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[493] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 3 名前:コレクター 投稿日:2019年09月23日 (月) 06時37分

軽躁なもの思いでありながら、また優美なうたた寝に添ったままでありながら、幸吉は煮え切らない態度を温存しつつ、仮借なき訊問を弄する側に転じようと試みていた。
怯懦を引きずった思弁があやふやな声音しか発せられないのは自明であり、蒙昧な切り口に鮮度が感じられないのであれば、もっとも本質的に蒙昧加減は油断を賞揚しているので、まがまがしい鮮度に色彩を託すしかなかったのだが、これまでのように悠長な書き割りに甘んじているわけにもいかず、それは由紀子の死を見据える直情へひとえに結ばれるからであって、抑えてきた哀哭の色濃く吐き出されるときが満ちたとも言えた。
形代の常に権高なのは仕方ないとして、素封家の打擲に堪え忍ぶほど時代が儀式を求めているとは考えたくなかったので、まず架空の存在をまっさきにあぶり出すべきであった。幸吉の鼻息は荒く、股間もいきり立っていた。
「それで間弓さん、なにか策はあるのでしょうか。もちろんこれからのです。由紀子さんは僕を呼び出したあと、あかたも道中めぐりのように関係を世間へ知らしめたのでした。当然ながら僕は萎縮してしまってなすがままでしたから、どんな陥穽が仕掛けられているのか計ることは出来ませんでした。それは無理もないですよね、だってすべてがざわついていて、色めいた遊戯の底深さに足をとられっぱなしで、けど、人生を狂わすほどの魅惑はあっても、到底まじめくさった考えは要求されないだろうという安全牌が多少は稼働していたのですから。もっともまじめな顔つきは規則みたいな符号なので、仮面の役割りを果たしてもらわないといけません。
そうですよ、あなたがたの攻略にどんな進展があったのか知りませんけど、いまさら今西君とは血のつながりがない、弟でもなく姉でもないなんて聞かされて、双子と見紛う容貌に驚いた僕も僕ですが、似てる似てないであのとき交わした会話にそういう布石が敷かれていたなんて信じろってほうが難しいでしょう、だって由紀子さんとあなたのつながり自体がかなり不自然でしたし、女優の志乙梨さんにしたところで、それだとなにもかも作り話にしか思えなくなってきます。
他人の家の事情なんて所詮は絵空事だと言い含めてしまえば簡単で、しかも手っ取り早く、いくらでも信用できますから、しかしそれを見越して二転三転させるのは聡明な考えとは言えませんよ。その場しのぎも甚だしく感じるだけです、現在の僕には。
でもあくまで実情はその通りであり、なるほど今西君が冷めた顔色だったのも、父上の満蔵氏が入院してたなんて嘘を平気でつけるのもそうしたことでしたら、辻褄は合います。父上とは無縁な以上、なにもかも迷惑でしかないでしょうし、一番呆れ返っていると思えるからです。
僕も同じですね、そもそもまじめくさって耳を傾けるような婚姻話しではありませんでした。話し半分、だけど胸は高鳴ってしまいました。それがいけなかったのです」
「よくわかっているじゃありませんか。遊戯なんですね。そう言い切れるのですね。だとしたら燐谷さん、あなたにも罪はあります。わたしの意見をないがしろにしたという罪です。血縁を隠してしまったのは失礼だったかも知れませんが、戸籍上は弟なんです。わたしは昌昭の姉なんです。
かと言って、あの女優との問題は別にあるのは理解いただけますか。勝手な言い分ですけど、わたしは父の横暴が許せませんでした。いくら老境に至り不憫な感情を持ったとしても、あまりに小馬鹿にしてます。
おまけにあなたをだしにするなんて。そういうやり口が気にいらないかったのです」
「で、由紀子さんを僕にあてがったというわけですか。いや、そのまえの下級生からの恋文だって仕組まれていたとしか思えませんね」
「誰ですか、その下級生って」
「いえ、本当ならそれでいいんです。僕の邪推にしておいたほうが無難ですから」
「えらく奥歯にもののはさまった言い方をなさるのね」
「そういうふうに聞こえたのならすいません。けど、もうあまり込み入ったことは抜きにして遊戯を終わらせたいのです。ふりだしへ戻るのもごめんです」
「やはりそう言い切るのですね。残念ですけど、あなたにはあなたの道がありますものね。でしたら、このまま黙って胸にしまっておいてください」
「ええ、しかしそのまえにどうして由紀子さんを殺してしまったのか、教えてもらいたいです。あと父上にひとめだけでもお会いしないわけには」
「まだ、そんなこと・・・由紀子は事故だったんです。誤って橋から転落したんです」
「さっきもうかがいしましたが、僕にはそうは思えません。なにか秘密があったのでしょう」
「あなたのほうこそ、込み入ったことをでっちあげたいようですわ」
「でしょうか」
「はっきり言いますけど、由紀子を巻き込んだのは認めますが、お話した通り別に肉体関係を結ばせたり、籠絡しろとかけしかけた覚えはありません。ただ・・・」
「ただ」
「この間、あなたが家にいらしたとき聞き及んだ恥を・・・そっくりそのまま、父の見苦しさを・・・由紀子に訴えました。するとこう言ったのです」
「聞きましたよ、それは。で、義兄弟めいた祝杯を交わしたというわけですね。任侠映画でもあるまいし、そうして由紀子さんが文字通りひとはだ脱いと。おかげで僕はすっかりとりこになってしまい、骨抜き寸前でしたよ。でも隠し子がもうひとりというのはあまりに見え透いて、しらけてしまいました」
「あら、どうなんでしょう、あなたにしてみれば、増々その胸が鳴り響いたんじゃありませんの。秘密を愛でておいてしらけたから節度をなんて、ずいぶん都合がよろしいこと」
「都合だなんて」
「都合だわ、由紀子は言ってましたわ、あなたは自分を簡単に偽れるって。夢中になれることがあれば、それだけに耽溺してしまう、だから女優のことなんかすっかり忘れてしまって、当分はわたしにしがみつているだろう、しがみつくことで時間を流し、忘却の彼方にさまよいだすって。
これが都合じゃなければ何と呼ぶのかしら。誰でもよかったんでしょう、あこがれの降臨を間近にしたなら」
幸吉は絶句した。
が、反撃を試みようとも前回と同じ形式が待ちかまえており、この前哨戦を乗り越えない限り、満蔵の妄念を打ち破ることは出来ない。すると何にもまして幸吉をときめかせた媚態が具現し、返す言葉はあの魅惑の太ももに、片足へ宿った官能の幻視を明瞭な写し絵に転じた。志乙梨の母の裸身は片足だけで十分こと足りており、時代をさかのぼるまなざしには歴史的な記述の的確さが反映していた。
そしてあの時点で無軌道な色欲が体よく刷り込まれたのを知り愕然とした。
満蔵の偏愛した太ももを由紀子へ見出す流れはすでに仕上がっていたのだ。
しかし、そうだ、ここに反論の余地があるではないか、そんな由紀子をそそのかしたにしろ、あてがったにしろ、とにかく橋渡ししたのは紛れもない事実だから、まさに都合であるのだから。
幸吉は体勢を整えた。と同時に言いようのない欲望が全身を支えているのを覚え、その証拠を自らの股間に感じたとき、視線の推移が少しも自動ではなくて、反対に制御をともなっていたことに気づかざるを得なかった。
高校の制服姿だった間弓の両脚は、掛け慣れた椅子にあるふうに見えず、椅子へ君臨しているかの蛇のように毒々しく、にもかかわらずはっとするほどなまめかしい肉感を孕んでおり、何度も話頭へ上った双子にまつわる見えも、やはり刷り込みであり、不届きな意匠であり、きっちり敷かれていたのを理解した。
「・・・どうしたの、そんな眼をして。わたしを抱きたいのならそうすれば。あなたの負けね・・・」
そう言いた気な間弓の微笑に幸吉は更なる言葉を強迫的につけ加えてしまった。
「これでふりだしに戻ったようですわ」


[492] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 2 名前:コレクター 投稿日:2019年09月17日 (火) 04時31分

案件というひび割れを愛でる優雅な心象は秋の空へ、鰯雲の映ずる波瀾へ導かれていった。
張りつけたちぎり絵の台紙は青みを失ってはおらず、散らばりそうな予感を集めなおせば、質朴な意想へと働きかけたが、湿度の引いた風に動きはあまり感じられなかった。
審判を受けた受刑者に自由はなくとも、鉄格子に覗く空へ寥廓たる時間を知り、身をこわばらせることに似て。
不義理な言語障害を手招く横着は幸吉の開き直りであり、悲歎との共存であった。
由紀子の急逝を悼むと同時に転落が待ちかまえている情況はたやすく把握されないし、すすんで把握しようという気概も持ち合わせていなかった。そこで思考停止へと逃げ、希薄な時間だけ肌に触れさせた。
自宅にいつ刑事が聞き込みに来るのか、登校すればすぐさま教師に詰問を受けるのか、それを半ばよそ事みたいに思い浮かべているのが自分でも不思議である。この間の過ぎゆきは夢のさなかのようあり、水彩で描かれた迷走する色合いにほだされていた。
そして二日後、もっとも消しがたい符牒であるにもかかわらず、欠席の理由を深追いしなかった今西と校門で出会った。
幸吉が見せるであろう鬱憤と切望の面持ちを読んでかすかさず、
「退院が長引いてしまってね、連絡しなくてすまなかったよ。しかし大変なことがあったんだね」
と、簡便きまわる言葉を投げかけてきた。
すぐに返事は出来なかった。今西の顔をまじまじ眺めるのが精一杯で、それというのも由紀子の死は事故だったと判断されてしまったのか、今日まで何の詮索も呼び出しもないまま疑惑が遠のいてゆく感覚をつかみつつあったので、雲隠れしたかの体裁であった影のあまりに明快な表情に面食らってしまったのだった。
まごついている幸吉の胸の内へ畳み掛けるふうに今西は言った。
「早速だが放課後、家に来てもらいたんだけど。父がそう伝えてくれって。それと姉も君に会いたいそうなんだ。どう来れそうかい」
ほとんど天啓に近いその伝言を耳にして驚喜しないわけにはいかなかったが、由紀子との関係は周知の事実であり、誰かしら噂を流していてもおかしくはない、それなのに何事もなかったごとく幸吉のまわりは平穏な空気に包まれていて、偏見の眼は片隅にも光ってはおらず、悲運を嘆く気配さえどこかに澱んだままなのだろうか、まるで過去の新聞記事のように、ほんの数日前の出来事だというのに、なおざりにされた空気をどう呑み込めばいいのかわからなく、反射的に過敏な神経を逆立たせてしまうのだった。
下駄箱の裏に静子の級友が数人ひそんでいて内緒話しをしていたり、雨合羽を脱ぎ捨てたばかりの瀧川の幻影を背後に感じ、先輩風を吹かしながら声をかけてくる予兆に脅えた。
しかし、闊達なもの言いで意向を問う今西を前にして、単なる反射は確定された流路を照らし得ず、逆に無音であることの空疎な鳴りに浸潤する虚しさを集めるだけであった。
見上げれば夏の渇きとは違った空模様がひろがっている。
須臾の間、相手から眼をそらした仕草を幸吉は慰めとも戸惑いともつかない、放恣な感情で動かされているような気がし、それが例のわずか三秒間の幸福の訪れである実感を抱くとともに、我ながら情けないくらい歪んだ微笑をつくってしまった。見抜かれまいと思いながら、上げた面をつたう涙を溜めるようこらえた顔つきに被虐的な意志を塗り込め、あたかも由紀子の死を等価に引き受けたかの甘い苦渋へと転化させた。
この得体の知れない情趣こそ、幸吉が密かに待ち望んでいたことは言うまでもない。朝の上空から降り注ぐ透明な秋の陽射しよりも、唐突に世界を切り裂く逆光の鶏鳴が脳髄を輝かせたのである。
「ああ、行かせてもらうよ」
ややうわずった調子になったので幸福は三秒を越えて出た。続けて、
「君はやっぱり生徒会があるんだろう」
と、訊いてみた。
「よく、知ってるね。昨日まで休んでしまったから出ないといけないんだ。悪いけど君ひとりで行ってくれないか」
「大丈夫さ」
「それと」
今西が言いためらったので、
「たぶん君が学校から帰るまでには僕は失礼するよ」
「なぜ、急ぐんだい」
幸吉はようやく泰然とした口調で答えられた
「それが手順というものだろう。僕の足は今西家に向かっているんだ。君がいようといまいともう向かってるんだよ」
「まあ、よくわからないが好きにしたまえ」
「ありがとう」
感謝の意と生命の躍動がのどの奥から素直にこぼれた。
授業中、幸吉の視線は黒板の枠内にあって明らかに外側へそれていた。
重要参考人という下げ札は値踏みなしに的確であって、まったくの圏外へ身を置いたわけでなく、取り調べが先送りされている可能性は打ち消せないままに、けれども自堕落を選んだ限り汚名はつきまとい、続く果ての終着駅に悪鬼が仮住まいしていて当然であった。それでもうたた寝が悪鬼を霞ませてしまうように、張りつめた糸は撓みを求める。
安堵と放心にうながされ視力が弛められる以上の、厳格無比とは正反対のうずまきが今現在を取り仕切り、その渦中はさながら銀幕を模して、ある特定の光景を映しだしていた。

昨晩、さほど空腹でもなかったが即席ラーメンを夜食にした。
春先のまだ桜の薄桃色が町並みに淡さを強調しながら咲き誇っていた頃、自宅とは少し離れたとある商店で三ツ矢サイダーでも買って飲もうとしたところ、近所の店内ではあまり見かけない包装の即席麺がふと眼にとまり、それが機関車の古めかしくも無邪気な絵であって、駅前ラーメンという名だったことから、遠足やおもちゃにそそられ、あてどなく無い物ねだりをしてしまう刹那的な感傷に乗せられた連想へたどったときには、これは子供向けの新商品なのかという軽い疑念が動いたのだったけれど、さらにエースコックの文字と豚がコック服を着た標章を認めるにおよんで、以前知り合いの家で食べさせてもらったことのあるワンタンメンがただちに思い出され、きまり悪く濁ったような汁と麺に同調するかのごとき面目を忘れ、なおかつ薄膜の具材がワンタンらしきものであるという明白な事実をつきつけられた、衝撃とも気抜けとも分別のつかない面貌に見入る間もあたえず鼻をついた独特の匂いこそ、例えばニッキやハッカという幾分ませた香辛料を類推させこそすれ、湯気にふくまれた期待を決して裏切らない香りそのものの味わいで充たされており、可愛らしい豚の印にそそのかされた、まさに後味の悪さが尾を引いて半泣きになった勝手知らずの他人の台所の午後がたなびき、同じわだちは踏んではならぬとのいましめもあったのだが、幼い頃より駄菓子やらくじ引きやらで散々の目にあっていながら、性懲りもなく何度でも射幸心は突き動いてやまず、ついつい鮮やかなみてくればかりに食指はのびていたのだし、せっかく駅前ラーメンなどと、これまた記憶の向こうにそよいでいる実際行ったことのある駅前食堂での青い磨りガラスに盛られた冷やし中華が涼しげに浮かんできたり、あるいは祖母に連れられ初めて見知った新装開店の中華飯店における炒飯を食べる少女などの幻影がよぎるのだから、ここはひとつのどの渇きをこらえて手にしたのだった。
あれからすっかり色恋ばかり夢中になってしまい、といってもことさら食欲が減退したわけではなく、日頃から、いや物心ついたときから独り火を使うようなまねごとは線香花火くらいのもので、台所に立って調理まがいの経験もなく、たいがいは長栄軒の菓子パン、バナナサンドやイチゴサンドやクリームサンドなどで空腹をおさめており、小遣いの乏しい日には一番安いせんべいかあられをひとつかみほど売ってもらっていた。
食卓へ上る料理以外のものにありがたみを感じていたのは幸吉ばかりではなかろう。小銭を握りしめ商店に駆け込む際の子供の晴れやかな顔にはあどけない欲望が瞬いている。
三ツ矢サイダーを我慢して駅前ラーメンに固執した理由などたかがしれているのではないか。またエースコックのワンタンメンに絶望を味わった想い出も刻々とうつろって、臭気は品格を問われるまえに味覚を左右する色調に直訴して、盲目的な美醜の捉え方とか、湯気に乗り移ったかぐわしの淫猥とか、月並みの快感とか、よこしまな道理とかに拡散してゆくなら、やがて魅惑の膏薬に痺れる舌になり、微妙な生き甲斐を感じるときがやってくるに違いない。
それにしても昨日までよく封を切らずしまっておいたものだと、幸吉は首を傾げたのだが、直ぐさま実情の雲行きと想像の応酬に何かが侵されていくような気がして、まがまがしい回顧録を塗り替える調子へと戻った。
柱時計が昨日と今日を報せる実務に忠実であったとき、もうすでに昨日ではない記憶は明日を夢見ようとしている。しかし幸吉は今日である昨日を授業の最中に記すべきだとぼんやり思った。
駅前ラーメンは深夜を待っていた。宵待草が名前の由来を語らないように、月見草が意中のひとに手折られるのを恥じるように。
台所のちいさな電球の明かりを受けた機関車の絵柄は白地に赤い輪郭に体よくおさまっている。
あいかわらず豚のコック姿はなごやかに調理を奨励していて心強くもあり、駅舎の時計が九時をさしているのもひかえめで優しく、裏切りなど生じないからと励ましてくれている心持ちがし、袋を厳かな手つきで破れば、安心したまえワンタンなど交じっていないから、という鳴き声が虚ろに聞こえてくるようで仕方なく、もっとも障子紙に糊を塗り付けたふうな代物にはさほど失意は感じておらず、むしろ小柄で勉強が出来なくておっとりした雰囲気を持った転校生と一緒で、引けめを覚えるまえに親しみが居並んでしまいそうなったので、粉末の方の袋を確かめてみてもサッポロ一番に似た色がうかがえ、なおさら親近感は募るのだったけれど、心のどこかでは鮮烈な背信を望んでいるのか、チキンラーメンだのトノサマラーメンだのといった顔ぶれへの退行に陥るのが妙にくすぐったく煙たいような違和をつくり出して、せっかく居並んだ転校生の微笑ましさが損なわれてしまう気分になりそうだったが、どうやらそれは三ツ矢サイダーの諦めによる偽装的な口渇で、なるほど思い切ったつもりだったけど、ここまで来て水分と塩分の調整を学習するとは考えてもいなかったから、小鍋に沸き立つ湯の下に青く燃える火の加減は電球の柔らかな照りと相まって、いっそう台所の隅々に闇を引き寄せ、乾麺と粉末スープの所在はあやふやになり、沸騰しきった湯の泡立ちが放出を催促してるみたいで苦々しく、おそらくそれは駅前旅館という映画に出て来る客引きの滑稽なやりとりや台詞まわしが想起されたせいだろう、そのにぎやかさを実際に知らないくせに変に水増しした光景が焼き付けられる不如意をなじっているのか、すでに写し撮られた映像のひろがりに絶大なあこがれを感じるとともに、出来上がった場面に即す矮小な汚点へ気をとられながら、ゆで具合もそこそこに煮えた駅前ラーメンを食すのだった。


