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[233] 【再録】中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 21時50分

「盤側の談話室」に掲載したものを再録します。このスレッドは少しずつですが、今後も続けていければ、と思っています。

Pass

[234]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 21時53分

中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-(1)

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中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-(1) 2010/10/04(Mon) 22:47

弟子入りする本人は、おそらく師匠を選べない。現在のような「外弟子」制度だと、
また別の話だが、内弟子制度全盛の時代には、弟子をとる側も、養育、教育という
ことも含めて、預かるには「覚悟」がいるからである。

米長邦雄九段は佐瀬勇次名誉九段を自ら師匠に選んだわけではないし、中原誠十六
世名人も、高柳敏夫名誉九段を自身が師匠と決めたわけでもない。天命であり宿命
と申し上げていいのかもしれない。

中原誠十六世名人の内弟子生活は、昭和32年9月、十六世名人が小学校4年生からの
10年間、C級1組で土つかずの成績を収めていた頃(昭和42年8月)まで続く。十歳の少
年は二十歳の青年に成長していた。奨励会卒業まで8年の時間が費やされている。

この8年の期間を師匠や兄弟子はどうみていたか。

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(高柳敏夫名誉九段)
 高校へ行かなかったら、中原はもっと早く四段になっていただろうね。それはまず間違
いない。でも中原は四段になったらいいなんていう棋士じゃないんだ。そういうことを考
えると、高校へ行かせて、中原を苦しめたのが結果的にはとてもよかった。
 高校へ行って苦しんだときに、四段以降の異例の快進撃のエネルギーが蓄えられたんだ
と思う。四段? それは全く心配していなかった。だから私は、中原が高校に上がってから
は、高校を出るまで何もいわなかった。静観していました。

(芹澤博文九段)
 三段で足踏みして本人はつらいし、学校のこともあって不安だったと思うよ。でもね、
いまだからいうのではなく、そのときも私は中原が四段になれないなんてことは、考えた
こともなかった。
 苦しい時代があっていいんだ。いま力を貯めているんだと思っていた。また、中原はあ
の苦しい時期があったからこそ、大輪になったのさ。花開く前の苦しみだよ。

(「名人を育てた男-将棋界の伯楽はいま-」(佐原宏志・玉井輝雄)エスティ・マネジメント
刊・1989年1月刊より引用)
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中原名人ご本人はどう考えていたか。

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 中学三年のとき、私にとって人生ではじめての分かれ道にさしかかった。
 中学三年といえば、高校に進学するかどうかを決めるときで、私の場合「将棋一本に
しぼって進学をあきらめるべきだ」という意見で、私が思ったよりよい成績表を得意げ
に師匠にさしだしたところ「将棋指しには学問はいらん」といわれたこともあった。
 私自身は、どうしても高校に進学したいと思っていたので、さっそく母にその旨を伝
えて塩釜から上京してもらった。先生と母が何回も何回も話し合った末に「棋士も社会
人の一員、高校の知識をつけさせたい」という母の意見が通って、ついに師匠も高校進
学を許してくれた。
 しかし、先生の説は正しかったようだ。非才な私には将棋と学校は両立するわけはな
い。
 将棋か学校か、どちらかをやめようと考えたこともあったが、先生にさからって進学
した手前、歯を喰いしばってがんばった。

(「名人を育てた男-将棋界の伯楽はいま-」(佐原宏志・玉井輝雄)エスティ・マネジメント
刊・1989年1月刊より引用)
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米長邦雄永世棋聖の時も、佐瀬勇次名誉九段は「棋士に学問は不要」説を主張された。こ
のときも、頑張られたのはご母堂の花子さんである。都立高校の入試では900点満点の804
点をとったそうだし、中原名人も「成績を下げろ」と師匠から叱られている。勉強という
のは「集中力」が伴わないと、どうにもならない。

私は冒頭、師匠の問題に触れた。

中原名人に技術的な面を誠心誠意、注入したのは芹澤博文九段である。高柳敏夫名誉九段
は、中原名人が入門以来、七年間、一度も稽古をつけていない。名人が昇段できずに苦し
んでいるときに、たまたま自宅に早く戻った師匠が「君には一度も稽古をつけてやったこ
とがなかったな。ひとつやってみるか」と香落ちで三番指しただけである。結果は名人の
2勝1敗だった。名人は「緩めてもらったのではないか。しかし、この将棋で自信を取り戻
した」旨のことを述べている。

中原名人に対する芹澤九段のような存在は、おそらく米長邦雄九段にはいなかった。
私は、この「差」は大きかったのではないかと思っている。
米長九段は、佐瀬一門最初の弟子だからだ。「師匠と同じことをやっていては、師匠程度
にしかなれないではないか」と軽口を叩き、雷を落とされるという環境である。
しかし、中原名人は、その人柄からも、そんな生意気なことは口が裂けても言えなかった
はずだ。芹澤九段は、そんな弟子を赦しはしない。

大山康晴十五世名人はこう言い放った。
「プロの世界では、高段者になって当たり前なのです(語気強く)。単なる高段者ではクズ
です。それから先が勝負なのです」(中平邦彦「棋士・その世界より」(講談社刊)より引用)

こんなことを言えるのは大山十五世名人しかいない。

次回、もう少し、高柳敏夫九段について、考察してみよう。

Pass

[235]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 21時56分

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中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-(2) 2010/10/06(Wed) 21:36

中原誠十六世名人の「兄弟子」は誰か? 「盤側」や「駒音」をお読みいただいた方には
それは愚問であるかもしれない。「芹澤博文」である。勿論、正解。
しかし、自称「兄弟子」という方が、お二人いらっしゃる。このことは、あまり知られて
いないことかもしれない。

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中原前名人(JC註:当時)の兄弟子と自称する人が二人いる。
 一人は亡くなられた角川書店の先代社長角川源義さんである。毎年正月三日、角川さんの
家で、高柳門下の将棋会をやるのが例だった。故宮田重雄、久保守、今泉篤男、富永惣一、
石原龍一氏等メンバーで、志賀直哉さんや梅原龍三郎さんなど観戦に見えておられたという。
 角川さんの家には、由緒ある将棋盤があり、高柳八段の内弟子になった小学校四年生の中
原少年が、大晦日にやって来て、盤や駒の手入れをして帰るのが例となっていた。そして、
正月三日に、中原少年が高柳八段のおともでやって来ると、角川さんはお年玉をあげていた
という。この将棋会はメンバーがゴルフを始めて中断したようだが、角川さんは東中野に将
棋連盟があったころ、高柳八段のすすめで、小学生の次男を将棋の稽古に通わせていたこと
もあるほどの将棋好き。
 後年(昭和四十七年)、高柳八段が中原さんと米長さんを連れて角川さんのところへ来た時、
中原さんは丁度、最初の名人戦に臨む前だった。その時、角川さんは中原さんに、
 「大山さんに勝ったら、関根盤を進呈するよ」

