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O.L.作品置き場

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タイトル:錯綜〜Complication〜 アクション

――施設へ忍び込んだ嘉治に歩み寄る、その負の遺産とも言うべき魔の手。何も知らぬまま遊樹との対面を果たす水亜。そこで掴まされる情報の定かでない真偽に疑いを隠せない彼女をよそに、自身へのやるせない思いから、部屋を飛び出してしまう紗弥。そして、この事件の裏へと迫るべく、日本で動きを開始する季慈。錯綜する情報の中から、彼らは真実を得ることができるのか。OL長編第四作目は、やっぱり視点いっぱいで読者及び作者の混乱は必至!?

月夜 2010年07月09日 (金) 23時34分(129)
 
題名:錯綜〜Complication〜(第一章)

――英国、マンチェスター、7/27、現地時間0:30――


――ガァン!

闇に轟く最後の銃声。
それを境に、周囲は再び夜の静寂に支配された。
「……こんなものか」
そう呟きながら、嘉治はベレッタの銃底から空になったマガジンを抜き取ると、慣れた手つきで新しい弾倉を装填し、スーツの下のホルスターに愛銃をしまった。
改めて周囲を見渡す。
夜に慣れた目に映し出されるのは、血溜まりに沈む幾体もの骸だった。
そのいずれもが持つ異形の姿が、それらが神より与えられし命ではないことを証明している。
外見から察するに、恐らくそのほとんどがチーターやヒョウといった肉食獣をベースに、様々な動物の遺伝子を組み込んだ、もしくは組み換えたものだろう。
本来存在しないはずの尖鋭な角があるものや、異様に長く伸びた尻尾が、まるで刃物の如く切れ味鋭い個体まで、その改造点は種々様々だ。
確かに、単純な力や殺傷力という点だけで見れば、他の野生生物より上だったろうが、所詮はそれだけ。
統率された集団行動を取れないただ群れただけの連中に、彼が遅れを取るはずがなかった。
止めていた歩みを、再び前へと進める。
その目的地は、例の動物園の内部、そのどこかから繋がっているであろう生物兵器の研究施設だ。
道中、首を左右へと捻れば、常に何らかの奇妙な光景が目に映った。
あるものは異様、またあるものは凄惨。
どの図鑑にも載っていないような異型の生命体の成れの果てが、至るところに転がっていた。
それらのほとんどは、鋭い爪や牙で全身をバラバラに引きちぎられたもの、頭部を失い横たわるもの、溶解液でも身に浴びたのか、ドロドロに溶けて爛れたものと、通常では到底ありえない最期を遂げていた。
その中には、人間のものとしか思えない四肢も含まれている。
視線を上方へと上げてみれば、危険から逃れるためだろうか、木の上に登ったはいいが、そのまま下りることができなくなり、枝にしがみついたまま痩せこけて餓死を迎えたと思しき、人間の死体も見えた。
地獄絵図とは、まさにこのことを言うのだろう。
周囲を満たす腐敗しきった肉と血の臭いは、そのような光景に慣れ親しんだ嘉治をもってしても、その眉間にシワを寄せさせるほどのものだった。
恐らく、さっきの奴らが、この歪んだ閉鎖空間における食物連鎖の頂点に立っていたのだろう。
他に動くものは、一切見当たらなかった。
故に、ここに存在する音は、風の音と嘉治が立てる靴音のみ……そのはずだった。

――ビチャッ。

「……っ!」
素早く音のした方を振り返る。
だが、その視界に映るものは何もない。
しかし、確かに聞こえた。
多分、今のは半ば乾き粘性の高くなった血溜まりに、何者かが足を踏み入れた音だろう。
音の大きさから推測するに、そう遠くはない。
瞳を上下左右へと素早く動かし、その何者かの姿を探す。
そしてそれは、大した苦もなく見つかった。
視界の下方隅に見えた何かに、そちらへと目線を向ける。
そこに見えたものは、小さな小動物――リスだった。
一見したところ、特に変わったところはない。
たまにその小さな手で顔をかいているその仕草は、見る者に愛らしささえ覚えさせる。
だがそれも、この腐敗しきった死の世界の中、血の池の上でとなれば、そうはいかない。
このような弱肉強食を体現したような場所で、今まで生き残れているという事実が、目の前にいる存在が常軌を逸していることを証明している。
嘉治はホルスターにしまったベレッタを再度引き抜くと、そのリスの外形をした何者かへ銃口を向け、躊躇いなく引き金を引いた。

――ガァン! バチャッ!

銃声に次いで上がったのは、何かの弾けたような鈍く不気味な音。
その音が消え、辺りに再び静寂が戻る頃、先ほどまでリスが居た場所に、その姿を認めることはできなかった。
その代わり、周囲に散らばる幾つかの肉片が目に見える。
良く見てみれば、それらのどれもがただの肉塊に成り下がっているにもかかわらず、痙攣するように蠢き続けていた。
その活動は止まることを知らず、触れている土や血、肉を、まるで貪欲に食らうかの如く取り込み、徐々にその大きさを増していく。
そして、それらの肉片一つ一つが、次第に元あった姿を再形成しようと、時を経るにつれ肥大化していく。
なんとグロテスク極まりない光景だろう。
何も知らないただの人間がこの場に居合わせたなら、気を失い卒倒するか、悲鳴を上げて錯乱しているか、それとも嘔吐しながらその場にうずくまるか。
いずれにせよ、まともな精神を保ってなどいられるはずもない。
しかし、そのような異常の極みとも言える景観を目の当たりにしても、嘉治の表情は依然として涼しげなままだった。
冷や汗一つ浮かべることなく、冷静に現状を分析する。

――まだ、殺す度に増殖して蘇ると決まったわけではないが、もしそうだとすれば、こんな厄介なものの相手はしていられないな。

そう考え、彼は未だ活動を停止しない不気味な肉の塊たちに背を向け、その場を後にすべく中枢部目掛けて駆け出した。
ここのどこかから繋がっているはずの、生物兵器研究施設。
それがどこにあり、どこを出入口としているのか、ある程度の目星はついていた。
ただの従業員やアルバイトには、決して立ち入ることのできない場所。
可能性として最も高いのは、やはり園長室だろう。
園内の最奥に位置する建造物目掛けて、駆ける足に更なる力を込める。
道中、先ほどのリスの姿を装った生物を数匹見かけたが、もちろん無視。
相手にすることなくその場を駆け抜け、ついに目的地へとたどり着く。
眼前にそびえたるは、見るからに奥行きの広い建造物。
つい最近まで人々の目に晒されていただけあって、その壁面は白色で綺麗に塗装されており、まだほとんど剥げても色褪せてもいなかった。
しかし、良く見てみればところどころに飛び散った血痕が、ドス黒い跡となって付着しているのが見て取れる。
また、一部の砕けた窓ガラスは、その欠片のほとんどが外側へと散らかっていることから、この中から外へと何かが出てきたということが容易に分かる。
内部は野外同様……いや、月光が遮られている分、その暗さはこちらの方が上かもしれない。
人の気配はまるでなく、しかしだからといって何もいないとは到底思えない、不気味な雰囲気で満ちていた。
「……ここか」
ボソッと呟きながら、砕け散った自動扉の前に立つ。
そのすぐ手前に、折り重なって倒れる幾体もの亡骸の山があった。
いや、正確には、亡骸の山であったであろう塊と言った方が良いだろうか。
そのほとんどが全身を食いちぎられ、あるいはドロドロに腐食させられ、またあるいはプレス機にでもかけられたかの如く、平面上に潰され内容物を辺りへ飛散させていた。
いずれもに当てはまるのは、原型を止めている死体などほとんど無く、どれがどの体の部位かすら判別不能なものが大半だということ。
されば、この場所にていくつの命が散ったかなど、知ることは疎か、予想することさえ叶わず。
その夥しい血の量から、ここで起きた悲劇の凄惨さを悟ることが精一杯だった。

――黙祷の一つでも捧げたいところだが、生憎そんな悠長なことを言ってはいられん。

嘉治は胸の前で手のひらを合わせると、軽くその場に一礼した後、施設内へと足を踏み入れた。
土や草を踏む柔らかな感触から、固いタイルへと足下が変化する。
足を一歩踏み出す度に、コッコッという乾いた靴音が鳴り、吸音素材に乏しい廊下にて幾重に重なり合いながら、四方へと反響してゆく。
内部構造は事前に把握していたので、その足取りに迷いはなく、奥へ奥へと歩みを進ませる。
何か出てくるかと警戒はしていたものの、何者かの気配はまるで感じない。
どうやら、ここに来るまでに出会った化け物連中は、既に全員屋外へと出払った後らしかった。
特に何の障害に出くわすこともなく、園長室前までくることができた。
扉越しに中の様子を探る。
音、気配共に無し。
恐らく、何の危険もないだろうと予想する。
だが、それはあくまで予想。
確証ではない。
「……っ!」
嘉治はドアノブを捻り、蹴り飛ばすようにして開くと、素早く後ろへと飛び退きつつ身構えた。

――バン!

勢い良く開け放たれた扉が、向こう側の壁にぶつかって小刻みに震動する。
それが静止する時まで、異変はただの一つも起きず。
……どうやら、当初の予想に違わず、安全だったようだ。
構えをとき、室内へと足を踏み入れ、周囲を見回す。
園長室と言う割には質素な造りで、高級そうな置物や絵などは、これといって特には見当たらない。
奥に長机と椅子、手前に向き合って置かれたソファーが四つと、その中間には円形の机が一つ。
それ以外には、部屋の隅に置かれた掃除用具入れと思しきロッカーと、窓を覆い隠すように閉められたカーテンくらいしか、この部屋を形成する要素はなかった。
そんな中、嘉治は何よりもまず窓際の方へと向かった。
カーテンには珍しい黒色の布地を左右に開くと、闇に包まれていた室内に仄かな月明かりが射し込んだ。
そこから見える景色は、更地状の平地と、奥にてそびえる背の高い柵、更に向こう側に、ようやくポツポツと民家らしき建物が確認できた。
長い間閉じられたままだったのか、軽く開いただけだというのに、結構な量の埃が舞い上がっていた。
そして、嘉治は確信する。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時35分(130)
題名:錯綜〜Complication〜(第二章)

この部屋には、外から覗かれては困る何かがある、と。
こういう場合、隠し部屋や通路、階段の類いがあるとすれば、どこかの壁越しに、もしくは床下にあるのが常道としたものだ。

――トントン……トントン……。

壁際を歩きながら、壁を手の甲で軽く叩く。

――トントン……コッコッ。

返ってくる音に、異変が生じた。
その部位に手を押し当て、撫でるようにその壁面を滑らせる。
途中、手に感じる亀裂をまたいだ感触。
間違いない。
この向こう側に何かがある。
次なる問題は、こいつがどういう仕掛けで動くのかだ。
こういった類いの隠し扉は、この室内のどこかにあるボタンに呼応しているとしたものだ。
机の下、棚の上、カーテンの陰……隠し場所として思い当たる箇所を探索してみる……が、見つからない。
こんなにも質素な部屋だ。
探す選択肢はそう多くないはずなのだが……。

――……最悪、手榴弾でも使って吹き飛ばすか?

そんな物騒なことを考えながら、何気なくその壁面にもたれ掛かった、ちょうどその時だった。

――ズズッ。

何かのズレる摩擦音のようなものが聞こえた。
次の瞬間、背後にあるはずの支えが消失する。
「っ!?」
微かに驚きの声を上げつつ、嘉治はとっさに体を捻り、足を前へと踏み出して、倒れそうになった体をすんでのところで踏ん張った。
崩れた体勢を立て直し、視線を前方へと向ける。
しかし、何も見えない。
先ほどまでは、ほんの僅かではあれど、反射した月光の恩恵を受けていた。
だが今、この密閉された空間に、一切の光源はない。
さすがにこれでは、いくら夜目が利こうと関係ない。
嘉治は懐に手をしのばせると、そこから常時携帯しているペンライトを取り出した。
常に持ち歩いてはいるものの、使う機会はほとんどなく、手に握ったのも随分と久しぶりだった。
慣れない手つきで持ち手を右へと捻ると、暗闇の中に一筋の光が注いだ。
ペンライトを上下左右へと動かし、周囲の状況を把握する。
上下左右共に、あるのは質素な壁だけで、比較的窮屈な空間であることは直ぐにわかった。
前に広がるのは、下へと続く階段。
「……」
無言のまま、背後を一瞥する。
果たしてそこには、左右同様の壁面が存在していた。

――イギリスだと言うのに、まるで忍者屋敷みたいなカラクリだな。

そんなことを考えながら、嘉治は地下へと伸びる階段に足をかけた。
暗がりに足を踏み外さぬよう、慎重に歩みを進める。
下へ行くにつれて、周囲に飛び散った血痕が目につき始める。
そして、階下へと下り立つ頃には、辺り一面は血の赤で染め尽くされていた。
蒸せ返るような血の匂い。
だが、そこに本来あるべき腐敗臭はなく、目に見えるものも半個体状に乾いた血液だけで、肉片や死骸は特に見当たらなかった。
だが、何故かその割には衣類や装飾品といった類いはそのまま残っており、一部破れたり割れたりしているものはあったものの、血染めになっているだけで無傷なものも多々あった。
首をひねり周りを見渡す。
道は左右へと分かれており、どちらもそう遠くない距離に扉が見える。
軽く左右を見比べた後、嘉治は左へと足を向けた。
一歩前へと足を踏み出す度、生乾いた血を踏みつける濁った音が、無音の空間で不気味に反響する。
扉の前まで来た嘉治の目に、その横に備え付けられているカードリーダーが見えた。
……電気が通っていないのだろう、電源ランプに光が点いていない。
見るからに分厚い扉だ。
手持ちの武装で破壊するのは不可能に近い。

――仕方ない、反対側から向かうとするか。

嘉治は溜め息混じりに踵を返すと、そのまま反対側へと足を進めた。
こちら側はカードリーダー形式の頑丈な扉ではなく、一般的なガラス製の自動ドアだ。
もちろん、こちらも電力が流れていなかったが、既に大きく開かれたまま止まっていたため、すんなりと中へ入ることができた。
室内へと踏み込みながら、周囲を照らし出す。
ここでも、そこかしこに見える血痕が、この場所で起きた惨劇をありありと物語っていた。
だが、ここにも当然あるはずの肉片や死体は見当たらない。
なのに、やはり衣類等の身に付ける物は、いくつも見受けられた。
まるで脱け殻のようだ。
このような異常に、嘉治が気付かないはずはない。

――……どういうことだ?

