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生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)

このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。 生長の家に関連する話題なら、上記に話題に限定しないで、広く受け付けます。 またどの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え を支持、共鳴する人のためにサイトです。 生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など 明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。 ご理解下さい。

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生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

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川合清丸の世界 (2769)
日時:2021年03月24日 (水) 20時34分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門)



    『三千大世界』

世界は何ぞ一地球のみならむや。其の數の無量にして其の廣さの無邊なること、譬へ申さむ語も無し。されば佛世尊は、三千大千世界とも恒河沙無數の世界とも説き給へり。さて其の世界は何處にあるかと云ふに、晴れたる夜に、空打仰ぎて眺め遣れば、實に無數の星辰を見む。更に千里鏡を懸けて見渡せば、初め肉眼にては見えざりし多くの星を看出さむ。又更に燕Iなる大千里鏡を懸けて看渡せば、初めの眼鏡には映り来らざりし多くの星を看出さむ。而して此の夥しき星辰は、是れ一の世界なれば、此の世界の無量なること、實に恒河沙無數なるを知らむ。

斯く無數の世界はあれども、此の世界は過去世界にして、未だ生れ来ぬ魂の寄留する世界なり。彼の世界は未来世界にして既に死したる亡者の落着く世界なりとて、其の世界が個々別々在るには非ず。いずれの世界にも生るるもの有れば、住するもの有り。病めるもの有れば、死するもの有りて、直に過現未の三世を具へ、さて其の生るるものには、安樂あり、苦腦あり、瞋恚貪愛ありて、直に六趣を具ふること、特に此の地球世界と少しも異なること無し。是れ衆生世界の通義なればなり。

併しなながら、斯く無量無數の世界の中には、彼れと此れと比較すれば、苦世界もあり。樂世界もあり。長壽界もあれば、短命界もありて、生るる衆生のsソは、嘸や淺深厚薄有らむ。又同じ一世界の中にても、處に因りては、熱國あり寒國あり。沃土あり瘠土ありて、住する衆生の果報は、定めて千差萬別ならむ。

さて此の心は三千大世界を包みて遠しとせず。恒河沙無數の世界を攝めて多しとせず。卽ち宇宙の内六合の外に貫徹せるものなれば、因緣の熟する所。~機の發する所。いづれの世界にか生を受けざらむ。いづれの國土にか身を託せざらむ。されば此の世界より彼の世界に出づること、此の家より隣家に往くが如く、彼の國土より此の國土に入ること、隣室より此の室に来るが如けむ。

然らば即ち天上に未だ極樂淨土無しと云ふべからず。地下に豈那落世界無しと云ふべけむや。されども之を要するに、極樂には極樂に於ての三世あり。sソ盡くれば又他趣に入る。那洛には那洛に於ての六道あり。罪惡盡くれば、又他道に升る。されは四聖界(佛界、菩薩界、緣覺界、聲聞界)を除くの外は三世輪廻の業、六道流轉の報を免がるること能はざること、衆生界の通義にして、心世界の有様なれば、此の道理を能々看破して、難行易行いづれにても、出離解脱の妙道を欣求せられよがし。


川合清丸の世界、造化の三神の名に因みて (2770)
日時:2021年03月24日 (水) 20時37分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門)


天みづから天とは言はず。之を天と名づけしは即ち人なり。土みづから土とは言はず。之を土と名付けしは即ち人なり。高天原もみづから、高天原とは言はず。之を高天原と名づけしものは、即ち人なり。豊葦原の瑞穂の國もみづから豊葦原の瑞穂の國とは言はず。之を豊葦原の瑞穂の國と名づけしものは、即ち人なり。

天之御中主神も、御自ら天之御中主神とは名乗り給はず。之を天之御中主神と称し奉るものは、即ち人なり。皇産霊神も、これを御自ら皇産霊神とは名乗り給はず。皇産霊神と称し奉る者は即ち人なり。・・・ 略 ・・・そもそも天と云ふも、國と云ふも、亦斯心の境界なり。神と云ひ人と云ふも、亦斯心の階級なり。

人の眼より見るときは、天地世界は皆人道にして、一切萬物孰れか人為の外に出でむや。若し神の御眼より見給ふときは、天地世界は皆高天原にして、一萬物孰れが神明にましまさざらむ。
故に曰く山には山の神あり。川には川の神あり。國には國魂神あり。海には海若神あり。草には草の神あり。木には木の神あり。土には土の神。水には水の神。火に火の神。風に風の神あり。謂はゆる八百萬神ありて、以て晝夜に守護し給ふと、豈尊きことならずや。

若し佛の御眼より見給ふ時は、天地世界はみな寂光淨土にして、一切萬物孰れか佛陀にましまさざらむ。故に曰く、一々の世界に、一々の佛あり。一々の佛に、千萬無量の分身ありて、以て不祥を呵禁し給ふと、豈有り難きことならずや。果たして茲に至りなば、神と云はむも亦可なり。佛と云はむも亦可なり。高天原と云はむも好し。寂光淨土と云はむも好し。何の爭ふ事かあらむ。

唯凡夫の分劑に在りて、妄想の分別を起し、天然とか人為とか云ふ邪見を振り立てて、世を惑わし、人を謬らせむことは、善からぬ業なり。神道黒住派の教祖、宗忠翁の諭されたる道歌の中に
『神と云ひ佛と云ふも天地の誠の中に住める活物』また
『心とは外にはあらず天地の有無を離れし中の活物』また
『有無の山生死の海を越えぬればここぞ極楽世界なりける』と。

川合清丸の眼に映じた明治の世、明治の御代にして「腐敗の極點」 (2771)
日時:2021年03月24日 (水) 20時39分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



王法政論經講義より

我が國近年の狀態たる、表面にては元勲元老の輩が老練の心力を盡して政治も改まり國會も開かれて、文明の制度に一の缼典は無い。又他の一面にては博士學士の徒が學得の智力を揮って、教育も進み、民法も布かれて、開化の文物に一の遺漏も無い。要を採って云はば明治一代の智慧袋を、政治法律教育等に絞り盡して、亦少しの遺憾も無い。

然るに國家實際の狀態はどうで有る乎。智慧袋を絞れば絞るほど、文明を進むれば進むるほど、教育を盛んにすればするほど、世道は廃れ、徳義は壊れ、政事は腐敗し、人心は墮落して、王道も行はれねば王法も立たぬ。今や殆ど腐敗の極點に達せむとして居る。

嗚呼明治五七年の頃までは、誰が目で見ても、我が國は大いに頼もしい、將來に望みある國家で有ったが三十四年の今日となっては、年々に頼み少なく、歳々に心細く成って来て、今はいかなる欲目で見ても、最早頼もしい國家とはどうしても見えぬ。直言すれば今の國家は、年々歳々に亂と亡とに進み行つつ在る。

