心経抄 まとめ 生長の家の本尊は観世音菩薩であります。その観世音菩薩とはどの様なものでしょう? (2880) |
- 日時:2021年03月25日 (木) 18時36分
名前:長崎の晩霞(心経抄)
『心経抄』 正眼国師 「心経抄」の一節が「叡智の断片」P182に引用されています
摩訶般若波羅蜜多心経とは天竺の言なり。唐にては摩訶を大と云ふなり、般若を智慧と云ひ、波羅蜜を到彼岸と云ふ。經とは自心と知るべし。夫れ是は釈迦、達磨の作でもなく、千佛萬祖の作でもなく、人々本来明かなる心なり。始なきが故に終あることなく、草木国土、十方世界、常住一相の心にして、終に迷いも悟りもせぬ物なり。然れば常住のものかと云えば、常住と見れば、即ち常見となる。無き物かと云へば、無の見になる。佛かと云へば、佛見になり。一切衆生が其の儘この本心かと云へば、衆生見になる。それならばどのように心得べきと云ふに、どのようになりとも心得やうがあれば、こしらえ物になる。一切ありとあらゆる言説、名相、思惟、分別を着れば、一物になる。爰に於いて、古代も今時も、此の法に志ある人、大に誤を取ることなり。
一切言説を離れ、有無にあらず、聲色にあらず、名も無く、相も無きなり。手も付けられず、思惟も及ばぬ物なり。おぼえず一物ひるがえるに依りて、佛一代の間、無心の、無念の、無相の、無為のとて、色々の分別をやるが為に、無の字を説き給ふ。此の如く兎も角も云ふべきやうはないに依りて、心と名付けたるなり。若し昔より心と云ふ字なくんば、何とも云ふべきやうはあるまじきなり。人々只心と云ふ名を覚えて、其の名にだまされて、心じゃ心じゃとおぼえて、ひたすら心を明らめんと思ふたりや、心のそこねぬやうにせんと思ふたりや、色々に分別して分別すれば、分別するほど分別じゃになる。
心と云ひ、道と云ひ、空の、菩提の、涅槃の、般若の、智慧のと云ふは、みなよき名字を附け、ほめて云ひたるものぞと知りたらば、手が離るべきなり。それならば、又一切の文字はないか、何ともかとも、思はれも言はれもせぬものじゃと、立ちまはりて分別せんことの是非なきに、經の中に念頃に説き給へり。此の如く何もなき所を、ほめやうに事をかいて、摩訶と云ひ出したぞ。必ずしも大きなる心があると思ふたらば、生死流転の根をかたむることなり。誠に萬法は皆一心の變作なるが故に、大と云ふなり。直にわきみをせず、頭をふらず、爰をとくと親切にしたらば、只この大の一字でも、佛の本懐をば知り盡すことなり。
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それでも合点しにくきに依りて、同じ言を又名を変えて般若と言い出した。般若の智慧と云ふも、右摩訶の義理も、毛髪も別ちはなけれども、具に知らせんために、智慧のことを説かれた。 多くの人が智慧と云へば、何んとやらんよい物のやうに覚えて、光り輝くやうに思ふ、左ではない、智慧は人々の自在なる徳を誉めたる名なり。或は智慧とは體と用とを分かちて云ふことあれども、そのやうに細に分別すれば、佛法の物知りになって、自分の目をつぶす。
其の人々自在なる徳とは、先ず見聞の上で云へば、内に見ることどもを思ふものがあって、それが見たり聞きたりするではなけれども、目の縁、耳の縁で、黒を白きに見誤りもせず、鳥の聲を太鼓の聲とも聞違ひもなく、あつさ、ひだるさ、立居に付けても、一切一々、心をくばらずして、妙不思議に明かなるを、これを本然明かなる智慧と云ふなり。此の智慧と云ふは、吾も人も、佛も祖師も、畜生も禽獣も、増すこともなく、滅することもなく、同じことなり。只明らかに知りてわきまへたると、わきまへざるとの違ひ計りなり。
