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光明掲示板・伝統・第二

 

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生活読本 (46)
日時:2019年10月04日 (金) 08時49分
名前:伝統

はしがき

人間は神の子″ですから、如何なる境遇も、如何なる人間も、
吾々自身を侵害して吾々の幸福を吾々から奪いとることは出来ません。

それならどうして吾々の生活が貧乏になったり、
不幸になったりするのでしょうか。

それは自分が自分の「生命(いのち)」の本質を知らず、
そのため自分で不幸になったり、貧乏になったりするのであります。

吾々は自分の生命の本質を知れば今直ぐにでも幸福になれるのでありまして、
未来のある時に、環境がどういう風になって来たから幸福になれる
というのではなく、今すぐ幸福になれるのであります。

吾々は幸福を探し廻るのにあちこち、ここに見よ彼処(かしこ)に見よ
という如くはには探し廻る必要はないのであります。

幸福とは空に舞う蝶のようなものであります。
それを捕らえようとして走り廻れば幸福の蝶は逃げてしまって、
空にとび去るのであります。

吾々が幸福を求めあぐねる心を捨てて、唯自分の心を平和にし、
自分の心の花を美しく咲かしてしていたならば、
幸福の蝶は私達のそばに今来たって、肩の上にとまってくれるのです。


まことに、幸福は追求して得られるものではなく、
幸福は「今此処(いまここ)」に見出さるべきものなのであります。


幸福の蝶が自分のところへ向こうから飛んで来るのではなく、
又こちらから向こうへ往って幸福の蝶をつかむのでもなく、
自分の心に「今」幸福の花は咲くことが必要なのであります。

幸福は外から与えられるものでなく、
自分の内からよびだされるべきものなのであります。

偶然の出来事が、吾々の足もとに咲く菫(すみれ)の花のように
吾々の生活を飾ってくれるものではないのであります。


幸福は、立派な画家がどんな景色を見ても美しい姿に
それを油絵に描きだし得るのと同じように、
どんな環境にでも美しく心の中に描き出す技術によって得られるのであります。

幸福は芸術の創作と同じであります。

心が悩んでいる人は悩んでいる創作を造りだすよりしかたないと同じように、
心が悩んでいる人は、どんな環境をも不幸に感ずるのであります。

だから高位高官の人も、富める人も、やはり悩むのでありますが、
ダイオジェネスのように樽の中に生活していても、
心の中にその幸福を失わない人もあるのであります。


多くの人にとっては環境というものは、まことにその文字の通りに、
自分の周囲にあるものだと思われているのであります。

ところが環境というものは、自分から、はなれてあるものではないのであって、
自分の心が変れば自分の環境が変ってしまうものなのであります。


幸福は心の乱れたる世界には、存在しないのであります。
幸福とは心の平和から来るのであります。

心の平和は、今ある所の恵みに満足するところから来るのであります。

印度(インド)の本には、牛が如何にも幸福そうに草を食べているのを見て、
ある悩んでいる人が、そのわけを宗教家に尋ねたということがあります。

「あの牛はどうしてあんなに、たのしそうなんだろう」とききますと、
「彼は草を食べて生けるなり」と宗教家は答えたそうであります。

草を食べて生きているというのは最低生活に甘んじている
ということにではないのであります。
そのままそこに幸福に生活しているという意味なのであります。

そのままそこに幸福を見出すということが大切であります。
そのままそこに幸福を生きる時、そこに常に幸福が見出されるのであります。

  汝は幸福である、この小さき石よ
  道ばたに静かに横たわりて
  哲人の如くものを考う。

という誰かの詩がありますが、あなたは小さき石よりも偉大なのです。
この事実に目覚めねばなりません。

この小さき石ころは、どうして幸福なのでありましょうか。
それはそのままそこに与えられたる生命をたのしんでいるからであります。
そのままうけてたのしむものは常に幸福なのであります。


そのままそこに横たわるということは、
何もしないで生活しているということではないのであります。

与えられるそのままに横たわり、神催(かみもよお)しのままに
動くという意味であります。

流るるままに不動、不動のままに流れるのであります。
自分のはからいがないのでありまして、神にはからわれるのであります。
自分の今与えられた位置をたのしんで、そのままそこに全能力を発揮する時、
その人は幸福になれるのであります。


若(も)しあなたが、自分の生命(いのち)の本性を自覚しそれを行動に
あわせれば、毎日すべての時間が幸福の時間になるのであります。

その自覚と実行の方法を本書は与えるものです。

特定の日、特定の時間、特定の境遇によって幸福が来るのではないのであります。

境遇を支配する力はあなた自身のうちにあるのです。

キリストは「求めよ。さらば与えられん」と仰しゃられました。
然(しか)し求めて与えられている人は少ないのであります。

求める心を捨てて、そのまま自分のもてるすべてのものを人に与え切った時、
本当の幸福が出て来るのであります。


此(こ)の本は、むつかしい真理を出来るだけ易しく書いたのですが、
なお分かりにくいと思われる文字の下には(括弧・かっこ)の中に
その意味を書いておきましたから、どんな子供にも、文字をならわない老人にも
読んでいただいて、その人の人生が幸福になれるのであります。


       昭和27年9月

                     著者識(しるす)


第一章 此の世界の成立ちは? (47)
日時:2019年10月05日 (土) 05時41分
名前:伝統

第一章 此の世界の成立ちは? (P2〜13)

世界は心の「思い」でつくられた(P2〜3)

人間は自分の思いで、一歩一歩、自分の運命をきずいて行きます。
国の運命も、その国の人々の思いで、築いて行くのです。
築くばかりではない、こわしても行くのです。
その人が自分の思いの善し悪しを知っておろうが、知らずにおろうが、
こわす思いは自分をこわし、生かす思いは自分をも生かすのです。


何よりも知らなければならないことは、
この世界は、「思い」でつくられていると云うことなのです。

神様がこの世界をおつくりになったのも、
神さまが心の中に先ずどんな世界をおつくりになろうかと
お考えになったその「思い」によってつくられたのです。

「思い」どおりになったのがこの世界なのです。

「思い」と云うのは生命の動きでありまして、
生命の動きをコトバとも申します。

何でも考えるのは心のコトバを思い浮かべるのでありますから、
「思い」でこの世界が造られたと云うことは、
この世界がコトバで造られたと云うのと同じであります。

神様はこの世界をおつくりになって、
七日目にお休みになったと聖書には書いてあります。

これは神様は世界の大きな部分をお造りになりまして、
あとは自分の生命(いのち)をつぎ込んで神様自身のお姿に
つくられた人間に一切のことをおまかせになりまして、

自分みずからは、人間のことに直接には干渉(おせっかい)しないことにして、
お休みになったことを云ったものであります。

・・・

人間の運は自分でつくる(P3〜5)

そこで神様にすべてのことをまかせられた人間は、
人生(このよのくらし)の主人公となったのであります。

人間は自分で自分の主人公なのです。
人間は奴隷ではないのです。

人間は自分の運を自分でつくるのであって、
人間の運と云うのは、よそから勝手にやってくるのではなく、
われわれの命ずるままにやってくるのです。

だから人間の運のことを命運(めいうん)とか運命とか云うのです。

命令するままに人間の運は、よい運でも悪い運でもやって来ます。
命令すると云うのは、心の中にコトバを思い浮かべるか、
その思い浮かべたコトバを口で発表するかすることなのです。


