川合清丸の世界、造化の三神の名に因みて (2770) |
- 日時:2021年03月24日 (水) 20時37分
名前:長崎の晩霞(佛道卽解脱門)
天みづから天とは言はず。之を天と名づけしは即ち人なり。土みづから土とは言はず。之を土と名付けしは即ち人なり。高天原もみづから、高天原とは言はず。之を高天原と名づけしものは、即ち人なり。豊葦原の瑞穂の國もみづから豊葦原の瑞穂の國とは言はず。之を豊葦原の瑞穂の國と名づけしものは、即ち人なり。
天之御中主神も、御自ら天之御中主神とは名乗り給はず。之を天之御中主神と称し奉るものは、即ち人なり。皇産霊神も、これを御自ら皇産霊神とは名乗り給はず。皇産霊神と称し奉る者は即ち人なり。・・・ 略 ・・・そもそも天と云ふも、國と云ふも、亦斯心の境界なり。神と云ひ人と云ふも、亦斯心の階級なり。
人の眼より見るときは、天地世界は皆人道にして、一切萬物孰れか人為の外に出でむや。若し神の御眼より見給ふときは、天地世界は皆高天原にして、一萬物孰れが神明にましまさざらむ。 故に曰く山には山の神あり。川には川の神あり。國には國魂神あり。海には海若神あり。草には草の神あり。木には木の神あり。土には土の神。水には水の神。火に火の神。風に風の神あり。謂はゆる八百萬神ありて、以て晝夜に守護し給ふと、豈尊きことならずや。
若し佛の御眼より見給ふ時は、天地世界はみな寂光淨土にして、一切萬物孰れか佛陀にましまさざらむ。故に曰く、一々の世界に、一々の佛あり。一々の佛に、千萬無量の分身ありて、以て不祥を呵禁し給ふと、豈有り難きことならずや。果たして茲に至りなば、神と云はむも亦可なり。佛と云はむも亦可なり。高天原と云はむも好し。寂光淨土と云はむも好し。何の爭ふ事かあらむ。
唯凡夫の分劑に在りて、妄想の分別を起し、天然とか人為とか云ふ邪見を振り立てて、世を惑わし、人を謬らせむことは、善からぬ業なり。神道黒住派の教祖、宗忠翁の諭されたる道歌の中に 『神と云ひ佛と云ふも天地の誠の中に住める活物』また 『心とは外にはあらず天地の有無を離れし中の活物』また 『有無の山生死の海を越えぬればここぞ極楽世界なりける』と。
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