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メンタル・サイエンス奥儀 (22)
日時:2016年06月20日 (月) 21時02分
名前:伝統

「健全の真理」生活応用篇より<メンタル・サイエンス奥儀>

このご文章は、先代の掲示板において、”平賀玄米 さま”が投稿されたものです。
あらためて拝読して、心に響くものがあり、ここに再掲載させていただきます。


メンタル・サイエンス奥儀〜その1

        *「生活応用 健全の真理」第11章(P200〜203)より

「人生は王者と奴隷の鏡である。もし君が友人を欲すれば自分が先ず友人となれ」
とエマーソンは言った。

如何なる職業、如何なる場所、如何なる人間、如何なる事物にも
其の各々の雰囲気と言うものがある。

その雰囲気によって、「類は類を招ぶ」「類をもって集る」の法則によって、
それぞれのものが引きつけられ相合するのである。

「失敗の雰囲気をもった成功者と言うものはあり得ない」
とアーネスト・ホルムスは言っている。

成功する人物は成功を思うのである。
成功する人物は自信と力の雰囲気をもって物事をなし、
その雰囲気が微妙なる或るものとなって、
その身辺の一切のものに漂うているのである。

 
人を惹きつける力ある人でなければ大いなる事業は出来るものではないのである。
しからばその微妙なる或る物を自分の身辺に漂わすにはどうしたらよいのであるか。

自分は人を引きつけるような魅力はないものである、
自分の風采はあがらないなどと自卑すること勿れ。

すべての人間には、誰も皆、最高の魅力あるもの ――― 「神」が宿っているのである。
その神は完全なる者であるから必ず人を魅きつける力があるのである。
 
人を惹きつけるところの力は必ずしも容貌風采が最も美しいと言う譯ではない。
容貌風采が美しくとも、その人間が何となく低卑な感じのする人間もある。
そんな人間は低卑な俗人ばかりを引寄せ得るに過ぎないのである。

人格から立ち騰(のぼ)るところの不思議な雰囲気とは一体何であるか。
それはその人の内部から立ち騰る神性である。

自己の内部にやどる神性、これのみが万物を支えている本源であり、
これのみが他の人の内にもやどる唯一の実在の力である。

この内部神性を発現せしめるとき何人をも魅きつけ得ないと言うことはあり得ないのである。
先ず自己に宿る神性を自覚したのち、その神の全能力をもって、
心に友を描けば、友が現れるのである。

・・・

吾々が思念するときには吾々は明確に欲する事物を心に描かなければならない。
何事を祈るにしても、「それを既に有する」と念じなければならない。
友を得んと欲すれば、「友を既に得たり」と念じなければならない。

しかし特殊の人間を目指して「彼女を自分の友にしょう」などと念じてはならない。
それは催眠術の一種であり、自己の念力によって相手を縛ることになるのである。

金を欲すれば「金を既に得たり」と念ずればよいのである。
しかし、「誰の持っている金を」と目指してはならないのは同じことである。

家を求むるならば、家を既に心に於いて「受けたり」想念しなければならない。
その家の状態をハッキリ心に描くことは、時として家を得る上に非常に効果があることがある。

但しこの場合も決して、人の有(も)っている家を、
どの家と指定して得ようと思ってはならないのである。

・・・

吾々が事物を既に受けたりと想念するとき、それは確信をもって想念すると同時に、
それは想像を深く豊かにめぐらして、色彩あるもの、具体的形あるものを既に受けたと
同様の温かい悦びの感情を起すことが最もよい。

感情は創造力の根本なるものである。
宇宙の創造も神の心のうちに動いた感情によって行われたのである。

感情的な愛によって人間は妊娠し、子供が生まれる。
感情の動かない智的想念だけでは創造力はあまり動かない。

だから吾々は思念しつつあるときに、感情的にそれを受けたりと信じなければならない。

・・・

吾々が祈るとき、吾々は何々を欲するのではなく何々を得たりと知るのでなくてはならない。
吾々は心にそれを描くとき、それを夢見るのであってはならない、
既にある姿を描くのでなければならない。

単に希望するのではなく、既に受けたりと《知る》のである。
神に懇願するのではなく、吾既に得たり、与えられたりと
神に感謝するのでなければならない。

・・・

単に想念を把持するのでは力が弱いのである。
「想念で既に形成せられたる事物」をそのまま把持するのだ。

或る結果が出て来るために「想念を把持」するのでは想念はただ手段として使われるに過ぎない。
「心で出来ている事物」をそのまま受けるのでなければならない。
事物とは想念だ。そのまま受けるのだ。

・・・

意識的想念は神の新しき創造の出発点である。
われ何を欲するかは、神が何を欲し給うかである。
そこまで自覚が進まねばならぬ。併し偽我慢心は不可(いか)ぬ。



メンタル・サイエンス奥儀〜その2

        *「生活応用 健全の真理」第11章(P204〜205)より

自我の想念の力のみにて、病気又は事件の改善を来たそうと思うのは、
鋳型のみにて鋳物の製造をしょうと言うのと同じである。
それは不可能のことである。

若し又、神の力が鋳型に流れ入るように自己の想念の形に
一切をあらわし給うのであれば、吾らはその力に制限をつける必要はない。
何でも癒されないと言うことはないのである。