運の悪い人は、「私の運が悪い、悪い」と口でブツブツ云い、
心でブツブツ思います。
その「思い」の力、「コトバ」の力でいつまでも悪い運を引き寄せるのです。

東京裁判でわかったところによりますと、
山本五十六元元帥(やまもといそろくもとげんすい)でさえも、
「負ける」と思い「負ける」とコトバで言っていたそうです。

そして、日本人全体は
「海行かば水(み)づく屍(かばね)、山ゆかば草むすかばね」
(海へ往ったら日本軍は負けて土左衛門(どざえもん)になる、
山で戦争したら死んで屍(しがい)には草が生える)と云っていました。

そして、そのコトバを音楽と共に合唱して感情(こころ)の底に
深く思っていたのです。
何と云うこれまでの日本人は愚かなことだったでしょう。

コトバは万物をつくる。
国をつぶすのも国を起こすのも皆、人間の「思い」と「コトバ」の力です。

今まで、国をつぶして来た日本人は早く目をさまして、国を平和におこし、
国民を生かす「思い」と「言葉」をつかわねばなりません。

・・・

自分の心の舵をとれ(P5〜6)

船を海の上に走らすのにも舵が要ります。
ただ波のもてあそぶままに船を浮かべておくだけでは、
大波がきたときに其の船は岩にうち上げられて、
くだけてしまうでしょう。

人間の運命も、ただ思いついたコトバを出鱈目に云い、
ただ思いついた「思い」を出鱈目に思うだけでは
「運」の波をのり切ることは出来ないのです。

航海のとき、船長の命令するとおりに
舵取(かじとり)が舵を取るのと同じように、

人生の海をわたるにも、
一時の自分の気分の運ぶ(ハコブは「運」です)ままにまかせず、
自分の心を自分で舵をとり、命令して、
自分の運命を自分で支配しなければならないのです。


あなたは自分の心に自分で命令を与えておりますか。
腹が立ったときに腹の立つにまかせ、
悲しいときに悲しがらせるにまかせ、
なまけたいときになまけるにまかせているのでは、
それはただ成行きにまかせているのです。

お釈迦さんは、法句経(ほっくきょう)の中で、
「よく調えられた自分こそ、世界のどんな王様よりも尊い王様である」
と云われました。

「よく調えられた自分」になることが何よりも必要なのです。

どんな時にも、明るい、愉快な、楽しい、失望せず、落胆しないように、
心の舵をとり、明るい、楽しい、平和な、希望に満ちたコトバを使うことが
必要なのです。

「よく調えられたる自分」こそ、どんな都合のわるい境遇でも、
よく乗り切って、美しい楽しい希望の国へ連れて往ってくれるのです。

何よりも先ず「よく調えられた自分」をつくることが大切です。

それには「思い」の力、「コトバ」の力を上手に使うことが大切です。

・・・

毎日の「思い」を善くせよ(P7〜8)

仏教では、「思い」の力、「コトバ」の力を業と云いました。
仏教は業の力を説く宗教です。

あの人は業が深いと申しますと、
業と云うものは悪ばかりだと思えるかも知れませんが、
業の力は悪ばかりではありません。

お手本を見て習字をします。
すると最初は下手であったのが、毎日お習字をつづけて行くうちに
段々上手になって行きます。

これは毎日、よき文字の形を見、心にその形を思いうかべて、
その通り筆を動かす業をかさねて行ったからです。

そのように吾々の「思い」の力も、最初は自由に思うようにならないでも、
つとめて明るいことを思う、楽しいことを思う、人のよい方面ばかりを見る、
悲しいときにも笑うようにして行きますと、習字がだんだん上手になって行くように、
心もだんだん善くなって「よく調えられた心」になって来るのであります。

心がよく調ってくると、何事も都合よく往くようになり、
仕事も、勉強も、成績も、健康も、すべての運命が調ってくるのであります。

・・・

民主主義とは何か(P8〜9)

自分が自分の主人公であると云うのが民主主義であります。
これは自分勝手な我儘をしても好いと云う意味ではないのであります。

他(ひと)にたよらずに、自分で自分の心の調子をととのえること
が出来ると云うことであります。
また自分の運は自分の心で思うようになれると云うことです。

先ず朝目がさめたら、学生ならば口のうちで自分にだけ聞こえる言葉で、
「自分は神の子だ、いつも達者だ。いつもたのしい。品行方正、学術優等」
こう云う言葉をニ十ペン程となえてから元気に愉快に起きることにし、
夜寝床で眠りしなにも
「眠っている間に神様が一層わたしをよくして下さる。達者で楽しく優等だ」
と心のうちでとなえながら眠ってしまうことです。

そうすると、夢を見ても楽しい夢が見られますし、寝ている間に健康となり、
頭がよくなり、どんな勉強もすぐれて出来るようになります。

何故なら、この世界は、神が先ず、コトバと「思い」でおつくりになり、
あとは、人間自身が、コトバと「思い」で自由に出来るように
おまかせ下さったからであります。

・・・

幸福になるには幸福の種をまけ(P9〜10)

われわれがこの世で幸福な生活を送ろうと思いましたならば、
「自分は不幸である、幸福になりたい」などとかんがえては
だめなのであります。

「自分は不幸である」という心の思い種をまけば、
心がもとで、すべてのものがうまれてきたのでありますから、
「自分は不幸である」という心の思いが種となって、
形に見える世界に「不幸」なすがたがあらわれてくるのであります。

だから幸福になりたい人は、
今、不幸であっても、今、幸福がなくとも、どちらでも
「わたしは今、幸福である、幸福である」ととなえていれば
幸福がでてくるのであります。

神さまは太陽も地球も、天も地も、お星さまもない世界に
「天がある、天がある」と思われますと、
すなわち心で「言葉」を宣(の)べますと、
「天」があらわれてきたのであります。

「地がある、地がある」と心でとなえられますと、
しまいには地球がうまれてきたのであります。

草も木もない世界に「草がある、草がある」と心でくりかえしくりかえし
思われますと、「草」があらわれてきたのであります。

そして「人間がある、人間がある。神さまのように、
なんでもできる力を形にあらわしたものがでてくる、でてくる」
と心でねんじられますと、人間がうまれてきたのであります。

「人間が神のすがたにつくられた」と聖書に書いてありまするのは、
「神さまのような、なんでも知り、なんでもできる力をもった
すがたにあらわしたら人間になった」という意味であります。

だから、人間は神さまとおなじように、
心で思うことを、この世界になんでもつくり、
なんでもうみだす力をもっているのであります。

・・・

うれしいきもちで父母に感謝していると良いことが出てくる(P11)


うれしい、うれしい。お父さん、お母さん、ありがとうございます、
と心のなかで、つねに喜んでお父さんやお母さんに感謝していますと、
人間は自然とうれしいことがでてきて、
ありがたい感謝すべきことがうまれてくるのであります。

それは「うれしい、うれしい」という心の種をまくから、
そのとおりのものが、形の世界にあらわれてくるのであります。

また「お父さま、お母さま、ありがとうございます」という
心の種をまきますから、形の世界に本当の深切な、ありがたい
お父さんお母さんのすがたがあらわれてくるのであります。

・・・

ふくれ面をしたら面白くない事がでてくる(P11〜13)


ふくれっ面をしたら、ますますふくれっ面をしなければならないような
面白くないことがでてくるのは、
自分が「心」の世界に面白くないことを、心に思いうかべて
「面白くない、面白くない、つまらない、つまらない」
という心の種をまいているからであります。

朝目がさめた時から「今日はうれしいぞ。すばらしい日だぞ。
よいことがでてくるぞ。たのしいぞ」
とかんがえなさい。

そうすると、よいことが、たのしいことが、
ぞくぞくと皆さんの身のまわりにでてくるのであります。

「愉快を思えば、愉快がでてくる」
「つまらないと思えば、つまらないものがでてくる」のであります。

心でえがいたものがはえてきて実をむすぶのであります。


この法則を利用しますと、自分の成績でもなんでもよくすることができます。
勉強する時にでも、「自分は算術がへただからよく勉強しましょう」
などと考えてはなりません。

