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[513] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた13 名前:コレクター 投稿日:2020年03月24日 (火) 01時49分

都会暮らしに倦むことはなかったわ。女優としての開花は断念したつもりだったけど端役ならいくらかめぐってきたし、主人公を演じるばかりが役者とは限りませんもの、大輪でなくともひっそり咲く生き方だってあるでしょう。地道な研鑽の日々が感性の実りへ結ばれると信じていれば、時間は美しさをときおりかいま見せてくれるに違いない。それが惰性であったとして、周囲からの刺激は絶えることなく、たとえ華飾の宴に列ならなくとも、胸のときめきにはかわりなく、光と影の織りなす優美な色彩にとけこんでゆく心情は保てれるのよ。暗がりで息をひそめ見つめ続けていた銀幕のなかに自分の顔がある。ほんの束の間にすぎなくたって、奇跡の瞬間だわ、その一瞬を求めさまよった証しに出会えるだけで十分、なので、わたしなんかより有能なひとが喝采を浴びるのは当然だし、そういった環境の末席にいることはべつだん不遇ではなくて、むしろ小さな夢が損なわれないとも言えるから、居心地の悪さなんて感じたりしませんでした。
父にもそうした心境を書き送っては、昌昭さんとの秘密めいたやりとりに充足を覚えていたと思うの。つまるところ進退はわたし自身の余裕ある考えに掌握されていたのです。でも、はっきりした父の意向はつかみとれない、血筋のいわれを語る声色にはどこか打ち消しの念が込められているみたいで、もちろんわたしの危急を見かねたうえでの綾だったろうから、昌昭さん本人の知らない現時点でそんなお手軽な婚姻に力まれては困りもの、とりあえず腹違いの姉弟という立場をよくわきまえなさいって諭されているのかなって、もやもやしながら了解していました。東京へとどまるわたしをしっかり見守ってくれてるわけですし、納得してしかるべきでしょう。
問題はそうした情況に昌昭さんがいきり立ってしまったというか、わたしの分別とは違った角度から父の不実を唱えだしたことでした。昌昭さんに関する実情は内緒の手紙に依拠したものでしたから、必要以上に感情をたかぶらせてしまうのは仕方ないでしょうし、あまつさえ察知されているなんて、だとすれば、明らかに父はわたしたちの仲を引き裂こうとしていて、遠からず暴君的な態度でこれまでの由縁を聞かされ、ねじ伏せられるに違いない、そうなったらとても堪えられないなんて、とても思いつめた口調で訴えてきたのでした。
ええ、もちろん、わたしは妙に激高すると却ってあだになります、ここはやはり落ちついて様子をうかがうべきだと、なだめたのですが、やはり実子でなかった衝撃は少なからず、いくらわたしとの恋に傾斜しようとも、その内情にやりきれない気持ちが噴出していたのでしょう。他に父はなにか話してなかったとか、どんな些細なことでも教えてくれないとか、絶対に隠さないで欲しいだなんて、戸惑いやら疑念を投げかけていました。いいえ、どんなに詰め寄られても、それはひとえに燃え上がった恋心の発露に他なりません、わたし自身もいつしかその想いに応えようとしていたので、怖いくらい昌昭さんの胸のうちが伝わってきたのよ。
父に本然と、そうですわね、守護者に対してこれっぽっちの抵抗も要望も示せない日陰者の卑屈さから、脱皮しようと奮起してなかったわ。穏便な秘密の範疇を越えようとはしなかったわ。怖さはすでに宿っており、ええ、宿っていたからこそ同調がわき上がったたのかも知れませんわね。わたしは申しわけなさでいっぱいで、宿業なんて言葉をよぎらせたり、どうすればこの現状を打ち破れるのか思案してみたのけれど、わたしの置かれている身分ではどうにもなりません。父がこの立場を理解するよう求めている限り、渡り合うことはおろか、自分からすすんで都合のいい話しを切り出したりするのはとても無理です。が、昌昭さんの提言には従うつもりだったの。
小賢しく思われるでしょうけど、父とは表立っての結びつき、でも昌昭さんはそうでなく、内密のつまりふたりだけの関わりだったから、いかに父が察していようとも、限りある自由はどこまでも自由なはずです。そうですわ、自由に限りがあるからこそ、わたしは昌昭さんを信頼していたのよ。で、閃きがふたりの間へいなずまのように落ちたの、つまり幸吉さん、あなたをわたしの婚約者に仕立てあげる企てが生まれたのです。
始まりはすでにあなたのなかに、あの教室の空気のなかにあるでしょうから、詳細はいらないわね。ただ、あなたをさりげなく観察していた昌昭さんの眼を探し求めていただきたいけど、それはあまりに残酷なお願いかしら、どうも勝手言ってごめんなさい。しかし始まりは穏やかな教室の休憩時間が起点だったのです」

幸吉は正枝の細やかな表情に魅入っていた。ロマンスの仕掛けに半ば酔い、半ば呆れていた。が、ただちに糾弾しようなどとは思わず、むしろ女優の台詞らしい卑屈さの巧緻に自らの顔面が軽くひきつっているのを感じ、それがまるで道化のようなもの言いとなってこぼれ落ちるのを知った。
「いいんですよ、僕はあなたに憧れていました。おっしゃるように端役だったからでしょうね。有名とは呼べない、まだ誰もその名を口にしていない、あなたがひっそり映画館の片隅で御自分の演技を見つめていた切々とした現実には無縁かも知れませんが、僕は心を踊らせながら艶冶な女性の、手に届くことなんてあり得ない現実から夢をふくらませていたのです。それがこともあろうにいともたやすく出会ってしまいました。もっともな話しです、奇跡だの天使だの、ありとあらゆる驚嘆も感動も、あまりに手軽で身近すぎて狐につままれているようでした。
しかし今西君の思惑にはまったく気がつきませんでした。あれだけ冷淡だと不信感を覚えたにもかわらず。でもなぜか腹立たしく思えなのはどういうわけでしょう。僕は今西君の代役だったのですね。悪くはありませんよ、これが芝居だとしたら、身震いするほど興奮します。あと、なんですって、彼の生みの親は由紀子さんの母、ではふたりは姉弟じゃありませんか。たしかに忌まわしき匂いが漂っていて、殺意などと物騒な言葉が舞い落ちても不思議ではなく、あなたの曖昧な記憶と認識によって語られる驚きに先んじていたと称賛したいほどです。そこでも僕は代役を演じたわけなのですか。とにかく顛末を知る権利はありますので、どうぞ遠慮なく続けてください。さあ、夜が明けないうちに」
正枝は深々と頭をたれた。それから明るみの退いた哀しい双眸で幸吉を見返したのち、女優らしさを取り戻したのか、ふたたび艶のある声振りに戻った。
「昌昭さんの試みをお話しましょう。わたしの熱心なファンを秘かに自負していたあなたが、父のお眼鏡にかなうのはほぼ間違いありませんでした。対面の場面はあらかじめ決められていたのだから、あの時点では折角の記念写真が没収され悲嘆に暮れている同級生を、あなたはそつなく演じきったことになりますわ。
内密に惹かれ合っている陰画を父が見て見ぬふりをするのなら、やがて果実の熟するごとくふたりの果汁がしぼりだされようとする直前になって、禁令を言い渡すのなら、そんな冷酷な仕打ちを目論んでいるのなら、もはや父であって父ではありません。昌昭さんはそう言ってわたしを揺さぶりました。ただ激して揺さぶっただけでなく、これまで長男として育てられてきたけれど、ことさら邪意や嫌悪の含んだ態度をあらわにすることなど一度もなかった、きっとなにか理由があっての計らいだろう、でないと、あまりに陰険すぎるし、もしくは間弓さんの言うように瘋癲の兆しと捉えるべきか、いや、まだまだ頑固で几帳面で瞬発性を失っていないのだから、端的には決めがたい、そう問いかけてきました。
とにかく父の意識を他者に向けるのが一番です。しかも昌昭さん自身が失態を犯した素振りをして、いかにもわたしとの親密さは勘ぐりの勘ぐりだと言い聞かせ、負け犬がころりと腹を見せて横たわるように、白旗を上げてみようと思いついたのね。もしうまい具合に行けば、ひとでなしの汚名を着るまえに父は真情を語るでしょう。これは楽観的な実験であり、勘ぐりの仕返しでしたわ。で、幸吉さんの登場なのですけど、娘であるわたしのことを熱心に想っている他者が存在する、修学旅行という行事を通して華々しく意識させる、仕掛けは父の吝嗇加減と歪んだ体面主義へ絡みついたから、ひとまず成功だったわ。案の定、早速あなたを吟味し、得意の興信所ね、なんらかの確信を得た様子でした。
ところがあの訪問の日、父はよほど興に乗ったのか、ええ、そうとでも考えなければ、わたしの生い立ちを、ある意味とても大仰に、まるであなたを誘導するように痴態と猟奇趣味を織りまぜ、つまり試金石として、あなただけじゃなく、必ずや耳へ入るだろう今西家全員にしらしめる為、わたしの母は片足で、しかもゆえに憐憫とは異なった肉欲を感じており、そこへむしゃぶりつくのが天啓であるごとく、奇怪でみだらな方便を用いることも厭わず、女体における太ももの魅惑を徹底して共有する相手をあなたのなかへと見出し、ただでさえもの怖じしていたあなたは、かつて校長であったという父の肩書きに縛られ、ちょうど児童が授業開始のチャイムで背中を押されるように、あるいは子牛が無垢な風景を背にしながら売られていくように、肉体と魂の乖離を野放図に認めてしまい、太ももの、まだ見ぬスカートの奥を直截に、そして年長の成育した女性のしとやかさを冒涜する解放感を得て、見出されたことに疑いも挟まず、ただただ萎縮する精神へあらがう術を授けられたと勘違いし、それがどういう理屈であるかなんて内省は据え置かれたまま、ひとつの信憑を、過剰にして最大限の衝動を受け入れてしまったのね。青春の墓碑銘なんて霊なき霊の言葉を担保として。
おっかなびっくりなあなたの顔に灯された同意の同意こそが、父の求めた同一化だと分かったのはしばらく経ってからだったけど、あくまで異常性欲者を気取った戯れに過ぎないと、わたしは昌昭さんの文面からも、父が書き送って寄越したあなたの反応にもさほど重大さを感じませんでした。いくら仕掛けとはいえ、ああして女優としてのわたしを讃えてくれた幸吉さんが哀れに思えるばかり、それはなにか父の悪ふざけで結局、勘ぐりの勘ぐりが見抜かれてしまい、いいように小馬鹿にされただけと落胆していたからです。
太ももへ執着してしまうだろう、あなたの戯画を見せつけられた気がしてなりませんでしたわ。しかし昌昭さんはそうではなかった。仮にも幸吉さんとわたしの婚約を口にしている以上、単なる見せしめなんかじゃない、本当に望んでいるとしか思えない、そのわけはわたしが父のいうとおりに、燐谷との約束に乗り気だと手紙で答えているからだ。冗談じゃありません、そんなこと書いた覚えはないわ、勝手に父がその場しのぎで捏造した意見よ、と反論しつつも昌昭さんとの仲を割く為ならもっともであるとか、先日から燻っていた彼の焦燥がさらに焚きつけられてしまったとか、いずれにせよ軽はずみな実験で火傷を負ってしまったありさまだったので、竦然とうなだれてしまったのです。おまけに間弓さんの態度も一変し、多分あなたを招き入れたことが発覚したのではと危ぶんでいましたわ。
こうなったらやはり下手に画策するのはやぶ蛇です。わたしはさきほどお話した自身の余裕ある考えを優先しようと思い、昌昭さんへ沈黙を守るべきだと書き記しました。よみがえりますか、幸吉さん、今西家があなたに門を閉ざしたふうに静まりかえった日々が。
でも沈黙は破られるものよ。それはあなたが櫻田静子さんから恋文を差し出される以前、文通の絶えていた昌昭さんに取って代わり、間弓さんから封書が届けられたことで」


[512] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた12 名前:コレクター 投稿日:2020年03月16日 (月) 19時44分

「どうしても時系列に即すようには参りませんわね。わたしたちのやりとりの過程を振り返えるのは、たしかに苦しくもあるけど、反面また夢見心地でもあるので、わたしはわたしの本来を、そうあって欲しいと願った本来を滔々と語ってしまうばかりになりそうですし、映像のなかのわたしが常にあなたに先んじていたごとく、そして本筋より些細な支流の方に、呉乃志乙梨の出番があったことをもう一度だけ想い起してもらえれば、もっともこれは場面展開に必要な支流であり、大団円に向かう急進的な吐息だと言い切れますので、街灯の明かりへ点滅する蛾の影を見上げるように、見下げるまなざしを反転させて、この部屋の向こうの夜空の先へと、月影を追って走り去ってしまった夜汽車に揺られているわたしを想像してくださったなら、火へ身を投ずる蛾の不思議が視覚だけに頼っていると限らず了解されるだろうし、あなたの疑問符は無造作に浮かびあがったりせず、本流の水面が銀幕にいつも映し出されていたように、きっと緩急自在な終止符を迎えられることでしょう。
昌昭さんはどうやって血筋の相違に気づいたのか。
わたしが隠し子なら彼は長男、どうあがいたってふたりは結ばれる運命でありません。いえ、生まれてこのかた互いの素性に関わることなく、わたしが聞き及んだ今西家の様子なんて、ほんとう遠い遠い地方の家庭でしたし、まったく未知というわけではなかったけれど、晴天の霹靂だった昌昭さんと比べるのもおかしいですが、たどりようもなくて、手を伸ばしてみようと思うことすらありませんでしたわ。しかし密やかな文通を契機に、これまで知り得なかった肉親の肌ざわりに接しているような想いが募りはじめたのです。
ひかえめな、けれども胸の裡だけには収められそうもない恋心が、やがて頻繁な逢瀬へと足を運んでいくように、ああ、またしても川の流れにひたした足もとがさらわれてしまうわ・・・なんという不始末、ちょうどあの年、さきほど棚上げした映画会社との件、悶着と言いましたけど、実は共演した俳優と恋愛のさなかでして、たしか、幸吉さんには父がこう話したそうね、わたしは重役から妾になれと迫られており、これからは大いに売り出してあげようと念願だったブロマイドまで発行してくれて、いけない、いけないと念じつつ、でもその拒絶は拒絶であるべき体裁を取り繕うのに精一杯で、案外いい加減なところに拒否反応が示されてしまい、結局なにも深く考えず、激しさの満ちては引きゆく潮の風景だけを額装へはめこみ、浅く小さな、ちょうど磯辺を写した絵はがきのように聞くべき波の激しさは消音の彼方へ、恋愛のかたちは不如意と感じていながらも、やがて拒絶という失恋へさらわれてしまったのです。
形骸の形骸、にもかかわらず、甘言を用いて権力を振りかざす重役の社内における地位は、銀幕に張りついているようで、魅惑の意味はたやすく書き換えられて、それは以前、新東宝の大蔵貢社長がうそぶいた、女優を妾にしたのではない、妾を女優にしたのだ、という暴言がまかり通っていて、本末転倒などおかまいなしにまわりでも次々なびいていく実情におののきながら、それでもわたしはと、いったいなにを怖れて拒否の拒否が正当化されるのだろう、あくまで形式の形式でしかないと割り切れば、女優としての開眼を望めるのならそれでもかまわない、拒めばこのさき陽の当たる場所などやってこない、転ぶのではない、起きるのだ、目覚めるのだ、不純な朝でも陽光はまぶしく、影法師は濃厚なのだから。
あれほど熱烈な恋愛だって、都合よく見失って、棒に振ってまで煩悶するわたしはどこの誰なの。
無常なのは時間ですわ。頻繁な手紙になると察したとき、慎重に局留めを申し出た自覚は皮肉にも、浪費される時間を計測していたのね。すでに重役は別の女優を口説き落として、わたしは見向きもされませんでした。
これで終われば映画を抜け出た悲劇のヒロインだったでしょう。ところが同様に陽の目を見ない恋仲だったあの俳優は、忘れられなかったみたいで、どこの誰でもないわたしの肉体を。みじめ過ぎるくらい落ちぶれた口ぶりで求めてくるものだから、ついついその憐れみの代償として好きにさせてしまった。昌昭さんとの新鮮な文通とは無縁だと言い訳しながら、まだまだ女優のへの執着を燻らせており、写しだされる機微に色香は不可欠、そんな鍛練めいた理屈づけが抑え難いあえぎ声となっていると知りつつ、拒みきれない悦楽を日常へ含ませていたでした。
そんなわたしをすっかり餌食にしたとでも思っていたのでしょう。男は俳優業に見切りをつけてしまい、かといって別の仕事をするわけでもなく、わたしが女給やら絵画のヌードモデルで手にした金銭をまきあげて、あげくには身売りをほのめかす始末、さすがにそこまで自堕落になりたくありません。父に相談するのも心苦しくて、恥と気位が邪魔をしていたので、重役のこと以外は手紙へ書けなかったわ。ところが鋭い嗅覚で便箋の行間を読みとったのか、興信所からわたしの近況をつかんだ父は、即座に仲介人を立て相手に手切れ金を渡して一筆書かせ、関係を断ち切らせてくれたの。
もう心配いらない、そう父から諭されたとき、涙がとまりませんでした。そして傷心を気づかってのことと思うのですが、認知したいからこの町へとの連絡を受けたのです。その際に、その際に、父は誤りを犯したようで仕方ないのですけど、ええ、そうだと素直に感じ、いらぬ詮索はしない、もし、誤りではなくて、なんか裏があっても、そうですわ、父はわたしをとても慈しんでいるし、悲しませるような仕打ちなど決してあり得ない、女優を断念しても帰る家はある、そこでそこで唐突に昌昭さんは実子ではないから、いざとなれば世評はどうあれ婚姻だって可能だと誇張してきた。弟と妹が住まう家に入りづらいわたしの立場を慮っての吐露なんでしょうが、にわかに信じ難いことだったし、そのような内情を安直に語るのはいつもの父らしくないと首を傾げたものよ。本当だとすれば、わたしの困惑がよけい大きくなるはずなのに。
もしかして昌昭さんとのやりとりを見越した上で大胆な意見をもらしてるのではなかろうか。父はこれまでずっと変わらずいわば安定した手紙を送ってくれました。しかし幸吉さんがあらわれて以来、文面は膨れ上がり、緻密さを増しただけでなく、憶測に満ちあふれわたしの反応をうかがうようになっていたのです。
もちろん伏せたままよ、昌昭さんとの文通は。でも彼には父と交わしたすべてを報告していたわ。冷静な昌昭さんの筆致に驚喜が連なっていたのはいうまでもないでしょう。わたしとは他人、今西満蔵とも他人、姉の間弓さんとも。これで自由にわたしと恋をささやけるなんて書いてありましたわ。
あまりに手短かだったからあっけないなんて思わないでね。ここまではあらましに過ぎないのですから。
ではなぜ、あなたを駆り出して祭り上げなければならなかったのか。時系列うんぬんって言ったけど、今度はさらに短縮した時間をあなたに提供するつもり、でないと、夜が明けてしまうわ。いいのよ、わたしは平気、でもね幸吉さん、夜の言葉は夜を愛しています。だから徹底的に身悶えして欲しいの。
わたしたちのやりとりを父が見抜いているという懸念はふたりしてあったわ。盗み読みに気がつかないはずないと昌昭さんは怖れていたし、さきほどの誤りが誤りでない、ついうっかりがそうとは反対の、絶対の情報伝達であったなら。
同じ家に暮らしていても家族間の真意なんて言い当てることは難しい、昌昭さんは用心を怠らず、つまり額面通りの慈しみに流されず、しばらく様子を見るべきだと提案してきたわ。無論わたしも同感して、認知という言葉がもっと具体的に、というより、父がじれるくらい、なんだかんだ理由をつけて東京に留まろうと決めました。女優としてやりきれるところまで突き進んでみたいとか、色々心配ばかりかけてきましたけど、もう決して色恋なんかに惑わされたりせず、しっかり日々を感じとっていきたいとか、昌昭さんや間弓さんの進路が定まってからのほうが何事も無難だし、そうあるべきだなんてつつましい言い方で通したのです。父は感心したのか、もっもともであるとくり返していました。現に家庭内に波紋を急いで立てる必要もなかったし、わたしの情況を察していたみたいで、おまえの考えを尊重するとまで言っていたわ。
ところがある日突然、昌昭の出自を知りたくはないかって尋ねてきたのよ。本人には話してないけど、いずれわたしの認知にあたって打ち明けなければいけない、それに聞いておいて無駄ではあるまいなんて、どこか変な気がしました。しかし断りを入れるほうが厄介ですものね。結局そこを切り口にして父は出自どころか、思いもよらなかったことを次々と話しはじめたの。
大筋で申しわけないのですけど、昌昭さんの母親とはある宴会で出会って深い仲になったそうよ。すでに結婚し間弓さんも生まれていたから、さほどのめりこむ意欲はなく幾晩かの逢瀬で終わった。が、しばらくしてこの子を引き取ってと幼子である昌昭さんを連れ学校まで押しかけてきて、当然ながらどう勘定したみても自分の子供であるはずがない、日時をあらためてと頼もうがまったく応じようとせず、絶叫をあげて、人目をはばかるどころか、これみよがしに騒ぎ立てようとする。
結局、病弱だった父の奥さまは嘆く猶予すら与えられないまま、縁者の子をあずかるのだと自らに言い聞かせるようにして、憤りや憎しみを捨て去り、よき妻としての居場所を譲らなかったそうよ。円満なんて単純であればあるほどに、懊悩と隔たるほどに欠けることのない形式を保つのね。
ええ、かなりためらいましたわ。でもほとんど伝わっているも同然だと判断しました。父はわたしの手を借りて昌昭さんへ教えようとしていたのですから。
殺意という言葉が返信のなかへ、わたし自身見逃して読みとばしているのかなって、何気ない落ち葉のように舞い落ちたときですら、まだその意味と言葉の響きは共鳴しておらず、探偵小説の一頁をめくる気軽さで昌昭さんの面影に重なっていました。
弟と姉の布団が敷かれた部屋の、親しみと安堵に立ちすくんでいたわたしにとっては、恋のささやきにも殺意にも実感は抱けず、せいぜい間弓さんと昌昭さんとの記憶をめぐる際どさに、意識の断片が反応していたくらいで、実子と違うそう判明してみても、世界が変わるわけでなし、それはおそらく鋭敏な意識を欲しておらず、のんびりくつろいでいたかったせいだと思うの。恋を演ずる栄光に憧れて、地に落ちた薄汚い愛欲しか見出せなかった失意がまだ尾を引いていたのでしょう。
昌昭さんの母の名前が風見成実であったこと、由紀子という娘がいること、その結びつきに仰天するまでは」


[511] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた11 名前:コレクター 投稿日:2020年03月10日 (火) 01時43分

