえるどころか、察知の糸口を差しだしかねないもの、とにかく精薄ぶりが疑われお終いよ、ラルフには別に肉欲の虜までなってもらわなくていいわ、解放は抑えられ、裸体のうねりも痙攣的な快感もあくまで精神とは切り離されたよろめきの反応に徹底しているつもり、そのあたりはあたしの手慣れた采配。
で、今のところアランだけがあたしを必要としてる様子。けどあたしはアランに拾われも、買われてもいない、あくまでアランはホルンベルクの指令に従ったのであり、その細部まで言及せず、あらましを了解していたわ。
だけど「なるだけ頭の弱そうな、それでいて天真な雰囲気をまとった肉感ある少女」って指定したというから笑ってしまうじゃない、もっともその嗜好が単に素直な望みだったのか、意味ありの選択だったのか、よく判明してないけど。
あんたはおおよそ知っているんでしょう。わたしのような中途半端な育ちの処遇を。
本当は機密事項なんだけど案外まわりは心得ていてね、さほど不遇なあつかいでもなし、本来なら娼館とかに売られてしかるべきところ、そこは稀代の人形師と言われただけに、出来そこないのあたしだって予備軍みたく生かされているわけ、もともと正規の人形ではないのだから、使い捨て同然なんだろうけど、ホルンベルグは少なくとも敬意を払ってくれたのよ。たとえ見掛けのあしらいだったとしても、まさに写し取ることの研究材料であって、娼婦として送り出される宿命までは背負ってないので、色褪せた装飾品に見向きもしない俗物根性とは異なる感性で、ちょうど用済みの文献を丁寧に保管しておくように、価値観の所在はあからさまにされることなくとも、歴史と進化に対する希望を抱き続けて、疑問符は果てしない遠方の悪魔に売り渡しながら、相反する美学を敬うごとく、見栄えの劣化には慈悲をもって接してくれたわ。
だから好事家向きの娼婦にもされず、こうして務めを果たしていられるのはあたしにとっていくらか矜持が保たれる。
あらっ、あんた初めて聞いたの、それは意外、でもまあ、そこまで内実を把握してなくたっていいわ。煙草もう一本くれる、つまるところ、あたしはニーナ人形の雛形、元ねた、真の少女らしさを異形に授けるための肉塊、影絵が織りなす説話への招待、導きによってあしらわれる倒錯の門、崩壊と完成の溝、底なしの怖れが魅惑と悦楽に変わりゆく時間の使者、君主や貴族ともなれば、まっとうな美少女より少年の粉飾が望ましく、しかも成育の止まった、花のつぼみが永遠の呪いを受けて生き長らえる畸形を愛してしまう。時間への祝福は凍結した氷の冷たさ、それこそが静止した情念なのよ。
あたしの顔はお世辞にも褒められたりしないど、少女から乙女へとうつろう清廉でかぐわしい時間の過ぎゆきの、四肢が青々とした枝ぶりのようにのびやかに、けれども花咲くことへの恥じらいがたおやかに、仄かなあらがいをもって流れるさまを、やがて匂いたつであろう甘酸っぱい胸もとに想いを託し、すべり落ちるような素肌のなめらかさに緩やかな、迷いながらも描き始めた曲線の意志を感じてもらえるなら、その格調は乱れをそこはかなく漂わせ、幻惑すべき新たなる造形美が生まれる光線のきらめきを放つでしょう。
あたしの裸体はそんなふうに大仰な、しかし少年には描ききれない発露を有していたわ。ホルンベルグやその取り巻きは熱心に、ときにはぎこちない探求心で、原石を磨きあげる学者のごとく、あるいは神々の唱歌にいざなわれ彫刻の手を休めることを欲しない職人のごとく、錬金術師さながらの陶酔に溺れていたの、あたしが汚れない顔つきで息を吹きかえすまで。
ニーナ人形に選ばれた少年たちがどのように霊妙な少女の影を身につけたのか、知るよしはないけど、まさか雛形であり続ける化身がごくごく自然な発育を遂げてしまったのは、もはや喜劇だったわ。
あたしの他にも数人の雛形はいたようね、けれどあえて顔は合わせられなかった。多分あたしだけだと思う、朱儒の誓いを破り女体の誉れに生命が息衝いてしまったのは。
ええ、あわてた博士らは知恵を絞ったり、神を呪ったり、迷走の本質にとまどって暴言を吐いたりした。けど最終的にホルンベルグは実験も甚だしいし、おまえの命に関わることなので危険は承知しているが、そう悲痛な面持ちで話しかけてくれたから、そうよ、簡単にたぶらかされていたかも知れない、猫なで声でね。
きわどい矯正や数種の投薬や、はたまた謎めいた祈祷のせいかどうか、もちろん自分でも分からないわ。数年かかったけどこの通り成長は止まり小娘サラが誕生したのよ。
そして幾歳月、取り立てて大きな試練も行き場を失う災禍にも巻きこまれなかったけど、ちいさな棘に似た痛みは全身をめぐっただろうし、むろん肉体的な傷に限らず、空洞を抜けるような居たたまれない不安に襲われたり、反対に信じられないくらい幸せな人付き合いが出来たり、いやに物悲しさの広がった草原を自由に歩いてみたり、背丈も顔立ちも肌つやも変化ないにもかかわらず、肉欲や食欲は旺盛になって、制御なんか関係なしの気ままを通した結果、次第に他人をあざむく術が身についてきた。アランよりあたしの方が年長だって知れたらみんな驚くかな、ラルフなんか縮み上がるんじゃない。
持てあます、そうね、誰だってそう考えるわ。別にあたしに限ったことでなくたって色んな場面があるはず、しかし用済みではなかった。やはりホルンベルグは人格者だった、あたしなりの生き方をちゃんと見出してくれたわ。成りすましとか道化の才があったのかしら、それも果報、で、こうしてアランもラルフも騙している。
ジャン・ジャックの謀反が引き金になって商会は分裂してしまったようだけど、あたしはホルンベルグ直属の任務をまっとうしてるつもりよ、あっ、そうね確かにつもりなんて言うと聞こえが悪いわ、ところがあんただって信用できなってことになると、話しは違ってくるでしょう。
でもあたしの身元を知らなかったのが逆に信頼の証しになりそうね、いいわ、内情を伝えましょう。
と言っても、まだ推測の域を越えないわ、結局ジョディにまつわる秘密でしょう。あとの人間がお互いどれだけ腹の探り合いしたって、所詮おなじ穴のむじなよ。どうしてアランはジョディを後妻に迎えたのか、その思惑こそがひも解かれるすべてだわ。
マーゴは面影の似かよりを提言したけど、そもそもあの老女が一番の曲者で、なぜかと言えば、あたしにニーナの姿を透かし見たとしかいいようのない態度、だぶん余程の苦い想いを抱えていたに違いなく、しっかり調査してもらえば分かること、おそらく以前の奉公先でニーナが引き起こした問題やら騒動やらを目の当たりにしていて、かなり警戒し過敏になっていたと思う。その行状なり真意を問えない腹いせに、もっともでしょう、アランがあえてあたしを連れて来たとするなら、おもてだっての詰問はおろか、こっそり聞き出すのも無理なはず、だから隠れて体罰をあたえアランに内通されるかどうか、見定めようとした。が、あたしは白痴の素ぶりで純真を気取った、どう、これだけでないわ。
あくまで推察だけどね、アランはあの古株の女中を見張り役だと最初から怪しんでいたのよ、あの淫らさは彼らしくない振る舞いだし、大仰すぎたから却って密偵たちを惑わせるどころか、隠し事の匂いが強まったあげく場所は特定しかけてしまった。
あたしも含め誰も信用してないから、そう当然ジョディもよ。独りで仕舞いこむにも限度があるわ。もっと穿つならあえて自分から内情をさらけだしたい、そんな気配さえ安価な玩具じみた煙幕みたいに漂っている。
さてどうなるかしら、はあ、面白そうだって、そう、あっ煙草最後に、別にあたしと代わってあげてもいいけどね、色んな男に抱かれても平気、それに髪の毛むしられたり、頭の悪いとことん薄弱だと蔑まれたり、嫌らしい言葉を浴びせられるのよ、でしょう、だっだら外部調査員のままでいた方が気が楽よ。気だけじゃない、何もかもよ。
[643] 題名:悪魔の首飾り〜4 名前:コレクター 投稿日:2025年09月09日 (火) 05時46分
抜かりはないかって、さあ、どんなものだろう。いや、そういうつもりじゃない、しっかり任務は遂行しているよ、ただ、アランは勘づいていると思うんだ。警備役といったって、朝から晩までへばりついて不穏なもの音に耳を澄ましているわけでないし、見た目も立ち振る舞いも庭師に徹していたつもりだが、その裏でアランの見張りに専念するのは、どうしてなかなか際どく、役者並みの技量を求められるってこと、密偵の素振りなんて思わぬとこでぼろを出してしまうからね。
逸脱のそしりを受けた女中サラとの関係にしたって、アランの考えを深読みするまえに、なんか不適だけど涼しい微笑みを浮かべながら、まるで戸惑いの反応を見定めるような調子で遠まわしに奨励されてごらん、いくら献身的な務めでも骨抜きにされた密偵の無様さを思い知るだけだよ。
現にサラからもご主人さまの命令で避妊薬を飲んでいるので問題ないわ、なんてしたり顔で言われてしまうし、今回の複雑に絡んだ秘密指令はいとも簡単に見破れたあげく、単なる忠実な番犬みたいに成り下がってしまったのさ。ああ、分かっているよ、それでも番犬の振りして全うすればいいのだろう。
ぼやいたところでどうしょうもないし、サラの素性に疑いがあるから、関係をもってでも探れるものは探るつもりさ、しかし情報機関のおえら方は、いったいめまぐるしく変わる情勢をどう捉えているのやら、造反者たちへの反撃は成功、これから制圧に向かい、ジャン・ジャックとの講和をはかってなるだけ流血を避けようなんてきれいごと、果たして間に受けていいのかどうか、上層部の睨みが不動ならともかく、念には念をという理屈もほどほどにしないと疑心暗鬼を宿したまま、いつまでたっても情勢の揺らぎは続いて、敗色濃厚だった頃に苦肉の策で残された精神主義、嫡子への帰趨にまた反旗をひるがえすはめに成りかねない。
まあ、そこまで劇的な展開はあり得ないにしても、そういう割にはアランに不穏な動きはないか、いかにも信用おけない構えでもって見張れというし、誰にも相談なくサラを雇い入れ側女の扱いをしたらしたで、小娘こそ新たな敵国のまわし者だと訝る。
抜かりはないけど、半信半疑でなくほどんど実感で報告するなら、いや、責任もって言い切れるのかって詰め寄られると、確かに反論は出来ないけど、それでもこれが報告結果だし、たとえ妙な思惑に、おれがサラの色香に溺れて懐柔されたなどという邪推を払って強調するのは、あの小娘を身近に置いたのはアランの知謀でも日和見でもなく、ようするにがんじがらめの身上に対する積憤だったと思う。
エミールの件だって聞き及んでいるはずで、穏健派だなんて祭り上げられ、これまでの危険な経路から学んだ実績を有意義な外交へ結ばすとか、絵に描いたような理想を掲げられたら、いくら実践知らずの書斎人と揶揄されるアランだって馬鹿じゃない、猫の目のように変転する状況こそ、狭い額のなかで繰り広げられている茶番に思えただろうし、窮屈なのは世相の方じゃないか、いい加減ここから自由にしてくれって叫びを上げたとしても別に不思議じゃない。
おれがもしアランの立場だったら、気が滅入ったついでにささやかかどうかは分からないけど、ああいう知恵遅れの雰囲気の、その割には悩ましい豊満な肉体をした小娘に同じようにうつつを抜かしていただろうよ。
これは見聞というよりアランに対する賛辞なんだが、密偵を見破ったからこそ、おまえもこの天真爛漫の女体を堪能しろと、非情の任務に縛られているおれを気づかってくれたようにも思える。穿ち過ぎとなじるのら、彼のおおらかな博愛主義が白痴的に伝播したとでも喩えておこう。詩的な言いまわしと非難されようがとも。
えっ、そうかい、マーゴ婆さん、そんなふうに言ったか。おおよそ間違いないけど、あの婆さんの厳格さにはいわゆる型苦しさを凌駕した偏りがあって、それは潔癖志向とか好き嫌いの激しさも含んでいてから、サラをひとめ見た途端に不快な顔を作り、それからというもの折に触れサラへの小言を絶やさなかったし、ひたすら打擲をあたえ続け、もっとも叩いたり傷つけたらアランに知れてしまうので、もっぱら髪の毛をつかんでいたぶっていた、しかも抜けない程度の手加減だったから、かなり陰惨だよ。しかしサラはそんな体罰に甘んじたのか、天然のありようで意に介さなかったのか、主人には告げ口や悪態はおろか愚痴ひとつこぼさなかったんだ。
それを承知したマーゴは逆に小馬鹿にされ軽んじられていると思いなし、憎たらしいという気持ちをあからさまにするばかりで、アランから叱責されるのも覚悟のうえ、ますます陰険に眼を釣り上げて、サラをいたぶったけれど、そういう関係性がお屋敷の空気をかき乱しているのはあきらか、誰だって気配を察しないわけにはいかず、いくら穏和なアランだって自身の性格に規範ばかり定めていることは無理があり、要は解決策を案じてみたけれど、もはや魔女のごとく一途なマーゴをなだめすかすのは不可能と見極めた。
そうなるといよいよ老練な女中を追いやる算段をしたようで、それというのも温厚な性格にはいささか不釣り合いなやりくちを用いて、まるで壁に飾られた荘厳な絵画の醸し出す重圧のごとく、眼に止まることの必然性になぞらえ、ありのままの姿態を、下半身に隠れた自由を、夜にまぎれた淫猥の空気を、静止を振り切って乱れ流れるよう画策したのさ。
いや案外、アランは素の感情で行なったかも知れないな、とにかく全裸ではなかったが、むきだしの股間が重なる情景は過激そのものでしかなく、サラの白眼を向いて嗚咽を上げる響きも淫猥に満ち満ちており、昼日中から寝室以外の場所、踊り場や回廊の途中、食卓の脇といった見晴らしをアランは好んだのか、これみよがしの情交に耽るものだから、マーゴはあまりの破廉恥に眼のやり場をなくしてしまって、さすがにいたたまれず、このおれに泣きついてきたのさ。
なにが爺やだよ、それまで若造と見下していたくせに、まるで同じ境遇において等しい責め苦を味わっているような仲間意識のお仕着せとしかいいようのない歩み寄りじゃないか。
が、アランの配慮でおれまでもサラと睦まじくなってしまうと、マーゴは完全に自分の居場所を失ったのさ。そうだね、追い打ちをかけたジョディの無関心ぶりも堂に入り過ぎていて決定的だったよ。
憐れな老女中は崩れ落ちるごとく、熟練のなりわいを逸して、打ち砕かれた動揺を隠しきれないまま失態と無作法をくり返しては感情を昂ぶらせ、箴言こそ控えていたのだが、相当に冷静や沈着からは離れてしまっていて、反対に落ち着きはらった主人は、一抹の寂しさを声色に託し、見るに見かねるまなざしを投げかけ暇をあたえるという次第さ。
最後の独白めいたマーゴの心情吐露は真実だったと言ってあげるべきだよ。これまでの功績を揺るがせたにせよ、切実な審美眼と人生の機微を謳って離職の銘としているけど、どうしても黄昏を美化したく願っていたようだな、その辺が古参につきものの執着であり、気位の残り火に歴史を照らし合わせてしまう所業かも知れない。爺やと呼ばれた若造の胸の奥までは深く染み入ったりしないが、気持ちの片鱗くらい理解できる。
気位を浸食する老醜の自覚は、過ぎ去った若き美貌と匂いを狂おし気に振り返り、お屋敷をあとにする日のこと、さぞかしおれにも悪態のひとつも罵声のふたつも浴びせたかっただろう、だがマーゴ婆さんは穏やか面持ちを保ったまま、あとはよろしくとだけ言い残して、坂の石畳を静かに降りていった。気の毒なんてあまり持ち合わせのない感傷が風のように吹き抜けたよ。
なんだって、想い出はいいから早くサラの素性を教えろって、よく言うよ、好きで感傷にひたっているわけじゃない。情報機関だからこそこれくらいの心得は入り用だと思うけどな、細やかな悲嘆も晴れやかな嫌味も、取るに足らない記憶も、想像の源泉にして探索の符号だよ。そう慌てるなって、時間の経過は必ずしも無駄な暇つぶしに即すとは限らない、視覚には捉え難くても刻まれる空間を埋め尽くす密度はかけがえない感触を持っているのさ、想い出も予感のうちじゃないか。
もっともこの白痴めいたサラという小娘をひもとく限り、おいそれとはいかない経験値が手もとで乱れてしまうけれど、他でもない、痴女と天女に寄せる気まじめで奔放な、奇跡と自由を手中におさめていながら決して安住の地に腰を据えることなく、快楽と不可能が意味合いをめぐり平行線にたどってゆく感覚、つまり動じることの振幅が測れなくなってしまうという場面において、蔑みが優しさに、腹立たしさが愛おしさに、些事が一大事に変じることに気づかされる。
結論から話そう、あの舌足らずで薄っぺらな喋り方や、くねくねとした仕草の影にひそむ大人びた駆け引きに、そして大股開きの恥じらいに健康の証しを見てとるとき、愛撫を待ち望んでいないのにすぐさま発情するよう仕込まれているのは誰の采配なのか、そんな思惑がもし自然な発露ではなく、不自然きわまりないのなら、サラは間諜の疑いから逃れられないだろうね。
しかし残念なことに真の姿が名声を誇る舞台女優だとしても、サラには老成も偽りもない。演じるには軽やか過ぎる、風より雲よりも。あの柔肌を持つ可愛い小娘は永遠に無垢だよ。
なるほど、実務的じゃない、けど情報機関にはそう伝えておいてくれ。いや、まさか、それはない、ことが落ち着いたあかつきにはサラを貰い受け隠遁するとか・・・非情だね、次の任務が待っている。
えっ、ジョディの様子、おれからは特に、というか、それはあいつの役割だろう。熱心にしかも優しく、傍目から見ても下心まるだしの隙だらけ、呆れるほどに微笑ましく料理を伝授していたよ。あの腕前はたいしたものだ、密偵にしておくのが惜しいくらいさ、まったくもって。
[642] 題名:悪魔の首飾り〜3 名前:コレクター 投稿日:2025年09月07日 (日) 06時18分
ジョディさまのことと申されましても、わたくしのお仕えしたのは短期間ではありましたが、信頼を得てお屋敷へ務めさせて頂きました身、おいそれとあれこれ口外するのはいかがなものでしょう。