是はまあ何の故であらうぞ。是れ全く我が國の治具治體を打破して、外國の文物制度を植え付けた所為である。換言すれば東洋の文明を排斥して、西洋の開化を買ひ込むだ結果である。猶譬へを人身に取って申さば、其の人の持って生まれた身内の元気を、無茶苦茶に傷損して、身外の興奮剤を滅多矢鱈に呑み込むだ其の中毒である。然るに其の中毒と云ふ事に気付かずして、又々近々に歐米に向かって、その興奮剤を買い足しに行く元老が有ると云ふ噂である。


『佛教と耶蘇教との同異』 川合清丸 「佛道本義」より (2772)
日時:2021年03月24日 (水) 20時40分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


佛教の外教に於ける、外見の似たる所も稀にはあれど、其の内實は全く雲泥の相違あり。佛家の常談に曰く、「心外に法を求むる之を外道と名づく(漢文につき読み下す)」と。されば佛教にては、天道を説くも、地獄を説くも、人間、修羅、餓鬼、畜生を説くも、乃至三界(欲界、色界、無色界)四聖界(佛界、菩薩界、聲聞界、緣覺界)を説くも、悉く皆心内の沙汰なり。

一念これを外界に求むれば卽ち外道なり。但し此の心内心外と云ふ心は、凡夫の思ふ所の心とは、餘程調子の違ひたるものにて、佛法多般なりと雖も、畢竟この心を看破するに在り。此の心を看破すれば直に卽ち佛なり。卽心卽佛と云ひ、是心是佛と云ふは是れなり。併し此事は餘り高尚に渉るが故に、後に廻して、今は佛教と外教との異同を辯ぜむ。

其は外教の天帝と云ひ天国と云ふは、謂はゆる心外に法を求むるものにして、卽前章に説き明かしたる攀緣心なり。斯心にて天帝と云ふもの、天国と云ふものを思い造りて、其の思い造りたる天帝天国に、攀ぢさばり、頼みすがりて、紛れ死に死なんと欲するものなり。かるが故に其の知識が少しく進むか、思想が少しく動くかすれば、直に其の天帝にも、天国にも響きが入りて、忽ち不安心を生ず。

昔小判を一枚所持せるもの有り。嬉しさの餘りに、出しては見、見ては仕廻ひて、悦び居りしが、しげしげの出し入れに、小判の縁が少しく磨れて、眞鍮色を呈せるより、始めて疑心を生ぜしかども、よもやと思ひて頼みたりしが、何分にも半信半疑に、安んずること能はず。两替屋に持ち行きたり。两替屋は一見して打笑ひ、是は眞鍮の地金に鍍金をしたるものなりと言ひければ、彼の人大いに驚き傷みて、終に發狂したりと云ふ。

己れの智慧分別は、凡夫の地金の儘に据ゑ置き、表邊に天帝天国の金鍍金を着せかけて、長の一代通用し、お負けに最後の關門を越さむとは不安心の至りにて、一度は必ず發狂の時節あるべし。

余は两替屋の番頭なるが故に、屢々此般の客に接したり。
高天原を向ふに拵へ置て、安心したりし先生が、僅か三巻の『博物新編』にて、其の高天原が脆くも既に打破れ、半狂の體にて余が店に来りし故に余は眞正の高天原に、針路を向けて指南せしが、遂々學問智識の進むに随ひて、益々堅固に立命せり。

西方の極楽浄土を、十分引當にしたりし居士が、僅か一部の『氣海觀瀾』にて、浄土がぐらりと壊れかけ、夜の目も合はぬとて、深更に来りし故に、余は正眞の浄土を案内して、其の後もしばしば指示せしが、今は立派に彌陀の浄土に安坐せり。

天国に厳しく攀緣して慥かに安心したりし書生が、一派の地質学にて、随分固かりし天国が動き出し、お負けに天帝までが幽霊の如くぽつりとしたりとて、己も幽霊の如く振ひ来りし故に、余は愍然に思ひて、眞の天国と眞の天帝とを指示したりしが、さすがに學者だけありて、三四度の道しるべにて、歩を正路の岐に向け、今は安心の地位に立てり。

两替え屋の店にては、斯くの如きの類擧げて數ふべからず。之を要するに、高天原にても、極樂にても、天国にても響きのいりし時が、謂はゆる中有の衆生にて、半信半疑の頼み綱の切れ果たる時が、直に地獄の衆生なり。何ぞ末日の審判と斷末の苦悩とを待たむや。

『佛教と耶蘇教との同異』 川合清丸 「佛道本義」よりA (2773)
日時:2021年03月24日 (水) 20時45分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


かかる譯合ひなるが故に、佛法にては、善にあれ惡にあれ、地獄にあれ極楽にあれ、乃至佛菩薩にあれ、一切の攀緣心を悉く奪ひ揚げ、前際後際を立派に截斷して、自己本心の中點より十方世界に大光明を放ち、其の光明の光にて四聖三界、天道、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄の世界を、一々分明に照らし出し、其の内外に心任に游戯するを、佛法の所詮とす。

前の譬へに當てて申さば、心の心底より純金になり切るがゆゑに、世界萬國に通用は勿論、假令水に入るとも、火に入るとも、蹈鞴に掛けて鎔し出すとも、其の性質分量に一分一厘の變遷なし。是でこそ安心氣樂の境界とは言ふべけれ。

併しながら佛法には、二種の修行の仕方ありて、一を自力門と云ひ、二を他力門と云ふ、其の自力門の修行は大略上の如くなるが、是は難行道と申して、或る機類の人には、行ひ難き法門なりとて、佛の大慈大悲を以て、別に易行道と云ふ、行ひ易き法門を開かれたり。是れ即ち他力門なり。

他力とは自己の力を當てにせず。唯阿彌陀佛の願力に依りすがり、謂はゆる弘誓の船に乗り任せて、彌陀の浄土に往生するの修行なり。是他なし。彌陀一佛に、一心不乱に攀緣せしめ、此の攀緣力によりて、他の一切の攀緣心を奪揚げ、其の拍子に、我取て之に代らしむる教へ方なり。果して我取て之に代れば、十萬億土も此を去ること遠からず。阿彌陀佛も強ち餘所には坐まさじ。之を己身の彌陀、唯心の浄土とは謂ふぞかし。

生意気の者は難行道をば、極めて高尚なる陽に思ひ、易行道は、無下に卑劣なるやうに思へども、余が見る所に據れば、難行道の行者は、經文戒法に攀緣し、或は古則公案とか云ふ古人の言句に攀緣し、噛むことも呑むこともならぬ拍子に、攀緣心を截斷せられて、成佛するものなれば、易行道の行者の阿彌陀佛に攀緣して、其の功力によりて成佛すると、少しも異なること無かるべし。

外教の天帝、天国に攀緣するは、之に似て大に違へり。外教にては、己れ天帝に成ること能わず。此の土を天国に化すること能わず。謂はゆる心外に法を求めて、其の求めたる法に、攀緣し通しに、いつまでも突張切るものなり。

