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O.L.作品置き場

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タイトル:亡くなっても消えない絆 アクション

――母亡き後、家族の繋がりは無残に解れ、緩んだ。すれ違いを繰り返す父娘の心。破られた約束を許せぬ子の心は、父に対する強い愛の裏返しだった。そんな少女を襲う、不幸な出来事。迫り来る娘の危機に、父はその身を呈して我が子を守る事が出来るのか!? そして、行き違う二人の思いの行く末は!? 第二作目にして、主役がもう脇役へ。でも良い味出してるから勘弁してね♪ 短編中最長作品となった、オリジナル第二作目は親子の愛を描いたハートフルなアクションモノ!

月夜 2010年07月06日 (火) 23時03分(22)
 
題名:亡くなっても消えない絆(第一章)

――もしもし。

「あ、お父さん?」

――なんだ、紗弥か。どうした?

「明日の約束……覚えてる?」

――……あ、あぁ……明日のことか。覚えているよ……。

「……帰って来れるの?」

――う……そ、それがな、紗弥……今日明日中に、どうしても片付けないといけない仕事が急遽入ってしまってな……ちょっと、今日も帰ってやれそうにないんだ……。

「……そう……」

――すまないな、紗弥…………来週! 来週なら、きっと空けられると思うから……。

「……この前も……おんなじこと言ってたくせに……」

――……ん? 今、何か言ったか? 良く聞こえなかったんだが……。

「……ううん。何でもないよ。それじゃあ、お仕事頑張ってね」

――あぁ。本当に悪かった。

「いいよ、気にしないで……それじゃ」

――チン。

受話器を下ろす乾いた音。
その場に立ち尽くしたまま、周囲を見つめる。
広がるのは見慣れた光景。
それは、生活するにおいて十分過ぎるほどに広大な空間だ。
隅に置かれた大きな机。
そこに散らばるペンと、互いに積み重なる数多の参考書。
見ているだけで、何だか無性に憂鬱な気分になってくる。
横に長い窓の下には、同じように長く広がるベッドがあった。
そこに敷かれた柔らかいシーツは、清潔感漂う純白一色で染められている。
左右に一台ずつ設置された本棚は、そのすべてを多種多様の本達で埋め尽くされており、空きスペース一つと見当たらない。
多種多様と先述はしたものの、そこに年頃の少女が読むような本は一切無かった。
あるのは経済学や心理学、機械工学やコンピュータープログラミング、果てには諸外国の小説や哲学書など、小難しいものばかりだ。
部屋の中央に位置する、丸形のテーブル。
きらびやかな水色のクロスが引かれたその上には、数輪の胡蝶蘭の生けられた花瓶が置かれている。
よくよく見ればその花瓶も、どこにでもあるような安っぽい器ではなかった。
そこはかとない荘厳な雰囲気と高貴さが、それがただの白磁ではないことを証明している。
多分、結構名の知れた骨董品なのだろう。
その他、豪奢な装飾品達の数々が、辺りの空気に優美な雰囲気を与えている。
「……」
何気なくクローゼットの方へと歩み寄ると、それを勢い良く引き開いた。
中に掛けられた大量の洋服が、否が応にも目に映る。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時04分(23)
題名:亡くなっても消えない絆(第二章)

普段着から、礼祭用の鮮やかな装飾が施されたものまで、その種類は幅広い。
それらすべてに共通していることは、全部それなりの値段がするということだろう。
そう。
今まで、望むものは何でも手に入っていた。
それこそ、手に入らないものなど、何一つとしてなかった。
でも、それは所詮、私が望む“モノ”だけ。
私が本当に望むものは、こんなものじゃないのに……。
「……」
ふと、私は背後を振り返った。
その視界に映し出される、枕元の小さな台。
そこに立てられた、小さな一枚の写真。
その中に閉じ込められているのは一つの過去。
こちらへ暖かく微笑みかける、一人の優しそうな女性の姿。
その隣に立つのは、明るい笑顔を浮かべるいつかの父だ。
そして、そんな二人の間に立ち、両手を繋いで満面の笑みを溢す一人の少女。
「……」
私はその写真立てから目線を外すと、目の前のクローゼットへと向き直った。
その中から、一番安価でカジュアルと思われるものを取り出す。
とは言っても、どれもこれもがブランド品のため、普通の金銭感覚からすれば高い物ばかりなのだけれど。
着ていた寝間着を脱ぎ捨て、私は素早くその洋服に着替えた。

――キィ。

そっと扉を開き、周囲の様子を伺う。
人の気配は無い。
よし。
実行するなら今の内だ。
屋敷のお手伝いさん達に見つかってしまわぬよう、足音を殺しながら、私は急いで玄関先へと向かった。
幸い、玄関に着くまで誰にも会わずに済んだ。
依然として、人の気配は感じられない。
私は逸る気持ちを押さえ付けて、玄関先に並べられた靴の中から、いつも履いているものに足をはめ込んだ。
立ち上がり、履き心地を整えるため、つま先を床に軽く叩き付ける。
「お嬢様!?」
「!?」
背後から聞こえてきた唐突な声に、私は反射的に後ろへと体を捻った。
慌ててこちらへと走り寄ってくる、一人のお手伝いさんの姿が目に見える。
「くっ……!」
私は少し迷ったが、構わず外界へと続く扉を開け放った。
「お、お待ち下さい! こんな夜中に、一体どこへ行かれるおつもりですか!?」
後ろから追いかけてくる呼び止めの声。
だが、立ち止まる訳にはいかない。
私は走った。
夜の冷たい空気の中を、満月の冷たい光に照らされながら。
行く宛ては無い。
けれど、戻りたくはない。
だから、私は遮二無二走った。
舗装された道を外れ、近場の雑木林の中へと、力の続く限り、出来る限り遠くまで。
やがて、私は疲れと息の乱れから立ち止まった。
「はぁ……はぁ……」
身近にあった木に手を付き、肩を激しく上下させながら、私は来た道を振り返った。
つい今しがたまで、私が包まれていたはずの人工の明かりは、既に遥か遠くのものとなっていた。
「はあ……っはぁ……」
胸に手を置き、数回深呼吸をする。
息の乱れは、治まる気配すら見せない。
だけど、気分は決して悪くはなかった。
いや、むしろ清々しい感じだ。
勝手に家を抜け出したのは悪いと思ってる。
だけど、私は……。
「……ごめんなさい」
小さく呟いたその言葉は、誰に届くこともなく、夜の空気に溶け込んで消え入った。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時04分(24)
題名:亡くなっても消えない絆(第三章)

「総理大臣の娘さんが?」
差し出された書類を受け取り、その上に目を落としながら水亜が問いかけた。
「あぁ。昨日の深夜、外出していくところを、家政婦の一人が目撃したらしい」
義治が答える。
その口元には、いつも通り巻煙草がくわえられていた。
一筋の白い煙が立ち上り、天井に近づくにつれて、それは幾本もの薄い曲線へと変化してゆく。
資料に記された内容は、その娘の容姿や性格など、彼女に関するものばかりだった。
咸枷沙弥(みなかせ さや)
年齢は12歳。
年の割には物分かりの良い、謙虚で聡明な少女だと書かれている。
どうやら、随分と大人びた性質の娘なようだ。
好物はカイワレと大根のサラダで、嫌いな物はグリーンピース。
……意外と庶民的ではあるようだけれど、一風変わった娘であることは間違いなさそうだ。
左上隅に貼られた、一枚の写真に目がいく。
恐らく、中学の入学式の時にでも撮ったのだろう。
制服と思しきブレザーにスカートという出で立ちで、校門の前に立っている少女。
その襟元では、光を浴びた青色の校章が、きらびやかに輝いていた。
この校章は見覚えがある。
名前は忘れたが、確かかなりのお嬢様学校だったはずだ。
短く切り揃えられた、綺麗な栗色の髪が一際目を引く。
くりっとした丸い瞳からは、前述されていた大人びた性格と相反して、何となく絢音のそれと似た人なつっこさが連想された。
きりっと引き締まった口元が、彼女という人間の意志の強さが見て取れる。
年相応の可愛らしさの中にも、落ち着いた雰囲気の漂った、総合的に言えば、やっぱり可愛い女の子といったところだろうか。
その更に下には、彼女が居なくなった時の状況が記載されていた。
財布や携帯といった身辺の物は、すべて部屋に残されたままだったらしい。
どうやら、計画的な家出という訳ではなさそうだ。
「……それで、“O.L.”として、私はどうすれば良いのでしょうか?」
“O.L.として”の部分を強調しながら尋ねた水亜に、
「いや、別にこれといってすることはない」
義治は事も無げな調子で答えた。
「え?」
水亜が眉をひそめる。
わざわざ呼び付けておきながら、何もしなくていいというのは、一体どういうことなのだろう?
「そもそも“O.L.”というのは、国の基盤を揺るがしかねない、警察では対応出来ないほどの事件に対する、いわば最後の手段だからな」
義治が、どことなく苦々しさを含んだ声音で呟く。
「いくら国の中枢となる人物の娘であろうと、このような家出の捜索こそ警察の仕事だ。君のような“O.L.”を使う訳にはいかない」
それに、と言葉を繋げながら、義治はくわえていた巻煙草を指に挟んだ。
口元から離し、煙をゆっくりと吐き出す。
「君のことだ。どうせ、私が頼んだところで、この類の仕事を引き受けたりはしないだろう?」
巻煙草をガラス製の灰皿に押し付け、その先端を無造作に潰しながら、義治が微笑を浮かべて水亜を見つめる。
「む……」
水亜は返す言葉に詰まった。
まさに図星だ。
“O.L.”としての仕事に、多少なりとも嫌悪感を感じているのは事実だが、同時に、この肩書きに対して誇りを持っていることも、また確かな事実だ。
第一、そうでなければ、例え相手がどれほどの悪人であろうと、躊躇いなく殺すことなど出来ようはずがない。
逆に言えば、その誇りに支えられた頑強な信念があるからこそ、常人ならば発狂しかねない心の闇の最中においても、自己を見失わずに戦い続けることが出来るのだ。
だからこそ、自分でなければならない仕事以外のものを、引き受ける気にはなれなかった。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時05分(25)
題名:亡くなっても消えない絆(第四章)

例えそれが、総理大臣直々の頼みであってもだ。
さすがは社長。
良く分かってくれている。
……だけど、
「……ですが、それなら何故私にこの話を?」
訝しげに首を傾げた水亜に向かって、義治が微かな笑みを崩すことなく告げる。
「無理矢理やれと言われれば、君は当然怒るだろう? そして、このことを話さず、知らない内に巻き込まれたとしても、君はやっぱり怒るんじゃないか?」
……なるほど。
言われてみればその通りだ。
確かに、自分の知らないところで物事を進められるのは、私にとって快いことではない。
その渦中に巻き込まれるとなると尚更だ。
「……ですね」
水亜は苦笑いを浮かべながら答えた。
やっぱり、この人には敵わないな。
「まぁ、とりあえず話しておいただけだ。あまり深くは考えないでくれたまえ」
机上に置かれたシガレットケースから、再び巻煙草を一本取り出す。
「一応、その資料だけは持っていてくれ。万が一というのは常に起きる可能性があるからな」
唇で挟み込み、懐から取り出したジッポで火を点ける。
それを覆い隠す掌の、指と指の隙間から漏れる赤色の光。
それが消えると同時に、靄のような白い煙が周囲に立ち込めた。
「了解しました。それでは、私はこれで……」
「あぁ。女性従業員のOLとしての仕事も、抜かりなくこなすようにな」
「任せて下さい。それよりも、おんなじ言葉を絢音にも送ってあげて下さいよ」
「何だ? 絢音の奴、仕事をサボっているのか?」
「いいえ。ただ、要領が悪いだけです」
「昔からマイペースな娘だったからな」
義治が、巻煙草を口にくわえたまま微笑む。
「迷惑を掛けるが、しっかりと君がフォローしてやってくれ」
「嫌ですよ〜。私だって、たんまりと仕事があるんですから。それでは、私はこれで失礼します」
そんな義治の笑みに、水亜も笑顔を返しながら一礼すると、静かに社長室を後にした。

――パタン。

丁寧に閉められた木製の扉から、微かな鈍い音が産み出される。
それは、音の無くなった部屋の中で少しの間反響し、壁や床を跳ね回っていた。
「……ふぅ」
その音が空気に溶け、周囲を無音が包み込むのを待ってから、義治は一度だけ溜め息を付いた。
天井を見上げながら、彼女と交した会話を思い返す。

――総理大臣の一人娘が、深夜外出したのを家政婦の一人が目撃した。

……としか伝えなかったが、実は、この話には少し続きがある。

――その足取りは、南の雑木林へと向かっており、そこから先の消息は不明。

……とのことらしい。
そして、その南の雑木林を、反対側に抜けた先にあるのが、ちょうどこの街に当たるのだ。
「……はてさて、どうなることやら」
どこか楽しげとも取れる呟きを漏らしながら、深く吸い込んだ煙を味わうように、義治は大きく一息付いた。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時06分(26)
題名:亡くなっても消えない絆(第五章)

――カタカタカタ……。

キーボードを叩く軽快な音。
それが鳴る度毎に、ディスプレイに次々と文字が浮かび上がってゆく。
えぇっと……借方が売掛金で、貸方は……どこだっけ?
机上に置かれた伝票に目線を落とす。
……あぁ、そうそう、○菱銀行さん……、
……じゃなくって、これは三井○友さんの方だったわね。

――カタカタカタ……。

文章に訂正を加える。
で、次は借方が買掛金で、貸方には近所の会社の……えっと……名前、何だったっけ?
再び伝票をチラ見する。
だが、本来その名が記されてなければならない場所は、真っ白な白紙のままだった。
あれ?
載ってないじゃないの。
もう……誰よ、この伝票書いた奴は……。
「……あぁ〜っ、もう!」
課長が居ないのをいいことに、私は机を叩きながら、椅子にもたれ掛かった。
山積み伝票やディスプレイなどそっちのけで、机の隅に置かれた一枚のチラシへと視線を向ける。
そこにデカデカと書かれた広告には、タイムセールと銘打たれて、いくつかの品々がピックアップされていた。

――大根1本68円!

――レタス1玉38円!

――炊くだけOK、十種雑穀米2キロ398円!

……などなど、様々な食品が格安で提供されている。
いつもなら見向きもしないような食材たちでさえ、その装飾文一つで輝き出すから不思議だ。
そして、その中でも狙うのはもちろん……、

――鶏むね肉100g48円!

――豚挽き肉100g38円!

この二つだ。
これは安い!
この破格のプライスを、みすみす見逃してしまう手は無い。
……のだが。
「……」
無言のまま、壁に掛けられた時計へと目線を送る。
ただ今の時刻は、日も暮れなずむ夕刻の午後5時。
そして、タイムセール開始時刻は6時ジャストだ。
後残り1時間。
その間に、この山積み伝票を全て打ち込み、荷物をまとめて戦場となるスーパーへ突撃せねばならない。
……とてもじゃないが、このままでは到底無理だ。
ただでさえ大量なのに、記載漏れなんかされていては、もうどうしようもない。
救いの手を求めようにも、みんな己の仕事で手一杯の様子だ。
とても頼める状況ではない。

――何とかならないかなぁ……ん?

そんな仕事しやがれ空間の中、たった一つの机だけが、その重圧をまるで感じていないかのように、キレイに整理整頓されていた。
机上にあるのは、隅の方に立ち並ぶ数冊の本くらいのもので、中央付近には紙切れ一つと存在していない。
そして、その机が誰のものであるかを、私が知らないはずがない。

――……あれ?

何気なく少し視線を横にずらしてみると、同じ箇所を見つめている一人の女性社員の姿が見えた。
机の上には、こちら同様資料やら伝票やらで形成された山が、さながらチョモランマの如くそびえ立っている。
どことなく疎ましそうな眼差し。
だが、何かを思いついたのか、次の瞬間には、その瞳の輝きから疎ましさが消え去った。
入れ違いに宿る希望と背徳の混じった妖しい光。
どうやら、あっちも考えていることは同じのようだ。

――……?

不意に、そんな絢音の目と、それを見つめていた私の目が合った。
悪戯っぽく笑いかけると、向こうも同じように小悪魔的な微笑を返してくる。

――やっちまいます?

――やっちまいますか♪

お互いの目と目で無線通信。
長年の親友だ。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時06分(27)
題名:亡くなっても消えない絆(第六章)

言いたいことは、目とジェスチャーだけで十分に伝わる。

――どれぐらいやっちゃう?

伝票の山を指差しながら、両手でその幅を上下させる。

――これぐらい♪

絢音が手を大きく広げて答える。

――……って、それじゃ全部じゃないの!

無言のまま、目線を尖らせて激しく突っ込む。

――大丈夫、大丈夫。サトちゃんなんか、私の魅力でイチコロだもん♪

ダイナミックな胸元を強調するかのようなセクシーポーズ。

――あんた……本気?

――もちろん♪

絢音は笑顔で答えた。
あの笑顔は本気の顔だ。
どうやら、マジでやるつもりらしい。
可愛い顔して、やることは誰よりもエグいんだから……。
聖……貴方には同情するわ。
……まぁ、だからといって、やっぱり遠慮する気にはならないんだけど。
荷物を適当にまとめ、伝票の束を両手に抱える。
席を立ち、目立たぬよう腰を屈めて目標へと歩み寄る。
ターゲット付近で同志と落ち合い、お互いの両手に抱えられた仕事の量を確認し合う。
絢音のそれは、軽く見積もっても私の1.5倍はあった。
……ふむ。
さすがはアジア最高峰。
其即ち世界最高峰なのだが、そんな表現に些かの語弊も感じないから凄まじい。
ところどころに、かなりシワの寄ったものがあるのは、何度も何度もその資料を手に取り、確認作業を行ってきたからだろう。
相変わらず要領の悪い娘だ。
辺りの様子を伺いながら、二人同時に腰を上げる。
周囲に気付かれぬよう、山積み資料たちを慎重に机上へと下ろす。
よし。
鮮やかに着陸成功だ。
「ふっふっふ……そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは……」
絢音のノリに合わせて応えながら、私は意地の悪い笑みを浮かべた。
これで万事解決だ。
後は鞄片手にオフィスを飛び出し、女達の戦場へと乗り込むだけ。
ふふふ……待ってなさいよ〜、鶏むね肉100g68円アーンド各種挽き肉100g58円!
……などと考えていた矢先、
「……先輩?」
『!!?』
何の前ぶれもなく、背後から急に降り注いできた声に、二人揃って後ろを振り返った。
そこに佇むのは机の主。
純真な丸い瞳が、訝しげな眼差しで私達を見つめる。
「何やって……って、あぁ〜っ!!」
その視線が自分の机へ向けられたと同時に、聖の口から驚愕の声が上がった。
「ど、どうしよう〜。みーちゃん、気付かれちゃったよ〜」
隣から絢音の頼りない小声が聞こえた。
そんなこと、いちいち言われずとも分かるわ。
「ほら、やりなさいよ」
私はそんな絢音に向かって耳打ちをした。
「え? やるって?」
「あんた、さっき言ってたじゃない。聖なんか、私の魅力でイチコロよ、って」
「えぇ〜っ!」
絢音は小声のまま不満を表した。
視線をさりげなく横に流す。
そこにいるのは、机上の山を見つめ、言い様のない戸惑いの表情を浮かべる聖の姿だ。
「ほ、ホントにやるの〜?」
「当たり前でしょ。自分の発言には責任を持ちなさい」
「うぅ……」
伏し目がちに口ごもる絢音。
心なしか瞳が潤んで見える。
男ならドキッとするかもしれないが、残念ながら私の性染色体はXX型。
そんな表情されたからといって、それが許してあげる理由になどなりはしない。
「……サトちゃん……」
「え?」
絢音の呼びかけに、聖がその方へと向き直る。
さぁ、見せてもらいましょうか?
貴女の魅力とやらを!
「……」
真剣な面持ちの絢音。
「……」
事情が飲み込めず、未だ困惑気味の聖。
「……」
そして、既に半笑い状態の私。
この三者を包み込む、一種独特の不可思議な沈黙。
それを破ったのは、無論絢音だった。
「……う」