「あなたの普遍にまで及ぶことなのか、どうか、最終的な判断は幸吉さんの配下にありますから、わたしがどれだけ風変わりなもの言いをしようと、根拠のない全能感で縛りつけようとも、つい先ほど交わしたばかりの肉体をあらためて提供したく申し出てみても、結果、あなたが逃げ去ってしまえば、ことの成りゆきは自動書記で綴られた風物詩のように味気なく、また薄気味悪さを残すまでで、わたしからすればそれは不本意だと呼びかけてみたとして、もともと本意などではなかったはずですし、あなたの存在を父に知らしめただけで昌昭さんとわたしの願いはおおよそ叶えられたわけだから、これ以上の不毛によるべない充足と安寧をお仕着せすることはないでしょう。ただ、まったく予期していなかった一点が、わたしたちを遠まわりさせてしまったのです。
それはあなたにも当てはまるものでして、つまり漂流のごとく茫洋とした意識にひろがった痕跡は、歯ぎしりと寝汗を幾夜も眠りの間に授けたと思われますので、いささか罪悪を感じているのですが、あなたはあなたで不当を不当と解せずに、まるで妖術のような離れ技でもって、煩悶や憂慮を希薄化し、そうです、矛盾と不遇が抱えこんでいる眉間を曇らす深刻の度合いに対して、なんともほんのりした夢想の切れ切れを引き寄せては、ぞっとさせる瞬間に散らすべく用意されいた既視感を尊び、いえ、さほど思い入れはなかったと察するのですけど、あの透明な空間をわずかだけ濁してゆく不備を逆手にとり、あたかも自身の未来像のなかへ浮かんでいるような感覚をつかみ取ったのですから。不吉な兆候をすえ置いたまま、既視感と戯れていた能天気な加減こそが昌昭さんを困らせてしまったのね。
そこでやむを得ず、間弓さんの手を借りなければならなくなりました。この裏方でうごめく事情は少しやっかいだし、どの辺りから説明すべきか迷ってしまうけど、とにかくあなたが修学旅行から持ち帰った思い出の覚めないうちに、ことを運ばなくてはいけない、強靭な意志は、幸吉さんの心情がざわめいている間に貫かれるというわけだったの。
有頂天だったあなたを籠絡するのは難しくなかった。写真は現像されているけど、父がいかにも出し惜しみしているふうなあらましを作り上げては、あなたの焦燥に火をつけた。それから実に的確な描写をたたみこむようにして、昌昭さんは父との息づかいをすぐそこに感得されるごとく、対面するまえから相貌やら性格を植えつけながら、不承不承の体も保ちつつ、親友めいた破顔をかいま見せ、あれこれ語って聞かせれば、あとは時宜を待つのみだったのよ。そう、わたしとの関係を切り出す機会を慎重にうかがって。
当然あなたは焦りだすのが分かっていたけれど、あやふやな言い回しだと変に遠慮されたりとか、優等生らしく穏便な態度で二の足を踏まれたら元も子もなく、やはりここは徹底して幸吉さんの関心を一手にまとめておくべきだと判断した昌昭さんは、内情が内情である様子を過剰に映しだすこととし、小説家が細部まで執拗に筆を走らせるよう写実的な方便でもって、姉の間弓さんまで話題にして一層の興味をいだかせたのよ。ところがわたしはあの頃、映画会社との悶着を容易に片づけられなくて、それは後々お話ししますがせっかく焚きつけたにもかかわらず、おいそれと今西家へ行けなくなってしまったのです。
昌昭さんは昌昭さんで、綿密な計画にひびが入ってしまい、あなたと顔を合わせるのが本当に億劫で、しかし、このままほっておくわけにもいかず急遽、間弓さんとある提携を行なっていました。下校時にあれだけ肉づけした印象を施せたのは、やはり姉との盟約が良くも悪くも影を落としていたと言ってましたわ。
今西家を訪れてさぞかし驚かれたでしょうね。前座みたいな形式で間弓さんが構えていたのですから。客間でのやりとりはたぶん鮮明に覚えていると思うけど、あのとき、双子と見紛うくらいの容貌へ引き込まれた情景を想い返して欲しいの。どう、よみがえる、うりふたつだと口にして腰を抜かしそうになった記憶。
ではなるだけ簡便に種明かしすると、間弓さんはわたしが女優であることに敵意というか、嫉妬というか、そうした気持ちを強く持っていたので、あえて双子らしく振る舞ったらしいのです。姉弟の姉弟であるべく血の濃さを強調したかったと聞かされたわ。認知されようとしているわたしが疎ましくて仕方なかったから、血の団結みたいな意志を表明した場面だと言っても間違いじゃないでしょう。
偶然は決してあなたを導いておらず、事後の扇情だけが生々しく躍動していたのであって、これで写真を眼にする遥か以前より、今西家の人々がわたしに好悪の感情を投げつけていたのが分かっていただけたかしら。
さて間弓さんも一芝居売ったのよ。わたしとあなたの契りを阻止する役目のね。由紀子さんをそそのかしたり、もっと言えば桜田静子さん、そうあの可愛らしい下級生だって一役買っていたのです。勘づいていたでしょうが静子さんはとても理知的ですばしっこく、あっけらかんとした性格だったから、幸吉さんとの恋愛に深追いしてまで自分を傷つけたくなかったみたい、親戚の由紀子さんへ歯向かう理由がない程度にあっさりと遊戯から退いたわ。
一役とは言い過ぎかもしれないけど、もしあのとき一途な情愛を捨てなければ、でも由紀子さんはほとんど重戦車のような破壊力で迫っていたから、どうでしょう、あとの祭りはやめにして、それより、あなたにとっての純潔、いいえ、湧き水のように汲めども尽きぬ透明感と、汚穢であることの疎ましさを当たりまえと見なす不逞なよどみが、交互に地層の断面のように、あるいは錆びた蛇口から流れ落ちる水の気持ちを借り受けて、あなたを支配しているもの、それをつまり、とても言いにくいのですが、踏みにじろうとしていたわけですから、間弓さんだって鬼神の面を被らなくてはいけなかったし、逆に鬼神と同一化することで芸術的な背徳を感じ、陶酔していたようにうかがえました。
はじめての接吻だと知っていながら、あの情況で迫ったのは衝動でなく、悪魔の紋章をあなたに授けたかったのでしょう。でも果たしてひとはそれほど安易に悪魔へと化身できるのかしら、おそらくこれはわたしだけじゃなく幸吉さんも疑問視されませんか、裏方の混迷について触れましたが、間弓さんはむろん肝心の昌昭さんがなにか押し隠しているようであからさまに語ろうとしませんし、勝手に鬼神だの悪魔だの少しおおげさな口調ですから、変と言えば変ですけど、性体験の道筋を決定させたことにさほど罪があるのか、あるとすれば、あなたに対してではなくて、間弓さんと昌昭さんの、これも口にするのがおこがましいのですけれど、つまり近親的な交わりの秘匿にあると思われる節が、いえ、決してわたしは見聞きしてないし、証拠なんかありませんのよ、しかし、間弓さんの眼は姉が弟を見るまなざしとはどこか違うように感じました。
昌昭さんの出自に関して父はなにか言及してなかったですか。そうね、父には無理でしょう。それでこうしてわたしに話しをさせるため、形式の契りを結ばせるためにあなたが自分の本当の隠し子だなんて、ひきつった言葉をもらすしかなかった。結果から述べた方がいいわね。そうよ、昌昭さんは間弓さんとは血がつながっておらず、近親的な触れ合いが可能であって、これは推測の域を出ないけど、幼少の頃に経験した際どさをふたりとも忘れられなくて、それが一種異様な緊迫感を放出していて、ついつい性的な意味合いになぞられながら双子の錯覚をはぐくんでいたのだわ。あなたに限らず、今西家の空間のある事情の下では誰しもがそうした幻惑にとらわれたと思う。
ではふたりの心理的な結びつきはどう考えるべきか、わたしと昌昭さんの馴れ初めをまだお話ししてないので、なにぶん戸惑うでしょうが、その紐帯は痴戯まで達しておらず、むしろ血縁なき血縁が友愛にまぎれもなくたどり着いていた。しかし本人たちは意識すればするほど、危険な結びつきへ傾斜してしまうような煩慮に駆られ、その均衡は禁じられた遊び以上の地平へ根を這っていたのでしょう。
わたしという女がこの世にあって今西家を半ばおびやかす事態に至ったのと、昌昭さんが実子でないという真相に気づいたのはそれほど前後しておりません。発端は母が亡くなった年に父へ書き送った手紙を昌昭さんが読んでしまったことでした。
十九歳だったわたし、でも単に少女が肉体の発育で踊らされ、身も心も輝いて、多少なりとも異性の眼を気にしたりして照れる程うぶではなかったわ。だって女優の道を選んでいましたから。しばらくして昌昭さんから手紙が届いたときは瞬時にことの重大さを考えることもできず、たちの悪い嫌がらせだと思ったくらいでしたのよ。でもその文面にはわたしと父しか知り得ない事柄が書かれていて、あまつさえ、並々ならぬ興味といいますか、あなたがわたしに向けてくれたような言葉の花束で埋め尽くされていたの。
生前の母がそうしたのと同じに、わたしはいかにも事務的な書類を包む要領で封書しておき、いくつかの架空の差出人の住所と名前を使い分けていたので、文通の秘密を守り続けていたはずでした。なのにどうしてと、わたしは大変怪しんだわ。そして返信すべきかどうか迷うことになり、が、間も置かず次の手紙を受け取ってみて、映画会社の宣伝部宛てに届いていること、かねてより映画で見知っていたこと、父の密通には正直驚いているが女優という職業を尊敬しているとのこと、おおかた父は盗み読みに気がついていると思われるがとくに詰問のないこと、だからぜひとも返信が欲しいと記してくるではないですか。
ここでも躊躇しました。わたしは母からも父からも出生を明かすときが来るまで、絶対に他言してはならないと教えこまれていたのです。いくら今西家の長男といえ、おいそれとこれまでの誓いを破ったりできませんわ。かといって、まるで父へ告げ口するように昌昭さんからの私信を、優しさなのか、いたわりなのか、よく分からない気持ちを、封鎖してしまうのに抵抗があったのでしょう。二十歳をまえにしているからこそ、余計に心細さが成長してゆく、そんな不安感の落ちつく先へ、安易ですか、やはり安易でしょうか、幸吉さん、わたしはわたしであるまえに、わたしの日々に連なる影におびえ、暮らすことに疲れていました。
あなたがわたしを銀幕に見出してくれた頃、昌昭さんも同様の視線をひかり輝かせていた。燐谷しかいない、そう決意したのは修学旅行に先立っていたのです」


[510] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた10 名前:コレクター 投稿日:2020年03月02日 (月) 03時18分

寝室の残り香に背を向けてみせる哀愁など幸吉は持ち合わせていなかった。
仮にそんな気分がうっすらにじみ出る汗となり、皮膚へ問いかけていたとしても、多分それは不快なものに連なる成分と意想の表明であって、淫らさへまぎれた苦みを好む一服の紫煙とはなり得なかったからである。
そもそも正枝はどこへも去ってはおらず、却ってもっとその色濃い影が近づいてくるのだから、発汗は怯懦による生理現象の域で大人しく踏みとどまっているのだ。もし哀愁めいた感慨を抱いたのであれば、いたたまれなさに堪えられなかったせいであり、あるいは、正枝がまとっている女優精神への接近を試みただけなのだろう。情交を終えた虚脱に深いため息のあたえられる間もないまま、いよいよ仕掛けの分解という面倒な共同作業にとりかからなくてはならない。
分解が氷解であって春を待ち望むような晴れやかな心象に通じるのなら憂惧することなく、疎ましくも思わないだろう、透ける未来には希望が横たわっているからである。けれども掘り当てられる宝物だけに信憑を置き、約束の地の不動に守られてばかりでは時間の機能が朽廃してしまう。怪訝な顔つきの裏へ穏やかな破滅願望をひそませるように、幸吉はゴールへと向かう全力疾走の洒脱を、無碍が先走る手つかずの風化を賛美した。
単に聞き手に終始するだけとは思われなかったし、場合によっては反撥もありうるのだと半ば興奮さえ覚えていたからこそ、映画の幕切れみたいな感傷で邪魔されることを危ぶみ、一切の先入主は拒まれた。幸吉の腹はある意味座っていたのかも知れない。体よく組み立てられたお化け屋敷に充満していた不気味な空気が放たれ、本来の夜へと還元される気がしたからである。
この予感は夜目にこれまで追従してきた未熟な感覚が総動員されるまでもなく、ほとんど逆さ吊りにおける達観の、きわめて妄想的な視野でひもとかれていた。拒みに拒んだ場面が大写しとなりうる、あの背筋を流れ肛門あたりにわだかまる素晴らしき既視感との出会い、つまり逆さを忘れた瞬間の瞬間の連続を。
そして幸吉は二度とは交われないだろう正枝の裸体を夢想した。接合してどうしようもなかった股間から、今しがた離れたばかりだというのに。まだまだ女体は悦楽の振動を保ったまま、その虚ろな眼を泳がせる自由でゆらめいているというのに。触れることが禁じられてしまったのかどうかの判断は棚上げされ、獰猛な意欲はすぐにでも牙を光らせたにもかかわらず、被虐的な、もっと言うなら、真新しい裏切りを願ったゆえの展望があった。
情事の名残りに被さる時間ほど森閑とした流れはない。数秒のいたいけな積み重なりには残酷な光景がよく似合う。
生前の由紀子がそうしていたのと同じく正枝は、始めるときのもったいぶった、でも当然のなりゆきだと首肯させるに十分な衝動をうまく包みこみ、なし崩しであることに美徳が望まれた遠慮気味の笑顔を遠ざけると、そそくさ裸身を起し、枕もとのちり紙を無造作につかみ取って自らの汚れをぬぐった。
真正面にその姿を見たわけではなかったが、奥ゆかしい仕草とは異なる、どちらかと言えば臆面もない雑な手つきである。水気を吸ったちり紙は後半かさかさと音を立てたような気がして、おそらく恥毛の茂みの健康な抵抗にも聞こえてしまっていささか驚いたけれど、すぐにふき取られた女陰の記憶を呼び返してしまい、下半身のすべてを脳内に乱反射させた。
特に魅惑の太ももの肌触りは限りなくすべすべしていて、つま先まで伸びるしなやかさを大胆に誇示して倦むことなく、ふくらはぎの筋肉と贅肉の調和に至っては、健全なる思考が猥褻に堕していく高貴かつ生命体の顕現としか喩えようもなかったし、それは人類が二本足歩行によって成し遂げた進化へ付随し続ける隠された息づかいの証左に他ならず、魅了と歓喜と堕落のまわり道を示唆する肉欲の、まっすぐな熱きまなざしであった。
しかし幸吉は、契りのあとを讃えるこの乾いた音が、瞬く間に新たな局面を切り開いた背景には、不穏な別の扉が待っており、その事実の感取に即そうという動きを、ちょうど南極の雪崩れでも観望するかのようにとらえ、白い白い恐怖から轟音がかき消されているのをあらためて知り愕然とした。
なんという絶対の女体、この期にまで及んでなお溺れ抜いている。甘受すべき深手と自嘲し、致命的な禍いだと嘆いてもおさまりつかない女神の捨象、まさに肉体の悪魔が魅せる豊饒の海原、ふくよかな驕慢でありながら決してそうとは認めさせない形代、見飽きることがないと声の嗄れるまでつぶやかせるまばゆさ、そして今、下半身のあらわになったときとは逆に、薄く白い下着が黒々した茂みを覆い隠そうとしている。すっかり萎縮していた男根に鮮やかな誘惑が照りつける。女陰の暗黒が洞穴であり、あらゆる光をのみこんでしまったに等しく。
「またとない、またとないのだ」
知ってか知らずか、うつむき加減の正枝の顔は平静なくらいで、両膝を立てながら着衣する様子に幸吉の動揺は伝わっていない。嘘のように乳房が揺れているというのに。
これ以上、着られてしまったら契りは締結をあとにした、まったくの過去のものとなってしまう。閉じた秘蹟を永遠に崇めるなんて取り返しのつかないことはまっぴらだという心の叫びを幸吉は聞いた。それがいかに身勝手で強がりで幼稚な声かも解っていた。駄々っ子が道端で泣いている、稚拙な自画像を地面に書きつけながら。理解は理解の彼方へ押しやられる。
幸吉は残酷な裏切りの向こう側へこう問いかけてみた。
「由紀子さんも確かそうやってました。でしたら僕のも拭いてくれませんか」
すでに用済みとなった裸体にふさわしい眼をした正枝は、
「変な頼みかたをするのね。あまりいい感じがしないわ」
と、言いつつも口もとには奇麗な歯並びを覗かせている。
「すいません、なんか、とても、とても」
「なにがとてもなの」
「とても、たまらないのです」
「あら、なんですって」
幸吉は形式の形式に準じていたつもりであったが、故障し脱線を余儀なくされた列車の乗客がそうであるよう、事故に見舞われる際の危急さを打ち消してしまった。
「これから何もかもが始まるのですね」
「まあ、そういうことかしら。あっ、いえ、そうではないかもしれませんわ。反対に終わるのです。そうね、きっとそうだわ、あなたはわたしの夢に加担したのですもの」
そう言うと、正枝は固さを取り戻しつつあった幸吉をすっぽりくわえ、ちり紙とは似ても似つかない感触へ連れ去った。
すると頂点を迎えようした全感覚は、人々が重ねてきた数千年まえの堆積の記憶となってよみがえり、けれども数千年まえは数分まえとの掛け違ったもどかしさを懐かしんでいるのか、全感覚には至っていないという確信を吐き出し、快感が快感であることの寸止めを意識させた。
「これでいいかしら。あなた次第よ、あとでもう一度、わたしはいいのよ」
幸吉は神妙に成仏した。
「ほら思い出してよ、あの修学旅行の日を」
すでに正枝が女優の姿勢で喋りはじめ、なんとも手際のよさを発揮し着衣してしまったので、幸吉もあわてて裸身にためらいを引き寄せた。未練など招く暇がなかった包摂に感謝した。ただ、太ももの邪淫がなんとも健勝な肉感、みなぎる生命の、病魔とは対照的な心強さの体現へ移り変わったよう思えてきて、記憶は記録の実務にもの堅くあるべく、話しの話しに淀みが生ずることを懸念した。
ところが、正枝の眼は虚ろな色合いを奥底に秘めたまま、泳ぐことをやめ、流れのなかでとどまっている魚影の小刻みな震えとなって、幸吉を見事に裏切った。そして裏切らなかった。
透ける風景の、半獣の予感にふさわしい構図であったから。

「まったくの遭遇なんて信じますか。ええ、わたしがあなたの前に現れるなんてどう考えてもありえませんわ。確率論では絶対に解けないですね、では因果律でしょうか。それも違うようですわ。待ちかまえていたのよ、偶然を装って。あなたが当然のごとく舞い上がってしまうということを前提に。
ねえ、幸吉さん、もうあらかた見当ついてるのでしょう。でも横目でしか見ていなかった。父が写真のなかへあなたを焼きつけたと判断するのが妥当なのかしら、とすれば辻褄は合いやすいわね、でも早合点しないで、別の人物があなたとわたしを引き合わせたのよ。もうおわかりなはず、そう昌昭さんです。
学校の修学旅行先を知らされたわたしは、あなたが前から密かに、そういいながらも雑誌の切り抜きをごく少数の生徒に見せていたから、けっこうまわりには知れていたわたしへの憧憬を実際にするべく、活かすべくもっとも的確な手段、接近を謀ったの、つまり仕掛けたわけです。なぜって、そうしないといけない理由があったからで、それはそうでしょう、理由もないのにひとり旅を演じて雑踏に入り交じり、あなたの眼にとまるはずないですものね、では順を追って話します。
まず父へあなたの存在を知らしめる必要がありました。禁止事項だったカメラを隠し持っていくと吹聴した昌昭さんは、わたしを発見したら燐谷は必ず懇願してくるだろうと踏んでいました。あなたとわたしを撮るためにすすんで校則違反したわけだから、これは賭けではなくて確信です。そして昌昭さんとわたしはそれぞれのお芝居をした、あなたという観客だけのために。天にも上るような気持ちだったのですか、とんでもない、馬鹿になんかしてませんわ、だって、とてもうれしかったもの、幸吉さん、すごく熱心でわたしのこと一番素敵な女優さんって言ってくれましたわね。どれだけ励みになったことか、あのとき答えた言葉は本心から出たものですし、握手をかわした感触の温かさは今でも残っています。嘘ではありませんわ、本当にそうでした。罪の心より勝っているなんて言い方したら変に聞こえるでしょうが、父の形式と名づけためぐり合わせにいっそ従ってしまおうとさえ考えたのよ。女優としての最後の演技があなたであってもかまわない、そんな思惑が偏狭さを打ち破ろうとかけめぐり、宿命だの、因果だのを押しのけ、今西家から離れようとしました。昌昭さんには打ち明けなかったけど、たぶん感づいてたんでしょう。あの冷淡な態度や無関心はそっくりそのままあなたとの距離でもあったから、おわかりいただけますわね。
さて、勝手にカメラを持ち出されたあげく、わたしたちの記念撮影を眼にした父がいかほどの、瘋癲なんて間弓さんにあざけられながらもどれくらいの、衝撃を受けたことか。その衝撃波へ自らを乗りこませ、昌昭さんの企てに動ずることなく沈思黙考し、家族間での冷戦とも呼べる事態を収拾しようとしていたのか。わたしが絡まることによって混戦の度合いはいっそうひどくなり、その疑心暗鬼は振り返るまでもないですわ、ほら、すぐそこにどす黒い形をして夜にまぎれています。あなたも、そうあなたも肉欲を介してよく感じたはずです。由紀子さんだけではない、このわたしが証明したんだから間違いありませんわ。
あらっ、どうしたの、そんな青ざめた顔して。由紀子さんの幽霊でも出ましたか、そうですね、もっともなことです。あなたはわたしの話しをひと事みたいに聞いてはいけません。一緒になって語るよう耳を傾けなくてはならないのです。仕掛けは幸吉さんのなかで働いておりますから」


[509] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた9 名前:コレクター 投稿日:2020年02月18日 (火) 01時40分

沸点に達した充足は空きっ腹が満たされた場合と異なる。
意識の半減に心地よさがはらむ眠気の催しや落ち着きなどとは違って、どこか尖鋭的な残響を保ったまま手持ち無沙汰の、よそよそしさを感じさせた。
うっすら汗をにじませ見返す正枝の顔つきに幾ばくかの疲弊を見てとることが、慚愧の証しであると幸吉はかこつけ、女優の素顔に自分自身のよりどころのなさを投影した。それがいかに罪深くあろうとも、吐精直後の虚しさを代弁するような哀れな気持ちである限り、内心の混濁は隠しきれず、視線は他者を蹂躙するしかなく、この反鏡面作用は真意を曇らせるばかりであった。
しかし天候のうつろいから気まぐれが生じるよう、視線に託された腐心は相手のひとことで晴れ間を覗かせる。
「やっと結ばれたわね」
特別にこやかな顔色ではなかったけれど、正枝の声には豊かな音程があって、刹那的な実感を宿していた。その実感は虚しい充足を美化しただけにとどまらず、形式の形式をも肯定する節理が裏打ちされており、あこがれの女優との契りがおこなわれたという奇跡を不動にした。
まだ屹立したまま女体の中にあった幸吉の憂慮は、季節を先急いだ雪どけ水の冷たさに叱咤されたのか、実際、正枝のあそこに巣くっていた生暖かさは後退し、急に寒々とした感触に変貌していたので、余情を無造作にたなびかせることなく、乾燥しきった冬空へ両手を掲げるようにしてふたたび重なった上半身の、肉感を逸した友愛のきまじめな体温にほだされて、虚構の虚構を受け入れる準備が整った気がした。春は来る。
「さあ、話してください」
「あら、そんなにあわてなくていいじゃない。わたしまだこうしていたいわ」
予期してなかったといえば嘘になる。しかし情欲を膨らませたまま会議するような不謹慎は断ち切らなければならない。それは無理し意地を張ってけじめをつける意味合いであったが、反面、子供であり続けたまま子供の夢ですべてを終わらせ、今西家の真相などにはいっさい関知せず、まさに憧憬が憧憬の名において燦然と輝く体験であったなら、どれほど有頂天になれただろうか、あるいは静子からの恋文で色づいた浮き立つような遍歴を顧みるまなざしも、おぼろな光景に霞んでいたとしたら・・・
「じっとこのままでいて」
そう耳もとにささやかれた幸吉は、自分の都合よさが正枝をまどわしてしまい、永遠の女優を演じさせているのではないかと身震いした。そして間を置かず、
「わかりました」
と言ってしまった。結局、形式に浸潤した肉欲はひたすらあがいてあがいて時間をもて遊び、夜の懐は正枝の胸の谷間へ眠りを欲している。
幸吉の目覚めは荒淫であった。膨らんでしぼまない情欲があきらかな証拠、また冷却装置と思われた正枝の女陰も、好色を退け冷めたわけではなくて、受け身の快感を得たいが為に仕切り直されたのであり、絶頂を望んでいると判断した。がむしゃらなだけの中途半端に途絶えた愛撫では生殺しである。しっかり感じさせなければならない、正枝は女優としてではなく、ひとりの女として快楽を享受したがっているのだ。この独善的な考えにゆるぎはなかった。すでに学習済みであったからだ。もちろん学校では決して教えてくれない課目であった。
接吻は新たな激しさを増し、子供である自覚は無邪気で奔放なまま温存され淫欲の権化に徹した。常にうしろめたい気分で幼少より続けてきた自涜の延長がここにある。精通を覚えなくとも毎回果てていたのは今から思えばとても不思議だったが、更におののいたのは尿道からそれが絶大な快感とともに噴出したときであり、べっとりとした白濁の異質な、血糊がひろがった鮮烈さとも別種の、忌むべき分子を含有したとさえとち狂うような、汚れた神秘にすっかりひるんでしまって、その後しばらく禁欲した一途な小心さがよみがえってくる。
禁欲を唱え、禁欲を破る、密着して離れない接吻は子供の時間の時間であって、銭湯にて大人の女体を間近にしながら劣情のかけらも持ち合わせてなかった無垢が健気で仕方ない、それは自涜を体得したのち至上の映像に転じたからで、視覚で女体をとらえられる機会などせいぜい雑誌で盗み見るくらいだったし、テレビや映画での特に洋画の接吻にはあいさつ程度の清さしか感じなく、しかし成熟した裸体に反応する以前より自涜に耽っていたのだから、つまり生殖の意味すら分からない時分より無精通を習慣としていた身からすれば、意義の正された情交は無邪気さが剥奪された光景であって、そこには様々な邪念が道徳的にゆきかうことになってしまい、うしろめたいとはいえ、おおらかに快感を得ていた幼少時代のようにまっすぐな官能は獲得し難くなってしまった。
ましてや実際の交わりは絵に書いた恥部とは本質的に違う構造、すなわち生物の立体構造を持ち、感情やら感覚に支配されているので、奉仕の精神が要求されてしまう。簡単に言えばただ自分だけ気持ちよくなるというわけにはいかないから、ときには修行のような精進が必要となってくる。なかにはそうした営為に無上の歓びを見出す輩もいるだろうが。
幸吉は屈折した意識を糊塗しなくてもよかったのに、一時の不能に恥じ入ったまま殻へ籠もり、形式の形式を無効にしようと姑息な考えに執着してしまった。その執着をあからさまに悟られるのが疎ましかった。
ただちに体勢を入れ替え正枝に被さったのは、嫌悪と欲情の融合であろう。しかも融合はさきほどの愛撫に比べると子供らしくもあり、逆に大人ぶったところもあったので、これこそ答えではないかと自画自賛した。
すなわち、自分はまだ高校受験をひかえた中学生である、ようは子供と大人の狭間で生きている未熟者にすぎない。
この想念は幸吉を発奮させるに十分な弁明であった。世間に、いや正枝に甘える要因がはっきりと内在していて、本能の模範としての欲情が羽ばたき成長できると踏んだのである。あの不良連中がひけらかしていた筆おろしの相手の年齢や容姿に聞き耳を立て、勢いあまって便所へ駆けこんでいた同級生のうぶは規矩であり、今なお清純な影を足もとに焼きつけてくれる。初体験こそ済ませた幸吉だったが、よくよく思案してみてもこのような情況へ至ってしまい、煩悶やら焦慮やら羞恥などに振りまわされること自体、桃色に染まり抜いた虚脱の悦楽なのだ。
しがらみなどという因縁を我が身に浴びせ、詭弁さえ厭わずようやく下卑た性根に向き合えるであれば、せめて鮮烈な影を真下に見つめていたい。
念入りな前戯を施すつもりで正枝の両脚を大きく開き、まじまじと秘所を眺め、ゆっくり舐めては舌先に力を入れ陰核を真珠に見立てつつくように転がした。こみ上げてくる甘酸っぱい匂いともに切なさを那辺に探れば、子供じみた想いの破片が、すでに未来形であるかのごとく、砕け散った破片が集まりだす。それは流路を知らない魚影に水辺の音を聞く遠隔と同じで、風景のなかへ舞い落ちる時間の堆積である。
次にぱっくり割れた陰唇へ触れながら、穴の奥あたりまで舌を丸めてくまなく吸う。まるで飲み干したヤクルトの底にたまったしずくをいとおしむように。
視界は恥毛でさえぎられているにもかかわらず、委曲を尽くした口淫に没頭して正枝の女の開花を、たとえ狂い咲きであったとしても願ってやまず、もっと言えば、恥毛と陰部とで眼をつぶされることによって得られる花畑に遊ぶありし日の少年、つまり蒙昧と淫欲に手を引かれる自画像を眺め、その背景の色彩を特徴づけている蝶々への変身、架空のストリップ嬢以前から棲息していた蠱惑に出会いたい儚さである。
無常なる時へ埋没した幸吉は大輪を我がものとし、湿りに湿った秘所への復活を高らかに告げた。そんな意思をのみこむよう、にゅるりと先端から根もとまで挿入された油膜の加減に驚く暇もなく、これが一番安定した体位だと言い聞かせた矢先、見事なまでの早撃ちぶりを発揮してしまった。しかし、とくとく脈打つ音頭が伝わったのでまだまだ弾倉には備えがあるとほくそ笑み、そのまま押しひろげた太ももに視線を流して至福とつぶやき、すぐさま相交わった図柄を網膜へはめこんで腰を振り出した。
正枝が大胆に両脚を浮かせてくれたお陰で、互いの恥部の眺めもよく、案配はこの上ないくらい軽やかであった。さながら下半身には重力が働いておらず、摩擦熱を念頭に入れなかったら永久運動がくり返されるであろうなどと、宇宙規模の幻想をまとって、だが摩擦を軽減してあまるほど女陰は蜜にあふれており、そんなぬめり具合であったなら、かりそめの宇宙は変じて茫洋たる花畑となるだろうし、重力から解放され過ぎて困るような蝶々が飛びかうかも知れなかった。
幸吉はこすれるだけこすりきった。正枝が悲鳴に近い声をしぼったので心置きなく発射し果てた。しばらくそのまま陶然とした顔を見合っていたが、さすがに屹立の状態はやわらいだ。ところが尿道に残された精と一緒に縮小していく男根を正枝はきつくしめるので、こそばゆい妙な感触を最後に味わい、とろみにまみれたナメクジはカタツムリを夢想しながら外気へさらされるのだった。深い夜の静かな部屋の。


