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作品名:彼岸花の咲く野辺で 自由(小説)

もしも、日本にゾンビが湧いたなら。

自衛隊によるゾンビ排除の試みを、淡々と。
自由部門ですが、一応、テーマ絵は意識してみました。

前条 2011年10月10日 (月) 04時06分(56)
 
作品名:彼岸花の咲く野辺で

 ――それは、ただ、『門』と呼ばれていた。
 あるとき唐突に、世界中に忽然として現れた、どこまでも深い闇の穴。



「――班長、どうでした?」

 指揮所から戻った加藤に、待機していた兵たちが群がった。かれらのほとんどは、長きに渡って定員削減を強いられてきた陸上自衛隊が、絶対的な頭数の不足を埋めるために掻き集めた予備自衛官だった。年齢もばらばらで、なかには班長である加藤よりも年嵩のものさえいた。

「有体にいって、良くはないよ」

 そして、この先いったいどうすれば、状況が良くなる見込みがあるのかは、誰にも判らなかった。
 青森の恐山、静岡の青木ヶ原、富山の立山。日本においては、当初、これら三つの『門』から湧き出した死人の洪水は、瞬く間に周辺地域を呑み込んでいった。被害者の正確な数は、永遠に判らないだろうといわれている。犠牲者の死体と、もとから死体であったものたちとの区別がつかないからだ。
 自衛隊と各県の県警は、かれら自身と民間人とに多大な犠牲を払いながらもこれの鎮圧に成功していたが、その努力を嘲笑うかのように、新たな『門』が日本の各地で確認されていた。
 加藤らの属する部隊は、そのひとつ、神奈川県伊勢原市にある日向の『門』を監視する役目を負っていた。
 薬師如来信仰の霊場として著名なこの地は、彼岸花の名所としても知られていたが、それが、加藤らにとって慰めになるはずもなかった。百万本の彼岸花が咲き乱れるなか、ぽかりと浮かぶ昏い闇。まるで、こちらが黄泉の国へと紛れ込んだような不気味な光景だと、加藤は思っていた。

「『声』が聴こえはじめたらしい。数時間以内だな」

 兵たちが、一斉にざわめいた。闇の奥底から響く、数千数万の怨嗟を束ねたような『声』。それが、『門』が開く前触れであるらしいことは、よく知られていた。

「応援は、あるんですか?」

 全員を代表するように、四十過ぎの予備自衛官が口を開いた。

「神奈川県警のSATがくるよ」
「……それだけですか?」
「拳銃だけの一般警官が何人いても、役には立たない。それに、県警は近隣住民の避難誘導で手一杯――確か、吉岡さん、このあたりの」

 年上の部下というのは、やりにくい。ややぎこちなく、加藤は話しかけた。これが本職の自衛官相手なら遠慮も要らないのだが、相手は、年に五日の訓練を受けるだけの、娑婆の人間だった。

「ええ、秦野です。それに、息子が近くの大学に」
「ああ、それは」

 曖昧に、加藤は頷いた。

「厚木飛行場の米軍は、期待出来ますか?」

 別の声が、新たな質問を発した。声の主は、加藤に部下としてつけられた七人のなかでは唯一の常任自衛官、つまるところ『本職の』自衛官だった。透き通ったような声が示すとおり、唯一の女性でもあった。
 本来ならば前線任務にはつけられないはずの女性隊員がこの場にいるのは、予備自衛官まで動員するだけの状況にあって、見栄を張る余裕が陸上自衛隊から失われたことを示す明白な証拠だった。

「あてにするな、西村。連中、真っ先に空母へ逃げたからな」

 応じると、西村は大袈裟に肩を竦めて、首を左右に振った。短く切り揃えられた黒髪が揺れると、周囲の空気が香ったように思われた。無論、気のせいでしかなった。ほかの全員と同じように、西村もまた、四日前から着のみ着のままで任務に就いている。

「つまり、たったの一個中隊でどうにかするしかないと」
「そういうことだ」

 乾いた笑いが、周囲に広がった。神奈川県警のSATを加えても、彼らは二百名にも満たなかった。しかも、そのすべてが一か所に配置されているわけではなかった。
 周辺地域へと抜ける道路を封鎖する県警の機動隊を支援するため、ほぼ一個小隊にあたる人員が抽出されていた。厚木、平塚といった人口密集地が近いことを考えれば、取りこぼしを防ぐための妥当な措置ではあったが、ただでさえ不足している兵力が、更に少なくなることを歓迎する者は一人もいなかった。