眉をひそめる嘉治。
生物兵器研究所の事故現場を見るのは、これが初というわけではない嘉治だったが、このような状況に出くわすのは初めてだった。
ここまで血が散乱している以上、生きたままの生物を引き裂いた、または食いちぎったと考えるべきだろう。
しかし、それにしては装飾品が無傷で残り過ぎている。
わざわざ、衣類を傷付けないように切り裂いた?
何をバカな。
逃げ惑い錯乱する人間に対して、そんな器用なマネができるはずはない。
まず第一に、そんなことをするメリットが見つからない。
一体何故……。
「……ふぅ」
と、そこまで考えてから、嘉治は溜め息混じりに小さく頭を振った。
思考するだけ無駄だ。
こんなところで労力の無駄遣いをするくらいなら、前進することに力を傾けるべきだろう。
自然とうつ向きがちになっていた顔を持ち上げ、目線を水平に戻した。
奥へと続く廊下は一本道で、左右に二つずつある扉には、手前のそれぞれにロッカールーム、その向こうには休憩室と記されている。
ロッカールーム、休憩室を横目に通り過ぎ、奥の扉へとたどり着く。
見たところ、これも自動ドアの類いのようだが、停電時等の為と思しき手動用のバルブが、すぐ横に設置されていた。
それを時計方向へと回し、開いた扉から奥へと向かう。
そこからは、またしても左右に道が広がっており、その両端がまた二方向へと分かれていた。
前方の壁面には、一般的なドアノブ形式の扉が、横並びに3つ立てられている。
嘉治のすぐ前の扉には、その上に“B”とだけ書かれており、それ以上の情報はなかった。
「……」
しばし迷う素振りを見せた後、嘉治は目の前の扉に手をかけることにした。

――ガチャッ。

鍵はかけられておらず、簡単に開けることができた。
中へ入るなり、両サイドに立ち並ぶ二段ベッドが目に映る。
多分、ここは化学者たちの寝室だろう。
研究に没頭する学者たちが、勤め先で寝泊まりすることは、さほど珍しいことではない。
だが、ここも血飛沫が飛び散っており、既に本来寝室が持ち得る落ち着いた雰囲気など欠片となかった。
曲がりくねった奇妙な区切り方をされており、それぞれの隅にベッドが。
また、空いた隙間のスペースに、洗面所や小さなバスルームが備えられていた。
辺り一面に物が散乱しており、足を地に下ろす度、壊れた時計やラジオの部品の割れる音が響く。

――カツッ。

「ん?」
と、不意に何かを蹴り飛ばした感じがして、嘉治は足下に視線とライトを向けた。
何か、細長い小さな物体が見える。
その場に屈み込み、その何かを指でつまみ上げた。
随所にこびりついた血の固まりを、指で剥がしていく。
その奥から現れる鈍色の鉄。
下方には、何やらいくつかのボタンが見える。

――これは、レコーダーか。

再生ボタンを押してみた……が、反応はない。
どうやら壊れているようだ。

――……仕方がないな。とりあえず持ってはおくか。

拾ったレコーダーに付着した血液を綺麗に剥がしてから、嘉治はそれを懐へとしまい込んだ。
その最奥、こちらも入ってきた時同様のノブタイプの扉があった。
それを開け放ち、更に向こうへと向かう。
そこからは、前方及び左右へと道が延びており、前には少し開けた空間があるようだった。
そちらへと向かい、周囲を見渡す。
ここも血が飛び散っており、悲惨さでは他所と何ら遜色ない。
左手側に二つ、右手側に一つ扉があり、前方には長い通路が続いていたが、ペンライト如きの光では向こうまで照らすことはあたわなかった。
左手側の扉には、それぞれ“監視室”“電力制御室”、そして対面側の扉には“廃棄物処理施設”と書かれていた。
嘉治は、迷うことなく電力制御室と記された扉へと足を運んだ。
かなり頑丈そうな扉ではあったが、先と同じように手動用のバルブがあったため、さほど苦もなく開くことができた。
こちらも光は一切なかったが、今まで歩いてきた道中のような血の海は存在していなかった。
至るところに見当たる機械類は、それらのどれもが機能を停止している。
この部屋のどこかに、施設内の照明や自動ドアの電力供給を担っている機器があるはずだ。
それを探し、室内を歩き回っている時だった。
「……!」
ペンライトの照らす先に、地に座り込み壁にもたれ掛かっている一つの人影が見えた。
そちらへと駆け寄り、その傍らにしゃがみ込む。
白服を身に纏った、中年の男性の遺体だ。
心臓にナイフを突き立て、息絶えているが……まだ、流れ出た血が渇ききっていない。
どうやら、ほんの少し前に、自ら命を絶ったようだ。
痩せこけた頬に、見開かれたままの血走った瞳が、彼がどれほど追い詰められていたかを雄弁に示している。
「……」
無言のまま、嘉治は胸の前で軽く手を合わせた。
もう少し早くここまでたどり着いていれば、彼はこんな目に合わずに済んだかもしれない。
この非情な世界にたらればが存在しないことを、誰より良く知っている嘉治だったが、そう思わずにはいられなかった。
それくらい、その遺体の語る最期は残酷で凄惨なものだった。
「……」
しばしの後、嘉治は静かにその場に立ち上がった。
「……ん?」
そんな折り、彼の目に、何か妙なものが見えた。
壁に書かれた赤い文字。
彼が死に際に遺した血文字だろうか。
そこには、こうとだけ書かれていた。

“Don't see it”

「……それを見るな?」
訳するとそうなる。
だが、何を見るなというのか、何故見てはならないのかという説明は、一切ない。

――……なんとも意味不明なダイイングメッセージだな。まぁ、頭の片隅には残しておくべきか。

どうせ考えたところで答えは出ない。
嘉治はそこを離れると、再び電力供給機器の探索へと戻った。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時35分(131)
題名:錯綜〜Complication〜(第三章)

ほどなくして、壁に張り付けられていた四角い箱状の物体の中に、落とされたブレーカーを見つけた。

――ガチャン。

それを引き上げると同時に、闇に閉ざされていた空間に眩いばかりの光が満ちた。
瞼の上に手をかざし、目を細めながら辺りを見回す。
先ほどまで機能を停止していたほとんどの機器が、その活動を再開していた。
こういう場所だと、普通ブレーカーが落ちても非常電源が働くはずなんだが……恐らくは、先ほどの彼が生前にそれさえも落としたのだろう。

――そういえば……

と、何を思い出したのか、嘉治は再度遺体の傍まで戻ると、そこで膝を折った。
「……失礼」
軽く頭を垂れ、手を彼の着ている衣類のポケットへとしのばせる。
感触だけを頼りに手探り探していくと、数度目に固い何かが手に触れた。
指先でつまみ、そのままそっと引き出す。
カードキーだ。
ズボンの後ろポケットに入っていたため、血に汚れてはいない。
これなら、問題なく使えるだろう。
「……ん?」
それを懐にしまおうとした時、床に落ちている一枚の写真が目に止まった。
先ほどは暗かったから見落としたのだろうか。
拾い上げ、そこに映るものへと目を向ける。
それは、最期同様の白衣を身に纏った彼と、その腕に抱かれて眠る幼い少女の姿だった。
色褪せた写真に映り込む彼の容姿は、今より大分若いように見える。
日付の部分は掠れて読み取れなかったが、かなり古いものであることは間違いなさそうだ。
写真越しにも分かる澄みきった美しい青髪を、いとおしむように撫でる彼の口元は緩く綻び、彼女を見つめるその暖かい眼差しは、紛れもなく父親が愛し子に向けるそれだった。
何気なく裏返してみると、一つの文章が目に止まった。

《Please, rest to my dear daughter…….》

「……」
その一文を見つめる嘉治の表情は、いつしか真剣な面持ちにより一層の険しさが宿っていた。
しばらくの間、鋭い目付きで写真を凝視した後、嘉治は――

「……」

――それをスーツの内ポケットへと滑り込ませた。
胸中にて渦巻く、言い表すことのできない複雑な感情。
……それが、嘉治の判断を刹那的に鈍らせた。

――ピン。

「っ!」
電気機械の生み出す駆動音に紛れて耳に届く、聞き慣れた甲高い音。
それが何であるか、理解するのに時間は要さなかった……が、実際に行動を起こすまでに、僅かなタイムラグが生じる。
今になって確かに感じる、出入口付近の何者かの気配。
ホルスターからベレッタを引き抜きつつ、横飛びに物陰へと身を隠す。
それと同時に、けたたましい音を伴い、辺りに激しい閃光が迸った。
やはり、予想に違わず閃光手榴弾。
それが炸裂するその瞬間だけ目を閉じ、すぐに開く。
ここまでは、嘉治の予想通りだった。
だが、次の瞬間、その予測に反する事象が起きる。
「……!?」
突如として、すぐ隣に現れた何者かの気配。
反射的に背後へと飛び退き、距離を開けようとする。
しかし、相手は出入口付近から嘉治の隠れていた部屋の奥まで、一瞬の内に移動できるほどの脚力を持つ人間。
しからば、それは間違いなく誤った判断。

――ドスッ!

重く鈍い殴打の音が、体を通して痛みと共に響く。
「ぐっ……!」
口から漏れるのは、苦痛に歪んだ呻き声。
こうなってしまうと、手に持ったベレッタは邪魔でしかなかった。
このような互いに肉薄した戦闘において、銃など何の役にも立たない。
むしろ、片手を自ら封じているも同然ということを、嘉治は長年の経験から熟知していた。
しかし、だからといってこれを手放しているほどの猶予もない。
ならば、取るべき手段は一つ!
腹部の痛みを押し殺し、空いている左手を硬く握りしめ、目の前の人物めがけて正拳を放った。
バシッという乾いた音を立てて、手のひらで容易く受け止められる。
しかし、これでいい。
次いで右手を降り下ろし、ベレッタの銃底でその手首の部分を叩きつけた。
「うっ……」
小さな苦悶の声。
同時に、苦痛からかその姿勢が僅かに前へと傾く。
自然、うつ向き加減になる頭部めがけて、嘉治は再度銃底による殴打を放った。
それを、そいつが腕を立てて防ぐ……その瞬間だった。

――っ!?