月夜 2010年07月06日 (火) 23時07分(28)
題名:亡くなっても消えない絆(第七章)

『……う?』
私と聖の言葉が重なる。
……次の瞬間。
「……うっふん☆」
絢音の悩殺ポーズが炸裂した。
片腕は後頭部に、そしてもう片方は自身の腰に添えられている。
その刹那、時はその流れを停止させた。
もちろん、止まっていようはずはないのだが、そういう言葉でしか説明の仕様がないくらい、それは異様な光景だった。
「……」
目を点にして、身動き一つせずに硬直する聖。
「……」
その目の前には、室内全ての視線を一身に受け、ポーズを取ったままの体勢で固まる絢音の姿。
その視線の中には、もちろん私の眼差しも含まれている。
あ、良く見てみれば、何だか全身が小刻みに震えているようにも見える。
「……」
……まさか、こんな身近に昭和の残党がいたとは……。
無言のまま固まる親友を見つめ、心の中で静かに呟く。

――……。

再度訪れる無音の刻。
先ほどと違うところは、そこに間の抜けた空気が含まれていることだろう。
「……う」
そして、その沈黙を破ったのも、やっぱり彼女だった。
「うわああぁん!!」
恥ずかしさを全面に主張するかのように、急に大声で泣き出す絢音。
と、何を思ったのか、それと同時に自分の席へと走り出すと、予め机の上に置いておいた鞄を手に取った。
もう片方の手は、ちゃっかりチラシを握ってたりする。
直ぐ様、秒を置かず脱兎の如く駆け出し、オフィスの扉を文字通り蹴り開くと、室内の乱れた空気をそのままに、絢音は勢い良くその場を後にした……というか、逃げた。
あんにゃろ……女優顔負けの演技しやがって……。
内心密かに毒付く。
あいつは、あの性格と容姿から、周囲にはあんまりそう見られてはいないが、ああ見えて結構計画的に物事を進める奴だ。
おそらく、これもきっと当初の予定通りだろう。
こういう時だけは、悪知恵の回ること回ること……仕事の時とは打って変わって、余りにも要領が良すぎる。
全く……少しはその情熱を仕事の方面にも向けなさいよね。
「あの……一体何なんです?」
聖が、頭の上に‘?’マークを出しながら尋ねる。
もっともな質問。
だが、説明するのも面倒だ。
「さぁ……って、あぁっ!」
ふと時計に目をやってみて、私は思わず驚愕の声を上げた。
そこに示された時刻は、既に5時半。
タイムセールスタートまで、後30分と迫っていた。
あそこは、戦闘開始後の乱入を許さない非情の戦場。
故に、最早一刻の猶予も許されない。
「聖!」
私は聖の名を呼びながら、その両肩を叩いた。
「は、はい!?」
つられて返事をする聖。
その語尾がしり上がりなのは、未だに状況把握ができていないからだろう。
だが、説明はまた後日だ。
「……後は任せた!!」
私はそうとだけ告げると、自分の机へと駆け足で戻った。
かっさらうようにして鞄を掴む。
「えぇっ!? ち、ちょっと先輩!?」
全力で疾駆する私の背側から投げかけられるのは、悲痛さを伴った聖の叫び。
悪いな、少年。
現実とは、いつの時代も理不尽なものだ。
これも、現代という名の荒波に揉まれるための、いわば一種の試練だと思って引き受けてくれたまえ。
君の為にも。
……っつーか、私の為に。

――バン!

勢いを付けて扉を開く。
瞬間、目の前に現れた丸い物体……いや、人間。
「……」
無言のまま佇む、中肉中背……否、大肉中背のその人物の正体に気付くまでに要した時間、僅かに0.3秒。
「……」
同じく、黙したまま立ち止まる私。
先ほどの勢いはどこへやら。
脳裏に浮かぶイメージは、急速に遠退いてゆく鶏むね肉&各種挽き肉たち。
そして、それらを買い物カゴにぎっしりと詰め込み、勝ち誇った笑みを浮かべてこちらを見つめる絢音の姿。
その服装が小悪魔風なのは、私の妬みの想念がそうさせるのだろう。
「……明神君」
聞き慣れた、聞きたくもない声で呼ばれる自分の名。
「……はい」
私は大人しく頷くことしか出来なかったのだった。


本日の教訓


邪魔者は

    邪魔される前に

        消してしまえ

字余り……と。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時07分(29)
題名:亡くなっても消えない絆(第八章)

「……はぁ」
深々と付かれた溜め息が、夜の空気中へと吸い込まれてゆく。
その後に残るのは、すれ違う人々の笑い声や、せわしなく行き交う車のエンジン音。
それに、周囲に響く機械音混じりの騒がしい音響のみだ。
周囲をきらびやかに彩るネオンが、自然界に無いはずの無機質な光を、辺り一面にばら蒔いている。
とある学者は、人間も自然の一部である以上、人間の作った物もまた自然の一つの形だ、などと言っていたそうだが、その説にはどうにも賛成出来ない。
無機的な人工の光には、月光がもたらす包み込むような柔らかさも、蛍が放つそれのような力強い生命力も感じ得ない。
二次的に造り出された光に、自然が持つ暖かみなどは存在しないのだ。
通りの至るところに立てられた大量の看板たちが、そんな光とそこに刻まれた文字の羅列を用いて、各々強い自己主張を行なっている。
普通の飲食店や娯楽関係のものも多かったが、それらに紛れて、風紀を乱すようなものも多数存在していた。
まぁ、いわゆる、いかがわしい娯楽店というやつだ。
「ねぇねぇ、ちょっと君ぃ♪」
唐突に投げ掛けられた、軽そうな口調の男の声。
その言葉の随所からは、隠そうにも隠しきれないいやらしさが滲み出ていた。
いつもなら軽くあしらって終わりなのだが、今日の私はいささか機嫌が悪い。
「……何でしょう?」
怒りの色を隠すことなく、私は声の方を振り返った。
その眼差しは、まさに鋭利な刃物の如く。
これ以上近づいたら刺すぞと言わんばかりだ。
「あ、い、いえ……何でも……」
そんな私のただならぬ剣幕に臆したのか、その男性はしり下がりにぼそっと呟くと、逃げるようにしてその場から離れて行った。
「……ふぅ」
再度溜め息。
ふと、腕に巻かれた腕時計へと目線を落とす。
時刻は既に夜中の10時を回っていた。
普段、定刻ジャストに仕事を切り上げている私からしてみれば、この時間は異常とさえ感じられた。
あれから私は、オフィス内から社員全員が帰るまで、ずっと仕事に追われて残業をし続けていたのだった。
だが、いくら相当なサボり癖があるとは言え、私とてやる気になればそれなりに出来るOLだ。
自分に課せられた仕事だけで、こんなに夜遅くまで残業する羽目になったりはしない。
ならば何故か?
理由はただ一つ。
“1”の仕事量を終わらせるのに、大体一時間掛かると仮定しよう。
その絶対値が“1”である上でなら、掛かる時間は一時間に過ぎない。
だが、もしその量が“2.5”になったとしたら?
単純計算しても、二時間半掛かる算段になる。
それに、私だってれっきとした人間である以上、ずっとぶっ続けで仕事ばかりを出来るという訳もない。
その“2.5”は、あくまでも最高水準を表しているだけで、実質“3”にも“4”にもなる可能性を秘めているのだ。
……もうお分かりになっただろう。
私はあの後、何故か絢音の分の仕事まで押し付けられてしまったのだ。
あれは絢音の分だと豪語してはみたものの、あの偏屈課長の耳に、その言葉はただの言い訳にしか聞こえなかったようだ。
あの時の嫌味ったらしい笑みが、今なお瞼の裏から離れない。

――くっそ〜。あんの悪玉コレステロールの塊め……いつか痛い目見せてくれるわ……!

内心密やかに苦々しく吐き捨てる。
そんなことを考えながら、足早に歩みを進めている内に、気付いた時にはもう、繁華街は遥か後方だった。
その眼前に広がるのは、眠ることを知らないそれとは対照的に、優しい静寂に抱かれた住宅街だ。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時08分(30)
題名:亡くなっても消えない絆(第九章)

賑わいと静けさのちょうど中間地点を、静謐な空気に誘われるがまま、私はその方へと足を進ませた。
徐々に遠ざかってゆく喧騒と、入れ違いに訪れる静穏。
何気なく視線を上へと持ち上げてみる。
そこに見える、つい先ほどまでは人工の建造物によって遮られていた、晴れ渡った闇色の青雲。
幾つもの星たちが放つ輝きの中、一際映える白色の光輝が、眠りつつある街全体を柔らかく包み込んでいる。
……いつ見ても、夜空は何だか落ち着く。
不規則に散りばめられた小さな光と、ただ一つだけ浮かぶ白い大きな光。
それ以外に見えるものは、漆黒の闇だけだ。
一般的に、人という生き物は暗闇を怖れるらしい。
怖れるが故に、世界の全てを照らそうと、人は二次的な光を造り出した。
それによって、確かに暮らしは便利になった。
そのこと自体に疑うべき点は一切無い。
だが、それが同時に、マイナスの事象をもたらす要因となってしまったことも、また明確な事実だ。
闇はものを覆い隠す。
何も見えないということは、確かに恐怖かもしれない。
しかし、そのことは逆に、見たくないものを包み隠してくれるということでもある。
そういう意味では、この世から暗闇を消し去るという行為は、とても残酷な行いなのではないだろうか?
この世界の秘め事全てが暴露されてしまった時、人は人として、そして地球上に住む一種の動物として、暮らすことが出来るのだろうか?
私は知っている。
世界は、闇を求めていることを。
闇の無い世界に、本当の安息が存在しないことを。
だから、私は闇を怖れない。
私の中の暗く醜い腐りきった部分。
それを他人の目から隠してくれているのは、他ならぬ闇なのだから。
私にとって、闇は優しい友達なのだ。
……そう、あの日、あの時から……。
「……」
私は、口元に微かな笑みを浮かべた。
全く。
今日の私はどうかしている。
こんなネガティブな思考をするなんて、これではまるで陰気な根暗女じゃないか。
多分、慣れないことをして疲れているからだろうな。
こんな日は、早く帰って、シャワー浴びて、そのまま寝てしまうに限る。
「……ん?」
そんなことを考えていた矢先だった。
夜の静まり返った公園のベンチに座る小さな人影が、視界の隅微かに映り込んだ。
その場に立ち止まり、その姿を視界の中央に捉えられるよう横に首を捻る。
街灯の無機質な光の下、静かに佇むその人物は、どうやらまだ年端もいかない少女のようだった。
パッと見だと、小学生と中学生の間くらいだろうか。
うつ向いているせいで、その顔色や表情は伺えないが、短く艶やかな栗色の髪が、一般人とは到底思えぬ高貴さを伴ってなんとも目を引く。
よくよく見てみれば、その身なりも並大抵ではなかった。
黒の革ジャンに、きらびやかな装飾の散りばめられたロングスカートなど、一般的なこの年頃の少女の服飾にはあり得ない。
ただ一つ、頭頂部につけられている色褪せた髪飾りだけは、どことなく庶民的なイメージだったが。

――昨日の深夜、外出していくところを、家政婦の一人が目撃したらしい。

脳裏にて蘇るのは、今日の昼時に交わした義治との会話。
あの時に手渡された資料は、既に一通り頭に入っていた。
もはや、疑いの余地すらないくらいにビンゴだ。
まず間違いないだろう。
……だが、おかしい。
昨日の今日どころか、今日の今日で見つかるなんて、余りにも都合が良すぎる。
確証は持てないが、何だかこうなることも社長の計画通りのような気がした。
何だか悔しい気もしたが、見つけてしまった以上、放っておくわけにもいかない。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時08分(31)
題名:亡くなっても消えない絆(第十章)

「……仕方ないか」
私は小さく呟くと、その少女の座っているベンチの方へと歩みを進めた。
ちなみに、私がこういう行動に出ることも、恐らくは彼の予想通りといったところだろう。

――ふぅ。

内心密かに溜め息をつく。

――ザッ。

少女のすぐ眼前に立つ。
……が、彼女は目線を伏せたまま何の反応も起こさなかった。
おかしいわね?
この距離で気付かないはずはないのだけれど。
私はその場にしゃがみ込んで、彼女の顔を覗き込んでみた。
「……」
瞳を閉じ、微動だにしない彼女。
耳を澄ませば、その口元から定間隔置きに安らかな吐息が聞こえてくる。
眠っていた。
まったく……こんなところで居眠りなんて、肝っ玉が座ってるのか、ただ単なる世間知らずなのか……。
それにしても、いつから寝てるのかしら?
こんなとこで一人眠る少女を無視だなんて、冷たい人ばかりいたものね……いや、悪どい輩に声をかけられなかった分、幸運だったとも言えるかも。
「……さん」
不意に聞こえてきた、小さな声。
「……え?」
最初、それは余りに小さ過ぎて、私の耳は明確な言葉として捉えることが出来なかった。
「……お父……さん」
二度目に呟かれた時、私の耳は途切れ途切れなその言葉を聞き逃さなかった。
もう一度、彼女の表情を見つめる。
資料を見た限り、大人っぽい少女といった感じだったが、どうして……今目の前にいる少女の寝顔に、そんな雰囲気は微塵も感じられなかった。
少し風に吹かれれば、それだけでどこかへ飛んでいってしまいそうなくらい、弱々しく儚い存在。
それが、私が彼女に抱いた最初の印象だ。
目尻から顎にかけて伸びる、何かの通った透明な跡。
それが、頬を伝い落ちた彼女の涙だということに気付くまで、大した時間は要さなかった。
「……」
無言のままそっと手を伸ばし、彼女の目元を指で拭おうとその柔らかな肌に触れた。
「っ!?」
瞬間、今まで完全に閉め切られていた瞼が、一気に開いた。
弾けたように後方へと退き、全身を硬く強張らせる。
「……貴女……誰?」
問いかけられる言葉。
その端々が震えて聞こえるのは、多分気のせいなんかじゃないだろう。
こちらを見つめる涙で赤く充血した瞳。
そこに浮かぶ明確な怯えの色が、彼女の抱く恐怖のほどを良く表していた。
「私は……」
「嫌っ!!」
突如として上がった、私の言葉を遮る大きな悲鳴。
「止めてっ! 来ないでっ! どうせ貴女だって、お父さんに言われて私を連れ戻しにきたんでしょ!?」
涙声のまま放たれる激しい怒号が、静まり返った夜の公園の大気を揺るがす。
「私は帰らない! ちゃんとお父さんが来てくれない限り、私は絶対に帰らないんだから!!」
つい先ほどまで、そこに漂っていた静謐な空気を引き裂く大声。
ただ、その内に秘められた行き場のない深い哀しみが、無性に心を締め付けた。
なるほど。
この娘が家出をした理由は、仕事で忙しい父親との溝が原因か。
総理大臣の娘ということで、普段は自らの意思を押し込め、父親に甘えたい気持ちを押し殺し、物分かりの良い令嬢を偽ってきたのだろう。
けれど、彼女だってまだまだ幼いほんの少女だ。
そんな生活を続けていて、いつまでも心が平静を保っていられるはずもない。
今までの間、彼女が一体どれほど寂しい思いをしてきたのか。
彼女でもなければ、彼女と一緒に暮らしてもいない私には、想像もつかない。
だから、私は――、

「え……?」

――彼女の体を抱きしめてあげた。
最初は弱く、だが徐々に力を込めて、戸惑う彼女の体を強く抱きしめる。
「……良いんだよ、泣いても」
そんな私の言葉が、辛うじて保たれていた彼女の心の堤防を崩したのだろう。
「……う、うぅ……うあああああぁぁ……っ!!」
必死に抑え込んでいた思いが、大きな叫び声となって彼女の中から放たれていく。
年相応の少女らしさといったものを、永きに渡って押さえ付けてきた反動か、哀しみに満ちた号泣は止まることを知らなかった。
両の瞳から次々と溢れる涙が、私の胸をしとしとと濡らす。
「……」
私は無言のまま、小刻みに震える少女の体を、一層きつく抱きしめてあげた。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時09分(32)
題名:亡くなっても消えない絆(第十一章)

「……」
私はテーブルの前に座したまま、自らの姿を見下ろした。
自宅を出る時に着ていた服は脱ぎ捨て、今は彼女が貸し与えてくれた服を、寝間着代わりに着用させてもらっている。
ちょっとぶかぶかな感は否めないが、貸してもらっている側としては贅沢は言えない。
……とかなんとか言いながらも、実を言うとこういうだぼだぼでラフな服を着るのは初めてで、毎日屋敷で着ていた寝間着よりも着心地が良かったりするのは、私だけの秘密にしておこう。
首を捻って周囲を見渡す。
薄い青色で統一された壁紙や、淡い緑色のカーテン、それに下には、エメラルドグリーンの絨毯と、パッと見た限り、この部屋は和みに重点を置いた色彩をとっているようだ。
部屋の隅に位置する本棚を見る。
そこに置かれた本たちは、漫画から小説から種々様々だったが、哲学書や医学書といった類の堅苦しい物は一切無かった。
私の本棚とは、ちょうど対極側といったところか。
結構可愛いもの好きなのか、背の低い横長の引き出しの上には、色んなキャラクターのぬいぐるみが列を作って並んでいた。
その中央に座る一際大きな鳥のぬいぐるみ。
腹部に埋め込まれた時計が、刻一刻と過ぎ行く時を刻んでいた。
もう、夜中の11時過ぎ。
普段なら、お父さんに電話でお休みを告げる頃合いだ。
そんなことを考えていた折り、辺りを見回す私の視界に不意に飛び込んできた、一台の小さな電話。

――……。

私の胸中に募る煮えきらない思い。
電話して、いつものようにお父さんにお休みを言いたい気持ちと、次は直接、顔を見て言うんだと決めた決意とが、私の中でせめぎ合う。
家出をした当初は、こんな思いを抱くなんて考えもしなかった。
ほとんど衝動的に屋敷を飛び出し、無我夢中のまま走っていたあの時の私にあったのは、お父さんに対するやるせない思いだけだった。
……分かってる。
お父さんは、日本にとって必要な人。
私だけじゃなく、ここに暮らしている人達皆にとって、いなくてはならない人だ。
そんなことは分かってる。
分かってるけど……。
「お待たせ〜」
突然、台所の方から聞こえてきた声に、私は伏せていた顔を持ち上げた。
二つのカップを手に、こちらへと歩み寄ってくる一人の女性。

――コトッ。

木製のテーブルの上にカップを置く。
そこから立ち上る、暖かな湯気ととうもろこしの甘い香りが、朝から何も食べていなかった私の食欲を揺さぶった。
「さ、これでも飲んで。体、暖まるわよ」
とは言っても、インスタントの簡単なものだけどね、と言って、私の目の前の彼女は朗らかに笑った。
「……いただきます」
私は小声でそうとだけ呟くと、カップの縁にそっと口を付けた。
ゆっくりと傾け、スープを軽く口に含む。
下をやんわりと刺激する甘味。
いつも、家で食べている料理と比べれば、なんでもないようなもの、それこそ普段なら黙殺同然のものでしかないのだけれど、今はこれほど美味しいものが他にあろうかと思えた。
二口、三口と口を付けている内に、徐々にだが心が落ち着いてきた。
改めて、目の前の女性を見つめる。
スラッとした長い足に、くびれた腰。
胸はそんなに大きくないようだったが、無駄に大きいだけの人より、これくらいの自然な感じの方が良いんじゃないだろうか。
瞳に湛えられた輝きが、彼女という女性の持つ力強い意志を表していた。
何より印象的なのは、澄みきったその青色の髪だろう。
空色と表現した方がいいかもしれない。
緩やかに伸びたその髪は、揺れる度に、まるでそこだけに部分的な青空を生み出しているかのようだった。
綺麗な物、美しい物なら、家柄のおかげもあって色々と見てきた。

月夜 2010年07月06日 (火) 23時09分(33)
題名:亡くなっても消えない絆(第十二章)

だが、彼女の髪ほど綺麗で美しいものは、この世のどこにも存在しないんじゃないかと思えた。
どんなに素晴らしい芸術品よりも、人の目を惹く何か……一種の引力のようなものと表現した方がいいだろうか。
総じて、女である私の目から見ても、彼女はとても魅力的な女性だった。
この家に立ち入る前、外に貼られた表札を見たから、彼女の名字だけなら既に知っている。
確か、明神という名だったと思う。
しかし、その名前には、何か引っかかるものがあった。
なんだろう……知らない人のはずなんだけど、聞き覚えがあるような気が……。
「ねぇ」
「えっ!?」
完全に自分の世界に入り込んでいた私は、彼女の突然の呼びかけに、つい大声を上げてしまった。
知らず知らずの内にズレていた両目の焦点を、彼女の顔に合わせる。
「あ、すいません……なんでしょうか?」
「いや、そういえば、まだ名前聞いてなかったな〜と思ってね」
「あ」
言われて、初めて気付いた。
そういや、まだ名乗ってなかったな。
……でも、
「……えっと……朝霧沙弥っていいます」
少し悩んだ末、私はそう名乗ることにした。
咸枷なんてそうそうある名字ではないから、本名を名乗っただけで、正体を見抜かれてしまっても不思議じゃない。
どう見ても、彼女は到底悪人には見えなかったけど……用心するに越したことはない。
「そう、沙弥ちゃんって言うんだね。私は水亜。明神水亜っていう名前よ」
「明神……水亜さん……?」
彼女の名前まで聞いて、私の脳は余計にその引っかかりを強めた。
明神水亜……やっぱり、どこかで聞いたことがある。
でも、一体どこで……?
「そ。水亜ちゃんって呼んでね……って、もうちゃん付けで呼ばれるような歳でもないか」
言いながら、水亜さんは頭に手をやって苦笑いを浮かべた。
しかし、その名に関する記憶の糸をたぐっている私の瞳に、そんな彼女の笑顔は映っていなかった。

―明神水亜……明神……そうだ。確か、この名前を見た時、あんまりにも暇だった私は、興味本意でお父さんのパソコンをハッキングしてて……!!