若し攀緣心の切るる事あれば、直に地獄に堕落する日なり。佛法の佛に攀緣し、経文戒法言句等に攀緣するは、全く修行中の事にて、其の攀緣心の截斷する時節は、直に成佛の時節なり。故に曰く、佛教の外教に於ける、外見の似たる所も稀にはあれど、其の内實は全く雲泥の相違ありと。請ふ子、金着せの小判を磨れぬやうに秘藏せむよりは、思ふ儘に通用したる揚句の果てには潰しに掛けても毫釐も價格の變ぜざる純金の小判を秘藏せむこそ善からめ。

生長の家の本尊は観世音菩薩なりと云われる、その般若心経の五蘊皆空について (2774)
日時:2021年03月24日 (水) 20時47分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



空桶の底ならば、外より打ち抜く手段も有るべけれども、内一ぱいに詰め込みたる桶の底は、外より打ち抜く手段なし。是は唯子が十分の力を用ひて、内より外に張り出す拍子に、打ち破るの一手段有るのみ。全體佛法の修行は、一々みな実践実行にて、自己の中心より、四方八面に破裂する余勢にて、山河大地も、十方虚空も、一時に打破するに非ざれば、如何なる名僧智識にても、外より手伝ふことは相成らじ。

外より手伝ふやうに見ゆるは、唯その因縁を與ふるまでの事のみ。其の代りには因縁既に熟して、破裂せむとするトキに当りては、如何なる物の力といへども、これを遮り留むること能はざること、恰も或る人が細君の初産に、産婆が來るまで我慢して待てよと、云ふをも聞かせず。待たれぬと云ふ言とともに、産み出ししがごとし。手際なるものなり。子も必ず其の積りにて、常に恒に工夫三昧に住しつつ、五臓六腑の中心より打ち破り給ふべし。

併し其れ等の因縁を與ふるには、五蘊皆空と云ふ法門あれば、今日よりこれを示さむ。
五蘊とは色、受、想、行、識の五つ是にして『蘊』とは聚め蓄へる義なり。そもそも色、受、想、行、識の五つは、自性の光、法身の働きにて、本来空なるものなるを、一念無明の薫習より、此の五つを聚め蓄へて、己と思ひ、人と思ひ、天地と思ひ、萬物と思ひて、種々様々の煩悩妄想をば起こすなり。佛が楞厳經に、一切の衆生、無始よりこのかた、己に迷ひて物となし。本心を失ひて、物の為に転ぜらると。説き給へるは是れなり。

さて此の五蘊は、五つの薫習の凝り塊りにて(分析して五つと科別けすれど、其の實は此の身と心との事なり。前の色は身なり。後の受、想、行、識は心なり。斯く身と云ひ心と云ふも、猶分析の法にて、くるめて言わば、唯一つの迷ひなり)能々解剖して見れば、唯何も無し。これを五蘊皆空と云ふ。五蘊皆空の当体を直下に徹見する時が子の謂はゆる桶の底を打ち抜きたる時にて、『賤の男がいただく桶の底ぬけて、水たまらねば月も宿らじ』と読みし如く、廓然洞然として、一切の煩悩妄想の宿るべき溜まりなし。

之を心経に『五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す』と説き給へり。実に実にその通りなり。
(旧漢字は変換に時間がかかりますので新漢字で変換します)

五蘊の内『色蘊』 (2775)
日時:2021年03月24日 (水) 20時50分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



ず第一に色蘊とは、お互いの此の身より、山河大地、禽獣蟲魚、草木菌苔まで、苟も形あるほどの物は、皆この『色』なり、『色』は何を聚めて成れるものぞと云ふに、地水火風の四大を聚め先て成り立ちたり。四大とは堅まれる物を地大と云ひ、濕へるものを水大と云ひ、煖かなる物を火大と云ひ、動けるものを風大と云ふ。

余は此の四大を、お互いの此の身にあてて説きたる事あり。
『佛法にては、有情非情の一切衆生を、地水火風の四大の和合して現れたるものとせり。その証拠は、地大は堅まれる相。水大は濕へる相。火大は煖かなる相。風大は動ける相なるがゆえに、一切衆生の身のかたまりは地なり。濕ひは水なり。煖まりは火なり。息は風なり。

この四大が假に和合するを生まると云ひ、四大が姑く分離するを死すと云ふ。なるほど死する時は、息は元の風大に帰りて、再び通ぜず。煖まりは元の火大に帰りて、惣身冷えきり、濕ひは元の水大に帰りて、五體乾きあがる。それより焼くか埋むるかすれば、元の地大に帰りて、滓も無くなる。是れ四大和合の證なり。

猶云はば、身は土にて出来たるものゆゑに穀物采蔬などの、土の塩。を入れては出し、出しては入れして、地大と始終通ひどほしなり。水もその通り、湯茶汁酒を、呑みては放り、放りては呑みして、水大といつも通ひどほしなり。火もその通り、外の煖気が内に入りて、内の煖気を外に排出(おしいだ)し、出しては入り、入りては出しして、火大と常に通ひどほしなり。風大もその通り、吸ひては吐き、吐きては吸ひして、風大と即今通ひどほしなり。此の子細を、念を入れて観ずれば、お互いの衆生は、時々刻々刹那刹那に、四大と循環して、新陳交代し、内外往来して、一秒時間の止み間なく、終には、内の四大の、外の四大のと云ふ差別が立たなくなりて仕廻ふ。面白き事なり。

それが唯お互いの衆生のみならず、三世の諸佛も、歴代の祖師も、水中の衆生も、尊きも卑しきも、賢きも愚かなるも、大も小も強も弱も、みな同様の事にて、謂はゆる一體平等の姿なり。そもそも此の四大は、本来法界に徧満したる法性の、其の儘現れ出たる妙體なれば、凡眼には、尊卑賢愚大小強弱などの、差別あるが如く見ゆれども、本體は更に差別も、区別もなく、そのまま本来の面目、平等の妙體なり。此の妙體を、確かに見認(みと)むる時は、四大が假に和合して、現れ来たればとて、無かりし物の生ずるにもあらず。四大が姑く分離して、隠れ去りしとて、有りしものの滅するにもあらず。是はただ暫時縁に随ひて、動いて居るまでの事にて、本来の妙體は、去来もなく、増減もなく、常住不滅なることがハッキリ解かる云々』と。

是れ四大が色相を成して居る所以の解釈なり。此の色相の凝りが謂はゆる色蘊にて、此の色蘊を、吾が身と思ひ詰めたるがユエに、生まれもせぬに、生まれたりとて歓び踊り、死にもせぬに、死せりとて悲しみ叫び、一生涯此の凝りに使ひ廻はされて、多くは地獄の滓となること、實に歎かはしき事の限りなり。全體此の凝りは斯の心の薫習すなはち迷ひにて、鐚一文の價値(あたひ)も有るものに非ざれば、須らく此の凝りを解き、此の塊を砕きて、斯の心の妙用すなはち法身の動きに同ずべし。
これを色蘊を打破すすとは云ふなり。

