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[525] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら2 名前:コレクター 投稿日:2020年06月23日 (火) 00時35分

自宅の窓から眺められる稜線が起伏の曖昧な濃淡を知りつくしているように、駅舎の上空を意識せずとも、正枝の青白い顔は気怠さと鋭気で同時に華やぎ、幸吉の見遣るべき方角を仄かにしめしていた。
蛍光灯の明かりが白々しい照度に思えてきたのは、関わりに疲れた証しというより、ほおっておいても自然に溶けだすであろう氷塊を想起させるのだったが、その大きさはどれくらいなのかよくわからないまま、ただ冷たい手触りが透明な白さのなかで彷徨っているふうな、無邪気さに退屈してきたのだった。光線の広さを散漫な手つきでつかみとることが出来ないごとく、悦びと悲しみの由縁を両脇にかかえ慢心するのは難しい。たぶん慢心でなく硬直した精神の機微を不誠実に模索し続けていたのであれば、この瞬間は絶え間ない表現を、それより前の現実に照らし合わす意欲をもって讃称されていたかもしれない。晴れ晴れしい栄光が過ぎ去ってゆく薄明を身近へ感じるほどに、後ろ髪を引かれるような胸騒ぎが生じたけれど、あの激しい情欲の訪れに比べたら軽はずみな巡回でしかなく、ちょうど洗面器の水をかき混ぜて小さな玩具の船を泳がせているような童戯の域を出なかった。
戦慄をともなっためまいは夜のしじまへ置き去りにされ、代わりに疑い深い野心が健やかな目許を形づくる。かはたれどきの意識にはまどろみの淡さが揺曳しており、それはどれだけ夜更かししようとも、寝ずの番に倣っても、緊迫と情念の地平が向こう見ずな暁光を沈めている以上、尖った神経はあたかも初霜の重みをそっと感じる野草のように、冷感を幻聴の得て、視覚だけ頼りとする現実の景色からこの身を解き放つ。
旅館が旅館である意味を過分に引き受けているような感覚は、女体との怪しい結ばれによってなおさら背徳の欠片をかき集めたし、あわせてささくれ立った詩情みたいな良心を発見してしまい、妙に気恥ずかしくなったりしたが、この部屋の時計を今はじめて眼にしたと思ったのも、時刻がしめす非情なまでの快活さに動ずるのも、やがて徐々に耳へと入ってくる町並みの忘却の条理が軋むからなのか、風の音や海鳴りにも似た騒音の気配、きれぎれに鳥のさえずりへと絡む労咳らしき人声は遠くかすんで、見苦しさを覚える以前に新鮮な空気に染まった色調が音階を戯れさせると、まるで鼻歌みたいに通りを抜けていくのだった。余興もまた見苦しさに恥じ入ることのないまま、子供じみた台詞を幸吉の舌へ乗せた。
「嘘に終わりがあっては困ってしまいます。面白い嘘なら特にそうなのですが」
「言葉遊びに罪がないとでもおっしゃるの」
「罪かどうかはあなたが決めてください。そこでお別れを前に正枝さん、あなたの嘘をあっさりあばいておきましょう」
「どういう意味ですの、あっさりあばくとは」
「家へ帰れば三人が待っています。でも三人を糾弾するつもりなど毛頭ありませんよね。それどころか、由紀子さん殺しの真相をうやむやにした功績をみんなで讃えあうのです」
「そんな馬鹿なこと、いったい何を言いたいの」
「早送りして言えば、あなたは今西家の成員が油断した隙に鋭い刃物を振りまわし、皆殺しにしてしまうのです。それからこと切れているかちゃんと確認し表に出ると、一世一代の悲劇のヒロインを演じるわけですね。正当防衛なの、わたし殺されそうになったの、由紀子さんを闇に葬ったのもわたしの家族たちなの、でも誰とも血はつながっていないわ、認知の件でもめてたの、でもまさか、こんなことになるなんて」
「幸吉さん、いい加減あなたこそ狂っているんじゃない。そんな突拍子もない話し」
「いいえ、計画性のある話しだと思うのですけど」
「だから、それがおかしいわ。わたしが殺戮をくりひろげてどんな幸せが待っているのよ。そんなの人生終わりでしかない」
正枝の蒼白な面持ちが奇特なくらい歪んでいくのを見守った幸吉は、
「売れない女優の仮面を被って生きていくのでしたね。そこが変に聞こえて仕方ありませんでした。あなたともあろうひとがそんな臭い発言をするなんて。あきらかに反対の意志を持っている。用意周到なのは三者との手紙、十分な証拠品ですし、都合の悪いものはすでに処分しているでしょう。それにあなたは自分にとって不利な文面も書き送っていません。細々と微に至るまで僕に語ってくれたのも、まさに証人のなかの証人に仕立てあげる為だったのですね」
と、整数を読み上げるふうな乾いた淀みのなさで言った。
「で、一家殺害者になったわたしはどうなるのです。あなたを証人なんかにしたところで割りに合いません。なら動機を、動機を説明してくれますか」
「証人と動機が不可分だった。これが今回の事件の、あっ、ごめんなさい、まだ実行されておりません」
幸吉の冷徹なもの言いがいかにも腹立たしい様子だった。
「不可分ですか、そうなんですか、ではそれを説明して下さらない」
「売れる売れないはあなたの判断より世間の評価が大きいって考えましたよね。それが動機です。あなたは悲劇を背負ってしまえば、つまり醜聞なんかよりもっと偉大な扇情、そう殺人を、しかも道徳規範を意識するあまり極めて従順な姿勢を残しておく必要がありました。あなたの犯した虚偽はどうにも虚偽とは言い切れません。これはあくまで心情的な捉え方に過ぎませんけど、まるで家族間にはりめぐらされた蜘蛛の糸を慎重に渡るような姿勢こそ、一歩見方を違えればものの見事に、禁欲的な忖度へすり替わってしまうのではないでしょうか。とかく世間は生真面目な態度を好みますので、あなたの気配りは局所麻酔のような効果を発揮し、煉獄の炎は鎮火され、大罪は大罪と呼ばれる機運を逸するのです。あなたへの同調に大いなる期待を寄せることはさほど無謀ではなく、たとえば大蔵社長みたいな商人からすれば、意識変容の冷めきらない内に是非とも銀幕に新たな息吹きを、殺戮と引き換えにした鮮烈な色彩で映し出したいと考えはしませんでしょうか。
希代の女優の道が開ける可能性に賭けたのではありませんか。いくら親族ではないと謳っても、これは逆ですね、極めて親族に近いだけじゃない、肉体の結びつきも含めて心のつながりは相当こみ入っており、どろ沼の一言では片付けられない境地まで地ならしされてました。僕との婚姻、あれは正気だったのですよね。僕はあなたより由紀子さんを好きになってしまったから、結局失敗しましたけど」
「何度も言いますが、どこの映画会社が殺人者を女優にしてくれるのです。社会通念も道徳もなぎ倒してですか、あなたの脚本はあまりに飛躍しすぎていて誰も見向きもしないわ」
「さあ、どうでしょう、やはり大蔵貢社長だったら好むと思うのですが。エログロ路線も行き詰まっているみたいだし、ここで本物の殺人女優を映画へ登場させる。由紀子さん殺しとか筆を加えなくても、すでにあなたと間弓さんの手紙の応酬だけで危機せまるものがあります。認知をちらつかせて殺人犯へ陥れる構図も現実の力がものを言いますよ。大蔵社長のことです。裁判やら執行猶予を鑑みて大作の制作に取りかかる。そうなれば、もうあなたは日本中のいえ世界中の大女優に上り詰めることでしょう。僕さえあなたの証人であったなら」
興奮によるものだろうか、正枝の頬は紅潮し、少しだけ狡猾な笑みを投げかける。
「展開はわかったけど、ひとりで三人も殺めたりできるのかしら、反撃されて顔中傷だらけなんて悲惨すぎるわ」
「あなたはそうした段取りが得意じゃないですか。劇薬をのませてから、これは後々検死で明るみになってしまいますね。となれば、ひとりづつですよ、満蔵氏はほとんど寝たきりでしたね。ですからあとわましにして、やはり昌昭君を色仕掛けで悩殺させ、本当に死んでもらう。つづいて間弓さんを呼びつけ、弟の死体のそばまで近づかせ背後から一撃で、あと同じ部屋で言い争い刃傷沙汰まで至ったことを現場的に作りだすには満蔵氏にも誘いかける必要がありますね。それから正枝さんも手足や首筋とか自分で傷つけておくべきです。顔はそうですね、額くらいなら髪で隠せるから思いっきり。洋服もボタンを飛び散らせたり、とにかく血で汚れるだけ汚れてください。正当防衛であれ、相手は三人、うまくことが運ぶ確立は低いですが、あなたは夢の向こう側へ踊り出ようとしている。やがて大々的に上映される映画には、鮮血の家族とか、紅の女豹なんて題名がつきそうです。その為にこそ今西家にまつわる煩瑣な血縁関係が役に立ったのでしたね」
「それで、幸吉さん、筋書き通りにしなさいとわたしに命じるわけ」
「とんでもありません。殺人教唆なんてまっぴらです。嘘をあばいたのですから、殺戮はあくまで妄想としておきましょう。素直に売れない女優の仮面なんて脱ぎ捨てればいいのです」
「ずいぶんだわ。ひどすぎます。もういいわ、証拠はわたしがいなくなってから、しっかりそのとち狂った脳みそで考えてみてよ」
ひかえめであった時計が能動的な配慮で夜明けを告げていた。
幸吉は正枝の帰り支度をぼんやり見つめながら、女優としてもう二度と呉乃志乙梨の姿を見ることはないだろうと思っていた。たしかに正枝のいう通り、貴重な、散々気持ちいいことをしておきながら、この薄幸の女性をいたわるどころか、取り返しのつかない境遇へ追いやろうと、しかも探偵気取りの風采に甘んじながらの、取るに足らない優越心だけにしがみついている。自分の緩んでほどけた帯とはうらはらに、正枝の身支度をしおらしく整えていたが、その面持ちはうかがい知れなかった。
人生最後の事件、脆弱な心根は早くも時計の動きに老成を託しているのか、無様さとやりきれなさの交差点に灯る赤信号を想い起させる。危険な賭けなら自ら突っ込んでいくべきだった。
「ねえ、幸吉さん、わたし思い直したわ。これから一緒に今西家の方々とお話しませんか」
可能なだけ想像しつくした憐れみの、そんな言葉を待ち受ける所在のなさは時間のうしろへ佇んでいた。


[524] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら1 名前:コレクター 投稿日:2020年06月09日 (火) 01時56分

「父のはぐらかしと前のめりな勘案に対して、あなたは子供だましの口ぶりを耳にしたときのような、居心地の悪さを覚えたにもかかわらず、幼さが残された無邪気さに頬をゆるめていただろうし、なにより色事と理想や儀礼の混濁した形式の始まりで胸を高まらせていたのだから、今さらなにも迂回のよるべない戯れへと舞い戻ることはないでしょう。歯ぎしりするほど悔しがったり、手に汗かいて背筋を冷や汗が流れていく緊張に苛まれた成りゆきは、あなたにとって又とない華美な体験を約束していたに違いないわ。
間弓さんは決して口外していませんけど、あきらかにわたしを利用する名目を待ち受けていたのであって、仕方なく間弓さんの意向に寄り添ったことも含め、ことさら折り紙をつけるふうに狂人などという生臭く乾いた言い方で向き直さなくても、浮き足立った相好はわたしの影にへばりついており、あなたの深度計に敬意を払うべきでなのですが、なにしろひとつ屋根の下で息をひそめるなんて、そうよ、間弓さんと昌昭さんの関係に父が気づかないはずはなく、由紀子さんを巻き込んだ色欲合戦の結末を見越していたと考えられるべきだわ。三者との手紙のやりとりを通じこぼれ落ちてくるのは、父が風見家との不調和にこだわっていて、あなたの言う狂人らしさを香らせるため、是が非でも由紀子さんを渦中に引きずり、そして燐谷の妻の子である幸吉さんと結びつける、さながら磁石の性能を確認でもするみたいにね。もっともそんな算段こそ風狂以外のなにものでもないから、わたしだって父の目論見に黄昏の景色を眺めるような案配で、そら恐ろしい経緯に夢見る心地を滲ませるしかなかったのです。
まず、昌昭さんが秘かに修学旅行先でわたしを抱いたこと、あくまで素知らぬふりをする間弓さんでしたけど、純潔同士の肉体に恋い焦がれていたのに、わたしと交わったと知りどれほど嘆き、憤懣やるかたなかったことでしょうか。でも相手は遠い都会に暮らしていて、涙を枯らすのは天の恵みであって毎日必ず顔を合わせる境遇に勝機を見出すしかない、空模様の不機嫌さが自然と笑みをもたらすように、間弓さんの失望はぐるりと敷きつめられた健気な雑草の横から開花する可憐な見映えをなぞり、したたかに底意地の広大さを脳裡へ持ち上げて、情欲の火花が咲き散る刹那を限りない優しさで凝固させたのよ。
一度だって女体を味わったのであれば、その欲望は風化なんかしない、必ずや悶々とした念いを、そう昌昭さんは誰の眼もないと気配りなく隠微に眠りのなかへ、布団の下へ汗とともにしみ込ませるだろう、だとしたら間弓さんはひと足早く、そんな切ない煩悶から解放させるために、苦渋の酸味を含んだ汗なんかとは異なる欲情のしずくをあたえるべく、禁断の色香を正当に打ち出せばいい。よりにもよって隠し子の女優なんかに入れあげてとか、自分の気持ちを踏みにじったとか、決して非難したりはせず、あくまで穏やかな態度と異性を鮮明に意識させる媚びをかいま見せたうえで、女体の開眼はここにこうしてあるのだと、密やかな耳打ちをしつつ裸体をさらけ出す。昌昭さんが心身ともに凝り固まってしまえば、姉としての責務を果たす素振りで、同時に女としての情を捧げるだけ。
わたしの認知が先々でしかない現実を、間弓さんは強烈なまなざしで見つめ、昌昭さんにその肉体を開いた結果、血のつながりのない厳然たる脈拍は波打ち、禁句であるべく相似形の由縁は無効を高らかに謳いあげ、ほとんど外出しない父の寝息を慎重にうかがっては、深夜を待って互いの肉欲をぶつけあっていたのよ。寝入りの浅い父の耳もとにそのよがり声が、しっかり届いているとはつゆ知らず。
もう出来てしまったので、包み隠すことないなんて思うのは大間違いだわ。戸籍上は姉弟であり、しかもいわくつきの、風見成実の悪名は忘れられてはおらず、間弓さんや由紀子さんの同学年の男子生徒と昼間から乳繰りあっている。父にしてみれば、過ぎ去った幻影がしきりに春春の光で包まれているように映って目映く、かといって娘であるわたしとも情を交えた昌昭さんの奔放さを容認しておくわけにはいかなかった。形式としての婚姻は今西家に巣くう淫欲を祓い清める儀礼の趣きで唱えられ、他者の幸吉さんが偶発的に選ばれたけれど、あなたの母は父の古き恋人、儀礼が内包する厳粛さのみが空疎に佇んで、その心願は乱れに乱れる業の照り返しに本然を悟り、人生の坂道を大様と振り返ろうとでもしたのでしょうか。
由紀子さんのスカートの下へ蜂を忍ばせたのも父であったら、すべての辻褄が合うのですけど」
いくらかふてぶてしい顔つきで頷こうとした幸吉は語気を改め、
「端的な前置きで感心しましたけど、正枝さん、あなたの素性をそろそろ教えていただきたいのですが」
そう問いかけると、
「そのつもりですわ。でもすでに分かっているのじゃありませんの。わたしが満蔵の娘ではないってこと。ええ、父も内心そうだと考えているみたいだけど、娘であって欲しいと願う気持ちの方が勝っていて、どういうことかしら、昌昭さんもそうだし、つまるところ血筋なんてどうでもいいのでしょうか。いいえ、そんな単純な主旨ではなくて、もっと逆説的なこじつけに似た不埒で、浅はかで、愚挙であればあるほど奮起させる桃源郷を脇に見据え、不安定で覚束ない老境に束縛されたりせず、反対に安定の義理を欠くことへの忠誠に痙攣的な意識が生じているように思えて仕方ないのです。駄目ですわ、そんなこと父に聞けません。あなたの娘ではないと明言することになってしまいます。これがわたしの逆説的な親孝行と呼んでくださればうれしいのですが」
いかにも女優然とした憂いとはにかみを交差させた。
「僕は好きですよ」
「ええっ」
「小津安二郎監督の東京暮色、有馬稲子さんがとても魅力的でした」
「そうですの」
「深夜の告白、はもっと好きです」
「ビリー・ワイルダー監督でしたわね」
「バーバラ・スタンウィックが演じた悪女にも惹かれます」
「嫌にせっつくのね。あなたを殺人犯に仕立てようと考えていたのかしら。しかし、そういう展開になりかけたのは事実、真犯人を述べるのは少しだけ待って」
「いいですとも」
「さて、それでは父がわたしに性的な関心を持っていたのか、そこを説明しておきましょう」
「分断されますね。とことん、僕は持っていたと信じたいですが、どうにもしっくりしない。あっ、すいません、どうぞ続けてください」
「いっそ、話しなんか止めにして、あれをしません。しながらでも話せるような気がして、そうしたら楽に思えて」
「全部ですか」
「一部なんてあるのかしら」
「ありますよ」
「気分を害しました。あれは止めにします。さて瀧川さんですけど、父が語るにはあれくらいの年頃で母親くらいの女と寝るなんて、不思議な思い出になる。由紀子を手篭めに出来なかった腹いせなんかではないわ。もしそうなら私は尊敬しない」
「ちょっといいですか。あなたはいつから満蔵氏とそんな会話を、この町に着いてからでしょうか」
「いいえ、もっと前からよ。わたしが父の子ではないと公言した以上、冷静な緻密さなんて必要ないわ。それくらい理解してください」
「手間は省いてと言いましたが、理解可能な範囲でお願いします」
「由紀子さんも大概だわ。自堕落な母親と暮らしていて、あっ、そこよ、どうして思い当たらなかったのだろう、ねえ、幸吉さん、わたしに血縁がまとわりつくことも生まれることもなかったように、風見成実は由紀子さんを生んでいなかった。だから、ああまで淫猥だったのよ」
「それは推測ですか」
「たぶん正解だわ、瀧川さんはそれを見抜いたのか、もしや相手から聞かされたのか、で、興醒めしたわけよ、親子を犯しているかのような高邁な色情がさっと色褪せてしまったのね。戸惑いと弱みを絡めとられた末、まんまとお人よしに成り下がってしまった成実が疎ましいだけだった。しかし暴君のごとくに振る舞う放縦さは顰蹙を買うどころか、逆に軽薄な喝采で空気感を濃くし、なんと主婦好みの体裁は瀧川先輩を美化させ、まわりはより一目置くことになったの。ただ、そこに由紀子さんが殺される理由はうかがえません」
「しかし瀧川先輩が」
「理由がないのよ。まず得意気に熟女のあつかいをまわりにもらしている。この広い世界のなかには性的な興奮から殺人へ転じてしまう事例があるのでしょうけど、少なくとも瀧川さんは自己愛が強い反面、自制もちゃんと心得ていたのではないでしょうか。絶頂の瞬間だろうと、讃美の最中だろうとまず自分を失うような性格ではないわ。
思えば間弓さんが調べてくれた風見家のふたりはひどく他人行儀だった。近所の主婦に乗り換えたところで、喘ぎ声から解放されたとせいせいしていたはず、お互いの下半身事情に冷酷なほど無関心であることを痛感した瀧川さんは、冷淡な眼こそ向けたとしても、殺意を抱かせるような発展にたずさわっていなかったはずよ。残された選択は何らかの状況で強引に迫ったのか、それに似た攻撃的な事故に見舞われたのか、いずれにせよ、由紀子さんは致命傷を受け、橋下に投げ込まれた。でもあの日は悪天候、いったいどこでもみ合ったのか」
「先輩が犯人ではないと」
「証拠がないのよ。あなたの夢遊病殺人だって捨てがたいわ」
「僕だって動機はありませんよ。妊娠したと打ち明けられて面倒になったからとでも、そんな馬鹿な」
「幸吉さんの線は薄いわね。だとすれば、昌昭さんしかいないわ。わたしの真意を知ったうえで間弓さんと共謀する。間弓さんはそれを口止めし、晴れて愛が実ったからには由紀子さんが邪魔になってくる。代役であることから踏み外れ、あなたのことを思い詰め、今西家と無縁になるのはいけど、形式としての婚礼が早められ、わたしという部外者を姉と呼ばなくてはならなくなる。間弓さんも由紀子さんを引き入れたのは父だと思っており、そしてなによりも昌昭さんとこれまた血縁でないとしたら、一番危険な女になると怖れてもおかしくないわ。すでに間弓さんの肉体にのめり込んでいた昌昭さんを焚き付け、亡きものにしてしまえば、父だって縮み上がってしまい、わたしの認知も取り消し、元名士としての器量を発揮してもらい、姉弟を越えた情愛の形式を世間にひろめさせることで、今西家の波紋は亀裂を忘れた風趣な展望となりうるわ」
「それで、正枝さん、どうするつもりなのですか」
「これから三人を糾弾し、わたしは東京へ帰ります」
「僕には今西君が人殺しをしたなんて想像も出来ないのですけど」
「三者の密談で、こうなることも協議されていたでしょうね。わたしは認知もあきらめ、あなたが狂女の王冠を授けてくれた気概に感謝し、売れない女優の仮面を被って生きていきます。ごめんなさいね、あれ、する時間がなくなってしまいましたね。もう夜明けは近いわ」
「さようならですか」
「ありがとう、さようならです」
「正枝さん、最後にひとつ。どうして僕と」
「証人になってもらいたかった。わたしのこと、信じてもらいたかったからよ」
「形式の婚約者だからじゃないのですね」
「もう形式は終わったわ。あなたの貴重な体験も終わりです」
幸吉は思い切り顔をくしゃくしゃにしてこう尋ねた。
「あなたの嘘もこれで終わりですか」
薄明の垂れ幕がまだ夜空へひろがらない静けさを知らしめるよう、野鳩が数羽、聞き分けのよい赤子に似た鳴き声を軒先へやわらかに転がしている。
虚構の虚構に別れは似合わない、払暁を顧みるとき、決まって幸吉は母の言葉を思い返す。
「年寄りの病人が寝ついて、うなっているみたいに聞こえるから鳩って薄気味悪いのよ」
夜を通り抜けた本能と、さり気ない日常のひとこまへの直感が両方の耳へこだましていた。


[523] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた22 名前:コレクター 投稿日:2020年06月02日 (火) 02時38分