[491] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅1 名前:コレクター 投稿日:2019年09月10日 (火) 01時27分

「残念なことに、わたしはわたし自身の判断力にいつまでも固執することはできない。おそらく催眠状態におち入った夢の意識は、決定をくだすこともできず、その支配と不在の交替のパノラマを見下すべく、おのれを高めることを決意することもないのだ。しかしこの交替は、意識がなくとも、夢の陰謀のただ一つの展開の力によって意識の内部に起こりうる」〜 ロジェ・カイヨワ(夢の現象学)


まったく何を見越していたというのだ。
由紀子のあるまじき死が不動となるにつれ、瀬戸際の遊戯に興じていた性根はものの見事に塗り替えられてしまった。それは当然だろう、人ひとりがなんの前触れもなくこの世から消えてしまったのだから。しかも肌のぬくもりを、いや焼けつくような熱をこの身に残して。
由紀子の死は幸吉にとってこれまで味わったことのない空漠を感じさせた。だが、そこにはこみ上げてくる悲愁も、聞き慣れた哀歌も、無防備な当惑も、砂漠を想わせる風景もなかった。
先日まで触れ合っていた生々しい記憶だけが空洞にへばりついていたのである。突然の訃報を知ったことで、情況確認に奔走する気晴らしが有意義に立ち働いているとも思われなかった。かといって冷徹なまなざしをもって死を厳粛に受け止めようと努めたりせず、半ば瀕死の脳裡へ去来する走馬灯のように性急な場面と経緯を呼びこんでは、重ねて飛び交う風聞に耳を貸して、あれこれ短絡的な憶測へと先走った。
隣の組の男子生徒が叔母から細やかに聞かされた当日のあらましは、まだ尾ひれがついてないと思われる鮮度で校内に伝わった。
その叔母は由紀子の家の近隣に住んでいて、心細くなったろうそくの本数を気にかけ、少々道のりがあったけれど風雨の険しくなる前に商店へ買いに出かけたのだった。ときを同じくして由紀子の母親も路地に赤い傘を開いたところだったので、日頃からさほど懇意ではなかったにもかかわず、不穏な天候のもとへ並んだせいか、会釈以上に距離は縮まり言葉が交わされた。
「かなり接近しているようですね。今夜は大荒れでしょうね。風見さんはどちらへ」
といった調子で台風を懸念する面持ちが気心を通じさせた。
「そうですか、奥さんもろうそくを。実はさっき娘が外に出ようとしていたのでとがめたら、こともあろうに煙草を切らしたなんてふて腐れた顔で答えるんです。だったらついでにろうそくも買ってくるようにとつっけんどんに言ってやったんです。けどろうそくの予備はたくさんあったし、煙草も同じ銘柄ではないけどわたしのが引き出しに入っていたから、日暮れには間があるけど空は異様に暗くなって来たし、危険かなって思い直して呼び戻そうと」
「あら、ごめんなさい、だったらお先にどうぞ」
「すいません。すぐ先にいるでしょうから。あっ、奥さんこそ大丈夫ですか、ろうそくならほんと箱一杯あるんです。あとで娘に届けさせますわ」
「そんなご心配を」
「お宅まででしたらすぐですし、あの子にも反省してもらわないと」
遠慮している間に叔母は風見が娘を追えなくなってしまう気がして、
「ではわたしも一緒に参りましょう。ふたりの方が聞き分けが良くなるんじゃないですか」
と、咄嗟にまっとうなことを口にしたのだったが、異様な空模様にうながされたとしても、親子のいさかいを過大視してしまった感覚には、なんとなく張りつめたものがあるようで仕方なかった。
叔母はのちに、あのときわき起こったたしとやかな嫌悪感を想起し涙したが、降りつけた雨の烈しさまでには至らない情調をしきりと不思議がった。
雨脚が斜めになればおのずと追い人は気を急かせ、家路へついているような錯覚にとらわれた。
だが視界をさえぎるほど暗幕を垂れていない中空に翻弄されているのか、もしくは挑んでいるのか判別し難い竹薮の重い茂りが不気味に左右へ揺れているのを間近にし、その手前を流れる小川の瀬音がいつものひかえめさとは違っているのを聞いたとき、ふたりは顔を見合わせてしまった。
由紀子の母親はわずかな路上に道連れのいることが無性に忌々しく思えてならなかった。危難に遭遇したかも知れないという憂慮がせり出して来るのを押さえきれないさなか、他者が寄り添っていることでなまじ声にあらわせないもどかしさに苛まれたからである。それは反面からみればなり振りかまわず小川をのぞきこむ駿足に歯止めしている大様な楽観をも台無しにした。
しかし災禍に面した感情がひとり歩き出来ないという抑圧は、小川に架かった橋の付近の家並みがまるで櫛比であるような厳密さを温存させている気持ちがして、卑屈でしかない恐懼が首をもたげるのだから、心の底では無事を願ってやまず、野次馬めいた他者には二歩も三歩も退いてもらいたかった。
そんな見苦しい葛藤とはおかまいなしに事態は迫ってくる。
「風見さん、あの傘は・・・」
竹薮のすそに打ち捨てられた体で大振りの黒いこうもり傘が転がっている。腹の骨は雨にしずくに濡れて傷ついた生きもののような痛々しさを溜めており、それが由紀子が家から持ち出したものだと識別するのはたやすかった。
母親は退けたはずの野次馬が眼に見えない姿で捜索を開始するのを感じ、大事にはならず発見される光景だけを思い描いた。このうつろいの早さが最悪の事態に直面する緩衝材の役割りを果たしているのを知りながら。
ある下級生は朝刊を配り終え配達所へ戻ったところ、昨日の台風で増水した小川に溺死した女子高生の氏名まで年配の従業員から教えられた。
由紀子の地区を担当する配達員はいかにも薄明から一部始終を見届けていたふうにことの悲惨を語った。
しかし幸吉にとっての要点は何時に由紀子が家を出て、何時に遺体として見つかったかである。
幸吉が雨合羽と下駄で降りしきる雨のなかへ飛びこんだのは、おおよそ四時くらい、悪天候の外出も帰宅した際にも誰からも見とがめられなかったのが何より引っ掛かったけれど、とにかく災難の時間を明確にしたかった。
下級生が配達所で聞き及んだ情報によると、黒いこうもり傘を確認し駐在所へ由紀子の母親がたどり着いたときはちょうど五時であった。
それから警官と防災係、消防団らが総動員で小川周辺を下るようにして捜索したが、すでに暴風域に入った野外での行動は自由を奪われ、ましてや日没ともなれば松明の炎すら雨風にかき消されてしまい、視野はほとんど閉ざされてしまった。結局、懐中電灯を携えた心許ない探索に終始し、夜明けを待つしかなかった。
水嵩の増した小川の勢いで下流まで運ばれたと踏んだ捜索班らの思惑とは異なり、由紀子は橋のすぐ近くの水面で発見された。額からこめかみにかけてに深い裂傷があったことから、転落による衝撃で失神もしくは意識朦朧となり水死したとみなされた。
詳細は診断結果に任せるしかなかったが、おそらく誰しも傘を手放した直後に事故は生じたと考えていた。
由紀子の母親は自分が殺したも同然だと泣きわめき、周囲から憐憫の情を集めていた。幸吉は悲嘆に暮れるまえにさっとめぐらしておかなければならない案件を抱えていた。
由紀子の母親が実在したという明証を災難のうちに見出したのは、なんとも理不尽でやりきれない。
さて大前提は事故か他殺か自殺かであった。
想像の域は越えれないけれども、通い慣れた道での事故に結びつける要因が得られず、たまたま橋の途中で車にはねられる、またはすれ違った瞬間に欄干から乗り出してしまう、さらには突風であの黒いこうもり傘が風圧を受けて落下した、などであった。
他殺に関してはふたつの妄想が羽ばたいた。今まであの道で会ったことのない瀧川が雨具を着込んで由紀子の家の方へ向かっていたこと、もうひとつは無意識的行動をとった自分自身の犯行であったが、いくら不自然な出会いだとしても安易に先輩が殺意を持っていたとは言い切れず、また自分の犯した殺人に自覚がないというのも心理的に受け入れ難かった。
自殺説に至ってはひと夏の短い交わりであったけれど、由紀子は心身ともに内罰的な傾向の持ち主ではなく、溌剌とした気風に勝っていたから、無論これは肉欲にまみれ、狂恋にやつれた意見でしかなかったが、歯切れ悪さを引きずりつつも、あえて勝ち気な精神と健康にあふれた肉体を信じてやまなかった。
そして信奉まで高まる潮の頂点には心中こそを選ぶべきであったという、諧謔じみた自滅の叫びが負け惜しみのように波頭に砕けていた。怯懦の発する声はどこへも届かない。
こんな愚直な意想を羅列する裏には、由紀子との関係が周知であることに対する怖れがまとわりついていたからであろう。不純異性交遊での取り調べにせよ死者がかかわる以上、寛容なはずはなくかなり手厳しく追求されるに相違ない。そうなれば優等生の誉れは一気に地へと堕ちて、有数の進学などもう望めくなる。
今西家にも捜査の手はのびるかも知れないが、現実には自分と由紀子とがこの上ない交接に酔い痴れたのだから、あくまで自己責任の姿勢で謙虚に振る舞いたい。
満蔵と間弓には一度きりしか会ったことがなく、たぶん由紀子に耽溺している間、今西家では幸吉などの考えもつかない画策が練られており、煙に巻くような対処が用意されていてもおかしくはないはずだから。
しかし重要参考人の正装をまとった幸吉にとって、それで結末ではいささか困る。
一縷の期待は死んでしまった由紀子の面影をあらたに装うであろう、隠し子の女優との再会にあった。


[490] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し14 名前:コレクター 投稿日:2019年09月03日 (火) 02時51分

翌朝の目覚めは不思議な感覚をまとっていた。
不快でもない代わり爽快でもなく、あのたなびくような夢の光景すら脳裡に映じてなかったので、寝起きを綾なす淡くてつかみどころのないもの寂しさは生じず、全身にのしかかる鈍い重みが、といっても夏掛けに含んだ寝汗の微量な感触にしたたるい違和を覚えたまでで、夏の盛りと比べたらさほど鬱陶しくはない。
しかし天井の木目を見つめていた眼が妙にそのうねりを大きくなぞり出した途端、背中から後頭部にかけて火照りがあるように感じ、気温もそこそこあるのに変に肌寒く、思わずはだけた寝間着をかき合わせ身震いした。
微熱がからだの節々を通じてめぐってゆくのがわかり、起床した際には軽くふらついたので朝食の仕度をしていた母に伝え、体温計を脇へはさんだ。
計ってみると38度をすこし越えており、風邪をひいたのやら発熱で調子が悪いらしく、そのまま寝床に横たわり学校は休むことにした。
熱はあるもののべつだん息苦しく咳き込んだり、頭痛や腹痛もなく普段とあまり変わりない具合なので臥せているのが退屈だった。けれどこの退屈には倒錯した煩わしさがひそんでいるように思えてならない。
幸吉は素早く病人特有の悲嘆じみた面持ちを浮かべると、思索する人もまたそうであろう神妙な心延えに傾き、夏の日の出来事を可能な限り客観的にとらえてみるのだった。
ひと事みたく思い返す数々の場面はとても平坦な位置から立ちのぼってくる安直さに守られ、さながら色彩を求めようとしない水蒸気に似たゆらめきがあり、それは手をかざせないほど沸騰した湯かも知れなかったが、主観の持つ鮮明なありようとは異なって、急いて湯気を上げる音も聞こえたりせず、空気中へまぎれていく煙りや、空の青みに挑んでは流れゆく白雲を想起させ、ひろがりによって遠ざかってしまう危うささえ軽減していた。
そして予期していたのかしていなかったのか、どうにも考えの及ばない難問はまるでひこばえのごとく春の目覚めに立ち返り、回想が夏のさなかであるにも関わらず、太陽を讃えた遥か水平線には四季が眠っているのだと大きな発見でもした気分になる。
悩ましい肉欲は消滅しなかったが、神秘のあり方は心痛の種というより怪訝な表情を幾通りにもこしらえたので、交わりや関わりから生まれた実情は皮肉なことに遊戯が孕む気軽な方向へと吹き流されていった。
壮大な夢が叶う手前に、強烈な色仕掛けが頓挫する近くに、込み入った内実が瓦解する場所に、ひりついた神経は寄せ集められることなく、むしろたどたどしい言語をあやつっている外国人のような見た目の朗らかを映し出していた。
やはり熱のせいだろうか、間弓、静子、由紀子の顔が乱脈にあらわれてくる。
気がつけば天井の木目のうねりに呑まれ思考の規律はなおざりにされ、楽しみの裏側にある悔恨みたいなささくれが宙へ延びてゆくのだけれど、あの肉体は質感を視覚に十分すぎるくらい切迫し肥大して、もはやどの女人のからだなのか判別つかなくなってしまい、そこではじめて息苦しくなり、半ば眠りかけていた状態だと知るのだった。
知恵熱にうかされた乳児が聞き慣れない言葉に取り巻かれるように。
翌朝までの時間は退屈とうらはらにその速度を高め、無為な一日を標榜するにふさわしかった。熱が平温まで下がったとき、幸吉はようやく発熱の原因に思い当たった。
客観などと逃げ口上な意想が働いたのは、弁明を欲する脆弱な意識の空回りであるはずだったのだが、所詮は今西家も由紀子も逃げ出してしまいそうで仕方なかったのだ。
もちろん彼らが去ってしまうのではなく、執着という魔物に魅入られた欲望を切り捨てられない怖れが幸吉に襲いかかっていたのである。
今西から父親の情況を告げられ納得した面持ちではあったけれども、心の底では一日も早く事態の究明を急ぎたく、由紀子の懐妊だって同様、すべての懸念を一掃したい衝動に駆られて、まぎれもない現実に目覚めていたのだった。
ふたたび堂々巡りをたどる自分に対し腹立たしくはあったが、執着を引き起こしている自己愛こそ焦燥の証しであることを悟り、このまま日曜日まで休んでおこうと考えたりした。
窓の外のけたたましい雨音に驟雨の短気なそれとは異なる愛着を連想して、石川啄木の句「秋立つは水にかも似る 洗はれて 思ひことごと新しくなる」を口ずさんでみた。
その夜テレビの天気予報では秋雨前線が張り出しており、大型の台風も接近中だと報じていた。前線の発達でしばらく雨は降り続き、まだ離れてはいるがあきらかに台風の影響を受けていた。
日頃より天候などあまり気にかけてなかった幸吉だったが、すでに風も強まり雨粒の地面を叩きつけるような猛威の兆しに、啄木の読んだ句とは違った激しい情念を感じていた。
このまま暴風域に入ったら休校になるだろうし、押し殺した熱情は砕け散る波しぶきのように行き場のない様相を呈する。しかし煩悶の叫びは自由の翼をあたえらえ、鉛色に垂れ込んだ不穏な空へ向かって夜を呼び寄せるのだ。特別な夜を。
幸吉の高揚した意識に描きだされるのは、雨合羽と長靴で横殴りの雨のなかを駆けてゆく一途なすがたであった、不純極まりない動機を胸に。
やさぐれの由紀子ともう一度だけ逢いたい、時化る夜こそ、このあてどもない心情に即しているのではないか。
案の定、翌日なると風雨はますます荒れて休校になり、今西家へ往く約束の日曜日にちょうど上陸、そして通過する見こみだと予報はなされていた。
雨戸はいつになく慎重に軋んだ音を立て滑りだし、窓ガラスに照る光線をほとんど無くしてしまうと、外側より角材の横木が添えられ、尚かつ隙間らしき緩みへは薄い板が釘づけされた。近所からも似たような金づちの音が飛んできて、どことなく厳粛な静けさに被われていた。
これで強風の煽りと過分な湿りを含む外気を遮断したつもりなのだが、部屋の隅々まで淀んだ湿気は解放されるまで居座りを決めこんでおり、にわか作りの夜の雰囲気を醸している蛍光灯の白々しい明かりを速やかに吸収してしまうのだった。
それでも夏日の頃に比べればいくらか蒸し暑さが引いていたので、外出禁止令の緊張をまやかしほど加味された密室的な閉鎖感には不逞の華やぎが住んでいた。
それは未だにのぞき見るのがそら恐ろしい気のする仏壇の奥や、廊下の端に小さく開いた節穴の暗黒や、日が暮れると一層不気味さをたたえる便所や、はがれ落ちることを厭わない土壁の傷などと同じで、呼吸の質を一瞬にして変えてしまうような異界のしきたりが家のなかへ交じったのであって、幼心が呼び戻されたのか、はたまた郷愁と色香の混淆が古びた気配を高めたのか、いずれにせよ性欲とは縁のなさそうな情景に却ってみぞおちから下のあたりを疼かせるのだった。
停電にでもなろうなら尚のこと、あらかじめ用意されていたろうそくの頼りないともしびに無上の親和を募らせれば、ゆれる影と吹きつける暴風との因果に立ち迷った恬淡な心象が、煙りのごとくあがってくる。
上空に渦まく風雲のわだかまりが過ぎ去るのを願う一方で、もっと激情に触れるような禍殃を密かに胸裡へ沈めている。
それが背馳であり本心でもないことを認めながら、何故かしら童心にとらわれたまま無邪気な託言を憎んだりできない。ふと幸吉は静子と触れ合った防空壕の闇を思い返し、あのろうそくの灯りが抱いた不安定な影に、接近しつつある台風の足音を聞いた。
幸い停電は起こらず時化具合も甚だしくはなかった。ときおり空に響きわたる轟音は凄まじいけれど、あたかも龍神が踊り猛り瞬間風速を競っているような趣きさえ惹起されたので、次第に幸吉は肩息を荒げはじめた。
発熱にほだされ迷宮の路地へと歩み入り、夢想の軒端にたたずんで、見上げた銀幕の彼方へ今こそ突入するのだ。かつてこんな悪天候に外出したことはなかった。雨戸は堅く閉ざされ、暗がりは圧縮され、恐怖と祈祷がまかり通る密室へと仕立てられている。あるいは明澄な意思だけがそよぐ花ざかりの獄舎に変貌している。
どういった口実で由紀子の家に走っていけばいいのか。思案にくれている暇はなかった。
「ちょっとその辺の様子を見てくるから」
誰の耳にも届かない独語が放たれると同時に裏木戸を抜け、小康に煙っている雨空へ勢いよく駆けていった。自分でもあまりの衝迫に驚いて言い捨てたかこつけを忘れていた。雨具を羽織って出たまでは良かったが下駄履きの足にはすぐさま泥水が跳ね、一瞬出直そうかと考えたけれども、濡れた鼻緒は案外しっかり指の腹を引き締めて雨脚の強まりに応じた。
白濁した空模様は稜線を曖昧にさせていたが、由紀子の家へと続く道なりは夏草の緑が雨にまぶしく、時刻さえ当て難い景色に染まっても裏山の樹々は望めた。
風のうなりが地響きのように伝わってくると、さすがに身震いしたけれど、信じられない駆け足でここまで突っ走って来たのがなんとなく頼もしくて、あの見慣れた玄関にも雨戸が引かれているのを認めたとき、不甲斐なさへ歩み寄る等身大の矜持を感じるのだった。
人気のなさはまわりの家並み同様、息をひそめている様子だったので、取り急いだ気抜けは突風との出会いに曲芸師の面影をよぎらせ、不敵な微笑へ落ちつかせた。
それから先のことごとを幸吉はまだ熱に冒されているとしかない想いで綴った。心象風景と悲劇の邂逅、矜持を支えていた胸騒ぎ、台風一過。
灯火がもれていないか確かめる勇気の裏に隠れたもの、ただひたすらに逢瀬を願い風雨の激しさに同調した思惑。果たして由紀子の母は在宅なのか、そうであれば証明の一環として顔を見てみたい。
ここまで自分を突き動かした意想に宿るちっぽけな野心を知った。幸吉はためらわず家路についた。
途中しっかり雨具を身につけた人影に会った。向こうから声をかけてきたのでそれが瀧川とわかった途端さらに衝動が疎ましくなった。
挨拶もそこそこに路地を離れ踏み切りを渡り、たたきつける雨の束を浴びながら裏木戸から部屋へ舞い戻った。動悸は鎮まり呼吸も乱れていない。考えあぐねる事態は潔いほどに上陸を告げた台風がさらってしまった。
その夜の眠りは浅く、しかし遠浅のみぎわに広大な海域の眺めが属しているよう、幸吉の虹彩は色に溺れた。
翌朝は晴れやかな陽光が生真面目なほど町並みを照射した。すでに月曜日、教室内を探る視線は今西の姿であったが見届けられないまま授業は始まった。
休み時間、生徒らのざわめきから昨日の台風で水死した女子高生のいることが判明した。幸吉はそっと眼を閉じた。刹那、江戸の昔、簀巻きにされ河川へ放り込まれた女郎の死体がまぶたの裏に浮かんだ。