[508] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた8 名前:コレクター 投稿日:2020年02月12日 (水) 03時11分

「もし、あなたの言葉が僕の耳もとまで届けられる異変におののくのなら、そのくちびるの上下する運動を凝視しつづけて、さながら読唇術に長けたかまえで僕はあなたの声を聞きとっては、異変が異変であることに準じるままですべてを了解し、この宙ぶらりんの患苦から解き放たれるだろうけど、思いがけず、いえ、朦朧とした脳裡へとこだまする淫靡な期待通りに展開された女優にとって大切な器官であるはずの口腔の、歯や舌が用いるわけがない台詞におびやかされるどころか、言葉にし難い嘆美と心地よさの狭間へ踏みとどまるのであれば、きっとそれは素晴らしい作用であり、またとない時間の占有になりうるでしょう」
幸吉は生あたたかい感触を股間の柔らかくいじけた先端に受けながら、そう胸にささやいていた。不安の要素を応分に含んだ感謝の意でもって。
正枝はゆっくり横たわらせた幸吉の局部をほおばり、敏感な復活を切に願っているような眼の輝きは敷布まで浸透していた。両手は腰をなだめるふうに添えられており、口内でうごめく軟体は無知のいましめに過分な反応をしめそうと努めている。首を振ることによって加わるなめらかな圧覚は規則正しく、そして小刻みに波打つ想念へと連結され、完成間近の快感が降臨しようとしていた。あきらかに物体化した男根は悲鳴を上げるべきであったが、完成のその先まで不用意な想いをめぐらせてしまい、声色は虚しく消されて成仏し、反対に魑魅魍魎がさめざめと震えはじめ、感覚の復権を唱えだしたのだった。
それは重い重しへあらがうような不逞と共に、軽やかな羽毛にも似た誠意にそそのかされていて、より強く激しい摩擦を願ってやまないから、もうどうしょうもなく不機嫌な気持ちのよさで支配され、萎えた状態は一向に変化を現そうとしない。しかし快感は脳内に到達しており、決していきり立つだけが目的だと考えたくなかった。
舌先はぎこちなくかり首を回転する。また時折わざとなのか数本の歯が触れ痛覚をあたえる。優越感にまで至らないささくれた征服欲は正枝の行為を凝視したくてたまらない。上体を起さなくともその姿態はまぼろしのように鮮明であると同時に嘘のように煙って見通せない。ぬめりがもたらす尋常ならぬいたたまれなさを払拭するよう焦慮が働くので、増々もってぬめりはむず痒さと同等に成り下がり、色情とは無縁の領域へ追いやられそうになるのだったが、まっ裸同士が寄りそって、しかも小便を垂れる器官の、いつとはなしに覚えた自涜による白濁をのみこんでさえしてくれそうな烈しい羞恥があぶりだす、卑猥という文字の浮上に恍惚を迎えると、正枝の口中にすっぽり収まっている余韻が早くも訪れ、その余韻にひたり続けたい欲求はとことん湿地帯をさまようのだった。視線は安定を保ったまま口淫の絵図は焼きつけられ、幸吉は女陰をまさぐろうと片手をのばした。さまようべきしてさまよう場所、たどり着くことの容易さとはうらはらに意識の先鋭化がまたしても膨張をさまたげてしまう。
中指をつつつと忍ばせてみたけれど正枝は察しているのか、腰をくねらせ嫌がる素振りをしめし、とはいってもその遠慮がなおさら意地らしく思え、思うと不意にまな板の鯉になったような誇大妄想を働かせ大の字に寝転がった。すると正枝はよりきつく吸い付いてきて、指先を根元にあてがい弾むようにしごきはじめた。硬さを知らない軟体生物はびくりとしたが、新たな刺激にも触発されずひたすら生あたたかさの渦中へ居座っていた。
時間は夜の向こう側で音を立てている。この部屋まで及ぶことはないけれど確実に夜風は塵を舞い上がらせ、徘徊する惚け老人や不良らを尻目に狩人の本性をぎらつかせた獣どもの背に降り注ぐ。その毛並みが敏感であればあるほど夜の底は深く、人々の眠りを遠く見守っている。出会うために、月影に照らされた寝室で出会うために。
正枝の奉仕活動がりきむほどに幸吉は無辺の夜空を飛翔していた。
夢見る心持ちとは逆の覚めたまなざしでもって家並みを俯瞰し、各家庭の性生活を点検することに専念していた。あたかも夜ごとの儀式に立ち合うような心境で厳粛な仮面を被り、大いなる性交の建設的な光景にうなずいていたのだが、どこか瑣末でいかがわしい男女のやりとりに思い馳せるとき、必ずしも厳粛な仮面が求められるとは限らず、むしろ獣どもの野性に培われた闇の眼を光らせる交尾に、純乎たる匂いを嗅ぎ取ってしまい、人々の戯れには淫乱と惰性が絡まりあっているようで、その営みは安全牌を配した快楽の享受に見えてきた。けれども戯れこそ至高の有様であることはまぎれもなく、平和な夜の淫らな交わりの匂いが発散する酸味と甘味と苦みに心酔した。
俯瞰から感じとる十把ひとからげの劣情にほだされた視野は、さながら区分けされる箇所のようにある特定の、だが、ここと決まった場面には落ちつかず、それはひとり自室でいるときに衝き上がってくる猛烈な、こらえようにもこらえきれないみじめさと並列する乾燥しきったいたいけな想いに等しく、散らばる花びらの拾い集める女々しさをかみしめ、どこにどう放てばよいのやらさっぱり見当もつかない、あの閉所的な錐もりが適当な女体の幻影を穿つように、混乱と硬化のゆくてには果てしがなかったから、それぞれの媾合は点在の点在であり、近視眼をはぐらかせ、退軍を余儀なくされた一兵卒の心情に即するのだった。
戦火を遠目にした地団駄と恐怖、そして避難区域である自室における手淫に耽りに耽る甘い虚しさ、そんな虚しさを底辺に敷きつめたように眺めうる夜景こそ、徹底した独自の、散乱した言説の綾なす蹉跌である。
この大雑把で偽悪者じみた考えに幸吉は萎縮していたのかも知れない。普遍的な色事の把握など学者でもあるまいし一体なにの足しになるのだろう、肝要なのは今この旅館の一室で繰りひろげられている極めて個人的な実情であって、それ以外の概観なぞ後まわしでいいのだ。概観という言葉を使ったことでこの身に起こっている事態、つまり突然の不能の理由がなんとなくつかみ取れそうになってきた。脳髄でも心臓でもなくて、正枝の口に含まれている幸吉自身へと血流が集まってゆくのが感じられた。
夜空への飛翔は端的でしかもあっけなかったけれども、一種開眼の妙をもたらし、自分を塞き止めているもの、あるいは見苦しくらいの打算をひと事のように、あくまで少しばかり冷静な見方で他者を介して、それからもう一度自ら引き受ける問題として、いかがわしさにいかがわしい美徳を見出して、深く浅く女優との契りを認めたのだった。
股間はまさにむくむくとふくらみ、口淫の全貌に歓喜した。それは正枝にとっても歓びであり、一層奉仕は強化し申し分ないくらい懸命な情が注がれて、骨を埋め込んだくらい固まった男根の実りに得心したのか、
「さあ」
そう言って幸吉の上にまたがり、素早く手をあてがい、一気にずぶずぶと割れ目の奥にくわえこんでしまった。するとあの夕陽に染まった夏の悦楽が瞬時に懐かしくよみがったものの、驚きを隠せなかった幸吉は股間に起こっている、予測していたとはいえこれほどまでに端的な交わりを経験している現実をしっかりつかみとれなかった。
いざ二人だけになってみれば、初めて修学旅行先で邂逅したときの印象とはずいぶん異なり、その後における一連の奇妙な出来事や、一時は狂女だと蔑んでしまったことなどがうず潮のごとく脳内に満ち満ちて、女優である正枝の肉体はこの世のものでないような気がしたけれど、反面ずっぽりはまっている男根の意識の意識は夢の目覚めを獲得して無上の肉感のまっただなかにある、そして頂点を迎えるためだけに下半身の下半身は命の躍動へと突っ走っているのだから、正枝はもはや正枝であって、女優の看板ははがれ落ちているのではないかという念いがもたげる。するとたちまちこの現実に恥じ入る。どこをどうして恥じ入るのかは互いの裸体が密接を極めている絵図にあるのだろう。なんという平面図の冒険、幸吉は観念そのものが女陰へ溶け出していくのを感じた。
ふさふさ揺れる乳とくびれた腹を眼前にして、なんともいやらしい腰の動きでつながった恥部の勢いが増すにつれ、瞥見した正枝の表情に、振り乱された黒髪に、泳ぎに泳いだ目つきに、惚けたような口もとに、ふたたび女優の女優の影を、さらには架空のストリップ嬢の衣装をかいま見ては、秒針の秒針が進むその狭間へ立ち止まった途端、一気に精がほとばしった。


[507] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた7 名前:コレクター 投稿日:2020年02月03日 (月) 23時35分

はだけた胸には来たるべき未来が待っている。
夜目にうとい雛鳥の不馴れの先に目覚めがあり、目覚めは幼い羽毛でくるまれた揺籃が風なき風になびいて遠く、しかし、その遠さは遥か彼方まで去りゆく距離に換算されることないまま、ちょうど円周の無限の閉じた動きと同じで、薄皮の薄皮が線上をつかさどっているすぐこちら側へと見返す視線の力学に準じている。
幸吉を囲繞した暗がりは乳房に影さす努めから逃れたのか、ほとんど覚束ない寝間の様子に先立ってふくよかな胸の白さを浮き上がらせていた。ふすまにかけた正枝の手は無謀な親和と慎重な戯れを伝えて余すところなく裸をさらけ出し、様式が様式であるべきことの堅実さを証明している。もっともほとんど夢うつつの意識が教える手応えは、これから交わる肉体のすべてを予見しているというまやかしに誘われて、雲の上を歩いているような感覚で縛られており、あの忌まわしい鋭敏な震えの出る幕がなかった。
接吻より早く胸の谷間に顔を沈めてしまったのも、魔性に魅入られ麻痺した神経のなせるわざ、そんな幸吉を見越してか、正枝は懐に赤子を抱くような優しさで幸吉の頭をなでつけながらゆっくり布団へ倒れた。女体にのしかかった感触を全身で知ったのはまぎれもない目覚めであった。ただひとつ、それが夢のさなかから送られた信号だとは証明されないことを除いて。
誠実な肉欲を求めた風呂上がりの肌は惜しみない露顕へと歩んでいたのか、まだほどかれていない帯の困惑をよそに、はなから下着が脱がれている大胆さで幸吉を悩殺した。素っ裸よりこんなふうに着くずれた乱れを間のあたりにしたときこそ生じる興奮、それは踏み外した道徳とか柔らかな残酷といった下卑た範疇には収まりのつかない事態であって、由縁は由縁を呼び続けるのだけれど、他愛ないスカートめくりの悪戯にめばえがあったなどと捉えるのも学習された成果でしかなく、実はもっと端的で直感的な無邪気さに起因するのでは、たとえば物欲しい眼で路傍によろめく狂犬が大事にかかえこんで来た陽気な反則、大人の夜に点滅するネオンライトの奥でささやかれる淫猥な言葉、その言葉の意味をのみこめないまま過大評価をあたえてしまう高尚なつまずき、すべての子供たちへ平等に配分されていたはずなのに下世話な風化で霞んでしまった覗き眼鏡。正枝の恥毛は初夏の雑草を想わせた。
こうなれば女体が女体である意義は歴然となって、乳房を舐めまわしながら首筋までたどりついたところで猛烈に女優の全裸を眺めたくなった。しかし欲望を照り返しているだろう相手の表情が気になってしまい、何故なら架空のストリップ嬢は見届けられたにもかかわらず未だのっぺらぼうの様相だったからで、是が非でも金太郎飴の断面に張りつけたくおっかなびっくりしながら、へつらう手段にこそ薄弱な信頼が託されているのだと許諾を求めた。
もし女優にたぶらかされていたとしても思考停止の呪文がある。すでにさきほど湯船のなかで予行演習し沈着の空気を吸い取ったばかりであったが、あきらかに望み望んで、ねじを巻き巻き、春夏秋冬、影と光の綾に刻まれた時間のなかをへばりつくよう今まで過ごしてきたのだ。蔑みや冷徹なまなざしであってはいけない、あくまで一緒の情欲であるかどうか確かめなければならなかった。形式の形式によってなされた同衾のいざないは娼婦を演じる姿態の域から出ておらず、やはり女優の素顔にまじまじと近づいて呼気を嗅ぎ取りたかったのだ。
「違うからわたしなのです。でたらめにはでたらめの言い分があるのよ、お話しのお話しはあなたを骨抜きにしてから」
心許ない抵抗が幸吉の耳にそうした台詞を響かせた。
けれどもはじめて肌を合わせた正枝の目許には一種の慈愛のような輝きのうっすらと涙でにじんでいる様子がうかがえた。感傷を排し股間の怒張だけに魂をゆだねた空疎な悦楽のゆくえが新たに定まった。両目を閉じくちびるを重ねる。その感触はとてもなめらかで、吸えば吸うほどに樹液のような成分が幸吉の舌先まで浸透してくる。ときおり前歯がぶつかったけれど、ぎこちなさのはぐくむ小躍りしたうれしさへと変換され、右手を肩にまわし反対の手は帯をほどくため乳房から脇腹へ流下していった。
生起した時間の前後もまた揺籃のように揺れている。幸吉の気おくれを察した正枝は高鳴る鼓動が闇のしじまに伝播しないよう、密やかな形式であるよう鼓や鐘の音は除かれ、微かな吐息だけをかりそめの閨房に持ち入れた。ためらいがちにも見える仕草がいかに華々しい場面を生み出しているのか悟られまいとして。
艶冶な声色も抑えられ代わりに捧げもののごとく胸もとがあらわになった。部屋は窓のない手狭な寝室であることを心得ているかのようで、予想だにした二組の布団と枕を神妙に映し出すのは、ほのかな電気スタンドが灯るのみ、夜の夜であるいわれを不如意に迎えていた蛍光灯の明るさとはまるで違う雰囲気がたたえられている。しかし前もってそんな気配を作っておいたわけではないだろう、ただ天井の照明をなくしているだけだから。それこそ太陽を直視したときの痛覚に等しく、秘事には周到な庇が求められる。しかるに女優は女優として舞台装置から選ばれているのであり、ことさら意匠を凝らさずとも夜は暗幕の用意に抜かりない。
すでに緩んでいたのか手間なく帯の結びは解かれた。爪先まで延びた裸身が放つ白さを眺めながら幸吉は、自分が暗幕を持ち込んだのだとうぬぼれを感じ、さながら遊覧船から物見遊山しているような心持ちを得たのだったが、なにかしら由々しい、けれども途方なく広々とした虚脱の掛け合わさった武者震いにみまわれ、その肉体をやみくもにむさぼろうとした。
乳房からへその下までねずみのように這いまわってはくちびるを奪い、太ももの魅惑を堪能しようと躍起になり、よだれでまみれた肌に頬ずりしながら秘所へとせまった。由紀子から伝授された技巧が活かされているのかどうか、もはや考える余地のないまま指の先っぽから太ももの付根まで愛撫しつくすだけで、華奢な骨格ではあるけれど成熟した肉づきはなめらかに程よい弾力を保っていて、なにかとてつもないありがたみが押し寄せてくるのだった。
薄暗い部屋に充満する神々しいまでの重圧、閉じた円周から導きだされる幾何学と野放図な演出が色めく瞬間の連続、深く深まった晩秋の宵を拒むような初夏の香り、正枝の女陰に舌で触れる。触れて触れて舐めて舐めて味わう唾液と入り交じった愛液の匂い。とろみに潤滑を認めさすらうことの恍惚と、うしろめたい寂寞が同時に去来する果てのない道程。
幸吉はもれ出した嗚咽に女人であるべき喜悦を聞き取り、すぐさま己の慢心を重ねた。天のうつろいに憂懼するよりも、大地へ返る宿命を負った肉体の素描が好ましく思え、正枝の顔色をうかがう小心からの脱皮がはかられた。慢心で塗り込められた暗がりを照らす勢いは軽躁の加減など忘れていたが、いわゆる感じどころを実践で知った感覚は見事によみがえって、くねり始めた女体のもの言わぬ変化に照応し、濡れそぼった割れ目を指先でなぞりながら一方では脇のくぼみ辺りに丹念な刺激をあたえてみたところ、電流に弾けたような衝撃が伝わってきた。そして半開きになっているとあえて見遣った口もとはまさにその通りで、これこそ女優の素顔の素顔に違いない、演技の演技が裏返しになったとほくそ笑み、話しの話しなんてどこから出てくるのやら、この口からかと、なかば攻撃的なきつい接吻をあたえれば、ぬるま湯でふやけた茸のような舌先がちょろりちょろりとぬめっては出戻りを繰り返し、長い長いくちづけが続いた。昂った幸吉はそろそろ交接に差し掛かる時機だろうと正枝の股ぐらをかき分け、半身を起した。そのとき女体にすっかり意気を上げていた自身のまったく変わらぬ下半身の所在に愕然となった。
なんと幸吉のいちもつは勢いづいているどころか、まるで萎びて折れたきゅうりのように生彩を欠いていて使いものにならない。どうしてこんな肝心なことに気づかなかったのだろう、あまりの間違いにとまどうばかりでこれまでの官能の渦は、不吉なめまいに取って代わった。脳髄が一途な矢を放ってばかりいたせいなのか、そう脳髄が自問自答する。いや、思考停止だとため息をつきかけたが難問は、めくるめく快感に溺れていたと思われる正枝の反応にあった。形式の形式が頓挫してしまったらいったいどうなるのだろう。怖れおののき正視にたえない、そう心底から萎縮していると、
「さあ、今度はわたしの番ね」
女優の台詞らしい励ましが添えられた。だがその励ましは幸吉の胸の奥まで届きはせず、理由はとても明快で一時的な不能にしろ、精神があれほど昂っていたのに役立たずに落ち入ったのは他でもない、話しの話しが気になって気になって仕方がなく神経回路に支障をきたしたからである。
「どうしたのそんな覚めた顔して、ねえ、大丈夫」
うっすら笑みを残し問いかける正枝のなぐさめに答える言葉が見つからない。
「もどかしいのでしょう、ねえ、そうなのでしょう。わたしにはわかっているわ。あなたはわたしを信じていないのね。でもそれは当然、形式の形式には根拠なんてないばかりか、二転三転する事情もいい加減だし、あなたをこうして不安にさせた張本人はわたしであって、そのわたしは女優であなたのあこがれ、しかも相当な訳ありの安っぽい推理小説に出てくるような影を背負っている。そうですわね、由紀子さんは殺されたかも知れませんから。
そして最後のよりどころだったあなたの両親までわたしの父にかかわっているとなったら、もはや自堕落すら面倒な作業ですわね。ひとときの快楽に身をまかせるにしてもわざわざ剣吞な場所を選ばなくたってかまわないですもの。でもあなたはわたしを望んだ。化かされるのを楽しむ子供がおどろおどろしい見世物小屋へ行くようなの気持ちでね。で、覚悟のほどはあったのでしょうけど、やはり釈然としないすべてを引きずっていた。すべてが釈然としないなんて逆にさっぱりしていいと考えたりしませんでした。あっ、そうでもないようですね、では少しだけ真実の真実をお聞かせしますわ。この旅館でわたしとあなたが契りを結ぶことをあなたの両親は認めているどころか、なにも知りません。本当ですよ、でもわたしの父とかかわりがあったのは事実、ただしあなたが生まれるまえのことよ。
わたしはあなたを引きつけ逃さないために嘘をついたのです。ああでも言わなければきっと咄嗟の判断であなたは意識を留め置き、わたしを見捨てて保身の道へと舞い戻ってしまう、そうなったらおしまいでしょう」
なるほど、そうした細かい仕掛けがあったのかと幸吉はひと事みたいにうなずいたものの、さして驚きはしなかった。
「何がおしまいなのですか」
「ふりだしがおしまいってことですわ。せっかくのふりだしが。もうこれくらいで、お話はあとで・・・さあ、契りを続行させましょうよ」
「そうですね」
ほとんどうわごとのように幸吉は了解した。


[506] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた6 名前:コレクター 投稿日:2020年01月21日 (火) 03時13分