なるほど、ここまで尋ねてこられたのは火急の事態、当主アランさまに降り掛かった凶変に誤りはなさそうですし、もしお役に立てるなら、そう申し上げましたうえ、当たり障りのないことがらだけをお聞かせするのが本分かと、いえ、正直なところ、ジョディさまがお屋敷にまいられまして三月ばかりでうら若い女中と交代するよう仰せつかったものですから、決して得心の辞職ではなくて解雇みたいな形でございました。もちろん相応のお手当てを頂戴してでのことですので、不満ばかりとはどうにも言い難く・・・その辺の事情を汲んでもらえるのでしたら、わたくしの領分ですこしだけお話させて下さいませ。
人格をとやかく言うのも変ですが、なにしろジョディさまは純情すぎるくらい一途なところがございまして、はい、それはもう旦那さまのことを信頼しておりまして、いえね、アランさまにはその旦那さまというのはやめてくれとおっしゃられていたのですけど、老体のわたくしには分相応といいますか、若殿然とした風貌を讃える意味でもその方がお呼びしやすくてね、それはジョディさまも同様に感じておられた様子、一歩二歩下がるのは当然、三歩ほど後ろに身をかがめて恭しく尽くすお姿を拝見すれば、ちゃんと分かりますとも、あの姿勢にうそ偽りはない、心底から旦那さまを敬愛し尊敬されていたに違いないのですよ。
訳あって今日から奥方として当家に参ったと、いつなく険しい口ぶりでそう申された旦那さまの心中を察するまでもなく、やはりホルンベルグ家にただならぬ難儀が降りかかっているのが知れましたし、かねてより取り沙汰されていた嫡子に関する内情もはっきりしてまいりましたので、そうですわ、アランさまこそがホルンベルグ家の正統の血筋、これまで隠遁の立場であられたのは、影武者を何人か擁立していましたが、その方面に危害の及んだ場合、穏健派として明確な姿勢を打ち出し、秘匿された連絡網を発揮させ再建に努める、かような重責を担ってしかるべき身分だったからでございます。
ご存知かも知れませんけど前の奥方が二年前に不慮の事故で亡くなられて以来、当家に漂い満ち満ちていた穏和で静けさの風の向きはがらりと変わってしまい、忌まわしげな緊張と申しますか、悪しき凋落の兆しが煙たい埃みたいに舞っては、日々の過ぎゆきに悲しげな空気が吹きこまれたのです。
はい、そうでございます。わたくしはちょうど四年前、新婚のふたりが当家に赴くのと同じくしてこちらへ奉公させて頂きまして、以前はさる貴族のお屋敷で女中頭をしておりました由縁から、ええ、しばらくは引退の身で田舎に引きこんでいましたけど、ありがたいことにたっての要望、わたくしの遠縁にあたる者がいささか貢献を、ここは関わりだけと何とぞ身内への言及はご容赦下さいませ。
それから大した難事も災いもなくと申したいところですが、前の奥方を亡くされてからというもの、人懐こい笑みを浮かべがちの、けっこう気さくな面をお持ちだった旦那さまは、やはり神経質になられた面持ちで、元々ひとの出入りも数えるほどだったのが、皆無になりまして、はい、確かに身の危険やら悪しき兆候をひしひし感じておられたと、でもそれは仕方ございませんし、一日の大半を書斎で過ごされる方が無闇やたらの放蕩に走られるよりか、ずっとよろしいかと、わたくしはそう見守っておりました。ありあまる栄光の灯を絶やさぬ心持ちで。
と、まあ、旦那さまに人柄はこれくらいにさせてもらい、そうですわね、亡くなられた奥方はたいそう器用と申しますか身軽な方で、ええ、家事全般とは言いませんが食事の方はほぼ手抜かりなく、たぶん不穏な暗躍を未然に防いでいたおつもりなのか、あら、もう聞き及びですの、ではいくらか補足しておきますと、一体どこでめぐり合ったのやら当然ながら語られるわけもなく、しかし一挙一動は実に雄弁そのものでして、最初は家財類の運搬を担っていました若衆とわたくしが給仕ならびに調理をおこなっていたのですけど、三日も経たないうちにご自分から専任するとおっしゃられ、朝のめざめも鮮やかに、礼節の美しさはもちろんのこと、清掃や後片づけの手際に目配りしてそつなく無言の圧力を、それがまるで多数の使用人に対する作法にも見えるからなお驚きで、いえ、これはうわさでしたけど、どこでひとり歩きしたのやら、でも相当まことしやかの、掛け違うことのない見定めでして、奥方は当家とは縁遠い農家の出であり、おさない時分より商家や富豪の小間使いに調理見習いに勤しんでいたとか、決して身分のある方ではなかったようで、そうなりますと、姻戚や血統を重んじる家風に反する由々しい婚姻でございますが、そこは何かうかがい知れぬ叡智を秘めているでしょうか、不思議と分別が整ってしまい、遡るまでもホルンベルグの出自ほど謎に包まれた、怪しい光芒を放つものはなく、魔術や心霊といった領域を伝い、未知の標べを求め、流れに棹さす宿命を背負った無類にのみこまれるまで。
ましてやあのような亡くなり方、そうですの、雨降る夜会の帰り道、体調がすぐれないと早退した身を襲った不可解と言えばそうとも、偶然と思いなせばしかるべき嘆きに落ち着く不幸でございました。ええ、詮索など致すものですか、ジョディさまのお顔を拝見するまでは。
見当はつきましたかしら、なるほど顔かたちこそ面影そっくりでしたけれど、態度や仕草はまるで違っております。そんなジョディさまに亡き方の礼儀と手腕を受け継いでもらうのは大変な骨折りだったとお考えでしょう、ええ、それが普通ですわ。ところが一見穏やかそうな性格の裏に宿した熱情は火のごとく盛っており、閃きは鋭く矢に似て素早く、旦那さまの思惑もわたくしの方針もあっという間に会得してしまったのでした。
わたくしがお払い箱、あら、つい文句が、でもそれはそうでしょう、もと居た通いの庭師はさておき、新たに雇い入れた料理人に食事を託し、これといった役割を果たすわけでもなく、そこにまだ年端もゆかない小娘をお屋敷に引き入れる始末、不満などこぼしてはならないのは承知しておりますが、内心では納得できないわだかまりが積み上がっていましたし、いえ、人事を解雇を嘆いているだけではありませんの、その小娘が問題なのです。そして透徹しているようなジョディさまの演じる見事なまでの忠節と純情に歯がゆさを感じてしまうです。
当家の主人として側女を幾人置こうが、鬱積した欲情をどう晴らそうが、嫡子として身分にかなった振る舞いと見なされるのであれば、わたくしなどの忠言を取り上げていただく必要もありませんし、口幅ったいとしかいいようのない勝手な義憤がまかり通るわけでもなく、ただ胸を締めつけるやり場のない苦言が誰かに聞き入られ、不遜を覚悟でもし値踏みが許されるのなら、こんな悪態はつきたくないのですが、あの素性の危うい、少々おつむの遅れた、お世辞にも美形とはほど遠い小娘に嫉妬している自分がなおのこと情けなくて、それはジョディさまでさえ黙認されている淫らな交わりをあからさまにした旦那さまへの抗議なのでしょうか、年甲斐もなく王子さまという存在を描き続けた密かな願望はしぶとく、もてあました末に白馬にまたがる爽やかな幻想をあたため過ぎたみたいで、どうやら尊崇の念こそ、わたくし自身をねじ曲げておりましたのか、しぼんで弱まった理性を呼び戻してみても、ほとんど悪あがきの、溺れる愚者のもがきしか浮かんでこないのです。そして年老いてぼやけた色欲に見えてしまうのでございます。
未然の構えがもう少し働いていると信じていたせいで、余計に失望を深める始末、黄昏の道を歩む姿にもの分かりのある取り澄ました風格などまとわりつかせ、悦に入っていたのも加齢の境地だとしますと、枯れ果てているにもかかわらず、孫みたいな小娘のやけに目立つ肉体のふくよかさに嫌悪を覚えながら、すすんでたぶらかされている旦那さまの心境を察したり、逆にとことん悪女の性分をまる出しにする小娘サラが憎くて仕方なく、解雇を告げられたのだから何ごともなかったふうに忘れてしまえばいいものを、執念深い蛇は鎌首をもたげてやまず、その嫌らしさに自体に我慢ならなかったのですから、サラの肉感に遠く褪せてしまったあこがれを見出していたに相違ありませんわ。
せめてジョディさまが毅然としたまなざしてサラを諫めてくれたら、きっと救われていたのでしょう。はい、でもこんな想念はわたくし個人の限られた砦でしかありません。純粋無垢を演じ切るジョディさまも含めまして、そうまやかしの出来事と言い聞かせておりました。ええ、今でもそうですわ。
これくらいでよろしいかしら、本妻と側女の確執とか、アランさまの情況とか、ホルンベルク家の凋落とか、早々にお屋敷から退いたわたくしに語るすべもございません。
あっ、料理人と庭師ですか、さあどうでしょう、接しても親しくはなかってのであまり知り得ませんの、これはあくまでわたくしの印象でしかありませんけど、料理人は四十がらみの渋面ながら愛想がよく、ジョディさまに懸想していた様子、庭師は爺やなんて皆から呼ばれて陽気に振舞っていましたが、まだ青臭い若者でサラと無駄話をしているのをよく見かけました。ふたりとも明るいのが取り柄、その程度しか思い出せませんわ。
なにせ老人のたわごと、あまりお役に立てなくて申し訳ありません。
[641] 題名:悪魔の首飾り〜2 名前:コレクター 投稿日:2025年09月02日 (火) 04時25分
夜風を通した寝室へひとりたたずむジョディは、二日前より留守にしている主人アランが口にした戒めとの距離感をはかりつつも、その歩み寄りにはどこか夢遊病者を想わせる心あらずの状態が淀んでおり、受け止めるべきことをはぐらかしてしまい、冷笑をかみしめながら意識を遠のかせているような、困惑と無神経が居並ぶ心持ちで床を踏みしめていた。
手にあまる難題をまえにして、不遜な顔色が鏡に浮かぶ様をひとごとみたいによぎらせ、言いわけのゆくえはほぼ見届けず、あるがままの境遇は床下へひそむねずみの気配に託す。
小さな抵抗と呼ぶには意志薄弱な、包み隠された思惑の消えかける息づかい。開けた窓の隙間に見合った夜風が髪に触れる。闇を含んだ感触は目覚めを促しているのか、それとも眠りを赤い悪夢に委ねているのか、アランの不在はジョディを寡婦のような孤独へといざなう。二日間の寂しさ、あるいは祝祭。
出会ったときから手厚いもてなしを受け、それがたとえ秘密裏のいわくを孕んでいようと、脅えを招いてしまう謎めきに満ちていたとして、迷い子同然だった身にしてみれば、柔らかな声遣いや丁寧な態度は訝る気持ちを軽くさせるに十分だったし、半信半疑の揺れる心情にそれほど時間は費やされず、なにより目立たないせよ全身に伝う震えが収まり、多少の危惧を抱いていたにもかかわず、上目遣いの潤んだ瞳を相手に投げかけた時点で小刻みの遠のく安堵を知り、波打つ信頼の寄せるみぎわの浅瀬を覚えたのだから、崩れ落ちるような激情に襲われることなく、落ち着きの親しみに軽く会釈するのは当然の成りゆきだった。
やがて優しさを実感するのが遠まわりな日々と、性急な胸騒ぎを抑えていたことに気づいたころ、ジョディは初めてアランの接吻を受けた。
これまで幾度かアランはしなやかな素振りと慈しみの掌でジョディの頬を撫で、おもむろに抱き寄せたことはあったけれど、指先が髪をすくように流れると、すぐに亡き祖母の匂いと暖かな抱擁が想起され、円錐状に収まった記憶の回転によってこぼれ出す乙女の恥じらいをその身に感じているのか、慎みと心頼は薄い意識にそって不服を示し、きつく我がものとする行為は虚脱とともに回避され、微かな吐息だけがジョディの横顔をかすめていった。
内心よりどころが定まらず、不安定な期待が遅くゆるく回転するなか、こらえきれない気持ちと一緒にあふれる涙を押しとどめているような感覚に陥ったが、不思議と涙腺は緩まずに、感謝の言葉すら出てこない。懸命に見つけようとしているのだが、声にならない歯がゆさはもどかしい胸のうちへとこだまするだけだったから、不甲斐ない動悸の高まりに従うしかなかった。
その日は新調された衣服が届けられたこともあって、ジョディの気分は真夏の白雲みたいに陽気な静けさをひろげてた。いつだって自分の為に誂えられる着飾りほど素敵なものはない。夜会服ではなかったけれど深い気品をたたえる藍色の仕立てに眼を見張り、小躍りしたくなる心地に満ちていた。しかし同じ気分のなか
にあって忘れたく努めていたのは、アランと一緒に仕立て屋へ赴き寸法を測られた際、満面に笑みを出せなかった疑問符、それはうれしさに付随してまとわりつく汚点のような、
「どうして彼の家の衣装棚にはわたしに合うものが置かれているのだろう」
という、それほど危険ではなかったが、奇妙な突起物を扉に見出したふうな懐疑に突き合ったのだった。新調される生地の放つ美しい光沢の影にありながら。
意識を保つまでもなく、冷静さは欠如していたし、当惑の体で声を掛けられた刹那を思い起こせば、その時点でアランが何者なのか知るゆえんは、穏やかな表情で手渡された特別刷りの名刺、かつて一度だけ眼にしたことのあるホルンベルグ商会へ属する特定な人物にあたえられる肩書き、いや明確な地位や部署は描き示してはおらず、金箔に縁取られた仕様がまぎれもない証しであった。
「不用意に驚かせるつもりはありません。しかし、さぞお困りの様子、同じ雇用者としてまずは説明をさせて下さい。それから今後の身の振り方を」
親友のケイトに取り残された矢先であり、相当に感情は脈打っていたし、宝石店の窓に映る自分の影に急速な不安を抱いて腰くだけ、真昼の太陽が無粋なくらい続く街並みに降り注ぐ光景にあって、高笑いだけしかもよおせない麻痺した感覚を叱咤するよう、前世との許嫁やら宝石をめぐる価値観やら、まるで鬼ごっこのありさまで消え失せた影に強がりを言い放っていた。
そんなさなかにあって相反する切なさを際立たせるのは、かけがえない親友から見放された悲愴感であり、ゆくえの分からぬ土地が四方に延びる混迷であり、因縁めいた恋情が連れ去られた時間の仇なす隔世の感であった。
奇抜な発想に嘲笑われているような孤絶した立場が、忌々しくも浮遊している。その足取りをたどることはもはや風景を追うことでも省みることでもない、白痴になりきれない憐れな徘徊につきまとう埃の舞いの、辛うじて白濁した透明な空間に溶け入るだけである。
琥珀色に染まる夕暮れどきを殺伐と思い描くが、辺りの景色になじむことはなく、まだまだ昼下がりの実情を陽光は素肌に焼きつけ、朦朧とした意識にせっかちな加減だけが適当に色づいていく。深まる夜の気配さえもが先走り、ついには燃える朝焼けに邂逅する。船出の意気込みは時空をすり抜け、今ここに在る。
「見つけたわよ、ケイト」
のどかな春の日差しは遠い道のりを称揚するのか、逆巻きの時間に溺れたジョディは湾岸に近くにつれ、空っぽになった欲望を讃えていた。
「大丈夫です。ご安心を、僕はあなたの味方ですよ」
岸壁まで歩を進めていたジョディの耳に汽笛が鳴り響き、大きなためらいが吐き出された。
何ごとか確かめる余裕もままならず、早急に駆け上がる思念にとらわれ、胸の痛みを感じてしまうけれど、心底悲嘆に暮れているわけではなくて、反してどことなく空騒ぎのような、せわしなさに近い動揺だとほのかに察してみれば、すべてが不十分であることに拘泥してしまい、したり顔で未明に別れを告げている感傷に流れ落ち、それでも動体視力を高め外の闇を見つめている様にふと気づくと、飼い慣らされた家畜がときおり鋭い爪を立てる抵抗に似た予感に導かれ、沼地へと踏み出す足取りの覚束ない、どこか不自然な、だがおそらく方角にあやまりのない歩幅だと認めながら、夢よりも更につかみどころのない傷あとを探るため、用心深く息をひそめる。
集中力に欠ける気概がおおむね気だるさをともなっているよう、萎縮した神経は間延びを欲し、ごくまれにだけれど、水草の想いを乗せた粛々とした風情にひたれる瞬間に出会えることがある。
謎かけには不向きな瞑想と知りつつ、言葉にならない手触りやおぼろげな風景を迎えてしまうとき、多分いつも形象化しようと焦っているので、きっとたった今も五感に触れる先端を引きちぎろうとして、必要以上に張り詰めてしまい、結局は逃げ去る色彩の欠けらを、色落ちはおろか丸いのか三角なのか、その形状すらあやふやで、瞬きひとつで消し飛んでしまうくらいの体たらくなものだから、嘆かわしいのやら、疎ましいのやら、こそばゆいのやら、気まずいのやら、それでもこじんまりした想念のふたを開け、なんとか片鱗だけでも取りこもうと躍起になってしまう。
なお難しいのは急に鼻腔を抜ける不明な匂いであり、ほとんど果物や花の香りといった芳しくも留め置けない稀薄に対する定則だけが紋切り型のごとく残され、あとは焼き栗の弾く勢いに似た調子で、的確な類推が働けば運よく、記憶の奥底にしまわれていた情景が、ちょうど浅瀬の底で揺らめいているものだから、そのままわしづかみにたぐり寄せたく願ってしまうけれど、匂いの実体なんてどうあっても確かめようはなく、その匂いが香ったという、かつて起こったに違いない出来事と呼んでさしつかえのないことがらまで連なるのは、まれであり、古い香水瓶まで到達することはあっても、それが凝縮された郷愁の空瓶でしかないことにゆきづまる。
奇跡は遥か彼方の幻影を指し示したあげく、霧散する方便で手招きするのだ。
それでも奏でられた音楽の放つ音色や、さまざまな生活音の響きあう場面に対峙したとき、それぞれの音響に触発されてしまうことの方が幾らか多く、探していたものとは別の感覚が棘のように散らばっているのを知るに及んで、依拠するべき器官の信憑は左右の位置からかき集められる。
優雅にして軋轢を醸し出し、典麗な筆致を想起させてやまない、流れゆく品格と立ち止まらない官能の調べを無伴奏組曲の演奏に見出すのはことさら難しくはない。
うらはらに楽器を手にした人物の咳ばらいや小言が巻き起こす異変、むろん取り留めのない物音なのだが、もし永遠の白夜の下にあって無音の緊張を強いられ、なおかつ生か死かの選択を迫られているような、無粋なのか真剣なのか、よく判別し難い虚構の音色に近づく侵略者の足音にも似た単調な、恐怖と解放が同時に引き起こされる祝祭に巻きこまれている様をひとりの人間の喉ぼとけへと収斂するとき、空間の保つ平穏の明滅に耳を傾けることはそう容易くない。