法華にも、心と佛と衆生、この三つ、差別なしと説けり。其の余の文字を知り、経論を覚え、詩を作り歌をよみ、世間のことに賢く利根なるは、たとへば金銀沢山に持ちたると持たぬとの違いの如くにして、人に差ひはそっともなし。沢山に物を知ったがうらやましくもなく、知らぬが気の毒でもない。
然るに此の智慧と云ふに於いて、正ともなり邪ともなり、佛にも衆生にも、畜生にも何になりとも、己が分別次第になるなり。その十界のわかれあることは、たとへば明かなる鏡の如く、見よき顔をうつし、醜き面をうつし、黒白長短方円、何にてもありとあらゆる物をうつすに、移し来るが如くに、微塵もたがわず彰わる。然れども鏡の方より、よき影を止めて置きもせず、見苦しき物を嫌うと云ふこともなく、夫々に品をたがへぬは、是れ鏡の明かなる徳なり。
人の心の徳も是に似たり。然れども人の心はよきこと到来すれば、實にあることと取り付き、悪しき事は殊の外にくみ、是よりして貪欲の、瞋恚の愚痴のと云ふもの、根も體もなくして育て行く、故に十界のわかれとなるなり。さて右の鏡の譬に付て思ひ誤ることがある。心の譬へべき様なきが故に、是非なくして鏡を譬にひくことなり、必ずしも鏡のやうな體あって、摺り磨いて心は明らかなると思ふべからず。只私なく作為造作なく、照らす儘に照らし、自在なる處を、取りて云ふたることなり。
去るに依りて、六祖の明鏡非臺い云はれたるは、此のことなり
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それならば、好きことを愛せぬやうに、悪しきことを嫌はぬやうに用心するかと云へば、さやうにてはなし。右の鏡のたとへの如く、親切に合点しても、以前より惡みつけ、愛しつけ、恚りつけたくせならば、我も覚えず、時々に起こるに似たれども、此の心本より自性なきことを知れば、起こるに似たる瞋恚貪欲、そだてもせず、悪みもせず、取りもせず、捨てもせず、只親しく自ら知りてくらまさねば、起こるに似たる貪欲瞋恚、其の儘吾が本智、不生不滅の佛心なり。なぜと云ふに、貪欲瞋恚の性指を付けて知りて見よ、其の儘なにもない、實際眞源なり。去るによって、文殊の瞋恚之際卽是實際。貪欲之際卽是實際と云はれたる、是れ爰が大事の處にして、一點錯りても地獄の業となり、因果撥無の外道となることなり。 貪欲瞋恚の性、其の儘實際本智じゃと云へば、さらば心安いとおぼえて、うつらうつらと得て方になり、此の法に志なき者よりも悪しき人になる。人々一大事とする此の一心だにおさえかかえあるは障りじゃと云ふに、其の餘の色々の悪しきことを放逸にせよと許さんか。さらばとて又瞋恚貪欲色々の惡を作り、罪とがおそろしとて、只佛力に依りて、念佛の勢ひ、誦經のはげみで、まぎらかさんとするは、犬が水中に移たる己が陰を吠えるが如し。
一切皆己が分別の影と知れば、守りそだてもせず、惡み退くることなく、その影其の儘不生不滅の本地、爰で影と云ふたるは、心にうつる分別なり。其の分別を其の儘不生不滅じゃと云ふことは、譬へば鏡の物を移す時に、其の形が鏡の底より生じたでもなく、物の方より鏡の中へ入りたでもなく、両方の間より出でたでもなく、法爾としてとして明らかに顕れたるに似たり。是れ不生なる證據なり。さて其の物を引くときに、其の影が鏡の中へかくれ滅したでもなく、その物に付出て滅したにもあらず、只本然として滅し、影がなくなったに似たり、是れ不滅なること歴然なり。
人の境界の見るうへ、聞くうへ、一切心に移り来たれども、皆不生不滅なり。目の縁、耳の縁、六根ともに物に相對する縁で、ありありと移るやうなれども、生じたに非ず、其の縁がされば、ありありとなくなったやうなれども、終に滅せぬ物なり。此の如く深く決定したる中には、一切善悪の境界に於いて、ひとり自在なることなり。