 その時と、その後のことについて、角川さんは雑誌「将棋世界」に次のように書いている。

 中原君は「頂きですよ」とも、「駄目ですよ」とも言わないで、だまって関根盤をみつめ、
少年時代に手入れした思い出をたどっているようだった。五寸たらずの盤だが、見事な柾目
で、類品のないものである。中原君の態度は自身家でもなく、含羞の人でもなく流石だと思
った。名人戦の内容については、すでに語りつくされている。ともかく勝って名人に就位し
た。
 関根盤進呈の日、高柳さんは鳥取に出掛けていたが、久保守、今泉篤男、海野氏等がみえ
た。盤を受け取るスナップをカメラに収めたが、暗くてどれも失敗した。「中原君、僕は君
の兄弟子だよ」と言うと、「よく存じています」と答える。中原名人の兄弟子に素人の角川
源義がいたなどと、将棋史に伝えられそうもないが、私にとって、高柳門の弟弟子に中原誠
がいるという事実は、言いようのない喜びである。

(「名人を育てた男-将棋界の伯楽はいま-」(佐原宏志・玉井輝雄)エスティ・マネジメント
刊・1989年1月刊より引用)
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私はこの一節に触れた時、中原誠十六世名人のことなど、実はまるで考えることはなかった。

「大山さんに勝ったら、関根盤を進呈するよ」

その光景を米長邦雄はいかなる思いで眺めていたのか。或いは立ち尽くしていたのか。その
ことだけを思った。米長さんは、この光景を、おそらくは生涯、忘れることはないのでは、
とそんな気がするし、ある意味、これほど残酷な有様もない。こういう一節を改めて読み返
すと、私は米長邦雄永世棋聖が、ただ1度、中原誠からそれを奪った、奪えたということも、
何かしら必然だったのかもしれない、そんなことを感じるのである。

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 もう一人は推理作家の高木彬光さんで、高木さんは雑誌「将棋世界」(昭和四十八年三月
号)に次のように書いている。
 
 中原名人が弟弟子だというのは、角川書店の社長、角川源義氏と同様に、私が高柳八段の
ところへ弟子入りしたのが、時間的に早かったからである。不幸にして、私は自分の棋才に
見切りをつけ、棋界を去ったのが早かったので、観戦記さえ書けない程度の棋力にとまどっ
たのだが、人を見る眼だけはあったらしい。入門当時、まだ少年時代の中原弟弟子を一目み
て高柳さんに、「この子は天下とりだ。名人の器だ」と断言したのである。
 このことを正直なところ忘れていた。ところが、中原さんのほうがおぼえていたらしく、
朝日新聞の某氏に昨年そのことを話したそうで、その記者からこちらに電話があって、逆に
こちらがおどろいたのである。人相学では少なくともA級八段の力はあると私は嬉しくなっ
た。(以下略)

(「名人を育てた男-将棋界の伯楽はいま-」(佐原宏志・玉井輝雄)エスティ・マネジメント
刊・1989年1月刊より引用)
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弟子は師匠を選べない。前回、私はそう記した。

しかし、高柳敏夫名誉九段という方は、文化人と申し上げていいほど、顔の広い方である。
日本探偵作家クラブの会員であり、書、石の蒐集家でもあり、茶道も嗜まれる。江戸川乱
歩、横溝正史、角田喜久雄、菊池寛、梅原龍三郎らとの交流も深い。芹澤博文九段は、こ
ういう環境の下、高柳師匠の書棚にあった本は片っ端から読破していった。
中里介山、谷崎潤一郎、ポー、エラリー・クイーン、ジャクソン・カーetc etc.

歌舞伎界とのつきあいも、相当なものであったという。

おそらく、このような空気は、佐瀬一門にはなかったはずだ。別に「ない」ことを悪いと
言っているのではない。ただ、中原十六世名人と米長永世棋聖の「違い」というものは、
案外、こういうところにも見え隠れする、そんな気がして仕方がない。

さて、次回は、この師匠と中原十六世名人の「運命の出会い」について紹介してみよう。
塚田九段もまた、中原誠を弟子にしたかったと言う。

Pass

[236]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 21時58分

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中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-(3) 2010/10/07(Thu) 21:34

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私が将棋を覚えたのは五歳のころで兄たち(長男=当時塩釜高校三年、二男=同一年)のお
陰だ。兄たちは紙に線を引いて将棋盤を作っていた。駒はちょっと厚目のボール紙を使用
していた。お手製の将棋盤と駒だったが、兄たちは真剣に指していた。幼い私はいつもそ
れを側で見ていた。
 ある日、例によって兄たちがお手製の将棋盤と駒で将棋を始めた。その日、母は行商に
出て留守だったが、父は隣の部屋で内職のガリ板を切っていた。
 勝負はどちらが勝ったのか記憶にないが、多分、次兄が勝ったような気がする。
 勝負の区切りがついた時、私はいつの間にか、駒を並べ始めていた。王、金、銀、桂、
香.....。二十枚の駒をきちんと並べることができた。
 この時次兄は素頓狂な声をあげ、父親を呼んだ。
 「お父さん、マコが将棋の駒が並べられたよ」
 父や兄の動きの目が私に注がれているとき、私はキチンと並べられた盤面を見ていた。

(中原誠「無心の挑戦」1986年2月 シーズ刊より引用)
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中原誠十六世名人の生まれは昭和22年9月、米長邦雄永世棋聖は昭和18年6月に誕生している。
米長家も貧しかったが、中原家も決して豊かとはいえない状況にあった。「お手製の盤・駒」
などという記述は、谷川・森内・羽生の頃には勿論なく、米長永世棋聖の著作にも、そのよう
な記述はない。中原家にあっては、父親は「将棋」を知らなかった。父親はこの時を機に「マ
コちゃん」と一緒に、二人の子供たちから将棋を習うのである。

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 父と一緒に将棋を習い始めたときは、父はまさか五歳の私に負けるなどとは考えていな
かったようだ。私の方は、見よう見まねで駒の動かし方が多少わかっていたので、それだ
け、何も知らない父より有利だったはずだが、何しろ私は五歳、父としてもまさか自分が
負けるとは思っていなかったらしい。ところが父はコロコロ負けてしまい、同格の平手で
指していたのは十日間くらいで、その後は駒落ち将棋になっていた。ついには飛車、角落
ちになり、結局、私の連戦連勝。父はとうとう将棋を断念し、それ以後指すことはなくな
った。
(中原誠「無心の挑戦」1986年2月 シーズ刊より引用)
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私が将棋を覚えたのは小学校の三、四年の頃だったが、父親との最初の手合いは八枚落ち
だった。上手の配置駒は金2枚と歩だけである。それでも最初は負けていた。流石に今考
えると「どうやって負けていたのか」もう思い出すことができない。中原家の場合、父親
が初心者とはいえ、これでは、指す気が失せてしまうというのも無理はない。