「それで……方針は?」

 加藤は、小隊長経由で先ほど伝えられた、中隊の計画を説明した。『門』を見下ろす位置にSATを配置し、一方的に射撃させる。自衛隊は、『門』の真正面から約三百メートルの線に分隊単位で展開。あとは、状況の変化に応じて、臨機応変に。つまるところ、なるようにしかならないという意味だった。

「……先日の北海道のように、遠巻きにして特科の砲撃で叩ければ、楽なんでしょうが」
「マスコミと、いわゆるところの市民団体が大騒ぎしたからな。今回は無理だろう。避難済とはいえ、民家も近いしな」

 西村のぼやきに、加藤は応じた。この国のマスコミは、いついかなる場合でも、自衛隊を敵視する報道を行うことで知られていた。数少ない例外は産経新聞くらいのものだったが、それも、程度の大小というべきかもしれなかった。

「では、どうあっても、私たちが苦労するほかないということですね」
「そうだよ。今更、何を言ってやがる。それが商売だろうが、おまえ」

 そうですね。そう、西村は応じてみせた。たとえ悪し様に罵られようとも、国民のために命を捨てるのが、かれらの在るべき理由だった。



「――これは、なかなか。ぞっとしませんね」

 加藤の傍らで、小銃を構えた西村が呟いた。加藤は彼女に、自分から五メートル以上は離れないようにと命じていた。無論、状況が最悪の段階に至った場合に、自分が時間を稼いで、脱出させようという心積もりからだった。その程度の自己満足は許されてよいはずだと、まったく旧時代的なジェンダー観を抱く男である加藤は、そのように考えていた。
 無論、実際的な必要性もあった。加藤は、唯一の職業自衛官である西村に、自分の分隊に与えられた指向性散弾の起爆装置を委ねていた。タイミングを誤れば分隊が全滅しかねない重要な役目を、腰の座っていない予備自衛官に任せるわけにはいかなかった。恐怖と緊張のあまり、尚早な起爆を行いかねないからだった。

「心楽しく聴ける奴がいたら、連れて来い。俺の妹を嫁にやってもいい」
「班長、以前に、一人っ子だと仰ってませんでしたか?」

 くつくつと、西村が笑った。加藤は笑顔を返したつもりだったが、おそらくは引き攣っていただろう。
 黄泉の底から現世に向かって進撃する、死者たちの軍歌。今やそれが、嵐の夜に唸りをあげる風音のように、ごうごうと絶え間なく響いていた。

 ――おぉぉぉぉぉん、おぉぉぉぉぉん。怨声が、間近に聴こえた。

「――……来るぞ!」

 根拠などなにもなく。生物的な本能が感じ取った危険をそのままに、加藤は部下に警告を発した。
 それは――、たとえるのならば。潮が、満ちるかのように。あるいは、津波が岸に達する瞬間かのように。
 死が、現世へと溢れ出した。
 白骨が見え隠れする腐肉が、いまだ皮膚が残る真新しい死体が、一部が欠損した人間の残骸が、『門』から溢れ出した。個々ではなく、群体となった死そのもの。

 命令は、下すまでもなかった。一斉に響く、銃声の連鎖。加藤自身、死者たちの姿を目にした次の瞬間には、トリガーを引いていた。引き金にかけた指に力を籠めるたび、三発の銃弾が吐き出される。数秒で弾倉が空になり、新たな弾倉を叩き込み、同じように撃ち尽くしたあとで、加藤は己がなすべきことについて、ようやく思い至った。状況の確認、分隊の指揮。それは、加藤自らが小銃を絶え間なく撃ち続けるよりも、重要とされている責務だった。

「はっ、これは……」

 展開される光景をまじまじと目にして、加藤は呆けたような声を洩らした。部下が耳にすれば、指揮官の精神の所在について、不安を覚えるような声だったかもしれない。
 百丁以上の小銃と軽機関銃から放たれる銃弾が、死者たちの先頭に突き刺さる。突き刺さる、だけだった。濁った体液を貫通孔から噴き出しながらも、死体は緩慢に歩き続ける。時折、がくりと動きが止まるものがいるのは、運良く骨にでも当たった衝撃に違いなかった。
 加藤の背筋を凍らせたのは、頭部への命中弾によって、腐った脳漿ごと頭蓋の半分を後方に撒き散らした死骸が、一度おおきく仰け反っただけで、歩みを再開したことだった。
 頭を撃てば、たいていの人間は銃弾一発で死ぬ。が、この敵はもとから死んでいるのだった。死体を殺すには、何発の銃弾が必要なのだろうか。銃で人間を殺すのは簡単でも、人間サイズの肉塊をバラバラにするのは容易ではない。そういうことだった。

