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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[6345] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第255回
信徒連合 - 2017年01月02日 (月) 08時26分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第255回


マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************





西田哲学との比較に於ける人間論 <その二>




『人間死んでも死なぬ』P.345−363

<<神は、斯くの如く「肉体の我」を否定し、自覚の上で我を置き換えてしまった後は人間によって容易(たやす)く摑まるべきものなのである。否、斯く「我」を置き換えてしまう限り、神が人間のうちに生き、人間が神の内に生きていて寸分も隙間のないものである。

神と人間との乖離(かいり)は人間を土の塵で造りて、これに生気(いのちのいき)を嘘入(ふきい)れたと観ずる人間の二元観から来るのである。(創世記第二章)それが西田哲学であるとして瀧澤克己氏の説明せるが如き、「土の塵」なる人間と同時に「神の子」なる人間との非連続と云うような“ややこしい考え方”は、この二元的人間観の矛盾をなんとかして一元化した考え方に置き直したいところの、一元化に対する人間の先天的の要請の発露であると観られる。

其処に実在即現象・現象即実在、土の塵即神の生命と云うような、相反するものの同自性を強いても主張せんとする努力があり、「我の置き換え」以前の<肉なる私>によって摑まれない実在が、摑まれると主張しなければ落ち着けないために、「摑まれないものが摑まれる」と難解な言い方を使わねばならないのは、「摑まれない」のは旧我によって摑まれないのであり、「摑まれる」と直観されるものは「我の置換(おきかえ)」後の我――<新我>によって“のみ”摑まれるのである。

「人新たに生まれずば神の国をみること能わず」とヨハネ伝第三章にあるが如く、<新我>即ち物質ならざる「神の我」――<我に宿る神>のみが神を摑むのである。

 西田哲学では病気は治らないそうである。尤も哲学は病気を治すために存在するものではないから西田哲学で病気がなおらないにしても、生命の實相哲学によって病気が治るにしても、それによってその哲学の価値を云為(うんい)すべきではないかも知れない。

併し、一つの哲学によって病気が治らず、他の哲学によって病気が治ると云う事実について何故然るかの理由を探究して見ることは、それらの哲学の性質を一層明瞭にし、それらの哲学を明瞭に理会する助けとなるに違いはないのである。

 西田哲学に於いて病気が治らないのは、(その他の哲学に於いても同様の場合も多いが)物質なる我(土の塵なる我)を<有る>ものとし、それを他の<有るもの>「神の生気(いのちのいき)」と平行的又は非連続的存在と認めて、その非連続的なものを一つに連続せしめようとして努力を重ねているからである。

例えば茲に“病める肉体”が現れているとすれば、その“病める肉体”を、神によって造られたる否定すべからざる存在であると観ずる。それは肉体であるが故に、消耗(しょうこう)し、病み、憔悴(しょうすい)し、産みの苦しみを味わい、苦しみて食を得なければならない。斯くの如く神は人間を造ったのであり、斯くあるべきよりほかにありようのないのが人間なのである。

斯くの如きが人間の神によって掟(おき)てられたる運命である。神と云うが如き全能者によって掟てられたる人間の運命はただひたすら受けるほかに道はないのであるから、此れ等のことは逃れるべき道はない。人間は苦しむほか仕方なく、病むほかに仕方がない――斯くの如き不完全なるところの我をそのまま肯定するほか道がないのである。

かく観ずるとき病を否定する何の努力もあり得ない。西田哲学では病のなおらないのは当然である。

 而も、不完全なる此の人間の物的半面を、そればかりをそのまま受け忍ぶことの出来ない人間は、不完全でありながらもそれの奥にある完全なる自分、物質の如く見えながらもそれの奥にある物質でないところの自分。有限であるが如く見えながらもその奥にある無限なるところの自分を何となく直観し憧憬(しょうけい)せずにはいられないのである。

乃(すなわ)ち「一歩一歩永遠なるものに触れ」て行かずにはいられないのである。斯くの如くして不完全にして同時に完全であり、物質にして同時に物質でない。有限にしてどうじに無限であるところの永遠の自分、病みながら病んでいないところの円相の自分を我々は直観によって一先ず把握することはできるが、病んでいない自分も、病んでいる自分も、物質である自分も、物質でない自分も、それがともに神につくられたものであると観ずる限り、その矛盾せる二つの自分を、同時に優劣なく併置的に肯定するのであるから、かかる西田哲学からは病の否定は出て来ないし、病の否定の出て来ない哲学である限りに於いて、その哲学では病気が治ると云うこともないのである。