「気だるい夕陽は今日も都会のまんなかへ沈んでいるのかなどと、具体的な安息と一緒になった映発する踏み切りの電車に、人影を見送っていたつもりが、ちょうどやせ我慢している相手の気持ちを苦々しく汲み取ったときのように、まばゆい遮断で急かされて、ふっと後味を噛みしめながら立ち止っていたことなどすっかり忘れてしまい、アパートの階段を駆け上がる足どりの重さに入り雑じった安穏な期待へ即したのか、そんな日に限ってね、郵便受けには今西家の三人から同時に手紙が届けられていたりするから、ついつい裏の小さな墓地を朱に染める加減にほだされて、都会の喧騒が田舎町の景色との距離を感じさせなくなり、それはとても地味な心意気であるにもかかわらず、ふっと踵が浮き上がるような親しみを押し隠しているのか、この町のどこかへ繋がっているみたいに思えてきて、瞬く間に日本列島を縦断してしまう風景の連なりは果たして誰に補強してもらったのかしら、こんなふうにいとも簡単な距離感を胸の地平へ配置していまうなんて、気弱な白昼夢が鼻歌でも鳴らしているでしょうか、近所の顔なじみの、そうよ、絶対かみついたりなんかしないと内心へ言い聞かせるふうに、妙に自信たっぷりの信頼をふくらませたりしながら、まるで酔っぱらいの仕草のように流し目を送った野良犬とすれ違った光景をよぎらせると、剣吞な意想は軽やかに払いのけられてね、華々しい理想を差し替えるように売れない女優はさっさと家路へ着くものなの、いらない人付き合いに精を出すほど陽気な意地は持っていませんから、間違っても放蕩者の仲間入りすることはないでしょうし、下手な恋愛などもう懲り懲りなんて、返す返す有効成分を含んでいたであろう副作用に過剰な念いを託したのち、撮影終了の儀礼の花束を手渡す場面から、勢い鼻孔をつくように芳香があふれだしては、その抽出液を全身にまとわりつかせ、疲労と怠惰がこの階段を踏みしめている実感へとたどるのですわ。でも無益な思考に罪はありません。美しさや悦びは些細な生き方の緊張の刹那に、戦慄的にこみ上がってきますから。
浪費と言えば、自分の甲斐性を棚に上げ、行き止まりを知らない路地の編み目を徘徊したりせず、むしろ広大な都会の地に眠る礎石をひとつひとつ確認でもするごとく、もっとも歴史的な遺跡や文化の変遷にまつわる学術をなぞっているわけではなくて、ただそこに江戸の黎明より流れていよう用水路の面影を浅く見遣るくらいなので、やはり朽ちた鳥居の赤みやら、往年の辻を偲ばせる仄かな気配やら、名刹ではないけれど読経が秋の報せに乗って来るような門前の佇まいに迷宮を感じてしまうのです。重い足どりは江戸の昔から吹き抜いている路地へ淀む風の便りなのでしょうか。もしそうなら威勢よくあって欲しいものですが、飛脚の疾走を旧街道に感じるまえに、そこら中を走りゆく電車のけたたましさがせわしなく、反対にあくびをしてしまうほどですので、今西家は決して異郷ではありませんでしたわ。揃いに揃った手紙を束ねたとき、わたしは灼熱の受容を得ていたのでしょう。遠い野心は食器棚の奥で錆びつきを待っている缶詰に似て、おおらかな強度をまとっており、視認は反撥の鎧を意識しているのです。ちょっとやそっとでは朽ちない金属の栄光は、安物にだって付与されているわ。
どうやら手紙の内容に興奮を覚えることは稀釈され、映画以上の刺激を受けなくなっていたみたいで、返信にも創造的な言葉を探していると思えなくなっていました。わたしさえ、大人しくして波風を立てず、父の言いつけに素直な態度をしめしていればよいのでは、そして間弓さんにもあまり干渉せず、もっとも彼女の願望が成就するのかどうかは昌昭さんの受け入れにかかっているのだから、わたしへの思慕を断ち切らせたとして、間弓さんの情熱がくみ取られるとは限りません。認知を求めた結果が元凶であることに揺るぎなく、父の不始末は春画からあぶり出された功罪なんて代物ではなく、家父長の淫行そのものであり、おそろしいことに気づけばわたしもその負の恩寵をしっかり授かっていたのです。缶詰の中身は腐っていたのです。でも錆びを知らない栄光は今もわたしを呪縛しており、由紀子さんの死は永遠に暴かれないのでしょう」
正枝は深いため息をつき、肉欲の機能に陶酔的な美学を貸与した自分自身の影身に悔いているような表情で、幸吉の眼を見つめていた。
「昌昭さんがわたしの存在に気づいてから、父は画策を講じたのよ。間弓さんの疑心は当たっていると思う、接近を謀ったのはおそらく由紀子さんだったわ。もう血縁だの因果だのにはうんざり、昌昭をさんを安易に引き取ったくらいだから、その姉にも父は何かしら関与があって然り、現に間弓さんに娘かも知れないなんてもらしているのよ。どうして早く由紀子さんの素性にもっと深い関心を抱かなかったのか、そうすれば悲劇はしおらしく、それぞれの邪心をかすめゆくにとどまった」
「あなたには知り様がありませんでしたよ」
「違うの。わたしは大部屋女優の遺恨を背負ったまま、今西家を舞台にして、さっき幸吉さんに言われたじゃない、女流監督のまねごとを始めてしまったのよ。少し調べみたら風見家とのかかわりだって、由紀子さんの屈折した心情だっていくらか理解できたはずだわ。あなたが踊らされてばかりじゃないって答えたように、わたしも着せ替え人形の沈黙にたえきれなかった。性欲の所在にしたところで、年下の男の子と戯れるという決して自ら火傷なんか負わない軽薄な内炎に触れていただけなの。角度や見方によって人形らしさが損なわれてゆくだけの、行動とは切り離された観念だけに浸っていたのよ。
はっきりとした証拠はないけど、今西家の三者は密談を行なっているわ。あなたが父を訪ねても不在であったあの頃」
幸吉は大仰に腕組みしながら、
「なるほど、僕にも正枝さんにも立ち入られては困ることがあったというわけですか。しかしですよ、あなたは三者それぞれと文通しており、各自の思惑を把握しながら、それ自体の漏洩を察知していたなんて茶番だと呆れるまえに、むしろとっても手間ひまかけた絡み合いが、特殊な人間関係の渦があなたを嘲弄している事実に胸が痛みますよ。しかも嘲弄とわかっていながら、家族団らんでトランプをしているような朗らかさを無理やり刻印した面持ちは仮面でしかなく、悽愴なまなざしの由縁を遠ざけたまま、ひび割れるであろう仮面のちいさな傷に気をかけていた酔狂な意識も感じられるのです。
今西家の密談とか、確かに起こり得そうな趣きには引きつけられますが、あなたを含めた全員が狂人の部類に属していたと仮定してみればどうでしょうか。僕以外の見聞や体験はすべて誰かのつくりごとであって、いかにもこの世界との関わりが如実に判じられる側面のみを過大視して、それは本筋が何処へ通っているのか、血は誰の肉体に流れているのか、人形の本然が単なる模倣でも複写でもなく、怪し気な息吹きへの触れ合いであると心得たのなら、僕はまたもや振り出しへ舞い戻ってしまうのですが、今度ばかりは夜明けの女神に心酔していられません。あなたに狂女の影を先取りしてしまった腑抜けの感性が今ようやく見直されてきました」
「せっかくの自画自賛ですけど、幸吉さんだけが捨象されるわけにはいきませんの。あなたの眼光があった先には疑いようのない節度と、その節度にふりまわされることを願った悦楽が歴然と輝いております。ほら、わたしのあそこはまだ温もりを忘れず湿気っているし、由紀子さんの亡霊だって、すぐそこにあなたとともにずっと居るのよ」
「なんとも雅やかなお話ですね。ただ肉弾戦の記憶を敗戦の契機へこじつけるのはいかがなものでしょう。それより瀧川先輩まで引っ張りだしたあなたの妄想は、そろそろ黎明に堪えられなくなるのではありませんか。僕の見聞は一理の一理に過ぎなくて、どのような切り口からも仕立て直しの効く袖通りのよい衣服となりうるのですね。一断面に付随する瑣末な、けれども末梢神経の働きがなにかしら過分な要素としてあてがわれ、形式の形式は無数の神経回路をそつなく戦慄と快感でめぐり、あなたにとってもっとも都合のいい袋小路へと追い込まれてしまうのでしょうが、肉欲に溺れた素振りを演じた僕の汚れた気概は、劇場の手前で青空の区分と晴れやかさを覚えながら、反作用の逓減、つまり夜空の深度を計っていたのです」
「あら、それは素晴らしいわ。でもあなたを逃すわけには参りませんの、みすぼらしい合理主義の立場へ幸吉さんを置くことはできません。断面の断面、作用と反作用、意識と変容、ありきたりに殺人者としてのあなた、暴風の午後を飾った由紀子殺しの証拠を列挙して、あなたの擁護を打ち切りましょうか、それとも、わたしたちを狂人あつかいしたまま、この場を去りますか」
幸吉は眼を見開いた。
「そうだったんですか、やっぱり僕がね。では聞かせてもらいましょうか。しかし手間は省いて下さい。できれば満蔵氏の指示があなたを迂回したあたりから」


[522] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた21 名前:コレクター 投稿日:2020年05月13日 (水) 05時25分

「夢見の悪さに震えながら、それが悪寒ではなくて、寝起きの体温低下だと感じとった昨日の朝、わたしはまだうっすらと眼の奥へ描かれている景色に思いを馳せ、無稽な悪意が散らばってはことごとく、軽妙なぬり絵へと転化している捷径に打たれてました。その空白を目覚まし時計に埋めさせてはいけない、朝もやの透察に金属的な音を渡らせてはならない、どうかとすると、健全な意識がごくごく自然に散乱した破片を早々に片づけてしまうので、ついつい悪夢を振り払って忘れに忘れ、それこそ嫌悪感に報いる方便だと判じ、おまけに輪郭だけ配置された、といっても覚束ない線画の、まるで輪ゴムのように延びてしまいそうな見た目は、無益な殺生が尊くなるほど情けなく、残忍で幼稚な願いに預かっていますし、後戻りしたくなる衝動は低下した毛穴のなかで温められたまま、発汗の理に乗じていません。なので、わたしは不適切な刄が飛び交う低落した戦渦のまっただなかに佇んでいたことを、ほんの少しばかり思い浮かべ、その意外と生々しい邪心のよりどころをふたたび風化させるのです。ええ、もう悪夢に囚われるのでなくて、悪夢になりきるのです。でも尊大な意想は持っていませんの、それは取るに足らないひとこまであり、わたしの古びた記憶にいかがわしく隠れている肉親の性交場面なのですが、当時は魑魅魍魎や妖怪変化より怖くて怖くて、けれども質の異なったどちらかといえば嫌悪のかたまりだったのでしょう、いますぐやめて欲しいって布団を被って唱えていましたから、夜更けの目覚めは熱でうかされていたのです。
情事のあと、父親はさながら子供の秘密のように用足しを縁側ですませていました。放尿の音に刷新された嫌悪を聞き取ったわたしは、その汚泥のせせらぎへふらふらと誘われて、浄化と撲滅のまなざしを放ちながら、満足と脱力で足もとを緩ませ、眠気をおぶった無防備な父親の背中をひょいと押したのでした。鮮明に夜の営みを把握していたわけではないのに、本能的な感覚が肉体の交わりを嗅ぎとってしまい、身近すぎる痴態にはお伽噺の組み入る余裕がなかったようで、拒否反応は正当な機能の証しを謳い揚げ、それは昆虫規模の交尾ではとても解釈できそうもなく、もう少し丁寧に言い表すと、夜目に映った仄かな光景は巨大昆虫より醜怪であり、裸体があらわになってない分、臓腑のこぼれ出るような生理的恐怖に見舞われ、しかも死者の臓腑から類推されうる腐臭をともなっておらず、だとすれば、玩具みたいな定規では及ばない、実直な怪異に脅えるあの緩慢な間合いは一気にひろがり、恐怖と嫌忌を含んだまま、その対象を想像する気力が削がれ、逆作用として不透明な対象から凝視されているような恥辱に身をこわばらせてしまいました。匂いなき肉欲の誉れに直面し、臆病な冒険心はひたすら地鳴りへと耳を澄ます。目線のでたらめな結玉は言うまでもなく金縛りを予言しており、こうして誰にも話せない煩悶が生み出されたのです。
あれは日曜の朝だった、遅い床から這い出すようにして隣の枕もとに見届けた丸められたちり紙、念力を働かせたみたいにはらりと中身をさらさせれば、否応なしに強度な視線が空をさし抜いて、そこに覗かせているものが使用された避妊具であることを知ったのでした。わたしはうなだれつつ、いつの間にこんな不快な知識を得たのだろう、学校の保健体育で教わったのかしらなんて嘆いては、性という言葉をかつて辞書に探った覚えもないはずなのに、どうして明瞭な加減で実態を描き出しているのか不思議で仕方ありませんでした。放尿する父親の顔がうかがえないごとく、夜中の縁側から突き落とした実感もまた不明瞭です。なぜなら、わたしは眠っているのか、起きているのか、認めようとしなかったから」
幸吉はようやく素直な笑みをつくり、
「それでは今西満蔵があなたの父だと言いきれないと」
修学旅行での背伸びを想起させ眼を輝かせた。
「取るに足らない夢を語っただけ、夜はまだ明けていないわ」
「そうですか、肝心なことを聞き逃してはいけませんね」
「ええ、そのとおりよ」
正枝の眉に威厳が走る。支流の支流へ股がった淫恣な言の葉は夜風に撫でられ、月影も朧々とした駅前旅館の寝息に被さり、魔性の胚胎を促した。眠りの瀬は浅く遅い。
「勉強机の角へあそこを擦ったのはいつだったのか、とにかく快感に目覚めたのちも現実のあれは忌諱されました」
「僕は空砲を打ち続けながら似たような、いいえ、少し違いますね。反撥し合っているけど、巧みに快感を捨てようとはしなかったし、そのうち精を吹くようになり寝室が別になると新たな妄想が訪れました」
「わたしたちに限らず、誰しもが秘める自然学習ですわ。きりがないわね」
「では女流監督の復讐劇の続きを」
「あら、皮肉のつもり、まあいいでしょう。あなたをぶざまに踊らせてしまいましたもの」
「そんな、僕はたしかにぶざまだったけど、自分から進んで踊っていたのです。あなたをぎりぎりまで見極めようとして」
「いくらか口が達者になったようね。達者ついでにあなたと由紀子さんの仲が深まった頃、わたしがやりとりした手紙の内容を述べておくわ。間弓さんとは戦々恐々でした。昌昭さんとの関係をはっきり報せておいた上での駆け引きだから、火花の爆ぜないほうがおかしいでしょう。間弓さんはそれにこらえながら応戦していたのです。先手を打ってみたけど、はなから敵愾心を持っていた間弓さんをたやすく懐柔できたことが半信半疑だったし、火に油を注ぐような言明は仇にこそなれ、円満な解決策へ向くとは考えられませんでした。しかし、釘を刺す意味で昌昭さんの思い入れを明確にしておかなければいけなった。幸吉さんに色情が入り用だったみたいにね。あとは由紀子さんを宛てがった結果を観察し、なおの耽溺をと念じていたけれど、ここで双方の意見に食い違いが表れてきたの。
間弓さんにしてみれば、とことん入れ込まれてしまっては、前菜の振る舞いも、当て馬の試しも家畜を養い続けるような無駄でしかなく、せっかくの時間稼ぎが短絡的な結果を招きかねない。なんとかして高校卒業までわたしを家に近づけたくないのがやはり本心よ、書信は仕方ないにせよ昌昭さんとの対面も非常に危ぶんでいる。かと言ってわたしの助言をないがしろにすると、あなたと昌昭さんを抱き込んで父の意向に寄ってしまう、結局計りにかけるしかなった、家名か情愛かを。わたしだって一度の関係で昌昭さんの熱愛を受け入れ、駈け落ちするまでの覚悟はなかったし、ここで間弓さんと結託していることを知られるのはまずかったので、姉がなにやら企てしていると書き送ってきても、わたしを遠ざけたい一心でしょうって、言い聞かすしかありませんでした。
父は父で平気で興信所を使うような人だったから、由紀子さんとあなたの結びつきをすでに感知しており、悠々物見しているのではないかという危惧があったけど、わたしにはわたしなりの接近が望ましいと、現に父は必要以上の問いかけや注文の投げかけをせず、銀幕の末席に甘んじている身を案じてくれてましたし、先々の婚姻にしたところで焦慮が表立っていたわけではなかったので、すべてを打ち明けはせず、これまで同様の遠慮気味の便りに終始していました。とは言え、三者三様への対応に息は抜けません。さきほども話しましたが、今西家の三者のより上位の結託に、むろん平坦ではなく、時空の歪みが心身まで及んでいる一種不可解な繋がりを、神経症的に感受してしまっていたのです。それはまるでわたし自身の不審が手招いた思考回路の虚ろを占拠するように、異質な磁場と化していました。
あらためて三者を相手にしている無謀さにおののくしかありませんでしたが、反面では撹乱や破壊や成就を一手に引き受けたふうな万能の感覚、無形式の所作に羽ばたく夜間飛行の夢が軽やかに眠りを妨げていたのです。由紀子さんの死で眠りは白々と覚めてしまったけど、心拍に委ねるような実感を越えた異形の地平が開けてきました。いえ、死以前からわたしは女優としてのうつしみを悟るべく、今西家を取り巻いた数奇に初恋にも似たときめきを感じており、たとえ実ろうがそうでなかろうが結末なんてどうでもよく、ただあなたや昌昭さんに触れ合えたのが幸せで、小憎らしい間弓さんだってかけがえない妹だと思ったりしました。この世が流転の儀を忘れ、あるひとこまだけ中心にまわっていたなら。
揺籃を止めたのは生のほとばしりでした。間弓さんの懸念どおり由紀子さんはあなたを愛して憚らず、傀儡としての肉体女優から脱皮し、不良の側面、つまり純粋な情念をたぎらせ、今西家の思惑から急速に撤退しようとしたのです。間弓さんがどれだけ叱咤しても、昌昭さんの名を連呼し憐れみに訴えても、あなたを放すことができなくなって、明け透けな嘘で自分自身の意気を消そうとしたのは、よくご存知でしょう。故人の偽りを闇に葬るのは適宜かも知れませんが、決して上書きなんかできない幸吉さんの記憶を察して、はっきり言っておきます。由紀子さんは妊娠していなかった、嘘です、大嘘です、あなたの気を引き止めたいが為のつたない嘘でした。検視の結果を父から知らされたわたしは、とんでもない罪を背負ってしまったと打ちひしがれたのです。本当に幸吉さんの子を宿していれば、多分あなたの人生は大きく狂ったでしょうけれど、うら若き命は消滅することはなかった。
間弓さんはこう書いています。わたしにも妊娠したみたいで、もう役割りは降りさせてもらう言ってきたので、そんな見え透いたこと、計画はどうなるのよ、って散々問いつめたところ、あいつには迷惑かけないって突っ張っていたけど、なにか引き際を感じているようでした。役割りは果たしたし、あとは自由恋愛を盾にするなり、恋は盲目とか、わたしのお株を奪うような戯れ言で押し切ればよかったものの、すんなり手を引いてしまって、せっかくの出会いを捨ててしまうなんて、でもわたしはお姉さんとの約束があるから、あれでよかったと思います。昌昭との未来がこれで途絶えるわけでもないから、また他の手立てを考えて下さい、と。
この時点で間弓さんは、さながら怪我の巧名でわたしの価値を下げているつもりでしょうが、そうなの、これで父の意向が生身として動きだし、いよいよわたしの出番がまわってくるけど、肝心かなめの幸吉さんの気持ちは揺れに揺れたに違いなく、おいそれと形式の婚姻に臨むとは考えられませんでした。由紀子さんの引き際が鮮やかなほど、その道程は悶着を呼ぶに決まっています。わたしに見切りをつけた間弓さんの会心は、あまりに透明で裏切りという言葉を知らずに育った品性を香らせていたものだから、思いあまって内密にしていた推察を話してしまいました。
ねえ、間弓さん、わたしの出る幕は延期されてしまったわ。骨抜きは大いにかまわないけど恋愛感情を忍ばせた由紀子さんに注意して観察を怠らないように。忘れてはいけないわ、彼女は昌昭さんの実姉であり、父満蔵のかつての情人の娘よ、由縁はそう簡単に抹消されない、それは間弓さんにもわたしにも言えることでしょう。もう一度わたしの助言を聞き入れてもらいたいの、あなたは蜂が不自然だと疑って、わたしまで由紀子さんと通じているとかこぼしていたけど、誓ってそんな事実はありません。事実と言えば、風見成実と瀧川良雄との情交、あなたがその眼で見届けたわけじゃないでしょう。なにもかもが由紀子さんの語りの語り、もっとも間弓さん、あなたの創作だとしたら話しは別ですが。風見家を調査する勇気がありますか。あってもらわないと困るのはわたしではない、間弓さんなのよ。わかるでしょう、昌昭さんは人質だと、それくらいの不信感を募らせて秘匿された真相に向かいましょう、すぐにでも。
わたしは凍りつき青ざめている令嬢の顔を思い浮かべながら、自分でも焦慮なのか、奮起なのか、好奇なのか、よく分からないまま筆を走らせたのです」


[521] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた20 名前:コレクター 投稿日:2020年05月05日 (火) 05時34分

「で、あっさり、いえ、並々ならない好奇心に駆られて瀧川先輩は色道を極めようとしたのでしょうか」
思わぬきっかけと、閉じた行き交いの化学反応とでもしか言いようのない成りゆきに当惑した幸吉は、夜這いなんて、どう気張っても体験はおろか見聞も覚束ない、婬奔な臭いを憚りなく含んだおとぎ話に、おずおず耳を傾けている功罪のようなものを感じた。
すると、たちまち他者に対して発するときの語源の照り返しを受け、それはひとりでにどうした案配か、あさりの砂だしといった瑣末な状景を面前に引き込み、海水がわずかだけ濁ってしまうありきたりの妙味へ繋がった。なんのことはない、功罪以前に夜這いじみた行為を遂げていた自分の姿が噴飯ものだったのである。
ついつい女優としての粉黛が説き語る話術に時間の遷移を求め勝ちだった幸吉は、形式の形式で運ばれ導かれた出来事に、崩しようのない過去を見届けていたけれど、ここに至ってあらゆる他者は遠浅の砂底で棲息する貝類と同様、波の打ち返しにのまれても変転に関知しない欲望の理であり、それは自然そのものであると気づいた。おぞましいが仮に裸身から女陰だけをむしり取ったならば、色道はその方法論に行き詰まり、無味で残酷な味わいだけを享受することになるだろうし、原理的な破綻が待ち受けているので、肉欲の肉欲を際立たせてやまない奥ゆかし気な恋着が絶対視される。
今西家の確執だってほとんどそこへ起因しているではないか。しかし瀧川先輩の視線の先には陳腐な乱れしかなく、この支流の支流こそ計略とは無関係の変質であって、幸吉を呪縛から解き放つ逸話に思えてくるのだった。が、あくまで意想のよこやりが新鮮な風を送ったまでで、吹き抜けの間口を眺望したわけではなかった。
「資質じゃないかしら、興味がそそられることに熱中するだけよ。だから、わたしの解釈はあとずけの理想論でしかないですわ。ところが決定論でもあった」
「それは好都合ですね」
さり気なく同意する口先に幸吉は逸脱の方便を含ませ、説話の本流をせき止める糸口にした。
「あなたにとってもね」
精到な鳥瞰図を手中にした正枝の応答は幸吉に絶望をあたえたが、その根拠は悦びでもあった。正枝が女優らしく振る舞えば振る舞うほどに、他者を意識した発露は表立ち、動的な姿態と台詞によって差し引かれた内面は、あたかも主人の出払った居間のように閑寂な装いを演じてしまうだろう。そして大切な鍵を置き忘れた焦燥はおぼろな幽霊と化し居残っていて、ときおり鍵穴から覗く眼も鋭さを模しているだけにすぎない。幸吉はこの眼を反対に凝望するよういそしんだ。
女優のはらわたなど拝みたくもなかった。けれども虚構の虚構が決して現実を凌駕することはないにせよ、規則正しい手順を踏みしめて、ものの見事にすり替わってしまう怖れがある。影絵を操っているのが誰だかわからなくなってしまい、それは主人と訪問をためらっている客の間に生まれる齟齬を帳消しにするだけでなく、凝望が緩んだ隙へいみじくも訪れる内面の浸潤により、渇きは情念的な居住まいを強いられ、明白な留守番となる。正枝の不在を証明しようとして、不在を肯定するだけにとどまらず、観念が無意識に移行するのだ。
「僕はあなたのあそこだけもう一度見せてもらえばよい」
「えっ」
「なんでもありません」
淫猥な小言は教科書を読み上げるふうにくぐもった。
聞いてか、聞かずか、正枝は気前のいい表情をして水面の流れへと戻った。
「瀧川さんがさっそく由紀子さんの家に出かけたのか、どうかは知りません。間弓さんもそこまで探れなかった。当たり前ですし、その辺は割愛されていいでしょう。とにかく義姉妹みたいになったふたりは内情をこれまで以上にあれこれ語り合いました。
ゆるぎない恋慕を秘めに秘めた間弓さんは、昌昭さんと双生児に見られるよう雰囲気づくりから始まって形貌まで合わそうと努め、身長は無理でも顔の輪郭なら似せられると、仕草はむろん笑顔や目つきといった表情の動きをまねてみたり、日焼けした肌、歯並びの確認、睫毛の長さ、眉の濃さ、伸びた爪先、揃いの寝巻きなど、まるで写し絵のごとく見た目の同一化を念じました。元来、偏執的な性質だった姉の酔狂と呆れながら文句を言うでもなし、拒むことのなかった昌昭さんでしたが、夕立ちと雷鳴に囲繞された中学一年生の夏休みの午後、鏡台の前まで引き連れられて、忘れたかしら、ちいさなころはね、よくこうしてお化粧ごっこしたものよ、と気色ばんだ間弓さんが施したふたり揃っての絵姿にはさすがに戸惑いを隠せなかったようです。いくら扮装が愉快でも坊主頭にスカーフを被せ、厚塗りされた女装は不気味な感じがするのか、それとも姉の異様な性癖が雷雨で増幅されてしまったのかと、訝る様子がまたこの上なかったとか語って、でもね、わたし自身よく理解できてなかったのよ、きっと姉弟として過ごしているせいね、禁断の果実は食べれないけど、せめて絵姿だけでも一体化したかったのか、単に弟を意のままに、そうね、着せ替え人形みたいにして弄びたかったのか、押し込めても、はねのけて踊り出してしまう、ばね仕掛けの恋着に悶えていたようね、恥ずかしい、恥ずかしいわ、まったく、双子のお化けごっこよね、そうでしょうって、ひとしきり喋れば、由紀子はそうでもないよ、あんたは無垢なのよ、よくわからないけど、叶わないと知っているからそんな戯れに興じたんじゃない、あんたのは本物の思い出だよ、ずっと変わらず昌昭を好いているんだから、本物だよ、間違ってないわ、そう励ましてくれたのね。
でも間弓さんは由紀子を励ますどころか、傀儡として扱っているだけで、なんの手助けも優しい言葉もかけていないと、詫びるしかなかったのです。ただひとつ思い上がりかも知れないけど、昌昭の実の姉だから許してもらえる、そう感受していたそうよ。由紀子さんはそんなこと百も承知だったみたいで、だったらさ、ちょっと最近うっとおしいのよ、あいつら、どう思うって自分の境遇を話しだしたの。他でもないわ、夜這いのことです。
口にするのも文字にするのもって言っていた、間弓さんにしたら夜這いなんて俗悪きわまりない風習でしかないでしょう。それより風習であることすらさっぱり事解してないのに、一体どんな目の色をして聞き入ったのか、ちょっと気になりましたわ。あくまで個人的見解としてね。しかし間弓さんには厳格な筆致で、何事も究明が肝心、一応、昌昭さんの実母にまつわる出来事なのでしっかり報告するよう言っておきましたの。いくらなんでも由紀子さんが近親の性談義を披瀝するとは考えていなかったので、間弓さんからの聞き伝えが返ってきたときには身震いしてしまったわ。
夜這いなんて勝手な言い分、風見成実さんは娘のいない時間を瀧川さんに教えたのみで、その確実な時間とは登校したあとのまっとうな余白に尽きるわ。不良の烙印を頂いていたけど、由紀子さんはきちんと休まず通学していたから、授業を抜け出して走るのは瀧川さんだった。週に二三回の白昼の情事よ。
由紀子さんはなんとなく家の様子や母親の面差しが、普段と違っているように感じる日があったけど、口を挟みたくなかったみたいで、自分からは一切なにも尋ねたりせずなおざりのまま、成実さんも気兼ねしているのか、瀧川さんの名前を出すことはない。でも弾みで男女の仲へ深まってしまったからには、いずれ一悶着ひき起すだろうと暗雲を払いきれなかった。以前と比べてあきらかに念入りになった身支度の気配、片づけたつもりのビール瓶が床の隅っこで息をひそめていたり、風呂場へこもった湯気が逃げ後れていたり、家人のものではない毛髪が一条、いや二条三条と床や畳に落ちている。
こういった残滓は色事の情景にまとわりつくだろうが、気にさえ留めなければ大事には至らない、由紀子さんはそう構えていたのです。けどいつもならやり過ごすはずなのに、つい余計な世話を焼いてしまったと、やはり胸がささくれていたのでした。そんな煩慮は得てして隙をうかがい外の空気に触れたがるものです。生理痛を理由に珍しく早退した由紀子さんの帰途には、明確ではないけれどあえて現場へ乗り込んでいるような錯綜した念いが続いていました。踏み切りを待つ間のもやもやしたいら立ち、樹々の高さがいやに太陽を輝かせているような感覚、小川のせせらぎに止まるべき時間が流されてしまう迷夢、さらには路地の奥から漂ってくる獣が発するような匂い、とりわけ厭忌の情を抱えているわけでもないのに、杳々とした期待がやましさと入り混ざって、由紀子さんの顔つきを微妙に歪めたまま帰宅させたのです。
ああいう母娘の会話って映画でしか知らなかったわ。間弓さんが言うには、息を殺すどころか、ひしめき合っていない民家の隔たりをいいことに、情事に耽りに耽って歓喜の声を張り上げていたらしいの。玄関先まで響いてくる喘ぎに耳をふさがなかった由紀子さんだけど、あまりの放埒さに咳払いするのも馬鹿らしくなった。しばらくして瀧川さんの帰る物音がすると、ほつれた髪を汗で撫でつけ気怠い顔をした母が、あら、あんた返ってたの、と悪びれた感じもなく話しかけてくるので、今日は特別よって言い捨て、細々したことは抜きにしたけど、だらしなく下着がのぞいている母の服から眼をそらせなかった。
次の週も由紀子さんは二回早退しました。うっとおしいのよね、あいつ、わたしが帰ってきたの分かってるくせに平気なのよ。これ見よがしに遠慮など微塵もなく、まるで当てつけみたいに真っ昼間から発情してさ、なんなの、わたしを抱けない悔しさなの、まったく嫌になるわ。しかも母は母で別に邪魔じゃないけどね、気が散るってあの子がね、なんてのろけるものだから、どこへ怒りをぶつけていいのか、もう本当に嫌になる。ねえ間弓、わたしがいけなかったの、軽々しく瀧川を引き入れてしまって、と、かなり消沈している様子でした。
見え透いた早退をしなくなった由紀子さんは、夏休みが待ち遠しいと語ったそうです。のみ込めそうで今ひとつ合点がいかないその言葉に対し、寂寞のような想いで陽射しを受け止めているではと、間弓さんは書き綴っています。なるほど学校が休みになれば由紀子のまっとうな留守はなくなり、瀧川との関係は途絶えそうな予感を孕みますが、反面、図に乗って開き直りの勢いで通いつめるのではないか、もしそうであるなら、母の情交に日々さいなまれるのは身悶えでしかなく、もれる嗚咽は由紀子自身の声に重なり合う。ついには瀧川の気位が勝って、身の置きどころを失ったようでそうではない状況に陥ってしまうだろう。
由紀子が危ぶむのは代理でしかなかった成実の肉体を、自分を産み落とした肉体の持ち主を、その人格を、これまであらわに否定してこなかった積年の鬱憤が、一息に壊してしまいそうで仕方なく、それは彼岸で抱き合う宿命だった瀧川を、此岸へ招き寄せるかも知れないという想念だった。矛盾を抱え、矛盾を捨て去る気概があらくれないままに静かな破壊へと結びつく。
決して明晰な内省をもちいて由紀子さんがそう述べたわけでなかったけれど、間弓さんはおたがい煩瑣で無骨な事情を有していたので、双眸のひかりや紅潮の加減、語気の弱さと語尾の強さから、由紀子さんの胸にしまいきれない葛藤を察しました。そしてあろうことか、次の逸話によって共鳴しつつあった感傷の色彩は、その淡さを熾烈に織り上げることとなったのです。
案じていた夏休みは由紀子さんにとって幻想的な陽光で満たされていませんでした。めっきり姿を見せなくなった瀧川さんが気掛かりだったのでしょう。それとなく成実さんに訊いてみたところ、まったくあの子ったら憎たらしいわ、誰か他の主婦を紹介しろなんて言うのよ、奥さんだけだと飽きてしまうって、だと困るだろうって、もっと刺激が欲しかったらそうして下さいなんて、変にかしこまって頼まれるものだから、近所のひとに当たってみたのよ。今頃はそっちへ通っているんじゃない、刺激を倍にして必ず戻って来るって。
なんという女たらしでしょう。でもこれが瀧川さんの自在ですわ。由紀子さんの怖れは直感であり羨望でした。美貌を武器にしてひたすら野性動物みたいに駆けゆく疾風を感じとっていたのよ。
幸吉さん、あなたは聞き及んでいませんか。成実さんと共に由紀子さんの忘れ形見となった、あの黒いこうもり傘を発見した主婦を」
「では、あの叔母さんが・・・」
幸吉は隣の組の男子生徒の相貌をまじまじと思い返した。彼がその叔母から知り得た情報が死のあらましの端緒になった。成実と一緒にろうそくを買いに出たと聞く。同じように台風を懸念する面持ちの裏には、年下の情夫を共有している気心がざわめいていたのか。その前日に瀧川先輩とすれ違っている。間違いないだろう。どうしても受け入れられない死に向い、可能な限りの様々な考察をめぐらせたのが昨日のようによみがえる。自分が由紀子を無意識的に殺めたという強迫観念にとらわれ、捜査の手がすぐ近くまでのびているとおののいた。そして由紀子の面影を装った女優との再会を夢見たのだった。
「僕は眠っていませんよね、起きてますよね。起きてあなたと向き合っていますよね」
幸吉は夜の漆黒を確認していた。