[489] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し13 名前:コレクター 投稿日:2019年08月27日 (火) 02時58分

もし昨晩の夢が尾ひれをつけて朝の光景を占っているとしたら、なんと折り目正しい所作にかかわっていることだろう。
夏休みが終わった実感はさして慌ただしさを手招いているわけでもなかった。
休み中いつもとなんら変わりのない朝食を家族と一緒しては、陽の強くならないうちに勉強しておく習慣が守られ、ありきたりな日々はそつなく過ぎていた。
進学をひかえた身であることは別段ひきしめなくとも、おのずと降り掛かってくる火の粉を想起させたけれど、それは危険に傾倒した情痴がもう過ぎ去った嵐であったことを回顧するために要請された、火傷にはいたらない軽微な刺激に終始していた。
不健全な思惑は生活に迎合するかのように建設的な気構えを見せたりする。
それより父も母も祖母も絶対に思いつかないだろう女子高校生との肉体関係、中学生の身分を淫靡に侵蝕して事態の終息すらなおざりにされている実際を露見させまいと、格別つとめているわけでもない安楽さに我ながら呆れてしまった。
町中すべてではないが由紀子と歩いた距離は短くはなかったので、散見した人影は舞い上がった気分と同調するように、潮風やほこりに隠されてしまって、風評など意に介さなかったけれど、おそらく学校内にはすばやく醜聞が届けられていてもおかしくはない。
校門を抜ける足付きへ武者震いが襲ったとして、それは確信犯の心中に去来する不毛の居直りでしかなかったから、胸の動悸こそはためく狼煙であるべき、たとえ冷ややかな目線を受けようとも、嘲弄の的になろうとも、負の感情を一身に背負うような悲愴な顔つきはせず、たた一点を凝視した。
昨夜の予習に則った冷静な今西の表情だけに出会えたらよかった。
なぜなら彫像のごとく佇むその姿勢こそ、幸吉自身を映し出す醒めた情熱に関与する、あるいは現実と幻想の境目で気高く悶絶するきわめて豊かな可能性を秘めていたからである。
非常に取り急いでいるにもかかわらず静止画に見入ってしまう焦点の機能がそこにはふんだんに集められている。今西がもし人並みの動揺をあらわにしたなら、間弓の取り組みだって、満蔵の妄念だって、由紀子の淫奔だって、なにもかも価値を失い無に帰するのだ。
が、幸吉の怖れは杞憂であった。
登校時から意識が宙に浮いたような感覚で、もはや人目を気にかける暇もなく今西の顔を見出したとき、すべては氷解した。
「やあ、おはよう」
声の抑揚にいつわりはない。簡素な響きを待っているような冴えた予感が聞こえてくる。幸吉はいきなり切り出した。
「おはよう。君の家へ又お邪魔してもいいかな。もう知ってると思うけど風見由紀子という高校生のことで」
「ああ、わかってるよ」
「そうかい、じゃあ、話しは早い」
ここで証明と言いかけて幸吉は思わず口をすぼめた。すると今西はいかにも手際よくこう言い返した。
「それが家に来てもらっても父も姉も居ないんだ。実は先週から父はM市の病院へ入院していてね、明日帰ってくる予定なんだけど。それで姉も今朝から迎えにいって留守というわけなんだよ」
「全然知らなかった」
幸吉は心底拍子抜けした。包み隠せないくらい落胆した。
「君はどうして今日までためらっていたんだい」
あきらかに冷ややかなもの言いなのだが、嫌味や辛辣な含みは感じず単に自分の鈍さだけがうとまれた。ひたすら鋭利な刃物を研ぎ続けた薄のろさに気がついた。
今西の冷静さは想像、いや理想を凌駕していた。
「とは言っても君だって大変な思いしてるんだろう。だったら今度の日曜はどう。幸い大した病気じゃなかったんだ。けど二三日は様子を見たほうがいいから、少しくらいは待てるよね」
「当たり前だとも。いつでもいいんだ、とにかく君の家の事情を知らなかった僕が悪かった。来週でも再来週でもかまわないよ。訪問を許してくれただけでうれしいよ、ありがとう」
「とにかく日曜日に来ればいいよ。ちゃんと段取りはしておくから」
段取りという言葉に幸吉は奮い立つ自分の分身をぼんやり眺めているような錯視を得た。
校内の雰囲気に異変をうかがえないまま、杞憂は強迫観念へ高飛びすることなく、反対に張り合いないほど順繰りとめぐって来る新学期の空気を深く吸いこんだ。
夏の終わりを認めるには陽射しの衰えはまだ明確ではなかったし、生徒らのざわつきは蒼空へ浮上しており、運動場に置き去られた一個のボールは広闊をなじる勢いで自らの球面の孤影を濃くしていた。
通りの良い涼風をはねつけるようにかしましい音を放つ油蝉に見初められた樹々は焦げ付いた熱気を漂わせ、これから夏休みがふたたび始まるのではないかといった錯綜の根を地面に這わせている。
そして夏空を占拠しようと努めた積雲の盛り上がりが幾らか減退した遠望に幸吉は学校の自然を感じた。
由紀子も今西家も別に逃げ出すわけじゃない。
はやる気持ちとひりつく感覚を好個にまとめあげた自負心は現実逃避の命令に従って、揺るぎない情痴を確立すべきだと謳い、虚栄を踏みにじる仕草に溺れてはみたものの、結局は際どい綱渡りの危うさの傍らに瑣末な紐帯を炙りだしてしまうのだった。
情交の手ほどきに応じてめざましく官能のこつをつかんだつもりで由紀子のうしろを攻めた際、これまで味わったことのない征服感みたいな絶頂を覚え、すかさず不良の先輩瀧川に対する記憶が想起されると、淫らさを投げかけるような傲りと誇示へ結びつけたが、さすがに校内では生々しい体験を語ることは出来ない、
そこで不良がなんらかの悪さを得意がるふてぶてしさの顔つきだけでもまねてみたかったけれど、どだい幸吉に似つかわしいはずはないので、増々もって陰にこもったぎこちない矜持をひねり出すのだった。
日記へ書かれた暗号めいた文字の羅列はまごうことなき事件簿を欲していた。
さて級友たちの警戒的な目つきや動物的な鼻の連動を予測したまでは正しかったのだろうが、まわりの反応といえば、まるで消し忘れた黒板の字のようにありがたみの欠けた白々しさを保っていて、失望など願っていなかったけれど、なにかしらもの足りない心持ちがして、失望している素振りをかたどることで帳尻を合わせたふうな均衡が求められた。まばらでも調子はずれでもいいから注視されたかったのだ。
ぶざまに転んで擦りむいた手足の傷を間抜け面で見せびらかす、まったく成長のない無垢さ加減で。
しかし考えあぐねていたときだけが華であり、実習は不遇を計測していたという案配だった。
そんなありさまだったから無心で始業式の列に立ち、邪念にとらわれず授業を受けたとは言い難く、決してむきだしの肉欲をのぞかせていたわけではなかったのだが、下校時には殊勝な心延えは霧散してしまい、由紀子の家へと勝手に足が向いているのを自覚し愕然となった。
まだ自覚しただけ救われたのかも知れない。くだらない矜持もまた無節操な色欲の歯止めの一翼を担ったのである。
わずか半月あまりの交わりがこれほど日々の安寧を切り裂くとは思ってもいなかった。女性の肉体の裂け目が神秘に包まれなくなる現実の鮮明さは、幸吉の足をすくうに十分だった。
さらには急峻な坂道を転げ落ちてなお余勢の鎮まらない諏訪の御柱祭を彷彿させたりと、底抜けの危殆を我が身へ宿し、感心しはじめるのだから始末に負えない。
今日の放課後には今西家を訪ねていたつもりであった幸吉にすれば、執行猶予に似た間延びを埋め合わず意気込みが必要だったので、いやおうなしに由紀子の裸がまとわりついてくる。
卑近な残像の影が色濃く険しいのは当然であって、断ち切るのは至難だと案じれば案じるほどに、もしや役割りを果たした由紀子がその仮面をはぎ取り出向いてくるのではという、魔性の香りを一滴したたらせてみたけれど、さすがに実りのない願望とあきらめつつ、ふたたび面会する間弓と満蔵にはどういう文句が一番ふさわしいのか、実はあれこれ巡らせている時間がなによりも鮮度を留め置いているような気がして、肉体への渇望もまた失われた想い出に大きく作用するにちがいない、そうであるべき心術をまるでひと事みたいにかいま見るのだった。


[488] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し12 名前:コレクター 投稿日:2019年08月19日 (月) 21時47分

焦点を取り逃がしてしまった悔恨が先走っている、その心もとなげで浮ついた薄い笑みを露わにすると、夜にゆだねた由紀子の影は怖れを知らない揺らめきにゆっくり応じていた。
ちょうどまどろみから見遣る光景を渡る風に、かすかな受諾が引っかかっているように。
吹き流されまいとしてあらがうのではなく、袖振り合った宿縁を盂蘭盆の波に乗せ、潮の香を忘れ、明日の蒼穹に懐かしみすら覚え、炎天下であぶり出される煤けた木屑の想いへまぎれた、あの宵闇の仄かなともしびを見送る静けさに包まれて。
「証明なんてないわ。あんたが探してくれたらいいのよ。それでいいのよ」
これ以上の真顔を由紀子は面にしたことはなかった。
意を決し吐いた熱情に誠実さを欠けているせいだと幸吉は落胆しかけたが、意気盛んな情感ほどひとりよがりなものはない、これまでの投げやりな態度が由紀子に投影されたのだ、散々孕ました欲望は憂愁や哀切の気分とはおかまいなしの機械的な精緻さで無縁を知らしめる。時計に迷いはなかった。
その夜のいくらか浮き足立った、悲劇めいた煩悶と葛藤は別れを彩るに申し分なく、これまで聞き及んでいた性体験の突発的な昂奮が気恥ずかしさと一緒に逃げ帰ってしまうほどで、なるほどこれが春機の気ままなのかと、大風呂敷ひろげ構えてしまった未熟さを痛感するのだった。
きっと大人になればもっと粘着質で大仰な注意深さが求められるのだろう。子供の遊びが早回しの場景にどれだけ埋没して小気味よくとも、夕暮れは明確で清潔な帰宅をうながしたように、時間の過ぎゆきに狂いをねだることは出来ない。精々勝手な狂いを演じるまでで、しかも煩雑な手続きと気配りが必要になる。
由紀子の告白は無垢な児戯であった。幸吉は初めて観た映画にもかかわらず、二度目だと言い張る不遜さで機械仕掛けの魔性を笑殺しようとした。
新学期をひかえた学校の門に今夜ほど胸の動悸を覚えたことはない。
さぞかし寝苦しくいたたまれない気分に苛まれるだろうと、夜気をへばりつけた天井の暗い木目に眼をやれば、これまでの一連の出来事がひときわ重くのしかかり、案外と悪びれたりせず平気な心持ちで過ごした事実の群れがいっせいに悲鳴をあげているように感じた。
悲鳴といっても金切り声の鋭利さに爆ぜることなく、もう少し穏やかな、遠雷にも似た祭礼の囃子が醸す到来の、ある種せり上がってこない不安と妙なもどかしさが内包された、どんよりした雲の裂け目から聞こえて来そうな響きであった。
ぼんやり見上げた暗い木目の不明瞭な加減は夜の力を得て、幸吉の罪悪感を曖昧にしながら、そのくせ牢乎とした倦怠に縛られていたので寝苦しさに変わりはない。
ただ明日、快速列車へ乗りこむような軽やかな気分を布団の下に敷いているのが分かり、必ずしも汚水の淀みだけにとらわれるばかりではなくて、相殺するに足りる冒険心が一条の光と戯れており、その浅い水底に透ける瑞々しさに心ときめかすのだった。
まだまだ暦がたどれぬ晩夏の空は秋めいた風を巻き起こせず、始業式に整列した生徒の表情にはまぶしさが反射していることだろう。体育館の床は磨きこまれたような輝きが塗られていたから。
そのときの幸吉はあきらかに由紀子とのまぐわいを下半身にたたえていて、悔恨とはうらはらのいたいけな自負を抱きながら残照に酔っている。ことの善し悪しにはおかまいなしの眼を細める為だけの照り返しによって。
教室内ではようやく顔を合わせたふうな調子で今西に声をかける。
あくまで簡潔に、たとえ飲みこめなさそうでも要領だけ伝わるよう語気を強める。姉の意向によって由紀子と情交し懐妊を告げられたこと。決して企てだったなどは言わず犠牲者の面持ちも見せない。実際にも犠牲になった覚えはないし、むしろ素晴らしきろくでなしたちのお陰でどれだけ胸が弾んだことだろう。
だからこそ今西との向き合いは毅然とした姿勢で臨まなければならない。
当然ながら明敏な今西は驚きを表わすものの、感情的な謂いを発することなく幸吉の申し出を受け入れる。
「放課後は生徒会の集まりがあるんで一緒に帰れないよ。君ひとりで家へ行けばいいさ」
そう都合のいい文句が飛び出す。この場面は何度もまるで予行演習のように繰り返され、その都度溜飲が下がる。まだ何も始まってはいないのに。が、切り口であることに間違いはない。
今西家を正面に見据えたあたりで妄想の鮮度が弱まった気がし、それは夢うつつをまたいだ足どりだったと意識がおぼろになり、さきほどの罪悪感と同じ系列である自省の念が顔をだす。
けれども眠りの水際にたたずむ足の先が意識をつかさどっているのであって、濁り水と清らかな水の区別のつかないうちに、ぼんやりした悪夢のような形骸はなんとか言葉を編み上げるのだが、その字義は解体されたまま視界を泳ぎ、焦る足先が踏み散らすしぶきにかき消されてしまう。
うつらうつらの枕元へ鎮座するのは大局を真っ向から粉砕したとろけた脳みそである。
その脳みそが考えているのだから切迫した紋様は心地よく歪み、昂奮する野獣に麻酔が打たれるよう、狂人に安定剤が投与されるように、束の間の安寧は約束されて朗らかで軽い空腹や、牙を抜かれた衝動的な物欲の乱舞や、肉体を持たない色欲の行進が、薄ら寒く残暑の夜へと忍びこむ。
「汗ばんでいるな」
という言葉が突いて出たのならちょっとばかり目覚めたのか、あるいは脳内の揺れ動きなのか、いずれにしても由紀子の面影は水面に漂っており、それは日中精一杯ひねりだした思案をあざ笑うようにぎこちなく別れの場面を映しだした。
不実なもの言いで翻弄された身であったけれど、いつも通りに由紀子は玄関先まで見送ってくれ極めて礼儀正しい接吻を幸吉にあたえた。
そこには軟体動物を思わせるぬめりや油分の働きはなく、どちらかと言えば渇きを近づけたような体温さえ低下した冷ややかな感触であった。不意に今西家の客間で受けた間弓のくちびるが思い出され、微かになめくじのような粘液をよぎらせた。そして矢継ぎ早に静子とのままごとめいたくちづけが、あの洞穴の闇に照らされ桜色の情炎で染めあげる。
ただならない官能という装置・・・めぐる血潮に意義を見出し奔流する回転軸、眠りと生誕をはぐくむ激動のうねり、冷却装置を装った原始的な焚き火、熱帯夜に常駐する氷の彫刻、風鈴の音をまねる舌足らずの詩人、欲望を切り捨てようと努める新たな幻影による甘く苦い清涼飲料水、すぐに傷を浮かばせる透明な瓶、自由を謳歌する水道蛇口、露悪家の栄光を讃える下水の暗がり、偽善者にすり替わる側溝の列なり、夜への跳梁。
少年の心にも風物詩はあった。
幸吉は小学生の頃の夏休みを夢みていた。近所に物音の通らない休日らしい午後の気だるさ。疾病とは無関係である健康的な疲労、海水浴からの帰宅。連れてもらった父親のすがたもなく、なぜか誰もいない家の中、扇風機はその使命に忠実なあまり、すだれに寄りかかったそよぐ風の気配をなだめている。
鼻孔に残されているかも知れない白砂が海の匂いを失わせまいと、その微粒の土産に小宇宙を描きだしては、座布団を枕にし畳に波の起伏が刻まれるのを感じ、まぶた閉じれば遥か水平線を横切る晴れわたった青空に出会う。
海原へと連なる紺碧の遠望を我が家の一部屋に映してみる波間の残像。記憶をなぞっているような冴えた意識を侵蝕する柔らかな話し声。とりとめもない対話が水鳥に運ばれる予兆。眠りの深度と遊戯との透明な拮抗。
あの夏がどう暮れていったのか幸吉は思い出せなかった。忘れてしまったというより供物のごとく神聖であったから。