瞬間、脳裏にかかっていた濃霧の如き靄が、一気に晴れた。
そこで見た全てが、鮮明な映像を伴って蘇る。

Officer of Lethal

略称“O.L.”

その単語が示す通り、国の許しを得た、我が国唯一の合法的殺人機関。
警察では対処しきれぬ凶悪な犯罪、もしくは国家の基盤そのものを揺るがしかねない大犯罪に対し、対象の死をもってその危機を排除すべく、極秘裏に作られた機関とのことだ。
無論、その存在は世間の誰にも知られてはいない。
知っているのは、総理大臣である私の父を除けば、各省庁の大臣一人ずつ、そして、“O.L.”に直接指示を送る、“特命武装安全理事会”の役員数人だけだ。
昔、映画とかで見たことがあるような、闇の掃除屋。
そんな表現が、この機関にはまさにぴったりだろう。
そして、その機関に所属する総勢約50名の名簿。
その一番上に書かれていた名前こそが……、
「明神……水亜……」
「ん?何か言った?」
「え?」
不意に返された言葉に、またしても焦点を失っていた私の視線が、彼女の姿を再び捉えた。
どうやら、自分でも気付かない内に、考えていたことを口に出してしまっていたらしい。
「あ、いえ、別に何でもありませんよ」
可能な限りの冷静さを装って、私は小さく笑みを作った。
「そう? ならいいんだけど……体調とか悪いようなら、遠慮なく言うのよ?」
「はい。お気遣い、どうもありがとうございます」

月夜 2010年07月07日 (水) 00時08分(34)
題名:亡くなっても消えない絆(第十三章)

興奮を口調に表さぬよう注意して、私は小さく頭を垂れた。
垂れながら、まだ頭の片隅に残っているであろう彼女についての情報の引き出しを試みる。
備考の欄には、確か、

――如何なる状況下でも、冷静な思考力と瞬間的な判断力を失うことなく、常に任務を遂行するための最短距離を取る、合理的な人間。故に彼女の辞書に失敗の文字はなく、与えられた任務は確実にこなす。銃機類の知識や技術はもちろん、薬学、医術に特に秀でている。女性ではあるが、様々な格闘技を身につけており、体術においても他を圧倒する。幼少期は……、

……ダメだ。
ここまでしか思い出せない。
他にも、何かその生い立ちについても記されていた気がするが、余り注目していなかったせいか、そこに限り記憶があやふやだ。
第一、目の前の女性が、同姓同名の別人という可能性も、否定しきることはできない。
……が、不思議と私は確信していた。
彼女が……水亜さんが“O.L.”であることは間違いない……と。
「……」
だからこそ、私は迷った。
このまま偽りを続けるべきか否かを。
先ほど偽名を使ったことを、若干後悔する。
しばしの駿巡の後、私はこう切り出すことにした。
「水亜さんは……OLですか?」
「えっ?」
途端、水亜さんの瞳に驚きの色が宿った。
いくら私が総理大臣の娘とはいえ、トップクラスの国家機密だ。
まだほんの少女でしかない私に、その正体を知られているとなれば、心に動揺が芽生えないはずがない。
今からの彼女の対応を見た上で、話すか話さないかを考えたらいいだろう。
そう思ったのだが……、
「何で分かったの?」
「……へ?」
何でもないことのように返ってきた彼女の答えに、先ほどまでの私の思考は停止した。
何で分かったのって……極秘裏に作られた組織のはずでしょう?
それが一個人に、それも私みたいな子供にバレたっていうのに、どうしてそんな平然としていられるの?
「いや〜、OLってのも、なかなかしんどいものでね〜」
水亜さんが苦笑を浮かべながら言う。
そりゃそうでしょう。
“O.L.”というのは、言ってみれば国の治安を守る最後の砦。
その責務の重さが、半端なものではないことくらい、私にだって分かる。
けれど、そう言う彼女の声色から察する限り、苦労している様子はあまり伺えなかった。
「いつもいつも失敗続きで、ホント嫌になっちゃうよ」
「えぇっ!?」
私は反射的に声を荒げた。
「ど、どうしたの? 急にそんな大声上げて……」
「あ、いえ、その……す、すみません……」
訝しげにこちらを見つめる彼女に向かって、私は目線を逸らしながら頭を下げた。
「そ、そう……ならいいけど……」
戸惑いを露わに、水亜さんは小声で呟く。
けど、私が驚くのも自然なことではないかしら?
だってそうでしょう?
彼女が任務を失敗するということは、即ち日本の危機に直結しかねないのだから。
……でも、おかしいなぁ……備考に書かれていた限りだと、彼女は任務を失敗したことなどないとあったのだけれど……。
「それに、上司がうるさいのなんのって……私を目の敵にしてるのか、あれをしろだのこれをしろだの、もう権力の乱用よ」
「はぁ……」
曖昧に返事を濁しながら、私は水亜さんの言葉を脳内で咀嚼した。
上司?
水亜さんに“O.L.”としての任務を下す、特安の役員の人のことかしら?

月夜 2010年07月07日 (水) 00時09分(35)
題名:亡くなっても消えない絆(第十四章)

でも、それにしてはおかしい。
よほどのことがないかぎり、彼女に指示がいくことはないはず。
そんな彼女に向かって、あれをしろだのこれをしろだのっていうのは、あんまりにもおかしいんじゃないだろうか?
「もう、女性社員だからっていう偏見は止めて欲しいわよね〜。沙弥ちゃんも、同じ女性としてそう思わない?」
「え? あ、えぇ……」
私は、やっぱり適当に相槌を打ちながら、何故若干会話が噛み合わなかったのか、ようやく納得した。
“O.L.”に所属する人は、何もそれにのみ従事する完全な国家公務員だけという訳ではない。
中には、いや、その大半が、皆表の顔として何らかの職に就いている。
その中には医者や教師もいるだろうし、普通のサラリーマンやショップのオーナーみたいな人もいるだろう。
つまり、この話の内容が、私と彼女の中で食い違った原因は、OLという言葉の捉え方にあったということだ。
私は、“O.L.”を“Officer of Lethal”と。
そして水亜さんは、OLを“Office lady”、つまりは女性社員として理解していたのだろう。
まさか、仕事が両方とも“O.L.”だったなんて……これじゃあ、鎌かけても意味なかったわね……。
「沙弥ちゃん? どうかしたの?」
「え?」
私の顔を覗き込むのは、またしても怪訝そうな表情を浮かべる彼女の顔。
その瞳から感じ取れる微かな不安は、おそらく私への心配の意だろう。
「慣れない環境で疲れた?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「眠たかったら無理しないようにね? 二階にあるベッドを使ってくれていいからさ」
「はい。ありがとうございます」
感謝の意を示しながら、私は飲みかけのスープに手を伸ばした。
そして、それをすっかり飲み終わった頃。

――……あれ?

屋敷を出て以来、ずっと精神に緊張状態を強いてきたからか、リラックスした途端、急激な睡魔が襲ってきた。
体から力が抜けてゆく。

――ドサッ。

背中を刺激した柔らかい衝撃に、私は絨毯の上に倒れたことを認識した。
「どうし……の……沙弥……」
私の名を呼ぶ水亜さんの声が聞こえる。
だけど、もうそれに反応するだけの余裕はない。
私の身体と意識は既に剥離していた。
もはや、この身を襲う気だるい脱力感に抗う術はない。
本能の命じるがままに、私はゆっくりとその流れに身を任せた。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時09分(36)
題名:亡くなっても消えない絆(第十五章)

――バンッ!

壊さんばかりの勢いで開け放たれた扉の音が、夜の屋敷に漂っていた静寂を切り裂いた。
「沙弥はっ!?」
次いで放たれる、狼狽を露わにした男性の大声。
「お帰りなさいませ、旦那様。沙弥様はまだ……」
「そうか……分かった……」
旦那様と呼ばれた男性は、うなだれながら靴を脱ぐと、出迎えてくれた家政婦に鞄を渡して、屋敷の奥へと歩みを進めた。
彼こそ、名目上日本のトップである男性。
内閣総理大臣こと咸枷大善(みなかせ だいぜん)だ。
東大を中退して海外に渡り、五年ほど各国を放浪した後帰国。
諸外国にて学んだ知識を基盤に、日本と海外との違いを具体例を上げて暴露した上で、今の日本の政治体制を徹底的に批判した、変わり種の政治家。
話術に秀でており、自分の発言に確固たる説得力を持たせることによって国民の支持を得、2年前に内閣総理大臣に就任した。
改革にあらん限りの力を注いでいるため、閣僚たちの間でも、彼を中心とする革新派と、厚生労働大臣を中心とする保守派の二つのグループは、常に対立し続けている。
だが、今までの口だけ改革の総理と違った、有言実行なその姿勢に、総理就任から2年が経過した今も、国民からの人気は未だに高い。
迷いや雑念を捨て、新しい境地を拓くためひたむきに改革に準ずる。
「……」
そんな彼が、今は後悔に苛まれながら肩を落としていた。
彼にとって、沙弥という一人娘の存在がどれほど大きいものかを、その姿が雄弁に表している。
いくら時代の革命児と呼ばれた変わり者でも、やはり人の親ということだろうか。
ちなみに、彼がこの屋敷に帰ってくるのは約3ヶ月ぶりだ。
忙しいという理由で、寝泊まりはいつも首相官邸ばかり。
昼間にいくら電話しても繋がるはずはなく、夜寝る前にほんの少しの会話を交わすだけ。
その会話も、ほとんどが就寝前の挨拶だけで、普通の親子らしい会話なんて数える程度しかない。
そんな状況を数ヶ月も続けていれば、親子の間に溝が生じるのも頷ける。

――私が……悪かったのか?

自分自身に問う。
内閣総理大臣として、やるべきことをやったまで。
そう、日本国民の代表として、私のやったことに間違いはない。
だが、父親としてはどうだ?
母親を失った、年頃の娘を持つ一人の父として、私は何をした?
一体何をしてやれた?
孤独に心を蝕まれながらも、私の立場を案じて無理に気丈を保つ彼女に、余計な重みを背負わせていただけではないか。
人一人……自分の娘一人救えずに、何が内閣総理大臣だ……!
「くそっ……!」
握った拳で強く壁を叩く。
衝撃に一瞬手が痺れたが、それは直ぐに治まった。
この程度の痛みでは、胸を締め上げる罪悪感を紛らすことすらできない。
顔を上げる。
その眼前にある木製の扉。

――ここは沙弥の……。

久しく見ていなかったが、忘れるわけがなかった。
そういえば、娘の部屋に入ったのなど、一体何年前の話だろう?
ここ最近帰っていなかったし、いくら親子という間柄とはいえ、そろそろ中学に上がろうかという年齢の少女の部屋だ。
軽率に足を踏み入れるのは、なんとなく気が憚られた。
だが、今日は状況が違う。
もしかしたら、沙弥がどこへ行ったのか、何か手がかりがあるかもしれない。
「……」
暫しの間躊躇った後、

――キイィ。

私は扉を開け放った。
部屋の中に足を踏み入れる。
塵一つとない床に、キレイに整えられたシーツ。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時10分(37)
題名:亡くなっても消えない絆(第十六章)

いつ沙弥が帰ってきてもいいようにとの、家政婦たちの心配りだろう。
両サイドの本棚をところ狭しと占領する本たち。
そこに、年頃の少女が読むような漫画や雑誌の類は一切無く、あるのは小難しい哲学書やら参考書ばかりだ。
そして、それらの全ては、私が買ってきてやったものだった。
四六時中の勉学を無理強いしたつもりはなかったが、それでもやはり、沙弥にとってはただの負担でしかなかったのかもしれない。
部屋の中央に置かれている、クロスのかけられた丸テーブル。
その上の花瓶に生けられた数輪の胡蝶蘭。
咲いた花の形が蝶の舞う姿に似ていることから、その名が付けられた花だ。
だが、主のいなくなった部屋に咲くその姿は、美しさより弱々しい儚さを醸し出しているようだった。
「……ん?」
ふと、視界の隅に何かが映り込む。
枕元の背の低い棚の上だ。
歩み寄り、その何かを確認する。
写真立てだ。
だが、伏せられているせいで、そこに何が写っているのかは分からなかった。
手に取り、それを本来あるべき姿勢へと戻す。
そこに閉じ込められた、過去の断片を見た瞬間、
「……」
私は言葉を失った。
確か……そう、この時は、沙弥が小学校に入学した日だった。
沙弥の思い出に残るようにとのあいつの提案で、家族水入らずで遊園地に行くことになった。
いつものスーツを脱ぎ去り、似合わないカジュアルな服飾に身を包んだ私。
沙弥を挟んで反対側には、優しく微笑むあいつの姿が。
真ん中に立つ幼き頃の沙弥は、満面の笑みでそんな二人の手を握っていた。

――あの娘は、あなたを求めてるわ。いくら気丈に見せても、心の奥底ではね。

昔、あいつに言われた言葉が、一言一句の誤ちもなく鮮明に蘇ってきた。
長い間眠っていた記憶が呼び起こされる。
「……沙閖(さゆり)」
小さな声でその名を呼ぶ。
それだけで、今まで忘れたフリをして見ることをしなかった数々の思い出たちが、巨大な奔流となって押し寄せてくるようだった。
「……くっ」
懐かしい響きに緩んだ涙腺を押さえ付ける。
だが、溢れ出す涙はもはや止まることを知らず。
「くっ……うぅ……」
声を押し殺し、流れ落ちる涙を必死に堪えようとする。
うねりを上げる高い波に、心身の堤防は共にあっけなく崩壊した。
あの時以来、涙を流すのはこれが初めてだ。
こんな自分の姿を見たら、あいつは一体どんな言葉を掛けるだろう。
慰めてくれるだろうか?
それとも、情けない人とバカにされてしまうだろうか?
……いや、多分、笑っているだろうな。
沙弥と一緒にこっちを見て、

“ほらほら、見てごらん。お父さんが泣いちゃってるよ〜。面白いね〜”

なんてことを言いながら、おかしそうに笑っている姿が、まるで目に浮かぶようだった。
「……ふっ」
自然、口元が綻ぶ。
指で軽く目元を拭い、溢れる涙を払った。
「そうだな。泣くなんて俺らしくないよな……」
小さく呟き、うつ向きがちだった目線を持ち上げる。
「分かってるよ、沙閖。俺は、総理である前に、沙弥の父親だ」
窓の向こうに見える暗い夜空。
そこに浮かんだ、徐々に満ち行く半月を見つめるその瞳に、もはや迷いの色は欠片と見えなかった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時12分(38)
題名:亡くなっても消えない絆(第十七章)

――……ん……きて……。

意識の水面を撫でる誰かの優しい声。
いつも、強制力に満ちた目覚ましの耳障り極まりないアラームで一日を始める私にとって、その声色はあまりにも優し過ぎた。

――……さん……起きて……。

体を揺さぶられる感覚で、深い眠りに落ち込んでいた意識がゆっくりと目覚め始める。
だが、それでもまだ不十分。
この程度では、目を覚まさなければという理性より、まだ眠っていたいという本能の方が強いに決まっている。
「う……んぅ……」
布団を被り直し、その覚醒を促す声に抗おうと寝返りを打とうとした……、

――……え?

瞬間、にわかに感じた浮遊感。
だが、それに関して不思議を感じているだけの時間はなかった。

――ドンッ!

殴打にも似た鈍い音を伴って、背中側に衝撃が走った。
「かはっ!?」
思わずうめき声を上げる。
「だ、大丈夫ですか!?」
すぐ近くから聞こえてくる不安げな声。
何が起こったか分からないまま、私は反射的に身を起こした。
視界に映るのは、見慣れた自分の部屋の景色……などではなく、リビングの床の上からの景観だった。
カーテンの開ききった窓を透過して、朝の陽光がさんさんと部屋に差し込んでいる。
「んぅ……」
眩しさのあまり、目を細めながら手をかざし、寝起き間もない瞳には厳しい陽の光を遮る。
しかし、合点がいかない。
何で、私はこんなところで寝ていたのだろう?
意識は既にはっきりしていたが、脳内はまだ寝ボケているらしい。
それに、気分もあまり良くない。
いや、痛みによって、無理矢理夢の世界から引き戻されたのだ。
寧ろ悪い方だろう。
なかなかに最悪の寝覚めだ。
「……あの……えと、大丈夫……ですか……?」
再び背後から聞こえる声。
今、そこに含まれている感情は、不安よりも戸惑いの方が大きそうだ。
「ん……」
声のした方を振り返る。
そこにいたのは、やはり困惑を露わに、不思議そうな眼差しでこちらを見つめる、エプロン姿の沙弥だった。
同時に、噛み合っていなかった記憶の歯車が、がっちりと組み合わさる。
そうだ。
昨日、なんたる偶然か、家出した総理大臣の娘を公園で見つけ、放っておく訳にもいかず、連れ帰ってきたんだった。
で、リビングでのほほんと話してる内に、突然倒れ込むようにして寝てしまった彼女を自分のベッドに横たえて、結果寝る所のなくなった私は、仕方なくソファーで寝ることにしたんだっけ。
あやふやだった記憶が明確になってゆくにつれて、寝ぼけていた脳も次第に回転し始めたようだ。
……しかし、まさか寝返り打って落下とは……みっともない姿を見せてしまった。
「あぁ……大丈夫大丈夫」
背中に走る痛みを無視し、小さく苦笑いしながら私は答えた。
まぁ、毛布を巻き込みながらの落下だったので、そこまで激痛という訳ではなかったのだけれど。
「そうですか? なら良いんですけど……」
こちらを見つめる沙弥の瞳。
そこにはまだ、心配と怪訝の色がありありと浮かんでいた。
自分の見てる目の前で、いい歳した大人が、あろうことか睡眠中にソファーから落ちたのだ。
自分で言うのもなんだが、無反応でいろと言う方が無理な話だろう。

――……ん?

