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タイトル:目次の色 投稿者:ssk27
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又、気になってカウントを見ましたら、719で 1日あたり1.60でした。
気がついたのですが、見ているページの目次の色が変わっていないので、topページに居ながら目次のtopページをクリックしてしまいましたら、カウントが上がっていました。
カウントが上がるのは何処のページにいても、目次のトップページをクリックすると上がるようです。
[50]2010年05月09日 (日) 04時33分
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タイトル: 投稿者:ssk27
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久しぶりに十思のHPを見ました。
どのくらい見られているか木になったからです。
途中からですが、下記のとおりです。


年月日--カウント読み--期間日数--期間カウント--期間日当り--累計日あたり
H21.12.24--590--------7---------15------------2.1 --------2.14
H22.1.6----600-------13---------10-----------0..8---------0.76
H22.1.12---606--------6----------6-----------1.0----------1
H22.1.25---627-------13---------21-----------1.6----------1.61
H22.5.4----711-------99---------84-----------0.8----------0.84
表が表示できなかったので、削除しようとしたらパスワードエラーになりましたので書き直しました。
[49]2010年05月05日 (水) 01時35分
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タイトル:閲覧回数 投稿者:ssk27
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久しぶりに十思のHPを見ました。
どのくらい見られているか木になったからです。
途中からですが、下記のとおりです。


年月日カウント読み期間日数期間カウント期間日当り累計日あたり
H21.12.245907152.12.142857143
H22.1.660013100.80.769230769
H22.1.12606661.01
H22.1.2562713211.61.615384615
H22.5.471199840.80.848484848
[48]2010年05月05日 (水) 01時21分
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タイトル:「66回忌に当たる今日、3月10日」 投稿者:大橋新也(昭和17年卒)
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「66回忌に当たる今日、3月10日」
(あれから丸65年もの年月が過ぎたのだ。年回忌にすれば66回忌になる。)


昨夜から私の両足が奇妙に重く感じた。自然に私の手が両足のふくらはぎから爪先まで、マッサージをする。非常に重い感じと言うか、気だるいのだ。
そこで、風呂に入れば、いくらか回復するかと、風呂のボイラーに点火。待っている間に、散らかっている机の上を整頓すること凡そ20分。

コンピューター音声による「お風呂が沸きました」が聴こえた。

やおら、風呂に入り、のんびりと身体を温めながら、再びマッサージ。

その間、ふと頭をよぎった。「そうだ、今夜は、あの恐ろしい3月9日だ!!」

その当時のことが瞼の裏に、まるで白黒の映画でも観ているかの様に再現されたのだ。何故か、燃え上がる炎だけが赤くメラメラと見えるのだ。周囲は、その炎の色に照らしだされて焦げ茶色的な黒一色。

私は、昭和5年生まれだから、その時は、五年制中学の三年生の最後の月だ。
二年生になると同時に学徒動員令によって、軍属の資格で、陸軍の糧秣廠に徴用され、四つのクラス全員が勤務していた。沖縄作戦の後方支援で、糧秣を100トン程度の木造貨物船に積載する作業に錦糸町の南の小名木川河畔の岩塩の倉庫と芝浦の岸壁にある日用品の倉庫と両方掛け持ちの荷役をしていた。日々直行直帰で、学校そのものは、もぬけの殻である。

まともに中学の勉強をしたのは、一年生の時だけであった。だが、その一年と言う間、毎日一時間の軍事教練は欠かさない。小銃や軽機関銃の操作を学習し、実弾射撃の訓練は、当時、上野の帝室博物館(現、国立博物館)の裏の松林の中で行った。身体に重装備をなして、匍匐前進は、本当に苦しい教練であった。

さて、話を前に戻そう。例の3月に入ると、陸軍の糧秣廠の本廠は、芝浦から大宮に引っ越すと言うので、その月は、自宅待機の命令が下された。要するに、本土決戦に備えて、糧秣は、陸の奥地に引っ越すと言うのであった。

