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[546] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら22 名前:コレクター 投稿日:2021年01月06日 (水) 01時40分

ちょっとした身震いをもよおしそうな抑制ある興奮に突き動かされ、幸吉は至福の光源を見つめた。
奮い立つほど熱意を感じられないのが不思議だったけれど、裸体を開いた女性がいつまでも恥じらってないよう、幸吉の見構えもまた不遜な落ち着きに浸されていた。
黒々とした恥毛は悦びの光を押し殺しているのだろうか、さきほどから白く柔らかな肌を愛撫しては、やや濃い茂りに息をのみ、割れ目への凝視をためらって先延ばしとしてきたのだが、夢見における闇のなかをさまよう心境と等しく、深夜という静まりかえった時刻に始めて触れた心細さに、電光の音を耳鳴りと感じてしまう気安さに、なにかしら守護されているかの反転した意識が働いたせいかも知れない、そうして望みもしない肉欲の重荷だと、あえて言い聞かせる屈折した線状をなぞっていた。
だとすれば分別も道理もわきまえずに、ひたすら情欲へ溺れる悲劇的な笑みすら浮かべられない自分がままならなず、よそよそしく、それこそ形式に則しているだけの淫行に過ぎないではないか、先んじた領分は所詮透けているが、重荷こそ肉欲の希望となるはずだ。
「もっとよく見せて」
思いがけず卑猥な声色を出してしまい、照れ隠しのようだと胸が小さく騒いだけれど、無言のまま虚脱した様子で腰を浮かせた間弓に、同類のよそよそしさを覚え、屈折の度合いは過分なく調整された心持ちになった。
それは卑下であって、性の奴隷という名分を借り受けている以上、いら立ちは抑えられ屈従が生命力の破壊に血路を開いていると看做して欲しいのだから、折り合いは好都合な情事を讃えて然りだった。
すでに快楽の糸口を結んでいた肛門への刺激より、すこし弱い舐めずりを持って眼福となし、とは言え、ほとんど光源をふさいでしまって、その官能の糜爛を眺めることが出来なかったので、くちびると舌で感じる粘り気がすべてだった。
吸いつきながらちろちろ舌を這わす案配は、もう学習済みであった女陰の酸味を尊く感じるけれど、熱中している割りには散漫な想念をもたげてしまう。たこときゅうりの酢の物はもっと甘いとか、上気した頬に羞恥を察しないのはどうしたことだとか、勢いで呑み込まれたわけでもないのに数本の恥毛が絡まる感覚に驚いたり、昨夜と違い明るみの下での口淫はいやらしさを力説しているか、どうも妙な気分になり増々もって局所の局所たる由縁に埋没したくとも、陽光が射す部屋でのありありした場景をしっかり脳裡へ放り込んでみても、現在のいかがわしさに直接触れてないように感じたが、それはまだまだ過ぎ去った夜の高揚が醒めていないからだと、冷ややかな情けなさに包まれながら得心するしかなかった。
間弓にしてもそうした事情は心得ていて、この交わりが意図するものを含んでいるから、たとえ物々しく肉感に応じても、あるいはしっかり絶頂を迎える体勢でいたとしても、なんら欺瞞であると呼ぶべきではなく、却って大胆な媚態を知らしめる姿態が有意義に映しだされ、それは気弱な風情を押し包んであますところなく素直な方向へなびいているよう、抜け落ちた快楽を呼び返している。
顔色を見遣れば、とろんとした目つきやだらしなく開いた口もとが雄弁に語っているようで、幸吉は今西家に置かれた自らの立場、理不尽な高圧にくみする絵空事みたいな誘惑を、そして仕掛けの有無は不問にした由紀子との熱愛がこのうえもなく懐かしくよみがえってくるので、些事は放擲し、おそらく二度とは帰って来ない奇特な体験をしみじみ噛みしめ、以前瀧川先輩に女子がのめり込んでしまったふうに、間弓の肉体を開眼させたいと一抹の気まぐれをよぎらせたりしたが、もつれた形勢に陥るのが鬱陶しくなり、抱くのは今日が最初で最後、そう案じると、気散じはするものの、形式にわずかだけでも抗う意気で貪欲にこの裸身をもてあそび、体力と神経を最大限に発揮させたのだから、深夜の電光がもらす耳鳴りのような微かな異音を打つ消すように嬌声をしぼりはじめた間弓は、まぼろしの愛人と化し、淫らな肉体の関係だけに集約されると信じた。
粗描された無頼を演ずる居心地に善し悪しもない。形式の情交を深めながら、その情交に沈みゆく俳優と一緒であると自らを叱咤した。どこまでも幻惑であることを願うかたわら、ちくちくと皮膚を刺すような快味を求め、幸吉は失った夜を取り戻そうとしている。
「そんなにじろじろ見ないで」
日陰と日向のさかいを絶え間なく行ったり来たりする昆虫のせわしなさをふと思い浮かべつつ、案じた割りには愛撫と視姦を我がもにしていたと知り、引いた潮の満ちてゆく綿密さを包摂する悠長な調べに大きくうなずいた。
すでに自分の唾液だか、濡れそぼった証しだか、判別不能な割れ目の襞に張りついた恥毛を見つめながら、
「僕のもお願い」
と、間弓の手を引き寄せ握らせ、上体を起こそうとしたところ、りきみ過ぎはどちらだろうと、それこそ白黒つけたくなるような淫奔な思わくが冴えわたって、熱意はどうあれ色魔の本性にへばりつく意地悪な衝動は邪心のない関わりになる。すると握らせた手の冷たさを補うごとく、なま暖かい感触が怒張しきったものへ被さった。
何度も接吻を重ねたせいか、間弓の口内は人肌をたぎらせたように、ぬるぬると火照っており、すっぽり幸吉を頬張ってしまった。これまでの奉仕への返納のつもりだろうか、明らかに生娘の技などではない妙齢の色香が放出させた、そつのない行為に驚き喜んだ幸吉は、快楽に溺れていくおのれの投げやりな想いの増すのをこらえきれなかったけれど、これまで頭のてっぺんから足の指さきまで痺れるほどの淫行をがむしゃらに施してきたので、嗚咽やよがり声の粋を越え、大きな愉悦を体現してもらいたく、つまり絶叫をこの部屋に、いや、今西の家屋全体に響かせたくなっていた。
熟した桃の実とざくろの強烈な赤みが、幸吉の倨傲を煽ったというよりも、年少の男子が抱く本懐として是が非でも先に頂点へ導かなくてはならない。由紀子と正枝の秘所を突き進んだという自負を証明したい。それは功罪の彼方からささやいてくる稚気に富んだ抵触であり、不粋なまでに生々しさを発光させている拝跪に他ならなかった。
間弓はうっとりするくらい惚けた表情を保ち、くわえこんでいたものをゆっくり離すと、くだんの本懐とは異なる甘えみたいな要望が胸にあふれ出したのだったが、一方で肉体のうねりを乞うている対等の意識にとらわれ、愚図愚図している暇はない、さあ、股をひろげたままで、言葉には出来なかったけれど、目つきやら動作でそれは通じたと思われる。
ふたたびあおむけになった裸身に重なり、腰を落とした。
「ああっ」
顔をそむけながら間弓は下半身にいきり立った堅物を迎い入れた衝撃に出会った。
濡れた案配を慈しむよう、幸吉はゆっくりと腰を動かし、腹部から乳房のあたりを両手でまさぐった。が、それは手持ちぶさたを嘆いているのではなく、根拠ある自信とたかをくくっていた遅漏の覚えが、まったく当ての外れた調子になってしまい、つまり余裕ある責めに努めればいいと踏んでいたはずなのに、おたがいの**をいざ合わせてみれば、とてつもない心地よさが、それは噴出する精をこらえにこらえているという実状に、先鋭的な加減で敏感になり過ぎ、今にも吹き出しそうな勢いだったからである。
おおらかな快感に身をゆだねていてもたぶん間弓は、相手の痙攣じみた感覚を見逃したりはしないだろう。現に幸吉の腰使いをしのぐ敏捷な動きはとても自然で、年少の男子を可愛がるすべが本能的に備わっているようであった。
「間弓さん」
もう声でも出さなければどうにもならない。
「はい」
うわずってはいるが、気位や母性のとけ込んだ好個な返事がはね返る。
「間弓さん」
芳烈な吐息は細流を望んでおり、股間によって支配された獣欲は底知れず、未聞の呼び声だけが幸吉の心身へこだました。かすれゆく自尊と自棄のはざまに遍照するうたかたは偸安の音色をなびかせ、さながら月の欠けを見上げるふうな淡い色沢で明晰さの消えた境界へと漂った。迂遠な道程の覚束ないままに。
それが絶頂の意を含んでいたのかどうか分からなかったけれど、おそらく下半身を急襲している事態にあらがえないのはよく理解できたので、放心状態のまま女陰に吸い取られていく沈痛な面持ちは、まるで転じることを禁じているかのように混迷をつたい、量感あふれた肉体の残骸を夢見るのだった。


[545] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら21 名前:コレクター 投稿日:2020年12月22日 (火) 03時15分

夜明けをくぐり抜けた放恣な感覚には、こういう笑顔がふさわしく思われた。そして女優の残り香を嗅ぎ取らせようとする思惑、ある種の優越心が身をくねらすふうに揺らめいている。幸吉は間弓の右肩に手をかけ、そっと抱きしめた。
「ほかに知りたくはないのですね」
声が出せないほどの問いかけは、日曜の朝みたいな長閑けさに包まれ、朦朧とした意識の壁を探り当てることの不可能を是認していて、とにかく抵抗を退けたい、そう願う一心で背馳につまずく懼れなど塵のように風解させていた。
この酔眼に似た無遠慮な接近は、間弓の意向を丁寧に引き出さなくてはならないという、強迫観念が先鋭化される瞬間であって、初めてのくちづけがもたらした印象をより濃厚にする義務に支えられていた。もっとも義務感にさほど重みがあるわけでなく、抱き寄せた女体の恥じらいを衣服のうえから知る程度の、よそよそしさと弛緩で計られていたので、ことさら抵抗が意地悪くしめされることはなく思われた。
自分の大仰な顔写真で取り囲まれた立場からすれば、こうした繊細な意想に落ち入るしかなかったし、続けざまに情を通ずる卑猥さをなるだけ表面に出したくなかった。いや、出すも出さないも、間弓は百も承知で満蔵を閉じ込めてしまっていて、この部屋で展開されるであろう密やかな結びつきは、未練やしがらみを断ち切るために準備された引導を渡す算段なのである。これほどわかりきった情況にあってなお、あたふたした鼻息を抑えられず、とぼけた振りのままでこそ禁欲は見映えよく、虚心で清潔なまなざしが保たれるのではないか、嵐を突っ切った勢いに乗じた幸吉だったが、こうも出鼻をくじかれてしまっては恬淡を気取るよりなす術は見当たらず、価値のないうぬぼれにしがみついていた。
間弓はそんな葛藤を読んでいるのか、
「わたし、ほとんど眠ってないのよ」
と、他愛ない愚痴をこぼすよう、愁いとも甘えともつかない柔らかな言葉を口にした。
それは幸吉の情欲を半ば認め、自らの境遇を端的にかいま見せる、隠しきれない奸濫に触れ合うような声遣いだった。耳障りのよい色香の含まれた語感が意味するもの、穿ち過ぎだと言い聞かせても激しい感情を振り切れないごとく、理性の循環は遠景に臨む歯痒さと同じで、あらためて長閑な朝を体感してしまう朦朧とした加減に集約されている。
性的なことには関心がないと言ったその真意は、言葉の裏で発酵しているに違いなく、これまでの煩瑣な応酬は果たして何を目指していたのだろうか、結局はめぐりめぐったあげくに神秘的な色合いへ立ち戻り、清楚な仮面を信条とするいびつな女体に重なるのだ。抑制気味でなければいけないような心持ちは、不規則な動揺を得てしまう悪徳に諭されている。
「一緒に眠りませんか」
我ながら見え透いた台詞を吐いてしまった幸吉だったが、共寝の意図をくみ取って、ややともするとまったくありふれていながら、不思議と気づいていなかった心の領域へ近づけるのではないか、この明るい部屋に光る肉体こそ奇跡を身籠っているのであり、もう二度と奇跡は起こらない。これが最後なのだ。まるで女難を嘆じる気取り屋みたいな横顔が、正面に映る自分の写真へ語りかける。
すると反対側から間弓の頬が触れ、その体温に昂じた戸惑いをなだめるよう、部屋の端に据え置かれた寝台へと視線が這い出し、眼の奥に沈んでいる夜の闇を照らした。頬の火照りはすぐさま感じ合うことの前ぶれとなり、お互いのくちびるを吸って吸って、唾液に濡れたすべりのよさから舌先が侵入し、そのまま横になってしばらく抱擁し続けた。
「まだ眠りたくありませんわ」
心焦がすほど待ちわびていた恋人が小悪魔に転じる響きを感じとった幸吉は、
「では、寝かせませんよ」
そう言いながら夜の眠りを幾晩幾年うながしたか知れない寝台を見つめた。おつかいにでも出掛ける仕草で立ち上がる間弓のうしろ姿を、時間の流れにまかせたまま。
深窓の令嬢の雰囲気を決して損なっていない間弓には、生成り色であつらえられた木目のはっきりしない寝台がよく似合っていた。布団を整えるつもりだろうか、ようやく穏和に運べそうな情事を目前にして、不意にそんな所帯じみた動作に思い馳せたのが、気恥ずかしく、とはいっても新たな女肉の開帳に高ぶる意識が変に醒めているようにも感じ、この恬惔とした心持ちは獰猛で無謀な性欲がいさめられているとさえ考えられたけれど、もはや振り返るまでもない、ここに至る経緯を差し引けば直情におもむく肉欲の颯爽としている方が誤りで、なんとも形容しがたい神妙な翳りは、疑うべきもなく正枝の悲しみを引き連れているからであり、にもかかわらず今西家の毒気にあてられ、肉体だけをむさぼった自責の念がこびりついて、もうひからびてしまった米粒の濁りみたいに硬く心を閉ざしている。が、それすら捨て置き、何の改悛もなきまま、双六の遊びを終わらせるように上がりに向かって、間弓が仕掛けたあまりに軽易な提案を呑み込もうとしている。
「こっちへ来て」
簡明な意見に幸吉は従った。ただ、カーテンを閉める所作になだらかではない、どこか引っ掛かりのある刺々しい感じを覚え、ごく普通に陽光をさえぎることで情事のほの暗さから逃れられるとは思えず、むしろ暗闇を招き入れる粛然とした気構えに準じているのだと言い聞かせた。
寝台へ転がるようにして交わりを始める。幸吉はいつになく乱暴な手つきで相手の衣服を脱がしたくなり、一気に下半身をまくり上げたのだが、さっと白い下着を覗かせただけで、さすがに間弓は脚に力を入れ、布団のなかに身を隠してしまったので、同じように大人しく就眠儀式のまねごとに倣った。そして接吻しながら順序よく間弓を裸にし、その手並みは自分で驚くほど鮮やかだったから、ふたたび慢心してしまい布団をはねのけてしまったけれど、間弓は別段嫌がりもせずにいたので、冷ややかな目線をむき出しの肉体へ投げかけ、ゆっくり日曜の朝寝坊を愛おしむかのように着ているものを脱ぎつつ、これから賞味するのだという意欲をたぎらせた。
ところがそんな傲岸な意識は、跳ね返るくらい屹立した男根とはうらはらに、これが今まで夢想していた女体だったのかという感慨は押しのけられ、中庸の豊麗を目の当たりにしたことで成り立つ、美徳の顕現に埋もれためくるめく情動で揺り動かれたのだった。
華奢な首筋は知るところだが、比類してせばまりを洞察させる肩幅も、さきほど接したとおりのつくりだったけれど、感心したのは見た目にふくよかな張りをあたえない胸のかたちであり、その世界の平和を守るために建立された造形が醸し出す中立の意志であった。
いったい乳房にかような観念など宿っているあろうはずはなく、間弓が常日頃から殊勝な心がけをもって過ごしていたから、ここまで造形美と肉感の橋渡しをしているとも考えられず、ではどうして大は小を兼ねるなどという格言が軽薄な聞こえでしか届けられないのか、まだ感触を知ったわけでもないのに、幸吉は早くも未知数であった中庸の肉感に心酔してしまった。
いや、厳密には心酔が先んじており、中庸は弁明と呼んでいい、何故ならその根拠を説明することは困難であるまえに由紀子の太ももを脳裡へひろげさせるのは逆、まずは昨夜の正枝の裸身を思い浮かべるのが然り、だが、カチカチに凍らせたアイスキャンデーの夏の光線に抗うかの発汗に、口渇と肉欲の意味を問いただすことに似て、まぐわう用意の出来た場面には放縦な揺れがふさわしい。
背徳感を背負ったふうな小心さとは、ゆくてを見失った頼りなさと寸分変わらない。正枝に対する託言がこの場を制しているのなら、きちんと了解しておくべきで、こう伝えなければならない。
「僕は間弓さん、あなたを選んだのです。今西満蔵の娘としての」
この欺瞞に満ちた声明を打ち消したいがゆえ、幸吉は太ももにしゃぶりつき股を覗いた。歴然とした感触は当然ながら由紀子のむっちりした想い出がよみがえったものの、かつて着衣の上でも窺えた間弓の下半身のは、女性特有の柔らかさとしなやかな張りが備わっていて、舐めまわし臀部にまで手をやってみても飽きるところがなく感じられた。これは後ろめたさから来る折り合いなどではなく、あまりに均斉のとれた肢体を持った間弓を味わい尽くしている現実肯定以外の何ものでもなかった。
遅れて乳房を大胆に揉みほぐし、その指先にやや神経質な指揮棒のような機微をさずけると、小さな声が耳に伝わってきた。そうして全身がわななくまで胸元をいじり続け、案外豊満な尻を撫でてから、初心に帰った装いで、濃密な接吻を交わし、耳の穴やら鼻の穴まで舌先をまるめてぬめりをあたえ、へそのまわりを巡回したのち、尻の割れ目にそって指先とくちびるを往復させたが、局部には時節が早いと思いなし、猛々しい感情を持ってまたもや太ももに顔を突っ込み、激しく呼吸するのだった。まだ足りてない、当たり前だ、一息つくことなく幸吉はくねり出した女体にすべてを捧げようと誓い、全身全霊が性の奴隷であるべく奮闘し、間弓の反応だけが生き甲斐であるような妄念に囚われてしまったけれど、少々疲労を感じて、が、それは箸休めのような時間の取り方であり、肉感自体に倦むことはなかった。
現に挿入をためらっている意気込みが、一番うまい料理をあとにするよう抑制の利いた叫びを上げていたのだから。華奢な首が折れてしまわないかと懸念されるまで執拗な責めで突き進み、やがて痙攣的な肉の震えが伝わり、生娘であって欲しいなどという幻想が崩れたとき、幸吉は晴れやかな気分を取り戻したのか、
「これで伽藍は壊れました」
とつぶやいた。
「ええ、なんですって」
嗚咽になりそうな快感を奥床しく留め置きたかった間弓が意地らしく、幸吉は涙ぐんでしまった。
「なんでもありません。間弓さん、素敵です。あなたは素敵です」
「そんな」
高揚したさなかに響かせる生命謳歌に幸吉はさらに酔い痴れ、ほぼ全身くまなく愛撫し尽くし、その舌と眼はもっとも気高い箇所、女陰を残すのみとなった。


[544] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら20 名前:コレクター 投稿日:2020年12月08日 (火) 03時18分

おてんばな女の子が時折みせる負けん気であふれた鼻息の先には、歩み寄りにも似たか弱い媚態があるにもかかわらず、幸吉はよく嗅ぎ取れないまま捨て置ておくしかない、こころざしの未熟さを知ったような気がした。
決定的に未熟でどうしようもないというわけではなかったが、異性の魅惑に酔ってしまう道理をよくわきまえない加減は、やはり少年の域を抜け出ておらず、野暮で不粋な厚顔と見なされても仕方なかった。
しかし、迷いを悟り呆気にとられ浮遊した想念は、借りの着地点へ足を降ろしたのか、
「並んだ自分の顔写真が見守るなんてあり得えないでしょう」
と、あざとさの仕掛ける単純なくすぐりへ微笑み返した。この質朴な反応が間弓に対する最大の接近であると思われたからだった。
「わたしだって恥ずかしいのよ。あなたのことばかり想っていたって証しになるもの」
そう言われれば返す言葉はなかったが、いっそう欺瞞と好意は不可分な状態を維持したまま、釈然とした理解は得られない。部屋へ案内されたこと自体まやかしであるなら、小悪魔の雰囲気をまとった間弓の舌端には、理解に到底およばない偽言がこびりついている。それが媚態に他ならないのだと、開きなおる図太さを持てない幸吉は、踏み降ろした足を滑らせてしまうばかりで、これまで話してきた正枝の暴露を作り事と言い切る相手に、実直な態度で臨むしかなかった。おおまかにも受け取れるこの感性は不安であり、切なさが遠のく女優の残り香と、ひょっとしたら生真面目なこころばえを曲解してしまっている、間弓との釁隙に揺れる意識はつかみとれない。
自堕落な息づかいや前向きな官能の裏側には、おそらくどちらも信じたいと願う曖昧な気持ちが寄り添っているのだろう。いずれにせよ、由紀子を失った由縁さえ不明瞭である幸吉にとって、すべては謎めく余韻のなかでにじむ淡い色彩であって欲しく、併せて足場が不穏な危機に侵されている感覚にめくらむしかなかった。
「正枝さんはあなたとの手紙を通じ、今西家の現状を把握していたと申してましたが、並行し昌昭君や父上とのやりとりを絶やさず、なんとも信じ難い糜爛した絡まりを露呈していくわけでして、その件に関する耳をふさぎたくなるようないかがわしさもですね、実にこと細やかで、思わず息をのみそうな調子でして、あれが綿密な台本だったとすれば、かなり用意周到な話術に僕は引っ掛かったことになります」
幸吉はそこから一気に、間弓の書き記した文面には自分の母親と満蔵との馴れ初めがあり、偶然の出会いどころか、自分と隠し子を婚約させることで、老いらくの魂を成就させようという迷妄に取り憑かれている詳細を知るに及んで、ひどく高揚してしまい、すっかり正枝を信じ切ってしまうと、ますます微に入った関係に魅入られるようになって、不謹慎な自己像が誘惑の館に飾られているかの倒錯を映し出し、眼球運動が繰り広げる一連の健常な働きを刺激したどころか、過剰なまでの思い入れを募らせ、やがて迷妄を阻止すべく正枝と手を組み、自分を骨抜きにしようと企てにおののきながらも、風見由紀子という女子高生の肉体に溺れていく過程を詳らかにして、あまつさせ弟の昌昭が由紀子と同じ血を引いている真相にとまどうどころか、不確かな情愛でしかなかった繋がりを成就させようとなり振り構わず躍起になった、間弓の鬼気迫る意志を高らかに讃美してから、今日も明日もなんだか不甲斐なさの心得でしか迎えられないと愚痴っては、粛々した意識に名分をあたえつつ、わき上がりそうな恍惚感をなだめになだめて、そのかけらがひとときでもきらりと光る空間を脳裡へ開かせれば、たとえ台本だろうが、委曲を尽くした計画的な由紀子への詰め寄りには敬服が感じられるなどと、邪心を遠巻きの目線へ投げ返す悪巧みでほくそ笑む子供のように、憎々しげに述べつくしたところ、いくらか野暮な気分は払いのけられ、まるで昨夜の女優魂を宿してしるかのごとく、間弓を難詰するような案配に瀧川先輩と由紀子のしがらみなども加え、華やかで危険な様相を語ったあと、間弓が昌昭を開眼させた箇所まで、なんとかその混迷をたどったのである。
が、結果、由紀子は死んでおらず、それは自分にも把握できない精神の暗部なので、黙ってうなずくのやら、うなだれるのやら致し方なく、すでにあなたたちの会話のなかでは由紀子は死んでおり、自分の夢遊病癖が招いたかも知れないなんて、冷ややかにに論じられるものだから、ただでさえ脳内が破裂寸前だった自分の正気が保てなくなったのも事実で、しまいには今西家惨殺を教唆する始末、あれほど高嶺の花であった正枝さんを侮蔑する結果になってしまったのだと、涙まじりで間弓へ訴えかけた。
「よくわかりました。なにもかも作り事ではありませんわ。すくなくとも幸吉さん、あなたのお母様と父のいきさつは本当です。あとは荒唐無稽、よくもまあ、委細まで肉付けした虚言をあなたに説き聞かせたものです。不気味な執念としかいいようありませんわ」
「では、煩雑な血縁も嘘なのですね。つまり昌昭君は風見家の生まれなんかじゃないと」
幸吉は自身に懸かる因縁だけが取ってつけたふうに正当化されている返答に、気まずい困惑を覚えながら、不運や不幸が必ずしも胸を切り裂くばかりとは言えない距離感を優先した。
「当然ですわ。それにしても嫌らしい台本ね。わたしと弟が愛し合うなんて。その為に今西家の認知を譲歩するなんて絶対あり得ません。あなたが怒らせてくれて助かったわ」
「たしかにすごい剣幕でした」
「すんだことですわ。帰京したじゃありませんか。あなたにとっても災難だったといいますか、迷惑な限りでなぐさめの言葉が見つかりそうにないです」
「かまいませんよ。災難でも迷惑でもないです。僕は貴重な体験をしたのだから。間弓さんからみれば、とことん破廉恥でしょうけど」
「よくわかりませんわ。もしそうだとして、あなただけの問題ではないでしょう。父にだって責任はあります」
「なるほど、では父上と会わせていただけますね」
間弓の顔つきがにわかに険のある翳りを帯びた。これまでが青雲の晴れやかさだったとは呼べないけれど、浅膚な装いを澄まし顔で、迷妄の上塗りで、軽んじた情欲で、見果てぬ虚威で、秘密の部屋を彩っていた様相に亀裂が生じた。それは幸吉の面の凍結を時間に知らしめた。
これでようやく事件の皮切りへ居並んだ心持ちになった。どれだけ否定されようとも、等閑に付されようとも、反対原理は情欲の可能性を本能的に謳い上げているのであって、間弓がしとやかな素振りを演じれば演ずるほどに、有馬稲子や芦川いづみを彷彿させる清廉な美貌が、その翳りにたえきれず愁いを醸し出すごとく、夢幻境地へのいざないは却って現実の煩慮をたぐり寄せる。
だが、この場に及んでも幸吉は自らの白痴ぶりに甘んじ、さまよい歩くことの面倒臭さを放任していた。
「もう振り出しはご免だ」
今度は相手に大仰な隙を見せたくなった。
仮面のひび割れをどれだけ間弓が意識したのか、つかめない。取り繕う猶予は限られているにもかかわらず、優雅な痴態を最後の手段と心得ているのだという期待だけが、幸吉の浮ついた詩情に組み入れられた。
ひび割れは仮面をつかさどっている。
「父はそうですわね。いえ、ふと思いついたのです。でも考え過ぎって笑われそうですわ」
「なんでしょう。父上がどうしたのです」
「いえ、安城家の舞踏会を思い出しましてね」
「すると父上は滝沢修ですか、そしてあなたは原節子」
「あらっ、そんなこと言ってませんわ。ただ、なんとなくそんな感じが」
「どんな感じです」
「ごめんなさい。取り消します。わたし、なにを言ってるんでしょう」
「いいじゃありませんか。僕は好きでした。あの映画。小津安二郎の作品より原節子が美しく思えましたね。ただ若かったとかではなく、ひとり目立っているのでもない、全体にとけ込んでいたように感じました。間弓さん、どうしても父上に会わせたくないのでしょう。だから、瞬きを疎んじる戸惑いで蠱惑を囲ませ、ちょっとした気品が立ちのぼる効果をさらに封じてしまい、すると僕には居たたまれない体感のみが全身をつらぬく恰好になってしまうので、嫌でも下品であって欲しいという反対の願いが差し出されるのでしょう」
「おっしゃってる意味がわかりませんわ」
「まだ起さないのですね」
「目覚めているでしょうけど、呼びかけません」
「そうですか。すると僕は婉美なだめ押しを受けるべきと考えてよろしいのですね」
「あなたの望みなら」
「見守っている。そう、見守っている。素晴らしい取り決めです」
間弓はにっこりと微笑んだ。