「映画あたりでは、頭を潰せば、動かなくなるのが定番ですが……」

 同じ光景を、西村も目にしていたようだった。さすがに、その声は引き攣っている。

「現実は非情だな。まあ、少なくとも、喰い殺される心配だけはなくなるが」

 もっとも、それは単に、死に方が変わるだけのことのように思われた。加藤は、西村に指示を伝えた。ライフルグレネードの使用。発射にはそれなりの練度を要するため、予備自衛官たちには与えられていない装備だった。

「合図をしたら、ど真ん中に叩き込め。先頭は、重機が潰すはずだ」

 加藤が口にしたとおり、中隊が装備する数丁の重機関銃の掃射が、死者たちの前進にストップをかけた。ブローニングの大口径弾を受けた死体は、例外なく、二度とは起き上がらなかった。痛みを感じない死者であっても、上半身の大半をミンチにされては、物理的に動けなくなるようだった。腐った肉を容易に貫通し、数体をまとめて薙ぎ倒す重機関銃のおかげで、彼岸花の紅で染まる山野は、瞬きのうちに、別種の色でどぎつく彩色されていく。
 あちこちで歓声が上がるのを耳にしながら、加藤は、西村に手で発射の合図をした。発射態勢を取っていた西村が、てき弾を放つ。死者たちの中央で破裂音が響いたが、効果のほどは不明だった。死体が多過ぎて、着弾点が確認できないのだった。加藤の目に映ったのは、赤黒い霧と肉片が舞い上がる様子だけだった。

「手持ちのてき弾は、射耗していい。小銃よりかは、効いているはずだ」

 西村は頷くと、次弾の装填にと掛かった。分隊には、軽機関銃の代わりに、十数発のてき弾が与えられていた。それで、五十かそこらの死体は潰せるはずだった。一つの『門』から溢れ出る死者は、少なくとも数千のオーダーだと考えられていた。万に達することも、少なくないとされている。そのなかの、たった五十。その先を考えることを、加藤はやめた。それは、加藤よりも上級の指揮者が考えるべきことだった。

「脚だ、脚! 自信がある奴は、死体の膝を狙え!」

 破壊された死体から漂う、饐えたような悪臭に顔をしかめながら、加藤は小銃を撃ち続ける他の部下へと指示を与えた。素人同然の予備自衛官に、そのような射撃精度を期待するのは無意味ではあったが、胴に穴を空けるだけの射撃よりは、幾らかの効果はあるはずだった。少なくとも、歩けなくなった死体は当面の脅威ではないし、他の死体が踏み潰すかもしれなかった。
 このとき、加藤にとっては意外なことが起こった。部下のひとりが膝射姿勢に切り替えて、幾分か手慣れた様子で狙いを定めていた。単発で発射しているらしき射撃は、三回に一度は、死者の膝を砕いて地面に転ばせていた。加藤を驚かせたのは、その射手が、どこにでもいるサラリーマンに迷彩服を着せたような風貌をした、吉岡であるということだった。

「巧いもんだ、予備二等陸士」
「学生のころ、射撃部でエア・ライフルをやっていました。まあ、勝手は違いますが……」

 加藤は頷き、その調子でやってくれと、吉岡を督励した。もっとも、それは蝗の群れに石を投げて、一匹を潰したと喜ぶ類いの成功かもしれなかった。動く死体の群れは、徐々に徐々にと、加藤らが守る線へと近付いていた。最初、三百メートルあった距離は、今では、その半分以下にと縮まっていた。その間、わずかに十分程度のことだった。
 いかに強力とはいえ、たった数丁の重機関銃だけでは処理が追い付かないのだった。それに、そのうちに銃身が過熱して交換の手間が生じる。時折、どこかの分隊が放つ無反動砲が死者のど真ん中で盛大に血肉を巻き上げるものの、やはり、焼け石に水でしかなかった。一瞬だけぽかりと開いた穴は、直ぐに、別の死者によって埋められる。中隊全体では、既に千以上の死体を無力化しているはずだったが、『門』からの流れは一向に止まる気配はなかった。
 もっとも、一つだけ明るい要素があった。距離が縮まったことで、威力と射撃精度の双方が増して、小銃の射撃でもある程度の阻止効果が認められるようになったのだった。予備自衛官のほとんどは、保管されていた旧式の64式小銃――これは、7.62mm弾を使用しているため、加藤や西村ら本職の自衛官が持つ5.56mm弾を用いる89式小銃よりも高威力だった――を与えられていたから、効果は更に顕著だった。とはいえ、歩く死者の群れとの距離が詰まることを有り難がる人間は、この場には誰ひとりとして存在しなかった。

