【広告】楽天市場からおせち料理早期予約キャンペーン

「言葉の対局室・別館」リレー将棋対局室

本掲示板は「リレー将棋対局室」です。
リレー将棋や棋戦情報、詰将棋、次の一手検討などにご活用ください。
上記以外の「議論」に発展する内容は「言葉の対局室」にてお願い致します。
本掲示板では1スレッドの上限を100に設定しています。継続する場合は、新しいスレッドを立ててください。

合計 今日 昨日

ただいまの閲覧者

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2541] 将棋語録 ――名言・迷言・珍言―― B
まるしお (/) - 2014年03月11日 (火) 19時05分

――――――――――――――――――――
 将棋界のいろいろな言葉を集めましょう。
 胸に沁みる名言
 「なんだこれは」の迷言
 「え、そんな!」という珍言
 発言者・出典・背景説明・感想なども
――――――――――――――――――――

Pass

[2542] 白鳥の歌
まるしお (/) - 2014年03月11日 (火) 19時07分

村山が苦吟する63分。その一秒一秒に、白鳥の歌が流れているようだった。

―――筆者不明

「将棋世界」1993年3月号 巻頭グラビアページより
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 白鳥は普段滅多に鳴かないそうだ。ただ、命の尽きる間際にのみ、切なく、美しい鳴き声を長く長く奏で続けると言われている。
 これは本当のことなのか伝説なのか、私には判らない。

 第四十二期王将戦。村山聖、最初にして最後のタイトル戦である。
 その第三局は彦根プリンスホテルでの対局。
 二日目、1993年二月十日、谷川浩司王将の八十九手目▲4三歩成を見て村山の手が止まった。

 この日は七十人のファンを前にした公開対局だった。
 人々は六十三分間にわたる村山聖の苦吟を目撃し続けた。

 ホッペタを真っ赤にふくらませ、フーッと大きく息を吐く。
 その一挙手一投足に、記者は「白鳥の歌」を聞く。

 そして、六十三分の苦吟の末、村山はついに敗北を受け入れる覚悟を決める。
 白鳥の歌が止み、姿勢を正し、次の一手を指す。

 「谷川浩司王将 vs 村山聖六段」1993.2.9-10 王将戦第三局棋譜

Pass

[2555] 村山聖という存在
まるしお (/) - 2014年03月12日 (水) 17時13分

総ての人のおかげで僕は生きている気がします。

―――村山 聖

「昇級、昇段」(「将棋世界」1993年5月号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 1993年の三月、村山聖は九勝一敗でB級1組への昇級を果たす。前月までの王将戦では無残にも四連敗を喫してしまったので、これは実に嬉しい昇級だった。村山、当時二十三歳。

 三局目の勝浦修戦では体調が悪く、直前まで不戦敗にすべきかどうか悩んだという。
 四日間の安静。
 しかし良くならない。
 無理をしてさらに身体が壊れたら取り返しの付かないことになるかもしれない。

 「散々迷ったのだが、結局行く事にした。その時は何もかもどうでもいい気持ちだった」

 村山はその後、「B1→B1→A→A→B1→A」という軌跡を辿り、1998年(平成十年)八月八日、二十八歳で世を去っている。
 その年のアンケート「今年の目標は?」に「生きる」と答えたそうだが、一度落ちたB1から再度這い上がってA級入りしたものの、結局一局も指せずに終わった。

 村山聖。
 五年前、「総ての人のおかげで僕は生きている」と書いた村山だが、一方では、この時期、彼の存在が将棋界に活を入れていたのではなかろうか。

Pass

[2576] 大いなる父
まるしお (/) - 2014年03月13日 (木) 17時28分

「将棋をやめて、製粉業をやるかなあ」

―――大山康晴

『昭和将棋史』(岩波書店、1988年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 大山康晴が兵役を解除されて故郷倉敷に帰ったのは敗戦から三ヶ月ほど経った1945年十一月だった。当時二十二歳。

 将棋界はどうなったのか、棋士たちはどうしているのか。
 大阪に出て木見金次郎師匠の消息を尋ねるが、疎開したらしいというくらいしか分からない。かえって焼け野原となった街の中で落ち込み、心の傷が深まるばかり。戦中の緊張感の反動で、「ふぬけ」の状態になってしまった。

 そんな折、父が、「康よ、食わんならんのじゃけん、製粉業を始めようと思うが、どうや」と呼びかける。
 それは無気力になってしまった息子への励ましでもあった。
 結果は上々で、大山自身、「将棋をやめて、製粉業をやるかなあ」と迷ったらしい。

 しかし、息子の行く末と将棋界の状況を心配していたのは、むしろ父の方だった。

 「もともと、周囲の反対意見をみんな抑えて私にプロ棋士になれ、とすすめたのは父である。粉づくりに精を出す私を眺めて、父は私以上のつらさを感じていたように思えてならなかった。そして、粉屋で終わらせたくない、いや終わらせてなるものかという気持ちが言葉の中によく表れていた」

 そんな中、翌年の初めに、ついに東京の将棋大成会本部から連絡が来た。
 棋戦再開の報せである。

 「康、よかったな」

 待ちに待った朗報。そしてこの報せを、父は息子以上に喜んだ。「康、よかったな」と言うだけで、後は言葉にならないつぶやきに変わったという。

 ようやくにして届いた将棋復活の報せだったが、戦後の荒廃と極端なインフレの中、小遣い程度の対局料だけで食っていくことはできない。
 大山康晴が製粉業を止めるのは、それから二年余の後、名人位挑戦を決めてからである。

Pass

[2603] 恐妻家?
まるしお (/) - 2014年03月14日 (金) 19時04分

「女性と二人の写真などとんでもない。持って帰ったら家内に怒られます」

―――佐藤康光

山田史生『最強羽生善治と12人の挑戦者』(2011年、新人物往来社)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 佐藤康光には、「徹して譲らず」というところがあって、そこが大きな魅力になっている。

 囲碁将棋チャンネルで山田史生がキャスターを務めていた「週刊!将棋ステーション」には毎回ゲスト棋士とのトークを楽しむコーナーがあった。
 女性キャスターが質問をし、それに棋士が答えながら話を進めていくというもの。

 ゲスト棋士には出演記念として、この女性キャスターとのツーショット写真が後日配られることになっていたらしい。皆それを喜んで受け取っていた。
 ところが、山田が佐藤康光にこの写真を渡そうとしたら、

 「女性と二人の写真などとんでもない。持って帰ったら家内に怒られます」

 なんと、佐藤は受け取りを拒否したというのである。

 山田は、「どうもかなりの恐妻家のようである」と書いているが、これもまた「譲らず」の姿勢。いかにも佐藤康光らしいエピソードだ。

Pass

[2617] 敵の窮地に助け船
まるしお (/) - 2014年03月15日 (土) 16時29分

「トイレはどうするんですか」

―――佐藤康光

田辺忠幸編『将棋八代棋戦秘話』(2006年、河出書房新社)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 1990年(平成二年)の王位戦。二十歳の佐藤康光五段は谷川浩司のタイトルに初挑戦。
 その第二局に佐藤は和服で臨んだ。
 生まれて初めての和服着用。朝、対局室に現れたときもなんだかぎこちなかったという。

 「対局開始の九時直前、佐藤はよろよろとした足取りで対局室に現れた。うぐいす色の着物。黒の羽織、縞のはかま、生まれて初めて着たという和服の着付けに手間取り、ついでに帯をきつく締め過ぎて、さっそうと歩こうにも足が開かない状態になっていたのだ」(鈴木宏彦が書いた当時の観戦記)

 そして昼食休憩になると、佐藤は立ち上がって、「トイレはどうするんですか」と周りに訊いたというのである。

 私自身、これはずっと気になっていたこと。――「あんな格好でいったいどうするんだろう、大の方ははたして可能なのか? 和服って大変だなあ」

 佐藤の困惑に手を差し伸べたのは谷川王位だったそうだ。
 「羽織のすそをまくりあげてね……」と説明し、佐藤の窮地を救った。

Pass

[2685] 慧眼、恐るべし。
まるしお (/) - 2014年03月20日 (木) 19時18分

「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」

―――大山康晴

大崎善生「第2回将棋電王戦 第3局 電王戦記」(ニコニコニュース 2013.4.11)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 今から三十年以上前の発言。
 大山康晴十五世名人が良く口にした言葉だそうだ。

 大崎善生は当時将棋連盟の道場課に勤めていた。コンピュータ将棋ゲームが出始めた頃で、道場でこのソフトと対戦していたら大山名人に見付かってしまう。
 また怒られるかと冷や冷やしながら身をすくめていると、大山は言った。

 「これあんたと機械が将棋してるの?」

 そしてしばらく眺めていた後、

 「それにしてもどっちもたいしたことないね」

 そう言って立ち去ったそうである。

 三十年前、大したことのなかった将棋ソフト。
 それが今やプロ棋士を脅かす存在になってしまっている。
 今連盟がしきりに口にするのは、「コンピュータとの共存共栄」だが、これは苦肉の言い訳と聞こえなくもない。

 「コンピュータに将棋を教える」どころか、プロが「コンピュータに将棋を教わる」時代。
 そんな時代が来ようとしているのである。
 この苦さ。
 三十余年前、大山はそれを直感で見抜いたに違いない。

 「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」

 大人物の慧眼、恐るべし。


 大崎善生「第2回将棋電王戦 第3局 電王戦記」(ニコニコニュース 2013.4.11)

Pass

[2695] コンピューター vs 名人
まるしお (/) - 2014年03月21日 (金) 20時53分

私も盤寿まで生きて、コンピューター対名人の対局を見届けたいと思っている。

―――二上達也

『棋士』(晶文社、2004年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 「二〇一〇年からの十年間は、人工知能と棋士の勝負が主要テーマの一つになってくるだろう」

 二上達也は『棋士』の末尾にこう書いているが、どうやら歴史は二上の予測どおりに動いているようだ。

 2007年の「Bonanza vs 渡辺明」を始まりとして、まさに2010年から、将棋連盟はコンピュータとプロとの対戦に踏み切っている。

 2010年「あから vs 清水市代」
 2012年「ボンクラーズ vs 米長邦雄」(第一回 電王戦)
 2013年「第二回 電王戦」
 2014年「第三回 電王戦」

 二上達也は1932年生まれ。
 したがって昨年が八十一歳の「盤寿」だったわけだが、はたして今後、名人とコンピュータの対戦は実現するのかどうか。

 「そんなことをして、いったい何になると言うのか」との声がある一方で、しかしそれを「見届けたい」とも思う。
 棋士の業なのかもしれない。

Pass

[2696]
柳雪 (/) - 2014年03月21日 (金) 21時56分

>私も盤寿まで生きて、コンピューター対名人の対局を
>見届けたいと思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

Pass

[2747] 駒音も大事な芸
まるしお (/) - 2014年03月27日 (木) 21時56分

プロたる者は、適当に駒音を立てなければならない。もし、ファンが対局を見ていたら、いい駒音を聞かせるのも芸というものだ。

―――河口俊彦

『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 丸山忠久は対局中終始そっと駒を動かす。これは、指先に力を込めるとエネルギーのロスになるという「合理的」考え方なのか?

 河口俊彦はそういう「妙な考え方」が大嫌い。
 駒音も芸のうちだと主張している。

 「プロたる者は、適当に駒音を立てなければならない。もし、ファンが対局を見ていたら、いい駒音を聞かせるのも芸というものだ。序盤のうちは駒音静かに指し、ここというとき、駒音高く勝負手を指す、といった風に」

 原田康夫はそういう「いい駒音を聞かせる」棋士だったそうだ。
 和服姿で、背筋をピッと伸ばし、骨太の指先に力を込め、状態を傾けて打ち下ろす。
 それは正に「昭和の名場面」であり、その冴えた駒音は今なお河口の耳に残っているという。

Pass

[2760] 鍛えの入った駒音
まるしお (/) - 2014年03月28日 (金) 19時41分

私が升田先生と戦ったときの印象では、一手一手の駒の音に全精神が込められ魂が入っていた。そしその気迫がすさまじかった。

―――大内延介

『将棋の世界』(角川書店、1993年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 大内延介は土居市太郎門下だが、東京生まれの東京育ちだったことから、内弟子生活をせず、奨励会へは自宅から通っていた。
 この、「内弟子生活を経験していない」ことで、自分には辛抱強さが足りないのではないかと大内は感じる。

 木見金治郎門下の大山康晴や升田幸三は、苦労して苦労して育ったから苦労を苦にしない。
 一言でいえば鍛えが違う。
 内弟子生活の中から肌で覚えた強さがある。

 それは駒音にも現れていた。
 大内は升田との対戦で魂の入った駒音を聞き、その気迫に圧倒される。

Pass

[2816] 伝統文化としての駒音
まるしお (/) - 2014年03月31日 (月) 22時38分

駒の指し方については、相手が後輩でも、常に丁寧な着手を心がけている。

―――渡辺 明

『勝負心』(文藝春秋社、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 渡辺明は大きな駒音を立てて「ビシッ、バシッ」と指すのが嫌いらしい。
 それは下品な指し方であり、たとえ対局に集中するがあまりそういう指し方になってしまったのだとしても、対する者としては気持ちの良いものではないと語る。