「まずは落ち着いて話そう。あなたの境遇について、これからの生活について。僕との婚姻を」
[640] 題名:悪魔の首飾り〜1 名前:コレクター 投稿日:2025年08月30日 (土) 04時00分
眠りは浅く寝台へ横たわった表情に異変など訪れるはずもなく、昏い眼の奥には光が透けているけれど、まどろみから去りゆく意思は軽く、たじろぎもしない。
しかし深い余韻の調べが綾なす情感につきまとう動きは抑えがたくて、あと少しの時間に夢模様は溶け出してしまいそうで、それが朝もやの居すわる未明であるのを知るのが、どこか疎ましくもあった。
昨夜の夢をたった今めくり終えた書物の一頁だと見立てるなら、遠い景色はすぐそこにありそうで手の届かないはずがなく、むしろ無造作に、なんの躊躇いもなく、振り返ることはとても容易い、遥か悠久のひとこまであっても、それが不変のまぼろしである以上、たとえ夏の盛りの寝苦しさを覚えたにせよ、長いため息が眠りのなかにある限り、夜明けのひとときは沈黙に守られている。きぬ擦れのささやかなもの音が余韻を破ったとして。
静けさに包まれた薄明を映し出す化粧台の鏡も同じ宿命に置かれるのであれば、窓掛けの向こうで始まろうとしている気配へと同調するべきなのだが、ほんのわずかまえに過ぎ去った夢見の記憶がまだ微かな体温を含んでいるようで、もっとも寝汗すら感じない冷感動物のような目覚めは沈着そのものだから、鮮烈な残像はちょうどふるいに掛けられた色彩の輪のごとく、ところどころ退色し縁を失っており、まばゆい光線をすぐさま浴びることは敬遠され、そこはかとない雰囲気をもう少しだけ先延ばしにしようと勤めている。
いくぶん面やつれした顔色を鏡のなかに思い浮かべながらジョディはこうつぶやいた。
「願いはひとつ、成就も結果もひとつ」
なんという清廉で未熟な情動に突き上げられた台詞、瞬時に映りこむ光景は手軽であったが、かなり離れているにもかかわらず、すぐそこに、裏階段を降りた先に、瞬きとともに、たちまちにして現れるのは繁華街の夕暮れであり、見失ったケイトのうしろ姿だったので、めまいに似た歪みが緩やかに郊外の、喧騒から退いた落ち着きの場に渦巻く。
本心を伝える気など持ち得ないと息巻いた決別の場面はジョディにとって、かけがえない視覚像となっていた。悔恨やら悲しみに決定づけされているのかさえ、あやふやな、反対に湯浴みのあとの清潔な心持ちが直情に踊り出た潔さも捨てがたく、混然とした意識はどうにもありのままには迎えられそうもない。
引き裂かれた情熱と呼んでみようが、もともと磁力の異なる着想が働いていたようで、錯綜とした仕草が埋め合わせの出来ない結果へと進んでしまったのだから、歯切れは悪くともどこか馥郁たる気だるさと、陽気な割り切りが肝要に思えたりする。
ケイトとはぐれてしまい、一睡もせず街中をめぐった足並みを忘れてしまったわけではなかったし、未来の伴侶に引き寄せられたという妄想を掲げ、自分を巻きこんだ仕打ちに腹立ちも覚えたけれど、気が着けばこうして懐妊している実際の運びへ考えをめぐらせてしまうと、あらゆる感情は曖昧に積み重なったまま、その重圧と葛藤に攻め立てられるばかりでなく、過ぎゆきた新鮮で晴れやかな気分も後追いしてくるので、複雑に絡み合った念いこそ眠りのなかで息づくべきであって、朱に染まりはじめた空へ投げかけたりしてはいけない。
閉ざされた未明は不可侵そのものであり、薄明のおぼろな光は別次元からの届けもの。
それにしてもどうして夜明け前の漆黒はこんなにも愛おしく、感じることの分別も放擲したいくらい堕落を認めさせるのか、もちろん刹那の閃きに近い、些細すぎて罪などないと言い切っているだけの、身勝手な思いこみなのだが、それはおそらく容赦なく昇る日輪に対する畏れだろうし、眠りと夢が許されない時刻への誘導なので、まるで逃れようなく追従してしまう使用人のように、重い足かせが不動の精神を培っているに違いない。
このこじんまりした屋敷に来て以来、日増しに募らせたのは外界を怖れるようにして緊縛させた自分自身の影であり、転倒した身体に制限を掛けることだったから、外出はひどく億劫になり却って幽閉の身に安堵し、ねじれた慈愛を温めようとしていた。なりゆきの果てに到った精神だから、誰にも否定されるべきでなく、共鳴もして欲しくない。ただ黙って見つめてくれるだけでいい。
か細い声の持ち主は憂き目と同時に救済される運命にある。自暴自棄と全能感の合わさった意識のめざめは、水はけの良い溝を伝う雨水のように合理的な働きを示したのち、日常意識に組みこまれる。
だがそんな通説を反故にしたのはジョディの主人であり、住まいをあたえられた体裁で頼りにしてしまっていたけれど、ことさら強烈な恋に落ちたわけでも、めくるめく官能に支配されたわけでも、正気を抜かれた従順な乙女の、ましてや柔らかな感性と優しげな指針をまとった羊みたいに我を捨てたのでもない、いくつかの要因がかみ合わさり、奇妙な文様がジョディの胸懐に触れただけのこと。
「気がすむまで横になっていればいいさ」
「朝陽とともに起きなくてもかまわない」
「夜のしじまを慈しみたまえ」
自分を拾ってくれた主人を何故か疑ぐれなかったのは、甘言を弄し手なづけて淫売宿へ売られるとか、もっと酷い境遇へ運ばれるとか、そうした悲愴な情況とは無縁の場所で呼吸しているような肯定感がおのずと先んじていて、その根拠や証しはまったく有していなかったけれど、不思議と宿命の徴しが尊い産声を上げているように思えて仕方なく、最悪の事態さえ認めていればこそ、自分でもよくわからない開き直りを演じてしまったとジョディはしみじみ追想するのだった。悪魔に魂を売り渡した寡婦の胸に広がる清算に等しく。
信じられない果報を疑ぐり続けるより、今ある臆病な贅沢に震えつつ、やがて眼光を研ぎ澄まさせるほうが生々しい精神を呼びこみ、時間にまたがる意識を明快にさせる。死人と野獣が比較対象の域ではないように。
が、ジョディの日々を去来するのは悪霊と善人の関わりの図式であり、かつてのホルンベルク商会での単調な事務仕事にまつらう不透明な、それでいて責任回避された気軽さが靄になったふうな思考停止のはばむ、たどりづらい奥ゆきであった。
主人は案の定ホルンベルクの関係者だったし、ケイトが夢見た婚約者も同様ではなかったかと推測する。
ゆえに身重の肉体に実感を得ることは容易ではなく、懐妊して初めて錯綜した心模様を意識しだしたと言っても過言ではない。一途に信頼を寄せてみること、無心に、疑念をかなぐり捨て、美コの磁力で集めた意義を正当化すること、それこそが健全な保身に繋がり、ひいては家庭に齟齬を引き入れない潔癖な姿勢を保つことになる。
煙も塵も立てず静謐という情熱をいつまでもたぎらせ続けること、波風は穏やかさを望んでいる。
ジョディの生活観念はこうして主人アランの思惑にあえて導かれなくとも、たどるべき荒野をあとにして、夫婦として理想の穏やかさは寝室だけに限らず、家屋の部屋部屋にまで横溢していた。
しかしこの華美にして過剰な幸せは空間に機能しても、生身に宿した液状のつかみどころのなさまで律することは不可能で、なぜなら未知なる胎児の領域まで及ばない思念はすで霊的な編み目に絡まっていたから、アランは規則正しい生活を、食事や寝起き、呼吸の整いを、将来像の描き方、乱れにまつわる教条などをジョディに求め、過去のしがらみは振り切るよう記憶の刷新を奨励してきた。
つまり生まれてくる嬰児の初々しさと一緒に意識を高め、さながら生まれかわるくらいの気概が不可欠だと力説した。
聞く耳は遠くも近くもない。そぐそこにあった。鈴の音のような耳鳴りを覚えたのはそれからしばらくしてからだった。
[639] 題名:死霊の盆踊り 名前:コレクター 投稿日:2025年08月12日 (火) 02時48分
「エミール、おまえさん、ここに来てからだよ、日にちが立つのを早く感じてしまったかい。思い返せるだけの比較においてだが」
スミスは不意に殺伐としたやり取りから逸脱する調子でそう聞いてきた。
どうした加減だろう、もの想いは小さな嘆息で呼びかけながら相手の実在を確かめる。集中力に欠けた時間をさかのぼるようにして。
危うい眼光の定まりは思いのほか穏やかで、手短かな、とは言え、戸惑うことの猶予の押し迫っている感じがぬぐえ切れなく、やはり意味深な問いかけを投げかけていると認めてしまったのか、
「それはなんとも・・・刺激と緊迫が意識を占拠しているし、情感が取り戻せそうにもなかったから、ひりつきはこの焚き木の火花に似て、明滅と揺らぎに支配されていたので、過去形の感覚はすぐには呼び起せません」
語尾は微かに弱まる。
「えらくあらたまった口調だな」
スミスは苦笑いを浮かべながらも、その声と表情の律するぼやけた輪郭に圧を加えたのか、少なからずの同情が籠められたようで、不定形な影絵のごとくエミールの視野に貼りついた。ただし濃密な深みはあまり感じらず、暗雲に近しい距離が保たれている。
「では、今夜あたりジャン・ジャックの一味に取り囲まれてしまうとすれば、どう足掻く」
逃れきれない痛感としての危機を強いられ、激しい昂まりを覚えたけれど、所詮なりゆきまかせのスミスありきでしかなく、他力主義に弁明が用意されているはずもない、籠絡というひらめきも姑息な発意の域を出なかった悩ましくも空恐ろしく感じる。
「さあ、徹底抗戦で構えるのか、事実ここは要塞でしたよね。あとはおまかせします」
「ははは、そうか、そうだな、それしかないのさ」
「冗談とも思えないけど、予行演習にしては軽すぎるよ」
相手の言い分や決意にはある程度の信頼が求められるし、克己心が気恥ずかしさに勝ってしまえば、鵜呑みした承諾は空々しい投げかけに留め置かれる。
エミールは不甲斐ないさを胸に秘めつつ、スミスの軽佻をなじってみたのだが、反面、せり出した悔しさと憎しみの交差は溶け合いはじめた落陽の光景にたたずみ、受ける斜光にあわただしさを欲していないと感じた。しかしすぐに遠方を眺めるような切なさと憧憬の去来に影は従ったのか、少し気分を落ち着かせると、どこか夢見の希薄さを浮き立たせているような抜け上がる意識に引っ張られてしまい、やがてスミスの戯言に聞き入ってしまうのだった。
どこまで本当なのか、よく解りかねないけれど、ジャン・ジャックの攻撃はまったくの余興であって、とりあえず危害が加えられることはなく、なんとも珍妙な意向なのだが、悪ふざけに等しい行軍が演じられるというのである。
「我々をはなから馬鹿にしてるってことですか」
スミスは首を振り、こう言った。
「いや、むしろ歓迎しているんのじゃないかな。奴らしい外連味を託して」
「それでも戦闘態勢には違いないでしょうが」
「行軍によりけりだね」
「黙って見ていればいいと」
「まあ、そんなところだ」
たとえ静けさが招かれている夜の気配にどう猛な獣性を聞きとったにせよ、向こう見ずの心持ちが折りたたむ大胆な焦りはもう取り返せなく、分別の盛りを白々しいまでに念頭に置きながら、小手先へと付随した悔恨が遠のいてゆくのを知るとき、もはや厳密な情況に割りこみ、座を台なしにしたり、白けきった空気を充満させることに意義をただせるほどの気概は到底持ち得ない。
ただ緊張の果てに盲目的な視座がまかり通ってしまうと、ふしだらに頭を抱えてしまうし、やるせない心情が夢幻の境地へさまよい出ることさえ、引き止めようとしない自分が疎ましく、どこか遠くへ逃げだしたかったのだが、その急進的な願望くらい手狭な空間を意識させる瞬間はなかった。
強烈な幻想はいつもの空間に極彩色の視覚をあたえ、置いてきぼりを嘆いた時間は鋭く引き裂いてしまう。
唯一の救いは徹底した他人ごとを傍観する見地はたやすく、なにより余興が編み上げる情景は、参画を強いられない祭礼は気楽に運ばれるからで、羞恥や慙愧は緞帳の片すみに吹き溜まってくれるに違いない。
とんでもないことを仕出かしてしまう自身になり代わり、敵兵たちが凌辱に至る悔恨の余興を繰りひろげようとしている。
総じてぼんやりとした視線の先に異形はおどり出るだろうし、そのなまめかしさは果たして期待を裏切らないだろうか。
焚き木の煙とはあきらかに異なる霧深い白濁は、当然ながら股間にまとわりつくことを怠っていなかった。
半ば寄せた期待は見事にそこなわれる。これほど痛みを遠ざけた生々しい感情は他にない。
夜を告げた焚き木から湧き上がる煙のような霧が幕開けだった。
出し抜けに踊り子が弾けるような肉体を小刻みに弾ませながら、近づいてくる。目が釘づけになりかけたけれどエミールはそっとスミスの顔色をうかがってから、湿気った安堵を胸に、渇いた喉を潤すよう奇妙な踊り子の動きを追っていた。
これが行軍の余興だとしたら、何といじけた華やぎに満ち満ちでいるのだろうか。いや性根が朽ちているわけじゃない、根腐れすら忘れた無謀な心意気に違いなく、そもそも造花は枯れたりしないから、これはまっとうな行軍の一環であり、瑣末を放擲し、機械仕掛けの色香をよりどころとした影絵の肉弾戦であろう。
名乗りもせずベールを霧でかき分け現れた一番手はトルコ風の真紅の衣装を纏っているのだが、すでに胸もと露わ、ひらひらとそよぐようにして身をくねらせては麗しげに腰ふる姿態こそ優美にして艶やか、そのうちはだけた太ももの肉づきが豊満にしめされると、ベール以外は無造作に脱ぎ捨てられ、見るもふるいつきたくなる裸身の跳躍が残像として闇に消えてゆく。序幕にふさわしい無垢なる寸劇。
勢いよく草むらから吹き出す濃霧とともに続いて登場したのが女神を彷彿させる古代ギリシャの妖艶、純白の薄衣は夜風に軽く舞ったのち、さらりと大地へ横たわり、華奢だけれどたわわな乳房の備わった裸体の動きは生命力にあふれていて、見るものを紺碧の海と白亜の宮殿まで連れ去ってしまう。しかし遺跡として崇高な美しさを讃えられる彫像とは異なり、劣情まるだしの卑猥な舞踏がくりひろげられて余すところなく、長い脚と丸みを帯びて割れ誇った尻は無防備なうしろすがたを気弱に示されながらも、うらはらに隠された意志の強さがしなやかな弾力となって透き通るような肉体を開示してやまない。美神たちを駆逐した閨房への誘い。どこまでも抜ける白い廃墟、汗ばむ下半身。
暗転はいみじくも交接に導くが、白い影のゆくえをたどる術すらない身にはもどかしさが付き物であり、期待は涙を待たない。闇は暗転に仮託などしていない。
黒衣が必然的に夜へ溶けこむとき、失われた裸身を求める目線はいきどまり、イスラムの民からはぐれたと思いなしてしまう寡婦のような女人と対峙する。何せ闇を纏った出で立ちは神聖でありながら、どこか悪魔的な秘密を隠し持っているようで、ただちに脱ぎ捨てて欲しいところだったが、今回に限って暗黒舞踏に専念、いや陶酔した潤んだまなざしが放つ光の思わせぶりは実に堂に入ったものだから、着衣のはためきは夜気をはらんで悩ましく、隠された裸身のありがたみは想像以上に価値を有して、柔肌の露出はいつになることやら、ついぞ不信感を抱かせたのもつかの間、以心伝心、ためらい傷は懐かしい想い出とともに顕現した。
それは沈鬱な黒衣をあざ笑うごとく妖艶な、そして溌剌とした踊りに巧みな、含んだ嬌笑に戸惑いながらも負の磁力が機能した、魅惑の女体であり、健全な太陽に焼き尽くされるための踊りであった。
意欲低下が本然のなりゆきなら、創意工夫が織りなす橋渡しは回避されよう。次に霧の背後より立ち現れたのは、すでに全裸の金髪娘であった。その初々しく若さあふれる肉体はまだ少女の面影を宿しており、つかみきれないもどかしさを滑らすような胸もとの薄さや、こじんまりあつらえられた腹部から臀部へのゆるい線をたどれば、おのずときゅっと収まった股間の茂みに金箔の輝きを見出すところだが、和毛と呼んでさしつかえのない無邪気が強調される始末で、鼻息荒げる興奮とは無縁の場所でひっそり開花している様子は可憐であって、淫らさの生じる隙はなかった。
とは言え、あざとさの欠けらもないはしゃぎようで舞を披露するもだから、つい成長を夢見る艶やかな神に祈りを捧げてしまい、澄み切った瞳と交差するに及んで、その念いはかりそめにも敬虔な威厳を淫らさの上へと塗りこめるのだった。不慣れな場所でたじろぐ愚昧の徒、抱いた舌足らずの恋情。あるいは未知なる残酷。
重量級の色香が濃い霧を追い払うようにして登場するのはその直後だった。
野獣の毛皮を腰巻きに、明らかに精悍な肉欲がみなぎる豊満にして熟れきった乳揺れは、踊りというより密林にひしめく野性の響きあって、紛うかたなし大アマゾンの女戦士さながらの威風、まるで戦いの舞のように無骨な、けれども女人でしか描けない手足の優艶さが大地を蹴って躍り出るとき、畏怖は奥深い魅惑にとって代わり、官能は戦闘とともに征圧を望んでやまない。
睨みを利かした目つきも一文字に閉じられた口もとも、いつしか濡れる秘所に獲物と一緒に運ばれるのだろか。
剣呑は空想は怖れを知らず、エミールはこんな女に組みつかれ首をへし折られる様を描き、大いに興奮した。しかし女戦士の肉体に願ったほどの魅惑はたなびかず、いきなり果ててしまうのが残念で、その機微やら生活世界やら内実まで興味の鎌首を伸ばした途端、意識中断を余儀なくされてしまうのだった。
これにはエミールが捉える感性の欠如が絡んでいるようなので、深追いはせず、叶うことなら後学への試金石にとどめておくのが無難、焼けつく色欲の分別に溺れぬまま、勇猛果敢な裸体は焦土のごとく密林の地へ埋没した。
中だるみは許さぬという趣旨だろうか、続いて霧の彼方に鮮明な色合いを見せたのは、南国情緒あふれる浅黒く情熱的な面立ちであった。蒼海に点在する名もなき島々、が、謂われこそ豊かな、誰もがこころ寄せてしまいそうな綺麗な瞳の持ち主。