[487] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し11 名前:コレクター 投稿日:2019年08月06日 (火) 02時03分

わざとらしい笑顔にかたづけられる面映さが部屋の空気を束ねていた。
由紀子は煙草をゆっくりもみ消して、汗に乱れた髪をかきあげながら言った。
「あんたは年齢的にまだ子供だから仕方ないわ。それにわたしがそそのかしたわけだしさ、始末は自分でつけないと、本当はしばらく黙っているつもりだったけど、明日から学校だしね、あんた進学先はもう決まってるんでしょう。優等生だって聞いたわ、だからっていうわけじゃないけど、なんか足を引っ張るようなまねはしたくないのよ、あんたのこと嫌いじゃないもの、でもね、このままでいたらきっとわたし、あんたを離したくなくなる」
意思表明なのだろうが、語尾に微かな傷心をなびかせている。弱年である身を嘆くのは幸吉の特権だとは限らず、むしろ悲愴な宿命であると、か細く訴えかけている。
男女の機微をかみしめるほどの知恵はなかったけれど、幸吉には由紀子のやさぐれた気持ちがなんとなくわかった。荒削りでささくれたった優しさだとひとり納得してしまい、新鮮な抑揚を感じた。
「そんな顔するなっていうのもおかしいけど、驚きは必ず待っているものよ」
由紀子は一条の汗を額に光らせ眼を伏せた。それが情念の末路をたどった無声で薫らせている素振りなのはすぐに解った。
どうあってもやはり自分から斬り込まなくてはいけないのか。
わずかの間であったが動揺は自分を裏切ったりせず、相手の言葉に忠実な反応をしめそうとしていた。
けれども予感がぎこちなくかすめ取っていたのは、妊娠したという由紀子の激白にではなく、姑息なりに謀られた締め切りまぎわへと漕ぎ着いたような成果であり、その首尾にほくそ笑む間弓の華やかな奸知であった。
懐妊を告げた時点で由紀子の役割りは終わる。
あとはふたたび女優なんぞに惑わされないよう卒業までほどよく友誼を匂わせ、なぐさめなりを提供すればよく、驚愕にしおれた幸吉ともはや濃厚な情を交える必要はなかった。
肉欲が受胎とが、たとえ真誠であっても不実であっても結びついているというこのうえない節理を知り、晴れ晴れした現実に目覚めてもらえば、今西家の池へ落ちた波紋はこれ以上ひろがることなく安泰に終息する。
もちろん妊娠の真意はさだかでない、かような事実は急こしらえの問題提起に似たうさん臭さの中で発酵しているのであり、芳醇な美徳へよろめく心性の裏には捏造による有機物が幽香を放っていて、ことの是非は改められるまでの猶予を謳いあげ、あたかも張りぼての人形へ恋慕したような虚構を成り立たせている。
かりに百歩譲って本当に身籠ったのなら、それはそれで動かし難い賜物となり、いくら由紀子が奮起を唱えてみても事態はかえってもつれてしまい、幸吉の進学はおろか彼女自身の立場すら危うくなってしまう。
が、間弓から姉妹であったなんて秘密を打ち明けられたとはいえ、果たしてそこまで尖鋭的な姿勢をつらぬいたりするのか、意表をつくにはあまりにその場しのぎであって、そんな内聞をすんなり受け入れたとは思えないし、どう考えてみても、すでに隠し子などのひそむ余地のないのは、幸吉が芝居じみた迷妄と見限ったときより演算すれば一目瞭然、瘋癲にして宿痾に見込まれた白髪痩躯の老境をさまよっている満蔵のいったいどこに、鬼畜じみた精力が眠っているというのか。
もっとも子種を節操なく残そうと努めた頃はまだ世の亀鑑であり、反面若き淫蕩の血をたぎらせていただろうから、現在の相貌に寄り掛かるべきではない。いや、今も昔も簡単に人物像などを浮かべる方が無益である。
「わたしね、どうやら満蔵の娘らしいの。ほらあんたが夢中になってた女優と一緒なわけ」
ふりだしは遊戯でしかなく、遊戯は面影を作り上げ、面影は堂々巡りを欲するのだ。
詮ずるところ間弓の安直な戦術が功をなしたのであって、気立てのよい由紀子は翻弄されることを厭わず、手先となって大義めいた渦中へ勢いよく飛びこみ、空々しい血の薫陶を甘受していたと判ずるしかなかった。
いずれにせよ、無邪気な鎧を身につけた由紀子の出方には揺るぎない筋が通っていて、これはまったくの失態であったのだが、全面的な追従を、つまり欲情に溺れた自己でありたかったゆえに、こともたやすく承認してしまった交渉をいまさら撤回しづらく、どう見直しても遊戯の最下位に押しやられた感は否めなかった。望んでへりくだった口角へ不本意な微笑が隠れきれないように。
「そうします。由紀子さんには決して逆らわずですね」
言質はひと足さきにとられてしまっており今後、由紀子にあらがえない構図が提出されていた。
しかし、その構図にはことさら数奇な血を吸った形跡は見られず、今西家の内幕に加担したというよりも、自らの素性を露呈したいがため衝動に従ったような偏狭さがうかがえた。
「馬鹿ねえ、明日もいいって言ってるじゃないの。信じてくれないのね」
まるで永遠を誓い合った恋人同士の息づかいに、その毛穴から香り立つ甘言を分かち合うような趣きに由紀子は導いてくれた。
「いいのよ、今日はだいじょうぶな日だから」
にもかかわらず現実に見事な裏切りをなし遂げさせた。
荊棘に鋭い光を結わえさせておきながら、恋情の墓場を徘徊する倦怠に取り憑かれた夫婦の情景を近未来的にあぶり出す要領で、妙なる呪文が急激な錆つきをもたらすよう、暗雲は通り雨を呼びにごり水となった。
由紀子の描いた構図はむしろ血を汚水で洗うような忌まわしさを蔵し淀んでいた。
「わたしのおかあさんって帰ってこない日もあるのね。あっ、ごめん、急に家のことなんか」
あれがもしひとつの演出であったなら・・・そうだ、自分は由紀子の素顔をほとんど知らない。
淫靡な姿態が魅せるつかみどころのなさだけに頼っている。裸体を開きむしゃぶりついても、下半身の威厳を犯してみても、やわらかく湿った割れ目に埋没してみても、あるいは嬌声が耳障りに聞こえるとってつけたふうな沈着さで向き合ってみても、やはり何を考えているのかは推し量れなかった。
第一さきほど思い返したように、由紀子が理解されるのでなくて、理解が由紀子を向こうへ向こうへと押しやっているのを浅はかに了承していたのだった。それがいかに重宝されたかは言うまでもない。
とにかく肉体にまみえるのが精一杯で、高校生の制服をどれくらい着こなし、あるは着くずしているのやら、勉強はちゃんとしているのやら、異性も含め何人の交友があるやら、煙草は常用しているのか、酒も飲んだりするのか、普段はありきたりの顔で教室の空気になじんでいるのか、冗談を言い合ったり、些細なことで腹を立てたり、放課後は繁華街をうろついて仲間内と目配せの挨拶をするのか、大人の男と遊んだりするのか、そして時折意味もなく笑いだしたりするのだろうか・・・
不良なんて噂の出処を調べもせず、いいかげんな陰口を鵜呑みにしていたし、そのほとんどが好色にまつわる大げさで品のない目線にゆだねられていた。
そう言えば瀧川の素行だって分からず、まれに下校時らしき姿を見かけたりしたが口をきいたりすることはなかった。それでも外見から成育ぶりはうかがい知れた。
丸刈り坊主頭の頃とは異なり、艶やかにうしろへなでつけたリーゼントが小意気だったし、いくらか童顔で穏やかそうな顔だちには不良気質と無縁であるべき白皙の美貌が湛えられていた。
粗野で強面を売りにする他の先輩に比べれば遥かに親近感があり、由紀子同様に年長者の醸すまぶしさと抑制された憂いの雰囲気が備わっていて、一人っ子の境遇から仰ぎ見る感じはおのずとふくらみ、それはちょうど由紀子に姉の一端をかいま見ることと一緒で、瀧川にも兄のそれが透けて見えるのだった。
不良という剣呑な佇まいに内包されているのかどうか定かではなかったが、他者を素朴に慕う気持ちはどこかしら清々しく、こころ弾ませた。
それはさておき、通いつめた風見家に母親の影が現れなかったのはなにか底企みによるものだったとしたら・・・
型にはめられた中学男子の抵抗はこうして欲情に置いてきぼりを食いながらも、果敢にも突破口を見出そうとしていた。
刃はもろくとても快刀乱麻に及ばなかったけれど、想像を越えて事態が入り組んでいることに驚いた幸吉は由紀子に詰め寄った。錆ついて汚れた怒りや憎しみではなかった。
現実から裏切られ見離されても、この世にあるはずのない姉の化生が謎を教えてくれそうで、しかも瀧川をつらね幻像が瞬くのであれば、さながら弟のわがままにじっと耳を傾けてくれるような、たおやかで悠久の情趣に酔い痴れるしかないだろう。
で、切り出したのは幸吉だった。
「ねえ、由紀子さん、満蔵氏があなたの父親で、間弓さんとは腹違いの姉妹だという、何か証明はありますか。うたぐるようですいません。真実がどうであれ僕はあなたの役に立ちたい。夏の終わりがすべてを完結させるとは思えません。あした学校の帰りに今西家の方へ寄ってみるつもりです。その前にもし迷いがあるなら話してくれませんか。どうかお願いします」


[486] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し10 名前:コレクター 投稿日:2019年07月29日 (月) 05時30分

底抜けの笑いは本当におさなかった頃、自分という存在の確信などいらなかった光景のなかに、四季が織りなすであろう風物のあてどなさの彼方に霞んでいた。
指折り数えてみる慎重さが思いのほか胸になじまないのは、ことの起こりをすでに割り切っているせいだろうか。
香しい頽廃とどこかしら浮ついた横柄さを真に受けて、女体をかきわけたのも、まっとうな考えを放擲したのも十全と見切った掛け合いであったから、放蕩の血はさほど大仰に沸騰するわけもなく、微弱な意欲のはねっ返りに終始する。
夏休みはいつまでも児童たちに浸透するあの空色の揺籃であり続け、決して褪せたりしない。幸吉が引き受けるべき慎重さも同じ彩りで胸懐にまぎれていたから、焦りもとまどいもないはずだった。
まるで双六のような遊戯、ふりだしはとても明澄で申し分なく、ときめきは夏の日の澄みわたった蒼穹を汚したりしないよう、流るる風と雲の自然をすえ置き、突然のしらせが淡い心待ちであることを見抜いていたという雅趣をもち、優艶な色合いは絶え間く染め上げられ、出し抜けの情欲にまぶしさが乗っている。
銀幕より訪れた美神が堕天使の横顔をかいま見せれば、それが手つかずの馥郁たる実相である切なさを誘致して、もどかしくやりきれない心ばえに切り結ばれるのも一興、戯れと知りつつ深みへ足をすべらしてゆく際どさ、そしてためらいはいつも有能な仮面を被った自虐と背中合わせの吐息になった。
淫乱な素行の裏をたどれば、まわり道に配された異形の影はのびあがって、恐怖と面映さに立ち迷った胸騒ぎとなる。
道行きの信頼がすでに霧のかかった蒙昧を帯びている以上、もっともらしい絶崖は駒止めの手によっていともたやすく乗り越えてしまうので、終盤には定められたあがりが待っているのだが、高所から飛び降りるような叫びにも優美な笑みは過分にふくまれて、斜にかまえられるのだった。
あがりを迎えるまでもなく途上で中座することに義理はない、ただ妙にうしろ髪をひかれるような愚図ついた気持ちがうずき、同時に明証を上げようとしない葛藤のめばえが誇大に生じた。
きまぐれと思い勝ちな傲りのなかに、どす黒いわだかまりの渦まいているひとこまを見通すほど眼力が備わっていなかったから。
色香が花のように匂いたち鼻孔をくすぐる安易さ、心ゆくまでその華やぎを嗅いで嗅いで賞味しつくしたつもりが、かすかの残り香にめくらみ奈辺に漂うのやら分からず、分からないならほっとけばよいものをちょうどふりだしへ戻るようにして、ただもとの場所に立返るだけではなく、あらぬ妖気がこの身をまとっている実態に鳥肌は立つ。
笑いながら、よこしまなで不思議と人なつこい眼に映らぬ衣のからみつくのを振り払おうとするが、いつの間にやら毒気へと変わった芳香をなじったりはせず、むしろ麻薬に似た逃れられないそら恐ろしさに陶然となる。
いつでも降りられると踏んでいた遊戯はそれほどなまやさしくなかった。