「へただから」などと思うと、その「へた」ということが心の種になって、
じっさいへたになってしまうのであります。

そこで、勉強する時には、「自分はへただから」などとはかんがえずに、
「自分は、神さまのえらい力が、形にあらわれたのが私だ。
自分にはえらいえらい力がやどっている。
自分は天才だ。自分はよくできる。よくできるから、喜んで勉強するのだ」と、
こう心にとなえながら勉強にとりかかるのです。

すると心にえがいたとおりが、形にあらわれてくるのであります。

(第1章 終り)


第2章 人間の「考え」は血の流れを変えます (48)
日時:2019年10月06日 (日) 08時23分
名前:伝統

第2章 人間の「考え」は血の流れを変えます(P14〜27)


「考え」の目方をはかる法(P14〜17)

エール大学のW・G・アンダーソン教授は
人間の「考え」(心の力)目方をはかるのに成功したと云うことが、
マーデンの本の中に書いてあります。

先ず大きな天秤のハカリに人間を仰向けにのせます。
その天秤は一枚の板のようなもので、
その中程(人間の腰のあたりが乗る辺)に中心があって少しでも重い方に、
丁度シーソーゲームのように一方に傾くようになっているのです。

その板の上に先ず人間が乗りまして、その板がとちらへも傾かないように
水平になるように調節(ちょうしをととのえる)します。

さてその板の上に乗っている人間に算術の難しい問題を考えさせるのです。
すると、その人間の乗っている板は、頭の載っている方が重くなって下へ傾くのです。

これは頭が物を考えるから「考え」の重みによって頭が普通より重くなったのです。


皆さんはこれを「考え」の目方だと思いますか。

いつも、いらぬ取越苦労を考えて、頭が重い重いと云っている人がありますが、
それはつまらぬことを考えすぎるが為に「考え]の目方で
頭がおさえつけられているのです。
吾々はつまらぬ「考え」を思わぬようにすることが頭を軽くするのに大切です。


ところで、もっと頭のよい人は、それは「考え」の目方ではない。
その「考え」が頭へ血をのぼらせ其の血の目方だと思うでしょう。
こう考えることの出来る人は、普通以上にとびぬけた頭の好い方です。

本当は「考え」に目方はありません。
その証拠に諸君が体格検査のときに自分の目方をはかる
台秤(だいばかり)の上に乗って、笑おうが、心配しようが、
むつかしい算術の問題を考えようが、同じ目方でありましょう。


ところで、此処に問題となるのは難しい問題を考えると、
頭の方へ血がのぼせてくることです。
心配や取越苦労をすると頭に血がのぼせ過ぎて、そこで頭が重くなるのです。

だからものを考えるのに下っ腹に力を入れて物を考えますと、
肝玉が落着いてあまり頭の方へ血がのぼせずに、
いつまでも物を考えてもつかれずに落着いて物を考えることができます。


アンダーソン教授は、その次に板の上に仰向けに乗っている人に、
算術を考えさせることを止めて、自分の脚で一生懸命足の体操を
していることを思わせたのです。

すると、足の方の目方がふえて、人間の載っている板は
足の方が重くなって下(さが)りました。


そこで、こういう事がわかります。
「考える」ことは必ずしも、頭へ血がのぼせない。
「頭で考える」―――頭・頭・頭と思うから、頭の方へ血がのぼせるのです。

腹でものを考えると思って、いつもへその下の丹田と云うところに
力を入れて、其処で考えるのだと思って、勉強すれば、
頭が常に軽くてよく勉強が出来るのです。

昔から偉くなった人は、丹田の修行と云って、
下っ腹に力を入れる修行をしたものです。

白隠禅師は、寝るときに足の踵で呼吸をする稽古をしたと云われています。
呼吸は鼻からするのは、白隠さんだって同じことですが、
真直(まっすぐ)に足をのばして、足の《かかと》に軽く力を入れ、
《かかと》に息の出入口があって、《かかと》でゆっくり呼吸をする気になると、
血が足の方へ沢山いって、心が落着き、頭が軽くなって、
いつの間にか好い気持で眠れるのであります。

・・・

眠るときの気持ちを楽しくせよ(P17〜17)

眠る時の気持ちと云うものほど大切なものはありません。

いい気持ちで眠ったら、
明日の朝目がさめたときには、スガスガしい好い気持で、
その日いちにち愉快にたのしく勉強が出来、仕事が出来ます。

眠りしなに私は、

「神様の生命(いのち)、わたしに流れ入って、眠っているうちに
健康に幸福に無限の智慧を与えて下さるのである」

と心のうちで唱えながら眠ることをおすすめ致します。
これは私もやっています。
これは子供でも学生でも、大人でも唱えて効果がある方法です。
また、

「神様、私の中に流れ入り満ちたまえ」と念じながら眠ってもよいのです。

毎晩そうとなえて眠りに入るように致しますと、
その人の智慧があきらかになり、勉強の力が加わり、
記憶力(ものおぼえ)がよくなり、肉体が健康となります。

足のことを心に強く思ったら、足に血が行きますように、
「勉強がよく出来る」と念じたら勉強がよく出来るところに、
身体の血がめぐって、其処を丈夫にして下さるのであります。

・・・

朝目が覚めたときには(P18〜19)

そして朝、目がさめた時には、
すぐ寝床の上に坐って、手をあわして、目をつぶり

「神のいのち、私に流れ入って、われを健康にして下さいます。」

これをニ十遍(ぺん)ほど心で唱え、さらに、

「神の智慧、私に流れ入って、今日一日私を導いてくださるから何事も都合よく行く」
と念ずるのであります。

「念ずる」というのは、
「心でとなえて、そのことをシッカリ思う」のであります。

そうすると思うとおりに、血がめぐって、健康になる。
またすべて考えることがハッキリした智慧に導かれて、
よく出来るのであります。

何事も、よいことだと教えられたら必ずやって御覧なさい。
それも、たった一日ではなく、少なくとも三カ月は実行して御覧なさい、
屹度(きっと)いいことが出て来るのであります。

廊下でも、たった一日拭いたのでは艶はでません。
毎日拭けばつやが出るのであります。
心もその通りですから、毎日実行なさいませ。

・・・

右腕を運動させると左腕も発達する(P19〜21)

アンダーソン教授はまた別の実験をして見ました。
大学の学生に腕の力の試験をしたのであります。

すると、皆の力を平均しますと、右手で引上げ得る力は百十一ポンドでした。
(一ポンドは百二十匁(もんめ)<453グラム>ですから、
百十一ポンドは十三貫(かん)三百二十匁<50・283キログラム>です)
左の腕の力は九十七ポンドでした。

ところで、一週間のあいだ特別に引上げる力を増す運動を
右手ばかりにさせたのです。
すると右手の力は六ポンド増えました。

左手はその間、すこしも力持の運動をしませんでしたが
その力は六ポンドふえていました。

こんなことになったのは何故でしょうか。

運動して鍛錬(きたえる)した腕力がふえるのは当りまえですが、
運動しない方までも其の力がふえているのは、筋肉が発達するかのは、
必ずしも運動するからではなく、運動を心に思うからなのであります。

