【広告】Amazonから最大10%ポイントアップ新生活応援セー日開催中

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[6371] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第257回
信徒連合 - 2017年01月04日 (水) 09時17分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第257回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




無生物と生物との境 



結晶体の生成と有機体の生成との比較(『生命の謎』P.56−59)

すべての存在の根元は一つの生命であるから、無機物も有機物も、ともにその生命の顕現として「生きている」のである。いわゆる「生物」と「無生物」との区別は常識ではわかっているような積もりでいるけれども、それほどはっきりしているものではないのである。

無生物もそこに「知性」が現れているということは鉱物の結晶体の生成の順序を見ると明らかである。結晶体は生まれ、成長し、生活し、分裂し、増殖し、化学薬品によって、又は電気的ショックによってその成長を停止し「殺す」ことができるのである。結晶体の生成及び生活現象の研究にはプラスモロジ(Plasmology)といわれる語が現れている程であるのである。プラスモロジーの研究者の中には、結晶体相互の間には原始的状態の「性の芽生え」と云って好いような徴候さえも発見されるといっているのである。まことに無機物と云われるもの、結晶体の生成は、たんなる死せる分子の機械的集合ではないのである。

 或る結晶体を形成するための塩類の原液があるとする。(簡単なものは食塩水でいいのである)そこから結晶体が形成せられるありさまを観察するならば規則正しく、知性によって分子が順次、列(なら)べられるかのごとく、あたかも或る一定の設計図があってその設計図の通りに配列せしめられて行くかの如く一定の形が形成せられて行くのである。

それは恰も動物の肉体や骨が、或いは植物の幹や皮が生成される場合、その養分の分子を「生命」が積み重ねて一定の有機的組織の姿に形成して行くのと同じ状態なのである。かくして結晶体は小なるものより大なるものに到達し、たんにそれが成長するばかりでなく、ある程度に達すればそれが分裂し枝を出し丁度植物が成長し、枝を出し葉を繁らせる状態に全く同一なのである。この様な状態は天然水晶の生成の状態を観察すれば明らかにわかるのである。

 植物の成長と結晶体の成長との相異は、結晶体はその養分たる分子の供給が概ね外から行なわれるのであるけれども、植物はそれを内から吸収して内部から成長して行くということである。然し先にのべたるある金属の塩類より生ずる茸状の結晶体の如きは、内部にそれが増殖するための分子を運ぶための血管のごとき管が生じて内部から増殖して行ったのである。ここに到っては結晶体の生活と植物の生活とは殆ど全く分ち難き程同一であるといわなければならないのである。

 1949年1月号の日本版「リーダーズ・ダイジェスト」には、米国イリノイ大学の物理学教授ジョージ・クラーク博士が煤(すす)の一片のレントゲン顕微鏡写真を撮影したる結果について記載されているのであるがそれは実に王宮の如き崇厳美麗なる建築構造を呈していたというのである。

煤(すす)は炭素の分子が外から沈着して行くのであるけれども、その分子の沈着する形を指導して行く所の知性がそこに潜んでいて、一々の分子の沈着して行く過程を指導していなければそんなことになる筈はないのである。

煤は結晶体といって好いかどうかわからないが、ともかく凡(あら)ゆる物質がある形をなしているのは、「内部知性」の創造力によるのであることがこれによって明らかであるのである。内部に知性があってある形をなしているのは「生きている」という外はないのである。煤は生きているのである。

 考えてみればすべての無機物は実は無機物ではなくして生きているのである。われわれの住んでいる地面は生きている鉱物の結晶体の破片で出来ていたり、生きている水で出来ていたりするのである。だから、そこから生命ある植物が生えてくるのも不思議はないのである。

色々の物質は皆生きており、その物質から人間の肉体が形成せられるのは、生きている物質が尚複雑に結合して一層高い有機体に結合したに過ぎないのである。




物体は生きていて特異の疲労感覚を示す。

(『生命の謎』P.59−62)


前章で、私は「鉱物も疲労し死す」ということを述べたが、鉄の一片も疲労し、ついにその刺戟に対する感覚反応が死するのである。それは鉄全体としての感覚が疲労し死するのであって、鉄の分子そのものは依然として生きているのである。即ちそこに“鉄全体の生命”と“鉄の分子の生命”と、二つの段階の生命があるということがわかるのである。

人間も疲労し、やがて死ぬとしても、人間を構成している分子は死なないのである。即ち「肉体全体」としての<生命>と、「分子、原子」の<生命>とは又異なる段階にあるものだということができるのである。

複雑な有機体になればなる程、色々の段階の「生命」が複合して形成せられているのである。人間は<分子>としての生命、<細胞>としての生命、そして全体が一つに統一された、<有機体>としての生命、更にその上に目には見えない<幽体>としての生命、<霊体>としての生命が複雑に複合して成り立っているのである。

 最近「生命」の人造説が或る一部で唱えられているのであるが、それは、「生命」が人造せられるのではなくして、生命は普遍的に到る処に潜在力として潜在するのであって、それが発現する条件がととのうた時にそれが生命として肉眼に見ゆる状態に現れて来るのである。

