もう、死んでしまっても良いと思った。死にたいわけではないが、もうどうにもならない。そう思った瞬間、私は道端に吐いた。 確かに、人通りの少ない夜道であったが、私のような貧乏中年を襲っても金なんか無いのは誰の目にも明らかだったから、よほどのことが無い限りは大丈夫だと思っていた。 しかし、間違いだった。 いつも通り、仕事帰りに安酒屋でいっぱい引っ掛けて帰宅するところであった。 どれくらい歩いたときだろうか、嫌な、もう、そんな言葉では片付けられないほどの悪臭が漂ってきた。 それと同時に、くもぐった感じのような低いうめき声。振り返れば、「それ」はいた。 人の姿をしているが、飛び出た目玉と崩れた顔、くの字に折れ曲がった首。 両手をだらりと突き出して、足を引きずるようにして歩いてくる。 「それ」が、ずるずると私のほうへ寄ってくる。 酒の弱い私は、すでに千鳥足で逃げようにも足がもつれて中々、前に進まない。 転んでは,起き上がり、走ろうともたもたと足を動かしては、転び、ひたすらその繰り返しだった。 その間に、ゆっくりと「それ」は着実に歩を進めてゆく。 「ごめんなさい、助けてください。助けて。」 私は、やっとの思いで乾ききった喉から声を絞り出して、命乞いをしながら逃げ惑った。 それでも、「それ」は表情を変えず歩を進めていく。 小さな、耳障りな、足を引きずる音が、やけに耳にはっきりと聞こえてくる。 きっと、私を食うに違いない。私は、絶対そうだと思った。 色んなことが、急速に頭の中で乱舞しはじめた。なるほど、走馬灯って、そういうことなのだ。そうすると、私はここで、わけの分からない化け物に食い殺されるんだ。 嗚呼、嫌だ。死にたくない。ごめんなさい。生かしてくれたら、生まれ変わって真人間になります。酔っ払って道端に寝ることなんかしません。女の子のお尻も触りません。どうぞ、お願い殺さないでください。 何とか、必死で逃げようとするけれど、そうすると余計に足がもつれてくる。何メートル歩いたか、苦しくて仕方が無い。もう、楽に殺して欲しくなった。どうせ、殺されるなら痛くないようにお願いしますよ。嫌だ、怖いのは嫌だ。 そして、電柱のところで私は抱きつくような姿勢で、吐いた。 私の命は、無情にも、この化け物によって終わらされるんだ。 嗚呼、畳の上で死にたかった。せめて、今の会社正社員にしてもらってから、結婚してから、いや、子供が、いやいやいやいや死ぬのはいやよぉ。 自分の吐しゃ物にまみれながら、私はボロボロと涙が出てくるのが分かった。 そうだ、楽しいことを考えよう。怖くない。それが良い。 楽しいこと、楽しいこと、だめだ。出てこない。もう、出てこない。 そうだ、歌だ。えっと。 僕らは、皆生きている。おけらだって、みみずだって…。嫌だ死にたくない。私だって、生きてるのに。もうちょっと、ましな…。嗚呼、いやだ。 「それ」は、怯える私に無情にも近づいてきている。もう、手が届くくらいに。 嗚呼、殺されるんだ。殺されるんだ。
あれ? しばらく、否、かなり長い時間、うなだれたまま私はへたりこんでいた。 夢だったのかしら。いや、現実だ。酸っぱい臭いが、雄弁に物語っている。 なんなの。なに。 ふと、顔を上げると、電柱によじ登っている「それ」の姿が目に入った。 よく見れば、電柱によじ登って電柱の横にあるアパートのベランダに懸命に手を伸ばしている。何度も空を掴むようなしぐさをしている。 なんなの、なんなの、本当に。 「それ」の手の先には、洗濯物が…。夜の闇でも見まごうことの無い赤いパンティが見えた。次の瞬間、どさっと音がした。 ひいい。私は、小さな叫び声を上げた。私の足元に「それ」が落ちてきた。頭から落ちてきたので、さっきとは違う方向に首が曲がっている。 ひゅうひゅうと「それ」は、喘ぐような声をあげ苦しそうにしている。 何だか、よくわからないけれど、きっとそう望んでいるに違いないと思い、私は「それ」の横に落ちていた真っ赤なパンティを崩れた、その頭にかけてやった。 すると、「それ」は穏やかな目をしたまま、私の目の前で崩れていった。 さらさらと砂のように崩れ、風に流れていった。赤いパンティと共に…。 嗚呼、いろんな人がいるもんだ。 あ、私、生きている。良かった。明日から、もっと一生懸命いきます。真人間になるんだ。そう、朝からラジオ体操もしよう。募金もしよう。 う…。酸っぱい臭いが鼻腔に広がって私はまた、吐いた。 夜は、まだ明けない。お家は、まだまだ遠い。
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