「物を引上げよう」と思うと、実際は右手だけしか使わなくとも、
左手の物を引上げる力も一しょに増えるのであります。

世界で一番美しい筋肉の発達したサンドウと云う運動選手は、
(この人は鉄亜鈴体操を創始(はじめ)た人でありますが)
鏡を見ながら、運動ごとに筋肉が美しく張り切るさまを鏡にうつして、
それを見つめて、「私の筋肉はこんなに美しく張り切っている」と
心に念じながら体操すると、普通に体操するよりも、
一層はやく筋肉が発達すると云っています。

・・・

胃袋を丈夫にする法(P21〜22)

そこまで解ってまいりますと、御飯を食べるときにも、胃袋の筋肉を丈夫にし、
胃腸を達者にするには、どうしたら好いかよくわかるのです。

筋肉がはたらくためには「思い」の力が必要なのです。
「思い」の力で鼓舞(はげます)しますと筋肉は発達します。

腕の筋肉は物を持上げたり押したりするための筋肉ですから、
「物を持上げる」と強くはげしく繰返し思ったり、
「物を押す」と一生懸命思ったりしたら発達するのでありますが、
胃袋は「美味しい物」を消化するための筋肉ですから、
「これは美味しい、有りがたい」と思いながらたべたらよく消化するのであります。

「不味(まず)い、こんなものは食べられない」と思ったら、消化液を出さず、
却って食べものを吐き出すように、胃袋の筋肉は働きます。
それでは健康になりようがないのであります。

胃を丈夫にして、どんなものを食べても、よく消化して達者になるためには、
何を食べるときにも、「これは神様から頂いたたべものであるから美味しい、
身体の滋養になる」と、「美味しい」と云う思い、「有りがたい」と云う思いを
しっかり起こしながら食べると、胃袋の筋肉は丈夫になり、
なにを食べてもよく消化して身体が元気に愉快になるのであります。

・・・

条件反射ということ(P22〜25)

ロシアの大生理学者イワン・パブロフ教授は
大脳の条件反射と云うことを発見したので世界的に有名でありますが、
その条件反射と云うのは、一例をあげますと、
人間でも動物でも、一定の条件を与えると、
反射的に(かがみにものがうつるように)
胃液がよく出て消化がよくなると云うようなことであります。


パブロフは先ず犬の胃袋に孔(あな)をあけました。
そしてその孔にゴム管を通して、その胃袋の中に出てくる
胃液の性質や分量を色々と研究したのであります。

鈴(りん)を鳴らしながら美味しい食べ物を与えますと
さかんに良い胃液が出て食べ物をよく消化いたします。

それを何べんもくり返したのちに、
今度は、食べ物をやらないで、鈴だけ鳴らしましても、
同じように良い胃液が出ることがこの実験によってわかりました。

今度は別の犬に不味い食物(犬はにがいものが嫌いです)
をたべるように口元へもって往ってやりながら、
コンコンと別の音をさせます。

すると、今度は、にがい食物をやらないでも、
コンコンと音をさせるだけで吐き出すようになり、
食物を消化する胃液の出がわるくなって来ます。

このように条件に対して一定の反射的なハタラキを起こすのが
条件反射であります。


ところで、これが判りますと、美味しい食物を食べるときに、
「これは美味しい、有りがたい」と思って良い胃液が沢山出て
消化が好いとしますと、これを繰返しているうちに、

(諸君は、生まれてから何遍もそれを繰り返したことがあるに違いありません。)

今度は、不味い食物でも、「有りがたい、これは美味しい」と
思いながら食べたらよく消化するようになるのは、条件反射と云う
現象(できごと)で当前(あたりまえ)のことであります。


また諸君は、不味い食物を出されて、
「有りがたくない」と思いながら吐き出しそうになったり、
不消化だったり、下痢したことがあるでしょう。

それを何遍も繰返しているうちには、「有難くない」と思うだけで、
どんな結構な食物でも吐き出したくなったり、不消化になったりするのは、
条件反射の結果であります。

女の人がお腹に子供がやどって、二か月、三か月すると、
悪阻(つわり)と云って、神経が感じやすい状態になることがあります。

そんなときに、「有りがたくない」と思うことがあると、ただそれだけで、
どんなに美味しい滋養になる食べ物でも吐き出す様になることがあります。


妊娠(こどもがおなかにできる)して、
この吐き出すことが一カ月も二カ月も続きますと、
母親もお腹の子供もやせて、弱って死んでしまうことになります。

あるとき生長の家の花嫁学校の生徒のお姉さんが、
そんな吐き出す状態になり、それが1か月もつづいたので、
お医者が、これでは母親が死ぬから、
お腹の子供だけを殺して出さねばならぬと云っていましたので、
どうしようかと私にたずねてくれと云って来られました。

私は「誰かと仲が悪くて、有り難くないと云う気持ちがあるからだから、
誰にでも感謝して、有りがとうございますと、周囲のすべての人に、
すべての物に、すべての事に、感謝しなさい」と申してやりなさいと教えました。


その通り書いて送りましたら、その人は、誰か周囲の人と仲がわるくて
「有りがたくない」と思っていたことが、自分でわかり、その人と仲良くして、
「有りがとございます」とお礼を云うような気持ちになったときに、
すぐ、その吐き出す「悪阻」と云う状態はなくなったのであります。

・・・

食物と胃腸とに感謝しなさい(P25〜26)

何でも有りがとうと思いなさい。
すると、良いことがあって有りがとうと思ったときと同じように、
身体の血のめぐりがよくなり、頭がよくなり、胃腸が丈夫になり、
達者になり、元気になり、勉強の成績もよくなります。

胃腸病の人は特にお食事の度毎に、
食物に掌(て)を合わしてお礼を云いなさい。
そして胃腸にもお礼をいいなさい。

そして本当の自分の胃腸は丈夫なのだと思いなさい。
それを信じなさい。

人間を使っても信じなければよく働きません。
胃腸だって同じことです。

・・・

病気を呟いては治らぬ(P26〜27)

胃病の人はいつも「胃病、胃病」と思っていますから胃病は治りません。
「胃病」を思わなくなったとき治るのです。

いつも病気を人に吹聴(いいふらす)してきかせることが
楽しいようでは病気はなおりません。

病気だと云うと、人から「ああ可哀そうだ」と思われる
―― そのことがうれしいようでは病気は治らぬのです。
病気を《はじ》だと思って決して人に自慢のように話してはなりません。

北海道の池田花子さんは風邪を引いたりお腹をこわしたりして寝ていると、
お父さんが「そんな病気ぐらい、じきに治る」といわれまして、
「可哀そうに」とは云って下さいませんでした。

それで、
「今に見ておれ、可哀そうにと云わずにはおれんほどの病気になりたい。
そしてお父さんから、可哀そうにと云われたい」

と思いつめていましたら、
脊椎カリエスという病気になって足が立たなくなりました。


この人は生長の家の星野先生に、「心で病気が起こる」と云う話をきいて、
心を治したら、病気も治りましたが、病気と云うものは、
人から可哀そうがられたいと思っていては治るものではありません。

(第2章 終り)

第3章 恐怖の心を捨てましょう (49)
日時:2019年10月08日 (火) 09時30分
名前:伝統

第3章 恐怖の心を捨てましょう (P28〜35)

何が一番恐ろしいか(P28〜31)