余が友人、高島嘉右衛門氏の内室は、或る日佛法の女教師に、此の四大假和合の話を、一心に聴聞したりしが、卒然その座に絶倒したりき。其の時教師、あたりを制して曰く、此れは四大仮和合の此の身を、これまでは眞の吾が身なりと、一所懸命に頼み切りて居られしに、只今の法話にて、其の頼み綱が切れ果てたる故かかる変動を起こししものなり。是れ謂はゆる色蘊の破れたる吉兆にて、かかる事は修行中に度度有る事なれば、決して驚くべからずとて、水など面に湔(そそ)ぎて、笑ひつつ在りけるほどに、良(やや)ありて起きあがり、邊りを見廻して、カラカラと大笑して止みぬ。果たして此の色蘊の凝りが解けしものと見えて、爾来娑婆の惡が抜け、心が一段気楽に成りしゆえに、境界も何と無くうきうきとして、それより夫に仕へ、客に對する等百般の振る舞に、一々応用せられたり。是は近年の事實にて、余が直に承りたる、有りがたき話なり。

五蘊の二 『受蘊』の一 (2776)
日時:2021年03月24日 (水) 20時52分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



五蘊の二 『受蘊』

受蘊とは第一の色蘊即ち我にもあらぬ四大の塊に、一切の外物を受け納(い)れて、造り付けたる癖なり。いかに受け納るるぞとならば、眼には種々の色を受けいれ。耳には種々の聲を受けいれ。鼻には種々の香りを受けいれ。舌には種々の味を受けいれ。身には種々の触を受けいれて、嬉しいとか、悲しいとか、好きとか、嫌いとか云ふ官寺を起こして、一度一度に本来の心性に薫染して、垢を着け癖を着けつつ、積み蓄ふるなり。之を受蘊と云ふ。

さらば古人は此の受蘊を分析して、苦、楽、捨の三つに差別せられたり。其れは上に説く所の、眼耳鼻舌身の五つに、己が嫌いなる事を受け納るるを苦受と云ふ。苦受とは、苦しき受け身といふ意なり。眼耳鼻舌身意の五つに、己が好きなる事を受け納るるを楽受と云ふ。楽受とは、楽しき受け身といふ意なり。又眼耳鼻舌身意の五つに楽しくもなく苦しくもなく、譬ば人の顔を見るが如く、隣の話を聞くが如く、口に任せて言うが如く、足のまにまに歩むが如く、何とも無きを捨受と云ふ。捨受とは頓着なき受け身と云ふ意なり。

さて茲にお互いの衆生は、此の苦受楽受の二つに迷ひて、苦しきことは目に見まじ。耳に聞くまじ。鼻に嗅ぐまじ。舌に味ふまじ。身に触れまじと忌厭ひ、楽しき事は目に見たし。耳に聞きたし。鼻に嗅ぎたし。舌に味いたし。身に触れたしと欣(ねが)い求む。是れ迷ひの凡夫の境界なり。

さて此の見まじのまじと、聞きたしのたしとが、少しく進むと、人も見たしと思ふものを奪いて己れ之を見たしと思ひ、人も聞きたしと思ふものを掠(かす)めて、己れ之を聞きたしと思ふなり。此の邪念が増長して、殺生を致し、偸盗(ぬすみ)を致し、邪淫を致し、妄語を致し、悪口两舌を為し、貪欲瞋恚を起こして、世を妨げ、国を害い、人をも悩まし、身をも苦しめて、日々夜夜に墮獄の業をば造るなり。之を迷ひに迷ひを重ねたる衆生と云ふ。




五蘊の二『受蘊』の二 (2777)
日時:2021年03月24日 (水) 20時54分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


つらつら惟(おもんみ)れば、修羅の闘争も、餓鬼の飢渇も、畜生の呑噬(どんぜい)も、地獄の呵責も、一つとして此の受蘊の迷ひより起こらざるはなし。終(つづ)めて言わば唯一滴の甘き楽しみを求めむ。と思ふ心が、終には萬劫の辛き苦しみを受くる身とは成れるなり。誠に浅間しき迷ひならずや。されば佛も一切の衆生は、苦の初めを楽しむと説きて、此の有様を嘆き給い、古人も求めあるは苦なりと云ひて、此の事を誡め置かれ、或は此の有様を夏の蟲の火に入るに譬へ、淵の魚の餌を貪るに比(なぞ)らえたり。心あらむものは、首を傾けて能く考え見よ。

本来世の中に、苦といふ物体や、楽と云ふ物柄、定まりてあるにはあらず。さて其の有りもせぬものを、苦と思ひ、楽と思ふは、畢竟お互いの衆生が、生々世々に造り付けたる受蘊なるが故に一口に言わば、心の癖なり。その證據には此の受蘊てふ心の癖を取り除けて見よ。一切の物に好きもなく嫌いもなく、苦もなく楽も無くして、即今天下泰平なり。

むかし小野小町が雨乞いせむとて、神泉苑に歩を廻らしし時、京都市中の人々は、目迎えて魂を褫(うば)はれ、目送りて心を蕩(とら)かししかども、神泉苑の中に到れば、庭内に遊び囀れる鳥どもは、小町が姿を見て、嫌いて逃げ込みしとぞ。されば小町は、本来愛すべき物柄にも惚れべき物体にもあらず。唯深草の少将が如き、助的癖の付きたるものが、九十九夜も通い続けて、果ては命も失うなり。看よや飛禽遊漁など、助的癖の付かざるものは、見向きもせで逃げ去るを、正に知るべし。好みすべく嫌うべきものは、小町に在るに非ずして、人畜鳥魚おのおのが受蘊の上に在ることを。

そもそも三界流浪の凡夫は、此の苦楽の間を遁るること能わざるこそ笑止なれ。咲く花を見て楽しみと思ふものは散るときに逢えば苦なり。出づる月を見て楽しめば、入る山の端は哀れなり。逢うことを悦べば、別るることは即ち悲し。栄ゆるを楽しむ人は、衰ふる時また苦しむ。貧しき人は無きに苦しみ、富める人は有るに悩む。諂(へつら)うも苦なれば、奢るも安き心なし。恋しきも苦なれば、恨めしきもまた苦なり。大いなる哉苦楽の二受。三界一切の衆生、この中に溺れて、遂に出ること能わず。

生まるるを生苦と名づけ、年よるを老苦と名づく。病めるは病苦にして、死ぬるは死苦なり。男子も苦あれば、女子にも苦多し。農人も苦なれば、諸職も是れ苦なり。奉公も苦なれば、浪人は猶更苦なり。臣下も苦なれば、君主も免れ難し。在家のみ苦しきにあらず。出家も亦苦し。其の中、苦の少しく休まるを、迷いて楽と思えり。譬へば、重き荷物を擔ひし人の、卸して楽と思うが如く、悪く煩いし人の、愈えて楽しと云ふが如し。別に楽と云うべき事は無けれども、苦の暫く休まりたるを假に楽とは思ふなり。又酒を飲み、肉を食い淫欲などに耽りて、之を楽と思えるは、喩えば疥癬(かゆがり)を病む人の、バリバリと掻きて、嗚呼愉快なりと云ふが如し。痒きは痛きよりはましなれども、其の實は痒きも亦苦なり。