仏教の哲学――特に般若の哲学は『般若心経』にある通り「老死無し」の哲学である。「老死無し」と云うのは、単に「老死」だけが無いと云うのではなく、生老病死の四苦のうちの老死だけを代表的に引き出して来て「老死なし」と云ったのであるから、「生老病死なし」の意である。従って般若経は「病無し」の哲学であり、病むところの眼耳鼻舌身意さえも無しの哲学である。だから般若経では古来病気の治った実例がある。

瀧澤氏の解する如く、西田哲学は、「眼耳鼻舌身<有り>」の哲学であろうか。「私のもの、私の身体、否一片の塵と雖(いえど)ももと神の創れるものなるが故に」と瀧澤氏は言う。(同書P.8末行−9)これならば無論「眼耳鼻舌身<有り>」の哲学である。神の創れるものは実在なるが故に、一片の塵も、凡(すべ)ての物質も実在だと云うのが瀧澤氏“の云う”西田哲学である。(私は西田博士の原著全部は渉猟していない)

物質が実在であるならば、物質が結核と云う形をなしているのも実在であると云わなければならない。また物質が癌と云う形を成しているのも実在であると云わなければならない。総括して言えば総ての病気は実在であると言わなければならない。ここには病の消滅する原理はあり得ない。実在は消滅し得ないからである。

若し西田哲学の全貌が瀧澤氏の要約紹介せられた如きものであるとするならば、西田哲学は私の生命の實相哲学とは似て非なるものであることを感ずる。それが似ていると言われるのは、「今此処にあると云うことは、永遠なるものにふれている」(同書P.10)と云う種類の直観であろう。

今生きていると云うことは、久遠の<いのち>を生きていると云うことである。今と久遠とのこの不思議な結合、物質の自分だと見えているけれども実に永遠の霊性が自分であると云う物質と霊性との不思議な結合、(『生命の實相』の到る所に)そう云う相反するものの相即的直観それが似ていると云うのであろうと思う。

 今、私は生きている。今、久遠を生きているのである。哲学とか云う、そう云う「学」ではなしに、今、如実に素直に茲に私は<久遠のいのち>を生きていることを直観するものである。此の場合に云う「今」とは過去、今、未来と相継起する時間的流れを超越せる「今」である。<時間は無い>のである。過去、現在、未来を超越する「今」が<ある>だけである。「今」と言うも「久遠」と云うも、そのままでは実在の、即ち神の、存在の“み”懐(ふとこ)ろの中に融け込んでいる自覚である。

「今」と云うと、瞬間を感ぜしめ、「久遠」と云う永き連続を感ぜしめるけれども、そう云う意味の「今」ではない。常に「今」であり、「超時」の今である。私は「超時」の“中”に生きているのである。否何人も「超時」の中(うち)に生きながら、時間の流動的投影面にその「超時」の存在を或いは永く或いは短く影を映しながら「時間」なるものを有るが如く感ぜしめているに過ぎないのである。

 また何人も「超時」の中に生きながら、空間的静止的投影面にその「超時」の存在を或いは大きく或いは小さく影を映しながら自分を空間的物質的存在だと思わしめているに過ぎないのである。だから、時間もなく空間もなく、時間的自分も空間的自分もないのである。ただ「超時」の存在があるだけである。

斯くの如き超時の存在が本来有りもせぬ時間的空間的存在を、殊更に自己を限定して現していることを、西田哲学で「永遠の今の自己限定」(瀧澤氏の本P.10初行)と云うのかもしれない。或いは却ってそうでないかもしれないが、言葉は迷わせるものであるから、どうであるかも知らない。若しそうであるならば西田哲学は私が『仏教の把握』なる本に書いた無明縁議論に似ている。(谷口雅春著『仏教の把握』P.246)

 兎も角、私は<超時>の「今」に立っているのである。また何人も<そこ>に立っているのだけれどもそれに気付かないだけである。そこは空間的静止的投影と時間的流動面的投影とが相交叉せる未剖分の「今」であるから、そこには空間もなく、時間も無い。空間がないから、空間的ひろがりを成している物質は無論なく、時間がないから、時間の流れの中に不断に変化流転する「我」もなく「心」もない。「無我、物質無、而して心もない」と生命の實相哲学で云われるのは、斯かる超時的実在の中に立った自覚の時にのみ言い得る言葉なのである。