「あらゆる恐ろしいもののうちで一番おそろしいものは何か」
とある集りで、その会議の議長さんがきいたことがあります。

或る人は「病気だ」と云いました。
「何故なら病気になれば死ぬからだ」と云いました。

もう一人は「一番恐ろしいのは貧乏だ」と云いました。
「貧乏になったら御飯が食べられない、勉強も出来ない」と云いました。

三番目の人は「僕の最もおそろしいものは敗戦(まけいくさ)だ」と云いました。
敗戦のために日本は貧乏になり、病気になっても薬もかえない」と云いました。

議長は、「みんなの云うことは一々尤(もっと)もだ」と云いました。
「しかし病気に何故なるか」と云いました。

「それは食べ物がわるいからだ」と云う人がありました。

「それは寒い空気に当たるからだ」と云う人がありました。

議長は「同じ家で、同じような粗末な食べ物を食べていても、
或る人は病気にならないのは何故か」と云いました。
誰も答えませんでした。

そこで議長は「それでは、同じように寒い風にあたっても、
風邪を引く人と引かぬ人があるのはどういう訳だ」とききました。
暫く誰も答えませんでした。

やっと考えついたと見えて一人の男が答えました。
「同じ食べ物を食べても当たらぬ人は、その人の身体が達者だからです。」

するともう一人が云いました。
「同じように寒い風に当たっても風邪をひかぬ人は身体が達者だからです。」

そこで、皆の物は口をそろえて「そうだ、そうだ」と云いました。


皆の者がそう云うから、それは必ずしも正しいとは定まっていません。
一人の人が云うからとて間違っているとは定まっていません。

人間は付和雷同(ふわらいどう)〈ひとつの雷がなり出すと、
あちらからもこちらからも同じようにゴロゴロ云うのと同じに、
何でも一人が云うと考えもせず一しょになってそれについて行く
こと〉してはなりません。

自分でよく考えて真理(ほんとうのこと)をしっかり見定めて、
正しい道をしっかりと知って、その考えを云うことが民主主義です。


その時、議長がこう申しました。
「きっとそれにはきまっていません。同じ物を食べながら、
かえって身体のほそい者が病気にならなかったり、
よく肥えた人が病気になっているのに、弱そうな人がかえって
病気にならなかったりすることがあるのは何故ですか。」

誰も考えていて返事をする人がありませんでした。

「それはこうなんですよ」と議長が申しました。

「身体の達者な人でも、病気をおそれたり、何か心配事があったときには
病気にかかるのです。
身体の弱い人でも病気を恐れず、心配せず、腹を立てず、愉快でたのしければ
病気にかからないのですよ。」

ほんとに、此の議長さんの被仰(おっしゃ)るとおりなのです。
皆さん、心を明るく、楽しく何事もおそれないようにしようではありませんか。

・・・

恐れると血の中に毒が出来る(P31〜32)

恐れていると身体に毒素を生ずるのです。
鼠を金網の箱の中に入れて、棒切れで五六時間も追いまわしますと、
鼠はおそれて死んでしまうそうです。
その鼠の血を人間に注射すると、少しの分量でも人間は死ぬそうです。

恐れた鼠の血の中に毒素が出来たのです。
人間でも他の動物でも恐れると血の中に毒が出来て、身体が弱って来ますから、
平素たっしゃな人でも、肥えている人でも
そんなときには色々の病気にかかりやすくなるのです。

金魚でも硝子瓶の中でそだてると大きく生長しません。
外にいる人間や猫やいろいろの物が見えて恐ろしがるので
身体の中に毒素が出来て身体がよわくなって大きくなれないのです。

鉢に金魚の子ばかり入れてそだてますと、大きくなりますが、
その中に一ニ匹大きな金魚を入れますと、
大きな金魚が小さな金魚を追いかけまわすために、
小さな金魚は中々おおきくなりません。

これは恐怖心(おそれるこころ)がどんなに身体に悪いかを示しているのです。

米国の物理学者ホーレンス・フレッチャー氏(Horace Fletcher)は
「恐れる心は空気の中のポンプで炭酸瓦斯をつぎこむようなものだ。
それは心の、精神の、霊の窒息状態(いきがつまる)を引きおこすのだ、
時としては死を引きおこす。
人間のエネルギー(生きる力)の死、身体の組織の死、
すべての発達の中止を引きおこすのだ」と云っています。

・・・

恐れないためには(P31)

それではどうしたら人間は恐れなくなるかと云いますと、
人間は神の子であり、神様がまもっていて下さるのであり、

人間の内には丁度私の童話の『ファウスト物語』の中にある
「黄金(きん)の筥(はこ)」のように、それをさすって念ずれば、
何でも思うものが出て来、何でも思うことが出来る
「生命(いのち)の力」が宿っているからなのです。

吾々の内に宿っている「生命(いのち)の力」は
神様が何でもほしいものを引き出すために与えて下さった
魔法の「黄金(きん)の筥(はこ)」なのです。

自分の生命(いのち)の中には
目に見えない秘密の「黄金(きん)の筥(はこ)」があって
心で念ずれば何でも出て来ると、先ず信じなさい。

・・・

問題をやさしく解くには(P33〜35)

その次には、吾々が恐れているものは、恐れているから、
恐ろしい姿でやってくるけれども、
恐れずにいれば、その恐ろしいものは決して出て来ないものだ
と云うことを知らねばなりません。

犬などでも恐れて逃げると追いかけて来て後から吠えつきます。
だまって静かに平気で側(そば)をあるくと、知らぬ顔をしています。
美味しいお魚の骨でもやって「コイコイ」と云うと、
やさしい友達になってなついて来るのです。

何でもこの犬のとおりで、自分がこわがるからこわい形に出てくるのです。
犬と仲よしになるように、すべてのものと仲よしになることです。

学校の学科でも問題を恐れていると、
いよいよ恐ろしい、むつかしい問題に見えるのでよう。
これは、やさしい問題だ、問題と仲よしになろうと思って、楽しみながら
問題にぶつかると、ふしぎに楽にその問題が解けるのです。

病気にかかったときでも、こんな病気位すぐ治るのだと恐れずにいますと、
本当にすぐ治るのです。

「これは大変だ。死ぬかも知れぬ」などと思うと、
その恐れる心で身体に毒が出来て中々治らぬことになるのです。

ランニングをしていても競争相手おそれると負けてしまいます。

「私は神の子なんだもの、神様と一しょに走るんだ、
神さまが走らせて下さるんだ」と思って一所けんめい走りますと、
不思議によく走れて、1等になれるのです。
何をしてもこのコツです。

負けることを恐れる者は負けますし、
必ず勝つと信じている者は必ず勝つのです。

(第三章 終り)

第4章 明るい心を持ちましょう (50)
日時:2019年10月12日 (土) 00時54分
名前:伝統

第4章 明るい心を持ちましょう(P36〜43)

健康を考えて健康を得よ(P36〜38)

悪いことや詰まらぬことなど、考えないように致しましょう。
これを食べたらお腹をこわすとか、寒い風にあたったら風を引くとか、
つまらぬことを思わないようにしましょう。

思うとおりにあらわれるのが、心の法則なのです。

「わたしは神の子だから常に健康で楽しくて、愉快だ」と
考えるように致しましょう。
そう考えると、いつも愉快で達者でいられるのです。


乞食はゴモクの半分腐ったような食べ物をひろって食べても
一向に病気にならないのです。
浮浪児は、貰ったオニギリをゴミだらけのきたない手で、
鷲づかみにして食べていても一向おなかをこわしません。

布団もなしに、夜露のおりる上野公園でねていながら
元気で病気にかかりません。

それは病気なんて思わないからなのです。

ところが、よい家に育った坊ちゃんや、嬢ちゃんは、
病気にならせてはいかぬ、風邪を引かせたらいかぬ、
お腹をこわしたら大変だと、始終小さいことに気をつかって、

注意に注意をかさねていても始終病気になっているのが多いのです。

それは何故ですか。
それは「病気」のことを始終思っているからなのです。
「病気になったら大変だ」と始終思っているからなのです。


こう云う人はアメリカではトラブル・シーカー(trouble seeker)と云って
軽蔑(みさげる)されています。

病気のない間から、病気が何処かにないかしらと、
さがしまわっているようなものなのです。
それだから、病気をさがし当て、小さい病気でも、
心で恐れて大きな病気にしてしまうのです。

キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、
こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。

それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。

・・・

常に希望を失うな(P38〜39)

ヘレン・ケラー女史は
「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。
希望がなければ何事も成就しない」と云いました。

楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見てつねに「よくなる」
と云う希望を失わない「考え方」です。

今、日本に必要なのは、
この「必ずよくなると云う希望」ではないでしょうか。
希望を失わない、愉快な明るい民族は栄えるのです。
発達する国民の奥にはこの愉快な明るい国民性があるのです。

日本人も本来、明るい国民でしたが、いつの間にか暗い陰気な
苦が虫かみつぶした顔をしている方が上品だなどと考え出したのです。

暗いところでは大きな樹はそだちません。
人間でも同じです。

心に日光をもつことです。

暗い気持ちで物をつくっても、好いものは作れません。
明るい気持ちで物をつくれば好い考えが浮かんでくるでしょう。

考えて御覧なさい。
叱られて暗い気持ちになってから勉強してもよくおぼえられないでしょう。

ほめられて楽しい気持でやったときには、
難かしい算術の応用問題でもスラスラと解けるでしょう。

歴史の本や読本をおぼえようと思っても中々おぼえられないのに、
面白い芝居を愉快な楽しい気持ちで見ていると、読本よりも、
ズッと長い、むつかしい役者の言葉を「誰が、あの時こう云った」
と一つ一つ間違えずに覚えられるでしょう。

これは愉快な気持でおれば、心がよく働くからです。
愉快な気持は、機械に油をさすように、心の運転に油をさすものです。
油を充分差した機械は、どんなに激しく回転しても
摩滅(すれてちびる)ことはありません。

それと同じく、「楽しさ」で油をさした心は、
どんなに働いても疲れることはありません。

・・・

笑い健康法(P39〜41)

たとえ病気になっても、暗いいやな気持にならずに、
常に愉快でおれば早くなおるのです。

わがままを云って、人をこまらせ、自分も《しかめ面》をして、
むりに暗い気持になれるのが、病人の権利のように思っていては
病気などと云うものは中々なおりません。

明るい愉快な気持でおれば、血液の中に元気をよくする成分が
沢山つくられるので、早く健康になるのです。


アメリカに、ラーフ・キュアー(Laugh cure)と云う言葉があります。
日本語なら「笑い健康法」とでも云うところでしょう。

いらいらしたり、くよくよしたり、ぶつぶつおもったり、
腹を立てたり、心配したりする代りに、
常に愉快に笑う事によって病気を治す新しい方法なのです。

面白からぬ事を見つけ、人の悪口を云ったり、人の欠点をさがしたり、
人のアラさがしをすることは決してよい趣味とは云えないのです。

人の性質の「悪」は「悪」と見なければ消えてしまうものなのです。
何故なら人間・神の子で、人の性質の「悪」は本来無いからなのです。

それを心で取上げて「悪」として問題にするといつまでも、
その「悪」は消えず、却って「悪」の捕虜(とりこ)になり、
「悪」に制服せられてしまうのです。


機械などの発明なら、どこまでも欠点をさがして、
それを益々よいものにすることが必要です。

しかし、人の性質の悪と云うものはないのです。

アメリカで有名な「子供の街」の創設者(はじめてつくったひと)であった
故フラナガン教父の教育法は、善いところを見て賞(ほ)める教育です。

フナラガン教父が「この子はよい子だ」とそのよい所を探し出して賞(ほ)めると、
みんな立派な「神の子」の坊ちゃん、嬢ちゃんになったと云います。

・・・

愉快な子は必ず善い子です(P41〜42)

ジョン・ラポック卿は、
「教育者が義務と明朗、否明朗と義務とをもっと強調して
児童を教育したならば、人生はもっと愉快に幸福になったであろう」
と云うことを云っていますが、

何よりも、諸君が心掛(こころが)くべきことは「善い子」の云うかわりに、
「愉快な子」「楽しい子」にならねばなりません。

「愉快な子」「楽しい子」はお父さん、お母さんを喜ばせ、
近所の人を喜ばせ、友達を喜ばせ、みんなを喜ばせるのです。

そして皆を喜ばせることは「善いこと」なのです。
「愉快な子」「楽しい子」は「善い子」になるのにきまっています。


これに反して、暗い陰気な気むずかしい子は親をこまらせ、
女中をこまらせ、近所の人をこまらせ、みんなに迷惑をかけるのですから、
それが、どんなに真面目な子であっても「善い子」だとは云えないのです。

・・・

店が繁昌するには(P42〜43)

心が楽しく明朗であれば、考えることは自然に正しくなります。
すること為すこと軌道に乗ります。
すなわち、汽車がレールの上を滑ってすこしも脱線しないように
スラスラとよい考えが浮び、よい行いが出来るのです。

よい発明も出来れば、店の商品の列(なら)べ方も上手に出来ます。
愉快な人が列べた店の商品は、何となしに愉快な気持がただようていて、
その店へはいって買いたくなるものなのです。

はやらない店の主人や番頭や売子はつねに不機嫌な、
「楽しくない」顔をしているものです。
はやらぬから「楽しくない顔」をしているのかと思うと、そうではなくて、
「楽しくない顔」をしているから、人がよりつかなくなるのです。

よい運命を招くには、先ず「楽しい心」になることです。

(第四章 終り)


第五章 腹立つ思いを捨てましょう (51)
日時:2019年10月13日 (日) 02時07分
名前:伝統

第五章 腹立つ思いを捨てましょう(P44〜54)

腹立つ事を止めると胸が丈夫になる(P44〜46)

一八七九年、ハーバード大学のゲーツ教授は、
或る患者の呼吸から出てくる沈殿物(したにたまるもの)について
研究した実験録を発表しました。

その報告によりますと、患者にゴム管をくわえさせ、ゴムの管(くだ)を通して、
或る薬品(ある元素の沃化物〈ヨードとほかのものとのかこうしたもの〉)の
液体の中に導き入れます。

そのゴム管は氷をもって冷やして、息の中の瓦斯体が凍って液体となり、
薬の水の中へ入れるようにしてあるのであります。

患者の心が静かで気持の好(よ)いときには、
いくら時間がたってもその薬の液体には何の変化もありません。
ところが、患者が急に怒りはじめたとき、五分間ほどしましたら、
その薬の液体の中に褐色の沈殿物(したにたまるもの)が出来たと云うのであります。


この褐色の《おり》をとって人間や動物に注射しますと、
その人間や動物が怒ったように、興奮したようになったと云うことです。

すなわち、怒ると云うことは、そういう毒素を身体から製造し、
息の中からまでも、その毒素がでていると云うことをあらわしております。

その毒気が息から出るとしますと、毒気は肺臓を通って出るのですから、
肺臓に害を与えているのは明らかなことであります。

肺を病んでいる諸君、胸が弱いと云う諸君、
腹立てていることを止めると胸が丈夫になります。


またゲーツ教授は、愛する子供が死んで非常に悲しんでいる婦人の口に、
ゴム管をくわえさせて、同じような実験をして見ましたところが、
薬の液体の中に灰色の沈殿物が生じたと発表しています。