[520] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた19 名前:コレクター 投稿日:2020年04月30日 (木) 23時09分

指折り数え、数えてみることに無上の清福を走り書きしていた画帳の乱れは他愛なかったが、記憶と意趣の入りまじった字面はいつも前のめりで詮方なく、思いことごとただあるだけの愉しみに費やされていた。
いつとはなく遊び心へ忍んでいた畳のへりを踏んだらいけないという迷信を尊び、じっと見つめる隙間には昔が埋め込められているように感じられ、整然と閉じ合っている縦横の薄い隆起に爪を立ててみた、幼き日々。
一体なにを待ち望み、時間を慈しむ間もないほどに浪費していたのだろう。前景だけに期待を寄せてしまって、量感を支え、刹那の色相を際立たせていた背景には振り向きもせず、影がうしろへと位置した日輪の高さに依拠する方角ばかりを眺めていた。だが、拙い心象風景画は言葉が言葉として散らばる位相の無辺を手繰れないまま、もっともそれは放恣であってかまわないのだが、希望の感覚のおぼつかなさに対する不吉な怖れと、寡聞のいましめを配する自省がおおらかに欠けており、子供の時間らしい近視眼的な整合性にせき止められていた。
追思されるべきは後悔と物欲しさに乱れた沈滞ではなく、この瞬間を染め上げてやまない豊かな情趣であって、決して背後へとまわった発火点に安易な郷愁を得たいが為ではない。灯り続ける現在の動機を見失わないが故に、気丈で剛胆に映じた風見成実がろうそくの予備をしめやかに欲したように。
夢想をめぐらせたにもかかわらず、児戯の延長でしかないと腹のなかでは軽んじていた駅前旅館の夕べ、旅立ちの前夜を童心で過ごすつもりだったのか、だったら、とことん夢想であればよかった、身分不相応な逢い引きは風呂敷包みの盗まれた邪心でしかない。
「そのままの願いが叶うことなんてあり得ないのでしょうね。なにかしら歪な形でしか成就されません。しかし悲観はよくないです。結果を出したのは時間の流れですし、実はそうありたいと心の底で唸っていたかも知れないような気がします。奇特な成りゆきに感謝しなければ」
正枝はそんな幸吉の空々しい声音を揶揄するよう、
「偶然とか奇跡を確率論的に考えてみればわかることです。あなたと違って昌昭さんは経験があったらしく、熱心にわたしを求めてきたわ。話しのいきががりで露呈してしまったけど、どうか気を悪くなさらないでください。形式と仕掛けの応酬はすでにあらかた聞いてもらったでしょう」
と、微細な羽毛を束ねたように差し出しされた侮蔑は、悪意のない策略だと釘を刺している。
「間弓さんもあなたも」
そう言いかけた正枝を阻み、
「もういいのです。あの日、今西君はたしか僕に言いました。そうした事情ならばっちりってとこだな。君の浮かれた顔もついでに撮っておいたから学習したまえ、と。会心の笑顔でした。恨んでなんかいませんし、むしろあっぱれだと思います」
「じゃあ、よかったわ」
「そうですね。しかし、あらかたは聞かされてませんので、瀧川先輩に関することをもっと教えてください」
盗まれた記憶を幸吉は催促した。
「わかりました。でも先に櫻田静子さんの動向を話しておきましょう。ほんとう、なんて無邪気でしっかした少女だと感心してしまいましたわ。あなたにとってもさぞかし、みずみずしい想い出だったことでしょうね。経緯は初恋らしさそのままの奥手を絵に描いたみたいな係わりでしたから、幸吉さんの記憶には新しいと思いますが。
由紀子さんの意向を鏡のごとく察知した静子さんは、引き際に腐心したようでした。いくらかの興味を持っていたとはいえ、嘘の恋文から始まった淡い感情が濃密さを有するにつれ、虚構の言葉は狭霧へまぎれるどころか、目に見えるはっきりした粒状になり、それは砂浜へなぞられた恋という文字を指先が感じとってしまったみたいで、はからずもあなたへの恋情を強めた。なにも知らないあなたは魚心あれば水心の喩えに準じ、可憐な花のかぐわしさに戸惑いながらも陽射しの加減に目を細めて、ひとときのきらめきを甘受したはずよ。次第に募り出す日陰への足踏みがじれったく、異性の胸中をつかみとれない焦りに肉欲が滲んでいるのを、まぎらわそうとすればするほどに、暮色の視界を手探りしたのですわね。
裸体の下半身の触れ合いが恋情の証しだと本能の昂りを肯定するあなた、けれども、あくまで清廉な意匠に踏みとどまれるものならと、そうありたく願った少女の心緒はとても不安定で、下手をすれば横滑りに身持ちを崩してしまう危惧に苛まれ、また微かな好奇心が膨らむのを感じとっていました。わたしがかつて演じた映画の役柄がまさにそんな心情を映していたので、よくわかるのです。演技と実際を一緒にしてしまうのは変ですけど、その変な場面が現実味を帯びていたから、一段と不徳な感じが増したのでした。
静子さんは恋情こそ花開いているものの、肉欲にまで至る広闊さを認めていなかったので、由紀子さんの指図に救いを見出し、虚構のしかも短命である初恋を押し殺し、委細が双方にとって余計な報せとならないよう、意地らしいほど生真面目な台詞まわしで自分の役割りをこなして、あなたの影を退けた。許してあげてね、細やかな方便を、台本を書いたのはこのわたしよ、静子さんは穏やかに一幕を演じただけ、きっと胸を痛めたことと思います。
そして選手交代に、あらっ、すいません、随分な言い様ですわね。でもそれが台本だったし、選手は役者、由紀子さんは舞台に上がる契機が整ったと決意したでしょう。この先にわたしの語りは必要ありませんね」
陸橋の防空壕に籠った火影を幸吉は、甚大な、が、とても心地よい眠りへのいざないとして想い返していた。相反するろうそくの灯火はやがて、台風接近の兆候を過剰に反応した胸騒ぎへとゆらめく。由紀子の死をあぶり出しては、その母の悲嘆を不実に覆い隠す。どんよりたれ込めた雨雲の重圧と拮抗する灯火が、恣意でもって戦渦の心許なさを記述的になぞるのであれば、不実さの由縁は幸吉にとって最大の憂いであるとともに、風雨でかき消される余光を彷彿させ、それはまるで人里を少し離れた水辺を舞う蛍のような夢幻境地への誘いに転じる。
「さて、あなたが由紀子さんに惑溺する直前、ぐるりと海岸線をめぐり連れ立って歩いたことに、わたしは奇異の念を抑えきれませんでした。そのような台本はなかったし、間弓さんの勘案にしては露骨で、そこまでして町中へ広がる夏日の夕映えに即さなくとも、けれんみがあるけど、果たしてどういう余興なんだろうってね。
結論から述べると、あの引き回しのような行為は由紀子さんの独断でした。あまたに色情を振りまいて確乎とした結びつきを知らしめるごとく、大胆不敵な売名でもって今西家の名誉を裏から守り抜く気概とは別の、個人的な覚悟が込められていたのです。それは瀧川さんへの通達でしたの。いいえ、彼ひとりに伝えるより、ああした実演の方がよほど効果的だと断じたからなのです。ではいかなる理由で。
由紀子さんには些細なことだったでしょうけど、その堆積を計る側からしてみると抜き差しならない汚名になっていました。因縁なんてこじつけかも知れないけど、小学校低学年の時分にまでさかのぼり、その光景を焼きつけてみると、まだ容姿に自覚的ではなかった頃の瀧川さんの悪戯に起因します。もし自意識に目覚めていたら不粋な悪戯なんかしなかったでしょうね。それは特別ひどい仕打ちではなく、常日頃からありきたりに発生していたスカートめくりだったの。罪の意識はどこ吹く風の、めくりめくられ、色気なんか微塵も関与しない子供の軽薄な意地悪、ところが由紀子さんは恥じらうより怒りをあらわにして、勢いよく相手を押し倒してしまった。それだけでは終わらず、以外な反撃に驚いた表情で見上げている瀧川さんを、仕返しだと言って打擲したそうよ。馬乗りになって殴りつけたものだから騒動になってしまった。もちろん三日も経てばすっかりそんな小競り合いなんか、みんな忘れてしまうのでしょうが、瀧川さんは後々まで級友にからかわれているとすねてたのね。
それをさらに意識させたのが中学生になり、水泳部で鍛えられ強健でふくよかな肢体を得た由紀子さんの圧倒的な色香だった。幾人もの男子が鼻先であしらわれる顛末をうかがっていた瀧川さんは、自らの容貌にたっぷり含みを持たせ、いかにも紳士らしい態度でずっとわだかまりになっていたと、好意的な歩み寄りを試したわけね。しかし由紀子さんは、そんなことあったかしらと一蹴してしまった。出鼻をくじかれた瀧川さんの驚きが、小学生の時と異質だったのは言うまでもないでしょう。
以来、顔を合わせても口を聞くことはなく、そのまま同じ高校へと進みました。育ち盛りの意は的をしぼったように勇健で、他校から瀧川さん目当てに校門で待ち受ける女生徒が集まるほどになり、これまで数えられないくらい関係したと豪語するまでになっていたのね。同じく、由紀子さんの不良ぶりが鳴り渡っている。根は違うし異性なのだから格別問題にも比較することもなかったはず、なのに瀧川さんはふたたび意識してしまったのです。
多数の女子に触れ扱い慣れたという気位が、とうの昔に埋もれている劣等感を無理やり引きずりだしたとしか思えません。あるいは現在の人気ぶりからは没した汚名が懐かしく、だとしても、そそぐべきの汚名を積み上げようとする屈折した心情は理解しかねます。瀧川さんの矜持の裏側に、被虐趣味のような精神が巣くっていたとしても、真正面から求愛をしめした動機は悪ふざけでしかなく、由紀子さんが閉口したのはもっともですわ。とは言え、間弓さんに送ってもらった瀧川さんの写真を拝見する限り、天稟の面体はまさに俳優のそれであって、わたしが太鼓判を押すのもなんですが、今すぐにでも大手映画会社と契約が結べます。
たぶん彼はそれも選択肢に入っていて、にもかかわらず得体の知れない高みを目指しているふうな無軌道が感じられるのです。十代半ばを過ぎた時点で猟色に飽きてしまった男子なんて、都会でも中々お目にかかれませんわ。瀧川さんは禁欲的ではないけれど非常に自意識が強いので、汚点をもみ消したりせず、逆に汚れと同義語になりうる傷口の復権を目論んでいるように思えて仕方ないのです。唯一無二の存在である由紀子さんが目障りであると同時に、心の奥の奥では親近感を朝靄のごとく煙らせていたのではないでしょうか。
それは由紀子さんにも当てはまります。どれだけぶっきらぼうだって、美麗な容姿を誇示するだけにとどまらず、念入りな接近を講じてくる瀧川さんに気が行かないのは鈍感ですわ。優男は好みじゃないから捨て置くという素振りだけではないはず、異様な執念には心ならずとも感じ入るところがあって然りでしょう。あえて無関心の姿勢を通しているとしたら、由紀子さんだってかなり意固地です。わたしの穿ち過ぎでしょうか。それとも男女ふたりの異質に共通項を定めてみたい、おせっかいなまなざしが空騒ぎしているだけでしょうか。ともあれ間弓さんの観察によれば、因縁はこじつけで終わってしまいそうな矢先、ある背景がふたりを向き合わせることになったのでした。
瀧川さんにこう話したそうです。あんたみたいな人気者とつるむのが気乗りしないだけよ、だけどね、うちの母があんたのこと、このまえ商店街ですれ違ったでしょうが、あのときよ、さっきの子は誰、いかすじゃないって言ってたわ。惚れっぽいのね、うちの母ったら。今度つきあってやってよ。
由紀子さんは真顔でそう頼んだというし、瀧川さんも一瞬なにごとかって顔つきになったけど、これが両人の近づきのしるしだったのね。到底かみあわないのよ、だからふざけたりせず、母親だろうがその色目を臆することなく伝える。瀧川さんは相手の素っ気ない言葉を重視する。常識的にはおかしいでしょうけど、これこそふたりが煙りのごとく燻り出した友誼に違いないわ。そして瀧川さんは堂に入った返事をしたそうよ」


[519] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた18 名前:コレクター 投稿日:2020年04月24日 (金) 18時25分

「瀧川先輩・・・」
悪夢と現実を取り違えていなかった心弛びに、朝陽はまどろみの神髄を授けようとする。
境界が芒洋であればあるほど目覚めは狭隘をすり抜けるのだ。まばゆさを感受させない垂れ幕によって遮蔽される事象は、絶え間ない裏声で虹を呼び求めているのだろうが、意識の黎明はおいそれと日常への架け橋
にはならない。忘却の忘却が常に稼働しており、皮肉にも天啓だったかも知れない閃きを封印させてしまうからである。けれども発酵が高圧的な指針で促されていないように、忘却の彼方は逆光を浴びつつ、その漬物石のごとく鈍い重しを甘受している。
もっとも賢明な目配りは歳月のなかへ埋もれるであろう、鈍重なまどろみの揺曳を見つめながら、別種の彩りで施された光景を夢見ることだ。嗅覚が密偵の役割りを担い、音調が雑話へと流れるまえに。
無造作に転がった黒いこうもり傘で隠蔽された由紀子の死、午後五時の駐在所、夏休みの終わり、回想をためらった視線、二度と戻らない日の悔恨に並ぶようにして、間弓の正枝に放った詰問と寸分違わない言葉が残された。
「由紀子さん、満蔵氏があなたの父親で、間弓さんとは腹違いの姉妹だという、何か証明はありますか。うたぐるようですいません。真実がどうであれ僕はあなたの役に立ちたい。夏の終わりがすべてを完結させるとは思えません。あした学校の帰りに今西家の方へ寄ってみるつもりです。その前にもし迷いがあるなら話してくれませんか。どうかお願いします」
「証明なんてないわ。あんたが探してくれたらいいのよ。それでいいのよ」
鮮烈な性体験は幸吉を狂わせておきながら、実直で細やかな言い訳を価値ある泡沫として浮かばせた。それゆえ、雨具を着込んだ瀧川に声をかけられた場面は、勢いを増す雨脚の向こうへ煙ったまま忘れ去ろうと勤め、代わりに台風のさなか、いてもたってもいられない衝動に身をまかせ駆け抜けた栄光だけが、虚しく腰をすえたのだった。
まだ空模様は不穏な表情を運んでおらず、風雨の険しさが招かれなかったあの日、煙草を切らしたと言う由紀子にろうそくの灯りが心細い、そう返答した母成実の面影を頼りにして路地へ開いた赤い傘が、まぶたに淡く焼きつく。この短絡的な彩度に言及しなかった理由は、瀧川の容貌に、薄茶色い瞳が発して止まないじれったくも淫猥な羨望にあった。
中学へ入学し上級生を含めた生徒たちの顔が、馴れ合いの群像へと間延びしかけた頃、すでに瀧川はその美貌で校内を闊歩していた。生理的に嫌悪を感じていながら表面だけ取り繕っている生徒からすれば、不良らしくもあって適格な先輩の相好を合わせ持つ瀧川は必ずしも近づきがたい人物ではなく、むしろ苦みばしった微笑にそそのかされている実感を確実にして、表面が表面であることの軽易な親しみさえ覚えさせた。しかし彫りの深さに陰影を生じさせない快活なもの言いだけが、相手の警戒心をほどくばかりとは限らず、なぜなら二極化されるべき資質の一面が誰にとっても好ましかったからで、他でもない、瀧川は一年生のときより全女子生徒の注目の的であり続けているのだった。
思春期へ差し掛かろうとする想念に伝説は軽やかな物腰で居座るものだが、おおよそ流言で加味されり、惰弱な背筋を伸ばしきれない嫉心がつくりだす投げかけに寄りかかっている。ところが瀧川は違った。まことしやかな噂は学生の本分をも凌駕し、散漫で点綴する歴史書に匹敵した。中学校という子供心をたなびかせた空間を支配しうる、少年から青年への甘くよそよそしい移ろいの自覚を体現できる者こそ、現在進行形の伝説となりうる。裏の裏の歴史は全校の空気を一変させた。また表にも通用する排気口を如才なく働かせていたのだった。
三年生の瀧川がまとっていた剣吞と穏和を了するうえで、次の逸話ほど鮮やかな集団劇はない。
連綿と受け継がれたであろう校風がいわゆる紋切り型を発揮すると、目立った存在は洗礼を受けるはめになるのが相場である。しかし蛮カラの常套句は無粋な一方通行に終わってしまった。というのも、瀧川の人気を快く思わなかった上級生やその手下に吊るし上げられ、殴打されたことを知った女子らは、かつてないほどの憤慨と激情をあらわにして、徒党を組んで抗議めいた、実に純朴な態度で憎むべき奴らに食って掛かったのだ。その勢いは子供の戯れにも似て天衣無縫だったので、蛮カラたちは蹴散らす意欲もそがれ瞬時にして優劣のあり方を学んでしまい、以後は瀧川を取り巻くふうな位置に収まった。なかにはあいつと仲良くしておけば、おすそ分けがあるかも知れないなど手のひらを返す上級生もいたという。だが、おのれの美貌と魅力に対して客観視できた瀧川は、あくまで湿り気ない敏活をもって上を立て、下に平たかったから、男子生徒はこぞって群がり始めたのだったが、自由奔放な振る舞いこそ更なる興趣へつながると言わんばかりに、本来であれば黙して澄ましているのが最良であるところを、あえて三枚目じみた調子で振る舞い、気まぐれのように下級生の間へ割り込んでは、女性の陰微をあれこれをおもしろおかしく語って聞かせるくらいで、なにかと人群れを避けている様子だった。その恰好がより一層の憧憬を集め、彫刻のように整った白皙の美貌を謎めかしたのは当然の帰結である。
幸吉も薫陶を受けたひとりであったけれど、虚実ないまぜの軽佻な口ぶりに乗っているまではよかったのだが、どうしても背後に不良の影を見てしまうような気がして、讃美するまでには至らず、当の瀧川先輩もそんな名声などいらない素振りであったから、もっと穿てば、彼は精神的には少年期を卒業しており、それは坊主頭からの早熟な脱皮であり、天性の美形を一段と高める野心が秘められているように思え、どこか危険な芳香をたぎらせ向後に切りこんでいく、鋭利なナイフを想起させたので、夭折の雰囲気が漂って来そうだと畏怖したのだった。あくまでもそう感じただけであり、皆がこぞって口にしたジェームス・ディーンを彷彿させる容姿に惑わされていたせいかも知れなかったが、後々には夭折につきものである過剰な自意識を、底辺で支えている強烈な色欲をもしっかり感じとっていたのだと表明したようなものだから、距離を置いてそうでいながらやはり影響は少なくなかった。情交の際、由紀子を背後から突きながら気移りさせる余裕を持ち、よぎらせたのは瀧川に対する謳歌であり、不良への曖昧な侮蔑であった。
つまるところ、幸吉は瀧川に向かって古風な様式を投げかけ、そして投げ返してもらったのである。
その瀧川とよりにもよって由紀子の死の直前にすれ違っている。これほど鮮明な記憶に日夜、苛まれることはあっても雲隠れしてしまうように失われるわけがない。咄嗟の保身がかならず罪を否定するごとく、幸吉の意識は悲劇の渦中で失神する乙女にでも扮したというのか。失われた命と等価であるもの、おぼろげな記憶の風化がそうであるとすれば、古風な様式は無意識の領野に底深く沈んでいるに違いなかった。
けれども鬼ごっこみたいな影に脅えただけで、あとは今西家の煩瑣にかまけて由紀子の喪さえ放擲し、一種の精神錯乱へと逃げ込み、あたかも近松門左衛門を擬した心中劇にまぎれ、夢遊病の殺人を戯画化することで瀧川の脅威から遠ざかったのだった。
「あなたは間弓さんに随分と詰め寄ったらしいわね。ええ、手紙ではなく電報で報せてきたくらいですから、よほど焦っていたのでしょう。あと一歩でしたのに、詰めが足りなかったようね。思い出しているのかしら、瀧川さんのこと。それとも由紀子さんとの情事、あら、ごめんなさい、いずれにせよ、あのときは今西家の紛糾が却ってあなたを回廊へと追いやったことになるわ。ついでに宇宙の旅へでも行ってくれたらいいと念じていたのよ」
「それまで正枝さんは出番待ちだったというわけですか。何度もふりだしへ戻った気分でしたけど、一応あれこれ考えに考えてはいたのです」
「無駄ではありませんでしたわ。あなたが考えてくれたお陰でこうしてすんなり再会できましたのよ」
正枝は不敵な微笑を作り、同意を求めているようだが幸吉はつられなかった。
「では間弓さんの動揺と疑念をもう少し追ってみましょう。夜這いなんて今まで一度も口にしたことも文字にしたこともないって恥ずかしがっていましたわ。大胆になったみたい、わたし。なんて言ってたくらい。でも興味があったから耳をふさがなかったと思うの。いえ、ふさげなかったのよ。間弓さんは内々、わたしと由紀子さんが前もって通じていたのではと疑っていたようでした。昌昭の実姉にあたるわけですし、父からの便りでわたしに知らされていてもおかしくありません。しかしそれではあまりにまわりくどく、一体なんの為に、挺身隊のような女体を投入する意味があるのでしょう。増々わたしの認知が面倒になるのは父も同様です。いくら形式を確立する目的で幸吉さんの惑溺具合を試すにしても、わたしの代役というのはやり過ではありませんか。案の定、由紀子さんを愛してしまったことですし、そんな不利に傾く実験なんて馬鹿げてます。けれども遠まわりが一番の近道であったなら。一番望む者の声であったなら。
間弓さんはすべてわたしの提案だと言い切っているけど。わたしは夜が明けたら東京へ帰るのよ。あなたが誰を信じるか、誰を求めるのか、わたしには決めれないわ。それともすべて父の責任にしますか。ではあなたの責任はどこにあるの、いえ、ないのね、そう思いたいのね。ねえ幸吉さん、まだ考えてもらいたいの、夜は待っているわ。
そもそも蜂が不自然だと間弓さんは言い出しました。あの場でうずくまるのも変、だって由紀子の家はまったくの反対方向、わたしに近づく手段だったのですね、と。どうしても疑心をぬぐえなかったのでしょう。仕方ないわね、間弓さんからすれば、うまく言い含められてしまったけど、昌昭さんとの縁を仲介できるのはわたし以外にいなかったから、とりあえず満蔵の娘だと留保しておいた上で計略に便乗したのね。でも疑心より愛慕を選んだ以上、わたしの出自なんて追求するだけ骨折りだと算段したはずですわ。それよりも風見家にまつわる異変に意識を大きく傾斜させた。ええ、そうだわ、瀧川さんの夜這いの秘事は間弓さんの女性としての開眼でもあったのよ。
わたしは先手を打っておいたの。あの修学旅行先ではじめて会ったとき、昌昭さんと肉体関係をもちました。付近の隠れ宿でね。間弓さんの手紙に一切その件に関する反応が書かれていないのは、かなりの衝撃に打たれた証しで、疑心暗鬼を子宮の奥で感じとっているからです」