そんな情けないことを考えていると、不意に何かの香りが鼻孔を刺激した。
芳しい、食欲をそそる仄かな香り。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時12分(39)
題名:亡くなっても消えない絆(第十八章)

その方に視線をやると、普段ほとんど使われることのない白色の四角いテーブルの上に、幾つかの食器が並べられているのが見えた。
一つには、こんがりと焼けたトーストが。
また一つには、黄身二つの目玉焼きと、軽く焼かれたベーコンが乗せられていた。
「おぉっ!」
思わず声を上げる。
普段、面倒くさいという理由で、まず朝食なんか作らない生活習慣が故に、朝の食卓という何でもないはずの光景が、やけに輝かしく見映えするようだった。
「それ、全部沙弥が作ってくれたの?」
「あ、はい。泊めてもらった恩返しと言うと図々しいかもしれませんが、何かお返しがしたくて……」
沙弥が頬をかきながら、照れくさそうに答える。
当初、彼女に会うまでの、私の中でお偉いさんの娘というのは、自分では何も出来ない、ちょっと世間知らずなイメージだった。
だが、実際はどうだ?
どう考えても、全っ然私よりしっかりしているではないか。
……負けたようで、何だか無性に悔しい。
「水亜さん、どうかしたんですか? 早く食べないと、朝ごはん冷めちゃいますよ」
「あ、うん、そうだね。それじゃ、いただきま〜す」
トーストの上にベーコンを乗せ、隅の方からかじりつく。
サクッという香ばしい音と共に、美味い具合にミックスされたトーストの甘味とベーコンの塩味が、口の中いっぱいに広がる。
舌を刺激する甘みと塩味のコラボレーション。
うむ。
なかなかに美味だ。
さて、次は目玉焼きをいただきましょうか。
黄身二つの目玉焼きを、縦に割って一つずつに分ける。
二つに分解したそれを一つ、トーストに乗せて、黄身ごとトーストにかぶりつく。
途端、溢れ出す卵黄の旨味。
なるほど。
見事な半熟加減だ。
焼けたトーストに、この上ないほどベストマッチ。
「……どうですか?」
テーブルを挟んで、向こう側から投げかけられる声。
何だか強張って見える肩からは、緊張していることがありありと伺い知れた。
総理大臣の娘とはいっても、ここら辺は普通の女の子なんだな。
可愛らしいじゃないの。
……ちょっとだけ意地悪してみよっかな。
「……聞きたい?」
「え?」
予想外の返しだったのだろう。
目を点にして、こちらを見つめてくる沙弥。
「あ、はい!」
私の言ってることを理解して、沙弥は慌てて首を縦に振った。
「……ほんとーに聞きたい?」
ふざけた声色とは対照的に、私は真剣に眼差しを作った。
もちろん、そんなのはただのブラフだが。
「は、はい……」
しかし、今の沙弥には多少なりとも効果はあったようだ。
私の念押しに気圧されたのか、心なしか不安そうに答える。
「……」
そんな沙弥を無言で見つめる私。
「……」
そして、息を呑みながらこちらを見返す沙弥。
「……」
真剣な目つきのまま、私はゆっくりと体を乗り出した。
テーブルに手を付き、他に視線を逸らすことなく。
「うぅ……」
小さくうめきながら、沙弥は少しだけ上体を後ろに逸らした。
その全身から放たれる気配は、緊張を通り越し、若干の恐怖さえ伴っているように見える。
そろそろ頃合いかな?
「美味しいよ」
私は、身を乗り出した体勢のまま、満面の笑みを浮かべて言った。
「え……あ、えと、その、あ、ありがとうございます……」
先ほどまでの真剣さとは打って変わった私の様子に、戸惑いながらもそう言葉を返す沙弥。
「もう……意地悪ですね、水亜さんって」
口を尖らせて、不満げに呟く。
だが、その表情からははっきりと安堵が見てとれた。
こうして見ていると、どこにでもいるような普通の少女にしか見えない。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時13分(40)
題名:亡くなっても消えない絆(第十九章)

いや、彼女自身は、他と何ら変わることない、ごくごく一般的な女の子なのだろう。
違うのは、生まれ育った環境だけ。
ただそれだけだ。

――カチッ。

「あ、出来たみたい」
台所の方から聞こえてきた小さな音に、沙弥が両手のナイフとフォークを置いて立ち上がった。
私に背を向け、その方へと歩みを進める。
「出来たって何が?」
「コーヒーですよ。水亜さんは今から会社なんですから、職務中に眠たくなったりしないよう、今の内にぱっちりと目を覚ましてもらわないと」
「おぉっ! 気が利くじゃないの」
朝食だけでなく、食後のコーヒーまで用意してくれていたとは。
朝から何と豪勢なことか。
こんなにしっかりとした朝食を取るのは、一体何ヶ月……いや、何年ぶりだろう。
こう考えてみると、自分がどれだけ不健康な食生活を送ってきたのかが、嫌でも身に染みて分かってしまう。
料理はあまり得意ではないし、早起きは私の最も苦手とするところだけど……たまには、ちょっと頑張ってみようかな。
「水亜さ〜ん、砂糖とミルクはどうします〜?」
「あ、砂糖はいらないわ。ミルクだけお願い」
「は〜い。分かりました〜」
部屋をまたいでの簡単な会話。
こうしていると、何だか妹が出来たみたいで、ちょっぴり楽しい。
程なくして、沙弥が小ぶりのティーカップを片手に戻ってきた。
「お待たせしました」
そう言って、私の前にコーヒーの入ったそれを差し出す。
カップから立ち上る香ばしい香りが、嗅覚を心地よく刺激する。
口に含むと、途端に広がる苦みばしった独特の旨味が、脳内を完全に覚醒させた。
うん、やっぱり朝はコーヒーに限る。
「……あ」
「ん?」
そんなことを考えていた折り、向かい側から上がった唐突な声に、私は手に持っていたカップを置いた。
口に含んでいたコーヒーを喉に流し込み、彼女へと視線を向ける。
「何?」
「え、えと……その……」
もごもごと口ごもるその姿は、明らかに様子がおかしい。
……何だか嫌な予感がする。
「……水亜さんって、いつ頃会社に向かうんですか?」
「え? そうね……大体8時過ぎくらいに家を出れば間に合うけど……」
そう答えながら、私は壁にかけられた時計へと目を向けた。
時計の針は、まだ7時半過ぎを示している。
別に問題はない。
だが、私のそんな余裕は、彼女が放った次の言葉によって、脆くも崩れ去ることになる。
「……あの時計、止まってますよ」
「……え゛」
時計の針を凝視する。
よくよく見てみれば、秒針が一切の動きを停止していた。
手近な場所に置いたあった充電中の携帯を手にとり、慌てて正確な時間を確認する。
デジタル文字が表す“09:40”という無情な時刻。
脳がその事実を理解するのに数秒。
そして、それが夢でないことを確認するのに数秒。
更に、全身の神経に今から取るべき行動を伝えるのにもう数秒。
「あぁ――――っ!!」
それら全てを終えた時、私は大声を上げて立ち上がっていた。
なんてことだ。
8時過ぎどころか、既に10時前ではないか。
これは、呑気にモーニングコーヒーなどと言っていられる状況じゃない。
私は大慌てでリビングを飛び出すと、自室へと続く階段を駆け上がった。
吹き飛ばさん限りの勢いで扉を開け、部屋に足を踏み入れるなり、私は直ぐ様クローゼットの前に立った。
どうせ、あっちへ着いたら直ぐ制服に着替えるんだ。
中から適当な洋服を取り出す。
そこらへんに寝巻きを脱ぎ捨て、大急ぎで服に袖を通す。
いつも着ている例のコートをふんだくるようにして掴み、脱兎の速度で部屋を後にした。
コートを羽織りながら、凄まじいまでの勢いで階段を駆け降りる。
ダンダンという木製の階段を叩く鈍い足音が、騒音となって家中に響いていた。
が、今の私にはそんなこと関係ない。
沙弥の待つリビングに戻り、立ったままトーストの最後の一切れを、ベーコンの切れはしと共に口の中へ放り込む。
次いでカップを持ち上げ、まだ半分くらい残っているコーヒーを一息に片付ける。
「ごちそうさま」
軽く手を合わせる。
ちょっと舌が火傷したっぽいが、やっぱりそんなことはどうでもいい。
「それじゃ行ってくるね! 何かあったら……」
そこで言葉を止め、私は胸ポケットに常時携帯しているペンを取り出した。
テーブルの隅にあるどこぞの不動産広告のチラシを手に取り、その裏側に携帯の番号を書き記す。
「いつでもここに電話して! 大抵は繋がるはずだから!」
「は、はい……」
「それじゃねっ!」
キョトンとする沙弥を他所に、私はダッシュで玄関へと向かった。
適当に靴を履き、扉を開く時の勢いに任せて外界へと飛び出す。
いつもの通勤路を駆ける私の脳裏には、怒り狂った課長の鬼の如き形相と、山積みとなった仕事に埋もれる机とが、会社に着くその時まで、焼き付いて離れてくれなかった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時15分(41)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十章)

「ふぅ……」
心地よく晴れ渡った昼の青空の下、溜め息が空気中へと溶けてゆく。
ここは会社の屋上。
制服姿の水亜は、そこのフェンスから軽く身を乗り出し、ぼんやりとした眼差しで、空と大地とが接する境界を見つめていた。
時折吹く風が、その長く青い髪をひらひらとそよがせる。
「暇だなぁ……」
退屈そうに呟く。
いかにも手持ち無沙汰と言いたげに。
だが、彼女はあの時刻に家を出たのだ。
無論、定刻に間に合うはずもなく、結果一時間半近くも遅刻している。
普通に考えれば、今頃はお昼もほどほどに、仕事の山と格闘しているはずだ。
では、一体何故、彼女はこんなにも余裕があるのだろうか。
「ちぇっ、課長が休みだっていうんなら、もっとゆっくりしとけばよかったなぁ」
水亜が不服そうに一人ごちる。
彼女の言った通り、今日は課長が休みなのだった。
理由は、小学校入りたての娘の、初めての授業参観に行くためとのことらしい。
授業参観なんか母親任せという男親が多い中で、わざわざ会社を休んでまで出席するとは……従業員(主に水亜)に対してはきついくせに、意外と娘には甘いようだ。
まぁ、だからといって来て欲しいなどと、水亜は欠片も思っていなかったが。
因みに、こういう時こそ、従業員の質が明らかになったりする。
会社というのも、言ってみれば一種の学校みたいなものだ。
先生(課長)が不在のため自習となった時、生徒(従業員)の間で2つのパターンが生まれる。
彼女みたく、先生の目がないことを幸いに、怠け放題ダラダラする不良と、そして、そんな時でも決してだらけることなく課題を行う、生真面目な優等生とだ。
言うまでもないが、水亜は確実に前者の方だ。
絢音と聖も同類だが、彼女たちは今、会社近くの広場にある小さな丘陵状の草原にて、のんびりお昼を取っていた。
先の体勢のまま、少し視線をうつ向かせると、そんな二人の呑気な様子が良く見える。
「あ! み〜ちゃ〜ん!」
こちらに気付き、大声を上げながら手を振る絢音。
「え? あ、せんぱ〜い!」
それに合わせて、彼女と同じように手を振る聖。
その姿に、水亜は苦笑いを浮かべて手を振り返した。
昼時で人が沢山いるにもかかわらず、まるで恥ずかしがることなくそんなことが出来てしまう辺り、そして、周囲から向けられる視線に奇異が混じらない辺り、本当にすごいと思う。
もし、自分がこんなことをすれば、周りから冷たい眼差しを向けられるのは確実だ。
このような行為が普通に許されてしまう二人の可愛さが、ちょっぴり羨ましい。

――そういえば、沙弥は大人しく待ってるかな……。

何気なく視線を持ち上げ、上空高くを埋め尽くす空という名の水色のスクリーンに、彼女の表情を思い描く。
「朝霧……か」
小声で呟く。
総理大臣の娘であることを悟られぬようにと、とっさに偽名を用いるとは、なかなか機転が利いている。
歳の割に聡明というのは、どうやら本当のようだ。
まだまだあどけない少女であることに違いはないが、自分の立場というものを良く理解している。

――それにしても……、

「どうして家出なんかしたんだろ?」
誰に問いかけるでもなく、水亜は訝しげな口調でそう溢した。
多分、家庭内事情……主に父親との疎遠な関係が原因なのだろうが……。
「年頃の女性が、何をこんなところで一人黄昏ているのかね?」
「え?」
そんな思考の折り、不意に背後から聞こえてきた渋い声に、水亜は後ろを振り返った。
「あ、社長」
その視界に映る上司の姿に、軽く頭を垂れる。
「屋上で一人呑気に呆けているとは、珍しいこともあるものだな」
「別に呆けている訳じゃありませんよ。ただ、暇だし風にでも当たろうかなと思いまして」
ゆったりとした足取りでこちらへと歩み寄る義治に、水亜は控えめな笑みを浮かべて答えた。
「似たようなものだろう」
シガレットケースから煙草を取り出し、口にくわえると、手で覆い隠すようにしてそれに火をつける。
「それより、私に向かって公然と暇と言うからには、今日課せられた仕事は全て終えているのだろうな?」
「大丈夫ですよ。問題ありません」

――本当は、全然問題あるんだけどね。

無論、口には出さず、内心密かに呟く。
「なら、いいんだがな。あぁ、そういえば、例の件はどうだ?」
「例の件?」
「昨日話しただろう? 総理大臣の娘が家出したというあれだ」
「あぁ……」
義治の発言に相槌を打ちながら、水亜は次に返す言葉を模索した。
普通に、昨夜起きた出来事をありのまま話せばいいのだろうが、それでは何もかもが彼のシナリオ通りみたいで、何だか気に食わない。
「とりあえず顔は覚えておきましたが、そんな簡単に見つかるはずがありませんよ」
ということで、なにくわぬ表情で嘘をつく水亜。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時19分(42)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十一章)

正式な仕事としてではない以上、知らせなければならないという義務はない。
「そうか。まぁ、仕事ではない以上、無理に探せとは言わないがな」
背広のポケットから携帯式の灰皿を手に取り、くわえていた煙草を揉み潰してそこに捨てる。
閉められた蓋と器の隙間から、白い煙が糸のように溢れ出す。
「さて、そろそろ昼休みも終わりだ。いつまでもこんな所で油を売っていないで、定時には仕事場に戻るようにな」
「は〜い」
そう言い残して踵を返す義治に、水亜はダルそうな口調で返事を返した。
「……あぁ、そうだ」
と、そのまま社長室へと戻るのかと思いきや、義治は階段へと続く扉の前で立ち止まると、体の向きはそのままに、首だけを捻ってこちらを振り返った。
「彼女が家出した原因だがな。実はその翌日、つまりは昨日だな。その日、彼女は父親と出かける予定だったらしい」
「出かける予定だったって、一体どこへですか?」
「さぁな。私もそこまでは知らんよ。直接本人に聞いてみたらどうだ」
「そうですね。今日帰ったら聞いてみま……!?」
と、そこまで言ってから、水亜は自分のミスに気付いた。
慌てて口を押さえ付けるが、一度放たれてしまった以上、時既に遅し。
「ふっ……まだまだ甘いな。もっと大人の駆け引きというものを知ることだ」
「よ、余計なお世話です!」
何だか無性に恥ずかしくなって、水亜は声を荒げながらそっぽを向いた。
先の浅はかな発言が恨めしい。
「有給休暇はまだ残っているのだろう? この際、まとめて使っても構わないぞ。何なら、私から手配しておいてやろうか?」
「う、うぅ……」
ぐうの音もでないとは、まさにこのことだ。
結果、やはり彼の思惑通りに事が運んでしまったということになる。
しかし、あんな鎌掛けにまんまと釣られるなんて、自分でも思いもしなかった。
……何だか、悔しいという気持ちよりも、それを軽く超越して、ある種の惨めささえ感じる。
「さて、それでは私は中に戻るよ。明神君も、色々しっかりとな」
そんな意味深な言葉を最後に、義治の姿は扉の向こうへと消えていった。
「……はぁ」
その後ろ姿を見送った後、水亜の口から発せられたのは重い溜め息だった。

――ルルルルルル。

制服の上に羽織ったコートの胸ポケットから響いてくる、携帯のコール音。
取り出しその画面を見てみれば、着信番号は自分の家電。
沙弥からの電話だ。

――ピッ。

通話ボタンを押し、携帯を耳にあてがう。
「もしもし」

――あ、水亜さん。お勤めご苦労様です。

携帯越しに、沙弥の大人びた声が聞こえてくる。
“お勤めご苦労様です”と言いながら、軽く頭を下げている様子が目に浮かぶようだ。

――今、電話してて大丈夫ですか?

「うん。別に構わないよ。何かあったの?」

――いえ、何があったという訳じゃないんですけど……。

「じゃあ何?」

――えっと、今日の晩御飯、どうするのかな〜って。

「晩御飯かぁ……まだ考えてないや」

――……良かった。

「ん?何か言った?」

――あ、いえ、何でもないです……あの、良かったらなんですけど、今夜の夕飯、私が作っても構わないですか?

「え?作ってくれるの?」

――水亜さんが良ければ……ですけど。

「もちろん良いわよ。私としても大助かりだもの」

――それじゃあ、帰りに材料の買い出しをお願いできます?

「オーケー。何を買って帰れば良い?」

――なら、カイワレと大根と……えぇっと……鶏ミンチを200gと、大葉を15枚、それにセロリを一本お願いします。

「りょーかい」

――ありがとうございます。それじゃ、待ってますね。

――ピッ。

という小さな電子音を区切りに、その会話は通話中の単調な音に遮られた。
携帯を折りたたみ、胸ポケットへとしまい込む。
下を見下ろしてみると、そこに絢音と聖の姿は無かった。
もうオフィスに戻ったのか、それともどこかでまだサボっているのか。
あの二人がどちらにせよ、先ほど携帯で確認した時間によれば、昼休みは既に終わっている。
社長に対して、問題ないなどという大口を叩いたからには、ちゃんとこっちのOLとしての責務も、全うしなければ。
にしても、まともに食材を買って自炊なんて、いつ以来だろうか。
最後に包丁を握ったのは、随分と昔な気がする。
しかし、私はただ材料を買ってくるだけで、調理するのはまだ幼い沙弥な訳で……。

――……これじゃ、どっちが年上か分かったもんじゃないわね。

そんなことを考えて、思わず苦笑いを溢しながら、水亜は屋上を後にしたのだった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時20分(43)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十二章)

「ふぃ〜、さっぱりした〜」
風呂を上がって、私はリビングに戻るなりそう口にした。
いつもなら、そのまま冷蔵庫まで駆け寄り、缶ビールを一気なのだが、さすがに今日はそういう訳にもいかない。
まだ幼い同居人の少女の中にあるであろう、大人な女性のイメージを、これ以上ぶち壊すのは私の求めるところではないからだ。
っていうか、これ以上おばさんな私を出したくないと言った方が良いかもしれない。
私とて、まだ華の20代。
散るにはまだまだ時期尚早だ。
まぁ、ワンピースを着たまま床であぐらをかいていたら、女性としての何かを捨てている気がしなくもないが、楽なんだからしょうがない。
それに、見られなければどうってことないし。
「あ、水亜さん。もうすぐ夕飯出来るんで、座って待ってて下さい」
台所の方からする沙弥の声に、私はそちらを向いた。
首からエプロンをぶら下げた、彼女の小さな後ろ姿。
まだちょっと背が足りないのか、背伸びをしてせかせかと両腕を動かしているその姿は、何だか愛らしい小動物を連想させる。
「何か手伝おうか?どうせ暇だし」
「でも、水亜さんオフィスワークで疲れてるんじゃないんですか?」
「別に平気よ。今日は全然忙しくなかったから」
事実、今日は全くもって忙しさとは無縁の一日だった。
課長が居ないオフィスは、一日中だらけた空気で満ちていて、とてもじゃないが仕事なんかする気にもなれなかった。
絢音と聖なんかは、その最たるものだろう。
一体どこから持ってきたのか、オフィスの机より二回り以上は大きい紙を使って、巨大な紙飛行機なんかを作っていた。
そのあまりに見事過ぎるサボりっぷりには、私も思わず仕事しろと言いかけてしまったが、自分が仕事をする気ナッシングな以上、何も言うことはできない。
ってな訳で、“僕(私)たちの夢を乗せ、大空を華麗に舞え!アヤサト1号”と名付けられたそれ(略してアヤサト)が、下らない夢を乗せていざフライトという時。
屋上から飛ばすアヤサトの勇姿を見届けてくれと二人にせがまれ、何故か連れていかれた私の目の前で、悲劇は起きた。
絢音と聖がそれぞれ両弦に分かれ、アヤサトを地面と水平に保ち、絢音の合図で同時に手を離した、まさにその時。

――ビュン!