そこでゲーツ教授は、色々の実験の末、次のように申しました。

「腹立ちや、悪意や気鬱(こころがふさぐ)は
人体内に害の有る化学薬品をこしらえる。
その中には非常に毒性のつよいものもある。

これに反して、楽しい、愉快な感情は、生理作用をととのえ、
細胞のはたらきを活発にする栄養剤となる薬品を身体の中で製造する。」

・・・

世の中は自分の心の鏡(P46〜47)

『世界は、人々に人々自身の払っただけの貨幣を支払う』
と云う諺があります。

あなたが世界に対して微笑(ほほえ)みかければ、
世界もあなたに対して微笑みかけるのであります。

あなたが世界に対して渋面(にがいかおつき)すれば、
世界もあなたに対して渋面するのであります。

あなたがやさしく世界に対して歌いかければ、
世界もあなたに対して歌いかけるのでありましょう。

「もし、もし」と呼びかければ、「え、何ですか」と答えますが、
「おいこら」と呼びかければ「え、何じゃ?」と鋭い顔でこたえるでしょう。

「坊ちゃん」と呼べば、「ハイ」と答え、「坊や」と呼べば、「ウン」と答える。
「お前馬鹿だな」と云えば、「お父ちゃんだって馬鹿だよ」と答えます。

売り言葉に買いことば、
こちらの出した価(あたい=ねだん)だけのものが帰ってまいります。

あなたが世界を愛すれば、世界はあなたを愛してくれるのです。

あなたが世界に貢献(こうけん=ためになることをする)すれば、
世界は貴方によい待遇(たいぐう=もてなし)を与えるでしょう。

この世界をつまらないと見れば、
つまらないことが、世界から貴方に帰って来るでしょう。

あなたが人類を愛せば、人類が集まって来ます。
あなたが友達を愛せば友達があなたを愛してくれます。

こちらが世界に何ものもささげないでいて、
世界から何か自分に都合のよいものを貰おうと思ってもそうはまいりません。

・・・

絶えず不幸を見出す人になるな(P47〜49)

ところで、貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。

微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。
微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りかこまれるのでありましょう。

そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱(うっ)とうしいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑くるしいと云う。

何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。

そして絶えず小言を云っているうちに
自分の性格がそこなわれ、人からはきらわれ、
世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。

世の中は屹度(きっと)幸福になります。

雨が降ったら

「ありがたいおしめりです。
これで水力発電が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」

と云いなさい。

曇っていれば「今日の天気は落着いて宜しい」と云いなさい。
晴れていれば「まことに朗かな快晴(かいせい=きもちよくはれること)で結構です。
気分まで晴ればれします」と云いなさい。

この通りに云わなければならぬのではありません。
これは一例です。

何でも好い方面を見て、讃(ほ)めたり、感謝したりするようにしていますと、
しまいには、ほめたり、感謝したりすることばかりが
あなたの周囲に集まってくることになるのです。

・・・

始終、楽しい話をせよ(P49〜50)

始終、仕事の景気のよい話をしていますと、
屹度しまいには自分の仕事がよく繁昌し、
景気がよくなってまいります。

いつも不景気な損する話ばかりしていますと、
だんだん仕事が《ひっそく》(せまりふさがること)し、景気がわるくなり、
することなすこと面白く行かなくなります。

貧乏の話をしていると、貧乏が集まって来ます。

「僕は屹度えらいものになるのだ」と毎日云うようにしなさい。
屹度えらい者になって来ます。

尤(もっと)も、そのえらいと云う意味は色々ありますが、
とも角(かく)世のためになり、世の中の人に喜ばれ、
人から、「あの人がいてくれたので助かった」

と云われるような人になるには、
毎日、「わたしは、そう云う人になれる」と思うことが大切です。

思う《とおり》にあらわれるのがこの世界なのであります。

・・・

人間は怒ると損です(P50〜52)

人間は怒ってはならない。
悲しんではならない。
心配してはならない。
暗い気持ちにしずんではならない。

怒りや、悲しみや、心配や、暗い気持は、自分を殺すものであります。
自分の身体の中に毒素をつくります。

ある有名な法学博士は京都で講演会があると云うので出掛けましたが、
駅に誰も出迎えていないと云うので腹を立ててカッカになって怒りながら
やっと講演会場にゆきましたが、

その講演会場で脳溢血と云う、
あたまに血がのぼせて起こる病気で倒れて死んでしまいました。

永い間心配したために、
気がついて見ると頭の毛が全部真白になった人もあります。

長い間の嫉妬心(やきもち)が原因で
バセドー氏病と云う眼玉のとび出る病気になった人もあります。

グジグジ小さい小言(こごと)や不平を心の中で思っている人には
水虫がよく出来ます。

長い間の悲しみをこらえていたために、
腹膜炎や、腎臓結核になった人もあります。

このような腹立ちや、心配や、嫉妬心や、不平や、悲しみは
人間の生命(いのち)を殺すことになります。


キーツと云う詩人は
その作品があまり感傷的だといって激しい批評をせられた為に、
心をなやまして死んだと云われています。

モーパッサンは、神を呪う小説を書いているうちに気が狂ったと云われています。

芥川龍之介は、怪畸(かいき)な神経質な小説を書いているうちに、
あまりに神経をとんがらせて毒をのんで死んだのです。

心のなやみや、呪いや、神経質的なものはすべて人間を害するものです。

多くの歌よみは、歌と云うものは
悲しいことを歌わないと値打ちがないように思って、
悲しいことを常に思うようにしていますので、
始終身体が不健康でいるのです。

石川啄木が肺病で死んだのなども其の一例であります。

ショーペンハウエルと云う哲学者は、人生は生きる値打ちがないなどと、
悲しみの哲学を常に考えていましたので、
一生涯胃病になやまされていたと云います。

夏目漱石はその小説『道草』にあらわれているような激しい家庭内の
心の暗闘(うらでのあらそう)で血を吐くような思いをしていたので
胃潰瘍をわずらって血を吐いて死んだのです。


死ぬほどでなくとも、心の激動(げきどう=はげしくうごく)は食欲をなくし、
消化をさまたげ、或は冷汗を出させ、顔を青ざめさせ、溜息や喘ぎをおこさせ、
夜眠れなくさせると云うことは、誰でも知っていることであります。

母親の悲しみや心配で、胎(おなか)子供が流産することがあり、
またお乳が出なくなったり、お乳の中に乳児脚気を生じたりいたします。

心は常に楽しくしているように心掛けねばなりません。

・・・

怒(いか)る毒蛇の毒素(P52〜53)

恐怖や憤怒(ふんぬ=いかり)の時に身体(からだ)から出る毒は、丁度、
毒蛇が怒って人にかみつく時に、
その歯の所から毒が出るのと同じような毒が出るのです。

併し毒蛇の場合には、その毒をためて置く袋があり、
その袋から出た毒は体外へ出るようになっているのですが、
人間には、そのような毒をためて置く袋はありません。

だから怒ったり恐れたりして出来た毒素は、
自分の身体の中をまわるより仕方ないのです。

だから怒ったり恐れたりすれば自分を害する事になるのです。

だから諸君は決して恐れたり、怒ったりしてはなりません。

・・・

民主主義の人間になれ(P53〜54)

怒ったり恐れたりする人は、「怒り」や「恐れ」の奴隷です。
奴隷には自由はないのです。

怒りや恐れに支配されない人こそ真に、
自分が自分の主人公であるところの民主主義の人間であります。

若し人間が怒らなければ戦争は始まらなかったでありましょう。
戦争は他(た)が自分を侵すかも知れぬという恐怖と、
相手を憎む怒りとによって起こったのです。

恐怖と怒りのない所には戦争はありません。

だから戦争を起こらぬようにする為には、
人間全部が、自分で自分の主人公になり、
恐怖や憤怒の奴隷とならぬ様にならねばなりません。

この自分が自分の主人公となることが民主主義と云うのであります。
そこで戦争の起こるのを防ぐ為には民主主義の教育が必要だと云うのです。

将来の戦争をなくす為に日本を民主化せねばならぬと云うのも、
こう考えてくれば、その理由がハッキリ解るでしょう。


(第五章終り)