これを聴いた私達は、今年は、本土が沖縄と同じになる。海に面した所は、みんな艦砲射撃を食らって焦土と化す。市街地ではあちらこちらで、激戦が繰り返される。と、その様に心の中に秘めて、覚悟を決めていた。

もしも、それを口に出したとき、憲兵や特高警察などに聞かれたら、その場でしょっ引かれてしまうので、誰一人として口には出さなかった。

3月9日の陽が暮れて、間もなく、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。大急ぎで、我が家の玄関先に設えてある防空壕に飛び込んだ。

間もなく、B29の爆音が空一杯に鳴り響いた。その音の響きの凄まじさは、それまでに感じたことのない極度に大きなものであった。

ズシン ズシン と言う音が、まったくしない。これは正しく焼夷弾だな??と防空壕の中で、そう読み取った。高射砲の音も静まり、あたりが鎮まった。
おそるおそる防空壕から外に出た。吃驚!! 真っ暗の筈の空が茜色のなって、
辺り一面、まるで、夕方の様な明るさになっている。

西南方向は、日本橋から錦糸町辺りだが、丸で溶鉱炉のルツボを見る様に真っ赤に染まってあちこち火柱が上がっている。

これは大変だ!! しかし、非常線が張られているので、そこに飛び込んで多少なりとも救援に行くことができない。

そうしている内に、真っ黒に煤だらけになって、徒歩で、こちらに避難してくる大勢の人達の行列を見た。足立区や埼玉の草加方向に続く道は、そう言う人達で一杯になった。

夜が開けるのを待って、私の父と、すぐ隣の町、小菅町に住んでいる叔父と二人が、罹災地にいる伯父と伯母と従姉の安否を気遣って出かけて行った。
しかし、それは空しく終った。一家全滅である。

焼け跡は、真っ黒こげになった死体の山である。日本橋の小伝馬町にある「十思公園」は、急ごしらえの火葬場と化した。身元調査もしないままドンドンと運ばれてくる死体を山に積んで、油をかけて火が放たれ、連日火葬が始まった。

その公園に隣接している私の出身の「十思小学校」、それと日蓮宗の「身延別院」と「叢雲別院」などは、何故か焼夷弾が落ちて来なかったので無傷であった。他は、殆ど焼けてしまった。

この罹災の生々しい現場を、時の天皇がご視察なさると云うので、軍隊が出動して大急ぎで、ちらばる多くの死体をトラックに積んで、この十思公園に運び入れて荼毘に臥したと言うことが間もなくわかった。

要するに、天皇は、自動車の窓から、すっかりと片付けられた罹災地をすーっとドライブ遊ばされたと言うに過ぎないのだった。

従って、ドライブのコースから外れている処には、いつまでも真っ黒く焦げた死体が沢山転がっていた。

私達は、それを跨いで、再び、錦糸町と芝浦と両方にある陸軍の糧秣廠へと通勤を開始したのであった。

明日は我が身! と覚悟をしていたので、死ぬことには決して恐れを感じていなかった。

さて、話を今の時点に戻そう。

夕べ風呂の中で、自分でよくマッサージをしながら、かれこれ一時間も長湯をしてしまったのだが、その御蔭で、今朝は寝坊してしまった。気がついて時計を見たら九時である。

だが、その目が覚めるまでは、長い時間、夢を見ていたのだ。

どこか判らぬが、高い山の山頂付近にある大きな神社の様でもありお寺の様でもある所にお詣りして、また下山している。そんな夢であった。

ゆっくり朝食をとりながら、考えていた。「戦時中は、お国のために命を捧げた人の魂は、全て神様となって行く云々」。その様に教えられていた我々日本国民は、全てそれに疑いをもたなかった。

「想念はものを創り出す」と言う考え方が心に定着すると、それが集団となれば、そのエネルギーは、相当に大きなもので、思いの世界の中に、偉大なる神殿が出来上がってしまう。