「違うからわたしなのです。でもまったく違うというわけではありませんの、婚姻がでたらめといわれるのはなんだか辛いわ。とにかく、すべてお話しするつもりですので、どうぞわたしを抱いてください」
細く振りしぼられた正枝のもの言いに幸吉の胸は痛みを感じ、それが夢想の地をめぐりにめぐり、ようやく逢着した下半身のうずきであることの証左へつながっていると得心した。
すでに獲得されていた揺るぎない肉欲は芳烈であって、身内もが巻き込まれているという驚愕の事実を聞くに及んでも、満蔵の虚偽に開眼したとしても、みだりがましい高揚を制するはずの理性はその機能を麻痺させており、ふてぶてしく居直った自堕落な感覚は袖口へ染みついた油脂のごとくうさん臭さでまみれ、汚穢を侵蝕とみなす投げやりな苦渋など寄せつけず、その指先にどす黒い垢を見届けるどころか、甘い粘液の透明な膜のようなものに眼光を反射させていた。そして得体の知れない巧緻が形づくる半影にうずくまった裸身こそ、架空のストリップ嬢だと思いなし、仕掛けのなかの仕掛けを手探りで確かめ、その仕様書きへ塗りこまれた文字が懸河の勢いで遠のいてゆくとき、幸吉の指の腹にねばりついた皮膜はさながら水掻きのように醜悪で異質な、けれども細流から見送る光景の優雅な想いを託された尾ひれのほの暗く霞んだ感傷は淡味で、魚影を見つめるまなざしにふと気づかされる夢の静謐へ眠った欲望はどこまでも沈んでいた。
幸吉は無言で軽くうなずき階下にあると教えられた浴場へ向かった。夢なら今すぐここで醒めるべきだ。気まぐれめいた後悔が小さな痰のように吐き出されはしたものの、振り返りたくても振り返れない反転するひりついた期待が優しく片息をなだめる。
こじんまりとした脱衣場に先客の気配はなく案の定、薄い朝もやのような湯気を浮かべた浴槽にはちりめん皺を想わせる紋様がうっすらとたゆたい、ひかえめな裸像を描こうとでもいうのだろうか、まどろみの絵筆の走りゆく意想に電球のぽおっとした灯しが呼応している。幸吉はいくらか神妙な顔つきで深々と湯にからだを浸らせ、思考停止と呪文のごとく言い放った。が、蛇口から一滴一滴としたたり落ちる音なき音をぼんやり眺めているうちに、まるで水琴窟の簡素な響きを耳にしているような心持ちになった。ひからびた弾力を帯びながらも鋭敏な水気にめぐまれた単調な跳ね具合は静穏を守ってくれる、そう案ずることで生じた虚脱が全身の毛穴を通じてぬくもりをゆきわたらせ、緊迫した間合いもいびつな事情も湯気と一緒に霧散してしまう、ことさら壁際の小窓を開けるまでもない、ひっそり夜の更けゆく時刻の訪れが好ましく、閉じたまぶたの裏には水墨画のような濃淡が典雅に収まり、険阻な色彩を退かせるのだった。
いくぶん急かされた気持ちを負っていたけれど、こうして束の間のどかさを感じていると確かに尖った意識はやわらぎ、旅情とまでは言わないが一種普遍の華やいだ臨場感のささやきに包まれて、音なき音は水琴窟の古拙な幻聴をもたらしてくれ、次第に額からにじみ出す汗の頬つたうことに微笑ましさの加減が募っていくようで、下半身に執着した欺瞞のゆくえなど追うことは忘れかけていた。醒めるべき悪夢に振りまわされるより、しばしの休息に現実を見出す。眼球運動にも小憩が必要であった。
正枝は冗談っぽく長湯をいましめていたけれど、緊張の糸をほどかれ独りになれば疑念や憶測の巻き返しに悩まされるのは分かりきったことで、とてもじゃないけど安穏として湯船に浸かってはおれず、発汗以前にあれこれ些事がこぼれだしては邪推の輪郭をこの浴室のタイルの目地に合わせてしまうだろう。また、先んじていると確信した淫情だって放埒の程度を見極めるはずもなく、悶々とした思惑に苛まれるのが関の山である。もとより長居は無用、清潔な交わりという大義名分を念頭に置き無心であることがもっとも望ましい。誰か他のひとが入って来たならすぐさま湯を上がるつもりだった。
ともすれば考えたくなくとも考えてしまうのは、じんわり心身のこわばりを解いてくれるこの覚醒のなかの眠りの眠りで、時計の秒針の先の先を取り払った間延びに立ち迷うまでもない、鼻歌のひとつも口ずさむならそれは律義なやまびこと一緒、きっと実感の実感を裸身へ呼び戻して、来るべき場景を切り開き、こうしてもたげている男根の無邪気な様へ、もっともっと有意義な無邪気さをさずけて爽快に、そして温められより堅くなって晴れ渡った突起物は入浴前のうずきとは別のうずきで、高らかな生体反応を唱えているという明徴に他ならなかった。それだけ認めれば十分であった。尚の上気は幸吉の両手に水掻きを植えつけ、快感の快感を得ることだけに専心してしまい、ただちに暗き妄念の奔流へのみこまれると覚ったからである。
石鹸をしっかりつかみよく泡立てて頭から股間までごしごし洗い、上がり湯をじゃぶりと浴びたのち、やや慌てた物腰で脱衣場の扇風機をまわした。浴室の小窓に手をかけるのが億劫だったわけでない、夜の浄福をこよなく愛して迷いに迷いさまよった、夢の流路のそのまた夢の果てをゆくこの瞬間が湯気とともに外へ逃げてしまいそうで心細く、あれほど呪った閉じた世界のもどかしさが最果てを吟じているようで仕方なく、うらはらに緩んだ頬のたくらみに阻止されてしまったから、外気に触れるのは穢れであると蒙昧な判断が下された。それはめぐる季節の冬空を仰ぎ見た際に覚えるだろう穏やかな陽射しと、首もとをかすめてゆく寒風の純潔な肌触りに促される引き締まった心根の先取りだった。無欲無心をほんの数瞬だけ感じては虚構のなかの虚構へ立ち返り、のぼせ上がった頭を冷たくする。気持ちに同調したのか、汗は吸い取られるように早々と引いて晩秋の夜風がまとわりつき、しかし全身の火照りはどこで芯が灯っているのかを定かにしないまま、ほどよく温もった皮膚は冷めることをとどめているようで、それは正枝の裸体を想った詩趣だと胸に言い聞かせ、肌合わせと淫行を峻別したく願っている醇乎な態度を懐炉のごとく保ったのであった。
「早かったわね。あっ、ごめんなさい、これ渡さなくちゃいけなかったのに」
湯気をたなびかせているとうぬぼれていた幸吉は寝間着か浴衣か判断のつかない、それでも時節に似つかわしい風合いの宿の着物を受け取りながら、すでに正枝もセーターとスカートを脱ぎ泊まり仕度へ整えてるのがまぶしくて仕方なく、蛍光灯の明かりにその罪を転嫁しようとした。ただ煌々として隅々まで照らし続け意地らしさを裏づける清廉に萎縮したのもあったが、かつて由紀子とはじめて肉体を交えたとき、自分の下着の汚れを気にして恥じ入った記憶がありあり持ち上がり、着衣の折に確かめる余裕すらなくしていた不手際に落胆したからであって、しかもその落胆は女々しい道理からちっとも外れようとしない不甲斐なさで凝り固まっていたので、男子としての本懐さえ怪しくなってしまい、澄みきった合わせ鏡を覗いているような罰の悪さが強められた。
もし鳶色の羽織が用意されてなかったら幸吉の羞恥は消え入ることなく、これから迎える局面に対峙できたかどうか、味噌汁の鈍い色合いが並んだ白米の艶やかさをごくありきたりに抑制しているように、重ね着しただけの身なりにも女色や淫靡といった見映えを抑える趣意がうかがえ、部屋全体の照度が下がり落ちつきを取り戻した。ところが湯上がりの意向は羽織で隠しおおせるものではなさそうで、入浴のさなかを支配した陽気な男根の男根である由縁に従っただけである。つまり正枝の動静を気づかうのみの気弱でいる限り、謎解き的な問答はせっかくの意気を消沈させるだけで契りに支障をきたすのではないか、ことの次第によれば途方もない事態を招いてしまう、結局どう転んでも幸吉の心境は穂波のようにざわついていた。すると、なにもかものみこんで、いや、のみこむほどの事態でも情況でもないから、冷静ないかがわしさに裏打ちされた取り組みだという際どさをそらんじる調子で、
「ねえ幸吉さん、お話はかなり込み入っているの、だから先に奥の部屋へいきましょう」
女優の面持ちでしおらしく、語尾には明快な色香を含ませて誘いをかけてきた。どれくらい幸吉は胸をなでおろしたかわからない。そしてどれだけ鼓動を早めたことか。
「僕のからだはまだゆだっていますよ」
なんとも不粋な言い方しか出来なかったのが自分でもおかしかった。
「それはうれしいわ。火鉢の代わりね」
正枝はにっこり笑みを浮かべ、さっと立ち上がって未踏の間のふすまを開けた。


[505] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた5 名前:コレクター 投稿日:2020年01月14日 (火) 02時49分

それから二度三度と、いましめのごとく眼球に唱えた気丈であるべき姿勢は揺れて、もろく傾斜する薄い衝立ての身軽さで境界を越え、正枝の顔色をうかがってしまった。もとより幸吉の目線に確乎とした迫力はなく、その瞥見に含まれ閉ざされた光の頼りなさがそうであるように、一線をまたいで禁句を自若とする言い寄りまで近づける器量など持ち得ず、身震いをともなう受諾への劣情にも到底およんでいなかった。
閉じた窓から吹き入るすきま風がわずかだけカーテンのしわをなぞるよう、正枝の面に毛細血管の浅い流れを見つける儚い幻視だけが畳の目に吸い込まれいく。
食膳へかがんだ無表情の様相から期待するものは等閑にされており、内心の表沙汰にはできない緊迫は決して寛容でなく、むしろ粛然とした空間と時間の真意が告げられ、幸吉の甘い生彩は褪色を余儀なくされた。というのも、くだんの映画では向き合った夫婦の交わす食餌への言及がとても印象的だったからで、それは田舎侍の婿である夫のほとんど戯言にしか聞こえない、が、おそらく率直な意見を口にした「これはなんという煮物」だの「見た目より噛みごたえがある」だの「変わった風味」だのという問いかけに対し、その妻は見くびりや煩わしさなど目つきにも口調にもあらわさず、委細を述べるごとく懇切な声音が穏やかな笑みとともにひろがる場面だったので、茶碗蒸しを手にふともらした正枝のひとことによって、こうした情況にゆくりなく異変がもたらされるのではないか、つまり何気ない素振りでありながら、あの場面へ重なり合うような展開が、異変という逆境をかいくぐるようにして、霊妙な演技でもって繰り返されるのではないか、そして形式に収斂されよう一夜はあらかじめ傷つけられた時間を修復しながら、パンドラの箱が開かれるとすれば。
幸吉は迫りつつある契りの、情交の、女体への接触を高貴なものとは見なさず、そんな観念の介在する間合いなどあり得ない、これからひたすらにまみれる裸身への耽溺こそ、もっとも望ましき空間の混乱に違いない、そうした一縷の、けれども夜の底に張りついた漆黒の不透明さがすべての漂泊を停止するだろうという信憑にとらわれていた。
だからこそ、形式の序説は不合理な一幕によってくさびを打たれ、寡言の目的は徐々に降り始めるであろう尚早の粉雪の静謐と異形を謳い上げ、映像の虚構は空疎な現実感で満たされた。夢のとばりが未知なる触手、軟体生物の声なき動きの緩慢なすがたを持って我が身を取り巻くとき、廃棄処分からまぬがれ残された悲しみは拭いようのない慚愧を重しにして忘却の海へと沈みゆく。序説の序説である空漠とした音の響きは微量の酸素に託され、本来の音像の音像へ文字を被せ、映像の映像は台詞を吐き出し、欲望とはなんら無関係でありそうな装飾のなかに純朴でせつない言葉が乱れ散った記憶を引き戻そうと勤めるのだが、それはもはや観念ではない、肉感を堪能するために間断なく映し出される向後の実情である。
幸吉はいわば、非道な慈善家を夢見た漂泊者だった。そしておのれの怯懦を認める至ってようやく眼球運動の悲しみと光輝を知った。やがて夜が夜であるために光線は束ごと隠し去られ、不安と驚きが屋根の上で同義語となって不可分な素性へ還元され、星雲の映発も小雨の点綴も自然の理を脱し、一種抽象的な紋様へ見出される無機質な情趣だけに些細な悲しみを淀ませ、街路を渡る冷ややかな風の気配はまるで薄皮一枚のような戸板を叩く合図にも聞こえてくるから、指折り勘定する無造作な仕草を意識したころ出し抜けに、
「栗ごはんの匂いって深まる秋を感じさせるわ。そう思わない」
と、意識が意識であることの砦の出入り口へ、容赦なく立ちふさがるような呉乃志乙梨のぞんざいな台詞が踊り出た。
それは幸吉の脳髄をあぶり出す案配で予定調和の義理には抵触してないという、なんとも素晴らしい実情にかなっており子憎たらしくて仕方なかったけれど、おあずけを食った肉欲の望見が必ずしもこれまで散々味わった裏切りに直通しているとは思えず、むろん自分自身を裏切り、裏切りを建前とした背馳にも、背馳に信条を押し着せた不実にも、肉欲を肉欲たらしめる由縁とやらがいっそう大きく立ちはだかっていたし、否が応でも今から耳にしなければならない秘匿された真相との拮抗は、十全な大儀を孕んで情けなど知らず、知らぬが仏のことわざをこだまのごとく反響させては、逆説の方便がいかに有効であるかを滔々と語られている心持ちであった。荒淫の罠へ進んで堕ちゆくすべも封じられ、乱脈をたどる足並みにつぼみ持つ芳烈なふくらみを、間違ってもあだ花と呼んではいけなかった。
無言劇であることに徹しきれない、いや徹する必要なんかいらない、恐ろしく整理整頓され無駄の省かれた公然の密会、これが枠組みの形式を形式の枠組みとして夢みた序説の終わりを問う、官能のはじまりであった。
「ええ、そうですね。ひさしぶりに食べました。うまかったです」
浅瀬にくるぶしが洗われた途端、どっぷりと深海をさまよい、しかも水圧や呼吸の意義にはまったく関知しない夢想する機能がまだ居据わって、観念的なしがらみを放棄している。屈折とは無縁だと誇る宵闇にたいそれた考えはない、ただ、捻出されようとする観念が薄まるだけであった。
「ところであなたも湯浴みなさったらどう。わたしはさっき済ませのよ。取り急ぐなら別にかまわないけど、どうせなら、ねえ」
その声遣いはいたってなごやかであり、男女の密会にふさわしい恥じらいを忍ばせ、清潔な情欲のあり方をさり気なく、しかし実務としての側面をないがしろすることは細やかさに欠けるとでも訴えるよう、眉根を少しだけ寄せたのだった。
幸吉は乾ききってない黒髪に光るしずくの艶めいた見目を愛でていたから、うっかりしていたわけでなくて、ちょっとしたはにかみに邪魔され「では僕も湯を浴びてきます」そう堂々と言い出す機宜がそら恐ろしく、何よりずうずうしいと思われるのを嫌悪していた。ところが食後早々の入浴をうながす正枝の態度に威圧を感じたかといえば、複雑な反応をわき起こす始末で、先急ぐ夜の深みに溺れたく欲する一方には、同じ入浴でもまず掛かり湯で足下を、それは浅瀬に遊ぶ童心の無垢を曲がりなりにも演じてみたいと願う危うさの心得であり、正枝が忍ばせた羞恥と同等の立ち居を我が身へ引き寄せ、かりそめの情愛に新鮮な息吹きと発汗のゆくえを見送りたいという、単なる交わりにまみれる野心をどこかで希釈するような胸の動きに従ったのだった。
正枝のところどころ濡れた黒髪と急き立てる言葉がなければ、幸吉の野心は実直な欲望へと駆けていただろう。結局、幸吉の胸には正枝に操られた影が宿ってしまい、いや、正枝本人だけに限らず、現況を是認するあらゆる要因は今西家の名分を借りるだけにとどまらず、架空のストリップ嬢や金太郎飴の幽霊を引き連れて夜行の宴をくりひろげ、そこに風見由紀子の豊満な面影と、桜田静子の禁欲的な微笑が入り組んでもはや収拾つかなかった。
「長湯しない方がいいわよ、だって幸吉さん、きっとからだがふやけるまで考え抜いてしまいそうですもの。あら、ごめんなさい、余計なお世話だったかしら」
反論の余地などあろうはずはなく、幸吉は壊れた人形のように首を上下させ、正枝の眼を奥に映りこんでいるだろう自分の顔を朦朧と探っていた。峻別つかない同時発生する微生物の蠢動にこそ太古の魂が眠っており、揺り起こされることさえ疎まれる化身が集うとされる伝承のなかの伝承、そんな神代の徴を発見した風狂の碩学にならい魔性に見入られてしまう気高き倒錯、あるいは凡俗を潔しとする篤志家の生涯かけて積み立てる社会への痙攣的な美徳、それらの裡に中庸の意識の芽生えようはずはないのだが、幸吉は平面図の欲深さを直感していて、何度も何度も観念という言葉を書いては消し、消しては書き足していった。以心伝心、正枝は焦点のはっきりしていない幸吉の眼球運動を奨励する意気込みでこう話した。
「これだけは先に伝えておきたいの。父はわたしを精神病院送りにしたようですね。それは真っ赤な嘘です。淫乱と純愛はまったく別物です。わたしはある人物から激しい愛を打ち明けられましたのよ。とても難しい愛でした。幸吉さん、本当に申しわけありません。形式の形式だけがわたしとあなたを結ぶ紐帯であって、その愛と今宵の契りは無縁なのです。ですからいらぬ詮索はやめにして・・・といってもおそらくあなたは夢の夢の散華にだって酔い痴れてしまうのですもの、詮索はあとまわしにと言い直しておきます」
さすがに幸吉は興奮を抑えられず、こう問い正した。
「では婚姻話しはでたらめ、まさに形式の形式であなたと僕は肉体を重ねるだけなのですね。満蔵氏がなにを画策しているのやら増々こんがらがってきてさっぱり見当もつきませんが」
「いずれ真相がおおやけになるでしょう。それをまず知ってもらいたくてあなたを誘惑したと見なされても仕方ありませんわね。だって、父のほとんど尋常ではない思惑に対抗できるのは幸吉さん、あなたの他にはいないのです。間弓さんがとった方法とわたしの今はよく似てますが、残念ながら間弓さんは最終段階まで詰め寄ることにためらいがあったようだわ。あの方は父親思いの優しい女性ですから。でもわたしは違います」
幸吉は淡く淡くこがれた女優に狂女という呼称を被せてしまった早計が心苦しかった。同時に、狂恋と呼び習わしていた空洞への叫びは途絶えて、そのこだまがひどく懐かしく感じられた。


[504] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた4 名前:コレクター 投稿日:2020年01月08日 (水) 04時00分

正枝の微笑の裏に希釈された厳めしさを見つけようとした幸吉は、熱に浮かされ続ける暗愚な影法師へ寄りかかったまま、自らの漁色が不可分なく均一な理性に入り交じっているという口実を疑ってはおらず、また夢遊病者が踏み入る禁断の危うさへ誘うばかりで、ちっとも後戻りなど諭したりしない呼吸の乱れも意識することのないまま、観念的な正念場に包みこまれている感覚を残存させていた。
吃驚のさなかにあって虚飾の空間へ詰め寄ろうとしている電磁波の強度をはかり知るのが難しく、また厄介でもあったので、
「失礼します。御夕食を運ばせてもらいます」
というふすま越しの宿の声にため息をついた。
先延ばしされようが一夜の堀はとても深くて、湛えられた水かさに変わりなく、暁闇を待つ流れがいかほどにさしさわりがあるのやらかいもく見当もつかなかったけれど、暗き深淵より汀を覚えるに似た安堵、あるいは月影も隠れた星降る気配を曇らせた夜道に眺められる常夜灯のゆらめきのような、束の間の灯火が底しれない不安へと達する電磁波の功名を感じ落ちついた。
静かにふすまは開かれ、膳を手にした仲居らしき女のうつむき加減の横顔からどこか幽かな親しみが伝わってくる。多分この所作は演技とも因習とも関わりない、ただ単に勤めることの勤めであって宿泊客への礼儀は漂白されることなく漂白され、御辞儀と一緒にもたらされる微小な目配りはいたって健全な心意気に包まれているのだろう。そして白い割烹着にかき消された女体のゆくえを曖昧な輪郭のなかへ描き出そうとしている不謹慎な、けれども静まりかえった駅舎の物音そのものを、夜気へ乗じて二階部屋まで送りあげる動悸に耳を貸すのであれば、蠱惑の原型と対比せざるを得ない仲居の見目は、清潔な身のこなしと顔ばせを勝ち取っており、無駄な声音ひとつもらしたりせず、
「ちゃぶ台をかたづけますね」
そう言ったきり、ふたつの膳を手際よく対面させると、大仰でもつつましやかでもない黙礼を済ませ下がってしまったので、別に妙な気をまわさなくともこの場における内面のあらかたが見越されているようで増々、羞恥をふくらませたのだったが、自分自身決して持ち合わせないであろう質実な動作と、あっさりした性向に反比例するごとく、邪心に苛まれ唐突に芽生える色情を抑えきれないのも無理はなかった。
が、手慣れた所作に敗北したとまでには考え及ばず、あくまで無音の美徳に感心しようと専念した、つまり今宵ひとときを旅館で、子供ながら夢想を重ねあぐねた駅前旅館において一種の宿望を体現してしまい、おののいている絶対の孤影をこうした恰好で見届けている以上、自己卑下へと堕する必要はことさらなく、むしろ常にふりだしに巻き戻されているふうなあの円環を想起するなら、ここにはやはり半信半疑に傾く虚栄が生臭く息づいているだろうし、同時に観念的な視線を通した情欲はおおいにあらぶれるべきであって、あの仲居の背格好へ由紀子の裸身を当てはめてみるのも一興であった。それは透き通った情念がさらに濾過され、情念の情念であるいわれに到達しているのではないかという、徒爾に後押しされた汚濁の弁疏であった。
相当に大人びた情況をここで今こうして感じとっているのだ、まさに逢い引きにふさわしい夜の調べ、流行歌にありそうな男女の駆け引き、互いの境遇をも認めた素振りの冷たく哀しい目配せ、煌々と明るませていたはずの吊り下げ灯の木目に遮られた部屋の片隅、ふたり目の女体に密接しようとして、過去の女しか思い出せないやるせなさ。そんな自尊をたやすく恥じらいにまかせ吐き出せば、殊勝な顔つきで別に気落ちなどしなくていいじゃないか、どうせ落ちるなら奈落の底から舞台を見上げるのだ。幸吉に許された妄念はあきらかに女豹の獣性をなぞって余すところなく、おぼろに黄色く染まろうとしている月を仰いだ夜空へ向けられた。
しかし自分で窓を開け放つ勇気はなく、見渡すまでもないこじんまりとした一室に誂えられた床の間を横目で見遣っては、いくらかほの暗さに守られている空気を感じ、その暗さがさきほどから気になり、いや、胸もとから下半身に降りて仕方のない払いようのない思惑へと直結しているのがたまらなくて、一瞥しただけではっきり確認していなかったが、そこはしっかりと閉じられた寝間であって、おそらく布団が並べて敷かれているのだろう、夕食のあとどういった真相を述べられるのか、ほぼ夢想に酔った脳髄でしか受け留めれないと開き直っていたけれど、この部屋とは異なるまだ蛍光灯のいっさい届いていない契りのための間の闇に意識はほとんど奪われていた。
出来ることなら窓を大きく開けひろげ、中空からこちらを睨んでいる月を睨み返して、さながら狼男のような咆哮とともにありとあらゆる記憶を夜空の彼方へ巻き散らかしてしまいたかった。
煩悶の筋合いなどいかに些細で卑近であることか、ただ今夜の幸吉にとって煩悶ほど生き生きとした精神状態がこんなに美しく感じることはなかった。結局、分裂したかに思えただけの平行線は極々ありきたりで、それでもかつてない仲居の登場によって安っぽい観念の復興となりかけたのだったが、役回りに忠実なありさまを見知っただけに終わってしまい、いっさいの予断は封じられ、ただただひたすらに嵐の前の静けさに取って代わられた。
「では、いただきましょうか」
一点を凝視しているような心延えであったが、幸吉の眼は駅前旅館という夜の牢獄を這いずりまわっていた。その正枝のあっけらかんとした一言で煩悶の盛り火は鎮められ、またぞろ先送りに、尊くも歯がゆい流刑に処された。腑に落ちなかったがひとりよがりの心理劇に辟易していたのは確かであり、ようやくこれで密室劇の様相を帯びてきたではないか、そう思い直すと急転する気分にほだされてしまい、より生き生きとした夕餉の場面を演じきる構えが出来上がった。
なによりちゃぶ台をどけて武家のごとく対座のかたちで膳を食す構図にいにしえの心意気を感じる。すべてが仕掛けられていたとしても本望であった。まだ呉乃志乙梨という名すら覚束なかった頃、それでものちにはその光景に準じるようにして銀幕へ映し出された下女役の正枝、画面の両端を占めるのは著名な俳優だったが、さきほどの仲居に似た挙動を可憐に演じていたことを幸吉はありありと思い返して、胸が熱くなった。今ここに展開されているのはまぎれもない、あの時代劇の一場面の模写であり、そうなると台詞にもなにかしら同調を求められるのだろうか。さらに幸吉は期待した。ところが正枝は目線を膳からそらさず黙々と箸を使うばかりで、話しかけてくる素振りは見せない。それも役作り武家の食事に会話は無用と寡黙な姿勢を保っているようにも思える。
仕方なく幸吉も相手にならって膳の上へ乗せられた献立をしみじみ吟味しながら、こうした恰好で食した覚えがわずかによみがえってきたのだったが、それは小学校に入ってどれくらいだったか記憶はぼやけており、ただ列車で南下した温泉町であることはその地名を覚えていたので、おおよその光景は浮かんでくるのだけれど、夢の情景に等しくところどころ色濃く明瞭であって収拾つかず、あちこちに飛び散った空間は紙切れより薄く破れてばかり、繕うにも張り合わせるにもパズルみたいな要領は適さず、あらかじめ切り抜かれた輪郭を取り押さえられない。幸吉はいつもの癖を放擲して記憶の所在から立ち返り、それぞれの料理に眼をやった。端から順番というより眼についたものを確認しつつ箸をつける。えびの天ぷら、きゅうりとなにかをあえた酢の物、茶碗蒸し、いかとまぐろの刺身、椎茸のかけらを浮かべた吸い物、栗ごはん、青菜の漬け物、鶏のからあげ・・・あらゆる意識は脳裡に占拠され奮起をうながすため時折、股間にだけ血流がめぐってくると断じていたので、よもや多少なりとも空腹を感じているとは信じがたく、味覚だって有り得ないとないがしろにしていたのだが、どうやら成りゆきはいささか違っているようで緩やかな高揚へと導かれた。
茶碗蒸しはとてもやわらかくプリンみたいに卵の風味を香らせ、それでいて出汁の旨みに競合しており、しゃもじでほじれば中底はかなり熱々であわてず食べたほうがいいと思いつつも、さながら埋もれた財宝を掘り当てる案配で、かまぼこ、銀杏の実、えび、鶏肉などが現れ、おおいに食感に変化をもたらすのでついついせわしなくなってしまい、本来ならしみじみ味わっているべきだと抑制された風情らしき方面へ運ばれるところだったが、針射す邪念はここでも散漫なひらめきをよこしまに向き直らせ、そっと正枝の容子をうかがう始末、いかにも気づかれないよう物怖じした目つきは我ながら情けなく、これが年長の女性へと延びる視線かと恥じ入りながらも、すでに甘え寄りかかった意向はちょうど蛍光灯の明るみのように直截だったから、すぐさま別の意想を瞬かせると、たわいなくあり得ない光景へ滑りこませ、映画の撮影現場を稚拙に妄想するなら、呉乃志乙梨はじめこの部屋全体が時代がかった和装に整い、質朴だが深甚な燭台の灯りのもと、現在では光線の由来をわざわざ天井に仰ぐ須要のないことと均しく、畳の座位より遍照を求める灯火にもまた恬淡とした趣きがしみついているだけで、ことさら粉黛を際立たせるまでもなく、だが、撮影現場の足場やら骨組みは画面に写しだされないだけであって、演じられるひとの呼吸に照応するよう沈みこむ素描こそかりそめの技巧、そこに余光が見出されるとき俳優は陶酔を覚えるだろうと信じた。
続けざまに幸吉は幼少の折、見入ることで戦慄した化け猫映画を思い出していた。凛としたかみしも姿がただひとり深夜の渡り廊下にある。月影の記憶は漆黒に限りなく近い闇の気配で忘却されるがまま、これに勝るもの寂しさと迫りつつある妖異の他いったい何が視線を補足するというか、幼心を支配したのは恐怖だけであり、かみしも姿の脇役の怪死を遂げる様が過度に予測されるのだった。眼球を埋め尽くす恐怖、城内のひとり歩きの場面は図らずも正確な思考を追い払うと、それはただちに夜道へ、学習塾からの帰宅を急いだ時分の心細さに遍満した黒いざわめきへと結ばれ、反転し、舞台装置をとりまく撮影現場のあらぬ喧噪が惰眠のなかで煙り立つ。俳優以外なにもかも量感を持ち得ず、託言は台詞に連なり逡巡と恥じらいを包摂する。「あら、三つ葉がなかにも」
正枝の醇乎とした声で幸吉の数瞬の妄念は断ち切られた。
「ほんとうですね」
だが、三つ葉という名に聞き覚えはあっても、それがすぐに野菜であり、茶碗蒸しの表面にへばりついていた代物だというを適当に言い繕っただけで、実際これまで口にしたことはなかった。そんな小さな体裁を幸吉は嫌った。嫌うとともに反対の感情にそそのかされた。おもむろに呉乃志乙梨の顔を見上げたところ、別段にっこり笑うでもなし、見られることをまるで意識してない寂光の世界に鎮座しているようで、おもわず首をかしげそうになったが、姿勢をただして三つ葉とえびを黙って食べながら、同じように形代をまねて冴え冴えとした蛍光灯のしじまに馴致した。それからふたたび対座の位置を確認する意志で目線を差し出してみると、相手の静止したふうなまなざしの奥底にわずかだけども艶冶な動きのひそめいているのが感じられた。
茶碗蒸しをすっかり食べてしまった幸吉はそのまま寡黙でいる方が無難であるのを知り、正枝の面差しが視界から外れるぎりぎりの明るみに少しだけ眼を泳がせては、空腹の満たされていく刹那へ虚ろな感慨を解き放った。