 「棋士は、単に勝ち負けを競うだけではないのだ。将棋という伝統文化の洗練された美しさを体現する存在であるべきことを自覚しなければならない」

 どうしてどうして、なかなか固いことを言う。
 では、渡辺の理想とする指し方はというと、

 「手と腕をしならせるように駒を打ち下ろす。すると、駒音は、ほど良い感じに響く。(中略)決して将棋盤が揺れるような力任せの手付きで指してはならない」

 某九段を批判しているわけではないだろうが……。
 そんな渡辺だが、先の王将戦決着局の九十二手目は、「ひときわ高い駒音で▽8七同銀成」としたそうだ。

 うん、そうそう、たまにはそうこなくっちゃね。

Pass

[2834] 「プロ棋界」と「将棋界」
まるしお (/) - 2014年04月02日 (水) 20時54分

駒師にしろ、盤師にしろ、こういう将棋愛好者の努力によって今の将棋界が作られてきたのである。

―――大内延介

『将棋の世界』(角川書店、1993年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 榧の盤に黄楊の駒。この組み合わせが最も良い駒音を響かせるそうだ。
 その盤を作る職人、駒を作る職人。
 そして、彼らだけではなく、市井の愛好家の熱意と努力。
 大内は将棋の歴史を研究していくにつれ、これらの人々が将棋文化に果たした役割の大きさを知っていく。

 たとえば駒台を発明したのも飯塚力造という愛棋家だそうだ。
 しかしそんなことはほとんど誰も知らない。
 プロ棋士だって知らないだろう。

 だから、「プロ棋界」などは、本当は「将棋界」のほんの一部に過ぎないのかもしれない。
 大内はそこまでは明言していないけれど、大きい視野で「将棋界」を捉えている。

Pass

[2836]
柳雪 (/) - 2014年04月03日 (木) 13時37分

>たとえば駒台を発明したのも飯塚力造という愛棋家だそうだ。

私は、飯塚力蔵の作った駒台を持っておりますが、台下が関根金次郎の駒の形で、台上が扇形となっており、三本の竹皮を巻いた柱で支えられております。

飯塚は「川崎小僧」と呼ばれた程の強者で、品川に遊郭を持っており、関根とは非常に親密な関係で影で関根を応援していたようです。その様子が関根の「棋道半世紀」に良く記されておりますね。

飯塚もまた、それ程の才能(関根によると素人八段)を持っていながら、市井の棋客として将棋界の発展を望んでいたのでしょう。関根は将棋大成会が出来た時「これを飯塚に見せたかった」と言って涙を流されたとか。

「プロ将棋界」は多くの将棋愛好家によって支えられている事を連盟は今一度考える必要があると思います。アマ棋界、女流棋界、プロ棋界が飯塚の駒台の三本の柱のように協力して支える事が出来ればこれからも発展出来る筈ですので。

Pass

[2888] 「天才」、実は「偏才」
まるしお (/) - 2014年04月09日 (水) 22時15分

将棋指しの殆どは、天才の範疇との一致を見られない点が多いと思う。彼らは天才と呼ぶより、寧ろ偏才若しくは単才と言う方が適切であろう。

―――真部一男

河口俊彦『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 真部一男が四段に昇段した頃の文章だという。
 仲間と始めた同人誌にこれを書き、それを高林譲司が引用して真部一男論を執筆した。その高林の文章から孫引きして河口俊彦が『最後の握手』に載せた。
 それをさらに私が引用して紹介。
 つまり曾孫引きというわけだが、まあご容赦あれ。
 それだけ痛快な言辞である。

 この文の前段にはこう書かれているという。

 「将棋連盟は天才に対して非常に寛容である。つまり天才の概念に関して、深く考察する事無くして、才能ある者に対しては、“天才棋士”の称号をいとたやすく与えるのである」

 なんとも愉快ではないか。
 現将棋界にも「天才」と呼ばれる棋士が何人もいるようだが、彼らのほとんどは、冥界の真部から、「偏才」「単才」と切って捨てられるに違いない。

Pass

[2917] 一枚の年賀状
まるしお (/) - 2014年04月16日 (水) 17時13分

強くなれ。強くなれば道が開ける。

―――新井田基信(北海道将棋連盟常務理事)

2010年1月、渡部愛に宛てた年賀状の言葉
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 北海道で将棋の普及に奮戦していた新井田基信が亡くなったのは2010年二月十九日。(四十八歳の早逝)
 その年の正月に新井田は同郷の渡部愛に、「強くなれ。強くなれば道が開ける」と年賀状を送った。
 渡部愛、当時十六歳。LPSAツアー女子プロになってから九ヶ月の頃だった。

 新井田が渡部に初めて送った年賀状。
 渡部が新井田から初めて受け取った年賀状。

 それはまさに新井田から渡部への遺言でもあった。

 新井田亡き後、渡部はマイナビ女子オープンチャレンジマッチを三年連続で制し、毎回予選入りを果たしている。
 将棋をやめたいと思った時期もあったらしいが、新井田の言葉が大きな励ましになった。

 2013年、渡部のプロ認定問題でLPSAと日本将棋連盟が対立。
 当事者として心を痛めた渡部を支えたのはやはり新井田の年賀状だったという。

 「今も自宅の壁に飾って毎日見て、強くなるんだと言い聞かせています」

 一枚の年賀状が一人の女性を励まし続けている。


 【女流名人リーグ 将棋新顔】渡部愛初段(スポーツ報知)

Pass

[2925] 鉄人が漏らした言葉
まるしお (/) - 2014年04月17日 (木) 18時28分

「私は飛行機が落ちて一瞬で死にたいね」

―――大山康晴

林葉直子『遺言――最後の食卓』(中央公論社、2014年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 林葉が二十代のときの話。
 飛行機で移動の際、大山康晴と隣同士の席になった。林葉が窓側、大山が通路側だ。

 タバコは体に悪いから止めた方が良いというような話をした後、大山は不意に、

 「林葉さん、死ぬときはどうして死にたい?」

 こう訊いてきたそうだ。
 突然のことで答えに窮している林葉に、大山は、「私は飛行機が落ちて一瞬で死にたいね」と語った。

 林葉の年齢から逆算すると、これは恐らく大山の死の数年前のことではないだろうか。
 病気で弱っていく己の姿を人には見せたくない。病床で見舞客に看取られるような死に方など真っ平だと考えていたのだろう。

 「私は飛行機が落ちて一瞬で死にたいね」

 たぶん男性棋士にはこんな本音は明かさなかったのではないか。
 「鉄人」とまで呼ばれた十五世名人が晩年にふと漏らした言葉。

Pass

[2926] 父の存在
まるしお (/) - 2014年04月18日 (金) 17時32分

棋士たちは、今、偉大な父親を失ったような気持になっている。

―――河口俊彦

『将棋界奇々怪々』(NHK出版、1993年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 大山康晴十五世名人が亡くなったのは1992年七月二十六日。満六十九歳だった。

 河口俊彦ほど大山の負の側面を描いた人はいない。私は河口の著作によってはじめて大山流番外戦術の凄まじさをを知った。

 その河口でも、いざ大山が■ねば、「偉大な父親を失ったような気持」になるのである。

 ときに、「いくらなんでも余りに理不尽ではないか」と思われる行動を取ることもあったが、それをも含め、大山は昭和将棋界の金字塔であり、偉大なる父であった。

 大山の前に大山無し、大山の後に大山無し。
 羽生善治がいくら記録を伸ばしたとしても、「父」と呼ばれるようなことは無いだろう。
 もう将棋界に「偉大な父」は出てこないかもしれない。

Pass

[2927] これも妖術?
まるしお (/) - 2014年04月19日 (土) 17時18分

「やり損なった。しょんない、しょんない」

―――花村元司

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 後手の花村元司がそうボヤいたのは六手目▽3二飛を指した直後だったという。

 六手目までの進行は、▲7六歩▽3四歩▲2六歩▽4四歩▲4八銀▽3二飛。

 そして、次の先手の手を待って、八手目、▽4二飛と戻したというのだから驚く。
 後手番でしかも一手損。
 何を考えているのか?

 しかもこの将棋、花村が勝ってしまったというのだから、二度驚く。
 昔は面白い将棋指しがいたものだ。

Pass

[2932] 大先生にはそう言われたけれど……
まるしお (/) - 2014年04月20日 (日) 17時58分

「振り飛車は卑怯な戦法だ」

―――板谷四郎

「将棋世界」2014年3月号、本音対談「板谷の熱血は生きている」より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 小林健二と杉本昌隆は板谷進の弟子。板谷進の父四郎九段は小林や杉本らから「大先生」と呼ばれていたそうだ。
 この大先生はかつて芹沢博文に対して、「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」と叱責したという。
 一家言を持ち、芹沢だろうが何だろうが、思ったことはズバッと言う。

 将棋の方は、振り飛車が嫌い、穴熊が嫌い。端に桂を跳ねるのも駄目というから徹底している。
 弟子にも孫弟子にもそういう姿勢を通したそうで、杉本も直接、「振り飛車は卑怯な戦法だ」と聞かされた記憶があるという。

 そんな板谷門下から育った小林健二は後に「スーパー四間飛車」でブレイク。杉本昌隆も振り飛車党。
 これまた不思議な現象だ。

Pass

[2935] 村山聖神話の始まり
まるしお (/) - 2014年04月21日 (月) 17時02分

「村山君が、詰まん、というんです。詰まない方へ一万円いきます。どうでっか」

―――淡路仁茂

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 大阪の将棋会館でA級順位戦最終戦が行われている最中のこと。
 「桐山清澄 vs 南芳一」の終盤で詰むや詰まざるやの場面になった。
 検討室のソファー中央に鎮座するのは内藤国雄。
 棋界でも指折りの詰将棋の名手。
 その重鎮が、「ぎょうさん駒を持っとるな。詰むにきまっとるだろう」と宣うた。

 一同、すぐに検討にかかるが、詰手順は容易に発見できない。
 そこで、淡路仁茂が別室の検討の様子を見に行き、帰って来るや、

 「村山君が、詰まん、というんです。詰まない方へ一万円いきます。どうでっか」

 こう言って内藤をギョロッと見たというのである。

 これ、即ち、河口俊彦が描いた「終盤は村山に訊け」神話の始まりの場面。
 この賭けの誘いに内藤はすっと話をそらしたというから、自ら敗北を認めたのである。
 実際、この局面は詰まなかった。

 この「桐山清澄 vs 南芳一」戦は1987年三月九日の対戦だと思われる。
 村山聖、当時十七歳。プロデビューからわずか四ヶ月後のことだった。

 「桐山清澄棋聖 vs 南芳一八段」棋譜 1987.3.9(棋譜のデータベース)

 ※ 「動画ルーム」スレッドにこの場面をドラマ化した映像がアップされているので、合わせて御覧下さい。

Pass

[2946] 盤と駒の文化
まるしお (/) - 2014年04月22日 (火) 16時59分

「いまは棋士でも将棋盤を持たない人がいる。それじゃいけない。いい盤と駒を使って初めて棋士の先生です。

―――鬼頭孝生(愛知県支部連合会理事)

「将棋世界」2014年3月号、本音対談「板谷の熱血は生きている」より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 鬼頭孝生氏は現在七十三歳。故板谷進九段の親友で、愛知県で普及活動を推進する立場にいる。
 現在も二、三百人の子供に将棋を教えており、その際はプラスティックの駒ではなく木の駒を使っているという。

 棋士は脳内に盤駒があるので現物が無くても用が足りる。それはそれで素晴らしいことだが、PC時代の昨今、専門棋士は実際の盤と駒からますます疎遠になっていく。渡辺明永世竜王なども、「対局以外で駒に触ることは滅多にない」と明言しているほどだ。(「文藝春秋」2013年11月号の井山裕太との対談)

 しかし将棋文化ということを考えると、盤と駒は棋士と密接な関係にあるべきだと鬼頭氏は主張する。
 板谷進九段も将棋の道具をとても大切にしていた。

 こういう意見を聞くと、大山康晴十五世名人が、「強くなりたかったら良い盤と駒を揃えなさい」と口癖のようにアマチュアに進言していたという話を思い出すのだが、鬼頭氏は逆にプロ棋士に対し、良い盤と駒を使うようにと苦言を呈しているのである。

 「いい盤と駒を使って初めて棋士の先生です。それを弟子や後輩に伝えていかないと。先生方も恵まれる、道具を作る職人も恵まれる、それをファンが喜んで見る。そういう環境をつくらないと」

Pass

[3013] 谷川教の宣伝部長
まるしお (/) - 2014年04月29日 (火) 17時03分

「谷川がダイヤモンドなら、俺は河原の石ころにすぎない」

―――芹沢博文

真部一男『升田将棋の世界』(日本将棋連盟、2005年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 芹沢博文という人は才能ある後輩に対してはとても手厚く保護したようだ。
 とりわけ谷川浩司には、「まるで谷川教の宣伝部長のように、至る所で谷川を褒めちぎっていた」という。(真部一男の言)

 あるときも、ヒゲの大先生・升田幸三にこう言った。

 「谷川がダイヤモンドなら、俺は河原の石ころにすぎない」

 さて、これを聞いて升田はどう返したか――。

Pass

[3014] 石の階級
まるしお (/) - 2014年04月29日 (火) 17時05分

「石には良い物もある、お前はコンクリートのかけらじゃ」

―――升田幸三

真部一男『升田将棋の世界』(日本将棋連盟、2005年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 谷川がダイヤモンド、自分は河原の小石と謙遜した芹沢博文だったが、升田幸三にかかると「コンクリートのかけら」にまで降格してしまう。