[543] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら19 名前:コレクター 投稿日:2020年12月01日 (火) 01時17分

やっと乗りこなした自転車の走りに浮き立つような爽快感をともなわせ、不意の転倒に怖れをなさずペダル踏む勢いで正枝との一夜を語りはじめると、冗長なきらいに抵抗を覚えず、それこそ風の跳躍に従っている浮遊感に語尾がそよいでいくと思われた。というのも、幸吉に会う前夜から駅前旅館へ泊まっていた正枝の夢見をことこまかに話すことで、自分自身の体験に鮮明さが加わるのではないか、そんな揺曳する記憶の色彩を名残惜しんでいたからだった。
むろん潤色とか施さず、ありのまま間弓に報せることへ見返りなど求めていない意識の確認であるとともに、明け透けのやりとりが示している安直な肉感に、興醒めした気持ちを押し着せてしまう相乗効果の様相がうかがわれると、婉曲な語感の享受はただ疎ましいだけでなく、無為の時間を痴戯へ埋もれさせるであろう危惧が、意外なくらい胸のなかへ染み渡っていたのだった。
映画の撮影でさまよう女優の仮面を間弓さんにも被ってもらえるなら、美術館とも巨大工場とも宗教会館とも言い難い異様な雰囲気のなかに見受けられる、まばらな人影の向こう側に断崖を知り、同時に東京駅の雑踏を彷彿させながらも、排除された言葉のうちでしか申し伝えの出来ないもどかしを生じさせ、紛糾は光景のあらぶれを呼び起こし、閉じた空間の、夢見の圧迫に襲われるという自覚だけが耳鳴りとなって意味の断片を拾い集めては、視野的構造の純然たる攻防が日本海を見下ろす土地にまで引き延ばされるやいなや、やがて加速度的なひずみが生み出す人工太陽の下、幼なじみだったあずさちゃんの地蔵めいた童心に促され、博多行きの切符を買ったつもりが、時間の隔たりは霧散していて、この町へゆくために列車に揺られていたという、目覚めが正枝さんの心象風景であり、仮面の内側の冷ややかで飾り気のない質感だけが残されていたことを、今いちど含め考えてみれば、それは華やかさとはうらはらの薄暗い領域を守備するものであって、必ずしも打算につき動かされていたとは認められなく、むしろ表面に見て取ってしまう偏見こそが、野心や色欲を崇めており、他者が他者なる由縁を遡及させていたのではないか。
こうした思惑をひきずりながら幸吉は、間弓の内心を凝視でもするような口調で、その褪色した風合いでひろがった危殆に包摂されたまぼろしと力学の混濁を聞かせてみたのだが、別段これといった感情は見られず、夢見の語りから叫びへとうつろう実情をいわば投げかけるふうに部屋のなかへこだまさせた。
「唐突に僕の両親が取り沙汰されたのです。この旅館での密会は公然なのだと知らされたわけです」
幸吉は間弓の意向をただそうとして、それに応じるような相手でないことを思い直し、微弱な表情の動きに心配りした。
「両親と今西家とのかかわりにはそれ以上触れず、入浴をすすめられた僕は黙って言われるとおりにしたのです。その後は夕餉をともにし、すでに湯浴みをすませていた正枝さんは、自分は精神病院なんかへ送られてはいないとだけ強く言い放ち、お話しよりさきにあれをしようと色香をふりまく様子だったので、有頂天を隠しきれなかった僕は身も心も溶けてしまうくらい女体と交わりました。それがどういった具合だったかはもちろん、汗ばんだ情交の描写は必要ありませんね」
「ええ、いりませんわ。でも、その最中にひっかかりのありそうな鍵があったのでしたら教えていただきたいです」
「それが、そのう、まったくないのです。いえ、肉欲に夢中で覚えてないなんてことありません。生々しくて気恥ずかしいのは事実ですし、あまりに濃密な交わりでしたので、すぐにでも激しい姿態が思い浮かべられるほどなので確かです」
「そんなに鮮烈でしたのなら無理もないでしょうね」
「はい、ことが終わってからですからどうしましょう。濡れ場はいっさい省いてかまいませんか」
「さきほどお答えしましたわ」
幸吉は性的関心を持たないという間弓を訝しく思っていたけれど、この先いやが上にも由紀子との風変わりな親交や、疑似相かん劇の孕む猥雑な血の系図を耳にしてもらうわけだし、捜査官が現場情況のみ重視して心理を等閑にするのとは逆しまの態度に徹しているかぎり、秘密という忍び足を要する接近にはよそよそしさが似合っているのだろう。しかも至上の時を肉体へと刻み込んだ側からすると、嬌羞すら覗かせない間弓の矜持が崩し甲斐のある伽藍にさえ見えてきて、杓子定規な対座は卑猥の香が薫き込められた諧謔と受けとめてしまう。濡れ場なんて言い方をした自分がどことなくこそばゆいのは、間弓の気取りに敬意を払っているからだと胸を張った。
よこしまな想念とは優しさに連なる意地の悪さであり、間合いに割り込む朴訥な鉛のように鈍重であり、けっして鋭利な信念などではない。
「では、昌昭君が仕組んだ計略について語った正枝さんの言い分ですが、ここでひとつだけ質問させてください。壁に掛けられた僕の写真ですけど、あなたが頼むもなにも、以前より昌昭君は正枝さんに好意を抱いていたので、あの修学旅行の日取りを選んでようやく結ばれたと話していますが、そうなると間弓さん、あなたのあざとさしかこの部屋に写らないような気がしてなりません」
「早々と嘘が始まりましたね。しかし慌てませんわ。確かに正枝さんの告白を重視するのでしたら、わたしはあざとい女ですわね。そういうことでしょう。いいですか幸吉さん、もう少し詳しい内容を語ってからわたしを非難してもよろしいのじゃありません。で、昌昭は隠し子である血のつながった姉と肉体関係を持ったというのですね」
「すいません。僕が慌てていました。順を追って経緯をお聞かせしましょう」
うかつにも色情を省略した不明瞭な傲りが、相手の伽藍を強固なものにしてしまい、下手すると一貫して正枝を否定し、ゆるぎのない姿勢が打ち出される。そこで幸吉は間弓に向かって、耳にしたすべてを伝えようと真摯な気持ちになり、さらなる濡れ場に到っても肝心と思われるふしは詳しく述べるべきだと決め、教室内で雑誌の切り抜きを親しい者らに見せていたのがことの起こり、昌昭君は鋭敏な嗅覚を駆使しただけでなく、父満蔵の眼をくらませる為にも自分を今西家に近づけたと説明した。
そしてかねてより深めていた文通で今西家の長男ではないことを知り、そうなると間弓さんも正枝さんも他人になる。学生の身分を顧みず駈け落ちも厭わない覚悟だったが、父の目論見は瘋癲の域に達していて、おいそれと承知されるはずもなく、好いた晴れたので収拾出来そうな編み目ではなかった。それは血という皮膚の内側を支配する絡まりにとどまらず、殺意させ催していまう狂い水の透きとおった悪の知らせであって、ぎこちなさに準じてしまう畏怖を含蓄し、やっかいな展望へと収斂していた。
正枝が口にしていた反面また夢心地だという感覚を幸吉は踏襲してしまったのか、すでに聞き及んでいるであろう女優業にまつわる逸話や、順風満帆にはほど遠い生い立ちや、若くして銀幕の華美に疲れていた様子などを、なるだけ忠実に語ってみたけれど、正枝の夢の景色が断崖におびやかされ、あるいはその悽愴な美しい見晴らしで茫洋とした悦びを得たごとく、幸吉の口調もどこかしら酩酊に踊らされる流暢を模したところがあった。ちょうど険阻な面差しが柔和な光をさえぎって、遥か海原のさざ波へとひろがるように。
そして昌昭の生母は風見由紀子と同じであり、父満蔵の不実を盾にすることで、より正枝への情愛を募らせ、心理のかけひきは内密であればあるほどに焦燥を招く結果となった。が、身内の紛糾は遠くの火事と違い、ただちの焼け跡をしるしてしまう。その焦げ目は肉感を通じて直接あたえられるのだし、盲目的な心性は火炎のまぶしさに恐怖と反対の意想をわき起す。幸吉の胸のうちでもよどみない神経が液状の混濁にのまれていたが、いよいよ間弓からの手紙の段へさしかかると、まだ登りつめていない陽光に覚えた鳥肌は、嗜虐的な傾向を求めているかのごとく、相手の顔色を不用意に瞥見するのだった。併せて性急な思念を感じてしまい、それがなぜか妙な慈愛へなびいては、強風で煽られるブランコのような空白を乗せた情を運んでくる。あきらかに幸吉は間弓の視線を意識していた。
「ここはきっぱり否定してくれませんと、どうにも話しづらいのですが」
「ずいぶん弱腰ですのね。いいのです。わたしが正枝さんに手紙を書き送ったというわけですね。面白いから続けてくれてけっこうですわ。どんな作り事か興味ありますもの、あらっ、もう否定してしまいましたか」
「そういうつもりじゃないんです。込み入った血縁と愛憎は容赦知らずでも、あなたの情交場面に言及してしまうからです。その意味での念押しと理解してください」
「余計な気づかいはしないで。ねえ、幸吉さん、あなたは父を糾弾しに来たのでしょう。で、またもや紋切り型みたいにわたしが立ちふさがった。いいのよ、なにもかも話して、ここにあるあなたの写真が見守っているわ」
このとき、間弓は口が裂けても姉と呼ばないと意気込んだあの顔をかいま見せた。するとどうしたことか、気概を前面に押し出している間弓の風貌にある女優が重なった。それは正枝と語り合った素直な感想を呼び起こし、東京暮色の有馬稲子に類しながら、もっと快活な調子を可憐に降り注ぐ、日活の芦川いづみを彷彿させた。石原裕次郎の相手役を何度も努め、その都度、恋心を清楚に香らせた面影が幸吉の淫らさをなじっている。
だが、脳裡にわだかまった思念は伝えられず、どうして間弓と対峙しているのだろうという謎が渦まくばかりで、いっそのこと「参りました」とだけ言い残せば、今西家を後にする幻影さえおぼろにあらず、濃霧は銀幕の彼方で夢の美しさを唱えていよう。幸吉は不思議の列車に揺られこの町へと訪れた、呉乃志乙梨に対する憧憬を間弓の心の奥へ沈ませるよう感じているのが、なにより不安だった。


[542] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら18 名前:コレクター 投稿日:2020年11月24日 (火) 04時59分

早旦のめざめが明晰な空気を送りこんでいるにもかかわらず、幸吉の眼窩は吹き抜けの悪い、陽当たりを知らない押入れのような面積に取り囲まれ、夜の残滓を頬に張りつたたままの、夢魔の指先が触れているのを感じた。それはまるで黒い粒が火照った肌に現れたかごとくの花崗岩を想わせ、闇から脱した視界の安堵をふさぐ生硬さへ帰順しているかのようだった。
他でもない、もっとも深甚な影の柔肌を味わった名残りが、酩酊にも似た勢いをもたらし、今西家へと赴いた実情を剔抉していたのであって、その跳ねっ返りがこんな見え透いた虚妄を唱えさせ、たぶらかしの本源を人肌に焼きつけている。半ば驚喜しても良い光景でありながら、けっして光沢へ磨きを掛けまいとする意識は、欲望の重みに拮抗していた。
幸吉は正枝の激高を煽ってしまった責務に脅えつつも、虚実で塗り固められた浅い時間の上を滑った肉感に忠実であろうとしていた。ちょうど激しく巻いたつもりのぜんまいが、緩やかな手つきでしか処理できなかったふうに、内心の回転は相手の動きに惑わされることなく、その使命を、反応を見届けるしかない。
「正枝さんは糾弾すると言ってましたが、どうやら行動しませんでしたね。代わりといってはなんですけど、僕が朝っぱらにですよ、ほとんど女優の匂いが消えてない下半身を今にもむき出しかねない形相で乗り込んできたのはどうしたわけでしょう。ああ、ちょっと待ってください、ええ、それはこっちが聞きたいですよね、わかってます、わかっております、ところがわかっていてのこの応対はいくらなんでも露骨じゃありませんか」
「どこがですの」
「そこがですよ」
慎重さなど逸していたけれど、思わぬ勝機をつかんだと錯覚を過大視した幸吉は、
「この部屋に張り巡らされた写真ですが、何日くらいまえから準備させたのでしょう。いや、ことさら委細など訊きたくはありません。露骨な応対だと僕が難癖をつけたことよりもですね、ふともらしてしまった間弓さん、あなたのとってつけた好意の言葉にはどんな子供だって首をひねります」
「だから、どこがですのよ。幸吉さん、おそらく一睡もしていないのでしょう。夜通し溺れ続けていたのでしょう。でも仕方ないですわ。あなたは父の形式に準じたまで、それにあこがれでしたものね。まだ興奮している、そう言いたいだけならけっこう、多いにけっこうです。で、あなたと反対の立場だったわたしのどこがおかしいのですの」
「非常に几帳面な質問ですね。そうですか、では明確にしておきたいのですが、父上は僕の存在をずっと以前から知っていて、そう、あなたがまだとことん少女で、なに偽りのない微笑みと悲しみを手放したりしなかった頃より僕を見守っていたとしたら、あなたの嘘は駄菓子屋の安物の飴玉なんか比べものにならないくらい、溶けて、はげ落ち、味覚させ瞬時になくなってしまうのです。それはそれは失意を呼んでしまうでしょうけど、あなたは味覚が伝えるか細くも長い懐かしさを軽んじているので、ただちに視覚に訴えかけることで愚昧と言ってもさしつかえない場景をこの部屋に圧搾したのです」
「白々しいとでも」
「見え見えです。字義とおり僕の顔が見え見えですよ」
しかし悲歎に暮れる間弓の表情が当たり前とは言い難かった。なぜなら直ぐさま、体勢を整えるように、そしてここがあくまで自室であり、幸吉が初めて訪れた空間である重みを知らしめたからであった。
「いいですか幸吉さん、何度も申しますけど、正枝さんがどんな由縁を話したの想像できませんし、あれこれ虚構にまみれていくこと自体、わたしは考えたくもありません。もっと簡単に言いますとね、わたしの答弁も、正枝さんの暴露も、あなたの解釈も、なにもかもすべてつかみどころなんかないのです。ええ、いいですとも、では裁断、いえ分断してみてください、さあ、それでなにかが正確無比な現実が立ち顕れてくるとでもおっしゃるの、わたしはわたし、あなたはあなた、正枝さんは正枝さん、父は父、昌昭は昌昭、由紀子さんは由紀子さん、さて、どれだけひとの名前を呼べばいいのかしら、それとも神様にします、仏様にします、父が見守っていたその連なりの導く日々の時間と空洞を探検しますか、影しか見つけられないのに、いっそ嵐でも呼んで巻き込まれたいの」
「それは山間での事故のことですか」
「さあ、どうかしら。根拠のない罪悪感に根拠を求めるのは、結局そちらの方が世間に顔向けが立つように思いますけど。わたしにはよく理解できませんが」
「なんだかんだでそこへ話頭を振るのですね」
「だってそうでしょう。あなたは由紀子さんの肉体こそ愛でたようですが、気分的には同学年の女子にすっかり同情してしまい、いいえ、同情なんてたやすいものではなかったみたいですね、自己主義が育んだ蜜月を巧妙に移し替えようと努め、由紀子さんとの決別を胸にしました。あの日、わたしを殺人者呼ばわりしたのも、身近な女子への親近感があなた自身を浄化してくれると信じたからでしょう。そしてあなたは瀕死の女子をこれぽっちも好いていないことに胸をあてて気づき、傷ついた。勝手に傷つけばいいものを移し替えれるとなまじっか信じてしまったので、すっかり空虚な気持ちにとらわれてしまい、浅い自傷はあっという間に深い傷口となり、肉感の亡霊に夜な夜な悩まされては、過剰な色欲を成仏させるため、身軽な形式を、つまり形式の形式を、終わりを知らない自動機械みたいな絵柄に、ほぼ意義などない複雑な紋様を引き寄せ、曖昧な態度と欲望の遠ざかりを夢見ながら終末思想に傾倒するしかない近視眼でもって、今西家を眺めていたのですわ」
「その眺めがこの皮肉な写真というわけですか」
「わたし皮肉とか諧謔って好みませんの」
「では、これはどうしたことです」
「幸吉さん、気をしっかりね。正枝さんはもう帰京しました。父とも話し合いがついたのです。そしてまぎれもなく父も正枝さんも落胆しています。わたしのせい、そうでしょうね。わたしさえ、姉であることを認めれば波紋のひとつくらいで済んだでしょう。かわいそう本当に」
「誰がかわいそうなんです。まさか間弓さん、あなたが一番なんて言わないでしょうね」
「一番も二番あるものですか。そんなことあるものですか。でもどうしても訊きたいのであれば、それは幸吉さんと言っておきます」
「はあっ、僕がですか。で、この応対はなぐさめだと」
「随分ひがみやすいのね。わたしは父があなたに興味をもつまえからあなたに興味があったのです」
「さっき聞きました」
「ではそれでいいじゃありませんか」
「しかし大げさ過ぎます」
「あら、照れてるの」
幸吉は正枝の細やかな告白に半信半疑のまま、不自然な情熱を汲み入れてきたが、同時にそれは間弓のしたたかさをどこかで称揚しており、なおかつ尊大な女性像へしがみつきたいという惨めさに巣くう情欲を、承認すべき営みでしかない。承認したあかつきには情欲は他我を離れ、おのれの精力となりうる。幸吉の理念は磨かれ擦られることによって艶を冴え渡らせる花崗岩の岩肌に閉じていた。
あの女子が瀕死の状態で川に浮かんだという悲劇は、たしかに幸吉の神経を狂わせたし、叶わぬ恋だと知った由紀子への鎮魂歌は平静を保とうとすればするほどに、不快ないびつさでもってのど元を締めつけ、純愛だの無垢だの、清廉だのといった美しさを汚すことのみに逃れたのだった。
たぶん最後の砦であったかも知れない身体を張った一夜ですら、虚飾と色欲とが渾然となっている有り様に反撥を覚え、一緒になって突破口を開こうなどとはまるで考えず、逆に嘘をあばき立てれば、銀幕の主旨がまっとうされるのだと、肉欲の限りを尽くすことで役者根性が美化させる、そう解してから憧憬の夜空にありったけの意識をぶちまけたのだった。正枝の帰京を残酷に彩ったのは、幸吉自身が募らした不可避の反動であり、閉塞の中心でうごめく醜い恋狂いでしかない。
「わたし、ふざけているように思われるの嫌だから、はっきり言っています。昌昭があなたに女優と一緒のところを撮って欲しいと頼まれたとき、何枚も何枚も撮り逃してはいけないと懸命になったらしいわ。それがこれらの写真よ。正枝さんの顔を飾るのは欺瞞でしょう。全部カットしたの」
正枝の言い分とは正反対だったが、こうまで穏やかな情熱を崩さず話されると、もはや自分が露呈させようと躍起になった虚偽と真実の狭間は、霧散を乞うているとしか感じなくなりそうだ。
けれども返り討ちにあった者が、悔いをこの世へ託そうとしてそれがなにであるのか、ほとんど自失することによって遺恨から解放されるよう、忽然とかすれた意識は飛び立った。自失に羽根はない。
「そんなに僕のことを想ってくださったなんて、いまさらですがなんと言えば」
間弓は特に誇らしげな眉目もつくらず、
「さあ、なんて言ってくださるのです」
と、品の良い笑みをたたえた。
「僕はもう用済みなのに、これはだめ押しだと判断してよろしいのですね」
「えっ、なんですって」
見事に歪んだ口もとは確かな腹立ちを見せつけた。隙は与えない。
「静子さんから由紀子さん、あなたと正枝さん、主役は紛れもなく間弓さんですね。昨晩どんな会話がなされたかよりも、今朝、僕がどうあなたに迫るか、その選択肢も決まっていたとしたらですよ、そうです、またもや接吻ですね。それがあなたの口封じ、今西家に僕がかかわる必要が形式がなくなった以上、あなたは余裕、つまり枕を高くして眠れるという寸法、ところが正枝さんの進退を賭けた告白は無視されるほど軽々しくはなかった。やはり気になって仕方がなく、虚言癖のいかさま女優だと全面否定できる自信はいささか危ういのです。
本当は根掘り葉掘り聞き出したいところだが、それだと応酬を余儀なくされ、痛くもない腹を探られてしまう。はい、僕もふざけるのは嫌いですから、はっきり言わせてもらいます。ただの妄言でしかないですけど」
「どうぞ、おっしゃってください」
「相変わらず淫らだと思ってもらって構いませんよ。あなたは接吻だけで治まらないのを予期しています」
「まあ、嫌らしい妄言ですのね。予期ですって。ものは言い様ですわね。それはあなたの期待でしょう」
「なるほど、そう捉えられて当然ですね。これで終わりです」
あきらかに緊迫をその居住まいへ突き立てた間弓は、
「わたしまだ高校生なのよ。あなたとどうこうあれ肉体関係を持ってみても、これからの将来の指針になるとは思えませんの。ましてや婚姻なんて、もしまた父がよからぬ形式を持ち出したら大変ですわ。なにより、わたし性的なことには関心がありません」
「そうですか。失礼しました。では僕のどこに興味があり慕ってくれたというのでしょう」
「あなたが普段あまり念頭にのぼらせないような意味合いでです」
「正枝さんは帰りましたが、近いうちに僕に会いに来てくれると別れ際に言ってましたよ」
のけぞるように緊張を走らせる相手を眼窩に静めると、幸吉は虚言を弄している現実に陶酔した。羽根がなくても空は飛べる。これが捨て台詞のつもりだった。
「いいわ。思ったより手強いのね。ではちゃんと話してもらいますよ。嘘は許しませんよ。それとこの部屋の匂いと由紀子さんのものと比べたりしないで。正枝さんのは仕方ないわね。そっくり受け入れないといけませんわ」
きつく結ばれた間弓の口角に謀反らしき邪心を感じた幸吉は、陽光のいたずらだと肩をすくめ鳥肌を立てた。


[541] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら17 名前:コレクター 投稿日:2020年11月16日 (月) 04時36分

