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タイトル:「66回忌に当たる今日、3月10日」 投稿者:大橋新也(昭和17年卒)
「66回忌に当たる今日、3月10日」
(あれから丸65年もの年月が過ぎたのだ。年回忌にすれば66回忌になる。)


昨夜から私の両足が奇妙に重く感じた。自然に私の手が両足のふくらはぎから爪先まで、マッサージをする。非常に重い感じと言うか、気だるいのだ。
そこで、風呂に入れば、いくらか回復するかと、風呂のボイラーに点火。待っている間に、散らかっている机の上を整頓すること凡そ20分。

コンピューター音声による「お風呂が沸きました」が聴こえた。

やおら、風呂に入り、のんびりと身体を温めながら、再びマッサージ。

その間、ふと頭をよぎった。「そうだ、今夜は、あの恐ろしい3月9日だ!!」

その当時のことが瞼の裏に、まるで白黒の映画でも観ているかの様に再現されたのだ。何故か、燃え上がる炎だけが赤くメラメラと見えるのだ。周囲は、その炎の色に照らしだされて焦げ茶色的な黒一色。

私は、昭和5年生まれだから、その時は、五年制中学の三年生の最後の月だ。
二年生になると同時に学徒動員令によって、軍属の資格で、陸軍の糧秣廠に徴用され、四つのクラス全員が勤務していた。沖縄作戦の後方支援で、糧秣を100トン程度の木造貨物船に積載する作業に錦糸町の南の小名木川河畔の岩塩の倉庫と芝浦の岸壁にある日用品の倉庫と両方掛け持ちの荷役をしていた。日々直行直帰で、学校そのものは、もぬけの殻である。

まともに中学の勉強をしたのは、一年生の時だけであった。だが、その一年と言う間、毎日一時間の軍事教練は欠かさない。小銃や軽機関銃の操作を学習し、実弾射撃の訓練は、当時、上野の帝室博物館(現、国立博物館)の裏の松林の中で行った。身体に重装備をなして、匍匐前進は、本当に苦しい教練であった。

さて、話を前に戻そう。例の3月に入ると、陸軍の糧秣廠の本廠は、芝浦から大宮に引っ越すと言うので、その月は、自宅待機の命令が下された。要するに、本土決戦に備えて、糧秣は、陸の奥地に引っ越すと言うのであった。

これを聴いた私達は、今年は、本土が沖縄と同じになる。海に面した所は、みんな艦砲射撃を食らって焦土と化す。市街地ではあちらこちらで、激戦が繰り返される。と、その様に心の中に秘めて、覚悟を決めていた。

もしも、それを口に出したとき、憲兵や特高警察などに聞かれたら、その場でしょっ引かれてしまうので、誰一人として口には出さなかった。

3月9日の陽が暮れて、間もなく、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。大急ぎで、我が家の玄関先に設えてある防空壕に飛び込んだ。

間もなく、B29の爆音が空一杯に鳴り響いた。その音の響きの凄まじさは、それまでに感じたことのない極度に大きなものであった。

ズシン ズシン と言う音が、まったくしない。これは正しく焼夷弾だな??と防空壕の中で、そう読み取った。高射砲の音も静まり、あたりが鎮まった。
おそるおそる防空壕から外に出た。吃驚!! 真っ暗の筈の空が茜色のなって、
辺り一面、まるで、夕方の様な明るさになっている。

西南方向は、日本橋から錦糸町辺りだが、丸で溶鉱炉のルツボを見る様に真っ赤に染まってあちこち火柱が上がっている。

これは大変だ!! しかし、非常線が張られているので、そこに飛び込んで多少なりとも救援に行くことができない。

そうしている内に、真っ黒に煤だらけになって、徒歩で、こちらに避難してくる大勢の人達の行列を見た。足立区や埼玉の草加方向に続く道は、そう言う人達で一杯になった。

夜が開けるのを待って、私の父と、すぐ隣の町、小菅町に住んでいる叔父と二人が、罹災地にいる伯父と伯母と従姉の安否を気遣って出かけて行った。
しかし、それは空しく終った。一家全滅である。

焼け跡は、真っ黒こげになった死体の山である。日本橋の小伝馬町にある「十思公園」は、急ごしらえの火葬場と化した。身元調査もしないままドンドンと運ばれてくる死体を山に積んで、油をかけて火が放たれ、連日火葬が始まった。

その公園に隣接している私の出身の「十思小学校」、それと日蓮宗の「身延別院」と「叢雲別院」などは、何故か焼夷弾が落ちて来なかったので無傷であった。他は、殆ど焼けてしまった。

この罹災の生々しい現場を、時の天皇がご視察なさると云うので、軍隊が出動して大急ぎで、ちらばる多くの死体をトラックに積んで、この十思公園に運び入れて荼毘に臥したと言うことが間もなくわかった。

要するに、天皇は、自動車の窓から、すっかりと片付けられた罹災地をすーっとドライブ遊ばされたと言うに過ぎないのだった。

従って、ドライブのコースから外れている処には、いつまでも真っ黒く焦げた死体が沢山転がっていた。

私達は、それを跨いで、再び、錦糸町と芝浦と両方にある陸軍の糧秣廠へと通勤を開始したのであった。

明日は我が身! と覚悟をしていたので、死ぬことには決して恐れを感じていなかった。

さて、話を今の時点に戻そう。

夕べ風呂の中で、自分でよくマッサージをしながら、かれこれ一時間も長湯をしてしまったのだが、その御蔭で、今朝は寝坊してしまった。気がついて時計を見たら九時である。

だが、その目が覚めるまでは、長い時間、夢を見ていたのだ。

どこか判らぬが、高い山の山頂付近にある大きな神社の様でもありお寺の様でもある所にお詣りして、また下山している。そんな夢であった。

ゆっくり朝食をとりながら、考えていた。「戦時中は、お国のために命を捧げた人の魂は、全て神様となって行く云々」。その様に教えられていた我々日本国民は、全てそれに疑いをもたなかった。

「想念はものを創り出す」と言う考え方が心に定着すると、それが集団となれば、そのエネルギーは、相当に大きなもので、思いの世界の中に、偉大なる神殿が出来上がってしまう。

要するに、挙国一致、国民全員が同じ思いになったとき、その総合想念のエネルギーは意識の世界に、壮大な仮想の大神殿を造ってしまう。

英霊達は、男女を問わず、戦場で死ねば、みな魂達は、そこにいってしまうのだ。その魂たちには、本当の意味の悟りと言うものは全くないと、その様に思った。そして、今朝は、夢の中で、その大神殿とやらを往復したと言うことになる。そして、今、私は、これまでの経緯を、このWordに認めている。

これが、あの3月9日から翌日10日にかけて、死んで行った人達の魂の、66回忌の私よりの心ばかりの追善供養の一端となれば幸いである。

いかなる理由があっても、戦争はしてはならない。

以上 2010年3月10日 正午。大橋新也(満79歳翁) 書


http://db1.voiceblog.jp/data/zodiac189/1201441122.mp3

[46]2010年03月10日 (水) 13時35分
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