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- 日時:2018年01月27日 (土) 00時56分
名前:トンチンカン
<トキ掲示板(続したらば版)> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 続き (1401) 日時:2018年01月26日 (金) 22時50分 名前:トキ
「倫理的な生活」と言う概念に驚く人も多いと思います。しかし、少し環境問題に関心がある人なら、「エシカル」と言う言葉の日本語訳であることを知っているでしょう。
この発想自体は、別に谷口雅宣先生のオリジナルの発想ではありません。例えば、ダライ・ラマ14世も発言をしています。
https://studybuddhism.com/web/ja/archives/approaching_buddhism/introduction/how_to_lead_ethical_life.html
この発想自体は、別に問題があるわけではありません。世界がグローバル化し、どの国も、どの個人も、どの組織も、他国や他人や他の組織と無縁ではいられない時代には、自分たちだけのことを考えるという発想はいづれは行き詰まるとは言えます。
具体的に言うと、例えば日本人に親しまれているユニクロの製品は海外で製造されていますが、いくつかの工場は発展途上国にあります。過去、いくつかの工場では労働者の無知につけ込み、劣悪な条件での労働が強制されたこともありました。ウオールマートは米国の大手のスーパーですが、トップは莫大な利益を得ているのに、労働者がわずかな賃金しか得ていないケースもあったそうです。中国では経済発展のために環境破壊が深刻化しています。つまり、無制限の自由競争から、人権の抑圧や環境破壊が起きるケースがあります。そこから、経済的な活動でも、購買行動でも、環境に良いか、労働者のために良いか、ともかく社会や他人にとって良いことをしようと言う発想をすることが大事だ、と言う活動が始まりました。フェアトレード、つまり公平な取引という言葉もありますが、経済的な価値の追求のみを動機にしてはいけない、という発想が起きたのです。
「私たちの豊かな消費生活は実はこれらの環境問題と社会問題と密接に関係しています。市民が倫理的な消費を心がけることによって、従来より環境、社会、 地域により配慮された製品が市場で競争力を持つようになり、社会を持続可能な方向に 動かすことができるのです。」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/227006.html
この「倫理的な生活」という発想自体は普遍的なものであり、本流復活派の人たちでも共鳴できる部分はあるとは思います。
しかし、どうして本部の提唱する「倫理的な生活」なるものが信徒の強烈な反発をえるかというと、生長の家本来の使命である信仰活動をそっちのけで社会運動である「倫理的な生活」という運動に暴走している点が第一に挙げられます。次に、理念が仮に正しいとしても、やっていることが無茶苦茶だからです。
例えば、本部は信徒にコーヒーを飲むな、肉を食べるな、マグロを食べるな、百均の製品は使うな、バナナを食べるな、というおせっかいを焼いています。が、本部の移転一つを考えても、耐震工事をすれば使用可能な本部会館を取り壊し、北杜市の自然を破壊した「森のオフィス」の建設をしています。環境負荷という点では明らかに「倫理的な生活」に反する行動になります。その上、高額な自転車で競争することが信仰的だと言わんばかりの言動にはバカバカしさを越して、笑うしかないです。
「倫理的な生活」が提唱される理由の一つに、社会的な所得格差が挙げられます。が、現在、本部員と教区職員との間での所得格差は信じられないほどです。
さらに、これだけ社会が多様化した時代に、画一的な「倫理的な生活」という発想を強要すること自体が不可能に近いとも言えます。例えば、シングルマザーで頑張っている人にとっては、百均が存在することで「人間らしい生活」が送れているのです。
もともと、生長の家では、人間神の子という悟りが根本にあり、そこから自分の行動をどうするべきか、という結論が出るべきでした。その部分を省略して、「倫理的な生活」を強要すると、おかしなことになります。
谷口雅宣先生ご夫妻も本部の人たちも、いわゆる「善意の人」であるのはわかります。だから、自分たちがエコが良いと思えば信徒にエコを推奨するし、自分たちが民主党や立憲民主党が良いと思えば、信徒に立憲民主党への投票を呼びかけ、安倍内閣が悪いと思えば、安倍内閣への攻撃を先導します。安東巌さんが問題だと思えば個人攻撃もするし、原発が問題だと思えば、反原発を運動の主眼にします。動機は「純粋」なのですが、言われた方にしたら信仰と関係ないことを命令されるいわれはないし、はっきり言えば失礼な話です。主観的には良かれと思っていることですが、客観的には相手を侮辱していることになります。
宗教団体はあくまでも信仰が第一で、「倫理的な生活」という概念は参考にはしても、信徒に強要するべきではないと思います。
https://studybuddhism.com/web/ja/archives/approaching_buddhism/introduction/how_to_lead_ethical_life.html ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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