[503] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた3 名前:コレクター 投稿日:2019年12月24日 (火) 01時07分

どこかへ引っ張られそうな語りの重力のなすがままにあった幸吉は、外側からの聞き手としてその空間的関係を感覚的にとらえようと努めたのだったが、無限の指弾が激化されようとする居場所に識別されるであろう利己的な了解の鎮座する様子がなかなか愉快に思えてきて、堅固な不信感の最後の砦に取っ掛かっていた軽率な位置の、より鮮明に示される愁いを安直に捨ててしまうのが惜しくもあり、それはぼうふらのわきだすごとく混濁した、にごりを整えた小さな波紋の余情なき水平世界の水辺へとくぐったので、良心的な攻防は自然とも不自然とも計りたがい重い計器の針を取り出し、不器用な手つきで、愚弄する意気で水没させるのだった。視界に飛びこむことのない哀れなぼうふらも一緒に。
そんな幸吉へつぶやかれる正枝の発意は水没とはかけ離れた、あまりに端正な時刻に即す夕餉のうかがいであった。狂いを生じた計器とはいささかそぐわない誘いにもかかわらず、それらしき旅館の風情みたいな実感が宵の口からにじんだようで、もっともらしい相好をつくるのにいささか腐心した。
「夕食はどうされますって旅館のひとに聞かれましたから、二人分お願いしますと頼んでおきましたわ。そろそろ部屋に運んでもらいましょうか」
「はあ」
面映さが残されたまま風情は胸をそつなく遠慮気味になぞっていたけれど、空腹を覚える暇はなく、食欲が目新しい接点になりもう少しくだけた親密さのような会話に流れればいいと案じていた幸吉は、いかにも気もない返事をしながらその実、夕食のあとのより密接な関わりへと思い馳せ、しかもそれが心やましさを含んだはにかみに牽引され、交わりだの、契りだの、婚約だのといった情欲へ傾いて不純にまみれようとして、薄羽蜉蝣みたいな透ける羽根の弱々しい感触を想起させるものだから、ますます萎縮してしまって、部屋の造りや掛け軸など見まわす素振りで性根をごまかそうとした。
正枝はことさらうわずっている幸吉を打擲するような口調でもなく、刹那を狙ったとも感じさせないやんわりした、けれども実質は痛打になりうる詰め寄り方で、
「今夜はお泊まりですね、幸吉さん」と言った。
それは節度ありそうで節度をくつがえす、ぎこちなくひかえめな声色の蠱惑の響きを持ち、しりごみを余儀なくさせる羞恥を過分に包みこんでいた。
「えええっ、ちょっと待ってくれませんか。あなたの父上はご存知なのですか」
しどろもどろでさらにこう加えるしかない。加えつつ、有り得ない結果を待ち受ける危殆が脳裡のすみっこでわずかにうごめく幻影のような薄明るい破調の兆しが灯り、冷静を保とうとするけれど背筋は却って悪寒を走らせる。
「僕は両親になにも話していませんよ」
すると正枝はゆっくりと口角を上げ、たれ目のような気安い眼で見つめながらこう言った。
「わたしどもの方ですでに了承は頂いておりますのよ」
話しぶりがあまりにあっけらかんとしているので、ひきつりながら薄笑いを浮かべるしかなかった。が、長くそうしてはおれず、正当な文句を発するのが理にかなった抗弁であり、取り繕いだと気づき、
「なんですって、いくらなんでもにわかにそんなこと、まちがいないのですか」
「でしたらお電話で確認してみますか」
「いえ、それには・・・」
我ながら煮え切らない抗弁であるのを痛感した幸吉は、どうしようもない事態であるのにその反証をすぐに叩きつけれない不甲斐なさでいっぱいになった。全身の震えがとまらなくるなるのがわかった。これまでの感情やら思念やらひりついた神経やらの織りなした舞台が轟音とともに崩壊していく。
話し半分という片足だけ生真面目な表情で踏み入れた夢の領域が一気に奈落と化したのである。両親にここから確認する情況を考えただけで、空恐ろしくて仕方なく、あれほど不逞の気概を仕込んだつもりが、こうも呆気なく強烈な不安になるとは。
渦まく不安の材料はよくよく思案すればいくらでも転がっているが、なりふりかまわず拾い集めることに専心したりせず、放心したままでも巡ってくる要因のあれこれを虚空へ力なく張りつけてみるべきであったから、まっさきに狂恋の灼熱を背中に張りつけたあの思い上がりが幾度も夜をまたぎ、その粘着力の儚さ、いや、透徹した大仕掛けのからくりの偉業に夢の夢を張り合わせれば、間弓がほとんど吐き捨てるふうに口にした「父のあの女も頭がおかしいだけ」と、いう簡明な事態に突き当たるし、茶化すふりをして何気にもらしかけた満蔵の「ひょっとして君こそが私の隠し子だったら」などという怪訝な言い草も、まるで新芽が春を告げるように確実な土地の一端をしるしていたのだと合点がいった。
そして、もの憂さと期待を充満させて挑んだ二度目の訪問の詳細ならびに感慨をないがしろにした、つまり例の思考停止へと追いやり、突き詰めた解答へ向かう大儀を避けた心性こそ、正枝に関する極めて肝要な秘密の封印に他ならなかった。
間弓から念を押されるまでもなく、由紀子の死を介していわば覚醒した遊戯精神が満蔵の吐露を受け流してしまい、動かしがたい真実であるよりも流動しつつ、喜劇の仮面にいざなわれる舞台装置がもたらす偏頗な土壌の匂いをかき消そうと躍起になった。女優という看板を背負っているものの、映画会社の重役はじめ監督や男優とけっして少なくない浮き名を立てては、実りのない情熱に終始し、やがて神経を疲弊困憊させた正枝は自殺未遂を重ね精神病院送りの始末、そんな娘だからこそ熱狂を自負する若輩の形式を切望したのである。
この堕落の一幕に幸吉は耳をふさいで思い返すことなく、形式だけ悲劇の枠組みを借り受けて、内情は屠殺場でも麦畑でも小山の塚でも岸辺の祠でも、とにかく眼の届かないところへ捨ててしまいたかった。一年あまりの時間は狂人の退院を待っていたにすぎないのだから。
しかしながら自分の方でも肉欲に溺れ、あこがれをないがしろにした、この打ち消しがたい不義理はどうあっても枠組みにおいて相殺すべき、狂女と瘋癲老人に魅入られた世間知らず、こんな形式を認可するほど幸吉は堕落してしかるべきである。もはや人称を違え恥辱をものともしない傲岸な意識だけが思春の証しになった。それは不良らの間へたまに紛れ込んでみたい要求とほぼ同質であり、嫌気がさしたときにはさっさと見限る軽やかさを体現していたはずであった。素早い着替えが可能な、意思と自由にめぐまれた野趣がまかり通る道のりであった。苦悶の顔つきはいわば表街道へのわずかばかりの呵責で、自分なりの均斉と呼んでいた。
けれども不審な死を遂げた由紀子の肉体は幸吉の理性や狡猾さを飛び越え、とても小手先の変転でやり過ごせるほど軽忽ではなく、反対に少年を売りにしたひねた学生へとことん憑依するやっかいな衣装だった。眼をつむったと弾ずるべきか、そうではない、つむるべきして見るべき方角を舞台の上へ向けただけ、夢は開いたのであって、夜の暗闇に同化する盲いの想念に華やかなる色彩を見出したのだった。
こうなっては単なる怖いもの見たさがあだを成したに過ぎないのだろうけど、あこがれの女優が精神に異常をきたしたという明澄に取りすがった奇特な心境こそ、虚構のなかの虚構を踏まえて、空洞のなかの空洞へ分け入ったまたとない人生の光明ではなかろうか。戸締まりなどせずに夜更けの暗黒へくり出す冴え冴えとした息苦しさを苦とも思わない厚顔無恥な影。ただ、その影は逃げ道の用意を怠らなかった為に、かえって本来ならば抜かりないはずの、栄光を記憶のはるか彼方まで解き放つ手つきを怪しくしてしまった。
用意周到な逃げ道は狂女のたった一言でふさがれてしまい、とはいえ、破れかぶれの意向で「そうですね。証明するには確認が一番ですよ」などと言ってしまえば、どれだけ清々しい気分になったことか。
が、狂女の戯言にそそのかされただけで、うちの両親は寝耳に水であったなら、いったいどう弁明すればよいのやら、仮にすべて満蔵と正枝とが言わしめた事柄が正真正銘の事実であれば、虚構のなかはゆきどまりで空洞にはこれから向き合うやっかいな魔物が、徹底的に雅趣の払われた疎ましいしがらみと因縁が、うじゃうじゃ這っているに違いない。女優との婚姻は形式からして破綻し、その形骸は消毒液のような鼻をつく女体で肉づけされた臭みだけ残して長い風化に耐えうるしかない。放心状態と退路を断たれたという怨嗟はそう安々とは霧散しないだろう、だが、ここでの思考停止は姑息すぎる。
ともあれ、正枝は否定していたけれどこの情況下では満蔵の人形に成り下がっていると見なし、出来るだけその本意を、憑依なら憑依、親ばかなら親ばか、まさかとは危惧するが、我が家と今西家の因縁が清らかに育まれ、正式な婚姻への道標を見誤るべくもないこと、その他にも入り組んだしがらみや時代がかったほこりにまみれていたとしても、なるだけ穏便に事態へ乗っかるべきで、小心者らしくけっして波瀾を招くような結果へ自ら飛びこむまでもなかろう。
しかし不純な動機と果てのない欲望が手に手をとって駈け落ちする夢幻を浮かべたとき、幸吉はすでに奇勝と呼ばれる場へもう臨んでしまった風変わりな自負へ寄りかかっており、あまつさえ、すべては満蔵と正枝の虚言であり狂女を演じるのも、自分が由紀子を殺したことさえ失念している真の狂人であったなら、これほど愉快な顛末はないとさえ考えてみた。そのくらい何もかもねじが狂いはじめていた。あれほど観念的な図式で模写された美しく儚い世界が。
付帯の覚悟とやらに後押しされるまでもなく契りの一夜は決定した。が、もたげた異論のなかの異論は噴出を願ってやまなかった。ここは是が非でも問いたださなくてならない正念場であり、夜想の蔓延だけを讃えるわけにはいかない。
「僕の両親はどういった理由で、つまりこの儀をですね。承知してるわけなのでしょうか、あまりの不意打ちに混乱しています」
「父の満蔵とお宅は古いおつきあいだとうかがっておりますのよ、ご存知ありませんでした」
「全然、聞いたこともないです」
「でしたら相当驚きですね、御察しいたしますわ」
「僕だけ蚊帳の外だったというのですか」
「でもなにかしら思い当たる節があるから、こうして話し半分を確かめようとしているのじゃないの」
「いえ・・・しかしもういいですよ、ええ信じますとも。さっきははったりだろうって面食らいまして失礼しました。実際はかなり動揺しましたけど、ここまできたらもう疑いません。ただ、由縁というかその経緯ですねそれくらいは、簡単でいいでから教えてくれませんか。じゃないと、いくらなんでも」
幸吉はこれまで今西家の由縁など関知せず、あるがままの状勢に軽く足を踏み入れる気安さを前面に押し出し、そうすることで身のかわし方なり、深入りを避けるもくろみで、つまるところ怖いもの見たさの延長を計り、ちびらちびら抜き差しならぬ泥沼の浅瀬を慎重につついているつもりであった。しかし、あろうことか実家をまきこんだ沼地と聞くに及んで、はらはらと瓦礫の崩れるような、へなへなと足が萎えてしまうような虚脱を感じ、けっして抜き打ちの真相を額面通り信じるつもりはなかったけれど、話し半分という意味がそのまま自分の脳髄を占拠してしまった辛辣な喜劇から逃れそうもない予覚をかみしめるのだった。
「まったくですね、ごめんなさい。おっしゃる通りだとわたしも思います。けど深い関わりまでわたしの知るところじゃないありませんのよ。先日はじめて父から聞かされたばかりですから、でも、そうですわ、とても重要なかかわりですもの、わたしの知る限りをお話するのが筋ですわね」


[502] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた2 名前:コレクター 投稿日:2019年12月17日 (火) 02時50分

「昨晩この宿で夢を見ましたの。はじめて訪れた町の夜へ忍びこんだ夢です。それは底知れないな風景がべったりと塗られた危険な空気に透ける一幕でしたわ。けど、おどろおどろしい場面や眼をそむけたくなるような情景に襲われた心持ちはなくて、もちろん胸騒ぎみたいな焦りとか、逃げ出したい念いは夢のお家芸ですから、不穏な気分が欠落しているわけじゃないですけどね、戦慄の瞬間に縛られたり、外へ向かって悲鳴を上げるほどでもなかったのよ。
次々と、そうね、まさに特権、めまぐるしくそして容赦なく変転する宇宙こそが特権ですから、その集約を強いられたのか、細切れの憂き目に甘んじているのか、時間推移へのあらがいを主軸に置いた絵筆と水晶体が織りなす光景は、まぶしいようでまぶしくなく、逆の暗さの暗さが指し示す見えなさも成立せず、並んで喜悦や慟哭や激高といった胸を行ったり来たりする振幅も圧縮され制約のもと自在があたえられたのか、だって、どこをどう切り取ってみても出し惜しみなんかしてないはずなのよ。なのに、寸止めどころか、まるで暴君の一声ですべてが剥奪されるみたいにちぎれちぎれの余韻だけ残されるわ。
絵筆と水晶体は休む間もないくらい懸命に働いて、ありとあらゆる形体やら色彩やらをいにしえの記憶の貯蔵庫から取り出しては、あれこれ算段し、いえ、算段する猶予なんかあるのかどうかすら知らないうちにてきぱきと魅惑の粉末をまぶして、それがただちに火薬であることを外にもらさぬよう、たぶん、慎重にたいそうな気遣いをしながら、最大限に活用するべく指標をとまどいなく打ち立てると、あっ、そこで懸命な動作をねぎらったりはするのかしらねえ、どうかしら、でもするのでしょうね、きっと、そして絵筆と水晶体のうしろ側へまわりこんでしまった言葉を圧搾するのね、これがねぎらいなのよ。すると言葉は言葉であったこと、あったときの残響すら消されたにもかかわらず、なぜか、生き生きとした跳梁の踏み台に徹するべくして、あまねく記憶を極小の単位まで押しやるのだけど、おそらく火薬だけは不可分な性質がその発光と爆発の精神を認可され、もっとも言葉の精神とは呼べない化石のような無機質ながら、かろうじて生態反応を測定器にしめし得る欠片の欠片の気概が、外の気配などまったく関知しないまま、もはや情感をも石化してしまったと、一抹の嘆かわしさも面にしない、それこそ感銘だけをただ刻印するためにだけ演じられた役者の影のなかへと、また黒く滲んだ染みにようにして卑俗を避けているのね。
火薬は科学物質を含んだ自らのきな臭く危険な匂いが嫌われているのを知っているだろうし、そうした運命にある悲運も心得ており、なぜなら、夜空を過剰に彩る大輪の華へと自らの化身を厭わない姿態が、大衆の、そう、個人にこだわる必要なんかないわ、結局そこへ収斂されるのだから、さながら大衆の眼前に散華するかの瞬きに迎合していると恥じて、けれども瞬きが瞬きであることの普遍を了解し、生理的なとても大切な動作に準じるのであれば、闇夜を数瞬だけ輝かせる火薬の成分は局所的な視野をうつろわずとも、大いなる平面を浮き上がらせるでしょうね。圧縮の見事さみたいなのはこれでいいかもしれないけど、地平の連なりと大地の裂け目を地理的にとらえるまえから、すでに噴火という始原的で畏怖的で大掛かりな想念が生み出させるために一翼を担わされているようですわ。来たるべき、いえ、いつもまぶたの裏に鎮座した原風景はあまりにごつごつとして、しかも見上げるほど大きく、遠い眺めに守られているようで、なんのことなない、自分自身の夢見る子宮と肛門に結びついてやまないのよ。
火山があちこちで噴火しているはずなのに、殊勝な平面図のけっして反抗心をあらわにしない、純粋無垢な次元のひろがりだけ静かに申し出る態度をいいことに、消えた言葉の骨組みを拾って集めたりする素振りで、遠近法をわがものにしてしまうの。まさにわがもの顔でね。それで噴火は収拾がつくわけ、恣意的な遠近法はけっして無駄な精力を使ったりしないはずだわ、しかし、この二次元世界の窓枠に収まらないってことは、無理やりに押しはめる気負いがすり替わっただけで、あなたやあなたの知り合いたち、もしくはわたしの無くした思い出やそれに付随するきわめて微細な、まるでみじんこのような反応だって、あるときは別に効果を狙わなくたって巨視的な勢いでせり出すものよ。
わたしは映画の撮影に同行していました。ほんのちょい役、出番待ちの方が確実に長いけど、監督はじめ関係者と一緒、ところが時間をもてあましたせいで、いつしかにか知らない土地をさまよっていたのです。まっすぐ、と言っても道なりに歩いていたのだから、多少は二股に差し掛かったり、入り組んだ路地へと踏みこんでしまったかもわかりません。でも遠方に迷いこんだとは思えなかったわ。いつでも背中を返して戻ってくればいい。散策の安易さなんて明かりが灯っておらず人気のない夜間はともかく、家並みと畑が見受けられ、ふと野良猫の神妙な顔つきや上空から落ちてくる鳥の鳴き声があれば、そう思ってまちがいないでしょう。
でもすでにあたりを取り巻く感触は大きくかけ離れた空気に運ばれているらしく、山道にしては幅広く整備された路面のなにかしら鷹揚な雰囲気に疑念めいた問いがささやかれのです。さあて、わたしはどこへ来てしまったのか、似てるけどそうじゃない、どこがわたしを待っていたのか。
興味本位なまなざしってことさら日常に根ざしているとは限りませんね。ほとんど車の通らない、しかし、見栄えを重視したふうな、気持ちがよいくらいまばらな人影のある往来。連れ立った人数もほどよく、団体らしい、つまり観光地にありがちな場景ではなくて、たとえば辺鄙な山間へひっそりと建つ美術館や、少なからず格式を燻らせる芸事の集まりといった風情、ただよくよく眺めていたら、行って帰るは明確な姿でしょうが、ゆったりした間合いの、空間処理を施されたような優雅な密度の在り方にほだされてばかりおれず、それと言いますのも、道幅がひろがるに従いあきらかに人々の数が増え、にもかかわらず、どうやら美術館規模とは異なる巨大工場のような威圧感がせまってきて、その入り口にはとある会館の名が記されているではありませんか。おそらく宗教関係だろうとわたしは直感しましたが、どうにも人の出入りが縦横無尽すぎて、ええ、まるで東京駅の混雑を彷彿させるのですけど、何度もお話ししますようにほどよい距離が保たれ、その密度は実に優美でしかも豊沃な明証を香らせているので、まったく雑然とした印象をなしていないのです。斜めに横切る者がいるとおもえば、意味ありげに小さく旋回している三人組が、さらにはお互い反対方向へ顔を向けたまま歩調を揃わせる男女まで。
果たしてここが宗教会館なのかどうか、確かめるすべもなく、どうやらわたしの眼はいくらか獰猛な目つきをしていて、なんとも不思議な空間を凝視しているのですが、すれ違い様に声をかけてみるほどの勇気でしょうか、意欲でしょうか、どちらにせよ、誰ひとりとして会話をしている者がいないことを認めるに及んで、祭典の静寂やら神々の沈黙やら、さらには黄泉の絶対といった言葉がよぎってくるではありませんか。
静寂に思い馳せているのは今現在ですの、形式ですものね、わたしたち。沈黙は夢見の後しばらくしてからでしたわ。そうです、わたしがあなたにとった先日の態度に他ならないと振り返ったの。なら絶対はどういう意味なんでしょう。死人の国へおもむく宗教集会を夢見たことに絶対的な要因があるのでしょうか。これはさすがにこじつけだとやはり後から考え直しましたけど、そうよ、夢の光景に対して斯様な叙情は禁物ですもの。
からっぽな空間を豊饒に満たす火山活動は計測したりせず、ただ感取するべきです。それでもね、この会館のなかまで進んでいきますと、ええ、ここからが見せ場ですわ。あらっ、夢に見せ場なんてあるのかしらね、どうも変な言い方ですわ。しかし変なのはこんなこと語っているわたしじゃなく、違う誰かかも知れませんから、嘘っぽい理屈にまみれても清らか表情を浮かべている明快なこちら側ではなく、かと言って可能性に満ち満ちた発展途上国と自尊する不明瞭で覚束ない脳髄の彼方とも断定できませんわ。
広場らしい箇所から会館へと連なる造りは覚えてなくて、とにかく体育館のようにだだっ広い建物の内部はまさにがらんどう、いかにも大掛かりな講演とか催事が行なわれたりするためなのでしょうけど、飾り付けも祭壇らしきものも見当たりませんでした。観衆なり信者が敬虔な面持ちを捧げるであろう場にしては血の気が感じられなかったし、真新しくも古びてもいないけど、くすんだ色相の広大な会館の内部にはともあれ静寂が一番よく似合っているのですから、怪しむよりさきに抑止すべきはあるがままの反響音を耳にしてみたい気持ちでしたわ。こんな空虚でいったい何を響かせたら納得なり腑に落ちるのだろう。しかも渡り廊下を踏んだ覚えがないのに、横には別の講堂が隣接していて、それもひとつふたつなんかじゃなく、数えることに妙な空腹感を催させても、素直な食欲のあらわれには繋がれずいたたまれなかったのですけどね、あらっ、どうして食欲なぞへ飛躍したんだろう、まっ、立ち止まらないで先をいきますけど、迷路が肥大化したような講堂の乱立をあくまで等身大の目線に追うばかりじゃなくて、もっと晴れ晴れしく鮮やかにしたたかに、こんな位置作用にだけ現実味を託さないで、どうして跳躍してくれないの、あの空間移動の素早さを稼働してはもらえないのと願ってみても、無窮へさまよいだし、中空を遊泳する自由だってやはり閉じたまぶたの裏側で始まった騒動ですから、俯瞰するような具合にはいきません。
仕方なく素っ気ない視覚だけをつたってそれぞれの無感動に接していたのね。なにしろあまりに特徴がないから、うろ覚えであっても、そうよ、今こうして話している途中だってなんとかこっち側へ呼び戻そうとしてるけど難しいわ、よけいに紛糾するばかり、わたしの見たもの、わたしに見させたもの、とりとめのなさを自覚しないさなかに発生する光景のあらぶれと沈潜の洗礼と支配において、戻せないならせめてたどたどしくともなぞってみようと奮起するけれど、どうやら潤色が勝ってしまって小手先だけ躍起になってしまい、そうですわね、言葉を排除した空間で言葉を読み上げるのが不可能なように、新聞紙一頁とて判読できないのですから、そうしてほぼ視界にくりひろげられる平面図が舞台であり、聴覚を刺激する記憶を持ち越さない、持ち得ないという制約に縛られているわたしの記憶回路は、わたし自身への言及に関する些事をも一歩たりとて外へもらさず、あなたという他者に打ち明ける言葉の経路がはなから断たれている決り事にあらためてつまずき、それでも切れ切れの思いをなんらかの形式で伝えたいと願うのですが、するとたちまち形式の形式である由縁が不協和音をともなった波しぶきと一緒に浮上して、それはまるで敵国の潜水艦のごとく高圧的な威容を誇るから、わたしはもう一度おさない気分に手をとられ、夢のなかへふたたび帰ろうと試みるのですが、そうは問屋は下ろしませんの、ただ、そう、ひとつだけそんな寝ても寝苦しさしか感じられないありさまでも、音像の立ち方には関心していますわ。それはたいがい耳鳴りです。夢全体を支配する玲瓏とした基調だとしめやかに謳っているのね。平面図からあぶりでる火山の遠近法が爆発的な威力を内蔵しているとさりげなく強迫しているので、耳鳴りなのかしら、その辺りはよくわからないわね、けど、これだけは言えます、あまりうるさいと眼が覚めてしまいます。睡眠妨害もはなはだしいわ。
その基調音なのですが、さながら平面図を横一直線に引かれた、と言っても定規に添って走らせたような事務的な直線でなくて、たとえば遠望される水平線がおおらかな調子で雄大に、そしてかつて運動会で子供ごころを緊迫させたあの白線の長い長い感じが、海原と蒼穹を引き合わせ、誰かに海と山にかこまれたなんて校歌を口ずさましては、案の定あとの歌詞を忘れており、それだと申しわけない気がしてなんらかの補填を行なおうとするのですけど、さてどういった補填をすればいいのやらやらさっぱり見当のつかないまま、茫洋とした情感のかすめてゆくのをもうひとりの自分がこれまたぼんやり眺めている、そんな風景にとけこんだ音像があの糸が張りつめたような、けれどもか細くて視界を横切ることはない、耳朶に触れることにない夢の音ですの。
いつもとは限らないけど大概この音を意識したところがもっとも高台ね。そう、視野的な構造として。あとは下り坂なの、だから危険なの、原理的に危険だと感じるわ。だってひりひりするし焦りも始まる。わくわくはしないわね、無性に帰り道が恋しくてたまらなく、それどころではありません。
会館の見物に飽きたのかしら、それとも時間が迫ってきたのかしら、わたしは広場に出てもとの道へと引き返した。あれっ、こんな急勾配だったかなって、いくらなんでもこれではまるでスキー選手が滑るような斜面で、まわりをうかがえば、まばらな人影は歩行をやめてほんとうに滑っているじゃないですか。スキー板なしの靴底で安定を保ちつつとんでもない急な坂を下っていて、これは少しでも気を弛めたら転がり落ちるのが必至といった案配なので、力まず前を、あまり間近ではなくやや前方へ眼をやりますと、どうにか無事に過ごせそうな予感がして、その予感が余裕を見出したのか、右手に見下ろされた入江の美しさに陶然としておりましたら、声なき声が敦賀湾だと教えるのですね。まさか、わたしは都心からさしてほど遠くはない土地へ行ったのに、いつの間にこんなところまでふらふらさまよい出たのだろう、いや、さまようにしては距離がありすぎるわ、列車にも乗らず日本海を眺望しているなんて考えられない、こうなると夢の加速度が本領発揮されるのはあなたにも理解していただけるわね、人影を見失うのと急勾配が緩やかに道幅はごくありきたりに、やがて陽射しが消え、それでも人工太陽は夢を照らし続け、東西南北はおろか敦賀が果たしてどこだったのか、日本海を見下ろした記憶さえ飛び散ってしまったわたしは、くねくねとした山道を早足で歩いているのですが、車一台通らず寂しさを増すだけの、なおかつこんなときでも左側の歩道に寄っていた足下が知らせるには、歩道はここで途切れて代わりに水路がある、その水路からとってつけたように流れてくる赤い手鞠の持ち主が小学生の頃の友達のあずさちゃんだと、わたしはこんな大人になってしまったのに、どうしてあずさちゃんは子供のままなの、そんなやりきれない思いを発するまえに、友達が言うには、そこを曲がった家の地下から博多行きの列車が待っているのよ、とにっこり微笑むのでした。博多と聞いてわらをもすがる気持ちが働いたみたいです、なんの根拠もないままに。わたしは地下鉄乗り場で博多までの切符を買い、駅員にどれくらい時間がかかるのか尋ねたところ、百三十二分と即答されこっくりうなずいてしまいました。
乗車したのかですって、まさか、ようやくここが父の生まれた町で、昨日わたしはあなたと婚約するために長く長く列車に揺られていたのを思い出しました。ええ、ほとんど外側からでしたけど」