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 この頃の私は、父の勤めている電報局にお昼の弁当を届けるのが日課だったが、これは
私の楽しみの一つだった。
 それは昼休みに局員たちが将棋を指すからだ。その将棋盤や駒は本格的なもので、弁当
を届けると局員たちが誰彼となく声をかけてくれて私を相手に指してくれた。
 最初は軽い気持ちであったろうが、次第に彼等も真剣に指してくれるようになった。そ
うなるとまだ五歳で将棋を覚えたばかりの私は、戦局が不利になるとついつい“待った"
を連発してしまう。
 この光景を目にした父から、私はうちに帰って説教された。だいたいこんなような内容
だったと記憶している。
 「いいかマコ、もっと強くなりたいと思ったら、たとえ相手が“待った"をしようと、
おまえだけは絶対に“待った"をするな。相手に何度“待った"をされてもいいけれど、自
分はするな」
 「もっと強くなりたい」と思っていただけに、素直に父の意見を聞くことができた。そ
れからは“待った"をしない将棋になった。(中略)
 「待ったをするな」「くやしさ(負けた)を外に出すな」
 この二つの言葉は、父から贈られた何よりも貴重な教訓として、その後の将棋、人生に
大きな力となった。
(中原誠「無心の挑戦」1986年2月 シーズ刊より引用)
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昭和59年だったか、中原名人と何度目かにお会いした時に、私はこのエピソードについて、
知り得ていたこともあって、名人にこんな質問をさせていただいた。

「私は何度、“待った"をしたら、名人に平手で勝つことができるでしょうか」

名人、思わず噴き出されて答えられなかった。しかし、言うに事欠いて、厚かましくもこん
なことがよく聞けたものである。書きながら、赤面してしまう。

中原名人の父親について、こんな記述がある。

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 父親の将棋語録の特徴は、将棋を内側から指導するのではなくて、その外側、つまり普
遍的な人生の側から将棋を指導することであった。誠は父親のどんな説教に対しても素直
であった。彼の、先にいって証明される将棋に対する超人的な能力は、素直であるという
人間的な性格と幼いときからたしかに結びついていた。素直さは、深い人生体験をへてき
た父親の調教を容易にした。中原誠の対局マナーの良さ、人に対する謙虚さに、人びとは
父親の教育のあとを見ることができる。中原は自分より年長者に敬語、丁寧語をはずして
ものをいうことが絶対にない。常に抑制した、内輪のところで話す。荒い、挑戦的な話し
方はしない。素質でもあろうが、素質を増幅した両親の“調教"の成果であろう。

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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 また、塩釜は港町ということもあって、縁台将棋が盛んであったという。縁台将棋で指
しているうちに、相手は、小学生、中学生、高校生、大人となり、従って「マコちゃん」
には将棋はどんどん面白いものとなっていった。「でも、やはり子供であって、大人と将
棋ばかりやっているより、野球とか相撲をやっている方が楽しかった」とも、名人は当時
のことを述懐されている。

昭和二十九年春、中原名人は塩釜市立第二小学校に進学。この時に、誠少年の将棋を伸ば
したのは佐貝正二郎氏である。父親が、息子の将棋の才能を伸ばしてやろうと、きちんと
将棋を教えられる人物を探していたのだ。佐貝さんは当時三十歳そこそこ。自宅のニ階を
「塩釜将棋研究会」というアマチュア道場として開放されていた。棋力はアマチュア二段。

最初の手合いは六枚落。佐貝さんが勝たれた。しかし「負けたけど内容がいい。ぜひ私の
ところに通わせてください。月謝はいりません」と強い期待を抱いた。父親は月謝はきち
んと支払うという条件で、マコちゃんを佐貝さんに委ねることになる。

「行儀よく、きちんと挨拶をし、可愛い手で一手、一手をちょこんと指す」佐貝さんは、
マコちゃんが悪手を指したときには、頭を横に振る。「悪いときには何もいわない」の
が佐貝さんの教育方針。いい手を指すと「頭を撫でる」すごく可愛い笑顔をみせたそうだ。

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 とにかく誠は、佐貝さんに負けることで強くなっていった。師匠について二年目、つまり
誠の才能が塩釜という小都市の範囲を越えて注目されるようになった昭和二十九年が暮れて
翌年、誠にとってやがて転機を作ることになる重要な人が出現する。転機というもののほと
んどすべてがそうであるように、それは初めさりげない接触であった。当時、仙台の将棋界
の幹事役をしていた石川猛司さんが、誠を知ったことである。

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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石川さんはアマチュア五段、仙台の強豪であり、アマチュアからプロに至るまで、この世界
の交流も広い方である。マコちゃんの棋譜を最初みせられた石川さんは「七歳の子供が指し
たとは思えない落ち着きのある将棋」とそれを評価する。

昭和30年の正月の終わり、佐貝道場での石川-中原戦の初対局が実現した。手合いは四枚落ち
か六枚落ち、石川さんは、この時の勝敗は記憶にないそうだが「この手合いではもう指し切
れない」と正直に語ったという。石川さんはこのときの誠少年に「鳳凰の相」を感じたそうだ。

「自分はいつも、この手合いで楽に指している」そう語ったアマチュア力自慢の声を背に石川
さんは「坊やをあまり大人たちと指させないで、できるだけ貴方(佐貝さん)が教えて欲しい」
と囁き、教室を後にされたそうだ。これはもう「英才教育」のはじまりである。

佐貝さんが、毎日四、五番ずつ教えた結果、この年の四月には普通の大人では勝てない棋力を
有するようになっていた。小学校の先生が「将来」を問うた際には「将棋の名人になります」
と誠少年ははっきりと宣言したそうである。

昭和32年春、佐貝さんは持病の自律神経失調症の治療のために入院。これ以降は、石川さんが
マコちゃんの師匠となった。実は石川さんにも喘息という持病があった。

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 誠は、毎日曜日、石川さんと四番指した。手合いは飛角香平、つまり飛車落ち、角落ち、
香車落ち、平手の四番であった。飛車落ち、角落ちでは誠が有利であったし、香車落ち、
平手では石川さんに分があった。大抵は、だから二勝二敗の指し分けか、誠の三勝一敗ぐ
らいの成績であった。だが、あるとき、誠は四番つづけて負けた。その時、石川さんは誠
の目の底に光るものをみた。
 「おとなしそうな坊やに、意外にも、負けじ魂がひそんでいるのを発見して、これはも
のになると思った」と石川さんは書いている。
 幼年時代から少年時代にかけて、人間はその環境を選択できない。父母、兄弟、生まれ
た土地-----これはもう運命である。担任の先生という精神上の指導者も、自分からは決
められない。いわば他人任せである。他人任せの、いわば運命といっていい偶然が、子供
の成長にとって最善に、最善に作用していくなら、その子供は幸運である。その点、中原
誠はツキまくっていた。佐貝さんから誠を引きついだ石川さんが、将棋界の中に、次の適
切な指導者を捜す能力と交際範囲をもっていたのである。
 アマチュア五段の石川さん以上に誠の能力を伸ばせる人物は、もうアマチュアの世界に
はいない。となればつまりプロである。石川さんは、誠の才能をプロに渡す橋となった。