然るを善きことがあると、悪しき事があるものじゃと思ひ、順逆の時に、愛したり、惡んだりするは、犬の影をほえるやうなることなり。是を本来本具の大智般若を昧すと云ふなり。さて見聞の上、不生不滅の本智じゃと云ふに就いて、多くの禅者が見聞のあるじなどと尋ね、或は見やうともせねども、何心なく見る一念の當所が、佛じゃと云ふ人もある。それを悪くうけがへば、生死の根本をかためるなり。
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それ主と云へば、一切自在なる處の名なり。何にもなき時は、何の気づかひ遠慮なく、人家の主人の如くなり。然るに見聞に主人があると思ふて追ひまわるは、犬の尾をかむが如し。初一念の、第二念のと云ふはなきことなり。百千の念に到りても只一念なり。譬へば聲をひょっと聞きても、分別を離れて聞け、さてそのつぎに、今のは好い音じゃと思ふも初の通りなり、思ふとも思ふまいともせねども、好いと思ひ、悪いと思ふなり。どこまでもその如くなり。初一念の處を好い者じゃと取るは、賊を認めて子となすが如くなり。只念念一念にして無念と知るべし。
波羅蜜到彼岸と云ふことは、此の道理を知らずして、うつらうつらうろたへ、生死の海を越えずして、此岸に居るやうなものなり。眞に右の如く知りたるを、彼岸に到ると云ふなり。必ずしも此の心を明らめて、彼岸に渡りて到るやうなことがあるではない。生死を大海に譬へたるに付いて、生死を解脱したる人を、彼岸に到りたと云ふなり。解脱を得ぬ人を此岸に居ると云ふなり。
然らばまづ生死と云ふことを能く知るべし。凡夫は生を悦び、死を惡む、此の身法性の大海より浮漚の如く、縁より起こりたるものを、我が身じゃと覚えてより以来、生きているは好いと思ひ、縁盡きて死に臨むは惡と思ふ、おもはくが生死するまでにして、外に生死する物なきなり。
一切衆生元より生死に渡らぬ物なり。生るるも生まるるわきまへなければ、生るれとも、生を離れて生る。しかもあとより生まれたると分別し、死すれとも、死のわきまへなくして死すれば、死を離れて臨終するを、死の到らぬ先に取り越して、死を分別する故に、生死なき中に、我と生死を見出すこと、目を病む人の空花を見出したる如くにして、實に縁起にして、無實なるものなり。
凡そ此の身はなんじゃと云ふ時に、ひょっと我じゃとおぼえた思はくが、かたちなり。其の思はくを眞に照らして見れば、實に自性はなきなり。去るに依りて、生を分別せず、死を分別せず、元より手を拂て自身自性なきことを決定したれば、誰あって生死に渡るべきものなし。如是今直下に證據したる人を、到彼岸とも名を付け、解脱とも云ふなり。解脱と云っても、帯紐をといたるやうなことがあるではない。自ら知て心にとりつく所なきを解脱と云ふ。
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譬えば存じもよらぬ無實を人にいひかけられて、我が心に気の毒に思ふに、心をしめくくりもせねども、その時の思惑は、縄にてしばられたる如くなり。時にさき方より、いや其の方のことではないと云へば、そのまま心がとける如くなり。気の毒に思ふときに、心が黒くも、堅くも、ちひさくもならず、其のことすんだとても、白くも、ゆるくも。大きにもならぬ、結んだでもない、解けたでもない。去るに依りてなんにもなけれども、此の事しらでは、うつらうつらと生死を渡る物があるとおもひ、悪しき境界を甚だいみ、善きことを大に愛する思惑は、鐵城よりも堅し。それ故に輪廻やむことなし。
