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生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)

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生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

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仏道と生長の家の違い (2890)
日時:2021年07月16日 (金) 08時09分
名前:長崎の晩霞(事実)

さて、悟りについて話をするに最もわかりやすいのが釈尊の事例です。なぜそんなことがわかるのか、と思うかもしれません。しかしやってみれば、悟りに至る経緯は全員釈尊と同じ道をたどるしかないなーと思います。
釈尊は生老病■の苦を問題にして、その根源を探りそれを滅せんが為に修行者の道に身を投じたといわれています。何不自由のない王子だからこそわかることもある。お金や地位がいくらあっても人の苦しみの原因をなくすことはできないと。まー、普通はそんなこと言わずに特権階級の安穏生活を一生送るもんだけど、よくも地位も家族も捨てて求道者の道に踏み出したなと。真理探究の求道者の強さ、妥協のなさ、これはどうしても最初に必要なもんです。

だけど、最初は人皆間違いからスタートするんですねー。苦しみを問題にするということは、苦しみたくないと思うからこそ出る発想です。すなわち自分に都合の良いことを念じて出発したということです。自分かわいい、が出発点だったということです。自分という思いが世界の中心にどがんとあり、何でも自分という思いを中心に説明し善し悪しをくっつける。自分の満足の為にものをする。なんたってこの体まで自分と説明し、あるいは自分のものと思い込んでいるわけだから、自分という思いの満足の為にものをするんですねー。
釈尊はありとあらゆる事をしたと言われています。なぜ苦しむか。やがて現実と合致しないことを思うから、そのギャップで苦しむんだと思う。
では現実に合致しない思いを発せずにいられる工夫はないかと探す。思いつく限り実践してみる。体も痛めつけてみる。とことんやってみたからこそわかることがある。思いの延長線上に答えは無いと。自分という思いとこの体ともしかして全然別物だったんじゃねーのー?自分の持ち物だっていうの、とんでもない思い上がりかー?自分ていう思い、これ勝手な思い込みかー。この世の一切の存在と思いの中身は関係ないかー。

ここでぱたっと静かになる。自分という思いが半■半生になる。あるいは自分という思いが、世界の中心にいなくなり普通の思いのように流れ出す。あるいはこんなふうに気づいたかも知れない。思いを問題にするとき、それはすでにない。ないものをコントロールしようったってそれは無理だ。できない。なんでできないことを今まで必■にやろうとしてたかー。できないことをやろうとしてたもんで苦しんだ。俺は馬鹿だ。

というわけで思いを立て、思いに従いゆく旅の終わりが来た。大懺悔したんです。難行苦行をやめた。釈尊と一緒に難行苦行をしていた仲間からは裏切り者呼ばわりされても、それに反応する自分というのがよほど■んでしまった。

さて、史実で言われる菩提樹の下で坐禅を始めたというのはここからなんです。自分かわいいがあるとながめて説明して○×をつける。少しいいと人に自慢する、天狗になる。悪いと思うと元気がなくなる、卑下する、人をねたむ。それでこういうことをやる自分という主語が■にかけると、ながめて説明しなくなる。ながめない、説明しないって肩肘張った修行じゃなくて、自然にしなくなる。こうなって初めて坐禅になる。
いつのころからか忘我。まったくながめなくなると記憶がなくなる。これを悟りと言っています。

いつまでも忘我じゃなくて、何かの縁でまた元に戻る時が来る。またながめて説明する働きが始まる。釈尊は明けの明星を見たとき元に戻った。道元禅師は隣に居眠りをしていた和尚が警策(きょうさく)でひっぱたかれる音で元に戻った。一般的には明けの明星を見たとき悟りを開いたって言われていますが、その前に悟りを開いていた。ながめて説明するっていうことは、どうしてもリアルタイムの自分に、たった今の自分には寸分遅れる。だから思いの中の自分と存在としての本当の自分と二人出来てしまう。だけど自分はたったひとりだけです。たったひとりしかいないのにリアルタイムに自分で自分をながめられるわけはないでしょう。ほんとうにたったひとりきりになったとき、すべてのものがなくなるのは物理の法則です。つまり思いの中の自分というのは残像、影であったということです。これが忘我=悟りによって証明されたということです。