かく、時間も<なく>、空間も<ない>超時空的「今」に立って観ずるとき、時間も空間も共に一点として「今」の中に交叉して<ある>。併しそれはもう時間とも空間とも呼ぶことは出来ない。時空の<ない>と<ある>とは交叉し、物の<ない>と<ある>とは交叉している。斯くの如き生長の家的自覚から、西田哲学の「時間即空間・空間即時間」「実在即現象・現象即実在」「絶対の無即有」と呼ばれる概念が来るのであろうかともおもわれる。(瀧澤氏の本、P.3・7)

若しそうなれば斯かる考え方の中には生命の實相哲学(以下、谷口哲学と呼ぶ)と西田哲学とは極めて近似するものがあり、或いは殆ど同一であろうとさえ思われる点があるのである。

 しかし、如上の相反するものを「即」を以って結び合わす西田哲学の諸概念のうちから「実在即現象・現象即実在」を一例にとり来るならば、西田哲学と谷口哲学とは極めて類似しながら、極めて微妙の点で著しい相異を結果しているのではないかと思われるのである。

現象即実在と云う言葉は仏教の中でも見出し得る言葉でもあるが、(法華経、諸法実相)谷口哲学では「現象無し実在“のみ”<有る>。」と云い、(『生命の實相』第24巻の質疑篇)<ある>ものは<ある>、“無い”ものは“無い”とハッキリ区別せよと云い、<ある>ようで“ない”ようで有無曖昧(あいまい)不明の概念を持っていると、その哲学が実際生活に生きて来る力がないと云う。(『生命の實相』第19−20巻・自伝篇)

また現象は投影(かげ)であると云い、投影(かげ)は<本来無い>のだと云い、<本来無い>ものは<全然無い>のだと云い、肉体は現象であるから投影(かげ)であり、投影(かげ)は鏡面の映像如きものであるから、<映像は本来無い>のであって、従って<全然無い>のであって、<実物の人間だけが本来有る>のだと云う。現象と実在とは映像と実物の人間とが“相即”の関係にあると云う意味に於いて谷口哲学に於いても「現象即実在」とも言い得られるのであるが、それは現象と実在とは相即の関係を有すると云うだけのことであって、<現象そのもの>が実在であると云う意味でも、実在そのものが現象していると云う意味でもない。

谷口哲学はただ実在(あるもの)“のみ”が<有る>と云い現象は実在に対して映像(かげ)の関係にあるのみであって何処までも、現象は実物では無いと云う。若し現象<そのもの>が実在であると云うのであるならば、肉体即人間・人間即肉体と云わなければならないが、谷口哲学では「肉体は人間に非ず」(谷口雅春著『甘露の法雨』)と截然(せつぜん)として肉体を抹殺し去る。ここに<本当の人間>または<真の人間>と云う術語が案出され、「真の人間は物質に非ず、肉体にあらず」(前同)と云われているのである。

ここに仮に「本当の人間」又は「真の人間」と云う言葉が案出されたけれども、「真の人間」に対して「現象の人間」とか「ニセ物の人間」とかが<ある>と云うのではない。あるものは唯実在のみである――此のことが谷口哲学の特色を構成して居る。現象の人間を私は「偽存在(にせもの)の人間」と書いたことがある。それは<ある>かの如く見えているけれども偽存在であるのである。偽存在とは「無い」ということの別名にすぎない。「悪人は無い」「病気は無い」「罪悪は無い」と云うような一切の悪及び不幸に対する否定的自覚は其処から来るのである。

私と雖(いえど)も現象的にあらわれている世界に悪人や病気や罪悪が見えぬのではない。刑務所には明らかに罪人がおり、病院には明らかに病人がおり、無辜(むこ)の善人が苦しめられているような罪悪の<あらわれ>をも現実社会に見る。けれども私はそれを<あらわれ>と見るのであって、<有るもの>としては見ないのである。而(しか)も実在そのままの<あらわれ>とは観ないで、実在の歪められたる<あらわれ>と観る。それは凹凸激しき鏡面に映っている映像の如きものであって真実の人間を遠ざかること甚だしき姿なのである。(『生命の實相』第八巻・観行篇)