日々の営みが実直で謙虚で凡俗であればあるほどに、夏の終わりは激しい光線をあまたへふりそそぎ、隠れた次元さえあぶり出してしまう勢いで、幸吉と由紀子の情交を焼きつけた。まぶたを閉じても肉感がもたげてくる。
そして遊戯というひとまかせの、公共設備における便益の、映画館で修する背徳の、巨細な罪や怠惰や作為が、有機物へと変化して夜気へ入り交じった。
二学期の始まりとともに遊びの自由は制約されて、それぞれの家庭の事情は当たり前のすがたで浮かびあがる。
日常から逸脱したい願望を捨てられない限り欲情は治まらず、いや、捨てられないからこそ由紀子の肉体はますます淫奔な装いで幸吉の糜爛した精神に照らされるのだ。最初からわかっていたつもりだった。
いまさら公式にそって逢瀬と痴戯が許されていた体たらくの歯がゆさを嘆くことはない。
けれんみたっぷりの艶冶な夢芝居・・・それは常軌をはみ出した今西満蔵の切望、義憤を盾に姑息な手段に出た娘の間弓、あっけらかんと意地らしく道化を演じきった風見由紀子、静観の様相を崩さなかった今西昌昭、はじまりでありながらその真意も動向も定かでない隠し子の女優、呉乃志乙梨こと灰田正枝・・・彼らに不動の役者の烙印を押す。
遊戯から演技への橋渡しにおぼろな情念を感じていながら、嘱目をおろそかにし、決意を鈍らせたのだから。
かかわりを持った三人はさておき、未知数の棚上げだった昌昭と女優にはことさら接したりせず、肉欲に埋没しようと躍起になった愚かさ。やはり自分はひとでなしだと罵りたくなる。
だったらすべてを夏の幻想で終わらせてしまうのが一番いい方策でないか。
まとわりつく肉欲はどうしようもないこと、なぜか今まで漠然としか描こうとしなかった進学の現実味をしっかり噛みしめてみればいい。
意思に揺るぎがないと言えば嘘になろう。狂おしいまでに抱き合った由紀子の面影を消そうと努めてみても、希薄になるどころかあの女優からの求婚へとまぼろしを飛翔させてしまい、堂々めぐりの轍はより濃くなってゆくばかりだった。
慎重さを欠くがゆえに焦燥や狼狽も風化してくれるのなら、それにこしたことはないけれど、どうやら煩悶の核心は未熟な性への膠着につきるので、まっとうな決別を掲げてみても、所詮それは表面だけつくろって形をなしたに過ぎず、鎮火とまで到らなかったくすぶりを見流したに等しい。
燃え盛った焔へ手をつっこんで熱くはないとうそぶく白々しさ。きっと由紀子のひと言に、その目つきに、押し殺したような息づかいに、諦念を聴き入れようとする顔ばせに、まるで子供の無邪気さが売り物であったかのごとく、安あがりの感情は崩れてしまう。
些細な反論もなく、無垢なる鉄面皮は残り香の詰まった容器を即座に逆さにし、その溢れんばかりの蘭麝を、荒淫をふたたび手に入れ、夜叉がやすらかな眠りへ誘われるように、素朴な微笑みを取り戻すのだろう。夢幻地獄はすぐそこで口を開けている。
ではどうするべきか。
新学期が自由をはばむのであれば、別に奔放な情交を日毎に行なわなくてもかまわない、たとえば新月の夜這いが儀式的な隠微さに守られ、あからさまな邪淫は戯れに過ぎぬとまかり通ってしまう趣きをまね、進学のいよいよその日までを密度の深い逢い引きで埋め合わせればどうだ。
幸吉は遊戯の枠を越えて由紀子に執着していた。あわせて色魔を演ずる意義に見守られていた。
間弓の使命を十分はたしたであろう由紀子は肉の化身から解き放たれ、あらたな魔性へと転生する。そうなれば、誰に遠慮することなく期限つきの逢い引きに移行してもかまわない。
現に学校が始まっても、由紀子はこれでおしまいなんて悲嘆も悪びれた感傷も口にしておらず、多少ぶっきらぼうではあるが年上の女性らしい態度で幸吉を見つめ返してくれる。
いまから思えば、顔見せとばかりに町中を歩かされた肝いりの不敵さが効果的だったかどうかわからないけれど、幸吉との関係を世間へ配ろうとしていた役目が、本然たる意味合いにつながっているような気がしてならない。その都合よさを認める意識こそ官能の根っこであり、華々しい驕りが飛び散る様を絶頂に見たてて、優越感にひたる輝きもまた女陰から生まれ出たのだった。
由紀子の振る舞いを影絵のように自分のものにしたかった衝動が、先輩の瀧川や不良連中に向かう陽気な笑いとなった。
いよいよ夏休みが今日までとなった夜、いつものように肉体を重ねあわせ、したたり落ちる汗にまみれ、腰をうねらせながら由紀子のからだへ没入しては、乳房をなでまわし、至上の太ももに吸い付いたり、舌を転がせたあげく頬をきつく挟んでもらったり、感じ処に並々ならない恋着を被せたりと、幸吉はここ数日で習得した性戯のすべてを駆使して快楽の極みへ駆け上がろうとしていた。
「火薬はわたしが仕込んだのよ。あとはあんたが火をつけるだけ」
そう言いた気な由紀子の裸体のくねりに、幸吉は大輪の花火が夜空を席巻する鮮やかさと儚さを見た。
おぼつかない技巧に果てたのは仕方ないこと。最初の交わりを結んだ黄昏に、
「わたしの方が迷っているかも知れないのよ」
と、由紀子のささやきでもつぶやきでもない、いくらかの憂惧が切りだされた声の調子を思い出し、変に安堵した。
やがて夕闇のせまる頃合いにはあたかも徒労でうちひしがれた、そのくせむず痒そうな表情に固まったまやかしの傀儡の影が、ひっそり部屋の片隅を領するのだった。
暮れ色にさっそく運ばれた夜風を頬に受け、いかにも物憂げな面持ちで寝そべった由紀子は、知らぬ間に煙草をくゆらせている。
だらしなく身につけた下着が情事のあとを描いたとするなら、立ちのぼる煙草はいかにも大人の倦怠になびく心意気にも映り、カーテンの隙間から吹き入る夜の呼気へ応じるような由紀子のまなざしに遠いあこがれを抱いた。が、あこがれは遠くない。手をのばせば届く距離で半裸をさらし、心を投げ出しているのだ。
なにしろ女優との婚約が、これから先にも決してあり得るはずのない僥倖が、あやかしに包まれた夢の夢が、この成りゆきへ取って代わったのだから、肉欲だけに集約されてしまうのは幾ばくか不本意だった。
自分でも欲ばりすぎるとやましく思われたし、不良めいた雰囲気をまとった年上の女人が発する威光のような重圧が心憎くかったにもかかわらず、屈服の脇でうごめている母性に対する寄りかかりは消しがたく、はっきりした要望は告げられないものの、弱々しい期待は胸の奥で産声を上げていた。
紫煙が大儀そうにゆらめくのを追いながら、幸吉は明日からのことをどう話しだしてくるのか、内心気がかりで仕方なかった。しかし自分の方から問いかけてみる朗らかさはなく、いつまでたっても他力へしがみついている。
フッサールの生活世界とはへだたりがあるようだが、誰かの欲望を実現しているという乖離はそれほどとらえどころないものでなく、疎ましさが先行するより、天空の彼方に意識をのまれるような眩惑にほだされた。そして欲望を割り振りされてしまった現状に甘酸っぱい痛みを感じていた。
奇禍にすら痛覚が麻痺してしまう刹那、夜は流れはじめている。
「どうも妊娠したみたいなの、わたし」
幸吉の耳に音は届いたが、言葉の中身はまだ理解されていなかった。
「あんたに迷惑かけるつもりはないから心配しなくていいわ」
意味が通じるまで時間はゆっくり進んでゆく気構えを闇に教える。
その闇が幸吉を囲繞すると、見通しが悪くなるのは当然のことで、実感を得ている確信はすりガラスの向こうに色づく点景のようなあやふやの線描でしかなくなり、揺らぐ大地へ平衡感覚が吸収されるごとく、芳烈な薫りは漂いを忘れ、俊敏な動きで這いまわった昆虫は死骸となり、軒端をつたう雨水は瀬音にまぎれ消えてしまい、瑪瑙が集めた豊かな色調はひたすらくすむ。
わずか数日で懐妊が知れるのかどうか、疑いの眼を向ける矛先さえかき乱されて、足早に図書室へ駆けこんで当該書物を手にする幻影が強迫的に幸吉を悩ましたけれど、胸騒ぎを引き起した要因は生理学への多大な関心までたどり着いてはおらず、もしや誰かに頁を繰っているすがたを覗かれていないかという、怖れでいっぱいになった。
幸吉は煙草でくもった由紀子の顔を見上げた。それは気詰まりにそそのかされた生身から送る視線であった。


[485] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し9 名前:コレクター 投稿日:2019年07月22日 (月) 04時19分

裸の結びつきは肌目を選ばず、がむしゃらな獰猛さで駆け抜けていた。
てのひらにおさまりきらない乳房の張りはなにやらもどかしく、交接の加減は気だるいぬめりにうながされ、あわてているのか、落ち着き払っているのか、もはやつかみどころがない。
湯浴みで流された汗はまたたく間にふたりの素肌から吹き出し、扇風機で送られる風を無為とあざ笑っているかのようで、熱気によどんだまぐわいは深い密林をさまよい続けた。
眠たげなまなこで幸吉を見上げ、痴女めく面持ちへ沈んだ由紀子の吐息とともにこぼれ落ちる声音は悲痛な夜鳥の遠鳴りを想わせて、一瞬ぎょっとしたけれど、それが内奥からしぼり出された喜悦の変調なのだと感じてしまうと一層、腰のうねりを利かせるよう絶え間ない尽力が念じられるのだった。
そして気づいたらあべこべの身ごなしになっていても、きわだった昂奮にせかされることなく、悠長な掛け合いを見遣っているふうに四肢はのびやかであり、またその屈折と放恣にもかりそめの情念は立ちのぼってくるので、性戯に耽っているのがどこか浮遊しているような鳥瞰にとらえられた。
しかしすぐさま視線は肉体の敷物で被われ、日光が不意にさまたげられるあの隧道へのくぐりにおののき、好個な不安の訪れがやってくる。鬱蒼と陰った股間の湿り気は尊く、別種の気抜けや脱力をさずけたかと思えば、恍惚の予感がみなぎり、歯ぎしりしたくなる幸福感に触れてしまう。
女陰の開きを眼前に受ける陶酔は須臾の間、幸福を退けてから鮮烈なまがまがしさを経て、密やかな和気へ揺曳してゆく。
眼福としての凍結が許されないのは多分に交接器が有する機能を連続的に鑑みてしまうからだろうか、あるいは見飽きることを案じ、瞬時のいかがわしいときめきに準じようとしているせいか、はたまた舌先をのばしたくなる欲情に同調した相手の口内へすっぽりほお張られた男根の驚きによるものなのか、それらひとつひとつが束ねられているにもかかわらず、散漫な意識の伸び上がりしか手繰れないのは、どうやら快感が脳内に特定されることなく全身を突き抜けめぐる宿命にあるようだ。
この宿命こそ幸吉が選びとった累卵であった。
かつて先輩らにまわし見せられた淫猥な写真がここに息づいている。
好奇心とやましさの狭間に響きわたった鼓動の律義に導かれ、みだらな想いは押入れの暗がりや便所の隅に持ちこまれて、見果てぬ色情の袋小路に苛まれたことが誇らしく思えてくる。
臭気すら異性の香気へと変じ、乳房の谷間に集まった汗や恥毛の奥からただよう酸味は二次元では得られないと高らかに謳いあげるのだったが、映像的な欲望を越え出ているという感動が妙に平静なのはどうした事体なのか、そのわけを究明してゆく姿勢はひとまず等閑にされた。
なによりこの女体を玩味しつくす方がよっぽどありがたいに決まっているし、究明などいくらでも暇なときにやればいいだから。
幸吉は巧みに舌と指をつかい、由紀子のふくよかな稜線をなぞり湿地を巡回してみた。
むろん巧妙な技に至っている自信はなかったけれど、片手でそえられながら口に含まれる張りつめたものの快感が制御しようのない勢いで噴出してしまうので、しかも萎れてすぐ鎌首をもたげるようにして起立するから、その勢いに諾して辞さない由紀子が無性に愛しく感じられ、及ばずとも女体の歓楽地帯にまぎれ彷徨うのが努めであるよう振る舞ってみた。
あべこべだった体勢は斜になっても目線がぶつかったままであったり、さながら割り箸のように裂かれる使命に甘んじてしっかり両目をつむり重ね合わさったり、おたがいの唾液をすすり濃厚な接吻をくりかえしたりしながら全身をまさぐっているうちに、どうも脇腹から背中にまわる辺りが由紀子の刺激帯であるのがのみこめて来た。
がむしゃらな本領はここに発揮するべきだとさとった幸吉にとって、今こそ奉仕の精神で女性の悦びを掘り起こそうと懸命になるしかなかった。
上体を持ち上げては腰のくびれを震わすありさまに少々自慢げな目つきで、執拗な愛撫をほどこし、分秒しか保てなかった自分の快感を、同時に胸いっぱいひろがった幸福感のたち消えを、埋め合わすごとく恭順の意がしめされた。
由紀子が明言した通り忠実なしもべに成り切って、拒んだり逃げたりせず、自ら選択した情痴の門を奥深く進むしかない。
もう何回も精を吐いた幸吉にはいささか大仰だけれども、勝ち抜き戦に臨んだ選手に似た疲労が備わっていて、その朦朧とした気分は自他ともに曖昧な言葉尻にこだわらない雰囲気を形成していると読んでいた。
未熟さを知られるのは不甲斐なく、妙に恰好をつけるのもばつが悪かった。そこで言質をとられないような仕草がもっとも好ましと察したのであった。肉体のまじわりに横たわる沈黙の言葉が決して残心であっては困る。
こんな意想自体、怯懦から這い出た駆け引きであることを幸吉は認めないまま、撞着をためらわない最後の、しかも二流三流でしかない仕掛けが講じられていることにも無頓着であったから、覚悟のほどはしれていた。
由紀子はそうした幸吉の手厚い愛撫を受けた様子を艶やかに体現してくれたので、これはもちろん幸吉が判じた容姿のみだれであり、一方的な感覚の成り立ちであったが、半開きというより大声を張り上げそうな口もとへ覗く白い歯並びから、さらに隠微で忌まわしい悦楽の音が軋んでいるのを聞き、ようやくつじつまのそろった安堵に胸をなで下ろすのだった。
しかしながら、きれぎれの嗚咽の息苦しさみたいな音吐は、いつ不気味な耳障りに転じるやらわからず、それは豊満な肉体に並んで発育しているであろう由紀子の意識がうやうやしく威圧めいていたせいなのか、とがめたりするわけにもいかないから痴戯を演じたように思われてくると、年下の身分のくせに悽愴な媚態を招来してしまった世間知らずを否定できなかった。
結局、由紀子の肉体に何を見出そうとしているのやら、明確な答えは生まれてこない。
「答えなんかどうでもいいのだ」
ほとんどふて腐れに近い初心な反抗心は今ここにある裸形を破壊しようとしていた。
破壊とは快感に酔いしれることでしかなかった。が、邪念は肉欲にまとりわりつき、肉欲も負けずにあらぬ言葉と場景の散らばりを呼び起こす。
両手をつきうしろ向きになった由紀子の背後から突き上げながら、この動物的な、交尾の見せる猥雑で厳かな結ばれ方を賛美するや、野性の思考でつちかった偉大な些事に敬意をはらい、そしてしとどに濡れそぼった秘所をありありと見つめると、なめらかでゆるい接合にともなう陰部の華やぎが、軽やかな想念を部屋中へ舞い上がらせた。
不良の先輩のひとりは瀧川という名で、たしか由紀子の高校で同学年である。ひょっとしたら一緒の組かも知れない。
先輩に拝ませてもらった以上の、いや次元を越えた官能をここで展開している。もし瀧川に由紀子との結びつきを聞かせたらどんな反応が返ってくるだろう。今まで考えつきもしなかった明朗な優越心は西日の投げやりな輝きに乗じ、獰猛な閃光となった。
由紀子の家の外を誰か歩いていないか。叶うなら知った顔がいい。出来ることならこの艶事を覗いて欲しい。
幸吉の胸裡に陽気な笑いが起こった。
それは幸運か不運か、謙譲の美徳を学び忘れた劣等感の裏ごしによる自讃であった。なにひとつほめる宝物が選べないとき、贋作まがいの心境で自らの病理を滔々と語る者が抱く光輝であった。


[484] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し8 名前:コレクター 投稿日:2019年07月16日 (火) 01時14分

午後三時をまわった外の気配は量感すら忘れてしまった長閑さを小窓から覗かせおり、おなじく浴槽へ浸かった気分もゆったりした安穏に守られていたけれど、開店直後の銭湯にただよう清浄さが閑散とした湯気の流れをせき止めているかのごとく、幸吉の落ち着きなさは小刻みの震えに苛まれ、湯の面に微かな波紋を浮かばせていた。
それがまるで蓮の葉を想起させる緑の幻影で網膜に張りついてくるので、ただちに緑のひろがりは苔むした暗い堆積へと移り変わり、古風な情感に支えられた気詰まりへ転じてしまった。
とてもじゃないがしみじみとした心持ちで湯浴みをしながら、先日の回想に耽る余地などない。
なぜかしら早いうちに済ましておいた夏休みの宿題がまだいくらか残っていることを思い出し妙にそわそわするのは、やはり由紀子のおおらかな優しさや細やかな人懐こさに触れている理想を渦巻かせているのだと知り、肉欲から絞りだされた愛液にまみれる実感を遠ざけようとする錯綜こそ、余光を払いのける手つきの欺瞞ではないかとうっすら考えてみた。
生々しい含みに彩色されながらも恬淡な顔つきを保ち、秘密の門をまたいだ矜持が膨張するのをいさめようとする。そして紛糾さえ優美に他人事のように眺めてしまう。あきらかに逃げ口上の虚構を欲する図式ではあったが、年相応の判断に寄り添う訓示もひとつの怖れを隠したい心情であるかぎり、初体験の明細は素描を越えて今に記す必要が憚られた。
外気と浴室に交わる徴証はどこまでも淡く、夕なぎを招いていた。
ただ、二日目のわりにしては不思議と家屋の様子や部屋の匂いが鮮明すぎ、もっとも由紀子への執心、情欲にしがみついた嘆きが虹彩へ強く働きかけ、ありありとした光景を映しだしているわけではなく、むしろ不如意な既視感の訪れにより明確な意識が奮い立たされる。
このなにかしら矛盾した心境それ自体が、幸吉を黙らせ茫洋とした空間に押し込めたけれど、それに代わって反撥でもない、信憑でもない、いわば隠れた次元からの使いによって、うれし涙はその感動を希釈されてしまい、曖昧な領域が合わせ鏡となってまわりを占拠していた。
つまり思念は穏やかであり、雑念ははためくことなく流れを覚えなかったのだ。湯気にまぎれた涙が哀歓を忘れてしまうように。
幸吉の類推はしたたり落ちる汗にとどまろうとしていた。
「そこのタオル使ってちょうだい」
由紀子の声にもどことなく慣れ親しんだ澄んだ通りがあったけど、風呂場の戸を開けた床に白いタオルと脱ぎ捨てた自分の下着がきちんと畳んであるのを見たとき、感謝の気持ちはあとまわしにされ、悩ましさが表面に溢れはしたものの、新しい下着を持参して来ることのほうが図々しく思われて、ほのかに香っている石鹸の匂いで洗われたのか、由紀子への距離が清潔にせばまったよう感じた。
着衣し台所のまえで呼び止められ、例のやかんに入った麦茶を差し出されたときも、扇風機の風向きを合わせてくれたときも、笑みではなさそうなのだけれど親しみの眼が投げかけられているときも、幸吉はこの家にこれまで何回となく足を運んだ錯覚にとらわれ、もしかすればこれは将来のあるべき場景をなぞっていて、無意識的な願望が稚気のような顔ばせにしたがって大きく呼吸しているのではないか、根拠の希薄さにもかかわらず、漠然とした見取り図は強迫観念の方程式を隠れた次元から引っ張り出しているかも知れない、などと上気した面差しはなすがままにすべてを委ねようとしていた。
肉体の火照りはこうして春機にからまり、逸する由縁を見分け、探る手間すら省かれ、自堕落で卑屈な欲望の肯定にいたった。
かろうじて擦過する思惑は静子の無垢な冷酷さであらわにされた理性の振り子であり、あるいは間弓の強靭な色香にひそんだ巧緻であったが、ふたりとの決定的な違いは驟雨の激しさで夜へと捧げる意志を宿した由紀子の奔放な性であって、その横殴りの強引さを差し引きしてみようとも、急流へのまれ、足もとをすくわれる唐突の成りゆきにはうなずくしかなかったのである。
たとえL博士なんて大層なあだ名がささやかれたとしても、成績優秀で将来有望な品性に堕したりせず、反対に心霊研究やら超常現象やら特殊心理やらへ関心をしめし、なおかつ偏執的なたたずまいで世間の片隅に埋もれ、あくなき呻吟とともに生き続ける栄達。
生涯独り身で気安く親交を結べる友人など持ち得ないまま、夢想と幻覚を手綱のように引き寄せ、世渡りの無粋さをしみじみ痛感しては過ぎ去った幻影を胸に刻み、過剰な色欲を空へと放つ身振りにほだされるものの、異形の女人を乞い求め、倫理とはうらはらの自由でふしだらな研鑽を積むこと。
青年期より老成を極めてしまい、鏡の作用がもたらす自己愛に歪んだ貴顕を見出し、その冷徹な照り返しにまばゆく眼を細める奇峭に甘んじること。
あらたな肉の営みをまえにして首枷を外された情感はすでに叱責すべきおのれを失っていて、おののきながらも統制された修羅を見返した。
由紀子の指さきは昨日の名残りを訴えているふうに感じさせたが、湯上がりの熱気を払うよう、ふたたび全裸に導かれた幸吉にしてみれば、めくるめく今日という日の触覚そのもの以外のなにものでもあろうはずがない。
「ちゃんと裸でいてよ。さっき浴びたんだけど、あんたを待ってるあいだにまたべたべたしてきたわ。さっと流してくるから」
はじめて高校の裏手に呼び出されたときから由紀子は汗かきらしく、自分の体質を疎んじているように見えたけれど、上背があり体躯のしなやかさへまとわりついた加減の、特に下半身の発育によって生み出された威圧的ともいえる肉感の弾みは、おそらく本人の意想とは別の間口にひろがっており、その官能を熟知し、愛撫を経験した自負がめまいとなって記憶を消し去ってくれる。
単にふくよかで色香を保った肉体なら意識の領野を切り開きはしても、消去の手助けまでに及ぶはずがない。身勝手な思い込みだろうけど、修羅の湯船に浸かった者同士がいだく幻想は過分な感じ方を併呑してしているのだ。
消されたことがらは時間それ自体に当てはまった。
むろん初体験の焦りやおぼつかなさや、とまどいと一緒に発生するいじましい優越心、あたかも床の慣習を雅やかにひもといてしまう浅薄なありようが、経験値を踏まえた高台からの見晴らしなのは承知していたし、昨日と今日が生命感覚と生活時間を無視してこの身にすり寄り、すり抜ける実際も疑ってはいなかった。
しかし溺れる者がわらをつかみ取る刹那のまったく請け合いのない術に似た本能的な行動は、時間から放擲された見苦しさで彩られつつ、ある種の光輝に満ち満ちている。
フッサールが生活世界と呼び言い表した考えを敷衍するなら、幸吉の錯雑な怖れや明朗な危機の意味構成は序列に忠実であるべきであった。
そして論理思考の自立に信頼を寄せるとき、おのずと編みこまれた価値の偏差が弾き出されてしまうだろう。
超越論的意識の黎明はほの暗く、確定性をはらまないまま帰順に到ろうとする冒険である。
湯浴みに柔肌を染めている由紀子の裸身がこころなしか時代劇のひとこまのように立ちのぼると、空間の見渡しを捨象して外界は、さきほど見上げた小窓からの暑気で清められ、また毒された気配で惑わされるふうにして、時間の経過を告げ知らせるのだったが、儚い想いを乗せた肉感は不条理にもより映像的な平面の足枷を余儀なくされ、臆面もなく美しい自然描写にすり替わってしまい、それは幸吉の諦観をなぞるようにさざ波の細やかな衣ずれとなり、耳に届けられた途端、いにしえの湯殿にこだまする空洞のしめやかさを醸しては、由紀子の姿さえ画面から失われて、夕なぎの調べを奏でるのだった。