「どうしたのですか。こんな朝早く、わたしは体調がすぐれず休んでいたのですが、まるで見越していらっしゃったみたいですわ。ちょうど昌昭も登校したばかりだし」
「いいえ、別に時間を見計らったわけでありません。僕がさっきまで誰と一夜を過ごしていたのか、察していただければ十分かと」
「なんですって。まさか」
「取りつくろうのはやめてください。なにもかもご存知なんでしょう。正枝さんはすべてを語ってくれました。間弓さん、あなたにも一言ありますが、僕はぜひとも父上とお話がしたいのです」
間弓は動揺を隠そうとはせず、むしろ落ち着きはらっているのが、いささか非礼にあたるとでも言いた気な表情をつくり、
「薮から棒になんですの。正枝さんにどう吹き込まれたか知りませんけど、幸吉さん、あなたには以前しっかり納得いただいております。いいですか、ほとんど狂乱状態だったあなたにとって一番ふさわしい提案をしたつもりです。お忘れになったのかしら。どうやらそのようですわね」
と、内心へひろがった因循のさまたげになる紋様に焦点をあわせた。
「そうそう凄い剣幕でしたわね。わたしが由紀子さんを殺したとか、憶えていますよね。それと山間の川で事故をおこした女子生徒のこと、あなたの動顛が治まりそうもないとわたしは判断して、さあどうでしょう、錯乱のさなかに乗じたわけではありませんが、あなたにもわたしにも都合のいい解釈で結ばれたはずでした。今西家に正枝さんを迎えるなんてあり得ない、だからあなたとの婚姻など、いくら父が強引に成り立たせようとしても、いいですか、繰り返しになりますけど、正常さをなくした父のたわごとを信じたあなたも尋常ではなかったのです。淡い憧憬とか夢見るような目途の範疇で、浮き草みたいによるべなき心情と戯れているのはけっこうですが、そこへ逃避的願望や焦燥感といった不適格な意想を持ち込まれては、非常に迷惑なことくらい、あなただって理解されていたでしょうに、それにつられて父の妄執に意気を感じ加担してしまうなんて変ですわ。
あなたは昌昭の無関心さを逆手にとり、わたしどもがあらぬ由縁を秘匿していると疑ることで、より自分の胸騒ぎを増長させたばかりか、由紀子さんの気持ちまで踏みにじってしまいました。あっ、そうでしたわね、このわたしが策略を練り、あなたを骨抜きにしたそうですが、そんな証拠なんて果たしてどこにあるのでょう」
幸吉は頭を抱え込みたいほど落胆し怒りに燃え、聞き及んだ錯綜する淫奔の限りを細やかに叩きつけたい衝動に駆られたが、いかんせん正枝の語りを鵜呑みにはしておらず、別れ際に暴言を吐き、これまでの薄ら寒さと拮抗していた信頼を自壊させてしまったことが引っ掛かり、どれだけ詳細を暴露したところで、間弓は熱意もろともあっさり片づけてしまうと踏んだのだった。
緊要なのは自分の出自を今西満蔵に問いただすことに集約される。若かりし母が学校の実習生だった頃、本当に恋をはぐくみ、結果実らなかった想いが積年、満蔵の胸臆から消え去らなかったというのなら、幸吉にとっては精神的な父と呼んでさしつかえなく、隠し子であると言い張った正枝との婚姻はいみじくも美しい計らいに映るばかりか、それは正枝の虚構が生み出した愚直な綾のからまりにとどまらず、怪しさを突き抜けた実情へ向かっている。あり得ないと断言するのがこわばってしまう、この微かな不安を見守るまなざしと、口辺に触れる追求が本当の父であるかも知れない、そう小刻みに震えている。
風狂なるがゆえの我執とみなすのはたやすいけれども、愛する二人を結ばせようと願った心性を軽んじられないわけは、希望と呼ぶには似つかわしくないが、お伽噺めいた軽妙さで陽だまりへ舞う塵のような明るみに通じている。
ただ、どうしても合点がゆかないのは、幸吉が体験した名状し難い悦楽と困苦を、あらかじめ知り得ていたという気宇が拭われないのだった。由紀子との情交を耳にした満蔵はどのような感慨を持ったのだろうか。
疑心を払うと同時に宥和が遠のかないよう念じた幸吉は、
「証拠なんてありませんよ。正枝さんはあなたからの手紙を読ませてくれましたが、勘ぐれば誰の筆跡やら知れはせず、すべて創作だったと思えば、強迫観念にゆだねるまでもなく類推的に、細胞性粘菌の放つ幻惑へと招待されます。僕はその招待状を破り捨てるどころか、大事にしまっておいたのでして、何故かと言えば、間弓さんの嫌悪するところの不適格な意想が僕の性格なので、こればかりは青年になろうが老人になろうが、だぶん死ぬまで消えない薄紙で間違いなく、淫猥さならびに不道徳が匂わす媚薬に惹かれたあげくの、根拠なき罪悪感に根拠をあたえるという、二律背反に諭されながら、その不透明さを見限っていますので、これ以上混線した人間関係に分け入りたいとは思わなくなってきたのです」
「それは開き直ったという意味なのでしょうか。なら、話しは早いわ。父が見込んだだけのことはあるわね。で、出自を問いただしたいですって。精神的な出自ねえ、いやに文学的ないいまわしね」
「だとしても、僕は今西満蔵本人の口から形式の形式の真意を聞きたいのです。かりに正気でないにしろ、その大らかな妄念を耳にしたいのです。もう一方通行ではありませんから」
「わかりましたわ。でもまだ床ですので、お待ちいただくことになりますけど、幸吉さんは学校には行かないのですか」
「ずいぶんですね。そんなこと今さら訊ねるなんて。ひょっとしてかなり戸惑っているのではありませんか」
「はて、誰が戸惑うものですか。学校をさぼってまで父と話しをしたいなんてどうかと考えてみただけよ」
幸吉は一瞬に過ぎなかったが、間弓の面に牝狐を想起させる狡猾で鋭いまなざしを見届け、それがいかにも自然体であったことに安堵した。もし間弓の視線が数瞬でも泳いでいたなら、正枝が話した偽近親相姦のくだりを好奇に満ちた声で問いかけ、平穏な装いをはぎ取るつもりだった。いくら作り話とはいえ、姉弟の交わりまで言及されれば不快な面持ちになり、いや、顔色をうかがうのが先決、微動だにしない素振りを見届けてこそ、正枝の真意が漂いだすのではないかと、昨夜のすべてに一縷の光線が走っていたとすれば、自分は救われる。地獄の底から救われるのではなく、地獄の地平が開けるのだ。
しかし間弓は素早く身をかわすだろうし、なにより無為な時間を費やすだけで、それは幸吉の意思にはそぐわなかった。
あの狡猾な牝狐のまなざしこそ、自分のなかにひそむ女性なるものへの親近感ではないか。同様な眼を内面に備えることで割り切れそうもない同一性を獲得し、未知の悦楽への足掛かりとしていた。
「今日は父上とお会いするまで帰りませんから」
「ええ、承知しましたわ。時間ならたっぷりありますもの」
「僕は一応急いているのですけど。あまり悠長に構えられても」
「悠長ですと問題があるのでしょうか。それとも勢いでここへやって来たことを恥じいるのかしら、父はわたしが起しますので」
きっぱり言い張ったので幸吉は少しひるんでしまった。
「すいません。御病気だったのですね。それにあなたも」
「わたしは大したことありません。でも父は寝つきが悪く朝方になってから深く眠るので、もうしばらくお待ちください」
「ええ、わかりました。僕が焦り過ぎていました」
虚心な謝罪だったが片隅を意識するまでもなく、幸吉には駅前旅館での正枝との情交を知り尽くしている相手の眼力に圧せられ、反撥も弁解も静かな朝の空気へ沈んでいる病魔によって、しめやかに冒されてしまうような気がした。
「ねえ、わたしの部屋にいらっしゃらない。見せたいものがあるんです」
思いもよらない発言に今度は煙にまかれそうになり、どうした加減か生唾を飲んでしまった。
「一体なんでしょうか」
子供じみた返答が生唾に促される。
「見ればわかりますよ」
間弓の微笑が時間を横滑りし、幸吉は不可解な籠絡を感じる暇もないままに芒洋とした家屋の造りに眼がそよいだ。断る理由はどこにもない、客間をあとした間弓の背に引き寄せられるようにして、禁断の足どりが音も立てず夢遊病者の影に忍び込むと、その歩幅とはうらはらに覚醒の瞬きがありありした現実を描きはじめ、すっと扉を開けた間弓の手首の白い回転に眼を奪われてしまった。
予期していたものは華奢な手首のさきにある書架へ並んだ様々な書物や、旧家の面影を香らさずにはいられない住人の気配、すなわち深窓の令嬢が醸す優麗な清潔感や、見つめ合う距離に淀むであろう呼気が報せる艶然とした風姿や、損なわれることを尊ぶような相容れない言葉づかいなどを総じて、あまりある光景をひしめかせていた。
「これは・・・」
「そう、あなたです」
さっと見舞わすのが気後れしてしまうほど、幸吉の顔写真が部屋に張り巡らされている。
「修学旅行の際、昌昭に頼んで撮ってもらったものですわ」
途方に暮れたふうな困惑に、
「どういうわけですか」
としか言いようがない。
「幸吉さん、わたし、あなたを慕っていたから接吻したのですのよ。父があなたに興味をしめすより前から」
ここが自室であり、晴れやかな、しかし秘密の翳りが充満してることを間弓は、謎めきと反対の明朗な口ぶりで伝えるのだった。


[539] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら16 名前:コレクター 投稿日:2020年11月10日 (火) 03時47分

通い慣れた他家に染みつく体臭ともいえる匂いは、常に期待を裏切らず、もっとも大げさな愉しみがそつなくひかえていたわけではなく、ありきたりの晴れやかさがありきたりのまま、居座り続けるように、さながら噛みしめたガムの稀薄な風味に対する思いやりに似たかぐわしさを内包し、かすれた味が唾液を刺激しているのか、それとも意地汚い唾液が最後の一滴まで絞りつくしているのか、いずれにせよ、指折り数えるほどしか訪れていない今西家への心構えがあるとして、すっかりのぼせ上がってしまった幸吉の頭も、不穏なまでに高鳴る胸間も、瀬踏みを忘れた半景に埋もれているのであり、その危うさが反対に奇態な来歴を意識させまいとしていた。
性急を名のる欲深さからせり上げられた隔たりが遠慮に通じ、迷妄の幕間を仕切っているなら尚のこと、隔たりは指呼の間で凍結したまま、胸懐へ沈む輪郭のみが強い筆致で浮き彫りにされる。
呼び止められたことで今西家の客間から調度の配置が失われ、模様は錯綜の求めに応じて、まったく予期していなかった間弓の接吻を受けると同時に、ほのめかすことの放棄された確執へ引きこまれたのだった。ぎこちなさをかわせないまま、柔らかなくちびるの感触に拝跪するしかなく、つまり受動的であるという冷艶さの裡へ招かれたのであった。
「博士、夜明けを愛おしんだ訪問が思い出されましたか」
永瀬砂里の顔ばせには、霊媒の気迫や悽愴な色合いなどが後退していて、幸吉のうっすらと望んだはんなりした孫娘のような質朴さがうかがわれる。
「駅前旅館から帰京してしまう女優と一悶着があってね。ああ、眼の覚めたのやら覚めないのやら、とにかく夢幻境地の幽暗を、がむしゃらに引っ掻きまわしてしまわないと気がすまなかった。自分を取り巻く情勢を打ち崩して、逃げ出したい一心だったし、名残惜しく仕方なくとも、儚さが明快に退路を夜明けに譲り渡しているのが知れたよ。だからだろう、めくるめく回廊にうんざりしていても、それまで受け身に甘んじてきた刺激の虜へ踏みとどまっていたのさ。奸計だとわかっているのに、純麗な触れ合いであって欲しく、汗まみれが至当な絵面に呼びかけては、肉体がこすれる音に陶然となって、悶えであって悶えでないような甲高い声が急に静まってしまい、でも喜悦の高みから耳をそばたてることなく、年少の思い入れが成就しているという果敢なき躍動を全身に覚え、果てることなき睦み合いの実感をしみじみ得てしまうと、鳴り止んだ吐息のさきには肉体の残滓が、光明をしめやかに符節へ返還して、あくなき欲望の袋小路に案内されたのだろう。胸元から肋骨にかけて痛点と一緒になって駆け抜けゆき劣情のきな臭さを呼び返す、あの未熟さに包まれた想念は、まるで蒼穹をたった今見上げたばかりなのに、地面に心許ない翳りを吹き流してゆく気まぐれな天日ごとく不可解に襲われてしまって、なんだかあれほど異質の肌触りに誘われ、ふくよかな淫らさに溺れていたのが、ふと肉感のちまたを通り過ぎているふうな心持ちになってね、いきり立った下半身すら月並みの自然現象に思えてしまい、ちょうど夜半の小便の折、カチカチに固まって用が足せないと、夢見を破るように睡魔と戦っていた鎮静作用が情交のさなかに発生したみたいだった。なめらかな女色をうららかに強調する乳房の張りやら、熟すことに懸命な臀部の丸み大きさ、一二条の髪の毛が脇から腹にかけてへばりつく嫌悪とほぼ同等の愛着に従い、なでまわし、吸いつき、要所要所に舌先を這わせては、腰振る律動を地の底まで渡らせることで明々とした意識へなびかせていた焦りにようやく気がついたのさ。
正枝さんはどうしてあれほどまで執拗に、瑣末なしがらみをあぶり出したりしたんだろう。当然あのときのわしは落ちついている素振りを性欲の鎮火に組みせず、むしろ反逆の意思をむき出しにしてしまったんだけど、いくら間弓さん由紀子さん、それに昌昭君を懐柔したとばかりの大言壮語を詳細まで述べたとして、今西家における立場は到底浅く、わしも含めた父満蔵との関係を暴露するに至って、あんなにあこがれ敬っていた女優を無性にやっつけたくなったんだ。
「僕は眠っていませんよね、起きてますよね。起きてあなたと向き合っていますよね」
だとしたら、わしは正枝さんの女優魂に鬼女を面を掘り当てたと言える。石井輝男監督ばりの皆殺しの場景はやはり飛躍しすぎで彼女にそぐわないどころか、あまりの心変わりに驚き怒りをあらわにして、わしに愛想をつかしてしまった。
そうだとも、それでよかったのさ。悔いがないと言えば嘘になるけど。
「ねえ、幸吉さん、わたし思い直したわ。これから一緒に今西家の方々とお話しませんか」
茶番と無謀と終わりを知らない情欲は、そんな都合のいい妥協と慈しみを背後へ控えさせ、甘い友愛の台詞をわし自身に語らせたよ。なんだかんだで争いごとを避けたい気持ちがあって、満蔵の形式の形式による華の奥殿を信じてみたかったんだろう。
「でも正枝さんはそのまま始発で帰ってしまったのですね」
「帰ったよ。怒らせたのは事実だが、よくよく考えるとなかなか壮絶な捨て身の演技だったかも知れない。わしだって完全に狂ってなんかいなかったよ、正枝さんもそうだ。最後に仲違いするのもふたりして熱い握手を交わしたようにも測られるのさ。結果的にわしを今西家に向かわせることによって、撹乱を見出したのではないか、そうじゃなければ肉体まで差し出した本意は見失われてしまう。どうして大した女優だよ、今西家との煩雑な説話だって額面とおり聞き入れてしていいものやら、結局わしも他のひとと同じく、向後の策のために利用されていたなんて邪推してしまうんだな。
「どうでしょう。そこまで正枝さんが計画していたとして、一体どれほどの酬いがあるのかしら。わたしも女性ですので身を呈してまで今西家に向かっていく姿は、並大抵の決意では出来ないと感じます。信頼と諦観がもし、正枝さんの胸のなかで不可分な状態のまま、くすぶり続けていたとしたら」
「ああ、確かにそんな意を汲んで朦朧とした念いに釣られ、夜明けの唄を背にして乗り込んだのさ。由紀子殺しを究明するとともに、正枝さんとの婚姻をただすためにね」
「あの、それってほとんど取り憑かれていたのじゃありません」
「だとしても本望だよ。ときめく胸が張り裂け、泥仕合の態まで無惨になだれ込むだなんて。上っ面だけの憧憬をなぞっていたならあり得なかったことだ。たとえ女優のはらわたに毒されたとしてもね」
「わたしなんかどうこう言える立場ではないのですが、正枝さんの芝居にあえて加わったということでしょうか」
幸吉は油分が水を弾くよう、悲愁の面持ちからさっと意欲をみなぎらせ、
「そうだろう、じゃないとぶざま過ぎるよ」
相変わらずのぼせた状態を肯定する。
「詰責の先に真実があり、激憤の向こうに解決があるはずもなく、ましてや溜飲を下げたいなどと思ってもなかったよ。現に間弓さんの呪文に縛られてしまったわけだから」
「それはあの一夜を舞台に置き換えたい恐怖に駆られていたからですね」
「正枝さんの告白が本当だとしたら、わしは今西満蔵に忠誠を誓うか、永遠に決別するか、そして姉である間弓さんの顔をもう一度だけ見たく、はじめて色香を授けてくれたあのまるで中揩フような接しぶりに我を忘れ、能うかぎりの媚態に触れたい。さて、あれは何時頃だったんだろう。どこをどう歩いたのやら、どんな意識が脳裡を駆けていたのやら、ことのあとさきに神経を使っていたのやら、どうにもこうにも記憶が定まらないんだ。なあ、あんたの言うわしの日記にはどう書いてある」
「それがほとんど暗号だったようで。伏せ字だと読み手は解釈しているようですが」
神妙に寄せた眉根がひらかれ幸吉はうなずいた。
「なるほど、そうかい」
「博士、よろしいですか。これはわたしの見解ですけど、博士は間弓さんと駆け引きしたのでは。そうなんです。今後おそらく二度とめぐり会わないだろう奇跡の夜にたぶらかされ、時間が傷ついた以上、もうこの世の果てに媚態を見出せない。由紀子さんの殺害について問いただしてみても、それは博士の関知するところでなく、実際に由紀子さんは溺死なんかしておりません。にもかかわらず、今度は同級生の女子生徒を殺してしまったと思い込んでしまいました。いえ、そう思わされたのです。正枝さんが突きつけた挑戦状はすでに今西家に渡っていたと言うべきでしょうか。正枝さんの演技はあたかも二重スパイのような剣呑さで博士を魅了したのです。謀略や暗殺がまかり通る虚構を鵜呑みにしてまどわされ、悲劇の女主人公に息吹きを吹き入れることで、自らの素姓に妖しげな魂をからみつかせたのです。
色欲の全開を旗じるしにしたうえで、繊弱な少年が保っている矜持に美徳を植えつける役目に徹して由紀子さんは、どこまでも脇役でしかなく、今西家のたもとで戯れる淫靡な傀儡でしかありませんでした。年長の女性から肉体の手ほどきをされた時点で、博士は理性を失っていました。銀幕よりあらわれし艶情のたおやかさ、またどぎつい芳香に当てられた優柔な面持ちに展望的な将来は撹乱され、峻拒にいたる道しるべはしなかやに傾いてしまったのです。
味読を放棄した外皮はもう自由意志を持ち得ません。良識的な判断力もです。あの台風で女子生徒が亡くなってはおらず、ただ、急流にのまれ生死の境をさまよったせいなのか、見違えるように健全な心持ちでこれまでの悪弊を断ち切った。博士にとっては由紀子さんも女子生徒もさながら必要悪みたいな存在で、今西満蔵の奇矯ないざないに類するためには欠かすことの出来ない影でした。そして由紀子さんは情愛をさとり、身を引いたのでしょう。間弓さんはすかさず、博士に箴言を伝えたのです。邪魔者は死んだと。
日記には前後の文脈を乱すふうに書かれていますが、あれは博士の坦懐だったのですか。邪魔者消せ、そうして偽悪的な精神を根づかせようと試みたのですね。ところが正枝さんの進退をめぐる諍いに接するに及び、今西家の骨肉に堪えられなくなってしまいました。
あの日、博士はまたもや間弓さんと押し問答をはじめてしまったのです。それが目的だったと、夜明けの風は唄っていたはずでした」


[538] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら15 名前:コレクター 投稿日:2020年11月04日 (水) 04時01分

めぐる日々のいつしかゆきあたる暮れどきの加減にとまどい、その気配をくみ取る。
余暇へ忍び込んだ寂滅に彩られた刃こぼれが、日没の残照を告げているとしたら、このひとときは明朝に伝達されうるべき忘却の形骸を闇のなかへ焼きつけようとしている。擦過してしまう暴威だと学習しているのはではなく、天候の不順にかかわらず、暗雲の巨大な厚みも、同調を余儀なくされる地鳴りに似た風も、せわしない密懐に逢着した雨脚も、厭う意味すら放擲して本然にいたるともなく、すべからく浄夜の調べを此岸より聞き及んでいるのであって、昨日がもう今日へ連なってしまったよう、なんら異変にあらず、女子の胸臆は計り知れない。
眠りから覚めてはいない、覚めてなお眠りを追思している。それが欲望のともしびである。
が、差し出されたにぎりめしへ宿ったほの白さは、次第に彩度を退かしてゆく幽鬼のしわざかと穿ちたいほど馥郁たる滋味さえ帯びて、冴え冴えとした輪郭を薄暮に掲げており、空腹が空腹であることのもっとも不変に拘泥するので、情況のいやがうえにも肉感を切迫させた緊張がほどけてしまい、それはまるで青白い炎が熱さを感じさせないごとく、澄ました顔色を浮かばせる野心が遠ざかって、代わりに穏やかな宥和の証しが情愛へうつろったのか、よく考える余地をあたえる間もないまま、幸吉は思いがけない弁当にかぶりついた。
刹那、腹が減っては戦が出来ぬなどと、負け惜しみめいた文句を横切らせたのだったが、にぎりめし特有の平和な重量感に微笑の微笑を禁じられず、また口中を占拠する米粒の群れは、散らばることを惜しまない白兵の雄叫びになって、喉元を機嫌よく嚥下した。
無論いくら唐突な食欲だとしても、頓着なしの空腹などあり得ないのだと言わんばかりに、味わい、匂い、舌に触れたときのうれしさに立ち止り、勢いよくほおばったつもりがそうではなかった。覚束なさを知らしめる暗がりだけに依るべきものとは限らず、けっこうな大きさでにぎられていた重みをふたたび神妙に感じるとともに、おかずはないからと気恥ずかしそうな面持ちをしていた女子の言葉に押し詰められた白米の中程には、はっとするような塩加減のしそ昆布がじんわり挟まっており、その味覚に触れた矢先には、どこか大人びた風合いをしめすであろう鈍さが酸味とともに嗅ぎ取られ、たちまちしそ本来の香りが佃煮として混淆した成果に驚くのだった。
醤油に砂糖だろうか、子供ながら嗜好の一品であったことを思えば、ねばつきながらもあっさり箸へ乗っかる具合や、あとを引く甘みは白飯の含んだ水気に染み入るようで、それのみ食したら塩辛さが勝る口当たりに、ほんのひとつまみといった遠慮の作法がおのずと判ぜられたけれど、わさびや七味といった薬味的な立場に置かれているわけでなく、こうしてにぎりめしの中核を成す役割りは、鶏卵や果物を彷彿させたりもし、根拠は過分かも知れないが、十分おかずとしての使命は果たされている。ときおり、四角く大判なものも食卓へ上がったが、普段の刻みの食感とは隔たりを覚えたので、それはおそらく塩分の強さが子供向きではなかったこともひっくるめて、たとえば七味の入れ過ぎがうどんの汁をひりつかせ、ピリピリ痺れるような口もとに困惑したことや、多めのコショウがくしゃみをひき起したりするような失笑などと異なり、茶碗の中身に対照的な色合いで挑みながらも、その対比は有益な美味へと結ばれるのだから、なおのことないがしろに出来ないまま、やがて愛着に類するような頻度で口にしていたのだろう。たしかに四角いしそ昆布はしばらくお目にかかっていない。由縁は手軽でありながらも、やはり食する者の品格を良い意味で求めようとする佃煮の凝縮にあると言わせてもらう。
これらは正確には幸吉の好物であったゆえの再認識であった。そうなると少量でも白飯と渡り合えるだけの旨みが閉じ込められた律義で、奥ゆかしい黒光りに黄昏の町並みを想起させてしまうことや、逸る気持ちが家路への急ごしらえの懐かしさに導かれることなど、あながち無茶な飛躍でもあるまい。
驚きとはいつも予定調和の確認でしかないのか。だが疑問符は澄明なせせらぎの豹変に乗じて、無調の音符が紡ぎだされる徒爾を称揚し、早瀬の眺めに、近くを遠目に映じている人格へとすり替わる。すこぶるたやすくそこに偽悪者の相貌を見出してしまう。で、よく噛みしめる仕草はさながら歯の浮くような殊勝な心延えにつながって、まだ半分も食べきれていないにぎりめしのありがたさを早速わすれ、味覚の味覚に先行しているであろう内分泌の働きなど閲するに及ばず、脳内と絶対予知に震えている腸内の悦びは、さらなる異変を消化するため、確約された情交へ先急ぐ。逸る意識はこんな短絡をあぶり出し、明解な危機を回避するのだった。
それでも幸吉は自ら選びとった秘密の日没と、不順きわまりない空模様の猛々しさのうちに、そつなく演じられる殺し屋の優美な姿態をほの白く浮かばせ、定石である黒ずくめの衣装を夜に喩えた。同様の仕掛けとして女人に惑わされる良心を差し押さえる必要から、微かな笑みを絶やさなかった。この演技こそ斟酌から逃れる方便であるとともに、肉欲の後始末にふさわしい素振りであり、相手に感ぜられない表情だったとして、内心ほくそ笑むという意味合いの高慢な態度の露呈になろうが、一方で被虐じみた意識への釣り合いに加担したことを考慮するなら、演じられる影の立ち位置は台本に忠実でしかなく、せいぜい偽善者を凌げるくらい悪徳へ徹してみることも肝要だろう。軽薄の調子は不粋を背中あわせがほどよくて、また皮相の立ち振る舞いにかなっているし、脇役の本分からそれる怖れはくだんの二重に積んだ用心深さが裏づけしてくれる。
弧を描くようにして滑らかな調子ではいかないにせよ、完璧な円がつくり出せないにせよ、雅趣を通底に保たずに夕暮れは過ごせない。幸吉は申し送りでもするまなざしで、手のひらの温もりでこわばってしまいそうな残りのにぎりめしをしみじみ見遣って食した。
闇に支配される空間で視覚的因循に寄り従うことは難しかった。諦念はしかし仇とはならず、肉欲に於いてより開花するべき性質をはらんでいる。それは他でもない、女子が下世話に懇願した由紀子と瀧川をめぐる形式に引き戻されたという、引力と斥力の狭間で揺れ動いてやまなかった不如意な実感に後押しされての、大いなる幻想であった。もしかすると焦燥を引き立てつつ、苦渋の面すら憚らなかった無神経さが、すでに形式への技巧的で、そのくせ散漫な心情を補填していて、謂れの謂れを遡行する擬態に、ちょうどほこり被った装飾品の真贋を紛らすよう、適宜な時間稼ぎがおこなわれたとしたなら、形式の形式はもっと別口のやり方で意想に添うべく、呼称されうる現実の一面より、新しい幻想を引き抜いたと思われる。ただ、格段に目新しい目算が引かれたとしても、幻想の領域は波打ち際までの侵蝕でしかなかったので、いかんせん形式の形式の堅苦しさとか、融通の利かなさは古風なまま、革新的な素描に至らず、あくまで寸暇を惜しむよう蓄え続けられている血流の真紅に、想い馳せる薄い皮膚が投げ出す奮闘のみであった。
透徹して古色とした趣きにさらわれてしまうであろう、あのむき出しの裸体にすべては収斂する。逸脱をそそのかす悪魔のささやき、そして儀式という広場を埋め尽くす声なき声の、夢の工場が稼働する軋みに促され、さまよい歩いた妄念が抱く痴態の墓場、まぶたの裏を駆けてゆくのは、肉体の交わりが映し出す栄光の誕生の瞬間である。
幸吉と女子が直面している向こうで蠢いている現実こそ、今西家のかがやきに違いなく、そのかがやきは不変で、しかも魅惑の精髄を枯らすことなく、光と影が織りなす銀幕からの芳香を絶やさない。昌昭の沈着にはじまり間弓の理知にためらい、満蔵の風狂に唖然となった未知数の思い出。一層すばらしいのは女優と呼ばれた娘との婚姻であった。この世の果てまでたどるより、ほとんど悪夢に等しいその欺瞞が生々しく鮮やかで仕方なく、かつてはあまりの新鮮さにこちらが一晩で朽ちてしまいそうなほど尻込みし、まっとうな思念を取り返そうと躍起になった。
が、形式の形式が目していたものとは、矛盾の矛盾を了解して、世界の隅っこに佇むことだけにとどまらず、真夜中に太陽を仰ぎ、海底に大陸を発見し、脳内にお化け屋敷を建設し、腸内に女優を住まわせ、寝起きに映画館へ入って、主役がすぐ殺される物語りを観てから、おぼめく風景にまたぞろ不思議な感化を受け、夜景の瞬きに昼寝しては枕に抱きつき、恋する恋の擬態にうなずくこと、引きつった笑みを引っぱがしたい衝動を認めること、保守的な情緒のあり方で大いに泣くこと、些細な出来事に光線の軌跡を見出すこと、散らかり放題の居場所が彼岸でなく、その立て込んだ無造作に明徴を知ること、郷愁のありかを素朴に捉え浅薄な規矩を用いないこと、まぼろしの影にはいつも媚態があること、暗黒の星雲まで舞い上がり色情をばらまくこと、そして一切を非情な数式で計算してから自涜に耽ること。
「ねえ、なに考えてるのよ」
「君にとって都合よくもあり悪くもある恋慕だけど、僕は由紀子さんが好きなんだ」
「まあ」
「今西家では婚約がひかえているんだよ」
「誰の」
「僕と女優のさ」
「馬鹿じゃない、うわさには聞いていたけど、あんた相当いかれてるわね。で、わたしはどうしてくれるつもり」
「そうだね。なんとか瀧川先輩の呪縛を解けたらって案じたけど、君が心の底から麻薬を断ち切るみたいに宣言と覚悟を決めないかぎり、君は揺らいだままだろう」
「なにさ、えらそうに。揺らいだ状態でちょうどいいのよ。変に固定なんかしてしまうと、がんじがらめの石頭になりそうだわ」
「なるほど、たぶん君はひとにあれこれ言われても、きっと気楽な方を望むんだろうな。それでいいじゃないか」
「よくないわよ」
「ではどうすれば」
「だから言ったでしょう。私を一番好きになってくれたらって。それでまるく収まるのよ」
「だといいね」
「ちょっと、あんた、そんな適当な気持ちでわたしを抱くつもりなの」
「ああ、だってこんな夜じゃないか、しかもとっておきの秘密の場所」
「それはあんたが親身になってくれそうだったから教えたのよ。ちぇっ、内緒にしてけばよかったわ」
「いずれにせよ、君は僕をなじるための口実であの橋で佇んだ。それはどうしたものかな」
「まあね。あれは瀧川の居場所をつきとめようとしてたのよ。別にあんたに惚れ込んでいたわけじゃない」
「今はどう」
「はあっ、そんなこと答えなくたって決まってるでしょうが」
「おやおや、そんなに怒らなくたって」
「怒ってなんかないわよ。あんたがあんまり馬鹿くさいから呆れているのよ。そうですか、今西家の娘さんとね。それでもって由紀子も好きだとさ。どうしょうもない破廉恥ね。ついでにわたしも」
「ついでではないよ。実は由紀子さんも正枝さんも、所詮は叶わない相手だと分かっているんだ。かといって代打みたいに君だとは言えないし、言った方がさっぱりしているのならそれでいいんだけど」
「なに言ってるのよ。あんたはさっぱりしてもわたしはどろどろよ。とんでもない自己本意だわ」
「そうだね。謝るよ、僕が悪いんだよ」
「もう、いい」
「えっ」
「もう、いいの。あんただけじゃない、わたしもあんたを見くびっていたのよ。すこしがっかりしたけど平気だわ。そんなものよね。さっき言ったじゃない、どろどろでも気楽なのよ、きっとそうなのよ」
「にぎりめし、うまかったよ」
「ふん、話しをそらしたわね」
幸吉はよっぽど好物のしそ昆布に言及しようとしたが、女子が打ちあけたように、単に執拗な好意を増長させてしまいそうで、このまま抱き合うのか、それとも苦虫をつぶしたような思いで台風一過の朝を迎えるのか、もはや、自分の欲望の所在すらないがしろにしていた。
高尚な性欲などあり得ない。同じくらい意思の疎通のなさ悪感情で阻まれた交わりもあり得なかった。しかし、底辺に下ったとはいえ、欲望自体が消え失せたわけではなかったので、幸吉は女子の気さくな人柄に好感を持ち、淡い恋情をほとんど光の失った山あいの地へ投射した。
「わたし、ちょっと水を汲んでくるわ。めしつぶがひっかかって。そこにバケツがあるのよ」
どうしてそれを先に報せてくれないんだ、憤然となりかけたけど、ここは女子の隠れ家、自分はひかえめにしていなくては、そう考えていたら、
「意地悪したんじゃないのよ、あんたに野宿の醍醐味を味わってもらいたかったの。ごめんね」
と、陽気な声で言い訳してくれたので、気抜けしてしまった。
「いや危ないよ。僕が代わりに行ってくるよ」
これは至極まともな意見だろうか。案の定、
「なに言ってるの、もう外は真っ暗、あんたよりわたしの方が断然なれているのよ。いいからここにいて」
そう確言されると、あえて反論する理由は見つかりそうになかった。
「ほんとう気をつけて。えらい暴風になってきたよ。雨水でいいんだよ」
幸吉はおのれのひとでなしを棚上げし、にわかに善人めいたの声色を使ったことに違和感を覚えながら、形式の水汲みをまかせる所在なさに寂しくなった。