[518] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた17 名前:コレクター 投稿日:2020年04月20日 (月) 20時36分

「なるほど、そうやって僕はたぶらかされたわけですね。災難だ、屈辱だと文句を言いたいところですが、あなたの肉体まで味わった以上、無理に怨言を引きずり出したくありません。代役に死なれ泣く泣くからだを開いた正枝さんの心意気は誇り高く、とても美しいから」
「うれしいのでしょう。でもよかった。わたしのことを軽蔑してないのね」
おさない時分より癖みたいにしみついた感性のねじれが卑屈さを隠すよう働き、うらはらに阿諛を口にしてしまう。その失態をまた演じてしまったので、思い切り嫌らしい目つきで正枝を見定めてやろうとしたけれど、それ自体が恨みつらみの現れであるように感じ、軽やかな不随意筋のあるがままに立ち返り、片頬を引きつらせながら、妄念の妄念である由縁をのみこんだ。
「軽蔑するにも気概が必要とされます。とにかく複雑な気持ちでいっぱいです」
「当然だわ。父から間弓さんと昌昭さんの結ばれをいくら逸らそうとしても、代役の由紀子さんでは不十分だった。そして溺れに溺れ狂恋の自覚さえ抱いたあなたも、使命を努めあげてはいなかった。だから肉体を提供したのち、真相をさらけ出そうとしている。今はその途中よね。予想つかないでしょう。わたしのはらわたが」
さすがに今度は奮然と声を張り上げた。
「そうですとも!どう考えても理解しがたい。憧れの女優と会えただけじゃなく、夢のような交わりまで行なって動悸は鳴り止まず、まるで映画のひとこまだと、うれしさで舞い上がった途端、うれしさは押しつけでしかなかったと悟り、自虐にも至れない体たらくを、埃にまみれた不粋を呆然と眺めているだけです。みすぼらしい矜持に近づく歓喜は、舞台から遠ざかる観客の影でしかありません。ただただ困惑するばかりで、いっそこのまま消えてなくなりたい頭に一体なにがわかりますか!」
間髪をいれず正枝は子供をなだめるようなやわらいだ顔つきになり、
「それだけ、まだあるでしょう」
さながら悪戯ともだちの名前を聞き出すふうな蠱惑を匂わせた。
その匂いこそ無精通の頃、座布団にこすりつけた陰茎が絶頂を迎え脈打つだけの、波際を聞かせるだけの、ほの暗い罪悪感が漂わせた沈黙からの薫りであった。やがて知る精えきのべたつく余韻とは異質の。
「由紀子さんを愛してしまったのです。もうあなたとの形式の形式なんかどうでもいい、情況的に口約束した間弓さんとの盟約の方が僕には無難であって、あの大仰なロマン主義の墓場、青春の墓碑銘を持ち帰る小心さが残されていましたから」
正枝の表情が新任の女教師みたいな面映さに傾いた刹那、幸吉は母と満蔵が織りなしたという過ぎ去りし日を脳裡へ描いてしまった。醜い光景と呼ぶには土足のような非礼があり、淡い反照と見るには瞬きの由々しさが甘かった。
刹那の幻影、これまで聞いたこともなかった驚きの風化に支えられた糸車は、強迫観念として成立するだろう。現に由紀子への愛慕を開陳したことで、のぞきからくりは濁色に染まって、肉欲が汚らわしく思えてくる。
しかし若き自分の母を小学生だった間弓が夢想していたという聞き語りには浄化作用があって、数瞬における情感と光線の閃きの裡に、闇の介在を否定するような錯誤を得てしまう。
「正直ね、由紀子さんも同じだったわ。それに引き換えどうしょうもなく愚かな、わたし。色欲だけであなたを飼いならそうなんて思案したのですもの。戸惑った間弓さんは、お姉さん、もう計画は達成されたでしょう、父も最近では眉間にしわを寄せてばかりいます。そろそろ昌昭との仲を認めさせる方向へと協力願いたいのですが、と言ってきたわ。要はこれまでわたしの手筈に従って来たのだから、認知を焦らずにってことなのかしら」
「単純な内輪の落ち度ではないはずです。由紀子さんとあなたの直接対決があったのでしょう」
「ごめんなさい、話しを端折るつもりではないのよ。間弓さんは明らかにわたしを利用しておいて見離す気だった、それを念頭に置いてもらいたかったのです。えらそうには言えませんわね、わたしだって似たようなものですから。では辛いでしょうが、あなたと由紀子さんの出会いまで戻ります。そう、いかにして不良女子高生を操るかという問題へ。あと、もうひとりの、いえ、ひとりでは済まないわね、あなたもご存知の人物に登場してもらいましょう」
幸吉は無窮の眼をした正枝にまたしても女優、呉乃志乙梨の相貌を見取ってしまい、歯痒くなった。


「先日の続きです。どうも遊び半分の口先の足踏みでは踊ってくれそうにもありません。やはり本当のことを告げなければ、由紀子は首を盾に振らないと思いました。たしかに内情を広げてしまうのは危険かも知れませんし、今西家と無縁でないことを秘めているのなら厄介です。
わたしはお姉さんの伝授に沿って、まず腹違いの姉がいること、父が認知しようとしていること、ある中学生と婚約させる算段であり、形式でもかまわないと主張していること、それらを止めさせたいと考えている、こう切り出しました。
腕組みをして聞いていた由紀子は、肉弾戦を願っているのってにらむように問いかけてきたわ。うなずいたわたしは借りてきた猫みたいに縮こまっていました。すると風見成実という名に心当たりは、そして矢継ぎ早に、とぼけても駄目、あんたの弟の母親よ、昌昭のね、ああ、由紀子は全部知っていたのです。でもこれで厄介だという懸念はある意味吹き飛ばされ、あらたな疾風をまともに受ける情況に立ったわけですので、戦闘開始にふさわしい逆境をこちらも由紀子へ投げ出せたと妙に安堵しました。そうですわね、父がわたしに語って聞かせたように、由紀子だって母親から謂れを知らされていたとしてもなんら不思議ではありません。むしろ風見家や燐谷家とのしがらみなど、世間はとうの昔に忘れ去っていると、都合よく解釈していた驕慢におののきました。そうです、わたしは世情に疎すぎたのでした。それで父は形式形式と大義名分に組する意志を訴えているのか、不始末をぬぐうように黙って昌昭を籍に入れたのも、世間に対する実演だったのかと了解されました。同時に父の立場や責任をよくわからないまま、なじっていただけの自分があぶりだされたのです。
弱く未熟な等身大に近づくことへ怖れを感じていたわたしにとって、由紀子の直線的な姿勢はいさぎよく写り、ついには弟と結ばれたい願望を告白してしまい、ここで少し狡猾な意識も芽生えて、それを不良の品格とか影響とかなんて認めるつもりはありませんけど、もし幸吉の母親があのときわたしの家に嫁いでくれていたならという夢想を、風見家に向けてそよがせてみたのです。昌昭とふたりして今西家で育っていれば、由紀子とわたしは姉妹だったのよって。
これは効果的だったみたいです。世間知らずのわたしが多分はじめてめぐらせた機知というか奸計でした。ただ、うかつでした。一気に由紀子との距離がせばまったのは、果たしてこの事情だけに収斂されるのでしょうか。気づいたのは少し経ってからでしたが、由紀子の様子を観察するよう指示されていたわたしは、更なる計略と同様におくびにも出しませんでした。まず不良女子高生にいきなりつき合おうなんて迫られたら大概は気後れするでしょう。こちらからは暗示すらあたえない、由紀子がいくらなんでもとか、ちょっとわざとらしくないかなとか言い出すまでは。
あんたさ、あいつをどうして欲しいの、中学校まで押しかけるなんてみっともないから嫌、どうする気よ。しびれを切らしたふうな口調がいよいよわたしに届きました。
お姉さんの作戦は的を得てましたね。偽物の恋文を誰か真面目そうな幸吉の下級生の女子に持たせる。しかし、よく幸吉好みの文面をおさなく崩して書いたと、わたしはお姉さんの術策に感心したものです。たった一度、旅先で会っただけなのに。いくら父から詳細を教えられていたとしても。
下級生戦略の意図は由紀子だって子細を述べずとも直感で察するだろう。はい、まったく説明は無用でした。そして女生徒は由紀子に選んでもらう。いえいえ、もしわたしにと命じられたらおそらく実行したでしょうけど、お姉さんはそんなこと出来ないと見込んでいたようですから、はっきり由紀子に頼みました。鼻で笑ったあのときの、憎々しい感じに入り雑じった冷徹な目つきが忘れられませんわ。
あっ、ちょうどいいのがいるよ。なんでも親類の子だそうで聞けば、本人は乗り気だっていうから、あまりに筋書きが整いすぎているのではと危ぶんだのですが、なんのことはない、その櫻田静子って下級生、以前から幸吉を意識していたっていうから唖然としてしまいました。こんな好都合があっていいのだろうか。あまつさえ、その子はどうせならちゃんと自分で恋文を書き直したいと言い張って、名前まで添えてくれたのでしたわね。
わたしはひたすらお姉さんの女優魂がこんなところでも発揮されるのかと、たいへん胸をたかぶらせてしまって、こう安々ものごとが詭計であるにもかかわらず成就される状況に目くらましされておりました。
だってわたしの報告に対しての返信を読み返してみると、空疎な感謝と褒め言葉だけで綴られていますもの。決して信頼関係を築こうなど考えてはおらず、利害を中心にしてわたしのまわりをめぐっていたのね。由紀子は不良という看板を抜きにして、楽々ひと仕事済ましてしまったのです。わたしが当初いぶかった感想に触れもしなかったお姉さんの考えをうかがうべきでした。
それからの経過は偽物の恋文が本物へと化けてしまって、幸吉はさぞかし初恋めいた心持ちだったでしょう。指令は恋の邪魔はするな、でしたわね。なんという偽善、でも由紀子ですらいいんじゃないの見守っておこうなんて飄々としていたのですから、わたしもつられて人の恋路はなんとやら、どうでもかまわなかったのです。
由紀子さんなんて言い方しなくていいわよ、呼び捨てで。そういう親しさが時間の経過に触れることを忘れさせるようになっていました。そしてわたしの恋模様を聞きたがり、色々と質問を浴びせてくるようになった頃ふと、わたしも昌昭の幼少期など耳にしてみたくなり、あれこれ喋り合っているうちに、母親である成実の身持ちというか、大人の女の行状に興味を抱きだして、そうなんです、由紀子にしては饒舌で感傷的な口ぶりを示すものだから、ついつい際どい内容、つまるところわたしは昌昭の母に言いようのない気持ちがあるのを隠しきれず、反感とも追慕とも違う愛憎の流れる淵へ沈んでいったのでしょう。父が好色なら風見成実も同類と決めつけ、その子供らふたりは誰でもない、わたしと昌昭の定め、増々もってわたしはわたしらしさを離れ、あたかも邪悪な霊に憑依された面差しで、饒舌とは別のもっとしたたかな、欲深い谷間へと彷徨い歩くように由紀子との間合いをより狭めたのでした。
どうだったのかしら、決してわたしの悲恋めいた想いに同情してもらっただけではないと感じるけど、幸吉がやがてお姉さんの思惑通り由紀子にのめり込んでいくのなら、そして相手をするのが自分だと割り切っている身であるからこそ、これは切り離された弟への思慕のなせるわざであり、母親の淫行をとがめてるのか、まるで哀感に満ちた二重奏をかき鳴らすごとく、ある秘事を打ち明けるのでした。
瀧川良雄という同学年の生徒が由紀子の母のもとへ夜這いしていると言うのです。耳を疑るか、たわごとにしか聞こえなかったわたしですが、委細は濃密で、ことの運びは現実味に彩られ、否定の否定が根本的にどこへ依拠するのかなどの迷いごとを宙吊りに、やがて未知の淫靡な空間を空想させ、その空間は異次元ではなく、はっと目覚めるまでもない、ごくごく身近な領域でわたしを待っていて、眠ることをさまたげようとする官能に襲われ、中学生のとき同級だったあの男子生徒の容姿を生々しく立ちのぼらせたのです」


[517] 題名:おしらせ 名前:コレクター 投稿日:2020年04月18日 (土) 19時39分

新型コロナウイルス感染拡大防止に伴う臨時休業のお知らせ

休業期間:4/18(土) 〜 5/6(水)

なお今後の状況によっては、休業期間を延長することがございます。


[516] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた16 名前:コレクター 投稿日:2020年04月13日 (月) 23時30分

一呼吸いれた正枝のまなざしは幸吉を見据えていながら、どこか他の場所へ運ばれる雲のような浮ついた晴れやかさを感じさせた。その明朗な意趣は幸吉の奥底に蠢いているのだと、説明つかないまぶたの裏を擦過する幻影に当て込んだ。いささか不安定な発見に安堵してしまう卑屈さが光の由縁であるとすれば、故意に無視することもない。色彩の投錨は常に瞬きを願っているからである。
「僕があなたへ忠誠を誓う物腰には色仕掛けしかなかったというわけですね」
「ごめんなさい、幸吉さん、決してあなどったり軽んじていたのではないの。かつてわたしが少女趣味で、大胆だけど瑣末な想いで、赤い風船をふくらませていたように、少年のあなたを支配している空想が稀薄になってしまう予感にあらがえなかったのよ。果たしてわたしが憧れの対象でいいのかしら、厳密にはあなたに問うと言うより、わたし自身が女優として流行り廃りを怖れており、その自信のなさが投影されてしまっていたので、確固としたみなぎるもの言いを、直截なお願いができませんでした。きっと昌昭さんの気持ちも一緒に受け取っていたのでしょうね。
とくに母を失ってからひとり映画の道を歩んで行こうとして挫折し、父だけが唯一のよりどころになりました。でも軋轢が生じるのは自明で、むろん時機を待つよう諭されていたけど、漏洩に屈しない昌昭さんの態度をほぼ容認し静観している父が、それは間弓さんに対しても同様でしたから、なにもかも託すのは難しかったのです。やはり穏便な形で今西家に迎えられそうもなく、それぞれと内密の、三股を掛けた内通へとひやひやしながら展開してしまって、あまつさえ由紀子さんがまるで異形の仮面のごとく立ち顕れてきたのです。今から思えば間弓さんは、最初からわたしに縮図のような来由を知らせるべく手紙を寄越したのでしょう。スカウトせざる得ない情況をわたしに提案させ、その出方を探ろうとしたのです。昌昭さんもそう、憧憬と恋慕をつらぬくのであれば、血のつながっていない間弓さんだって然り、ええ、気がつかないなんて絶対あり得ませんわ、ものごころつかない頃から一緒だった姉の深い深い胸中を。
だとしたら、三股なんて遊び人を気取ったわたしの方が、三すくみの内情を眺めていたつもりの傲りが、まさに砂上の楼閣であって、今西家のみんなから試されていたことになります。一体なにが目的で、そうなの、父も間弓さんも昌昭さんもお互いに寄り添わない姿勢を誇示しては、その実わたしの知らない合意を共有していた、あるいは各人が誰かを省いて、すべてとは限らないでしょうが、なんらかの情報交換をおこなっていた、少なくとも由紀子さんはそのなかに入り切れてなかったようだけど、亡くなってしまった今では薮のなかだわ。
「では、やはり由紀子さんは殺されたと考えているのですね」
「いきなり結論に達することは無理よ」
「どうしてです」
「ねえ、幸吉さん、あなたは済んでしまった来歴を、もう取り返しのつかない過去をわたしから聞かされているの。結論を望むより今ここで大切なことは他でもありません。あなたの想像力がいかにわたしへ肉薄するか、そしてなにを阻止し、なにをつかみ取れるか、夜が明けるまでの猶予に縛られている実際だけです」
「まだ縛られていると言うのですか。いや、違うな、縛り直したいのじゃないですか」
「考えは自由ですわ。幻影だってそう、自由に羽ばたく鳩の群れを撃ち落とすのは罪である前に虚妄ですから。でもこれだけは申し上げておきましょう。幸吉さんにはもうひと働きしてもらわなくてはなりません」
幸吉は呆気にとられた顔をした。
しかもその顔面を微かに痙攣させている動きが働きの端緒であり、それ以上の効用なんかあるわけもないなどと、説明がついたような、つかないような意想にすべり落ちて、話しを聞き終えたらもう一度しっかり正枝の裸体をむさぼってやろうと、淫らな高邁さに奮い立たった。


「お変わりありませんか。先日の件、なかなかお姉さんの申し付け通りには運べません。昌昭の姉といいましても現在ではおそらく誰も詮索せず、今西家と由紀子の関係を結びつける謂れはもう遠のいてしまっているように思われます。しかし由紀子の人柄といいますか性格は段々わかってきました。
不良なんて下げ札にどうして甘んじているのか不思議な気持ちがします。あと異性交流にまつわる臆見もそうです。悪い評判をつけたがるのはいつも他人でしかありません。そしてその大半は他人らの歪んだ目線で勝手に醸成されています。火のないところに煙は立たない、一理ありますが詭弁と魔術に歴史を感じるなら、実証が第一ですよね。
蜂に刺されてからの交流はこの間、お話したように特に深まったわけでもありませんが、でも、まちがいなく挨拶には笑顔で応えてくれますし、家に何度か遊びに来てくれました。もっともわたしが誘ってのことですけど。そうですわね、お姉さんのおっしゃるよう由紀子はあまり自分からあれこれ喋ったりせず、やはり無口な性向ですので、余計に切り出せなかったせいもあり、あやうく疎遠になりかけそうでしたのよ。はい、そこは心得ています。指示通り観察と油断でしたわね。観察は怠りませんでした。でも油断ってどうなんでしょう、結局、観察における油断の一幕ということになってしまうのですが案の定、由紀子には友達らしい者が見当たらず、もし不良の名が幅をきかせているとしたなら、さしずめ一匹狼とでも言いますか、女子なのに狼なんて変なのですけど、ああいう体格で冷たそうな顔つきだから、男子だって近寄りがたく感じていて、それが尾を引いてるみたいです。
中学の水泳部だった頃に何人かの男子生徒がからかい半分なのか、本気なのかは分かりませんけど、由紀子に迫ったことがあったようです。みんな肘鉄で終わったと聞きますので、その気性のきつさ、いえ、きついとか愛想がないとか、丸みを帯びた可愛さばかり欲しがる相手にはしてみれば面白くない女生徒なのでしょうね、きっと。また、高校生や有職少年ら年上の異性と並んで街を闊歩しているだの、果ては与太者とも関係しているとか、貫禄あり気にくわえ煙草を吹かしていたなんて噂がひろまってしまい、相当な札つきだと言われだしたのです。
そんな噂をいちいち鵜呑みにはできません。わたしも親しい友人がいませんので観察するしかなかったのですが、いっそのこと、真正面からあっけらかんと突っ込んでみたらというお姉さんの意見に、はい、なんかわたしも女優の卵になった心意気でぶつかってみました。するとどうでしょう、わたしはあの時ほど由紀子が可愛く魅力的に見えたことがありませんでした。にっこり微笑んで見返す夕陽のようなきらきらとした切なさが、寂しさを寂しさで答えているのでしょうけど、反対に名も知らない孤島の住人が醸しているような気力に励まされてしまって、そのあてどもないときめきに心打たれました。素直すぎる気持ちがわたしの陰険な質問をそっと包んでくれるように、王子さまのくちづけで真意を奪い取ってもらうように、甘い倒錯が夏の残照を呼び覚まし、夜露にぬれた夢さえすり抜けて明日の扉が叩かれているのです。恐々とした期待、明晰な気掛かり、そしてお椀を伏せたみたいな秘密の予感。
なんのことはない、わたしが油断していればいいだけ、なにを気張って構えていたのだろう。由紀子は言いました。まあ、そんなこともあったような、うるさいのよね、あいつら、ひとり歩いてたらどこか遊びにいこう、いいことしないか、なんてね、あっそう、いいことってなにかしらって聞き返してやったわ、黙ってついて来いだとさ、ついて行くふりしてさっと消えてやったのね、面白かったわよ、ですって。
たしかに怯みました。あまりにあっけらかんとしてましたから。だが、ここはお姉さんの教え、怯みながらも顔を赤らめることすら忘れて突っ込みました。あのね、由紀子さん、相当に経験ありそうに思えるのだけど、どうなのかしら。
これまた即答でそう思うのならそれでいいわよ。敗北でした。由紀子はひとの思惑にふりまわされたりしない女子でした。これではお姉さんの代理女優を頼むどころか、もうお手上げです。ところが以外でしたの、わたし余程しょげた顔つきをしてたのでしょうね、由紀子は敏感に見て取ったのか、あんた、どうしたのよ、蜂に刺された足をあんなに吸ってくれたのに。ええっ、今度は不意打ちです。あれは、あの場合はどうこうじゃなくて、ただ、なんというか、しどろもどろになりながら、油断はまさに禁物、いえ、隙だらけだったのでしょう。間弓さん、もしかしてわたしのこと好きなの、その真面目そうな眼にはまだ未知数の光がいっぱい輝いていて、はあっ、そんなつもりじゃないわ、増々もって動揺してしまい、かといってもっともらしい説明なんかできません。完全にうなだれたわたしを察したのか、そうなんです、お姉さん、ひょうたんから駒、ちがいますか、いいことわざが見つかりません。
由紀子はこう柔らかな声で尋ねてきたのでした。なにかわけありらしいわね。よかったら話してちょうだい。あんたには恩があるからわたしにできることだったら相談してよ、遠慮はいらないわ。そう詰め寄られても、おかしいですわね、わたしたちの企みの行き着いた先のほうがどれだけ不道徳で、奔放で、色情に染め上げられているか、詰め寄るはずが忖度されてしまい右往左往、でも覚悟みたいなものは炎のごとく揺らめいていました。ややあって、わたしはほとんど涙目でしたけど、由紀子を見つめ、ここではいくらなんでも、放課後に家でと。
お姉さん、昌昭がそうであったように秘密は漏洩されるものですね。内実こそ理解してないにしろ、わたしが今西満蔵の娘であることを前々から知っていたとすれば、スカウトしたつもりの由紀子は事態の重みを感じていて、だって、昌昭の実の姉ですから、あの母親の荒い気性を受け継いだ娘ですから、必ず幸吉をたぶらかせてくれます。こんなはしたないことをわたしに言わせるなんて、お姉さんはそれを見越していたのでしょう。だとしたら狡いわ。でも仕方ないです。うまくいくことをわたしは求めていますので。父の耳へ入るのも確実、どう展開するかはおおよそ見当がつきますし、混迷の糸はより絡まるでしょうけど、ほどけるのも早くなりそうな予感が胸に迫っております。
祈りは欲望へ追従しているとお考えですか。欲望に祈りが宿っているのでしょうか。
うなずく由紀子が本当に不良であってくれたなら、それだけがぐるぐると、まるで遠心機にかけられた言葉が分解されてしまうよう、切れ切れと耳の奥でまわり続けています」


[515] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた15 名前:コレクター 投稿日:2020年04月06日 (月) 22時48分

「あなたが受けた間弓さんの印象ってどうでした。暴走列車なんて言ったけど、実際にお会いしたとき、父の手紙に綴られた姿容のまま想像を越え出たりせず、わたしの宿望にふさわしかったわ。
深窓の令嬢という古風で閑麗な言葉にふさわしい澄んだ眼と青ざめた顔色、しかしさりげなく紅潮することをためらわない体感、そう、こちらの頬が恥じいってしまう秘匿された色香、たぶん同性を意識すればするほど、一見華奢なつくりの内奥から燻る肉感はまるで罪科をとがめているように、険阻な心持ちへ促がされるのね、相反するなにかを感じさせておきながら、その羞恥をしっかり自分が受け持ってしまう。
高校生なのに辛辣だと感じるよりも、その辛辣さを打ち出さずにはいられなかった未成熟に感じ入りました。暴走する列車の乗客がわたしと父、昌昭さん、そして途中から乗り込んだ幸吉さんだけだとすれば、間弓さんの運転は無謀であるまえに抜かりのない速度を保っているわ。手紙でもちゃんと周到だって結んでいるのだから、ほぼ間違いないと判断しました。そこでわたしは言葉を選ばずに感情を選び、こう返信したのです。
どういった告白がお望みなのでしょう。わたしの白状するべきことはあなたの文面に書かれていません。いや、書きたくなかったというべきでしょうか。では行間に、さながら鉄格子の隙間からのぞき見るように、はんざい者のかかえる秘密を勝手に探ればよかったのかしら。そうじゃありませんわね、間弓さん、あなたの胸中をあなたはわたしに認めて欲しかったのではありませんか。
そう端的に感情を投げかけてみたのよ、ある確信があったから。
そもそも認知にあなたはこだわってなんかいない、こだわっているのは、夜風になびく枯れ枝の先の先に残された一葉がそうであるように、雛が寒さとは別の震えを小刻みにしめす野性の孤絶感に似た、知性とは無縁であるべき焦がれて焦がれる恋心、さとられまいとして反対に見通してもらいたい意地ではありませんか、と。
昌昭さんのことが好きなのですね。わたしなんかに絶対とられなくないのですね。いつから恋心を持ちはじめたのかはわかりませんけど、昌昭さんが実子でないことを自覚したときから、あなたの意識に大きな変化があったように思います。しかし同時に様々な支障がわき起こりました。それをここであれこれ述べても仕方ないですし、なによりあなたの直球があまりに初々しく、わたしは間弓さんのことをとても身近に感じてしまって、あなたの役に立ちたい気持ちでいっぱいです。さあ、どう演じればよろしいのでしょう。そうだわ、変化球を見てみたいと思いませんか。
ごめんなさい、考えがまとまっていないのでしょう。いいのですよ、あなたは目一杯、自身の希望と向き合い、そして戦っています。でもわたしと戦わなくもいいじゃないですか。昌昭さんも幸吉さんもまだ子供です、中学生です、あなたは高校生、わたしは違うわ。女優は脳内で演じる光景を外に外に出さなくてはならないのよ。わたしが満蔵の娘であるとか、ないとか考える暇があったら、父を怖れる時間があったら、世間の眼を気にする繊細さがあったら、どうやって昌昭さんの心をとらえればいいのかよく思案してください。
あと、宛先のおともだち、こんな大切なこと書き送るのですから、ちゃんと信用できるようわたしに説明するべきです。わかっていただけましたね、間弓さん、あなたはわたしの妹なのです、たったひとりの」