世間の人が、苦を楽しみと思へること、大方斯くの如し。かかる逆さまの楽しみは、曾て無きこそ實の楽なりけれ。此の理を能く悟りて、苦楽の二つを超えぬれば、第二の受蘊を空じて、涅槃の大楽に至るなりと喩されたるぞ有り難き。

五蘊の三 『想蘊』の一 (2778)
日時:2021年03月24日 (水) 20時56分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


想蘊とは、第一の色蘊(即ち我にもあらぬ四大の塊)が、一切の外物に対して第二の受蘊(即ち其の外物を受け納るる癖)を造りたるが、其の受蘊(即ち癖)が漸々増長して第三の想蘊(即ち一種の想わく)を生ずるなり。その生ずる想わくを想蘊と云ふ。いかが想わくを生ずるぞと言はば、頭は頭。手足は手足の想はくありて、知らず識らず働き居るなり。尤も此の想はくは、彼の色身に相応して居るゆえ、凡夫の了簡には、容易に分かりかぬれども、隻手を斬り落とすか、隻足をきりとるかして、此の色身に変動を生ぜし後、何か危急の事あれば、忽ち有りもせぬ隻手隻脚をを用ひむとすることあり。是れ色蘊の手足は既に無くなりたれども、想蘊の手足が猶存在せる故なり。此の一事を以って、想蘊の当体を知るべし。

猶言わば大人が大人振りて見ゆるは、大人の想蘊なり。子供が子供らしく見ゆるは、子供の想蘊なり。智者学者が智者學者らしく取り構えて、世を睥睨するは、智者學者の想蘊なり。貴顕紳士が意気揚々として威風を吹かせて、人を壓倒するは、貴顕紳士の想蘊なり。乃至美人が妍(かよわ)きを鼻にかけて、小野小町楊貴妃を気取るは、美人の想蘊にて、醜婦が醜きを気にして、尻込み後しざりするは、醜婦の想蘊なり。これ等の類例を以って、色身の外、別に、想蘊其の物の働き居るを見るべし。

之に就いて思ひ出だせる事こそあれ。去年の秋道人が、西京に遊ばむとて、下等汽車を買ひて、名古屋より発せし時、同車内に本願寺参りの田舎者と見えて、極めて麁服麁體の醜婦が、七八人乗り合わせて、忌み憚る所もなく、我れ劣らじと方言(かたこと)交じりの田舎話しを話し合い、鵙(もず)と燕とが囀りあふごとく聞きなさるる間に、素樸の情を丸写しに写し出でたり。道人は余念なくこれに聞き取れて、數箇所の停車場を通り過ぎしを忘れたりしが、大垣に到りし時、京都の婦人三名、衣服も美麗に、容貌も相応なるが、此の室内に入り来たりて、彼の田舎者を蛆虫の如くにや思ひけむ、傍若無人に威張り散らして、都風を吹かすこと甚だし。されば彼の醜婦連は角弓(あっけ)に取られて、恰も猫に逐(お)はれし鼠の如く、一隅に方付き互いに目をポチポチさするのみにて、復一言の語も出でざりき。

道人は餘り轉變の烈しさに興じて、餘念なくみとれて在りしが、あな面白や、この時彼等が色身は都(ふつ)に見えなくなりて、彼等が想蘊の塊りのみ車内に轉(まろ)がれ出でて、目前に働き居るを看透(みすか)したるこそをかしけれ。そもそも斯かる見苦しき想蘊は何より起こるぞと云ふに、上に述べし如く、色蘊の身を割れと思ひて、それに受蘊の癖を付けたるが劫を經来たりて、斯かる妖怪をなすやうになりしなり。

されども是れ全く夢と一般、一念の想ひなしより生じて、其の實體あるにあるに非ず。實に虚妄なるが故に、妄想と云ふ。妄想とは虚妄(うそ)の想はくといふことなり。彼の夢を看よ。眞實其の物あるにはあらざれども、夢を夢と気付かざる間は、實に其の事ありて、悪夢に饜(おそ)はるる時などは、特(こと)に一所懸命の苦痛煩悶を受くるなり。此の妄想も斯くの如く、眞實其の物あるに非ざれども、妄想を妄想と悟らざる間は、實に其の事ありて、泣きたり笑ひたり苦しみたり、叫びたり、随分恥ずかしき取作を演ずるなり。されば目を閉じて居て見るこれを夢と云ひ、目を開いて居て見る、これを想と云ふ。虚妄にして實體なきことは、全く同じ事なり。

五蘊の三 『想蘊』の二 (2779)
日時:2021年03月24日 (水) 20時57分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



いざ其の妄想の虚妄なる證據を示さむ。茲に娼妓に現(うつつ)をぬかし居る人ありて思へらく、彼が目もとの垢ぬけたることは、青蓮華の如く。彼が口もとの愛嬌あることは、紅紅梅の如く。髪は緑雲を恥しめ、膚は白雲を欺く。眠れる體は海棠の月に俯くが如し。憂うる姿は梨花の雨を帯ぶるが如し。絶世の佳人とは彼なり。命かけても吾が妻にせむとて、辛うじて贖ひ出だして家に入れたるに、此奴一朝不義を働きたり。亭主怒りてつらつら見るに目もとのキリリとしたる處はいかにも険相に見え、口もとの尋常なる處は、いかにも薄情の相に見え、髪の濃き處は助的に見え、膚の白き處は物凄く見え、眠れる体は狸が夜稼せむとて、晝寐したるやうに見え、憂うる姿は狐が人を魅(ばか)さむとて、空泣きするやうに見えて、徹頭徹尾一世の毒婦なり。やよ毒婦能くも吾を魅したり。此の怨みを霽(は)らさで済ますべき、汝が命を取らでや置くべきと、心亂れ腸(はらわた)斷(た)ゆるぞ浅間しき。

看よ此の女に愛すべき物體あるに非ず。(若し可愛き物体が、彼に在るならば間男したりとて、其の物体は猶存すれば、依然として可愛がらねばならぬ筈なり)さりとて又憎むべき物体あるにも非ず。(若し憎き物体が彼に在るならば、其の初めに命をかけるほど可愛がるべき道理なし)彼は始めより終わりまで彼にて、油断があらば不義をもしかねぬ娼妓なり。此の娼妓が絶世の佳人に見えたり、忽ち一世の毒婦に見えたり、吾が命が遣りたくなりたり、忽ち彼が命を取りたくなりたりするは、抑々亦何事ぞ。是れ魅すものは決して彼に在るに非ずして、全く自己が妄想の一念にあり。自己の妄想に誑(たぶら)かされて、鬼をも挫(とりひし)がむ大丈夫が、狐に魅されし如きの所作を働くは、豈恥ずかしからずや。之を妄想の所變と云ふ。即ち自己の想蘊が、不意に宿替えして、騒動迷惑を自己に及ぼすものなり。