[537] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら14 名前:コレクター 投稿日:2020年10月26日 (月) 23時12分

吹きつける加減を知らないとでもいうように、横なぐりの雨が肌を刺したけれど、ことさら不快さもなければ、慌てる心持ちにとらわれもしなかった。ちょうど勢いよく回りだした独楽に静謐を覚えるごとく、残像のさなかには奇特な念いが籠っていた。
「どう、なかなかの隠れ場所じゃない。こんなに降っているのにほとんど濡れないでしょう」
いつの間にやら急流の小川を越えてしまったことに奇異は感じられず、慎重な足つきに送られた興奮が川幅をせばめていたのだと、実際には女子の経験を踏んだ運びに頼っていただろうけども、なにかしら危険なところへ分け入ったのではなく、未知なる茂みの青さが灰色の空の下に華やいだ悠然とした色彩で誘われ、案外切り立った位置を占拠した祠のような空洞に息をのみ、草木が生み出している箱型の奥行きに感心していたのだった。
「たしかに雨風をしのいでるし、川の流れが見下ろせるね。橋の上から見たときは低そうだったけど、ここまでは増水しそうもない。まったく不思議なところだよ。視界が霞んでいる」
ひとひとり潜れそうのない繁りをかき分け、透けた空間は大きな岩場の窪みなのだろうか。わずかに緑の剥げたふうに見受けられる足許の感触からそう察せられると、薄明かりをもたらす微弱な外の様子がにわかにほど遠く思われ、このまま暮れ落ちてしまえば、これまで味わったことのない轟くような激しい風を間近にし、夜目には判じがたい雨脚を耳にするのだ。野宿など覚えのない幸吉は回転し続ける独楽の安寧に不安をよぎらせたのだったが、すぐにこの自然の牢獄みたいな閉じた守護で活かされている気がし、あらためて果敢の横溢する、しかし歯がゆいほど眼に光をたたえた女子の優しさに打たれてしまった。
「けっこう温かいのよ。わたしここで何度も夜を明かしたの。今の時期はまだ冷え込まないわ。湿気があるもの。台風は初めてだけど」
幸吉は自分でも意外なくらい女子を信頼しており、こんな日を選んでしまった悔やみなど全然なく、前に言った台風でかき乱される粗慢な高揚をかみしめていた。
「へえ、初めてなの」
心許なさを知らしめるふうに口にしたものの、内心を徘徊しているのはちょっとした冒険の気取りと、高尚さをかなぐり捨てた破滅の予感が意地らしく同居する曖昧な脈拍だった。
「星降る夜だと眺めがいいんだけど、今夜は漆黒の闇ね。わたしだってひとりだったら家へ帰ってたでしょうよ。あんたと話ししてなにか気分が変わったの」
「もう話しはおしまいだったよね」
幸吉には女子の入り組んだ心境がすっかり解きほぐれたと思われなかったけれど、この秘密の場所へ避難が偶発であるのか、その口ぶりに現れているように一夜を過ごすつもりなのか、どちらにせよ、あれほど身の上を語っていながらこのあとどうするかなんて、まるで考えていない面持ちだったので、少々腑に落ちなかったが、台風接近は天気予報のとおり間違いなさそうだし、もう小康状態にはならず荒れ模様が強まるだけで、日暮れも迫っており、ただでさえ見通しの悪くなった山道を照らす明かりすら携帯してなく、寒さに凍えることはないにしろ、こうやって一晩、あるいは天候が回復するのを待っているのか、それが女子の望みであるのなら、また淫らさを匂わせ発した情交に行き着くのであれば、たしかに話しはいらない。
一縷の期待が欲情に支えられているという現実を咎める意識はなく、そして野外で台風通過を体験する無謀にも現実感は稀薄で、幸吉はもう女子の意向に添うしかないと腹を据えた。闇があたりを充満するまえにことを済ませ、背筋を伸ばしてとことん真面目な口調で成りゆきを問うてみよう。
すると起伏の多い女子の感情はふたたび怒りをあらわにするだろうか、それとも鼻で笑いながら幾ばくかの悲哀を投げかけるのか、なにやらこうした軋みが一番現実的ではないように思えてくる。
「橋の影も消えてしまったわね。葉をつたう霧雨が眼を曇らせる。外はいよいよ暴風ね。真っ暗になるのを待つ、それともわたしを早く見たい」
軋みを立てたのは幸吉の股間の張り具合だった。
「ああ、見たいよ」
照れくさいほど甘ったるい声を出した。吐息を感じる近さが保たれた。柔らかにまぶたを閉じた女子の顔に恋する気持ちを重ねようとしたとき、
「あのね、お願い、由紀子よりわたしを好きになって。わたしのこと想いながら感じていたのでしょう。だったら好きよね。さっき、それでも好きってはっきり言ってくれたわよね。由紀子を忘れて、お願い、そうしたらわたしも瀧川を忘れられる」
「そう簡単にいくかなあ」
失言とわかっていながら、馬鹿みたいに先走りしてしまった。
「あんた次第よ。わたしをきつく抱いて」
求めの視線は結びを離れ、あらぬ方向へとさまよい出している。苦しみから束の間だけ解放された気分が口づけに応じた。そして人知れず大事にしてきた緑の部屋を幸吉に教え、軋轢から導かれる交わりの彼方に希望を託している。同じことが自分にも照り返していたので揺らぎはせず、陽光の失われた仄かさのなかに屈折は見出せない。直情であって欲しい、そういう女子の憂慮を受け取るのはたやすく儚かった。
が、夜を徹する覚悟に滑り落ちた感覚は互いが了解し合ったのであり、若さみなぎる発露以上の何ものでもない。幸吉が緑に満ち満ちた境遇を愛でるのなら、相手は一途な気持ちでからだを開いてくれる。この端的で予断を許さない工程には、裏切り者が知る箇条書きなど無用である。女子の本音が那辺にあるのか探ることも、察することにも疲れ果てていた。それより確実に通過してゆく台風の轟音へ身をまかせる放心を認め、くちびるが触れ合うのを眼を閉じながら待っていた。
それぞれの立場は似ているようで異なる背景を持ち、歩む方角も同様だとは言い切れない。昼下がりからの渇ききった精神が潤されているのか、はぐらかされているのか、もはや意識は低下し、いつもの思考停止へと逃げ込もうとしたけれど、それすら刹那の手法にあやかっているだけで、あれこれ喋り過ぎたせいだろう、本当にのどの渇きを覚え、飲み水が欲しければ、草木に降り注ぐ雨水を啜るまでのこと、別に野生児の恰好を思い浮かべるまでもなく、幼い夏休みの日々に隠れている無邪気なかがやきを呼び戻せば、疲弊した若さは当然の雲行きであって、必ずしも若さ自体が疲弊しているわけではないと、宿題をまえにしながら鉛筆を何本も無駄に削ってみたり、消しゴムで遊んでみたり、下敷きの色合いをしみじみ眺めてみたりした、あの億劫で怠慢だった居住まいがよみがえってくる。と、その記憶はより軽く楽しげな意想に着手する。興奮をあえて鎮めるような接吻は、あまりに刺々しい感触を優先させてしまったのか、ひからびたくちびるを湿らせたい欲求が、どちらともなく激しい雨水を手のひらへと受けさせていた。ほんのわずかで届く緑の壁は水滴に膨れ上がったも同然、女子だって口渇に堪えていたのだ。
真水とは違い植物臭さを含んではいたが水分補給にはなった。もっと一気にのどを潤したければ小川の際まで降りて、自然の豪快な溢れに臨めば足りる。ふたりして雨水を啜ったことで、柔弱な決意はさながら真っ赤な夕陽を浴びながら情愛を誓う映画のひとこまのようにまばゆくなり、極限を選び取ってしまったかの尊大さで世界を縮めてしまった。赤い砂漠をゆく駱駝の背のごとく。
さらに驚いたのは野性のしきたりに遊ぶ胸懐を押し広げるふうにして、
「あんたお腹すいてない」
と、なんともとぼけた顔で訊いてきたことだった。
荒れ模様の野外にあえて残った心象風景は、草木を濡らす本能へ帰順するよう、空腹であることの不安感を募らせたりしたものの、一晩くらい食事をしなくたって別段どうこうなかったし、親和と情欲が折り畳まれ、入り交じった衝動の過ぎゆきに勝る充足はないだろう。
女子が努めてとぼけているとは思えなかった。反対にこうした状況へ居残った羞恥にも似たとまどいが、放屁のように笑いを誘ったと思えて仕方ない。そして強度を増してゆく暴風の勢いに、果たしてこの緑の館が崩れてしまうのではないかという危惧を捨てきれないまま、負の感情は理性のよりどころを見失い、高ぶる意識が達するであろう不吉な、あるいは澄明な予感にすがりついている。回転する独楽の静けさを打ち破るのは、どうしようもない猛威だけだと信じてしまっている。
「にぎりめし持ってきたんだけど」
「どこにそんなものあるんだい」
幸吉はたちの悪い冗談でつられたと不機嫌になった。
「瀧川の家に行ってもほとんど留守なのは分かってたの。でも待ち続けていたのよ、わたし。そのうち腹も減ってくる。なのでいつも弁当持参で通ってたのよ。ほら、ここに、あんたに見られるのが嫌で服のなかに隠してた」
そう言うと小ぶりな風呂敷を腰から取り出し、
「にぎりめしだけ、おかずはないけど」
声を低めた申し訳なさそうな女子の面差しに幸吉は慚愧でいっぱいになった。
解いた風呂敷には経木で包まれたにぎりめしがある。
「ふたつあるから一個づつしよう」
膝のちからが抜けた幸吉はその場にへたり込んでしまって、新たな負の感情に苛まれたと思ったが、それは間違いであり、空腹がこれほど愛おしいものだと気づかされたのだった。


[536] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら13 名前:コレクター 投稿日:2020年10月19日 (月) 23時09分

「瀧川から離れられないのは今も変わらずなようだね」
「と思うわ。どれほど別れてあげようかって、そう願っているのであれば何よりなはず、ひたすら使い古された洋服の持ち主が必ずしも薄情でないように、まとわりついた肌触りや袖の通しは風雪に堪えたのでなくて、ある季節にかかわった時間を忘れただけなの、だから、わたしがどれだけ瀧川を鬼畜だの、冷酷だのとさんざん毒づいてみても、それはかけがえのない感情を補填するだけで、まったくすれ違った影さえ追えず、ただ振り向いてもらいたい一心だけが、空まわりして余計ぶざまになっていくのよ。
瀧川だってわたしの気持ちを無視しているとは考えられなかった。でもひとことでも思いやりなんか言い出すと、なにもかもが矛盾だらけの醜悪な寄り添いを認めてしまうことになってしまうから、あの調子でよかったのだわ。無関心にも見える表情の裏には瀧川自身の暗黒が広がっているだけで、わたしはその暗黒の正体を探りたいなんて思わない、いずれ気づくときが来るのが分かるからよ、闇から浮き出すよう不意に現れる妙な色気に包まれたわたし、勝手に吹きつけられた香水の匂いで鼻白むわたし、嘘の花束がどっさり手渡された重みによろめき、いくらか豊満なからだつきで歩きだす明日の姿を、動揺さえ隠しきれない抜け落ちた光の矛先が佇むのを待ち受けることくらい覚めた熱情はないわ。こんな精神状態にありながら決別を辞さないのは抜けようとする意思の欠如だと思うでしょう。そうかもね、出来るなら母に不始末をすべてを被せてしまえば気楽だった。美少年に胸躍らせ、禁断の淵へ前のめりになって、媚薬の効果を自ら試そうと良識さえ捨てる母は断罪に価するわ。しかし、ほとんどあるがままの意匠をくみ取るごとく、瞬時にして女色の漂いを吸い込んでしまったわたしは、あの日、こんな破廉恥な場面とたじろぎ、おののきながら、肋骨の下を押さえつつ、また同じ瞬間がめぐってくればよいと強く望んだのよ。子供のわたしにとって瀧川くんとの接点はそれしかない、嫌らしく不潔に感じることだって、実は興味津々で覗き見ていたのだし、傷痕どころか内心には嫉妬めいた焔が青白く立ちのぼっていて、むしろ歯軋りのやいばの鋭さを感じていたわ。秘密という盟約の脇にひそむ情念は抑えられるものではなく、反対にどこかへ向かって解放を叫んでたのよ、小さな声で、誰にも聞こえないくらい密やかに。
そんな育ちきらない肉感を大事に抱えてきたのだから、母の所業にすべての起因を当てこするなんて清廉じゃない、見苦しい言い訳にすぎない、母の娘であることを誇りに思うべきだわ、誰にも責任は押しつけられない、当たり前よ、花の香りが嫌ならさっさと拭ってしまえばよかっただけでしょう。わたしはそうしなかった。つぼみは芳香をすでにつつみこんでいたの」
集中なのか放心なのか、よく分からない状態で少なからず首肯した幸吉は、女子が自分で自分をぶっているのだと知り、
「危うく勘違いしていまうところだった」
そう言いかけた途端、急に頭の芯に鋭角的な痛みが突き刺さり、
「ああ」と、苦しげな声を上げてしまった。
「どうしたの」
心配気な眼で見入る女子に申し訳なさそうに答えた。
「なんか変な気分がするんだ。もう大丈夫、ちょっと頭が痛くなっただけさ。それより」
「それより」
「いや、ちょっと説明しづらいんだけど、この光景ってひどく懐かしく感じる。つまり遠い昔のことのようにね」
幸吉は既視感だと言いかけて、すぐに口をつぐみ半ば歪んだ笑みを浮かべた。
「なんかひと事みたいね。でも実際そうよね。わたし、これ以上あんたに話すことないわ。ちょうどよかった。退屈そうだし、おおよそ分かっていたでしょう」
「分かってなんかいなかったよ。勘違いしていたんだ。そして、もっと恐ろしいことを」
女子は鋭敏に察したらしく、真面目な顔つきで、
「あんた、とんでもないこと隠しているんじゃないの」
と、冷厳な視線を放ってきた。
まさか、先程の頭痛の主が霊媒の、永瀬砂里の微かな声だと言えない幸吉は、まさに照れ隠しみたいにおどけるしかなく、そのまま歪んだ感情を保ち続けようとした。さらには女子に対して讃美とも共感ともつかない、なおざりの口ぶりで、瀧川にまつわる因縁を切り上げた潔さに何度もうなずいた。
それは永瀬砂里の懸命な引力にすがっている老境が瞬き、須臾の間だけ未来の方へ心身が移行した不思議と、戒めらしき案件を長く耳にしているような錯誤だった。
「博士、そろそろ戻らないといけませんわ」
霊媒の力はたまゆらの流れに委ねられ、悲劇の顛末をかいま見せるのだが、切なさだけに区分された送り火と化してしまう。幸吉に殺意はない。だが、まぎれもなく女子は翌朝この川の淵で遺体と成り果て世間を騒がせる。
「見届ける必要はないのです。過去を追体験しなくていいのです」
「どうしてかな。わしがここで女子を帰らせたら無事で、代わりに由紀子さんが死んでしまうじゃないのか」
「そんなことありません。博士は記憶を封印しているだけで、刷新されることはないのです。さあ、風雨が止んでいる間に帰らせるのです」
「では何者が命を落とすのだい」
「それは博士が知っています。不必要な解釈は仇になります」
「わしはこの眼で確かめてみたい。その為にあんたの霊力を借りたんだ」
「いえ、わたしは霊力など貸していません」
こうしたやりとりがまるで走馬灯のごとく優美にせわしなく廻ると、意識だけに限らず、はらわたも同時に現世らしき時間へ呼び戻され、消えてはうつろうあやかしの名分が散り散りの花弁のように吹雪いて、たれこめた曇天の濁りに溶ければ、すべての細胞までが微塵の儚い質量と大いなる響きを跨ぎ、予兆が予兆である以前にけたたましい謀略を企てる女神の笑みが窺われ、無論それはほとんど夢想の彼方へ疾走するほうき星の揺曳にすぎなく、この眼に映る無邪気のありようは捉えられない。
「あそこも隠れ場所よ」
女子の指差す茂みは緑の館であった。
「わたし、瀧川とあそこで交わりたかった。でも言いもしなかったわ。小馬鹿にされそうでね、それよりいつか秘密を打ち明けるひとにだけ教えたいと思うようになったの。さあ、行きましょう。お話はもう終わり」
「君は・・・」
幸吉は声を詰まらせた。
「あら、雨が降り出したわ。さあ、急いで、ちょっと先からしか降りれないの。どしゃぶりだって平気なのよ。あんた信じてないでしょう、でも嘘じゃない、本当なの、ただの草むらと思ったらびっくりするわよ」
「博士・・・」
幸吉はすでに達してしまった老境を振り放し、優等生だと認知されていた虚像も投げ出し、霊媒の声を別次元へこだまさせた。
「これからもっとしけてくるよ。川の水も増えるし、ふたりして遭難するんじゃないのか」
しがらみを断った清さが、わざとそうした不安を問わせる。
「なに言ってるのよ。わたしのとっておきなのよ、安全に決まってるでしょう」
「わかったよ」
「足もと気をつけて。濡れた岩は滑りやすいから。あわてない、あわてない、ゆっくりと」
朗らかな女子の口調にほだされ、思わず手をとり、その横顔を慈しむように見つめた。
「ほら、足もとに注意よ。いいわよ、あわてているのね。見せてあげるわ」
小首を傾げるふうにし親和を近寄せる女子に恋をしている。雨模様で留め置かれた山裾に現れ、怒気と悲嘆を容赦なく投げかけた剣呑な異性に胸が高鳴る。急変ではない、あらかじめ知り得た天候の荒れが心象風景を書き割りにして、未知なる樹々の奥へと急がせる。浅瀬であった小川の運びは白波を際立たせるほど、ささくれ、あるいは細やかな怯懦を偲ばせながら、出会いの転瞬こそ閃きであり、立ち返るべき場面だと感じた。しだの葉で被われた岩陰から勢いよく延びた幹に、背丈を奪われた女子の無心な面差しは繁茂する緑へ回帰するとでも言いた気で、その裸体すら自然の趣きに順化してしまったのか、脇腹からこみ上げてくるようないつもの色欲は、どうやら穏やかな野心となって平地へ薄く広がってゆく。こんな岩場と草むらに囲まれているのに。
つないだ手が離れ離れとなった自然の木立に不本意を感ずるのではない。逆に迷宮をさまよう当惑が先行しているからこそ、女子の指し示す緑の館は、興じることの疎放や軽はずみの恋慕に安らぎの宿をあたえ、実りの田畑とは隔絶していながらも、等しい山肌の連なりに映じている感覚を共有する。遠望をさまたげる風の語りが無言であればあるほど。
しかし、女子の吐息に棲みついたなまめく衝動は、辺りに漂う瘴気と同じくらい空恐ろしさを秘めており、これから繰り広げられるであろう情交を由々しく讃えていた。そうなると面白いもので、大小の様々なかたちをした岩を踏みしめる足先への配慮は、遊戯に没頭する慎重さで満たされ、また苔むした加減を見遣る目線との距離がなにやら浅瀬の小川へと降りてゆく気概に則して、生真面目な肉感をあらためて草木の根へ埋没させる。なるほど自分は興奮しているのだ。高ぶる欲情を鎮めてしまう由縁は、探った矢先に早瀬のごとく視界よりかき消えているので、女子が希求した乳房のふくらみから想起させる卑猥さは濾過され、増々つかみどころのない期待につまずくのだった。
雨水をも吸った岩苔の密生を避けた結果、橋を飛び降りるような危険にはほど遠い目的の館へふたりはたどりついてしまった。興奮はこれまでになく理知的で、本来あったかも知れない野外でのまぐわいに関する態度は、おそらく女子とはかなりの隔たりがあったに違いない。裸で抱き合う為に滑りやすい足もとへ相当な注意を払った事実が、喩えようもなく好ましく感じていたけど、普段の風雨とはかなり異なるただならぬ内包的な暗澹をまず念頭に配置し、晦ます緞帳の奥へきっと誰しも思い描くであろう恥じらいを並べてみた。
町の外れの向こう側から柔らかな日射しに送られ見慣れた通学路を歩む。家の近くに達するまでにどれだけ新鮮な空気を吸っただろうか。女子が哀歌のように語った金木犀の匂いにつつまれたり、そっと反照へ応える仕草がまばゆい野良猫の背に見とれたり、遠い山の音を湿らす猟銃に耳を澄ましたり、ほのかな物音でつたう雨水に似た異性の影にどれほど華やいだことだろう。近道の発見が迂回してみて感じ取る視界の開けかたと同一なんて、まるで真冬に咲き誇る桜の枝ぶりを夢見るようだ。
幸吉の不純な意想はこうして難なく、迫り来る台風の眼に早くも収まってしまった。


[535] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら12 名前:コレクター 投稿日:2020年10月06日 (火) 02時55分