幸吉は湯気の引いたお茶を口へ運ぶ素振りに全神経すべりこませて、いかにも沈着な面持ちで構えた。
「間弓さんはそれで納得したのですね」
薄いレモン色のカーディガンを無造作に、けれどもこれ以外あり得ないほど羽織った病弱な間弓の姿を想い浮かべると、それはただちに血の気のないくちびるを強迫的に呼び寄せ、はじめての接吻を脳裡にめぐらせたのだったが、情景の区分は容赦なく、間弓の姉と向き合っている現実へ引き戻した。
「お姉さん、そう言ってくれたわ」
思わずお茶を吹き出してしまった幸吉は、もはや気取りに縛られることなく、眼をまるくし声を高めた。
「すいません、なんですって」
と、言いながら畳を濡らした水分にあたふたする。
「あらあら、貸してわたしが拭くから」
わずかな沈黙が夜を際立たせた。そして何故かしら見通しの良くなった景色を眺めているような心延えに、夢の夢の耳鳴りが超音波のごとく淀んでいるのを知り、肉欲が一瞬だけ淡く透けてしまった気がしたけれど、それは遠雷を懐かしむ耳朶の構造だと頷いてしまった。
「どうも恐れ入ります」
「いいのよ、先へ急ぎましょう。そうね、由紀子さんとの関係を、幸吉さんの聞かされていない関係をお話ししますわ。
ほとんど交友を持っていなかった間弓さんがどうして不良とか呼ばれている生徒と親しくなったのか。
わたしの言いつけを守ってちゃんと書き記してくれました。それはひょんなことからなのね、本人も思ってたみたい、でも結果は出来事を俯瞰しているとしかわたしには見えなかったわ。
中学時代から同学年だったけど、性格にも姿勢にも隔たりがあり過ぎて近づきがたいと感じるよりか、もって生まれた気質がごく自然に無関心をつくりだしていたのね。一度も喋ったことなく、高校生になっても同じクラスじゃないから関わりなんて持ちようもなかった。ある日の下校時、家の近所でうずくまっている制服姿の由紀子さんへ声を掛けるまでは。
異様な光景であるとともに、一種あるべき逸脱が、まったく夢のなかの混沌とした雑念の、しかし絵面が絵面に収まっている瞬間の固定、わたしたちの見るべきして立ち合っている日常の裏側、逃げ足を絡めとる矛盾した勇気が、間弓さんを別人にしてしまった。由紀子さんは不良である。でもよく知らない。
とっさには急病としか判断できなかったし、弱みを握られたなんて変に因縁とかつけられても困るから尻込みはしたけれど、気がついたら駆け足で歩み寄って、どうしたのと顔色をうかがったのね。すると由紀子さんは痛い、さっき蜂が飛んでて、たぶん刺されたようなの、間弓さんはまさかそんなとびっくりしつつ、小さな頃にその覚えがあったので、どこ、どこを刺されたのって親身になって話しかけたら、由紀子さんはスカートをまくり上げ、太ももの内側をあらわにしたそうよ。するとピンポン玉くらいに赤く腫れており、たしかに蜂だと直感した間弓さんは以前、流水で冷やしてもらったことを思い出し、家まで歩けるか尋ねてみたけど、もう歩けない、ここまでかなり歩いた、段々ひどくなるって本当に苦しそうだったので、いきなり赤い腫れに吸い付いたのね。由紀子さんはなにするのって表情で見返したけど、声はかすれて言葉にならず、間弓さんの処置らしき行動にじっと頼るしかなかった。どれくらいのひとときだったか、でもそれは数えることなど必要なかったから、そして辺りにひとの気配もなかったから、春の陽射しは陽気さにあふれ、そのぶん妙に森閑とした雰囲気で路上に座り込んだふたりは人目を気にかけず、手当をほどこし、ほどこされて、うん、すこし治まったよ、そう由紀子さんが薄ら微笑んだとき、間弓さんは家までとは考えず、視界に入る他家ならどこでもいいって思いなし、自分でもどこからこんな意志が沸いてくるのだろうっていぶかりつつ、さあ、つかまってそこまで歩ける、もう大丈夫よ、励ましながら、あきらかに体格の差がある重みに堪えている実感を噛みしめて、見知らぬ家の扉を勢いよく開け、不審な顔を出した主婦に事情を告げると、案じたより柔らかな現実が夢をひとまたぎし、救急箱を手にした情景の流れは嘘のようにきらめいて眩しく、不意に学校の保健室の匂いと白いカーテンが昼間なのに、どこかおぞましく感じた記憶と入り雑じり、幻覚へさらわれそうな気配に拮抗しながら、消毒してもらって包帯を巻いた足がスカートのなかに隠されたとき、ようやく、由紀子は主婦と間弓にお礼を言い、ひとりで帰れそうだからと強がるのをなだめるようにして、あなた風見さんだよね、わたしの家はこの先だからぜひ休んでいってと自分の名前を教えたら、知ってるわよ、以前校長だった今西さんところのと、明快な返答が返ってきた。
その後の詳細は幸吉さんの頭脳で描けるでしょう。ではいかにして間弓さんがわたしを姉と認め、手を取り合ったか。おそらく察しがついているようだけど、ここは細やかな箇所に耳を傾けて欲しいのよ。
間弓さんはこう書いています。逡巡を這わせているけれど新しい家族に夢を託しているのが切なく、たかが幼心と読まれようともかまわない、そうわたしに訴えております。
幸吉さんのお母さんね、つまり父の恋人だったという実習生に間弓さんはうっとりした幻影を投げかけていて、花のつぼみに包まれた悪夢と自嘲しているけど、果たしてそうでしょうか。そして続けざまにわたしへの嫌悪を述べていますが、この愛憎的な二面性にすべては集約されているよう思えるのです。若くして亡くなった母の面影が恋しい反面、父のふしだらな異性交遊を嫌い、さらには結婚の意義にも延長をかけ、欺瞞と色欲の権化を見出そうと努めている。この努め方に無理があるのは間弓さん自身よく心得ていることで、真に潔癖な純愛しか了解できないと言うなら、義弟である昌昭さんをとことん憎むはずでしょう。しかし、その逆でした。こんな言い方するとわたしも下卑た女の仲間入りみたいで、いささか不本意なのですが、お嬢さま的な心性を決して侮蔑しない間弓さんは、どこまでいってもまだまだ女子高生でしかありませんし、家族の絆だの、母性本能だの、逃避的願望だのを、ありありとした光のもとで、避けらけれない現実の影に被われた苦悩としては学んでいないのです。あくまで理性の冠を擁した位置でしか物事を把握しておりません。
知っているでしょう、あなたは昌昭さんが好きで好きで堪らないのは、ただ単に禁じられた構成をなぞっているだけよ、実はわたしのことを姉でなく若い母と認めたくない一心、隠せば隠すほどに、そうした実情が降り掛かっている悪夢的な心象に、ある意味よろこびを見出しているのだと次の手紙に書き記しました。
どうしてわたしが昌昭さんと駈け落ちみたいな真似をしなくてはいけませんの、だったらあなたが行なって然りでしょう、ごまかさないで、嫉妬する馬力があるのならわたしを姉と信じ、女優の端くれの演技を徹頭徹尾に活用しなさい。映写機に掛からずともこの現実を演出してみましょうよ。
すでに幸吉さんはその途上にあるけど、あのひとは本来のねじが緩んでいるからって、あなたを愚弄し、間弓さんの心にまぼろしの姉と母の優しさを植えつけました。それであなたはまだ欺瞞と虚構のさなかに、夜の真ん中に置かれているわけなのですが。
間弓さんはほぼ全権をわたしに委ねました。でも一抹の不安があるらしく、そんなこと言ってもわたしも昌昭も進学でこの家を出るのです、その間にお姉さんがどう振る舞うのか想像しただけでいたたまれません、なんて泣き言を書いてくるので、どうしてそんな想像しかできないのですか、わたしは可愛い妹のため熟慮しなければと日々考え抜いているのですよ、時間はかかるでしょう、それは仕方ないことです。昌昭さんも時間をかけて了解させましょう、あまり時間がないけど公算はあります。とにかくいい調子に幸吉さんを祭り上げておく、そうすれば父も油断します。実際に姑息な手段が功を成しているじゃありませんか。
ただ、わたしにも危惧がひとつあります。燐谷幸吉という中学生よ、どこまでねじを緩ませてくれるのか、優等生と聞くけど骨の随まで抜かなくてはいけないわ。代役の座を中途で降りてもらっては致命的です。もう後釜は見つかりそうもない。ねえ、間弓さん、その風見由紀子さんって生徒どうかしら。いえ、待ってだの、良心だの、情けは無用だわ。だったらあなたが骨抜き番になれるの。ええっ、すでに接吻、あっ、そう、接吻でね、で、それ以上のことは荷が重過ぎるのでしょう。どうなの、蜂に刺された由紀子さん、父と幸吉さんの共通項でもある太ももの持ち主ではなかった、なるほど水泳部で活躍していたわけね。
こうしたやりとりが間弓さんと繰り返され、遂に由紀子さんをあなたにぶつける計画が練り上がったのです。わたしは映画女優に見切りをつけ銀幕からこの世へ躍り出ようと決心しました。全霊を託し、全裸を提供する。どこまで肉欲に溺れてくれるのか。間弓さんの本心とある試みを糊塗せんがために、肉体女優をスカウトしたのでした」


[514] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた14 名前:コレクター 投稿日:2020年03月31日 (火) 00時52分

さっと立ち上がった正枝のうしろ姿を追った幸吉の目線には、どこかないがしろにされた期待でそそのかされているのやら、はたまた手品師の所作へと見入ってしまい、謎が謎であることの当惑に立ちすくんでいるような心持ちが備わっていて、それは定まる位置を覚えようとしない夏の終わりの微風に遊ぶとんぼの軽挙を想起させた。
細かな描写が割愛される際に生じるであろう浮遊感は、劇的な様相へ落ち入ったりせずに、どこまでも漂っており、実情は夢の霞のなかへ浸っている。いつの間にか封書を手にした少しばかりきつい眼の正枝を見上げれば、幸吉は悪夢から目覚めたときみたいな安堵と、もの寂しい鼓動を感じ、さながらしきたりのように苦笑いしてみたのだが、自覚したほどの表情は作らず、畳に落ちた正枝の影に易々とかき消されてしまった。
「お読みになりますか」
「ええ」
夢遊病者の不審な仕草に首を傾げながら、自らその意識の外皮を掻きむしっているような遠隔が生じているので「いえ、読んで聞かせてくれませんか」という揺籃からの願いは口にできなかった。
「こっちの部屋で」
白々とした、けれども静謐の気配が夜の深まりを告げている澄明さは、正枝の受け取った動揺を鮮明に伝えるだろうから、幸吉は蟻が炎天下の光のなかへ這い出していくような責務に従った。


「前略失礼いたします。今西間弓と申します。わたしが憂慮している内実について、はたして正枝さんがどこまでご存知なのかわかりませんけど、少なくとも弟の昌昭があなたに相当な想いを寄せていること、それをひた隠しにするつもりなどないこと、弟の恋情と父の思惑に相違があること、これらを承知しておられると判断したうえで、是非ともあなたに真実を述べていただきく筆をとりました。
わたしが知りたいのはおそらく正枝さんが誰にも口外していない事柄ですので、冗長とわたしの気持ちばかり綴って肝要な返答をいただけないと困りますから、どうぞ短簡で権高なもの言いを許して下さいませ。
さて燐谷幸吉という中学生が我が家を訪れたことにより、あなたとの婚姻なんて絵空事みたいな事態がひき起されてしまいました。勝手に訪れたわけでなく、昌昭の計略だったから、なんとも始末に置けないのですけれど、その後の成りゆきはあなたの方がよく理解していることでしょう。実子でない以上、あなたとの血縁はありませんので、弟の純真な想いをさえぎるのは難しく、言葉にこそしませんが父も煩悶の様子を隠しきれません。
わたしも昌昭も父もそろって、まるで三すくみのごとく打ち解けられずに腹を割って話せないという情況ですので、目立った進展はありませんが、最終的には父の威厳といいますか、権限がすべてを仕切ってしまうような気がしてなりません。そうなると家族の絆なんて無惨に蒸発してしまうのです。でもそれはそれでいいのですよ、昌昭と正枝さんが一緒になろうとも。わたしはあなたを姉とは呼ばないでしょうし、今西の姓を名乗ってもらっては困りますが、絶縁のつまり他人であるならかまわないと考えているのです。
実際、弟はその覚悟をしているようで、あなたさえ認知を放棄してくれれば、女優であろうが芸術家であろうが問題はなくなるのです。しかし父の意向はまったく異なります。どうやら本気で幸吉を婿養子として迎えそうなのです。これにはわたしも戸惑って、いえ、戸惑っている場合などではなく、結局あなたを認め弟を捨て去るという最低の事態を招いてしまうから、なんとしても回避したいのです。
そこでまず、どうして他人である幸吉に執着しているのかをあなたに聞いていただかなくてはなりません。昌昭にも詳しくは話していない燐谷家と父との関わりを。
わたしが小学校へ上がった頃ですので、おぼろげな記憶に頼ってしまい当時の込み入った事情は、のちに父から教えられた事柄になりますが、どこからともなく幼児がやって来たなんて言い方をすると変でしょうけど、わたしの脳裡にある光景はまさにその通りで、しかも子供心にもなにかしら訳ありな様子が、父の苦渋が、亡き母の面影が、複雑な紋様を描きながら逆巻いており、疎ましさすら感取する間をあたえない貰い子の鳴き声は、わたしたち親子の暗黙に鳴り響いているような、ある種いましめの了解みたいな空気にひろがっていたのです。
もっともそんな陰惨な雰囲気ばかりに終始したわけではなく、父は他に悩みをかかえていて、これは内輪の恥の上塗りでいささか話しづらいのですが、反面もしかしたらわたしと父にとって違った生活となったのではないか、そんな微笑ましい光景を思い浮かべてしまう色恋の顛末でして、そうなるとわたしの弟は別人であったり、妹がいた可能性がなどと、夢想は夢想の奥底でひっそり眠っているのですけど、父から新しいお母さんなんてどうだろうとか、ほぼお姉さんみたいだけど間弓は嫌だろうねとか、再婚をほのめかしながら、わたしを子供あつかいしないことで、なんとか同意を得たいと願っている下心まるだしの口ぶりがとてもいじらしく、まだ幼いわたしにも母性愛みたいな感性の芽生えた記憶があって、多分それはあとづけの記憶操作かもわかりませんし、逃避的願望が現在ここに稼働しているようにも思えるのですが、とにかくはじめて耳へした大人の色恋にどれだけ夢心地となったのか、その尺度は同じく眠ってしまっているので、呼び覚ませるのは他者に対する嫌悪だけしかないという矛盾へ向かってしまうのです。
しかもただの嫌悪ではなく、よこしまな愁いが少しばかり華やかさをまとっているような、洋服を新調してもらったときに感じた肌を撫でては被ってゆく膨らみのような、花のつぼみに包まれた悪夢なのです。わたしは正枝さん、あなたを好ましく思っていません。わたしの嫌悪は嫉妬かも知れません。でも断定なんかできません。できないからとりあえず好戦的な姿勢を崩すわけにはいかないのです。
父はそのときある実習生と親しい間柄になっていた矢先でした。昌昭の母とはそれ以前のことで特に情を深めたりしなかったけれど、その若い実習性の女性に対しては真剣な恋情をつちかっていたのでした。短い実習期間がより恋心に火を灯したことでしょう。破顔をこらえながら、あるいは申し訳なさを押し殺しながら、それでも将来をこぼれるようわたしに語る父の顔がありました。
しかし学校まで押し掛けて子供を渡された現実に、かたくなに拒もうとしなかった父の姿に、相手の女性はかなり失望したみたいで、たぶんとても真面目な人だってのでしょう。再婚まで視野に入れてのつき合いだったのですが、交際は終わってしまいました。
責任と後悔を感じた父は・・・あまり細々ここで書くべきでもないので、かいつまんでお話しますと、ちょうどいい具合に、かねてより顔見知りだった出入りの業者が実習生を思っており、まったくおおやけではなかった、ようは父との関係など知るよしもなかったその業者から、胸のうちをそっと告げられ、なんとか縁をとりもっていただけないかと相談されたのでした。いったい男女の機微とはなんでしょう。父の責任感なんて体のいい罪悪逃れにしか思えませんし、妙な自意識を振り払えず、年相応でひとがらの良さを理由に仲を簡単に取り持つなんて、わたしにはとても理解できません。ですが、その取り持ちが功をなしてふたりは交際の末、結婚したのですから、そして生まれたのが燐谷幸吉、その姓に聞き覚えがあってしかるべきで、父がわざわざ興信所を使ったのは、念入りな確認、慎重な認識だったのです。
弟だって燐谷との古いしがらみを知っていたら、もっと別の手段を考えたでしょう。でも点と線の連なりはあまりに近すぎて無情だったのです。
なぜ父は幸吉に、いくら昔の恋人の息子とはいえ、ああまで思い入れをしているのか、正枝さん、おわかりですか。あなたと婚約させてなにが晴れるというのでしょう。わたしの疑問はある意味、単純で、しかも真正面から父を見据えて問いただせば、答えは返ってくるに違いありません。が、そんな正攻法は危険な情況を腫上がらせるだけなのです。
正枝さん、あなたにお聞きします。あなたは本当に今西満蔵の血を分けた娘なのですか。きちんと証明することは可能ですか。わたしが行き着いた考えはこうです。あなたは生みの母から言い聞かされているだけではない、いえ、聞かされております。昌昭が実子でなかったように、あなたもそうではない、誰か他の父がいるはずです。そうなんでしょう、だったら今のうちに白状して欲しいの、そうすれば弟と自由に恋愛できるじゃありませんか。父は分かっていながら形式として、記憶に甘く寄りかかるかつての恋人の息子と、自分の血を引いていないあなたを結ばせておいて、だけど、魅了してやまなかった女体から生まれでた、これまた愛でて愛でて仕方ない娘を我がものにするために、そうよ、所帯なんか持てるはずもない進学の身を理由に幸吉は遠ざけられ、その猶予が今西家において開花すると、つまり邪魔者である昌昭もわたしもいなくなったこの家で、養子縁組は燐谷家から有無を言わせない傲りを持って遂行され、あなたと父はまるで夫婦同然、老いらくの恋に溺れゆくのです。
あなたが本当の娘であったら燐谷の息子なんかと一緒にさせない、なぜなら失意と失意をくっつけたって意味はないからです。せいぜい良心的な妙味を香らせる精神の満悦くらい感じて、観念の交わりを味わうことでしょう。あくまで一時的な方便として。
が、先々の見晴らしは一時的だと困ります。ここはあえてあなたと契りを結ばせて周知にすれば、昌昭の出る幕はなくなり、世間的にも老いらくの大儀を成立させられる。大儀が世間を塗りかえるのです。
そうして幸吉の心変わりを待つか、いっそのことすべてをさらけだすか、瘋癲のなかの瘋癲は巧妙に時間を送っているのです。
告白を待っています。あくまで内密なので別紙に記した住所へ。わたしと同い年の子の家です。心配いりません、わたしだって周到です」

読み終わったまなざしへ滲んだものを見て取った正枝は、
「どう思われます。間弓さんの暴走列車みたいな意見、わたしが満蔵の娘でないと、あなたも疑いますか」
と、極めて低い声で訊いた。
「すいません。正直、脳みそがぐちゃぐちゃになっています。ちょっと待ってくれませんか」
正枝は整った姿勢をくずさず、急須を傾けた手元に面差しが沿うようなしなやかさで緑茶を注いでいる。時間が時間の間延びを数え上げようとするまで、そのしなやかさはうつろわない。
湯気はこじんまりと茶碗のふちに収まっていた。
「ぼくはあなたが誰の娘だろうとかまいません。映画館で出会った憧れの血筋がどうあれさして興味ないのです。それより、こうまで利用し尽くされていたとは、虚脱しか感じられません」
「では、わたしのことを信じてくれますか」
「そのつもりだから、ここにいるんじゃないですか」
幸吉は半ば吐き出すように答えた。
「わたしという女優を想ってくださるのね」
「はい」
「まあ、うれしいわ」
「手紙はこれでおしまいではないでしょう。返事の送り先は由紀子さんの家ですね」
「そうよ、因縁はなんと手際がいいんでしょう」
「あなたは陽気な方なんですね。ぼくにはとてもそんなこと言えません」
「どうかしら、あなたの色欲だってたいしたものだったわ」
「色欲は関係ないでしょう」
「関係ありますわ。おおかたそうではありませんか、父もあなたも」
正枝の眼はまだ口をつけていない茶碗の湯気を鎮めていた。


[513] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた13 名前:コレクター 投稿日:2020年03月24日 (火) 01時49分

都会暮らしに倦むことはなかったわ。女優としての開花は断念したつもりだったけど端役ならいくらかめぐってきたし、主人公を演じるばかりが役者とは限りませんもの、大輪でなくともひっそり咲く生き方だってあるでしょう。地道な研鑽の日々が感性の実りへ結ばれると信じていれば、時間は美しさをときおりかいま見せてくれるに違いない。それが惰性であったとして、周囲からの刺激は絶えることなく、たとえ華飾の宴に列ならなくとも、胸のときめきにはかわりなく、光と影の織りなす優美な色彩にとけこんでゆく心情は保てれるのよ。暗がりで息をひそめ見つめ続けていた銀幕のなかに自分の顔がある。ほんの束の間にすぎなくたって、奇跡の瞬間だわ、その一瞬を求めさまよった証しに出会えるだけで十分、なので、わたしなんかより有能なひとが喝采を浴びるのは当然だし、そういった環境の末席にいることはべつだん不遇ではなくて、むしろ小さな夢が損なわれないとも言えるから、居心地の悪さなんて感じたりしませんでした。
父にもそうした心境を書き送っては、昌昭さんとの秘密めいたやりとりに充足を覚えていたと思うの。つまるところ進退はわたし自身の余裕ある考えに掌握されていたのです。でも、はっきりした父の意向はつかみとれない、血筋のいわれを語る声色にはどこか打ち消しの念が込められているみたいで、もちろんわたしの危急を見かねたうえでの綾だったろうから、昌昭さん本人の知らない現時点でそんなお手軽な婚姻に力まれては困りもの、とりあえず腹違いの姉弟という立場をよくわきまえなさいって諭されているのかなって、もやもやしながら了解していました。東京へとどまるわたしをしっかり見守ってくれてるわけですし、納得してしかるべきでしょう。
問題はそうした情況に昌昭さんがいきり立ってしまったというか、わたしの分別とは違った角度から父の不実を唱えだしたことでした。昌昭さんに関する実情は内緒の手紙に依拠したものでしたから、必要以上に感情をたかぶらせてしまうのは仕方ないでしょうし、あまつさえ察知されているなんて、だとすれば、明らかに父はわたしたちの仲を引き裂こうとしていて、遠からず暴君的な態度でこれまでの由縁を聞かされ、ねじ伏せられるに違いない、そうなったらとても堪えられないなんて、とても思いつめた口調で訴えてきたのでした。
ええ、もちろん、わたしは妙に激高すると却ってあだになります、ここはやはり落ちついて様子をうかがうべきだと、なだめたのですが、やはり実子でなかった衝撃は少なからず、いくらわたしとの恋に傾斜しようとも、その内情にやりきれない気持ちが噴出していたのでしょう。他に父はなにか話してなかったとか、どんな些細なことでも教えてくれないとか、絶対に隠さないで欲しいだなんて、戸惑いやら疑念を投げかけていました。いいえ、どんなに詰め寄られても、それはひとえに燃え上がった恋心の発露に他なりません、わたし自身もいつしかその想いに応えようとしていたので、怖いくらい昌昭さんの胸のうちが伝わってきたのよ。
父に本然と、そうですわね、守護者に対してこれっぽっちの抵抗も要望も示せない日陰者の卑屈さから、脱皮しようと奮起してなかったわ。穏便な秘密の範疇を越えようとはしなかったわ。怖さはすでに宿っており、ええ、宿っていたからこそ同調がわき上がったたのかも知れませんわね。わたしは申しわけなさでいっぱいで、宿業なんて言葉をよぎらせたり、どうすればこの現状を打ち破れるのか思案してみたのけれど、わたしの置かれている身分ではどうにもなりません。父がこの立場を理解するよう求めている限り、渡り合うことはおろか、自分からすすんで都合のいい話しを切り出したりするのはとても無理です。が、昌昭さんの提言には従うつもりだったの。
小賢しく思われるでしょうけど、父とは表立っての結びつき、でも昌昭さんはそうでなく、内密のつまりふたりだけの関わりだったから、いかに父が察していようとも、限りある自由はどこまでも自由なはずです。そうですわ、自由に限りがあるからこそ、わたしは昌昭さんを信頼していたのよ。で、閃きがふたりの間へいなずまのように落ちたの、つまり幸吉さん、あなたをわたしの婚約者に仕立てあげる企てが生まれたのです。
始まりはすでにあなたのなかに、あの教室の空気のなかにあるでしょうから、詳細はいらないわね。ただ、あなたをさりげなく観察していた昌昭さんの眼を探し求めていただきたいけど、それはあまりに残酷なお願いかしら、どうも勝手言ってごめんなさい。しかし始まりは穏やかな教室の休憩時間が起点だったのです」