だからどんな悪人の中にも私は仏をみる。(『法華経』常不軽菩薩品)空間の何処(いずこ)の一点を捉えて見ても、時間の何処(いずこ)の一点を捉えて見ても、時間も空間も本来無しと打ち消してしまったとき、其処はそのまま「超時の今」であるが故に、そこには必ず実在がある。そして実在は神の造り給いしもの(真如縁起)であって至美至妙の完全円満なものであるが故に、私は五官の眼をもって明らかに罪人を見ながら、<彼の実在>(真にある彼)を見る眼を以って彼が神の造り給いし神の子であって善人であることをみる。

又五官の眼を以って彼が病み且つ傷ついている現象(あらわれ)を見ながら<彼の実在>(真にある彼)を見る眼を以って彼は健康であって決して病んでいないことを見るのである。生長の家に於いて、悪人はない、病人はない(『生命の實相』第一、二巻・實相篇)と云う所以はかかる理由によるのである。

「人間は死なない久遠不滅の存在である」と云うのもかかる理由によるのである。谷口哲学に於いて現象即實相が物質界即實相の意義に解せられず、物質は<無い>から、そんな不自由な邪魔者があるように見えても其処にそのまま<完全自由なる實相>があることを体得する。即ち、吾々の坐禅的修行であるところの神想観に於いて、五官の眼を閉じると直ちに「自分の座っているのは實相の世界である」と観ずるのは、(『生命の實相』第八巻・観行篇)實相の世界(即ち実在界)が遠いところにあるのではなく、肉体が茲にいるところの<此処に其の儘>実在界が存在することの体得を意味しているのである。

ここに其の儘、実在界を体得し、悪人と見ゆる人の<其の儘に>善人を体得し病人と見ゆる人の<其の儘に>健康なる理念(神の子)人間を体得する。されば現象其の儘の相が實相であると云う意味では、諸法実相(現象即実在)ではないけれども、現象そのまま<に於いて>實相の十全完璧なる実在を観ると云う意味にて諸法実相なる語が、新しく親しき意味をもって吾らの人生に帰り来るのである。

十全完璧なる世界及び人間は、現象を避け又は現象を克服しなければ其処に無いのであろうかと思われていたのが、現象は映像であって<ある>ように見えても<本来無い>のであるから、吾々は現象肉体の衣裳を纏(まと)いつつ、また「死」と云う現象によって現象肉体の衣裳を脱ぎ捨てるともこのままで十全完璧なる世界と人間とを生きていることを体得する。

吾々は此の自覚に立つとき無限の心安さを覚えるのである。悪人に対して憎むことなく礼拝することも出来、病気を現していながらも、病気はないのであるから病気に捉われることなく、自分が久遠無病の理念(神の子)人間であることに感謝し、その生命を悠々生き楽しむことが出来るのである。

この無限の安らかな感謝と、平和と、楽しみ生きる心境との中に、自ずからなる病気の治癒も起こるのである。「神の子無病」の人間的自覚は、斯くの如く人間の肉体的方面の存在を否定して、人間は神の子なり、霊的実在なり、理念的実在なりと肯定することによってのみ可能となる。<即ち、真理(キリスト)の如く肉体的な存在を磔殺(クロス)することによってのみ人間は復活することができるのである。>

吾々生長の家の人々はこんなに此処に生きていながら「肉体は無い」と云う。此れは自覚の上で肉体を磔殺するのであり、創世記第二章にある人間の「土の塵」(アダム)的部分の抹殺である。

瀧澤氏の云うが如く人間を創世記第二章的見方をしてエホバによって造られたる土の塵であると観ずる限り「人間存在の根本的自己矛盾は、唯我々がアダムの子であるという一事にある。我々が創造せられた物でありながら創造者に背き、この土地が我々の罪の故に呪われたる土地であり、我々が額に汗して働かなければならないのみならず、結局に於いて絶対に死を免れないものであるという一事にあるのである。」(瀧澤氏の本P.122)>>

斯くの如く人間存在の根本的自己矛盾が、神に仍(よっ)て創世の設計の初めからされたるものであると観るとき人間は結局救われ難きものとなるのである。斯くの如き救い難さは神の理念(イデア)なるものと、それに反(そむ)く肉体なるものとを、共に実在なりとして、同じ強度(インデンシティー)を以って結びつけ、「土の塵+神の生気(いのちのいき)」を「人間」と観じようとする瀧澤氏の空しき努力にあるのである。

斯くの如き矛盾せるものを人間の中に実在として肯定する限り、人間は永遠に救われない。これが真に西田哲学であるならば、私はその名声と「今、此処にあって永遠に触れている」等の私の哲学に似ている哲学を説く人として尊敬措(お)く能わざる人であった西田幾太郎博士に対する尊敬が幾分減ぜざるを得ないのである。