唐突に吹き抜けた強風に煽られたアヤサトは、瞬時の内にその翼を折られ、華麗に舞う間もなく無惨に落下。
どんな夢を搭載していたのかは知る由もないが、ついでに二人分のその夢も撃沈。
呆気に取られる聖と、半泣き状態ですがるように私を見つめてくる絢音の姿が、今も瞼に焼き付いて離れない。
ちなみに、その後に残った、元は紙飛行機を形成していたはずの巨大な残骸は、原因を作ったバカ2人にしっかりと片付けさせ、私は我関与せずを決め込んでいたので被害無しだ。
とまぁ、こんな感じだったので、どう過大評価しようとも、忙しい一日ではなかったのだ。
「そうですか。では、お茶碗にご飯をよそってもらえますか?」
「おっけー」
私はテーブルに手を付いて立ち上がると、台所の方へと歩みを進めた。
白いレースののれんをくぐると、途端に香ばしい香りが鼻をついた。
ジューという肉を焼く音と相まって、より食欲を刺激する。
「ねぇねぇ、何を作ってるの?」
棚から茶碗を取り出し、炊飯器の前に屈み込みながら、私はそう問いかけた。
「鶏ミンチの大葉包みとセロリスープ、それにカイワレと大根のサラダですよ」
「おぉっ! 何だか豪勢な感じじゃない」
「そんなことないですよ。もし不味くても、あんまり責めないで下さいね」

月夜 2010年07月07日 (水) 00時21分(44)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十三章)

「大丈夫大丈夫。こんなに良い匂いしてたら、絶対問題なしだよ。あ、お箸も出しておこうか?」
「あ、ありがとうございます」
立ち上がり、箸を二人分持って、私は一足先にリビングへと戻ることにした。
湯気の立ち上る茶碗と箸をテーブルに置き、再び床に腰を下ろす。
それとほぼ同時に、台所から沙弥が姿を現した。
両手に大きめの皿を持って、それをテーブルに置くなり直ぐ様台所へ戻り、今度はスープの入ったマグカップを手に戻ってくる。
「はい、お待たせしました」
沙弥が、二つあるマグカップの内一つを私の方へ差し出す。
「ありがと」
それを受け取りながら、私は笑顔を返した。
向かい側に彼女が座るのを待って、両の手のひらを合わせる。
「じゃ、いただきます」
「どうぞ、お召し上がり下さい」
箸を手に持ち、まず最初に何をいただこうかなっと。
……こういう時は、メインからいくものよね。
そう思い、私は大葉にくるまれた鶏肉へと箸を伸ばした。
中央で二つに割り、中を確認。
……うん、しっかりと火は通ってるみたい。
片方を持ち上げ、口元へと近付ける……、
「……」
と、そのすぐ手前で、こちらを見つめる沙弥と目が合った。
真剣な眼差しの奥に覗けるものは、今朝と同様の怯えの色。
何だか、どこぞの料理番組の審査員にでもなった気分だ。
そんなに緊張しなくてもいいのに。
口内にそれを放り込み、よく噛んで味を確かめる。
「おっ! すごく美味しいじゃない!」
次の瞬間、私はそう口にしていた。
「本当ですか!? 良かった……」
胸に手を置いて息を付く沙弥の表情からは、これまた今朝と同じく、喜びの中に含まれる安堵の気持ちが、目に見えて分かった。
「どうやって作ったの?」
「えっと、鶏ミンチを塩胡椒と醤油ちょっとで味付けした後、冷蔵庫に調理用ワインが残ってたので、それを一緒に混ぜて、一口大程度の大きさにまとめてから大葉で巻いて、両面をまんべんなく焼いたんです」
「へぇ〜。沙弥って料理上手なんだね」
私は感心しながら、次にスープの入ったマグカップに手を伸ばした。
「そんなことないですよ……あ、それは、コンソメを元にちょっと多めに胡椒をいれて、ピリ辛な感じで仕上げてみたんです」
沙弥の説明に耳を傾けながら、中のセロリごとスープを口に含む。
なるほど。
シャキシャキしたセロリの食感と、辛めに仕上げられたコンソメスープとが、上手くマッチしている。
「うん、こっちも美味しいよ」
「そう言っていただけると、私としても作った甲斐があります」
私の微笑みに、沙弥も無邪気な笑顔で応える。

――直接本人に聞いてみたらどうだ?

不意に蘇る、昼休みに交した屋上での会話。
その気持ちがないと言えば嘘になるが、余り詮索したくないというのも真実だ。
不用意な言葉で、彼女の心を傷付けたくはない。
かといって、この状態をいつまでもダラダラ続けることは出来ない。
しばし悩んだ末、私はこう切り出すことにした。
「そういや、ずっと聞き忘れてたんだけどさ」
「何です?」
「私達が会った時、何で沙弥はあんなとこにいたの?」
「あ……」
突如、彼女の表情に射す暗い陰り。
それを見た瞬間、一瞬心を後悔が襲ったが、私はそれを敢えて無視した。
このまま、いつまでも彼女をここに置いておく訳にはいかないから。
何より、彼女はこんなところに居てはならないから。
「……家出です」
そう、彼女は寂しい声で呟いた。
家出か……まぁ、予想通りの答えといったところだ。
「どうしてそんなことを?」
「えっと……ちょっとお父さんと喧嘩しちゃって……」
お父さん……つまりは、咸枷大善総理のことね。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時22分(45)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十四章)

でも、まぁ彼女からしてみれば、総理大臣である前にたった一人の父親なんだろうな。
「何で、そんな喧嘩になっちゃったの?」
「それは……」
少しの間口ごもった後、
「……お父さんが、約束を破ったから」
うつ向きがちに、沙弥はそう答えた。
「約束って?」
「一緒に遊園地に行こうって……一週間も前から約束してたのに……」
沙弥の言葉に含まれ始める、明確な悲哀の感情。
彼女のそんな声を聞いているだけで、胸がキリキリと締め付けられるようだった。
「……でも、もういいんです」
そしてその声は、直ぐにまた波長を変えた。
「え……?」
「お父さんにとって、私なんか手のかかるお荷物でしかないんです。仕事の邪魔になるだけの厄介な存在……」
自虐的にそう呟く沙弥の口調は、哀しみを通り越して、もはや自暴自棄になっていた。
「私と話す時間なんて、夜中の寝る前にほんの少しだけ。話すことだって、ほとんどが就寝前の挨拶くらいで、他に話なんか何も出来やしない……きっと、私と話すことすら面倒だと思ってる……」
片方だけ釣り上がった口元が、醜い微笑の形のまま、次々と負の想念を言葉にしてゆく。
「そんなこと……」
「じゃあ、どうしてよ!?」
そんなことないと言おうとした私の言葉を、突如として上がった沙弥の怒号がかき消した。
「何で、お父さんは帰ってきてくれないの!? 毎日毎日仕事だって言って、もう三ヶ月と12日間もの間、顔も見てないわ! 何で、お父さんは何も私のことを聞いてくれないの!? 私だって、お父さんに話したいことはいっぱいあるのに! 今日学校でどんなことがあったかとか、友達とこんなことして遊んだとか、お手伝いさんの人とこんな話をしたとか、いっぱい……いっぱいあるのに……!!」
溢れる涙を抑えることすらせず、勢い任せに放たれる彼女の想い。
今まで溜め込んできた全てを吐き出すかの如く、大声で叫び散らすその姿こそが、その言葉こそが、嘘偽りのない、沙弥という少女の本当の姿なのだろう。
「どうして、お父さんは約束を破ったの!? 一週間も前に約束してたのに! その日は絶対に空けておくって言ってたのに! 私なんかより、仕事の方が大事だっていうのなら、最初から出来もしない約束しないでよ! 私なんかのことどうでもいいんなら、最初からそう言ってよ! 嫌い! 嫌い! お父さんなんか大嫌い!!」
溢れ落ちる涙に服を濡らし、声の限りを尽くす沙弥。
そんな彼女の心の叫びを一身に受け止めながら、私は思った。
あぁ、そうか。
沙弥は、本当にお父さんのことが好きなんだな。
好きだから、どんな理由があろうとも、彼が自分との約束を破ったという事実が許せないのだろう。
嫌いだったら、約束を破られたことに腹を立てるより以前に、約束なんかしないだろうから。
この涙は、相手のことが本当に好きだからこそ流せる、とても純粋できれいな涙なんだろうな。
「うぅっ……っく……」
幼子のように泣きじゃくる沙弥を前に、私は掛ける言葉が見当たらなかった。
どんなキレイ事を口にしたところで、所詮は他人の戯言。
当人のことを何も知らない私が何を言っても、それは第三者の同情を越えるものじゃない。
……だから、私は敢えて何も言わないことにした。
「……」
その場に膝を立て、テーブルの上に上体を乗り出した。
ゆっくりと伸ばす手を、泣きわめく沙弥の首に回して――

――ギュッ。

――そのまま、彼女を抱きしめた。
いつかのように、ゆっくりとその腕に力を込めていく。
「えっ……?」
私の胸の中から、こちらを見上げる沙弥の瞳。
そこに宿る驚きの色は、彼女の内心を露わにしていた。
「あはは、昨日からこんなのばっかりでごめんね。でも、私って口下手だからさ。こういう時、なんて言ってあげたら良いのか、よく分かんないんだ」
極力明るくおどけた口調を意識して、私は微笑みながら呟いた。
そう。
掛ける言葉が見当たらないのなら、その代わりを態度で表したら良い。
どんなにキレイな言葉で取り繕ったって、そんなものは上辺だけの憐れみでしかない。
なら、それ以上の思いを行動で示したら良い。
ただ、それだけのことだ。
「水亜さん……」
そんな私の想いが伝わったのか、私の名を呼ぶか細い震えた声から、先のような退廃的な響きは消えていた。
こちらを見上げる、純真無垢な澄んだ瞳。
見つめられていると思うだけで、ちょっと気恥ずかしさを覚えるくらいだったが、私はそんな視線から一寸たりとも目を背けることなく、ゆっくりと言の葉を紡いだ。
「泣いていいよ。涙が枯れて、出なくなっちゃうまで。それまで、ずっとこうしててあげるから……」
「うっ……うあああぁぁ……っ!!」
私の胸に顔を押し当てて、声を上げて泣きながらも、必死にその泣き声を堪えようとする健気な少女の栗色の髪を、彼女が泣き疲れて眠ってしまうその時まで、私は優しく撫で続けた。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時26分(46)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十五章)

「う……ん……」
薄く靄のかかった意識の中、私は目を擦りながら、重い瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界が捉えたのは、昨日目覚めた時と同じく、ただ白いだけの天井。
上体を起こし、周囲を見渡す。
そこにある景色も、昨日と全く同じ。
どうやら、ここは水亜さんの部屋みたいだ。
けれど、何だか記憶が曖昧だ。
昨日、私は自分で階段を上った覚えはないのだけれど。
いや、それ以前に、いつ眠ってしまったのかさえよく分からない。
昨夜、一体何があったんだっけ?
思考という行為を始めるにつれて、頭にかかっていた白い靄が徐々に晴れてゆく。
「……あ」
そこで、私は全てを思い出した。
そうだ。
昨日、水亜さんに家出した理由を話してて、つい感情的になっちゃったんだ。
泣きじゃくりながら、みっともなく取り乱すそんな私のことを、水亜さんは……

――ギュッ。

……優しく抱きしめてくれたんだ。

――泣いていいよ。涙が枯れて、出なくなっちゃうまで。それまで、ずっとこうしててあげるから……。

今でも、その時の暖かい抱擁と言葉は、まるでついさっきのことであるかのように、鮮明に思い返すことが出来た。
以前、あんな風に抱きしめられたのは、一体いつだっただろうか。
あの時だけは、水亜さんのことが、気さくなお姉さんではなく、包容力のある優しいお母さんのように感じられた。
「……」
窓から空を見上げる。
上空は透き通るような青さで、そこには漂う雲一つと存在してはいない。
快いまでに晴れ渡った美しい空。
だが、そんな空を見上げる私の心の中では、依然として濁流が渦を巻いていた。
今日で、家出してからもう3日目。
お父さん……心配してるかな……。
「……」
ふと時計を見れば、時刻はもう朝の9時を示していた。
今日も平日だから、水亜さんはとっくに会社へ向かったはずだ。
もう少し寝ていたい気もしたのだが、目覚めてすぐにしては不思議と目が冴えて、何だか二度寝できる気がしなかった。
特に空腹感もないし、体調が悪いという訳でもない。
だというのに、何故だか何もやる気が起きなかった。
体中を襲う気だるい脱力感のせいか、ベッドの上にて上体を起こした体勢のまま、動こうという気になれない。
けれど、一日中ずっとこうしている訳にもいかない。
それに、もしかしたら、会社へ向かう前に水亜さんが何か置き手紙を残しているかもしれない。
「……はぁ」
私は重々しく溜め息を溢しながら、シーツに手をつき、ゆっくりとベッドの側に立ち上がった。
ふらつく足取りで部屋を後にすると、手すりを頼りに、一段ずつ階段を下りていく。
下りきったところで右手方向に曲がり、今度は壁についた手を支えに、遅い歩みをリビングへと進めた。
扉を押し開き、無人であるはずの居間に足を踏み入れた私を、
「あ、おはよー。良く眠れた?」
何故か水亜さんの声が出迎えてくれた。
「……あれ?」
私はその場に立ち尽くした。
目を見開き、壁にかけられた時計を確認する。
示される時刻はやはり9時過ぎ。
うん。
やっぱり、さっきのは夢や幻じゃなかったみたいだ。
「水亜さん、会社は?」
「有休使っちゃった」
私の素朴な疑問に、水亜さんはあっけらかんとした口調で答えた。
な、なるほど……。
でも、普通の人はほとんど使わない有休を、こんな何でもない平日の日に堂々と使うなんて……。
すごいと言っていいのかどうかはかなり微妙なところだが、やっぱり水亜さんはすごい。
「さ、それじゃ、準備してきなさいよ」
「え? 準備って?」

月夜 2010年07月07日 (水) 00時28分(47)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十六章)

水亜さんが唐突に投げかけてきた言葉に、私は反射的に問いを返した。
「何言ってんのよ。遊園地行く準備に決まってるじゃない」
「遊園地……?」
「そうよ。昨日約束したじゃない」
「昨日……ですか……?」
私は脳内の記憶バンクから、その約束した時を引き出そうとした。
水亜さんの胸で一頻り泣いたまでは覚えてるんだけど……そこから先はあまり覚えていない。
そのまま泣き疲れて眠ってしまったような気もするし、そんな約束を交したような気もする。
でも、そんなことはどうでもいいこと。

――嬉しい。

単純にそう思えたから。
水亜さんの気遣いが、とても嬉しかったから。
だから、そこへ続く過程なんかは問題じゃない。
大切なのは、私が今抱いているこの気持ちだ。
「思い出した?」
「はい!」
私は元気よく答えた。
もちろん、元より虚実のどちらかさえあやふやな出来事だ。
思い出す思い出さない以前に、事実かどうかすら分からない。
けれど、そんなことは関係なかった。
はち切れんばかりに躍動するこの気持ちに、歯止めをかけることなんか出来やしないのだから。
「それじゃ、直ぐに着替えてきますね!」
「あ、ちょっと待った」
「?」
水亜さんの引き止めの声に、今まさに駆け出そうとしていた私の足が止まる。
「えぇっと……どこにしまったっけな……」
その視界に映る、何やらごそごそと棚をあさっている水亜さんの姿。
ガチャガチャという金属と金属とがぶつかる固い音が、朝の空気をにわかに切り裂く。
「……あ、あったあった」
どうやら、探し物は見つかったようだ。
こちらを振り返る水亜さん。
「はい、これ」
そう言って、こちらへと差し出される彼女の手に乗っていたのは、十字架のシルバーペンダントだった。
「これは?」
「私からのプレゼント。女の子はやっぱりオシャレしなくちゃね」
水亜さんが軽くウインクする。
どことなくお茶目な感じがして、私が言うのもなんだけど、すごく可愛らしい。
「あ、ありがとう」
彼女の手からそのペンダントを受け取り、私はそれをまじまじと見つめた。
窓から差し込む陽光を浴びて、きらびやかに輝く銀色が、飾り気のないシンプルな美しさを放つ。
こういった類の装飾品をプレゼントされたのは、お母さんにこの髪飾りを貰った時以来だ。
早速着けてみる。
「似合う似合う。良い感じよ」
「そ、そうですか……?」
そう言って親指を立てる水亜さんの眼差しに、私は奇妙な気恥ずかしさを覚えながら答えた。
「あ、えと……そ、それじゃあ着替えてきますね!」
そんな感情を誤魔化すように、私は踵を返してリビングを飛び出した。
階段を駆け上がり、部屋に足を踏み入れるなりクローゼットの前へと移動する。
「……」
そこで足を止め、自分の首元に目線を落とす。
その焦点にあるのは、日光を反射して眩く輝く銀色のクロス。
「……えへへ」
それを見つめながら、私は口元が綻ぶのを抑えることができなかった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時29分(48)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十七章)

「それじゃあ行ってくる。もし何かあったら、直ぐ私の携帯に電話するように」
「承知いたしました……旦那様、くれぐれもご無理をなされぬよう……」
「分かっている」
数人の家政婦に見送られながら、私は屋敷を後にした。
すがすがしいまでに澄みきった空を仰ぐ。
眩しい陽光が降り注ぐ朝。
遠くから聞こえる小鳥たちのさえずりが、何とも耳に心地良い。
辺りを吹き抜けるそよ風が、屋敷を取り囲むように林立する木々を揺らし、それはさながら自然が織りなす若葉色のカーテンだ。
いつもと何ら変わらぬ景観。
今日も、世界は当然のことのようにそれを描き出している。
だが、その光景を見つめる私は、明らかにいつもとは違った。
内閣総理大臣という役職上、普段は欠かさずスーツを着込んでいる私だが、今日は厚手のコートにジーンズというカジュアルな服装だ。
今日だけは、堅苦しい服飾と共に、内閣総理大臣という肩書きを棄てると……あの時、写真の中で微笑むあいつに、私はそう誓ったのだ。
今の私は、沙弥という娘をもつ一人の父親でしかない。
「……よし」
そのことを、鮮やかな群青色の空に確認し、私は目線を水平に戻した。
車庫の方へと歩みを進める。
芝を踏む足に、自然と力が込もった。
シャッターの閉まったガレージの前に立ち、その横に備えつけられたボタンを押す。
と同時に、ガーッという濁った金属音を上げて、下ろされていた鈍色の隔壁が取り除かれる。
その向こうに覗けるのは、高級感溢れる黒塗りの車体。
もはや金持ちの称号ともいえる、アメリカ製の車、ベンツだ。
富豪な奴らは好んでこの車に乗るようだが、実のところを言うと、私はあんまり好きではない。
外見の良さにばかりこだわっていて、燃費は悪いし運転はしにくいしと、実用性の面ではお世辞にも高性能とは言えないからだ。
それなら、普通の日本車を使えばいいじゃないかと思うかもしれないが、そういう訳にもいかない理由がある。
早い話が、他の官僚達にナメられるのだ。
自分達の乗っている車が、名目上日本のトップである人間と同じ、もしくは高いグレードだということだけで、急に態度がでかくなるような阿呆。
まったく……そんな下らない考え方をする小者政治家がいるから、日本が良くならないんだな……。
私は心の中でそう呟きながら、ポケットからキーを取り出した。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時30分(49)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十八章)

それを車の方に向けて、そこにつけられたボタンの内一つを押す。

――ピッピッ。

という軽快な電子音を上げて、ウインカーの光と共にドアのロックが外れた。
運転席のドアを開き、革張りのシートに腰を沈める。
ゆったりとしていて座り心地は悪くないが、私はあんまり好きではない。
革製品は基本見映えは良いのだが、デリケートな上に傷付き易いという難点がある。
黒という色のおかげで目立たないが、現にこの車内のシートにも、至るところに傷跡が残っていた。
主に後部座席と、運転席及び助手席の背面側に。
理由は簡単。
幼い頃の沙弥が、爪でひっかいたからだ。
「……」
何気なく後ろを振り返る。
そこには、縦横無尽に走るいくつもの細い傷が。
その中にある、覚えたてのひらがなで書かれた、“おとうさん”“おかあさん”という二つの単語。
それは、この世のものとは思えないくらい、無茶苦茶に歪みまくってはいたが、何とかちゃんとした文字を形成していた。

――えへへ……ほら、おとうさんとおかあさんだよ!