幸吉は正枝の細やかな表情に魅入っていた。ロマンスの仕掛けに半ば酔い、半ば呆れていた。が、ただちに糾弾しようなどとは思わず、むしろ女優の台詞らしい卑屈さの巧緻に自らの顔面が軽くひきつっているのを感じ、それがまるで道化のようなもの言いとなってこぼれ落ちるのを知った。
「いいんですよ、僕はあなたに憧れていました。おっしゃるように端役だったからでしょうね。有名とは呼べない、まだ誰もその名を口にしていない、あなたがひっそり映画館の片隅で御自分の演技を見つめていた切々とした現実には無縁かも知れませんが、僕は心を踊らせながら艶冶な女性の、手に届くことなんてあり得ない現実から夢をふくらませていたのです。それがこともあろうにいともたやすく出会ってしまいました。もっともな話しです、奇跡だの天使だの、ありとあらゆる驚嘆も感動も、あまりに手軽で身近すぎて狐につままれているようでした。
しかし今西君の思惑にはまったく気がつきませんでした。あれだけ冷淡だと不信感を覚えたにもかわらず。でもなぜか腹立たしく思えなのはどういうわけでしょう。僕は今西君の代役だったのですね。悪くはありませんよ、これが芝居だとしたら、身震いするほど興奮します。あと、なんですって、彼の生みの親は由紀子さんの母、ではふたりは姉弟じゃありませんか。たしかに忌まわしき匂いが漂っていて、殺意などと物騒な言葉が舞い落ちても不思議ではなく、あなたの曖昧な記憶と認識によって語られる驚きに先んじていたと称賛したいほどです。そこでも僕は代役を演じたわけなのですか。とにかく顛末を知る権利はありますので、どうぞ遠慮なく続けてください。さあ、夜が明けないうちに」
正枝は深々と頭をたれた。それから明るみの退いた哀しい双眸で幸吉を見返したのち、女優らしさを取り戻したのか、ふたたび艶のある声振りに戻った。
「昌昭さんの試みをお話しましょう。わたしの熱心なファンを秘かに自負していたあなたが、父のお眼鏡にかなうのはほぼ間違いありませんでした。対面の場面はあらかじめ決められていたのだから、あの時点では折角の記念写真が没収され悲嘆に暮れている同級生を、あなたはそつなく演じきったことになりますわ。
内密に惹かれ合っている陰画を父が見て見ぬふりをするのなら、やがて果実の熟するごとくふたりの果汁がしぼりだされようとする直前になって、禁令を言い渡すのなら、そんな冷酷な仕打ちを目論んでいるのなら、もはや父であって父ではありません。昌昭さんはそう言ってわたしを揺さぶりました。ただ激して揺さぶっただけでなく、これまで長男として育てられてきたけれど、ことさら邪意や嫌悪の含んだ態度をあらわにすることなど一度もなかった、きっとなにか理由があっての計らいだろう、でないと、あまりに陰険すぎるし、もしくは間弓さんの言うように瘋癲の兆しと捉えるべきか、いや、まだまだ頑固で几帳面で瞬発性を失っていないのだから、端的には決めがたい、そう問いかけてきました。
とにかく父の意識を他者に向けるのが一番です。しかも昌昭さん自身が失態を犯した素振りをして、いかにもわたしとの親密さは勘ぐりの勘ぐりだと言い聞かせ、負け犬がころりと腹を見せて横たわるように、白旗を上げてみようと思いついたのね。もしうまい具合に行けば、ひとでなしの汚名を着るまえに父は真情を語るでしょう。これは楽観的な実験であり、勘ぐりの仕返しでしたわ。で、幸吉さんの登場なのですけど、娘であるわたしのことを熱心に想っている他者が存在する、修学旅行という行事を通して華々しく意識させる、仕掛けは父の吝嗇加減と歪んだ体面主義へ絡みついたから、ひとまず成功だったわ。案の定、早速あなたを吟味し、得意の興信所ね、なんらかの確信を得た様子でした。
ところがあの訪問の日、父はよほど興に乗ったのか、ええ、そうとでも考えなければ、わたしの生い立ちを、ある意味とても大仰に、まるであなたを誘導するように痴態と猟奇趣味を織りまぜ、つまり試金石として、あなただけじゃなく、必ずや耳へ入るだろう今西家全員にしらしめる為、わたしの母は片足で、しかもゆえに憐憫とは異なった肉欲を感じており、そこへむしゃぶりつくのが天啓であるごとく、奇怪でみだらな方便を用いることも厭わず、女体における太ももの魅惑を徹底して共有する相手をあなたのなかへと見出し、ただでさえもの怖じしていたあなたは、かつて校長であったという父の肩書きに縛られ、ちょうど児童が授業開始のチャイムで背中を押されるように、あるいは子牛が無垢な風景を背にしながら売られていくように、肉体と魂の乖離を野放図に認めてしまい、太ももの、まだ見ぬスカートの奥を直截に、そして年長の成育した女性のしとやかさを冒涜する解放感を得て、見出されたことに疑いも挟まず、ただただ萎縮する精神へあらがう術を授けられたと勘違いし、それがどういう理屈であるかなんて内省は据え置かれたまま、ひとつの信憑を、過剰にして最大限の衝動を受け入れてしまったのね。青春の墓碑銘なんて霊なき霊の言葉を担保として。
おっかなびっくりなあなたの顔に灯された同意の同意こそが、父の求めた同一化だと分かったのはしばらく経ってからだったけど、あくまで異常性欲者を気取った戯れに過ぎないと、わたしは昌昭さんの文面からも、父が書き送って寄越したあなたの反応にもさほど重大さを感じませんでした。いくら仕掛けとはいえ、ああして女優としてのわたしを讃えてくれた幸吉さんが哀れに思えるばかり、それはなにか父の悪ふざけで結局、勘ぐりの勘ぐりが見抜かれてしまい、いいように小馬鹿にされただけと落胆していたからです。
太ももへ執着してしまうだろう、あなたの戯画を見せつけられた気がしてなりませんでしたわ。しかし昌昭さんはそうではなかった。仮にも幸吉さんとわたしの婚約を口にしている以上、単なる見せしめなんかじゃない、本当に望んでいるとしか思えない、そのわけはわたしが父のいうとおりに、燐谷との約束に乗り気だと手紙で答えているからだ。冗談じゃありません、そんなこと書いた覚えはないわ、勝手に父がその場しのぎで捏造した意見よ、と反論しつつも昌昭さんとの仲を割く為ならもっともであるとか、先日から燻っていた彼の焦燥がさらに焚きつけられてしまったとか、いずれにせよ軽はずみな実験で火傷を負ってしまったありさまだったので、竦然とうなだれてしまったのです。おまけに間弓さんの態度も一変し、多分あなたを招き入れたことが発覚したのではと危ぶんでいましたわ。
こうなったらやはり下手に画策するのはやぶ蛇です。わたしはさきほどお話した自身の余裕ある考えを優先しようと思い、昌昭さんへ沈黙を守るべきだと書き記しました。よみがえりますか、幸吉さん、今西家があなたに門を閉ざしたふうに静まりかえった日々が。
でも沈黙は破られるものよ。それはあなたが櫻田静子さんから恋文を差し出される以前、文通の絶えていた昌昭さんに取って代わり、間弓さんから封書が届けられたことで」


[512] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた12 名前:コレクター 投稿日:2020年03月16日 (月) 19時44分

「どうしても時系列に即すようには参りませんわね。わたしたちのやりとりの過程を振り返えるのは、たしかに苦しくもあるけど、反面また夢見心地でもあるので、わたしはわたしの本来を、そうあって欲しいと願った本来を滔々と語ってしまうばかりになりそうですし、映像のなかのわたしが常にあなたに先んじていたごとく、そして本筋より些細な支流の方に、呉乃志乙梨の出番があったことをもう一度だけ想い起してもらえれば、もっともこれは場面展開に必要な支流であり、大団円に向かう急進的な吐息だと言い切れますので、街灯の明かりへ点滅する蛾の影を見上げるように、見下げるまなざしを反転させて、この部屋の向こうの夜空の先へと、月影を追って走り去ってしまった夜汽車に揺られているわたしを想像してくださったなら、火へ身を投ずる蛾の不思議が視覚だけに頼っていると限らず了解されるだろうし、あなたの疑問符は無造作に浮かびあがったりせず、本流の水面が銀幕にいつも映し出されていたように、きっと緩急自在な終止符を迎えられることでしょう。
昌昭さんはどうやって血筋の相違に気づいたのか。
わたしが隠し子なら彼は長男、どうあがいたってふたりは結ばれる運命でありません。いえ、生まれてこのかた互いの素性に関わることなく、わたしが聞き及んだ今西家の様子なんて、ほんとう遠い遠い地方の家庭でしたし、まったく未知というわけではなかったけれど、晴天の霹靂だった昌昭さんと比べるのもおかしいですが、たどりようもなくて、手を伸ばしてみようと思うことすらありませんでしたわ。しかし密やかな文通を契機に、これまで知り得なかった肉親の肌ざわりに接しているような想いが募りはじめたのです。
ひかえめな、けれども胸の裡だけには収められそうもない恋心が、やがて頻繁な逢瀬へと足を運んでいくように、ああ、またしても川の流れにひたした足もとがさらわれてしまうわ・・・なんという不始末、ちょうどあの年、さきほど棚上げした映画会社との件、悶着と言いましたけど、実は共演した俳優と恋愛のさなかでして、たしか、幸吉さんには父がこう話したそうね、わたしは重役から妾になれと迫られており、これからは大いに売り出してあげようと念願だったブロマイドまで発行してくれて、いけない、いけないと念じつつ、でもその拒絶は拒絶であるべき体裁を取り繕うのに精一杯で、案外いい加減なところに拒否反応が示されてしまい、結局なにも深く考えず、激しさの満ちては引きゆく潮の風景だけを額装へはめこみ、浅く小さな、ちょうど磯辺を写した絵はがきのように聞くべき波の激しさは消音の彼方へ、恋愛のかたちは不如意と感じていながらも、やがて拒絶という失恋へさらわれてしまったのです。
形骸の形骸、にもかかわらず、甘言を用いて権力を振りかざす重役の社内における地位は、銀幕に張りついているようで、魅惑の意味はたやすく書き換えられて、それは以前、新東宝の大蔵貢社長がうそぶいた、女優を妾にしたのではない、妾を女優にしたのだ、という暴言がまかり通っていて、本末転倒などおかまいなしにまわりでも次々なびいていく実情におののきながら、それでもわたしはと、いったいなにを怖れて拒否の拒否が正当化されるのだろう、あくまで形式の形式でしかないと割り切れば、女優としての開眼を望めるのならそれでもかまわない、拒めばこのさき陽の当たる場所などやってこない、転ぶのではない、起きるのだ、目覚めるのだ、不純な朝でも陽光はまぶしく、影法師は濃厚なのだから。
あれほど熱烈な恋愛だって、都合よく見失って、棒に振ってまで煩悶するわたしはどこの誰なの。
無常なのは時間ですわ。頻繁な手紙になると察したとき、慎重に局留めを申し出た自覚は皮肉にも、浪費される時間を計測していたのね。すでに重役は別の女優を口説き落として、わたしは見向きもされませんでした。
これで終われば映画を抜け出た悲劇のヒロインだったでしょう。ところが同様に陽の目を見ない恋仲だったあの俳優は、忘れられなかったみたいで、どこの誰でもないわたしの肉体を。みじめ過ぎるくらい落ちぶれた口ぶりで求めてくるものだから、ついついその憐れみの代償として好きにさせてしまった。昌昭さんとの新鮮な文通とは無縁だと言い訳しながら、まだまだ女優のへの執着を燻らせており、写しだされる機微に色香は不可欠、そんな鍛練めいた理屈づけが抑え難いあえぎ声となっていると知りつつ、拒みきれない悦楽を日常へ含ませていたでした。
そんなわたしをすっかり餌食にしたとでも思っていたのでしょう。男は俳優業に見切りをつけてしまい、かといって別の仕事をするわけでもなく、わたしが女給やら絵画のヌードモデルで手にした金銭をまきあげて、あげくには身売りをほのめかす始末、さすがにそこまで自堕落になりたくありません。父に相談するのも心苦しくて、恥と気位が邪魔をしていたので、重役のこと以外は手紙へ書けなかったわ。ところが鋭い嗅覚で便箋の行間を読みとったのか、興信所からわたしの近況をつかんだ父は、即座に仲介人を立て相手に手切れ金を渡して一筆書かせ、関係を断ち切らせてくれたの。
もう心配いらない、そう父から諭されたとき、涙がとまりませんでした。そして傷心を気づかってのことと思うのですが、認知したいからこの町へとの連絡を受けたのです。その際に、その際に、父は誤りを犯したようで仕方ないのですけど、ええ、そうだと素直に感じ、いらぬ詮索はしない、もし、誤りではなくて、なんか裏があっても、そうですわ、父はわたしをとても慈しんでいるし、悲しませるような仕打ちなど決してあり得ない、女優を断念しても帰る家はある、そこでそこで唐突に昌昭さんは実子ではないから、いざとなれば世評はどうあれ婚姻だって可能だと誇張してきた。弟と妹が住まう家に入りづらいわたしの立場を慮っての吐露なんでしょうが、にわかに信じ難いことだったし、そのような内情を安直に語るのはいつもの父らしくないと首を傾げたものよ。本当だとすれば、わたしの困惑がよけい大きくなるはずなのに。
もしかして昌昭さんとのやりとりを見越した上で大胆な意見をもらしてるのではなかろうか。父はこれまでずっと変わらずいわば安定した手紙を送ってくれました。しかし幸吉さんがあらわれて以来、文面は膨れ上がり、緻密さを増しただけでなく、憶測に満ちあふれわたしの反応をうかがうようになっていたのです。
もちろん伏せたままよ、昌昭さんとの文通は。でも彼には父と交わしたすべてを報告していたわ。冷静な昌昭さんの筆致に驚喜が連なっていたのはいうまでもないでしょう。わたしとは他人、今西満蔵とも他人、姉の間弓さんとも。これで自由にわたしと恋をささやけるなんて書いてありましたわ。
あまりに手短かだったからあっけないなんて思わないでね。ここまではあらましに過ぎないのですから。
ではなぜ、あなたを駆り出して祭り上げなければならなかったのか。時系列うんぬんって言ったけど、今度はさらに短縮した時間をあなたに提供するつもり、でないと、夜が明けてしまうわ。いいのよ、わたしは平気、でもね幸吉さん、夜の言葉は夜を愛しています。だから徹底的に身悶えして欲しいの。
わたしたちのやりとりを父が見抜いているという懸念はふたりしてあったわ。盗み読みに気がつかないはずないと昌昭さんは怖れていたし、さきほどの誤りが誤りでない、ついうっかりがそうとは反対の、絶対の情報伝達であったなら。
同じ家に暮らしていても家族間の真意なんて言い当てることは難しい、昌昭さんは用心を怠らず、つまり額面通りの慈しみに流されず、しばらく様子を見るべきだと提案してきたわ。無論わたしも同感して、認知という言葉がもっと具体的に、というより、父がじれるくらい、なんだかんだ理由をつけて東京に留まろうと決めました。女優としてやりきれるところまで突き進んでみたいとか、色々心配ばかりかけてきましたけど、もう決して色恋なんかに惑わされたりせず、しっかり日々を感じとっていきたいとか、昌昭さんや間弓さんの進路が定まってからのほうが何事も無難だし、そうあるべきだなんてつつましい言い方で通したのです。父は感心したのか、もっもともであるとくり返していました。現に家庭内に波紋を急いで立てる必要もなかったし、わたしの情況を察していたみたいで、おまえの考えを尊重するとまで言っていたわ。
ところがある日突然、昌昭の出自を知りたくはないかって尋ねてきたのよ。本人には話してないけど、いずれわたしの認知にあたって打ち明けなければいけない、それに聞いておいて無駄ではあるまいなんて、どこか変な気がしました。しかし断りを入れるほうが厄介ですものね。結局そこを切り口にして父は出自どころか、思いもよらなかったことを次々と話しはじめたの。
大筋で申しわけないのですけど、昌昭さんの母親とはある宴会で出会って深い仲になったそうよ。すでに結婚し間弓さんも生まれていたから、さほどのめりこむ意欲はなく幾晩かの逢瀬で終わった。が、しばらくしてこの子を引き取ってと幼子である昌昭さんを連れ学校まで押しかけてきて、当然ながらどう勘定したみても自分の子供であるはずがない、日時をあらためてと頼もうがまったく応じようとせず、絶叫をあげて、人目をはばかるどころか、これみよがしに騒ぎ立てようとする。
結局、病弱だった父の奥さまは嘆く猶予すら与えられないまま、縁者の子をあずかるのだと自らに言い聞かせるようにして、憤りや憎しみを捨て去り、よき妻としての居場所を譲らなかったそうよ。円満なんて単純であればあるほどに、懊悩と隔たるほどに欠けることのない形式を保つのね。
ええ、かなりためらいましたわ。でもほとんど伝わっているも同然だと判断しました。父はわたしの手を借りて昌昭さんへ教えようとしていたのですから。
殺意という言葉が返信のなかへ、わたし自身見逃して読みとばしているのかなって、何気ない落ち葉のように舞い落ちたときですら、まだその意味と言葉の響きは共鳴しておらず、探偵小説の一頁をめくる気軽さで昌昭さんの面影に重なっていました。
弟と姉の布団が敷かれた部屋の、親しみと安堵に立ちすくんでいたわたしにとっては、恋のささやきにも殺意にも実感は抱けず、せいぜい間弓さんと昌昭さんとの記憶をめぐる際どさに、意識の断片が反応していたくらいで、実子と違うそう判明してみても、世界が変わるわけでなし、それはおそらく鋭敏な意識を欲しておらず、のんびりくつろいでいたかったせいだと思うの。恋を演ずる栄光に憧れて、地に落ちた薄汚い愛欲しか見出せなかった失意がまだ尾を引いていたのでしょう。
昌昭さんの母の名前が風見成実であったこと、由紀子という娘がいること、その結びつきに仰天するまでは」


[511] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた11 名前:コレクター 投稿日:2020年03月10日 (火) 01時43分

「あなたの普遍にまで及ぶことなのか、どうか、最終的な判断は幸吉さんの配下にありますから、わたしがどれだけ風変わりなもの言いをしようと、根拠のない全能感で縛りつけようとも、つい先ほど交わしたばかりの肉体をあらためて提供したく申し出てみても、結果、あなたが逃げ去ってしまえば、ことの成りゆきは自動書記で綴られた風物詩のように味気なく、また薄気味悪さを残すまでで、わたしからすればそれは不本意だと呼びかけてみたとして、もともと本意などではなかったはずですし、あなたの存在を父に知らしめただけで昌昭さんとわたしの願いはおおよそ叶えられたわけだから、これ以上の不毛によるべない充足と安寧をお仕着せすることはないでしょう。ただ、まったく予期していなかった一点が、わたしたちを遠まわりさせてしまったのです。
それはあなたにも当てはまるものでして、つまり漂流のごとく茫洋とした意識にひろがった痕跡は、歯ぎしりと寝汗を幾夜も眠りの間に授けたと思われますので、いささか罪悪を感じているのですが、あなたはあなたで不当を不当と解せずに、まるで妖術のような離れ技でもって、煩悶や憂慮を希薄化し、そうです、矛盾と不遇が抱えこんでいる眉間を曇らす深刻の度合いに対して、なんともほんのりした夢想の切れ切れを引き寄せては、ぞっとさせる瞬間に散らすべく用意されいた既視感を尊び、いえ、さほど思い入れはなかったと察するのですけど、あの透明な空間をわずかだけ濁してゆく不備を逆手にとり、あたかも自身の未来像のなかへ浮かんでいるような感覚をつかみ取ったのですから。不吉な兆候をすえ置いたまま、既視感と戯れていた能天気な加減こそが昌昭さんを困らせてしまったのね。
そこでやむを得ず、間弓さんの手を借りなければならなくなりました。この裏方でうごめく事情は少しやっかいだし、どの辺りから説明すべきか迷ってしまうけど、とにかくあなたが修学旅行から持ち帰った思い出の覚めないうちに、ことを運ばなくてはいけない、強靭な意志は、幸吉さんの心情がざわめいている間に貫かれるというわけだったの。
有頂天だったあなたを籠絡するのは難しくなかった。写真は現像されているけど、父がいかにも出し惜しみしているふうなあらましを作り上げては、あなたの焦燥に火をつけた。それから実に的確な描写をたたみこむようにして、昌昭さんは父との息づかいをすぐそこに感得されるごとく、対面するまえから相貌やら性格を植えつけながら、不承不承の体も保ちつつ、親友めいた破顔をかいま見せ、あれこれ語って聞かせれば、あとは時宜を待つのみだったのよ。そう、わたしとの関係を切り出す機会を慎重にうかがって。
当然あなたは焦りだすのが分かっていたけれど、あやふやな言い回しだと変に遠慮されたりとか、優等生らしく穏便な態度で二の足を踏まれたら元も子もなく、やはりここは徹底して幸吉さんの関心を一手にまとめておくべきだと判断した昌昭さんは、内情が内情である様子を過剰に映しだすこととし、小説家が細部まで執拗に筆を走らせるよう写実的な方便でもって、姉の間弓さんまで話題にして一層の興味をいだかせたのよ。ところがわたしはあの頃、映画会社との悶着を容易に片づけられなくて、それは後々お話ししますがせっかく焚きつけたにもかかわらず、おいそれと今西家へ行けなくなってしまったのです。
昌昭さんは昌昭さんで、綿密な計画にひびが入ってしまい、あなたと顔を合わせるのが本当に億劫で、しかし、このままほっておくわけにもいかず急遽、間弓さんとある提携を行なっていました。下校時にあれだけ肉づけした印象を施せたのは、やはり姉との盟約が良くも悪くも影を落としていたと言ってましたわ。
今西家を訪れてさぞかし驚かれたでしょうね。前座みたいな形式で間弓さんが構えていたのですから。客間でのやりとりはたぶん鮮明に覚えていると思うけど、あのとき、双子と見紛うくらいの容貌へ引き込まれた情景を想い返して欲しいの。どう、よみがえる、うりふたつだと口にして腰を抜かしそうになった記憶。
ではなるだけ簡便に種明かしすると、間弓さんはわたしが女優であることに敵意というか、嫉妬というか、そうした気持ちを強く持っていたので、あえて双子らしく振る舞ったらしいのです。姉弟の姉弟であるべく血の濃さを強調したかったと聞かされたわ。認知されようとしているわたしが疎ましくて仕方なかったから、血の団結みたいな意志を表明した場面だと言っても間違いじゃないでしょう。
偶然は決してあなたを導いておらず、事後の扇情だけが生々しく躍動していたのであって、これで写真を眼にする遥か以前より、今西家の人々がわたしに好悪の感情を投げつけていたのが分かっていただけたかしら。
さて間弓さんも一芝居売ったのよ。わたしとあなたの契りを阻止する役目のね。由紀子さんをそそのかしたり、もっと言えば桜田静子さん、そうあの可愛らしい下級生だって一役買っていたのです。勘づいていたでしょうが静子さんはとても理知的ですばしっこく、あっけらかんとした性格だったから、幸吉さんとの恋愛に深追いしてまで自分を傷つけたくなかったみたい、親戚の由紀子さんへ歯向かう理由がない程度にあっさりと遊戯から退いたわ。
一役とは言い過ぎかもしれないけど、もしあのとき一途な情愛を捨てなければ、でも由紀子さんはほとんど重戦車のような破壊力で迫っていたから、どうでしょう、あとの祭りはやめにして、それより、あなたにとっての純潔、いいえ、湧き水のように汲めども尽きぬ透明感と、汚穢であることの疎ましさを当たりまえと見なす不逞なよどみが、交互に地層の断面のように、あるいは錆びた蛇口から流れ落ちる水の気持ちを借り受けて、あなたを支配しているもの、それをつまり、とても言いにくいのですが、踏みにじろうとしていたわけですから、間弓さんだって鬼神の面を被らなくてはいけなかったし、逆に鬼神と同一化することで芸術的な背徳を感じ、陶酔していたようにうかがえました。
はじめての接吻だと知っていながら、あの情況で迫ったのは衝動でなく、悪魔の紋章をあなたに授けたかったのでしょう。でも果たしてひとはそれほど安易に悪魔へと化身できるのかしら、おそらくこれはわたしだけじゃなく幸吉さんも疑問視されませんか、裏方の混迷について触れましたが、間弓さんはむろん肝心の昌昭さんがなにか押し隠しているようであからさまに語ろうとしませんし、勝手に鬼神だの悪魔だの少しおおげさな口調ですから、変と言えば変ですけど、性体験の道筋を決定させたことにさほど罪があるのか、あるとすれば、あなたに対してではなくて、間弓さんと昌昭さんの、これも口にするのがおこがましいのですけれど、つまり近親的な交わりの秘匿にあると思われる節が、いえ、決してわたしは見聞きしてないし、証拠なんかありませんのよ、しかし、間弓さんの眼は姉が弟を見るまなざしとはどこか違うように感じました。
昌昭さんの出自に関して父はなにか言及してなかったですか。そうね、父には無理でしょう。それでこうしてわたしに話しをさせるため、形式の契りを結ばせるためにあなたが自分の本当の隠し子だなんて、ひきつった言葉をもらすしかなかった。結果から述べた方がいいわね。そうよ、昌昭さんは間弓さんとは血がつながっておらず、近親的な触れ合いが可能であって、これは推測の域を出ないけど、幼少の頃に経験した際どさをふたりとも忘れられなくて、それが一種異様な緊迫感を放出していて、ついつい性的な意味合いになぞられながら双子の錯覚をはぐくんでいたのだわ。あなたに限らず、今西家の空間のある事情の下では誰しもがそうした幻惑にとらわれたと思う。
ではふたりの心理的な結びつきはどう考えるべきか、わたしと昌昭さんの馴れ初めをまだお話ししてないので、なにぶん戸惑うでしょうが、その紐帯は痴戯まで達しておらず、むしろ血縁なき血縁が友愛にまぎれもなくたどり着いていた。しかし本人たちは意識すればするほど、危険な結びつきへ傾斜してしまうような煩慮に駆られ、その均衡は禁じられた遊び以上の地平へ根を這っていたのでしょう。
わたしという女がこの世にあって今西家を半ばおびやかす事態に至ったのと、昌昭さんが実子でないという真相に気づいたのはそれほど前後しておりません。発端は母が亡くなった年に父へ書き送った手紙を昌昭さんが読んでしまったことでした。
十九歳だったわたし、でも単に少女が肉体の発育で踊らされ、身も心も輝いて、多少なりとも異性の眼を気にしたりして照れる程うぶではなかったわ。だって女優の道を選んでいましたから。しばらくして昌昭さんから手紙が届いたときは瞬時にことの重大さを考えることもできず、たちの悪い嫌がらせだと思ったくらいでしたのよ。でもその文面にはわたしと父しか知り得ない事柄が書かれていて、あまつさえ、並々ならぬ興味といいますか、あなたがわたしに向けてくれたような言葉の花束で埋め尽くされていたの。
生前の母がそうしたのと同じに、わたしはいかにも事務的な書類を包む要領で封書しておき、いくつかの架空の差出人の住所と名前を使い分けていたので、文通の秘密を守り続けていたはずでした。なのにどうしてと、わたしは大変怪しんだわ。そして返信すべきかどうか迷うことになり、が、間も置かず次の手紙を受け取ってみて、映画会社の宣伝部宛てに届いていること、かねてより映画で見知っていたこと、父の密通には正直驚いているが女優という職業を尊敬しているとのこと、おおかた父は盗み読みに気がついていると思われるがとくに詰問のないこと、だからぜひとも返信が欲しいと記してくるではないですか。
ここでも躊躇しました。わたしは母からも父からも出生を明かすときが来るまで、絶対に他言してはならないと教えこまれていたのです。いくら今西家の長男といえ、おいそれとこれまでの誓いを破ったりできませんわ。かといって、まるで父へ告げ口するように昌昭さんからの私信を、優しさなのか、いたわりなのか、よく分からない気持ちを、封鎖してしまうのに抵抗があったのでしょう。二十歳をまえにしているからこそ、余計に心細さが成長してゆく、そんな不安感の落ちつく先へ、安易ですか、やはり安易でしょうか、幸吉さん、わたしはわたしであるまえに、わたしの日々に連なる影におびえ、暮らすことに疲れていました。
あなたがわたしを銀幕に見出してくれた頃、昌昭さんも同様の視線をひかり輝かせていた。燐谷しかいない、そう決意したのは修学旅行に先立っていたのです」