人間を土の塵で造ったと云うエホバ神の如きは、決して創造神ではないのである。(『生命の實相』第11−12巻・萬教帰一篇)彼はユダヤの原始民族の迷信せし風雨雷霆(らいてい)の神であり、後にユダヤ民族の守護神として尊敬され、更に進んでは創造神と間違え崇められて、創世記の第二章以下に頑張っている神であるが、創世記第二章は、神の“真の”人間創造を説いたのではなく無明縁起を説いたのである。「土の塵」で創造(つく)ったと云うのは、創世記第一章に於いて神の理念(コトバ)によって造られ、善なる神の肖像(にすがた)として造られ、甚だ善しとエロヒム神の賞(ほ)め給うた<本当の人間>を蔽い隠す「無明」に過ぎない。エホバ神は「無明縁起」の法則の人格化として立つのである。(『生命の實相』前記巻・萬教帰一篇)

無明より縁起した者は悉く無常のものであり、儚(はかな)いものであり、苦しみであり、楽園追放である。このことに就いて創世記に間違いはない。併し「無明」は人間ではない。達磨が慧可(えか)に言ったように<無明は無いのである>。人は水が濁ったと言いうけれども、水は未だ嘗て一度も濁ったことは無いのである。濁っているのは塵埃(じんあい)だけである。水が濁っていると見えるのは一種の錯覚に過ぎない。

それと同じく人間が神の理念(いのちのいき)であると同時に、神に反(そむ)ける「土の塵」であるところの濁り水のようなものであると云うのは一種の錯覚に過ぎないのであって、「真の人間」はただひたすら神の理念(コトバ)であり、神の肖像(にすがた)であり、従って初めから完全なるものであり、神が「甚だ善し」と賞(ホ)め給うたものであり、(創世記第一章)未だ嘗て「土の塵」で汚されたること無きものであり、蛇の知恵に瞞(だま)されたること無きものである。

そして真の水のみが実在であるように、真の人間のみが実在であるのである。神は決して人間を瞞(だま)すところの蛇などを創り給う筈もないし、そう云う瞞(だま)すところの危険な蛇などが棲んでいる世界は楽園ではないのである。

若し、瞞(だま)すところの蛇を神が造ったのであるならば、原罪とはアダムに非ずしてその悪しき蛇の造り主なるエホバ神に在るのである。斯くては、原罪はエホバ神に投げ還されるのであるが故に、瞞(だま)す蛇がエデンの楽園に創造(つく)られてあると云う考えを抱くということは、結局、瀧澤氏の神に対する敬虔な信仰を裏切るところの涜神的(とくしんてき)な考えとなるのである。

西田哲学が斯くの如きものならば人間存在の根本矛盾を神に帰する涜神的(とくしんてき)なるものである。生命の實相哲学では、「土の塵」を人間とするところの無明、瞞(だま)すところの蛇を以って表象される無明は<本来ない>と云うのである。無明なきが故に、原罪も<無い>。原罪なきが故に、原罪を贖(あがな)うところのキリストの磔殺は肉体の否定に過ぎない。

無明アリと思い、土の塵アリと思い、瞞(だま)す蛇アリと思うのは實相と仮相とを混淆して共に存在であるとする思い違いである。

仮相はいくらアルが如く見えようとも實相とはならないのである。人間の根本的矛盾と苦悩とは斯くの如き實相と仮相との混同より来る。キリストはその磔殺によって仮相の抹殺を教えた。キリストは神の子即ち理念(ロゴス)であるが故に磔殺され難きものである。(ヨハネ伝第一章)

磔殺されたのは仮相であり、「土の塵」であり、「偽存在(にせもの)の人間」である。仮相が抹殺されたが故に實相が顕現し、「土の塵」が抹殺されたが故に「神の生気(いのちのいき)」なる真の人間が生き、「仮存在(ニセモノ)の肉の人間」が十字架につけられたが故に「真の人間」が復活したのである。

これがキリストの復活であって、その復活によってキリストは創世記の第二章の「土の塵の人間」を抹殺すれば本当の人間が顕現する事を教えたのである。キリストが「十字架を負いて我に従え」と言ったのは「肉の人間」を<偽存在の人間>として存在の自覚から抹殺し去ったとき、ここに此の儘神の理念であるところの「真の人間」を見出すと言ったのである。