[483] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し7 名前:コレクター 投稿日:2019年06月25日 (火) 00時55分

自宅へと帰ったその夜の過ぎゆきはことさら大仰な深みを流れたわけでもなく、夢ごこちに流れるときめきはどこかしら静穏で乱れを覚えず、思い返される行為は希薄な光景となって幸吉の脳裡を浅瀬の気安さでめぐった。
自分でも意外なほど肉感は影に忍んでいない。
玄関先でふっと途切れた胸のたかまりに即すのか、夕陽が焦がした情交は遠い旅先の出来事に似て妙によそよそしく、祝祭の場をあとにしたときの清浄さを模していたので、その可憐な心理が抱える美しさを疑わずにはいられなかったけれども、家人に対するやましさのざわめきがわき起こっただけでない、ひいては先日からの筋書き通りでことは運び、あきらかにお膳立ての女体とまみえた現実がどうにもしっくりせず、秘密だってまことしやかな体裁を担ってはいるのだが、やはり自己卑下と引き換えに執着を匂わせてしまった青臭さに軽い失意を感じてしまうのだろう。
すすんで計略へと頭を突っ込んだ浅慮が放心状態を招き、たどたどしい弁明を避ける代わりに逆巻く昂奮は膨満する意識から蔑まれているのだ。
とはいうものの、平淡な影に見入っている不動の視線はわずかな盛り上がりをその渦中に知り、肉体の火照りとは異なってはいるが、ひからびた沼地をのぞく思惑に水のたたえられた幻影が浮かぶごとく、取り澄ました面持ちのうさん臭さは微妙な寂光を放って明るくて、苦笑するしかなかった。
この皮肉めいた観念が逢着するのが例の三秒間だとすれば、幸福は帰するところ永続を約束してくれるものではなくて、むしろ下準備のようなぬかりなさを遍満させては、かりそめにやわらかな釘を射す。
逃げ水が口渇とともに立ち顕れるのなら、三秒間はあたりを睥睨するためにあたえられた猶予であり、決して不安の頂点などには君臨しない最下層の静謐な時間である。
それが準備運動みたいな跳躍をなぜ欲するのか、今のところ幸吉は思念にかき乱されたくなかったので、季語のつもりで言葉の荒野へ、夏の大空へ放り投げておいた。
万事がこの調子だったから、失われたと思った由紀子の肢体は単なる物怖じの化身であるべく、古拙な書き割りへ溶けこませ、そして振り出しに戻ったつもりで奇跡の顕現を蜘蛛の糸みたいにたぐり寄せて、まばゆい日輪を仰視し、因果を愚弄する顔だちへ至った経緯に感謝した。
すでに目覚めていたはずだったのだが、つまらぬ律義とおおらかな猜疑のせいで、限りある遊戯を肯定してやまなかった現実はぼやけた視界に終始していた。
由紀子は夢まくらに立たなかった。おそらく幸吉の生霊が出向いたと考えた方が通りが早い。
残り少なくなった夏休みを慈しむのに、これほど至適な情趣はもう二度と訪れないだろう。眠りは早瀬に乗った一葉となって過分な水しぶきを浴びつつ、岩の間をすり抜け、それが寝汗と寝返りの織りなす夢の栄光だと気がつかないまま暁闇を迎えた。

午後三時までの時間を占拠する思惑にもはや尊大さはなかった。
不明瞭で猥雑な夢のきれはしを集める勤勉は素直に放擲され、昨日の果敢な出来事をノートに綴る義務も忘れ、まだ陽射しの強くない、湿気を呼んでない朝の空気に身をまかせ、ひたすらぼんやりした頭へよぎる念いのあれこれにとらわれることなく、反対に形となしかけた想念を寒色に薄めては次第に上がる気温計の赤みを見守った。
蒸し暑さが募るほどにふぬけた気分はますます痴呆に似た反応をしめし、由紀子はこのしたたる汗を流すために湯を沸かしてくれているかも知れないなどと、踏み切りを越えた付近の家から煙った匂いの夕焼けに交わる甘い休息や、夜の気配に神妙な面持ちをさらす裸身の心に安穏を見出して、まどろみかけていた。
睡魔というこらえなさにあらがうとき、すでに籠絡の野望はその牙を光らせないで、内奥に徘徊する獣の気配さえかき消し、植物的な寡黙さが霧雨のように降り注ぎ、時間の消費は埋もれ木に陶冶され、意識の黎明を、親密な拮抗を、ところどころ殊勝な風合いで染め上げて鈍色の安息をもたらす。
幸吉の沈着にはせせこましい動顛に先んじた瑕瑾が幅を利かせており、それは託言に聞こえるかも知れないけれど、片寄せした妄信はたいそう瞠目すべき喜劇の幕間をおしはかっていたので、いじましい神経は得体の知れないと訝った生身の装置に大胆な手先で触れることが出来たのだった。
豪胆な意欲ではない、安息が煮こごりのように凝縮される触知で導かれ、眠りを揺さぶる放恣が細流れに口辺へ備わって弾力となったのである。
演繹で結ばれる迷妄がもし見晴らし台から眺められたなら、そんな発意はことさら倨傲な温気に後押しされなくとも、案外机上の想像でまかなえ、もっとも多少の鼻息は出てしまうだろうが、眠気ざましの一興はちょうど綱渡りのようなきわどさをたどりつつ、同時に安逸な境界を尻目にするのだから、緊迫と弛緩はその落差を強調し難く、過ぎゆきの流路にはとりあえず小舟を浮かべておくのが絵図として恬淡であろう。
「また女体をまさぐれる、太ももが味わえる」
約束の時刻が迫るにつれ、胸の鼓動は卑猥な場景を呼び覚ましたものの、たとえあれが一度限りの激情であってあとはまやかしだとしても、幸吉のまどろみは壊されないはずである。
由紀子の玄関先で立ち往生する場面はもとより存在せず、きれいさっぱり忘れ去るだけの気概はあらかじめ用意されていたのだが、失意を補填する虚妄はさほど念入りに描かれてなかったので、いくらかの心細さを感じてはいたし、不毛の荒野へ投げ打った言葉のはね返りも不気味で仕方ない。
なぜなら植物的な寡黙を建前にした幸吉の姑息さは、あくまで限られた敷地内で遊びを許された子供のかけひきの範疇から出ておらず、仮に魔性を見据える眼力と気迫を持ちあわせていたとしても、やはり華やぐ虚勢だの、無軌道だの、夢うつつの戯れだの、逆に清廉な規矩だの、純粋な蹉跌だの、たおやかな癒しだのといったやまびこに響きあえるだけの器量は有してなかったし、なにより饒舌な魔力を秘めた植物の、時間に向き合う姿勢の、うわべだけの寡黙さを沈めてしまう瘴気を探れなかったからである。
もとからそんな高遠な考えで由紀子の裸身にまみえたわけではない。
「女陰よりふくよかな太ももが主役になれる」
鼻歌まじりで夢想する下卑たひらめきに輝きはないかも知れないが、曇り空を映したような薄っぺらい叙情は少々ありそうだった。
そこで一夜にして情婦を得たふうな妄執が羽ばたき、かなうなら優雅な虚位へ舞い降りようと卑近な、にもかかわらずしっかりと情調のたたえられたのぼせ具合に的は絞られた。
だから平静にならった足つきでふたたび由紀子を訪ね、胸へしまえるだけしまった感情を平たい影法師に背負わせ、昨晩の暗がりをかすめたかの風に頬をさらしながら、ふと薪の匂いを間近に嗅いだとき、本当に湯船が幸吉のために午後の光線を照り返していたとき、まったく違う意味合いで立ち往生してしまい、あふれる涙を止めることは出来なかった。
「まずはさっぱりしないと」
由紀子の声はどこまでも快活で澄んでいる。
積み上げようと努めてなかったはずなのに、積み上げてしまった業に気づかされた幸吉は、涙目で見遣る笑顔のにじんで、きらめくのがたまらなく切なかった。
浅はかな業に縛られていた自分をどう責めていいのかわからない。
「どうしたのよ。夏休みはもう終わってしまうわよ」
「それで風呂を沸かしてくれたんですか」
叱責のつもりではなかったけど、なにかしらもどかしい怒りが直截な質問に転じてしまった。
「学校が始まるとあんただってあんまり来れなくなるじゃない。それに今日は熱いしね」
なるほど晩夏の焦燥を感じさせるような気温はまだまだ上昇しそうで、ここまでの道のりでもたしかに草いきれが揺らめいているのを認めていた。
昨日の空無な言葉のやりとりを思い返した。
実務的で軽佻な弾みを幸吉は内心苦々しく感じていたこと、しかし、女色を得たうれしさはおさえきれず自分自身を裏切りそうな芽を出していたこと、その芽がいかなるつぼみでどう開花するのか最後まで見届けたく願ったこと、虚実を抜きにして由紀子に溺れてしまったこと。夏が終わろうとしていたこと。


[482] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し6 名前:コレクター 投稿日:2019年06月11日 (火) 01時28分

「明日もおかあさんは遅いと思う。いいわよ。だけど朝っぱらではいくらなんでも照れくさいわ」
その目もとにはなにか競いあった好敵手の距離感で保たれながら、最終的にはお互い支えあって本流を眺めているような信頼が醸し出されていたけれど、女体を味わった優越感に磐石の自信が寄り添っているのかは判然とせず、由紀子の深意もあいかわらず嬌艶さに包まれていた。
幸吉にしてみれば情交にまみれたばかりの、またもや二回も続けて勢いのよい吐精を終えたばかりのたかまりを打ち消すことは出来なかったし、由紀子が木漏れ日のようにもらした風見家の環境、つまるところ艶然と夜そのものへ誘われたもの言いは新たな緊張を強くことになったのだが、それはふと口をついたのか、実際として告げておくべきだったのか、いずれにせよ、傀儡の仮面を借り受けた顔つきだと見切ってしまうには柔和な明るさが落とされていた。
「まさか、駄々っ子じゃあるまいし、すこしくらいは我慢がききます」
「あら、駄々っ子じゃなかったの」
由紀子の笑顔にはやはり勝者の自負がよぎっているのだが、肉体の営みで育まれた親密な感情の火照りは虚偽をやんわりとはねのけているのか、冗談に慣れ親しむ調子で子供の気分のように弾んでいる。
額面通り聞き入れることの無垢、手放しで小躍りしてみる能天気、女性の魅惑を間近に知る異変、諧謔によって導かれる秒読みの幸福感。そんな想いにつられ増々おとし穴の深みが頼もしくなる背馳。
まさにがむしゃらな児戯だけが今という時間に住み着いていた。
「僕は由紀子さんの味方なんですよ。間弓さんは焦ったみたいですけど、結果的にこんな素晴らしい関係が生まれたから、そうです、僕はやっぱり駄々っ子なのです」
「面白いこと言うわね。だったら大人しくするのよ。わたしに逆らわず、それと困らせてもだめ、もっともあんたが困るのは仕方ないけど」
「わかってます。僕は神経をひりつかせるのが得意かも知れません。なのでいつも困惑してばかりなんです」
幸吉は心から従順な態度をしめしながら、由紀子と間弓の盟約に生じている欺瞞の直覚をひた隠し、やがてそのまやかしが突きつけられる場面をそよがせてみたけれど、この部屋に充満する湿度と夜気は黒髪が梳かれるごとにあやかしをはらむのか、とても粘りがあってかなり手強く、裸身から漂ってくる湯気に似た女色のしなやかさもひとかどの太刀打ちを許さず、瞬く間に懐柔される宿命だと、薄ら笑いをともなった敗北のふたたびの訪れに首肯するしかなかった。
あたかも女体へ溺れる懦夫がはじめてであったことすら忘れてしまい、どこにも依拠するはずのない自尊心を勝手に浮かびあがらせている愚鈍さに気づき、あわてて神妙な面持ちで快楽のみなもとをのぞき見るように。
ひょっとしたら由紀子は間弓の魂胆などもとより承知であって、その性格はいみじくも静子が評したように、さっぱりしているどころか、恐ろしく天然のお人よしかも知れないという考えは本道からはみ出ることなく、そのまままかり通るのであれば、風説がいかに適当で真意からはずれており、不良などという紋切り型へ当てはめた世間の思惑に則っていた自分は、まったく慧眼を欠いていたことになる。
「あれこれ詮索するよりか、貴重な青春を楽しみなさいよ。なんてね、でもわたしだって困惑ばかりしてるわ」
眉根に深いしわを寄せ、その割に口角は不本意というより悪びれ方も小気味よい感じがして、嘆いているのがいかにもつくり顔に映ったので、幸吉は大いに感銘を受けた。
「そうします。由紀子さんには決して逆らわずですね」
「まあ、そういうことになるかな」
威丈高な語気を残して下着をはき、衣服に裸身が閉ざされる様子は、もの寂しさを兼ね備えたもうひとつの官能を差し出していた。
すでに籠絡の身に甘んじた幸吉には自意識がいつも前面へとせり出す日常は停止して、ゆるやかな傾斜を歩むような足どりの心構えで、由紀子の着衣を陶然と見入っていたのだが、その瞬間に股間は性懲りもなく膨張するのがわかり、ひどく恥ずかしく思ったのも当然、自分はまだ裸のまま女人と対峙しており、ある意味大胆さをまとえたような、自然体との距離を縮められたような、必ずしも同等ではないけれど男女の秘めごとへ確実に触れることの出来た感慨はひとしおだったので、あわてふためく見苦しさをそつなく凌駕している不敵さを覚えた。
年長の肉体の盛りにあふれた秘所を味あわせてくれた由紀子は神々しいだけでなく、奇妙な磁力を発して幸吉の胸中へ友好の符牒をさずけたのだ。
これが不敵さの正体なのか。思い上がりをひりついたまま見届けるだけにとどめず、風紀やら善悪やら不純やら不良やらを無化してしまうかりそめの宥和が、音もなくたなびいている。
無音であることの安寧はひとときの心ゆるびを認めつつ、捨てたはずの虚栄が舞い戻る無常を教えられるけれど、耳を澄ましてみれば、手紙の追伸がざわめくように誇張をわざとらしく見送った禁欲が聞こえてくるのだった。由紀子は肉体と一緒に天稟のひとがらを開陳していたのである。