「班長」

 てき弾を撃ち尽くし、小銃の射撃を続けていた西村が、注意を促すような声を発した。西村がそれだけで済ませたのは、分隊の指揮を任される加藤のような下士官は、兵にとっては神にも等しい存在であるからだった。

「あと五メートル進ませろ。まだ、まだだぞ――……よし、やれ」

 加藤の言葉とともに、西川が起爆を命じる操作を行った。それと同時、設置された複数の指向性散弾の内部で爆薬が発火し、大量の鉄球が広大な空間を埋め尽くした。十数体の死者が跡形もなく吹き飛ばされ、その数倍が手足や頭部を砕かれて、実質的な脅威ではなくなった。同様の光景が、周囲のあちらこちらで展開されていた。結果として、その十数秒のあいだに、中隊は二百を超える死者を無力化することに成功していた。歓声を上げるに足る成果だといえた。
 これと同様のラインは、あと二本が設けられていた。もっとも、その最後の一本に設置された罠を用いることは、自分たちの退却を報せる合図と同義だと、全員が了解していた。そのラインは、展開する各分隊の十メートルほど前方に設定されているのだった。

「西川、おまえ、どうみる」
「せいぜい、あと十分でしょうか」

 その予測は、加藤のものと一致していた。そして、過去、『門』からの死者が三十分以内に収束した例は確認されていなかった。つまるところ、これまでに稼いだ時間とこれから稼げるはずの時間を併せても、かれらが保たせなければいけない時間は最善の予測をするとしても、十分近く足りない計算になる。

「白兵をするなら、もう三十秒ほどは」
「阿呆。まあ……連中、足は遅いからな。後退しながら、対処することになるだろうが」

 その場合、問題となるのは、どうしても取りこぼしが出てくることだった。数百体の単位でばらばらの方向に散っていき、周辺地域を長期に渡って封鎖しなくてはならなくなる。事実、国内では何か所も、そのようになっている地域があった。とはいえ、それ以外の手段を選びようがないことも確かだった。

 ――それから十分のあいだに、加藤とその部下が行った防御射撃はまことに的確なもので、百を超える死体を永遠に動かない肉塊へと変えることに成功していた。もっとも、やはり、加藤と西村が予想したとおりの結果にしかならなかった。

「――手榴弾!」

 三十メートルを切った死者の群れに対して、幾つもの手榴弾が投げ込まれる。腐った血と体液が飛び散って、その一部は防戦に努める自衛隊員のところにまで達していた。実際、嗅覚が麻痺するほどの悪臭が一帯に漂っていたが、かれらに嘔吐をする贅沢は許されていなかった。まったくの眼前、ぐずぐずに腐って溶け崩れた目鼻立ちまで判るほどの近距離で蠢く死人の群れを前にしては、吐き気などを感じている余裕はなかった。
 百余名の隊員が、それぞれの携行する手榴弾を一つ残らず投げ切ったあとには、数百体分の腐った肉と体液とが表土と入り混じった、形容のしがたい汚泥のプールがかれらの前面に広がっていた。
 その、赤黒い泥のなかを躊躇もせず。ずぶりずぶりと腐った足を引き抜き、前に押し出して。死体の群れは、まったく平然と前進を続けていた。加藤もまた、この期にいたっては、自ら戦闘に参加するほかなかった。既に、最後の防衛ラインともいえる指向性散弾の列は、使用されたあとだった。
 ――どこかで、悲鳴が上がった。視線を振れば、その先では、後退のタイミングを誤った分隊が、死者たちに押し包まれていた。
 指揮系統で直上にある小隊長からは、退却に関する何らの指示も達せられていなかったが、死者の洪水に対する堤防は、最早、決壊をはじめていることは、加藤にも理解できた。