[501] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた1 名前:コレクター 投稿日:2019年12月10日 (火) 03時34分

特別な笑みをこぼしたという面持ちでも手放しの歓迎でもない、電話口から受け取った思い入れに見合うべき正枝の素振りを確かめるには、まだ宵闇へどっぷり浸かったわけじゃなかったので、なにかしら白々しさのまとわりついた情景と映ったのだったが、気負い過ぎたせいで逆に大仰な場面を望んでいたのではと、幸吉はのびやかな演出に彩られてないその風姿へ安堵を覚えた。
いくら今西家のはからいだとして、演出のように気をもたせたり、けれん味たっぷりな仕草がもし前面に押し出していたなら、その方がよほど引いてしまっただろうし、はじめて修学旅行先で接したときのたどたどしく、気恥ずかしさにうわずって、それでも度胸を決めたあの手応えさえ覚束ない感じは、姿勢を直した挨拶と同じでいきなり艶やかで麗しい目線を送らせたりはせず、ちょうど蛍光灯の光が隅々まで均一な明るさでひろがるように、どことなく隠し事が露呈されている挫折を生じさせるのだった。この間隔に不服などない。
また勝手に想像した浴衣か寝間着の上へ重ねた旅館の名が目立つ羽織姿とは異なり、厚手の白いセーターにえんじ色のスカートという普段着らしい服装も、期待をいい意味で壊してくれているように思われた。それでも玄関の曇りガラスを一面むらなく暖色に染めて待ち受ける先、見遣る数瞬に夜気をしのばせた感覚は明るい部屋への越境と呼んでふさわしい、躊躇ない足どりであった。
暮色をいくらか深めた実感はけっして使い捨ての情趣などではなく、ただ単に本当にそうであればどれだけ夢心地だったかもしれないが、甚だしくも仕掛けのなかへ花咲く情念としか穿てない失意を道づれにしている以上、正枝との対面は密室において繰りひろげられる筒抜けの逢瀬であり、覗き部屋の趣向で形づくられたものでしかなかった。しかし正枝は女優然とした華飾に頼っているように見えず、取り澄ました表情を洗い流していて、たとえそれが反転した演技だったとして、深更まで及ぶであろうこの一夜のうつろいは明澄な時間を滑りゆく。
幸吉は痙攣しようとする失望に拮抗してやまない真摯な間合いを見知った。それは火鉢を置くまで暖の欲しない、けれども秋の夜風が壁を抜けてそうな肌寒さに敏感になってしまう、女優の素顔をかいま見たと吹聴してしまう、たぶん湯上がりの乾き遅れた黒髪のところどころに濡れた流れが残されたしなやかな線状の光であり、普段着に合わせるふうに装われかの一度ひかれた口紅の消し去ったあとへうっすら色づいたくちびるの艶であった。素描に戻された淡い絵画の粉黛のように。
だが、前もって交わされた取り決めなのだからと、甘んじれば甘んじるほどみだらな幻影はぼやけてしまって、代わりにそれこそ絵空事めいた乱暴で低俗な空中分解などまったく関知しない、紙飛行機よりは厚みはあるけれど、駄菓子屋のおもちゃに等しいがらくたの空想が安物の羽根をひろげ飛びだすのだったが、受け身であることから少しだけでも逸脱したいのか、幸吉は先日の寡黙な居住まいに準じた女人の懐をまさぐっている攻撃的な指先を描きつつ、その由縁へと歩み寄ろうとしたところで、そのあまりに底の浅い受け皿しか持ち合わせていない実質に愕然となった。
いみじくも祝言と情交をいくら形式となぞったにしろ、これより儀式として執り行なわれるのである。幸吉は破壊作業と銘じた攻略を掲げているものの、なにひとつ明確な手段を念頭へ飛翔せてはいなかった。そこで、ここが駅前旅館の一部屋だと観取するまでひとめぐりの想念が揺り起こされる。
女優らしさを敬い、いや、敬ってないからこそ隣近所のお姉さんの清楚で良識的な容姿に密やかな動悸を感じ、今にも手を伸ばせる近さまで親和が迫っている気安さにたどり着いた。
まだ色香の迷いを嗅ぐこともなかった年少時、駅前の旅館は魅惑の異界の佇まいに煙っており、ゆきかうひとの背中がかき消されてしまう幻影を折り重ねながら、ふと思いついた趣向じみた誓いは、いつか大きくなってひとり旅をする機会が訪れたとしたら、町の灯りの華やぎをかき分けるようにして夕星を見定めたのち、その無益な行為のとてつもなく旅情を噛みしめている想いだけにそそのかされたことを知りつつ、まるで遠い旅先における心細さから駅前に宿を求めるような哀愁を過分に漂わせ、それは間近である方向感覚を麻痺させ押し込めてしまうかくれんぼみたいな児戯なのだろうが、あえてここへ宿泊して、これまで夢見たきれぎれの断片がつなぎ絡まる自在は捨ておき、夜明けの駅に立つ。
これはたぶん幼少からの無分暁な欲望が映画の一場面を模しただけと思われたけれど、まだ大人に成りきっていないこの身を囲む宵闇へ眼が吸い込まれている実際と照ら合わせてみれば、ひと足早くその誓いが成就されようとしているではないか。
終着駅を気取った始発駅、まだ旅立たない一夜。正枝の声は駅前にある旅情から隔てられた響きを、つまり沈黙を打ち破ろうとしていた。それが汽笛なのか、どうなのか、幸吉はもう考えたくなかった。

「さあ、突っ立っていないでこちらにどうぞ。なにやら狐につままれたような顔をしていますわ。でも仕方ありませんわね、父にあんなもったいぶった言い方をされたら、どうしたって意地になりますもの、あっ、ごめんなさい、幸吉さんには幸吉さんの意思があったからこそ、ここまで来てくださったのですね。いいのよ、あなたの勝手で、そうなにもかも。どういうふうに感じられてるか察したいんだけど、実はわたしにもよく分からないところがあって、あら、こんな言い草だと馬鹿にしてるように聞こえますわね。けど、のみこめていないのは本当ですし、くどくどしい弁解は今さらですが、わたしにもあれこれあって、もちろん父はよくそれを承知してくれていて、先日までこの町へ来るのをためらってましたの。あなたには無言ながらそして便りなしでも通じる時間という原石の再認識が伝わっているはずだから、同時にあなたの目覚ましい成長を信じようと腹をくくっていたようですわ。それもやっぱり欺瞞ですね、だって間弓さんはいち早く父の計略を、もういいですわね、計略って言って、ほかにどんな呼び方が適正なのか知れませんもの、で、それからの婚姻話しをめぐる駆け引きがどういった波紋を立てたかは、あなたの胸が一番よく理解しているはず、だって案の定、浮世離れした未来の約束なんかに縛られることなく、色々な出会いがあったようですし、それが抵抗的な仕業、そう間弓さんの手によるものだとしても、あなたは持ち前の生真面目さでぶつかっていったのですから、そこに肉欲が沸騰してもまったく仕方ないこと、ぶつかったのは暗闇の電柱やら、とんでもなく固い石垣やら、曲がり角のささくれ立った板塀やら、悪徳で陰湿な大人じゃなくて、無機物とは正反対の成熟前の柔肌だったのですもの、理解というよりこの上ない体感に違いありませんわね。だとすれば、間弓さんに感謝する余地はありそうですけど、ごめんなさい、どうしようもなく嫌味にしか聞こえませんわ、これでは。嫌味を強調していると訝しがるでしょうね、いきなり苦言だと思われてもかまいませんわ、いっそ間弓さんの意向をくみとってあげた方が賢明だったかも知れませんもの。
けど、こんな口ぶりでもあなたが臆したりしないのを見越していますわ。ほら、一瞬そんな怪訝な、どこかに化け物やらひそんでいるみたいな顔色だけど、眉尻にはもう解けた縄に似た安逸がよぎっているし、曇天のわだかまりなんてうつろいの果てにはつきものだと言いた気ですよ。あっ、いけません、わたしったらまともな挨拶もせず出し抜けにあなたの体験まで言及してしまって。
ようやく時間がめぐり、今夜はかけがえのない相見、でもわたしはなにも分かってないのです。なので・・・燐谷さん、あらためまして、呉乃志乙梨こと灰田正枝です。よくいらして下さいました。先日はだんまりでさぞかし不快に感じられたでしょうね。失礼をお詫びします。父の指令だったなんて言い訳をするつもりはありません。よかったんです、あれで。
一応は女優として台詞まわしの訓練もし、喜怒哀楽をどう形づくるか学び、ほぼ影に近い通行人役でも熱演して、ここにあなたの驚いた様子をうかがいながら、はじめて声をかけられた日のことを思い出してしまい、うれしさがこみあげてくるけど、はたしてわたしを女優として見つめてくれるのか、それとも薄幸を背負った底抜けの女性として憐れんでくれるのか、気がかりには違いありませんが、もうどちらでもいいのです。
父のあの申し出にわたしが納得していて一分の隙もなく、絶対服従やら天命やらだからと割り切っているわけじゃないの、いまさらどうしてって反論されるのはもっともですわ。腹違いの娘と引き合わして、いえ、写真が取り持った偶然でしたわね。それで父の眼光を定めてしまったからといって、わたしが人形のようにもの言わず顔色ひとつ変えずただ従っているだけではないのよ、ただ、あるがままをあなたに受けとめてもらいたくて、こうした場面が用意されたのです。ええ、そうよ、父だって時代がかった君主みたいな態度には無理があると判じているのでしょう。だから宿命的な語調を散らすために選択肢をあたえるべきだと最後のひらめきを口にしたと思われます。ひらめきというのはおおげさですけど、きっとあなたを追いつめてしまうのではないか、そう案じていたのはたしかですわ。現にあれから一年以上経っているし、あなたの心変わりをなにより怖れていたにもかかわらず、経過をうかがったりすることもないまま、ただ月日の流れるのを傍観しているだけでした。そうでしょう、父からなにか連絡や知らせがありましたか、わたしだって何度もその後を問うてみましたわ。これは婉曲な欺瞞でしかないですか、もっともそう受け取られて当然ね、父は傍観ではなく監視の眼をゆるめていなかったとか、でもそれはいったい誰の意見なのかしら。
さて事態は間弓さんの反感を買い、さきほど好機にめぐまれたふうなんて言い放ってしまったけど、あなたは息苦しそうなある肉欲のとりこになっていると聞くではありませんか。
息苦しさが文字通り呼吸困難を意味するのか、夏の盛りの太陽の下で戯れる遊泳の息つぎの頃合いを叫んでいるのか、あるいは日射病に冒されながらも負をしめさない生命反応がそうであるように、摩擦熱が熟知したよろこびの寸前を謳っているのかなんて、妙な具合に映画の過剰な語りが想起され、放心にならうべきかな、季節風の心意気であればいいのかな、と聞かぬ素振りをしていたのですわ。
呼吸困難は火急の問題よね、どうにか回復しいてほしい。海水浴の練習だったら平気だわ、気をつけて精々がんばってと。しかし日射病に喘ぎながらの謳歌は危険だわ。それはわたし自身にとっても危険な感情を植えつけることになったのでした」


[500] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 10 名前:コレクター 投稿日:2019年12月02日 (月) 21時13分

繕うことの意気と清廉な気怠さを胸に、幸吉はまたしても仕掛けに準じた有り様だったが、その一歩踏みこんだ態勢には起爆装置を抱えた闘志のような情念が色づいていた。
駅前旅館への駆けこみに奮起したところで、所詮は満蔵のいかがわしい攻略が先んじており、無言を通した女優とふたりになる情況には有無を言わさぬ契りが待ち受けているのであって、それを知りながら先手を標榜してみても所詮は袋のねずみでしかなかった。
ならば、窮鼠ねこを噛むの喩えに倣うとでも開き直ったのか、たしかに自ら仕掛けへ突入していく恰好なので、構図的には気概などおおいに差し引かれ、幸吉のひとりよがりでしかなく写るかも知れないが、満蔵の言った形式に則った素振りで内側から破壊を試みるとしたなら、秘匿された陰画はきっとあぶりだされるだろうし、陰謀的な匂いを漂わせた何かが露見するに違いない。そして返す刀で間弓の謀反へと寄り添い、至高の情念と化してしまった肉欲の崇拝を断ち切り、けれど、形式をなぞるという方法論に宿った女優との密接な関係の解明がうやうやしく息をしているので、試し切りの口実は声を大にしても淫猥へ堕することなく、あまたの事訳や玄妙だった経緯は踏まえる徒労をねぎらうごとくに、厳かな情交へと結ばれる。
おおまかではあるが幸吉の目論んだ牽強付会の理屈は生煮えのまま吸収された。
満蔵にはまったく申しわけないし、正枝も裏切る結果になってしまい心苦しいが、内側から破壊するとは他者の出方をかき消すことでなく、おのれの身の置きどころを台なしにしてしまう謀逆を真っ先に打ち出すという覚悟に他ならない。
この自虐めいた悲壮感はもとより、形式を重んじる姿勢を正す股間の張り切り方もまた純粋な現象であった。加えて何をどうやって破壊したらいいのか、皆目わかっていない無茶ぶりが情念の謂いを高めていると幸吉は笑い泣きした。
なんと愚直で妄執に絡まった考えだろう。しかし再度、妖しき宵へと臨んで受話器の向こうに女優の艶冶な声を、あるいは正反対のか細く実務に忠実そうな受け答えを耳にするとき、この前向きな盲いの時代を、かけがえのない思春の袋小路を、囲繞される絶え間ない日常を、すぐに忘れてしまう夢を、決して薄っぺらい郷愁には連結させない意志が天駆けるのだった。
「ほうら、つるべ落とし、気を急いているみたいですね」
と言った満蔵の時節の余韻が皮肉にも黄昏どきまで棚引くようだったけれど、それは過去にではなく、もうすぐ幕が開く映画館の舞台を彷彿させて仕方がなかった。郷愁に触れるとはこうした危殆や焦眉が煙りをくゆらす様であり、今生の別れを述べているふうにこじんまりした、しかし、強大な妄念の巣食う箇所であっても不思議ではない。
裏読みなど必要ない言葉として思い返すほどに、夕暮れの肌寒さと視界の偏狭に忍び足で迫ってくる宵闇の瞬刻はたより気ないにもかかわらず、家路への歩調へひかえめな魔術をさずけているような気がする。
道路の幅は車両の行き来に制限をかけているみたいで、路地と家並みの間合いには漆黒の絨毯が敷かれており、地面の奥底から闇の冷気が這い出すのか、足下に清涼とも痺れともつかない幽かな抵抗を感じさせ、それは夜の駅前旅館へたどり着いたときにためらうであろう、曇りガラスの玄関に灯る橙黄色をした柔らかで、しかも安息と成熟を請け合っているふうな趣きでありながら、柔肌に透けるなまめかしさや黒髪を際立たせるゆかた姿、そして沈黙に微笑が溶けだし玲瓏とした言葉遣いの耳朶に触れる瞬間が想起されれば、胸間からこぼれだす華やぎを抑えようとするせめぎ合いは、二の足を踏んでしまう気弱な瞬きへ通じてしまう。
眼前にひろがる憧憬の顕現は夜を待ち望んでいたのだから、まったく偶然であった修学旅行の白昼以来、恋情の様相がいかに移り変わろうとも、ずっと言葉の背後にあり続けた面影の薄れることはないはずで、銀幕へ映されたその清らかな容姿は、陽光の下に見出された素顔の方こそ夢の断片であるのだと、あのときの写真もろとも風化の一途をたどっているような感覚に囚われるのだった。
赤電話の受話器を切ったのち、したり顔で帰り道に呼吸が荒くなったり、かくべつ幸福に舞い上がったわけでもなくて、むしろ忍び寄る闇の透明な気配に心音は落ち着き、蕭条とした風情が醸し出され、街角のあちらこちらへ灯りはじめた明るみには、秋の夕刻の頃合いだけにしか示してやまないぬくもりが点在していたので、武骨でしかも不甲斐ない思念に流れる刹那はあっさりと反復を拒んだ。
やはり気を急いているのだろう。ほぼ狂信的である信憑によって働かせていた遠い肉欲を間近にすることには戸惑いがある。桜田静子から風見由紀子へ連なった際の生々しい実感は何故かわき起こらず、暗闇にさまよい奇声を上げる淫欲も堕落を願う悪徳な物腰も見当たらない。ただ、そうした葛藤など霧散してしまえとばかりに夜のとばりの降りる様には威厳が備わって、幸吉の背筋を律した。
幸吉は優等生の誉れをそこなわない生気で宿題へ取り組むような姿勢に戻ろうとした。おどおどした態度で女優に接する光景が躍り出ても、ちぐはぐな言葉でしか情況を把握出来なくとも、奇跡の交わりを思い浮かべるだけで肉感がともなわなくても、不良を気取って天使の割れ目だけに突進しなくとも、ことさら学業の時間を萎縮させる悪ふざけに呼び覚ましてもらう必要はなかった。実務のように義理堅く形式を尊び、空想のなかの空想をただ実践する。
正枝は幸吉が旅館にひとり赴くことを受け入れるだろう。
この大前提がそもそも狂信であり、狂恋の札に守られている限り約束は果たされる。これが優等生の小さな意地だった。
あっという間に自宅の前まで来た幸吉は意識の反復ではなく、黙って踵を返しもとの道へと歩きだした。時折うなじへ吹きつける冷風が心地よい。上弦の月は輪郭を鮮やかにして夜道へ奇禍を招くのか思案するように見えた。着けてもいない腕時計を眺める素振りに優美な気持ちをあたえ、次第に学生の領分から離れてゆく。まどろむには早いとうしろから誰かが声をかけてくるようで振り向きかけたが、あの幽霊のしわざだと思いなし、それよりも惑わす方にまわっているかも知れないという根拠のない、漠然とした考えが形を持たないまま夜道の片隅にうずくまっている気がして、おそらくそれは害を成すことはないだろうと言い聞かせている内心のこだまに共鳴した途端、淫靡で妖しげな幻影を招き、例のストリップ嬢の半身がちらついた。
「もしもし、呉乃ですけど。燐谷さんなのね、燐谷幸吉さんなのね」
うれしさと驚きを隠しきれない声遣いが受話器の向こうから響いてくるように幸吉は受け取った。
「そうです。夜分すいません。昼間も電話したのですが」
煙草屋の軒下は煌々とした裸電球に照らされ、様々な雑貨は無造作なのかどうか判別されたくない景観を呈していた。陽射しを浴びて彩りを放っていたときよりも、低い天井から吊るされた光源の荒々しさが商品の価値を代えているように見栄えはどこか痛々しい鋭さに虐げられていたのだったが、短い距離へ届いてしまう裸電球の効果はそれほど悲痛な感じがせず、たわしだのちり紙だのほうきだのといった生活用品に並んでいる、季節に置き忘れたふうな虫とり網や半分以上空気の抜けた子供向けの浮き輪の、むせ返った晩夏の草いきれと戯れる来年までおとなしく陳列されているふうに見えないのが小気味よかった。
そのけばけばしさには夏休みを送れなかった原色の汗がしたたり輝いているかのごとく、陽気な屈辱が発散されているのだが、秋の夜長を楽しんでやろうという覇気すらあって、赤電話の真下にガラス一枚隔てて歴然と売れゆくのを知悉している意匠の施された煙草の冷静な並びを照り返していた。
「いいのですか。本当ですか。いくら父上が言ったからとしても」
「わたし夜は家から出されます。だからいいのです。お話したいことはたくさんあります。せっかく電話までしてくれたのでしょう」
「そうなんです。僕は勇んであなたに会いに行こうと決めたんです」
夏の盛りを通り過ぎていった激情が新たにこみあがってくる。
煙草屋の粗雑でむきだしの明かりは夜景となって路傍に人懐こさをこぼしていた。そのなかに見覚えある銘柄の煙草の交じっているが認められたけれども、次はいよいよ駅前旅館の夜景に接するのだという高揚に促され、感傷は曖昧な風向きで吹き流された。
が、幸吉の歩調は追い風を背にしておらず、そぞろ歩きであることをぼんやり想いながら、ちょうど夢の中での歩行が脱力めいた重苦しさに絡みとられてしまうように、大仰な出来事は夜へまぎれて闊歩が憚れ、怖れと官能の生み出す様式に中和を求めているのだった。
旅館の主人らしき男性は幸吉の背格好を確かめても怪訝な顔を見せることなく、正枝の部屋まで通してくれた。


[499] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 9 名前:コレクター 投稿日:2019年11月25日 (月) 03時05分