この忘我=悟りというのはほんとうにはっきりしています。いくら良さそうでもそれが分かっているうちは違うということです。
坐禅をしていて、いやしていない時でもいいんですが普段にない体験をすることがあって、それを見性(けんしょう)と呼んで珍重する風があります。ですがそれと悟りと決定的に違うところが二つあります。一つは見性は普段にない体験をしたと分かっていること。まだ眺めて説明しているんです。説明する主語があるんです。かたや悟りは主語が■んだものだから記憶そのものがない。生きてるのか■んでるのかすらわからない。二つ目は見性した人はだいたい人に自慢する。その続きで師匠から印可(いんか=許可証のようなもの)をもらうのどうのという話になる。そのうちだいたい偉くなる。これすなわち自分という主語が残っている証拠なんです。これをやっている人はほんとうにこれでいいかどうか、世界中で自分1人になってもまだこれをやっているかどうか検証してみて下さい。見性した人は多分満足と思っているんでしょう。悟り経験した人は満足とは思わない。あんた、主語が■ねば満足だーどうの、修行だー、悟りだーそういうの一切なくなる。ただの人。その他、ぼーっとしていたりとか、無我夢中の時とか、私、忘我しましたっていう人がたまにいますけれど、そういうものとは無関係です。

むしろ忘我=悟りという現象が尊いわけではありません。それに至る過程で今まで後生大事にしていた「自分」という思いが■んじゃったことこそが大事なのです。自分という主語が完全になくならないと忘我という現象は起きない。そして何らかの意を用いてそうなったというのではないということだけは記憶にある。だからこれ以降修行を間違うということがなくなる。だけど自分という思いが消しゴムで消されたようになくなってしまうわけではないのです。今まで本当の自分だと思い込んでいた思いの自分=残像=影が一度完全に■んでしまうと、自分という思いが地位を失い普通の思いと変わらない比重になってしまう。
五感の領域と思いと(中身にかかわらず)同じ比重で、時処位によって何がメインになるかはその時しだい。その時その時の縁による存在それぞれ。ただそうあるのみ。なにかが不当に重いということがない。思いが地位を失った分だけ五感の領域が俄然輝きを増す。あるときススキの微妙に驚き雲と光の鮮烈に驚く。こんなところに生きていたのかと、不意にふるさとに帰る。この体の生きていたところは紛れもないたった今の五感の領域。迷いの世界から現実世界にもどったうれしさ。たった今はたったひとつ。迷えない。

翻って思い入れがなくなったぶん、思いを自由自在に使えるようになる。思いに使われるということがなくなる。使う必要のない時は思いは流れる雲。思いに羽交い締めにされてないから、何やるにしても最も効率よく丁寧にできる。その人間の本来持っている力が存分に発揮される。と同時に思いに引っかかっている人の様子がよく見えるようになる。それ違うと言ってやれる。布教ということが始まる。だけど思いを失って事実を得るというのを布教と言うのかな?

世の宗教は思いの延長線上に見たこともないような物語を語り、信じれば救われるという。現実にない世界だから膨らませようと思えば際限がない。果てはこの教えを信ずるものは人間であり、それ以外は人間ではないと断ずる。乱暴、野蛮、危険。

悟りとその功徳とは、思いを失ったが故の我々の存在そのものの活動なのです。

生長の家の本尊は観世音菩薩という。それはいづこに在りや (2891)
日時:2021年07月16日 (金) 08時11分
名前:長崎の晩霞(事実)

「観自在菩薩」

観は見透す底の底まで見抜く。見るものなくして見る。
見る時、見るものばかりにて、ものはない。

聞くも嗅ぐもみな同じ。聞くことを用いずして聞く。
太源の孚上座の鼓声を聞くがごとく一声によく大悟せり。

誰も常に聞いておる。聞くことは同じや。
ただ自ら妨げて苦しむのみ。

すべての人はみな元来自由人なり。過去の菩薩の事ばかりではない。今のわれらなり。
高祖道元禅師の申された
「人人分上豊かに具はれりと云へども修せざるには現れず証せざるには得ることなし」と。

実にそうじゃ。元来持っておっても確かに出してみねば使用は出来ない。
宝の持ち腐れとなる。
自らその人となって外に求むることなく自己を忘れて事に当たるのが菩薩なり。

宇宙はみな四大性の集合離散ばかり。物の要素を地水火風というた。
物はみな、これのあい寄り、あい集まる作用なり。
人もそれじゃ。眼は色。耳は音声。この間実体はない。

古も今もみなこの無性の時たり。
時は今なり。

水は方円の器に入って方円の姿はない。
ないながら如何様にでもなる。
この今の絶大を自覚したのが菩薩である。

なぜ日本は女性がレイプ被害者を攻撃するのか、無明の自壊作用がないのに光明遍満の楽土が来るなどと甘いことを思うな!***これらへの言葉  (2892)
日時:2021年07月16日 (金) 08時13分
名前:長崎の晩霞(事実)

無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽。

無明もなく無明の尽きることもなしは、他の宗教にはないんです、もっともこれなくば宗教とは云えない、
妄想だ悪いやつはポアしてしまえ、魔女裁判だ拷問して財産をふんだくれ式ですか、
根拠があってやることは残忍で容赦がないんですか、無明もなく無明の尽きることもなしは、
坐るんでしょうするとたった今で100%いいんですよ。