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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次回、いよいよ高柳名誉九段との出会いをご紹介する。ここにもドラマがあった。

Pass

[237]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 22時02分

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中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-(4) 2010/10/13(Wed) 23:51

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東北第一の都市である仙台には、当時、名人戦のたびにプロの高段者が大盤解説のため
に訪れた。石川さんは、高段者たちに誠を紹介し、誠が指導対局を受ける機会を作った。
 昭和三十二年六月、松下力八段、高柳敏夫八段、ついで塚田正夫九段が相ついで仙台を
訪れ、誠と対局した。松下八段、高柳八段には飛車角落ちで指導を受けたが、松下八段に
は四十二手で、高柳八段には七十四手で勝った。一年前、五十嵐八段に同じ飛車角落ちで
負けた誠の長足の進歩を成績は如実に示している。
 松下八段は当時、「名人か名人候補者になれる天分がある。何十年、何百年に一人の素
質だ」と語っている。高柳八段も、同じとき「名人になるような人は、若いときから強く
、順調に昇進するものだが、誠君は、いま、そのコースの出発点にいる」とたたえた。当
時を思い返して、高柳八段はこうもいう。
 「小さい中原と対局してみて、これは強いと思った。その強さは、いかにも安定した強
さで、自分の持つ能力のいいところをフルに出す、そういう棋風でした。私は当時、芹沢
(現八段)を内弟子として育てていたけれど、私のみたところ才能の輝きという点で中原は
芹沢に及ばない。芹沢はピンピンした才能だし、中原のはモッサリした才能と形容できる。
しかし、モッサリのもつ安定感があった。もちろんこれは抜群の才能をもった二人の比較
で、初めての対局でも、これは名人になるかもしれない、と思ったのは確かですよ」

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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この時、中原誠名人九歳である。米長邦雄九段の場合、佐瀬勇次名誉九段は「最低八段」
と語ったという記憶がある。うまくいけば「タイトル保持者」という太鼓判もあったよう
だが、名人とは言われていなかったはずだ。まぁ、結果論という点は全くないとは言わな
いが、プロの心眼というのは怖ろしいものだ。

それと、この時の棋譜は残されていないが、プロ相手に二枚落ちで百手未満で勝てるとい
うのは「才能のひとつの目安」と、以前、高段の棋士から聞いたことがある。定跡形であ
れ、外したものであれ、緩んだり、咎め損なえば四十二手とか七十四手という手数での勝
利は不可能なのだから。読みの確かさが見事に表現されていたのだと思う。

昭和46年8月14日、当時、小学校三年生の谷川浩司現十七世名人が、内藤国雄八段(当時)
と二枚落ちで指した棋譜が私の手元にある。この当時から、谷川九段は、既に未来の名人
候補という呼び声が高かった。もし、リクエストがあれば、この棋譜をUPしてみたいが、
谷川少年に、数手「緩手」がみられ、勝ち切るのに126手かかっている。
単純に比較など勿論できることはないが、少なくとも中原少年は、この時、完璧な指し手
をみせたはずだ。

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 高柳、松下両八段に二枚落ちで勝った誠は、塚田正夫九段には飛香落ちの指導を受ける。
塚田九段は、不敗の木村名人から最初に名人位を奪い、棋界が大山・升田時代に移行する
一時期、棋界の頂点に立った、木村、大山、升田と並ぶ名棋士である。
 その塚田九段を、誠は九十二手で退けた。「実力以上の一局でした」と、後年、誠は語
る。(中略)
 塚田九段は、思い出しながら語る。
 「これはやがて名人になると思いました。あのときぼくは、中原を自分の弟子にしたい
と思ったんです。いい出さなかったけれど、本当なんだ」
 この話は、いままで語られなかった秘話である。
 「中原のどこに、名人を予感したのですか」
 「そりゃ、指してみればわかるんだよ。ピンとくる」

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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さて、これだけプロの高段者にその才能を認められると、評価は東京にまで否応なく届く
ことになる。焦点は、いよいよ「中原誠少年をプロに進ませるかどうか」に絞られてくる。
中原家にも「決断の一手」が求められたのだ。母親は「まだ小学校の四年生ですよ。親元
から離すには小さすぎます」と反対。父親は「自分も十歳のとき親元から離れたことがあ
る。私にできたことは誠にもできるだろう」と信じていた。
父親は石川さんに「専門家になれるでしょうか」と問うた。

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 石川さんは(父親の)質問に「ええ」と答えた。「ええ」といったとき、石川さんは、誠
を四番棒に負かしたとき、誠の目に溜まった涙を思い出していた。
 そして石川さんは、丸田祐三八段(現九段)のいうプロ棋士になる条件を示した。
 ▲素質のあること。▲将棋が好きなこと。▲健康なこと。▲家族が理解すること。
 家族の理解とは、息子を“将棋に捧げる"というほどの意味で、決して頼りにしないこと
であると加えた。

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)
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父親は「男の子たちが三人いて、上はもう心配がないから、誠は好きな将棋に進ませたい」
と決断した。末っ子であったが故の「得」である。
そして「お預けする先生は、石川さんにおまかせします」と。

「私としては誠が可哀そうで手放したくはないのだけれど」という母親もついに折れた。

こうして中原誠少年は、高柳門下となるのである。

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 “異能"とよばれる高柳八段の棋風、率直な人柄ももちろん魅力だったが、ほかにも石川
さんの人生経験に基づいた指導者選択の物指があった。
 石川さんは職人の子に生まれ、育って、弟子の辛さを味わい、また弟子を育てていた。
弟子が一人前の職人になるのには師匠に教えられるより、兄弟子に教えられる方が多いこと
を知っていた。高柳八段の家庭は、石川さんの理想にかなっていた。兄弟子には堂々たる棋
風で、“偉材"の名高い芹沢四段(現八段)がいたし、高柳夫人の八重子さんは女流の強豪、
夫人の実父・金易二郎名誉九段も同じ屋根の下にいた。そして高柳夫妻には女の子が二人、
妹が誠と同い年の姉妹だけで、誠がケンカで困ったり困らせたりする心配はなかった。
 「どうしても高柳八段でなくては」と石川さんは考えた。

(「名人 中原誠」三浦昇 昭和55年10月刊 新潮文庫より引用)

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実は、石川さんは仙台を訪ねて指導将棋を指した高柳八段に、その時に既に打診をしていた。
「私は棋士として有望なものを育てる義務があると思う」と高柳八段は答えている。

今、こうして振り返ると、私には何か、中原誠というひとりの人間を予め見守り、育てるた
めにこれほど多くの人々が存したのではないか、と不思議な錯覚のようなものを覚える。