「たぶん、分かると思うよ。その火花の残像がひどく生々しいから」
あらためて幸吉が向き直ったと女子は感じたのか、
「いいわ、信じてあげる。だからお願い、あまり取り澄ました顔で見つめないで」
と、心細げに言った。
「そういうつもりではないけど、君の話しを聞きながら薄ら笑いなんか出来ないよ。間抜け面であっても、見られても別にかまわなけど、やっぱり抜けてるから仕方がないし、その方が君にとって都合いいのであれば、苦言も吐かず舌打ちもしない、そう願う君がいる」
「皮肉だけが滑っていくのね。都合よく」
「とりあえず、悪感情やら敵意をおもてに出さないつもりだよ」
「それはあんた自身への配慮でしょう」
「だろうね」
「まあ、いいわ。瀧川の約束って言葉が嘘の権化であることを知りつつ、胸をときめかせたのだし、あんたの了解だけ求めているわけじゃないから、わたしは浅瀬みたいな絶望を語るしかない」
女子は少しだけうつむき加減になったが、やがて業火に焼かれる身を慈しむように、現在形の郷愁がここへ立ち止っているのだという調子に戻り、瀧川からの仕打ちを、それは受け身であり続けた夢見を打ち消さないがゆえの係わりであって、被虐に美徳を見出した言い分を真綿へ含ませていたので、押し黙る義務に駆られたけれども、疑問符を投げかけようとする構えを捨てはしなかった。こうした撞着はそれ自体がちょうど軟体動物のうごめきであるかのごとく、地べたの影にまぎれていた。
「わたしは固まったままだったわ。母との密約に翻弄される悲劇を演じようとしていたのね、きっと。だってその方が意識の膠着から逃れられるじゃない。固まったふりかしら、でもこれが自然だわ。無理してあざとく恥じらい抵抗しても、駄々をこねても、憤慨してみても、余計みすぼらしい気分になるだけよ。さあ、どうする。つまり出方を窺ったのね、わざわざ相手が出向いて来たのだから断然そうあるべきでしょう」
「なるほど、君は賢明だ」
「けど、役者は一枚も二枚も三枚も上手だった。例えわたしがスカートを何枚めくりあげたところで、瀧川はじっとわたしを見つめたまま、素直に受け取ればそれは威圧なのだろうけど、そうじゃない、決して重圧をあたえず、妙に脱力した接近で、しかも通りすがりに香る金木犀みたいな甘い雰囲気を漂わせている。えっ、今は春でしょう、もう秋なの、ねえ、そんなに早く過ぎゆくなんておかしいわ。変よ、どうしたらいいの、ちょっと待って、いかないでよ、通り過ぎないで、置いていかないで、振り向いてよ、わたしはたちまちにして激しい動揺に襲われてしまった」
「それでも君は賢明だよ。心得ている」
「ありがとう、あら、あんたに礼なんか言ってしまったわ。そんな場合じゃないのにね。うれしいけど、わたしは心得違いしてたの。これまでのいきさつをよぎらせるまでもなく、抱擁や接吻を期待していたの。あんたがさっきしてくれたようにね。ところが瀧川はそうじゃなかった。とぼけているのか、軽くあしらっているのか、母の不在を承知してわたしに迫っておきながら、指一本触れずにその日は帰ってしまったのよ。取り残されたのはわたしの希望、それとも母の執着、足音もたてずに去っていった瀧川はとても穏やかだったわ。穏やかすぎて耳鳴りがした。鼓膜がうっすら痛かった。冷たい春風はいったい何を運んでいるのだろう」
あきらかに落胆の面持ちを甦らさせた女子だったが、ことの顛末は始まったばかりであって、安直な失意をなぞる気力こそ生命のかがやきだと、自らを説き伏せるようなもの言いで堕落の道筋を紡いだ。夜明けを告げる空の青みに突き刺さるうわごとが、短い悲鳴と酷似しているように。
この場合、馬鹿正直であるという表現は当然ながら却下され、また女の性が絡まり合う確執という見方もふさわしくなさそうなので、帰宅した母へ向かって発した伝言にどれだけ感情がこめられていたのか、本人は淡々と話したつもりであったろうけど、内容が内容だけに尋常ではない攻防を思い描くしかない。
「さぞかしもどうもなかったわ。あれだけいわくたっぷり優しく言い含められたら、逆に事件だ事件だなんて騒ぎ立てるよりか、腹を割って話すしかないわよ。瀧川のすがたかたちを、その輪郭をぼんやりしてしまった動揺に重ねて伝えたわ。母は眼をまるくしてうろたえていたけど、まんざらでもなく同意を隠しきれなかったみたいで、何度も引っ越しという箇所にこだわって、もう少し詳しく言ってなかったか、それはいついつなのか、とにかく気まずさを押し殺すふうにしながら、内心の高揚を鎮めようとしているのが見え見えだったし、とってつけたふうにわたしの身を案じるのも不快だった。
結局、なにひとつ対策も提案もないまま、まるで妖怪を出迎えた不思議へひたっているような間延びに弄ばれただけ。それで終わりよ。あんたに聞かせた以上の出来事を細やかに再現するなんてどうかしら。はなから異常なのよ、母もわたしも、だからといってすぐさま堕落と決めつけられるのは心外だわ。終着駅の名が堕落と示されているのだったら観念するけど、その途上には様々な駅名があって、それぞれ固有の、まあ別段意味のある名ではないにしろ、さっさと見送ってしまうほど急進的でもなし、二度目に瀧川が訪れたのをどう詮索したか、いまだ曖昧にしているところを思えば、わたしらはのんき者かもね」
「そうか、まわりが気を揉むより案外と波風は立たない」
幸吉は修羅場の様相に招かれていた自分を諌めるようにつぶやいた。すると、
「さて、波風はわざと立てるものじゃないし、出来れば平穏にこしたことはないけど、瀧川が近所へ住まうとなれば、そうはいかない。母とのとんでもない約束だってあるし」
慎みと開き直りに促され吐き出された言葉が耳をくすぐって、女子の心中に揺れ動く異変を感じた。
「どうなのかしら。わたしは自分をとりまく情況にさほど左右されてない気がした。もう慣れっこなんて言うと無神経かも知れないけど、母と瀧川の関係すら紙芝居の絵図みたいに思い返されて、乱れた女体へまたがった児戯にもとらえられる。同時に恋する気持ちのゆくえも見失ったようで、叶わぬ情に縛られていたから、この人気のない民家で生まれ育った感性が鋭く刺激されたのね、おそらくは。だとしたら、飄然と現れた瀧川はどこまでもつかみどころなく、母が差し出したという生娘に釣られて訪れたのではない、その反対よ、わけあって近所の空き家へ越して来るなら、わたしたち母娘は目障りな存在、過去の爛れを拭うような意思できっぱり今後の距離を取ろうしている、その考えはあながち邪推でなく、瀧川の現在を当てはめてみても納得がいくのよ」
「そして君は先を読んでいた」
「たぶんね、この界隈の空き家を選んだなんて、とてもいかがわしい匂いがする。もう遡るのさえ面倒なんだけど、母が瀧川を開眼させた後、どういう発展を遂げたか、あんただってあまりに鮮やかすぎて追いつかないでしょう。今のわたしにはきっぱり言える、だけどあのときは真相究明なんて言葉が先走るだけで、生臭いものを遠ざけるような嫌悪が優先していたわ。ほぼ見当つくわよね」
「ああ、噂だったけど誰も問い詰めたりしない風潮があった。不思議に思うだけでいかがわしい秘密を牛耳っている先輩に対する複雑な感情を認めてなかった」
「では、子細はいらないわね」
「察しというよりなにか歴然だよね。少なくとも僕にとっては明白だよ」
「ひょっとして、わたしのせい、あんたと今日ここで出会っていきなり罵倒したり、無茶を言ったりしたから。そうだよね、最初に全部ぶちまけてしまったもの、なんか恥ずかしいわ。さぞかし変な女と呆れたでしょう」
そう言いながら女子は照れ笑いをつくったのだが、幸吉には当初の印象とは別の好ましさが感じられた。
「まあね。でも君は僕の知っている君じゃなかったよ。僕の知らない君と出会えたことに感謝している。だから、ひとまず質問させてくれないか。君だって僕と由紀子のつながりに興味ありそうだけど、瀧川先輩との成りゆきが大切なんだろう」
大切だと言い切ってから幸吉は、腫れ物に触れてしまった後悔を感じたが、
「いいわよ、あんたの謎に答えてあげる」
と、軽快な反応が返ってきたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「率直に訊くけど、瀧川先輩は別とか先とか言ってるわりに、あの同級生の相手をしてあげたのがよく飲み込めないんだ。他にもいるってことだし、あれは自暴自棄ってやつなのかい」
「なにを訊ねると思ったら、そんなことなの。気になる、そう、分かったわ。でも少々ややこしいのよね、あんたは瀧川がわたしを女にしなかったところへこだわっているようだけど、はっきりしておくわ。結局わたしは中学生になった途端に情婦と名付けられたのよ。あの空き家で瀧川がどんなことをしていたか、最初はあちこちの女を引きづりこんでいたのね、ときには複数を相手にしたとか、懇意な連中を呼び寄せて乱交が行なわれていたとか、わたしは実際に立ち合ったりしていないし、瀧川もその辺は気遣いしてくれたらしく、おまえは勘が冴えてるからってある程度の事情を打ち明けられ、まんまと籠絡されてしまった。いいえ、そうじゃない、違うわ、あの日と同じで、わたしの妄想が羽ばたいたのよ。だって不快な顔を見せなかったもの、それで瀧川は閃いたのでしょう、おまえは特別なんだ、他の女とは一緒じゃないって言い聞かされ、その証拠に自分のことを呼び捨てにしてかまわない、瀧川と呼べって諭された。おまえは俺の情婦なんだから、そして俺はおまえの情夫だと。呼称だけでもたやすいわね、本気にさせられるし、同等の立場で息をしているような感覚が育まれてしまう。
ところが単に呼び名でとどまることはなかった。元来がすべてに背を向けたようなひとだったから、わたしを抱きながら震えていても、それが弱みだなんて絶対に口が裂けても言ったりしない。やがて高校生になった頃には与太者やら愚連隊に眼をつけられてしまってね、悪巧みを強要され、抜き差しならない情勢へ自分で自分を追いやる恰好になったわ。ほんとう危うく空き家は淫売の巣窟になってしまいそうだったのよ。もっとも切れ者の瀧川は町の顔役に渡りをつけて難を切り抜けたけど、うちの母なんか完全に青ざめてしまい、早く別れるよう馬鹿みたいに唱えていたわ。そんな取り沙汰くらいあんただって知ってると思ってた。あっ、そうなの、風聞なんてひろがるところにひろがるだけね。
わたしはどうかと言えば、変に度胸がついてしまったのか、頭が麻痺してしまったようで、瀧川の情婦になりきっていたの。際どい情況をくぐったせいかしら、もうお色気遊びには飽きた様子だったし、ひとの出入りもめっきりなくなり、わたしと瀧川は二人してしんみりとした夜を送っていたわ。あの閑暇が思えば至福のひとときだった。しばらくすると今度は町の顔役が瀧川を見初めて、あれこれ誘いを掛けてきたのね。恩があるし断りきれない立場を理解していたみたい、一度だけ頼みを引き受けることで義理を返そうと考えた。いえ、わたしには教えてくれなかったわよ、それどころか、足手まといになったのか、母のもとへ戻るよう引導を渡されてしまった。むろん拒んだわよ、情婦じゃなかったの、どこまでも一緒じゃなかったのって泣きわめいたわ。子供が本気で駄々をこねるようにね。
聞き分けないってぶたれるのを覚悟していた。しかし瀧川はある程度突き放しただけで、ことさらおまえの為だの、俺なんかについて来てもなんて言わないのよね。だったら好きにするわ、このままくっついて居座ってやる。かなりふてぶてしい態度で瀧川に迫った。文句あるならぶってよ、その方がすっきりする、しまいには口汚く罵ったり、泣き言を垂れ流していたわ。それでも瀧川は手を上げたりしない、ただ静かな眼つきでいるだけなのよ。わたしは一段と軽んじられてるように思え、心底悲しくなってしまった。すがっても駄目なのね、いいわ、だったら淫売になってやる。誰かまわず男に身をまかせて瀧川を見返してやる。ええ、なんとなく、あんたが感じたように、そんなにすれっからしではないのに、意地でも悪ぶっていたかったの、それが瀧川に対する反抗というより、献身である弱さと知りながら」


[534] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら11 名前:コレクター 投稿日:2020年09月29日 (火) 02時39分

夢見る宇宙の奥底でうごめくもの、暗黒の星雲を背後に、いや前景として悠久の未来へと開くもの、あり得ない出来事と、そうであってしかるべき幻想が交差する脳内の局所にかけられた麻酔こそ、別次元への扉をかいま見せる壮大な儀式の序説なのか。
この大仰でめまいをともなう感覚は、たちまち現れ消え去ってしまう刹那の物音みたいに、控えめで可憐な心境へと落ち着きついた。たとえば大雨の翌日、道ゆく歩調をしんみり乱すようにして側溝から溢れる流水のざわめき、それは急変を告げることなく終わった憂慮へ被さった音楽なのだが、決して路傍で立ち止り、夢想の調べに耳を貸すよう詩情は作られず、ただいつもの足どりで風のありかを感じるだけだった。
どこかしら偽君子の面影がよぎるけれども、かりにそうであったとして、日曜の昼前、ことさら殊勝な気分で机に向い勉強を始めながら、あえて遮光しようと半分だけカーテンを閉めたときの明暗にも感心せず、妙に取り澄ましたふうに空気を吸い込むのは、寝汗とちょっとした体調の加減に悪夢の采配を連ねるごとく、ぞんざいでしかない。
幸吉の眼はすでに起こってしまった光景にのまれることから逃れ、女子が力説した胸のふくらみを凝視した。瀧川に射抜かれる少女の媚態が清々しく思えたからであった。そして眼を細める仕草は、光線の向きが変じた予感に絞られてカーテンをふたたび両脇へ押しやる、健康な午後の証しだと言い聞かせた。
女子の吐息は幸吉の邪念を滑り込ませ傍らへ追いやったが、敵意は退いているよう感じられる。

「これという展開が日々を演出していたわけじゃなかったわ。気配だけ残してわたしの心を掻きむしる美少年の瀧川くんは、あこがれを抱かせるより失意を授けてくれたから、小さな抵抗も的はずれの勇気も、希望を希望に則す名分も守りきれなったし、はっきりした妬心すら維持できなかったのよ。豊満な母の身体で開眼していくだろう少年に追いつきたい願いがあっても、出発点の隔たりはどうやら埋まりそうになくて、そうね、あの強烈な場面に、母の肉塊に埋まってしまった官能をとらえること自体が不可能だったの。想像なんかしないって意地を張ってみたところで、あの日、玄関で見とがめた運動靴の抜け殻さえ、記念品の重みに似た懐かしさを感じさせ、本当に母と肉体が結ばれていたのかなって、まるで甘美な痛みを思い出すみたいに胸を刺すばかり、計り知れない不信が別方向からやってくるような気がしたものよ。
なぜって、実際の瀧川くんはわたしを置いて魂ごと飛んでしまった蝉の声、夏の終わりを惜しんでいる土の匂いよ。夕立ちが小憎らしくて、でもこざっぱりするような感情を運んで湿らせる風のいたずら、見栄を張り異常な関係を認め歪めて、快感には覚束ない自分を納得させる為に不本意な構図を描きだす未熟の存在、その存在を糜爛へ当てはめれば、醜悪な考えは突飛な昇降に違いなかったけれど、時間の経過と時節の折り合いが旅を美しく彩るように、あたら好機を逸したと嘆くだけに終始したりせず、小さな旅によって見失うであろう理性や努力にいつか出会えると考え直すの、だから方向感覚が麻痺してしまい、独りさまよう半径は短くて仕方がなかった。まるで眠れる森に沈むみずうみの月影ね、とらえようのない美しさに溺れる不可解なあがきだったわ。土曜の部屋に充満する淫らな香りだって、わたしの鼻孔が嗅ぎ取った妄想だとしたら。
いいえ、確かめようがなかった。どうしようもなかった。母と真正面にぶつかる気概は怨念に等しく、覇気と言えるものは醜い繋がりによってのみ、もたげる意義を謳っていたし、母が少女の仮面をつけ立ち働いてくれた淫行にわたしは救われたのだから、表立った文句なんて許されない。むしろ主犯の陰にまわるようにしてその恩恵を受けた心苦しさを知るべきだったのよ。なんて近場の色香なの、みじめな恋なの、わたしを鞭打つ痛覚はそれでも鋭利な刺が抜かれていた。さまよい出る幽霊に体温を感じ取れないごとく、冷ややかな恐怖もすすんで趣きを遠ざけていたの。さまよい歩く距離なんてほとんどない。だけど、身についてしまった汚れはぬぐいきれず、快感は恋の実りであることを忘れたかのように、豊穣を夢見てわたしは幽霊そのものになってしまい、ひたすら快感だけを頼りとして大人の仲間入りを企てた。ええ、育ちつつある肉体にすべてを託し、濡れそぼった箇所をみずうみに喩え、どこまでも底なしである神秘を乞い、触れて突き刺さる異形に身悶えしたわ。てのひらに隠れるか隠れない柔らかなまるみをした細長い目薬の壜がわたしの玩具だった。汚れに涙する中身の液体がなくなった空っぽの壜、密やかに優しくみずうみを滑っては水鳥みたいに湖面を破ったわ。
なんという独りごっこ、瀧川くんの笑顔もいらない、母の夜もいらない、太陽のひかりもいらない、男子の好意も欲しくない、友達の同情も無用、わたしはわたしの幽霊と戯れていればこと足りる。自給自足の美徳はあの運動靴を思い浮かべることで、記念品は無造作に脱ぎ捨てられたであろう、母と少年の下着が散らばった意味をかき集めるようにして汚れを引き受けた。肉体は見通せないけど、男女の交わりはここにあり、快感は高潮となってわたしを襲い荒れ狂ったの。
てのひらに、ポケットに収まる秘密はやがて大胆になってゆき、学校まで持ち込んだ。もうこうなると誰かに悟られるのは避けられないでしょうね。そう、よかったわ。友達でも先生でもなく母に覗かれて。これでおあいこね、もちろん叱られたりしなかったわよ、ただ眼が合わさったとき、母は悲劇の主人公みたいな表情になって、わたしを憐れんでいたのか、それとも女の業に対面した罪悪感か、とにかく今にも泣きだしそうな顔だった。その頃にはもう分かっていたのよ、瀧川くんが家に来なくなったことを。だって来週は卒業式、えっ、違うわよ、わたしの卒業式よ、別におかしくないでしょう。わたしだって成長するの、いつまでも母子の悲嘆を喋っていたくない、話しは飛んだのよ、空模様くらい見てるし、あんたの間抜けな面だってちゃんと窺ってるわ」
「なんだよ、そんな言い方しなくたっていいじゃないか。僕はただ驚いているだけなのに」
女子は幸吉の反論を面白がって、
「あら、そうなの、しっかり驚いてくれたのね」
と、不敵な笑みを投げかけた。
「当たり前だろ」
「だったらいいけど。わたしが欲しいのでしょう。でも瀧川が先だから」
「先もなにも、過ぎたことなのに、どうして」
「急がばまわれ。この場合、いささか異なるけどね。肝心なところを話しておくわ。中学で再会した瀧川はすでにわたしも母も入る隙なんかないくらい輝いていた。男子はみんな坊主頭だったけど、不思議とあいつはそうじゃなく見えてしまうから凄いわ。他校の女子もわんさかで、それはそれは、おっと、ここはいいか、あんたも知ってることだよね」
「ああ」
いかにもふて腐れた幸吉が微笑ましかったのか、
「いい、わたしの卒業式って言ったのよ。中学生では飛び過ぎなの、大事なのは卒業前にわき起こった出来事なの。家の近くで瀧川が待っていた。なんと向こうからわたしに話しかけてきたのよ。で、用件とは近々あの空き家だった親戚の家に越してくるって言うのね。よく訊けば引っ越しじゃなく、瀧川一人だけの隠れ家なのかな、別荘なのかな、そういうことらしいの。だから母にも挨拶したい、いきなりだとわたしが怪訝な顔をすると判じ、なにもかも訊ねられれば答えるつもりで待ってたっていうじゃない。青天の霹靂よ、瀧川の華やかな雰囲気、毅然とした物腰にわたしはしどろもどろ、なにも質問などありません。はい、母に伝えます。としか口に出来ない狼狽ぶりで、それでも瀧川は、にっこり檸檬のような笑顔を香らせ、よかったら一緒に行ってくれないかって、困惑しているわたしを気遣うように眉間を曇らせたりするから、はっと眼が覚めたというか、あれほどまで誓いを立てた幼稚で無垢な想念が自然現象みたいに再来し、わかりました、でも今日は留守です、母は仕事に行ってますので、と自分でも首を傾げそうなくらいの口ぶりで接しつつ、瀧川の眼を穴が開くように見つめたの。いや、見とれてしまったのかしら、とにかく真正面に向き合ったのだから本望だった。
もうなにかに取り憑かれたとしかいいようのない反応を示した。あのう、瀧川先輩、わたしのことどう思ってました。たぶん一瞬稲妻が走ったような緊迫を与えたけれど、それはわたしも同じで、落雷に打たれたみたいな衝撃と絶望でまともに立っているのが信じられかったわ。けどすぐ見越されてしまった。いいのよ、そうしてもらいたかったから。
実はその件でおかあさんと約束があり、留守を承知でここへ来たと言えば、なにか思い当たる節はないだろうかって今度は真顔で睨まれた。ええっ、全然わかりません。どういう意味なんです、わたし聞いてません。母と約束・・・聞いてません。もはや瀧川の話しさえ聞きたくない自失感でいたたまれなくなったわ。しかし、心の底では悪魔のささやきを迎い入れる体勢が備わっていたのね。そうよ、わたしは汚れたみずうみなの、待っていたのはこっちよ、母をだしにしてまで受けとめようとした恋がようやく開花したのね。まさかこんな形で再会し、秘密の秘密らしさを味わえるなんて、わたしは有頂天になった。そして瀧川の狙いが妄想に組み込まれている実感を得た。
約束っていうのはね、娘が中学になるまで我慢して下さいって言われ、関係を続けるということだったんだよ。ところが俺は他の女の子に夢中になってしまってさ、そうしたら君のおかあさんは生娘を捧げるって言い出してきかないんだ。まさかとは思ったけど、それが君のことだった。で、しばらく俺はここへ通ったんだが、もう約束なんていいから自由にしてくれって懇願した。反対に拝まれたよ、もう少しだけ少女の気分でいさせてもらえなかいかってね。続いたよ、段々と薄れていったけどね。俺は忘れていた約束を果たしに来ただけだよ。
わたしの眼はさぞかし危ういきらめきにうるんでいたでしょうね。あんたに分かる、恋の火花がこんなにも瞬くなんて」


[533] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら10 名前:コレクター 投稿日:2020年09月21日 (月) 04時14分

「過去形であるべく始まっていたのよ。言われなくてもわかってるわ。それよりあんたはわたしの重荷とやらに関心があるみたいね。どうしてかしら、瀧川のこと、本当はねたましく感じてるからじゃないの」
瞬きと呼吸が恬淡であることを諌めた女子にたじろいだ幸吉は、反論が言葉以前の衝動へ踏みとどまってしまい、まるで蜃気楼を遠望するような感覚に沈んだ。それが決定的な既視感であり、懐疑を寄せつけない華やかな危惧であることに酔い痴れ、振りはらえない強迫観念と等しく、こんな意想しか自讃できないぼろ雑巾みたいな汚れを卑しみ、端切れの織りなす虚飾にひろがりを見出していた。その裾野には由紀子の母をも籠絡するであろう、瀧川の鮮やかな横顔が透けている。
「そうだよ。先輩の颯爽とした息づかいは異性が香らす魅惑に劣っていない。必ずしも直ぐさま下半身へ這い寄るものではなかったけど、柑橘類みたいな程よい酸味があって香しく、ほんの一歩でも前へと進みたい熱意を催させた。性欲の無目的な情動とは別の研鑽を強いる姿勢に目覚めたものさ」
「なるほど、目覚めね。大層な意見だけど、わたしの恋に似ているかも知れない、なんて言うとでも思ってるの。それより、あんたはわたしのあそこが見たいのでしょう。一緒にされたくないわ」
「一緒になんかしていないよ。ああ、見たいだけだよ。本当に見せたいと、見せてあげたいと少しでもまっとうに考えてるならね。君はあの同級生を釣ったように遅鈍な欲求でもって、憂さ晴らしを、先輩に対する愛憎をあたりかまわずまき散らかしているだけなんだ」
「なによ、遅鈍な欲求って、あいつはただのいやらしい早漏だった、女体を知らないうぶよ。あんたこそ、そんな光景を思い浮かべては懸命に塗り替え、陰気くさく耽っていたんでしょう。わたしをあがめながら」
「さあ、どうかな、陰気ではなかったよ。晴れやかな気分だった。だってもしあいつの初体験の相手が君じゃなく他の誰かであっても、きっと僕は大いに欲情していたからさ。観音様は特定の顔を持っていない」
「まあ、なんて言い草なの。だったら、どうしてわたしのこと好きだったなんて口にできるのよ。なんで、あんまりだわ、やっぱり瀧川の子分よ、あんたは」
「それでも好きって言ったらどうする」
「えっ」
「ひどい言い方だった。ごめん、あやまるよ。僕には君のやり場のない気持ちが伝わってくるんだ。あんたなんかに伝わらない、そう断言されても批難されても、駆逐艦に撃沈させられた慟哭を海底から引き上げてみろと打擲されても、真夏の狂熱のほとぼりが季節の夜にさまよって、その静けさの向こうに凛とした雅趣がかまえている限り、あたりまえのように更けゆく秋の深窓を不粋だなんて絶対に考えないし、むしろあり得ないまぼろしとしての君が、夢見るしじまのなかで透明な水質をもって調教を施され、痛ましい美徳の加減に立ち止まっているなら、君が体験した淫靡で細やかな情感を認めたくて仕方ないんだ。夢の向こう側からどうか送り返して欲しい。たとえ詭弁と蔑まれようが、すべて逆手にとって股をちらつかせる痴女じみた口上が悩ましくて望ましく、僕は君の猛禽類と匹敵する飛翔を夜空の彼方にとらえているから、その耳年増めいた境遇をなにより愛おく感じる。うまく説明できないけど、ここで何もかも明白にするような知恵もないし、この天候に支配されて、時間の流れに嫌というほど圧搾されて、意欲は自然に減退している。にもかかわらず、君の耳鳴りはとても遠い果てから聞こえてくる。そして一刻も早くその耳鳴りに近づいて行きたい想いに駆られるんだ。僕は見たいし、聞きたい、どうしようもない強欲者だから、君が好きなんだよ」
「よくわかならないけど、あんたが強欲っていうのはうなずける」
幸吉は女子の表情から愛憎を抜けでた同意の一片があたえられたと感じた。怒気を含んではいるが、嘆きの荒野を危なっかしい足どりで踏み越える意志があり、微妙な年頃なんて子供あつかいされることを拒んできた、しなやかで怜悧な面立ちがかいま見えた。
「僕が強欲なら君は自分をどう受け入れる」
「どうもこうもないわ。ほら、すっかり水かさが増してる。まるで早瀬みたい、わたし、ここが一番のお気に入りの場所なの。あら、どうしたの、呆然として。普段は川音をひっそりさせて、わたしの心臓の鼓動を聞かせてくれるのよ。そんな場所でお話してるのね」
急変をうらなうごとく、速やかに話頭を切り替えた女子のもの言いで、我に帰った幸吉の眼は、浅瀬すら泳ぎかねるよう物怖じして橋のたもとへ佇む影なき影を見つめた。が、すぐにうしろを振り向き、その小川と橋をぎこちなく位置づけ、繁々と由紀子のもとへ通った記憶を昔日のごとく甦らせた。
擦過する景色、けれども夕暮れのもの寂しさを夜更けまで響き渡らせようとする視線の傾斜、あるいは点景をうっすら願った風のささやき、忘れかけた駆け足へまとう劣情の平均化。
いつ手をかけてもおかしくない橋の柵は赤茶け、そして苔むしていた。女子が示したとおり夏草で被われた小川のせせらぎは、鬱蒼と繁る緑を追い立てるふうにして勢いを増し、白波を運んで上空へわだかまった愚鈍な視野を解放しようと努めている。流れの際に取り残された小石の褪色した風合いは、上段を占拠する野草をも枯らしているのか、すでに夏の盛りが過ぎてしまった心残りを渡らせ、一瞥にふさわしい光景が開けていた。しかし遅々として進まない秘めた想いに重なる悠長な眺めを、そこへおさめようとしている背馳が翠緑の映発を買ってでて、吹き荒れるであろう山間に繰り広げられる試練を告げているのが、明らかに早瀬となった狂おし気な勢いに拮抗しているよう感じられた。
お気に入りの場所はよりよい見映えとなっているのだろうか。幸吉はときおり流されて来る一葉の浮かびを見遣ってから、女子の肩を引き寄せた。にわかに怪訝な顔つきをあらわにしたけれど、小雨に濡れた睫毛は半ばうつむき加減のまま抵抗を示さず、胸のなかへ抱きしめられることを願っているような淡さに染まった。
「好きだと言ってかまわないか」
台風通過に先んじて性急な気持ちを女子へ投げかける。
「別にいいわよ」
と、素っ気ない声が返ってきたので、大らかな態度を保ったままくちびるを吸った。幸吉はぱっと見開いたまなこから放たれた光の量に驚いたけれど、激しい情欲にそそのかさせれてはおらず、それは女子が真顔でたどるべく指標を了解して、より強い接吻を求め返されても動じないだけの、覚めた決意に督励させれていたからであった。幸吉の胸中を敏感に察した女子は、心変わりなんて始めからあり得なかったと承知していたのか、過ぎた情景をぽつりぽつり語りだした。
「あれは海辺への遠足の日だった。まだ同じ学年、代わり映えしない毎日、心に釘を刺してからそれほど間もなかったわ。お弁当をひろげた途端に大粒の雨が落ちてきた。どしゃぶりよ。遠足はそこで中止、しっかり薄手の雨合羽を用意してきた生徒らにまじって海辺をあとにしたわ。でも大河の橋を越えた付近で雨足は消えてしまった。虚脱までしなかったけど、特に楽しくもない遠足だって中途半端は落胆を呼んだみたいで、寂しげな帰路をゆきかう人の姿はまばらに写り、子供には似つかわしくない諦観を噛みしめながら家に着いたの。不思議なものね、予感はそんな灰色の気分を静かな手でかきまわすように訪れる。わたしの高遠な計画は崩れ落ちた。玄関には男子の運動靴の抜け殻が揃えられていて、またもや耳をくすぐるあえぎ声が奥の部屋からもれている。母が呼びこんだの、それとも瀧川くんが魔性に魅入られたみたいにふらふらやって来たの、いずれにせよ、わたしの立場は崩壊しており、無性に腹立たしさを感じたけど以前同様、怖いもの見たさにそそのかされてしまい、そっとふすまを開けるしかなかった。
期待したとおりの出来事がおこなわれていたわ。母の上に被さった瀧川くんは両足の間へ埋まっており、懸命に腰を突き動かしていた。嘘のように乳房が大きく揺れていて、その振動なのかあれほどのけぞる母の顔はかつて見たことなく、焦っているのか、嫌がっているのか区別のつかないくらい歪んで、その歪みを是正したい一心から上下左右している様子だった。まだはっきり知らなかったよ、あれが快感の表情で、悶えに悶えて我慢することを放棄した女体の輝きであるのを。
おかあさん、念力送ってよ。そのままずっと覗き続けたいなら、弁明が生んだ転びを認めるべきだし、さっさと外へ出ていけっていうなら、近所のお姉さんみたいに気取った素振りでいるって、とにかくはっきり決めてよ。わたしが中学生の瀧川くんを待つと決めたように。その為にはおかあさんの力が必要で、今ここに展開している生々しさを了解するには、ごまかしもまやかしも過分なことわりなんかいらない。どうして眼を合わせてくれないの、痛いほど首を振ってるくせにわたしの視線と交わらないなんておかしいわ、悲しいわ。あのね、小学生でなくなる瀧川くんはそんなに先ではないよ。とてもじゃないけど、長い時間を堪えるなんて無理、この間、体育の授業のとき、跳び箱を飛ぶわたしを何人かの男子が指を差してにやけていたの。あとで友達に聞いたら、わたしのおっぱいがゆさゆさしていたんだって。わかるでしょう、おかあさんに似て大きいのよ、同い年の子よりかなり実っているみたい。だから、決意は早かった。その内お尻だってふっくらしてくるだろうし、ませた瀧川くんに近づけると確信したのよ。でもどうやったら自分を見知ってもらえるのか、考えが及ばなかった。なんとなくよ、なんとなく、恋する気分についてまわる男性の求めが強くあるようで、しかも実際はすごく嫌らしいことに感じられ、不潔な関係でしかないのなら、ますます臆病になるばかりだった。でも男子のにやけ顔には隠しきれない求めが埋め込まれているのね。とすれば、わたしはあそこの恥じらいを捨てて、差し出すような勢いで、おそらくそれにはすごく勇気がいるだろうけども、毛の濃さを恥じることなく平気で見たり触ったり出来る自分の身体なんだから、その感覚を意識にまで押し出してしまえばいいのじゃないかしら。
わたしの開き直りは以外にあっさり性欲を理解してしまった。それは母と瀧川くんの結びつきを嘆くのではなく、むしろ積極的な威力で持ち上げ、もやもやした気持ちを壊してしまおうとしたの。控えめでいじけた態度よりはっきりした目的が光線の乱反射みたいに散らばった。ちょうど大きな邪魔くさい石をかついで地面へ叩きつけるよう、求めに押されたわたしは母と同じ行為をそう遠くない日に実行するのだわ。これは邪念だろうか、いや、ちがうわ、愛欲という言葉に律義な含みがいらないごとく、恋する想いは恋の伝統を引き継ぎ、好きなひとに抱きしめられるのが宿命なのよ。わたしは世間的には淫蕩であろう母のおこないを咎めたりせず、その血を受けることにも抗わず、これからもくり返されるいかがわしい訪問を歓迎した。
そしてひたすら肉体の成長を願い、来たる日を胸に秘め、股間を清潔に保ち、自らの手で汚れと呼ばれているものを習慣にした。女体の構造は思考を幻想へ傾けることなく、溌剌とした意欲を探り当てたわ。
あとはじっと耳を澄ますだけだった。心構えは十分だったし、そうよ、もちろん母から瀧川くんを奪い取る心構えよ。もっとふくらんでくれないかな、このおっぱい、かならず瀧川くんはじっと見つめ、好色な眼でしかも勘づかれまいとして、軽やかな視線が送られ、とまどいの挨拶なんか口にするの。どんなことを言うのかって、想像なんかしない、ただ聞き取るだけよ。こうしたませた思考があだになったのは当然だった。少女時代へ気軽に行き来できてしまう母は、わたしの芽生えを鋭く察したのか、土曜日の午前中に瀧川くんを招いていたのね。それくらいわかるわよ、部屋の空気がまるで違っていたもの、なにより上気した母の頬が雄弁に答えていたわ。土曜だと学校をさぼりやすいのか、卒業間近の生徒にしてみれば都合よかったのか、とにかく、わたしは母と交わる姿に遭遇することはなかった。学校で見かける頻度も低くなり、それは多分わたしの方があれこれ意識してしまって、気安く顔を合わせるのをどこか怖がっていたのかも知れない。恋に恋して毎日が瀧川くんの影で被われるよりも、下半身へ響いてくるような足音が待ち遠しく、望ましかったのだわ、きっと」
ため息をつくようすっと途切れた女子の微笑みに向い、幸吉は鮮烈な既視感に襲われていた。


