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『神想観』 は自力か他力か  (115)
日時:2014年06月10日 (火) 00時13分
名前:天国浄土



『神想観』 は自力か他力か

  生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師



 私は神想観をして救われる、神想観をしないと救われぬと云っているのではないのであります。


 生長の家本来の教によると、人間は悟っても悟らないでも、神想観をしてもしないでも、本来人間は神の子であるから、救われて‘いる’と云っているのであります。

 人間は本来神の子であり、仏の子でありますから、どうしないでも其侭で救われている ―― これが実相であります。

 併し現象は心の波の相にあらわれるのであります。 神の子であり、仏の子であっても、現象にその立派な円満完全な相があらわれるためには、心の波を調整しなければなりません。

 心の波を調整するためには、深く祈ることが必要であります。 神想観と云うのは一種の自力的坐禅行にも観えるかもしれませんが、実は祈りの行事であります。


 人間は神の子である ―― 斯う自覚しても深く祈らなければ、その自覚が現象界に永続してあらわれない。 無論、神は祈ったから我々に 「生命を幸え」 たまい、祈らなかったら 「生命を幸え賜わない」 と云う訳ではない。

 祈りは其の事実を自分の潜在意識に深く印象せしめ、神に和解していなかった吾が潜在意識をして神に和解せしめ調和せしめる働きをするのであります。

 その結果、既に神に生かされている実相の円満さが現象界にあらわれて来、現象界の生活も整うて来ることになるのであります。

 神想観は坐禅的行事であるがたしかに祈りである。 その招神歌の第1首にある  「生きとし生けるものを生かし給える御祖神、元津霊ゆ幸え給え」  と云う歌は、ただ、それを歌のつもりで朗誦しているのでは可けない。

 「生きとし生けるものを生かし給える御親神さま、どうぞあなた様の大本源のみたまから生命を先延えて下さいませ。 そして此処に生きている生命がまったく貴方様の生命の延長であることを知らして下さいませ」  ―― と切実に祈る事が必要であります。

 そうすると、第2首の歌、第3首の歌の、 わが生くるはわが力ならず天地を貫きて生くる御親神の生命であり、わが業はわが為すに非ず天地を貫きて生くる御親神のお力である ことが深い心境の奥底から判って来るのであります。

 これは真宗のお念仏とおなじことだと思います。

 真宗でも 南無阿弥陀仏 と唱えれば救われると云いますが、それはそれをただ呪文だと思って心の表面で称えれば好いと云うのではない、やはり雑行雑修の心を振り捨てて、ただ ‘一向専心’、 南無阿弥陀仏 と唱名せよと云います。

 南無とは帰命と云うこと、自己の命を仏の命の中に投げ入れてまったく一体になること、即ち 

「わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる御親の命」 が、此処に生きているのだ、その無量壽の命、その無礙光の智慧が此処に生きているのだと自覚する。 その祈りが念仏である。

 真宗では祈りと云わずに念仏と云うが、念ずると祈るとは、語源は同じであります。


 祈るとは 「‘い’のち宣‘る’」 の略語で 「帰命宣言」 であり、 「此処に仏の生命が、此処に神の生命が、生きている」 と云う仏我一体、神我一体の自覚を喚び起すところの言葉の力が祈りであり、念仏であります。

 人間の生命は本来神の生命の延長であって、完全円満であるから、どうしないでも其侭で救われているのが人間の実相である。 一切衆生悉有仏性である。


 これは 「一切衆生悉く仏性あり」 と読んではならない。



 一切衆生悉有〈しつう〉仏性 と 道元禅師のように読まなければならない。 悉有 〈しつう〉 とは 「有るもの皆」 である。 苟も ‘あるもの’ は悉く仏性である。 仏性のみがあるのである。

 だから悟ろうが悟るまいが、はからい心を捨てようが、捨て得なかろうが、人間はそのまま救われている。

 そのまま神の子であり、仏子であり、救われているのならば神想観する必要はないではないか、坐禅する必要はないではないか、念仏する必要はないではないか、祈る必要はないではないかと云う人があるかも知れぬ。

 そうではない。 そのまま神の子であり、仏子であるからこそ、神の子を行じ、仏の子が仏の子を行ずることになる。 道元禅師はこれを 「行仏威儀」 と云っておられる。

 その行仏が神想観であり、行仏すれば自然に懈怠の心も起らず、頓得のさとりを永久に生活の上に持続することが出来るのであります。 神想観は自力か他力かと云う問題になりますと、行仏は自力か他力かと云う問題になってまいります。 


自分のいのちではない、仏のいのちであると云うことがわかって、仏自身が仏のいのちを行ずるのであるならば、坐禅をしても、神想観をしても、それはもう自力ではないと云うことになります。

                            『幸福生活論』 より 




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