手足がしなやかに情熱と至誠を謡いあげる様は、まるで潮騒の響きのように嫋やかに流れ、渚に揺れる褐色の果実のごとく見事に引き締まった肢体で熱帯の踊りを披露すると、ほどよい背格好と似合いの胸もとを露わにし、ややあって恥じらいながら健康美そのものの股間を開いて見せ、躍動感ある夜を演出するのだった。
骨太な太ももにくびれた腰つき、異性の抱擁を待ちわびているような熱意はとても初々しい。波をなぞった腕のうねり、温風に誘われる木々の声、投げるくちづけ、南国娘の恋は永遠である。
それから数人の踊り手が火影の向こうに出でては肉感的な所作を見せつけていったのだが、全員が無言を通したこともあって、本来ならば冥利に尽きてもおかしくないはずなのに、いつしか裸身のうねりに単調な影を感じ、それはいかにも茶番めいた舞であったものの、趣向が凝らされたというより、無機質な動態の織りなす供犠を彷彿させたし、なにより触れることの許されぬ幻燈が闇に跳梁している怪奇に惑わされ、欲情が高圧的に遮断してしまった歪みを認めていたので、複雑な心情に達する以前、興ざめは萌芽として居座っていた。
女体行軍のまやかしが真摯であればあるほどに。
だが、真打らしき物々しさで、それは地響きとも山鳴りとも形容しがたいどす黒い音色が霧を蹴散らかし、憶えのない松明が近くに灯ったことにより、意匠を感じとってしかるべき展開だったから、スミスの面にも怪訝な構えが見てとれたのだった。
これ以上ない大声でスミスを驚かせたのは、そんな時間の過ぎゆきに身を委ねているさなかである。
「ああ、なんてことだ!お願いだよ」
我ながら素っ頓狂な調子だったから、夜のしじまは確実に破れたし、脳裏に咲き乱れた華飾の色合いも瞬時にして彩りを失って、字義通り地に墜ちた。これでようやくホルンベルグ商会の敗北を噛みしめるに至ったけれど、確固とした証しも否定しがたい認識を得たわけでもなく、たったひとりの面影にすべてを託したあげく崩れ去る実感に支配されてしまった。
最後の踊り子こそマノンそのひとであり、その風姿はかつて少年時代のジャン・ジャックの身を包んでいたという、緋色のロココ調で仕立てられた貴婦人の典雅にして優艶な格調を霧中に忍ばせ佇んでいるのだった。
マノンに秘められた今は遥か彼方、無表情な沈黙のなかにあって、手の届かない人形のごとく、血の気があるのかないのやら、舞踏会の劇場をあとにする翳りだけが幽かに漂い、無辺を彷徨っていた。
[638] 題名:お早う、スミス〜15 名前:コレクター 投稿日:2025年07月29日 (火) 03時50分
用途はさておき、触れることすら無用だと諭された身にしてみれば、淀んだ空気と一緒になって取り囲む壁は圧迫を感じさせないばかりか、謎めく大小の引き戸やら扉が乱雑にしつらえらた、見ようによっては歪曲し肥大した機能美さえうかがえそうな興趣をもたらして、要塞めいた建物全体の内側がちょうどはらわたのごとく、けれどもうごめく気配もぬめりも感じさせないよそよそしさに包まれたある種の威厳があるだけの、静けさを誇っていると言っても過言ではない、威圧と品格が同居しいているような重厚の佇まいに満ちているものだから、かりそめにも危険視のまなざしは後退し、宙吊りの安寧にもたれかかる間合いが保たれている。
そのたおやかな沈潜は決して動悸をともなう感銘に繋がらず、深い霧のなかでの目覚めを思わせて、なお装いの片鱗は見届けられることなく、どこかもどかしい、湧き出す感性をやんわり諌めるような知性に先行されていて、もし呼び起こされるとしたら、それは図書室に充満する雰囲気によく似ており、整然とした書架の列なりや天井近くまでうずたかく積み重なった尊厳が、垂直に視界を覆う感じ、狭い通路に見えないはずの風が通り抜けていくのをどこか柔和な心持ちで送っているような、また鼻腔が愛でるあのほこり臭さに立ち止まる優美を類推させた。
静謐の織りなす時間は歴史の堆積を午後に解放する。そんな寸言が意味を逸するとき、古書の宿す寡黙な沈潜は矛盾を投げかけ一層、饒舌な手探りへと歩みはじめる。
晴天に恋しさを覚え、屋内にとどまる一日、エミールはとりとめなく書物を欲してしたのかも知れない。
あるいは囲繞する壁にあつらえられた奇妙な造り自体、不揃いの引き出しや扉に大胆な意匠を覚えさせつつも、打算が身だしなみを忘れないよう、危惧が逃亡を案じているよう、不確かさにくさびを打ちこむため、発狂を遠まわしに小刻みに奨励しているのだろうか。しかし、こうした場合おもむろにざわめく強迫観念はまず発動せず、自由連想の羽ばたきも閉ざされたまま、意識の中枢はその回路に誤作動を認めたくないらしい、張り詰めた空気は澄み切ることで不純を排し、まっとうな居心地を提供する。
そのあつらえられた状態は些細なつまずきやこだわりを、迂回でもするような猶予でもって意識させたてから、エミールの肌にうすら寒さと軽い火照りを交互に感じさせた。
自転車の荷台に積んであった書籍を小舟へ置き忘れ、まったく手ぶらでこの山荘まで来てしまったことも、ことさら振り返るもほどでもなく、緊縛の状態を常に念頭に置いておくのも疲れてしまい、無聊を気取って呼吸を沈めるよう書見してみたいと願っているとは確信できなかった。
同時に隠れ家の秘密を探りたいと痛烈に願った心境も、熱気が冷めるに等しく、あわただしい日常のなかで焦立ちに先導される形で胸中を支配している心理に他ならない、そうした転化も煩わしい神経の乱れであるなら、なおのこと無心で投げやりな構えが今はふさわしく思える。
息がつまるほど緊迫のさなかにあって、この身の危うさはともかく、新鮮な空気が保たれているのは、裏切られたのやら計画に乗せられたのやら判別つかない色ごとから始まった仕掛けへの一歩が、まるで光芒を直視した瞬きのように鮮烈な残像を示しているのであって、そのとき他者の呼吸は、とくにマノンの甘く遠い吐息は抱擁と交接を呼び覚まし、空滑りの体感は虚しさを補填してやまず、つかみどころのない箇所をまさぐり続ける執拗さにおいてぬめりは唾液となってあふれ、這わす舌先の動きに未練はなく、徒労で促された腰振る強度に余念はない、そして耳もとをくすぐる睦言には絶大な恍惚がついてまわものだから、つい今しがたのもの思いはあたかも画鋲で押された映像のごとく、容易なこま送りが叶わず、その痛点すら麻酔で忘れ去られる空気抵抗みたいに空々しいので、汚染されている感覚はほぼあり得ない。
情調の復権、鈍麻した現象、白々しい虚勢。日没は朝を迎えるため、おだやかな徒為に過ぎ去った。
七日目、山稜へ覆いかぶさった雨雲が上空へと吸い上げられていのが神々しく見える。
雨上がりの朝に顕著な抑えられた色彩のめぐりを遅れさせている景色のなかにあって、ただたどしくずる賢くも理想郷とは無縁の境地が開けているような、反転した意識はぼんやり新緑のとまどいへ重なり合う。
すでに雲間を押し広げる勢いで青みをのぞかせた明るさは山すそ隅々まで吸収されてゆき、煙の尾のようにとぎれとぎれになった雨雲の残滓を、山向こうへ追いやる風情はちょうど獣の後ろ姿にも似て、草深き地の匂いをエミールに届けた。
淫猥を含み入れた理性が朝の光の彼方で踊っている。
まぶしさの訪れにいとまはないだろう。夜の揺らめきに漂ったマノンの肉体は淡い影となり、窓の縁に収まりそうな大きさで消えうる運命に定まるとき、その形骸は人影ではなく、指さきで記された文字で透明な加減を汚してゆく。判読できない意味を通し照らしながら、朝もやを写し出す。
続いて未だ敵なのか味方なのか、どうやら覚束ないままのジャン・ジャックの端正な顔が窓の向こう側に現れる。見定めつかないのが身上とばかり直ちに消え去ると、今は亡き父の肖像が玄関先に射す陽光とともに鮮明に浮かび上がり、実父だと聞かされたホルンベルグの険しくも慈愛を募らせた相貌へとすり替わる。
だが、水蒸気が山々の緑の奥に消えてしまったよう、エミールを取り巻く役者たちの面影はあまりに素早く失われていった。端的に余計な気持ちは放擲しろ、そう言わんばかりの調子で。
何日ぶりの焚き木か、数えつつある仕草はいつの間にやら、慣例と関わる楽しみに移ろっているのがやはり新鮮なのか、今宵なにか特別な出来ごとの起こりそうな期待が火影の揺らめきに波打つ。果たしてスミスは寝耳に水のような意見を口にした。
星空と闇に慣れ親しんだばかり、さほど夜は深まっていない。
「十日を待たずにこんなことをあんたに伝えるのは、明快に言えば、準備期日が必要だからさ。これでも遅いほうだけれど、見極めも大切だから今夜がちょうどいいんだよ」
山間の闇の沈黙が破られる。エミールはそう胸を踊らせながら、冷や汗もぬぐった。
「ジャン・ジャックが謀反を企てた。随分とまえから計画していたようで、すでにホルンベルグの身柄は拘束され、あんたもこの状況下だ。そして三日後には引き渡すよう指令されている。しかし・・・事情は少々こみ入っていて、どこから話すべきか・・・」
彼らしくない戸惑いで声を低めたのが意外だったけれど、その説明は核心を突いており、エミールを新たに悩ませはしたものの反面大いに興奮させたし、なにより一縷の光明が開ける予感を抱かせたのだった。
途方もない爆薬を開発して諸外国の機関に売りつけていたホルンベルグ商会は、あまりある栄光と畏怖を他者に投げつけ無敵の勢いで、しかも地下組織の域に徹した暗黒ぶりが不気味さとわざわいの権化とばかりに君臨し、鋭い睥睨をもって磐石の異相を確立したまではよかったのだが、最強にして最終兵器の売人という悪名が流布するころには、次第に孤立してゆき、なにしろ一瞬の閃光とともに跡形なく壊滅させる技はほとんど悪魔の所業に違いないとささやかれる始末、口をひそめた巷説ほど心胆寒からしむるものはなく、地下組織の呪術めいた雰囲気もあいまって、ほとんど邪教に等しい弾圧からまぬがれそうにもなかったのは周知のこと、先見のあったホルンベルグはなんとか合法かつ穏便な方向へと組織の再編成を試みたけれど、ときすでに遅く、現に敵国間を巧みに渡り歩いたジャン・ジャックの渉外術は商会のすべてを切り売りし、解体を謳い文句にすると、その共感者の反響はすさまじく、技術提携はおろか、これまでの攻略、つまり暗躍部隊の秘術まで授けようとしたのだった。
いつか謀反が起きるのを察していたホルンベルグは密かにジャン・ジャック暗殺の指令を放っていたのだが、その軽やかな身の振り方に翻弄され続けたあげく、後手後手にまわってしまい、内部の切り崩しすら明白、形勢はあきらかに不利で、甘んじて奴の復讐を受けるしかないと観念した。
幼少時分より家業もろとも支配下に収められたジャン・ジャックの胸に秘めた怨念こそ、凄まじい静けさのうちに機が熟するのを待ち続けていたと思われる。
エミールが人質として有効なことはかなり以前より取り沙汰されていたけれど、実のところその内情は霧に包まれていて、あえて実子だと公言することで身代わりの役目を担わされていたとか、ホルンベルグ自身も認知しておらず、いつか騒動が持ち上がった矢先、捨て石のような役割を果たすために今こうして連れまわされているのが現状なのかも知れない。
だが、ジャン・ジャックはエミールだけが講和のかなめであることを力説するあまり、虚実ないまぜの出自を盛りこみ、返す剣は用いず、ホルンベルグと最後まで渡りあっていたのだった。
暗殺の気配を察していた奴はエミールの逃亡をいかにも使命のごとく果たし、約束通り腹心にして随一の刺客であるスミスのもとへ送ったのだが、そののちホルンベルグの手に届かない場所まで拉致して行くと思われる。無論スミスがおいそれと人質を引き渡すとは考えられないから、抹殺してでもというのがおおよその筋書きであった。
辺りに潜めた闇の気配はジャン・ジャックならびにホルンベルグの配下に他ならず、その人数の割り振りは不明である。
「おまえさんが言ったようにここは商会の別荘かつ要塞なんだよ。おれが期日を待たず打ち明けたのはどうやら外が敵方ばかりと確信したから。毒だよ、おれがここに来た当初は大半がホルンベルグの配下だった。そのうち連絡が途絶えだし奴の仲間に取って代わったようだ。毒殺の達人なのさ、奴は。どんな手法を駆使したのか、そんなこともはや話している場合ではない。
三日後に無事なすがたのあんたをホルンベルグに知らしめる。約束だからな向こうも。ただその期日に隙が出来たよ、だからこうして秘策を講じるしかないのさ、わかるだろうエミール」
「ああ、思い出した。それで急に殺気を感じていたんだね」
「いつのことだい」
「湾岸に向かう途中だよ」
「仕損じたのさ、奴はあそこで死ぬはずだった」
「さあ、それはどうか、わざと殺さなかったのでは」
「面白いことを言うねえ」
スミスの眼光に心底背筋を凍らせ、身震いしたのはこれが初めてだった。
[637] 題名:お早う、スミス〜14 名前:コレクター 投稿日:2025年07月14日 (月) 03時59分
あらゆる場面はともかく、こうして定まった距離に向き合った人物像は、自然光の差し入るありきたりな作用に等しく、とらえ易い反面、端的な意向に導かれてしまうようで、視覚は確実な判断を、誤りのない見定めを常におこなっているかと言えば、少なからず曖昧であり手っ取り早い了解の成立を願っているようで、なら眼に貼りつくのがさほど疎ましく感じないのは当然かも知れない。
スミスが厳しく言い切った緊縛にはあらかじめ緩みを含んでいたのだろうか、そう思いこみたくなる奇妙な信頼が、もちろん適切には程遠い間合いに生じる倒錯した投げかけでしかなかったけれど、先導されている実情を理解しようとしない反発はくすぶり続けていたから、どうやら夜ごとの火影と入れ代わった曇りきった窓の向こうに仄めく新緑へと託されたみたいで、その単色を弾く気概は間延びしたまま、室内のよどみへと居座るのだった。
傲岸な顔色は浮かべず、どこまでも悲痛な面持ちの陰りを保ちながら、スミスの一挙一動に神経を配することで、エミールは優位の座を幻想のなかへ溶けこませ、いくらか快楽の彩りを描いていた。
「どう案じられているかより、意識の方角はどこに向いているのか、その先が肝要」
問いかけはただちに混迷を際立たせるが、案外べったりとした郷愁に彩色されているのは容易に見届けられない。
なぜなら過去はつい今しがたも含んでいて、遥か幼児期の乳白色に霞んだ光景を鮮やかに、瞬時の閃光にまばゆく映し出されると、美しい記憶の欠片は現在に息づき始め、恐るべき素早さで錯綜した意識を侵食するからで、時間の連鎖に愛おしい断罪が下されてしまう摂理はどこまでも恍惚のうちにあって神々しく、さらに透けるような光の領分は心許ない陰影を駆逐している。
回顧趣味と軽んじられたりするが、吹き流しの意想をつかさどる役割は言えて妙、それはなにも老境者の専有物だけと限らず、もっとも若き老成が綾なす死臭薫る編み目が同等な行きわたりかは不問に付しておき、時間の背後を流れる理想を、悔恨を、充足を、あるいは魔性に魅入られた底深さなど美化してやまないのは、欠落した品性というより危うくもろい神経の祭礼とでも呼ぶべき衝動であって、だがその映像は焦燥とうらはらに戸惑うごとく緩やかにたゆたう。
めぐる想念はぎこちない優しさを求めている。若輩の経験値ほど性急なこわれものであり、まるで郷愁が先んじているよう感じてしまうのはどうした加減だろう。
内面をかけめぐる色彩は自明だけれど、他者性における説話もまた濃厚な郷愁を身籠っている。その距離を明確にしつつ大いなる傾斜を体感させる声の向こうへと、巧みに羽ばたきだす郷愁の翼は失墜の苦い想い出とは無縁の空間を、失われた月日に求められる対価は青々しいほど不釣り合いの、まるで切っ先の欲望の火花のように慌ただしく、野放図なまでに身勝手な、内省に用いられる時間を放擲したさなかにあって都合よく、勢いが情熱に乗る様をゆっくり回転させる按配で彩るものだから、せり出す想いは永遠に歩み寄ってくるような錯覚を得てしまう。
失意の光源こそ生死を物語っていると思いなし、なりふりかまわず没入の境地に到達しようと試み、挫折の背後にひろがる情景はさながら南蛮屏風のごとく閑麗な規律に守られ妖しさを醸し、果てのない感覚は実直なまま圧縮され、まぶたの裏に貯まった光線に収斂してゆく。すると規律は守護を見限り、まぶしげな被写体は闇の貢献に輪郭を奪われてしまい、忽然とした焦点は愚昧な延長線に翻弄される。
そのとき郷愁は時代遅れの意匠をかなぐり捨て、さながら異性に発情するようみなぎる熱意をともない、恨みつらみなしのただ単に股間が重たくなる体感に支配され、あるがままの本能の赴くまま、あからさまに軽率に悲劇を切って断ち、屹立する自己像を打ち立てる。
しかもこの情況にあって他者をも幻想の懐へかき抱き、意地でも放さぬ児戯に徹する、なりふりかまわぬ動揺、凛然たる透明度、進退の麻痺と中枢への帰還、崩壊の序曲を耳にした歓びが教える絶え間ない連続性、身だしなみを整える殊勝さに引き続く乾いた矛盾、それらは人影の不動にあって底知れず、倦むことを知らない女体への渇望を育んでいる。
残滓のごとく見苦しい虚脱でもって、郷愁を嵐に見立てること、決して相手を言いなだめたり、不用意な迎合を口にしないこと。吹きすさぶ荒野に痴呆の面持ちで立ち続けること。
スミスが冷静なまなざしで見極めていたとしても、まともに渡り合わなければエミールの妄想は自在であり、そもそも投げやりなのだから、この調子がもっともふさわしいのであって、明滅を許された暗黒にこそ負の希望は誕生する。
こうして差し迫る時間に挑む姿勢が促され、六日目を迎えた朝、小雨に煙る天候は大いなる意思を宿したあるべき姿でエミールのまえに現れると、スミスは億劫そうな、いや、ただそう見えるだけかも知れない顔つきで、
「今日も屋内で息をする」
そうありきたりな声色を用いた。
「もっともだ」
なにがもっともやら、わけもわからず、もっともな面構えをしている自分を意識したエミールには、やはり火影の揺らめきに威厳を正したようなスミス居住まいが懐かしく思え、しかし刹那の念いは夜風に応える炎の表情を浮かべたに過ぎず、あらかたひとめぐりすること自体、こまやかな時間に甘酸っぱさが加わっだけであり、相手を抱えこむどころか、骨まで灰にしてしてしまいそうな怯懦を招いていた。
