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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6383] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第258回
信徒連合 - 2017年01月05日 (木) 09時04分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第258回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************



科学とは如何なるものか 



科学は多くの事実を観察して、その知識に基づいて、その諸々の現象を支配するところの一貫した法則を発見することによって成り立つのであります。

それは自然界の法則であっても、心の法則であっても同じ事であります。すべて体験的事実が<同様の条件の下に>置いて幾回でも例外なく再現される時そこに一貫した科学的法則があるというのであります。

即ち科学とは、目に見える所の事実を観察することによって、目に見える所の事実の背後にある所の目に見える変化を司っている所の「目に見えざる法則」を発見する学であります。

 自然界の法則は、自然界の事物を観察して発見し得ますが、心の法則は、心あるものを観察し同様の条件に於いて同様の結果が現れるという事実を確認して法則を発見するのであります。

そこで自ずからそれはわれわれの生命の研究となり、想念の法則の研究となり、我々が生きている所の宇宙と人間自身との関係の研究となり、世界又は宇宙が如何なるものによって造られているかの研究となるのであります。

心で病気が治るなどということを迷信であると考えたり、奇蹟であると考えたりする人も往々世間にはあるのであるが、それは決して迷信でもなければ奇蹟でもないのであります。

大体自然の法則を破ったという意味での奇蹟は物質の世界にも心の世界にも存在しないのであります。物質界も精神界も凡ては法則によって行なわれているのでありますから、超自然現象という様なものは存在しないのであって、それが超自然現象と見えるのは何れもそれを支配している所の法則を人間が未だ発見し得ていないために驚いて斯く呼ぶに過ぎないのであります。

 聖書に「何人も未だかって神を見しものなし。ただ独り子にのみ神を現わし給えり」とパウロが言っておりますが、それを言いかえると、なにびとも原因を見ることはできないのであって、吾々はただ結果を見るだけだということであります。

吾々は神の子なる人間であって、自分に宿っている所の神を見ることができないが人間は神の自己表現であって、ここに今神が生きているということを自内証の体験として知ることが出来るのであります。



 
如何にして「内界」は「外界」を見ることが出来るか 

(『神癒への道』P.32−36)

吾々の心が外界から印象をうけてそこに「あるもの」があると想念する、それはどうしてそういうことが可能なのであろうか。外界にあるものは「物」である。それをそこにあるとして感ずる所のものは「心」である。「心」がどうして「物」を感じ得るのであろうか。これは過去も現在も常に変わらぬ哲学上の大問題なのであります。

カントは吾々が物を感ずることができるのは、それが吾々の内部に直覚的認識力を目覚めしめるからであるという意味の事をいっているのでありますが、しからば如何にして吾々は自己の中に直覚的認識力を喚起し得るのでありましょうか。

吾々の中にその「物」を創造した創造者と同じ力が自分の認識する力となって宿っているからだといわなければならないのであります。言い換えれば、吾々の「心」の本質と、対象である所の「物」とが本来同質であるからであるのであります。即ち吾々の「心」の本源と「物」の本源とが本来同一物であるから波長が合うのである。そこに「認識(ものを認める働き)」という事が成り立つのだといわなければならないのであります。即ち「物」と見えているものも実は「生命の波動」であり、「心」と見えるものはも実は「生命の波動」であるのであります。

言いかえれば、「見るもの」と「見られるもの」とが一体であるからであります。もし観る心が存在しないならば、観られる世界も、存在に入ることはできないのであります。甲の人が赤い花を見る、そして「赤い」と感ずる。乙の人もその同じ花を見て「赤い」と感ずる。もし甲と乙とが全然別の「見る心」をもっているならば、一つの花を見ても同一に感じない筈なのであります。