五蘊の三 『想蘊』の三  (2780)
日時:2021年03月24日 (水) 20時59分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


心あらむものは少しく省り観よ。無事太平の世界に修羅を造りて、餓鬼を造り、畜生を造り、地獄を造りて、其の間に五出六没、七転八倒するは、皆此の想蘊の宿替え騒ぎより起こる来るに非ざるは無きことを。今日政府を改革するとか、内閣を乗り取るとか云ひて、角振り廻し、牙咬み鳴らし爪磨ぎ立てて、呑噬搏撃するものも、其の初めは悔しいとか嫉ましいとか、忌々しいとか云ふ一念の妄想より起因せり。此の妄想を妄想と気付かざるゆえ、千万人の妄想が因縁結合して、終には血塗れ騒ぎを演ずるに至る。

猶此の妄想が轉げ廻りて止まざれば、後には国家の転覆を致して、生民を塗炭の苦しみに陥しいるるに至ること、内外歴史の証明する所なり。之を吸い殻の火に譬ふ。火は危険の物ぞと気付きて、最初に打ち消さば一指頭にて消さるるを、養いて生長し、集めて結合し、更に狂風の夜に乗じて、之を市街に放たば、看る看る花の都を焦土に化(な)さむ。實に懼(おそ)ろしき事の限りなり。苟も道に志ざさむ人は、須らく其の根本を初一念に打ち消すべし。曰く、いかにせば可ならむ。曰く妄想は虚妄にして、實際なきものなれば、無しと気付きし時、即時に消え失すること、猶是れは夢ぞと気付きし時、夢中の苦楽の一時に消滅するが如し。

全体心の本体は、研ぎ立てたる鏡の如く明らかなるものなれば、日本人が来れば、日本人が映り、毛唐人が来れば、毛唐人が映り、去れば乍ち消え失せて、痕(あと)かたもなきものなるを、凡夫は鏡面に映り来れる影法師を、實物なりと誤り認めて、美人が映れば、鏡の中より手を出だして、其の影を執へむとし、醜婦が映れば、鏡の中より手を出だして、其の影を遂はむとし、一々映り来れる影法師の相手になりて、胡乱(うろたえ)出し騒ぎ廻ること、猿猴が臂を伸べて、水上の月を捕ふると一般、馬鹿げ切りたる事なりと、屹度警發して、来るものは来るに任せて、少しも之に頓着せず。去るものは去るに任せて、少しも之に執着せず。映るものは映るに任せて、少しも之を揀擇せず。みづから主となりて、以て決して彼に動揺せられざれば、立派に此の想蘊の窠(あな)を跳(おどり)出づることあらむ。果たして跳り出でなば、従来一切の妄想は今朝見残したる夢の如く、痕かたもなく、消え失せて、呵々大笑すること有らむ。

五蘊の四、行薀の一 (2781)
日時:2021年03月24日 (水) 21時01分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



行薀の『行』は、メグルと云ふ意味にて、少しも停(とどま)り滞(とどこお)ることなく、時々刻々刹那刹那に流れ行(めぐ)り遷(うつ)り易(か)わる義なり。何物が流れ行(めぐ)り遷(うつ)り易(か)わるぞと云ふに、第三の想薀、即ち迷いの妄想が、水の流れて淀まざる如く、風の動いて止まざるが如く、朝から夕に至るまで、生より死に至るまで、遷(うつ)り行(めぐ)りて瞬く間も息む時なし。

此の、遷(うつ)り行(めぐ)りて息まざるものを、聚め蓄えて、吾と思ひ吾が心と認めて居るが、即ち此の行薀なり。若し人其の当体を知らむと思はば、直に此の念想の移り易はる處に篤と気を付けて看よ。只今惟を思ふかと思へば、忽ち彼に移り、今彼に移るかと思へば、又忽ち其れに飛び、起こるかと思へば滅し、滅するかと思へば起こり、続くかと思へば断(き)れ、断るるかと思へば続きて、その生滅の速やかなること電光石火の如く、其の遷流の断えざること、長風流水の如し、是れなむ吾人が行薀其の物にはありける。

凡夫は斯かる取りとめもなく、哀れ儚き行薀を己が心とし、此の心を以て世の中の一切諸法を見るが故に、一切諸法も亦時々刻々刹那刹那に遷(うつ)り易(か)わりて、少しも取り止めたる處なく、定まりたる姿なきものぞと、世を墓なみ、己を哀しむなり。

是れ譬へば天行く雲の脚が早ければ、却って雲は走らずして、空中の月のみ走るやうにみえ、乗り出す舟の脚が速やかなれば、却って其の舟は行かずして、両側の岸のみ行くやうに見ゆると同じ理なり。己が想薀の雲だに走らずば、真如の月は、天に懸りて光を放ち、己が行薀の舟だに走らずば、實相の岸は地に安んじて動かざるものぞ。之を涅槃経には諸行無常(諸行とは即ち此の行薀の事なり)是生滅法。生滅々巳。寂滅為楽と説き給ふ。

五蘊の四行薀の二 【佛法究竟の偈】 (2782)
日時:2021年03月24日 (水) 21時03分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



此の偈は實に佛法究竟の處なれば、茲に古人の名説を借り来りて叮嚀反覆に、工夫方便を與ふべし。其れは我が心身も、一切萬法も元来常住法身の本體にして、此の儘涅槃妙楽の實相なれば、生滅もなく去来も無く、變易遷流も未だかってこれなき、寂滅無為のものなるを、凡夫は此の行薀の迷ひに誑かされて、其の法身の本體、涅槃の實相を見つくること能わざるが故に、三界と思ひ、萬法と惑ひ四聖と隔て、六凡と迷ひて、有為轉變に引かかるなり。之を諸行無常。是生滅法と謂ふ。

されども勇猛なる定力に依りて、一たび此の行薀を打ち破りなば、我が心常住にして、少しも遷り易はること無し。我が心常住にして、少しも遷り易はること無ければ、一切萬法も亦常住にして、少しも遷り易はること無く、當處に寂滅現前して、其の儘萬法一如なり。之を生滅々巳。寂滅為楽と説き給ふなり。猶此の生滅の相と寂滅の姿とを、先哲の示されたる譬喩を借り来て説かば、是の心は明鏡の如く、一切萬法は、鏡に移れる影の如し。