これを「偶然」「悪戯」とは、何かこう釈然としないというか、人の出会いの不思議という
ものは実に面白い。

そして、私は米長邦雄永世棋聖が、何故、芹澤博文という棋士に憧れたのか、何とはなく
感じるものが、今にしてある。兄弟子という存在は、米長棋聖には与えられることがなか
ったのだ。その環境にも米長棋聖は、言葉に出せない想いを抱いていたのだろう。

しかし、これもまた「運命」である。

次回は、このときの家族、関係者の誠少年をみる「目」についてご紹介してみたい。

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[240] 【再録】をまとめてみて
JC IMPACTU (/) - 2011年10月26日 (水) 23時18分

過去、1年内外にwebに記したものを【再録】としてサイトに置くことにしてみた。現役の棋士の方や将棋関係者から「ひとつのサイトにまとめて欲しい」というメールをいただいたのが主な理由だが、見知らぬ読者の方々からも「今はなかなか入手できない書籍を引用しての話題が楽しい」という評価をいただき、私としては何とも気恥ずかしいばかりである。

再録作業を行いながら、当時、記したものを読み直しもしてみたのだけれど、例えば芹澤博文九段、掲載当時も同様のことを記しているが、氏は将棋の技術論よりは、遥かに多くの雑文集を発表している。発売当時に、どれだけ売れたかは私はわからない。そして芹澤さんに限らず、多くの棋士のエッセイの類は、一般書店では、殆ど入手が難しい。こういう本が今後、電子書籍化されることもおそらくないだろう。そして棋士の評伝や棋界の評論を手がける執筆者も、今日殆どいない。中平邦彦氏の「棋士・その世界」は今でも私は時折読み返す。この本の初版が刊行されたのが1974年。以来私の中ではこれほど面白い棋士、棋界関係の名著にお目にかかっていない。それは何故なのだろうかな、とは思う。

芹澤九段のエッセイはある意味「破天荒」である。晩年に近づけば近づくほど内容は過激になっていった。私は理屈抜きに芹澤九段が好きだけれど、それでも読んでいて辛いものはいくつかあった。

ただ、それでも「飾らない赤裸々な氏のエッセイというか叫び」は読んでいて興味深いものがあった。それは何故か、良くも悪くも「言いたいことを言った」からである。「批判を恐れない」という面が芹澤九段にはあった。で、こういう姿勢を貫こうとすると、当然のことながら、色々な軋轢を生む。周囲から人も離れていく。だんだんと孤独になっていく。どんどん淋しさが増す。

私はその「孤独と淋しさ」に向き合いながら氏の作品を読んでいたのかもしれない。振り返ってみると今、そんな気がしている。

これは改めてこのスレッドで取り上げてみたいと思っているが中原誠十六世名人には「友人がいなかった」ということを高柳名誉九段がどこかで述べていた。圧倒的に強い時代、とりわけ名人在位が長かったからである。今でもそうだろうが、当時は「名人」というものに、また少し違う権威というものが存在したのだろう。「雲の上の人」になればなるほど、他の棋士は仰ぎ見るばかりで、親しみとそれは全く異なる。ファンが有する感覚とは違うのだ。強ければ孤独になる。それもまた大変なことだ。

「林葉事件」がなければ「中原誠十六世名人の決定版評伝はきっとできていた」そう私に語ってくりた方がいる。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。些かの影を落としてしまったという面はあるだろう。

私は「中原名人唯一の反論」をここに紹介した。蒸し返すことになるのかという危惧もなかったわけではない。林葉さんの反論も可能な限り取り上げた。「突撃」などという不名誉且不本意なレッテルが貼られていることは、ファンである私としては辛くもあったし、そのことをご本人はどう語ったかということは、氏の名誉の回復とまでは言わないにしても、一方だけが無残に叩かれ続けるということを、読み手の皆さんに考えていただければと思ったし、その点は「盤側の談話室」でも「未知」のこととして受け入れられたと感じている。その材料を提供させていただいた。

谷川十七世名人以降、例えば羽生前名人にしても、渡辺竜王にしても、その「人間」に迫る著作は未だに存在しない。正直に言えばお行儀のいい「人生論」と「表面的な回想、理想論」ばかりという気がする。それは残念ながら魅力にはならないから、やはり人の心に残らないし響かない。

棋士も人間である。神様ではない。別に「神様」であり続けようなどと、そんなことは誰も望まないし、しなくてもいいような気がする。あえていうならば。

私は棋士自身が自らと自らが住む世界のことを、何も全て赤裸々にとは言わないが、発信するというのは大事なことなのだ。

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[246] 事実に反する話
JC IMPACTU (/) - 2011年11月02日 (水) 01時19分

wikipediaの「盤外戦」という項目に次のような一節がある。

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また、米長邦雄との対局時、本来誰にも知られてはいけないはずの「封じ手」を行う際に、あろうことか対局相手である米長に対し、「△4六角を△3七角成とするにはどう書いたらいいか」と尋ねた。
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これが事実なら実に面白い話である。しかし実際は逆の話。

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米長さんが封じ手をするときに、「駒を成るときは、どう記入したらよいか」と聞かれたことがある。これでは封じ手が封じ手にならないが、当然の一手だったので問題はなかった。
(「中原誠名局集」中原誠著2011年2月、日本将棋連盟刊より)
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昭和53年10月の十段戦第1局2日目、中原の封じ手をみた米長九段は両手を肩のあたりに挙げ、口を開けておどけた。米長八段はこの封じ手なら「負け」を覚悟していたという。1局目とはいえ、当時は棋士の一挙手一動が「絵」になった。将棋を指す「姿」が何より美しかった。私など案外この「かたち」に無意識の内に憧れていたのかもしれない。

「米長さんって、失ったタイトルを奪還したというケースがあまりないんですよ」そう言われてみると確かにそんな気がする。竜王戦もそう、名人戦も一期で失った。ただ、米長九段も、それほど盤外戦術に走ったというわけでもない。井口昭夫さんが観戦記で苦言を呈した「加藤一二三九段」との一局は、まぁ盤外戦術といえなくもないが、何か話題作りのようなものが先にあったような気がしなくもない。氏の「盤外」というと、私は羽生前名人の「上座事件」の方が、むしろ印象に深い。確かこの翌年に羽生さんは米長名人に挑戦したのではなかったかという記憶がある。

羽生さんが上座を占めた時に「ふふっ」と笑ったのが中原誠十六世名人で、露骨に厭な顔をはっきりと示したのが谷川浩司十七世名人だったと、ある観戦記者から聞いたことがある。中原名人に年齢的な余裕があったのかもしれないが、この二人を現すエピソードとしては実に面白い。谷川十七世の方が「線」が細いような気もする。

中原名人の「盤外的な要素」といえば、封じ手かもしれない。封じ手時刻直前に着手し、相手に手を渡すということを意識的に行ったことがあるようだ。しかし、これはあくまでも「戦略」の範疇以上のものではない。

過日、山田道美さんの「日記」というものを手に入れた。氏も中原名人に間違いなく影響を及ぼした一人である。近々、紹介してみたいと思っている。

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[260]
JC IMPACTU (/) - 2011年11月19日 (土) 12時57分