[532] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら9 名前:コレクター 投稿日:2020年09月14日 (月) 03時26分

機微が面倒だと軽口をたたきながらも訴える照り返しのまぶしさに、午後の日射しはあらためて深淵をのぞくと、深淵もまたこちらをのぞいているという説に導かれてしまったのか、小蔭が囲繞する暗がりへ浸透してゆく。少女の知り得た暗黒が字義通りであれば、真昼の陰りはなお髪を隠さず、ふたたび暗渠の隔たりに立ち迷うだろう。そして隔たりこそ未分化な、まとまりなど決して覚えない粒状の発汗であり、肌がとらえた滑らかさと危うさは、毛穴のきわどい点綴をかき消して代わりに肛門が開く自然に怪異を呼び求める。
見えて見つめた熱く長い夜に浮かんだ情景は、幸吉の胸をかき乱し、不透明な気分に巣くう霧が抱く濃密なる空気を充満させ、それが依拠する触感を小指のさきまで走らせた。
非常に有効な成分を持つ働きは機械的に、そして内臓解剖学的な生々しさで裸眼にとらえられたのか、不可避の展望は開けてしまい、萎縮が優先した形式の、おそらくずっと感じ取っていたであろう、あの微動だにしない形式に培われた親和へ痙攣しているのを覚えた。まったく微笑ましくない、けれどもひきつった笑いの要請される親和、脳漿の絞られる際に驚くほど鮮明な透明度をもたらし、ただちにいたいけな範疇で遊びはじめる既視感という覚醒、躊躇や足踏みを怖れず、極めて微細な神経細胞の伝達であるという臆見に諭され、直視的眼力からはほど遠く回転する惑星の軌跡へと与するよう、存亡と明滅と永遠の彼方を飛びまわれば、遊戯的な気分を背景にして試験管の液体を揺らし、電流と電波は肉塊をかき分け、記憶の貯蔵庫を探り当てたと喜び勇んで、書き重ねられた製図の厚みから逸する。
類似品を生産することにためらいが介在しない精神に学び、個人的な体験は星空を眺めてやまない忘我と、望遠鏡の精度に瑣末な意欲を注ぐ。僅少な誤差が悠久をつかみ取ると信じ、偉大な広がりの奥底に塵となって舞い踊るまばゆい光芒へと溶けゆく。
女子の声色には波打つしぶきが上げる海面への挑発と同じに、平穏への調和がこめられている。月面ロケットの帰還に言葉を失ったごとく、幸吉は満たされない想いをそこに感じた。が、慎み深さや生命を軽視しているわけではなかった。情操は弛まず言葉を選別するだろうし、ある種の機能を活性化させて未来形の祈りは、博愛の精神を均一に、この胸いっぱいとなるまで夜空の星々のように散らばらせるのだろう。尊びが万人に流布されるに越したことはない。

「すんなりとごまかされてしまったのよね。針先より細く、糸か髪一条が通るような用心深い隙間を開いたつもりでいても、眼光が固定された時点でわたしの呼吸は乱れ、母の唸りあえぎ、悶えた声に聞き入ってしまっていたのか、立ちすくんだ緊縛には秘かに窺う気配とは反対のあからさまな姿勢で臨んでしたのでしょう、きっと。現場を食い入るように見つめたあと、家を出て時間を潰し帰宅したわたしは、母にこう言われた。
さっき部屋の様子をこっそり覗いていたみたいだけど、あの子ね、裏の川で魚をすくっていたらしいの、それでずぶ濡れになってしまって、春はもうすぐだけど雪解け水のような冷たい流れはからだに毒よ、なんでもこの先の空き家に以前、親戚が住んでいたのでそこへ向かってるというじゃない。偶然見かけたのも縁だわ、あら、おばさん、おっかない、でもおばさんは普通よ、世間の子供らに気配りしてあたりまえ、とにかく寒そうね、さあ、家で温まっていくといいわ、拒むでもなし、こわばった表情だったけど黙って私の背に隠れていた。
さあ、服を脱いでこれでよく拭いて、どうしたものかしらね、口が真っ青になってるわ、風呂を沸かすにもしばらくかかるし、そう言いながら案じていると、あの子はもじもじしたまま遠慮勝ちな眼で、裸になるのを恥ずかしかっているのか、すいません、すいません、と連呼するばかりで、土間で厳命的に脱がしたびっしょりの靴下が心細いのか、つまり見知らぬ家へ上がりこんでしまった気まずさに素足からすっかり萎縮していたのね。内股になって両足をすり合わせているのが、とてもいじらしく胸をしめつけた。
だったらこれにくるまって、押入れから毛布を出してみたけど、ふと、そうだ、この子は私が見てるのでためらっているのかも、じゃあ、おばさん、あっちにいるからと部屋を出たのよ。しばらくし綿入れを持ちこれでも着れば、そう言いかけて眼はさすらってしまった。まるで時代劇の峠に佇んだ気分よ、穏健な気遣いだと踏んでいたから、余計に険阻な足もとが感じられる。
まだそのままの恰好で罰の悪ような顔をしてるじゃない、どうしたのそれだと風邪ひいてしまうじゃないのって、つい怒鳴りつけてしまった。するとその子は、蚊の鳴くような声でやっぱり親戚の家へ行きますので、あそこなら誰かの服があるだろうし、布団も、なんて言い出したから、電気は通じてるの、もう空き家になって久しいわよ、どうしてそんなに遠慮するのよ、あそこに行くまで震えあがってしまうわよ、知らない家で裸になるのがそんなに恥ずかしいの、なら、おばさんも一緒になって脱ぐから、毛布にくるまりましょう。われながら照れくさかったけど、幼子の肌がふたたび思い起されるような感じに、とても柔らかな気持ちが寄り添っていたし、現にふっと突いて出た言葉の綿菓子みたいな軽さに苦笑していると、その子も敏感におびえただけでなく、おぼろげなままごとを懐かしがったみたいで、硬直してしまった指先が見るからに不器用な手つきで上着のボタンをいじり出したの、よくよく考えてみれば、小学生の男の子だって高学年になったら、これくらいの抑制と羞恥を会得していてもおかしくない、ちょうどいん毛が生えてくる頃で、異性への関心も今までの無邪気さだけに、押しとどめて置けないせつなさに見舞われる。
勝手にうるんだ感傷をこぼさないよう大切に扱ったつもりだったのかしら、自分自身の思い出が壊れるのを嫌う心情が鎌首を上げ、壊れるもなにも今まったく新しい思い出を生み出しているんだという昂りに押され、ちょうどあんたの年頃にまで巻き戻ってしまったみたい、一緒になって服を脱ごうという台詞が気恥ずかしく、ときめいて、むず痒く、等身大の背丈が恋しいような、でもちょっとだけふくよかな発育盛りを教えてあげたいような、自分も少年も優雅な匂いで取り囲まれてしまい、逃げ出そうと躍起になる思惑のしっぽは見え透いた嘘よなんて、本能の戯れに時間が焼き焦がされるような気がした。
こんな懐かしさが響いたのかどうかよく分からないけどね、男の子は近所のお姉さんとすれ違うとき、思わず背筋を伸ばして気取った顔をしたがるけど、少し油断して眼が泳いでしまうように、まだまだ男臭さを前面へ出す素振りなんて体格も含め出来そうもないと知っているので、お姉さんが優しく寄り添ってくれる幻想にとことん弱いはずよ。ええ、言い切れるわ。かつての記憶がそうつぶやいているのよ。だから、お姉さんに従って我慢や遠慮はしないで、これは記憶の改ざんかしら、でも仕方ない、つぶやきは少女時代の心身ではなく、まぎれもなくこのはち切れそうな女体から放出されていたみたい。案の定、近所の魅惑は寄りがたいけど望むところだったようで、その子の眼には明るい光がため込まれていた。
わずかにうなずくような素振りがうれしかったので、そうなると布団も引いて火鉢を運んで、ぎゅっと抱きしめながら頭まで水を被っていたことを確かめ、これで私も水びたし、そう口にして一気に着ているものを脱いでしまい、おばさんも寒いから早くって催促するような声で促したの。わずかばかりのはにかみを残し、でも子供らしい快活さ戻ってきた調子で私の仕草をまねたわ。そして男の子の冷えきった小さな四肢に巻きつく具合で触れていった。
一瞬こわばったけど、それはこっちも同じ、だって背丈の違いは瞭然で肉体の圧力から大人の加減を差し引けない。その子は母の温もりを感じてしまい、またもやぎこちない子供らしさを演じそうになったので、虚脱を促すために布団の上に倒れこんだのよ。もちろん女体へと折り重なり、その未知な感じに当惑してもらうのが先決だった。母の背や抱っこの重みに覚えはあっても、素っ裸の女人へ馬乗りになったことはないわね。ええ、ないわよ、きっと、あるものですか、普通そんなことしない。でもあのときはきわどい状態へなだれこんでしまったのよ。そこへあんたが帰ってきて覗いたというわけだった。おかあさん、あんたと眼が合ったと思い念力を送ったけど、感じなかったって、まあ、そうでしょうね。誰だってあんなふうな場面に遭遇したら肝を冷やすだろうし、混乱以外どんな意識で立ち向かえばいいのか。
ただ、変に意地を張っているような男の子が苛立たかったのかしら、おそらくそうだわ。これがあんたに言えるおかあさんのすべて。こっちだってどきどきしてたのよ。違うわ、そんな意味じゃない、あんたが気になって気になって。
母は半分ひきつった笑みをたたえていたけど、それが却って真実味があったというのかな、一触即発の奇禍を互いに乗り切ったような安堵が勝っていたのね、たぶん。了承なんてそういう駆け引きだし、糾弾によって引き当てられる事実はいつも正義の側に立つのでしょうが、後味の悪い正義なんかごめんだった。それで母を信じることにしたわ。あの声はわたしの耳鳴り・・・」
幸吉はこの女子に清々しい欲望を感じた。親近感に肌身を寄せるには早い、すでに脳内で犯し続けた過去を葬り去って、もう一周めぐってくるような軽やかな欲望だった。しかし、暗渠のふたが明けられたからにはこれで済むまい。済んでないから不謹慎な想いを手招いている。
「わたしだってごまかしていたわ。瀧川くんのこと、もう頭から離れなくなってしまった。母の弁明より瀧川くんの弁明を聞きたい。母がうかつにもこぼしていたけど、そうよ、あんたの年頃って。じゃあ、わたしが母に成り代わって、そうよ、熟成した肉体を約束してあげる。でも所詮はあこがれよね。わたしなんか相手にもされないでしょう。悲観と妄想と憧憬に染まったわたしの心はひとつの淀みでしかなかったけど、悪魔的な淀みが悽愴な沼を思い起させるように、あぶくは沼とともにあったのよ。ぶくぶくと呪詛のごとくどす黒い水面に浮き出す怨念、激情、失望、それから悪夢。願ったのよ、最後は願ったのよ、また母に抱かれに家へ来ればいい、そうすれば、そうすれば好機は必ず訪れるはず。待つわ、しっかり、瀧川くんが中学生になるまで、にきび面の分別顔がつくまで。わたしはその分別に誘いかけるのよ。計画は練られ、妄想を極北までつき進めたわ。で、ようやく決め台詞が誕生した。
瀧川先輩、母が待ってるそうです。真正面を向き言い放つ。母には内緒でそう伝えるの」
幸吉は増々もって女子の意気に興奮した。
「だが、そうは問屋はおろさないのだろう」
「まったくね」
「君は始まったばかりだったんだね。しかし、いずれその欲望に幻滅する。心の底からではなく、もてあまし気味で荷重な現実を、荷物の中身を知りつつ隠してしまいたいから」
見上げる雨雲の動きは装いを忘れていた。


[531] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら8 名前:コレクター 投稿日:2020年09月01日 (火) 05時18分

ことの次第をあらためて語りだす糸口がどうにも気重で仕方なく、もとより晴れ晴れしい馴れ初めであろうはずがなかったから、女子の言ったよう台風を心待ちにしていた幼心へ自覚めいた意義など被せるには、どこかうしろめたさを感じてしまい、その理由に傾注するしがらみは、ほとんど幸吉の現在の気持ちとかけ離れていた。
この情況において直感を用いるまでもなく肉体への覚醒に促されるとは、疑いもためらいも挟まる余地のない、過分な色欲が無造作に散らばった解放であったし、蠱惑の気配を察するより早く、不穏な雲行きに甘んじて疎くなればなるほど、後刻なんらかの触れ合いが待ち受けているという期待を抱かせるのだったが、としても絶大な渇望のわだかまりまにでは増進しておらず、自涜の傍らへ居続けていた過去を大仰に語ってしまった恥じらいと相重なり、それは出会い頭に責め立てられた反動であからさまな好意を告げ、一気に場を反転しようとした懐柔策を悔やんでいるよう判じられた。不意にこみ上がってしまう激情がしっかり肉欲を含んでいる限り、ちょうど気心の知れない子供同士の喧嘩が意に反して和解を求め合うごとく、至極穏和な歩み寄りを模していた。
女子の方でもいきなり卑俗な訴えに紛れた好感を告げられた刹那、同じとまどいの感情に包まれ、座り心地の悪さを覚えただろう。現に開けっぴろげな言い分の裏を悟られようと一向に動じない態度には、犬猿の仲にも関わらず、欲得を働かせようとする無意識の願望がひそんでいるからこそ、気乗りしない係わりへ埋没しようと努めてしまうのだ。そして自分は由紀子へ、女子は瀧川先輩へのめり込んでいる実情をかりそめにはぐらかそうとし健気に踏ん張っている。気丈にあるいは非情な心持ちでこの場面から逃れることは、互いのよそよそしさを認め合う配慮になりうるけれど、隠れた逃避願望がいつまで経っても焦燥を引きずるよう、これまでのやりとりを小さな火花が爆ぜたと思いなすことで、敵愾心は宥和され、色情は中道をのろく進みだす。
雨は上がり灰色の景色が上空から見下ろされるなら、幸吉と女子の思念は雨雲の運びとなって山道に影を描いていた。その影は緩慢な歩みであったが、確実な一歩を踏み出しており、静子から由紀子へ至るつながりを語らせた。しかし幸吉は今西家が仕掛けた女優と写真をめぐる巧緻な関係には言及せず、それがあまりに複雑すぎて厄介な説明になってしまうと怖れたのは確かだったが、本当はまだ謎の渦中へ放り込まれている困惑を伝えるのに抵抗を感じていたからであり、その困惑は足許を揺るがすにいともたやすく、せっかくの中道を忘れ、いきなり卑陋な振る舞いに出ると大いに危ぶんだからであった。
これまであえて避けてきたふうな女子への思惑が当為であることを知るに至り、気まずさや煩わしさで曳航されていた難破船の傷心を見届けながら、ただちにそれが馴れ合いの胸懐へすんなり収まってしまう軽易を力説していなかったので、幸吉は多分に相手の感じ方に触れ、暗雲の流れに拒絶の壁を定め、我慢知らずの放尿が寝小便の本意であることを類推させ、肉欲へ距離を言い渡すつもりからか、自分でもしらけてしまうくらい気負った淫靡な話し振りをした。が、やがて、その気負いの本領に裏切られるとは鑑みていなかった。
「線路は脱線するために敷かれているんじゃないかって思いがあってね。まあ、実際そんなことに遭遇したら必死に脱出なり救援の叫びを上げるだろうけど、反面、瀕死の状態におけるただならない放心をかき抱くような悪夢に苛まれ、もしくは日々のひとこまが遮断されてしまった瞬間に忍び入る鋭利な感傷を過剰に描くのか、ともあれ、ざっと聞かせたように僕の色恋なんて人まかせもいいとこなんだよ」
「静子って子、なんだか可哀想だわ。由紀子が憎々しい、だってあんたはむっちりした太ももに息ができないほどきつく挟まれ昇天してしまいそうだったろうけど、結局それが静子を突き放す名目になったのだから、あんたはとことん単純な発想を選んだということだし、静子はそんな大胆な肉体提供を演じられるわけがないから、あんたの選択はもっとも明快で、文句のつけようがないけど、遺恨は悲しみの奥底に沈んだまま、あなたを遠く見つめているとしたら、どう思うのよ」
「きわめて本筋へ切り込んでくれる意見だね。さあどう思うか、同性への気配りなのか、欲情にふりまわされる哀れさを指弾しているのか、もし静子がそんな眼で僕を見つめていてくれるのが本当なら、迷わずひれ伏すに決まっている。君は大筋でしか肉欲を暴いていない気がするし、押し寄せる情熱と思い入れに拮抗する興醒めの発露も知らないで喋っているように聞こえるけど」
「あら、経験値を唱えながら似非た詩情にさまようのね、まあ仕方ないわ、ここでどれだけあんたを糾してみたところで、もっとも最初からそんなつもりはなかったけど、わたしの言い分に加担するような理性をあんたの肩越しに探ろうとしてしまうだけだし、わかったわ、少しは肉欲とは無縁の機微があるのを理解しているみたいね」
たしかにこの女子の言っている深意は否定されるものではなく、いかんせん今西家にまつわる迷妄を抜きしたうえでの返答でしかなかったので、幸吉はどうにも曖昧な空まわりを感じつつ、いや、ちょっと待てよ、ひょっとしたらある程度の真相を捉えており、さらに穿てば、今西家の内実となんらかの線で繋がっていて、またもや錯綜とした虚実を受け入れるためにわざとこうして出会った振りをしているのではないか、そう考えた方が合点しやすい、これまでの成りゆきに沿えばこうした疑いは、邪念と呼び習わすまえにあっけらかんと正当化されるのではないだろうか。あえて堂々巡りの煩悶を省いたせいで、こんな短絡的な想念が閃いてしまう。が、幸吉は例えそうだとしても、これ以上煩瑣な係わりには辟易していたので、思考を停止しようといつもの手段に転じた。思考は止まるけれど相手の巧みな接近は見落さないつもりだった。
「呼び出された気分ってどうったらかしら」
女子は内面のさざ波に反応したとでもいうのか、受け身でしかなかった情けない立場へ幸吉を引き戻そうとした。
一瞬、面食らったふうな様子をはっきり示し、それが誘い水でありそうな予感を働かせながら、しかし陥穽にはまってしまう危惧を慎重に回避させ、
「半信半疑がいつも不安と隣合わせなように、でも高鳴る胸の音は気分そのものだった」
と、さきほど揶揄された半端な詩情で位置を確認した。
「へえ、たっぷり想像したってことなの」
「そうさ」
この思わせぶりな言いようは自身の声であって、そうではない根拠へ導かれているように思えた。
「でもいきなりじゃなくてよかったわね。ぐるりと海岸線まで散歩しながら情欲を募らせるなんて素敵だわ」
「君は口が悪いな。君ならいきなりだな、その調子だと」
やや憤慨した面持ちで諌める。
「馬鹿ねえ、機微は面倒だと思ったからそう訊いたのよ。まったく、すぐ怒らないでよ」
幸吉はどうして静子にしろ間弓にしろ、自分を動揺を冷静に推し量るような境遇で息衝いているのか、微かな落胆を感じたが、それは怒りや悔しさを内包した挫折ではなく、むしろ狼狽をあらわにしてしまった焦りが知らしめるように、尺度を計りたく念頭を抑えた衝動は、どこへしまったのか忘れあわてながら物差しを懸命に探している姿を彷彿させたし、その物差しは普段から整理整頓されてない引き出しの、雑多で無用な紙くずが詰め込まれた横着に帰結されたので、増々もって小さな感情の徘徊に幻覚がともない、正確さという証言につまずくのだった。
「わたしも母に呼び出されたの」
切り替えの鮮明さに驚くまでしばらく意味に囚われていた幸吉は、無言で女子を見つめ返すしかなかった。
「あんた、どっちが先ってそれは母よ。瀧川の悪癖は知ってるでしょう」
明らかにこの女子は呪縛であるはずの肉欲を語ろうとしている。だとしたら、これでしばらく因縁との絡み合いから離れらそうである。けれど、まさかそこに今西満蔵の背中が大きく暗幕を張って出るのでは、などと強大なわななきを先取してしまい、同時にこのあいだ失くしてしまったんだと諦めていた透明な物差しの、その光へ透けてしまうプラスチックに刻まれた細い細い目盛りの頼りなさが、置き場所のあちこちから軽んじられているように見えて、竹製の代物は畳に同化しうることはあっても自ら隠れたりはしない、それなのに皆が持っているからと、まるで玩具みたいに欲しがったあの加減はまやかしなのか、それとも案ずるに及ばないのか、しかし、恐るべきはその消え入りような目盛りがいざ白紙の上に押し当てられると、魔法のごとく明瞭な線と間隔をこの眼に提示し、わななきは瞬時にして勤勉さへ硬直してしまうのだった。
由紀子の母も瀧川に惑わせれていたとすれば・・・その透明な邪推は幸吉の別な部分を硬くさせた。
「あの日は早退したのよ。そう女の子の日、いつもは我慢できたけど保健室の先生が家に帰って休みなさいって。まさか玄関を開けたらあんな声が聞こえてくるなんて想像もしてなかった。えっ、もしかしたら強盗、母の身になにか危険が迫っているの。足音を忍ばせ忍ばせ、声のする部屋へ近づいていったわ。どうやら苦しさで唸っているようでなく、でもよく寝言で聞いた発音の不明な奇怪で、おぼろで、軋んだふうな声には覚えがあるような気がした。しかし気楽な口笛が長引くみたいにその唸り声はためらいを感じておらず、いいえ逆だわ、ためらいの最中に発せられるような同調があった。ひどく嫌な気分に包まれながら、声の主が母で無いことを祈りつつ、同調の響きに紛れてくれればと、その部屋のふすまに糸の先の通るくらいの手つきが要求された。わたしの眼は光を受け入れるのに十分なだけの虹彩があり、緊張と不安で押し重なる光景に向かい合う心構えも用意された。カーテンを閉め切っても部屋の模様は色づいているわ。
最近、姉が学校で学んだという講義を友達からこと細かく教えてくれた衝撃と嫌悪の入り交じった雰囲気は放課後までたなびかせたものよ。では、ここでくりひろげられてる情景をどう解釈し、どう呼べはいいのだろう、どう言い表せばもう少し背丈が伸び、身体もふくよかになったわたし自身に説明できるのだろう、声にはできない、できるはずがない、今はできない、母に声も掛けれない、小学六年生、もうすぐ卒業の上級の男子、誰もが胸をときめかせてしまうかっこいい男子、二歳下のわたしはあこがれという言葉を学びかけていたわ。どうして瀧川くんが母と真っ裸でいるの、ねえ、どうしてなの。母を大柄と思ったのはいつまでだったかしら、思い出したくない、だって瀧川くんに乗っかられている母はとても豊満に見えて仕方なかったから」


[530] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら7 名前:コレクター 投稿日:2020年08月25日 (火) 06時15分