・・・

神の力は無限であるが故に、
神の力によって病気を癒す場合には癒らない病気などない筈である。

・・・

神の法則は自働する。
それは盛り上がる海嘯(つなみ)のように、
その流れ行く道をもとめて殺到するのである。

吾々は唯、その流れ行く道を想念で作れば好いのである。

・・・

「わが言葉は真理なり、生命(いのち)なり、力なり、全能なり」
と自覚することが必要である。

わが言葉は自我の想念にあらずして、自己に宿る真理の想念、
真理の言葉にならなければならないのである。

・・・

「わが言葉は事物創造の根元力たる創化作用に吹き込むところの喇叭である。
わが言葉によって事物の創化作用は進軍するのである。
わが言葉は命令である。法則である、真理である、それ以外のことはあり得ないのである」

かかる強力なる信念をもって思念しなければならぬ。
かく信じ得るようになるまでは、自我が神の前に無条件に降伏して、
神と一体であるとの自覚を得ることが必要である。

・・・

『大通智勝如来は十劫の間、道場に坐して悟を開かなかった』と法華経にある。

病とは大通智勝如来の眠りに過ぎぬ。
真理の思念をする事は大通智勝如来の自発的目覚めである。
生ける大生命の自発的自覚である。誰か、その自覚を妨げんやである。

・・・

すべて現象的事物(病気、災難等を含む)は唯心所現の存在であるから、
如何なる不幸なる状態も癒すことは出来ないと言うことはあり得ないのである。

心と言うものが改善し得ないものでないと同じく、
心の所現であるすべての事物は改善し得るのである。



メンタル・サイエンス奥儀〜その3

        *「生活応用 健全の真理」第11章(P206〜210)より

神はすべての事物の背後に存在している力であり、
神の最高なる意識的顕現なる人間にいつでも其の欲するものを与えようと
待ちかまえている力である。

・・・

われに宿る神は、すべてのものに宿る神と一体の神である。
このわれに宿る神がすべてのものからすべての愛を引寄せたのである。
すべての人々とわれは一体である。
すべての事物とわれは神に於いて一体である。

われ静かに坐するときすべての人類の魂なる神はわれに囁きかけ、
わが放送する愛の念波に応えてくれるのである。

・・・

われ愛を全人類に放送するが故に、全人類はわれを知りわれを愛するのである。
われには憎むすべてのものがないのである。

全世界に対して自分が放送するところの愛は、
わが我執の愛ではなくて神の大愛である。

わが放送する大愛に対してすべての物は必ず反応し来るのである。
愛は生かす心であるが故に、すべてのものはわれを生かすのである。

・・・

人のコトバ又は想念は、宇宙の力を始動せしむるハンドルのようなものである。
そのハンドルの把(と)りようで宇宙の力がどの方向に運転するかが定まるのである。

・・・

人間の運命を決定する想念は、自分の常に何を思うかの想念の合計と、
常に何を知れるかのその精神内容の合計の総和である。

その想念が相対と絶対との媒介となって、
絶対界の創化力を相対界に誘導して事物を具象化する力となるのである。

・・・

想念は實相界を現象界に実現する媒介である。

・・・

吾々のコトバは神の自己発現の契機となる。
吾々のコトバはその反対信念(不信)によって
制約せられない限りは必ず実現するのである。

それが宇宙の法則である。
宇宙の法則は絶対威力である。

・・・

自己の商売(職業又は事業)の繁栄を欲するときには、
毎日自分の店が顧客によって充満している有様を心に描け。

而(しか)してその客が、自己の店の商品を見て賞美し、
それを悦んで買い求めている光景を心に描け。

自己の店舗が光明と、繁昌の雰囲気に満たされていることを心に描け。

そしてこれを神にゆだねよ。
自己の精神がそれを実現すると思わず、
神が既にこれを実現したまえりと観じて感謝せよ。

・・・

内に描くものが外に実現するのである。
吾等は常に自己の心の雰囲気によって、波長に合わぬものを遠ざけ、
波長の合うものを引寄せつつあるのである。

去るものを歎(なげ)くことも要らないし、
来(く)るものを拒むことも要らないのである。

それは既に心の内に描きたるものの結果であるから、
それらの出来事が気に入らなければ、自分の心を一転すれば好いのである。

・・・

失敗する者は失敗を心に描いたのである。
しかして多くの人はそれを自覚しないで、失敗が偶然来たかの如く考える。

「誰が失敗を欲するものですか」と言う。

それは例えば、日本の敗戦の如く、「水漬く屍」を心に描きながら
「勝利せんと《欲した》」のと同じである。

いくら《欲して》も、心にその反対のものを描いては、
描いたものの方が形にあらわれるのである。

しかもその《描く》心の作用に、感情的な深い情感をもって描かれたる場合は、
その想念の造構力は著しく強いのである。
例えば「悲壮なる感情をもて、“水漬く屍”を歌う」が如き場合である。

・・・

自己を貧しいと考える限り、その人は貧しいのである。
自己を不運と考える限りその人は不運なのである。

貧しさを心に描きながら富むことは出来ないのである。
不運を心に描きながら幸運であると言うことは出来ないのである。

・・・

すべての本質は「心」である。
「宇宙の心」の中に既にあるのである。
既にあるものを受けるか受けないかは、
既にラジオの放送があるのを聴取するか否かの問題である。

金光教祖が「たのまいでもお陰はやってある」と言われたのは、
神徳(おかげ)の波はラジオの波のように宇宙に既に充満していると言う意味である。

しかも金光教祖は「お陰はわが心にあり」と言われたのはその現象界への実現は、
「心の波長を合わすことにあり」と言う意味である。

・・・

吾々は神の「幸福」の波の放送が、《既にある》ことを自覚しなければならないのである。
それを積極的に信じ、信じ而(しか)して、それに波長を合わす心境になるべくつとめるならば、
何人(なんぴと)も「幸福」になるしか仕方がないのである。






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