自分以外のものは自分が死んでもまったく変わらないんでしょう、悟る以前も悟ったあとも同じです、
だったらなんだなんにもならんじゃないかという、ほんとうになんにもならんのです、
これじゃどうにもならん、満足できない、なんとかしようとして七転八倒する、
たんびに元の木阿弥ですかするとどうしようこうしようというものが失せる、手も足も出ないんです、

ただうち坐るによって向こう合わせに来る、はあっと気がつく、身も心もまったくないんです、
無明もなく無明のまっただなかにしてこうある、取り扱う自分が失せるんです、
神変不思議です、摩か不思議という、200%自分ですか、あっはっはどうにかこれ仏です、仏の修行です、
おれがいいおまえが悪いじゃないんです、自信満々という、そうではない自信がなくなる、何物も得てないんです、
ただ無老死亦無老死尽を知る、生老病死また同じです、

因果必然のまっただなかにあって、たたわわついに物を得ずです、なんの根拠もなく生きて下さい、
なにがどうあるべき、堂あったらいいということがない、さあ生きて行かれますか、
生きるということさえ知らないんです、おれは悟ったというときかたくな、始めっから安楽椅子なんてないんです、
悟るとは強いていえば安楽椅子、転ばぬ先の杖を擲つということですか、

若い人はまずもっておむつを脱いで下さい、人に文句云うだけの過保護役立たずじゃあ坐禅どころじゃないです、
身心挙げてということはもと身心がないからなんです、木に登って魚を求める不都合、
もとまったくにこの中にあり、仏の大海とは坐禅をする以前と同じなんです、飢えた虎に投げ与えること、特別はいらないんです。

・・・だって、そう相手が思っているのだから、仕様がない・・・ (2893)
日時:2021年07月16日 (金) 14時46分
名前:長崎の晩霞


『不思善悪の前に事実がある』


一人の乞食坊主が、村人に取っ捕まり、砂浜に首まで埋められました。

浜の塩焼き小屋に放火して、燃やした罪を被せての私刑(死刑)でした。

だんだんと、潮が満ちてきて、乞食坊主の目前に迫ってきます。

そのまま、潮に呑まれ海水をイヤと言うほど呑まされ、水死するのは、もう秒読みに入っていました。

そこで死んだとしても、不埒な乞食坊主が塩焼き小屋に放火して燃やし、その罪で、殺されたというだけで、誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、歴史にも残らず、ましてや、その乞食坊主の名を冠した宗教も興らなかったでしょう。

・・・たまたまそこを通りかかったヒトが、乞食坊主を、助けました。

事情を聞いてみますと村の人に、塩焼き小屋に放火した罪を被せられた、と言います。



・・・そうなのか?と問い詰めると、・・・違う、と乞食坊主答えました。

・・・違うなら、何故、違うと、否定しなかったんだ? というと



、・・・だって、そう相手が思っているのだから、仕様がない・・・



と、その乞食坊主、答えて、何事もなかったかの様に、何処かに歩き去った、というハナシが、伝わって居ります。

その乞食坊主の名は、良寛禅師。

これも不思善悪の話…相手がそう云うのだから・・・ (2894)
日時:2021年07月16日 (金) 14時56分
名前:長崎の晩霞

『悪口を浴びて村中を「もらい乳」』

白隠さんが駿河の原宿(現在の静岡県沼津市原)の松蔭寺に住職してからの話

あるとき、村の娘が父なし子を産みました。
娘の父親は、だれの子かと問い詰めましたが、娘は頑として相手の男の名は口にいたしません。

しかし、とうとう耐えきれずに、白隠さんの子だとウソをついてしまいました。
父親が日ごろから敬愛している白隠さんの子であれば、許してもらえるだろうという娘の浅知恵でした。
もちろん白隠さんは、身に覚えのないことです。

娘の父親は松蔭寺に駆けこむや、「この生グサ坊主!よくも娘をキズものにしてくれたな。
さあお前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、赤ん訪を突き出しました。

白隠さんは何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。

この日は飴湯や米の粉をといて与え、翌日からは村中を「もらい乳」して歩き回りました。
それまで、高僧・傑僧として尊敬されている白隠さん、一転してとんでもない破戒僧とさげすまれ、弟子たちはもちろん信者も離れていきました。

それにもかかわらず悠然ともらい乳して歩き、赤子を親身になって育てる白隠さんの姿に、当の娘のほうがこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。

驚いた父親は、さっそく白隠さんに非礼をわび、赤子を返してほしいと恐るおそる申し出ました。
このときも白隠さんは「ああ、そうか」と、泰然として赤子を返したといいます。



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