[7605] 大東亜戦争は大東亜の解放を目指した |
- 不動明王 - 2017年11月07日 (火) 23時04分
1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。マッカーサー軍15万人に対し、日本軍はその3分の1にも満たない4万3000人。マッカーサーは余裕で撃退できると自信を持っていた。
しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、フィリピンの航空戦力を壊滅まで追い込む。その状況にマッカーサーは、「日本軍の戦闘機は、ドイツ人パイロットが操縦していた」と本部に報告するまで日本軍を低く評価していた。 ところがその日本軍の怒涛の進軍は止まらず、マッカーサーは侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになり、マニラ近くのバターン半島での防衛戦しか残された道はなかった。
小さい半島で大軍を抱えることになったマッカーサー。致命的なことに食料がなく、飢餓と疫病、そして連日の日本軍の猛攻に誰もが衰弱していった。「このままではマッカーサーが捕虜になりかねない」と見かねたワシントン側が、マッカーサーにフィリピン脱出を命じた。
悩んだ末の決断ではあったものの、司令官たる者が部下を捨て、なんと8万人以上もの捕虜を残して、マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった…
マッカーサーの父はフィリピンの初代総督で、彼自身もフィリピンで家族と生活し、フィリピン陸軍元帥に就任。第2の故郷とも呼べるような土地で、日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。しかもその汚点をつけたのは、彼にとって格下のはずだった「まさかの日本人」。
その胸をえぐるような悔しさを表した行動が、2年半後の1944年から見られる。 既に日本は大戦力を失い、サイパンも陥落。アメリカの参謀本部の提案は、無防備な日本本土を攻撃してトドメをさすか、日本軍が大軍を配置するフィリピンを素通りして台湾に侵攻するかだった。
しかしマッカーサーは、自分に大汚点をつけた日本人への恨みを晴らすために、自分の思い入れがある土地を奪還するためだけに、フィリピンへの侵攻を進めてしまう。
マッカーサーの復讐戦と恨み
その数、マッカーサー軍125万人に対し、日本軍40万人。出だしのレイテ沖海戦で日本海軍が大敗し補給路を断たれてからは、フィリピンの日本軍は完全に孤立した戦いに。どの戦いでも日本軍は敗れた。しかし食料も、武器も、弾も、清潔な水もないのに、敵に決定的な勝利をなかなか渡さない日本軍。 どれだけしぶとく最後まで戦ったかは、フィリピンでの日本兵の死亡数が十分に物語っている… 40万人いた日本兵のうち、戦死したのは34万人。負傷者も合わせたら無傷だった者はいない。ほぼ全滅になるまで、飢えと疫病にまみれながら、日本軍は徹底抗戦した。 これは、マッカーサーが逃走した先のフィリピンの戦いとは真逆。あのときのアメリカ軍残兵はほとんどが降伏して捕虜となっていた。抗戦状態も長引き、日本は補給もないのに終戦まで10ヶ月を耐えた。
フィリピン制圧後もマッカーサーの日本への恨みは収まらず、大汚点を付けられた時の指揮官・本間中将と、復讐戦時の指揮官・山下大将の2人を、弁護なしのリンチ裁判のような形で処刑に追い込んでいる。 山下大将はフィリピンで絞首刑にされたが、軍服の着用も許されず、囚人服のままの処刑だった。遺体は刑場付近に埋められたらしいが、現在も所在は不明。本間中将もその後銃殺刑にされたが、処刑日時は1946年4月3日午前0時53分。ちょうど4年前にフィリピンで、本間中将がバターン半島に籠るマッカーサー軍に総攻撃の命令を下したのがこの日時だった。
マッカーサーの大人げない執拗な恨みが、滲み出てると言うしかない。マッカーサーが見つけた日本人の弱点とは?
しかし、こんなに日本に恨みを持つ人物が、日本占領政策のトップに就任したとは、私たちにとって最大の不幸だったのかもしれない…。
マッカーサーは1941年からずっと日本人について考えてきた。いや、もっと前からかもしれない。マッカーサーは小さい頃父親と共に来日し、日本軍の英雄である乃木希典や東郷平八郎と会う機会すらあり、その生き方に感銘を受けた日本通でもあった。 そんなマッカーサーだからこそ、日本人の強みの原点は既に見抜いていた。 それは、日本人特有の精神文化、規律のとれた習慣、周りを思う道徳心。この強みこそ、日本人の弱点になってしまった。「これを奪うことが日本を再起不能にする。二度とアメリカに歯向かわない国にする」と確信したマッカーサーは、これを教育で徹底的に破壊することに力をいれる。
そのスピードは早く、占領開始から2週間もせず「国体」と「神道」の抹殺を命令、2ヶ月後には現行教科書の使用を停止、4ヶ月後には教育界やマスコミから都合の悪い人物を公職追放で駆逐、8ヶ月後には不適格な思想を持つ教職員を排除するための審査を開始。この審査にあたっては、全国130万人もの教職員が対象になった。そして1年後には、高等師範における英才教育の廃止なども行われている。
そして、明治より学校教育のベースになっていた「教育勅語」が、「軍国主義を生む」として捨て去られる。だが、それを学んできた私たちの祖父母、その親兄弟たちは、そんなに好戦的な恐ろしい人たちだったのだろうか?
さらに、同じく明治から日本が「欧米列強に牛耳られまい」と取り組んだ、日本的なイデオロギーや列強の研究などを扱った書物が、7千冊以上GHQにより葬り去られた。先人の叡智の結晶とも言えるものが、現代の私たちの目には決して触れないようになってしまった。
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