 これは真部一男が直接芹沢から聞いた話だそうだ。
 かなりの脚色があるのではないかと真部は疑っているが、芹沢自身は、

 「何とも憎たらしいオヤジだが、うまいことを言う」

 こう言いいながら笑っていたという。
 真部は、「(芹沢は)升田を敬愛していたのである」と書いている。

Pass

[3055] 休場発表の十七日前の発言
まるしお (/) - 2014年05月03日 (土) 16時53分

「私から闘志を取ったら何も残らないです。本当に何も」

―――里見香奈

北野新太「里見香奈の青春」(「将棋世界」2014年4月号 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 これは里見香奈が女流名人位を三連勝で防衛した翌日、報知新聞の北野新太の取材に答えたもの。
 この発言がどういう状況でなされたか、時系列に添って里見の動向を列挙してみると興味深い。

 ・12.23(2013年) 奨励会三段に昇段
 ・2.9(2014年) 女流名人位を三連勝で防衛
 ・2.10 北野の取材に答え、上記のように発言
 ・2.14 女流王位戦紅組リーグ四回戦、不戦敗
 ・2.27 体調不良で半年間の休場を発表
 ・3.3  記者会見
 ・3.10 女流王位戦紅組リーグ五回戦、不戦敗
 ・3.26 マイナビ女子オープン防衛戦第一局(敗戦)  

 つまり、この取材の四日後、女流王位戦リーグで不戦敗、さらに約二週間後に休場に踏み切ったということになる。
 女流名人位防衛戦の最中も、取材に答えたときも、体調の異変を表へ出さぬよう、踏ん張って踏ん張っていたのだろう。

 北野は「里見は天才ではない」と書き、類い希な努力の人だと捉えている。
 その努力と闘志で未踏の記録をつくってきた里見香奈だったが、体がついに拒否反応を起こした。

 「私から闘志を取ったら何も残らない」――これは、休場すまい、倒れまいとして自身を鼓舞した言葉のようにも聞こえる。

Pass

[3285] 三道楽の勧め
まるしお (/) - 2014年05月30日 (金) 17時55分

「酒が好きで、バクチが好きで、女が好きなら最低でも八段になれる」

―――木村義雄

芹沢博文『将棋界うら話 指しつ刺されつ』(リイド社、1987年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 芹沢博文十六歳の頃のこと。
 木村名人のかばん持ちをしていたとき、「どうしたら将棋が強くなれるでしょうか」と十四世名人に問いかけた。

 その答えが冒頭の三道楽の勧めである。

 子供を煙に巻くような返答で、これにはさすがの芹沢少年(当時二段)も驚いた。
 その後この教えを忠実に実践したのかどうか、ともかく励みに励んで、芹沢は八段に昇る。

 木村名人の言葉の意味するところは、「道楽に興ずれば金が無くなる。金が無くなれば本職の将棋で勝って稼ぐしかない」ということらしい。
 昔の大人は面白いことを言ったものだ。

Pass

[3287] 個性派だ
さっちん (/) - 2014年05月30日 (金) 20時28分

藤沢秀行と重なりますね
 
 昭和の勝負師像は囲碁も将棋も似ています

今の棋士は押しなべて皆優等生 

 それとも振りをしてるのか おとなし過ぎるにゃ

ところで おいらは木村名人の条件を全て満たしているのだが
 アマチュアの初段止まり なぜだ〜〜

Pass

[3290]
柳雪 (/) - 2014年05月31日 (土) 16時25分

>ところで おいらは木村名人の条件を全て満たしているのだが
>アマチュアの初段止まり なぜだ〜〜

う〜ん、木村の言った「好き」とは、非日常的な程「好き」なのではないですかな。つまりは、酒と博打と女に入れ込んでしまうほど「好き」になった段階で、これまた非日常的な何かが見える、と云う意味では。

それらに、没頭して入れ込めば、普通ならば精神的にも経済的にもおかしくなるのが当然でござるが、そのほんの一歩手前で、自分を失わなければ、きっと何か違うものが見えるのでござろうよ。

ただ、普通の人間にはそれが怖くて出来ないでしょうがね。

Pass

[3293] 中年棋士の真実
まるしお (/) - 2014年05月31日 (土) 16時56分

「将棋は金のないヤツの方が強い。しかし四十過ぎたら金のあるヤツの方が強い。木村さんも思い当たるでしょう」

―――内藤国雄

木村義徳『ボクは陽気な負け犬』(KKベストセラーズ、1983年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 「木村さんも思い当たるでしょう」の「木村さん」は木村義雄十四世名人の子息・木村義徳八段のこと。
 木村は内藤のこの言葉を、「真理に接近している」と書いている。

 木村によるとプロ棋界は少数の一流以外はみな三流だという。
 そして、蓄財のない中年三流棋士は「貧すれば鈍する」が強力に作用してしまう。

 「この一番に負けたら子供の進学を諦めさせるしかない」

 そんなプレッシャーの中では本来の実力が出せるわけがない。
 ハングリー精神などは若いときの修業時代にのみ当てはまるのであって、中年になってからは、「勝負師には生活の安定がいちばん」というのが木村理論。

 なんとも哀感漂う現実がそこにあるようだ。

Pass

[3296] 家庭の父
まるしお (/) - 2014年06月01日 (日) 18時44分

「お父さん勝ったよ」

―――加藤一二三

大崎善生「賛美歌ひびく千駄ヶ谷」(「週刊現代」2002年1月19日号 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 棋士にも家族があり、棋士は家庭の父でもある。
 現代の将棋報道はそういうところにあまり視点を置いていない。無味乾燥とも言える。

 昭和五十七年(1982年)の歴史的名人戦。「中原誠 vs 加藤一二三」の「十番勝負」。
 その最終局で中原玉の詰みを発見したときに加藤の発した奇声は今でも語りぐさだが、これはその直後のこと。

 ついに名人位を奪取した加藤一二三、取材陣からのインタビューもそこそこに対局室を飛び出して行ったという。
 向かった先は将棋会館三階の「将棋世界」編集室(当時は三階にあった)。加藤はそこの電話に飛び付くや家の番号を回した。

 「お父さん勝ったよ」

 これが新名人が家族に向けて発した第一声だった。
 編集部員らの注視の中、臆することなく発したその声は実に優しいものだったという。
 加藤一二三、当時四十二歳。
 家族の中では自らを「お父さん」と称する良き家庭人。

Pass

[3302] 勝負師の妻
まるしお (/) - 2014年06月02日 (月) 18時01分

「負けたら家に入れないよ」

―――戸辺誠の妻

「我ら未完成。30歳までに結果を出す」(「将棋世界」2014年5月号 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 戸辺誠の父親は日本一高価なお米をつくるお百姓さんだ。
 化学肥料・殺虫剤・殺菌剤をふんだんに使った大規模農業とは正反対の、人力・無農薬・無肥料栽培で美味しい安全なお米をつくっている。

 そんな反骨の父を擁する家庭から出てきた戸辺誠という男を私は大いに注目している。
 1986年生まれ。渡辺明ほどではないが、早くに結婚し、もう子供もいる。

 戸辺が王位リーグ入りにあと一歩というときのこと。平成二十一年(2009年)、久保利明棋王との対戦が決まった。これに勝てばリーグ入りである。
 対局場は関西将棋会館。
 しかし大阪に発つ前日、戸辺は妻にふと弱音を漏らす。

 「相手はタイトルホルダーだから負けて帰ってくるよ」

 これに対する妻の言葉がふるっていた。

 「何それ? やる前から負けるとか言ってるんじゃ、意味ないでしょ。負けたら家に入れないよ」

 これで戸部に気合いが入る。
 勝利してリーグ入りを果たした。

 良き妻、ここにあり。

 「日本一高価なコメ農家〜新潟県・戸辺家」(「日本の原風景」より)

Pass

[3318] 勝負師の母
まるしお (/) - 2014年06月04日 (水) 19時46分

「はあ、家では母に叱られますから」

―――谷川浩司

大崎善生「光速流の得失」(「週刊現代」2002年10月5日号 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 谷川浩司は海老や蟹が大嫌いだそうだ。業界では有名とのこと。
 会席で海老や蟹の料理が出ても決して手を付けない。同席の誰かに譲って食べて貰ったりしているらしい。

 ところが、これは大崎善生が谷川の実家に取材に行ったときのこと、谷川の母が幕の内弁当を用意してくれて、その中に海老フライが入っていた。
 大崎、果たして谷川がこれをどうするのかと見ていると、なんと食べてしまった。

 「へー、谷川さんも海老を食べるんですか」
 「はあ、家では母に叱られますから」

 そういって谷川は悪戯っ子のように首をすくめたという。

Pass

[3324] 妻子のために
まるしお (/) - 2014年06月05日 (木) 21時45分

「妻子がいると、投げられないんだよな」

―――前田祐司

河口俊彦『新対局日誌 名人のふるえ』(河出書房新社、2001年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 前田祐司八段(六十歳)の引退が決まった(2014.6.4)。フリークラス規定による。
 先月には武市三郎・大野八一雄の二人が同規定により引退しているが、この二人はC級2組から上がることはなかった。しかし前田祐司はB1まで上がった棋士である。
 昭和六十年(1985年)にB1に上がり、このクラスに四期在籍した。
 ただ成績は振るわず、いつも降級すれすれという成績だった。

 これは昭和六十二年十二月十八日の対局でのこと。三勝五敗で迎えた九回戦。相手は田丸昇。
 将棋は前田の銀の丸損という必敗形。居合わせた河口俊彦によると、風邪を引き白いマスクをしている前田は、「自殺を考えている人みたいだった」という。

 こんなひどい将棋は、順位戦でなければとっくに投げていたと前田は漏らす。
 しかし降級となれば収入に響く(およそ三割減にはなるらしい)。

 結局粘りに粘って、とうとう形勢互角までに持ち直した。
 そうなると今度は相手の田丸の方が頭に血が上り、ついに将棋はひっくり返ってしまう。前田、大逆転で貴重な一勝を得た。
 その後三連敗したが、この一勝が生きて降級を免れたのである。

 「妻子がいると、投げられないんだよな」

 前田はしみじみそう語ったという。

Pass

[3327] 妻子を養って二十年
まるしお (/) - 2014年06月06日 (金) 17時43分

「こんな弱い将棋で、よく二十年も妻子を養ってこれたな」

―――木村義徳

河口俊彦『新対局日誌 名人のふるえ』(河出書房新社、2001年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 昭和六十二年(1987年)度のB級2組順位戦。木村義徳は前半五勝一敗と好調だったが七回戦で負け、八回戦の宮坂幸雄戦も落としてしまう。
 一手スキをかけたら逆に自玉が詰まされてしまい、投了。
 しかし感想戦でおのれに勝ち筋があることが判明すると、木村、自分自身に呆れ返ったのか、

 「こんな弱い将棋で、よく二十年も妻子を養ってこれたな」

 自らにそう言うや後ろにでんとひっくり返ってしまったという。

 木村はかつて山田道美から、「木村さんは大山名人を弱くしたような将棋ですね」と評されたそうだが、この言葉、なんとも哀感が漂う。

 木村義徳はこの期の順位戦を終えて三年後、降級点を取って引退を決意する。
 最後の順位戦(B2)最終局(1991.3.22)の相手は羽生善治だった。

Pass

[3351] 「全敗宣言」の背景
まるしお (/) - 2014年06月08日 (日) 17時23分

この時をもって棋士の心が腐った。

―――芹沢博文

芹沢博文『将棋界うら話 指しつ刺されつ』(リイド社、1987年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 一昨日(2014.6.6)は日本将棋連盟の棋士総会があったそうだ。連盟の最高決議機関ということだが、芹沢博文はかつてこれを、「中学生のホームルームというのか、あれよりずっと下」「とても普通の人に見せられるものではない」と酷評した。
 それには訳がある。

 かつての順位戦は各クラス共に昇級者数と降級者数が一致しており、従ってその定員は保たれていた。
 勝ったら上がって稼ぎが増える。負ければ落ちて生活が苦しくなる。負け続ければ勝負の世界から身を引くしかない。こういう勝負の原則が貫かれていた。
 ところがあるときから降級点制度とフリークラス制度が導入され、B2以下のクラス定員が次第に膨れ上がっていく。
 一口に言えば、「負けても落ちない」ように「改革」したのである。

 この著書の発行より十数年前、そのような「改革」が棋士総会で提案された。
 「仲間が落ちていって生活が苦しくなるのは辛い。だから負けても落ちないようにしよう」
 芹沢博文はこの提案を、「小ずるい知恵者が、いかにも善人のような発言をした」と書いている。

 「勝負の世界は勝ったら上がり、負けたら落ちる約束事である。将棋界に入ってくる時にこのことは皆、承知のわけである」――当然の如く芹沢はそう考えた。
 しかし採決を取ると、百三十余の有効票のうち、賛成が百二十五票と圧倒的であった。

 「この時をもって棋士の心が腐った」

 芹沢の怒りが爆発する。

 われわれ棋士は金ばかり欲しがるようになり心がうす汚くなった、唾棄すべき者に成り下がった、「情けなや、無残やな、悲しやな」……。

 芹沢は棋界に自浄能力無しと判断し、これが「全敗宣言」へとつながっていく。

Pass

[3356] 鬼気迫る最後の姿
まるしお (/) - 2014年06月09日 (月) 18時28分

公式戦では全敗を続けていた芹沢が、人を斬るような張り詰めた空気の中で真剣に稽古をつけていた。

―――大崎善生(作家)