全身を襲う違和感。
体が動かないというわけじゃない。
全身の自由はあるというのに、何故だか嘉治の意思とは裏腹に、戦意そのものが喪失されてゆく。
こちらを真っ直ぐに見据える両の瞳に、今だかつて味わったことのない、薄ら寒い不気味な感覚を覚える。
「……ふふっ」
そいつの口から溢れる、愉悦混じりの笑み。
「……」
気が付いた時、嘉治は自ら銃を下ろしていた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時36分(132)
題名:錯綜〜Complication〜(第四章)

――英国、ロンドン、ヒルトンホテル、7/27、現地時間9:30――

「……や……さや……」
「……ん……」
微睡みの最中にあった私の意識の水面に、誰かの声が小さな波紋を広げる。
起きなきゃ。
そう思うのに、なんでだろう……やけに体が重い。
覚醒を促す理性を、本能の鎖がきつく縛りつける。
できることなら、このままずっと寝ていたい。
もう起きることなく、ずっと夢の世界に閉じこもっていたい。
そんな退廃的な思考を巡らせてしまうほどの、激しい倦怠感と虚脱感が、この身を苛んでいた。
「まったく、しょうがないわねぇ……」
すぐ横から聞こえてくる、呆れたような姉さんの声。
ほんの少し前まで……彼女に会う以前の私なら、きっとこの声を聞いただけで、眠気なんてどこかに吹き飛んで直ぐにでも跳ね起きてたはずなのに……。
未だに分からない。
私が姉さんに憧れていたあの気持ちは……姉さんみたいな人になりたいと思って、精一杯変わろうと努力していた私は、一体何処に行ってしまったのか。
あんなぽっと出の女に、どうしてこうまで心を乱されてしまっているのか。
人を好きになることに理由はないって良く聞くけど、それも時と場合によりけりだ。
ただ好きになるだけなら、そんなに問題はない。
一目見ただけで、ちょっと話してみただけで、その人を好きになるということ自体は、そこまでおかしなことじゃない。
だけど、その人を好きになるあまり、今まで心の底から憧れていた人に対する想いが、こうも容易く薄れるなんてことあり得ない。
あり得ちゃいけないんだ。
私は姉さんが好き。
大好き。
あんな女なんかとは、比べ物にならないくらい。
そうだ、あんなハレンチ女、好きになんかなるわけがない。
私がこんなに好きなのは、姉さんだけなんだからっ……!
……そうやって、私は一体何度己に言い聞かせたことだろう。
まるで自分自身を無理やり騙しているみたいで、叫べば叫ぶほど苦しかった。
姉さんのことを裏切っているようで、辛かった。
そして何より、嘘偽りのない私の本当の気持ちがどこにあるのか、雲を掴むかのように朧気で、怖かった。
こんな不安ばかりを抱いている私が、いつもみたいに笑えるはずがない。
見る人誰もに心配をかけるような、暗く沈んだ表情しか浮かべられないに決まってる。
そんな顔で、姉さんの方を向けるはずがないじゃない。
「……」
そんなことを考えている内に、いつしか意識ははっきりしていた。
だけど、まだ寝ぼけている風を装って、私は姉さんがいる方とは反対側へと寝返りを打った。
「……やれやれ」
うんざりといった様子でそう呟く姉さん。
申し訳なさが胸を締め上げるけど、それでも振り返る気にはなれなかった。
「そろそろ私は行くけど、紗弥はどうする? 寝て待ってる?」
「……うん」
「分かったわ。できるだけ早く戻るようにするから、どこにも行っちゃダメよ。後、誰が来ても絶対に開けないこと。わかった?」
「……」
「……返事は?」
「……うん」
「良い子ね。それじゃ、行ってくるわ」
姉さんはそんな私を叱ることも宥めることもせず、私の耳元でそう囁いてから、静かに部屋から出ていった。

――バタン。

扉が閉まる音を境に、室内に静寂が漂い始める。
「……っく……」
嗚咽が漏れる。
私は、なんで泣いているんだろう。
もうそれさえも分からない。
歯を固く食い縛り、シーツを握り締め、必死に涙を堪えようとする。
「うっ……うぅ……!」
それでも止まぬ涙と嗚咽に、私は身を震わせながら枕を濡らすことしかできなかった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時37分(133)
題名:錯綜〜Complication〜(第五章)

――日本、都内某所、7/27、現地時間14:30――


――キィッ。

甲高い摩擦音を上げながら、路端に一台の車が停車した。
見るからに高級そうな黒塗りの外車が、陽光を浴びて黒光を乱反射する。

――ガチャ。

運転席の扉が開き、そこからベージュのスーツを着込んだ佐奈が姿を現した。
「……」
首を左右へとひねり、鋭い眼差しで周囲の状況を確認する。
後頭部で結わえられた短いポニーテールが、彼女のそんな動きに合わせて緩やかに揺れている。

――ガチャ。

そんな彼女に遅れること数秒、助手席側の扉が開き、そこから黒のスーツを身に纏った季慈が降り立つ。
今、彼らのすぐ眼前にあるのは、一軒の豪勢な日本家屋だった。
ここは、内閣官房長官、相模礼司(さがみ れいじ)の自宅だ。
内部官房と言えば、閣議事項の整理や内閣における庶務を担当する、国の中枢とも言える機関である。
その長官ともなれば、総理大臣に次ぐ内閣の最重要ポストと言っても過言ではないだろう。
「さて、と」
その門前で、季慈は両手でスーツの襟を掴むと、軽く引っ張りシワを伸ばした。
「準備はいいかの、さっちゃんや」
「はい」
「うむ。では、行くとするか」
力強く頷く佐奈を横目に、季慈は表札横のインターホンを押した。
くぐもった呼び鈴の音が、門の向こう側から聞こえてくる。

――ギイイィ……。

しばらくの後、どうぞお入りくださいという機械越しの音声と共に、仰々しい門が自動で開いた。
「おぉ、門の開閉が自動とは、便利なもんじゃのう」
「長官、そのようなことに感心なさっている場合ですか」
「分かっとる分かっとる。今からそう緊張することもなかろうて」
「……はぁ」
半ば呆れ混じりに溜め息を溢す佐奈を引き連れるようにして、季慈は悠然たる足取りで門を潜った。
石畳の足場に導かれるままに、足を家屋の方へと進めていく。
コッコッという小気味の良い靴音が、耳に心地よい。
途中、左右へと視線を配ってみれば、手入れの行き届いた美しい庭園が目に止まった。
家屋そのものはもちろんのこと、庭園や門、果てには表札一枚に至るまでこだわられているとして政界でも有名だが、実際目の当たりにしてみると……なるほど、その評判にも頷けるものがある。
戸口にたどり着いた二人を招き入れるかのように、屋内へと続く引き戸が静かに開かれた。
そこから姿を見せたのは、この家の主である礼司だった。
「本日は、ようこそいらっしゃいました」
着物姿の礼司が、季慈に向かって深々と頭を下げる。
「出迎えご苦労……ほう、和装か。君自身の服飾も、この家の様式に合わせているのかね?」
「それもありますが、これが一番楽な服装でしてね。在宅時はいつもこれなんですよ」
「なるほど。なかなか似合っているではないか。スーツよりこちらの方が上手く着こなせているんじゃないか?」
「ははっ、自分でもそう思います」
そんなやり取りを交わしながら、互いに笑い合う二人。
端から見れば、他愛ない会話に花を咲かせているように見えるのかもしれない。
だが、すぐ横にいる佐奈は気付いていた。
この会話の節々に潜む、緊迫した空気に。
「さぁ、こんなところで立ち話もなんですし、どうぞ上がってください」
「あぁ」
余裕ささえ漂う涼しげな表情を浮かべ、敷居をまたぐ季慈。
「……失礼します」
警戒の眼差しをくまなく周囲へと向けつつ、油断なく佐奈がその後に続く。
二人は居間に通され、礼司に促されるまま、あらかじめ用意されていた座布団の上に腰を下ろした。
「では、私はお茶を持って参りますので、しばらくここでくつろいでいて下さい」
「あぁ、すまんな」
「……」
そう言って出ていく礼司の背に、季慈はねぎらいの言葉を、そして佐奈は鋭い眼差しを向ける。
「お待たせしました」
しばらく経った後、戻ってきた礼司の手には、湯飲みと茶菓子の乗せられた盆があった。
下座の席に腰を下ろし、その脇に盆を置く。
木製の長机の上、季慈と佐奈の前に、湯飲みと茶菓子それぞれ一つずつをそっと配膳する。
「ありがとう」
「……ありがとうございます」
両者述べる言葉は同じく礼だが、その声色も態度もあからさまに違う。
余裕ささえ漂わす季慈とは対照的に、佐奈の全身からは、あからさまな緊張感が漂っていた。
鋭い目付きはさながら鷹の如く。
油断なく相手を見据えるその眼差しは、眼光だけで相手を射抜かんばかりだ。
「さて、と……では、本題に入るとするかの」
出された茶には目もくれず、季慈はおもむろにそう切り出した。
「時に相模君。先日、ワシが送ったファックスには、もう目を通してくれたかね?」
「無論です」
季慈の言葉に、相模はしっかりと頷いてみせた。
「そうか……」
呟きながら、季慈は横目で佐奈に目配せをする。
「……」
その視線を受けて、佐奈は無言のまま頷くと、静かに立ち上がり、相模の隣へと移動した。
「失礼します」
そう言ってその場に腰を下ろし、彼の右手首をそっと掴む。
「え? 季慈さん、これは……」
「何、気にするな」
訝しげな眼差しを向ける相模に対し、季慈は言葉では軽くあしらうように、だが険しい眼差しには有無を言わさぬ強制力をもって、それを答えとした。
「……わかりました」
そんな季慈の目付きに、相模も戸惑いを捨て真剣な目で返す。
「では、単刀直入に聞こう。今回の同行者の件、君はどれだけ知っている?」
「そうですね……季慈さんから連絡をもらうまで、何も知りませんでした。ただ……」
「……ただ?」
「元よりおかしな話だとは思っていました。今回の事件、原因が偶然の事故にせよ何者かの故意にせよ、英国政府はその現場を誰より先に押さえている。なら、マスコミに圧力をかけて情報漏洩を防ぐことは容易だったはず……にもかかわらず、わざわざ多額の資金を払ってまで、その責任を日本に負わせている。どう考えても非効率的過ぎます」
「その通りだな。ワシもその意見には同意だ」
「しかし、本来いないはずの同行者の存在が判明して、何故私のところに?」
そう問いながら、相模は不思議そうに眉をひそめた。
「あぁ、そのことだがな。お前さん、先週の土曜の昼頃、何をしていたか覚えておるか?」
「先週の土曜……ですか?」
「うむ。庁舎内で飯を食っていたとか、業務に追われていたといった大体のことでも構わん」
「いえ、先週の土曜でしたら、私は庁舎には行っていませんよ」
「……何?」
先ほど相模がしたように、今度は季慈が怪訝そうに眉間にシワを寄せる。
「その日は、前々から娘と約束をしてましてね。小学校に授業参観に行っていました」
「……」
視線を相模から逸らし、佐奈へと向ける。
「……」
それを受けて、佐奈は小さく首を横に振った。
「……なるほど」
「……それが、どうかしましたか?」
「いや、何でもない……佐奈」
「はい。相模さん、失礼しました」
両の手を畳に付き、相模に対し頭を下げた後、佐奈は静かに自分の席へと戻った。
「それでは、話を変えよう。先週の土曜、庁舎に居た人物が誰か分かるか?」
「それでしたら、私のパソコンの中にデータがあるはずです。印刷してきますか?」
「あぁ、頼む」
「わかりました。では、少々お待ちください」
和服の裾を踏まぬよう気をつけて立ち上がり、そう言い残して相模は部屋から出ていった。
季慈と佐奈、二人だけになった部屋に、しばしの静寂が訪れる。
その静けさを、季慈が小声で破った。
「……なかったか?」
「はい。話していたことに、嘘偽りは一切ありませんでした。全て真実です」
「そうか……」
顎に手を添え、うつ向きがちに顔を伏せる季慈。

もしやと思ったが、やはり違ったか。
まぁ、あいつとの付き合いもそこそこ長い。
こんなことをする奴ではないだろうとは思っていたが……疑いを棄てきれなかったか。

「やれやれ。歳を取ると、疑り深くなっていかんのう」
そう言って足を崩すと、季慈はそこで初めて相模が持ってきた茶に口を付けた。
結構良質の茶の葉を使っているのか、それとも彼の淹れ方が良いのか、緑茶独特の渋みの中にも、それだけでない確かな旨味を感じる。
その勢いのまま、季慈は目の前にある、茶菓子として運ばれてきた饅頭に手を伸ばそうとした。
「長官」
しかし、すぐ側から掛けられた声によって、その行為は未然の内に終わる。
「……なんじゃ、さっちゃん」
宛てなく腕をさ迷わせたまま、季慈は佐奈の方へと視線を移した。
「私が何を言わんとしているかなんて、長官もご理解なさっているはずですけど?」
そう言って、佐奈がジト目でその目を見返す。
「し、しかしだなぁ……これは、ワシが自分で買ってきたもんじゃないぞ?」
「そんなことは関係ありません。糖分はお控え下さいと、普段から口酸っぱく申し上げているでしょう」
「じゃが、相模がわざわざ用意してくれたものじゃぞ? それに手を付けないのは、些か失礼にあたるんじゃあないか?」
「……確かに、それもそうですね」
「じゃろ? なら、ここは美味しくいただくべきじゃないか?」

月夜 2010年07月09日 (金) 23時38分(134)
題名:錯綜〜Complication〜(第六章)