雨模様を迎い入れる幻想にいにしえの狩人を見たのだろうか、それとも肉汁が恋しく欲情は業火に巻かれるべきだと案じているのか。
誰かが食材を調達しているという手際は歴然でありながら、ひとの気配が察しきれないまま過ぎゆき、虚ろな足跡は迷いこんだ獣道の不条理を讃えた。鼻息さえ天空から舞い降り聞こえてきそうな予感。
その秘密めいた感じにいつまでも慣れない自分が新鮮に思えて仕方なかった。
[636] 題名:お早う、スミス〜13 名前:コレクター 投稿日:2025年06月24日 (火) 02時50分
賛嘆すべき味覚、空腹が抑えきれないのでも、飢餓状況にさらされているわけでもなく、まったく思いがけない成りゆきとして、めぐり合わせの予感を狂わせるような、今ここにある危機をあざ笑うような、夜空と火花が太古の時間へと逆巻いて、持ち合わせの気分をかき乱してあまりある、容赦なき胃袋への刺激、肉汁をたっぷり含んだ食感はエミールの心身に言い知れない活力をもたらした。
そのあと、いかにもひと仕事終えたふうな充足を覚えてしまうのが妙に思え、同時に訪れる急激な眠気とともに、疲労感は前のめりであって躊躇わず紅蓮の炎のなかへ身を投じてしまいそうで危うく、だがスミスの顔つきに忖度の色合いはうかがえず、ひたすら燃え盛る明るみにすべて押し隠されてしまっているのだろうか、そんな意想に連結して火影に折り重なるのは、
「おまえさんには無用だよ」
ひと言だけぴしゃりと、釘を刺すよう口にした山荘の奥まった部屋への秘匿に関すること。
ややあってスミスはこちらの心許なさをいくらか汲んでくれたのか、
「寝起きも一緒で息が詰まるだろうけど、エミールあんたから眼を離すわけにはいかない」
そう一段声をひそめながら責務を語る響きには了解が余儀なくされた。
しかし、これまでの経緯を振り返るまでもなく、歯がゆさは残存しており肉体の軋みを唱え、失意の方向は健全な位置に立ち止まったまま、自暴自棄の嵐を巻き起す気概すら湧いてこなかった。
だとしたら問いかけは不要と知りつつ、精々みじめたらしさを滲ませ、さかのぼる悪意を放擲した素ぶりでこう言い放つしかない。
「逃げも隠れも出来ないさ」
信頼は契約の上でそれとなく親しみを羽毛のごとく投げかけているのだったが、空気抵抗が勝るよう、その感情は卑下に支えられている。
さらにスミスは牢獄につきものの対応とばかり、簡素にこう言った。
「なにも逃亡だけじゃない、わかるだろう、あんたの態度だよ」
言い方に恐れがない分、示される事柄の領域は純度を増し、エミールはほぼ平伏に近い確認を覚えた。
毎日の表情やら素ぶりや反応でおおよそ察してしまうのだと。そして自死でもされたら任務失敗で済むなずがなく、彼もまた窮地に追いこまれる。
ひと口に悪感情と呼んでみて、なにも憎悪やら憤慨やら激しさに突き上げられる怨念めいた黒々とした塊とは限らない。秘匿が全面に謳われた重要性をのぞき見たくてやまない情念は、決してくすぶっておらず、むしろ相手の裏をかいてみたい衝動を胸間にたぎらせているのだった。平伏にはよそ見がよく似合う、そんな小狡さとあざとさが地獄の底を這いまわる。
「隙あらば、探ってやろう」
とても対等には言い返せない台詞だけれど、雪辱への指針は子供じみた意地の悪さを内包していて、それがどれだけ無謀であり、浅い思いつきでしかなく、可能性が見出されないにしろ、ほとんど我がままな祈祷に等しく、迷妄に委ねられているのでなおさら身軽な心持ちがした。
ひとの良さや親和にはこの際、徹底的に歩み寄るべきであって、覚悟を決めたような諦観の姿勢は崩さず、あくまで囚われの境地を遊び続け、一瞬でも好機が見つかったなら、直ちに修羅の態勢でもって裏切りだけを最優先させる。
日毎の焚き火は眠気をもよおさせ、渡り合えるはずもないスミスとの葛藤をぼんやり、そして儚く夢見ていた。
変わって朝食昼食時における神経のありようは情けないくらい気弱な物腰をたどっていて、それはおそらく葡萄酒の酔いが手伝わないこともあってか、妙に抜け落ちた気力は薄い影を日差しのさきに覚えるばかり、ただ、ライ麦パンやら胡桃パンに挟まれたいり卵の清々しさは否まれず、新鮮な牛乳や艶めている香味野菜を食するとき、あるいは濃厚にして口当たりの滑らかなスープをすするとき、果たしてこれら食材はどこから調達されたのか、どこに保管されているのか、またもや要塞めいた備蓄の謎が念頭をよぎってやまないし、誰かが手配しているという憶測も消し去れそうになかった。
厳格な監視を受けて身が萎縮するほどでもなかったエミールは、気落ちなのか軽薄なのか自らを見極めようともせず、次第にこの山荘が抱える不思議に傾倒していった。
たぶん無意識的に、葛藤にも不安にも恐怖にも距離をとることはたやすく、極度の疑念は空まわりしかしないのを薄っすら感じとったからで、この内的実感は浮かれた冒険心へと直結しており、現にスミスが室内から、つまりエミールの視界から消えてしまう機会が案外あること、それが日増しになっているのが認められると、段々意識も高まって仮に探りが知られても殺されたりはしないだろうなんて、ふてぶてしくなり、いっそのこと、わざと失態を演じてみたら爽快に違いないとさえ考え始めたのだった。
けれども軽快なひらめきに働く脳内とはうらはらに、身体の動きは依然強い制約がかかっているようで、おいそれと大胆な行動をとれないもどかしさに、まんじり様子をうかがっているのが関の山、また日暮れともなれば、闇を切り裂く焚き木の勢いにのまれ、なかば幻想じみた思念があぶり出されるので、神妙な面持ちに帰ってしまい、対座するスミスの厳しさが彼自身のなかで揺らいでいるような気がしてくる。
そうなると意気盛んに吐いた裏切りに対する気おくれも風になびくのか、昼夜の意識の在り方が離れ過ぎているのが分かり、大胆な冒険は見送られてしまうのだったけれど、十日間と区切られた時間の配分を意識すると、あまり悠長な構えは好ましいはずもなく、エミールは弁明がましい理知をたぐり寄せ、いにしえの慎重な哲学者の導く懐疑と実践のことわりに想いを乗せるのだった。
五日目、深夜より雨模様、朝晩の肌寒さは和らぎ、その代わり湿気った空気が山間を包みこみ、室内の家具などの乾燥をさまたげているようにも感じる。
ことさら異変は訪れず、ただ窓の外の霞んだ風景が少しもの珍しくもあり、垂れる雨しずくのせわしなさも心地よく、煙る遠方を見遣る眼は眠たげな静謐に送られている。
スミスは早々に今夜は焚き木を行なわないと告げた。
その口ぶりに含みはなさそうだったが、思いのほかスミスは闇と炎のまたたきを好んでおり、残念な気分を述べたようにも伝わった。その受け取りは同じくエミールが置かれた立場、まるで小さな盆に乗せられ運ばれてくるお菓子のように、うやうやしくも気取った物怖じを欲していて、奇妙なねじれが平たく盛られていた。
そうなるとこれまでとは違った夕食が準備されるのだろうか、などと無邪気で牧歌的な思惑が狭い空間を駆けめぐり、抜け道がないにも関わらず、なにやら外の景色に彩色をほどこすような楽しみが部屋の隅々までひろがってゆく。
多分に充当ではなく、その逆で苦々しさが加味された不本意ないら立ちも塗りこめた意識。
半分の日々が過ぎてしまった。圧迫とも悔恨とも風情ともつかない複雑な感情は煙った山々の緑の褪色に即している。
エミールは輝きがそこなわれ明度の落ちた山稜に、陰りだけを眺めたわけでなく、あの茫洋した加減によっていっそう曖昧な灰色の空と交わり合っているのが、不透明で近寄りがたい威厳を備えているようにも見え以前、博物館で拝見した東洋の水墨画の描く枯淡の境地にまつらう、寂寞と超然の思惟へと吹き流されていく浮遊感を思い出した。
「どうでもいいことの連続体なら」
覚醒と眠りの狭間にあって不意に色めく夢のひとこまが、絶え間なく現われ出る力説を押し隠しているように、ある閃きがエミールを突き刺した。
無知の状況下でどれだけ煩悶と憂慮を重ねてみても、あるは駄々っ子を諭すみたいにほんのり児戯へ歩み出ても、まるで進路は開けない。今はとりあえずたったひとりの相手をどう籠絡するかしか、方便はないだろう。
殺し屋スミスとの駆け引き、偏執狂が無機質を求めるのなら、倒錯した欲望を盾に、甘酸っぱい餌箱を提示してみよう。たとえ自家中毒で破滅しようとも、それだけが救いであり希望であった。
[635] 題名:お早う、スミス〜12 名前:コレクター 投稿日:2025年06月10日 (火) 05時04分
なじみの薄い光景はややもすると突き放すことを忘れてしまい、人知れず野に咲く草花のように、ほどなく適度な親和を芽生えさせる。
スミスとの距離感はそれに似て疎ましさを抱かない、微妙な配分で区切られているのか、彼の背中へ集められた視線の定着が過敏な神経だけをよりどころとしないよう、正面に向き合ったまなざしのゆくえも限られた人恋しさを求めており、もっともそれは日暮れた山間に灯された焚き木の映し出す揺らぎのせいだったかも知れない。
暮れゆく頃合いに流れ着くと聞かされたエミールの信憑は小さな運命の悪戯のごとく、時刻を早めることで思わぬ空白を惹き起こし、夢想に近い甘く儚い期待へと滑り落ちたのだったが、とりとめのなさに結ばれる疑心は闇を揺らす火影の明るみに溶けこんでいた。
山荘を浸す夜の気配が深まるに従って、窓枠が漆黒に塗りこまれてしまうと、乾いた煉瓦の壁からはざらつきが失われるのか、決して柔らかではなさそうだが、なめらかな夜気の張りめぐらされるまま、伝う天井の高さはあやふやになって丸みを帯び、なにか凝縮された空気が迅速に発生しているような感覚を呼び寄せて、言わずもがな沈黙の厳粛に支配されるがまま、野鳥の眠りへといざなわれるごとく、安寧の時間は寡黙さを望んでいるに違いなく、息苦しさとは別種の狭まりのなかにほどけた体感があふれ出し、新たな実りを迎えると同時に邪念は妨げられ、不用意な設問はきっぱり封じられる。
そう考えてしまうのもまんざら穿ち過ぎでもないようで、山深き闇に息づく静けさに守られた気配はどこまでも厳かであって、萎縮した瞳の問いかける過敏な防御に限りはなく、漂いまつらう夜の流れに異形の訪れを感じ取ってしまうとき、ほどなく照明を受けて陰影の作り出す閉じた室内はいかにも要塞らしい体裁であり、その怪しくも堅牢な構えはやはり秘密めいて攻撃的だとか、あらゆる想定に叶うべき仕掛けは複雑にして機能美に満ちているとか、もし取り囲まれたとしても鮮烈な武器弾薬が火花を散らすとか、急襲に見舞われる悪夢とも冒険ともしれない幻影をつい軽口に乗せてしまいそうで、うかつなのはもちろんながら一気にスミスの機嫌を損ねかねない、浅はかな高揚へ運ばれる気がしたエミールは、いつになく落ち着き払った態度を醸し出し、口を閉ざすのだった。まじないに興じる生まじめさでもって。
数カ所に位置する石油ランプから放たれる温かみのある光りは剣呑な予感をもたらすだけでなく、部屋の造作とはおかまいなしに野鳥以外の動物をもなだめてしまいそうな色調に保たれていたから、ますますもってこんな一夜が十日間くり返すのだろうと、今度は不本意をあざけながらしみじみ胸に焼きつけた。
だが、スミスから鷹揚な口ぶりで、
「少し肌寒いが夕食は庭で取ろう」
と意外なことを余興でもあるよう耳にしたエミールは、一瞬スミスの顔を覗きこんでから、要塞の外に遊ぶといった気分を呼び戻し、それはちょうど幼児のころ夢うつつに仕出かした甘い寝小便の罪悪感に結びつき、禁句のもつれが夢想に追従する様を想起させ、たちまち剣呑を押しのけてしまい軽躁を取り返してしまった。
それがこの大らかに燃え盛る焚き木を挟んだ対面であった。
依然、手厳しい感じは拭えないものの、記憶の彼方にひろがった野焼きの光景や、祭礼を彩った血潮のような松明、戦禍を描いた火災の歴史画、あるいは子供らの畏怖を募ってやまなかった牢獄塔の灯、学校行事の野宿の暖などがエミールの脳裏に遠く炎を上げた。
スミスの面持ちからも緊迫の相は少しばかり退いたのか、笑みこそ浮かべなかったけれど、ひと息つく様子が暗闇との対比で鮮明になっている。
無風ではないけれど微かな加減、それは朱にはためく炎の勢いを夜の静けさが語っているふうにも思えたし、寡黙な姿勢がそっと移されのだろう、優雅にして滋味ある情景なのだと言い聞かすに十分だったので、向かい合うスミスの形相にはやはり不気味な影がほとんど見当たらず、むしろ温情を隠しきれない趣きさえ
露わになった心持ちになる。
朗らかとまでは期待が投げかけられた幻影に過ぎないことを承知しつつ、しかしながら火影が揺れることを拒むよう、ときおりスミスの顔面に黒々と貼りついているのを目の当たりにすれば、本然と我に帰る。
もの怖じしない子供に降りかかる不吉な面相が気高さに輝いているように。
揺らぎの気まぐれは擦過すべき漆黒の影をスミスにあたえ続け、始まったなかりの食事に付きものの、空腹を忘れたような感覚はなおさらエミールの幻影を深め、より楽観的な視野へと移行する反面、視覚像を麻痺させた意想のたくらみは自家撞着に陥ってあまりあり、残された器官は猛然と果敢に、つまり味覚や嗅覚のつかさどる優美にして貪欲で瑣末なことがらは、むろん導きだされずにはいられない。
想いは風の誘いを受けずとも自在に炎に焼かれ、焦がされ、たなびく煙となった。
果たしてこの焚き火はいつの間に用意されていたのやら、あらかじめスミスが庭先で勤しんだ素ぶりに覚えはなく、ときめきを胸に山荘の扉を開いた途端、すでに焚き木は赤々と燃えていて、はっとするような驚きとともに、なんとも段取りが素敵などと感心してしまったのだから、自然と夜を諌める火の舞いにこころ奪われても仕方ない。
肉食はありとしてどう見ても新鮮な脂身のしたたる代物をいただけるとは考えもつかず、しかも丁寧に編まれた藁に包まれる精肉の長い金串に分厚く刺さった塊が火に近づき、容赦ない旨味を照らしだしたとき、思わず生唾を飲んでしまっただけでなく、豊潤にして濃縮された美食の醍醐味が野趣に並んで闇を駆けめぐるような勢いで脳天を直撃し、呆然と下ごしらえも見事な様に魅入ってしまうかぎり、うらはらにいたって涼しい顔つきで食料をあつかっているスミスは、次第にもうもうと煙りを上げだした焼き加減を見計らっているものの、適度な焦げ目以上に食感を損なわないよう、手際よいあぶり具合を夜に捧げているのだろうか、ふとそんな思惑すら敬虔なまなざしに宿ってしまい、凝視の激しさはここ数日の出来事における至上の冠に相違なく、さらに焼け落ちる脂の地べたに沁み入る様は魔法のごとく暗がりへと消えゆきて、視界の限りは幻惑された眺めでしかないことを知るに及んで、典雅な技法を直近にしているふうな感動に浸され、激しい気落ちは焚き木を介し、めらめらと修復されていくのだった。
驚嘆すべきは他にも、まるかじり出来そうな果物や、船に置かれていたライ麦バン、葡萄酒の瓶が二本、足元の脇に並んでいる潤沢なもてなしだったけれど、エミールはこの山奥の懐に抱かれたこの身の不思議に謂れなき念いを馳せるばかり、日ごとの過ぎゆきがたまらないほど愛おしく、見上げた満天の夜空に散りばめられた名も知らない星に淡い願いを託すのであった。
[634] 題名:お早う、スミス〜11 名前:コレクター 投稿日:2025年06月04日 (水) 04時51分
抜かりはないかって、さあ、どんなものだろう。いや、そういうつもりじゃない、しっかり任務は遂行しているよ、ただ、アランは勘づいていると思うんだ。警備役といったって、朝から晩までへばりついて不穏なもの音に耳を澄ましているわけでないし、見た目も立ち振る舞いも庭師に徹していたつもりだが、その裏でアランの見張りに専念するのは、どうしてなかなか際どく役者並みの技量を求められるってこと、密偵の素振りなんて思わぬとこでぼろを出してしまうからね。
逸脱のそしりを受けた女中サラとの関係にしたって、アランの考えを深読みするまえに、なんか不適だけど涼しい微笑みを浮かべながら、まるで戸惑いの反応を見定めるような調子で遠まわしに奨励されてごらん、いくら献身的な務めでも骨抜きにされた密偵の無様さを思い知るだけだよ。
現にサラからもご主人さまの命令で避妊薬を飲んでいるので問題ないわ、なんてしたり顔で言われてしまうし、今回の複雑に絡んだ秘密指令はいとも簡単に見破れたあげく、単なる忠実な番犬みたいに成り下がってしまったのさ。ああ、分かっているよ、それでも番犬の振りして全うすればいいのだろう。
ぼやいたところでどうしょうもないし、サラの素性に疑いがあるから、関係をもってでも探れるものは探るつもりさ、しかし情報機関のおえら方は、いったいめまぐるしく変わる情勢をどう捉えているのやら、造反者たちへの反撃は成功、これから制圧に向かい、ジャン・ジャックとの講和をはかってなるだけ流血を避けようなんてきれいごと、果たして間に受けていいのかどうか、上層部の睨みが不動ならともかく、念には念をという理屈もほどほどにしないと疑心暗鬼を宿したまま、いつまでたっても情勢の揺らぎは続いて、敗色濃厚だった頃に苦肉の策で残された精神主義、嫡子への帰趨にまた反旗をひるがえすはめに成りかねない。
まあ、そこまで劇的な展開はあり得ないにしても、そういう割にはアランに不穏な動きはないか、いかにも信用おけない構えでもって見張れというし、誰にも相談なくサラを雇い入れ側女の扱いをしたらしたで、小娘こそ新たな敵国のまわし者だと訝る。
抜かりはないけど、半信半疑でなくほどんど実感で報告するなら、いや、責任もって言い切れるのかって詰め寄られると、確かに反論は出来ないけど、それでもこれが報告結果だし、たとえ妙な思惑に、おれがサラの色香に溺れて懐柔されたなどという邪推を払って強調するのは、あの小娘を身近に置いたのはアランの知謀でも日和見でもなく、ようするにがんじがらめの身上に対する積憤だったと思う。