例えばそれはラジオの波は普遍的に空間に充ち満ちているにしてもラジオ・セットの条件が整った時にのみ感覚に触れるように現れて来る様なものなのである。条件がくずれた時は生命は姿を消すが生命そのものは滅するのではないのは、ラジオ・セットの条件がくずれた時にアナウンサーの声は姿を消すが、アナウンサーは死んだのではないようなものである。

 ともかくすべてのものは生きているのである。分子として原子として生き生きと活動しているばかりであなく、その結合配列の条件が整うと、一段上の「界」に存在する理念がそれに感応してきて、それが別種の結合体(細胞等)として一つに纏まった生物現象をあらわす。その細胞が適当な状態に結合すると、更にいちだん上の「界」に存在する理念がそれに乗り移ってきて、その細胞群全体が一個の犬とか牛としての生命現象が現れるのである。

 剃刀(かみそり)も疲労するといわれている。休息させておくと又切れるようになるのである。分子原子は疲労しないが、剃刀全体としての生命が疲労するのである。三味線の絃(げん)も疲労し遂に切断する。然し時にゆるめて休息させてやれば、それは長持ちするのである。着物も疲労するのである。「繊維が“くたびれる”」という言葉があるが、毎日同じ着物を連続的に着るよりも、時に休息させながら二三種類の別の着物と交代する様にすれば長持ちするのである。

 吾々の使っている道具も生きているのである。それにはある精神がこもっている。正宗の名刀、村正の名刀、貞宗の名刀等-------その作者の精神に類似の「刀の魂」が籠もっていて各々刀の性格を異にするのである。機械も家も生きているから、使わずに放って置くよりも可愛がって使う方が長持ちするのである。

家は空き家で置く方が早くがたがたするようになるし、農具も使わずに放置し置くならば、使う時よりも一層多く破損するのである。同じ紡績機械でもこれを拝んで使う様にするならば同じ原綿を使いながらも斑(むら)のない良質の糸ができるのである。




生ける結晶体に就いて

(『生命の謎』P.62−63)


鉱物もかくの如く生きているのであるが、鉱物の結晶体と生物との中間的存在ともいうべき「生ける結晶体」と云われるものがある。それは全く結晶体の様に幾何学的な形をしているものである。硅藻(けいそう)といわれるものはその一種である。此れは硅素のごく小さな貝殻の如きものに包まれている膠(にかわ)状のごく微細な一滴にすぎない生物なのである。それは唯顕微鏡のみによって見ゆる所の存在であり、ビンの先に数千個を同時に列(なら)べることが如きという程の微小体にすぎないのである。然も、これが生きているのであって、成長、栄養、生殖------その他、生物としての萬搬の生理的活動を続けるのである。
 
いわゆる黴菌(ばいきん)といわれるものに到っては、それは植物に属するだけに鉱物よりも一層はっきりと植物的な生活現象を現しているのである。然し鉱物・生ける結晶体・それから黴菌と列(なら)べて見ると、その境目は殆んどはっきりしないのである。鉱物が乾燥状態に多年の間おいても変化しないと同じ様に、この小さき生物は長期間の乾燥に耐えて又水分の補給を受くれば復活して活動状態に入るのである。




器官なき微生物の生活現象

(『生命の謎』P.63−68)


 黴菌(ばいきん)と極微単細胞動物との区別は殆んどはっきりしないのであるが、単細胞動物は黴菌よりもハッキリと“動物的”な運動をなすということである。たとえばモネラというものがある。モネラはヘッケルの『宇宙の謎』という書に大分詳しく書かれているが、ただ一個のゼリー状物質の一点の如きものであって、何等の器官をもそなえていないのである。どんな器官をも備えていない其のままで運動栄養感覚分裂その他も生活現象を完全に営むのである。

それは全体が胃袋だということもできるのである。それは同時に全体が感覚器官だということもできるのである。それは口唇をそなえていない。然しそれが食物の存在を感覚すると、その体の一部が伸びて手の様になって相手を捕捉するのである。すると全体が口の様になって全身で相手をたべてしまうのである。そしてその捕捉した食物を消化するのは全身が胃袋になるのと同じことなのである。それは何等の内蔵器官も備えていないのであるけれども「働き」をもっているのである。

彼の脳髄も感覚器官も消化器官もそれは「形の世界」には無いけれども形の“奥の世界”(理念の世界)にもっているのである。「理念」は「組織」に先行し、「組織」を作り出し、その「組織」を駆使して目的をとげるのである。吾々は必ずしも器官の組織の複雑さによって「知り」「消化し」「生活する」のではないのである。「生命」というものは組織が複雑にならなければ活動できないものではなく、「生命」は組織の奥に組織を自由にあやつり乍ら、組織の足りない所を凡ゆる手段によって補って行く力をもっているものなのである。