此の消息はヨハネ伝第二章にキリストがニコデモに対して「肉より生まるるものは肉なり」と言った言葉に見出される。「土の塵」より生まるるものは依然として「土の塵」であるほかはない。人は新たに生まれなければならないのである。新(あら)たに生まれるとは一度土の塵に還ってもう一度生まれ更わって来ることではない。

「霊によって生まれる者のみ霊である」(ヨハネ伝第三章)吾等はすべからく「土の塵」から「霊なるもの」へ転生しなければならないのである。我等は「土の塵」と「生気(いのちのいき)」との二元的存在から、「土の塵」なるものを抹殺し、「物質的肉体的存在なる自覚」を磔殺にかけて消去した時にのみ、キリストと共に復活し転生するものである。

斯くの如くしてのみ人間存在の根本矛盾は解決されるのである。斯く「土の塵」的人間の一面を<無し>と断固として十字架につけた時にのみ、キリストと共に人は天国に転生するのである。併し、斯く物質的一面を自覚の世界で抹殺し去るならば、もう物質的空間と、それに関係してある時間の超えがたき隔たりは共に消える。此処は此の儘「<超時の今>」として此処が此の儘天国であり、此処に此の儘その人は天国に転生しているのである。

換言すれば此処が天国浄土となる。法華経の寿量品に「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして」である。在る人は私の此の「生命の實相」哲学によって、病気が治り、運命が好転したと云う。事実を見ない者は何か譎詐(きっさ)ででもあるかのように思う。キリストは真理であり、生命であり、道であり、復活であるが故にキリストの足跡の及ぶところの斯くの如き奇蹟が伴っている(新約聖書)。

現代のキリスト教が奇蹟を伴わないのは、レッテルがキリスト教であるけれども中味がキリストの教え其の儘ではないのである。キリストは「土の塵」なる肉体的部分を人間から抹殺して、霊の人間として転生すべきことを教えたのである。新訳聖書を私のヒントに従って読んで見ればその事がハッキリ判るであろう。そして転生した人には奇蹟が起こっている。

名前の知られている人で例を挙げて見れば歌人で学習社の社長である西村陽吉氏の如きはその一人である。同氏は「土の塵」なる物質的人間から、朽ち果つることなき霊の人間にまで、私の『生命の實相』を読むことによって転生したのである。すると突然近眼が治り、豪酒家であり同時に毎日多量の煙草(たばこ)がなければ生きられなかった氏が、突然酒が飲めなくなり、煙草を不要とするに至った。以前「土の塵」であったところの氏は眼鏡に頼り、煙草に頼り、物質の奴隷であるほかに生きられなかったところの奴隷的存在であったのである。

今や氏は「肉体本来無し」の自覚の上に立って「土の塵」的部分を人間から抹殺し<霊なる>自主的存在として転生したのである。氏は人相までも変わってしまった。仄(ほの)かに聞けば、氏は現在では煙草を奴隷的立場(何事によらず、それが無くてはならないようになったとき人は、そのものに隷属し、そのものの奴隷となったのである)でなしに、、楽しむと云うような立場に於いて、少量の煙草に無限の楽しさを感ずる様になったと云うことであるが、氏が「生命の實相」に触れて以来の自覚の転生と、それに伴う実生活の転生と健康の転生と、境遇の転生と、近頃までの経過と、------そのほか折に触れてものした諸々の随筆とをまとめて『いのちの自覚』と題して其の頃厚生閣からでたのであった。出版に先立ちて私の序文を求められたが、氏の尊い転生体験記に私が序文を書いた為に、其の書が私の『生命の實相』を宣伝する出版であるなどと間違える人があっては氏の尊い体験記を涜(けが)すことになると思うので序文を書くことはお断りしたのである。

兎も角、西村氏のみならず、人間の物質的存在方面を自覚の上から抹殺した人には異常なる奇蹟が現実に伴っている。哲学が単なる理性や思索の遊戯である時代は終ったのである。実際生活を、境遇を、肉体を、実際改変するような哲学を現代はもとめて覓(もと)めているのである。而(しか)しその為には、今迄絶対優強性をもって人間の精神力の上に君臨していた物質なるものの存在を、一度「無」にまで貶黜(へんちゅつ)して、悟りの精神力をもって此の物質世界を支配する方法を学ばねばならないのである。私はこの問題の詳細については全集『生命の實相』を読んで頂くことを希望するのである。




(7)
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