エミールの件だって聞き及んでいるはずで、穏健派だなんて祭り上げられ、これまでの危険な経路から学んだ実績を有意義な外交へ結ばすとか、絵に描いたような理想を掲げられたら、いくら実践知らずの書斎人と揶揄されるアランだって馬鹿じゃない、猫の目のように変転する状況こそ、狭い額のなかで繰り広げられている茶番に思えただろうし、窮屈なのは世相の方じゃないか、いい加減ここから自由にしてくれって叫びを上げたとしても別に不思議じゃない。
おれがもしアランの立場だったら、気が滅入ったついでにささやかかどうかは分からないけど、ああいう知恵遅れの雰囲気の、その割には悩ましい豊満な肉体をした小娘に同じようにうつつを抜かしていただろうよ。
これは見聞というよりアランに対する賛辞なんだが、密偵を見破ったからこそ、おまえもこの天真爛漫の女体を可愛がれと、非情の任務に縛られているおれを気づかってくれたようにも思える。穿ち過ぎとなじるのら、彼のおおらかな博愛主義が白痴的に伝播したとでも喩えておこう。詩的な言いまわしと非難されようとも。
えっ、そうかい、マーゴ婆さん、そんなふうに言ったか。おおよそ間違いないけど、あの婆さんの厳格さにはいわゆる型苦しさを凌駕した偏りがあって、それは潔癖志向とか好き嫌いの激しさも含んでいたから、サラをひとめ見た途端に不快な顔を作り、それからというもの折に触れサラへの小言を絶やさなかったし、ひたすら打擲をあたえ続け、もっとも叩いたり傷つけたらアランに知れてしまうので、もっぱら髪の毛をつかんでいたぶっていた、しかも抜けない程度の手加減だったから、かなり陰惨だよ。しかしサラはそんな体罰に甘んじたのか、天然のありようで意に介さなかったのか、主人には告げ口や悪態はおろか愚痴ひとつこぼさなかったんだ。
それを承知したマーゴは逆に小馬鹿にされ軽んじられていると思いなし、憎たらしいという気持ちをあからさまにするばかりで、アランから叱責されるのも覚悟のうえ、ますます陰険に眼を釣り上げて、サラをいたぶったけれど、そういう関係性がお屋敷の空気をかき乱しているのはあきらか、誰だって気配を察しないわけにはいかず、いくら穏和なアランだって自身の性格に規範ばかり定めていることは無理があり、要は解決策を案じてみたけれど、もはや魔女のごとく一途なマーゴをなだめすかすのは不可能と見極めた。
そうなるといよいよ老練な女中を追いやる算段をしたようで、それというのも温厚な性格にはいささか不釣り合いなやりくちを用いて、まるで壁に飾られた荘厳な絵画の醸し出す重圧のごとく、眼に止まることの必然性になぞらえ、ありのままの姿態を、下半身に隠れた自由を、夜にまぎれた淫猥の空気を、静止を振り切って乱れ流れるよう画策したのさ。
いや案外、アランは素の感情で行なったかも知れないな、とにかく全裸ではなかったが、むきだしの股間が重なる情景は過激そのものでしかなく、サラの白眼を向いて嗚咽を上げる響きも淫猥に満ち満ちており、昼日中から寝室以外の場所、踊り場や回廊の途中、食卓の脇といった見晴らしをアランは好んだのか、これみよがしの情交に耽るものだから、マーゴはあまりの破廉恥に眼のやり場をなくしてしまって、さすがにいたたまれず、このおれに泣きついてきたのさ。
なにが爺やだよ、それまで若造と見下していたくせに、まるで同じ境遇において等しい責め苦を味わっているような仲間意識のお仕着せとしかいいようのない歩み寄りじゃないか。
が、アランの配慮でおれまでもサラと睦まじくなってしまうと、マーゴは完全に自分の居場所を失ったのさ。そうだね、追い打ちをかけたジョディの無関心ぶりも堂に入り過ぎていて決定的だったよ。
憐れな老女中は崩れ落ちるごとく、熟練のなりわいを逸して、打ち砕かれた動揺を隠しきれないまま失態と無作法をくり返しては感情を昂ぶらせ、箴言こそ控えていたのだが、相当に冷静や沈着からは離れてしまっていて、反対に落ち着きはらった主人は、一抹の寂しさを声色に託し、見るに見かねるまなざしを投げかけ暇をあたえるという次第さ。
最後の独白めいたマーゴの心情吐露は真実だったと言ってあげるべきだよ。これまでの功績を揺るがせたにせよ、切実な審美眼と人生の機微を謳って離職の銘としているけど、どうしても黄昏を美化したく願っていたようだな、その辺が古参につきものの執着であり、気位の残り火に歴史を照らし合わせてしまう所業かも知れない。爺やと呼ばれた若造の胸の奥までは深く染み入ったりしないが、気持ちの片鱗くらい理解できる。
気位を浸食する老醜の自覚は、過ぎ去った若き美貌と匂いを狂おし気に振り返り、お屋敷をあとにする日のこと、さぞかしおれにも悪態のひとつも罵声のふたつも浴びせたかっただろう、だがマーゴ婆さんは穏やか面持ちを保ったまま、あとはよろしくとだけ言い残して、坂の石畳を静かに降りていった。気の毒なんてあまり持ち合わせのない感傷が風のように吹き抜けたよ。
なんだって、想い出はいいから早くサラの素性を教えろって、よく言うよ、好きで感傷にひたっているわけじゃない。情報機関だからこそこれくらいの心得は入り用だと思うけどな、細やかな悲嘆も晴れやかな嫌味も、取るに足らない記憶も、想像の源泉にして探索の符号だよ。そう慌てるなって、時間の経過は必ずしも無駄な暇つぶしに即すとは限らない、視覚には捉え難くても刻まれる空間を埋め尽くす密度はかけがえない感触を持っているのさ、想い出も予感のうちじゃないか。
もっともこの白痴めいたサラという小娘をひもとく限り、おいそれとはいかない経験値が手もとで乱れてしまうけれど、他でもない、痴女と天女に寄せる気まじめで奔放な、奇跡と自由を手中におさめていながら決して安住の地に腰を据えることなく、快楽と不可能が意味合いをめぐり平行線にたどってゆく感覚、つまり動じることの振幅が測れなくなってしまうという場面において、蔑みが優しさに、腹立たしさが愛おしさに、些事が一大事に変じることに気づかされる。
結論から話そう、あの舌足らずで薄っぺらな喋り方や、くねくねとした仕草の影にひそむ大人びた駆け引きに、そして大股開きの恥じらいに健康の証しを見てとるとき、愛撫を待ち望んでいないのにすぐさま発情するよう仕込まれているのは誰の采配なのか、そんな思惑がもし自然な発露ではなく、不自然きわまりないのなら、サラは間諜の疑いから逃れられないだろうね。
しかし残念なことに真の姿が名声を誇る舞台女優だとしても、サラには老成も偽りもない。演じるには軽やか過ぎる、風より雲よりも。あの柔肌を持つ可愛い小娘は永遠に無垢だよ。
なるほど、実務的じゃない、けど情報機関にはそう伝えておいてくれ。いや、まさか、それはない、ことが落ち着いたあかつきにはサラを貰い受け隠遁するとか・・・非情だね、次の任務が待っている。
えっ、ジョディの様子、おれからは特に、というか、それはあいつの役割だろう。熱心にしかも優しく、傍目から見ても下心まるだしの隙だらけ、呆れるほどに微笑ましく料理を伝授していたよ。あの腕前はたいしたものだ、密偵にしておくのが惜しいくらいさ、まったくもって。
[633] 題名:お早う、スミス〜10 名前:コレクター 投稿日:2025年05月13日 (火) 01時53分
山麓から分け入り中腹をめざしているのだろうが、歩幅と勾配のあたえる疲れはほとんど覚えず、草木の鬱蒼とした阻みも人意など宿していなかったので、ますますスミスの背中へ放たれた目線の強度に意識は分解し、これまでの経緯を自分の背後に張りつかせると同時に、さほど大柄でもない体格から発光している屈折した期待の圧力を感じとってしまって、エミールは断層に似たひずみにとらわれてしまっていた。
いつの間にやら赤い帽子を脱いでいる様子さえほとんど気にとめず、いきつく屋根の下まで無駄口をきいたりはしない、そう語って見えるスミスの威厳も確然としてはなく、すでに取り決められた因襲のごとく、ぼやけた視界を軽やかに、けれども強大な従属に縛られている気配を足元はまとわりつかせ漂わせているせいか、おそらく不慣れなはずなのに仕様を心得ている、そんな齟齬が生じていた。
こうした感覚は学童の時分、集団で行った夜間歩行の限られたカンテラの灯しを頼りにしつつも、闇に溶けこみかねない不思議を想起させたし、歩いても歩いても半身だけが夜風を覚え、何度か夢見で知った空中飛行がもたらす全能感を促させ、心身の浮遊に連なった幽玄と希薄化する意識の遠のきに即したことを、とりとめもない神秘への結びつきと捉えてやまなかったから、どうやらエミールは児戯の領分を過度に称揚しているらしく、未熟なあり様だった以前の態度に自省を託したまま、緊縛と回顧の段差にこの状況を預けてしまうのだった。
とりとめない思惑の明滅にまかせた足取りだったが、やがて勾配はまっすぐに続く道幅を教えたころ、上りつめた感覚にともない、それがやはり以前からの取り決めであったふうに、低回と夢想癖で育まれたエミールの視野には自らの屈折を叱咤するごとく、大きなうねりが現れた。
左へ折れる曲がり具合はここまで運んできた断片の集積であるような錯誤をあたえると、足取りは快活になり、なにやら河川の気配が感じられ、それがほぼ確信に近づいたとき、水面に降り注ぐ陽光のまばゆさに包まれた。
黒く煤けた自転車が陽光をはね返す影を遠目に認めたとき、まるで孤影が先まわりしていたような実感を得、小躍りしたい気分に包まれたし、荷台にくくられている三冊の書物が「カンディード、あるいは楽天主義説」「カンタベリー物語」「ヨブ記」であることに感銘を受け、小脇に抱えながら小舟へ乗りこんだのだったが、当然ながら優雅に書見するわけにはいかず、なるだけ水しぶきを浴びない船底のくぼみに仕舞ったのだったが、そのままにしてきたのを思い出すとともに、上着のくるみぼたんが一個、それにライ麦パンと小振りの水筒の入った籠が無造作に置き忘れた様子で、しかし食料を持参しておらず、ジャン・ジャックも用意を怠ったのではないとして、目印の書物に工夫を凝らすくらいなら、結構大切な準備ななずなのにと、いくらか不機嫌になりかけたけれど、先を急ぐ了見は拘泥を静め、くるみぼたんは拾い物をお守りにしてしまうような無頓着さで胸ポケットに放りこんでから、案外この忘れものみたいに食料は算段されていたのかも、そう思いなして微笑を浮かべるのだった。気休めと独断が同じ場所を求めるように。
雲ゆきに怪しさはなく、河口へと下る草むらもさえぎる術を知らないのか、むろん前もって教えられた道のりに不便はあっても、不可能な契機が敷かれているとは考えられなかったし、どうあろうと指示をまっとうする以外、方途がなかったので悲壮の兆しをエミールは面差しに忍ばせていた。
河口より支流へと至る方角がどこに位置するのか、普段より訪れる地理には下調べを怠らなかったけれど、このような顛末を迎えるとは夢にも思ってなかったので、いや、あの港から出航する客船や街全体を俯瞰する地図は曖昧でなかったし、東西にまたぐ隣国の面積にもおおよその見当はついたはずだったが、それをかりそめにも無関心で投げやりな装いでやり過ごしたのは、鏡のもたらす醜貌恐怖の作用がジャン・ジャックの相貌を釈然としないまま通過し、例の異国の石像へと結ばれているような気がして仕方なく、といいつつ、より思惟を深めてしまえば、独断は気休めを遙かに通り越してしまうに違いない。真相を得るまえに恐怖は早くも神経を逆撫でする。
しかし未熟なさに苛まれるのはことさら嫌悪すべき感情ではなかった。蒙昧な血のめぐりは肉体の浄化に一役買っており、例えるなら女体の秘密を知り得たくてどうしょうもないのに、うぶな素振りで興味のなさを浮かべてみせる粗雑な感じは思いのほか、悪感情を抱かせず、決して好感につながる結び目は生まれないにせよ、奥床しくも恥じらいを心得た控えめな態度には句点にも似た安堵が含まれているからで、その沈黙は閑雅な香りさえ解き放ち、自他ともに霞むような、消え入りたい欲情を包みこんでいる隠微な感覚で仲介させる。
エミールの不様さは至らなさを認めかけている刹那に顔を出していた。ところどころ意想の散らばりは攻撃性のない保身であった。
風向きはあきらかに支流への波打ちを示していたから、難なく半分ほどに狭まった流れに運ばれ、あとは左右をゆったり通過してゆく風景を眺めていればいい。
葦の密集に動体視力が働いているのが、なにか既視現象みたいな錯覚でとらわれたのもつかの間、小高い丘のなだらかな遠望にそって擦過してゆく舳先の風当たりは心地よく、ときおり澄み渡った上空でさえずる鳥の群れを見届けることなく、そっと目を閉じてみれば、さざ波の上げる細やかな飛沫の音が鼓膜を隔てた柔らかなざわめきにも聞こえてくる。
点在する民家の佇まいを認めたく願う郷愁に等しい眺めはまだ先のようで、多分しばらくは平穏で喧噪とは乖離したのどかな景色が連なってゆくのだろう。エミールは心細さを単調な自然の流れに預け、白雲と並走するような感覚を川面に投げかけながら、日差しの強弱で照り返される小粒な光の舞をまぶしげに見ていた。船底まで夕暮れに染まるこの先を案じながら。
「あんたにも追っ手が迫るのを懸念してわけなんだが、可能性はさほど高くなく、もしここまで追尾して来たのなら数日様子をみて、なんらかの出方があるはず、十日間というのはそれくらい経てば無事だと、そこで新たな伝達が入る。あんたの道連れとどこで合流するかって件も追々あきらかになるはずさ」
川のほとりで少しだけ語ったスミスの予感がめぐり出す。
すると動体視力は危惧をはらんだ今後に即すよう背中の呪縛から解かれ、仕掛けの内実に少しだけ切りこんでみたくなって、落ち着く場所へ落ちついたなら、あれこれスミスに質問を問いかけている自分の青ざめた、しかし夕暮れを待たずこの地へたどり着いた残照に対する好機が懐かしく、不純な意識に苦笑するのだった。
[632] 題名:お早う、スミス〜9 名前:コレクター 投稿日:2025年05月08日 (木) 01時41分
踏みはずした春は思いのほか激流に招かれず、散漫とも放心とも痴呆とも呼べそうな心持ちをなぞりつつ、ジャン・ジャックが話した通りなだらかな流れに従って僻地まで運んでいった。
まわりの風景や気配は勝手に速度を調整し横切っていたのだと意識したとき、ゆっくり浅瀬を引きつけるよう岸辺へ近づきかけたエミールは、森や空に囲まれる青みから解放され、船底を洗い続けた水面が透けてゆくのをぼんやり見つめていた。
必然の理にかなった、そう心底言い聞かせたかったが、打ち合わせに順守した赤い帽子の際立ちを、絵画的に緑を背景とする異質な感じを、軽い衝撃で受け止めてしまい、街角から並木道、河口から緩やかな流れに伝った時間の配分がもどかしくも、妙に交差する空間に面していたひろがりを覚え、つい弾むような調子で、
「おはよう、スミス」と、よく響く声を耳にした途端、
「やあ、スミス、あなただったのか」
まったく予期していたのか、そうではかったのか、詮索するのも疎ましく、はっとさせれた胸の音を素直に聞き届け、声高に返答するのだった。
赤い三角帽といっても山高帽を少しばかり変形させた程度で、それより一度だけ仕事をした相手の顔をうかがうほどに、薄笑いを浮かべているのか、警戒心を張り詰めているのか、とまどい迷う怪訝な表情の動きには、どうやらエミール自身の心境を投影しているみたいで、挨拶という何気に飛び出す言葉の選択を余儀なくされた結果、
「えらいめぐり合わせだね。正直こんな場面が訪れるとは」
なんて、あたりさわりのない、けれども場合によれば必要不可欠な、それは常日頃に生じるであろう怠惰と気晴らしの結び目に触れたような、労働なり家事なり身支度なり寝そべった姿勢をただす億劫で仕方なさを一瞬だけ放擲してみる考えの閃きに依拠していて、半分以上愚痴りながらため息とともに出る、あの実際の加減を了解する方便だったし、また、いかにも感慨深さを伝えたく、それが機嫌取りのようにも思えたけれど、屈託ない相手の大きな笑みを見届けない以上、どうしようもないから言葉は投げやりな意想を借りるしかない。
立ち尽くすことの緊縛とはこうした状態であって、気詰まりを通りこし、意識はほとんど身動きとれなくなっていた。
「早く船から降りたらどうだい。少しくらい足もとが濡れたって平気だろう」
エミールを見かねたわけでななかろうが、ごく自然のやりとりは合図のあとに始まろうとしており、この雰囲気でおおよそ見当はつけられたし、年配者に対するかつての横柄なもの言いが即座に思い出されたので、同じ轍を踏むのを避けた方がよく、なるだけ控えめな姿勢で応じるべきと判断したのだった。
「川の流れが穏やか過ぎて、まだなんというか、落ち着いているんだ。でも、一刻も早く、そうだね」
三角帽の下に割りと愛嬌のある笑顔が認められ、無骨な手をエミールに差しのべ、勢いよく陸地へ引きよせてからこう言った。
「あんたが災難なのかどうか、おれは問題にしたくない。ただ身をひそめる助けを頼まれた、深い事情は知らないけど、とにかく十日間はここにとどまってもらう」
渡りに船を信じていたので、いきなり期限を切られ不安を一気に募らせらてしまったが、邂逅に含まれる手応えや未定の領分を差し引けば、冷ややかでぶっきらぼうな口調もスミスの個性なのだと、適当な要領を働かせたエミールはあくまで切羽詰まった顔色を見せず、
「それくらいの期日しか安全は保証できない、そう聞こえるけど、多分あなたの側に責任が横たわっているようだね」
と、隔離がもたらす保全と受け渡しの按配を織り交ぜて間を置かず、
「あのときは名乗らなかったけど、スミスでいいのですね。そう呼んで」
いくらか情熱的に言った。
「ああ、いいよ」
スミスの眼光は変わらずだったが、口角は微妙に上がって、威圧的な身構えは退いて見えた。
だが戦々恐々とした心情は我が身を巡回しているのであって、この番人の佇まいに宿っているわけでなく、つまるところ自分自身が本当の敵なのだから、自意識を後退させればことたるとエミールは踏んだ。
