十思小学校校友会の掲示板です。入力された項目はすべて公開されます。
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横山和代さま。たったいま、あなた様のカキコ、拝承いたしました。大変遅くなりまして申し訳ございません。ところで、私事ですが、この11月23日に、満89歳になりました。それなりに元気で頑張っています。一応、毎日のように、face bookに書き込みを致しておりますので、是非ご覧になってくださいませ。以上、大橋新也 | ||
[63]2019年12月03日 (火) 10時12分 |
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見ました。 幼稚園、1年生〜5年生を十思小学校で、残りの一年を日本橋小学校で過ごしました。 クラスの人数は4人、そのうち女子は自分だけの1人。 大人になるまでの学生生活の中で、十思での7年間が一番残っています。 いまだに建物があることに感謝。 今は中央区に住んではいませんが、 十思湯、こんど行ってみます。 |
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[61]2016年10月22日 (土) 12時27分 | ||
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横山和代さま。たまたま、このsiteに只今久しぶりに接し、貴女様のカキコ拝見しました。先日、久しぶりに十思を訪れ、校庭のド真ん中にビルが建っているのを見て、吃驚しました。私事ですが、つい先日、満89歳の誕生日を迎えました。齢なりに元気です。Face Bookには、概ね毎日のように書き込んでおりますので、是非ご覧になってくださいませ。 | ||
[62]2019年12月03日 (火) 10時02分 |
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久しぶりに、このBBSを開いてみました。そして、気がつきました。何と、今年は、卒業してから満70年になるのです。随分と色々なことがございました。でも、こうして、BBSに書き込みが出来るなんて、とても有難いことだと感謝して居ります。齢は、満81才と四ヶ月です。 今しがた、送信しましたBBSですが、年数にミスタイプを発見しましたので、再度送りました。 前回の文書を削除しようと思ったのですが、Passが解らないために、削除完了できませんでした。失礼しました。 事務局の方で、削除して戴ければ有難いのですが・・・・。 |
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[59]2012年03月30日 (金) 00時37分 |
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久しぶりに、このBBSを開いてみました。そして、気がつきました。何と、今年は、卒業してから満50年になるのです。随分と色々なことがございました。でも、こうして、BBSに書き込みが出来るなんて、とても有難いことだと感謝して居ります。齢は、満81才と四ヶ月です。 | ||
[58]2012年03月30日 (金) 00時16分 |
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昭和11年、私の祖父(赤沢八郎)が32才で若くして亡くなった時、最後に勤めていた小学校です。 また赤沢八郎のことをご存知の方がいらっしゃれば当時の様子等お教えいただければ嬉しく思います。校友会のご繁栄をお祈りいたします。 |
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[57]2011年12月29日 (木) 15時09分 |
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2008年10月十思小学校近風景 Image 22 of 44 あまりの懐かしさに涙が出てきてしまいました。 ありがとうございます。 |
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[56]2011年11月28日 (月) 04時05分 |
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あの地震からもう2週間たちましたが、いかがでしょうか。震源地近くにお住みのかたもいらっしゃたのではないでしょうか。私の家も食器棚が倒れかなりの食器が壊れました。耐震構造になっていないマンションなので、かなり揺れたそうです。私は仕事で会社に居りましたが、経験の無い揺れに何も出来ませんでした。普段の心構えがいかにいいかげんなものかと痛感しました。連日ニュースで見る被災地の情報や原発の事など、人ごとではないと思っています。 | ||
[54]2011年03月27日 (日) 17時30分 |
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年表に載っている、第14代校長山崎英吉の息子です。 まだ幼稚園にも行っていないころ、父に連れられて行った記憶があります。 自分のアルバムを探したところ、ウサギの耳の帽子をかぶった幼い私が十思小学校の校舎内で写っている写真を発見しました。 その私も、62歳です。 夕日の勝鬨橋へ連れられていって、橋が上がるのを見たことも思い出しました。橋が上がる前に点く赤信号と、警告音が不気味でした。 |
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[53]2011年03月26日 (土) 22時21分 | ||
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書き込みありがとうございます。校長先生のご家族の方にもこのホームページを見ていただいてとてもうれしいです。お持ちの写真とは少し校舎の雰囲気はちがってしまったかも知れませんが、廃校になっても校舎が残っているのは私達にとっては幸運なことだと思います。このホームページも少しでも十思小学校に思い出のある方の輪が広がるために利用していただければ幸いです。また時々はこのホームページをご覧になっていただければとおもいます。 | ||
[55]2011年03月27日 (日) 18時08分 |
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さきほど、埼玉県の某学校関係者(090−540829301)からお尋ねの電話が参りました。あの大戦中、十思の五年生以下は、埼玉県にある次の二ヶ所のお寺さんに疎開していたとご返事いたしておきました。当時、私は、六年生でしたので、東京を離れませんでした。丁度、四年生の弟・隆雄は、あの三月十日の大空襲の夜は、東京に帰ってきて居りましたので、焼夷弾攻撃の恐ろしさにびっくりして防空壕で怯えていました。二年生の弟・敬三は、その時は、疎開先に居りました。従って、低学年の生徒は、空襲の恐ろしさは、全く体験しておりません。 さて、二つのお寺に疎開したと言う、そのお寺の住所と電話番号は、次の通りです。 埼玉県東松山市大字下野本662・曹洞宗「無量寿寺」0493−22−2628 埼玉県東松山市大字柏崎341・曹洞宗「萬松寺」0493−22−1369です。 さて、疎開した生徒は、たとえ疎開先に農家が沢山あるとは言え、それなりに栄養はうまくゆきわたりません。従って、蚊やその他毛虫などに刺されて、それがオデキとなり、みな苦しんで居りました。そんな時、私の父が見るに見かねて、我が家に備品としてあった、「ポータブルの太陽灯」を携えて、ほとんど毎週の様に、東上線の電車で通いつめ、オデキに太陽灯を照射して、平癒させて居りました。十分の医薬品がなかった当時ですから、それぞれの父兄保護者から大変感謝されました。以上を先ほどお問い合わせを戴いた方にお伝えいたしました。 尚、折角こう言うチャンスを戴いたので、私から双方のお寺さんにお電話いたし、改めて、当時お世話になった事のお礼を申し上げました。現在の住職は、当時の御前様のお孫さんに当たられるとのことでした。また、両方のお寺さんは、本院と末寺と云う、俗に言う親戚寺の関係だとのことでした。 |
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[52]2010年07月17日 (土) 17時01分 |
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掲示板からHPに戻った時にも閲覧回数は増えるようです。 |
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[51]2010年05月09日 (日) 04時40分 |