「……わかりました」
「よしよし。若い者は素直が一番じゃ。では早速……?」
しばらく考える素振りを見せた後、佐奈は季慈が再度手を伸ばすより先に、彼の目の前の饅頭を手に取っていた。
「……?」
季慈の怪訝そうな目をよそに、佐奈は包装を破り中身を取り出すと、それを半分に割った。
そして、その片割れを更に二等分し、内一片を季慈の方へと差し出しながら、
「はい、どうぞ」
と、控えめな笑顔を浮かべる。
「……これだけ?」
「これだけです」
「残りは?」
「私が美味しくいただきます」
次の瞬間には、佐奈の手にあった饅頭は、既に彼女の口の中だった。
「あ、美味しいですよ、これ」
「……おぉ、そうかそうか。それはよかったのぅ……」
佐奈の口内へと消えていった茶菓子に肩を落としながら、季慈は仕方なしに四等分された饅頭を口に含んだ。
口いっぱいに広がるアンコの甘味も、今この時ばかりは何故だか妙に切ない。
「お待たせしました……? どうかしましたか?」
「いや……この茶菓子、なかなか美味かったぞ……」
「? あ、ありがとうございます。それと、これが当日の出入舎記録です」
季慈のどことなく憔悴した雰囲気に戸惑いつつも、相模はなあなあに礼を述べ、印刷してきた資料を手渡した。
「ありがとう。……ふむ。土曜日だというのに、結構出入りが多いな」
紙面に目を落としながら、季慈はそう漏らした。
「そうでしょうか? この位が普通なのでは?」
それを後ろから覗き込むようにして、佐奈が言う。
「じゃが、防衛庁舎の出入舎記録を見ても、平日でさえこんなに出入りはしておらんぞ」
「それは防衛庁だからです。内閣府とは絶対的な人数が違いすぎるんですから、当然でしょう。相模さん、この中で、国会公安委員会の人間で、情報管理を担当している人物はいますか?」
「そうですね……私自身、万近い職員のことは、さすがに把握しきれていないので、なんとも……。それも印刷してきましょうか?」
「えぇ、お願いしま……」
「いや、その必要はないじゃろう」
佐奈の言葉を遮り、季慈は断定的な声色でそう言い放った。
「え? 長官、それはどういう……」
「相模よ。今の内閣危機管理官は、こいつじゃなかったか?」
佐奈の疑問をよそに、季慈は資料の一部分を指差しながらそう問いかけた。
そこには“内閣危機管理官:流川 清治(ながわ せいじ)”という役職と氏名が記されていた。
「はい。まだ役職に就いて日も浅いですが、良く頑張ってくれていますよ」
「そうか。……確か、前任の宗田は、数ヶ月前に亡くなったんじゃったな」
「……えぇ。彼は危機管理官としても優秀でしたし、同時に人として尊敬に足る人物でした……」
当時のことを思い出してか、相模の表情に翳りが差した。
彼の生前、相模と宗田が公私に渡り付き合いが深かったことは、季慈を含め閣僚の大多数が知っている。
宗田の凶報を耳にし、天涯孤独を貫き、家族のいなかった彼の為、相模がその葬儀を執り行ったことは、有名な話である。
「しかし、何故急にそんな話を? まさか、彼が……」
「さぁな。これは、あくまでもワシの勘じゃ」
「……」
そう言って不敵な笑みを浮かべる季慈の姿を見つめながら、佐奈は思った。
流川という人物が、この件の犯人……例えそうでなくとも、何らかの関係があることは間違いないだろう、と。
それは、季慈の秘書官として、今まで何度となく彼の“勘”を目の当たりにしてきた彼女だからこその、信頼に裏付けされた確信だった。
「さて、美味い茶菓子も頂いたことだし、そろそろおいとまさせてもらうとするかの」
「もうお帰りになるのですか?」
「あぁ。ゆっくりしたいのは山々なんじゃが、そうもいかんのでな」
相模からもらった資料をヒラヒラと振りながら、季慈はその場に立ち上がった。
それに合わせ、佐奈も静かに腰を上げる。
「それじゃ、行くぞ」
「はい」
「玄関までお見送りしますよ」
「悪いな」
季慈が佐奈を連れ、その後を追従する形で相模が続く。
「流川の自宅は、確かここからそう遠くなかったな」
「えぇ。庁舎と同じ千代田区内ですから、数十分もあれば着くでしょう」
「そんな便の良い場所に住居を構えているとは、若造のくせに贅沢な奴じゃのう。一度、灸を据えてやらにゃあならんな」
「ははっ、そんなこと言ったら、政界の若輩ほぼ全員じゃないですか」
「しかし、最近の若者は豊和な時代に慣れ、大した苦労を知らない連中が多すぎる。そう思わんか?」
「同感です」
他愛もないやりとりを交わし、笑みを溢す二人。
その両者の間に、当初の張り詰めた緊張感は微塵と残っていなかった。
「さて……今日は色々と済まなかったな。だが、おかげで大分助かったよ」
「いえ、私にできることなら、何でも仰ってください。何もなくても、またお茶でも飲みにきてやってください」
「はい、是非」
相模の見送りに、季慈は握手で、佐奈は頭を下げしとやかな笑顔で応える。
「では、またな」
「失礼しました」
そして口々に別れを告げた後、二人は屋敷を後にした。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時38分(135)
題名:錯綜〜Complication〜(第七章)

――英国、ロンドン、日本領事館、7/27、11:30――


豪勢な応接室。
立ち並ぶ装飾品の類いは、それらのいずれもが、素人目にも荘厳な雰囲気を感じずにはいられないものばかり。
ソファーやテーブルといった家具たちも、その高級感に見劣りしない一級品で揃えられていた。
行き届いた手入れにより部屋には塵一つとなく、それが室内の空気により一層の高貴さを持たせる要因となっている。
「……」
そんな応接間のソファーに腰掛けたまま、水亜は静かに瞼を閉じていた。
何をするでもなく、ただ黙したまま座するのみ。
その姿は、普段絢音や聖の相手をしている時や、紗弥に対して見せる日常の中の彼女とは、似ても似つかない。
だからといって、世界中の組織に恐れられているO.L.の姿にしては、あまりに静謐、あまりに穏やか。
初見の人が今の彼女を見て、一体先述したような彼女の本性を、いかにして想像できようか。
いや、それを言うならば、今の彼女とてその本質の一角に違いない。
これもまた、明神水亜という人物が持つ得る人物像の、その一つということなのだろう。

――ガチャ。

「……」
不意に聞こえてきた扉の開く音に、水亜は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
瞳だけを動かし、入ってきた人物の容姿を確認する。
黒のスーツを着込んだ男性だ。
その体格は、痩せ型と言うより貧弱と表現した方がいいかもしれない。
か細い体躯と痩せこけた頬、それに白く血の気のない肌は、お世辞にも健康的には見えない。
水亜はその場にゆっくりと立ち上がると、こちらへ歩み寄る男性の方へと向きを正した。
「お初にお目にかかります。明神水亜と申します」
そして、彼が立ち止まるのを待ち、軽く自己紹介を述べつつ頭を垂れて一礼する。
「これはこれは、ご丁寧にどうもありがとうございます。私はこの領事館の総領事を務めさせていただいております、鹿狩遊樹と申します。お待たせして申し訳ありません。さ、どうぞお掛けください」
遊樹に促されるまま、水亜は再びソファーに腰を下ろした。
そんな彼女とテーブルを挟んだ反対側、対面のソファーに、遊樹も静かに腰かける。
「あぁ、そういえば、飲み物をご用意していませんでしたね。明神さんは何がよろしいですか?」
「いえ、私は結構です。どうかお気になさらず」
遊樹の勧めを、水亜はやんわりとした口調で断った。
このような場で飲食物を相手に勧められた時、彼女は基本的にその提案を受けることはない。
それは、不用意に毒物などを盛られないようにするためであるが、それ以上に相手に付け入る隙を与えないためという節が強い。
「そうですか? では、何か欲しくなった時は遠慮なくどうぞ」
「お気遣いいただき恐縮です。早速ですが、本題に入ってもよろしいですか?」
「ははっ、仕事熱心な方ですね。わかりました、お話しいたしましょう」
小さく笑い声を上げてから、遊樹はその目に真剣な色を宿らせた。
「まず、この事件の発端ですが……」
「英国が極秘裏に開発した生物兵器による災害……そう聞きましたが」
「その通りです。この事件は表向き日本で起きたものとなっているので、こちらでは大した騒ぎにはなっていませんがね」
「その件に関して、私からいくつかお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「はい、何でしょう」
「この事件、実際英国で起きたことを、何故わざわざ日本に肩代わりさせたのでしょう?」
「……と、言いますと?」
「私が言うのも何ですが、日本程発達した情報網を持つ国は、そうそうありません。英国の目的が事実隠蔽だとしたら、日本にその責を擦り付けるのはあまり理に敵っているとは思えないのですが」
これは、今回の事件に際し、水亜が当初より抱いていた疑問だった。
今回の件の裏に潜む人物が誰であろうとも、責任転嫁の相手を日本にすることによるメリットが、何一つと想像できない。
事実、日本より情報能力の劣る国なんていうのは、世界中に掃いて捨てるほどいる。
それらのどれでもなく、日本を選んだ理由……それがどう考えてもしっくりこない。
「そこは、逆転の発想というやつですよ。日本のように発達した情報網を持っている国は、情報操作となると難しいでしょうが、情報を錯綜させるのは容易いものです。何が真実かをわからなくさせるには、そちらの方が色々と便利だとは思いませんか?」
「……なるほど」
真剣な面持ちで頷きながら、水亜は内心密かに嘲笑を溢した。
何をバカな。
この男は、本気でこんな戯言を意見として述べているのか?
事実を隠蔽したいのなら、情報を錯綜させるより、情報統制する方が数段効率的だ。
今回のような事件なら、南米やアフリカの原始的な地域で起きた不幸な事故、ということにした方が、何倍も効率的且つ自然だろう。
そんなことを思いながら、思考を原点へと回帰させる。
日本への責任転嫁の偽装工作は、事実隠蔽が目的ではない。
仮にそれが目的の一つであったとしても、重要性という点では二の次だったのだろう。
なら、最大の目的はなんだ?
今回の不祥事を日本になすりつけることで、一体何が変わった?
……何も変わりはしない。
生物兵器の開発を行っていたという事実を、日本に向けて露呈しただけだ。
そのこと自体に、何らメリットはない。
そうなれば、私か、私でなくともOLの誰かが動き出すこととなるのだから。
……それが目的だったとしたら。
極めて不自然な考えではあるけれど、そう仮定するなら、わざわざ日本を身代わりに仕立てあげたことにも頷ける。
問題は、その目的の根本的な理由。
意味理由なき目的を目的とは呼べない以上、この仮説が正しいならそれは絶対に存在する。
……私を、この地に呼びよせた理由?
そんなことを考えた、その瞬間だった。

――ゾクッ

形容し難い肌寒さを覚え、私はにわかに身を震わせた。
何だろう、この感覚。
恐怖に近いようで……それでいて、快感を隣り合わせにしているような、えもいわれぬ奇妙な感じ。
何か……何か大切なことを、忘れているような……。
……忘れている?
その言葉に、私の無意識が疑問を投げ掛ける。
一体何を?
忘れるという言葉の意義は、確かな知識に対する忘却。
初めから知らないことは、忘れるとは言わず、それはただ知らないだけ。
ならば、これはただ知らないだけなのに忘れた気になっている一種の既視感でしかないのか、それとも本当に覚えていた何かを、忘れてしまっているのか。
思い出そうとしても思い出せないのは、果たして知らないからなのか、忘れているからなのか……。
「……はぁ」
と、そこまで考えてから、水亜は小さく溜め息をついた。
理由云々の究明は後回しでいい。
今大事なことは、為すべきことを為すのみだ。
「現場はマンチェスターということですが、現状はどうなっているんですか?」
遊樹の方を見つめ、再度質疑へと戻る。
「事件のあった動物園は、現在堅牢な柵で囲われ封鎖されています。表向きは経営難による倒産となっていますが、元々マンチェスターの観光名物とも言うべき施設だったため、その説には疑問の声が上がっています。ただ、この件に限り英国政府から尋常でない圧力がかかっていて、ほとんどのメディアはその題材を取り扱ってはいません」
「しかし、それはあくまでもメディアの表向きの態度でしょう。水面下で何者かが動いていない確証はない」
「いえ、それもないでしょう。周囲には大量の監視カメラが仕掛けられていますから。それに、万が一近付くことができたとしても、扉は頑丈に鍵が掛けられていますし、柵上には高圧線が張り巡らされているので、並大抵の人間の侵入は到底不可能です」
「なるほど。では、英国政府はどのような偽装工作を行っているのですか? いくら日本に罪を着せたとは言え、従業員が死んだのは事実のはず。ならば、その故人の遺族友人から何かしらの訴えがあったのでは?」
「いいえ。そこの従業員は全員罪人や失踪者、ホームレスの類いばかりだったので、その手の訴えは一つもありませんでしたよ」

――勤めていた人間は、罪人や失踪者、ホームレスの類いばかりだった。

その言葉を聞いて、水亜の心にある疑惑が浮かび上がった。
例の研究所兼動物園で働いていたのが、偶然そのような人物ばかりだったはずはない。
つまり、万が一死んでも問題のない人物ばかりを、選んで雇っていたという訳だ。
これが指し示す事実は一つ。
この事件は、不慮の事故ではなく、何者かの思惑により故意に起こされた可能性があるということだ。
ならば、そのような事故を、何故この時期に引き起こしたのか。
考え得る可能性は大きく分けて三つ。
まず一つ目は、その地下施設は生物兵器の研究所、そして地上の動物園が実験場であり、研究内容が最終的目標としていた境地まで達したため、地上部分はもう必要なくなったから。
この場合、英国はもう生物兵器の開発に成功しており、今回の事件は口封じを目的としたものと考えるのが妥当だろう。
二つ目は、使う必要がなくなったのではなく、何らかの原因……研究していた生物兵器の逃走等により、機能しなくなったから。
こちらの場合なら、対策を講じなかった理由となるが、それは上に同じく口封じだろう。
しかし、これならば生物兵器の開発は完了していないと考えられる。
最後に挙げられるのは、この研究内容がどこかしらから外部に漏れ、危機を覚えた諸外国による妨害工作が行われたという可能性。
だが、もしそうだとすれば、私がここにやって来る間もなく、地下の研究施設も破壊し尽くされているはずだ。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時39分(136)
題名:錯綜〜Complication〜(第八章)