直に知りて明らかなれば、千劫萬劫、無量の生死、只空花の如く、昨日の夢の如く、西へ向かふる頭を東へねぢむくよりもはやく、其の儘法身佛なり。これを解脱とも云ひ、生死即涅槃とも云ふなり。即と云ふは、また生死と涅槃と、どこともなう別のやうに覚えて居る人を引くの言なり。此の事を知らねば生死なり、直に知れば涅槃なり。譬えば西向きに座しながら、東向きに座したと覚えて居れども、人あってそれは西向きよと云ふとき、さらばこれが西向きの方であるよと知るに、方角は少しもかわらず、只ひょっと覚え違へたまでのことなり。
然らば人々此のこと明らめたるは、皆涅槃に到りたかと云へば、元涅槃と云ふ物なきなり。生死と云ふ物を見て居るによって、只その思惑を轉じさせんとて、こちらに涅槃と云ふ言を出して、先ずしばしとりかへた。生死のみさへ休したらば、あとは何にもなきなり。去りながら、涅槃とは不生不滅と云ふことなり。
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心経この心の字は、前にも云いたる如く、人々本然圓明にして、一切の言語の道も断え、心行もつきたる處で、名の付けように事をかいて、心と云いたることなり。これを明なりと云えば、光あるように思い、圓なりといえば、まるい物じゃと覚え、空といえば、上と下とを離れ、何もない處のような物じゃと思う、どうなりともこうなりとも目くらどぢで、云ひ次第に取り付く。それ故に、どちつかずに、心と名を付けた。それでさへ、此の心の字をいつともなくに覚えて、どうやら心と云うものあるような、それは爾がおもわくなり。
先ず此の心の字をよくよく唱えて見、知て見よ。紙にあらわしたるは、墨の色で、心心こころこころと唱えたというても、音の響き、又其の文字を一點づつ離して見れば、ちょぼちょぼとしたる筆の跡なり。去りとては、をかしい物を覚えて居て、心じゃと覚ゆるぞ。さらば、そのように云わば、人の本性は、やくたいもないものかと云えば、やくたいもない物と云うこともなきなり。どうなりともこうなりとも思惑を付ければ、生々世々、生死の根源、輪廻の大本となるぞ。況や一切善悪の境界にとりつくようはなきなり。爰にて、断見の空見のと云いて、人々おじることなり。
只かえすがえすも、見の字が病と知るべし。断なりと見、空なりと見、無じゃと見、さては有の、常の、佛の、衆生のと見れば、見るように見に落ちるなり。その一切の見がやめば、佛の大涅槃と云われたる所なり。若し断の字、空の字、無の字が病とならば、言語道断と云うも断見か、五蘊皆空の空中には無色等も、空見無の見か、佛は第一番に空見に落ちたるものならん。故に、よきことでも、あしきことでも、一切のことに於いて、見の字が病、生死の大種と知るべし。能く知った人は、何と見ても見はなきなり。
去るに依りて楞厳でも見をみる時、見是れ見にあらず、見のように見ても、猶見の当體、元より離れ、此処に於いて、見と云う名を付け処なきに依りて、見も及ぶこと能わずと云いたることなり。是れに付いて眞見の妄見のと云うことを論ずれども、皆妄想の皮なり。
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経の字は、常なり法なりと云う心で、人々古より未来際を尽くして、曾(かつ)て生死變滅にあづからず、常住の佛性、此の仏性、元より無性なる故に、釈迦でも達磨でも、尽くすこともならず、本然として無自性なるを、涅槃経でも、常住佛性と説かれた。是れ此の経の字のことなり。法とは、一切衆生の心法、これも言の代わり、品の少し替わったばかりで同じことなり。手を払って無性なる故に、山を見れば山をおさえず、川を見ても川おさえず、草木国土、萬法一切何でもかでも、、移るままにして明らかなるを法と云う。この心の外、法も無きと云うも、此のことなり。如是知りたるを経と云うなり。