要するに、挙国一致、国民全員が同じ思いになったとき、その総合想念のエネルギーは意識の世界に、壮大な仮想の大神殿を造ってしまう。

英霊達は、男女を問わず、戦場で死ねば、みな魂達は、そこにいってしまうのだ。その魂たちには、本当の意味の悟りと言うものは全くないと、その様に思った。そして、今朝は、夢の中で、その大神殿とやらを往復したと言うことになる。そして、今、私は、これまでの経緯を、このWordに認めている。

これが、あの3月9日から翌日10日にかけて、死んで行った人達の魂の、66回忌の私よりの心ばかりの追善供養の一端となれば幸いである。

いかなる理由があっても、戦争はしてはならない。

以上 2010年3月10日 正午。大橋新也(満79歳翁) 書


http://db1.voiceblog.jp/data/zodiac189/1201441122.mp3

[46]2010年03月10日 (水) 13時35分
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タイトル:クラス会の情報をお知らせ下さい 投稿者:事務局
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クラス会の情報をお知らせ下さい。最近やったクラス会の情報、例えばお店の名前や料理などの内容、会費など、クラス会の場所探しをしている幹事さんにそんな情報を教えてあげて下さい。ホームページ内にコーナーを設けて紹介していきたいと思います。
[45]2010年01月29日 (金) 23時47分
Pass
タイトル: 投稿者:事務局
返信する
今年の校友会の写真はただいま準備中です。今しばらくお待ちください。
[44]2009年11月18日 (水) 01時20分
Pass
タイトル: 投稿者:大橋新也 (昭和17年卒)
返信する
今は、存在していませんが、私達が十思に入学した頃、日本橋の袂に「日本橋生花市場」がありました。うる覚えですが、小舟町だったと思います。実は、去る10月21日(水)に、その市場に多少なりとも縁をもつ生花屋さん達が55人乗りの大型バスを借り切って、千葉県の小湊・誕生寺にお詣り致しました。その中に、私も参加しました。同じ、十思や隣の常盤などの卒業生も居られました。その時の模様を別途下記のURLでご覧いただけます。
何せ、私達は、下駄履きのまま、三越や高島屋や白木屋を闊歩した口です。それから、皆さんは、覚えていらっしゃいますか、神田の駅の前、中央通沿いに、二階建ての「松屋」デパートがあったのを・・・・。後に、住友銀行かなんかになった様でした。
http://hanagaku_hozon.rakurakuhp.net/


以上。
[42]2009年11月15日 (日) 01時36分
Pass
タイトル:確か「坂東妻三郎」も十思の大々先輩だと聞いて居ります。 投稿者:大橋新也 (昭和17年卒)
返信する
あの往年の名映画「無法松の一生」の主演「坂東妻三郎」も十思の卒業生だとずっとずっと聞かされて参りました。しかし、彼の生まれは、確か、新宿牛込辺りだと思います。父親は堀留近辺の「木綿問屋」の主だそうですが、きっと、彼は、お店から通学していたのではないでしょうか。しかし彼の年齢から推すと、尋常小学校と言われた時代です。そんな古くから十思が存在していたのでしょうか。この辺の処、どなたかお詳しい方がいらっしゃいますでしょうか。
[41]2009年11月14日 (土) 22時26分
Pass
タイトル:戦後の芸能界で大活躍したソロバン片手の「トニー・谷」をご存知の方、いらっしゃいますか、十思の大先輩です。 投稿者:大橋新也
返信する
戦後の芸能界で大活躍したソロバン片手の「トニー・谷」をご存知の方、いらっしゃいますか? 実は、彼は、小学校が、私よりも13歳も大先輩なのです。
その小学校と言うのは、東京の日本橋小伝馬町にある「十思小学校」です。
「トニー・谷」と言う芸名でしか知られていないので、十思の卒業生であることは、ほんの知る人ぞ知るということです。彼の本名は、大谷正太郎です。かなりの苦労人で一生を終えたのです。