大崎善生「将棋は苦し、酒は楽し」(「週刊現代」2002年12月7日号 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 芹沢博文の最晩年二年の成績は惨憺たるものだった。
 1986年度が三勝二十五敗(不戦敗3)。
 1987年度が一勝二十敗(年末十二月に死去、以後の六戦は不戦敗扱い)。

 そんな芹沢の、死の直前の鬼気迫る様子を大崎善生は目撃した。

 将棋会館の研修室で奨励会員と指導将棋を指していたという。
 部屋は静まり返っていた。
 相手の奨励会員は4級で、とても将来有望とは思えない。
 そんな少年に、「人を斬るような張り詰めた空気の中で真剣に稽古をつけていた」というのである。

 それは、日頃の騒がしい芹沢とはまるで別人。大崎は異様な雰囲気に呑まれる。

 「私はいけないものを目撃したような気持ちになって、慌てて部屋を出た。それが、生きている芹沢を見た最後である」

Pass

[3368] 名人への裏技
まるしお (/) - 2014年06月10日 (火) 20時03分

「君が今まで知った女で一番嫌いな女っているか? その女を心を込めて三回抱け」

―――五味康祐(小説家)

芹沢博文『将棋界うら話 指しつ刺されつ』(リイド社、1987年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 芹沢博文と作家の五味康祐が一緒に酒を呑んだときのこと。

 名人になる者は手相や人相を見ればだいたい判ると五味は言う。また、名人の資質にはなにか「ドロッとしたところ」があるとも。
 そういう観点から芹沢は名人になれないと五味は断言したのである。

 しかしこうも付け加えた。

 「しかし君がどうしても名人になりたいなら、なり方を教えてやる」

 そこで、「どうするんですか」と訊き返す芹沢に、五味は次のように答えたという。

 「君が今まで知った女で一番嫌いな女っているか? その女を心を込めて三回抱け」

 はてさて、そのココロは?
 各自、思索を深めていただきたい。

Pass

[3388] ある問いかけ
まるしお (/) - 2014年06月12日 (木) 18時29分

「将棋のことを君はどれくらいわかっているか?」

―――藤沢秀行(囲碁棋士)

芹沢博文『娘よ』(パン・ニューズインターナショナル、1985年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 藤沢秀行は芹沢博文が「兄貴」と慕っていた囲碁棋士。
 「自分の美の世界だけでしか生きられない」秀行は芹沢にとって「男の中の男」であり、敬愛してやまない存在だった。

 その秀行が、あるとき芹沢に問いかけた。

 「将棋のことを君はどれくらいわかっているか?」

 芹沢は、「百のうち四か五」と答えたそうだが、それを聞いた秀行は真面目な顔で腕組みをし、こう呟いたそうだ。

 「俺は(囲碁を)百のうち六わかったつもりでいた、思いあがっていたのか…」

 その後しばらく考え込んでいる秀行に、芹沢は、「私はへんに辛くなり、その場を立ち去りたい気持になった」と書いている。

Pass

[3397] 見てはいけないもの
まるしお (/) - 2014年06月13日 (金) 19時43分

将棋は男同士のセックスである。

―――林 秀彦(作家)

芹沢博文『将棋界うら話 指しつ刺されつ』(リイド社、1987年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 この本の巻末には芹沢博文と脚本家・石堂淑朗の対談が収録されている。
 その中で石堂は、「中原−米長戦を観戦していつも思ってるんですが、見ちゃいけないところを見ているという感じがあるのね」と言った後でこの林秀彦の言葉を紹介している。

 すると芹沢の方も、作家・土岐雄三の感想を引く。

 「大蛇(おろち)のまぐわいを見ているようだ」

 作家の感性、恐るべし。

Pass

[3402] 傑作でござる
さっちん (/) - 2014年06月13日 (金) 21時01分

おいら 常々感心するというか 尊敬するというか 時に畏怖の念さえ覚えるのですが・・
何をですかって? 将棋関連書物の読破量ですよ 勿論まるしおさんの
皆さんは そう思われませんか? 凄いですよねぇ 驚きですよねぇ 真似できないですよねぇ


詰め将棋の出題にしても ご自身で 恐らく何十倍もの問題を解いた上での出題ですからねぇ 
ご尊敬申し上げます

この将棋語録も 前後のエピソードに関連性があり 恐らく膨大な資料を参考にされているのでしょう
参考文献もおいらの知らないものばかり まったくもって すばらしい ご尊敬申し上げます

で、この将棋語録 別館にお越しの方だけしか目にすることができないのは 全くもってもったいない
まるしお殿の初出版になればねぇ と思っておりまする


Pass

[3405] ご愛読感謝
まるしお (/) - 2014年06月14日 (土) 17時22分

 さっちん殿の評はちょっと買いかぶりすぎでは?

 しかしまあ、「けなされると単純に頭にくるが、褒められると複雑に嬉しい(友川かずき)」という感じではありますねえ。

 このシリーズは永く続けたいので、今後ともよろしくお付き合い下さい。

Pass

[3406] 儀式としての名人戦
まるしお (/) - 2014年06月14日 (土) 17時23分

名人は、将棋界全体が選んだ、将棋の神様への捧げ物とも考えられる。

―――河口俊彦

『覇者の一手』(NHK出版、1998年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 実力名人制なのだから強い者が名人になる。
 それはそうなのだが、「名人になるべき者」というのが歴然としてあり、七番勝負はそれを選ぶ儀式ではなかろうかというのが河口俊彦の感想。

 大山康晴があっさりと中原誠に位を譲ったのも、戦い自体は激烈だったが、番勝負はやはり儀式であって、中原誠は「将棋界全体が選んだ、将棋の神様への捧げ物」だったのだと河口は考える。

Pass

[3413] FOREVER
さっちん (/) - 2014年06月15日 (日) 08時15分

>さっちん殿の評はちょっと買いかぶりすぎでは?

んにゃ まだまだ 褒めたりませぬ

将棋関係者の発言を取り上げるだけなら 大したことは無い
まるしさんの”愛”に満ちたコメントがあるからこそ 
その言葉が光ってくるのでございます
それに 他の多くの人もおいらと同じ思いでございましょう

>このシリーズは永く続けたいので、今後ともよろしくお付き合い下さい。

ぜひぜひ!


Pass

[3415] 才能と運と…
まるしお (/) - 2014年06月15日 (日) 16時40分

中原誠名人と私の才能は同じ程度かと思う。

―――芹沢博文

『娘よ』(パン・ニューズインターナショナル、1985年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 そのように書いた後で芹沢はこう続けている。

 ――その違いは、二十四、五歳のとき、私が「なんだ、将棋とはこんなものか」と思ったことに対し、中原は「将棋とは何とむずかしいものか」と思ったことにある。結果は見ての通りで、「名人位はオレのものだ」と思った私はヨレヨレの九段、中原は永世名人だ。――

 芹沢はまた、「類いまれな“才能”と“運”を兼ね備えた者の中で、さらに運の強い者が名人に到達するのだ」と主張し、中原誠の強運を例に挙げている。

 しかしこの強運も、「将棋とは何とむずかしいものか」と思うことで中原が自ら引き寄せたような気もする。(芹沢もそう考えたのかもしれない)

 「将棋とは何とむずかしいものか」――この姿勢により、河口流に言うと、将棋の神様は中原を選んだのだろう。

Pass

[3424] 鈴木英春という存在
まるしお (/) - 2014年06月16日 (月) 19時36分

「中原名人を負かすためには、私がでなければだめでしょうね」

―――鈴木英春(奨励会三段)

木村義徳『ボクは陽気な負け犬』(KKベストセラーズ、1983年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 あるとき、木村義徳に誘われて共に酒を酌み交わしていた鈴木英春奨励会三段、発言は次第にエスカレートし、ついにはこんなことを言い出した。

 「中原名人を負かすためには、私がでなければだめでしょうね」

 木村は七段時代の一時期、この英春を相手に練習将棋を多数指していた。あと二年ほどで年齢制限になる英春。なんとか四段にしてやりたいという気持が木村にはあった。
 この練習試合、英春は強かった。B級1組の木村と五分に渡り合ったり、ときには九勝一敗などと圧倒した。
 むしろ教えて貰っているのは木村の方だという見方もできるくらいで、実際、A級八段になれたのは「三割ほどキミのおかげ」と木村は後に英春に語ったそうだ。

 しかし英春は奨励会でなかなか結果を出せなかった。
 六級で入会し三年半で三段までかけ上った人物が、三段リーグに十一年在籍し、ついに三十一歳の年齢制限(当時)で退会していく。

 「中原名人を負かすためには、私がでなければだめでしょうね」と豪語するその裏の焦燥と懊悩。
 これほど才能のある男が四段になれなかったのには修行法になにか間違いがあったのではないかと木村義徳は考える。

 「もしその原因が究明できれば、将棋の上達法の進歩が可能となり、将棋とはいかなるものかも一歩前進するだろう。否、人間とはいかなるものかも前進するかもしれない」

Pass

[3428] 目を輝かせて…
まるしお (/) - 2014年06月17日 (火) 17時06分

「その子に羽生君はやられるんだ」

―――中原 誠

河口俊彦『覇者の一手』(NHK出版、1998年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 渡辺明が十歳のときのこと。
 まだ奨励会2級だが、どんどん白星を上げていた。
 その勝ちっぷりを河口俊彦が色々な棋士に紹介して反応を見ると、誰もが、「そりゃ本物の天才だ」と頷く。

 中原誠にも酒の席でこの話をした。すると中原は、

 「その子に羽生君はやられるんだ」

 こう言って目を輝かせたという。

 これが1995年(平成七年)のこと。
 こういう話には永世名人も目を輝かせるのである。

 ちなみに、現在までの「渡辺−羽生」のタイトル戦は次のとおり。

 ・2003 王座 挑戦 ● 2−3
 ・2008 竜王 防衛 ○ 4−3
 ・2010 竜王 防衛 ○ 4−2
 ・2011 王座 挑戦 ○ 3−0 奪取
 ・2012 王座 防衛 ● 1−3 防衛失敗
 ・2013 棋聖 挑戦 ● 1−3
 ・2013 王将 防衛 ○ 4−3

 全体では四勝三敗だが、羽生からタイトルを奪ったのは2011年の王座戦のみだ。

Pass

[3465] 原田泰夫の精神
まるしお (/) - 2014年06月21日 (土) 17時19分

界・道・盟

―――原田泰夫

先崎 学『山手線内回りのゲリラ』(日本将棋連盟、2007年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 「界」は将棋界、「道」は将棋道、「盟」は将棋連盟。
 この三者が一体となって世界を高めていくという意味。
 原田泰夫の言う「界・道・盟」の精神を先崎学はそう捉えていた。

 ところが、原田泰夫の葬式のとき、その真の意味を知る。

 「この三つは、私が思っていたようにフラットなものではなく、順に、階級があるというのである。正しくはこうだそうだ。まず、アマプロ問わず将棋に関わる人達の〈将棋界〉が優先してある。次にその人々が守るべき〈将棋道〉がある。そして、その下に、プロの団体である〈将棋連盟〉がある。だから、プロの棋士は、界や道を守るために、おごらず、精進しろというものなのだ」

 原田泰夫。2004年、盤寿の八十一歳で没。1961年から六年間、日本将棋連盟の会長を務める。
 亡くなる四日前、弟子の近藤正和を呼び出し、「もう一度将棋連盟が見たい」と乞うたそうだ。
 タクシーで連盟に向かうと理事会の最中。原田は、「何かスケールの大きな話をしていますか?」と言って、皆に挨拶。帰路、「これでもう思い残すことはない」と近藤に語ったという。

Pass

[3499] 殺し合いの気構え
まるしお (/) - 2014年06月28日 (土) 16時43分

将棋指しが盤上で向かい合うときには、常に殺し合いに臨むような気持でなければならない。

―――芹沢博文

『娘よ』(パン・ニューズインターナショナル、1985年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 午前中に意図的に千日手にし、午後は競輪に――そんな対局もあった芹沢博文がこんな生意気な文句を言えた義理かという批判もあるだろう。
 けれども、慚愧の果ての遺言と捉えれば、芹沢の真情も見えてくるのではないか。
 実際この書では、娘の夫となる大野八一雄に、自分の失敗は繰り返さないで欲しいと述べてもいるのである。

 芹沢はこの言葉に続けて、「勝負とは、まさに精神と精神の果たし合い」だと語っている。
 芹沢は師・高柳敏夫からこのような勝負の心を学び、いかに耐えるかが勝負の決め手になると悟る。

 「耐えに耐え、敵をできるだけ近くに寄せつけておいて、バッサリ斬る。手前に寄せつけるほど切れ味はさえる。耐えなければ己れが潰れる。それが恐いのである」

 殺し合いの気持で相対する――こうした考え方はいまや古典的ロマンと呼べるかもしれない。しかし、約三十年前の言葉とはいえ、改めてこうして読み返してみると、安穏に生きるわれわれをぎくっとさせるものがある。