されば経と云うことは、文字が経でもなく、言句が経でもなく、只此の心に通じたるが如来の経なり。古人の桃の花を見て悟りたるは、目が経となり、竹に瓦を掃きあてて悟りたるは、耳が経となり、彼の楞厳の二十五圓通を見よ、皆五入の縁別々なるが如く、見てなりとも、聞きてなりとも、座禅してなりとも、行じてなりとも、臥してなりとも、大小便の中に至るまで、此のこと親切にして、直に自らの手の内を見るように通ずれば、通じたる處が汝が経なり。されば一切の経、何の経にてもあれよ佛の此の経と云われた言句は、皆汝人々本具の佛性を指して云われたることなり。
と云えば、心さえ好ければ、経はいらぬと云うて、粗末にする人がある。森羅万象、悉皆此経じゃと云うものか、そでないと云うことはなきなり。今佛の経巻は、佛在世の法要、甚深の説なれば、貴むべきなり。必ずしも重荷にすることではなきなり。先ず大かた経と云うものは、此のように合点したらば、仕損じはあるまじきなり。若し具に経のことを云わば、書き尽くしたと云っても尽くせぬことなり。この摩訶般若波羅蜜多心経と云う題号に付て、様々のことあれども、それは知てもいらぬことなり。おおかた右の心を合点すれば、此の経は知った道を行くようになるぞ。
此の経は、何を説かれたというに、般若の道理を説かれた物ぞと覚ゆれば、いつの間にやら、般若と云う言にそらされて、余所のことのように覚ゆるぞ。只心経じゃと云うからは、只自らの心を鏡に顕わしたと見るべし。此の経ばかりでもなく一切の経論は皆その通りなり。
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観自在菩薩。自らのことなり。自らならば、なぜ観自在ぞと云う中に目を開けば、山河草木、青期赤白黒、大小方円きらりと顕われ、耳に通ずること千万の音、六根皆その如く、千万のこと一度に対して、一つも見ぬくことなく、聞かぬことなく、この心の自在なること、何に譬うべき物かなきなり。去るに依りて華厳経の中にやらん、十鏡の譬を以て説いてると覚えた。其の譬は、鏡を十方に掛る、一鏡の中に九つの鏡が見え、一々の鏡の中を見れば、百千の鏡が見ゆるものなり。然れども少しも鏡がさえることもなく、狭くも広くもならぬ。
その如く、人の心に一切千万のことが移り来たれども、心に多いと思うこともなく、目にみる中に声を聞き、舌に味わい身の暑さ寒さと云い、一度に覚ゆれども、目に見やむを待て、耳より入る声を心に通ずると云うこともなく、少しも違いもさえることなきなり。是れ観ずることの自在なるゆえに、人を指して観自在菩薩と云うなり。観はみると云う字なれば、目のことばかりの様なれども、一を挙げて六根を皆同じことじゃと云うことを知らせるなり。菩薩と云えば、吾知らずに外の事のよう覚ゆるなり。菩薩は慈悲第一とするなり。
慈悲と云うは、如何ようなることぞと云う中に、さても憐れや、悲しやと云うは慈悲でもない。去るによって、多くの人が慈悲と云う物を拵えんとする、それは愛見の大慈と云いて、愛着に落ちたることなり。人々本徳にて、拵え起こすことを用いずして、佛と衆生と元より毛髪を隔てぬ故に、非道に犯しなやますべき衆生は、独りもなきなり。只本然として一切を裁くを大悲の光と云う。此の大悲のことに付いて、色々のことあれども、今云いつくされず、慥かに自身観自在菩薩と知るべし。是より以下の文句は、自身のことを移し出して診ると思うべし。鏡に我が面を移して見るが如し。
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行深般若波羅蜜多時。
