生長の家の本尊は観世音菩薩という。それはいづこに在りや (2891) |
- 日時:2021年07月16日 (金) 08時11分
名前:長崎の晩霞(事実)
「観自在菩薩」
観は見透す底の底まで見抜く。見るものなくして見る。 見る時、見るものばかりにて、ものはない。
聞くも嗅ぐもみな同じ。聞くことを用いずして聞く。 太源の孚上座の鼓声を聞くがごとく一声によく大悟せり。
誰も常に聞いておる。聞くことは同じや。 ただ自ら妨げて苦しむのみ。
すべての人はみな元来自由人なり。過去の菩薩の事ばかりではない。今のわれらなり。 高祖道元禅師の申された 「人人分上豊かに具はれりと云へども修せざるには現れず証せざるには得ることなし」と。
実にそうじゃ。元来持っておっても確かに出してみねば使用は出来ない。 宝の持ち腐れとなる。 自らその人となって外に求むることなく自己を忘れて事に当たるのが菩薩なり。
宇宙はみな四大性の集合離散ばかり。物の要素を地水火風というた。 物はみな、これのあい寄り、あい集まる作用なり。 人もそれじゃ。眼は色。耳は音声。この間実体はない。
古も今もみなこの無性の時たり。 時は今なり。
水は方円の器に入って方円の姿はない。 ないながら如何様にでもなる。 この今の絶大を自覚したのが菩薩である。
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