そうなれば、今さら日本にその責をなすりつけている余裕などないはず。
一番可能性が高いのは、恐らく最初の説だろう。
どちらにせよ、あまり悠長に構えてはいられないようだ。
「大体の話はわかりました。マンチェスターにあるというその施設ですが、中に入る為にはどのようにすれば良いのですか?」
「それでしたら、地下鉄から潜入するのが一番安全策でしょう」
「地下鉄から?」
「えぇ。マンチェスターの地下鉄を、リバプールの方面へと歩いていただければ、ほどなくして右手側に開けた空間が見つかるはずです。薄暗くて見つけにくいかもしれませんが、その壁面にある扉が、施設内部へと続いています」

――へぇ、そこまで分かってるとは、結構調べてはいるみたいね。

内心密かに呟く。
だが、ここから先は私の仕事というわけらしい。
これ以上のことは、実際に現地に赴いて、自分の目で確かめるしかなさそうだ。
「わかりました。それだけお話を聞ければ、もう十分です。貴重な情報、ありがとうございました」
静かに立ち上がり、遊樹に向けて水亜は小さく礼をした。
「役立ったなら幸いです。今すぐにでも向かうというのなら、飛行機のチケットをご用意致しますが?」
「いえ、それには及びません。後のことは、私に任せてください」
「わかりました。では、よろしくお願いいたします」
同じく立ち上がり、恭しく頭を下げる遊樹を尻目に、水亜は踵を返し扉へと歩き出す。
「……明神さん」
「はい?」
扉をすぐ手前に控えたところでの呼び止めの声に、水亜は首だけを捻って背後を振り返った。
「……どうぞ、お気をつけて」
彼女を直視する真摯な眼差し。
そこに宿る憂いを帯びた儚さは、見つめる先に対する不安の色か。
「……」
水亜は黙したまま遊樹の方へ向きを直し、今度は深々と腰を折った。
視線を垂直から水平へと戻し、こちらを見つめる視線を真っ直ぐに見返す。
「……」
「……」
しばし、時間にしてほんの2、3秒、二人は互いに見合った後、どちらからともなく目線を外した。
水亜は扉を開き室外へ、そして遊樹は、そんな彼女に背を向け窓際へと、各々別の道を行く。
……だから、水亜の目には見えなかった。
「……」
彼の口元に浮かんでいた、不気味な微笑が……。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時40分(137)
題名:錯綜〜Complication〜(第九章)

「んー……っと」
領事館を出た私は、何よりも先にまず、全身で思い切り伸びをした。
身体中の筋肉に走る心地よい痺れと、次いで訪れる奇妙な快感混じりの脱力感。
やっぱり、ああいう形式ばった立ち居振舞いっていうのは、私にはいささか荷が重いわ。
窮屈と言うか、堅苦しいと言うか……とにかく、あんなのは私の柄じゃないってわけだ。
「さて、紗弥も待ってるだろうし、帰らなきゃね」
目尻に浮かんだ涙の粒を指で拭き取り、私は歩みを帰路へと向けた。
何気なく天を仰ぐ。
陽はまだ高く、雲なき澄み渡った青空が、視界いっぱいに広がる。
気候的には日本より涼しいはずなのに、さんさんと降り注ぐ陽光のせいで少々暑く感じる。
目新しさを求め、視線を左右にせわしなく移していると、ふと一軒の洋服店が目に入った。
子ども用の服が多く取り扱われているようで、店内には数組の子連れの客が見える。
ガラス張りの向こうに展示されている、ヒラヒラフリルの可愛らしいドレスが、特に目を惹いた。
こういうの、あの子に着せたら似合いそうね。
そんなことを考えていると、先日のあの赤い髪の女のことが脳裏に蘇った。
あの怪しい女……確か、ドミニィとか言ったっけ?
あいつ、一体紗弥に何をしたんだろう?
あの女に会ってからというもの、紗弥の様子があからさまにおかしい。
それまで、何もかもが楽しくてならないと言わんばかりに満面の笑顔を振り撒いていたというのに、あの昼以来心ここにあらず。
黙りがちで、私が話し掛けても素っ気ない態度ばかり。
昨晩、あいつが部屋に乗り込んできた時なんて、風呂場に閉じこもって、声を押し殺しながら嗚咽を漏らす有り様。
「……やっぱり、あそこで逃がしたのは間違いだったか」
誰に言うともなく、小声でぽつりと呟く。
周囲の目など気にせず、あの場であいつを捕まえておくべきだったかもしれない。
どう考えても、あの女は今回の事件に関わっている。
そうでなければ、私たちの泊まっているホテルや、その部屋番号が分かるはずがないし、況してや私の忌み名など知る由もない。
けれど……例えあのとき、なりふり構わず捕まえに行っていたとしても、正直言って取り逃がしていた可能性の方が高かっただろう。
対峙しただけでもわかった。
あの女、どこの誰だか知らないが、ただ者じゃない。
実際に拳を交えたわけではないから何とも言えないが、決して楽に退けられる相手ではないだろう。
何と言うんだろう……今まで、私が相手してきた連中とは、目が違った。
視線を交差させただけで感じた、本能が放つ大きな危険信号。
あんな感覚は、生まれてこの方初めての経験だった。
昨夜は、あいつ自ら退散してくれたから穏便に済んだが、もしどちらかが銃を抜いていたら、今頃はどちらかが物言わぬ死体と成り果てていたかもしれない。
そんな考えが、あの時私の脳内によぎっていたからこそ、その背を追うことを諦めたのかもしれない。
それが正解だったのか、それとも間違いだったのか。
今となっては、もう分かるはずもない。
「……とにかく、今は早く戻らないと」
自分自身に言い聞かせるように呟き、私は歩みを速めた。
途中、どこぞのコンビニにでも寄って、遅めのお昼を買って帰ろうかとも思ったけど、あんまり閉じこもっているのも体に悪いかなと思い、結局私は紗弥の元へと直帰することにした。
その道中、何気なく昨晩電話越しに交わした会話を思い出した。

「不機嫌な子供の機嫌の取り方?」
携帯の向こうから、聖の訝しげな声が聞こえてくる。
「そ。なんか良い案ない?」
「良い案って言われても……いきなりなんでまたそんなこと……」
「しばらくさっちゃんを弄れないからって、海外まで行って現地の男の子を泣かすだなんて……みーちゃんって、もしかしてドSでショタの上に洋モノ好き?」
「誰が男の子だなんて言った? 私はショタの洋モノ好きだなんていうド変態じゃないわよ」
「……でも、ドSってとこは否定しないんですね」
「さっちゃんってば、何言ってんの? いっつもみーちゃんに苛められてるくせに」
「ま、あんたはどっちかと言えば、間違いなくMね」
「ぐぅ……」
返す言葉なく、くぐもった呻き声を上げる聖。
実際に見ているわけでもないというのに、苦虫を噛み潰したように表情を歪め、私から無理に視線を外している様子が、すぐ目の前に見えるようだった。
「……ふふっ」
自然と、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「先輩?」
「ん、何でもない。で、何か良い案はないって聞いてるんだけど」
「そうですねぇ……その機嫌が悪くなった原因が何か、わからないんですか」
「それがさっぱり。だから困ってんのよ」
「みーちゃんが気付かない内に、何かイジワルなことしちゃったんじゃないの? いつもさっちゃんにしてるみたいに」
「いたいけな少女といい歳した男に対する対応が、同じなわけないでしょーが」
「ホントに〜? ジュース買ってきてーとか言って、100円玉二枚しか渡さなかったんじゃないの?」
「? それのどこに泣く要素があんのよ」
「何言ってんのさ。そこは500円玉渡して、釣りはとっとけくらい言ってくれないと、私なら拗ねちゃうな」
「……あんた、小さい頃どんだけがめついガキだったのよ」
「がめついだなんて失礼ね。お金にしっかりしてると言ってくれない?」
「お金にしっかりしてる奴が、バーゲンやらセールなんて横文字の誘惑に負けるわけないと思うんだけど。……まさか、あんた今もそんなこと言ってんじゃないでしょうね?」
「は、ははは……」
私の言葉に合わせて、聖がどことなくバツの悪そうな乾いた笑い声を上げるのが聞こえた。
まったく……こいつは、どんだけ絢音の言いなりになってんのよ。
……まぁ、私もそんなこと言える立場じゃないけど。
「で、なんだっけ? ……あぁ、そうそう。ご機嫌ナナメな女の子の機嫌の直し方だっけ?」
と、ここで絢音が唐突に話を元に戻す。
こういう時、絢音は基本脱線した話を戻そうとはしない。
そんな彼女が、自分から話を戻すということはつまり、何かしら案があるということに他ならない。
「そうよ。何かある?」
そのことを知りながら、私はあえて問いかけた。
「そうね〜。私は寝て起きたら、大抵の嫌なことは忘れちゃう質なんだけど……」
「そうですね。高礼さんって何だかそんなイメージが……」

――ドスッ!

「ゴフォッ!?」
肉を打つ鈍い音と、聖の痛々しい呻き声が耳に届く。
「そんな私なんだけど、小さい頃どーっしても忘れられない嫌な事があってさ。多分、一週間くらいかな? ずっと不機嫌だったことがあったの」
悶える聖などまるで意に介さず、何事もなかったかのように話を進める絢音。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時41分(138)
題名:錯綜〜Complication〜(第十章)

……こいつも懲りないわね。
そんなことを思いながらも、それを口にするようなことはせず、私は絢音の言葉に相槌を打った。
「ふ〜ん。あんたがそんなに長い間イライラしてるだなんて、よっぽどのことね。何があったってのよ?」
「ん……ま、まぁ、私のことはとりあえず置いといてだね」
一瞬、絢音の空気が変わった後、彼女はいつも通りの口調を装った。
絢音は、それが本当に話したくないことだと、無理に明るく振る舞いながら話を別の方向へと逸らそうとする癖がある。
一体何があったのか知らないが、どうやら聞いてはいけない話題だったようだ。
「その時、あんまりにも不機嫌だった私を見かねて、おじいちゃんがある場所に連れてってくれたんだ」
「へぇ〜。社長があんたのストレス解消にね〜」
なので、あえてもう一度問いかけるような愚は行わず、私は絢音の話に合わせることにした。
「どこだと思う?」
そんな私に向かって、絢音がどことなく意地の悪そうな声色で問う。
「どこって言われても……そうねぇ……」
思考を巡らしてみる。
幼い頃の拗ねた絢音の機嫌を直すため、どこかに連れて行くとしたらどこを選ぶか。
一番最初に候補に上がるのは……、
「……遊園地?」
「ぶっぶー。ハズレー」
……だと思った。
まぁ、遊園地等のテーマパーク的な所だったら、こんな勿体ぶるようなマネはしないだろう。
つまり、ありきたりな場所、ありきたりな行為ではないということだ。
「じゃあ……旅行とか?」
「それもハズレー。ってか、そんなストレス解消の方法だったら、今のみーちゃんには何の参考にもならないじゃない」
「ってことは、今の私でも直ぐにできること?」
「そーゆーことー」
となると、別に何か特別な条件が必要とか、そういうことじゃなさそうだ。
しかし、特別な条件はいらないけれどありきたりじゃないストレス解消の方法って、一体何なのよ?
「……パスね。分かんないわ」
結局何も思い付かず、それ以上に考えることが億劫になった私は、あっさりと音を上げることにした。
「降参するの早〜い。みーちゃんってば、考えるの面倒くさくなったんでしょ」
……バレたか。
「勘弁してよ。こちとら色々あって疲れてんだから」
「しょーがないなー。じゃあ、教えてあげる。私が超絶不機嫌だった時、おじいちゃんが連れて行ってくれた場所。それは――」


「お帰りなさいませ」
突然掛けられた出迎えの声に、昨晩を回想していた私の意識が現実を取り戻した。
視界に入るのは、高々とそびえるヒルトンホテルと、その門前にて私に頭を下げるボーイの姿。
「ありがと」
片手を上げて軽く礼を述べながら、私はホテル内へと足を踏み入れた。
少し速足で歩みを進め、紗弥の待つ部屋へと向かう。
「紗弥〜。今帰ったわよ〜」
扉の前に立った私は、コンコンと扉をノックしながら、中にいるであろう紗弥に呼び掛けた。
……しかし、返事はない。
それどころか、室内に人の気配をまるで感じない。

――まさか……。

嫌な予感を胸に、私は鍵を外して扉を開け放った。
周囲を見回しつつ、部屋の中へと足を踏み込む。
だが、求める姿はどこにも見当たらなかった。
「待ってなさいって言ったのに……まったくあの子は……」
知らず知らずの内に、声に苛立ちの色が混じるのを感じた。
もちろん、不安や心配はある。
だが、それと同じくらい、私の言うことを無視したことに対する怒りもあった。
別にこれが私と彼女の休暇を利用した旅行とかなら、こんな憤りを覚えることもなかったろう。
見つけたら、厳しく叱っておかないとね。
そんなことを考えながら、慌てて部屋を後にしようとして……、
「……あ」
あることに気付き、私は立ち止まった。
コートの内ポケットから携帯を取りだし、いつぞやと同じように側面に後付けされたボタンを押す。
液晶に映し出される地図と、その中心で明滅する小さな点。
それは、酷く緩慢な動きで、ゆっくりと動いていた。
「……」