薄明を覚える境界は鴉の羽ばたきによって彩度が追われた日暈の淡いひかりに支配されていた。
塗りつぶされることをかいくぐった残像は影であった記憶に依拠するまでもなく、白日の色彩へ溶けこみ、天空の位置を告げている黒点となった。それはちょうど海原に顔をだす小島が波頭で洗われながらも、決して海水に没することのない遠景を眺めているような心持ちに重なる。
目覚めのひとときはさながら寄港する小舟なのだろうか、離れゆく茫洋とした景色に惜別を送っているまなざしは、郷愁の侵蝕を受けた荒磯の険しさをやわらげていた。常日頃の眠りは帰還を欲している。
しかし、この朝の寝覚めは小島の輪郭がはっきり捕らえれそうなくらい鼻先から離れず、いつか観た恋愛映画の綾が織りなすもつれから別れ話へと至る場景に、演戯であることを棚上げしたにもかかわらず、切なさの霧はより深まってしまい、それでもうつむいたり眼をそむけたりしないまま凝視し続けた、あの朦朧とした甘く鈍い気分にゆっくりと浸っていると、寝具は海面を漂っているみたいで波のうねりが体感されるのか、後頭部から背中へかけて微弱な電流が走ってゆくさまに、淡白な快楽を受けとめながらも、特に尻の割れ目を撫でられるような気恥ずかしさとくすぐったさには、仄かな臭気を近くしたふうな嫌悪を感じたのだが、海面から陸地へ這い上がろうとする黎明の懶惰は、ささくれ立った意識に立ち戻る手順を踏む術を忘れたのか、まだ夜の青々とした溟海へ身を沈ませている凍結のなかのぬくもりに煽られていた。
深海でなくとも浅瀬に揺らぐ藻がときに饒舌な反撥をあらわにするごとく、沈黙より突き出した色彩の刃こぼれがきらめくさきの月光は悽愴な美しさを謳い、まばゆさに応える理を認可した陽光は退きすら笑い飛ばしている。
人知の立ち入れないはずの光景がおのずからさらす境界線、架空のストリップ嬢を育てた臨界点、幸吉にはそれが郷愁へと流される曖昧な思念の決別の知らせに感ぜられ、すぐさま覚醒を願い、面倒で気乗りはしないがいつもの癖で心理状態を内観しようとした矢先、夢の重力はそれがまっとうな拮抗だと訴えているのか、歪曲に即した暗転をもたらすと、またもや金太郎飴の幽霊の声を聞かせるのだった。
「早起きは三文の徳」
「ほんとうか!」
叫び声を上げて目覚めたのだけれど、はたしてまだ眠りのなかにあるようで仕方なく、そしてこれから出港する気怠く緊張をともなった皮膚感覚が海水の夢犯に急かされ、境界は灰色の水平を横滑りしていったので、眼を凝らしてみれば、幽霊のすがたは不思議なことに七色の輝きをまとっており、その光輝で溶けたのか、やはり溶けたか、金太郎飴が、いい、それでいいとほくそ笑んでいたところ、ぐにゃりと曲がった金太郎の形相があまりに薄気味悪いのでひるんでしまって、ようやく意識は地平に連なり、意欲を胚胎した無数の埃が瞳へ鮮明に映りこんだ。
なおかつ、しとどに濡れた記憶が身体を幾度も通過していくので、更に意識は明快になった。
カーテンを開ける。自室の、他の部屋の、それが見知っている旅館の奥の間であったなら・・・奇跡はただれた傷痕の証左となり、降り注ぐ朝日がきらめく様を仰ぎながら、まぎれもない黒点に瞳孔は反応し続け、日々の息づかいの在り方を深く知っておののき、戯作の裏表紙に手を触れては本文の字面のとある箇所に立ち止まり、文脈とは無関係な、ただの思い入れや些細な出来事が過剰に、遠く鳴り響く雷鳴をありがたがるような具合いに、が、懐旧に胸を焼かれるだけのせわしなさとは異なるもっと原始的で天衣無縫な焦慮へこころは奪われるのだろう。
潮は満ちていた。幸吉はあえて聞き流してしまった正枝の宿泊先に関する満蔵の釈明とも誘引とも取れる話し振りへ連れ戻され、大仰に打ちのめされた構えで反芻してみるのだった。特定の頁を繰るときの胸騒ぎにはそそのかされてないと自問しつつ。
「さすがに正枝をこの家に泊めるのはいささか気が引けます。間弓の顔色をうかがっていると思われてもっともで、本人だってなかなか枕を高くして寝れないと案じたからです。要は君さえ申し入れを受けてもらえればいいのであって、正枝の立場をしっかりかためる為に安眠のさまたげまですることはないでしょう。
この家で君に直接引き合わせただけでも十分に強行な手段であって、私の趣意はほぼ果たされました。そこの駅前旅館ですよ。今夜から二日間の予定です。正枝には別に部屋に閉じこもってなくとも散策するなり、なんでも自由にすればと言ってあります。もちろん君が訪ねていってくれて結講ですよ。私抜きで今後を語り合うのもいいことだと思いましたから」
女優はあのとき微笑んでいた。
自分の方を一瞥しながらうつむき加減で気遣いなのか、処遇に安堵しての弛緩なのか、判ずる隙のない、こちらが萎縮してしまうような含みを口角にたたえて。
瞬時に攻撃的な勢いをもって由紀子との情交がみずみずしく思い出され、夜這いという言葉を無理矢理すべりこませては、二日の猶予に歯ぎしりする期待と負け犬のような馴致を同時に孕んでしまった。
今日は土曜日、そして明日には正枝は帰京してしまうのだろうか。あまりに逼迫した事態をどういうふうに抱けばいいのか幸吉は煩悶するしかなかった。
増々もって満蔵の画策に鋭利なものを感じ、のっぴきならぬ決断を強いる相貌に徹したその圧力で崖っぷちまで追いつめられたあげく、心細さに竦然とするしかなかったけれども、反面、例の遊戯の精神とやらがちょうど用心棒のような手際で現れ、鼓舞されれば、由紀子の死は素早い流転によって昇華されたものと見なす方向を示唆するので、あやうく難は回避されてしまい混濁を嘆く間さえ吹き払われて、それは思考の猶予をなじる変拍子なのか、切迫の場面に伴走する音の響きであるなら、まさしく極めて逃れようのない急迫に即すのであったが、あまのじゃくの一声に反転は託されていたようで、追悼と祝言の交差する真っ只中に直立している心持ちは、難産と渡り合った痕跡を残さず生み出されたのだった。
早とちりや気まぐれでは収まりそうもない思い込みに均衡をそこなわれるどころか、手前味噌で築かれる有頂天ぶりが正午の太陽のごとく高まるのであれば、そして実際の時間に無遠慮であればあるほどに、二日間の制約は取り払われ、盲目的な加速度で女優との逢い引きの情景が描写される。
鏡はすでに手を借りなくとも宙へほこりひとつ立たせず浮いており、幸吉は端役でありながらいつしか男優の地位をあたえられた誉れに酔っていた。満蔵の願っている舞台にすすんで躍り出る邪心は聖痕が後押しするよう、麻痺した痛みに支えられて、超越的な気概にすり替わっていた。
目覚まし時計のけたたましさは鶏鳴の悦びであり、洗顔や歯磨きの習いは舞台化粧に同化して、朝食を素っ気なくするのも台詞まわしが味覚を追放したあらましであって、演ずることの功徳に舞い上がった手の指先から足もとまでには軽妙なしなりが伝ってとどまることを忘れ、登校の道なりで出会う生徒らには観客の仮面を授けたく、久しぶりで目線が確認された桜田静子のこわばった会釈にも小鳥のさえずりに包まれたようなさわやかさを感じる始末、そして覚悟していた今西の顔つきに異変を見出せないことに至っては、盟友の絆と名優の冠を捧げたい心境であった。
我が家の紛糾の一端を担っている幸吉を敵視してもおかしくないはずなのだが、ざっくばらんな会話で済まされる時候の挨拶には形式をなぞるだけの強靭さが欠落しており、今西は涼しげな演技で的確な距離を計っているようだった。
幸吉も深刻そうな面持ちで歩み寄る不粋は避け、切り口は放擲された。しかしこの一言はどうあっても今西自身から発したかったのか、
「昨日から家に女優が来てるんだよ。修学旅行以来だね。寝床は駅前旅館なんだと、あと少しの辛抱さ」
と、きびきびした口調で言った。
「君のところで聞かされたよ。明日には帰るようだったけど」
幸吉は淡々と答えた。
「言っとくけど僕は干渉するつもりなどないからね。まっ、適当にあしらってくれたらいいさ」
まさに適当に、そう、遊戯の条件がめぐりめぐって回遊魚の勇壮と節理を兼ね備えているとしたなら、もっと適当にあしらえばいいのだ。
ひりついた時間の彼方を見つめた幸吉には、単調な挨拶を済まし、背を向けた今西の真意をくみ上げる力が残されていなかった。
「君の醒めた表情に向き合っている余裕はない。それがいかに計り知れない巨岩の裡にひそむ闇の静けさであり、閃光を押し殺していたとしても、今は暗闇をまっすぐ進んでいくだけだ」
幸吉は傍観の姿勢を崩さない今西の計略にのまれていることを理解していた。そして好都合に事態が収拾される僥倖を願っていた。が、賭けは受け身に甘んじるべきではなく、勝敗と関係なく、破壊の衝動をたぎらせる暴動の影に突き上げられなくてはいけない。官能が少年を襲ったように、奇跡が人工的な花弁を散し、錯乱の地平から大海原を望ませ、沈みこめたように。
帰路にある煙草屋の店先に佇んだ幸吉は赤電話をじっと眺めてから、おもむろに駅前旅館の番号をまわし、軽く咳払いをしてこう尋ねた。
「そちらに灰田正枝さんという方は泊まっていますか」
「少々、お待ちを」
まだ日輪は頭上にあって秋空の由緒をおおらかに語っている。この時刻に正枝がいるとは思えない。しかし、幸吉の賭けは始まっており、揺るぎのない衝動に駆られていた。
「あの、そういうお名前のひとは」
すかさず訊いた。
「呉乃志乙梨という名では」
「はい、でも外出しておられます」
「わかりました。どうも」
武者震いが寒気をともなわない感覚であることに驚くべきなのだ。幸吉ははじめて数を読み上げる怯懦を抜きにして幸福感をしみじみ味わった。


[498] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 8 名前:コレクター 投稿日:2019年11月12日 (火) 03時06分

夏の名残りは暮れどきに戸惑うよう、忍び寄る冷気を受けとめていた。
頬に感じる火照りの、情交のあとを思い起させる浮ついた夕景は孤影を際立たせるとともに、胸に去来する醜劣な言説の扶助を担っているのか、さきほどまで耳にしていた満蔵の声は、たなびくというより山間から微かに聞こえてくる瀬音に似たひかえめな、それでいて遮断機のわずらわしさを自若として受けとめる狭霧に包まれたような隔たりを感じさせた。
待つべきして待ったはずの、そして優柔不断を逆手にとった暗晦の夢見はその様相から裏切られることなく、乱雑に散らばった花びらのあざとさが沈痛な余韻を湛えているように、悲劇的な先送りを薫らせたまま変転の基盤を宙吊りにして、早鐘が足許まで及ばないうちに、帰途の自在を提灯の揺らぎに託しのか、おぼろげな回想へと橋渡しするのだった。
のべつ幕無しの高説は引き裂かれ、醜悪と呼んでさしつかえない満蔵の意向は、畳の上に置き忘れられた針の先がふとした光源の反照に自らの使命を覚え、功罪の彼方へ鋭利な輝きを放つよう、本来の役割りなど放擲すると、ほころびを縫い上げる地道な手つきは、寂静を長らく保っていた寡婦が淫靡な仕草へ崩れるよう、障子越しの影となり狐狸のあざむきを模していたので、見聞する側は扇情的に燃え盛る火花の明暗を知らしめられた要領で、まとった衣服を脱ぎ捨てそうになるのだったが、いみじくも血流と随意筋が織りなす良識は反転のぶざまさを諭し、とがめるので、その衝動は実際の脱衣には至らず、ストリップを断片的に想起する混迷へとうつろい、いつしか見世物小屋の猥雑さに巻き込まれていった。
けばけばしい色合いを吸った造花の束を受け取る。が、野に咲く草花の名も、花壇に並んだ馥郁とした品種の名もろくに知らず、ただ、めしべの周囲を舞う蝶のあわただしく、思わせぶりな様子に空気抵抗のない浮遊感を認めるだけであった。それが内熱のすべてだと公言したいが為に。
「もう夕方になってしまいました。君に語り尽くすことは難しい。あとはよく考えて返事して下さい。ほうら、つるべ落とし、気を急いているみたいですね」
街灯の稀な夜道の見通しを懸念した紋切り型の言い方には、口約を補強する落ち着きが備わっていた。
夜は毎日やってくる。無声映画を眺めるだけで、たとえそれがどんな場面であったとしても如実に伝わってくる。幸吉には満蔵の話しを反芻するだけの実直も意欲もなかった。一年を越えた月日は迷妄の足跡を捉える眼力に養っており、保身を忘れないようにしていた。
間弓の主張に共感するのはもろもろの事情ではなくて、満蔵も言っていた都合による型合わせなのだろうか。けれども端的な切り口から皮相の間取りを測れるほど今西家の空間は整っておらず、歪さを念押しするだけのことはあって、安易な解釈で突き進めそうもない。話し半分といういい加減さを声にしてみれば、なにやら二元論だけでは説明しづらい局面がぱっくりと口を開いている。日没を当たり前のように見遣って、満蔵は話しを切り上げた。
灰田正枝はとうとう何も喋らず、その真意は明確にならないまま、果たしてそれが恋慕なのか信条なのか、従軍じみた行動なのか、物好きな媚薬の残滓なのか、運悪く浴びる鴉の糞なのか、はたまた同調に魅入られた古風な優しさなのか、満蔵からは一応もっともな経緯を教えられたし、幾らかは冷静な考え方の出来るようになり、あやふやな謎めきと斜に構えられたのだったが、それはおとぎ話の領分にすっぽり守られていて、いつでも容易に足を踏み外すまねを可能としていたので、ぶざまな反転はちょうど水車のように力学を孕み、不確かな営為から脱却する言い分が音を立て稼働していた。
にもかかわらず、礼節を重んじるごとく女優に対峙した気分を捨てきれなかったのは他でもない。造花の人工的なかぐわしさに対し、幼稚で乳臭い親しみが発酵していたからであって、もどかしさだけで胸騒ぎをひき起す、あの近づきがたい、自分を必要以上におとしめてしまう矮小な卑下の謀逆が斥力に加わったせいであった。
決して触れることの出来ない生身の憧憬へ歩み寄るとき、自意識の萎縮だけではこと足らず、聖画像の威光によって明証されるように、虚偽は言葉にたよらずとも自明の輝きを内蔵している。銀幕から抜け出た女優の面影には揺籃で眠る官能が無垢な産声を上げており、それは遠い昔日の気高さに守護されていたから、奔放な手段は優れた関節技で封じられて、粗野な顔つきは柔和にならざるを得ない。
この短い過程の光景はまさに針の先へ数瞬またたく光芒を見つめることに類似して、放恣な面持ちへ流され、夜空を仰ぐ神妙な澄み渡った意識にひろがってゆく。
そこに虚偽と真実のせめぎあいを覗くより、儚い時間・・・共有という勝手が良さそうで浅薄な側面を持つ了見、かりそめに倣ったとして、直ちに時計の針へと収斂されてしまう時間のなかに見出されるものがあるはず・・・もし満蔵がニーチェの永遠回帰の指輪を唱えていたとすれば、女優の存在はこの上もなく崇高な次元をあらわにするだろう。そして魔術師の笑いにつられ、酔歌をこじらせ読み解くなら躊躇なく卑猥な相貌となって艶やかな肢体が提供されるだろう。
由紀子はその予行演習だったとでも解釈を迫るのか。だから間弓の反撥を含んだもの言いなどあっさり容認して、形式だけ踏襲するのだったら、あきらかに満蔵は偏った思想に酔っている。
幸吉は満蔵の独善的な陶酔に嫌悪を感じていたが、どうやら舞台上で燦然たる照明を浴びるのは自分なのかも知れないという希望を拭えなかった。細々した今西家の由来や軋轢などは、その栄光に賦与される為に語られたのであって、耳のまわりでうるさく飛んでいる蠅にしか聞こえなかった。
迷妄を見届けるという意味は、自らも迷いに迷って妄りに欲望をつらぬくことではないのか。
そしていつまで経っても由紀子の祭壇に佇めない、悲しみに暮れる優雅で慎重な、もっとも抜け目なく他者を認知する機会はやって来なかった。欲望と荘重な儀式は水面下でしか戯れられない。幸吉は不純な精神の狭間でしか由紀子への思慕を伝えられなかった。
肉欲という装置はまるで眼を閉じて漕ぐ自転車のような危うさを秘めていたが、疾走感は約束され、行き当たりばったりかも知れないけれど、目的地への到達も熱情と揺籃のはざまにあって、心身の平衡感覚に過大な刺激をもたらしてくれた。
由紀子の肉体しか知らない幸吉だったが、心に灯った明るみは深淵に対する畏怖を差し引いてあまるほど、視界のうねりに密接な尺度となったのだ。
昼間に入った映画館を出たときに錯誤する外の黄昏は愛しさを通り越して、狂恋の灼熱を背中に張りつける。満蔵の書斎も同様の暗幕であったから、何から何まで仕掛けが施されているようで憎々しかった。
たしかに帰り道は歩幅によって夜の深まりが数えられている気配を感じ、脈搏の静けさに響く虫の音と、影が次第に消える由縁を投げかけながら、見慣れた地図をひろげるような心許なさに軽く身を震わせた。
「ひょっとして君こそが私の隠し子だったら」
そうはっきりとは口にしなかったが、満蔵は今西家にまつわる些事を絡めつつ婉曲に常套手段を打ち出してきた。幸吉が露骨な失笑を浮かべたのでそれ以上は切り出さなかったけれど、昌昭の血筋に関する事情に転じたところで、満蔵の声はか細くなった。
急勾配を降りて橋のたもとを照らす街灯のどこかくすんだ光線へと眼を遣ったとき、乱脈な係累があきらかにした情景が思い出されると、橋の下を流れる川音の激しさをのみこんで、急に架空のストリップ嬢が踊りはじめ、それがまぎれもなく断片的な肢体の映像でしかないことを知るのだったが、街灯とはまったく異なる光の矢に浮き出た手先に乗った鱗粉がはたかれ、まるで粉おしろいの甘い匂いを嗅がされているみたいな微妙な恥辱を受けて、それが単に素通りの悪感情ではない不思議にとらわれた途端、豊満な胸元へかぶりついている昌昭の顔がよぎり、裸体の持ち主はストリップ嬢ではなく、幸吉の母であることが衣ずれの柔らかさで示された。
驚きを隠せない心中は高鳴る一方だったが、史実を糊塗する老獪な指先にも鱗粉はへばりついたのか、今度は満蔵が娘であるはずの女優を裸にして眺めている。股間の恥毛はこざっぱりとしてあかたも子猫のあたまのように丸く盛っていて、愛玩の小国にでも放り出されたひ弱さと、未熟な野趣を告げる反撃が同居していたので悪夢の鮮明さに射ぬかれてしまい、宵闇をかき分ける勢いで足を速めた。
しかし夜の幻影が恐ろしかったわけではない、反対に眠りをつかさどる漆黒の化生の生暖かい息に近寄りたくて、その花芯を人知れずかいま見たくて、家路に跳梁している魔性たちの顔なき顔に目配せしながら玄妙な境地に遊ぶ意気を表わしたのだった。
面貌の不確かな裸体は踊り続けている。橋を渡ると幸吉の足どりは闇にとけ込んだ。地の感覚はなくなり、身体の重みも縮減され、由紀子の家へと駆けたあの風雨の日と同じく、あっという間に自宅の玄関へたどり着いてしまった。目配せに首肯した魔性から借り受けた幽美な義足のせいだと幸吉は想った。
夕食の味が失われたのはその代価であろう。両親と祖母の面差しへ被ると予感された今西家の形相はおぼろな幻覚とならず、また強迫的な太ももの魅惑に苛まれることもなく夜は更けゆく。
「果報は寝て待て」
子供の頃から親しんでいる金太郎飴を手にした幽霊はそう枕元で囁いていた。


[497] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 7 名前:コレクター 投稿日:2019年10月29日 (火) 01時25分

襖を開ける、自室の、他の部屋の、それが親戚の家だったり、級友の住まいだったり、あるいはふとした掛かり合いによって、そよかぜで誘われるように靴を脱ぐ見知らぬ家屋ならば尚のこと、ときめきは容量の際限を思いっきり無視し、まるで囲い込みなど霞の手応えであるごとく、底なしの自由を得るだろう。
ただ底なしゆえに空無な感覚がぴたりと寄り添っていて、価値に換算することは能わないけれど、もとより児戯に算段は無用、浮ついた瞬刻にこそ栄光があってしかるべき、たとえ女性の下半身を堪能していたとしても、通過儀礼の大儀がまかり通る時代はもう過去の遺産、せいぜいスカートめくりの悪戯の延長が功を奏した程度だと謙遜していれば良い。
あれほど煩悶を呼びこんだ事態の核心へ直面した幸吉の胸中は、意外と切迫感に引っ張られることなく、ちょうど小学校の卒業式に感じとったあの醒めた空気のようで、鬱蒼と立ちはだかる思春の森を正視しない横着に仕切られていた。
まだ子供の気分でありたいと望む反面、おそらくこれからは厳格な規律を余儀なくされそうで、また発育する肢体をもてあますだろう自身と他人との、無防備にからまり合う期待と疎ましさが嫌でも伸びしろを欲していた。
この書斎における満蔵と女優へ向けた視線もそうした矛盾を擁している。
中学に上る以前から淡い恋情と絶え間ない憧憬を胸懐に秘めていた呉乃志乙梨をまんじりと見遣るより、修学旅行での偶然とは桁違いな場景であるにもかかわらず、すべての花咲く中核を成しているはずなのに、幸吉あたかも造花の色合いを確かめるほどの素振りに落ち着き、その眼は白髪痩躯の佇みへと迂回することなく留め置かれた。
よって、それでも視界へ収まっている呉乃志乙梨の笑みが落胆であるのか、なりわいの演技なのかの区別のつかないまま、いや、その方が神経も感情も乱されなく平常心を保てるとやわらかな判断がとっさに訪れ、幸吉は満蔵の容貌に対峙し、これまでの出来事をなぞろうとしている穏和な衝動に駆られた。
間弓は座敷牢などと不穏な言い方をしていたけれど、以前と変わらぬ書斎をそんなふうに呼称する心境が哀しくもあり、滑稽でもあったけど、あくまで書き割りを意識したのなら、それはやはり皮肉なのだろう。
すでにドアを開けて間もなくお互いの挨拶は済まされており、底なしの自由は謳歌を待ち受けていたのだが、幸吉の弛緩した表情を見抜いた女優はすぐさま造花のような身構えをとって、気の早まわしか、フィルムの逆まわしか、情趣を昔日へ投げ、血の気の引いた平淡な顔色をもって無声映画の光景に乗じたのである。
この部屋の前で機械仕掛けの想念をよぎらせた意味合いがなんらかの予兆であったとすれば、まさに女優に対する気組みが不粋な方向に振り払われたのであって、興醒めしたふうな面持ちには包み隠せないまごつきがあぶくのように浮き出ていたのだった。
「さあ、油を注して」
幸吉は神にでも祈る調子で心に念じた。
黙する姿勢で臨もうと構えたこの対面、造花と無声映画を背景に進むのだっだら居心地は悪くない。
「娘の正枝です」
満蔵は開口一番こう言った。
一瞥しつつ、馴れ馴れしい微笑を抑えた成果が実りをもたらしたのではなくて、借りて来た猫みたいに縮こまっている体勢を彼らは思い描いていたような気がしてならない。女優より満蔵に釘付けになっているのも決算された矛盾なのかも知れない。
不機嫌な面貌へ宿った戸惑いなんて他愛がなく、そつなく急転する局面を願って、じらした足もとに軽く舞ったほこりの静まるのを沈着に数えているのだ。
書斎には暗幕じみた厚てのカーテンが陽光をさえぎり、午後の光景は剥奪され、身動きすら可能なのやら心許なくなるくらい外界の時間は閉ざされていた。
教壇こそなかったがここは陽射しを拒む実験の行われる教室に思えて、それは満蔵が校長となる以前、教諭時代だったころに説いたであろう授業を偲ばせ、娘の正枝はそれとなく実習生の風情に映ったから、この場は過去の記憶が流路を探してゆき着いた異次元の終着駅の面影に染まっているようだった。
幸吉はひとりの生徒として郷愁の横溢した授業に聞き入ることにした。

「最良の未来の音楽とはどういうものだろうか。悦ばしき知識のなかでニーチェはこう語っています。
第一等の音楽家とは、もっとも深い幸福の悲哀だけを知っていて、そのほかの悲哀を何ひとつ知らないといった音楽家であろう。
また、良心のやましさについて。彼が目下やっていることのすべては、行儀のよい、きちんとしたことだ・・・それなのに彼はそのことに良心のやましさを覚えている。なぜといって、桁はずれであることにこそ、彼の使命があるのだから、とね。
君にはわかりますね。そう、わかっているから私の申し入れに耳をかしてくれたのです。この通り正枝は君のすぐ近くにいます。これ以上の現実はないでしょう。これは夢でもまやかしでもありません。れっきとした婚約が話し合われているのです。前回はいくらなんでも突然過ぎて、さぞかし当惑されたことでしょうね。あれから私は時間を共有したつもりでいました。猶予いう流れのなかで最良の選択を行なうために。
君にとってはあまりに様々な出来事が続いた。試練なんて言うつもりはありません。ひたすら時間に、ほら、あの壁の時計の針に、ついばみ切り刻まれただけなのです。私を憎みますか、毛嫌いしますか、馬鹿にしますか、そんな気持ちはこの際どうでもいいのです。他者に関する感情なんて常に都合で動いていますから。
時計の針を見つめる眼と一緒ですよ。約束ごとや大切な日にはさっさとえこひいきする、同じ時間だというのに。量より質とか唱えるのだったら、それは量子力学の勤勉と葛藤に任せておけばよろしい。私たちにとって大事なのは朝も昼も夜も同じ時間が流れているという実質的な体感なのです。
もちろん悠久の時空に対してそうした体感を当てはめようなどと考えていません。そりゃ、時空は歪むでしょうが、君の性根まで歪ませる必要はないのですよ。
ところで、間弓と私の確執はもう知ってますね。さっき予備学習されたと思いますが、駆け引きを持ち出されたのではありませんか。まず、そこから説明していきましょうか。
君は風見由紀子さんと関わりがあったそうですけど、そのきっかけを間弓がつくったのか果たして私にもよくわからないのです。更に死についても。君は脅えたのでしょう、あれが殺人事件だったらとんでもないことになると。
でも安心してください。かりに間弓が風見さんを引き入れていたとして、その経緯を警察に伝えたとしても君は参考人止まりです。私がすべて間弓の虚妄だと証言します。家庭争議にまで関与できませんからね。
第一、間弓もそこまで軽率ではないでしょう。君は試されたのですよ。味方が欲しかったわけです。私が正枝を呼び寄せたことで憤りを感じているのでしょうね。それは仕方のないことですが、もう決めていたのですし、遅かれ早かれ、おっと失礼、間弓も進学するのですけど、君もそうじゃありませんか。
私にとっても君にとっても均一な時間だが、ねじをゆるく巻くわけにはいかないのです。むしろ都合という神事に日頃の情念を託すのです。詭弁に聞こえますか、聞こえてもかまいません。形式上でもいい、とにかく正枝と約束をしてもらいたいのです。
これから詳しくお話ししますので、どうか、納得いただきたいのです」


[496] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 6 名前:コレクター 投稿日:2019年10月22日 (火) 20時11分