「――……よし、全員、下がれ! 銃は捨てるなよ、急げ急げ!!」

 それ以前から逃げ腰になっていた兵たちは、加藤の怒号に従って、一も二もなく逃げ出した。問題が起きたのは、その直後だった。全員の後退を確認してから己も退却しようと考えていた加藤の視線の先で、一人の兵が転んでいた。吉岡だった。二十分近く、膝射の姿勢を取っていたから、痺れてでもいたのかもしれない。いずれにせよ、加藤が取るべき行動は一つしかなかった。立ち上がろうとする吉岡の背後には、三体の死者が迫っていた。
 考えるより先に、加藤の身体は動いていた。銃剣は装着していなかったが、槍のようにして突き出された小銃が、緩慢に動く死者の口蓋にと刺さり、汚れた歯が何本か折れ飛んだ。加藤がトリガーを引くと同時、熟れすぎたヘチマのように弾ける、腐った頭蓋。揺らいだ死骸を、加藤は思い切り、蹴り飛ばした。軍靴の底を通じて、腐敗した柔らかい肉にめり込む感触が伝わったが、いまの加藤に、怖気を感じている贅沢は許されていなかった。
 いま一体の死者に、小銃に残っていた弾を至近から脚部に叩き込んで地面に倒して、その頭蓋を踏み砕く。残る三体目に向かって、弾が切れた小銃を投げつけると、吉岡の腕を掴んで、逃げにかかった。呻くように、吉岡が言った。

「……捨てていってください、足首を捻りました」
「面白い冗談だが、時と場所を選ぶべきだな」

 自衛官として何年もの時間を過ごしてきた加藤にとって、吉岡のような予備自衛官は、結局のところは一般市民の側にある存在だった。つまりは、守るべき対象。もっとも、吉岡が本業の自衛官であっても、同じことではあった。その場合は、上官として、部下である吉岡を救うことが使命であった。
 加藤は愚直にその役割を果たしたが、全能ならざる加藤には、その先にある結果を見通すことは出来なかった。

「ッ――……!!」

 隣接する分隊の後退が早すぎたのか、それとも、加藤が下した退却の判断が遅過ぎたのか。まったくの潰走状態に陥りつつあった中隊のなかで、責任が誰にあったのかは判らない。
 吉岡を引き摺るようにして、歩み寄る死から遠ざかろうとする加藤の前に、ふらりと一体の死骸が滑り込んだ。感情のない、うつろな黒だけを漂わせる眼窩からは、視神経だけで繋がった眼球が、どろりと垂れ下がっている。その、濁った瞳と目が合った。加藤は、生物としての純粋な恐怖に囚われて、瞬間、全身を硬直させた。
 それは、本来であれば、立ち塞がった死骸が、加藤の喉元へと喰らいつくのには、充分過ぎるほどの時間であった。そうならなかったのは、第三者の介入によるものだった。
 
「――班長!!」
 
 棍棒代わりに振るわれた小銃の銃床が、死者の頭蓋を砕いて地面に打ち倒していた。腐った頭皮と髪がこびりついた銃床は、予備自衛官には配備されていない、89式小銃のものだった。加藤が率いる分隊で、その小銃を使用しているのは、加藤自身を除けば一人しかいなかった。

「おまえ、どうして戻ってきた!?」
「……五メートル以上離れるなと命じたのは、班長です!」
「っ、の、阿呆が!!」

 そのあいだにも、西川が殴り倒した死体は、割れた後頭部からどどめ色の脳漿をとろとろと垂らしながら、ゆっくりと起き上がろうとしていた。前方には、それ以外の死体が何体も、現れていた。
 無論、加藤も西川も、よく訓練された自衛官であったから、この状況下で口論を続けるような愚行は選ばなかった。緩慢に地面に手をついた死体の、その体重を支えていた腕を、西川は容赦なく蹴り飛ばした。ぽきりと骨が折れる音が鳴って、死体が地面に崩れ落ちる。西川はその背に思い切り踵を落として背骨を砕いてから、新たな死体へ向けて、小銃を構えた。
 その間、加藤は引き摺っていた吉岡を改めて助け起こし、肩を貸すような格好をとっていた。前方を塞ぐ死体や、後方から迫る死体が、小銃の発射音が響くたびに膝を砕かれ、地面に崩れ落ちた。西川の的確な射撃は何回か続いたが、直ぐに途絶えた。西川が携行する弾薬が、尽きたのだった。