――バタン、カチャッ。

扉の閉まる音と、それに次ぐオートロックにより施錠される音を背に、私はいつも通りの歩幅で部屋を後にした。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時42分(139)
題名:錯綜〜Complication〜(第十一章)

――英国、ロンドン某所、7/27、現地時間17:00――


「……」
暮れなずむロンドンの街並みを、私は一人、名前も知らないビルの屋上から眺めていた。
西に傾いた夕陽が、街全体を赤く染め上げている。
ここからでは、道行く人々の姿は見えないけれど、きっと皆今頃は、家族や愛する人の待つ場所へと、帰路を急いでいるのだろう。
……それに比べて、私ときたらどうだ?
何もかも……自分の意思や信念さえ分からなくなって、何だか無性に怖くなって、挙げ句このザマ。
姉さんの言い付けを守らず、勝手に飛び出して、こんな所で私は一体何をしているんだろう?
「本当……何してるんだろ……」
何を考えるでもなく、自然とそんな言葉が口をついて出た。
視線を自分の胸へと落とす。
そこに見えるのは、夕焼けの赤い光を浴びて、眩い輝きを放つ何か。
腕を持ち上げ、手のひらの上にその何かを乗せる。

――チャラッ。

以前、姉さんにもらったシルバークロスのペンダント。
あの日以来、片時も肌身離さず着けている、私の一番身近な宝物。
「ねぇ……教えてよ……私、一体どうしちゃったの?」
……もちろん、答えが返ってくるはずもない。
無機物に話しかけるだなんて、これで私も怪しい人の仲間入りかな。
心の中でそんな軽口を叩いてみるが、それで気分が明るくなんてなるはずがなかった。
「あんなに……姉さんが好きで好きでたまらなかった頃の私は……いつか、あんな女性になりたいと思ってた頃の私は、どこに行っちゃったの……?」
クロスを固く握りしめる。
刺々しい感覚が、皮膚を鋭く突き刺す。
「うっ……っく……私……どうなっちゃったの……!? 私……私はっ……!」
不意に、視界が透明に歪んだ。
自分でも意識しない内に、涙が溢れ出していた。
頬を伝い落ちる透明な滴が、アスファルトにぶつかって砕け散る。
「ひっく……う、うぅ……」
歯を食い縛り、嗚咽をこらえようとする。
だが、嗚咽をこらえようとすればする程に、止めどなく流れる涙が更にその勢いを増していく。
泣いているせいだろうか。
吹きすさぶ風が顔に当たる度、やけに冷たく感じた。
……一体、どれくらいこうしていただろう。
西に傾いていた太陽は、その半身を地平線下に沈め、いつしか街は夜に包まれようとしていた。
いつしか嗚咽も鳴り止み、涙も渇いて、頬に残った透明な細い筋だけが、私が泣いていたことを証明している。
「……これから、どうしよう……」
ぽつり、呟く。
帰りたいという気持ちと、帰りたくないという気持ちがせめぎ合い、足が酷く重く感じる。
「……帰らなきゃ。姉さん、きっと心配してるよね……」
「まったくだわ」
「っ!?」
背後から聞こえてきた声に、私はビクッと大きく身を震わせた。
「待ってなさいって言ったのに、こんなところで何をしてるのかしら?」
「……」
何も言えない。
何か言わなきゃとは思うのに、頭の中が真っ白になって、言うべきことが思い浮かばない。
私に出来ることなんて、黙ったままうつ向くことくらいだ。
そんな風に、その場にただただ立ち尽くし、振り返ることもできずにいる私の元へ、一歩、また一歩と足音が近付く。
それは私のすぐ隣までやってくると、そこで止まった。
「へぇ、なかなか良い景色じゃない。悪くないわ」
「……」
そう言って少しだけ身を乗り出し、先刻の私と同じように街を見下ろす姉さんの姿が、視界の端に僅かに映った。
横顔しか見えなかったけれど、その表情は私が思っていたものよりずっと穏やかで、とてもじゃないが怒っているようには見えなかった。
だけど、そんなはずはない。
姉さんの言い付けを破って、一人で勝手に部屋を出た私のことを、姉さんが笑って許すはずがない。
むしろ、そんなことして欲しくない。
こんなにも自分勝手なことをして、姉さんに迷惑をかけておいて、簡単に許されでもしたら、私は……私は、一体どうしたらいいの?
怒って欲しい。
もう、二度と立ち直れないくらい、徹底的に罵って欲しい。
そう思うこの自虐的な気持ちの正体が、自分自身に対して自暴自棄になっているだけなことくらい、私だって分かっている。
こんな気持ちは今だけの一時的なもので、時が経てば治まることくらい分かっている。
だけど……例え、これが一瞬、刹那的な感情の昂りによるものだとしても、私は私が許せない。
そんな私に、何の罪も罰も下らないなんてこと、他の誰でもない私が許さない。
この気持ちだけは、いくら時が経っても、決して消えることはないだろう。
そう思う。
……そう、思っているのに、別の所で、私はこんなことを考えている。
ここで姉さんにこっぴどく叱りつけられて、そのまま姉さんのことが嫌いになれたら、もうこんなに苦しむこともないんじゃないだろうか、と。
あぁ、最低だな、私。
姉さんは何も悪くないのに、姉さんに汚れ役を押し付けて、それを理由に嫌いになろうとするだなんて……あははっ、我ながら見下げ果てた思考回路ね。
姉さんとの約束を反故にした私より、こんな汚いことを考えてる私の方が、よっぽど許せないよ。
連鎖し続ける退廃的な思考。
その鎖に捕らわれ、自虐自棄に堕ちていく私。
ともすれば、この世界中で私は一人ぼっちなんじゃないかとさえ、感じてしまいそうになる。
「……から……ない?」
……だから、直ぐ隣から聞こえてきた声も、今の私の耳には途切れ途切れにしか届かなかった。
「……えっ?」
思わず問い返す。
「今から、ちょっと遊びにいかない?」
顔を上げれずにいる私の伏せた視界の隅に、こちらへ微笑みを向ける姉さんの顔があった。
「でも……私……」
返す言葉に困り、私は口ごもる。
今の私に、姉さんと一緒にいる資格はない。
だけど、姉さんからの誘いを断る資格もない。
何もない私に、できる返事なんてものはない。
「……」
そういった思いから、黙り込む私。
「……あ〜、も〜、焦れったいわね〜!」
だが、姉さんはそんな私の腕を掴むと、そのまま引っ張って走り出した。
「えっ、あ、ちょっ……」
「いいから、つべこべ言わずついてきなさい!」
結局、姉さんに腕を引かれるまま、私もその勢いに負けて走り出す。
階段を駆け降り、ビルの外に出た後も、姉さんは速度を緩めることなく、私の手を取って走り続けた。
目まぐるしく行き過ぎていく景色を見る暇さえないまま、私は必死の思いで足を動かした。
そして、私たちがたどり着いた先は……。
「……ここは」
「あら? 紗弥ってば、その歳にもなってまだ来たことないの?」
姉さんがからかうような口調で問う。
そんなことはない。
自分で言うのもなんだが、結構ゲーム好きな私だ。
ゲームセンターくらい、家の人に内緒で何度も行ったことはある。
でも、なんだってこんなところに……。
「……いえ、ありますけど……」
「なら話は早いわね。さ、行くわよ」
機械音と人々の声が混ざり合った喧騒の中、戸惑いを隠せない私の手を引いて、姉さんはずんずんと奥へ進んでゆく。
そして、一つのゲームの前でその歩みを止めた。
直立する棒の先端にミットが取り付けられた単純な機械。
その向こう側の液晶では、ボクサーと思しき人物が、眼前の相手目掛けてパンチを繰り出している。
別に何の変哲もない、普通のパンチングマシーンだ。
「姉さん、あの……」
急なことにしどろもどろになる私になど目もくれず、姉さんは投入口に硬貨を入れ、備え付けられているグローブを私の手にはめた。
「さ、これで準備オーケーよ。紗弥、いきなさい」
「あ、え……?」
為されるがままにグローブをはめられたものの、私は姉さんの意図するところが理解出来ず、ただ固まることしかできなかった。
「いきなさいって……」
「紗弥、やり方知らない?」
「し、知ってはいますけど……」
やり方くらい誰だって分かるに決まってる。
このグローブで、文字通り棒立ちのミットを殴るだけだ。
私が聞きたいのは、何故急にこんなことをやらせようとするのかということだ。
「なら、つべこべ言わずに殴ってみなさい。思いっきりね」
「……」
手にはめられたグローブと液晶画面とを交互に見つめながら、私はやはり黙したままだった。
急に言われても、とてもじゃないがそんな気にはなれない。
私の気を紛らわしてあげようという姉さんの心遣いは、私だって理解している。
だけど……それでも、私は……。
「……紗弥。私のこと、見てくれないのね」
「……」
姉さんの優しく諭すような口調にも、私は顔を上げられない。
「私を見ようとしないのは、何で?」
「それは……」
合わせる顔がないから。
確かにそれもある。
こんなにも自分勝手なマネをしておいて、今更どんな顔をして姉さんの方を見ればいいと言うのか。
しかし、それ以上に、怖いという気持ちの方が大きかった。
私へと向けられる姉さんの顔を見て、姉さんの目を見て……それでも何も感じなかったら、私はきっともう、本当に立ち直れない。
姉さんに対してずっと抱いていたあの想い。
それの薄れを、消失を、認めざるを得ない。
それだけは……そんなことだけは、絶対にイヤだ!
私の中にある最後の防壁。
それを崩壊させることだけは、絶対に……!
「……紗弥」
姉さんがその場にしゃがみ込んだ。
「こっちを見てくれない?」
私と目線を水平にし、覗き込むようにして問いかけてくる。
「……」
姉さんから目線を逸らし、私は考える。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時43分(140)
題名:錯綜〜Complication〜(第十二章)

……考える?
私は何を言っているんだ?
考える余地なんて、最初からない。
私のことを想っての姉さんの行為に、これ以上唾を吐くことなんてできるものか。
私は意を決した。
瞳だけを動かし、姉さんの方へとゆっくり視野を移動する。
しばらくの間、まるで見てもいなかった姉さんの唇。
口紅をつけているわけでもないのに、とても艶やかで輝いて見えた。
ゆっくりと顔を上げる。
しばらくの間、まるで見てもいなかった姉さんの鼻。
整った形をしている上、肌同様きれいで、シミやソバカスの類は一切見られない。
恐る恐る、更に視界を上げる。
ゆっくりと、しかし確実に露になってゆく姉さんの顔。
それと共に、思わず閉じてしまいそうになる瞼。
反射的に逸らしてしまいそうになる目線。
このままじゃ埒が明かない……!
「……っ!」
私は思いきって、一思いに視線を上げた……次の瞬間。
「……」
「やっとこっち見てくれたわね、紗弥」
視界いっぱいに広がる姉さんの顔。
久しぶりに見た、姉さんの目。
私を優しく見つめる、慈愛に満ちた暖かい眼差し。
「……」
何も言葉が見つからない。
つい先ほどまで、確かに私の中で渦を巻いていた言い知れぬ負の想念が、みるみる内に霧散していくのを感じる。
代わりに胸の内にて沸き上がるのは、悔恨と申し訳なさの同居した謝罪の念。
「姉さん……私……」
何か言わなきゃ。
散々迷惑をかけてきた姉さんに、しっかりと目を見て謝らなきゃ。
そう思うのに、空回りする思考は、次に紡ぎ出すべき言葉を見つけられない。
「私……!」
「はい、そこまで」
そんな私の唇の前に人差し指をあてがい、姉さんは小さく笑った。
「何か言いたいことがあるなら、こいつをぶん殴りながら、大声で叫んじゃいなさい」
「え、でも……」
周囲を見渡す。
辺りには、ちらほらといくつかの人影が見える程度で、あまり人数的には多くはなかった。
だけど、大声で叫びながらっていうのは、さすがにちょっと……。
「周りなんて気にしないの。一人なら恥ずかしいかもしれないけど、二人なら大したことないわよ。それに、どうせこっちは日本語なんだから、何言ったって分かりゃしないって」
そんな私の心を見透かしたかのようにそう言って、姉さんはまた微笑んだ。
……それもそうだ。
隣に姉さんがいてくれるなら、こんなの恥ずかしくもなんともないわ。
「よーし……」
深く息を吸い込み、肺に溜めた空気を押し出すようにゆっくりと吐く。
大きく腰を捻り、後ろに引いた右腕を、一気に前方へと突き出すと同時に、私はあらん限りの大声で叫んだ。
「……っざけんじゃないわよぉっ!!」

――バシィッ!

「ドミニィだか何だか知らないけどっ!!」

――バシィッ!

「好き勝手に人の体、弄くり回してんじゃないわよぉっ!!」

――バシィッ!!

「私の心の中はねぇっ!!」

――バシィッ!!

「もう、とっくの昔に予約済みなのよっ!!」

――バシィッ!!