Pass

[3508] 闘争心不要
まるしお (/) - 2014年06月29日 (日) 16時31分

実は将棋には闘争心はあまり必要ないと思っているんです。戦って相手を打ち負かそうなんて気持は、全然必要ない。

―――羽生善治

『自分の頭で考えるということ』(大和書房、2010年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 脳科学者・茂木健一郎との二〇〇六年の対話で羽生善治はこう語っている。

 将棋にはむしろ他力本願的なものがあり、相手に対し、「どうぞご自由に」「好きなようにやって下さい」と預ける場面が必ず現れるというのである。

 羽生「相手が先に態度を決めれば、こちらはそれに合わせてまた一番いい組み合わせを選べるということですから」
 茂木「そうか、そうか。敵と味方で共有する資産みたいなものなんですね」
 羽生「そうですね。だからこそあまり闘争心も必要がない」

 芹沢博文の言う「殺し合い」と対極の姿勢。
 いかにも羽生らしい。

Pass

[3510]
柳雪 (/) - 2014年06月29日 (日) 18時26分

>芹沢博文の言う「殺し合い」と対極の姿勢。
>いかにも羽生らしい。

そこ、そこなんですよね〜。

連盟にも一言くらい言って欲しいものです。。。

Pass

[3527] 木村理論
まるしお (/) - 2014年06月30日 (月) 16時52分

闘志は勝敗にマイナスである。

―――木村義徳

『ボクは陽気な負け犬』(KKベストセラーズ、1983年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 これを木村義徳は自ら「木村理論」と呼ぶ。
 この木村理論を実践するため、「いつも闘志をなくそうと努めている」と書いている。

 ところが、たまに、「負けたのは闘志不足」というような批評が下されることがある。
 木村理論によれば、これはいささか心外なのである。

 ひどい棋譜を残すこともあるが、「負けてもよいからはずかしくない将棋を」と心掛けていればもっとマシな将棋になっただろう。ところが途中から「勝ちたい、勝ちたい」という闘志が出て失敗した。
 要は修行不足なのであって、そこを批評されるのは構わないが、闘志云々はやめて欲しいというのが木村の立場。

Pass

[3535] 楽しみが出てこそ本物
まるしお (/) - 2014年07月01日 (火) 17時23分

将棋というのは、勝負ではあるけれど、やはり娯楽であり、遊びのものです。とすれば、楽しみのあるものにしなければいけない。

―――升田幸三

『勝負』(中央公論新社、2002年――原書は1970年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ここで言う「楽しみ」とは何か?

 升田幸三は続けてこう語っている。

 「一時期、ぼくは、神の前に出てもひるまない、そういう将棋を追求した時代があるんですが、突きすすめたものは、そこにきびしさがあり、鋭さがあっても、ならべてみると、なにか楽しいものがあるんですよ」

 この楽しいものが出てこないと本物ではないというのである。

 血反吐を吐きながら苦しんで書いた命がけの文章でも、「そのいのちがけのなかに遊べるという境地に達したとき、読む人にもまた楽しさが伝わる」。ただ苦しみだけしか出てこない作品はまだ本物ではないと升田は主張する。

Pass

[3554] 生きた碁
まるしお (/) - 2014年07月03日 (木) 18時48分

わたしは勝負を頭に置いては“名局”というものは決して生まれないものだと思う。

―――橋本宇太郎(囲碁棋士)

『勝負のこころ』(浪速社、1970年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 関西棋院の総帥・橋本宇太郎は次のように主張しいている。

 悪手のない立派な碁を、仮に二人が相談しながら創り上げたとする。出来上がった棋譜は確かに格調のある名局と呼べるかもしれない。しかしそれは「生きた碁ではなく死んだ碁だ」。
 「勝負は型ではなく、まして綺麗ごとではない」のだから、禁じ手以外は何をやってもかまわない。そういう「勝負」の本質から考えると、勝負を頭に置いていては「名局」は生まれない。

 「名局」の定義にもよるが、橋本宇太郎のこのような考え方は将棋にも当てはまるのではなかろうか。
 生きた将棋、必ずしも名局ならず。
 しかし勝負としては面白い。

Pass

[3562] 一視聴者の箴言
まるしお (/) - 2014年07月04日 (金) 17時00分

「へえ、こんな忙しい世の中で、こんなに静かに、時間をむだに過ごして生きている人がいるのか」

―――あるテレビ視聴者

内藤國雄 & 米長邦雄『勝負師』(朝日新聞社、2004年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 テレビの将棋対局を偶然見た人の感想。
 この人は将棋のルールも知らない。
 しかし得も言われぬ静寂に感動し、以来テレビ対局のファンになったという。
 別に将棋を習おうというのではない。この静かさ(とくに序盤の静かな場面)で心が安まるから見るというのである。

 言われてみると、確かに、騒がしいバラエティー番組ばかりの中で、将棋対局の放送には一種異様な雰囲気がある。なんだか現実離れしているのだ。
 そこを楽しみにする将棋を知らない視聴者。
 テレビ将棋対局にもいろいろな見方があるものである。

 それにしても、「こんなに静かに、時間をむだに過ごして生きている人がいるのか」とはよくぞ言ったものだ。
 全くもって、あっぱれ、と言いたい。

Pass

[3578] ナマ将棋
まるしお (/) - 2014年07月05日 (土) 21時10分

この間、初めてナマ将棋しちゃったの。あれって変ね。よろしくお願いしますって言って、指したら相手の手がすぐ出てくるのよ。

―――ある主婦の書き込み

田中寅彦『将棋界の真相』(河出書房新社、2004年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ネット対局が増えたお蔭で、実際に盤を挟み対面して指す将棋が減ってきたという。

 この主婦はパソコンでネット対局を楽しんでいる将棋ファンだが、実際の盤駒を使って指す本来の対面対局はしたことがなかった。
 そのはじめてのリアル対局をした驚きが、「あれって変ね。よろしくお願いしますって言って、指したら相手の手がすぐ出てくるのよ」というわけだ。

 この本の出たのは二〇〇四年。十年も前にすでに「ナマ将棋」なる言葉が使われていたとは驚く。

Pass

[3638] 仮設住宅の将棋
まるしお (/) - 2014年07月11日 (金) 22時27分

「将棋やってれば何もかも忘れっからね。なんにも考えねえから。将棋だけより考えねえから、いちばんいいよね」

―――舘山政四郎(東通仮設住宅に住む七十代の男性)

「それぞれのイナサ〜風寄せる集落 9年の記録」(NHK-Eテレ 2014.5.17 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 宮城県仙台市荒浜の舘山政四郎さんは台所に立つと妻の盛子さんによく怒られた。
 「邪魔だからそっち行って!」
 世話好きで花を育てるのが得意だった妻。
 「私がいなくなったら生きていけないでしょう!」
 そんなことも言われた。

 その妻と娘の真由美さんを津波で奪われ、政四郎さんは今仮設住宅で自炊している。
 居間には妻と娘の写真が飾ってある。
 だから食事は居間で摂ることができない。
 妻と娘に見られているような気がしてやるせないのだ。

 一日の大半を仮設住宅の集会所で過ごすようになって二年余り。
 将棋を指して時間を過ごすことも覚えた。

 「将棋やってれば何もかも忘れっからね。なんにも考えねえから。将棋だけより考えねえから、いちばんいいよね」

 年上の好敵手が相づちを打つ。
 「少しの間だけど、忘れっから」

 この男性も息子を津波で失った。

Pass

[3649] 地下室の日々
まるしお (/) - 2014年07月13日 (日) 18時21分

「ボビーはチェスを指すことで世間から逃れていたのです。何かに没頭していれば周囲のことは見なくてすみますから。私もチェスプレーヤーですから気持は分かります」

―――ノズリック・オラフソン(チェス・グランドマスター)

「天才 ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」(NHK-BS1 2014.5.18)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 チェスの天才と謳われたボビー・フィッシャー。その生涯は波乱であると同時に謎でもある。
 何度となくチェスの表舞台から姿を消し、長期にわたる隠遁生活を送ったりもした。

 一九七二年、ソ連のチャンピオンを破って凱旋したボビーにアメリカ国民は熱狂した。
 しかし時あたかも米ソ冷戦の最中、時代に翻弄されるボビーは四年後の王座防衛戦を棄権、再び世間から姿を消した。

 一時期、カリフォルニア州パサディナにある地下の一室で身を潜めるように暮らしていたという。母が送ってくれるチェスの本を読みふけり、一人でチェス盤に向かう孤独の日々だった。

Pass

[3651]
升田がNo.1 (/) - 2014年07月13日 (日) 20時56分

ボビーフィッシャーは一時期日本に隠れるようにして住んでましたね:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC

羽生善治名人とは少なからぬ縁があります。

Pass

[3657] 将棋と人生
まるしお (/) - 2014年07月14日 (月) 17時11分

わが人生最大の幸福は、この日本の国に生まれ、将棋という素晴らしいゲームに出会えたことである。

―――田中寅彦

『将棋界の真相』(河出書房新社、2004年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 こう書いた後、田中寅彦は将棋独特の複雑さを説き、「大人が真剣に取り組む価値があるゲームが将棋なのだ」と述べている。

 その将棋に出会えたことを人生最大の幸福と断言する。

 田中寅彦、現在五十七歳。
 これは約十年前の言葉。

Pass

[3658] チェスと人生
まるしお (/) - 2014年07月14日 (月) 17時11分

「ツィタは、チェスは人生の全てを奪うことに気付いたのです。ボビーの人生はまさにそうでした」

―――ペーテル・ライチャニー(ツィタの父)

「天才 ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」(NHK-BS1 2014.5.18)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ツィタ・ライチャニーはハンガリーの女性チェスプレーヤー。
 隠棲中のボビー・フィッシャーに手紙を書き、国際舞台への復帰を促した。
 ツィタ、当時十八歳。

 これがきっかけとなり、一九九二年、ユーゴスラビアでボリス・スパスキーとの大試合が実現する。
 一九七二年のタイトルマッチ以来の再戦だ。チェス界は大いに湧いた。

 ところがこのときアメリカは、ユーゴへの経済制裁違反だとしてこの試合に待ったをかける。
 しかし対戦は強行され、一ヶ月半にわたり三十戦が行われた結果、十勝五敗十五引き分けでボビーが勝利、賞金三百五十万ドルを得る。
 けれども同時に、アメリカはボビーを訴追したのである。

 以後、ボビー・フィッシャーの逃亡生活が始まる。

 ツィタ・ライチャニーはこのようなボビーの人生を間近に見て、チェスの世界に生きることに疑問を感じるようになる。

 朝起きてまず頭に浮かぶのはその直前の対局のこと。
 友達もいない、未来もない。
 母がアメリカで亡くなっても会いに行くことさえできない。

 このような人生はツィタにとって魅力的ではなかった。
 実はボビーはツィタと接することで安らぎを覚えるようになり、やがて求婚するのだが、ツィタはこれを断り、後にチェスからも足を洗うのである。

Pass

[3661] 将棋と狂気
まるしお (/) - 2014年07月16日 (水) 22時50分

真剣にその道を究めようとか、その道ひと筋でやっていこうという人は、一種の狂気の世界というか、何かそういう線を超えないとその先が見えないような気がします。

―――羽生善治

『羽生善治の思考 』(ぴあ、2010年 )より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 この言葉は、詩人・吉増剛造とのテレビ対談において語られたもの。七冠制覇の翌年の一九九七年、当時羽生善治、二十七歳。

 人間が持っている潜在的な力の限界まで行くということは、正気と狂気が関係しているのではないか――羽生はそう考え、このとき、吉増に質問している。

 「そこまで行けたら素晴らしいなと思う気持と、そういうふうになったら恐いなという気持もある。自分は将棋の道をずっとやってきたので、そういうのを目指すべきなのか、目指さない方が良いのか?」

 吉増は、これは答えの出ない問題だとした上で、詩人としての自分の立場を語っている。

 「それをスレスレのところで回避しながら、逃げながら逃げながらしか生きて来れなかった――ある意味では臆病(生命というのはそういう臆病さも持ってますから)」
 「言葉で作品を創って、仮に差し出して、自分も一緒に行く振りをして、(言葉で)違う世界をつくって、僕は僕でかすかな狂気の可能性というものから逃れ逃れて来ているのかもしれない」

 チェスの天才、ボビー・フッィシャーの生涯を思うとき、この二人の言葉は非常に示唆的だ。

Pass

[3665] 神との対局(チェス)
まるしお (/) - 2014年07月17日 (木) 20時10分

「今、神とチェスをしたとしても、自分が先手なら引き分けだ」

―――ボビー・フィッシャー(チェスプレーヤー)

「天才 ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」(NHK-BS1 2014.5.18)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 一九六二年、初の国際的大舞台でボビー・フィッシャーは惜敗する。
 ソ連チームのありとあらゆる策略にはまってしまったからだ。

 そしてその後八年間、ボビーは国際試合から姿を消す。
 ところが一九七〇年、アメリカのグランドマスターであるパル・ベンコが、「私は世界王者になれないが、ボビーならなるチャンスがある」と、ボビーに世界戦への出場資格を譲る宣言をした。
 これによってボビー・フィッシャーが復活する。当時二十七歳。

 ボビーにも自信があった。秘密の八年間で「完全なるチェス」を創造しようとしていたからだ。
 このとき、自らの実力を問われたボビーはこう答えたという。

 「今、神とチェスをしたとしても、自分が先手なら引き分けだ」

 チェスは将棋以上に先手の利がはっきりしている。従って最高峰同士の番勝負では、後手番でいかに引き分けに持ち込むかが鍵となる。
 そのチェスで、「先手なら神と引き分け」――これは、完全なる神の領域の一歩手前まで自分は到達しているという宣言だった。