「西川陸士長、これを……!」

 加藤が残していた弾倉に気付いたらしき吉岡が、それを西川へと差し出していた。計四本。それが気休めにしか過ぎないことは、三人とも明確に理解していた。それでも、間近で銃声が響いているあいだは、少なくとも恐怖が薄れるという効果だけはあった。それも、三本目の弾倉が尽きたあと、西川が最後の一本を小銃に叩き込む音が響くまでだった。

「……班長。三発、弾を残しておくべきでしょうか?」

 微かに震えた声で、西川が、どこまでも透き通った笑みを浮かべた。加藤と吉岡は、西川が示唆していることを理解できないほど、愚鈍ではなかった。

「……陸士長、銃を私に。班長と陸士長だけなら、逃げ切れます」

 正確に表現するならば、逃げ切れる確率が幾らか上がる、というべきだった。いずれにせよ、加藤は首を横に振っていた。部下を、それもほとんど民間人と変わらないような予備自衛官を犠牲にして生き延びるなどということは、論外であった。
 事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、以って国民の負託にこたえる――かつて加藤は、自衛官となるための儀式として、そのような誓いを国家に捧げていた。

「残念だが、その提案は認められない。息子がいると言っていたからな」
「……息子はもう一人前です、私がいなくとも――」
「――黙れ、予備二等陸士!!」

 下士官たるものかくあるべしという一喝で吉岡を沈黙させると、加藤は、西川の小銃を有無を言わさずに奪い取った。あまりの早業に、西川は、ほとんど反応できなかった。

「西川陸士長!」
「はいっ!」

 反射的に背筋を伸ばした西川に、加藤は命令を告げた。その内容は、明確かつ単純なものだった。

「吉岡予備二等陸士を連れて、全力で逃げろ。俺が掩護する。何があっても足は止めるな」

「……意見具申、宜しいでしょうか!」
「五秒以内ならな」

 最後の弾倉が空になったあとに備えて着剣しながら、加藤は応じた。銃剣で斬った刺したの程度で、死者をどうこうできるとは到底思えなかったが、少なくとも、幾分かは得物の長さが伸びることにはなる。

「吉岡予備二等陸士を運ぶなら、体力面で、班長がより適任かと思われます。掩護は、私が」
「阿呆。こういうのは、男の役割と相場が決まってるんだよ。おまえ、俺を、女を犠牲にして生き延びた屑と呼ばせたいのか?」

 西川の顔が、かっと染まった。このような任務に就いた女性自衛官が、この期に及んで守るべき対象として扱われることを、喜ぶはずはなかった。無論、加藤としてもそれは承知の上であったが、それ以外の言葉を考える余裕もなかった。
 新たに西川がなにか言葉を紡ぐ前に、加藤はトリガーを絞った。西川と吉岡が抜けるべき退路、それを塞いでいた死者たちのうち、数体が足を砕かれて崩れ落ちた。新たな死体が横合いから現れるまでの数秒だけ、道が開いていた。

「行け、兵隊ッ! 走れ走れ走れ!!」

 加藤は声を張った。兵隊が逆らうことなど許されない、下士官による神の声。弾かれたように、西川と吉岡が動いた。二人が最初にとった行動は、しかし、加藤への敬礼だった。
 ほんの数瞬、けれども完璧な敬礼を捧げたあとで、二人は加藤が命じたとおりに駆けだした。西川に支えられた吉岡も、捻った側の足さえ使って、必死に進む。
 狙いを定めた加藤の射撃が、二人の行く手に歩み出ようとした死体を、正確に撃ち砕いた。それで、弾薬は終わりだった。西川たちがどうにか擦り抜けていったらしいことを確認すると、加藤は、振り向きざまに銃剣を振るった。今まさに加藤に掴みかかろうとしていた死体の指が、四本、宙にと舞った。



 神奈川県伊勢原市日向における『門』が開いた際の被害は、遺体が回収されたものだけで、自衛隊員二十六名と警察官四名となっていた。封鎖された地域内に逃げ散ったか、跡形もなく喰らい尽されたかしたのであろう行方不明者は、その倍に上る。なお、回収された遺体のなかに、加藤という名の下士官のものは含まれていなかった。
 
 ――彼岸花が咲き乱れる、紅い野辺。あてどなく彷徨う、一つの影があった。それが生者であるか死者であるかを知る術は、なにもない。

前条 2011年10月10日 (月) 04時08分(57)
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