そう言って、満面の笑みを浮かべる幼き沙弥の姿が、鮮明な映像となって脳裏に蘇る。
その時、ベンツという高級車に傷を付けられたにもかかわらず、私は沙弥を怒ろうとすら思わなかった。
それどころか、むしろ嬉しかった。
これがあれば、いつもこの暖かい気持ちを胸に抱きながら、公務へと向かえる。
いつ、どこへ行く時も、沙弥と共にいられる。
そんなことさえ考えていたのだ。
そんな私の思考回路が祟ったのか、沙弥は車内を爪で引っかいても構わないと思い込み、際限なく革のシートに爪で文字を刻み続け、今となってはどこもかしこも爪跡だらけだ。
バックミラーに映る、楽しそうに革を引っかいて遊ぶ沙弥と、最初許してしまっただけに、今更怒ることも出来ず頭を抱える私とを見比べながら、助手席でおかしそうに笑っていたあいつの姿。
何だか、あの頃に戻ったみたいだ。
「……ふっ」
口元に小さな笑みを浮かべつつ、私は運転席に座り直した。
キーを差し込み、強めに捻る。
ドウンという重低音を上げて、点火されるエンジン。
アクセルを踏み、門の方へと向かう。
既に開け放たれている扉をくぐり、屋敷の敷地を後にした。
ここまでは、いつもと同じありふれた過程。
だが、それもここまで。
ハンドルを大きく左にきり、普段とはまるっきり正反対の方角へと車を走らせる。
「……」
走り慣れていない道の先を見据えながら、私はアクセルを深く踏み込んだ。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時31分(50)
題名:亡くなっても消えない絆(第二十九章)

「あ〜、楽しかった〜!」
ジェットコースターの降り口にて、私は大きく伸びをしながら言った。
周囲をキョロキョロと見回し、次の面白そうなアトラクションを探す。
「ん?」
ふと視界に止まった、大きな円柱状の何か。
その最上にあるリング形のシートが、私の見ている目の前で、重力任せに急降下した。
よほど怖いのだろうか。
かなり遠方にあるというのに、そこから上がる人々の絶叫が、こちらまではっきりと聞こえてくる。
「ねぇねぇ、水亜さん。あれ、今度はあれに乗りましょう!」
私は逸る心を押さえ切れず、背後の水亜さんを振り返るなり、大声でそう言った。
「ち、ちょっと落ち着きなさいって……」
そんな私をたしなめる、疲労感をむき出しにした水亜さんの声。
見てみれば、もう降り口ではしゃいでいる私とは対照的に、彼女はまだ階段を降りている最中だった。
手すりを両手で持ちながら、緩慢な足取りでこちらへと歩み寄る水亜さん。
カンカンという鉄の鳴る音にも、心なしか疲弊感が漂っているように聞こえる。
「お昼食べてから今まで、ずっと動きっぱなしじゃない。それでよく疲れないわね」
「だって楽しいんですもん。疲れなんて忘れちゃいますよ」
「にしても暴れ過ぎだって。もうそろそろ夕方よ?」
「え?」
水亜さんの発言に、私は遊園地の中央へと目を向けた。
そこにそびえるのは、ここのシンボル的存在でもある巨大な観覧車だ。
高さは優に100メートルを越え、一周するのに20分近くかかるという日本最大級のそれは、その為だけにここに来る人もいるほど、大規模で常識を逸脱した代物だ。
その中央に取り付けられたデジタルの時計が、秒単位まで今の正確な時刻を表示していた。

――4:30

なるほど。
確かにもうそろそろ夕刻だ。
昼を食べたのが12時半過ぎだったから、かれこれ4時間弱はぶっ続けで遊んでいることになる。
おかしいな〜。
そんなに遊んだ感じはしないんだけど。
楽しい時間は早く過ぎるということを、何だか改めて実感した気分だ。
「それじゃあ、ちょっと休憩します?」
「そうしてくれるとありがたいかな」
そう言って、水亜さんは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
幸い、ほどよい距離に野外カフェがあったため、私達はそこへ行くことにした。
平日ということもあってか、辺りにはほとんど人がいなかった。
まぁ、そのおかげで、並ぶ時間が省けて色々と回れてるんだけど。
ほとんど空席状態の中、中央付近の空いている席に、私達は向かい合って腰を下ろした。
「ふぅ」
大きく溜め息をつく水亜さん。
「少々お疲れですか?」
彼女の態度を見ていれば、そんなことは一目瞭然だったが、とりあえず聞いてみた。
「見ての通りってとこかな」
頬を掻きながら、あはは、というちょっと乾いた笑みを浮かべる水亜さん。
そんな彼女を見ていると、心に小さな罪悪感が芽生えるようだった。
「すいません、何だか振り回し放題振り回して、私だけ楽しんじゃって……」
「な〜に言ってんの。私だって楽しんでるわよ。第一、有休取ってまでして、わざわざ退屈なことに付き合うと思う?」
そんな私の謝罪を、水亜さんは本当に楽しそうな笑顔で、軽くいなしてくれた。
彼女のこういう気さくで取っ付きやすいところ、何となくお母さんに似てる気がする。
「そういえば、喉渇かない? 何か買ってこようか?」
「あ、私が行ってきますよ」
立ち上がろうとした水亜さんを、私は自分が席を立つことで制した。
「そう? じゃあお願いしようかな」
「任せて下さい。お疲れモードな水亜さんは今の内に休んでて下さいね。次はあれに乗るんですから」

月夜 2010年07月07日 (水) 00時31分(51)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十章)

そう言って、私は先ほど見つけたアトラクションを指差す。
円状シートの落下と同時に、先と同じような悲鳴が周囲に響き渡った。
「うわ……何ともデンジャラスなチョイスするわね〜。普通に死にそう」
「大丈夫ですよ。その時は、ちゃんと私が心肺蘇生してあげますから」
「言うじゃないの。それじゃ、沙弥がジュースを買ってきてくれるまでの間に、そうならないようしっかりと疲労回復しておくわ」
そう言って微笑む水亜さんから五百円硬貨を一枚受け取り、私はカフェの裏手にある自販機へと向かった。
その最中、私の脳裏を巡るのは、次のアトラクションのことばかりだった。
心躍るとは、まさにこのことを言うのだろう。
自然、歩みが軽快になる。
スキップでもしちゃいたい気分だ。
曲がり角を折れると、すぐ目の前に自販機が見えた。
正面に回り込み、販売されている飲み物の種類を物色する。
う〜ん……あんまり品揃えは良くないみたい。
ま、私は無難にリンゴジュースでいっかな。
水亜さんは……あ、これにしようっと。
買うドリンクを決めて、私はポケットに握りしめていた五百円玉を取り出し、それを硬貨の投入口に放り込んだ。
全てのボタンが一斉に点灯する。
その内の一つへと指を運び、ちょうどそれを押した。

――ガコン。

自販機から落ちてくる缶の音。

――チャリチャリン。

次いで聞こえる、お釣りの金属音。
その場に屈み込むと、一先ず先ほどの缶ジュースは放っておき、お釣りを右手に立ち上がった。
今度は自分の分を買うため、硬貨を手に投入口へと腕を伸ばした……次の瞬間。

――ドスッ!

肉を打つ鈍く不気味な音が、鼓膜に不快な振動を与えた。
「うっ……!」
次いで、突如として腹部に襲いかかってきた重苦しい痛み。
それは、腹を中心に全身へと広がったりはせず、いつまでもそこに止まり、私の神経をジワジワと擦り減らす。
握っていた手が開き、硬貨が溢れ落ちた。
チャリンという乾いた音が、大気に虚しく響き渡る。
「か……はっ……!」
大声で叫びたいのに、まるで声が出なかった。
溢れ出るのは、声にならない擦れた悲鳴のみ。
苦痛のあまり目の前がぼやけ、視界に映る全ての物の輪郭が、歪んであやふやになってゆく。
一体何が起きたのか、脳が理解するより先に、薄れた意識が肉体から剥離してゆく。
そして、私が腹を殴られたということを理解する頃には、もう意識のほとんどが消えかかっていた。
相手の顔を見ようとしたが、時既に遅し。
歪だった視界は闇へと暗転し、もはや瞳には何の景色も映らない。
「う……ぁ……」
小さく震えることしかできない唇も、何一つと言葉らしい言葉を紡げない。

――水……亜……さん……!

心の中で、途切れ途切れにその名を叫ぶ。
周辺を満たす賑やかな喧騒が、近くからのはずなのに、何故だかやけに遠く聞こえた。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時32分(52)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十一章)

「くそっ……」
弱々しい悪態が、車内に虚しく響き渡る。
粗方想像し得る心当たりは、もうほぼ全て当たり終えてしまっていた。
当初の予想通りと言えば予想通りだが、やはり学校へは行っていないようだ。
担任の先生曰く、この二日間一切音沙汰無しという。
無断欠席なんてする娘じゃないのにと、不安の色を露わにする彼女に、私は上辺だけの笑みを向けてその場を後にした。
次に向かったのは、あいつが居た頃、良く沙弥と彼女が行っていたと聞く小洒落た喫茶店だった。
私が公務で忙しい時、退屈そうにしている沙弥を連れて、ちょくちょく行っていたらしい。
中でもそこのマスターがお気に入りで、色々と話を聞いてもらったり、料理の合間に手品なんかをしてもらったりと、かなり良くしてくれていたと聞く。
彼の話だと、沙弥は今もたまにここに来るらしい。
その時の話題は、もっぱら私のことだったと言う。

―何で、お父さんは帰ってこないんだろう?

―どうして、お父さんは私との約束を守ってくれないんだろう?

そんなことを、哀しげな声で語っていたという沙弥の姿を想像するだけで、私は胸を切り裂かれるようだった。
しかし、一番最近で一週間ほど前だったと言うから、どうやら家出してからは来ていないみたいだった。
何が起きたのか、大体予想できたのだろう。
私の去り際に、マスターはこんなことを言った。

―あの娘は良い娘です。えぇ、そりゃあもう、今時の若い娘には珍しいくらいに。母親を失った反動というのも無きにしも非ずでしょうが、父親である貴方を誰よりも愛しておいでです。ですから、貴方も彼女を大事にしてあげて下さい。

胸に染み入る言葉だった。
まるで、あいつに言われているみたいだ。
そんなことを思いながら、私はテーブルにチップを置いて踵を返した。
次いで、私が向かったのは、近くにある親戚の家だった。
……が、それも無駄な行為と終わった。
まぁ、所詮は淡く儚い期待。
元より、可能性は限りなく低いと思っていたから、仕方のないことだ。
そこからは、もう宛てもなくさ迷うのみだった。
徒歩で行けるであろう範囲の中で、あちらこちらを走り回り、窓の外に求める姿を捜す。
だが、こんなことで見つかるくらいなら苦労はしない。
いくら捜せど、見つかる気配すらないまま、時間ばかりが過ぎてゆくのみ。
すぐ目の前で、信号が青から赤へとその色を変えた。
道路交通法に則り、ブレーキを踏んで停車する。
ただそれだけで、胸中にて行き場のない焦燥感が募った。
私は横目で時計を一瞥する。
示される時刻はもう五時前。
西へと目を向けてみれば、沈みゆく太陽が徐々に真紅へとその身を染め始めていた。

――くっ……!

もうあまり時間が無い。
そのことが、より一層心の焦りを引き起こす。
信号が変わるのを待つこの僅かな時間さえ勿体無い。
だからといって、行くべき場所に心当たりがある訳ではない。
早く進みたいのに、進む先の目標が分からないという解消しようのないジレンマを抱え、私は一体何処へ向かおうというのか。
「……」
信号が変わる。
私はアクセルを踏み込み、何を考えるということもなく、ただ何となくハンドルを右にきった。
窓の外に広がる、どことなく見覚えのある景色。
その道路脇に立つ看板を見た時、私はこの道がどこへ続くものか思い出した。
同時に蘇るのは、あの日、沙弥の部屋で見つけた写真に映し出されていたものと同じ光景。
そうだ。
この道は、あの時の……ん?
唐突に、前方から近づいてきた青いワゴン車に、自然と目が向いた。
窓越しに、中の様子が伺えそうだな。
何気なく、それこそ本当にただ何となくそんなことを思い、私はそのワゴン車の内部を見透かした。
「……え?」
その中に見つけた、見慣れた誰かの姿。
間違いない。
すれ違うほんの一瞬の間でしかなかったが、見間違うはずがない。
後部座席にて、ぐったりとしていたのは……!
「ちっ!」
反射的にサイドブレーキを引き上げ、激しくハンドルをきった。
ほぼ無人の道路に響く、甲高いタイヤの悲鳴。
反転が終わるなり、私は直ぐ様サイドブレーキを下ろした。
前を走る青いワゴンに焦点を定めアクセルを踏む足に力を込める。
前方を走るワゴンを睨みつける私の眼差しに、殺意にも近い憤怒の色が宿る。
「……沙弥」
その名を呼びながら、私はあらん限りの力でもってアクセルを踏み込んだ。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時34分(53)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十二章)

硬くて座り心地の悪い椅子の背もたれに身を預け、私はぼんやりと空を見上げていた。
夕陽の光に染められて、青かった空はその色彩を赤へと変化させている。
空に漂う薄い雲も、本来の白さを失い、その身を周囲と同調させていた。
周りからは、賑やかな音楽とそれに混じる機械の駆動音とが、絶え間なく合わさって聞こえる。
「……」
瞳を閉じてみる。
途端、漆黒の闇で埋め尽くされる視界。
昔、私はこの光景が嫌いだった。
目の前が真っ暗になると、自分の存在までが闇に喰われてしまうような気がして、眠るのがたまらなく怖かった。
常時死と隣合わせだったあの頃、寝ることは死ぬことにも等しかったあの時、睡魔に耐えられなくなったら、いつも無人の廃ビルに潜り込み、出入口全てにどこからかくすねてきたピアノ線を張り巡らして、部屋の隅にて膝を丸め、震えながら仮眠を取っていた。
僅かな物音一つにも怯え、心に平穏を得られる時間など最初から存在しない、正常な神経を保てるはずもない非日常な日常。
信じる前に殺れ。
裏切られる前に殺れ。
殺られる前に殺れ。
それを信念に、人を騙し、欺き、利用し尽くした後、邪魔になったら消す。
そんな腐りきった毎日を送っていた時分を、今になって思い返してしまう。
こんなにも平和で安穏とした日々の中を、果たして私なんかが生きていて良いのだろうか。
血と硝煙と死の入り混じった腐敗臭の似合う女に、ここで生きてゆく資格があるのだろうか……と。
どんなに己を偽ろうとも、過去は決して覆らないし、況してや消し去ることなんて出来はしない。
血にまみれた私の両手。
いくら洗えども、そこに染み込んだ死の匂いが消える日は、決して来ないのだ。
「……」
瞼を持ち上げる。
視界を埋めるのはまたしても赤。
自分の体に目線を落とす。
夕日を浴びる私の身体も、やはり赤。
あんなことを思い出したからだろう。
本当に、血にまみれていたあの頃みたいだ。
「……ふっ」
小さく嘲笑。
無論、これはそんな悲観的な考え方をした、私自身に対してのものだ。
「全く……いつになっても、過去を忘れられない奴だ」
まるで他人事のように呟く。
過去は覆らないし、消すこともできない。
だが、忘れることはできる。
思い出す度に、その時の罪悪感に胸が締め付けられ、恐怖に身体が震えるなら、それを記憶の奥底に封印し、思い出さないようにすればいい。
過去はいつまでも私に付きまとう。
それは私だけじゃなく、生きていれば万人に言えることだ。
人が人として生きてゆく限り、過去を背負うのは不可避なこと。
まともに背負えば、時には潰れてしまいそうになることもあるだろう。
ならば、出来る限りその重さを軽くすればいい。
忘れることによって、背負う過去を少しでも軽くすればいい。
人というのは、皆そうやって生きているのだから。
「……」
再び瞳を閉じ、大きく深呼吸する。
一回……二回……三回……四回……。
「……」
開眼し、もう一度自らの身体へと目を向ける。
赤い光に照らされた自分自身。
だけど、もうそれが血まみれの姿には見えなかった。
「……ま、私もまだまだ若いってことよね」
自身をからかうように、私は軽い口調で呟いた。
ふと、そんな折り、腕に巻いた時計に目がいった。
示される時刻は、いつの間にか五時前。
沙弥が飲み物を買いに行ってから、もうそろそろ十分くらい経つ。
ジュース二人分買うだけにしては、いくらなんでも遅すぎる。
「……おかしいな」
私はゆっくり腰を上げると、沙弥の消えていった方向へと歩みを進めた。
曲がり角を折れると、すぐに自販機が見えた。
しかし、付近に沙弥らしき人影は見当たらない。
自販機へと歩み寄る。

――ジャリッ。

「……ん?」
アスファルトを叩く靴音に混じって、何か金属同士の擦れ合うような音が聞こえた。
その場にしゃがみ、地面に視線を這わせる。
「これは……」
そこに散らばった数枚の硬貨。
一枚ずつ拾い集めてみれば、それが五百円玉でジュースを買った時のお釣りだとすぐに分かった。
取り出し口の方を見てみれば、中にはまだ缶ジュースが残っていた。
手に取り、ラベルを見てみる。
無糖、ミルク入りのコーヒーだ。
「……」
タブを開け、一息で飲み尽くす。
「……さて」
後ろ手に空き缶を放り投げる。
それは、中空に流麗な放物線を描き、ガコッという音を上げて、ゴミ箱の中へと吸い込まれた。
「……行きますか」
そのまま駐車場へと足を進める。
思考回路は冷静に、瞳はあくまで穏やかに、しかしそこに宿る光にはあらん限りの怒りを燃やして。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時37分(54)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十三章)

刻は宵闇。
太陽は、ほぼその全身を地平線下に沈めており、己の上空は黒とも青ともつかない暗い紺の色が支配していた。
東の空には、もう真円の如き望月が浮かんでいる。
淀んだ大気のためか、空に確かに在るはずの星の姿は、そのほとんどが目に映らない。
辺り一面に立ち並ぶ街灯の灯りは、その代わりを果たすには些か無機質過ぎた。

