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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6860] <凡庸>と<傑作>との区別は 最後の仕上げの十パーセント如何にあるのである
サーチャー - 2017年04月11日 (火) 22時07分


<トキ掲示板(本流対策室/6)>


4852: トンチンカン :2017/04/11(火) 21:56:31 ID:IIMV1pVY

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<凡庸>と<傑作>との区別は 最後の仕上げの十パーセント如何にあるのである

「凡庸の唄」は・・ 明らかに「人間神の子・無限力」の教えに背反している!
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<谷口雅春先生に帰りましょう・第二>
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あなたは凡庸を創るか傑作を作るか£J口雅春先生のこのご文章を読めば、「凡庸の唄」は明らかに「人間神の子・無限力」の教えに背反している! (5799)
日時:2017年04月11日 (火) 18時12分
名前:破邪顕正


表題のご文章は、『理想世界』誌・昭和40年10月号に掲載されています。

「青年のための生活日訓」10月2日のことばとしてこうあります。

《どんな仕事に面しても、行き届いて観察し、仕事の隅々までも充分完全に見届けて、どんな欠点も自分の仕事には残さないというような心の習慣が、文士ならば傑作の名文を書くことの本になるのだし、音楽家なら傑作の作曲をし、微妙な旋律を、どんな些細な瑕瑾(きず)もなしに弾奏し得る名奏者とならしめる基礎となるのである。

最高の作品、最高の技術−−世界はそのような傑作を求めているのである。

凡庸と傑作との区別は最後の仕上げの十パーセント如何にあるのである。》


これを紹介したのは他でもありません。

とある教区では、退会を申し出た信徒に対して、その理由を書かせるように圧力をかけている…。

その内容というのが、谷口雅春先生と谷口雅宣総裁先生とどこがどのように違うのか、それを文書にして出せ…。

そう強要していると伺ったからであります。

こういう無理強いに対しては、所謂、逆質≠ェ最も効果的です。


谷口雅春先生と今の総裁とが同じ真理を説いているというのであれば、まずは、そちらこそ、その根拠を明示すべきではないのか。

そのように、教区幹部に問いただしたらいいのです。

誰がどう読んでも、この「凡庸の唄」が、谷口雅春先生の教えと同じであるなどとは、とても言えようはずがないからです。


もう一つ、その証拠を掲げます。

「凡庸の唄 (2)」にこうあります。

《凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。》


「一芸に長ずること」が何かマイナスであるかのようなこの「凡庸の唄」、『生命の實相』の教えとは実に真逆であります。

『新編 生命の實相』第12巻「生活篇」にかくあるからです。

《人間は天才を伸ばさねばならぬ。

又職業として独立するだけの知識は必要である。

だから是非とも一芸に通達することは必要である。》(26頁)


つまり、今の総裁は、明らかに谷口雅春先生の「人間神の子・無限力」の教えの否定に走っている、私はそう考えております。

谷口雅春先生のお説きになられた「人間神の子・無限力」の教えだからこそ「生長の家」と言えるのです。

「凡庸の唄」が好いという信徒は、もはや「生長の家」ではありません、「凡庸の家」とでも名乗るべきなのであります。


『ヨハネ傳講義』にこういうご文章があります(214頁)。

《外面はキリスト教でも、そんなイエスから離れた教会からは、断乎として離れてしまう方が、本当のイエスの御意(みこころ)だと云うことが出来るのであります。》

これをそのまま今の教団になぞらえればこうなるのではないでしょうか。


《外面は生長の家でも、そんな尊師から離れた教団からは、断乎として離れてしまう方が、本当の尊師の御意(みこころ)だと云うことが出来るのであります。》

「凡庸の唄」が出ても、それでも教団に残る信徒の皆さんに、ぜひ、ご一考いただきたく、拙文をしたためさせていただいた次第です。
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