Pass

[3669] 神との対局(将棋)
まるしお (/) - 2014年07月18日 (金) 18時38分

もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。

―――羽生善治

『決断力』(角川書店、2005年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 羽生善治が生まれたのは、「今、神とチェスをしたとしても、自分が先手なら引き分けだ」とボビー・フィッシャーが豪語した年(一九七〇年)である。

 この羽生もまた神様と自分との距離を考えることがあった。
 冒頭の言葉は二〇〇五年の著書から引用したが、「香落ちでは負け、角落ちでは勝てる」という発言は、すでに一九九六年の七冠達成後の対談などでもみられる。

 自分と神との距離を測る――これは改めて考えてみると凄いことかもしれない。
 羽生の言葉は、裏を返すと、「神の領域まであと角一枚」とも釈れる。
 この具体性もまた凄いことではなかろうか。

Pass

[3681] 少年の心
まるしお (/) - 2014年07月20日 (日) 16時51分

「わざと負けたのよ。……… 分からない? パパを負かしたくないからよ」

―――ジョシュ・ウェイツキンの母

『ボビー・フィッシャーを探して』(スティーヴン・ザイリアン監督 1993年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 『ボビー・フィッシャーを探して』はジョシュ・ウェイツキンという少年チェスプレーヤーを主人公にした映画。

 公園の「縁台チェス」を眺めているうちに幼いジョシュはチェスを覚えてしまう。
 息子がチェスに興味のあることを知った父親は、「じゃあ一局、パパとやろう」と持ちかける。結果は父の勝ち。
 なんだか息子に悪いような気がして、「勝たせてやるべきだったかな」と妻に話しかけるのだが、妻は見抜いていた。

 「わざと負けたのよ」

 「なぜ?」と訝る夫に、妻は答える。

 「分からない? パパを負かしたくないからよ」

 映画の冒頭近くのこのシーンは作品の主題をくっきりと浮かび上がらせている。
 愛するパパを負かしたくないという少年の心。それは勝負に勝つ以上に大切なものなのではないか。
 幼いジョシュはすでにこのとき、勝負に徹することで何か大事なものを失うのではないかという疑問を持ち始めていたのである。

Pass

[3682]
升田がNo.1 (/) - 2014年07月21日 (月) 11時11分

まるしおさんご紹介の、↑のNHK−BS1番組再放送のラスト10分ほど今観ました。気が付かないで失敗しました!

クレジットタイトルに、何度も一緒に仕事をした良く知っているカメラマンの名前を見て余計失敗したと思いました。
将棋大好きカメラマンです(笑)。


Pass

[3683]
まるしお (/) - 2014年07月21日 (月) 20時55分

升田がNo.1さん、見逃されましたか。
残念!

これ、良い番組だったと思います。
色々教えられました。

Pass

[3690] 違う道
まるしお (/) - 2014年07月22日 (火) 20時57分

「ぼくは彼じゃない」

―――ジョシュ・ウェイツキン(少年チェスプレーヤー)

『ボビー・フィッシャーを探して』(スティーヴン・ザイリアン監督 1993年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ジョシュの父は息子のチェスの才能に驚き、あるチェスクラブを訪れる。
 そこの席主にジョシュのコーチをして貰おうというわけだ。
 この席主はかつての名プレーヤーで、ボビー・フィッシャーにあこがれてチェスを追求したが、挫折して現在は引退同然の身。映画では場末のチェスクラブでくすぶっている初老の男という感じに描かれている。

 この席主、最初は断っていたものの、ジョシュに「ボビー・フィッシャーの再来」を感じ、コーチを引き受ける。
 だが、指導していて気付いたのは、勝負への執念がジョシュには見られないということだった。
 これでは大きく伸びない。負け犬にはしたくないと感じた席主はジョシュにハッパをかける。

 「ゲームの相手を軽蔑しろ。憎むんだ。…… ボビー・フィッシャーが世の中を軽蔑したように」

 これに対してジョシュが呟いた言葉が、「ぼくは彼じゃない(I'm not him.)」だった。

 勝利のために相手を憎み、相手からも憎まれる。そういう関係で勝敗を争うことを幼いジョシュが静かに拒否するこのシーンこそこの映画のテーマである。

 「ぼくは彼じゃない(I'm not him.)」

 チェスの世界には、ボビー・フィッシャーの通ったのとは違う道も存在するのだということを示唆しているように私は感じた。

Pass

[3697] フィッシャーに日本国籍を
まるしお (/) - 2014年07月23日 (水) 20時00分

私の将棋はミスも多いですがフィッシャーさんは最初から完璧に近い。神の領域に近づいている人です。

―――羽生善治

「伝説のチェス王者フィッシャーを救え」(「文藝春秋」2004年11月号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 アメリカから訴追されたボビー・フィッシャーは一時東京に潜んでいた。
 と言っても、日本でフィッシャーを知る人は少なく、駅前のベンチで英字新聞を読んで時を過ごすというような生活だったようだ。

 ところが二〇〇四年七月十三日、成田空港から出国しようとした際、入国管理法違反でフィッシャーは拘束される。「無効なパスポートで入国した」という理由だが、実際は、アメリカが本人に知せることもなくパスポートを無効にしていたのである。(支援者はこれをアメリカの法律違反だとして訴えた)

 この事態を知った羽生善治は当時の首相・小泉純一郎に、九月十一日、嘆願メールを出す。
 
 フィッシャーはチェス界のモーツァルトのような存在であり、日本はフィッシャーに日本国籍を与えチェスに打ち込める環境を提供して欲しい。そうすれば、「日本は偉大な芸術家を一人得たことになります」といった内容だ。
 羽生はさらに「文藝春秋」誌にも寄稿し、フィッシャーは「二十世紀の人類を代表する天才の一人」と書いている。

 フィッシャーのチェスは神の領域に近付いている。そういう天才は国家の枠を越えて人類の宝なのだから、政治の渦に巻き込まぬよう、日本政府は文化国としての誇りを示して欲しい――これが羽生の訴えだった。

Pass

[3702] 小国からの救いの手
まるしお (/) - 2014年07月24日 (木) 19時48分

「ボビーが犯した罪とはチェスをしたことだけです。それはアイスランドでは犯罪ではありません」

―――ヘルギ・オラフソン(ボビーの友人)

「天才 ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」(NHK-BS1 2014.5.18)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 成田空港で拘束されたボビー・フィッシャーに対し、日本では「ボビー・フィッシャーさんを救う会」が結成され、様々な救援活動が行われる。

 一九九二年のユーゴ対戦でフィッシャーと戦ったボリス・スパスキーは、ブッシュ米大統領に宛てた手紙を日本チェス協会に送ってきた。「もしフィッシャー氏と同じ罪を犯した事になるなら私を捕まえてフィッシャー氏と同じ刑務所の部屋に入れて下さい。そのときはチェスセットを差し入れて下さい」という内容である。これはアメリカ大使館に届けられる。

 こうした元チェス世界チャンピオンや将棋界の第一人者・羽生善治の訴えにもかかわらず、日本政府はフィッシャーの拘束を解かず、「アメリカ送還が基本」という姿勢をなかなか崩さなかった。

 事態が膠着する中、フィッシャーに救いの手を差し伸べたのは、北欧の小国・アイスランドである。
 当時は米軍駐留継続問題で微妙な時期だったというが、緊急の議会を開き、彼に永久市民権を与える法案を提出、これが反対無しで可決される。

 アイスランドは一九七二年のタイトルマッチ「フィッシャー vs スパスキー」戦の開催国だ。
 三十数年前、一人でソ連に立ち向かったアメリカの天才、その感動の姿をアイスランドの人々は忘れていなかったのである。

Pass

[3703] 最期の地
まるしお (/) - 2014年07月25日 (金) 21時13分

「僕にできることはチェスだけだ。でも、チェスなら得意なんだ」

―――ボビー・フィッシャー(チェス元世界チャンピオン)

「天才 ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」(NHK-BS1 2014.5.18)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 アイスランド政府がボビー・フィッシャーの受け入れを表明したのは十二月十五日だった。拘束から約五ヶ月の後である。
 しかしこれに対しアメリカが圧力をかけ、日本も容易に動かない。
 この状況を大崎善生は、「日本で罪を犯したわけでもないフィッシャー氏を閉じ込めるわが国と、無条件で受け入れるアイスランドとの違いは何なのだろう。この国が情けなくなる」と東京新聞に書いた。

 結局、幾人かの国会議員が動くなどして、フィッシャーの出国が許されたのは翌二〇〇五年三月二十四日だった。
 約八ヶ月の収容所生活の後、アイスランドに到着したフィッシャーを、夜遅くではあったが、数百人のアイスランド国民が出迎えた。「Welcome Bobby」の垂れ幕をつくり、花束・拍手・歓声でフィッシャーを歓迎したという。

 しかしフィッシャーはこの後三年弱で世を去ることになる。
 晩年は肝臓病を患い、友人に気の弱いことを言ったりしたそうだ。

 「僕にできることはチェスだけだ」

 亡くなる直前、悲しそうにそう呟いた後で、今度は、

 「でも、チェスなら得意なんだ」と笑顔で語ったという。

 享年六十四歳。「死んだら静かな場所に、小さな墓に埋葬して欲しい」という遺言どおり、ボビー・フィッシャーは町の外れの小さな墓に眠っている。

 
セールフォス(アイスランド南部)のロイガルダイリル教会にあるボビー・フィッシャーの墓

Pass

[3713] 理解しえないもの
まるしお (/) - 2014年08月09日 (土) 16時11分

「(フィッシャーは)モーツァルトのように、他人には理解しえないものを理解するだけの知性を持っていた」

―――ジェイコブ・ローランド(神父)

フランク・フレディ『完全なるチェス 天才 ボビー・フィッシャーの生涯』(文藝春秋、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ボビー・フィッシャーの葬儀は、本人の意図もあり、内輪だけのとても簡素なものだったという。
 厳寒の季節で、参列者もわずか、葬送歌も鎮魂歌もなかった。
 埋葬を執り行ったのはジェイコブ・ローランド神父。

 「(フィッシャーは)モーツァルトのように、他人には理解しえないものを理解するだけの知性を持っていた」

 棺を墓穴に下ろす前に神父が述べた祝福の言葉である。

Pass

[3714] 見ることができないもの
まるしお (/) - 2014年08月09日 (土) 16時14分

羽生さんは、私たちが一生かかっても見ることができないような風景を、一局の中に見る。

―――茂木健一郎(脳科学者)

『自分の頭で考えるということ』(大和書房、2010年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 脳科学者の茂木健一郎は羽生善治との対談を終え、後書きでこう述べている。

 「羽生さんと話していると、この人は本当には〈ここにはいない〉のだと感じる。にこやかに笑って、静かに応答しながらも、その精神はいつも目に見えない概念の世界の中で遊んでいる。誰よりも遠くへと、奥深く、密かに潜行している」

 「ここにはいない」という指摘は羽生善治の核心を突いているように感じる。

 人は「考える」ことで「遠く」へ行くことができる。しかし思考の果てに見える究極の風景は「あちらへの入口」でもあるのだろう。それは、「私たちが一生かかっても見ることができないような風景」なのだ。

 一度入ったら決して戻ることのできない「あちらの世界」。その扉を開きたい誘惑にかられながらも、それをこらえ、羽生善治はまたこちらの世界へ戻ってくる。

Pass

[3734] 視野狭窄を戒める
まるしお (/) - 2014年08月22日 (金) 21時10分

「棋士とは付き合うな。他の世界を見ろ」

―――板谷 進

「将棋世界」2014年3月号、本音対談「板谷の熱血は生きている」より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 板谷進九段が亡くなったの一九八八年二月二十四日。なんと四十七歳という若さで、父の四郎九段より九年も早く他界したことになる。

 その板谷進の口癖が、「棋士とは付き合うな。他の世界を見ろ」で、弟子の小林健二がよく聞かされた言葉。色々な本を読むようにとも言われたようだ。

 将棋界という狭く特殊な世界だけに満足せず、もっと見聞を広めて大きな視野を持つ人間になれという師匠の戒めである。

Pass

[3735]
柳雪 (/) - 2014年08月22日 (金) 23時17分

「棋士とは付き合うな。他の世界を見ろ」

板谷さんらしい言葉ですね。棋士を「将棋の侍」とするならば、数少ない本物の侍の一人でしたね。古棋書に習い、駒・棋具を侍の刀と同じように愛し、小菅剣之助を慕い墓守をとして居を墓の側に構え、侍のように死んでいってしまった豪胆な東海の重戦車。。。。

生きていれば今の将棋界はもう少しまともだったのでしょうかね。。。。


Pass

[3736] けったいなお叱り
まるしお (/) - 2014年08月23日 (土) 18時48分

「内藤さん、あなた将棋にうつつをぬかしとらんで、しっかり歌もうとうて!」

―――演歌ファンのおばちゃん

能智 映『駒った困った将棋指し』(誠文堂新光社、1985年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 内藤國雄が三橋三智也のコンサートに行き、その楽屋へ挨拶に訪れたときのこと。