「私は……私はねぇ……」
そこで少し間を置いた後、私は今まで以上に大きく間合いを取り、力強く前へと足を踏み出して……、
「……姉さんが好きなのよぉっ!!!」

――バシィンッ!!

全体重をかけて眼前のミットを殴り付けた。
「はぁ……はぁ」
乱れた呼吸で肩を激しく上下させる。
自分でも驚くくらい、息が荒れていた。
こんなにも肩で息をするのは、先月の運動会以来……いや、それ以上かもしれないな。
周りからどよめきの声が上がると共に、こちらへと向けられる奇怪なものを見るかの如き黄色い視線を、全身に感じる。
「あはははっ、やるじゃない紗弥。いや〜、そこまで堂々と告白されちゃ、恥ずかしい通り越して気持ち良いわ」
けれど、そんな状況にありながらも、姉さんは本当におかしそうに心から笑ってくれた。
隣に姉さんがいてくれる。
それだけで、恥じらいなんて微塵と感じずにいられた。
「それじゃ、次は私の番ね。紗弥、グローブ借りるわよ」
「あ、はい」
私は右手にはめていたグローブを取り外し、それを姉さんに手渡した。
「さて、と……」
そこで一呼吸間を置いてから、さっきの私と同じように、ミットを殴り飛ばしながら大声で叫ぶ。
「……んの売女がぁっ!」

――ダァン!

「誰の許可取って!」

――ダァン!

「私の可愛い紗弥に手ぇ出してくれてんのよっ!」

――ダァン!!

「あんたはっ!」

――ダァン!!

「この私がっ!」

――ダァン!!

「ぶっ飛ばぁすっ!!」

――バアァン!!

姉さんの怒声と激しい殴打の音がエコーする中、少し遅れて、パンチングマシーンが甲高い金属音を上げた。
「ふぅ……すっきりしたわ」
外したグローブを元あった場所に戻し、清々しい表情で笑いかけてくる姉さん。
それに応えるように、私も自然と笑顔になる。
自分では分からないけど、今の私の笑顔も、姉さんのそれと同じくらい気持ちの良いものなんだろうか。
「紗弥はどう?」
「え?」
「胸の中にあったモヤモヤは、取れたかしら?」
「あ……はい!」
姉さんの問いに、私は力強く頷いた。
ついさっき、ここに来るまではできなかったであろう、元気の良い返事。
今の私には、それを返すことができた。
「そう。なら、何よりだわ」
そんな私の目を見つめ、姉さんはどこか満足そうに呟いた。
しかし、そんな優しい姉さんはそこまで。
「それじゃ、お叱りの言葉は、帰りながらにしましょうか?」
そう言う姉さんの笑顔は、いつしかひきつった笑みになっていた。
漫画とかアニメとかで言うと、顔は笑ってるのに額に怒りマークがついている状況だろうか。
「あ、えと……あ、あはは……」
自分が悪いことくらい百も承知な私は、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
そして、ちょっと強めに握られた腕を引かれ、私はがっくりと項垂れながら、ゲームセンターを後にするのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時44分(141)
題名:錯綜〜Complication〜(第十三章)

――英国、某所、7/27、現地時間20:30――


「うぅ……ってぇ〜……」
思わず、そんな苦痛に歪んだ呻き声が、いつもの職場に続く冷たい廊下にて跳ね回り響く。
気が付いた時、俺は病院のベッドの上だった。
どうやら、意識を失ってる間に連れてこられたらしい。
俺を診た医者は、まだ脳波に乱れがあるから、しばらく安静にしてろとかほざいてやがったが、冗談じゃねぇ。
こんなことに回す金もねぇし、第一俺は保険にも入っちゃいねぇ。
ってなわけで、病院から逃げ出した俺だが、特に帰る場所もない身の上だ。
行く宛もなく歩いている内に、いつの間にか自分の職場に戻ってきていた。
そんな俺を、同僚は喜んで迎えてくれた。
……もちろん、あいつの世話係としてだが。
お前がいなかったせいで、あんな臭い部屋に行かされただの、薄気味悪い化け物の世話をさせられただの、戻るや否や散々な言われようだった。
「あいつら、ホント好き放題言いやがって……別に、俺はあいつの専属になった覚えはないってーの」
などとぼやいてみても、現に今こうして己の職務を全うしようとしているのだから、説得力はまるでない。
「……痛っ」
唐突に感じた鋭い痛みに、俺は反射的に後頭部へと手を回した。
軽く擦るだけでもありありと分かる、局部的な凹凸面。
くそっ……あれから大分経ったってのに、まだズキズキと痛みやがる……。
「ったくあの女……ふざけたことしやがって」
怒りを露わに愚痴を溢す。
いくら所詮女とナメてたとは言え、まさかああもあっさり落とされるとは、思ってもみなかった。
あいつ、あのチンピラ共を追い払ったとかふざけたことを言ってたが、もしかすると本当だったのかもしれねぇな。
そんなことを考えながら、白く巨大な袋を手に、俺はいつも通り重々しい扉をくぐった。
途端、眼前に広がる地獄絵図も、今となっては見慣れた日常景色の一つだ。
そんな中、ある変化が俺の目に入った。
空になった一つの檻。
この檻……確か、つい先日まで、あのイカれた猿が入れられていた檻じゃなかったか?
……そうだ。
この檻の中で、あの猿は血走った眼で自分の指を食らっていた。
それが今は空ってことは……そうか、あいつも遂に逝っちまったのか。
まぁ、あんな常軌を逸した精神状態で、よく持った方だろう。
それに、あいつにとって地獄以外の何物でもないこの世より、あっちの世界の方が数段マシだろう。
「……もう、こんなとこ来るんじゃねぇぞ」
血痕だけが生々しく残る空の檻に向かって、特に何を意識するでもなく俺は呟いた。
「……あ、ガルさん……」
名を呼ばれ、振り返った視界に映るのは、こちらを見つめる無数の目を持った赤黒い物体。
「……よぉ」
投げやりに軽く返事を返し、俺はそいつの側へと足を進めた。
堅牢且つ巨大な檻の鍵を開き、担いだ袋を引きずるようにして中へと足を踏み入れる。
「ほらよ、飯だ」
背の荷を床に放り倒す。
「……」
だが、そいつは何も言わなかった。
礼も述べず、謝罪も口にせず、無数の目でただ虚空を見据える。
なんだ?
いつもなら、「わざわざありがとうございます」とか「こんな醜い姿を見せてすいません」とか、何かしら言うもんなんだが……。
「どうした? いつにも増して元気ねぇじゃねぇか」
「……そうですか?」
そう答えるそいつは、赤黒い巨大な体躯に無数の目と三つの口を張り付け、そこから大小様々な足を生やしただけの物体。
故に、人や他の動物のような仕草など、見せられるはずもない。
……だというのに、俺の目には何故か、余計な心配はかけまいと、空元気で乾いた笑みを浮かべているように見えた。
「何かあったのか? 今日はらしくないぜ、お前」
「そんなこと……」
「ま、お前が話したくないってんなら、別に構わねぇけどな」
そう言って、俺は踵を返す。
そのまま檻を後にし、扉を閉めようとした……そのすんでのところで、
「……ガルさん」
そいつは俺を呼び止めた。
「なんだ?」
「……私の話、聞いてくださいますか?」
「少しだけならな」
「……ありがとうございます」
俺は閉めかけていた扉を再度開き、そいつの元まで歩み寄り、その隣に腰を下ろした。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時45分(142)
題名:錯綜〜Complication〜(第十四章)

「……そこの檻、今は空ですけど、中に何がいたか覚えてますか?」
「あぁ。自分で自分の指を食ってた、錯乱状態の猿だろ」
私の突然の問いかけにも、彼は迷うことなく答えた。
もし、これが他の飼育員だったなら、こう易々とは答えられなかっただろう。
……いや、彼以外の人だったなら、そもそも私の問いに答えようとさえしないに違いない。
当然且つ被虐的な想像に、思わず苦笑が漏れた。
「あの猿がどうしたってんだ?」
「彼、先日毒殺処分されたんです……私の目の前で」
「……そうか」
そう小さく呟き、彼は視線をそちらへと向けた。
憂いを帯びた瞳に空虚な檻を映し出し、彼は一体何を思っているのか。
「まぁ、遅かれ早かれそうなるであろうことは分かってたんだ。それが自然死であれ薬殺であれ、あいつもこの生き地獄から解放されて楽になったろ」
「そう……かもしれませんね」
私は同意も否定もしなかった。
確かに、こんな風に監禁され、ただただ死を待つだけの身の上だ。
いっそ今すぐ死んでしまえたらと、考えたことなど数えきれないほどある。
だけど、生への執着が無いのかと問われれば、それは否定せざるを得ない。
死んでしまったら、それこそ終わりだ。
死後の世界が存在するなんて保証がない以上、今生きているこの時が、私という命にとって唯一にして全て。
ならば、死を以て幕を引くことに思いを馳せるなど、生命への冒涜であると同時に自分自身への裏切りでしかない。
そう考えているからこそ、私はこの地獄の中、命を絶つことなく生を維持できているのだ。
……もちろん、それだけが理由じゃない。
悲しいことしかない……楽しみや喜びなど欠片とない毎日なら、今こうして生きてはいられなかったかもしれない。
とうの昔に、自ら命を投げ捨てていたやもしれない。
私がそうならなかった何よりの要因は……。
「……」
彼に気付かれないよう、視界の端でその姿を捉える。
そう、彼がいたから。
彼は、私に奇異な眼差しを向けない。
彼は、私のことを化け物と呼ばない。
彼は、私の言葉を無視しない。。
そんな彼が……ガルさんがいてくれているから、今なお私は今生に絶望せずにいられるのだろう。
「で、その光景を直に見てたら、自分もいつかそうなるんじゃないかって怖くなったか?」
「……そんなところです」
私はなあなあに相槌を打った。
事実そうだ。
私は、いつか彼のように殺されてしまうんじゃないかと恐怖している。
でも、今私がこんなにも気落ちしているのは、それだけが理由じゃない。
あの直前、何か大切なことを忘れているような違和感を、自分自身に対して感じた。
私が、私について忘れている何か。
それを思い出そうとした矢先に起きた、あの出来事。
白い袋に詰め込まれ、連れ出された彼を見ながら、私は思った。
彼も私も、所詮は同じ穴のムジナ。
いつ訪れてもおかしくない死を前に、自身について何を思い出したところで無意味だと。
そんな無気力的喪失感。
それこそが、今の私の心に巣食う闇の正体だ。
「ふ〜ん……だが、そんなことは今までにも何度となくあったことだ。 お前がこうまでネガティブなのは、それだけが理由じゃねぇんだろ?」
「……」
まるで私の心の中を見透かしているかのような彼の言葉に、私は思わず口ごもった。
彼の言う通りだ。
だけれど、私はそれを何と言って言葉にしたらいいか分からない。
私自身分からない私のことを、彼に聞いたところでわかるはずもない。
それに、あくまでもそれは私が勝手に忘れていると思っているだけのこと。
本当に忘れているという確証はどこにもない。
もしかしたら、私の勝手でおめでたいただの勘違いかもしれない。
そう考えると、どうしても言うのが憚られた。
「それに、もしお前が同じ目に合いそうになったら、逆に殺っちまえばいいじゃねぇか」
「……えっ?」
私は反射的に問い返していた。
「前々から不思議だったんだよ。連中に何かされて、お前が何らかの抵抗をしたって話、俺は今まで一度も聞いたことがない」
「それは……」
「お前、その気になればあんな連中、一瞬で皆殺しにできるんじゃねぇのか?」
「……無理ですよ。貴方にも見えるでしょう? この足を縛り付ける鎖が」
「暴れたら爆発するってやつか? 別にそんな鎖に繋がれた手足なんか使わなくたって、他にも手足は大量にあるじゃねぇか。それに、そのでかいしっぽも十分武器になんだろ?」
「……」
その言葉に、私は無数の目でこの体から生える手足の一本一本を、そして巨大な尾を見つめた。
鎖に束縛されていないのは、比較的矮小なものばかりだったが、それでも普通の人のそれとは比較にもならない。
まともに当たれば、骨は砕け、内臓は潰れ、血管は破裂し、血反吐を撒き散らして悶え苦しむだろう。
尾で薙ぎ払ったところで結果は同じ。
無事では済まないどころか、死んでもおかしくはない。
「でも……人を殺すなんてこと、私には……」
「無抵抗のままじゃ、いずれ絶対に死ぬぜ、お前」
「だからって、誰かを殺してまで生きるなんてこと……第一、私がいなくなって悲しむ人なんて……」
「バカ言ってんじゃねぇよ」
「えっ?」
「お前が死んだら、俺は仕事なくなってクビ確実になっちまうじゃねぇか。んなの冗談じゃねぇ」
「ガルさん……」
ぶっきらぼうな口調でそう吐き捨てながら、これで話は終わりだと言わんばかりに、彼はすっくとその場に立ち上がり、そそくさと檻から出ていく。
「ガルさん」
「……なんだよ」
その背にかかった私の呼びかけに、彼は足を止めてくれた。
「……ありがとうございました」
「……今回だけだからな」
背を向けたまま、ぶっきらぼうに言い放つと、いつもより速い足取りでこの場を後にした。
「……本当に、ありがとう……」
扉の向こうに消えてゆく彼の背中に向かって、私は誰にも聞こえないくらい小さな声で、そう囁いた。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時45分(143)
題名:錯綜〜Complication〜(第十五章)