女流王座戦第3局の昼食休憩中に(中原誠編「山田道美将棋著作集第7巻・日記)を読み始める。困った。この日記は実に面白く(というと語弊があるが)そして深い。ゆっくり読みたい一冊だ。

例えば漱石や龍之介、志賀の日記、断片の類というものは、読んでいてもそう面白いというものではない。何故なら、彼らは没後に「自分の日記の類は必ず公表される」ということを意識していて、それを前提に綴ったものだからだ。勿論、本来、公開されることのない「日記」ですら、書き手は「ほんとうに本当のことを書けるか」というと、それはそれでまた難しい面もあるのだけれど、少なくとも山田道美八段の日記は、没後、公表されるとは夢想だにしなかったはずだから、この記録にはリアリティがある。

昭和23年(15歳)から昭和34年(26歳・七段)までの日記が収録されている。今の若い棋士たちには、こういう本をぜひ読んで欲しいと切に願う。山田さんのこの時代は「棋士が最も生活に困窮した時期」の記録でもあるのだ。

「将棋に悩み苦しみ、経済的にも貧しく、繰り返し質屋に通い、恋愛に悶え、生まれ変わったら決して棋士という職業を選ばないと述べる日記である。禁欲的であり、崇高であり続けたいと只管に願い、それを実践しようとした叫び」である。

もう少し時代が違っていれば、山田八段もこれほどの「困窮」に苛まれることはなかったはずだ。

次回以降、日記を紹介してみよう。こういう先人の言葉を振り返るという機会が、今の若手棋士にないのだとするならば、それこそが不幸だと、そう思わないでもない。

さて、そろそろ清水さんの対局再開だ。清水さん、▲8六角を選択するのではないか、そんな気がする。

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[337]
JC IMPACTU (/) - 2012年01月20日 (金) 01時05分

中原誠十六世名人、リラックスされていらっしゃるのでしょう。ユーモアあり、裏話ありですね。




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[386]
JC IMPACTU (/) - 2012年02月22日 (水) 19時55分

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花村 元司(はなむら もとじ、1917年11月18日-1985年5月25日)は、将棋棋士。棋士番号39。静岡県浜松市出身。木村義雄十四世名人門下。(wikipediaより引用)
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第36期名人戦(中原名人VS森九段)の第一局立会人に花村九段の姿があった。60歳のA級復帰である。この時、私は初めて花村九段という存在を意識した。この年齢でのA級復帰というものを、私は今のA級棋士が陥落して、実現できるかといえば正直、疑問に思ってもいる。

私は冒頭、wikipediaから引用を行った。というのは戦時中の九段の年齢を知りたかったからである。

氏が小学校を卒業し、彼を迎い入れたのは「自転車屋」さんであったという。その後鋳型工場に勤めたこの少年は鋳込みの際にその湯をこぼし大火傷を負った。その治療にかかった4ヶ月間が少年と将棋を結ぶきっかけになる。16歳の時には将棋も囲碁も「田舎三段」の実力があった。それはおそらく今の甘い段位とは比較にもならない。

この時代、氏の周辺ではテキ屋稼業も含めて「賭博」が盛んであった。そこには勿論、賭け将棋、賭け碁も含まれる。賭け碁で氏が学んだことは「勝ち続けない」18歳の花村少年はこの時の大勝負で祝儀も含めれば130円という大金を手にする。そのことによって得た自信と共に、氏は「勝負(真剣)における駆け引きの重要性を学ぶことになった。この時の大卒の初任給が90円、米10キロが2円50銭という時代である。その賭け金も3年後には1局千円、二千円となる。つまり数百万単位の金が動くわけだ。

ただし、いつも勝てるというわけではない。負ければ数千円、数万円の借金を抱え込むことになる。さて、ここで中原名人の登場。

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中原誠十六世名人は、これだけの大勝負をいつもするのだから真剣師は強くなるだろうと言う。実際、中原の子供の頃でさえまだまだ真剣師は幅を利かせていた。名人は塩釜の天才少年として子供の頃から有名だったが、小学二年か三年生の時にたまたま真剣師と将棋を指すことになった。手合いは飛香落ちだったが、まるで勝負にさせてもらえなかった。真剣師の強さをまざまざと感じたという。それが東北隋一の指し手といわれた松本正男だった。
(中略)
同じような経験は花村の弟子である深浦康市九段もしている。長崎県佐世保の将棋クラブで小学校四年生だった深浦少年は、グングンと力を付け、既に評判になっていた。そこに指導に来たのが例の真剣師、太田学である。いや当時は既にアマ名人として知れ渡り、道場の師範として指していたのでその言い方はふさわしくないかもしれない。その太田学がクラブに指導に来た時、深浦少年が飛車落で指したというのだ。負けん気一杯の少年はなすところなく敗れ、その鼻っ柱を折られてしまった。深浦九段はこんな強い人がいるのかと驚いたという。
(「東海の鬼 花村元司伝」鈴木啓志著2012年2月マイナビより引用)
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この著作には数多くの真剣師が登場するのだけれど、花村九段はその中でも間違いなくトップクラスに位置される。小池重明氏が「お釈迦様のてのひらの上で遊ばれていた孫悟空のようなものだ」ったというその掌など、私に想像できるはずもない。

次回は、その花村九段と米長邦雄永世棋聖のエピソードをご紹介したい。

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[390]
JC IMPACTU (/) - 2012年02月27日 (月) 22時18分

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八百長といえば、将棋界にはそれを排す慣習が今も生きている。いわゆる米長哲学というやつだ。米長永世棋聖は現役時代、自分にとっては何でもないのに相手にとって昇級のかかる重要な対局では殊更相手を負かそうと頑張ったという。それがかえって自分に運をもたらすというのだ。だが、昔気質の花村はどうしても義理や人情がからむので、そこまで割り切れなかった。ある時米長九段が5日間ぶっ続けで対局がついてしまうことがあった。つまり、月、火はタイトル戦が広島であり、その翌日には東京の将棋会館で対局が組まれているというのだ。打ち上げもそこそこに夜行列車と新幹線を乗り継いで戻ってきた会館で待っていたのが、花村九段。花村九段はその強行日程を知っているから、開口一番「米長君、今日は早指しで行こうや」と提案したという。勝負は瞬く間に終わって、米長九段の勝ち。
「三日目が花村先生でなかったら倒れていたかもしれない」と米長永世棋聖は笑う。
これは八百長というわけではないが、人情がからんで勝負に徹しきれず、花村の将棋に出来不出来があるのは確かだった。

(「東海の鬼 花村元司伝」鈴木啓志著2012年2月マイナビより引用)
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「盤上は勝負こそが全て」というスタンスに立てば、花村九段のスタンスは「変」ということになる。おそらく今の棋士は、例え先輩であれ後輩に、対局前には口が裂けてもこういうことは言わないはずだ。しかし「盤上の勝負だけが全人生ではない」というスタンスに立てば、これほどに花村九段の「やさしさ」を伝えるエピソードというものもない。実は私は、こういうことは「いいわるい」という次元の話に置き換えてはいけないのではないか、と時々思うことがある。