 ある科学者はこの小さきモネラの内側を外側に、外側を内側へと、靴下を引っくり返すように翻転(ほんてん)してみたと云うのである。それにもかかわらず、此の小動物は我れ関せずえんとしており、なんらの傷害をも受けずに前同様に生活を続けることができたのである。組織がないのであるから裏も表もないのである。モネラを尚一層小さき断片に切断すれば、その一々の断片がそのまま一個の生物として生活する。そしてある一定の大きさに達すれば、それは中がくびれて二つに分裂して増殖する。

 ヘッケルはモネラについて次の様にいっている。――
 「モネラは最も簡単なる単細胞動物である。単に何等の組織なき柔らかき可塑的成分によってなりたっている。如何にもっとも完全なる、最も強力なる顕微鏡をもってその組織を観察するとも全体の組織が完全に一様であって、何等の機関をも有たないのである。だからモネラは器官なき有機体と文字通りにいうことができるのである。モネラは全然何らの器官も有たず、色々の細胞の複合体でもないから厳重なる哲学的意味に於いても有機体ということはできないのである。唯それが有機体だといい得るのは栄養、感覚、生殖及び運動というが如き生物としての有機的現象を行なうことが出来るからに過ぎないのである。」

フェルヴォルンはアミーバの生活現象について興味ある観察を報告しているのである。アミーバの一種なるデフルージャ・アンプラという小動物は極く微細なる砂を以って小さき貝殻状のものを造って、その中に生活しているのであるが、それが子供を産むと、自ら細長き触手の様なものを出して海底にある微細な砂の粉末を求めてその子供に着せてやるのである。それは触手によって砂の分子をつかみ、その子供の体にその砂をふりかけて殻(から)の様に砂を以って被覆するのである。

フェルヴォルンは砂の代わりに非常に濃い色彩をもっている色硝子(いろがらす)の微細なる分子を入れて、その中でこのアミーバを生活せしめて観察していると、やがてこの小動物の周囲に色硝子の分子が集結することがみられたのである。ややあってこの小動物は小さき膠(にかわ)状物質を母体から分離したが、(即ち子供を生んだのであるが)色硝子の微粉は親動物の体からその子供の体の周囲にそそぎかけられ、親動物の体より分泌せられる或る物質によってセメントの様にその硝子粉末を膠着(こうちゃく)せしめることがみとめられた。かくて分裂して生じたる小動物の殻によって包まれることが出来るのである。

以上の観察によって何がわかるかといえば、かかる単細胞の動物でもその子供の生まれるに先立ってその子供に着せてやる殻をまず用意して置いてから子供を生むということであり、そして如何なる物質がその殻を造るに適当であるかを見わける知能を持っているということである。

 フェルヴォルンの報告によればこの小動物が子供に着せてやるために、まず自分自身が集めた所の微細なる砂の分子の分量は、丁度その子供に着せてやるのに必要な分量であって決して少なすぎもしなければ、多すぎもしないということである。これがたんに膠(にかわ)状物質の唯の一滴にすぎない単細胞の小動物に於ける精神作用なのである。<細胞は生きているのである>。

人間を構成する多くの細胞もこのモネラやアミーバと同じ様に何を排斥すべきか、何を吸収すべきか、如何に外敵に対抗すべきか、如何に食物を捕捉すべきか等々のことをわきまえる所の知性を備えているのであって、その知性のゆえにこそ、吾々が食用したあらゆる物質の中から、必要な成分のみを吸収して不要の物質を排泄してくれるのである。

 多細胞動物に於いては、その細胞の知性(細胞生命)の上に細胞群全体を統率し全体を秩序整然たる一生命体に統一している、更に高級なる「生命」が宿っているということである。

その更に一層高級なる「生命」は、所謂る「本能」といわれるものであって、現在意識の奥にかくれていて、現在意識が自分で努力しないでも全体を統一して全体としての有機的生理作用を営ましてくれる所の「全体の心」である。即ちそれは頭脳の意識活動によって色々心配しないでも生理作用を順調に営ましてくれる所の「宇宙の心」の一部分であるのである。

然し、まだそれは生理作用全体を本能的に営むだけの心であって、人間の「自覚的中心」である所の個性意識というものはみられないのである。

 人間の「自覚意識」又は「個性意識」と云うものが肉体にあらわれて来るのは、本能的生理作用が整備されたとき、それを機関として自己表現を遂げ、色々の体験を地上で積み、それによって自己の生命を向上せしめ、より高き自覚に到達せんがために、「人間」なる理念的存在がその肉体に降下して来ることによるのであって、肉体が整備していても、「人間」なる理念的存在が欠如又は、眠っている時には、痴呆状態又は一種の小児麻痺の状態の如く、「人間」としての意識がハッキリ現れて来ないのである。

然らば「人間」なる理念的存在は何処より来り何処へ去るものであろうか。この深淵なる問題を解かなければ「人間」として地上に生まれて来た生き甲斐を真に自覚することは出来ないのである。



(5)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonから最大10%ポイントアップ新生活応援セー日開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板