帰り仕度には時計のねじを逆さに巻くようなぎこちなさと、こじんまりした未練がからまっていた。
自分の衣服を整えようとする仕草は鎮火を背にした落ち着きがうかがえると同時に、いやがおうでも相手の気怠さを意識してしまう。
気怠さには自らの寂寥が日の名残りへ溶けこんでいるのだろう。普段着のすがたへと戻った由紀子の素顔は飾り気がなさそうでいて、じっと見つめるまでもなくどことなく疲弊した翳りを帯び、そのたたずまいは小憎らしいというより、自然と憂愁を引きつけているので気分をはね返すことは叶わず、執心によろめいた寛容な欲情を催させるのだった。
もちろんそうした変移は幸吉が惹き起した邪念と呼んでさしつかえないだろうし、瞞着の被り物を夜風にひるがえした幻影の仕業とも言えたから、不意の目覚めだと知ってながら二度寝を欲する性急さにさほど罪はなく、瞬時で判別した夢の続きはむしろ尊い。
脳裡に暴れるもどかしさが見苦しいのは寝苦しさの弁明であるとすれば、夢うつつの光景に立ち返る本能こそ、もの哀しい面差しが放たれる時刻である。
幸吉は由紀子の裸体がとても懐かしくなって狂おしい抱擁を試みたけれど、眠れる獣欲がほどよく手なずけられているように、肩透かしは情動をいさめ、まなざしは冷酷な一面をのぞかせ、短い言葉が用意された。
「あんた、まだ昂奮してるの」
「いえ、ただ、なんかすごくもったいない気がして」
無粋な叙情を、郷愁を由紀子に伝えることが出来ない。直ぐさまそれが粗野でたどたどしい性欲に突き動かされているのを悟られそうで恥ずかしかった。
「馬鹿ねえ、明日もいいって言ってるじゃないの。信じてくれないのね」
「そんなわけないです」
「だったら、どういうわけ」
「すいません。早くも逆らってしまいました」
「ならいいわ。明日も午後三時くらい」
幸吉は正確な時計の動きをなぞるような響きに胸を熱くした。
「もう外は暗くなってるわ。あんた帰り道わかるわね」
「ええ、なんとか」
由紀子は眼をまるくして、
「まったく、おぼつかないわね」
と、嘲笑をつくりかけたが、ふと真顔になり、
「ごめん、そんなつもりじゃないのよ。本当に」
そう言ってから、涼しさを装った、まぶしさだけを頼りにした八月の光線へ向けたような細く、艶やかな微笑みに切り換え、まじわりの午後へ投げかけているかの想いを匂わせた。
「わたしの方が迷っているかも知れないのよ」
夜の向こうへ吐息はたなびく。
「相当な方向音痴なんです。でもこの町で迷子になるなんて望むところですから」
幸吉は由紀子のとまどいを斟酌したつもりであったが、なにやら趣向は違い、先走りの結論をしかも愚直に口にするありさまだった。
玄関まで送ってくれた女人の影は家屋や木々よりも濃く、生々しく感じたが、不思議と肉欲の輪郭で地面まで伸びたりはせず、しめやかに別れを告げれて、夜の冷気が頬をなでる頃、幸吉は家人への言い訳を案じている未熟な心持ちにとらわれた。
別段これくらいの時刻で親から問責を受けることもなく、適当な返答はそのまま字義の忠実さにくみしていたのだが。
なるほど、この辺りは街灯もなく民家は煙ったようなくすみで暗闇にまぎれている。由紀子の気づかいはまんざら揶揄などではなく、まぎれた家並みの薄明かりがあたたかに感じるよう仄かなよりどころになった。
またしても三秒間・・・立ち止まることも生きいそぐことも可能なはずなのに、幸福は逃げてしまう。
そして秘密を背負った少年の影は重く、うしろめたさを引きずっていたので、必要以上に口実が唱えられ、由紀子の面影はあの銀幕の女優のように遠い夜空へ吸いこまれていった。


[481] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し5 名前:コレクター 投稿日:2019年06月03日 (月) 21時45分

どれだけ精気を吸い取られれば今西家の秘め事に触れることが許されるのだろうか。
いや、めぐりめぐった悦楽は必ずしも受け身の地平に埋もれていたわけでなく、自ら本然とたぐり寄せた宿痾のごとくやむにやまれぬ噴出を願っていたのだから、いくら驚きの事実を聞かされようが、ずっと抱きつづけてきた肉欲はそれ自体で完結する矜持に守られており、外部要因によって軽減されるべきであるはずもなく、的外れを明言するだけのしめやかな冷徹さに包まれていたので、意外な真相は晴れやかな空の青みのように、幸吉の劣情を曇らせたりしなかった。
ちょうど不幸な出来事が本質的には食欲をさまたげないように。
またこういう思惑も青空のひろがりをまねて有意義な開闢に準じようと努めていた。
「たぶん間弓にかつがれているに違いない」
静子の恋文への連なり、不良らしい強迫的な誘惑、それは紛れもない蠱惑の延長で女体の開帳を意味してやまない。同時に安易すぎる接近の解釈さえ充たされている。
由紀子の態度と行為には行き過ぎた純朴がまとわりついていて、ややともすると幸吉の思念などすっかりほだされ、どうあがいてみてもぬくもりを疑らず信じてしまうところだったが、もとより一方的な、美神に対するひざまずきを擬した崇拝に傾倒し、つまり心象は過剰なまぼろしの光彩でかたち作られるけれど、あくまで内面に施すあかるみに眼を細めるばかりで、対象そのものを愛でているとは言い難く、憧憬のゆくえはたどれない。
「さっぱりとした性格の持ち主だった」
そう静子は話してくれた。ことさら今までの経緯を振り返り、由紀子の考えや魂胆をあばく必要はすでになかった。
空想にふくれふくれた交わりは明快な数式をこばみ、かといって手ごたえある日々の成りゆきへ加担したりもしないだろう。いつまでたっても謎めいた影のなかで聞こえる幽かな嗤い声みたいに正体は知れず、つかみきれないもどかしさに余韻を含ませる。
現に下着を身につけた由紀子の事後の姿態には、もっともそんな恰好と向い合うことすら初めての場面だったので感興の成り立ちさえおぼつかなく、気後れとはにかみを知るばかりで、昂然と切り返す口ぶりなど持ちようもなくて、とにかく有意義な性欲のあり方に固執した。
幸吉の意識へ働きかけているものは無垢な肉欲が焦げつく残滓であり、不純物を取り入れない本能的な倨傲であった。そしてその倨傲はか細い神経を繊毛運動のように震わせ、呼吸を乱したり整えたりしていた。
かろうじて逆巻くのは幼児の見え透いた言い訳が案外うそでなくなる、あの反動に身をまかせた思いつきである。
たしかにさっぱりした口調なので旨趣は探るまでもない。
けれども馬鹿正直な女体はまだ着衣の途中であって、部屋に漂う交接の気配が消えてはなかったから、幸吉の股間はまたもや硬さを取り戻してしまうと、哀願とも談判ともつかない、引きつった微笑をあらわにし、相手の出方をうかがった。
ところが由紀子はさり気なくいさめるふうな目つきを扇風機の首振りになぞらえているので、蒸せた空気の悪意を膨張させてしまったのか、ちっとも涼しさが送られないのは機械の故障だとか、夜がすぐそばまで近づいているから緊迫するとか、なんとも情けない口実を設けてしまう。
しかし反動は胸裡のくやしさを駆逐してくれた。
「僕があなたとこうして、そうです、こうしてられるのはもっともな理由があったからです」
「へえ、どんな理由」
由紀子はまじまじとした顔で幸吉を見つめた。
「あなたは静子さんと僕の間に割りこんでまで肉体関係を持ってくれました。そして今西間弓さんがきっかけであることはすでに知っていました。静子さんが調べて教えてくれたのです」
「あら、そうなの」
ここまでは事実であった。この先が幸吉の反動である。
「見知らぬ男子中学生に肉体をあたえるってどう考えてもたくらみなり、見返りがなければおかしいと思いました。僕のあこがれていた女優をめぐる因果というか、いきさつにははかり知れない艶冶な情景が待ち受けていて、それはあなたもご存知みたいですので詳しく話しませんが、静子さんだってもしかすると、あの恋文なんですけど、そこから、すでにもう始まっていたんじゃないかと。
下級生からの淡い恋で火をつけておいて、欲情に昂じたところですかさず肉体を提供する。静子さんとあなたが遠縁だというのも都合よすぎませんか。そんな身内的な間柄なのに横やりが入ってしまい嘆く一方で、情報が早々と僕に伝わる、装置としてこれほどのまやかしはありません。
しかしよくよく考えてみれば他に誰が僕をたぶらかすのでしょう。満蔵氏にまつわる今西家の内紛しか思い当たりませんし、間弓さんは僕に断言までしているのです。隠し子の女優へ向けられた意思こそ僕を取り巻いた実情ではありませんか。
あなたがこれまで単なる知人だったとしてここまで振る舞うとは考えにくいですし、いくらなんでも無謀としか言えません。けど姉妹だと判明したのであれば、満蔵氏の正気なのかどうか怪しい婚姻話しを一気に御破算にするだけ同等の価値がある色事となります。間弓さんはじっくり計画したつもりでしょうが少し焦ってしまったようですね」
由紀子はほとんど顔色を変えない。その裸身が堂々としていたように。
「しかも、あなたはだまされていることを分かってて間弓さんに従った。姉妹なんかじゃない」
これは内語である。幸吉はそれを口に出すことに怖れをなしていた。怖れの由縁はある意味、今西家の昏迷より屈折しており、微細な神経経路へもぐりこんでいた。
そして繊毛運動のきわどさが踊りでる。
「いいんです。僕はあなたのことをずっと想っていましたから。待っていたのです。だから・・・」
「だから」
「もう一度お願いします。抱かせて下さい」
そう言い切った自身の顔つきを振り返る暇もないまま、幸吉は由紀子の肩に手をかけ、くちびるを強く吸った。
果汁がしたたり落ちるほどに、汗の塩分の唾液と反撥することがなくなるまで。
「いいわよ」
蒸した部屋にこぼれる返事はまるで熱帯の熟れた果実のごとく、快活な色彩を帯びていた。
はぎとられた下着を嘲笑する勢いで肉感があふれ出し、四肢を流れる血の鮮明な皮下へと青ざめる虚ろを見下しては昂奮が延命を試みる。極度の緊張によって高められる肌のこわばりは快感への道標に揶揄され、その弾むようなししおきからの発汗に醒めた意識を、静寧を案ずるような思慮深さを、夢うつつのまなざしがとらえた映像と同義語に留め置く。
燃え盛る情念はさらに透明な青みへうつろい、敏捷であるべき淫らの逃げ場へと先まわりする。幸吉はようやく自分自身の傾斜を伝えることが出来た悦びをあと押しする卑屈に到達した。
反り返ったまま二度と萎縮しない幻想をつらぬいた男根にすべてを託し。
畳にはわずかだけひんやりした手触りを感じたが、すぐに由紀子の裸体に熱をうばわれ、その豊満な胸は大地の実りに取って代わると、怖れていた夜の気配がはっきり伝わって、喜悦へ幾分か水がさされたように思えた。
幼い頃に覚え知ったあの不気味な感情を降り注ぐ魔性の顕現とは別の、きわめて実質的な夕闇が幸吉の影に被さり、子供をさとすような低いうなり声を響かせ遊戯の途絶をうながす。
帰宅の時刻はいつも正確な陽のかたむきに則していて、時計の針に見遣る視線をまどわし、かどわかす。
一日のなかで三秒間だけ幸福な気分をつかまえることは可能だった。おそらくその原理は大人になればなるほど画然とした化身へ転じるだろう。地と図の反転は高邁な理屈を欲するし、性体験の産声は古色蒼然たる屋敷に幽閉され、そのこだまを窓際まで伝承させる徒労に苛まれるからだ。
実質的な夕闇とは市井のありふれた灯火であり、昂奮を鎮火させる良心のような動きに包まれている。
幸吉は三秒以内に喚起作用を有しないと、このたぐいまれな交わりから閉め出されてしまう危惧を感じた。いくら希有な女人の由紀子であっても発する言葉に共通概念がしみついているごとく、どれほど剣呑なもの言いを営みへ忍ばそうが常識という制度に内面や外面の境などなくのみこまれてしまう。
主客二元論への回帰を支えている夜の汀に甘んじることはどだい無理なのだ。
かと言ってまどろみに捧げた感性の優越が指をくわえて桎梏に脅かされたままでいるとは頷きなくなかった。が、すぐそこに、もうあと一秒もすれば背景はあの書き割りを盗みとるように劇的な白々さを招き、無明へと位置を譲り渡すだろう。むろん体感的に三秒間はあまりに短い。そこで明日の時間を借り受ける。果たしてこれが経済理論に結ばれるかどうかは定かではないけれど、潤沢な時間は少年にとって財産であるべきで無下にあなどることはない。もう目覚めているのだ。女性を知ったのだ。煩悶はある意味、愉悦である。
「わたしのおかあさんって帰ってこない日もあるのね。あっ、ごめん、急に家のことなんか」
幸吉には今夜このまま泊まっていってもいいんだと、すこしの気恥ずかしさをこめて暗に勧めてくれている由紀子の朴訥な優しさを感じ、三秒を越えて時間を刻む良心を知るのだった。
「いち、に、の、さん」
当たり前に一途で、凡庸に軽やかなかけ声、跳躍と律動、永遠の名をその場しのぎに読み上げる素朴さ。
激しい交情と駆け引きに心地よくひりついた胸の底がわずかだけ潤っている。
「ありがとう、由紀子さん、でも明日があるからそろそろ帰ります」
幸吉は感傷に流されている弱みを自覚するとともに、並列する貪欲な気持ちを述べてみた。
「明日って」
「もちろん、またあなたに会いたくて」
由紀子は勝者が敗れ去ったものに見せる穏やかで神々しい笑みを浮かべていた。


[480] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し4 名前:コレクター 投稿日:2019年05月21日 (火) 11時28分

裸同士がさかしまで重なる痴態に無上の昂奮を描ききっていた幸吉にとって、燃え尽きる情欲は果てしない夕映えをその瞳の表面へ照応させた。
そして肉感は案外ゆるやかな径路をたどり全身にゆきわたろうとしていた。
かつてない体験の連鎖から生まれる時間への弾劾はあばかれ知らしめられる成りゆきを先取すると、なおさら途方もない煩悶が押し寄せてくるのだろう、それら分子に含まれる不純物の細やかで曖昧な幻影をまばたきながら淘汰するという規矩へ落ちつく。
つまり情動は妙に醒めた機能を有していたのだ。
なにゆえ戯れを戯れらしく提示してみせる理性がくすぶっていたのか、よく飲みこめないまま幸吉はありきたりの満足感をぎこちなく鳥瞰していた。
それが思いのほか激しいわななきをともなわず、前もって想像していた絵づらに忠実で、しかも恬惔な密度を感じさせたから茫洋とした気概だけが残され、どこか無造作な余韻になったのである。
ちょうどほこりが活気とは無縁を装った静穏に沈下するときの撹乱のように。
別の次元からすれば魂魄が荒くれ、空っぽの肉体を賞揚し、時間軸への無防備な様相を掲げて、ひたすら忘我へ徹していたのかも知れない。
あまりに受けとめがたい刺激は時として本来の怪物的な獣性をひそませ、言葉が端的に裏切りを用いるよう、平穏な日常にしらけたもの言いを被せるごとく、陰険で不本意な敵意を空転させ、畳句にもっともらしい流路をあたえて既納を了解する。
互いの股間が結ばれた交合より顔面を被った情景には手応えの不完全であるばかりか、枕頭の書を照らすような見え透いた落ち着きもあって、その危殆な安静にこそ言の葉が浸潤してゆき、肉体の恍惚は不意に寸断されるのだった。
まばたきはほこりの乱舞を見つめている。

