三戸ゼミ掲示板 ―大学院版―
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[ No.656 ]
2015年度秋学期第四回ゼミ報告
投稿者:
2015年11月03日 (火) 12時38分 |
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【日時】10月21日(水)13:00〜19:25 【場所】国社棟604室 【出席】 (博士後期2年)中村さん、(王さん) (博士後期1年)阪本さん (博士前期2年)陳さん、沙さん、黄さん、(坂倉さん)、(唐さん) (博士前期1年)木田さん (研究生)謝さん
T.先生のお話し
1.未来・将来を考える
ロボットとIOTは、ビッグデータやAIと融合することでさらに有効なものとなるであろう。 たとえば、モノがネットワークに送る情報をビッグデータとして分析し、改善策を見つけ、 家庭にある3Dプリンターで新たなロボットや部品を作るというふうに。
経営学とは、組織を環境適応により維持存続させるための学問であり、それを学ぶ上で未来の社会がどうなっていくのか考えるのは欠かせない。 未来を考えるには、トレンドや現在の諸条件、歴史法則の三者を、メディアに頼るのではなく自らの観察と思考により突き詰めていく必要がある。
50年前と今では社会が大きく変わった、50年後の社会も現代からは想像もできないようなものになっているだろう。
2.経営学の評価と企業観
現代はほとんど感じることはないが、4,50年前の経営学は蔑まされた学問であった。 それは、公害やオイルショック時の売り惜しみなど企業が反社会的行動をしていたことだけでなく、 企業とは利潤追求(=労働者からの搾取)を行う存在という企業観があったためだ。 しかし、Japan As No.1と言われたように日本企業の世界に躍進し日本社会に経済的な豊かさをもたらした70年代以降、 企業は私的致富手段よりも社会的器官ないし準公的会社と見られるようになった。
古典的な経済学における企業は、市場における質点でありそれ自体が自律的な行動主体としては見られない。 しかし、経営学においては企業をそのような質点と見ることはできず、何らかの企業観を必要とする。 企業と社会論における企業観は、社会的器官や準公的会社であり、CSRもガバナンスもそれを抜きに語ることは出来ない。 企業を単に市場の中の存在とみるだけでなく、市場の外に広がる社会や環境という枠の中で企業を考えるのが、 企業と社会論である。
3.企業と社会論を学ぶということ
そして、企業と社会を学び研究するということは、自分の生き方も企業と社会論の観点から考えねばならない。 言っていることとやっていることが違う人間、企業の社会に対する責任を追及しながらも自らの責任を省みない人間は侮蔑の対象となる。
近代以前は共同体において消費体と生産体が一致していた。しかし近代となり、消費体は家庭や地域として生活世界の構成要素になり、 生産体は企業として市場というシステム世界の構成要素となり、消費体と生産体は分離した。 システム社会において法律以外の倫理は求められず、倫理は生活世界において求められた―というよりも、生活世界の一住民としての企業家・資本家・経営者に倫理が求められた。
しかし、生活世界における倫理が弱まる中、システム世界の構成要素である企業にも社会的責任が求められるようになった。 企業に社会的責任が求められるようになった理由として、私的致富手段から準公的会社ないし社会的器官へという企業観の変容という説明もできるが、 このように生活世界の倫理の希薄化によりシステム世界でも倫理と責任が求められるようになったという説明もできる。
現在の企業と社会論においては、「企業の」社会的責任のみが議論され、社会における諸個人の責任は議論されていない。 企業に責任を求める前に、生活世界における諸個人に責任を求めることが必要でないのか? 従業員や地域住民、顧客などを「ステークホルダー」として見る時、彼らのもつ権利のみが注目され、 彼らの義務ないし責任は忘れ去られてしまっている。 生活世界の一員である学者・研究者自身の責任もまた決して忘れるべきものではない。
まとめ 組織の環境適応による維持存続のための学問としての経営学を学ぶにあたって、未来や将来を考えることは不可欠であり、 そのためにはトレンド・現代の諸条件・歴史法則等を自らの観察と思考により結び付けて考える必要がある。 企業の社会的責任論とは、私的致富手段から準公的会社ないし社会的器官へという企業観の転換を前提としているが、 生活世界における倫理の希薄化によりシステム社会における企業という存在に対しても倫理を持ち社会への責任を果たす必要性が生じたことから求められるようになったとも言える。 生活世界の一個人である研究者自身にも当然、倫理が求められるべきであろう。
U.報告 1.沙海榮 「三鹿集団毒ミルク事件と森永ヒ素ミルク事件の対比 企業CSR経営の日中比較 ―食品安全について―」
2.黄徐全「企業の社会的責任に関する研究―正木氏による所説を手がかりにして―」
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