姿勢こそたじろぎはしなかったけれど、胸の奥と目頭のあたりに深く突き刺さるものがあって幸吉は動揺した。
鋭い痛覚でも凄烈な揺らぎでもない、むしろ金木犀の甘く香る切なさに包まれたときのように、現実味が離れてゆく背馳をもどかしく感じる戸惑いの痛みであった。
道端に佇み四方へ眼をやって香りの出処を確かめようとはせず、風に吹かれまま歩を進めてしまう味気なさを嘆く、あの微少な後悔だった。
微少だから尚のこと細やかな情感は集束して、先急ぐ無為は季節の折り返しとなって記憶をくすぐる。
が、この場合、記憶のめぐる優雅な時間は孕まず、昼夜に隔てられた距離感も遠方からの麗しい調べとはならず、逼迫した痙攣を惹き起し、幸吉の声は不粋に震えてしまった。
「間弓さんがですか」
鳥肌を走らせた皮膚感覚はなんとも愚陋な言葉にしかならない。案の定、疲弊と気抜けと悲憤が同時に相手の顔へ現れ、
「嫌なことを言うのね」
と、不快そうな声音を返してきた。
しかし微細な神経の反作用だと言い訳がましく気を揉んでいると、間弓は思いついたように表情を変え、
「そうでしょうね。わたしの言うことなんか信用してくれないわね。ごめんなさい、でも本当なの、本当にあなたが初めてだった。由紀子と並べられても仕方ないわ」
鼻にかかったどことなく艶冶な口ぶりで幸吉を見つめた。
自分の不手際が帳消しにされたと思い上がってしまったのも無理はない、それだけ張りつめた空気を吸っていたのだから。
気概は先細りを余儀なくされて、意気消沈しては開き直り、訊問めいた口調を用いたりしたあげく、困惑にとらわれ、内観を模した感情の整理など散らばってしまい、ふたたび気弱な立場を了解している。
「由紀子さんと並べているのではありません。比べているのです」
そうはっきりと口に出来ない焦燥の裏に淫らな思惑が隠れていることも知っていた。比べていると発言した途端あらたな色情を認めざるを得ないし、間弓に媚びを売る自画像を抱えこんでしまうだろう。
決して理性に従順ではなかったが、このまま前哨戦で敗退してこれから起こる奇特な場景に立ち合わないわけにはいかなかった。間弓が言い放った好奇心はまぎれもなく息づいており、緊迫の気配と拮抗しているのだ。
すべてを破壊すると恫喝されたところで揺れ動く意想ではなかった。
間弓の以外な告白に興趣がわき、不届きな思念が包括されたまでのこと、狼狽の様相は不自然な自然であり、自らを欺く擬態と演技に私淑して痛覚を授けたのである。
そんなふうにでも考えなければ、とてもこの場を切り抜けそうになかったので、間弓の台詞に色仕掛けを嗅ぎ取り罪悪感を輝かせることによって、虚構の哀歓は痙攣を受け入れたのだった。
すでに女色を、毒づいたふくよかさを、いや、毒々しいと感じるのは自分の攻撃的な視線のちからであって、それは予期せぬ事態を好んで引き入れる防衛本能でもあり、はっとさせられた太ももに見入ってしまったやましさの糊塗でしかなく、さらに穿つなら、由紀子と間弓の繋がりをあくまで攻略や奸知と見なし、まるで司令部と前線との関係のように安直に図式化して、由紀子はともかく間弓の女色は稀薄であるべく忘れられてしまい、もっとも蒼白の面持ちには犯しがたい凜とした雰囲気が羽織られていて、すまし気味な横顔からは品性がなぞられるし、眉間の曇りに宿る沈着でつつましい仄かさには、官能を匂わせない純粋な愁いがあって一種の美徳へと遍満している。
そうした容姿から肉感を得ることは困難というより、単に視力の基準のはき違えでしかなく、合わせて冷徹で確乎とした信念を持っているのだから余計に色欲は組み込めない。でも女性としての美しさは初見で認めており、言葉にもしていた。
が、振り返ればただの社交辞令、女優をめぐる今西家への訪問に舞い上がった気分が他愛もなく口にさせたのだろう、まだ女体を知らない身には精一杯の取っ掛かりだったのだ。弁明はいつも見苦しいし、建設的な効果に歯止めをかける。つたない思弁の遊泳は怯えとともにあった。
幸吉は呪詛を知っていた。この世で一番軽そうなかつて貴重だった灰の重さを知っていた。そして燃え盛る情念を知りつつあった。
その駆け出しが同等だと間弓は言っている。もちろん何もかもであるはずはない、しかし十代半ばの男子にとって性への関心は、世界をめぐるより宇宙へ飛び立つより、十全の思惑とひとひらの過激さを胚胎しており、ましてや夢をまたいだ現実の場面は死より生々しい手応えを約束している。たとえ砂上の城であっても時間をつかんでいる。狭隘な遊び場に不平をもらすほど精神は肥大していないから、矮小な世間を呪ったり出来なかった。
夢の往還に時間はどう答えるのか。幸吉はもろく危うい土壌から真心を伝えた。
「信じますよ。あなたがそう言うなら。僕はうれしいです」
「まあ、わたしもうれしいわ」
「なるだけあなたの意向に沿うつもりでいます。確かに正枝さんが命がけだと言い切れないし、それよりよっぽど間弓さんの方が」
「もっともですわ。わたしは魂を賭けてますもの」
語気はさほど強くはなかったが、幸吉の言葉尻をつかみ取るように肯定した。
それが間弓の真心だと解釈するのは容易だったけれど、魂は不随意筋を刺激しないのか、肉体を駆り立てないのか、という軽佻な疑問がもたげ、胸許を撫でるむず痒さの先に隠微な淀みが作られた。しかし、不明瞭な淀みへ落ちる影に肉体の余光は映らず、色欲の素描も浮かび上がらなかった。
夜目を頼りにしなければ淫奔な場景が描けないとは限らない、昼下がりの一室に立ち籠めた呼気と、伏し目がちな節度に背反する重苦しくも甘酸っぱい吸気は、異性がまとうであろう魅惑を優美に沈めている。まっさらな寝具は汚れを怖れたりしない。
幸吉はそんな卑猥な想念に舌打ちしながらも、詭弁を弄しているのかさえ定かではない乱れた敷布に折り目を正した。
「よくわかりました」
「では従ってくれるのですね」
「また接吻してもらえますか」
うっすら笑った間弓の顔は宙に浮いたように透けた。
「ええ、あなた次第よ。ではしっかり迷妄を見届けていらっしゃい」
「そうします」
黒髪を際立たせている蒼白な、けれども柔らかな面差しと堅固な気構えで包まれている間弓に事務的な返事をした幸吉は、杓子定規な謂いの陰に隠しきれない余情を忍ばせたその果断に酔った。
後ろ髪を引かれるような悩ましさを背中に感じながら客間を出た刹那、鮮烈な情念が沸き立つのを覚え、思わず股間を押さえそうになった。
密室から密室へ・・・この陶酔をともなった意識はやはり幸福感なのだろうか。
廊下を渡る足の裏にはひんやりとした心地よさがあり、昂まる胸の鼓動と共鳴している。素晴らしき三秒間・・・満蔵の書斎の扉を前にした幸吉は深呼吸することなく事務的な気宇を保っていたけれど、ふと自分がからくり人形に似たぎこちない動きに抵抗しているような錯覚に襲われ、すぐさまそれは機械仕掛けの悲哀へと飛翔したのだったが、壊れた機械に狂いの生じるごとく、幸福の時間を尻目に間延びした昏迷へと分け入ってしまった。
紙飛行機に精密機械が搭載されている夢想にうながされて。


[495] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 5 名前:コレクター 投稿日:2019年10月08日 (火) 04時00分

両手に支えられた盆の上の透ける泡立ちを見つめるまなざしには、邪念を打ち払いたい気持ちが自分でも思わぬくらいはじけ、するとのどの渇きになにかうれしさを感じてしまい、腰掛けた位置からの間弓の制服姿はまるで雨の車窓のように閉ざされた淡いにじみで揺れていた。
高まる期待と落ち着きの悪過ぎる疑心の交差するなか、失意だけ突出した胸のあり様ばかりを捉えていて、当然ながら由紀子を失った衝撃がひろがりまでに至らないもどかしさと、その雑駁な意想にからみつく女体のあっけらかんした魅惑に悩まされている実際が、いかに気まずさを増長させ、直情を打ち出そうと意気込んだ姿勢を萎凋させてしまったことか、しかし束の間の内省は幸吉をよるべない復讐劇へと駆り立てた。
夏雲の下が似合う三ツ矢サイダーの単純な泡立ちと、肉感の退いたような気軽さが緊迫の糸を緩めるとともに、疎ましい色香の錯乱が生じ、卑猥な心持ちから解放されたのだった。
復讐劇が錯乱しているとみなしてもかまわない。
仕掛け屋敷へ飛び込んだ生身には映画の主人公のまとっているような時宜にかなった展開は約束されず、籠絡の掟がふさわしかったからである。
が、すすんで籠絡を望む心境など容易に解明されそうにはなく、それより確かに今日は招待を受けたのであって、いつかこういう日が訪れることを願っていたことに間違いはなかった。
そこにふりだしの芽が覗いていたとしても、ことさら強迫的な思念を重ね合わす必要はなく、肉欲から遠ざけられた苦渋を間弓の太ももへ見出すのは、単純に埋め合わせでしかないような気がしてきた。
「すいません、由紀子さんを殺したなどと、つい興奮してしまって。策もそうです、問いただすような口調で・・・結局は僕は保身を謀っていたのです。もう、いらぬ詮索もやめておきます。なにか大事な話しがあったのですね。そうですよね。落ちついて聞くべきでした」
過ちとは思っていなかった。
ただこの場に置かれた幸吉の身は暴走するためではなくて、回廊の余韻へと耳を傾けることにあり、ひいては迷宮の一端に触れることにあるのだから、客人らしく用件を述べ秘密を嗅ぎ取るのも結構だけれど、ここはひとまず間弓があらたまって明言している今日という日取りを念頭に入れ、圧搾され続けた意識のあり方を横滑りさせ、悪感情は据え置きにし、薄々感じとれる間弓と満蔵の案件に準じて、上書きされるであろう蠱惑にささやかな復讐を成し遂げ、有意的な錯乱を引き起すのだ。
「よく言ってくれました。わたしだって内心かなり怖かったのです。一番に由紀子さんのことで責められると覚悟してましたが、さきほどの会話ですと水掛け論に終始してしまいます。ごめんなさい、こんな言い方してしまって、でも仕方ありません、なぜって時間があまりないからですの。
一年前のあの日、同じこの部屋でこうして燐谷さんと話し合っていたときとは情況がかなり違っています。先急ぐようで申しわけありませんけど、父がどうしてもあなたに会ってもらいたい人がいるって譲りません。
実は灰田正枝さんがこの家に来てるのです。あっ、驚かれましたか、無理もありませんわ、昌昭にそう言づてをするべきか思案しましたが、由紀子の件もあるし、あなたは相当滅入っていて女優との関わりなんていまさら・・・金輪際だと思っているのではないかと危ぶみました。
わたしにとっては、こう申しては何ですが、それにこしたことはありません。しかし遂にあの人を呼び寄せたからにはどうしてもあなたに引き合わせなければならないのでしょうね。わたしには寝耳に水でしたわ。だから父に烈しく抗議したのですが、こう切り返して来たのです。
おまえが風見の娘を使って燐谷君をたぶらかしているのは知っている。止めさせようと案じてたけどあなたのことを信じていたから放っておいた。さて、死で幕が閉じてしまったのなら、いよいよだな・・・
お分かりでしょう、父は冷酷な眼でことの成りゆきを眺めていたのです。そして機が熟したと決断したのですわ」
幸吉には反論すべき個所があった。
金輪際だという了簡をくみとり引導を渡すのをうかがっていたなら、尚のこと弟に伝言させるべきであり、烈しい抗議とやらも見え透いた謂いにしか聞こえなかった。
だが、幾重にも折り重なった古文書をひも解くような浮き世離れした今西家へ淀んだ空気は、疑心をもって開いた東西の窓を開けたとして、そう簡単に風通しがよくなるわけでもなし、明快な経緯へ繋がるとは思えない。
幸吉はこのあとに控えている満蔵と、あこがれの女優に対しても一切の反駁をひかえ、最終的な申し入れが告がれる場面に黙して臨在しようと思いめぐらしていた。
半ば冷めた情念はいかなる動きを露わにするのか、そした実りのない実りに演劇的な浄化がどう施されるのかを見届けようとしていた。
驚愕に震える実感は訃報と同じくやはり希薄だった。あの呉乃志乙梨と再び出会える奇跡も過剰な意識が織りなす産物であるなら、間弓も満蔵も等しく横並びの体裁をつくろうだろうし、そのまま奈落へと滑り落ちる宿命に飾られている。
それはとても晴れやかな日を謳い、あらかじめ決定されていた日時を称揚し、立ちくらみを隠すよう感傷はゆくえを見失って、あらたな迷いに薄目が開かれ、そして、とりとめもない連想は驚愕を尻目にあやふやな、けれども馥郁とした匂いが色欲の芽生えを教えていたような、あの金木犀の甘く煙っていた運動会の光景へと誘うのだった。
欲することが抑制された発汗に秋空の冴え渡りを覚えるまでもなく、熱気を囲った運動場に密集した思惑は、ちょうど金網の外に咲いた曼珠沙華のけばけばしさを代弁しているようで、どこかしらもの悲しさを感じさせ、勇んだ気持ちや張りつめた神経をなだめている。
競技の順番を待つ間に胸打つ焦りはいつしか遠い情景へと運ばるような錯覚に至る。すると普段あまり距離感のない女子が懐かしくも輝かしく見えてきて、胸の打ち方はより小刻みな、だが、鼓動を秘めておきたい妙な照れに列なる。
その列は時間の呪縛から逃れているように感じたが、夢の長さに似てつかみどころはなかった。
「やはり唐突でしたわね。わたしがもしあなただったら、どうでしょう、困惑してしまって何も言えなくなると思いますわ」
「いえ、そんな気遣いはいりません。大丈夫ですよ、だって間弓さんは前座みたいな立場じゃないですか。明確な経緯なんか、ここでほじくっても仕方ありません。それよりですね、あの日と考えが変わらないのはよく分かりましたので、そろそろ本題に入ってもらいたいのですが」
幸吉はあくまで道義的な考えを盾に話しをすすめている気品ある女性像に飽きていた。
「そうですわ、時間がないってわたしから言い出しておいて、ごめんなさい。あとはゆっくり女優とお話して下さいね」
「あの、あとがどうなるかなんて今は関係ないんじゃありませんか。失礼ですけど、あなたはあの日、僕にくちづけまでして加勢を願ったはずです。婚姻なんて中学生の僕には絵空事にしか映らないと高をくくったからでしょう。で、絵空事が空虚なら女体をあたえるべきだと・・・いえ、すいません、また蒸し返してしまいました」
間弓の顔色は去年とさほど変化なく蒼白だったが、幸吉の言葉を聞いた途端ぱっと朱を頬に染め上げた。
これでいい、幸吉の気分には平衡感覚のような意欲が戻ってきた。
口辺に品よく漂っている優美な陰とあだ花の結びつきは、その艶やかな長い黒髪と相まって、間弓の眼に冷たくも獣じみた無償の鋭さを光らせた。
「おっしゃるとおりですわ。わたしの意志はあのときのままです。そしてこの始末です。わたしとしてはどうしてもお願いしたいことがあります。どうか、従ってもらえないでしょうか」
「従うのですか」
「そうですわ。はっきり申します。灰田正枝との関わりを断ち切っていただきたいのです。もちろんこの家ともです。あなたは女優なんかと結婚しない、そんなことは夢の夢なんです。学校では弟と顔を合わせるでしょうけど、昌昭はああいう感じですから、あなたにとって差し障りはないはず、どうか、進学を目指して学業に専念してください。なにもかも忘れてください」
「出来ればそうしたいと考えていたところです。去年は馬鹿みたいに浮かれてしまいました。誰のせいでもありませんよ、僕はただ浮かれたかったのです。そして父上の申し出に舞い上がってしましました。だけど」
「だけど・・・」
頬を染めた容貌に危惧が張りついている。眉間に寄せた恐懼が痛々しい。
「もし、正枝さんが命がけであったなら」
「そんなことあるものですか。誰が命がけなんです。父のあの女も頭がおかしいだけで、なにもかもぶざまなつくりごとなのよ。いいわ、はっきり答えてくれないのであれば、わたしにも手段があります」
幸吉は平均台に乗ったときのようなつたなさを感じ、今度は無人の運動場を思い起こした。
「どう答えればいいのでしょうか」
「燐谷さん、とぼけているの。わたしに従ってくれればいいのよ。いえ、とぼけてなんかいないわね、あなたは好奇心を捨てきれないだけ、そうなんですね。だとしたら、わたしはすべてを破壊します」
「それは、いったい」
「いいですか、あなたは由紀子と肉体関係にあった。そして彼女が死んだ日に逢いに行った。この事実を警察に報せます。当然ながら、わたしと由紀子のかかわりもこの家の確執もなにもかも洗いざらいにするつもりよ」
「どうしてあの雨のなかのことを」
「父だって知ってるわ。さきほどお話したでしょう。成りゆきを眺めていたって」
運動場がぐらついた。いや、平均台の気まぐれか。動揺は隠すほどではなかった。幸吉は間弓の本能にある種の感銘を受けていた。が、次の台詞には鳥肌が泡のごとく細やかに生じるのを禁じ得なかった。
「わたし初めてだったのです。接吻したの」


[494] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 4 名前:コレクター 投稿日:2019年10月01日 (火) 02時52分

狡猾な思惑がこの家の空気に充満しているという臆見はことさら不覊にゆだねるまでもない。
初見の間弓にまぶしさを感じたのは確かであり、そのまぶしさを糊塗するため今西にうりふたつだと、自他ともに認めてしまった早計がそもそもの誤りであった。
どれだけ今西家の内情へ分け入ろうとも、ここはさながら堅牢なからくり屋敷、造りも複雑なら仕掛けも自在、かりそめの訪問に探査されるほど安直な普請ではなかった。
こころなしたくしあげられたふうに見える間弓のスカートもまた家具調度を照射する午後の光のなかにあって、その不自然さをほこり立つ秋の閑寂へ溶けこませているのだから、一枚の絵画を鑑賞しているような趣きになびくそぶりで淫猥な含みは抑制されてしまい、夏の日のぎらつく獣欲に追従することもなく、
併せてこれまでの経緯が、恋と肉体、倨傲と裏切り、そして死が、終わりなき終わりを無常に告げていた。
不信感を募らせたり疑惑に招かれ気安く訪れることのなかった家である。いや、訪ねようと思えばいつでも可能であったはずなのに、女体に溺れたままの姿態をただ単に汚れとして、あるいは無邪気な傾注として保ち続けたかった意志が勝っていたのだ。
「しがみつくことで時間を流し、忘却の彼方にさまよいだすって」
由紀子が話したというこの言葉を顧みるだけで幸吉の鼻息は頓挫し、あとに残された空砲のごとき股間の怒張など、却って手玉にとってくれと願っているような案配だったので、ふりだしへと舞い戻った感は否めず、輪をかけてよこしまな性情がはみ出る始末、もはや呆然とした目つきをかろうじて保ち、いつから間弓の下半身に見入っのか照れ臭そうに歪んだ笑みをつくるより術はなかった。
こうなると由紀子を殺しただの、恋慕の擬態を弁明するだの、血縁の是非を問うだの、満蔵の瘋癲具合を推し量る権利だのが、砂上の楼閣でしか成り立っていない空論に帰着するのは歴然、放課後を待って躍り出た気勢が一気にそがれてしまった。
ここまでたどる道すがら想いめぐらせ、決着を求めた意想の裡に、玉砕めいた空騒ぎに浮かれる自虐の片鱗があったようにも感じ、意欲は増々もって低下するばかりで、嫌らしく媚びた表情に堕するしかなかった。
間弓はいち早く消沈した顔色を読みとったのか、
「今日はわたしどもの方でお越しを願ったのです。まず、そこをよく考えてみて下さい」
取り澄ましたなかにも清らかな哀憫を匂わせる声遣いで幸吉の下げた目線に訴えかけてきた。
本意を耳にしたのか。厳しく柔らかな言葉は開幕の華やぎを知らせる優美さを持った序曲のように聞こえる。
だが前哨戦と序曲の違いを述べたりは出来ないし、既視感に苛まれているのかどうか、今の情況を疎んじているかどうか、好奇心を手招いているのかどうか、判別には及びがたい。
そこで甘美な記憶だけを頼りにして、この部屋で初体験した接吻を想起させてみたものの、険しい塁壁に咲いた一輪のかぐわしさへ触れるごとく、地に足は着いておらず、想いはさまよい漂うばかりで花弁の色沢に近づけない、太ももの眩惑もしかり、強迫的な意想は全身を透過してしまったのか、しおれた草花の緑がかすれて遠のく。
幸吉はうなだれながらこう言った。
「ちょっと待ってください。すごく頭が混乱しています。同じことがくり返しているふうに思えていたんですが、どうやらそうではなさそうですね」
「そうですわ。あのときはわたし風邪気味で家に居ましたの、今日は学校帰りですもの」
すでに疑念は後退しており、一種の催眠効果を受け入れた心持ちに包まれていたので、
「もし僕があなたより先だったらどうなりました」
と、素朴な、しかし核心を突く質問をささやくようにしてみた。
「早引けしてきたのですわ」
幸吉は特に驚く様子もなく、差し出されていたコップを口に運び、やはり三ツ矢サイダーだったと妙に感心して飲み干した。
「おかわり持ってきましょうか」
「はい」
間弓がちょうどいい案配で部屋を出たのを期に、幸吉は一気にここに至るまでの時間を振り返った。かすれた残像に未来を託す胸騒ぎの断片とともに。

放課後まで平穏な空気に校内が充ちていた実感は得たけれど、不穏な物音にいつ人生が歪みだすのか、ついぞ謙虚に考えもしなかった些事は塵と同じで、積もる理念も風化にさらされるよう、まだ見ぬ将来に夢魔が棲みつくのを承諾している小さな刺に脅かされるが、その痛みを他所にして傷口だけ見つめるまなざしは拡大され、静謐な空間は脳内を模写できないまま、運よく異変から逃れられた。
由紀子の死はすぐに伝播したが、幸吉との関係をとやかく言う者はおらず胸をなでおろした。しかし胸のなかには濃密で奔放であった情交に対する畏敬が巣食っているようで、それは極めて個人的な皮膚感覚の領域に守られていて、どれだけ観念が肥大しようとも、境界線は越えられることなく、外部と言い習わされる射程に及ぶことはないのか、畏れと悦楽が不可分に入り乱れる放恣は厳密に見届けられそうにもない。
そのぶん末端神経から刺激を感じとってしまうのは仕方の連鎖で、が、痛覚を通り越してめぐる地平は血漿の恩恵を知らないまま深度を計ろうと努めるのだった。
間弓が早引けしてきた理由は十全に呑み込めた。幸吉もそれを願ったほど今西家が愛おしかった。
由紀子の追悼に暮れることはたやすくて、なぜかと言えば死者は逃げたりしないからで、つまりそれだけ今西家をつかみ取れない動揺は消し去れず、一蓮托生の念いが蠢いている証しであり、自分ひとりで抑止する清廉な心構えは築けそうになく、不安の募るほどに負の感情が、憎悪は執着に、軽蔑は信頼に、恐怖は愉悦に転化するのであって、すると情愛は暗き夜空へ上る月に似た安寧となり、緩やかに移り変わる心の動きを求め、次いで確証を得るための紐帯にしがみつく。
名称はどうでもいい、欲望の根源に少しでも触れたなら最後までその幻影を見つめなければ、脳内は崩壊する。相互の瞳に映る花の色を確かめ合うのだ。戦々恐々としてうずくまる哀れな人影に時間は卒然と寄り添う。
頃合いが最適なら空間は決定されるだろう、ゆるぎない野望の散ったさきには運命共同体の残滓が種火を待っているのだから。
間弓は幸吉を求めていた。おそらく満蔵もだ。だから見殺しにはしないのだろう。思考の上出来なところはこうしたそつのない道筋へ光源を惜しまない様態にあったけれど、残念ながら更なる勘ぐりを働かせてしまうあだがあった。
幸吉は由紀子が今西家によって殺されたものと見なしてしまった。
そう見なさなければ喪失感が成立しないと考えたからで、短絡的な方便を援用していることに錯誤はなく、すべては偶像を共有した事実へ収斂されるべきであり、肉感を葬るのではない、逆に肉感は取り戻さなくてならないと意識した結果であった。
仮に今西からの伝言がなかったなら・・・おそらく喪失感は風説におののきつつ沈黙へと歩むだけだった気がする。
ここで幸吉の進退と向後はみじめなくらい人まかせだった脆弱が明確になった。ろくでなしの烙印はまず自身へ押されるべきであったが、女色で骨抜きになった幸吉の眼には惚けた不良の吹きだまりにしか映らず、知性は陰部の底へもぐりこんでしまっていた。
満蔵が入院などしておらず、座敷牢に囲われていると聞かされても、今西が実子でなかったと告白されても、由紀子はあくまで事故死だったと言い張られても、胸にひろがる衝撃は浅く薄れていた。
唯一、幸吉の支えとなっていたのは沈黙に心身を預けようする抽象画じみた曖昧な、感性をも拒むような、変に意固地な生命の軋みであった。
未だ由紀子の不慮を受け止めていないせいなのか、涙があふれ出すことはなく、強烈な悲しみに痙攣的に襲われたりもしない。
満蔵の意向なんかどうでもよく、むしろ引き合わせてもらった間弓への感謝の気分がすこし残っていた。
今西家の軒下に佇んだとき、幸吉の記憶は華やかさとない交ぜになった薄闇の空間へ結ばれ、官能を伴わない由紀子の裸体の白い影が無造作に浮かんできた。
あの夕陽をはね返すような赤みや火照りが冷めたあとの、熱い交わりを済ました夜にひっそり味わう孤独、裸身の不在を蕭条と噛みしめるために供されたほの暗さ、それはありきたりの豆電球がカーテン越しに招き入れた月影のおぼろな浸潤であり、幽かな戦慄であった。
眠りが明日を迎えるまえ、薄闇はまぶたの裏へ入れ知恵をする。
回廊には余韻がすでにたなびいている。ふたたび惹起されるもの、幸吉は昂奮していた。




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