[510] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた10 名前:コレクター 投稿日:2020年03月02日 (月) 03時18分

寝室の残り香に背を向けてみせる哀愁など幸吉は持ち合わせていなかった。
仮にそんな気分がうっすらにじみ出る汗となり、皮膚へ問いかけていたとしても、多分それは不快なものに連なる成分と意想の表明であって、淫らさへまぎれた苦みを好む一服の紫煙とはなり得なかったからである。
そもそも正枝はどこへも去ってはおらず、却ってもっとその色濃い影が近づいてくるのだから、発汗は怯懦による生理現象の域で大人しく踏みとどまっているのだ。もし哀愁めいた感慨を抱いたのであれば、いたたまれなさに堪えられなかったせいであり、あるいは、正枝がまとっている女優精神への接近を試みただけなのだろう。情交を終えた虚脱に深いため息のあたえられる間もないまま、いよいよ仕掛けの分解という面倒な共同作業にとりかからなくてはならない。
分解が氷解であって春を待ち望むような晴れやかな心象に通じるのなら憂惧することなく、疎ましくも思わないだろう、透ける未来には希望が横たわっているからである。けれども掘り当てられる宝物だけに信憑を置き、約束の地の不動に守られてばかりでは時間の機能が朽廃してしまう。怪訝な顔つきの裏へ穏やかな破滅願望をひそませるように、幸吉はゴールへと向かう全力疾走の洒脱を、無碍が先走る手つかずの風化を賛美した。
単に聞き手に終始するだけとは思われなかったし、場合によっては反撥もありうるのだと半ば興奮さえ覚えていたからこそ、映画の幕切れみたいな感傷で邪魔されることを危ぶみ、一切の先入主は拒まれた。幸吉の腹はある意味座っていたのかも知れない。体よく組み立てられたお化け屋敷に充満していた不気味な空気が放たれ、本来の夜へと還元される気がしたからである。
この予感は夜目にこれまで追従してきた未熟な感覚が総動員されるまでもなく、ほとんど逆さ吊りにおける達観の、きわめて妄想的な視野でひもとかれていた。拒みに拒んだ場面が大写しとなりうる、あの背筋を流れ肛門あたりにわだかまる素晴らしき既視感との出会い、つまり逆さを忘れた瞬間の瞬間の連続を。
そして幸吉は二度とは交われないだろう正枝の裸体を夢想した。接合してどうしようもなかった股間から、今しがた離れたばかりだというのに。まだまだ女体は悦楽の振動を保ったまま、その虚ろな眼を泳がせる自由でゆらめいているというのに。触れることが禁じられてしまったのかどうかの判断は棚上げされ、獰猛な意欲はすぐにでも牙を光らせたにもかかわらず、被虐的な、もっと言うなら、真新しい裏切りを願ったゆえの展望があった。
情事の名残りに被さる時間ほど森閑とした流れはない。数秒のいたいけな積み重なりには残酷な光景がよく似合う。
生前の由紀子がそうしていたのと同じく正枝は、始めるときのもったいぶった、でも当然のなりゆきだと首肯させるに十分な衝動をうまく包みこみ、なし崩しであることに美徳が望まれた遠慮気味の笑顔を遠ざけると、そそくさ裸身を起し、枕もとのちり紙を無造作につかみ取って自らの汚れをぬぐった。
真正面にその姿を見たわけではなかったが、奥ゆかしい仕草とは異なる、どちらかと言えば臆面もない雑な手つきである。水気を吸ったちり紙は後半かさかさと音を立てたような気がして、おそらく恥毛の茂みの健康な抵抗にも聞こえてしまっていささか驚いたけれど、すぐにふき取られた女陰の記憶を呼び返してしまい、下半身のすべてを脳内に乱反射させた。
特に魅惑の太ももの肌触りは限りなくすべすべしていて、つま先まで伸びるしなやかさを大胆に誇示して倦むことなく、ふくらはぎの筋肉と贅肉の調和に至っては、健全なる思考が猥褻に堕していく高貴かつ生命体の顕現としか喩えようもなかったし、それは人類が二本足歩行によって成し遂げた進化へ付随し続ける隠された息づかいの証左に他ならず、魅了と歓喜と堕落のまわり道を示唆する肉欲の、まっすぐな熱きまなざしであった。
しかし幸吉は、契りのあとを讃えるこの乾いた音が、瞬く間に新たな局面を切り開いた背景には、不穏な別の扉が待っており、その事実の感取に即そうという動きを、ちょうど南極の雪崩れでも観望するかのようにとらえ、白い白い恐怖から轟音がかき消されているのをあらためて知り愕然とした。
なんという絶対の女体、この期にまで及んでなお溺れ抜いている。甘受すべき深手と自嘲し、致命的な禍いだと嘆いてもおさまりつかない女神の捨象、まさに肉体の悪魔が魅せる豊饒の海原、ふくよかな驕慢でありながら決してそうとは認めさせない形代、見飽きることがないと声の嗄れるまでつぶやかせるまばゆさ、そして今、下半身のあらわになったときとは逆に、薄く白い下着が黒々した茂みを覆い隠そうとしている。すっかり萎縮していた男根に鮮やかな誘惑が照りつける。女陰の暗黒が洞穴であり、あらゆる光をのみこんでしまったに等しく。
「またとない、またとないのだ」
知ってか知らずか、うつむき加減の正枝の顔は平静なくらいで、両膝を立てながら着衣する様子に幸吉の動揺は伝わっていない。嘘のように乳房が揺れているというのに。
これ以上、着られてしまったら契りは締結をあとにした、まったくの過去のものとなってしまう。閉じた秘蹟を永遠に崇めるなんて取り返しのつかないことはまっぴらだという心の叫びを幸吉は聞いた。それがいかに身勝手で強がりで幼稚な声かも解っていた。駄々っ子が道端で泣いている、稚拙な自画像を地面に書きつけながら。理解は理解の彼方へ押しやられる。
幸吉は残酷な裏切りの向こう側へこう問いかけてみた。
「由紀子さんも確かそうやってました。でしたら僕のも拭いてくれませんか」
すでに用済みとなった裸体にふさわしい眼をした正枝は、
「変な頼みかたをするのね。あまりいい感じがしないわ」
と、言いつつも口もとには奇麗な歯並びを覗かせている。
「すいません、なんか、とても、とても」
「なにがとてもなの」
「とても、たまらないのです」
「あら、なんですって」
幸吉は形式の形式に準じていたつもりであったが、故障し脱線を余儀なくされた列車の乗客がそうであるよう、事故に見舞われる際の危急さを打ち消してしまった。
「これから何もかもが始まるのですね」
「まあ、そういうことかしら。あっ、いえ、そうではないかもしれませんわ。反対に終わるのです。そうね、きっとそうだわ、あなたはわたしの夢に加担したのですもの」
そう言うと、正枝は固さを取り戻しつつあった幸吉をすっぽりくわえ、ちり紙とは似ても似つかない感触へ連れ去った。
すると頂点を迎えようした全感覚は、人々が重ねてきた数千年まえの堆積の記憶となってよみがえり、けれども数千年まえは数分まえとの掛け違ったもどかしさを懐かしんでいるのか、全感覚には至っていないという確信を吐き出し、快感が快感であることの寸止めを意識させた。
「これでいいかしら。あなた次第よ、あとでもう一度、わたしはいいのよ」
幸吉は神妙に成仏した。
「ほら思い出してよ、あの修学旅行の日を」
すでに正枝が女優の姿勢で喋りはじめ、なんとも手際のよさを発揮し着衣してしまったので、幸吉もあわてて裸身にためらいを引き寄せた。未練など招く暇がなかった包摂に感謝した。ただ、太ももの邪淫がなんとも健勝な肉感、みなぎる生命の、病魔とは対照的な心強さの体現へ移り変わったよう思えてきて、記憶は記録の実務にもの堅くあるべく、話しの話しに淀みが生ずることを懸念した。
ところが、正枝の眼は虚ろな色合いを奥底に秘めたまま、泳ぐことをやめ、流れのなかでとどまっている魚影の小刻みな震えとなって、幸吉を見事に裏切った。そして裏切らなかった。
透ける風景の、半獣の予感にふさわしい構図であったから。

「まったくの遭遇なんて信じますか。ええ、わたしがあなたの前に現れるなんてどう考えてもありえませんわ。確率論では絶対に解けないですね、では因果律でしょうか。それも違うようですわ。待ちかまえていたのよ、偶然を装って。あなたが当然のごとく舞い上がってしまうということを前提に。
ねえ、幸吉さん、もうあらかた見当ついてるのでしょう。でも横目でしか見ていなかった。父が写真のなかへあなたを焼きつけたと判断するのが妥当なのかしら、とすれば辻褄は合いやすいわね、でも早合点しないで、別の人物があなたとわたしを引き合わせたのよ。もうおわかりなはず、そう昌昭さんです。
学校の修学旅行先を知らされたわたしは、あなたが前から密かに、そういいながらも雑誌の切り抜きをごく少数の生徒に見せていたから、けっこうまわりには知れていたわたしへの憧憬を実際にするべく、活かすべくもっとも的確な手段、接近を謀ったの、つまり仕掛けたわけです。なぜって、そうしないといけない理由があったからで、それはそうでしょう、理由もないのにひとり旅を演じて雑踏に入り交じり、あなたの眼にとまるはずないですものね、では順を追って話します。
まず父へあなたの存在を知らしめる必要がありました。禁止事項だったカメラを隠し持っていくと吹聴した昌昭さんは、わたしを発見したら燐谷は必ず懇願してくるだろうと踏んでいました。あなたとわたしを撮るためにすすんで校則違反したわけだから、これは賭けではなくて確信です。そして昌昭さんとわたしはそれぞれのお芝居をした、あなたという観客だけのために。天にも上るような気持ちだったのですか、とんでもない、馬鹿になんかしてませんわ、だって、とてもうれしかったもの、幸吉さん、すごく熱心でわたしのこと一番素敵な女優さんって言ってくれましたわね。どれだけ励みになったことか、あのとき答えた言葉は本心から出たものですし、握手をかわした感触の温かさは今でも残っています。嘘ではありませんわ、本当にそうでした。罪の心より勝っているなんて言い方したら変に聞こえるでしょうが、父の形式と名づけためぐり合わせにいっそ従ってしまおうとさえ考えたのよ。女優としての最後の演技があなたであってもかまわない、そんな思惑が偏狭さを打ち破ろうとかけめぐり、宿命だの、因果だのを押しのけ、今西家から離れようとしました。昌昭さんには打ち明けなかったけど、たぶん感づいてたんでしょう。あの冷淡な態度や無関心はそっくりそのままあなたとの距離でもあったから、おわかりいただけますわね。
さて、勝手にカメラを持ち出されたあげく、わたしたちの記念撮影を眼にした父がいかほどの、瘋癲なんて間弓さんにあざけられながらもどれくらいの、衝撃を受けたことか。その衝撃波へ自らを乗りこませ、昌昭さんの企てに動ずることなく沈思黙考し、家族間での冷戦とも呼べる事態を収拾しようとしていたのか。わたしが絡まることによって混戦の度合いはいっそうひどくなり、その疑心暗鬼は振り返るまでもないですわ、ほら、すぐそこにどす黒い形をして夜にまぎれています。あなたも、そうあなたも肉欲を介してよく感じたはずです。由紀子さんだけではない、このわたしが証明したんだから間違いありませんわ。
あらっ、どうしたの、そんな青ざめた顔して。由紀子さんの幽霊でも出ましたか、そうですね、もっともなことです。あなたはわたしの話しをひと事みたいに聞いてはいけません。一緒になって語るよう耳を傾けなくてはならないのです。仕掛けは幸吉さんのなかで働いておりますから」


[509] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた9 名前:コレクター 投稿日:2020年02月18日 (火) 01時40分

沸点に達した充足は空きっ腹が満たされた場合と異なる。
意識の半減に心地よさがはらむ眠気の催しや落ち着きなどとは違って、どこか尖鋭的な残響を保ったまま手持ち無沙汰の、よそよそしさを感じさせた。
うっすら汗をにじませ見返す正枝の顔つきに幾ばくかの疲弊を見てとることが、慚愧の証しであると幸吉はかこつけ、女優の素顔に自分自身のよりどころのなさを投影した。それがいかに罪深くあろうとも、吐精直後の虚しさを代弁するような哀れな気持ちである限り、内心の混濁は隠しきれず、視線は他者を蹂躙するしかなく、この反鏡面作用は真意を曇らせるばかりであった。
しかし天候のうつろいから気まぐれが生じるよう、視線に託された腐心は相手のひとことで晴れ間を覗かせる。
「やっと結ばれたわね」
特別にこやかな顔色ではなかったけれど、正枝の声には豊かな音程があって、刹那的な実感を宿していた。その実感は虚しい充足を美化しただけにとどまらず、形式の形式をも肯定する節理が裏打ちされており、あこがれの女優との契りがおこなわれたという奇跡を不動にした。
まだ屹立したまま女体の中にあった幸吉の憂慮は、季節を先急いだ雪どけ水の冷たさに叱咤されたのか、実際、正枝のあそこに巣くっていた生暖かさは後退し、急に寒々とした感触に変貌していたので、余情を無造作にたなびかせることなく、乾燥しきった冬空へ両手を掲げるようにしてふたたび重なった上半身の、肉感を逸した友愛のきまじめな体温にほだされて、虚構の虚構を受け入れる準備が整った気がした。春は来る。
「さあ、話してください」
「あら、そんなにあわてなくていいじゃない。わたしまだこうしていたいわ」
予期してなかったといえば嘘になる。しかし情欲を膨らませたまま会議するような不謹慎は断ち切らなければならない。それは無理し意地を張ってけじめをつける意味合いであったが、反面、子供であり続けたまま子供の夢ですべてを終わらせ、今西家の真相などにはいっさい関知せず、まさに憧憬が憧憬の名において燦然と輝く体験であったなら、どれほど有頂天になれただろうか、あるいは静子からの恋文で色づいた浮き立つような遍歴を顧みるまなざしも、おぼろな光景に霞んでいたとしたら・・・
「じっとこのままでいて」
そう耳もとにささやかれた幸吉は、自分の都合よさが正枝をまどわしてしまい、永遠の女優を演じさせているのではないかと身震いした。そして間を置かず、
「わかりました」
と言ってしまった。結局、形式に浸潤した肉欲はひたすらあがいてあがいて時間をもて遊び、夜の懐は正枝の胸の谷間へ眠りを欲している。
幸吉の目覚めは荒淫であった。膨らんでしぼまない情欲があきらかな証拠、また冷却装置と思われた正枝の女陰も、好色を退け冷めたわけではなくて、受け身の快感を得たいが為に仕切り直されたのであり、絶頂を望んでいると判断した。がむしゃらなだけの中途半端に途絶えた愛撫では生殺しである。しっかり感じさせなければならない、正枝は女優としてではなく、ひとりの女として快楽を享受したがっているのだ。この独善的な考えにゆるぎはなかった。すでに学習済みであったからだ。もちろん学校では決して教えてくれない課目であった。
接吻は新たな激しさを増し、子供である自覚は無邪気で奔放なまま温存され淫欲の権化に徹した。常にうしろめたい気分で幼少より続けてきた自涜の延長がここにある。精通を覚えなくとも毎回果てていたのは今から思えばとても不思議だったが、更におののいたのは尿道からそれが絶大な快感とともに噴出したときであり、べっとりとした白濁の異質な、血糊がひろがった鮮烈さとも別種の、忌むべき分子を含有したとさえとち狂うような、汚れた神秘にすっかりひるんでしまって、その後しばらく禁欲した一途な小心さがよみがえってくる。
禁欲を唱え、禁欲を破る、密着して離れない接吻は子供の時間の時間であって、銭湯にて大人の女体を間近にしながら劣情のかけらも持ち合わせてなかった無垢が健気で仕方ない、それは自涜を体得したのち至上の映像に転じたからで、視覚で女体をとらえられる機会などせいぜい雑誌で盗み見るくらいだったし、テレビや映画での特に洋画の接吻にはあいさつ程度の清さしか感じなく、しかし成熟した裸体に反応する以前より自涜に耽っていたのだから、つまり生殖の意味すら分からない時分より無精通を習慣としていた身からすれば、意義の正された情交は無邪気さが剥奪された光景であって、そこには様々な邪念が道徳的にゆきかうことになってしまい、うしろめたいとはいえ、おおらかに快感を得ていた幼少時代のようにまっすぐな官能は獲得し難くなってしまった。
ましてや実際の交わりは絵に書いた恥部とは本質的に違う構造、すなわち生物の立体構造を持ち、感情やら感覚に支配されているので、奉仕の精神が要求されてしまう。簡単に言えばただ自分だけ気持ちよくなるというわけにはいかないから、ときには修行のような精進が必要となってくる。なかにはそうした営為に無上の歓びを見出す輩もいるだろうが。
幸吉は屈折した意識を糊塗しなくてもよかったのに、一時の不能に恥じ入ったまま殻へ籠もり、形式の形式を無効にしようと姑息な考えに執着してしまった。その執着をあからさまに悟られるのが疎ましかった。
ただちに体勢を入れ替え正枝に被さったのは、嫌悪と欲情の融合であろう。しかも融合はさきほどの愛撫に比べると子供らしくもあり、逆に大人ぶったところもあったので、これこそ答えではないかと自画自賛した。
すなわち、自分はまだ高校受験をひかえた中学生である、ようは子供と大人の狭間で生きている未熟者にすぎない。
この想念は幸吉を発奮させるに十分な弁明であった。世間に、いや正枝に甘える要因がはっきりと内在していて、本能の模範としての欲情が羽ばたき成長できると踏んだのである。あの不良連中がひけらかしていた筆おろしの相手の年齢や容姿に聞き耳を立て、勢いあまって便所へ駆けこんでいた同級生のうぶは規矩であり、今なお清純な影を足もとに焼きつけてくれる。初体験こそ済ませた幸吉だったが、よくよく思案してみてもこのような情況へ至ってしまい、煩悶やら焦慮やら羞恥などに振りまわされること自体、桃色に染まり抜いた虚脱の悦楽なのだ。
しがらみなどという因縁を我が身に浴びせ、詭弁さえ厭わずようやく下卑た性根に向き合えるであれば、せめて鮮烈な影を真下に見つめていたい。
念入りな前戯を施すつもりで正枝の両脚を大きく開き、まじまじと秘所を眺め、ゆっくり舐めては舌先に力を入れ陰核を真珠に見立てつつくように転がした。こみ上げてくる甘酸っぱい匂いともに切なさを那辺に探れば、子供じみた想いの破片が、すでに未来形であるかのごとく、砕け散った破片が集まりだす。それは流路を知らない魚影に水辺の音を聞く遠隔と同じで、風景のなかへ舞い落ちる時間の堆積である。
次にぱっくり割れた陰唇へ触れながら、穴の奥あたりまで舌を丸めてくまなく吸う。まるで飲み干したヤクルトの底にたまったしずくをいとおしむように。
視界は恥毛でさえぎられているにもかかわらず、委曲を尽くした口淫に没頭して正枝の女の開花を、たとえ狂い咲きであったとしても願ってやまず、もっと言えば、恥毛と陰部とで眼をつぶされることによって得られる花畑に遊ぶありし日の少年、つまり蒙昧と淫欲に手を引かれる自画像を眺め、その背景の色彩を特徴づけている蝶々への変身、架空のストリップ嬢以前から棲息していた蠱惑に出会いたい儚さである。
無常なる時へ埋没した幸吉は大輪を我がものとし、湿りに湿った秘所への復活を高らかに告げた。そんな意思をのみこむよう、にゅるりと先端から根もとまで挿入された油膜の加減に驚く暇もなく、これが一番安定した体位だと言い聞かせた矢先、見事なまでの早撃ちぶりを発揮してしまった。しかし、とくとく脈打つ音頭が伝わったのでまだまだ弾倉には備えがあるとほくそ笑み、そのまま押しひろげた太ももに視線を流して至福とつぶやき、すぐさま相交わった図柄を網膜へはめこんで腰を振り出した。
正枝が大胆に両脚を浮かせてくれたお陰で、互いの恥部の眺めもよく、案配はこの上ないくらい軽やかであった。さながら下半身には重力が働いておらず、摩擦熱を念頭に入れなかったら永久運動がくり返されるであろうなどと、宇宙規模の幻想をまとって、だが摩擦を軽減してあまるほど女陰は蜜にあふれており、そんなぬめり具合であったなら、かりそめの宇宙は変じて茫洋たる花畑となるだろうし、重力から解放され過ぎて困るような蝶々が飛びかうかも知れなかった。
幸吉はこすれるだけこすりきった。正枝が悲鳴に近い声をしぼったので心置きなく発射し果てた。しばらくそのまま陶然とした顔を見合っていたが、さすがに屹立の状態はやわらいだ。ところが尿道に残された精と一緒に縮小していく男根を正枝はきつくしめるので、こそばゆい妙な感触を最後に味わい、とろみにまみれたナメクジはカタツムリを夢想しながら外気へさらされるのだった。深い夜の静かな部屋の。


[508] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた8 名前:コレクター 投稿日:2020年02月12日 (水) 03時11分