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花村九段に関する取材を続ける中で一番印象に残ったのは中原十六世名人の次の言葉だった。
「花村先生には立ち合いも随分していただきましたね。将棋は何番くらい指しているかなぁ。そうした付き合いの中で花村先生には一度もいやな思いをしたことがないんですよ」(中略)
名人は花村九段との対局の思い出でこんなことも語る。
「序盤なんかもいい加減なんですよ。感想戦もいい加減でね。何でも読んでるようなことをいう(笑)」
花村の感想戦については、こんな逸話がある。山田道美九段との将棋で感想戦になった。山田が聞かないのに花村は次から次へと読み筋を披露する。ご存知のように花村は早指しで、直感の将棋である。読んではなくとも手を言われれば、即座に手は見える。それをあたかも読み筋かのように言うから山田が怒った。「花村先生、デタラメな感想はよしてくれませんか」と抗議したというのだ。生真面目な山田と、お茶目な花村らしい逸話である。
だが、中原名人はそんな時でも全くいや味がなかったという。将棋のプロは決して多くはなく、また対局がある以上どんな人でも長い付き合いをしなければならない。そんな時誰でも一度くらいはいやな思いをすることがあるのだという。
「いや、花村先生だけかな、いやな思いをしたことがなかったというのは。それをずっと不思議に思っていた」

(「東海の鬼 花村元司伝」鈴木啓志著2012年2月マイナビより引用)
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次回は中原十六世名人が自ら語られたその理由についてご紹介してみたい。

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[392]
JC IMPACTU (/) - 2012年02月29日 (水) 22時21分

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「それもあるけど、花村先生は中村天風の講話を受けていたでしょう。それがあるのかもしれない」
中原名人の口から中村天風の名前が出たのは意外であった。中村天風は武道を極めた後インドに行ってヨーガの修行をし、ある時意を決して、街頭での説教を始めた。それが天風会に発展、多くの財界人やスポーツ選手を引きつけた。花村九段は昭和35年に後援者の人に勧められて入会、しばしば護国寺まで講話を聞きに行っている。花村は「天風箴言」というノートにその言葉を書きとめ、大事にまとめていた。たとえば「一切の事柄をすべて感謝に振かへて考へられない人は完全に天風教義を実行して居る人とはいへない」といった箴言を1ページごとに書き写し、読み返していたりしていたのだろう。言ってみれば人生訓といった類のものだが、ひとつの道を極めた人の言葉だけに納得できることが多かったに違いない。その人生訓は不思議と彼と重なるものがある。

(「東海の鬼 花村元司伝」鈴木啓志著2012年2月マイナビより引用)
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この本にも紹介されているが花村九段に「自身が受けたものの3割は還元する」という思想がある。それは真剣師である氏の人生観にも裏打ちされたものであったのかもしれない。そして氏はライターにも弟子にもその姿勢を実践されたという。

「損得勘定」ではない「尊徳感情」が花村九段の根本思想にあったのだ。こういう棋士は、もう生まれてこないのだろうか。

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[790]
JC IMPACTU (/) - 2012年08月27日 (月) 01時40分

「盤上の人生 盤外の勝負」(河口俊彦・マイナビ)が刊行された。

「本書は平成15年〜平成22年に「小説新潮」に連載された「盤上の人生 盤外の勝負」をもとに再構成したものです」とある。ここではその中から「中原誠十六世名人」について記されたものを取り上げてみたい。実は、個人的に言うなら、私にはとてもとても同意できない点が少なからずある。噂を元に何かを書くということはあるのかもしれないが、少なくとも私には首を捻らざるを得ない。

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理事になりたい、との米長の申し入れを、二上、大内体制の理事会が断固として阻み、棋界を二分する選挙戦が始まった。
六名連記という選挙制度であるから、単独で戦う米長は理屈では勝てるはずがなかったが、超人的な運動で、投票日前日には互角、どちらが勝つかは中原の意向で決る、という形勢になった。
その中原は、どちらを支持するとも明らかにせず、投票日前夜、将棋会館の一室に高柳一門の棋士が集まり、そこで最後の決断を下すことになった。
高柳は米長を支持するよう中原に伝えたそうだ。しかし、中原は、このときばかりは頷かず、深夜の集会も、長時間の話し合いだったが、理事会支持と決まった。
そして米長は落選し、その後、わけのわからないゴタゴタが何度となく起った。このしこりは、今もつづいててるようにみえる。
それから二年ばかり経ったとき、中原と林葉直子元女流名人の不倫が週刊誌で暴露される、という事件が起った。
これには誰もが驚いた。中原といえば固い一方の人間で、不倫などとは縁がないと思い込んでいたし、林葉さんといい仲だったなど、誰も気づかなかった。
スキャンダルには違いないが、有名税みたいなものだ。事件を静める手はいくらでもあった。定跡みたいな対応を助言する人はたくさんいた。しかし、中原は一切、耳を貸さなかった。そういったところが天才なのである。
よかれと考えて自宅での記者会見を毎日二度ずつ繰り返し、事件を大きくしてしまい、嫌なテープ録音まで書かれてしまった。
私はこのとき、あの理事会の真相がわかった。林葉は師匠だった米長に破門されている。その恋人に泣きつかれては、米長を支持するはずはない。(中略)
平成十五年、二上会長が退任し、中原が将棋連盟会長となった。
(中略)
二年後の理事選挙で、今度は米長が会長になり、中原は副会長として留まった。これも世間の常識からすればおかしな話で、選挙で負けたのだから身を引くべきだったのだろう。
結局、二年後の理事選には出ず、理事会から去った。加藤一二三とか中原のような天才は、自己中心的な面があまりに強く、人と折り合いをつけるような役柄は向いていないのだ。それなら米長も同じではないか、ということになるが、こちらには強力な権力志向があり、今はすさまじいエネルギーを発散させて突っ走っている。
(「盤上の人生 盤外の勝負」(河口俊彦著/2012年8月・マイナビ刊より引用)
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私自身、パラパラとしかまだ読んではいないものの、真偽はともかく米長邦雄という人間像についても、それはそれなりに辛辣なことも書かれていて、そのうち、会長がマイナビに皮肉のひとつも飛ばすのではないかと思ったりもする。

ただ、この一文を読んで、私が感じたのは、高柳師匠は、何故あのときに「米長支持」を通そうとしたのか、である。なるほどそれを世間智というなら、それ以上何もいうつもりはないが、これが事実であるなら、私は高柳師匠がそう動いた理由というものが今一つわからない。

それと「林葉さんが泣きついたから云々」などというのは、信憑性に欠けると私は思っている。大山十五世名人に「鈴」を届けた時点からも、中原名人は「米長理事・米長会長」が連盟の理想であるなどと、そもそも考えたはずがないからである。それとこれとは全く別の次元の話である。それが「理事会の真相」などとは私には到底信じられない。