行ずると云って、拵えて行ずると云うことには非ず、日用動作の上が、般若を行じていることを知るべし。然るに立つも般若、居るも般若、見聞一切が般若じゃと云えばとて、一言一言に、般若を付けてはなきなり。夫れでは般若と云う物が一つ出来るなり。只立つは立つなり。居るは居るなり、一切般若観自在ぞとならば、貪欲瞋恚、一切の悪をなすも、皆般若の知恵の働きかと云う中に、いかにも外の物にてはなけれども、よくよく思惟観察して見よ、自らの心と云う物を、どこともなうよき物じゃと覚えて、自身で自信に着する故に、其の時の名を我と云うなり。
我と云うもの、当體只汝が思惑のみにして、何にもなけれども、ある物のように思う故に、我に相応のことをば貪り、我に違う時には瞋り、色々の相が顕わる、それは只畢竟自心を知らで居る一念に隔てられている故に、是を知らで居る時のの名をば、愚痴と云うなり。愚痴も汝が自心、知恵も汝が自心、独り狂言をするような物にして、其の時の善心が、判官になって出るかと思えば、又その時の悪心が、弁慶になって出るなり。佛より畜生に至るまで、一つも一心の幻作にあらぬ物はなきなり。その自心本来より、今日ありありとして、現在するに至りても、何をか指して自心じゃ知恵じゃとかたどり、名を付くべき處のなきことを知りたらば、貪欲とも瞋恚とも、大悲とも佛とも心とも名の付けようのなきものなり。
爰をとっくと知りて、瞋らば、火焔ほど瞋て見よ、欲が起これば、山ほど起こして見よ。縦い起こるも自心の光明、起こりたるを嫌えば、嫌い手にになり、取り育つれば、實に瞋りと云う物になって、是より色々の境界を建立して生をとるなり。善心でも悪心でも、起こらば起こるまま、休まば休むまま、取るでもなく、捨てるでもなく、常に只自らの無自性なることをうけかい、直に照らして知れば、目を開きて世界を見る如く、山もあり川もあり、人もあり畜生もあり、浄き物もあり穢しき物もあり、様々あれども、皆是れ汝が眼より出る大光明にして、嫌うこともなく、取ることもなきが如く、取りも捨てもせねば、起こった瞋恚が汝が神通光明なり。
この異を能く眞實に合點すれば、百千萬のことに通じて、少しも心に煩うことなきなり。是を般若菩薩と名づくるなり。
**** 「時照見五蘊皆空度一切苦厄」 佳境に入ってきました
時
と云うて、般若の知恵を行ずる時分があると云うてなきなり。如是のことを自ら親しく知りたるその時なり。この事を知りて、一切二六時中、 障りなければ、いつもこの時で居るなり。心の外に別の時がなきなり。無始より以来尽未来際、只この一念一心一時なり。
照見五蘊皆空度一切苦厄。
五蘊とは、色と受と想と行と識となり。蘊はつつむと読む字なり、この身の五蘊あつめつつんであるを云うなり。色と云うは、色身。受と云うは、六根に色聲香味觸法を受るなり。想と云うは、心に何やかやのことを思うなり。行とは、昨日の身は今日に移り、今日の身は明日に移り、若きより老いに至る、此の移り更る處、手足の働く處を行と云う。右のこと一々に知るは識なり。此の識がが六根ともにつかさどる故に、此の色を本心じゃと取り付く人が多い。その人は、賊を認めて子となすと叱っておいたも此のことなり。五蘊は、皆空じゃと云えば、此の身がある物じゃと思うに依りて、それよりして製を悦び死を悲しむ。此の身は、しばらく父母和合の縁より起こりたる物故に、縁起は元と自性なきものなり。
譬えば燈火の如く、燈心と油と瓦との縁で、ありありともえて、有りの儘でなきものなり。人の身も其の如くなり。この身を一々に地水火風に返し終えて、後に空じゃと云うは、有相の目に掛かる人の為に言いたることなり。返すには及ばず今其の儘で返し終わりたるものなり。受想行識ともに都て只汝が縁起にして實なきことを知らず、一念で色が實に目に対したと思い、声が實に耳に入ったと思う、六根共に其の如く思い、その思いともに縁より思惑があるようなと云うことを知らず、實に移り行くと思い、若きより老に至りたと思う、盡く皆汝が分別なり。