第六章 希望の夢を描きましょう (52)
日時:2019年11月04日 (月) 22時19分
名前:伝統

第六章 希望の夢を描きましょう(P55〜62)

心に夢をえがけ(P55〜57)

心に夢をえがくということは
何でも大きなことを成し就(と)げるのに大切な事であります。

夢をえがくと言うのは、決して出鱈目なことを考えるのではなく、
「必ず出来る」と未来に起こる善いことを心に思い浮かべることであります。

コロンブスは、これから西へ西へと進んで行けば大陸があると、
まだ肉眼に見えない世界を心にえがいて突進して行きましたから、
とうとう其の心にえがいたアメリカ大陸を発見したのです。

まだ見えないが、心の眼でじっと未来におこって来る善き世界を、
善き状態を、一層よき自分を、心に描くことを「夢を描く」と云うのです。


深く心にえがくことは祈りであります。
それが正しい祈りである場合には必ず成就するのであります。

正しい祈りと云うのは、その祈ることが、他を害しないで、
自分の本性(うまれつき)にかなうものを心に描くことであります。

その祈りがかなえられたら、
誰かに損害になるというようなものを心に描いても、
祈っても成就するものではありません。


未来に起こることを心に描くと云うことは結局、
すべての心の力をそれに集めるということになります。

しかも自分の心は、宇宙の心の一部分でありますから、
自分の心を、或る一つのことに集めますと、宇宙の心が動きだして、
自分が心にえがいたことを成しとげられるように、天地間のすべての力が、
その一点に集められるようになってくるのであります。

そうして、ついにそれが本当に成るようになるのです。


しかし、心に強く夢をえがいても、
他を害して自分がよくなろうとするようなことを
心にえがいてはなりませぬ。

人を押したおして自分が出世するような考えを心にえがいても、
その人の心が強く、押しが強い場合にはしばらくそれが成就するのであります。

しかし、そうして出世しても、
無理をして出来た出世は、金が出来、地位が出来ても、
その金のために悩まされたり、地位のために色々の人が出入りして、
会いたくない人に会わせられたり、家族が病気になったり、
色々面倒がおこって来たりするのであります。

・・・

サービスが成功の基(もとい)(P57〜58)

すべて、金とか、権力とか、名声(めいせい=なまえがでる)とか、贅沢とか、
利己的(じぶんのみによい)なことを心に描いて
成就(じょうじゅ=なしとげる)した場合には、
多少とも自分を悩ますものがつきそうて来るのであります。

真に悩みのない生活を送るには、そんな利己的なものを心にえがかず、
人につくすこと、世につくすこと、どうしたら人のために、
また世のためになるかということを考えてサービスをつとめて行くようにすれば、
金も名誉も地位も自然に得られてくるのであります。

金や名前や地位などは目的にすべきものではなく、
世のため、人のためにつくした誠が自然にあらわれた結果でなければならぬのです。

・・・

苦難の道だと云うな(P58〜59)

あなたが現在の苦しみや乏しさや貧しさになやんでいられるならば、
それは「人間の生きる道はどうせ苦難の道だ、思うようにならぬ」と
云うことを前から考えて来たからです。


「苦難が来るぞ、荊棘(いばら)がくるぞ」と云っていると、
「苦難」が来、荊棘が来るのです。

これを言葉の力と云うのです。《ことば》は神であり、《ことば》は心に思っても、
口に出しても、それはいずれも「造る力」をもっているのです。
思ったとおりにあらわれ、言ったとおりに出てくる世界なのです。


明るい言葉、たのしい言葉、ゆかいな言葉、希望に燃える、
前途(ゆくさき)のよくなると云う言葉を出していると、
そのとおりに、人生は明るくなり、たのしくなり、愉快になり、
希望に燃えるとおりに何事もよくなってくるのです。

・・・

自分の運命は自分で造る(P59〜60)

吾々は自分でわれわれの前途(ぜんと=これから)の運命をつくるのです。

運命と云うのは運がよくてまわってくる天からの命令と云うものではなくて、
われわれの心でどうにでもなるものなのです。
われわれの心で常に思っているとおりに世界は運転してくるのです。

世界の運転のしようを自分の思いどおりにしているのが人間なのです。

だから人間は運命の主人公であって、人間は運命の奴隷ではありません。
奴隷には自由はありませんが、主人公には自由があるのです。

自由と云うのはなんでありましょうか。

自由と云うものは外から自分のやることを邪魔しているものを
取りのぞいてもらうことも自由であります。
それは自動車が走るのに邪魔になる石塊(いしころ)や
溝を取除いて貰うようなものです。

しかしそれだけでは本当の自由はないのであります。

本当の自由は、どんな石塊があっても、どんな溝があっても、
それを自由に避けて通れるような、中からの舵取(かじとり)が
自由に出来る事でなければならないのです。

吾々は、こうありたいと思うように自分の心を、
自分の言葉を、舵取することによってのみ、
自動車がどんな石塊道でも、山道でも、自由に走れるのと同じように、
どんな難しい世の中でも自由に楽しく愉快に生きることが出来るのです。

吾々は何よりも、自分の心を自由に
楽しく愉快に明るくする自由を得なければなりません。

これこそ「中」からの自由であって
「外」にどんな石塊や溝があっても自由に楽しく走れる自動車のようなものです。

・・・

自分の心の支配者(P60〜61)

自分が自分で自分の主人公である人は、先ず自分の心の支配者となって、
面白からぬ感情や想念(おもうこと)を自分の心の中から
追放しなければなりません。

追放とは追いだすことです。
怒りや、心のいらいらしさや、憎みや、嫉(ねた)みや、陰気くさい想いや、悲しみや、
《ずるい》考えや、取越し苦労や、持越し苦労を追い出さなければならぬのです。

自分の心一つを、自分の気持ちのよいように掃除出来ないで、
世の中のことを支配しようと思っても出来るものではありません。

先ず自分の心の中から憎しみや悲しみや、怒りや取越し苦労を捨てなさい。
外の世界はわが心の影ですから屹度よくなるに相違ありません。

・・・

思ったとおりになる世界(P61〜62)

何でも思った通りになるのです。

「力がない」と思えば力がなくなります。
「すべての力は与えられているのだ」と信ずれば力が出てまいります。

「弱い、弱い」と語りながら強くなったものはありません。
「私は病気だ」と語りながら健康な者はありません。
強くなるのには常に「自分は強い、強い」と語らねばならないのです。

貧乏を考え、貧乏を語り、貧乏について悲しんで気を落とし、貧乏を夢み、
貧乏を実行していて、金持になったものはありません。

消極的(しょうきょくてき=ひかえめ)な、悲観的な、
退嬰的な(しりごみする)事ばかり考えていながら
幸福はやって来る筈はないのであります。

そんな人は悲観的なことばかりを引付ける磁石になったようなものです。
何でも、自分の心の波長に合うもののみが引きつけられて来るのは、
波長のあう放送だけがラジオに受信されて音を たてるのと同じことであります。

「笑う門には福来る」「泣き面に蜂がさす」などと云う諺は、
ここの道理を説いたものであります。

幸福と成功と上達と繁栄と希望の夢をえがいて、
常にほほえみ、努力をおこたらぬ者のみに真の幸福は来るのです。

(第六章終り) 



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