別の項には
「名人になれない俺と、名人になった中原誠と、どっちが幸せだと思うかね」と昭和60年前後、棋士最盛期の時代である米長九段は呑みながら棋士に問うた、と記されている。

幸福の尺度とは何だろうか。

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[797]
JC IMPACTU (/) - 2012年08月30日 (木) 22時44分

定期購読している「週刊新潮」に連盟の記事。

つまらない内容である。引用する気にもなれない。

会長は今日の「さわやか日記」で『どうか将棋界がひとつにまとまって後をつないでもらいたいものです。と言いながら、来年私も立候補するかも』と、ある意味、カラ元気なのか、それとも余裕綽々なのか、そう結ばれている(苦笑)

私はこの週刊誌に掲載された「次期会長候補」2名が選出されることは、まずないと思っている。過日、ある大手メディアの方と話をする機会があったが、氏が挙げた方は、私の全く予想しない棋士であった。この二人のうち、どちらが就任されても「週刊新潮」に掲載された棋士に比べれば、まだ「いい」ような気はするものの、棋界の力学というものは、実に魑魅魍魎としたものである。

それよりも中原誠十六世名人のコラムの方が、私には遥かに面白かった。十六世名人は「盤上の人生 盤外の勝負」の自身を取り上げた章を読み「事実にもとづくフィクション」と述べている。

活字になる。書籍化される。それが「事実」になることについて、十六世名人はそのことを懸念されているし、自身のコラムで今後、改めて述べる用意があるとのこと。

私のような素人がみても、変だなと思うところがいくつかある。例えば「将棋」に関して、名人が最も影響を受けた人物を一人挙げるならば、芹澤博文九段だと、自身の著作で名人は書かれている。山田道美九段から沢山のことを教わったにしても、である。

少なくとも中原名人が、こういうことを隠す、或いは虚実をない交ぜる必要というものは、おそらくない。

中原十六世名人も、名人の頃、或いは現役の頃は「言いたいことの相当を抑制してこられた面」というものがある。名人の人柄という面も勿論大きいが、言いたいことを言うことによる影響力や永世名人という立場も大きく影を落とされていたはずだ。

ただ氏も色々な出来事を経て、今では引退されてもいるし、棋界の名誉職含めて、一切を退かれてもいる。そういう意味では少しばかり肩の荷も軽くなられてもいる。

ご自身の名誉に関することである。これからはそのことについて自身の言葉で正すべきは正す、大名人であっていただきたい。私はそのことを切に願ってもいる。

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[957] 花村9段は
あせあせ (/) - 2012年11月07日 (水) 10時03分

金を1枚増やして、相手を負かしお金を稼いだりしてたそうですから
ワザと負けはないでしょうね〜。イカサマでするほど勝ちにこだわってた人物ですから

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[1317]
JC IMPACTU (/) - 2013年03月03日 (日) 00時23分

今日は私にしては珍しく何冊かの本を同時並行に読みながら、自身がまとめたこの中原名人スレッドや「【再録・決定版】林葉直子さん関係 スレッド」を読み返してみた。芹澤博文九段、中原誠十六世名人のことに思考を巡らしている「私」は本当に楽しそうだなぁと我ながら思う。

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中原の将棋に影響を与えた棋士として、中原を含め高段者たちは芹沢と山田を並べてあげる。芹沢だけがニヤリと笑って、
「山田? ちがうね。中原の指導者といえば人柄は金、将棋の思想は高柳、そして技術は芹沢さ。なにせおれのいちばん盛んなときに教えたんだから」
(「中原誠 名人の棋譜」(三浦昇/能智映 昭和49年7月 講談社刊)より引用)
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棋士の本格的な評伝というものは、中平邦彦氏の「名人・谷川浩司」以来、私が知る限り刊行されていない。米長邦雄前会長は、山口瞳氏没後しばらくして中公文庫から「血涙十番勝負」が復刊された時に当時を「棋士と作家や観戦記者が今よりもっと近かった時代」と振り返っているが、今、往時を説明することの方がもう遥かに難しくなってきている。

昨日、将棋界のいちばん長い日で深夜零時を回ったころだったか、森内名人が登場された。聞き手の女性は「一手進むたびに、詰みは?とか形勢は?とか、それはそれはやかましい。

大山康晴十五世名人や升田幸三九段が出演していたら、とても相手にしなかったのではないかと思う。「ぶぁっかもん」の一言でさっさと帰りそうだ。

当たり前のことだが、全ての人々に「囲碁・将棋チャンネル」や「スカパー」の視聴環境が整っているわけではない。過日、NHKの方と話をする機会があったが「まぁ、いいんじゃないですか。御手並み拝見ですよ」と冷ややかに笑っていた。「外の人にみせちゃいけませんね。こういう物言いは」と、それはもう本当に冷ややかだったのである。

私はNHKのBSが「いちばん長い日」を放送しないということは、将来、必ずボディブローのように堪えてくるだろうと確信している。これ以上、視野狭窄にならなければいいのだけれど。

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[2052]
JC IMPACTU (/) - 2013年09月26日 (木) 23時04分

別館で既にまるしおさんが紹介されているとおり、中原誠十六世名人のコラム「気になる一手」(週刊新潮)が今週を以て終了するとの発表があった。(10/3号)約4年半の連載であったとのこと。

氏はそのコラムにこう記している。

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現役のころ、心がけたことは自分なりの将棋を指すことであり、むずかしくいえば、一局の将棋に思想、哲学がなければと思ったものだ。これは将棋に限らず、どの世界でもいえることだ。これは将棋に限らず、どの世界にもいえることだが。

いまは棋士の方もコンピュータ化しているが、やはりその人なりの考え方がなければいけない。ない場合は苦心して作っていくことが必要である。

(「週刊新潮」10/3号 中原誠十六世名人「気になる一手」より引用)
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残念なことだが、今の連盟執行部は「公益社団法人における棋士の処遇」にしても「電王戦」の契約問題にしても「会員」を信頼していないようにみえる。「人間と人間の将棋」がどんどん痩せていくことになりはしまいか。私は今、そのことを憂慮している。中原十六世名人には、今後も揺るぎない存在として棋界を見守って欲しい。私は今、そのことを切に願う。

次週からは渡辺明三冠が将棋コラム欄を担当される。十六世名人のスタンス「好きなように書く」ことを受け継いでもらいたい。

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[2065] 中原氏に期待
歩曼陀羅華 (/) - 2013年10月02日 (水) 19時00分

連盟がLPSA攻撃に又動いたようですね。見る人は以前から見抜いていたようだけれども谷川では全然ダメで御座いましたね。残念ながら連盟が下品になる一方ですね。大物である中原氏に、せめてもの正論か大人の意見を多少なりとも期待したいものです。そうでないとプロ棋士「なんぞ」と心から軽蔑することになりかねません。(『女流棋界』スレにも投稿)

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