――キキィッ。

そんな冷たい光に照らされながら、ブレーキの音を軋ませて、アメリカ製の高級車が荒々しく路端に停車した。
「ここか……」
低い声で呟きながら、車から降りる一人の男性。
その体躯は極めて一般的で、筋肉質という訳でもなければ、ひ弱そうなイメージという訳でもなく、背も高いという訳ではないし、かといって低くもない。
これといって、特筆すべき要素は見当たらなかった。
だが、それはあくまでも体格の話。
当人の持つそこはかとない高貴な雰囲気や、そこから放たれる荘厳な気配、それに強い意志を秘めた瞳も、常人のそれらとは比べ物にならかった。
よくよく見てみれば、カジュアルな服装を装ってはいたが、着ている物のことごとくが有名ブランドのものだ。
いや、そんなことを言えば、高級車の代名詞とも言えるベンツを乗り回している時点で、一般人であろうはずがないだろう。
彼の名は咸枷大善。
“内閣総理大臣”という肩書きを背負った、名実共に日本のトップである。
しかし、そんな彼が今居るここは、人通りの無い寂れた倉庫街。
前の持ち主が居なくなった、維持費が足りなくなった、老朽化が進んだなどといった理由で、破棄されてしまった倉庫の集合体とでも言うべき場所だ。
彼という人間には、不釣り合い且つ不似合い極まりない。
ならば、何故彼はここにいるのか。
……そのようなこと、今更聞くまでもないだろう。
彼の眼前に佇む巨大な倉庫。
上部には“13”という数が記されている。
そこに備え付けられたガレージの中に見えるのは、青一色の大きなワゴン車だ。
「沙弥……」
愛しき娘の名を小声で呟き、彼は目の前にある倉庫へと足を向けた。
距離が縮まるにつれて、暗がりによって隠されていた倉庫の状態が露わになってゆく。
壁に走った亀裂の総数は数知れず。
表層だけの些細な傷から、構造そのものに影響を与えるくらいの深いひび割れまで、縦横無尽に裂傷が刻み込まれていた。
いつ倒壊してもおかしくないくらいボロボロだ。
下手に地震でも起きれば、間違いなく一撃だろう。
ところどころに窓が備え付けられてはいたが、その全てがガラスのはめられていない空洞だった。
廃棄されてから、どれくらいの年月放置され続けてきたのか、その寂れ具合を良く物語っている。
もちろん電気が通っているはずもなく、内部はかなり暗い。
窓から中の状況を伺うのは、はっきり言って無理だろう。
「……」
大善は、無言を保ったまま倉庫の正面入り口へと回り込んだ。
シャッターは開け放たれており、来る者拒まずの姿勢を維持していた。
一歩、中に足を踏み入れ、外部から微かに漏れてくる、月明かりと街灯の光のみを頼りに、暗闇に慣れた目で周囲の様子を探る。
大善の立つ位置から、その向こう側に見える扉まで、中央に線状の開けたスペースがある以外、辺りは酷いものだった。
両サイドを埋め尽くす、無造作に積み上げられた木箱の山。
腐敗してボロボロに朽ち果てた物から、まだ辛うじて原型を止めている物まで、全ての箱が乱雑に放置されている。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時38分(55)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十四章)

かつてはその働きを全うしていたであろう、棚や荷台といった数々の備品たちも、そのほとんどが錆び付いて見る影もない。
そんな中、眼光鋭く警戒を行う、油断のない彼の目つきは、まるで猛禽類のそれを連想させるかのようだった。
「……ふっ」
不意に上がった小さな笑いが、この空間に満ちていた静寂を切り裂いた。
懐から煙草を取り出し、口にくわえる。

――シュボッ。

ライターの点火される微弱な音が、不自然なくらい反響して響き渡る。
煙草の先に火をつけ、深く煙を吸い込んだ後、それを惜しむようにゆっくりと吐き出した。
「……こそこそ隠れてないで、出てきたらどうだ?」
「っ!?」
数人分の息を呑む気配。
暫しの沈黙の後、彼を取り囲むようにして現れる数人の人影。
「良く気付いたな」
「ま、訳無いさ」
前面に余裕を押し出しながら、軽い口調で答える。
だが、彼はその道のプロではないし、況してや超能力なんていうデタラメな力を持っている訳でもない。
息を殺し、闇に潜む相手を正確に見つけるなどという芸当は、彼には不可能だ。
しかし、様々な状況下に対応できる冷静な判断力があれば、その総数まではともかくとして、有無を見極めることくらいなら出来る。
暗がりに抱かれた廃棄倉庫。
身を隠す場所には困らないし、闇討ちするにはもってこいと言える。
しかも、ここに来るまでの小一時間、ずっと尾行してきたのだ。
そのことを、極めて神経質になっているであろう犯人達が、気付かないはずもない。
こういった状況判断から、大善は闇から集団で襲われるその前に、カマをかけたのだ。
「……」
くわえていた煙草を放り捨て、身構えながら、相手の人数とそのエモノを見極める。
数は四。
前後左右に一人ずつ。
内二人の手には、バタフライナイフが握られていた。
だが、立ち方や間合いの取り方から察するに、相手が素人であることは明らかだ。

ふん。
この程度の輩が私の相手か?
随分と甘く見られたものだ。

大善は心の中で吐き捨てた。
あまり知られていないが、こう見えて、彼は相当な数の武術に精通している。
特に、柔道においてなら、そのレベルは世界トップといっても過言ではない程の実力だ。
内閣総理大臣という肩書きさえなければ、間違いなくオリンピックの日本代表に選ばれていたことだろう。
彼がそんな人物であることなど露知らず、愚かにも徐々に距離を詰めてゆく、身の程知らずな数人のチンピラ。
それが、実は自分達の首を絞めるに等しい行為であったことを、数瞬の後に知ることとなる。
「おらぁっ!」
握ったナイフを振り上げ、怒号と共に背後から遅いくる一つの人影。
風を切る擦れた音を上げて、周囲の暗闇ごと彼の体を切り裂こうと、鋭い白刃が躊躇いのない斬撃を放つ。
振り返りざま、大善は軽く横に身をズラし、その刃の軌道を避けた。
同時に、降り下ろしたナイフの反動で隙だらけとなった男の懐に潜り込み、服の襟の部分を乱暴に掴む。
「はっ!」
裂迫の気合いと共に放たれる、目の覚めるような内股。
ドォンッという鈍い音を上げて、硬いコンクリート製の床に叩き付けられたその男は、悲鳴を上げる間もなく昏倒した。
受け身も取らず、まともにあんな技をくらったのだ。
さすがに命に別状はないだろうが、しばらくは目覚めまい。
「さて、次はどいつだ?」

月夜 2010年07月07日 (水) 00時39分(56)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十五章)

砂塵巻き上がる中、大善は手で付着した汚れを振り払いながら、さして大したことはなかったなとでも言いたげな様子で、周囲を取り囲む残りの三人を見回す。
ジリッという小さな摩擦音が、彼らの後退を彼に教えた。
「……来ないのなら、こっちから行ってやろう!」
それを好機と見た大善は、大きく足を踏み出し、その勢いを体重こと拳に乗せて、彼の視点で正面に位置する男に向かって正拳を突き出した。
狙う部位は、人体急所の一つでもあるみぞおちだ。

――ドスッ!

肉を打つ鈍い音が、暗がりの中に不気味に響く。
「がはっ!」
悲鳴と共に、床に崩れ落ちる体。
直ぐ様視線を移し、次なる標的へと駆ける。
「ひっ……」
怯えて引き釣る表情が、彼の抱く恐怖の程を物語っていた。
目の前で、仲間が瞬時の内に二人も倒されたのだ。
動揺するなと言う方が無理だろう。
だが、だからといって情けをかけるつもりはない

悪いな。
楽に落としてやるから、勘弁してくれ。

心の中で呟きながら、大善は握り締めた右腕で、その顎の先端を殴り付けた。
気味の悪い殴打の音を残し、真後ろに倒れ込む男。
あれほどの力で顎先を殴られれば、ほぼ間違いなく、重度の脳震盪を起こしていることだろう。
「う……うああぁっ!」
もう自分だけだという孤独感と恐怖に襲われ、最後に残った一人は、手にしていたナイフを放り捨てながら、一目散に倉庫から逃げていった。
床とナイフとがぶつかる乾いた金属音が、暗がりの中で幾重にも重なり合い虚しく反響する。
「ま、妥当な判断だろうな」
男が逃げ去った方へ目線を流しながら、大善は小声で呟いた。
前方を向き直り、歩みを進める。

――バン!

突然、何の前ぶれもないまま、彼の見据える先の扉が勢い良く開け放たれる。
「てめぇら! 何があった!」
その奥から姿を現す、一人の男。
口ぶりから察するに、多分奴らの頭だろう。
先ほどまでのチンピラ共と比べて、格段に体格が良く、背もかなり高い。
見た感じ、優に190は越えているだろうか。
「これはこれは……こんな廃れた倉庫までお出向きいただき、恐縮至極にございます。咸枷総理」
知的な風を装って、恭しく頭を下げる男。
「……沙弥を返してもらおうか」
そんな男の態度に、あからさまな嫌悪感を前面に押し出しながら、大善は即座に本題へと移行した。
「そうは参りません。彼女は大切な人質ですから、身代金を受け取るまでは、ここに居ていただきます」
「……もう一度だけ言う。素直に俺の娘を返せ。そうすれば、半殺しで許してやる。しかし、この警告をもってして今尚拒絶する場合は……」
「……する場合は?」
「……殺す!」
言い終わるや否や、大善は地を踏む足に全力を込めて、眼前に佇む男目がけて駆け出した。
「ふっ……おう! てめぇら! 我が国が誇る内閣総理大臣殿の相手をしてやれ!」
周囲の闇に声を張り上げる。
だが、男の声は虚しくこだますのみで、一向に返事は返ってこない。
「……おい! どうした!?」
男の狼狽した呼び声が、再度闇に抱かれたこの空間に響き渡る。
……が、やはり返ってくる声はない。
その間にも、二人の距離は見る間に詰まり、両者共の間合いが触れ合う。
「はぁっ!」
固く握られた大善の拳が、男の胸部目がけて突き出される。
その正拳を、男は反射的に手の平で受け止めた。
「くっ……!」
が、何とか受け止めはしたものの、無防備に近かった体勢ということもあってか、足腰がその衝撃に耐えきれず、僅かにバランスを崩す。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時41分(57)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十六章)

その隙を、みすみす見逃すような彼ではない。

――今だ!

大きく前方へと足を踏み込み、必殺の一撃を放とうとした。
「ふっ……」
だが、そこで男が取った行為は、大善が予想したどのパターンとも違った。
バランスが崩れれば、何とか体勢を立て直そうと試みるのが普通である。
そこを、男は敢えてバランスを崩したまま、いや、寧ろ自らバランスを崩し、大きく後ろへと退け反ったのだ。
そんな無茶な体勢のまま、床を思いきり蹴り、限りなく水平に近い角度で後方へと跳躍。
転がりながら受け身を取り、大善と大きく距離を離しながら、悠然と立ち上がった。
「なかなかやりますね。何かしら武術の心得がおありのようですな」
「貴様には関係のないことだ」
「しかし、私が呼んでも何の返事もないということは、どうやら私の部下達は、皆貴方にやられてしまったようだ」
「あぁ。てんで話にもならない輩ばかりだったよ」
「なるほど。武器を所持しておきながら、たった一人の丸腰相手に不覚を取るとは……ふがいない部下達で申し訳ございません」
男は額に手を添えながら、呆れたように首を左右に振った後、もう一度大善に向かって頭を垂れた。
「代わりといってはなんですが、私がお相手いたしましょう。恐らく、貴方にも満足していただけるかと」
そう言って身構えると、男は口の端にニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
隙の無いその構えと、先ほどの瞬間的な判断から察するに、先ほどの雑魚共とは格が違う。
武術関係に心得があるだけではなく、戦闘経験的にもそこそこの場数を踏んできているようだ。
だが、大善とてそれは同じこと。
今はともかく、学生時代は良く殴り合いの喧嘩をしていたものだ。
中高大と無敗で通ったその実力は、そんじょそこらの腕自慢などとは比較にならない。
「面白い……ならば、満足させてみろっ!!」
大善が駆ける。
身を屈め、低姿勢のまま男の方へと疾駆する。
相手の体がこちらの射程内に入ると同時に、左の拳で顔面へフックを打つ。
男が軽く手を掲げて、その打撃を受け止めようとする。
……しかし、これはただのフェイント。
本当の狙いは、右による腹部へのボディブローだ。

――ドスッ!

固く握り締められた大善の拳が、男の腹に穿つかの如くめり込む。
「……ふっ」
だが、男はうめき声一つ上げることはなく、それどころか、表情に苦悶の欠片すら浮かべてはいなかった。
「なっ!?」
「なっていませんね。ボディというものは……こうやって打つものです!」

――ボゴォッ!

「かはっ!」
突如として走った、腹部を襲う吐き気を伴った激痛。
持続するその痛みは、じわじわとその範囲を全身へと広げていく。
意識が薄れ、膝から崩れ落ちかける体。
「くっ……!」
だが、このまま倒れる訳にはいかないという強い意志が。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時41分(58)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十七章)

愛しい娘に対する強い想いが、すんでのところで彼を食いしばらせた。
本能的に後方へ跳び退き、薄れた意識を呼び戻すための時間を稼ぐ。
幸い、相手は大善のことを他愛もない格下と見たのか、彼を追撃しようとすることはなかった。
頭を左右に振り、揺らぐ視界を修正する。

――強い。

素直にそう思った。
体格的に自分よりガタイの良い奴とは、学生時代に幾度となくやり合ってきたが、こんな気分は初めてだ。
本気で打ち込んだボディが全く効かないなど、未だかつて一度もなかったことだ。
殴った時のあの弾力。
それは、まるで分厚いタイヤでも殴っているかのようだった。
こいつに、生半可にかじった程度の戦闘技術は通用しない。
そう肌身で感じた大善は、自分の最も得意とする武術を用いることにした。
則ち、柔道を。
「どうしたのですか?まさか、これで終わりなどということはありませんよね?」
「無論だ。今にその減らず口を叩けなくしてやろう」
そう言い放つと、ただその場に突っ立っているだけの男目がけて、三度全力で疾走した。
腕を伸ばし、相手の襟と袖の部分を掴む。
大善は、その勢いのまま懐に潜り込み、衣服を握る手に力を込めて、腰のバネも利用しながら、自分にとって必殺の決め技……一本背負いを放とうとした。

――ガッ。

「なっ!?」
不意に上がる驚愕の声は、今まさに技をかけようとしている大善のものだった。
先の体勢のまま、両者共に全く動いていない。
いや、大善の方は動こうとしている。
そのことは、小刻みに震える彼の体が証明している。
つまり、投げようと試みる大善に対して、男がその技を耐えているということだ。

バカな。
これくらいの体格差の相手なら、今まで何度となく投げてきた。
だというのに……何故、こいつは微動だにしないんだ……!?

「なるほど。柔道ですか。しかし、今の貴方は柔道の大切なことをお忘れでいらっしゃる」
「何だと……!?」
「柔道の理念、これ則ち“柔よく剛を制す”私と貴方程の体格差がある場合、体格的に劣っている方は、相手の力の流れを利用しない限り、そう簡単に投げ技は決まりません。ですが、体格的優位さを持っている方なら……」
そこで言葉を一旦途切ると、男はダランと下げていた両の腕を使い、大善の腰の辺りに回した。
「……こうやって投げることも出来るのです!」
「なっ!?」
そのまま、力任せに大善を持ち上げ、体を捻りながら後方へと投げつける。
裏投げ。
柔道においては数少ない、力技ともいえる投げ技だ。
「ちっ……!」
床に叩き付けられる直前に、両の手で強く地面を打ち、何とか受け身を取る。
それでも、勢いを完全に殺すことは出来ず、固い床に背中を強かに打ち付けた。
「ぐぁっ!」
思わず上がる悲鳴。
一瞬だが、強打した背中のせいで、極度の呼吸困難に陥った。
「さて、そろそろ運動の時間も終わりです。貴方にも、娘さん同様に人質となっていただきましょうか」
暗く歪んだそんな言葉が、背後から微かに聞こえた。
どうやら、ここで決めにくるようだ。
だが、実はこれこそが大善の待っていた時。
奴が勝利を確信し、不用意に手を伸ばしてきた瞬間こそが、最後のチャンスだ。
立ち上がる力すらも惜しみ、屈み込んだ体勢のままその時を待つ。

――……今だっ!

伸ばされた腕を掴み、強く引っ張りながら、素早く懐に入り込む。
全身に残る力全てを振り絞り、放つ最後の技は、もちろん一本背負い。
「うおおおぉぉっ!!」
あらん限りの声を張り上げ、一気に体を捻った。
途端、不意に相手の体から抵抗が無くなる。
僅か数秒の時間が、永遠であるかのように引き延ばされる、虚脱感にも似た奇妙な感覚。

――ドォン!

それが轟音によって終わりを迎えた時、既に男の体は床の上に倒れていた。
気を失い、男はピクリとも動かない。
「……うっ!」
思い出したように活動を始めた肺が、停止していた呼吸という行為を蘇らせた。
「がはっ! ごほっ!」
喉を詰まらせ、蒸せ返るように咳き込みながら、大善はゆっくりと立ち上がった。
持ち上げた視線の先には、開かれたままの鉄の扉が。
呼吸を整えながら、緩慢な足取りで扉をくぐる。
その先にあったのは――

「……沙弥」

――手足を縛られ、目と口を塞がれた愛しき娘の姿だった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時42分(59)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十八章)

「なるほど……こいつがボスの言ってた娘ですか?」
「あぁ。まだ年端もいかねぇガキだが、内閣総理大臣の娘ともなりゃあ、その価値はそんじょそこらの銀行の金庫以上だぜ」
「金のなる木って訳ですね」
「……」
男共のそんな下卑た会話を右から左へと聞き流し、私はボロボロのソファに横たわったまま、ただ無言を保っていた。
いや、ガムテープで口を塞がれているから、無言で居ざるを得ないと言った方が正しいかもしれない。
両手足を縄できつく縛られた挙句、目にはアイマスクまで付けられ、微動だにすらできない。
声の数や足音から察するに、この部屋にいる人間の数は多分4・5人程度。
しかし、倉庫の入り口からここに来るまでに通った道の途中、そこかしこから沸き上がっていた声や気配も考えれば、総勢約十数人といったところだろうか。
「しかしこのガキ、全然抵抗しようとすらしねぇのが気になるがな」
「気ぃ失ってるんじゃないですか?」
「いや、最初に捕まえた時は暴れてたんだが、車に乗せた辺りから何故か抵抗しなくなってな。妙に落ち着き払ってるというか……」
「気にし過ぎじゃないですか? こんなガキに何が出来るという訳でもありませんし、余計な労力がかからない分、こちらとしても都合が良いと考えましょうや」
「……そうだな」
耳に届くそんな会話に、私は心の中でほくそ笑んだ。
確かに、今の私みたいな立場に置かれたら、動揺して抗うのが当然の反応だろう。
しかし、私の心は微塵の不安も抱いてはいなかった。
奴らの言葉を借りる訳じゃないが、端から見た私は、異様なくらい落ち着いていることだろう。
そして今も、私は極めて冷静さを保っていた。
その理由は明らか。
助けに来てくれると、確信しているからだ。
私が突然居なくなったことに気付いた水亜さんが、私のことを助けに来てくれる。
だって彼女は、私の……、

――私の……何?

そんな折り、不意に心に浮かび上がった疑問。
それは、第三者の私から、当事者の私への問いかけだ。
その問いに対する答え。
それは、今さっきまでずっと私の中にあったはずなのに、いつの間にか濃霧の向こう側へと隠れて、見えなくなっていた。
沈黙する思考。
その先に繋がるはずだった言葉を模索するが、どこにもそんなワードは見当たらない。
何故だろう。
唐突に芽生え始めた恐怖という名の感情。
私は、今の今まで、私と水亜さんの関係を誤解していたのかもしれない。
水亜さんは、私のお姉さんでもなければ、お母さんの代わりでもない。
知り合ってからまだ2・3日しか経っていない私達の関係なんて、赤の他人とまでは言わなくとも、ただの知り合いでしかないんだ。
そうだ。
よくよく考えてみれば分かることじゃないか。
彼女は……水亜さんは、私の……。

――キキィッ。

と、そんなことを思っていた矢先、屋外から車のブレーキ音が聞こえてきた。

――えっ……?