――英国、ロンドン、ヒルトンホテル、7/27、現地時間21:30――


「ふぃ〜、満腹満腹。やっぱ食べ物は質且つ量よね〜」
部屋に戻るなり、水亜は倒れ込むようにベッドの上へと身を放り投げた。
ボフッとシーツに顔を埋めたまま、足だけを使って靴を脱ぐ。
「そ、そうですね……」
そんな姿を見つめながら、動揺を露わに立ち尽くす紗弥。
そわそわしていて、どこか落ち着かない様子だ。
「ん? どうしたの、紗弥。まだ食べ足りなかった?」
「い、いえ、そうじゃなくって……」
水亜の問いにも、彼女は自分の体に視線を落としたまま、複雑そうな表情を浮かべるだけだった。
「そんなもじもじして、何かあったの?」
「何かあったと言うか、色々ありすぎて、むしろ何もないと言うか……」
「? 貴女、言ってることが滅茶苦茶よ?」
「それは自分でもわかってるんですけど、なんというか、その……と、とりあえず、着替えても……」
「それはダメ」
控えめに目線を持ち上げながらの恐々とした紗弥の問いに、水亜は全てを聞く前に即答した。
「な、なんでですか〜!? こんな格好……は、恥ずかしい……」
尻すぼみな声で抗議する紗弥。
その衣服は、水色を基調とした涼しげなワンピースから、ヒラヒラフリルの豪華なドレスへと様変わりしていた。
ピンクや赤をメインとした全体的に派手な色彩で、パッと見だけなら本当にどこぞのお姫様と言っても過言ではないくらいだ。
「恥ずかしがることないじゃな〜い。紗弥、すっごい可愛いわよ」
「そ、そんなこと……で、でも、こんな服装で街中をうろつくだなんて、いくらなんでもおかしいですよ!」
可愛いと言われ、一瞬嬉しそうな表情を浮かべたものの、直ぐに我に返り、恥ずかしさを誤魔化すように声を荒げる。
「そりゃ日本だったらおかしいだろうけど、こっちじゃ大したことないわよ。現に、あのレストランにいた紗弥くらいの歳の娘は、みんな綺麗におめかししてたでしょ?」
「そ、それは……」
その場の光景を思い出し、思わず口ごもる。
今日、二人が夕飯を食べに行ったレストランは、英国内でもかなり有名な高級店だった。
休日なら予約必須なのだが、今日は幸いにも平日で、人の入りも多少マシだろうということで、行ってみようということになったのだ。
で、そんな高級な店に行くんだから、それに相応しい格好をしないとということで、水亜は紗弥を引き連れて、領事館近くで目に止まった洋服店へと向かい、そこでこのような服飾にドレスアップされてしまったというわけだ。
「で、でも、今はもうホテルに戻ってきたわけですし、いつまでもドレス着てなくたって……」
「え〜、可愛いんだから、別にいいじゃない。それに、私この体格だから、そういうドレスとか全然似合わなくてね。こうやって鑑賞するくらいしかできないのよ」
「鑑賞って……私、姉さんの着せ替え人形じゃないんですから……」
がっくりと肩を落とす紗弥。
しかし、彼女が水亜に不要な心配をかけ、その手を煩わせたのは事実なので、これ以上の反論を口にすることはできなかった。
「……はぁ」
諦観のため息と共に、もう片方のベッドに腰を下ろす。
彼女と同じように、思いっきりその上へ体を放り投げたい気分ではあったが、こんなドレスを身に纏っていては、そんなマネをするわけにもいかなかった。
「そういえば姉さん」
「ん〜?」
ベッドに寝そべっただらしない体勢のまま、水亜は首だけを捻って紗弥の方へと視線を向けた。
「明日からどうするんです? マンチェスターの方に移動ですか?」
「……そうねぇ……」
紗弥の問いに、考え込む素振りを見せる水亜。
先の領事館で交わした会話を思い返す。

確かに、あそこで聞いた話を基に行動を起こすなら、マンチェスターへ向かうべきだろう。
そこで地下鉄から施設へと潜入し、その破壊及びデータの抹消を行う。
それで私の今回の任務は終了だ。
……だけど、この事件、どうも一筋縄ではいかない予感がする。
まず、今回の事件はその背後が不透明過ぎる。
首謀者は疎か、その思惑さえまだ理解できないでいるのだから。
そんな現状で、与えられている情報を鵜呑みにするわけにもいかない。
普段なら、社長から受け取った資料による情報と、領事館で得た情報とが合致しているこの状況、迷わずその提示に従っていただろう。
けれど、今回に限り、日本国内にこの首謀者と通じている何者かがいるかもしれない以上、それさえも欺瞞である可能性を捨てきれない。
だからといって、このまま全てを疑っていたのでは、事は何も進展しない。
やはり、ここは素直に従うしかないのだろうか……。

「……姉さん」
「ん?」
紗弥の呼び掛けに、水亜は思考を止めてそちらへと目を移した。
「今、ふと思い出したんですけど、このホテルに最初入った時、なんか険しい目で路地を睨んでましたよね? あれって、やっぱり監視されてたってことですか?」
「……あぁ、まぁね」
その時の光景を思い返しながら、水亜は小さく呟いた。
正確な人数こそ分からないものの、あの時点で少なくとも三方向からの監視の目があった。
ビル等の高所からの物も含めれば、その数はまだ更に増えるだろう。
それだけ、厳重な警戒がしかれているということだ。
「でも、監視の一つや二つは日常茶飯事よ。気にすることじゃないわ」
にもかかわらず、水亜は何でもないことのように言い捨てた。
事実、このようなことは、彼女にとって文字通り日常茶飯事、いつものことなのだ。
監視の有無の確認はともかく、監視そのものに意識を割いていては、英国に足を踏み入れることすら叶わない。
「いえ、そういうことじゃなくって……」
「? じゃあ何?」
不思議そうに首を傾げる水亜に向かって、紗弥は控えめに口を開いた。
「これ、私の個人的見解なんですけど、姉さんは領事館での話を疑ってるんですよね。なら、監視してる連中を縛り上げて、情報を吐かせたらどうかなって思ったんですけど」
「あ〜……それねぇ……」
紗弥の言葉に、水亜は後頭部をかきむしりながら複雑な表情を浮かべた。
「……ダメですか?」
「ん〜、一概にダメってことはないんだけど、少々危険なのよ」
「危険って……返り討ちにあうかもしれないってことですか?」
「返り討ちって言うより、道連れかしら。以前、OLの一人が任務中に今の貴女と同じことを考えて、監視員を拉致って尋問しようとしたところ、自爆されて命を落としたってことがあったのよ。多分、捕虜になるくらいなら自爆するよう訓練を受けてたのね」
「……」
水亜のそんな言葉に、紗弥は思わず絶句した。
敵に捕まるくらいなら、相手を道連れに自ら命を絶つ。
そのような考え、一般人が理解できるはずがない。
それは、もちろん紗弥とて同様。
その光景を脳内で想像し、背筋を薄ら寒い悪寒が駆け抜けるようだった。
しかし、それ以上に恐ろしかったのは、そのことについて、彼女がさも当たり前のように言い放ったことだ。
つまり、それは彼女にとって何らおかしくない行為……言ってみれば、当然選び得る選択肢の一つであるということだ。
そして、紗弥は改めて気付かされる。
今はこんなにも身近にいる明神水亜という人物が、到底自分の理解の範疇に収まらないのだということを。
「そういう輩っていうのは大体狂信的な宗教集団が多いから、心配ないとは思うんだけどね。まぁ、念には念をってやつよ」
「……じゃあ、尋問するんじゃなく、何か身分を証明できるものを奪ってくるってのはどうです?」
「それくらいなら簡単だけど……でも、それだって正しい情報かどうかは分からないわよ?」
「だからって何もしないよりは幾らかマシでしょう? 姉さんは、マンチェスターに行けっていう情報に疑問があるんですよね? なら、少しでも自分の手で情報を集めるべきじゃないですか?」
「……ま、一理あるわね」
そう言って水亜はのそのそとベッドの上に上体を起こすと、気だるそうに立ち上がり、同じく緩慢な動きで扉の方へと向かう。
「姉さん、何か動きが重いみたいですけど……」
「だって、食後すぐじゃん? あんま動きたくないのよ〜」
ノブに手を掛けたまま、紗弥を振り返り眉をひそめる。
「……そりゃ、あれだけ食べたらそうなりますよね、普通」
そんな彼女の今夜の食事量を思い返しながら、紗弥は苦笑いを浮かべた。
昨日の朝もそうだったが、とてもじゃないけど真似できそうにない。
「本来なら、育ち盛りの貴女こそ、あれくらい食べなきゃいけないのに。体重気にして腹八分目とか、その歳からすることじゃないわよ?」
「私、あれでも十二分には食べてたつもりなんですけど……」
「相変わらず少食ねぇ。そんなんじゃ大きくなれないわよ? ま、いいや。それじゃ、ちょっくら行ってくるから、今度こそ大人しく待ってなさいよ」
「は〜い。行ってらっしゃ〜い」
バタンという扉の閉まる音を境に、彼女の背中が見えなくなる。
遠ざかっていく靴音は、次第に小さくなり、直ぐに聞こえなくなった。
「……」
そのことを確認してから、紗弥は静かに立ち上がった。
今、この部屋にいるのは自分一人と分かっているはずなのに、挙動不審にきょろきょろと辺りを見回す。
そんな彼女の足が向かった先は、洗面所に備え付けられた鏡の前だった。
鏡面に映し出される、いつもとは全然身なりの違う自分の姿。
それをまじまじと見つめた後、ドレスの裾を軽くつまみ、くるっと一回転。
「……♪」
まんざらでもないといった様子で、一人楽しそうに笑うのだった。

月夜 2010年07月09日 (金) 23時46分(144)
題名:錯綜〜Complication〜(あとがき)






《月夜の攻撃!》

《ミス、魔王にダメージを与えられない!》

《月夜の攻撃!》

《ミス、魔王にダメージを与えられない!》

《月夜の攻撃!》

《ミス、魔王にダメージを与えられない!》


《魔王の攻撃!》

《痛恨の一撃! 月夜はHHHHのダメージを受けた!》


月『あべし』


《月夜は死んでしまった……》


王「おぉ、月夜よ、死んでしまうとは情けない」

月『ムリゲー(´・ω・`)』

王「仕方ない、お主にもう一度チャンスをやろう」

月『勘弁してくだしあ(´;ω;`)』

王「さぁ、次こそ魔王を倒してまいるのだぞ」

月『人の話聞けよ(♯^ω^)』




……こんな夢を見ました、私月夜です。

なんという前代未聞の悪夢……友人宅で対人地雷踏んでティウンティウンしたり、図書館で本読んでたら、いきなり現れたマウンテンバイクに轢かれてピチューンしたり、道を歩いてたら、突然どこぞの配管工のオヤジに踏みつけられてオウフってなったりと、意味不明な悪夢はよく見るんですが、これは今まででもトップクラスの恐怖でしたよ。

面白おかしく書いてはいますけど、確か王様のもう一度チャンスをやろう発言で、マジ泣きした記憶が朧気ながらあります。


……あ、ちなみに言っときますけど、















魔王=母親



ですから、あしからず。









助けてめーりん(武闘家的な意味で)(´;ω;`)





さて、ここらで今作に対する感想をば。

いや〜、やっぱここまで登場人物増やしちゃうと、全員常に出し続けるってのは難しいですな、うん。
にもかかわらず、色々と伏線張りまくっているんですが、一体どうなることやら……私ゃアホかと(´・ω・`)

まぁ、ちゃんと先の見通しは(今のところ)しっかりとしているので、多分大丈夫かなと私的には思ってたり。

にしても、相変わらず紗弥ちゃんは忙しいキャラしてますよね。
感情の起伏が激しいというか、気持ちの移り変わりが多いというか……まぁ、これは彼女のせいじゃないんですけど(´・ω・`)

最後に、こんな作品を読んで、かつその感想や作品に関する質問をアンケートや感想掲示板、中にはメールボックス宛に送ってくださる方もいらっしゃり、ホントに感謝感謝です(`≧ω≦)b
これからも精進していくつもりですので、叱咤激励または単純に楽しかったつまらなかった等の感想でも、じゃんじゃん送ってくださいな〜(´・ω・`)ノ

ではでは、今回はこの辺で幕引きといたしましょうか。
この作品に関する感想等ございましたら「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」からでもどこからでも、ドシドシカモンなんだZE☆

次回は新世界の予定。
皆さんから送られてきた大量のキャラクターたちの中から、どんなカオスな軍勢が生まれるのか、私にも予想ができません(´・ω・`)
そんな私の次回作に、過度な期待は困りながら乞うご期待!



ここまでは、あんな悪夢を見たせいで若干夜眠れないでいる私こと、月夜がお送りしました。

















やっぱり、どこの家でも、母親ってラスボスだよね(´・ω・`)


















で、父親が偉いけど力の無い王様役だよね(´・ω・`)

月夜 2010年07月09日 (金) 23時47分(145)


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