試みに明鏡の蓋を取り去りて看よ。天が移り、地が移り、山が移り、河が移り、花が移り、柳が移り、人類が移り、鳥獣が移り、蟲魚が移り、菌苔が移らむ。尚これを少しづつ向きを替へなば、森羅萬象一つとして移らざるは無く、移り来たり移り去り、立ち易はり入り易はり、刹那も停らざるに似たれども、然れども其の鏡の本體は、天にも非ず地にも非ず。山にも非ず河にも非ず。花にも非ず、柳にも非ず。人類にも非ず。鳥獣にも非ず。蟲魚菌苔にも非ず。森羅萬象にも非ず。唯是れ明々晃々たる一枚の明鏡なり。是の心の萬法を移し照らして、其の萬法の差別にも更に預からず、生滅にもかって拘わらざること、此の鏡の譬へにて知るべし。


迷える人は心中に移り来る影のみを見て、本心の鏡を見ること能わず、悲しい哉。さればとて、移り来たれる一切の影を払い、却(しりぞ)けて、而して後ち始めて心鏡を見出さむと思ふは、亦迷人の妄想なり。夫れ鏡は明々晃々と明らかなるが、本来の持前なる故に、山や河や花や柳やを移しながらに、色香もなく去来もなく、汚れもせず曇りもせぬ、心鏡の明體を、直に看取(みと)るべし。されば影に迷ふ之を凡夫と謂い、鏡と見る之を聖人とや言はむ。

猶學者の工夫を着けむ方便の為に、今一つ古人の引かれし譬を挙げむ。其れは黄金にて、種々の物の形を作りたるが如し。其の形より看れば、鬼は怖ろしく佛は尊く、男は勇ましく女はやさしく、老いたるは皺み若きは美はしく、鶴は脛長く、鳬(かごめ)は脚短く、松は直く棘は曲がり柳は裊(たお)やかに、花は艶(あで)やかなり。されども黄金の方より看れば、鬼も金、佛も金、男女の差別も無ければ、老若の区別も無し。鶴の脛の長きも金なれば、鳬(かごめ)の脚の短きも金なり。花も柳も松も棘も、唯一體の黄金にして、露ばかりの差別もなし。

されども萬法の方より之を看れば、様々の形それぞれに分かれたり。衆生はその差別の相に目が眩みて、眞如の本體を忘る。諸佛は眞如の本體を看て、其の差別の相は有るに任せて異想無く、唯平等にして一味なり。されば嫌ふべき鬼も無く、尊ぶべき佛もなく、親しむべき人も無ければ、疎しむべき物もなし。何をか嫌ひ、何をか好み、誰をか毀(そし)り、誰をか誉めむ、恨みもなく嫉みもなし。

是故に一切の迷を去るとも無く、諸の煩悩も断ずるとも無けれども、自ら絶えて更に無きこと、例えば、日の出づる時、闇を除かざれども、闇自ら消えて生ぜず。目の覺むる時、夢を退けざれども、夢自ずから破れて起こらざるが如く、唯一體の眞如にして、唯一妙の實相なり。

四恩の第三 國王の恩 日本国とは (2783)
日時:2021年03月24日 (水) 21時08分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


今日は四恩の第三なる国王の恩を説かむとするに方(あた)りて、先ず国と云う物がらの話より始むべし。佛経に、別業と云うことと同分ということあり。別業とは別々の業ということにて、人々個々別々に造るところの業を云う。近く譬えて申さば、亭主は家業を勉強するに依りて安心に、内儀は悋気をするが故に、神を傷め、息子は放蕩を始めて心配をし、息女は学校に精勤をして気楽に、下部は二日酔いをして頭痛を病むがごとく、一家のうちに住みながら造る所の業の別々なるがゆえに、感ずるところの苦楽も、隨て別々なるが如し。

次に同分とは、分際を同じうすると云うことにて、一団(ひとかたまり)の人が、苦楽悲歡を共にするを云う。是も早く申さば、亭主が破産すれば、内儀も息子も息女も下部も共に苦しみ、出世すれば一家挙りて共に楽しみ、息子が病気なれば共に悲しみ、息女が嫁入りすれば共に歓びてまさかの時には、持ち前の悋気も放蕩も頭痛も忘れ果てて共に憂い共に楽しむこと、恰も一身のごとくするの類を云うなり。

さて彼の別業は別々に業を造りて、別々に苦楽を見るなれば、よく解りてあれども此の同分は別々に業を造りて、一緒に苦楽を感ずること、是れいかなる道理より生ずるぞと申すに、本この同分は、人が相集まりて、因縁を同じうして居る上より生ずるものなるが故に、其の因縁を同じうして居るほどの人は、苦楽もまた同じうせねばならぬ同理ればなり。

されば二人以上の人が集まりて、因縁を同じうして居る處には、必ずこの同分を生ずること、当然の理にして、一番小さい同分の区域を名付けて家と云う。その少し大きい区域を、名付けて村と云い、町と云い、その少し大きい区域を名付けて郡と云い區と云い、その少し大きい区域を名付けて縣と云い府と云う。(その郡区府縣の中に於いて同主義の者相集まりて同分を成就して居るものを名付けて會と云い社と云う。)斯くのごときの衆同分を余さず洩らさず、包括して、大同分を、其の上に成就して居るものを名づけて国と云う。我が日本国と云うものは即ち是なり。

四恩の第三 國王の恩の続き 「國の興亡盛衰」とは如何なることか  (2784)
日時:2021年03月24日 (水) 21時09分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


斯く申せば、小学生徒はかならず言わむ。日本國は斯くの如き無形の物にあらず。緯度41度より起こりて、30度に達し、経度東2度半より起こりて西11度に至り表面二萬四千七百八十方里のもの、すなわち日本國なりと。予はこれに対えて言わむ。それは地面にして日本國にあらず。其の地面の上に日本と云う國が建立してあるなりと。その証拠を申さば、西洋諸国の上古は、謂わゆる水草を逐いて移転せし遊牧の民にて、云わば旅のありさまなるがゆえ、小同分のみにて、前に謂うところの大同分が成り立たぬ故に、山川原野の地面はあれども、これを称して未だ國を成さずと云うなり。それより少しく進みて、農業を営むやうになりて、村落(むら)が出来、品物を造るやうになりて街衢(まち)が出来、商売をするやうになりて、市廛(いち)が出来、且つ此等を統括するところの酋長(かしら)が出来、謂はゆる大同分がかつかつ成り立ちたる所を称して、初めて國を建つと云うなり。

皇國(みくに)に於いても其の通りにて此の大陸は申すに及ばず。四国も九州も壹岐も對島も天地開闢の初めより、出来てありしに相違なけれども、日本國は未だ無かりしを、伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の夫婦の神が国々島々も御巡回成され、数多の神と人とを御生み遊ばして、それを撫育含養したまい、彼の大同分を成り立たせ成されて、此の日本國を御建立ありしなり。神代巻には此の二神が皇國を産み給いし趣にしるしてあるが、なるほど、是れまで無かりし日本國を御出来し成されしことなれば、御生み成されしも同様なり。