疥癬(かいせん)の虫にとっては、人間の皮膚はトンネルのように見えるかもしれないのであります。ところが、人間には彼女が美人と見えるのである。「見る心」が異なればその様に見らるる姿が異なってくるべき筈でありますが、それがそのような結果を現わさないで、AなるひともBなる人も同一の花について同一の印象を受けるとするならば、AとBとは「同一の心」を共有するといわなければならないのであります。

かくの如くして類推して行けば、全人類は同一の「共通的心」をもっていると認めなければならないのであります。その人間共有の「一つの心」を称して吾々は「神」と呼ぶのであります。

パウロが聖書に於いて「彼の中に吾らは生き、動き、存在を保つのである」と言っているのはその意味を表現しているのであります。

メタフィジカル・ヒーリングに於いて、「想念者」が他の人の病気を治し得るのは、その根本原理がその宇宙には「ただ一つの心」が存在するのであって、「自分」が想念することは、「神」が想念することであり同時に「相手」が想念することになるという根本原理に基づくのであります。

「宇宙の心」は、宇宙に普遍的にひろまっているばかりでなく、吾々個々人の中に具体的個性精神として宿っており、そしてそれらが互いに感応交流することが出来るのであります。

この真理をキリストは「吾を見し者は父を見しなり」といっているのであります。これはイエスに於いてのみ真理ではなくして、凡(あら)ゆる人間において真理であるのであります。即ち、総ての人間はそこに神の生命が今生きているのである。法華経に於いて釈迦牟尼佛が「吾は百千萬億阿僧祇劫前から存在するところの者である」という意味をいっているのは、人間には神の「久遠の生命」が<今ここに>生きているのであって、人間の肉体が「おぎゃあ」と母の胎内から生まれた時に、人間の生命が始まったものではないという事を現わしているのであります。

この意味に於いてメタフィジカル・ムーブメントに於いては、キリストの生命も釈迦の生命も、われわれ個人の生命も、「ただ一つの生命」の顕現であると観るのであってそこから超宗派的若しくは無宗派的宗教運動になるのであります。

人類はこのような哲学的人生観になった時に於いてのみ、すべての人間が「ただ一つの生命」より生まれ出た所の兄弟であるという自覚から互いに相和し相愛することが出来るようになるのであります。

 この意味において、神はすべての事物の中に又すべての人間の中に存在し給うのであります。神はわが中に、彼の中に、又諸君の中に存在し給うのであり、吾々はそれを見ることはできないが、生命の体験としてそれを自覚することができるのであります。

それと共に、吾らをとりまいている所の環境もすべて「ただ一つの生命」がそれに想念の波を印象したことによって、現象界に浮び出て来た所の姿であるから、すべてそれは心的存在であり、吾々の「心」と互いに相感応して変化せしめることが出来るということができるのであります。

 だから、すべての人間の「心」と「心」とは、また「環境」と吾々の「心」とは、ただ「一つの心」にとりまかれている所の「同じ質の心」であるから互いに感応することができるのであります。吾々は必ずしも対話を交えないでも、相手の心を知ることができるのであります。何となく「虫が好く」といい「虫が好かぬ」と感じ、或いは「虫が知らす」というが如き感応が起こり得るのは吾々の意識の波が互いに交流しておって、本質が同じであるから互いに相互感応するのであります。

概ね何の成心をも持たず、先入観念をも持たずして最初に出会った時の第一印象というものは正しい判断を下すものなのであります。それは何故かと云うと、吾々の潜在意識が、利害関係や、相手をごまかすための「いいつくろい」によって掻(か)き擾(みだ)されないために、端的に相手の心の波を感ずることができるからであります。

吾々は又遠隔にいる人々に対して、善意の観念を起こすことによって相手と和解したりすることのできるのも宇宙の心はただ一つであり、吾々はその中に住んでいる所の互いに同一の心の波を有する所の神の子であるからであります。新選谷口雅春選集第二巻の『人間性の解剖』の中にも多くのかかる実例があり、あれを読むことによっていかに吾々の運命が吾々自身の「心」の感応によって変化するかが判るのであります。



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