「どうしたの、そんな怖い顔して」
そう幸吉に問いかけたまま、瞬時のまぼろしに戸惑うような反応があらわになったけれど、つい先程までの醜態を思い返したのか、投げかけた言葉はそよいでしまい、同様に強ばった表情が濡れた木立の緑のなかへ立ち止まった。
「べつに」
ことさら気の利いた返事で互いの距離を縮めるまでもなく、逆に不謹慎な感情は辺りを被う樹々のような見分けのつかなさで位置してくれればいい、ぎこちなくもあり、かといって罵り合うほどの敵愾心はすでに霧散してしまっていると案じていたから、無理やり笑みを浮かべる必要には駆られず、それは相手も同じなのだろう、きっとそうさ、自分が由紀子に耽溺していることを分かっていて、多分によそよそしいけど、なんらかの親しみで山裾を下る秋風のごとく、乾いた明白な心情を歩ませている。
かつては虜であったと誇張することのないまま、この女子は母もろとも瀧川先輩に翻弄されている実際から逃れようと努めるのだが、おそらくとことん逃げ切るのは不可能で、たとえ先輩を遠ざけてみたとしても、その悔恨と慚愧はすっきり身も心から離れず、もっとも疎ましいあり方で新たな代替者を見つけだすのだろう。他人の心理とはいえ、何故これほどまでに瞭然とした無益な情熱が発動されるのか、少しばかり考えただけで、いかに迷いの森が瘴気に満ち満ちており、その足もとへ絡みついてやまないのか、理解できそうものなのに、満たされぬ情念を背負い抱えてしまったからには、過去を遥かな地平のように眺めるのだが、まったくその眼は明日に向かう太陽の軌跡にそそのかされた調子で、代わりの時代を今ここへ呼びつけようと試みてしまう。
幸吉自身が肉欲を通じて由紀子に溺れ、溺れる仕草に由紀子の女人としての掛け替えのなさを発見したよう、欲望の手応えなんてすでに先んじているのであり、下手をすれば消え去っているかも知れないし、また、より巧妙な仕掛けへと分け入ってゆく偏屈な探究心で盛り土され、やがて陥る日々の見晴らしに焦がれているに過ぎないのだろうか。
ともあれ、幸吉の下半身からわき上がり、脳裡を占拠した罪の意識は、少女の面影を可憐に見守ったあと、すぐさま女色の化身へ転じたことで、一層やり切れなさを募らせたのだったが、こんな天候の日にばったり出会った巡り合わせの妙に感動してしまい、どうか雨風がこのまま静けさを演出してくれたなら、そして見通せそうで決して見通せない今西家の間取りに悩むのを忘れられたら、溌剌とした肉情を宿したこの女子とのひと時を夢幻境地の狭間より覗くことで、侘しく儚い代替行為に没入してしまう予感を得ると信じた。
狡猾な精神のひ弱さは、ちょうど雨宿りに胸をときめかせてしまう幼児ように無邪気な発露であり、刹那を好む性向に支えられていた。
「君は雨振りって好きかい」
おのれの見苦しさを知ってしまえば、距離感を計る方便にもうたじろがなくてよかった。
「べつに、だって鬱陶しいでしょう。でも台風はわくわくしたわね。子供の頃は特に」
「おおかた人はそう言うよ」
幸吉は答えながら脇腹にこそばゆさを覚えながら、
「さっきの話しだけど、できたら忘れて欲しいな、君のことを想像しながらって」
と、つい甘えた口調をもらしてしまった。
「あら、あんだけ真面目な勢いで熱心に語っておきながら、恥ずかしいから忘れろって言うわけ」
「うん」
「ふん、なによ、そういいわ、聞かなかったことにしてあげる。ただし・・・」
「ただし」
「あんた、もっと他にわたしの醜態やら痴態を知ってるんでしょう。怒らないから全部話しなさいよ」
「いや、あれがすべてなんだ。それほど君に詳しくなんかない」
「ちょっと、随分な言い方するわね。じゃあ、なんですか、適当な妄想を織りまぜて、わたしを過大評価していたとでも」
「妄想はいつも過大なゆえにたまらないんだよ。僕だけの世界で悶える君が住んでいるからさ」
「あっ、そう。では仕方ないわね。ならどうやって悶えたか、教えてちょうだいよ」
声をつまらせた幸吉に勝ち誇った面を向け、そう言い放ち、
「わたしの下着の色ですって。あんたの同級生がどんな説明を加えたか知らないけど、あんたはその時点でかなり興奮していたんだよね。もう破裂しそうなくらい、あとの経緯なんかより、めくれ上がった股の色艶までありありとその眼に映し出し、まだ見ぬ女のあそこに拡大鏡を差し当てる素振りさえ連想しづらく、さあ、どんな具合に交わったのだろう、それはそれは壮大な日々の裂け目にすっぽりはまり込んでみないと理解できないけど、あんたの手淫はどんな方法であれ、脳裡に女陰を大写しにするだけの馬力があったのでしょうよ、あいつの初体験はあんたの手柄と同等の価値をもって君臨し、わたしのよがり声なんかを耳にするのね、幻聴であるべく。そして自宅の奥まった部屋の薄暗いところにへばりついたきり、あらゆる連想を用いるけれど、わたしの火照ったからだは絶対あんたに伝わったりしない、しないどころか、あんたは女体の柔らかさと温かさを限りある幼児期の記憶から引っ張りだそうとしてしまうので、それは授乳の場面に閉ざされた性欲とは無縁の触れ合いだったと徹底して言い聞かすものだから、絶対にあんたの股間は膨れることはないし、かといって強引に母なる記憶の裡へ忍び込もうとすれば、むしろ肉感とは異なる人工的な匂いで包まれた感触へと移ってしまうはずよ。
そんな異質な妄念なんかより、無味無臭で肉感はあくまで肉感という仕来りに準じた官能へ、そうだわ、平和的に秘密裡にあてがわれた貪欲さに我慢しきれず自分をこすってこすってこすりまくり鼻息は吹き出すばかりで、どんな香りもどんな個性もどんな面影も、あんたを支配しないから、所詮は大判のポスターにどぎつく印刷された秘所の隠れ際を拡大鏡で凝視するだけなのよ。せいぜい荒い粒子が印刷を形成している事実におののきつつ、自分の目ん玉が馬鹿みたいに巨大に見開かれている羞恥を感じ、それでも不逞の意欲は独創を唱え、白濁したものが激しく吹き上げるまで何度でも夜も昼も、今日も明日も明後日もやり続けるの。
あいつはなんて話していたのよ、わたしの抱き心地。いいかしら、そんなことあとから不始末のないように喋るだけなの、あんたはそれを心得ていたようね。どこで学んだか知らないけど、すぐに自分の肉体とすげ替えていたというからなかなかだわ。そうなのよ、あいつは初めてだったから、ものの数秒で果ててしまったの。つまりわたしはあきれ声を上げたというわけ。それが素晴らしき青春劇に仕立て上げられているのね。女はそんな小面倒な作意を持たないわ。そうね、たしかに男性経験はあったわよ。あいつで三人目、瀧川は別としてね。
ちょっと立場が逆転してるじゃない、あんたがわたしの知らないことを教える番なのに、どうしてこんなかいつまんだ話しになってしまうの」
呆気にとらわれながら、幸吉はこの女子の道理に打たれていた。目ん玉も舌も封じられるのは自分だったからであり、それを承知していながら真摯な告白などに酔ってしまっていたからである。
「なるほど、よくわかったよ。もっと陶酔するべくよりきめ細やかな、でも、あくまで君に関する視線だけを話すよ」
「いいわ、しかしわたしだけっていうのは嘘ね。風見由紀子と比べてと言ってちょうだい。もちろん、まだあんたも女体経験がなかったから、こういうふうに話してくれない。あんただって不道徳な生徒なんでしょう、そう自覚してるのよね。その自覚をわたしの肉体に被せて欲しいの。記憶は風化させるものじゃないわよね。だったら、由紀子との睦み合いを詳しくお願い」
「それだと、逸脱じゃない。結局、僕の事情を知りたいってことなんだね」
「どうでもいいわ。肉欲に変わりはないはずよ」
女子の口許には予測可能な媚態が漂っており、それがいかなる不可能性へ導くかを実にしおらしく訊ねているよう思われた。幸吉は悪運を祝福した。


[529] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら6 名前:コレクター 投稿日:2020年08月17日 (月) 04時57分

「実験は失敗だから致し方ない、どうしても公共の実験を遂げたいのかどうか、あれだけ野次が飛び交ったのだから、気力は削げてしまったよ」
「博士だってご存知なはず、集まった人々の大半は興味本位で立ち合っていたのですわ。見物人の気軽さに落胆する方が、過重な負担を買って出ているようなものです。非難も悪態も拍手と変わりない、そう受け取ればいかがでしょう」
これが適宜な伴奏だったろうかと、首を傾げたのだったが、さっと眠気の覚めるような刺激が走り、そうだ、小声みたいに掠れた笛の音や、猫足そっくりの控えめで乱れ散ることを抑えこむよう、つま弾かれる弦の響きばかりが自分を取り巻いているわけではあるまい。大太鼓から放たれる下っ腹あたりを鼓舞する調子だって、伴奏の役割りである。なにやら自分自身で喪の意匠を選んでしまったみたいで、年若い女性に対する距離感は主従のごとき古風な関わりを歌い上げ、隠したくもない卑屈が声を枯らしている。
取り澄ました表情に諭されているようで面映く、幸吉は黙って聞き流そうとしたけれど、そのやや鼻へかかったおさなげな声につられてしまい、やはり落ちるべきしずくの自然が老境を悟らせるのか、
「あんたは堂々としているね。さすがに活気あるつぼみだ」
と、おのれの衰微を口にせずにはいられなかった。
「まあ、つぼみだなんて、でしたら博士は老木になりきってしまったのかしら」
「そんなところさ」
「でもわたしのつぼみはなかなか開かないのです。このまましおれてしまいそうな気がしますの」
「それは強情なだけかも知れないよ」
「あら、ひどい、わたしってそんなに意固地に見えますか」
意外な切り返しに動揺を覚えた幸吉は、あやふやでとりとめのない声遣いへおちいった。
「見えないよ」
「おかしいわ、どうでもいいみたいですね」
「いや、そういうわけじゃない、まだ人々のざわめきに興奮しているようだし、失意だって意識的に把握しているつもりだよ。あんたに独り言を聞いてもらって、なんか、親近感が芽生たのさ」
「でしたら、もう少しきちんと見てくれません」
「それがだね、きちんとかまえると、よからぬ思惑が狼煙のようにあがってきて、視界をさえぎり混乱も招いてしまうから困ったもので、いつもそうなんだよ」
「あのう、それってもしかして劣情ですか、だとすれば老木に新芽ですね」
「はっきり言うなあ、わしをからかっているのかい」
「さあ、どうでしょう。透徹した自己分析と予断を許さない慎重なまなざしはどこへ行ってしまったのかしら、年寄りが孫娘に気を使い遠慮している素振りなんて、博士には似合いませんわ。かつてのように不謹慎な理屈を華やかに、そして情欲にまつわる由縁を美学的に展開させ、わたしの羞恥心を踏台にし官能の翼をひろげながら、幻視の跳梁と思弁の疾走へつき進んで下されば、劣情は老若男女にあますところなく配当される摂理となって、なにより博士の研究態度と合致するでしょうから、わたしのつぼみだって修養の成果を示せるような気がします」
幸吉は今日はじめて会った妙齢の霊媒が、自分に何を求めているのか、いや、反対にどんな期待がわき起こっているのか、それはたとえ惨めな状況であったとしても、他者の言質を好個なまま解釈することに長けていた、欲望的な視座へと立ち戻り、咲き乱れた狂いの果てに見据えるありきたりの風景へ埋没したのち、思考停止というあの姑息な中断へ至れば、感覚の鈍麻も解析力の劣化も、判断の迷いも、意志の所在も、降霊が不確かな現象しか取り扱えず根拠を見出せないことに倣って、他でもない、書き連ねた日記に隠蔽が施されたいたという事実を確かめるために、どうして由紀子殺しを別人へとすり替えなければならなかったのか、本当に倦厭と怠惰などが理由であったのか、しっかりと記憶の裾野を見渡さなければいけないような責務を感じ始めていた。
「なるほど、よくわかったよ。あんたのつぼみに貢献するわけでもないが、糊塗されたものは影踏みの定めに従って鬼の役目を果たさなくてはならない。しかし、遠い記憶は、いや、網膜にぴったり張りついてしまって鮮明な光景へと還元できない老眼に映る記憶は、ほとんど手元にありながら頑なにに焦点を絞ろうとせず、むしろぼやけた映像こそ守りつづけなければならないような迷妄にとらわれている。それが虚偽であろうと、呵責に結ばれようと、安寧の船底は浸水に満ちることがないという確信に柁を委ねて、荒れ狂う海原の獰猛さを讃美し、吹きすさぶ金切り声がローレライの幻惑に近づけば近づくほどに異相へ溺れるけど、決して窒息することなく、細い吐息に光明を見出し、ちょうど声なき木霊が耳鳴りに同化するよう、灰色の未来像を保証していたんだ。
あらためて語る必要もないだろう。あんたはわしの意識の原野へ分け入ることができる。だから、わしはほの暗い記憶のなかへ沈んでゆく」
幸吉の眼はすでに後ずさりしてしまった哀れな女子の背を凝視していた。それは長年、愛着してきた不適格な記憶への決別であり、蓑虫のような執着からの旅立ちであった。


ちょっと待つんだ。僕は知っている。瀧川先輩との仲だって知っている。でも、先輩はあまりに多くの異性と関わっていたので、さほど気に留めてなかった。そうじゃない、ちがう、ちがう、嘘だよ、胸騒ぎをともなった熱情でさっさと先輩に飽きられたらいいと思っていた。そして僕にも話しかけてくれたらいいと念じていた。君の方からね。なぜって、それはあくまで妄想に終始していたせいで、つまり君は僕の自涜の場面に必ず現れていたと言えばわかってもらえるだろうか。
静子さんとも由紀子さんとも縁を持つ以前より、君に欲情していた。きっかけなんて他愛もない、ある同級生が君と初体験したという顛末を聞いたからさ。先輩と同じくそいつの手柄話しにもねたみや反感など挟まる隙間のないほど、しっかり股間を充血させてくれたし、それは何色の下着を履いていたとか、どういう具合に身体が触れていったかとか、たかまりの最中には思いのほか激しい声が放たれたとか、他にも数人の男子と経験があるみたいだとか、何より僕に興奮と希望をあたえてくれたのは、たった一度きりでそれ以降、まったく終わってしまったという小気味よさであって、初体験の誇りをすがすがしく伝えてくれた同級生と君には感謝してあまりない。校内でも通学路でも同学年にもかかわらず、まともに眼を合わせたことはなかったけれど、僕はそのころ君の姿を見かけるたびに秘かな想いを巡らせていたんだ。やがて君の活発な交遊を耳にしながら、自分の未熟さを痛感するに及んで、増々一方的な欲情を増幅させ、絶対に実らない肉欲のから騒ぎに大きく首肯し、卑屈になるであろう薄汚れた精神を洗っては、君が堂々と女体を開いている情景に連れられたというわけさ。他の奴がどうなのかなんて興味なかった。僕はそういう性質に生まれ、矮小な視野でしか解放感を得られなく育ったので、君の奔放さは鋭く僕の脳髄と股間に刺激を授けてくれたんだよ。
今西家の編み目が足に絡みつくまで、誰かが素っ裸の君を抱いていて、その誰かが僕の顔に入れ替わると、いつものことながら怒濤の快感に襲われ、いつしか訪れるであろう初体験のときが濃厚な色彩の抽象画のように荒い画布へ描かれた。が、仕掛けは先んじており形式の形式に準じて歩むよう導かれてしまった。これだけ下準備が整っていれば、ようするに僕の淫蕩な妄念は熟成を待つのみであり、どう転んでも逆立ちしてみても、女色の罠へ自ら望んで掛かるべく養成されていたことになる。
もし、そうでなかっとすれば、おそらく、そうだよ、おそらく僕は君の眼につく素振りを意識して、意識して、とことん拝み倒すごとく意識して、なによ、なんか用なよ、なんてぞんざいな口ぶりでうさん臭く僕をじろりと眺めるその刹那を凍結し、肉欲が時間を止めてしまう奇跡を呼び起こすだろう。もはや、気後れや衒いには左右されない衝動は、まだ見下しているふうな視線の内奥まで突き進んで、その眼をえぐり出しその舌を引っこ抜く馬力で君の口から言葉を奪い、凍結した時間にふさわしい半ば陶酔の態度を持って、こう告げる。
ずっと好きで好きでたまりませんでした。僕は短い恋文を読み上げたような心持ちを残し笑みを君に捧げる。案の定、呆気にとられていた様子の君は、凍結の魔術が別次元で執り行なわれた事実に勘づくわけもなく、ただ、あら、そうなの。好きなの、私を、そうだったの。と棒読みみたいにくり返す。そののち、やや沈着の面差しに返りながら、私が惚れやすいとでも思っているの、そうなんでしょう、はっきり言いなさいよ、馬鹿にしないでよ、こう言いつつも一方では照れた仕草でうれしさを握りつぶすように、口許をきつく閉じたりするので、すかさず、惚れやすいかどうかは知らない、好きなものは好きだから、そうきっぱり言い切る。すると君は、波紋が過ぎ去った湖面の青みに似た冷静な面持ちで僕を見直す。
だから、瀧川先輩なんか忘れてしまえ、忘れられないのでぶってなんて言っても、僕は絶対にぶったりしない。こんな状況でしか会えなかった皮相な糸車の回転は自然の理を背景に、台風接近の不穏な、けれども雲隠れすることのどんよりした親しみへ引き合わせ、幸不幸の連鎖と紐帯を覗き知る。はっと身をこわばらせた君は、なじるだけなじることで口辺に漂わせていた恐懼と激高の入り雑じる感情から解放されたのか、それとも努めて自分自身の震えに立ち戻ったのか、わたし、あんたのこと好きでもないけど、気にはしていたの。風見由紀子と深いんだってね。瀧川との因縁めいた話しも聞いたことがあるわ。ごめんなさいね、年上はみんな不良に思えてきて、特に風見由紀子とつき合ってるとか、どう考えても嫌らしかったの。やっぱり男は嫌らしいわ。でも私のどこかも汚れてしまっているのね。あいつの初体験でそんなに興奮したなんて、なんか恥ずかしいし汚らしい。そんなことばっかり年中してるわけじゃないのに、みんな大げさだわ。そうね、今日は帰りましょう。あんたも帰るとこだったんでしょう。途中まで一緒に。
僕は聞き分けのよくなった聡明な声色に少女の淡い美しさみたいなものを感じて、さっきまでの肉欲一筋の考えが萎んでしまうのを見届けた。さながら水彩画の筆づかいでなぞられた清純な横顔のごとく、透明な涼風に景色は無垢を吹き流したのだ。
あんたも後戻りできないのね。わたしもそうかしら。だけど、少しは肩の凝りがよくなったようで、あんたがわたしのこと好きって言ってくれたお陰かな。馬鹿馬鹿しいのはみんな一緒かもね。ごめんなさい、あんたに突っかかってしまって。あっ、雨がやんでる。空模様の機嫌いいうちに帰りましょう。
荒くれてやまない気性と、あどけなさに染まり続ける微笑を同時に受け入れては、おのれの透明度をつい過信したくなり、逆上の頂点にあった女子の恥部が疎ましくなって当たり前だと、妙な言い訳を胸中に並び立てていたところ、天の邪鬼な反応の急襲におののてしまった。それは恥部という言葉の響きが精神にまつわる語感のみで形成されるのを拒むように、肉体の逆襲で再編された下半身に秘めた箇所は生々しく暗誦され、たぶん相手に聞こえてしまったと悔やまれる勢いを抑えようとすればするほど、本来この女子を好んだ由縁は他でもない、たやすい肉欲の顕現とその蓋然性にあるのことを明確に知らしめ、にわかに水彩の淡さは濡れて溶け出し、けばけばしい原色の確乎たるうめき声を上げ出した。
君があいつに身体を与えてやったのなら、僕にだってそうしてくれてもいいじゃないか。欲望はまぎれもなく生起している。
一時は額装を新鮮な空気で澄み渡らせた横顔だったが、今の幸吉にはまだ触れぬ女体を隠し通しているような媚態に見えてきた。計り知れない雨粒を含んだ曇天の下、少女の面影に浸っているのはもはや罪なのだ、言い訳無用の罪なのだ、そう吟じていた。


[528] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら5 名前:コレクター 投稿日:2020年08月04日 (火) 04時58分

「学校で取り沙汰された水死体にまつわるそら恐ろしさは、克明であろうはずのない尾ひれに惑わされてしまい、知らず知らずのうちに凄惨な形相へと転じていたのです。釣りそこねた魚が一瞬だけ空に舞ったような錯覚を得て、水面に跳躍したと逸る心持ちが鮮明な残像であるごとく、痛恨はいつもよそよそしさを気取りながら新たな意趣へ逃げるけれど、童心にひそむ畏怖がとりとめもない照度で魔物を寄せつけ、その異形に触れ合うのであれば、この世の果てはあまりに身近すぎて、当惑を隠しきれない互いの顔色へ浮かびあがったあぶくには、怯懦を計りにかけながらあとずさりする抜かりのなさと、八百万の神を見渡すようにしてため息つく曖昧な思惑が淀んでいたので、まだ晴れ渡ることに抵抗しているような灰色の空を見上げたまま、虚ろに見開かれた眼がじろりとこちらを凝視したとか、水かさの増した流れで弄ばれていた黒髪が川藻に絡まりながら新たな生命体となり、いずれ足もとまで這い上がってくるのでは、そんな呪縛にとらわれても不思議でなかったとか、さらには川底に一晩ひたされていた素肌は透き通るほど青ざめていたが、まくれ上がったスカートが邪魔なくらいむっちりとした太ももが妙に淫らで仕方なかったとか、しかしそれらのおぞまし気な幻影はあたえられたものではなくて、自ら脳裡に描き出していたに違いなく、まるで森閑とした空間へ佇んで感受しているよう研ぎすまされた、あるいは放擲された落ち着きに意識が霞んでいく時間の配分によって、生み出されていたのでしょう。
いずれにせよ、水死体から魂が抜け出てしまっているとは考えず、肉体の死だけ認めることにより、稚拙きわまりない短絡をもって呪術的なすり替えが脳内でおこなわれたのでした。ここで由紀子が死んでくれたら息苦しい煩悶はなくなり、肉欲にまみれた情愛も消え去る。まっとうな進路へ立ち戻ることが出来るのだ。町中を引きまわすようにして最後の判断を促した理性のかけらをもどかしく受け取った僕には、結局肉情を選んでしまった引け目が横溢していたから、虚構の死ですべてが昇華してくれるとはいかずとも、都合のいい清算にはなりうるだろうし、今西家が提示し続けていた形式に即した証しにもなるけれど、そろそろ適当なところで切り上げたい、これが本音だったのです。
強度の因縁が張り巡らされた形式だとはまだ気づいておらず、今西満蔵の狂気じみた深意などまだ窺い知れなかった身にしてみれば、耽溺の果てへの忘我の戦士と化すよりか、身軽く脱出口へ逃げこむ無鉄砲さだけが頼りなのだから、いい加減な関わりでしかなかったと自己暗示をかけ、まったく茶番だが、父満蔵の狂気をまねてしまっていたとしか思えません。皮相の皮相は実にたやすい意匠であり、華やかな眼福を招くのです。ちょうど廉価な貸衣装に満足を覚える小市民の微笑みのように。
とすれば、引き裂かれた自己像の破片を浴びて狂ったわけじゃない、実子ではなかった正枝さんが女優としてのなりわいに拘泥すればするほどに、血縁が深まりつつあると妄信したあげくの亀裂に踊らされて、邪心でくすぶったその影法師に父の歪んだ熱情を見て取ったのです。肉親との交接という禁忌を破ることにおいて透けてくる現実をも演出と見なし、縦横無尽な采配こそ演技の神髄であるよう努めて錯誤し、逸脱した自由をつかみ取ろうと躍起になりました。それが虚構の女神の顕現であるなら、異母姉弟である間弓さんと由紀子さんとの交わりこそ僕に架せられた十字架であって、父満蔵の奔放な嗜みにあやかる糸口に他ならず、透ける地平は欲望の大地と言えます。
影法師は遺伝的な形態で金太郎飴の偉大さを唱えており、反自由な精神をあざ笑う様相でその薄っぺらい欲望を讃えているという矛盾を露呈させては、逆説の甘味をほのめかし、あの世の存在、幽霊であることを主張してやまないのです。科学的視野に立ちながらも二元論の観念主義の最果てに、幽霊を感じてしまうのは歯車的な装置が金太郎飴を量産するからであって、その一見無機質な営為の連なりは寂滅の風合いを匂わせ、間断なき息吹きが明確な目印に操られていることすら忘れてしまうので、蒙昧な取り違えは罪に触れる触れるどころか、豊かさの象徴に乗じているような感覚を授かってしまいます。水死体のうわさにくちびるを青くするのも、狂気の仕草に乾いた地平を求めるのも、思春期の迷妄が機織りの手間を省いて、一気に枯淡やいぶし銀の境地をかすめ取ったに過ぎません。根源的な感情である恐怖を認めるに及んで、その直截な様相など受け入れるはずがなかろう、怪談映画に見入る観客の眼はありきたりに健康だし、怨念と殺戮が不可分に入り雑じる情念の発露は、予定調和の島国に蔓延する温厚な風物詩との共生を望み、無邪気なまでの若さを平穏な余生からふんだんに引き落として憚らず、湯水のごとく潤沢な傲りと相まって加齢臭はおろか腐臭など好んで嗅ぎたいなどとつゆも考えてなく、そして恐怖は稀薄な空気でぼやかされてしまったのか、本能に突き動かされる牙はほとんど抜かれている始末、むしろ浅薄な教条に流れて包装された提供品のごとく、態のいい攻撃精神は聞き分けのよい潤滑油みたいに、その透明度を保っているのでしょう。
なにより恐怖へ隣接している官能を意識的に忘却しているように思えて仕方がありません。そこで機会仕掛けに必要不可欠な潤滑油が効を成すと、少しばかり現実感に呼び覚まされ、うたた寝の境界に居座る心地よさを振り払ってみれば、機織り工場は肥大した効率化にそそのかされて、いつしか森林を切り開いてまで金属音を響き渡らせるように組み立てられており、ひとつひとつの精密機械は微小さを控えめに輝かせているにも関わらず、その機能の堆積は巨大な、圧倒的な威圧感に満ちあふれています。幽霊で埋め尽くされた透明度が人為的な興趣のうちに数値化されてしまい、神秘の陰りは垂れ流しの排水口で息をひそめているのです。
いつの間やら移り変わった透明な液体は必要に応じて、ほとんど無意識的な役割りに甘んじているようですけど、実は反対に潤滑油の精製が欲望の意味を問うているではないでしょうか。架空のストリップ嬢は踊り疲れたりしませんし、あの世とも無縁な顔で僕の心を癒してくれますので、やはり液体人間なのでしょうか、僕の日記に雨樋や水たまりが頻繁に顔を出すのはどうやらそうした理由にあるようです。
自分の出自なんて意識する機会はあってなし、ところがなんとも婉曲な手段で機会はめぐってきました。いえ、巧妙に待機していたと言った方がよろしい。疲れを知らない女神とのかくれんぼなんて優美すぎて腰を抜かしそうですが、腰を抜かすほど女陰を突く運動の準備体操として、ストリップ嬢が朗らかに扇情するのであれば、その裸体は透徹した欲情の顕れであり、健全な生命の守護神かも知れません。
由紀子さんを姉だと薄々勘づいたのは、父満蔵の遠まわしな提言に賛同した時点で、なにより間弓さんを前座にしての口上がすべてを物語っており、初の接吻まで授けてもらっては有頂天にならないのがおかしいくらいであって、僕に禁忌を打ち破らせることで自分は女優を我がものにするのですから、そのやり口は単純明快、ただ遠まわりをしたせいで錯綜した状況に置かれたような気がしただけで、今西家は例えるもののない縮図のなかの縮図であったわけです。なにせ、僕は満蔵の血を引いているので一種古風な常識を受け継いでいるのか、同じ血の由紀子さんとも異なった感性だと認めながら、不良の定義を書き直さなくていけないと思っていた矢先、案の定、たおやかな理性を働かせた由紀子さんは禁忌に堪えられなくなり、僕にさよならを告げました。
これで駅前旅館において正枝さんから言われた内容に激して、殺人妄想に駆られたのは憧憬と愛欲の調理であったなどと、自分の手際の悪さを棚へ上げおきながら、味覚が先取されたみたいに軽口を発していたわけなので、さよならの意義はまるで映画の台詞をなぞったに等しく、もっと言えば、なにもかもがまぼろしであって、そうなると女体との交わりもまた見果てぬ夢の一幕に他ならず、正枝さんとの別れ際、胸にこみ上がってきたやるせない想いは、ごく平凡な中学生の夏休みに描かれる絵日記の表紙に閉じられ、忌まわしい過去の胚胎は暁闇に船出してしまった汽笛でかき消え、焦燥をともなう神経の乱れは発育の証明を大いに告げ現在に至れば、来たるべき時間の壁には液体人間の涙が、もう全身が涙なのだけれども、決して苦悩や煩悶とかで嘆いているのじゃなく生命の歓喜に打ち震えているのであって、その由縁は夜が夜の深さを闇でおおい隠してしまうことに罪があるはずはなく、白昼の太陽光線の鋭さにおののくことや、激しい驟雨に叩かれる感触は自然の理において至極まっとうな痛点となっているのだし、生温い人づきあいに慣れてしまった身体には酷であるとか、いたわりの精神が柔らかな人生を約束しているとか、あるいは全幅の信頼を覆すような猜疑心に傾く以前に、あらゆる事象を探ってかかる謎解きの名分に少しは意義を授けたいと願っているのです。
「博士、実験はまだ続けられるのですね」
ぽつりと永瀬砂里はささやいた。