尚云わば國にはかならず、興亡盛衰と云うことあるが、國が興ると申したとて土地が海面に湧き上がりたり、山が虚空に飛出たりするにもあらず。國が亡ぶと申しても、山川原野が滅ちゃ苦ちゃになるにもあらず。地面はもとの儘にして、唯この大同分が興りたり亡びたりするまでの事なり。是等の言を能く能く辨えて、國と云うものは地面の事にはあらずして、大同分の事なることを、先ず了解せらるべし。



四恩の第三 國王の恩 の続き  國王に生まれる因縁に関して (2785)
日時:2021年03月24日 (水) 21時18分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


さて此の大同分の中に就きて、前世に於いて、最も尊く最も勝れたる善根を植えて置きたる人の果報が、この世に報い来たりて、その大同分の主宰となる。是すなわち国王なり。此の因縁に由りて国王の福徳は、實に大造なるものにて、國内の一切衆生の福徳を一團(ひとまるめ)にして比ぶとも、猶及ばぬと申すことなり。三世十方の神仏は、身は現ぜられども、王の宮殿を、面に回り背(うら)にまわりて、常に護衛し、目には看えねども、王の玉體をば陰(かげ)となり陽(ひなた)となりて恒(いつ)も擁護して御座ると、経文に説きてあるが、此の一事を以ても、国王の最(もっとも)勝れ最(もっとも)尊くましますことは能く解る。

斯くのごとき果報は、凡そ何ほどの善根力より生え来たりしものぞと、経文に就きて詮索してみれば是れは全く菩薩の三聚戒を保ちたる報いなりと見えたり。さて其の三聚戒とは一には一切の有情を饒益するの戒。二つには一切の善法を修攝するの戒。三には一切の律儀を修攝するの戒これなり。なるほど前世に於いて一切の有情を既に饒益したる因縁が無くては全国の有情を自由に主宰するの果報は得られぬ筈なり。また一切の善法を、自ら修攝したる因縁が無くては、全国の政事を一身に総攬するの果報は、得られぬ筈なり。また一切の律儀をみずから修攝したる因縁が無くては、全国の法律を一手に掌握するの果報は、得られぬ筈なり。此の因縁を以ても國王の愈勝れ、愈尊くましますことを知らるべし。

四恩の第三 國王の恩 の続き  國王の現世における徳  (2786)
日時:2021年03月24日 (水) 21時19分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)


併し以上は、前世の事にて、凡夫の眼には看えぬ話なれば、今は孰れの眼にもよく看ゆる現世の徳を説くべし。佛は心地観経に王の十徳を説かれたり。

其の一には能照の徳。

これは智慧の眼を開いて、常に世間を照らし、謂わゆる明千里の外を見すまして居給うの徳を云うなり。

二には荘厳の徳。

是は大福徳を以て、川を浚え、堤を築き、阡陌(せんぱく)を通じ、経界を正し、港を開き、街を列ね、鉄道を布き、鐵橋を架し、石室を建て、遊園を設け、つまらぬ地面を荘厳して、立派なる国土に取り立て給うの徳を云うなり。

三には與業の徳。

是れは大恩徳を以て、政事を張り、刑法を設け生産を授け、工業を勧めて、人民をして、職に安
んじ、業を楽しむの大安楽を與え給うの徳を云うなり。

四には伏怨の徳。

これは大威徳を以て、兵備を厳かにし、警戒を粛ましめて、一切の怨敵を、自然に懾伏したまうの徳を云うなり。

五には離怖の徳。

是は大人徳をもって、陰陽を燮和(しょうか.わ)し、神人を調理して、他国自国の侵伐、悪疫饑饉の災難。風雨雷震の禍害。日月星辰の變怪などこれ無く、人民をして恐怖の念を起こさざらめたまうの徳を云う。

六には住賢の徳。

これは全国の賢人を、廟堂の上に徴しあつめて、国事を評議したまうの徳を云うなり。

七には法本の徳。

これは国王みづから國法の根本となりて、人民を安堵せしめ給うの徳を云うなり。

八には持世の徳。

これは天王の正法を以て、能く世間を維持し給うの徳を云うなり。

九には業主の徳。

是は人民が善業を造るも、王に因りて造りて、王と福利を同うし、悪業を造るも、王に因りて造りて、王と禍害を同じうして、國王その業の主となりたまふの徳を云うなり。

十には人主の徳。

是は全國の人民、王を以て主とし、謂ゆる杖とも柱ともすがり、神とも佛とも恃み上げて居るところの徳を云うなり。

これを十種の勝徳と云う。國王はかかる勝徳を以て、天下に君臨し給うがゆえに、其の徳に謝し恩に報じ、忠順の心を盡くして、輔翼尊戴するときは、固より神仏の冥慮に叶いて、現世来世とも、安穏快楽の果報を得べし。もしこの徳を忘れ、恩に背き、悪逆の心を懐きて、敵対し奉るに於いては、大いに神仏の冥罰を受けて、従来の宿福は忽ちに亡び、永く三悪道に堕落して、備に千辛萬苦を甞め尽くすとも、終に浮かぶの期なしと。経に説き置かれたるは、實に左もあるべき道理のことなり。

四恩の第三 國王の恩 の続き  世界萬國に例なき日本の國體、萬世一系の大恩徳 (2787)
日時:2021年03月24日 (水) 21時20分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門より)



殊に我が国の天皇は、此の日本国と與に、御出来成されたる皇国生えぬきの天皇にましまして、その御元祖天照大神より、幾百世幾千年の久しきも、彼の十徳を以て、突き通しに、人民を御治め遊ばされしのみならず、此の先、日本国の有らむ限りは、千代萬代(ちよよろず)の彊(かぎり)なく、連連綿々と御子孫の様の御治め遊ばさるる御國法なれば、お互いの臣民も日本國の出来初めし時の元祖より千代萬代の果までも子々孫々の續かむかぎりは、一筋に此の天皇の御血統の大徳大恩を蒙りたてまつる約束にて、此の約束の長く、此の因縁の深く、此の恩徳の渥(あ)つきことは、世界萬國に、似依たる例(ためし)もなし。

一口に申さば、天皇の御血統が、此の日本國の心柱となり、此の日本国の背骨となりて、それにお互いの臣民が、棟梁柱石となり、股肱耳目となりて、天地の間に屹立し、世界の表に卓立して、出来て居る大日本國なるぞ。これを皇国(みくに)の國體と申して、即ち日本國の組み立て方なり。

されば日本國に生まれたるほどの人は、此の國體をよくよく辯(わきま)えて居らねば、眞實に國王の恩に報ずることは勿論父母の恩に報ずることも、衆生の恩に報ずることも、三寶の恩に報ずることも、出来かぬるのみならず、ひょっとすると、恩を仇に報ゆるやうなる飛んだ間違いの生ずまじきにあらず。至極大切の事なれば、これより國體の事を一通り演説して眞實の四恩に報ずるの方向を定むべし。



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