私の心が上げる戸惑いの声。
エンジンの停止音と、ドアを開閉する音とが、何者かが車から降りたことを表していた。
「……お前ら、ちっと様子見てこい」
「はい」
用件だけの手短な会話の後、部屋から数人分の気配が消えた。
今ここに居るのは、私以外には恐らく一人。
連中がボスと呼んでいた、体格の良い大柄な男だけだろう。
「……お前、怖くねぇのか?」
しばらく続いた無音の空気を引き裂いて、男が低い声音で語りかけてきた。
怖くない。
ついさっきまで、あの暗く沈んだ思考に囚われるその前だったなら、迷わず首を縦に振ることが出来ただろう。
だけど、今は自信を持てずにいた。
こんな町外れの寂れた廃棄倉庫街に、こんな時間に来る人なんてまずいない。
確率的に考えれば、水亜さんである可能性が一番高いだろう。
それも、ほとんど間違いないと言って構わないかもしれない。
なのに……何で?
何で、私はこんなに不安なの?
何で、寒くもないのに、体の震えが止まらないの?
何で……こんなに怖いの……?
「……!!」
ガムテープ越しに、私は言葉にならない悲鳴を上げる。

怖い……。
コワい……!
コワイ……!!

痛いのなんか怖くない。
死ぬのなんか怖くない。
私が怖がっているのは、孤独になること。
誰も助けに来てくれず、一人ぼっちになってしまうこと。
お母さんの時みたいに、私の大切な人が、この手の届かないどこかへ行ってしまうこと。
それだけが、たまらなく怖い。

――怖い……。

胸が軋む。
一人ぼっちは嫌だと。

――……助けて……。

心が哭く。
寂しいのは嫌だと。

――怖いよ……助けて……。

――お父さん!!

――ドォンッ!

不意に巻き起こった、地響きのような凄まじい轟音。
「何だっ!?」
驚きを露わに、男が慌てて立ち上がる。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時43分(60)
題名:亡くなっても消えない絆(第三十九章)

離れていく足音と、錆びついた扉が上げる甲高い金属音が、男がこの部屋から出て行ったことを、視覚のない今の私に教えてくれた。
「これはこれは……こんな廃れた倉庫までお出向きいただき、恐縮至極にございます……」
耳に届いてくる男の声。
それは、先ほどまでの粗暴な態度とは打って変わって、かしこまったような口ぶりだった。
しかし、そのことがかえって頭に引っかかった。
私が予想した通り、ここに来たのが水亜さんだったとしたら、その本当の役職を知らない彼らが、彼女に対して敬語を使うとは考えにくい。
じゃあ、一体誰なんだろう?
「……咸枷総理」

――えっ!?

思わず、声のした方へと顔を持ち上げる。
だが、依然として暗いままの視界に、黒以外の色彩は一切映らない。
「……沙弥を返してもらおうか」
部屋の外から聞こえてくるそれは、誰よりも聞き慣れた、それでいてとても懐かしい声だった。
電話越しのものではない、正真正銘の肉声。
喜びに心が打ち震える。
来てくれた。
お父さんが、私のために。
その事実だけで、胸が満たされるようだった。
「かはっ!?」

――っ!?

そんな時、突然聞こえてきた、苦痛を堪える擦れたうめき声。
それが誰のものであるか、分からない訳がない。

――お父さん! 頑張って!!

私は心の中で叫ぶ。
普段日常的に会話という行為を行っている私たちにとって、思いを言葉にして届けられないことが、まさかこんなにももどかしいことだったなんて、一体私以外の誰が分かるだろうか。
今の私に出来ることなんて、ただ祈ることくらいだ。
だから、私は祈った。
その祈りを口にすることはおろか、胸の前で両手を合わせることすら出来はしない。
しかし……いや、だからこそ、私は強く祈った。
お父さんの無事を。
あの男の戦闘不能を。
自分の身の安全なんていうものは、それこそ二の次だ。

――お父さん……。

コンクリートの床を叩く靴音と、砂利を擦る乾いた摩擦音、それに二人の会話音とが混じり合い、倉庫を揺るがすように響き渡っている。
聴覚が捉える情報によると、あまり状況は芳しくないようだ。

――お父さん……!

けれど、そんなことは関係ない。
お父さんは負けない。
私は信じてる。
この世界中の誰より、お父さんを信じてる。
だから――、

――勝って!!

――ドォン!

激しい振動を伴った、地鳴りを思わせるかのような轟音。
幾重にも反響するそれが徐々に遠退いていくのを境に、周囲には再び静寂の空気が漂い始めた。
そんな静けさを引き裂くのは、こちらへと歩み寄る緩慢な足音。
それは、扉付近で急に立ち止まった。
「……沙弥」

――っ!?

不意に呼ばれる私の名前と、身近に感じるあの人の気配。
私は居ても立ってもいられなくなり、横たわる体を無理矢理動かそうとした。
……が、自由のない体がまともに動く訳もなく、惨めに足掻いた挙句、私の体はソファから落下した。
「っ!!」
背中を中心として全身を走る衝撃に、頭が痺れるような感覚に襲われる。
「沙弥っ!」
そんな私の元へと駆け寄る足音。
次いで、手足を束縛する力が弱まり始めた。
それは、徐々にだが確実に無くなって行き、直ぐに私の体は自由を取り戻した。
私から言葉を奪っていたガムテープが引き剥がされる。
久しぶりに露わになった唇が触れる空気は、何だか少し冷たく感じた。
最後に、私の視界から色を奪っていたアイマスクが取り外される。
閉じた瞼越しにでも感じられる、漆黒の中に混じり始めた薄い光。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
その視界に映っていたのは……、
「……お父さん……!」
気付いた時、私は既に、すぐ目の前に佇む彼に向かって、その名を呼びながら強く抱きついていた。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時44分(61)
題名:亡くなっても消えない絆(第四十章)

「沙弥っ!」
愛しき娘の名を呼びながら、扉をの向こう側へと急ぐ父親の姿。
「……ふぅ」
そんな光景を、何段にも積み重なった木箱の上から見つめつつ、水亜は小さく溜め息をついた。
その右手に握られている、サプレッサーの装着されたグロック。
その銃口に残る熱と、そこから上がる微かな煙が、つい直前に射撃が行われたという事実を証明していた。
先ほど、大善と男との最後の接触の瞬間。
このままでは無理だと睨んだ水亜が、男を撃ったのだ。
だが、その肉体を殺傷するような撃ち方はしていない。
耳元ギリギリを擦めるような擦過弾によって、耳孔内の気圧を狂わせたのだ。
恐らく、完全に意識を失った状態のまま、2・3日は目覚めないだろう。
木箱の上から己の背後を振り返る水亜。
その視界に映し出されるのは、床に折り重なって倒れる十人程の影。
暗がりの中、どの人影もピクリとも動かなかった。
だが、誰一人として死んでいる訳ではない。
全員、ただ気を失っているだけだ。
正式な“仕事”の場でならば、間違いなく、今頃は全て物言わぬ骸と化していただろう。
しかし、今の彼女は“O.L.”としての彼女ではない。
明神水亜という名を持つ、ただの女性だ。
職務中以外では、決して殺しを行わない。
それは、彼女が己自身に課している、絶対の法則なのだ。
「ま、こんなものね」
依然として気絶したままの彼らを見下ろし、水亜は満足げにそう呟いた。
そして、再び目線を前方へと向けた時だった。
「……ん?」
視界の端に、僅かに動く何かの姿が映る。
その方を見てみれば、大善の手によって倒れ伏していた男の内の一人が、意識を取り戻し、まさに立ち上がらんとしているところだった。
「ってぇ……なんだってんだよ、くそっ……」
頭を左右へと振りながら、その場にゆっくりと立つ。

――まったく……大人しく寝てくれてればいいものを……。

内心密かにそう愚痴ると、水亜は手に持っていたグロックを懐にしまい、その高所から一気に跳び下りた。
膝の関節を上手くバネ代わりにし、物音一つ立てることなく静かに着地する。
木箱の陰に隠れつつ迂回し、男の背後へと回り込む。
「ちくしょう……もう構わねぇ……あの野郎……」
ほんの微かな足音すら立てない水亜の動きはおろか、その存在すら知らない男は、毒付きながら右手にバタフライナイフを構える。
「ぶっ殺して――!?」
だが、その言葉を言い終える前に、男の意識は消えていた。
一度ぐらりと揺れた後、前のめりに倒れ込む体駆。
「もう……感動の再開に水を差そうなんて、そんな野暮なことはするもんじゃないわよ」
それに目線を落としながら、水亜は呆れ混じりに呟いた。
首筋の後ろ側、いわゆる頸椎の部分に、思いきり手刀を叩き込んでやったから、しばらくは眠ったままだ。
もう一度、軽く周囲を見渡す。
何者かの動く気配は、もう微塵も感じられなかった。
「これでよし……と」
誰に言うでもなくそう溢すと、水亜は倉庫の出入口へと向かいながら、胸ポケットから携帯を取り出した。
ボタンを数回プッシュし、それを耳元にあてがう。
「あ、警察ですか?町外れにある廃棄倉庫街の13番倉庫に来て下さい。誘拐犯の一味が倒れてますから」
伝えたいことだけを簡潔に伝えると、水亜は一方的に話を断ち切り、すぐに携帯をしまった。
外界に足を踏み出し、倉庫から徐々に離れて行く。
「……」
と、何気なく途中で足を止めると、水亜は一度だけ後ろに視線を流した。
ここからでは、闇に阻まれて倉庫の奥の光景は映らない。
ただ、ここにいても聞こえてくる、沙弥のむせび泣く声だけで、容易に想像することはできた。
「良かったね……沙弥」
思わず綻ぶ口元に浮かぶのは、慈愛に満ちた優しい笑み。
そんな微笑を湛えたまま、水亜は前へと向き直り、ゆったりとした足取りでその場を後にした。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時45分(62)
題名:亡くなっても消えない絆(第四十一章)

――ピンポーン。

平穏な休日の午後、部屋に鳴り響くインターホンの音。
「は〜い」
リビングにて、お茶と和菓子(もちろんコンビニの安物だが)を相手にくつろいでいた私は、ゆっくりと腰を上げた。
玄関へと向かい、小さい円形のマジックミラー越しに、来客の正体を確かめる。
薄い若葉色のツナギにジーパンという出で立ちの男性で、腕には小柄な包みが抱えられていた。
典型的な配達員の服装だ。
なんだろう?
通販で何か取り寄せた覚えはないんだけど……。
そんなことを思いながら、私は左手で下駄箱の上の印鑑を取り、その手で扉の鍵を外した。
ゆっくりと扉を押し開いていく。
その間も、何気なく懐に差し込まれた右手には、しっかりとグロックが握られていた。
「明神水亜様ですね?お届け物です」
彼女がそんな警戒を敷いているとは露知らず、扉の隙間から顔を覗かせると、その男性はにこやかな笑みを浮かべた。
どうやら、要らぬ心配だったようだ。
だけど、一体誰からだろう?
自慢じゃないが、私はこんな贈り物をされるような、良好な人間関係を築いてきた覚えはない。
……ホント、何の自慢にもなりゃしないわ。
「どうもありがとう」
私は右手を懐から抜き、手に持っていた印鑑を差し出した。
受け取り、証明書のサイン欄にそれを押し当てる。
「それでは、これがお届け物になります」
「えぇ、ご苦労さま」
そう言って手渡される小包と印鑑を受け取りながら、私は小さく笑顔を返した。
「それでは、失礼します」
その男性は、私の前で軽く一礼してから、外に停めてあるトラックの方へと踵を返した。
その後ろ姿を少し見送った後、私は扉を閉めてリビングへと戻った。
「さて、誰からなのかな〜っと」
その場に座り込み、包みを裏返して送り主を確認する。
「あっ!」
届け人の欄に記された名前を見て、私は思わず声を上げた。

“咸枷沙弥”

そこには、いつぞや私に名乗った偽名ではない、彼女の本名が載せられていた。
「沙弥からの贈り物か……なんだろう?」
私は急く気持ちを抑えず、包みをビリビリと引き裂いた。
その中から姿を現したのは、袋包みにされた何か。
袋の口を止めているテープを剥がし、逆さにして中身を手の平に落とす。
それは、どこか見覚えのある色褪せた髪飾りだった。
「これは……」
どこで見た物だったか、記憶の糸をたぐりよせる。
そうだ。
これは、沙弥がいつも付けていた髪飾りだ。
だけど、こんなものを、急にどうして私に……?

――ルールル、ルルルルールル♪

と、そんなことを考えていると、突然携帯の着メロが鳴った。
手を伸ばし、床に転がる携帯を掴み取る。
メールボックスを開いてみると、送信者は見たことのないアドレスだった。
だが、題名の箇所に書かれた一言が、送信者が誰であるかを雄弁に語っていた。

――沙弥です。

それは、沙弥からのメールだった。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時46分(63)
題名:亡くなっても消えない絆(第四十二章)

――水亜さんへ。

この前は、本当にありがとうございました。
後、私の幼い我が侭に巻き込んでしまって……それから、ずっと嘘をついててごめんなさい。
私の名字は、朝霧なんかじゃないんです。
私の本当の名前は、咸枷沙弥……そう、今の内閣総理大臣、咸枷大善の娘なんです。
でも、今更こんなこと言っても、水亜さんのことだから、多分私が誰なのかなんて、もうとっくに分かっちゃってると思います。
けれど、これだけは……私の本当の名前だけは、私から伝えたかったんです。
嘘を付いちゃってたケジメとかって訳じゃなくて……何て言うか、その……上手く言えないんですけど、私という人間の本当を、例え既にバレていたとしても、それだけは自分で言わなきゃって思ったんです。
本当にごめんなさい。
あ、そういえば、私からの贈り物、ちゃんと届きましたか?
時間指定しておいたので、遅れていなければ、もう届いている頃だと思います。
これ、何だか分かります?
……はい! 正解!(笑)
そう。
私がずっと付けてた髪飾りです。
これを、水亜さんに受け取ってもらいたいんです。
これ、実はお母さんの形見なんです。
事故で死んじゃってから、今までずっと肌身離さず持ってたんですけど……今度のことで、それじゃダメだって思ったんです。
私ってば、水亜さんにお母さんの面影を勝手にダブらせて、甘えちゃって……迷惑かけてましたよね。
でも、何だか水亜さんって、お母さんに似てて……あ、容姿とかがじゃないですよ?
それを言ったら、私のお母さんは水亜さんと違って虚弱な体質で、外に遊びに行くなんてことほとんどありませんでしたから。
ただ、気さくで、面白くて、取っ付きやすくて……そんな雰囲気が、お母さんそっくりだったんです。
だから、何かお母さんが戻って来たみたいな感じがして、我慢できなくなっちゃって……。
でも、やっぱりそれじゃダメなんですよね。
いつまでもいなくなってしまった人の影に縛られて、その面影を他の誰かに求めてたんじゃ、何も進展しない。
そのことに、この前やっと気付くことができました。
それに、お母さんのことを、質の悪い呪縛みたいに扱う訳にもいきませんしね。
そんなことしてたら、

“もうお母さんに甘えるような歳じゃないでしょ。自分の足でちゃんと歩きなさい。後、私のことを悪者みたいな風に言わないように”

……なんて怒られちゃいそうだし(笑)
私にはお父さんがいる。
優しいお手伝いさんもいるし、学校には沢山の友達がいる。
それに、水亜さんも……。
私は独りじゃない。
そのことが分かったから、私はもう後ろを振り返りません。
私が振り返らなくたって、きっとお母さんはいつも私を見てくれてる……そんな気がするんです。
だから、私はしっかり前を見据えて、自分の足で歩いていきます。
時に、辛くて、悲しくて、逃げたくなるようなこともあるかもしれません。
でも、私はそんな苦しみから目を背けず、力の限り戦っていきます。
……ただ、どうしてもしんどくなった時は、また水亜さんのとこに甘えに行っちゃうかもしれませんが(*^^*)
とにかくそういうことなので、その髪飾りは水亜さんが持っていて下さい。
一応髪留めの役割も担っているので、たまには気分を変えてポニーテールになんかしてみたらどうです?
きっと似合うと思いますよ♪
それでは、この度は本当にお世話になりました。
また何かあったら、遊びに行きたいと思います。

ありがとう! 姉さん♪



P.S.
二人で一緒に遊園地に行ったあの日の朝、私にクロスのシルバーペンダントをくれましたよね。
あれ、家に帰ってから色々と調べてみたら……すぐに分かりましたよ?
今も、欠かすことなく着けてます。
さて、ここで問題です。
私は今、どこにいるでしょうか?

月夜 2010年07月07日 (水) 00時47分(64)
題名:亡くなっても消えない絆(第四十三章)

そこで彼女の文章は終わっていた。
メールを閉じ、携帯の横に付けられたボタンを押す。
同時に、液晶に映し出されていた待ち受け画像が、どこかの縮尺地図へと変化した。
その中、ある一点だけに白く明滅する光点が浮かび上がる。
そこは、沙弥が拐われる直前まで、私と彼女が一緒にいたあの場所だった。
そして、今日の曜日は日曜日。
「……なるほど」
私は嬉しさに口元を綻ばせた。
何が嬉しいのかと聞かれたら、上手くは答えられないのだが、とにかく嬉しいのだ。
これは、言葉で表せるものじゃない。
私は携帯を2つに折ると、彼女の想いが詰まった髪飾りを手に立ち上がった。
そのまま洗面所へと向かい、鏡の前に立つ。
後ろで髪を一つにまとめ、そこに髪飾りを差す。
髪から手を離し、目線を持ち上げた。
鏡の中に映り込むのは、ちょっと見慣れない自分。
けれど、これはこれで悪くない感じだ。
「……明日辺り、これで会社行ってみよっかな」
私はそう呟くと、どこか新鮮な自身の姿をまじまじと見つめる。
鏡面に浮かぶそんな私は、心なしか嬉しそうに微笑んでいるように見えた。

月夜 2010年07月07日 (水) 00時49分(65)
題名:亡くなっても消えない絆(あとがき)



やっと出来た〜っ!!















なんと二ヶ月以上ぶりの小説アップ。

このようなダメ作家の作品でも、気長に待ってくれている方がいらっしゃるというのに、なんというスローペース。

管理人としての自覚あんのかゴルァ!!


(´∀(○―(゜Д゜#)



オンドゥルァ!!


(#゜Д゜)―○)∀`)



グォゥルィアァァァ!!!

(´∀(○―(゜Д゜#)









これくらいで許してやって下さい(泣)

まだ我慢ならないという方ございましたら、リアルに殴りに来て下さってもかまわな(ry











゜。゜(つД`)ノ゜。゜











それでは、作品の反省会に映りましょうか。

さて、今回の作品はいかがでしたでしょうか?

当初の予想以上に長く……っつーか、軽く倍加してしまった気がしなくもないですが、そこはあまり触れないで上げてください。
作者自身、バリバリ反省モードなんで(´つω;`)

好きだからって、あんまりダラダラ書き過ぎるのも問題ですね。
今作は、なんだがすっごいグダグタな感じがして、読み返す度己の不手際さに涙が……(泣)



くそぅ……これも組織の仕業かっ!(何)



批判を受ける準備は万全ですので、バンバン蹴たぐり回しにきてやって下さい(´・ω・`)ショボーン

ちなみに、これ以降の話にも、沙弥はたまに登場させる予定だったりします。

個人的に結構好きキャラなんで(´・ω・`)



ではでは、反省しっ放しでなんですが、そろそろ幕引きといたしましょうか。
この作品についての感想等ございましたら、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」まで、じゃんじゃんカモンです。
こんなん長すぎるわ!と思われた方は、遠慮なくお叩き下さいませ。
もしかすると、叩かれたままもう浮き上がってこないかもしれませんが(爆)

それでは、皆さんまた会うその時まで、サラバです(´・ω・`)ノシノシ

月夜 2010年07月07日 (水) 00時51分(66)


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