分別なきに身が方より自身と名乗りはせぬなり。一切萬法が皆其の如くなり。識と云うは、意に知る處の物なり。この識のしるも、只縁に対する時知るに似たれども、鏡の中の影の如く、識じゃと思う思惑より外に、微塵もばかりもなき物を、多くの人が是が實にあるものじゃと思う故に、其のおもわくがどこともなう一物となり、それよりして、人となり天となり、色々十界の境界に渡りて、車の轍をめぐるが如く、生を引き形を取りてやむことなし。
一切の諸佛、歴代の祖師共に一切衆生の生死往来することの不便さに、この自心本来清浄圓明にして、生もなく死もなく、五蘊皆空と示し給うも、この生死往来を休めん為なり。右の如く自心元より何もなく、譬えをよせて云わば虚空の如し。
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爰をとっくと知ったる時には、五蘊の上、其の儘に空じゃと思う計りで居ると云うではない。其の空じゃと解する分別もなき時を、強いて名付けて虚空と名を付けたることなり。此の如く知ったる時は、生まれて来た過去もなく、再び生を得べき未来もなく、生死共になければ、活きて居る現在もなきなり。此の人には因果もなく因果を撥無すると云うこともなく、三世已に、一心と云うこともなく、佛でもなく衆生でもなく、何でもなし、況や名とか相とかあろうようがなきなり、なんにもないによって、是れ爰を佛とも名を付けて、空とも清浄とも、道とも圓明とも云いたることなり。
然れども右のこと慥かに親切にきめずして、一点の法見でも微塵ばかりもあれば、その見即ち我と云うものになって、生を引かねばおかぬなり。初め云う如く、明らかなる手前で見た時には、一切衆生の輪廻夢の如く、生死も夢の生死、瞋る人を見るに夢で瞋り、欲の人を見るに夢で貪り、畜生、餓鬼、人天、佛果までが夢の畜生、夢の餓鬼、夢の人天、夢の佛、千万億無量恒河沙の形を得来る衆生も、皆空華往来にして、生も空華、死も空華なり。是れを慥かに知ったる時は、日用一切一切の上で空華を知り、夢と知って取りもせず捨てもせず、吾に違うたるは、夢の差いと知り、順じたることは、夢の順なりと知りて、差うことを憎まず、順じたるを愛せず、憎むまい愛すまいと云う用心もせず、金銀財宝も、その如く捨てもせず欲もなく、ありの儘でさばく時には、鳥の虚空を飛ぶ時、空の中には鳥の足跡なきが如く、魚の水に泳ぎて障りなきが如し。
親をば親のごとく、子をば子の如く、兄弟妻子他人知人、只それぞれの儘て違いもせず、何の子細もなきなり。去るに依りて、道元和尚も「水鳥の行くも帰るも跡たえてされども道は違わざりけり」と詠せられたる如くなり。如是現在の色身、その儘生滅なきが故に、色身の縁終わりたと云うて、再び生を受ることもなく、色身離れたる心が空のやうになって居ると云うことも、居らぬと云うことも何もなきなり。それならば、この事さっぱり埓明たる人の、死んで心はどのようになると云う人あり。今現在ありありとしたる如くの時さへ、分別を離れて、色々の思惑も離れて生滅なく、なんともなりとも方付くべきことがなき物か、色身の縁つきたる時に、なんとなるべきぞ。なんともならぬものなり。なんとなりともなれば、これ生滅と云い、去来と云うなり。
ここで多くの人が空見断見と云つて、恐ろしがるなり。空じゃと見、断無じゃと見れば、その見體又生死に流転するなり。その見共に空なりと断絶したらば、それこそ真の不生滅の大涅槃とは云うなり。
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