[527] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら4 名前:コレクター 投稿日:2020年07月14日 (火) 04時23分

耳を傾けてくれと頼んでおきながら、幸吉は昔年の風景が近視眼的に霞んでゆくのを危ぶんでいた。酔狂な研究と偏屈な生の歩みに没した遺品を告げる姪のすがたもまた、見通せない冥暗をさまよっては、異次元と迷妄の境から踏み出せない怯懦に遠のいている。
すると妙齢の霊媒も遠縁にあたるのだろうかなど、ふと、意固地な性分を包み込むような念いが、血縁の色度をはかり出しだので、幸吉は首を振るよう現実味から逃れ、未来よりの使いであることに仄かな夢を託すと、夢は天女が置き忘れた羽衣のように透き通ってしまい、永瀬砂里の息づかいを感じさせずに、さながら精巧な意思だけを宿している蒼い眼の蝋人形の形骸を知らしめ、独り言は過剰な伝わりを拒むよう戒められた。
「あの夜明け前、正枝さんは冗長な台詞まわしをもちいたあげく、僕に向かって示唆をあたえてくれました。今西家全員を殺してしまえなんて言い出したのは、正枝さん、あなたが明日には東京へ帰ると知って悲しんだだけじゃなく、糾弾なんて意気を上げながら、すんなり家族のなかに打ち解けてしまったふうな打算が許せなかったからだし、案の定、あからさまな演技に翻弄されたと悔やみ、でも僕はそれらをほぼ承知していたので、家族間のなかへ切り込んでいく意義は見当たらず、混乱と憔悴がもっとも本能的な姑息に陥ったせいだと振り返るのだけれど、入り組んだ男女の関係に終止符を打ちたいと願ったのは事実で、そして封じられた真相に気づくべきなのに、執拗なまでの追撃は演目でしかあり得ないよう魅入ってしまっていたから、どこまでも続く遠望と、実感を伴わない接触がやるせなく、短絡的な悪夢を欲してしまったみたいです。風見成美が昌昭君を今西家の子でないと叫びながら押しつけていったように、僕も実習生であった母の手で育ったのは、今西満蔵が風見成美に生ませた厄介者を引き取らせることで合意したからなのでしょう。ええ、段々と分かってきましたよ、じゃあ、由紀子さんは誰と誰の娘なのです」
虚空に向かっての問いかけに、永瀬砂里はちょうど衝立て越しの位置から応答するような隔たりを持って、また空間の遮りは時間と記憶に依拠するものであると心得ているふうであり、慎み深さは相手の面持ちとはことさら関係のない情調に操られていた。
幸吉のほうでも激しい胸懐をあらわにしようと、目線を合わせたり眉間を窺おうはせず、あくまで独白に終始する様子であった。
「風見成美が母でないなら、あとは決まっている今西満蔵が由紀子さんの父親なのだ。でなければ、僕と由紀子さんは姉弟と呼べない」
「そうですか」
砂里の声音は無用のあいづちであり、適宜な伴奏であった。
「正枝さんは僕を含め、蜘蛛の糸が艶やかに張り巡ったような尊大さで懐柔させようとしたが、女体のうねりにのまれていた僕は駆け引きに長けた色香より、漂うことを忘れた芳香に惹かれ、それは失われた欲情を煙らせていたから、すんでのところで理路整然としたもの言いに蠱惑の粘性を察し、視界を曇らせたのでした。すると最後の詰めでしくじりを演じてしまった焦慮は、正枝さんを舞台の中央へ歩み寄らせ、主役の座を誇示せずにはいられなくなったのです。
同時にその誇示には演出家の主張が居座っていた。しかし、感情があるのかないのか分からなくなっていた僕の無分別とは異なり、正枝さんはことの明示を避けなければならなかった。そうしないとこれまで地道に培ってきた女優の悲哀がそこなわれてしまう。自分が満蔵の娘でないと白状したのも、形式は終わったと告げたのも、限りなく沈着に今西家へ入り込む意志が働いていたからで、ここで感情をあらわにして、僕と由紀子さんが姉弟である事実を切り札みたいに口には出来ない。なぜなら、今西満蔵は由紀子さんよりあなたを愛していた。皮肉なことに僕はその逆だった。
そう仕向けたのはもはや鬼畜の域に属する考えでしょうね。昌昭君にしろ僕にしろ、畜生道へ突き落とす準備が整え続けらていて、まして仮定そのものが至上の法悦だと認識していたとうかがえる。あなたとの儀礼の婚姻はまぎれもなく正しい。その後の成りゆきは怖れもせず間弓さんと語り合ったことで実現したでしょう。僕が近親とは知らず情交を重ねてしまい、おののきひるむのを指をしゃぶりながら見物していたというわけですか。そして負い目でうちひしがれ、いても立ってもいられなくなった僕をなだめるふうに、あなたとの婚姻を正式に決める。由紀子さんとの過ちは水に流して。
たぶん由紀子さんも承知していたと思われるのですが、そうじゃないといくらなんでも筋書きが本当に狂気じみてしまいます。ところが僕が耽溺するのと一緒に由紀子さんもかつてない高揚に見舞われて、なにかしら抵抗をしめし始めた。父もあなたも感情には無縁でことを進めてきたのに、そうでしょう、計画はとことん非情であり、冷血で寸分の間違いも許されず、まわりには穏便で声を荒立てたりしません。
邪魔者は消せの指令はフィルムノワールだけと限らない、そこで由紀子さんの変死です。殺人をも厭わない心性を理解しろという方が無理に決まってます。どうでしょう、正枝さん」
幸吉は勝ち誇ったようなまなざしで砂里を見つめた。
「無理ですね」
「もっともだよ」
「でも生きていました」
視線は床に落ち、まるで狭隘な暗がりから這い出てしまったどぶねずみのように小走りに駆けた。
「みんな狂人だと叫んだのはその後だった。あの示唆でした。夢遊病的殺人というあり得そうもない可能性の可能性、そのとき僕はある情景をはっきり色濃く思い出してしまった。これまで地中深くもぐり込んでいた光線がはね返ってきた。急ごしらえの理性は周章狼狽するばかりでまったく機能せず、咄嗟の言い訳も順番を誤ってちぐはぐな語尾だけが、切り取ることを忘れた蜥蜴のしっぽのように慌ただしく逃げ場を探していました。一体どういう言葉を空間にこだまさせればいいのでしょう。あとあと卑俗な隠蔽行為が日記を書き換えるごとく、僕は言葉の端を光線に委ねることを放擲し、低級霊が蠢く陳腐な磁場へ勢いよく退き、ひとつの発想をおもちゃの手榴弾みたいに投げつける。時間のうしろへと、それでしっぽは切り離された」
「見失った日ですね」
「そう、あの日、僕は瀧川先輩とすれ違った。目撃者だとすれば第一に怖れなくてはならない。しかしあろうことか、先輩が殺人容疑で取り調べを受けていると知らされました。僕はもう観念していっそ自首しよう念ったけど、足も心もすくんで金縛り状態になってしまっていた。そのくせ、異様なくらい緻密な延命がわだかまり脳内を朽ちた劇場のように支配したのです。
上映される写真が決まっていないにもかかわらず、照明はきちんと落とされ、不吉な情趣と大柄な射幸心が銀幕に映し出されるのを待っている。胸をときめかせ、小さな興奮に不純な色彩がさまよい踊りだす、シャボン玉みたいな光の輪郭、浮かぶことの自在と風の便りが、意地らしいくらい向学心と馴れ合って、なにやら殊勝なことわざへ引っついてゆく。おもちゃ屋の軒先ではらはらする気分を安売りした、絵日記に書かれた稚拙な言葉、それはちょうど蚊に刺された肌を痒がり、大仰な腹立たしさで慰める子供の気まぐれが今も衰えを覚えないよう、自己本位な感覚で少しだけ未来に手を伸ばすおこないでした。
どうやら現場は誰にも見られてなく、決定的な証拠はまだ現れていない、が、無実の先輩は身の潔白を晴らすために僕の名を上げるだろう、遅かれ早かれ僕の人生は終わる。もっとも罪なき者の一命を絶ってしまったのだから、終わりも始まりなく、ただ回想のみがひたすら心身を侵蝕し、あわよくば清められることを願ったりするのです。狂人はわざと時間へ挑みかけ、打ち破れる演技にあこがれ、そして悔やみの外側で過去に呪われ、未来に漂流するのです」
「何処へ流れつくのですか」
「今ここへさ、正枝さんの言った、あなたと並んで町中を巡ったのは瀧川先輩に知らしめる為という話し、壮大な見当外れだよ。由紀子さんは別の意識で僕を引き回したのさ。ふたりは姉弟です、でもこれからとても淫らなことをします。理由は言いたくありません。理由より幸吉の動悸を聞いてください。思いとどまってくれたらいいのです。なぜなら、幸吉はわたしが姉だとわかっているような気がするからです。
正枝さんは身の上話しに策略を乗せるあまり、ちょっとした見過ごしやら、反対にいい加減な推量も積み上げ、圧倒しねじ伏せてしまう心意気だったろうけど、僕が不承不承な顔色をおもてにしても、色欲の名残りとくらいに解釈していたんだよ。お陰で僕の真意は形式では読み取れなかった。
もうこれで理解してもらえただろう。僕は瀧川先輩とすれ違っているが、むこうは別の事情で僕のことなど眼中になかった。いや、僕がわきへ身を隠し、その目線を妄想で吹き流したんだよ。目撃者を生み出すことによって緊迫の度合いを調整すれば、意識の負担はかなり軽減される」
「あのひとを降ろさなくていいはずですね」
「では、どうして由紀子さんを殺したのか、殺したのは別人だった。そうだ、別人だよ。僕はひどくなじられたのさ。瀧川先輩が関係していたある主婦の娘に。どうも先輩を追いかけてきた様子だったけど、怒りや憎しみで収まる勢いではなく、なにやら愛欲がむきだしになっていて、これは今日の天候みたいだと愕然としていると、風見さんとこへいつもいっているでしょう、そこでなにをしているのか知っているのよ、あんた瀧川の仲間なんでしょう、この不良の女たらしのろくでなし、夜這いしてあちこちに泊まり歩いてはこんなにいらつかせてさせて、あんたも同類なのよ、一緒なのよ、男なんてみんな腐った頭と不必要な下半身で生きているだけじゃない、価値なんてないわ、そんな調子でまくしたてられたんだ。
口先が激しいのも仕方なかったし、台風が迫っているのに欲情してる自分をあれこれ言える立場じゃなかったから、黙ってうなだれていたんだけど、今から瀧川先輩のところへ連れていってと迫られ、その表情に一種悽愴な閃光が走るのを見届けたとき、つい妙な思惑が無作為に吹きすさび、まったく好みだとか、そそられるとかいう具合ではなく、しかもそこに打擲されるべき影が消えているのを感ずるに及んで、今日は諦めようよ、こんな天気だからさ、僕も帰るよと、なだめるふうな口ぶりで諭したつもりが、どこへ帰るのよ、いいからあいつのとこへ連れてってよ、知らないの、ならいいわ、ひとりでいくもの、でもあんたも着いてきてよなんて言い出したので、無理だよ、さあ、今日は大人しくしてと、腕をつかんだところ、だったらいけない子はわたしなのね、そうなのね、わかったわ、さあ、ぶってよ、わたしが悪いのでしょう、瀧川の代わりにぶってよ、いつもみたいにぶってよ、そう詰め寄ってきたから、僕がそんなことしてどうなるんだい、今度先輩に伝えとくよ、っていい加減うんざりしてしまったので、もう一方の腕を背にまわして抱きしめ、駄々っ子になりたいのは同じだよ、と低い声で訴えたら、何するのよ、放してよ、やっぱり、やっぱりと言いつつ頬を近づけてきて、ねえ、やっぱりぶってと不敵な笑みを曇天の下にさらしたので、両腕を使って突き放してしまい、よろめく相手に同情の念を寄せる代わりに、鳥肌をともなった侮蔑と空模様の混濁した色合いが過敏な欲情へ溶けていくような感じがして、じっと相手の顔つきに戸惑っているうち、さっと背を向けてやや雨脚の強くなってきたことが引き金であったごとく、走り去ってしまったので、まさか、その姿が橋の下へ転がり落ちているとは夢にも思わなかったんだ」


[526] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら3 名前:コレクター 投稿日:2020年07月06日 (月) 05時05分

第五章すなわち最終章に至るにあたって、この物語りの作者であり、いや作者などという言い方はどうにも不適切な感じがするけれども、そのいわれは冒頭で述べておいたように、着なれた洋服の襟をただすごとく、記憶の縫い目と言葉の針先で織りなされた資料(ここでの資料は文字通り)に促され、ある種の佇まいを再認識する流れを彩り覆ってきた四季の推移、時間の粒子が生み出す連鎖意識、あるいは断絶において容認されるならば、書き手である私が、関東地方在住の大江佐由花なる女性から受け取った奇妙な手紙を押し広げ、はや二年が過ぎてしまい、その間むろん筆致の緩みや散漫な気分を知りつつ、あたう限り丁寧に仕立て上げたいと願った念いが、はたして襟をただせたのかどうかは危ういけれど、L博士の姪の娘と名のる大江佐由花氏の意向に、魔術的な漂白にいくらか応じられたのではないかと推量しつつ、ここで物語りの再構築を試みたく、場面は駅前旅館の夜明けを突き抜け、「桜唇覚書」で描かれた、春雨の領分なぞ取りとめなき想いかすめし今朝の庭に渡り跳び、あの鳴り物入りで行なわれた心霊実験の直後へ、町中の人々が押し寄せた喧騒の裏方へと、案内する倨傲を許して頂きたい。


霊媒を推薦してくれたある心霊協会の青年は、別の催しから重大な席を任されていたとのことで、素性はおろか今朝はじめて会ったばかりの、孫娘に等しい若さの、注意が足りなかったゆえ大失敗の痛手に襲われた悲愴感のやり場に、L博士はいささか困惑していた。
少年時代に味わった哀惜を少しばかり甦らせたけれど、場内の罵声がまだ耳に残響している動揺にかき消されてしまったので、身を預かった少女の容態が気になっても、意識は回復したのだが、ぐったり毛布へ寝そべったまま疲弊した顔を直視出来なかったのは、降霊会の不備を嘆いている胸中の声だけでに限らず、また、闖入者に対して格別な怒りを感じていたわけでもなく、エクトプラズムが暗幕を植物的な加減で降りはじめ、座った椅子ごと宙へ浮かんだ興奮を覚ましきれていないからであった。
もし、あのままもっと上まで人体が浮遊していたなら、そう思うと老境に注がれる光輝はとてもまぶしく、しかし光輝が老いさらばえた心身を満たすと同時に、報われるに違いない若い霊媒への接近は、まるで人見知りするよう決して関心をあらわにせず、何気ない素振りで実務的なねぎらいや、消毒液を連想させる無害な透明度に安住した老人の微笑だけを残していくだろう。
L博士の失意の反対側にはそうした予定調和めいた成功を讃える意欲より、たとえ再び見向きもされない境遇へ舞い戻ろうとも、独り身の年金暮らしに甘んじて塵芥のごとく、微小な軽さにて垢臭い堆積を成す日々を送るしかなかったから、絶好の機会が見送られたことに意義を唱えるほど、生々しい希望など抱いてなかった。ただ長らく人前に立つ意義を逸していたので、それだけでも面妖な実験は初々しい興奮に包まれたのだが、霊媒の女性を詮索するよう見つめたまなざしには、汚れを拭うに似た自責の念が働いていた。
どこから来て何を語るのかすら知れない春一番の、低いうなりで首をすくめるように。
「もう大丈夫です」
幽かだけれど張りの戻るのが伝わってくる返事を受け、L博士は慚愧に苛まれたせわしい胸をなでおろした。
「どこか痛いところは」
「誰かに触れられたときは激しい痛みが走りましたけど、落ち着きました」
「なら安心したよ。興味本位でしかない輩が大勢いるというのを肝に命じておくべきだった」
L博士はようやく霊媒の面持ちに近づたようで、自分の声色に距離を感じる。
「わたしも霊媒です。覚悟はしておりました。でも意識が失われたわたしにはどうしようもありません」
関係者がおそるおそる見守るなか、会館の控え室へと赴き、窓の外にひろがる薄曇りの空を一瞥してから、ことの始終を霊媒に聞かせた。
「そうですか、混乱のうちに終わっていまったのですね。少しだけ浮いたのですか」
「あんたの紹介者に申しわけが立たない。わしはかなり気負っていたようだ。心霊実験を公開すると知って見世物小屋がかかったような騒ぎになった時点で、冷静な判断をしなければならんのに、ついつい興行主みたいな姿勢でとりかかってしまった」
すると霊媒は窓の向こうを覗きこむようにして、
「わたしだってそうですの。役者にでもなった気分ですわ。博士の催眠に導かれる前から晴れ舞台へのぼった心持ちがして、自分とまわりの境界が溶けてなくなるのか、それとも反対に一体化するのか、よくわかりませんが不思議と一人前になったように思えてくるのです」
と、すっかり体調がよくなったふうに声を出した。
「まあ一種の恍惚状態と呼べるだろうね。日常意識を放擲した時間の波間で揺らぐわけだから。ところであんたは誰かに霊媒の素質を見出されたのかな、まだ若いのに珍しくてね。あっ、こんなこと言うと失礼だが」
L博士も自然に打ち解けたような態度で訊いた。
「はい、幼少の頃より全身で感じるものに時折異変が生じて、それが大きくなったり小さくなったり、最初は形だけの存在だったのですが、次第に感触や色彩、それに言葉まで聞こえてくるようになったのです。母は素早くわたしの様子に気づき、はっきりした意見で説明してくれました。母が言うには自分も小さいときから同じだった、だから、きっとおまえもそうなんだ。遺伝なのよって」
「するとお母さんがあんたの霊能を見つけたんだね」
「見つけたと言いますか、読みとったと言ってました。自分の向こう側に誰かがいて、まるでこの世とあの世を行ったり来たりするよう曖昧に、けどぼやけた輪郭から形状がなんとなく、抜け落ちた文字から意味が類推されるふうに描かれています。それをわたしが読んでおり、その意識というか多分、文字や意識みたいに明確ではない状態を母は読んだそうです。」
「いったい何が描かれるのかな。心霊現象のひとつに自動書記というのがあって、考えてもないのに勝手に文字が並べられてしまう、しかし、あんたのはどうも別物かも知れない。誰かという、その誰かに心当たりはあるのかね」
「いいえ、ありません。が、その誰かに話しかけることは出来ます。あっ、すいません、厳密には直接は不可能でして、こちらが願い事をするような気持ちでいるとき、おのずと伝わるのではないかと思うのです」
「祈祷だとしたら敬虔な心がけだが、なんとも不思議な現象じゃな、しかし憑依ならある程度の解釈は可能だよ」
「では博士にお聞きしたいのですけど、博士は科学的な視座、もしくは心理学的な要因で解釈されようとなさる立場なのですか、たとえば心霊写真と呼ばれる一連の写り込みが果たしてあの世の仕業なのか、いえ、仕業ではなく、ふとした偶然、しかも意図しない写り込み、悪意も善意もまったく関与しておらず、単にそこが切り取られているという因果の欠落している状態にも、なにか先立った主意を見出だそうと努められるのですか。もしそうだとすれば、悪霊は跋扈しているでしょうし、天使だって自らの優美さを誇示して倦むことを知りません。が、汚れや美を感取しうる装置が機能していなかったら、恐怖は存在しません」
「ちょっと待ちたまえ、心霊写真はとにかく、文字が並べられるのだったね。そうか、うかつにあんたの霊能を探ったのが早計だった。あんたにはあんたの信憑があるし、簡潔に答えるのは難しいけど、わしは科学を信じており、心霊現象もその領域から切り開かれると考えているのだが」
「そうでしたか、わたしとは考えが異なるようです。すいません、実は母に博士のことを聞かされておりました」
「えっ、わしのことを。もしや、知っている人だろうか」
「母は旧姓山下有理と申します。この町の生まれです」
L博士は慎重な記憶の腕組みの狭間から、その名前にたどり着こうとした。
「いや、覚えがない。ものわすれに過ぎないのか。あんたはたしか」
「はい、わたしは永瀬砂里、別の時空でお会いしている可能性があります」
「なんだって、それはどういうことだね」
「わたしはもう少し先の時代で博士とすれ違っています」
「増々もってわからん、いきなり時間旅行かね、まっ、いいさ、詮索はやめにしておくよ。考え方が違うらしいからな」
「わたしのことはそれでかまいませんけど、時空の歪みに関して、博士は思い当たる節はないでしょうか」
「ほう、意外にからんでくるね。じれったいのは嫌いだから、はっきり言いたまえ」
「博士はじれったい方が好みだったのでは。わたしの従姉妹がのちに、博士の遺品を整理しようと思い立ち、あっ、失礼しました。まだご存命なのに」
「いいから続けなさい。未来の話しなんだろう、その好みっていうところからね」
「大江佐由花という従姉妹が言うには、博士の残した日記は数式や専門用語で埋め尽くされているうえに、時間軸にとらわれない奔放さで書きなぐられているので、とある人物に随意でかまわないから、体裁を整えてもらえないかと相談しました」
「あんたの従姉妹もたいがいだね。他人にわしの遺品を調べさせたのか。おっと、すまない、先をどうぞ」
「そうなんです。好みなので仕方ありませんの。従姉妹は博士の姪にあたるのです。わかっています。反論はごもっともでして、でもこれしか方法がなかったのです」
「なるほど、じれったそうだね。時空が異なってこの次元は別の空間、そこにわしの兄弟がいるわけかい。じゃないと姪なんて生まれてこないからな。で、一人っ子だったわしにいつ出来たんだね、その兄弟が、まさか隠し子とか、とってつけたようなことを持つ出すんじゃないよな」
「残念ながら、とってつけたことなのです。博士には姉がおりました。つい最近亡くなったのを霊感で突止めました」
「立派だね。たしかに多次元宇宙は数式でも物理学でも熱心に研究されてるし、新たな発見や未知なる宇宙の存在が解明されようとしておる。だから、あんたのいう時空の歪みに対する意見は尊重するよ。それに科学的な説話だから、耳も傾けるつもりだよ。じれったいのだね、なんとなくわかるよ。わしは子供のときから慎重だったような気がする。でも反面では大胆なところもあってね。そこに由縁するのかな、わしの姪がどう思ったか知らないけど、お手上げだったんだろうね、ほんとうに」
すると霊媒はさっと立ち上がって、表情に憐憫みたいな影を見せながら、
「博士、そうなんです。ほんとうなのです。従姉妹も代理の筆記者も困り果ててしまいました。肝心な、それは肝心な部分が書かれていなかったからで、つまり博士は故意に書かなかった、あるいは判読不能にしていたからです」
と、窓の外へ届くほどの声量で言い切った。
「ああ、そうだったのか、そういうことなのか、故意にね、そうだね、恋にだ、恋する恋にだ」
「えっ、」
「あんたは霊感で読みとったのかい、なら、誘導訊問なしで教えてくれるかな、わしの姉の名を」
「旧姓風見由紀子さんです」
L博士がまるでよろめくのを構えていたかのように立ち上がっていた霊媒は、
「すいません。思い出したくないのでしょう。それなのに」
老体を華奢なからだで支えながら言った。
「かまわないよ、めまいは好みだったから。今は少々こたえるけどね」
「ああ、ひょっとしてこんな感じなんだろうか、あんたのさっきの苦痛」
抱きかかえられるような姿勢を恥じているのか詫びているのか、そう訊ねてみたら、
「比べようないがないですわ。ひとそれぞれの痛みですもの」
と、L博士に引き渡した影のたもとでひっそり答えた。
「愚問だったよ。で、あんたはこれからどうするの。まさか、従姉妹に頼まれて未来から調査しに来たわけでもないだろうし」
「迎えが参ります。それまでは博士を案じております」
「あの青年だね。わしにあんたを推薦してくれた」
「はい」
「ぼんやり考えごとしていてもかまわないかな」
「どうぞ、こころゆくままに」
手をたずさえられ椅子へ腰掛けたとき、窓枠とは反対の壁に大きく張りつけられた化粧鏡のひかりに吸い込まれてしまった。
ほとんど白くなり薄くなった髪と、老いを知らしめる顔がにらみ返している。老醜のにらめっこでいったい誰が笑うのだろう、いや笑わなくてもいい、この控え室を出た裏側にある防空壕の恐怖に震えてみるのだ。
「静子さん、ろうそくを貸してくれない」
「駄目よ、真っ暗にしたらきっと嫌らしいことするから」
「そうじゃないってば、必要なんだよ、その炎が」
不意にL博士は古い古い光景を取り戻し、それは櫻田静子との接吻に繋がって羞恥と興奮を呼び覚ました。
「永瀬さん、あんたにとってこの町は二度目になるわけかな」
「過去ですが、いえ、過去だからこそわたしはここに来ているのです」
「だったら聞いたことないかい、もっと昔に犯したわしの罪を」
「聞き及んでないと言えば嘘になります。でも博士、わたしはその詳細を知りたいと思ってはいませんの。しかし結果的にわたしが博士と近づくことで、宿命は・・・」
「宿命は、変わらないよ」
「すいません」
「なにもあんたが謝ることなんてなにもないんだ。霊感もいらない、先に言っておくよ。決してあのひとを降ろして欲しいなんて。だけど、もしよかったら聞いてくれるかな、迎えを待つ間だけでいいから」
「はい」
「わしは、いいや、僕はまるで映画館の緞帳みたいな漆黒のカーテンに火をつけたんだ。その部屋のあるじは、あこがれた女優の父だった」




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