「もし、あなたの言葉が僕の耳もとまで届けられる異変におののくのなら、そのくちびるの上下する運動を凝視しつづけて、さながら読唇術に長けたかまえで僕はあなたの声を聞きとっては、異変が異変であることに準じるままですべてを了解し、この宙ぶらりんの患苦から解き放たれるだろうけど、思いがけず、いえ、朦朧とした脳裡へとこだまする淫靡な期待通りに展開された女優にとって大切な器官であるはずの口腔の、歯や舌が用いるわけがない台詞におびやかされるどころか、言葉にし難い嘆美と心地よさの狭間へ踏みとどまるのであれば、きっとそれは素晴らしい作用であり、またとない時間の占有になりうるでしょう」
幸吉は生あたたかい感触を股間の柔らかくいじけた先端に受けながら、そう胸にささやいていた。不安の要素を応分に含んだ感謝の意でもって。
正枝はゆっくり横たわらせた幸吉の局部をほおばり、敏感な復活を切に願っているような眼の輝きは敷布まで浸透していた。両手は腰をなだめるふうに添えられており、口内でうごめく軟体は無知のいましめに過分な反応をしめそうと努めている。首を振ることによって加わるなめらかな圧覚は規則正しく、そして小刻みに波打つ想念へと連結され、完成間近の快感が降臨しようとしていた。あきらかに物体化した男根は悲鳴を上げるべきであったが、完成のその先まで不用意な想いをめぐらせてしまい、声色は虚しく消されて成仏し、反対に魑魅魍魎がさめざめと震えはじめ、感覚の復権を唱えだしたのだった。
それは重い重しへあらがうような不逞と共に、軽やかな羽毛にも似た誠意にそそのかされていて、より強く激しい摩擦を願ってやまないから、もうどうしょうもなく不機嫌な気持ちのよさで支配され、萎えた状態は一向に変化を現そうとしない。しかし快感は脳内に到達しており、決していきり立つだけが目的だと考えたくなかった。
舌先はぎこちなくかり首を回転する。また時折わざとなのか数本の歯が触れ痛覚をあたえる。優越感にまで至らないささくれた征服欲は正枝の行為を凝視したくてたまらない。上体を起さなくともその姿態はまぼろしのように鮮明であると同時に嘘のように煙って見通せない。ぬめりがもたらす尋常ならぬいたたまれなさを払拭するよう焦慮が働くので、増々もってぬめりはむず痒さと同等に成り下がり、色情とは無縁の領域へ追いやられそうになるのだったが、まっ裸同士が寄りそって、しかも小便を垂れる器官の、いつとはなしに覚えた自涜による白濁をのみこんでさえしてくれそうな烈しい羞恥があぶりだす、卑猥という文字の浮上に恍惚を迎えると、正枝の口中にすっぽり収まっている余韻が早くも訪れ、その余韻にひたり続けたい欲求はとことん湿地帯をさまようのだった。視線は安定を保ったまま口淫の絵図は焼きつけられ、幸吉は女陰をまさぐろうと片手をのばした。さまようべきしてさまよう場所、たどり着くことの容易さとはうらはらに意識の先鋭化がまたしても膨張をさまたげてしまう。
中指をつつつと忍ばせてみたけれど正枝は察しているのか、腰をくねらせ嫌がる素振りをしめし、とはいってもその遠慮がなおさら意地らしく思え、思うと不意にまな板の鯉になったような誇大妄想を働かせ大の字に寝転がった。すると正枝はよりきつく吸い付いてきて、指先を根元にあてがい弾むようにしごきはじめた。硬さを知らない軟体生物はびくりとしたが、新たな刺激にも触発されずひたすら生あたたかさの渦中へ居座っていた。
時間は夜の向こう側で音を立てている。この部屋まで及ぶことはないけれど確実に夜風は塵を舞い上がらせ、徘徊する惚け老人や不良らを尻目に狩人の本性をぎらつかせた獣どもの背に降り注ぐ。その毛並みが敏感であればあるほど夜の底は深く、人々の眠りを遠く見守っている。出会うために、月影に照らされた寝室で出会うために。
正枝の奉仕活動がりきむほどに幸吉は無辺の夜空を飛翔していた。
夢見る心持ちとは逆の覚めたまなざしでもって家並みを俯瞰し、各家庭の性生活を点検することに専念していた。あたかも夜ごとの儀式に立ち合うような心境で厳粛な仮面を被り、大いなる性交の建設的な光景にうなずいていたのだが、どこか瑣末でいかがわしい男女のやりとりに思い馳せるとき、必ずしも厳粛な仮面が求められるとは限らず、むしろ獣どもの野性に培われた闇の眼を光らせる交尾に、純乎たる匂いを嗅ぎ取ってしまい、人々の戯れには淫乱と惰性が絡まりあっているようで、その営みは安全牌を配した快楽の享受に見えてきた。けれども戯れこそ至高の有様であることはまぎれもなく、平和な夜の淫らな交わりの匂いが発散する酸味と甘味と苦みに心酔した。
俯瞰から感じとる十把ひとからげの劣情にほだされた視野は、さながら区分けされる箇所のようにある特定の、だが、ここと決まった場面には落ちつかず、それはひとり自室でいるときに衝き上がってくる猛烈な、こらえようにもこらえきれないみじめさと並列する乾燥しきったいたいけな想いに等しく、散らばる花びらの拾い集める女々しさをかみしめ、どこにどう放てばよいのやらさっぱり見当もつかない、あの閉所的な錐もりが適当な女体の幻影を穿つように、混乱と硬化のゆくてには果てしがなかったから、それぞれの媾合は点在の点在であり、近視眼をはぐらかせ、退軍を余儀なくされた一兵卒の心情に即するのだった。
戦火を遠目にした地団駄と恐怖、そして避難区域である自室における手淫に耽りに耽る甘い虚しさ、そんな虚しさを底辺に敷きつめたように眺めうる夜景こそ、徹底した独自の、散乱した言説の綾なす蹉跌である。
この大雑把で偽悪者じみた考えに幸吉は萎縮していたのかも知れない。普遍的な色事の把握など学者でもあるまいし一体なにの足しになるのだろう、肝要なのは今この旅館の一室で繰りひろげられている極めて個人的な実情であって、それ以外の概観なぞ後まわしでいいのだ。概観という言葉を使ったことでこの身に起こっている事態、つまり突然の不能の理由がなんとなくつかみ取れそうになってきた。脳髄でも心臓でもなくて、正枝の口に含まれている幸吉自身へと血流が集まってゆくのが感じられた。
夜空への飛翔は端的でしかもあっけなかったけれども、一種開眼の妙をもたらし、自分を塞き止めているもの、あるいは見苦しくらいの打算をひと事のように、あくまで少しばかり冷静な見方で他者を介して、それからもう一度自ら引き受ける問題として、いかがわしさにいかがわしい美徳を見出して、深く浅く女優との契りを認めたのだった。
股間はまさにむくむくとふくらみ、口淫の全貌に歓喜した。それは正枝にとっても歓びであり、一層奉仕は強化し申し分ないくらい懸命な情が注がれて、骨を埋め込んだくらい固まった男根の実りに得心したのか、
「さあ」
そう言って幸吉の上にまたがり、素早く手をあてがい、一気にずぶずぶと割れ目の奥にくわえこんでしまった。するとあの夕陽に染まった夏の悦楽が瞬時に懐かしくよみがったものの、驚きを隠せなかった幸吉は股間に起こっている、予測していたとはいえこれほどまでに端的な交わりを経験している現実をしっかりつかみとれなかった。
いざ二人だけになってみれば、初めて修学旅行先で邂逅したときの印象とはずいぶん異なり、その後における一連の奇妙な出来事や、一時は狂女だと蔑んでしまったことなどがうず潮のごとく脳内に満ち満ちて、女優である正枝の肉体はこの世のものでないような気がしたけれど、反面ずっぽりはまっている男根の意識の意識は夢の目覚めを獲得して無上の肉感のまっただなかにある、そして頂点を迎えるためだけに下半身の下半身は命の躍動へと突っ走っているのだから、正枝はもはや正枝であって、女優の看板ははがれ落ちているのではないかという念いがもたげる。するとたちまちこの現実に恥じ入る。どこをどうして恥じ入るのかは互いの裸体が密接を極めている絵図にあるのだろう。なんという平面図の冒険、幸吉は観念そのものが女陰へ溶け出していくのを感じた。
ふさふさ揺れる乳とくびれた腹を眼前にして、なんともいやらしい腰の動きでつながった恥部の勢いが増すにつれ、瞥見した正枝の表情に、振り乱された黒髪に、泳ぎに泳いだ目つきに、惚けたような口もとに、ふたたび女優の女優の影を、さらには架空のストリップ嬢の衣装をかいま見ては、秒針の秒針が進むその狭間へ立ち止まった途端、一気に精がほとばしった。


[507] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた7 名前:コレクター 投稿日:2020年02月03日 (月) 23時35分

はだけた胸には来たるべき未来が待っている。
夜目にうとい雛鳥の不馴れの先に目覚めがあり、目覚めは幼い羽毛でくるまれた揺籃が風なき風になびいて遠く、しかし、その遠さは遥か彼方まで去りゆく距離に換算されることないまま、ちょうど円周の無限の閉じた動きと同じで、薄皮の薄皮が線上をつかさどっているすぐこちら側へと見返す視線の力学に準じている。
幸吉を囲繞した暗がりは乳房に影さす努めから逃れたのか、ほとんど覚束ない寝間の様子に先立ってふくよかな胸の白さを浮き上がらせていた。ふすまにかけた正枝の手は無謀な親和と慎重な戯れを伝えて余すところなく裸をさらけ出し、様式が様式であるべきことの堅実さを証明している。もっともほとんど夢うつつの意識が教える手応えは、これから交わる肉体のすべてを予見しているというまやかしに誘われて、雲の上を歩いているような感覚で縛られており、あの忌まわしい鋭敏な震えの出る幕がなかった。
接吻より早く胸の谷間に顔を沈めてしまったのも、魔性に魅入られ麻痺した神経のなせるわざ、そんな幸吉を見越してか、正枝は懐に赤子を抱くような優しさで幸吉の頭をなでつけながらゆっくり布団へ倒れた。女体にのしかかった感触を全身で知ったのはまぎれもない目覚めであった。ただひとつ、それが夢のさなかから送られた信号だとは証明されないことを除いて。
誠実な肉欲を求めた風呂上がりの肌は惜しみない露顕へと歩んでいたのか、まだほどかれていない帯の困惑をよそに、はなから下着が脱がれている大胆さで幸吉を悩殺した。素っ裸よりこんなふうに着くずれた乱れを間のあたりにしたときこそ生じる興奮、それは踏み外した道徳とか柔らかな残酷といった下卑た範疇には収まりのつかない事態であって、由縁は由縁を呼び続けるのだけれど、他愛ないスカートめくりの悪戯にめばえがあったなどと捉えるのも学習された成果でしかなく、実はもっと端的で直感的な無邪気さに起因するのでは、たとえば物欲しい眼で路傍によろめく狂犬が大事にかかえこんで来た陽気な反則、大人の夜に点滅するネオンライトの奥でささやかれる淫猥な言葉、その言葉の意味をのみこめないまま過大評価をあたえてしまう高尚なつまずき、すべての子供たちへ平等に配分されていたはずなのに下世話な風化で霞んでしまった覗き眼鏡。正枝の恥毛は初夏の雑草を想わせた。
こうなれば女体が女体である意義は歴然となって、乳房を舐めまわしながら首筋までたどりついたところで猛烈に女優の全裸を眺めたくなった。しかし欲望を照り返しているだろう相手の表情が気になってしまい、何故なら架空のストリップ嬢は見届けられたにもかかわらず未だのっぺらぼうの様相だったからで、是が非でも金太郎飴の断面に張りつけたくおっかなびっくりしながら、へつらう手段にこそ薄弱な信頼が託されているのだと許諾を求めた。
もし女優にたぶらかされていたとしても思考停止の呪文がある。すでにさきほど湯船のなかで予行演習し沈着の空気を吸い取ったばかりであったが、あきらかに望み望んで、ねじを巻き巻き、春夏秋冬、影と光の綾に刻まれた時間のなかをへばりつくよう今まで過ごしてきたのだ。蔑みや冷徹なまなざしであってはいけない、あくまで一緒の情欲であるかどうか確かめなければならなかった。形式の形式によってなされた同衾のいざないは娼婦を演じる姿態の域から出ておらず、やはり女優の素顔にまじまじと近づいて呼気を嗅ぎ取りたかったのだ。
「違うからわたしなのです。でたらめにはでたらめの言い分があるのよ、お話しのお話しはあなたを骨抜きにしてから」
心許ない抵抗が幸吉の耳にそうした台詞を響かせた。
けれどもはじめて肌を合わせた正枝の目許には一種の慈愛のような輝きのうっすらと涙でにじんでいる様子がうかがえた。感傷を排し股間の怒張だけに魂をゆだねた空疎な悦楽のゆくえが新たに定まった。両目を閉じくちびるを重ねる。その感触はとてもなめらかで、吸えば吸うほどに樹液のような成分が幸吉の舌先まで浸透してくる。ときおり前歯がぶつかったけれど、ぎこちなさのはぐくむ小躍りしたうれしさへと変換され、右手を肩にまわし反対の手は帯をほどくため乳房から脇腹へ流下していった。
生起した時間の前後もまた揺籃のように揺れている。幸吉の気おくれを察した正枝は高鳴る鼓動が闇のしじまに伝播しないよう、密やかな形式であるよう鼓や鐘の音は除かれ、微かな吐息だけをかりそめの閨房に持ち入れた。ためらいがちにも見える仕草がいかに華々しい場面を生み出しているのか悟られまいとして。
艶冶な声色も抑えられ代わりに捧げもののごとく胸もとがあらわになった。部屋は窓のない手狭な寝室であることを心得ているかのようで、予想だにした二組の布団と枕を神妙に映し出すのは、ほのかな電気スタンドが灯るのみ、夜の夜であるいわれを不如意に迎えていた蛍光灯の明るさとはまるで違う雰囲気がたたえられている。しかし前もってそんな気配を作っておいたわけではないだろう、ただ天井の照明をなくしているだけだから。それこそ太陽を直視したときの痛覚に等しく、秘事には周到な庇が求められる。しかるに女優は女優として舞台装置から選ばれているのであり、ことさら意匠を凝らさずとも夜は暗幕の用意に抜かりない。
すでに緩んでいたのか手間なく帯の結びは解かれた。爪先まで延びた裸身が放つ白さを眺めながら幸吉は、自分が暗幕を持ち込んだのだとうぬぼれを感じ、さながら遊覧船から物見遊山しているような心持ちを得たのだったが、なにかしら由々しい、けれども途方なく広々とした虚脱の掛け合わさった武者震いにみまわれ、その肉体をやみくもにむさぼろうとした。
乳房からへその下までねずみのように這いまわってはくちびるを奪い、太ももの魅惑を堪能しようと躍起になり、よだれでまみれた肌に頬ずりしながら秘所へとせまった。由紀子から伝授された技巧が活かされているのかどうか、もはや考える余地のないまま指の先っぽから太ももの付根まで愛撫しつくすだけで、華奢な骨格ではあるけれど成熟した肉づきはなめらかに程よい弾力を保っていて、なにかとてつもないありがたみが押し寄せてくるのだった。
薄暗い部屋に充満する神々しいまでの重圧、閉じた円周から導きだされる幾何学と野放図な演出が色めく瞬間の連続、深く深まった晩秋の宵を拒むような初夏の香り、正枝の女陰に舌で触れる。触れて触れて舐めて舐めて味わう唾液と入り交じった愛液の匂い。とろみに潤滑を認めさすらうことの恍惚と、うしろめたい寂寞が同時に去来する果てのない道程。
幸吉はもれ出した嗚咽に女人であるべき喜悦を聞き取り、すぐさま己の慢心を重ねた。天のうつろいに憂懼するよりも、大地へ返る宿命を負った肉体の素描が好ましく思え、正枝の顔色をうかがう小心からの脱皮がはかられた。慢心で塗り込められた暗がりを照らす勢いは軽躁の加減など忘れていたが、いわゆる感じどころを実践で知った感覚は見事によみがえって、くねり始めた女体のもの言わぬ変化に照応し、濡れそぼった割れ目を指先でなぞりながら一方では脇のくぼみ辺りに丹念な刺激をあたえてみたところ、電流に弾けたような衝撃が伝わってきた。そして半開きになっているとあえて見遣った口もとはまさにその通りで、これこそ女優の素顔の素顔に違いない、演技の演技が裏返しになったとほくそ笑み、話しの話しなんてどこから出てくるのやら、この口からかと、なかば攻撃的なきつい接吻をあたえれば、ぬるま湯でふやけた茸のような舌先がちょろりちょろりとぬめっては出戻りを繰り返し、長い長いくちづけが続いた。昂った幸吉はそろそろ交接に差し掛かる時機だろうと正枝の股ぐらをかき分け、半身を起した。そのとき女体にすっかり意気を上げていた自身のまったく変わらぬ下半身の所在に愕然となった。
なんと幸吉のいちもつは勢いづいているどころか、まるで萎びて折れたきゅうりのように生彩を欠いていて使いものにならない。どうしてこんな肝心なことに気づかなかったのだろう、あまりの間違いにとまどうばかりでこれまでの官能の渦は、不吉なめまいに取って代わった。脳髄が一途な矢を放ってばかりいたせいなのか、そう脳髄が自問自答する。いや、思考停止だとため息をつきかけたが難問は、めくるめく快感に溺れていたと思われる正枝の反応にあった。形式の形式が頓挫してしまったらいったいどうなるのだろう。怖れおののき正視にたえない、そう心底から萎縮していると、
「さあ、今度はわたしの番ね」
女優の台詞らしい励ましが添えられた。だがその励ましは幸吉の胸の奥まで届きはせず、理由はとても明快で一時的な不能にしろ、精神があれほど昂っていたのに役立たずに落ち入ったのは他でもない、話しの話しが気になって気になって仕方がなく神経回路に支障をきたしたからである。
「どうしたのそんな覚めた顔して、ねえ、大丈夫」
うっすら笑みを残し問いかける正枝のなぐさめに答える言葉が見つからない。
「もどかしいのでしょう、ねえ、そうなのでしょう。わたしにはわかっているわ。あなたはわたしを信じていないのね。でもそれは当然、形式の形式には根拠なんてないばかりか、二転三転する事情もいい加減だし、あなたをこうして不安にさせた張本人はわたしであって、そのわたしは女優であなたのあこがれ、しかも相当な訳ありの安っぽい推理小説に出てくるような影を背負っている。そうですわね、由紀子さんは殺されたかも知れませんから。
そして最後のよりどころだったあなたの両親までわたしの父にかかわっているとなったら、もはや自堕落すら面倒な作業ですわね。ひとときの快楽に身をまかせるにしてもわざわざ剣吞な場所を選ばなくたってかまわないですもの。でもあなたはわたしを望んだ。化かされるのを楽しむ子供がおどろおどろしい見世物小屋へ行くようなの気持ちでね。で、覚悟のほどはあったのでしょうけど、やはり釈然としないすべてを引きずっていた。すべてが釈然としないなんて逆にさっぱりしていいと考えたりしませんでした。あっ、そうでもないようですね、では少しだけ真実の真実をお聞かせしますわ。この旅館でわたしとあなたが契りを結ぶことをあなたの両親は認めているどころか、なにも知りません。本当ですよ、でもわたしの父とかかわりがあったのは事実、ただしあなたが生まれるまえのことよ。
わたしはあなたを引きつけ逃さないために嘘をついたのです。ああでも言わなければきっと咄嗟の判断であなたは意識を留め置き、わたしを見捨てて保身の道へと舞い戻ってしまう、そうなったらおしまいでしょう」
なるほど、そうした細かい仕掛けがあったのかと幸吉はひと事みたいにうなずいたものの、さして驚きはしなかった。
「何がおしまいなのですか」
「ふりだしがおしまいってことですわ。せっかくのふりだしが。もうこれくらいで、お話はあとで・・・さあ、契りを続行させましょうよ」
「そうですね」
ほとんどうわごとのように幸吉は了解した。


[506] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた6 名前:コレクター 投稿日:2020年01月21日 (火) 03時13分

「違うからわたしなのです。でもまったく違うというわけではありませんの、婚姻がでたらめといわれるのはなんだか辛いわ。とにかく、すべてお話しするつもりですので、どうぞわたしを抱いてください」
細く振りしぼられた正枝のもの言いに幸吉の胸は痛みを感じ、それが夢想の地をめぐりにめぐり、ようやく逢着した下半身のうずきであることの証左へつながっていると得心した。
すでに獲得されていた揺るぎない肉欲は芳烈であって、身内もが巻き込まれているという驚愕の事実を聞くに及んでも、満蔵の虚偽に開眼したとしても、みだりがましい高揚を制するはずの理性はその機能を麻痺させており、ふてぶてしく居直った自堕落な感覚は袖口へ染みついた油脂のごとくうさん臭さでまみれ、汚穢を侵蝕とみなす投げやりな苦渋など寄せつけず、その指先にどす黒い垢を見届けるどころか、甘い粘液の透明な膜のようなものに眼光を反射させていた。そして得体の知れない巧緻が形づくる半影にうずくまった裸身こそ、架空のストリップ嬢だと思いなし、仕掛けのなかの仕掛けを手探りで確かめ、その仕様書きへ塗りこまれた文字が懸河の勢いで遠のいてゆくとき、幸吉の指の腹にねばりついた皮膜はさながら水掻きのように醜悪で異質な、けれども細流から見送る光景の優雅な想いを託された尾ひれのほの暗く霞んだ感傷は淡味で、魚影を見つめるまなざしにふと気づかされる夢の静謐へ眠った欲望はどこまでも沈んでいた。
幸吉は無言で軽くうなずき階下にあると教えられた浴場へ向かった。夢なら今すぐここで醒めるべきだ。気まぐれめいた後悔が小さな痰のように吐き出されはしたものの、振り返りたくても振り返れない反転するひりついた期待が優しく片息をなだめる。
こじんまりとした脱衣場に先客の気配はなく案の定、薄い朝もやのような湯気を浮かべた浴槽にはちりめん皺を想わせる紋様がうっすらとたゆたい、ひかえめな裸像を描こうとでもいうのだろうか、まどろみの絵筆の走りゆく意想に電球のぽおっとした灯しが呼応している。幸吉はいくらか神妙な顔つきで深々と湯にからだを浸らせ、思考停止と呪文のごとく言い放った。が、蛇口から一滴一滴としたたり落ちる音なき音をぼんやり眺めているうちに、まるで水琴窟の簡素な響きを耳にしているような心持ちになった。ひからびた弾力を帯びながらも鋭敏な水気にめぐまれた単調な跳ね具合は静穏を守ってくれる、そう案ずることで生じた虚脱が全身の毛穴を通じてぬくもりをゆきわたらせ、緊迫した間合いもいびつな事情も湯気と一緒に霧散してしまう、ことさら壁際の小窓を開けるまでもない、ひっそり夜の更けゆく時刻の訪れが好ましく、閉じたまぶたの裏には水墨画のような濃淡が典雅に収まり、険阻な色彩を退かせるのだった。
いくぶん急かされた気持ちを負っていたけれど、こうして束の間のどかさを感じていると確かに尖った意識はやわらぎ、旅情とまでは言わないが一種普遍の華やいだ臨場感のささやきに包まれて、音なき音は水琴窟の古拙な幻聴をもたらしてくれ、次第に額からにじみ出す汗の頬つたうことに微笑ましさの加減が募っていくようで、下半身に執着した欺瞞のゆくえなど追うことは忘れかけていた。醒めるべき悪夢に振りまわされるより、しばしの休息に現実を見出す。眼球運動にも小憩が必要であった。
正枝は冗談っぽく長湯をいましめていたけれど、緊張の糸をほどかれ独りになれば疑念や憶測の巻き返しに悩まされるのは分かりきったことで、とてもじゃないけど安穏として湯船に浸かってはおれず、発汗以前にあれこれ些事がこぼれだしては邪推の輪郭をこの浴室のタイルの目地に合わせてしまうだろう。また、先んじていると確信した淫情だって放埒の程度を見極めるはずもなく、悶々とした思惑に苛まれるのが関の山である。もとより長居は無用、清潔な交わりという大義名分を念頭に置き無心であることがもっとも望ましい。誰か他のひとが入って来たならすぐさま湯を上がるつもりだった。
ともすれば考えたくなくとも考えてしまうのは、じんわり心身のこわばりを解いてくれるこの覚醒のなかの眠りの眠りで、時計の秒針の先の先を取り払った間延びに立ち迷うまでもない、鼻歌のひとつも口ずさむならそれは律義なやまびこと一緒、きっと実感の実感を裸身へ呼び戻して、来るべき場景を切り開き、こうしてもたげている男根の無邪気な様へ、もっともっと有意義な無邪気さをさずけて爽快に、そして温められより堅くなって晴れ渡った突起物は入浴前のうずきとは別のうずきで、高らかな生体反応を唱えているという明徴に他ならなかった。それだけ認めれば十分であった。尚の上気は幸吉の両手に水掻きを植えつけ、快感の快感を得ることだけに専心してしまい、ただちに暗き妄念の奔流へのみこまれると覚ったからである。
石鹸をしっかりつかみよく泡立てて頭から股間までごしごし洗い、上がり湯をじゃぶりと浴びたのち、やや慌てた物腰で脱衣場の扇風機をまわした。浴室の小窓に手をかけるのが億劫だったわけでない、夜の浄福をこよなく愛して迷いに迷いさまよった、夢の流路のそのまた夢の果てをゆくこの瞬間が湯気とともに外へ逃げてしまいそうで心細く、あれほど呪った閉じた世界のもどかしさが最果てを吟じているようで仕方なく、うらはらに緩んだ頬のたくらみに阻止されてしまったから、外気に触れるのは穢れであると蒙昧な判断が下された。それはめぐる季節の冬空を仰ぎ見た際に覚えるだろう穏やかな陽射しと、首もとをかすめてゆく寒風の純潔な肌触りに促される引き締まった心根の先取りだった。無欲無心をほんの数瞬だけ感じては虚構のなかの虚構へ立ち返り、のぼせ上がった頭を冷たくする。気持ちに同調したのか、汗は吸い取られるように早々と引いて晩秋の夜風がまとわりつき、しかし全身の火照りはどこで芯が灯っているのかを定かにしないまま、ほどよく温もった皮膚は冷めることをとどめているようで、それは正枝の裸体を想った詩趣だと胸に言い聞かせ、肌合わせと淫行を峻別したく願っている醇乎な態度を懐炉のごとく保ったのであった。
「早かったわね。あっ、ごめんなさい、これ渡さなくちゃいけなかったのに」
湯気をたなびかせているとうぬぼれていた幸吉は寝間着か浴衣か判断のつかない、それでも時節に似つかわしい風合いの宿の着物を受け取りながら、すでに正枝もセーターとスカートを脱ぎ泊まり仕度へ整えてるのがまぶしくて仕方なく、蛍光灯の明かりにその罪を転嫁しようとした。ただ煌々として隅々まで照らし続け意地らしさを裏づける清廉に萎縮したのもあったが、かつて由紀子とはじめて肉体を交えたとき、自分の下着の汚れを気にして恥じ入った記憶がありあり持ち上がり、着衣の折に確かめる余裕すらなくしていた不手際に落胆したからであって、しかもその落胆は女々しい道理からちっとも外れようとしない不甲斐なさで凝り固まっていたので、男子としての本懐さえ怪しくなってしまい、澄みきった合わせ鏡を覗いているような罰の悪さが強められた。
もし鳶色の羽織が用意されてなかったら幸吉の羞恥は消え入ることなく、これから迎える局面に対峙できたかどうか、味噌汁の鈍い色合いが並んだ白米の艶やかさをごくありきたりに抑制しているように、重ね着しただけの身なりにも女色や淫靡といった見映えを抑える趣意がうかがえ、部屋全体の照度が下がり落ちつきを取り戻した。ところが湯上がりの意向は羽織で隠しおおせるものではなさそうで、入浴のさなかを支配した陽気な男根の男根である由縁に従っただけである。つまり正枝の動静を気づかうのみの気弱でいる限り、謎解き的な問答はせっかくの意気を消沈させるだけで契りに支障をきたすのではないか、ことの次第によれば途方もない事態を招いてしまう、結局どう転んでも幸吉の心境は穂波のようにざわついていた。すると、なにもかものみこんで、いや、のみこむほどの事態でも情況でもないから、冷静ないかがわしさに裏打ちされた取り組みだという際どさをそらんじる調子で、
「ねえ幸吉さん、お話はかなり込み入っているの、だから先に奥の部屋へいきましょう」
女優の面持ちでしおらしく、語尾には明快な色香を含ませて誘いをかけてきた。どれくらい幸吉は胸をなでおろしたかわからない。そしてどれだけ鼓動を早めたことか。
「僕のからだはまだゆだっていますよ」
なんとも不粋な言い方しか出来なかったのが自分でもおかしかった。
「それはうれしいわ。火鉢の代わりね」
正枝はにっこり笑みを浮かべ、さっと立ち上がって未踏の間のふすまを開けた。




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