 パンツ一丁で涼んでいる三橋三智也の姿には驚いたが、少し話をしてから楽屋を出た。
 すると、付近でたむろしていたファンのおばちゃんたちの一人が内藤に気付き、こんな言葉を投げてきたのだ。

 「内藤さん、あなた将棋にうつつをぬかしとらんで、しっかり歌もうとうて!」

 演歌ファンからすれば内藤の本業は「演歌」である。だからこれは、将棋なんてものにうつつをぬかし本業をおろそかにしてはいけないという戒めの言葉。

 演歌大好きおばちゃんに手厳しいお叱りを受けた内藤は当時王位の座にあったのだが、この体験を、「けったいなこと」として、皆に紹介した。
 昭和五十八年、王位戦第四局で高橋道雄挑戦者に敗れ、一勝三敗のカド番になった日の夜の座談である。

Pass

[3739] おゆき
さっちん (/) - 2014年08月23日 (土) 22時56分

将棋仲間と飲んだ時には

よく歌ったなあ 音程の外れた おゆき 

内藤国雄:おゆき

Pass

[3740] カラオケ十八番はおゆきです。
大吉 (/) - 2014年08月24日 (日) 06時37分

>将棋仲間と飲んだ時には

>よく歌ったなあ 音程の外れた おゆき 

まったくまったく、よく歌いました。

「歌手で将棋が強いのは内藤国男」というのも面白かった。


Pass

[3741] 豪語篇(1)
まるしお (/) - 2014年08月24日 (日) 20時30分

「最近やっと棋譜を並べるようになりました」

―――中田宏樹

先崎 学『山手線内回りのゲリラ』(日本将棋連盟、2007年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 先崎学がこの本で「何年か前」の発言として取り上げている。
 周りにいた棋士たちは大層驚いたそうだ。

 中田宏樹。
 他の棋士の棋譜など全く並べないでそれまでやってきたというのだから、よほど強靱な精神の持ち主に違いない。
 前例を嫌い、自ら信じるものだけを指針としてきた結果、独特の棋風を生んだ。
 現代将棋の枠を越えた存在と言ったら褒めすぎかもしれないが、プロ間の評価は高い。

Pass

[3742] 豪語篇(2)
まるしお (/) - 2014年08月25日 (月) 17時32分

「昇段は遠慮します」

―――宮田利男

奥山紅樹『盤側いろは帖』(晩聲社、1984年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 十六歳で奨励会入りした宮田利男は、一九七二年、二十歳で四段昇段。遅いスタートの割にプロ入りはスムーズだった。
 ところが五段までが長かった。C1昇級に七年半かかっている。

 この当時、「在位××年で昇段の資格を得る」という「贈昇段」の制度があったそうだ。宮田にも一九七八年に連盟から「贈五段」の話が持ち込まれたという。
 それに対して宮田はどう応じたか。

 「昇段は遠慮します」

 奥山紅樹はこの本の中で、宮田の心を代弁し、「内面は憤怒の炎(ほむら)であったろう。なにを言ってやがる。こちとらは自分の力で上がってみせる。そんな弱い将棋じゃないぞ」と書いている。

 さて、宮田は師匠の高柳敏夫に贈五段を断る旨の報告をした。
 そのとき、師匠はどう言ったか。

 「よくやった!」

 弟子の意地を讃えたのである。

 翌年の順位戦、宮田は八勝二敗の成績で昇級昇段を果たす。

Pass

[3753] 豪語篇(3)
まるしお (/) - 2014年08月27日 (水) 20時46分

「四間飛車に棒銀っていうのは、カニとじゃんけんするときにパーを出すような戦法なんですよ」

―――神谷広志

フジテレビ系列「アウト×デラックス」(2014.7.10)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 神谷広志と加藤一二三の対戦成績は七勝一敗。神谷が圧倒している。
 こちらが四間に振ると加藤は必ず棒銀で来る。これを神谷は、ありがたいことこの上ないと思うのだった。

 じゃんけんをするときに、こちらがチョキを出しているのにわざわざパーを出してくる。四間飛車に対する棒銀なんてものはそんな類の戦法なのだ――そう神谷は言うのである。

 なんとこれを、御大・加藤一二三を目の前にして断言するのだから、バラエティー番組とは恐ろしい。まさに、「言いも言ったり」である。

 けれども加藤一二三も譲らなかった。

 「一年前にそういった考え方をぶっ飛ばす良いことを思い付いたんですよ」
 「もう今誰とやっても自信満々なんです」
 「その情報、入ってますか?」

 負けじと棒銀使いのプライドを披瀝したのである。

Pass

[3757] 豪語篇(4)
まるしお (/) - 2014年08月28日 (木) 17時19分

「一日一分、唸(うな)っても三分ですね」

―――屋敷伸之

『将棋王手飛車読本』(宝島社、1998年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 当時三度目の棋聖位に就いていた屋敷伸之に山田慎二がインタビューした記事から。屋敷、当時二十六歳。
 山田は、「棋聖は将棋の勉強はスポーツ新聞の詰将棋ぐらいと聞いたのですが、本当ですか」と問うた。

 「一日一分、唸(うな)っても三分ですね」

 これが屋敷の答えである。
 詰将棋一題でせいぜい一分。ちょっと考えさせられる問題でもまあ三分。それだけが一日の勉強時間だというのだから驚く。
 棋譜並べもしない、色々な戦法の最新動向などぜんぜん気にならないというのである。
 別に気張って言っているわけではない。対談の最初から最後まで、屋敷の人なつっこい笑顔は絶えなかった。

 三度目の棋聖位は三浦弘行から奪ったものだ。
 将棋の勉強量が一日十時間の三浦。このタイトル戦は「十時間対一分」の対決として話題になり、勉強時間一日一分の男が勝利する。

 競艇通いと毎晩の酒。そんな中での棋聖位奪取。
 十五年程前の屋敷武勇伝である。

Pass

[3762] 古のよき日?
さっちん (/) - 2014年08月29日 (金) 08時06分

鈴木八段がニコ生かNHK杯での解説時に奨励会時代のエピソードを語っていました

父親?からプロになればなってしまえば後は楽だぞ 好きなことができるからな などと励まされたそうです
で、苦しい修行時代を乗り越えて四段になりました やったーこれで遊んで暮らせるぞ 
ところが 遊んでいては勝てない 現実は厳しい練習と研究の日々が待っていたのです 
鈴木八段は笑いを交えて言いました  騙された〜〜^ 今のほうが大変じゃん!

誰の事だか忘れましたが 対局日に朝までマージャンをやっていたとか 
飲み屋から将棋会館に向かったなんて話もありました 
確かに昔の将棋指しは好き勝手をやっていられたかも・・

終盤の腕力だけで勝負できた時代は遊んでいても何とかなったのでしょうね 
現在の将棋界は序・中盤の研究が欠かせないから大変だー


Pass

[3788] 豪語篇(5)
まるしお (/) - 2014年09月02日 (火) 17時04分

「私には彼等を、片っ端からなぎ倒し、実力で名人位をこちらのものにする自信があります」

―――木村義雄

阿部真之介「名人戦の始まった頃」(「近代将棋」1951年1月号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 実力で名人位を決めるリーグ戦が昭和十年に始まった。ところがこの年の末、リーグ存続が危ぶまれる事件が起こる。
 関西の実力者・神田辰之助七段の八段昇段問題に端を発する棋界分裂騒動である。

 実力名人制は毎日新聞の阿部真之介が中島富治(高島屋顧問)の手を借りて企図したものだったが、発足後、この神田事件によって、花田長太郎・金子金五郎らの人気棋士が新組織(日本将棋革新協会)に移ってしまう。阿部はこれを、「朝日(新聞)への身売り」と表現し、「棋界の花形棋士全部を、失った形で、名人戦には、致命的な打撃だった」と書いている。

 さあどうしよう、エライことになってしまった。これでは名人決定リーグが有名無実のものになりかねない。
 激しい失望と落胆。
 しかしこのとき、茫然自失の阿部に木村義雄はこう断言したそうだ。

 「阿部さんは心配いりませんよ。木村がいれば、きっと名人戦は成り立ちます。場合によれば私は彼等に挑戦します。私には彼等を、片っ端からなぎ倒し、実力で名人位をこちらのものにする自信があります」

 仮にこのまま分裂状態が続いたとしても、自分は離脱した棋士たちと一戦を交え、全部をなぎ倒してみせる。名人位に文句は言わせない――このように言って阿部を励ましたのである。

 結局、この分裂状態は小菅剣之助の仲裁により翌年六月に再統一して決着。リーグ戦も木村が圧倒的な成績を残し、初の実力制名人に就いた。

 阿部はこのときの木村の言葉が「いまなお昨日の如く私の心に焼き付いている」と語っている。

Pass

[3791] 半世紀前
さっちん (/) - 2014年09月03日 (水) 08時33分

ひええええええ
1951年の近代将棋 こんな昔にもう出てたんだ 
サンフランシスコ平和条約でっせ 日米安保じゃん 

で この記事は興味深いですね 名人戦主催問題はここが原点かな?

Pass

[3796] 豪語篇(6)
まるしお (/) - 2014年09月03日 (水) 18時44分

我々は勝ったら金をもらう、負ければ金をはらう勝負をいつもやっている。プロは勝っても負けても金をもらう。我々の方が、きびしい勝負をやっている。

―――ある真剣師

宮崎国夫『修羅の棋士』(毎日コミュニケーションズ、1995年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 負けても対局料を貰うプロ。しかも勝者と同額という場合もある。
 この場合、勝負の厳しさをいったいどこに求めるのか。

 地位・名誉・芸・プライド……。
 いろいろな言葉を並べてその答えを見付け出そうとするが、「負けたら金を払う」というリアルさの前には、どの名答もすぐさま色褪せる。

 賭将棋の世界からプロ将棋を逆照射し、勝負の厳しさとはいったい何なのだろうかと考えさせられる言葉だ。

Pass

[3809] 豪語篇(7)
まるしお (/) - 2014年09月05日 (金) 17時13分

「あいつは力ばかりの田舎将棋だ。軽くひねってやる」

―――坂口允彦

東 公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟、1996年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 坂口允彦は将棋連盟の会長をしたこともある棋士だが、妙な経歴を持っている。
 終戦後独学でチェスを学び、将棋の方は休場してチェスに専念。占領軍の将校に教えたりして結構身入りも良かったらしい。

 その坂口が将棋に復帰するに際し、毎日新聞で腕試し棋戦が企画された。
 時の四強、木村義雄名人、塚田正夫前名人、升田幸三八段、大山康晴八段と対戦するというもの。
 昭和二十五年のことだ。

 坂口は升田との戦いの前、升田の将棋を「田舎将棋」呼ばわり。大言壮語を好む性格だったようで、「軽くひねってやる」と豪語した。

 結果は、短手数で升田の勝ち。
 「思ったよりも強いな、お前さんは」とは、終局後の坂口の言葉。

Pass

[3819] 番外戦術?
さっちん (/) - 2014年09月07日 (日) 22時02分

豪語とは少しばかり違いますが

 田中九段の「あの程度で名人・・」とか
米長永世棋聖の「横歩も取れないような男に負けてはご先祖様に・・」
升田髭名人の「名人なんてゴミみたいな・・」

 昔の棋士は言いたいことを臆する事無くしゃべってますね
あっ そうそう 番外戦術って言うんだなぁ

こんなことも多少はあったほうが観戦していて面白いのだが
今時の棋士は皆おとなしすぎる!?
まあネット社会だとすぐに叩かれちゃうから うかつなことは言えないか

Pass

[3837] 豪語篇(8)
まるしお (/) - 2014年09月09日 (火) 20時49分

「B1以下なら平手で相手をしてやる。自信のあるやつはこの胴巻きの中に入っているゼニを取りに来い」

―――平畑善介(真剣師)

宮崎国夫『修羅の棋士』(毎日コミュニケーションズ、1995年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 平畑善介は昭和二十六年のアマ名人戦で優勝した人。大物真剣師である。仲間からは「善さん」と呼ばれていた。

 それまではアマ名人など獲るつもりはなく、福岡県代表として西地区大会に赴くと早々に負けて、そこに集まる強豪達と「真剣」をして稼ぐということをやっていた。

 ところがこの年、子供からこう言われる。

 「お父さんは、いつも将棋強いって自慢しているけど、一度も日本一になれないじゃないか。一度日本一になってよ」

 こうせがまれ、子煩悩の善さん、今年はアマ名人を獲ると子供に約束したのである。
 けれども約束どおりにアマ名人にはなったものの、ずっと勝ち上がってきたために「真剣」の場が無かった。稼ぎゼロである。

 アマ名人戦の全国大会には木村義雄名人など多くのプロが集まっていた。それで、優勝の祝いの席で、居並ぶプロを前にして善さんはこう言い放った。

 「B1以下なら平手で相手をしてやる。自信のあるやつはこの胴巻きの中に入っているゼニを取りに来い」

 胴巻きをパンパンとはたきながら挑発したという。

Pass

[3864] 豪語篇(9)
まるしお (/) - 2014年09月13日 (土) 20時17分

「あの程度で名人になる人もいる」

―――田中寅彦

『百人の棋士、この一手』(東京書籍、2000年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 史上最年少で名人になった谷川浩司に対する言葉。

 「名人位を一年間預からせていただきます」という殊勝な言葉で世の将棋ファンを感動させた谷川に、こともあろうか、田中寅彦は、「あの程度で名人になる人もいる」と言ってしまったのである。
 これほどの暴言があるだろうか。
 田中はなぜこんな言葉を吐いたのだろう。

