[6487] 『AERA』の背教総裁<Cンタビュー記事を徹底して論駁します! |
- サーチャー - 2017年01月25日 (水) 08時52分
<谷口雅春先生に帰りましょう・第二> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『AERA』の背教総裁<Cンタビュー記事を徹底して論駁します! (4461) 日時:2017年01月10日 (火) 12時08分 名前:破邪顕正
これは、シリーズで書いてまいります。
@背教総裁≠フ言っていることは、少しも宗教家のにおいがしない!
インタビュー記事を一読して、まず感じたことは、「生長の家総裁」というのに、宗教家のにおいが全くしなかったということです。
何のことはない、単なる政治発言を述べているだけの記事でした。
第三者の一般読者も、きっとそう感じて、「こういう人がトップでいいの?」「生長の家、大丈夫?」そう思ったのではないでしょうか?
とりわけ、極めつけがこの箇所です。
《「それなら生長の家を捨てる」と離れていった人もいます。
肌感覚ですが、1割くらいはそういう人がいたと思います。》
如何ですか、この言い方。
「生長の家を捨てる」ということが、どれだけ、その人達にとって大きなことか。
これまで信じてきた信仰を捨てる、言うならば“棄教する”ということなのですよ。
そのことの重み、痛み、悲しみ、辛さというものが、背教総裁≠ノは微塵も感じられてはいない!
しかも、そういう人が1割にも達するというのに…。
今、生長の家教団は40万信徒と言われています。
その1割というのですから、実に4万人です!
4万人もの信徒が“棄教”したというのに、背教総裁≠ノは何の心の痛みもないのです。
しかも、それは今回の1割退会で済む話ではないのです。
今後、ますます退会者が続くと見ておいて間違いはない。
背教総裁≠ェ曲がりなりにも宗教家というのであれば、1割が退会したことを、もっともっと深刻に受け止め、自己反省するのが当然でありましょう。
ところが、この背教総裁≠ノはそういう感覚が全く欠如している、麻痺している!
もとより、私は背教総裁≠フことをそういう人だと思ってはいましたが、しかしアッケラカンと1割、4万人が退会したことを言い募る神経には、改めて、こういう人を総裁にして、生長の家は本当に駄目になるなと確信した次第です。
これが、如何に生長の家創始者・谷口雅春先生と違う感覚、感性であるか。
尊師と比べるのは、誠に恐れ多い、失礼なことと充分に弁えつつも、背教総裁≠フ宗教家失格ぶりを明らかにするために、敢えて、引用させていただく次第です。
《誌友への感謝の涙
静かに眼を瞑って全国の誌友を思い浮べる。
すると湧いて来るものは感謝の涙である。
新しき年の新生は国の新生と共に人間の新生すべき時である。
日本国はついに東洋一島国であると云う假相を脱却して、新しき自己を発見したのである。
そして諸君もついに自己が肉体であると云う仮相を脱却して、新しき自己──不死久遠の霊的実在としての自己──を発見したのである。
諸君は不死の人となり、わが国家も、不死久遠の国家である『實相』を呈露しました。
皆さん、本当に、本当に、お目でとう。
お目でとう。
再び静かに眼を瞑って全国の誌友諸君を思い浮べる。
そして諸君がまた新しき年も幸福であらんことを祈るとき、浮かんで来るのは、またしても感謝の涙である。
諸君がいてくれたればこそ世の多くの人々が救われたのである。
生長の家は私一人の事業ではない。
誌友なしには何事も出来なかったであろう。
(谷口雅春先生著『明窓浄机』発展篇)》
《一人の誌友が殖える毎に一人の我が子が出来たやうに喜ぶ
私は一人の誌友が殖える毎に一人の我が子が出來たやうに喜び、一人の誌友が去る毎に一人の我が子が死んだやうに悲しみながら、私は愛のいたましい勤行を續けて來たものである。
誌友相愛會を開いてゐて下さる諸君は、今、當時の私と同様な心の痛みを懐きながら、経済上の大いなる犠牲を拂いながらその尊い救済の手を隣人に捧げてゐられるに違ないことを信ずる。
何人がそれを知らずとも、私が知つてゐるのである。
『神』が知つてゐるのである。
そして自分自身がつづけて來た積善の善業が知つてゐるのである。
(谷口雅春先生著『明窓浄机』発展篇)》 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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