たとえ激戦のさなかで打ち震え、敵兵に撃ち殺されそうな状況にあろうとも、恐怖の真の姿は自分の中にあって死の瞬間まで離れ去ることはない。むろん逃れる算段や命乞いも恐怖が織りなす生命賛歌だし、そのつつましさはあまりに輝かしい。拮抗する心身は風の中にあり続けるのだろうか。
そのつつましさをエミールは十全に心得ていなかったけれど、未熟な理知が最大の障壁となりうることは薄々感じていた。だから自分も相手も騙すふうな口ぶりが用いられる。なにより無難な関係が、むろん対等ではないにしろ保たれることが肝要だったので、
「青二才もいいとこだったよ、あの火薬庫の仕事さ、だからあなたには失礼な言葉づかいで、専門家らしいってことも知ってたけど、背伸びしたくてえらそうな態度をとってしまい、申し訳ないと思っています」
そう丁寧にあたまを下げた。
「もういいさ、新入りのひと仕事には違いなかった。そんなことより、ジャン・ジャックから説明を受けたことがらを話しておこう」
内心の震えも投げやりな意向も通じたか、どうかは知れない。ただ冷徹な意識で任務を果たそうとしているスミスには少なからず畏敬の念を抱いたし、今思えば若輩だった自分の補佐としてスミスがあの火薬庫に呼ばれた理由があきらかになってくる。そして今度も・・・
まだ川面の揺れが身体を伝っているようなエミールを促しながら、スミスは隠れ家らしい場所へと速やかに向かった。その背をじっと見つめてしまうのが、どこか疎ましく悩ましく、頼もしく思えてしまうので、岸辺の石ころと柔らかな地面が足の裏へもたらす複雑な感じが心地よかった。
そして春の目覚めに生命を茂らした雑草をかき分け、踏みしめて、小枝は空の色を閉じるよう無数の葉を頭上へ羽ばたかせる森へと、ほとんどけもの道みたいな足場の覚束ない山すそに分け入るのだった。
エミールはスミスの背から視線をそらさず、森林と山間の静けさを、漂うことを忘れた清浄な空気をしみじみと感じながらも、人生を彩る馴れ合いは自然の裡に気づかさせているようで、だが、ことさら大仰でもない、決して単調な逃避行でないはずなのに、意識の流れは下りを最上とでも言いたげなのか、とりとめない記憶が、主によく描けた絵日記のように、並木道から河口へと降りる目印の自転車の日差しを受け、黒光りするきらめきを起因として、深く吸いこむ澄んだ山の空気を淡く染めゆくのだった。
[631] 題名:お早う、スミス〜8 名前:コレクター 投稿日:2025年04月23日 (水) 06時00分
春にひろがる誇らしげな新緑を横目遠目に歩調は整えを覚えず、とはいえ、夢遊病者のごとく乱れふらつくわけでもなかった。
名状しがたい懸隔の程度はどれくらいなのか、そんな想いを裏打ちしているような葛藤の工夫が泡になって水たまりの端っこに溜まる摂理、見つめる光景はことさら薄ぼやけて仕方なく、ひりついた実感から遠ざかろうとしている。それでも歩み続ける。
地面は土煙りを立てず、空へ向かう陽炎の覚束ない色味は残滓となり、まぶたの裏に淡い記憶を貼りつけていく。とりとめもなく過ぎた時間、だがどこかしら鮮明な断面からは愛おしい匂いを照り返し、あたりの空気に純化するとき、わずかばかりの静けさに包まれる。
ことの顛末、事態の深刻さには無関係な静けさをエミールは讃えた。ほどなく意識がおもて立ち胸騒ぎを引きずり出すと、目路は醒めた風景の訪れを知らせながら、透明な光線が木々の葉擦れにはね返る様を、ちぎれ雲が空の青みに溶けこんでしまう晴れやかさを、街並みを背にした寂しさを、幾度となく波打つような繰り返しの意想だとため息まじりに感じるのだった。
けれどもエミールはとめどない感傷が決して見晴らしよい流路をたどるばかりではなく、込み入った事情にも関知せず、また思いあがりの美徳に組することなく、まったく野放図で適当な、不謹慎であたりさわりのない嫌味になびく、いつわりの空論に目覚めていた。
川風は近く、澄み渡った蒼天の素直さは前景の道なりを示しており、気だるさを律儀にも押し出している。
並木道と呼ぶにはまばらの木立と石ころの目立った粗雑な感じは、田舎町の土手にありがちな距離を偲ばせない風情で、歩むにしたがい益々なにか陰険な幹の黒みを横切るみたいな気分になり、吹き溜まりに漂う重苦しさすらかすめ出す。それでいて抜けるような蒼穹の開放感はかなり爽やかに、良きことの兆しを反照する日差しの片鱗をあちらこちらへ振りまいては、当たり前に閉塞した意識に分け入り、あたかも裾野から駆け上がる光明はそらんじることを称揚して止まない高まりのごとく清澄にきらめいている。
刹那の高揚、切迫した事態を顧みずただ一陣の風に身をまかせるのも悪くない。エミールの抱いた矛盾は鷹揚でその場かぎりにふさわしい避難であった。罪も罰も知らない青くひろがった天空に矛盾を持ちかける方が尊大なのはわかっていたが、ちょうど覗ききれない小窓から遠方を眺めようとする他愛なさのように、光景の角度は必ずしも自在ではなく、囲繞されるに及んで深まる視線こそ切実かつ有意義だったので、他人にとってはどうでもいいことでも、自らの感覚を生き生きとつかさどっているこの断片的な雰囲気にのみこまれるのだった。
転じて人影に危ぶみを覚えつつ歩いていることの、不甲斐なさをいなたい景色に重ね合わせてみれば、茫洋とした視覚像が迎える爽快感と、愁いを帯びたやるせなさが同時に開けているのがすみやかに了解できる。
鬱蒼とした雑草の根が見極めつかないよう、いや、そんな部分にわざわざ目もくれないはずなのに、暗澹とした心理を探るまでもなく抱きかかえ、似たような風合いで色付けしてから、なんなく突き放す。
たとえば学究心にあふれた植物博士が、もし自分と同じ立場にあったならあたりの景色に対し、切り取り出来ない懸隔をどう扱うのだろう。こんなところでと稀少な品種に目を見張ったり、一葉一葉の変形の由縁を気候や風土に結びつけたり、散見する岩肌の湿り気などを注視したり、おもむろに草むらから踊り出る蝶々の舞にこころ打たれるのだろうか。
亡命というよりあくまで探検に近い感性でこの情況に接するとき、おそらく彼がまみえる環境は自分と異なっているはず。エミールは空想を一気に他人ごとへと変奏したのが我ながら可笑しく、目を細めた。
あるいは・・・軽い浮遊ではあったけれど案外と根を張った思いつきがよぎった。
なぜか向こう側から若い女が疲弊あらわに歩んで来る・・・白昼の幻想もしくは間暇の生み出す灰色の影・・・消えた欲望が手押しする吐精の残滓・・・重く張り詰めた股間に聞かせる子守唄・・・泣きごとで夜へ沈める切り裂かれた失意・・・空まわりの邂逅・・・
脳髄が自動手記に長けているなら、これくらいの打ち破れた心境など容易く錯覚して見せるに違いない。だがマノンの似姿は瞬時に消え失せてしまった。
どうにも単調な道筋であることが、そしてややある勾配に気疲れを感じてしまって、原風景と生命体の織りなす儚くもうしろめたい高望みを含んだ幻影は風向きに制されているのか、たなびかず、気ままな帆影はまだ映らない河川の流れに臆したのか、追いかける姿はそのまま遠ざかることを願っているようだった。
離れゆく理想と欲望、周回する邪心と悲嘆、マノンに裏切られたかも知れない。これは思いつきでも閃きでも直感でもなく、忍び寄った影の気配に耳を澄ました怖れが立ち上がったのであって、ことの次第は鮮明に描かれているので過去形の疑念がふさわしいはず、成り行きに沿うならば、小舟が流れに乗るようにジャン・ジャックの手助けは偽装であり、計画された罠であり、めくるめく謀略でしかなく、エミールは文字通り流されてゆくのかと案じた。
しかし、連れだった港までの間に聞かされた秘密と企てによって揺さぶられ、困惑を隠しきれなかった身からすれば、急変を余儀なくされても致し方ないのは当然、マノンと手に手を取り合って遁走すること事体、大仰で芝居じみた行動でしかない。悲劇の立役者のごとく初めて情を交わした後の逃避行などとはいかにも夢物語り、不都合が生ずるのが実際というもの、夢が叶わなった腹いせに裏切り者と決めつけてしまう性根のあり方はとても貧しい。
この状況下で先行されるのは引き裂かれた情愛に嘆き悲しむ余韻でなくて、赤い三角帽を目印しにスミスと名乗る男のもとへたどり着くこと、それが謀略だろうが落とし穴だろうが、進んで臨むしか方途がない以上、疑心暗鬼や悲憤は机上の感情と言って差し支えなさそうだから、すべり流れゆく行動のなかに一縷の望みを託すべきである。
誰だってこんな展開に接してみれば、頭は混乱するし、胸の動悸は鳴り止まないだろうし、不本意な考えだってあれこれと去来するのは明白で、さながら鼻毛を抜く痛みのように滑稽さをはらんだ能天気な自堕落がついてまわるに相違ない。
気弱さに平均値をあたえ、投げやりな構えに整合性を見出すことでエミールはつかの間の安寧と渡り合える気がした。無防備な能動こそ天命だとかたくなに信ずる流浪の雄のように。
やや傾いた日差しの加減は大きく枝をのばした木々に爽風を送りながら、まばゆい照りを地面に落とし、人影の気配をそう遠くはない山裾へとこだまさせる。あたかもエミールだけが息づかいをしているかの寂寥が際立ち、そして葉擦れの乾燥した音の重なりは孤影の後をついていく。
意想はなおさら断片的に脳裏をかすめ、濃緑の茂みへとかき消される。ときには雑草の底辺によどんだ瘴気を嗅ぎ分けながら、毒素を宿した、けれどもあくまで刺激と軽んじて離れゆく凄惨な場面や淫らな情景を見栄えはともかく、的確な記憶の一部として五感に委ねられた挙句、鋭い光線の矢は闇の彼方から突いて出たものか、切れ切れの印象が浅い嗅覚をともなって立ち現れてくる。
それはおさない日の夏の庭であり、小池に波紋を投じた水棲生物の不思議が取り残されて。
脈絡もないまま、今度は飼い犬だったペロのおおきな舌で顔をなめられ、その生温かさを感じる間も置いてゆくと、テラスから見下ろして大人の表情をまねている誰かを想い浮かべ、続け様に父なのか親族なのか判然としない厳粛な雰囲気をブランコに揺れながら眺めていた記憶がよみがえり、その晩、きっと経過は正確に反し、いつぞやの夜更けとなって恐怖を胚胎していたあの戦慄を甘く彩ると、無人のブランコを揺らす妖怪の正体に胸を熱くしたものだったし、また数年後には親戚すじの少女が白いドレスで現れたときめきが、浴槽の湯気で曇った鏡に吸い込まれる際、香る匂いとかがやきに動じる余裕のなさも鮮やかに呼び起こされ、すると寝室の床をつたう蛇のような粘り気と俊敏さが合わさったふうな異音に目覚め、悪夢の余韻は深夜の空間にたなびき夜明けを待っても漂い続けた、あの優美にして背徳の萌芽の夢幻境地が忘れられない。
どうしようなくこみあげてくる寂しい怖れは死ぬほど懐かしく、断片に写しとられた情感はまったく鮮度を欠いてなかったから、エミールは杓子定規なあり様を割引き、道行きの想念とするのだった。
[630] 題名:お早う、スミス〜7 名前:コレクター 投稿日:2025年04月09日 (水) 03時54分
まったく意外だったかと思えばそうでなく、では予期していた成り行きだったと案ずれば認めがたく、困惑がひき起こす至らなさ、見苦しさ、そこで悪あがきの土台へ片足だけ乗っけてみたけれど、もう片方が踏み足へと及ばず、なにかしら楽天的な、自分ごとであってそうではない軽佻な感じを含み入れてしまい仕方なく、投げやりなのか、開き直りなのか、このどうにも定めようのない意向は適当な世渡りへの傾倒でしかないと、エミールはぼんやり考えた。
未熟を毛嫌いしつつ、その現状をよく知る恥じらいが上気をもたらしたとすれば、エミールは奥床しい冒険者であり、無知を歓びで満たそうとする華やかな愚か者だった。たとえ最果ての地へ落ちのびようとも、未開の熱帯に楽園を見出そうとも、情婦を道連れにした逃避行に溺れようとも、自分自身ほとんど変容を遂げることはなく、ついてまわる影をどこまでも引きのばしたに過ぎない。気分はそこそこ変わるかも知れないけれど、人格の骨子にまでは及ばないだろう。
とっさの閃きは案外、生まじめで地道な日常に警告する。だがそのあと、ゆっくり浴槽で足をのばすようにあらためてぬるま湯にほだされた気概を可愛がり、辛辣な追想をやわらかにへし折り、何ごとにも耳を貸さない意固地な性状をもって理想郷へと踏みこみ、頑なな信念を築き上げる。しかしエミールの夢想はまだ鷲づかみにされた直後の風船みたいに割れもせず、膨らみもせず、しぼんだりもしない。
「たぶん間違わないと思う。しっかり目を凝らすよ」
道ゆきの手順を聞き入れたエミールは空元気でない声が相手に伝わるのを感じ、顔をほころばした。
岸壁で鷹揚に揺れている客船が視界をほぼ占有したけれど、ちょうど絵画の遠近法が片隅の景色を強調するよう、湾内から遠くで細かやかにさざ波をたたえている蒼海の透ける色合いが鮮やかで、同時に往き交う人々や荷馬車のざわめきも潮風に吹き流されてしまう運命に従っているのだと思いなしたところ、近づく波止場の風景はほとんど静止した彩度に収められ、晴れやかな旅情に照らされた客船の窓を通り抜けていった。
「小さな船旅は決して危険じゃないさ」
相槌を打つように応じたジャン・ジャックだったが、やや怪訝な声つきで、
「だけど今がもっとも危険かも知れない」
と、申し訳なさそうに言った。
「さっきから尾行の気配がしていたんだが、いよいよ確かだよ。落ちつて聞いてくれ。たぶん教えたら不安がるだろうと思って口にはしなかったけど、おっと獲物はおれだよ、エミールあんたじゃない。実子の身分を知る者はごく少数だから、と言ってもそれも時間の問題だ。それで大慌てに避難するわけだけど、マノンをこのさき側において確かかどうか、真に見極める必要があったのは分かってもらえるだろう。でも情交を経て不動の心持ちを得たようだから、つまりまわりくどくはなかったはずさ。
あまり細密に話している間はなさそうだ。これだけは言っておくよ、まえもってすべてを報せてしまうわけにはいかなかった。なぜならおまえさんはきっと考えこんでしまい、ためらいにためらった挙句、逃避ではない方向を選ぶとホルンベルグは案じてたから。
これ以上、連れ立ってはいられない。おれは素速く身をかわすことも別人に化けることも出来るが、あんたが巻き添えになっては元も子もない。ほら右手に並木道が見えるだろう、おれはこのまま客船に乗りこむ振りをするが、エミールあんたは並木道へあわてずに散策の足取りで向かってくれ。河口へ降りる目印として黒い自転車が立てかけてある、荷台に三冊の古びた書物を縛りつけておいた。まず間違わないだろう」
「そうだね、おそらく」
エミールはうれし泣きで破顔しそうな、けれども悲痛にゆだねられた表情を隠せず、
「なんてことだ。ここでお別れかい。また必ず会うと思うけど、この加速にはいささか混乱しているよ」
ジャン・ジャックは同調しているのか、
「混乱してる状況だと言えるだけで上等さ。そこでだ、マノンを待っている猶予がないのは承知してくれるね。遅れて別口で三角帽のスミスのところへ向かうよう手配するから安心して欲しい。船漕ぎは慣れたものだろう、河口から支流へと入れば、あとはなだらかに船は運ばれてゆく」
もう言葉をつなぐ時間がないことを優しいもの言いで伝えた。
エミールも短く、
「で、夕刻までにだったね」
ぽつり、つぶやく。
「そう、天候が急変しない限り。じゃあ、また会おう」
妙な気持ちが胸を刺すときの、不確かではない、おおよそ明快であって、手探り足探りの末にあふれ出す感情の苦しみにも似た、が、ぼやけにぼやけた痛点のにじみを覚えてしまう、嫌な達成感に追随するような名残惜しさが二重にも三重にも押し寄せてくる。
懸想が実体化した不可思議の、幼児らしい手放しの喜悦、マノンをものにした肉感。転じてなにもかも空想の絵空事であり続けてと願う矛盾した疑念、この実感のなさは肉感をも侵食しかけていて、輪郭線は意思を半分もたどってなく、しかし忘却の力学が息づいている以上、思い出は不可侵の領域で咲き誇る。
あるいは反感すら抱いていたジャン・ジャックとの会話、思わぬ懸賞を手にしたような端的な弾み。そして実父と告げられた悪しき響きのなかにこだまする郷愁。たなびく悲哀と喜悦の平行線、それらは虚実ないまぜでありながら、胸を焦がす恋情みたいに身勝手に波打っている。
走り去るようにどこかへ消え失せた影。エミールの切なさは驚きと狼狽に誘われ、悲しみに突き放されてしまった。そんな自失とも虚脱とも泰然とも言い難い思惑のゆくえは、さながら粘り気を持つ濃霧のまっただ中から見定める不用意な観測であり、言い残された挨拶はほど遠い距離感をつくりだす。
「行ってしまった」
ひとりごとが葉擦れのように空に浮かぶと、言葉はすぐさまマノンに対する肉欲を呼び覚まそうと努めたが、それは引き裂かれた純愛の美徳を称揚するばかりで、眠りの傷を深めてしまうだけだった。
心細さは自覚より鮮明な糸口をまぶたの裏に配している。
夕暮れの気配を告げていない、まぶしい青空、輪になった光線、消えない水平線、土ぼこりを立てない大地の音、木々を揺らす触れられない指先、草むらで転倒する子供の楽しさ、覆いかぶさる植物の柔らかで刺々しい感触。
夢のなかで通り抜けた真っ暗な洞穴、初めて見た女陰。並木道を歩く。
[629] 題名:お早う、スミス〜6 名前:コレクター 投稿日:2025年03月25日 (火) 04時30分
何気なく当たりさわりのない会話ほど、人生の深淵をうまくかすめてゆく音色は他になく、しかも日ごとの
さざなみにも似た穏やかな静けさの岸辺において、開けた入り江の青く澄み渡った色彩を感じるとき、その優美にして平穏な明るみの、だが視界には収まりきれないもどかしい気分を遠くの怖れと知る刹那にこそ、より沈潜した望ましさを覚えたりする。
口にせずとも平和に取り囲まれているふうな淡い静謐、そして満ち足りたことを忘れがちな安らぎは渚が奏でる単調な調べに乗ってどこまでも続いているような、けれども沈む夕陽のもの哀しさは夜のとばりによってもっと異なる鮮やかな気分へと運ばれてしまう。自然との共存と呼んで差し支えないであろう、こうした鷹揚な意識の沈滞に罪があろうはずもない。振り返ればすぐうしろに覚えある風景は描かれており、見返すまなざしもたやすい。