では、彼について、少しくお伝え致しましょう。

トニー 谷(とにー たに、1917年10月14日 - 1987年7月16日)は東京出身のヴォードヴィリアン。本名、大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。
リズムに乗りソロバンを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。短めのオールバックにちょび髭、吊りあがったフォックスめがね(ロイド眼鏡)がトレードマーク。
トレードマークの様なフレーズは、「さいざんす、さいざんす」。即ち「左様でございます」
を圧縮して、「サイザンス」です。

芸能界時代は本名すら偽っており、「谷 正」という名を本名として名乗っていたのでした(後年、東京都大田区新井宿の自宅表札では「多仁」と表記)。
家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されているのでした。
東京市京橋区銀座に生まれ、東京市日本橋区小伝馬町に育つ、小学校は同じ町内にある「十思小学校」。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。
子供のころは下町で有名なソロバン塾"大堀塾"でソロバンを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校(現東京電機大学)に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。
そのため、家を出て自活を開始。1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。1938年、召集令状が来て近衛歩兵1連隊に入隊。1940年に除隊して第一ホテル東京(新橋)に就職。ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、時には自ら出演して人気者となった。1942年に最初の妻と結婚したが、1ヵ月後に再度出征。その妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になっている。
終戦まで一兵卒として南京や上海を転戦したと伝えられているが、現地で除隊して上海やシンガポール、マニラ、香港でバンドマンやナイトクラブの経営者をしていたという言い伝えもあり、この時期のトニーの行動は詳らかにされていない。
捕虜収容所生活を経て1945年12月に復員。1946年11月、事務員としてアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場。終戦後GHQに接収されていた)に就職。主に大道具の仕事をこなし、やがて伊藤道郎の元で演出助手として「ミカド」の上演にかかわる。2年後、日本に進駐軍のアメリカ赤十字クラブが開設され、ここに引き抜かれて進駐軍相手の慰問芸能団編成の斡旋に関わり、有名芸能人とのコネを築いた。パン猪狩(ボードビリアンで日本の女子プロレス創設者。ショパン猪狩の兄)とは兄弟分の仲だったという。
1948年3月、赤十字クラブで知り合った女性と再婚。しかし勤務をサボタージュして内職の司会業に精を出している最中、スポットライトの加熱による失火事件が起き、その責任を問われて赤十字クラブを解雇される。同年6月、東宝渉外部に転職し、日劇ダンシングチームなど出演者の起用を行っていた。「トニー」という名はこの時外人出演者[1]によってつけられたあだ名である(姓の「大谷」を略した。タニー→トニー)。
トニーは芸人になった時、以上の過去をすべて封印した。有名人になった後、少年時代の遊び友達から「正ちゃん!」と呼びかけられても「人違いでしょう」と平然と答えた。軍隊時代の戦友から訪問を受けても門前払いを食わせて「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴られた。継父と二人の妹から自宅に訪問を受けても、「かねて申し上げてある通り『過去のどなた』ともお付き合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば訪ねてもこないのに。重ねて申しあげます。一切お付き合いしません。楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」と冷然と拒絶した。
と、まあかくも複雑窮まる運命を辿ったと言うことです。

[39]2009年11月10日 (火) 23時28分
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タイトル:小伝馬町の「花慶」さんのこと。 投稿者:大橋新也
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私自身、商売柄、「花慶」さんには、以前お引き立てを戴いたのですが、確か、初代社長は十思の卒業生だと思います。現在は二代目が社長ではないかと思います。
処で、菅原君は、「花慶」さんとご入魂でいらっしゃいますか?

それから、貴殿は、330A地区で、国際会長をお勤めであったと漏れ伺って居りますが、色々と当時のエピソードなどお聴かせ下さいませ。
[37]2009年10月19日 (月) 20時47分
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