 谷川が二十一歳で名人位に就いたのは一九八三年の六月。
 この年の十一月二十五日に「将棋連盟杯争奪戦記念対局」というのがあり、二十六歳の田中寅彦七段が時の新名人・谷川浩司と対局した。

 「田中寅彦七段 vs 谷川浩司名人」1983-11-25 連盟杯戦記念対局 (将棋の棋譜でーたべーす)

 このときまでの両者の対戦成績は「3−1」で田中リード。記念対局でも得意の居飛車穴熊で完勝した。
 自戦記で谷川は、「ああ、なんと弱い名人なのか」と反省の弁を述べている。
 それに対して田中の方は、「あの程度で名人になる人もいる」と返してしまったのである。(「将棋世界」に載った座談会での発言だったらしい)

 これには谷川ではなく周囲が反応した。棋士やファンからの「不快の波」が田中にどっと押し寄せたという。

 しかし一方、この発言に拍手を送った者もいた。
 奥山紅樹は一九九二年四月号の「将棋世界」にこう書いている。

 「田中寅彦という棋士を、ふだんからじっと見ている人間は、陰ながら拍手を送った。彼でなければ言えないセリフだと共感のエールを送った。田中発言の眼目は谷川批判のように見えて、実はそうではなかった。彼はみずから背に河を負って、のっぴきならないところに自分を追い込もうとしたのだ。(中略)目尻を下げ、安逸をむさぼるな! と自分で自分に発破をかけたのである」

 一方、田中寅彦は自著『百人の棋士、この一手』の中で、「谷川さんは善玉を演じつづけている」と書き、谷川浩司を「世の期待に応え演じる名優」だとしている。
 この「善玉を演じる」という点に、田中は違和感を覚えたのではなかろうか。

 棋士が皆善玉では面白くない。「名人位を一年間預からせていただきます」などという優等生的な言葉とは対極の、「あの程度で名人になる人もいる」という暴言により、あえて自分の立場を鮮明にしたとも考えられる。

Pass

[3878] 豪語篇(10) 「ゴミハエ問答」私見
まるしお (/) - 2014年09月15日 (月) 20時50分

「名人なんてゴミみたいなもんだ」

―――升田幸三

「ゴミハエ問答」として伝わる言葉
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 名人・木村義雄を目の前にして、「名人なんてゴミみたいなもんだ」と升田幸三(当時八段)が言ったというのである。
 ムッときた木村が、「名人がゴミなら君はなんだ」と言い返しところ、升田曰く、
 「ゴミにたかるハエだ」

 これが巷間伝わる「ゴミハエ問答」である。

 しかし升田は本当にそんなことを言ったのだろうか。

 東公平の『升田幸三物語』(日本将棋連盟、1996年)にはこのときの升田の発言が次のように記されている。

 「えらそうなことばかり言うとるが、将棋は名人でも、その道の専門家から見りゃ、木村名人の知識なんかゴミみたいなもんだ」

 だいぶ趣が違うではないか。

 実はこの問答の前段には「豆腐問答」があった。
 昭和二十四年六月十六日に行われる「第2回全日本選手権 木村−升田」戦前夜の会食の席でのことだ。

 「やっぱり豆腐は木綿ごしに限るよ。この歯ごたえがなくっちゃあ、江戸っ子は」
 こう蘊蓄(うんちく)を傾ける木村に対し、「豆腐は絹ごしが上等と決まっとる」と升田は切り返して言い合いになったらしい。
 そして升田の「ゴミ発言」が出たのである。

 つまり、升田の言葉は、意訳するとこうなる。

 「将棋名人という権威を振りかざして他分野のことにまで偉そうなことを言いなさんな。その道の専門家から見ればあんたの知識なんぞはゴミ同然じゃ」

 従って、名人という地位(および木村という人間)がゴミのような存在だと言ったわけではない。
 ところが木村が、「名人がゴミなら君はなんだ」と返してきた。
 ここで話が屈折する。

 私のように気の弱い人間なら、「いえいえ、名人をゴミと言っているわけではありません。あなたの豆腐に関する知識のことを言っているんですよ」などと釈明するところだが、升田は「話の屈折」を知りつつ受けて立った。

 「さあね。ゴミにたかる蝿(はえ)ですか」

 かくして名人はゴミとなり、升田はハエとなったのである。
 話としてはこちらの方が断然面白い。

Pass

[3879] なるほど
さっちん (/) - 2014年09月16日 (火) 08時50分

いやー誤解してました

将棋なんてあってもなくてもどうでもいい物であって
そんな物の名人なんてゴミみたいなもの・・と解しておりました
伏線として豆腐問答があったんですね なるほど この方が話としてはしっくり来ますねぇ

升田発言は毒舌でありながらユーモアがあり真理を突いている
当時の木村 升田 大山を見てみると 最も人間味に溢れた棋士ではないかと思う

「強がりが 雪に転んで まわり見る」

 升田九段の内面を良く映していますね

Pass

[3886] 豪語篇(11)
まるしお (/) - 2014年09月17日 (水) 18時16分

「横歩も取れないような男に負けては御先祖様に申し訳ない」

―――米長邦雄

1990年1月から始まる王将戦を前にした発言
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 一九八九年度の王将戦挑戦者決定リーグを制したのは米長邦雄、当時四十六歳。
 南芳一王将(二十六歳)との七番勝負(1990年1月〜3月)を前に、主催紙に寄せたコメントがこれ。
 横歩取りを好まなかった南を挑発したのである。

 それにしても、米長の言語選択感覚は冴えている。秀逸と言う他ない。
 挑発と分かってはいても、「御先祖様」などという普遍的なものを差し出されると、人々はもう米長を憎むくとができない。
 さらには、将棋の対局に御先祖様を持ち出すことの滑稽の味。
 将棋大衆は見事に米長の側に引き寄せられてしまったのである。
 言葉の魔術が決まった。

 一方の南芳一、「黙して動かざること地蔵の如し」と評判だったこの地蔵が、なんと動いたのである。
 南は横歩を取ってしまった。

 結局このタイトル戦、四勝三敗で米長が奪取。
 南の心は如何ばかりであったか。

 しかし、この男もただ者ではなかった。
 よほど腹に据えかねたのか、まあそれは知らないが、翌年の挑戦者に名乗りを上げ、四勝二敗で王将位を奪還。地蔵の意地を見せた。

Pass

[3891] もうすぐ2年か
さっちん (/) - 2014年09月17日 (水) 19時34分

>米長の言語選択感覚は冴えている。秀逸と言う他ない

古より すけこましの類は口が上手い
 あっ これはこれは例えが悪うございました

確かに言語感覚は優れたものがありましたねぇ
講演で鍛えられたものなのか 口説き文句で鍛えたものなのか 
いやいや 受けの良い言い回しは天性のものかもしれません

代名詞となっている「消化試合でも全力で倒す」
この発言は氏の勝負哲学のように語られているが 単に受けを狙っただけでしょう
言葉だけが独り歩きして今日に至ったのではないかと下衆の勘ぐり


Pass

[3908] 豪語篇(12)
まるしお (/) - 2014年09月25日 (木) 21時45分

「大山名人の講演を聞く人の気が知れないよ」

―――木村義徳

中平邦彦「“負け犬”を自称する勝負師、木村義徳」(「週刊将棋」1999年6月23日号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 木村義徳は自らを「負け犬」と称して躊躇(ためら)うことがない。その木村が意気軒昂に語ったという。

 「将棋界は勝者の話ばっかりで面白くないじゃないか。勝者は思い上がって単純思考。敗者は反省するから複雑思考だ。私の本は全国の複雑な人達に捧げた。大山名人の講演を聞く人の気が知れないよ」

 木村がA級入りしたときは周りもびっくりしたそうだが、そのときに出した本が、『弱いのが強いのに勝つ法』(日本将棋連盟、1980年)。
 昇級後のA級リーグでは九連敗してB1へ逆戻り。これを周囲は「日帰り」と称したが、以後なんと十八連敗という大記録をつくってしまう。
 そしてそんなときに出版したのが、『ボクは陽気な負け犬』(KKベストセラーズ、1983年 )である。

 勝者の話などは巷の庶民には何の役にも立たない。それに比べたら私の話は世の人々に密着していて有益この上ない。――木村義徳はそう主張し、「陽気な負け犬」の生き方を示す。

Pass

[3912] 豪語篇(13)
まるしお (/) - 2014年09月26日 (金) 20時02分

「志の低い奴には負けたくない」

―――阿部 隆

中平邦彦「大志を燃やし続ける熱血漢、阿部隆」(「週刊将棋」1999年12月22日号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 中平邦彦が阿部隆と呑んだときの発言。
 熱血漢の阿部が熱く吠えたそうだ。

 奨励会入りから四段昇段までに三年七ヶ月。これは谷川浩司より二ヶ月短い。
 そんな阿部を周囲は「大器」と期待して見守っていたのだが、この一番というところで敗れ、1994年に「全日本プロ」で初優勝はしたものの、中平のこの記事執筆時点ではまだタイトル挑戦がなかった。

 「阿部君の目標はもっと高い。目指すはタイトルである。そのためにこの世界に入ったのだ」

 阿部隆が竜王戦の挑戦者として名乗りを上げたのは、中平がそう書いてから約三年後である。
 羽生善治との七番勝負は、最終局で阿部のタイトル奪取確実というところまでいったが、正着を逃して敗退。しかしシリーズは三勝四敗二千日手という大激闘だった。

Pass

[3914] 豪語篇(14)
まるしお (/) - 2014年09月27日 (土) 18時30分

「あっちは子供が十九人いるというのに、おれなんかたったの七人だけだ」

―――藤沢秀行(囲碁棋士)

藤沢モト『大丈夫、死ぬまで生きる』(角川書店、2012年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 藤沢秀行とモト夫人との間に生まれた子は三人(全て男)だが、秀行にはこの他に、「中野の人」との間に二人、「江古田の人」との間にも二人、合計七人の子がいる。(さらに、藤沢モトはこの書の中で、「わたしの知っている範囲では、子どもを産まなかった人が四人いました」と書いている)

 こんな秀行だが、その父はさらに凄かったらしい。
 父の名は重五郎。秀行は重五郎六十九歳のときの子である。母きぬ子はそのとき二十三歳。なんと四十六歳も離れた夫婦であった。

 むろん、きぬ子は後妻(最後の妻)で、最初の奥さんときぬ子との間にも、籍を入れなかった女性がたくさんいた。そしてそれらの女性と重五郎の間に生まれた子の数は、正確には分からないが、判明しているだけでも十九人だという。

 藤沢秀行はこんな父に強い敬慕の念を抱いていたらしい。
 と同時に、張り合ってもいた。

 「あっちは子供が十九人いるというのに、おれなんかたったの七人だけだ」

 こう豪語して平然としていたようだ。

Pass

[3915] 升田がNo.1 さんへ
まるしお (/) - 2014年09月27日 (土) 18時41分

 藤沢モト夫人のこの本によると、七人の子のうち女は一人だけで、これがいちばん下の「徳子」さん。
 外の子ではあるが、徳子さんはモトを「お山のお母さん」として慕っていたそうです。
 自分の結婚式にぜひ父秀行に出て欲しいと「お山のお母さん」に頼みに来るエピソードが書かれています。

 升田がNo.1 さんがアメリカでホームステイしているときに同居していたという「秀行の娘」はこの徳子さんでしょう。

Pass

[3916]
升田がNo.1 (/) - 2014年09月27日 (土) 20時38分

まるしお様

へー知らなかったです。情報ありがとうございます!
ぼっちゃり系の、気の強そうなお嬢様でした。
1970年。当時日本は70年安保の真っ盛り。
ロックアウトで大学は全く授業なし。私めは19才。彼女は幾つだったんだろう・・・?

Pass

[3917] これは謎じゃ!
まるしお (/) - 2014年09月27日 (土) 22時53分

 升田がNo.1さんへ

 1970年ですか!
 そうなると話は変わってきます。
 この著作の巻末に年譜が付いていて、それによると徳子さんが生まれたのは1975年です。

 となると升田がNo.1さんがアメリカで出会った女性は「謎の女性」ですね。
 本当に秀行の娘なのか、他の有名囲碁棋士の娘なのか……。

Pass

[3918]
升田がNo.1 (/) - 2014年09月28日 (日) 02時31分

まるしお様

ええええ〜!? ホームステイ先はサクラメントの
日系2世さんのお宅。確かMR.佐藤だったような。
しかし、聞き間違う筈はないと思うんですが・・・記憶に
はっきり残ってますし。「謎」ですね。
もしかして第8の子供ってことは!?

追記:秀行さんの妹?

Pass

[3919] 深まる謎
まるしお (/) - 2014年09月28日 (日) 15時40分

 藤沢秀行の妹ですか?

 確かに妹はいますが、1945年に父・重五郎が九十歳で亡くなっているので、まあ八十歳のとき(1935年)に生まれたと仮定しても、1970年にはこの妹さんも三十五歳になっていますね。(秀行は1925年生まれ)

 謎は深まるばかりです。

Pass

[0] 最大レス件数を超えました
システムメッセージ (/) - 2024年09月28日 (土) 15時13分

最大レス件数「100」を超えましたので、これよりレスは出来ません。

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場からおせち料理早期予約キャンペーン
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板