「言いにくいことなんだが、エミールあんたはこのまま、速やかにこの地を離れるべきだ」
見当は容易だがいざ即することは骨折りというか、一気に土砂を浴びたごとく簡単にぬぐいきれるものではない、安寧や平穏に見放された状況からすれば当たりまえだけれど、聞き覚えのある説話を旅先で語られている感じがどうにも疎ましく、追ってしっかり把握しておかなくては、などという学習意識も棘のように刺さってくるので、いかにして混乱から回避するべきか、ちょっと自分でも収拾つかないほど憔悴は自覚されておらず、逆向きに危機感やら喪失感に取りすがり、混迷の不運を嘆く余裕もなさそうだった。
「そうかい、どうあってもこのまま遁走した方がいいようだね」
嘆きや怒りは軽口に取って代わる。
「荷物とかさ、あと持ち帰らないといけない大事な書類も、マノンの部屋に置いてきた」
不幸を知らされた学童が校舎を背に言い出しそうな律儀さで。
「心配ないさ。間違いなくあとで届けさせるから」
ジャン・ジャックの温和な表情は逆にエミールの気掛かりを増長させた。いくら何でもこの降って湧いた事態は絵図らしくないような気がし、反面いつもの仕事の合間に懸想を成就させた小手先を見計らってゆくえを消すのは案外目立たない手段かも知れない、用意は周到、マノンの口ぶりだってほとんど自分をその気にさせる為の方便だとしたら、一気に急峻な崖っぷちを転がりゆくよう、やはり的確な手口に違いないだろう。
すで激しい動揺のさなかにあって、またもや先ほどからの平常心が濃い霧のように眼界を包み隠す。エミールは分別という理知が急斜面においてどういうふうに試されていくのか、いかにも他人ごとみたいに想像したのだが、自分自身から距離をとったくらいの構えがちょうどいいのかも知れない。
そう割り切ると、いや、中身が豊饒な果実味を食するわけでも、肉汁のしたたり落ちる按配に舌鼓を打っているような場合でもないから、とりあえず吉凶を占い運を人まかせにするような、そこには多少なりとも生死の彼岸も毛羽立っているのだが、急激な身の流れには神頼りの天使の羽ばたきを切望してやまなかったので、意識の混濁は不透明な景色の彼方へと放り投げられたのだった。
「今頃マノンも準備通りの身支度を整えているだろう」
「それで落ち合うってことかい」
「まあ、そういうことだよ」
腑に落ちないわけではないけれど、エミールは段取りや手際の素早さに立ちくらんでしまったようで、
「もしだよ、自分ひとりで亡命したいって言い出したらどうするつもり」
「足手まといはごめん、それに情婦となんかかじゃ割に合わないということなのか」
わすかだけジャン・ジャックの語気が強まった。
「そうではない、おそらく切実に望んだことが形を変えて叶えられようとしている。不満も文句もないよ、ただ割り切りがうまく出来ないんだ。この状況でそうしろっていう方が酷だろう」
「ああ、いいんだエミール、本当に単身がよかったら変更は効く」
頭上の青みは春先の清潔な深さを水平線までひろがらせ、白雲のうねりも静かに勢いづいている。港を前方にひかえた足並みをはた目はどう眺めたことか、が、他者の思惑なんておおよそ接点を持ち得ない気まぐれなまなざしで中空を漂うに過ぎない。肝心要の目的意識と燃え盛るような欲望を足先に秘めない限り。
むろん敵の追尾は別として、風景のあちらこちらに点在する不審な影におびえる今後を、すでに怪我人のごとく先まわりして痛々しく思いはせるとき、気弱な性情には独りより道づれが好ましいし、まだ実情は得られてないがどうやらマノンの抱えている動静は少なからず関わりを深めていそうだったので、もっとむき出しに言えば、追っ手に殺されようが一蓮托生、ここにきてようよう死生観の連なりに情愛を託せることが儚い夢にも思える。最悪の結末に上乗せする手軽な夢想、それは影の薄い覇気。
平静な心持ちは保たれたのではなくて、あくまで演じられたのであり、楽屋から見つめれば能天気なほど夢見に絡まる淫猥に悶え、懸想に懸想を重ねた濡れ場への道程と行き止まりの楽園を空中浮遊させていたのだから、急激な異変は底なしの怖れであると同時に痛覚を持たない気配を漂わせているだけで、ジャン・ジャックの通達を鵜呑みにしたとしても、あまりある栄光は尻つぼみの体裁でしかなく、日頃なら、ありていな平和だけれど変わりばえのしない過ぎゆきの、冷めたスープにけちをつけずに飲みほしたり、かたくなったパンを歯が欠けそうに食いちぎってみたり、苦い野菜が舌先へ残してゆく苛だちをやわらげたり、近隣の娘のうしろ姿にいたたまれない欲情を覚えてみたり、重責だと教えられた使命を人一倍ありがたく思ってみたり、花咲く道ばたを撫でつけるように吹きゆくそよ風に微笑んでみたりする、取りたてて問題のない決して不幸でもなければ、苦悩でもない、日々のよそよそしさと近しい感覚はたどることの出来ない記憶に終始するだろうし、たとえ馥郁とした優美さをもって加飾されたふうな光景でよみがえったとしても、失墜の恐怖は昂ぶる気概を遠目に眺めたに過ぎないから、過分な光は射し込まない。
一瞬の恍惚、連続へのあこがれ、満ちたることの不可知、情婦マノンこそ今の自分にもっともふさわしい人物ではないか。エミールの確信は鋭さや理性がかいま見せる抜け目のなさには事欠いていたれど、適度に張りつめた陰茎が空気を震わせる恩恵を忘れなかった。
マノンとふたりして追いつめられた密室で交わる肉感こそ、生きた証しになる。こうした調子だったので敗北の戸惑いは栄光の残照と融けあい、たゆたう鎮魂歌の旋律を波止場が忘れているようにも仄めかす汽笛のなかへ結び合わそうとほくそ笑むのだった。
「港が見えてきたけど残念ながら船旅は船旅でもいささか趣きが違うのさ」
須臾の間エミールが自堕落なもの想いに耽っているさなか、ジャン・ジャックはこれからの道ゆきを説明していたし、今後の音信についてその可能な範疇をいくつか示していた。
もちろんいくら恍惚の面体を気取っていたとしても聞き逃せないのは当然で、まずマノンの出自および因果はじかに本人の口から話してもらえとのこと、これはかなりこみ入った事情がありそうだったのでもっともだと了承、ホルンベルクは実父としての威厳ならびに過酷を極めるであろう趨勢のなか、果たしてエミールをどう援助するのか、それらは未定というしかなく、その都度なるだけ報告するつもりだということ、なにより先決問題はいかに敵方にさとられず退路を求めるかであって、
「波止場の手前の河口に一隻の手漕ぎ小舟を係留してあるんだ。それでもって河口をしばらく遡ると支流が見えてくるから、そこから向きを変え地形を斜めに進む按配で流れにそってずっと奥地まで進んでもらいたい。農家の納屋がちらほら見えてきたら隣国だよ。そのまま岸よりに、そうだな、うまく行けば夕方には手配の者が赤い三角の帽子で迎えてくれるはずさ。
えっ、間違わないかって、だいじょうぶ、おまえさんにこう呼びかける、お早う、スミスってね」
「夕方なのに」
「だから間違わないだろう。その名は赤い三角帽の男のことなんだ。あんたはきっと見覚えあるから、まあ心配いらない」
エミールはなにか案じたのか、ほんのりと頬を上気させるのだった。
[628] 題名:お早う、スミス〜5 名前:コレクター 投稿日:2025年03月19日 (水) 06時40分
宿泊先と呼ぶにはいささか抵抗ある帰り仕度のさなか、やんわりとこみ上げてくるのものは、ただ単に旅装を解き疲れを癒やすためだけでなく、密やかな娼館の趣きさえ胚胎する奇妙な責務と重なって、生々しい交わりに興じた光景の、寝落ちとはまるで異なる堕落の色合いの、すべり去った時間の速度の捉えなさであり、しかもそれはふり向くのが億劫なくらい徒労とはき違えてしまう高慢さが抱いた虚脱に他ならなかったので、なにか決定的に白々しく、ありきたりの気分を悩ますのには十分の、なまめかしい情調に幾らかのざらつきが残る湿り気と拮抗する。
それでも胸を串刺す決断の重みは近日中どころか、ほんの用達しの時間を経るたくらいの間隔でこの部屋へ舞い戻って来そうな勢いだったから、一瞬憐れみに似た高ぶりは宿命へと準ずる身上を案じただけに過ぎず、凡庸な将来の風景画が描かれると同時に、適度な危難や綱渡りと入れ替わりの、由々しき安定と釣り合いがエミールの実年齢にまとわりついた。薄々どころかジャン・ジャックの後ろだてをこうまで知らしめられたからにはもう観念するより仕方なく、その敗北感はより遠わしにマノンへに向き合う恋情へと嵩じてしまっていた。
マノンの悲しみはエミールの置かれた立場を痛切に感じているからだろうし、そうなるといよいよもって信頼の関係は肉欲を越え深まってゆくのだろう。朝食の用意を始める所帯めいた仕草に感心というか、どこか遠方を眺めているようなまなざしを向けてしまい、
「ねえ、マノン少しだけ待っててくれないか。パンとスープはあとでいただくよ」
と、ぞんざいなもの言いをしてから、すっかり透明度を増した煉瓦道に靴音を響かせ、赤茶けた建物や青みを際立たせている商店が並ぶ街角へ向かった。
この地を訪れた当初のごとく、さまよえる肌寒さを気取りで被い、しきりに脇見するのは不粋なことだと心得ながら目的地などなく、ほとんど放浪の構えを固持していたのだったが、かの宝石店に向かう十字路まで来たとき、見覚えのある若い女性が右手へ折れるの認め、それがいかにも森の湖畔あたりに遠足するような古風な服装が印象的であるにもかかわらず、名前も記憶も引き寄せらなかったけれど、ことさら注意深い凝視は投げかけたりしなかった。
春風に運ばれる色香をさわやかに見遣るゆとり、擦過する風景のひとこまと了解して。
いや、それすら欺瞞であって実際は食傷気味な感覚を交えてみただけのこと。
果敢な意思のよりどころは選別されるものではなくて、いかに待ち受けるかという方向にエミールは傾倒していたから、また見苦しさが放つふたつの側面に意識を裂かれていたので、一刻も早い知らせを欲しているのだった。
素行調査における及第の朗報、それはいかにもこみ入った事情を排する適宜な説明で告げ知らされる。
役割りを任じられたジャン・ジャックがどのように口火を切るのか、好悪は別として鼻持ちならない口調が耳を突くのか、ことの次第はいささか改まり少しくらい配慮あるもの言いでもって自分の影を立ち止まらせるのだろうか。
命令伝達に過分なぬくもりなど含まれるわけもない、所詮エミールとマノンの蜜月だけが餞別に似つかわしく、期待なんてする方が馬鹿らしいと踏んでいたし、自由と剣呑とのせめぎ合いだったこれまでの日々と決別するまでのこと、あとは発覚しかけた秘匿がどこまで明確になるのか見届ける、自分なりの大義であった。
無心で臨めるほどに度胸は座っておらず、内面では昨夜の淫靡なせめぎあいが、まったく肉感を剥奪された影絵みたいに絡まっていたから、せわしい胸中には気取りなんか無用でしかない。
どうやら暗殺も請けおっているというジャン・ジャックはちょうど十字路にさしかったあたりで、さっと素早く、が、圧迫のある気味の悪さはかもしておらず、いかにも殺気を漂わした現れ方とは違って、寄り添いすら感じさせたので、芝居などにありがちの馴れなれしさを装いつつ打擲する前ぶれとも恐れたのだったが、疑心を最大までふくらませてみても、やはり親和をみなぎらせながらエミールの左へ居並び、歩調を合わせる始末。
不思議なもので避けがたい兇変を間近に感じているはずなのに、意外と平心が保たれているのか、日常茶飯が滞りなく済まされるような、悪感情に飲まれていそうだけれど、いかにも拘泥しない素ぶりで眼を泳がせないことがある。澄み渡った蒼穹を舞う黒鳥のほとんど静止に近く。
「めぐりあわせと旅情が離ればなれになるとき・・・」
虚心の描きだした白々しさが色づくまえにジャン・ジャックはなにやら詩歌めいた言葉を口ずさみ始めたのだが、妙なけれん味を含んでいない代わり、露骨なもの言いが試されているみたいでエミールは眉間を寄せながら相手の顔に冷たい視線を送ると、
「筋書きは大したものだったけど、まわりくどくて仕方なかったよ。だから旅情は距離をかき消すのさ」
そう相手の詩歌をさえぎり話す。
するとあきらかに大仰な驚きの表情でジャン・ジャックは見つめ返した。だが同様の親しみはその面体から去っておらず、もっと勘ぐるなら兇変をここまで背負ってきた人間とは信じがたく、すべては自意識が異空間まで踏み入ってしまった挙句の螺旋形式による誇大な変調であって、か細い神経と図太い感傷の織りなす透徹した茶番であるべき、支えを一切持たなくとも空元気を巻き起こす確信を無造作に、遠慮なく、ありふれた感性の導線のように指し示し、それがいかにも残り火の、ほとんど燃えかすでしかない糸くずの先っぽでくすぶっているてんとう虫の死骸と見まがうほどのかけらであっても、果てしない道程など思い描かず、流線形が夢見てやまない光の錯乱と沈黙で飛び散る明るみを望んでいる限り、ジャン・ジャックは新たな旅人に例えられる。
「意気消沈なのは仕方ないとして、おれは柑橘類の香りをもってすべてをかき消しに来たんだよ」
「それが続きの文句かい、君には感謝してるよ。本当だともマノンにだってそう話した」
「なら聞いて欲しい、これから話すことを」
少なくともエミールが感知したのは至って重大には違いなかろうけど、あれほどの猥雑を経て耳にすることがらとはうまく噛み合わない気がし、なにか色欲と身上を即座にはかりに掛けられているようで、居心地の良くない罰の悪さが感じられた。
「おそらくは・・・」
気恥ずかしさが飛び火したのか、ジャン・ジャックは遠慮がちに息を吸った。見知らぬ街の空気は新鮮なのだと微かな笑みとともに。
エミールにしても執行猶予は無情でしかないので、平常心が嘘のように置きとめられている間に知り得たかった。
「おおよその見当はついている。ホルンベルグからの伝言、いや命令だろう」
「では取り急ぎ話そう。このまま歩きながらでいいかい。港の方まで出よう。雑踏は油断ならないんだ。あんたと一緒の方がまだ安全なのさ」
心持ちふたりして早足になったけれど、日差しが燦々と照りつける路面の土ぼこりは追い立てているような気配なく、乾いた響きだけを街中へ残していた。またしても邪念めいた景色の残像が、決してたどって来るわけではないのだが、雨降る街路に濡れて反射するあの宝石店のガラス越しの灯りが寂しく想起されるのだった。
かりそめのもの思いにふさわしい場所だからこそ、こんな瞬間あえて淡い幽霊ごとく透明度の有無を問いかけてくるのだろうか。エミールは激しさまで及ばないが、かなりいたたまれない胸の奥のもどかしい動きに戸惑う。
反してすでにジャン・ジャックの態度は歩調とともにあった。
「情婦マノンをめぐる風説をいち早く察知したのはホルンベルグだった。そこで従事者はむろん出入りの業者にも含みを入れてあんたの興味を引いたまでは承知しているだろう。その理由はあんたとマノンが駆け落ちみたいな按配でこの商会から消えてもらいたかったから。薄々気がついてただろう、各国に暗躍し名声を博したまでは良かったが、非情な武器商人と怖れられてしまうといけない。ホルンベルグは奇想天外な爆薬を考案するだけじゃなく、奇跡に近い確率で成功させてきたんだ。そのせいでどれだけの人命が失われたことか、もはや世界でも名だたる危険人物まで登りつめてしまったんだよ。
いずれ抹殺されるか、その才を見込んで幽閉されるか、かなり際どいところまで迫ってしまったというわけさ。商会を閉鎖させ遁走する手はずは前々から計画してたんだが、かねてより請け負った仕事がまだ成し終えてなかったので、ホルンベルグは躍起になって片づけようとした。それがおまえさんだって聞き及んでいるだろうあのメデューサ像に関する一連の悶着なんだ。
ロベルト夫人は伯爵が病魔に冒されたのを期にあれこれ画策し、かねてより秘密裏にして好意的な援助をも行なっていたホルンベルクを失脚する方向へと転じたんだよ。爆弾人形ニーナ9号に仕込まれた謎を懸命に探ろうとね。むろん素人目で見破れるような代物なんかじゃない、しかし隣国をすでに巻きこみ団結の意を固めたのは事実で、そうなれば遺恨のある他の小国までが一丸となり弾劾どころの騒ぎでは収まらない。攻撃目標は一点に定められてしまった。
これまで多大な貢献を尽くしてあまりあった我が国の領主も役人らも、とても庇護という立場をおもて向きには出来ず、近いうちに証拠隠滅を謀るしかすべはないとの帰結へ至る。そうなったらホルンベルグ商会にかかわった者たち全員が殲滅されるに違いない。ただ、それはロベルト夫人がニーナ9号とメデューサ像にあらぬ細工を施し内部崩壊を成し遂げたあとの必然、おれの最後の任務はなんとしてもロベルト夫人の反乱を阻止すること、そしてあんたを亡命させること・・・もうわかったようだね、エミールおまえさんはホルンベルグの実子なんだよ。
生誕の折からいずれは避けられない不遇を見越し、あんたを里子に出したわけだけれど、常におれのような調査員を配して見守り続けて来たのさ。発育にともなう性情の変化や嗜好、先天的な疾患に対する細やかな配慮、おまえさんは優しい監視のなかで育っていたんだよ。本当は手もとなんかに置かず留学させたまま平穏な暮らしをさせたかったようだけど、実子はあんたひとり、どうしても目の届くところで見守りたかったんだろう。妻女にしても、なにもはなから情婦と結びつけようなんて考えてもいなかったさ。
とにかく時間が差し迫っているけど、マノンに関しては内密の事情あるのさ。ちゃんと説明すれば聞き入れてくれるかな。実は昨夜もある令嬢に事情やらをこと細かに話し終えたとこだったんだが」
疲労をおもてに出さないジャン・ジャックの、熱意とも焦燥とも逃れがたい従順ともいえない声色にエミールは嫉妬を覚えたのだが、その心性は乱れた狂いとは無縁だと、あまり意味をなさない観点を見つめるのだった。