「どうしてって言われてもねえ。それはたしかに理由があるんだけど、なんとなく勘づいているんじゃない。あんたが黙って抱くだけとは思ってなかったわよ。まあ出来ればそうあってくれればいいって願っていた。でもそうやすやす治まるわけないだろうしね、精気を思い切り吸い取ってからおいおい話すべきか考えていたのよ。もちろんあんたが訊きたがらないようなら、わたしの方で切り出す必要がないって、だけど仕方ないか、あらごめん、このからだよりもっと知りたいのはわかっているつもりだわ」
由紀子口ぶりはぞんざいだったけれど悪びれる様子はなく、むしろ知己に語りかけるみたいな乾燥を欲しており、涙を枯らすことを念じているような親和が香っていた。
そして横たわった裸身に下着をあて、自らの羞恥と秘密を取り急ぎ隠そうとしているのが幸吉には見てとれたので、いっそう意地らしく映り、部屋に充満しきったまぐわいの湿気が悲愁の趣きへなびいているように感じられた。
ただの哀しみではない、それは詭計におちいることもなく、拷問に屈することもない気高い間諜が出自をもらしてしまう儚さに彩られていた。
「この世はね、指先で触れたり匂いを嗅いだり、むしゃむしゃごくごく食べて飲んだりすることで得られる関わりと、そうではなく、正反対でもなさそうだけど、予感に牛耳られてしまう、たとえば怖れやら望みやらもの寂しさやら、およそ心のなかに立ち起こる情念を映し出す装置で支配されていると思うの。
あんたとわたしの関係もそうだわ。さっきまでの交わりは架け橋みたいなものかしら。危険な場所へ必要に駆られて渡るため、あるいは用もないのにただ向こう側へ行ってしまいたい気持ち、そのどっちも含んでいそうで含んでいない場合だってあるから、まったくややこしいわね」
裸身をさらけだし、あたえてくれたように今度は脳内に蠢いている秘密を惜しげもなく差し出そうとしている。
これが予感であるなら随分とたやすい。
しかし、由紀子の言っている予感はもっと深度を強調した、不可思議を立て看板とした、あねご風を吹かしてみたような下世話もうかがわれ、しかもいささか大仰な鉄火肌めいた口調を響かせていたので、またしても風評でしか関知しない不良の性分をかいま見た心持ちがしたのだが、反面それすら演技であることの巧緻だと穿てば、古びた因縁だの、想像もつかない禁秘だの、真新しい用紙を破り捨てる奇禍だの、目先に転がっているあまりに普通のしがらみだのが、異相をあらわにする。
由紀子が話しているように隠された実情など案外みなれた風景になじみ、さほど逸脱を乞い願っているわけじゃないかも知れず、そうなると幸吉の浅き想いに眠っていた豊満な肉体がこうやって顕現する様だって、取り立てて離れ業が駆使されたのでなく、渡る世の乱雑で身勝手な様相があぶり出されてくる。
あぶり出しである以上まえもって何らかの文字は託されていて、つたない手品にあえて喝采を送るような柔らかな心性が愛でられるだろう。
お化け屋敷の木戸をくぐった老若男女がそれぞれの恐怖を買い取り、怪奇な思い出を手みやげにするように。
幸吉の肉欲だってことさら詭弁的な追想を操るまでもない。静子より手渡された恋文に塗り籠められた意想をよりどころとして読みとった暗号こそ、まさに曲解の極みであって、その連結として由紀子に欲望がゆだねられたのだから。
予想はすでにお化け屋敷の木戸を抜け、ちょうどあやかしのろくろ首やら、悽愴な面持ちを垂れ下げたお菊やらの登場であざとく妖気を煙らせている。
「ややこしいのは仕方ないわ。でも驚かないで」
果たして子供の時分、祖母に連れられて恐る恐る足を踏み入れた見世物小屋の記憶は性欲と結びついているのか、いや性欲だけに限らずもっと別の展望、それは滑り落ちるような戦慄だったり、浮遊する気分の流れであったり、逆に停滞を念じる閉じた貪欲であったり、微かに漂ってくる花の芳香に誘われた異性の影であったり、あまねくこじんまりとした霧の童話の範疇を越えていないので、たった今まさぐったばかりの由紀子の裸体は淡色を強いられ、その肌ざわりもまた甘い菓子を食べてしまった後みたいなもどかしい充足におびやかされていた。
「静子が親類の子でちいさい頃よく遊んであげたというより、間弓とわたし、ええい、まどろっこしいわね。その父親の満蔵よ。あんたわかるわね」
幸吉はすぐに返事が出来ない。
とまどっているふうだったが、線状に連なるであろう、そして列車がすでに夜汽車の情趣に讃えられているように、彼方に待ち受ける闇の気配を恋しく想い、ひたすら由紀子の言葉を欲した。
「わたしね、どうやら満蔵の娘らしいの。ほらあんたが夢中になってた女優と一緒なわけ」
「そんな・・・」
絶句はただの息づかいに過ぎない。
「間弓はある時期からわたしのことに気づいてたようね。わたしたちの間柄って別に親しくもなかったし、小学校、中学校、高校と同じ学年だったというだけで、まあ話しくらいはしたことはあったけど、相手の家へ行ったりしたことは一度もなかったわ。あんた勘が良さそうだし推理も得意そうだから、もうわかってきたんじゃない、あっ、そうそう、わたしの方はついこの間までそんなこと全然知らなかったわよ。だから知ったついでにあいつの相談にのったわけ」
「計画にじゃないですか」
問い返しには感情がこもっていないほど効果がある。
「まっ、そういうことになるわねえ。静子と密会じみた行いをしてくれてたので好都合だったわ。あんたには悪いけど、初恋地獄ね。だからと言ってはなんだけど、しっかりあっちの初体験もすましてあげたんだよ」
大股開きになった下半身が幸吉の顔面をまたぐと、陰りであり続けた女陰はその全貌をしめし、仰ぎ見ることも舌先で好きなだけ舐めまわすことも可能になった。
上気した頬とはうらはらに昂奮は沈着さを招き、反対の方角で由紀子が施している性戯の際どさを意識するに十分であったから、手先を使って、やがて口内に包まれていく感覚を逐一この身へ告げしらせ、圧倒的な高揚に押しやられる受動とはいくらか異なる鑑賞的で、優雅な、それでいて淫猥が尽くされている情景を夢見たのだった。
「時間よ、止まれ、きみは美しい」
登りつめるはずの恍惚に絵画的な美意識を見出そうと努めた胸裡はむろん高尚でも奇特でもない。あまりに古典的な強欲さで支えられた惰弱が遠吠えしていたに過ぎなかったのだ。
「満蔵に対する憎しみはいまのところはっきりしないの。だって母にはずっとまえ、父ならまだ物覚えのないわたしを残してということしか聞いてなかったし、突然そんなふうに言われても困惑するだけでしょう。そりゃ、疑ってはみたわよ。間弓の告げ口がどこまで本当なのかにわかに信じられなかったから。
ところがあんたが他の隠し子とやらにお熱で、しかも満蔵はそれを良いことにとんでもない企みを考えているっていうじゃない。間弓はあの通りすごく生真面目だからいくらなんでもそんな嘘までつくとは思えなかった。あとはあんたの推察とおりよ、わたしを抱かせて見知らぬ女優なんぞ絶対の家に入れない、阻止する心構えね。
こうも言ったわ。由紀子さんだったらかまわない、姉妹であっても。わたしは決意したわ。間弓に協力してあげようって」
幸吉の神経を伝う電流のような痛みは短かかった。その代わり見世物小屋を出た見知らぬ旅人の幻影に柔らかく捕われた。あくまでせちがらさを見捨てたような軽やかで。
旅人は夜汽車に揺られている。
車窓には山間に灯るぼんぼりのようなあかりが擦りこまれ、もの哀しさを浮かばせたが、やがて都市のはでやかな電飾に移りゆく時間を微笑みながら見つめているのだった。
幸吉の予想はすでに夢幻と結託していた。


[479] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し3 名前:コレクター 投稿日:2019年05月14日 (火) 05時50分

遥かなる海峡と向き合った意識の黎明には返す返すも欣懐が眠っているので、対岸の悲傷を見落すまで零落するには早いと幸吉は思っていた。
疑心暗鬼の醜い爛れが高望みにより裏書きされていることを了解していたせいであったけれど、かといって、強欲の貴さをことさら祭り上げるまでもないし、すすんで卑下を是認する律義さは斜にかまえ、傲りが懐の奥でくすぶっている以上、どぶへあぶくが浮くのを讃えるような露悪趣味は廃するべきであろう。
篤実なる欲望が趣味に対しどこまでも嘲笑をつきまとわせたので、乖離を認めさせない有りように白旗を上げるしかなかった。
もっとも含意は明瞭すぎるので必ずしも屈服に堕することなく、むしろ戯れの反旗へとなびいていた。白い裸身が放つ存在証明を疑る隙き間は確実に埋められており、その肉感は道徳的だったのである。
不随意筋に委ねられた託言が夢のみなもとへ吹き抜けるように。
教えにしたがう勤勉が、観察の対象より観察そのものが、視界をふさぐ必然が、心琴を横切る無答責が幸吉の生きる時間であった。
「ここは風見由紀子の家、ここは初めての場所、そして夕陽が束ねられた部屋」
重力に浮かされた軽い清さは暮色へ注がれ、脳裡が蒙昧で満たされる。
こうなると邪魔者は否が応でもそれまで情欲を演出してきた書き割りになってしまい、せつなく撞着を感じたけれど、酩酊のさなかに冴え冴えとした思考が逆巻くふうに、
「これが邪魔者の正体だったのか」
と、霧の秘密にため息をもらすしかなかった。
だが嘆息はすみやかに由紀子の透けるような太ももの裏側へかき消えてしまった。
果てで待ち受ける女陰の暗闇はまさに銀嶺を貫くトンネルであった。幸吉は迷うことなく笑みを呼び戻し、快楽の門へと走り抜けた。
由紀子はあらかじめ見越していたのか、好色じみた激励を声にせず、なにやら実務めいた身ごなしで、けどそれがいかに多淫を惹起せしめるものなのか、書き割りからは見送られ、業務にもたずさわることさえない忘却で、演技するみぶりそぶりに絡まるぎこちない洗練が残され、結果浮ついた色気は舞台でも役者によっても、真贋を問われず終いであって、交わりのみがひたすら至高を継承するのだった。
土地の精霊を崇める儀礼に倣っているとして、いくら痴情の熱で冒されていても、歪んだ認識は生真面目な動揺へと乗り移り、時計の針が柔らかに曲がるよう、幸吉の股ぐらは伸縮を急かされてしまう。
春の兆しや初夏の気配が光線の加減を知り尽くしているごとく、晩夏の意志は多情を暗まし、一途な、おそらく不遜な、どこまでいっても陰画が抱える確定のみだらさの域を脱することは出来なかった。
にもかかわらず、晴れやかな肉感がすぐそばでざわついている陽気さは、現実から遊離した鬼火のような情念をたやすく募らせた。
あたかも烏有に帰すことを忌諱する心性が虹彩の奥へと化身をひそませるように、体位が変われば新たな愉悦が生まれ、交接の技巧はいにしえより脈々と寝屋へと流れていたまぎれもない史実に、優美で淫微な舞いを見出し、男と女の手足は日常の機能を封じられて、ひたすら相手の肌やら胸やら尻やらを弄び、次第に大胆を極めだした頃合いに、ふたたび書き割りからにじみ出た睦言が互いの耳もとへ飛び交う。
「わたしのことずっと待っていたのでしょう」
「そうです」
「どこを待っていたのよ」
「どこって」
「ここかしら」
「それは」
「なによ」
「いえ、そんな」
「じゃあ、こっち」
「ええ、そうかも」
「もう見たよね」
「まだです」
「なに言ってるの」
「だってまだ」
「そうなの」
「はい」
「あら、素直ね」
耳朶をくすぐる温気はごく自然な発生である悦びを隠しきれず、無数の木漏れ日を彷彿させた。
「だったら、こうしてあげる」
せっかく呼び起こされた温もりが冷めてしまうのに、そんな危ぶみは虚空へ彷徨い、今度は不自然な耳鳴りにとらわれ、たちまちそれが夢の皮膜の向こうでさんざめいていた女体の森であるのを知り、幸吉は桃源郷へ舞い降りた心持ちがした。
両脚に挟まれた頭部はさながら昆虫の捕獲を想起させ、というのも、めまいをもよおさせる深い陶酔感に映じた光景は夏日のきらめきをあらかた封じて、視線を反転させるふうに驟雨で湿った落ち葉の裏へとかいくぐり、木々の恩恵を被虐的に覚える、あの仄暗い蠢動で満たされていたからである。
由紀子の陰りの手前において幸吉は地中へ引きずりこまれていくような暗黒の愉楽に包まれたのであった。
その脚はきつく耳をふさぎ聴覚を奪ったかに思えたのだが、あいにく俯瞰図を裏返したあんばいの視界は極楽浄土の唱える済度に至らず、またしても仏壇の奥まったところから立ちのぼってくる白煙でまぎれてしまい色彩こそ遠のいていたけれど、それを補ってあまるべく、音像が醸す不可思議なまばゆさに収斂していった。
見つめることの難しさと息苦しさを前倒しにした邪な感覚がかえって欲情を留め置き、それは制止するのではなく、快感を握りしめた時間をさらに停滞させたので、さながら無限の絵巻物をひもとき続ける刮目へ促されたのである。
むろん色合いの妙は訪れなかったけれども、水墨画の濃淡が魅せる豊かなうねりを脳裡に持ち上げれば、ただちに下半身は溶け出し、しかもこめかみから頬の辺りまで不如意を強いられているという実際が得も知れない、しかるにあえて例えるならいつでも振りほどけてしまう紐を手中にした優位を授かっており、地獄の果てまでその笑みを連れて行けそうな妄念が働くのであった。
こうして形を成さない幼児の願望が成就した。桎梏を世界に感ずるのではない、桎梏がすべてを解放するのだ。
幸吉は夢にまで見た豊饒を暮れゆく森の地面につかみ取った。朽ちた木の葉が敷きつめられた大地の広さを忘れながら。
本来であれば敏捷な動きを感知するのだろうが、それは揺籃からの眺めに似た緩慢さで記憶の底辺へ運ばれた。
無邪気な鬼ごっこや取っ組み合い、誰であったのか、想い出は曖昧であり、男女の区別さえつかない。
身はとても軽く、宙へ浮かぶ空想はさほど突拍子もない考えでもなく、家並みや板塀や瓦屋根の風合いが日毎に異なった光線を受けて輝いたり、曇ったりしていた奔放、細雨を取り集めちいさな流れを作っていた路地裏、駆け回る自由の延長はどこまでも続いており、それを断ち切るのは口やかましい大人と、座敷童のように不意に現れるこの身の発熱くらいだったから、いつも気分は素っ裸で、その割に寒さを恋しく思ったのだが、多分それは一人っ子特有の人恋しさだろうし、自在は線路の果てに消えていったので神妙にあきらめていたものだ。
由紀子はまるで柔道の寝技のようにからだの向きを変え、その前に両脚はたゆたう幻想を切り離したのだったが、なにせ夢中で駆け回っていた興奮がまだまだあどけなく長引いていた頃の記憶に溶けていたし、すでに幾度も女陰を突き果てていたので、一端の男になったような感慨を抱き、かつて水泳部でならした運動神経を賛嘆する意気も交じったのか、そしてその肉体を味わった征服感みたいな充足は幸吉の視力をはぐらかすに上等でありすぎた。
しかし別な姿態へとうつろったとき、もっと上級のときめきが静かにやって来た。
実情はとんでもない驚きに支配されて当然なはずだったけれど、太もも地獄から目覚めた淫欲はたいそう物憂い態度を見せたがり、一皮むけた悪ぶった気性を不器用にまとったせいで、それと、やはり先輩らが隠し持っていた交接の生々しさに匹敵するあべこべな体位の写りの意味がゆったりとせりのぼって、密かにそれを期待していたのが理解されたからである。
まさにあの絡み合いが夕陽を名残り惜しむように、幸吉の胸を焼きつけるのだった。


[478] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し2 名前:コレクター 投稿日:2019年04月29日 (月) 06時20分

かぐわしきものは生身から遊離した幻像が放つうるわしの片鱗であった。
抱きしめている裸形はどこまでも遠く、乖離を求めているという矛盾に苛まれていた。もう由紀子のなかに入ってしまった到達感の意味は、暮色を寄せつけた肉体が雄弁に物語っていたので、あとの行為は儀式が孕む夜の匂いを漂わせていればこと足りるのではと、あたりまえのように受諾した。
劣情の頂点は太ももへの愛撫だったのはたしかで、あれほどまじまじと見つめたく願った女陰は静止せず、それはあきらかに由紀子の気怠くも甘美な意思が働いていたからであり、視点の凝固は叶わず実務のような手引きに取って代われた。
もっとも幸吉にしたところで悠長な前戯をくりひろげるだけの経験があるわけもなく、股間へ埋めた顔面には未熟さを知られまいとする苦渋が張りついており、急かされながら下着を剥いだ勢いにまぎれた気楽なはにかみこそ、童ていが最後に用いるそつのなさであった。
体位はゆるやかな移動で互いの眼を見合うまでに戻って、堅く破裂しそうな幸吉のものは由紀子のひんやりした手がそえられ、恥骨をかきわけながら挿入するのだと息をのんだけれど、篤実な雰囲気を崩そうとしない仰向けの裸体にはどこか気高さをまとっているようで、なにやら申し訳のなさみたいな気持ちがかすり、とはいえ、盛り上がった乳房の張りにはしかるべき熱気が発散されていたし、くちびるを大仰に吸ったり、首筋から肩に甘いせつなさを這わせてみれば、背丈もあり豊満な醍醐味は些細な物怖じを唯美的に包括してしまう。
つまり卑猥のみによって想像していた解剖図は的外れで、あまり役にたたなかったのだ。
かつて先輩らにもったいつけて見せられた局部の拡大やら結合の写真を頼りにし、その肉感や交わり具合を思い描いたつもりだったが、実際の感覚は拍子抜けするような廉潔で守られ、鼻息を荒げるほど淫靡な興奮を招きはしない。
清らかな軟体動物に接しているなんとも名状しがたい触感が幸吉の芯を柔らかく包みこみ、今まで考えていた造りとの食い違いは決して失望に至ったりせず、むしろ真新しい感じを与えるのだった。
恥骨から割れ目が生じていると信じていた幸吉には、秘部の下つきな加減は軽いぎこちなさをもたらしたのだが、沿われるままに差し入れた生暖かな優しさは、濫りがわしいという前に、親愛の情の証しであるよう思えてくる。
きつい割れ目に締めつけられる夢想は自涜の際、手加減が奔放自在だったからだろうし、生身の肉体はより自然な受け入れを所望しているのだ。
強い刺激が訪れるのではなく、他愛ないの連動にこそ官能は住み着いているのかも知れない。
「これがあれほどまで焦がれていたものなのか」
呆気なさは幸吉に醒めた意識を促すように見えたけれど、すぐさま太ももの魅惑が喚起されると同時に、ゆっくり腰振る由紀子の実直に反応したのか、思惑は閉め出され、不意に猛烈な快感がやってきてあっという間にしゃ精してしまったのである。
幸吉は自分の脈うつものを遠くに聞いたような錯覚へ陥ったが、眼を細め感情を押し殺している由紀子の顔色にありありとした密着の宿っているのが分かり、乖離もまた卑屈ないいまわしがなせるわざだと痛感した。
大胆で艶治な姿態にとらわれた肉欲はやはり映画とか書物で育まれた産物であって、よほどの好事家や、習慣に毒された性のつわものが編み出す以外、むやみやたらと芝居めいた振る舞いが行なわれることもあるまい。
水滴がゆっくりと、ある瞬間には速度を増すよう瞬きへ負荷をかけない認識、このなだらかなひらめきは交情から離れて、幸吉と由紀子の距離を見返す一端になった。
それは溺れる素振りであり続けた幸吉の打算を担っている由紀子の演技への解釈の仕方であった。
今西間弓の指示に忠実であるほど、満蔵からの薫陶とも感化ともつかない甚だ迷惑な提言に迷っている意識を霧散させるのが演技者の努めであるはず、なら突然の呼び出しや引きまわしにおける外連味の延長であるべく、そのとどめともいえる性行為において本領が発揮されるのがもっともであるにもかかわらず、案外とあっさりした交わりで終わってしまったこの初体験をどう捉えればいいのか。
不良の悪名は伊達ではなく、その名に恥じない野獣のような狂おしさ、あとさきなどおかまいなしの不敵さにのみこまれると覚悟していた身にすれば、どうにも期待のそがれた心持ちがして、むろん半ば捨て鉢の態を保持していたのだけれど、自暴自棄は必ずしも強制された性質とは限らない、当然、鵺のような暗き欲望に突き動かされ、あらかじめ墓碑銘を用意しておくといった手際のよさも領していたわけなので、持ちつ持たれつの関係であり、距離なのであろう。
要は水着や衣服を透いて欲情していた触れることのない関わりを越え出たのだから、この上もない淫行が望まれた。が、由紀子は全裸になってくれたものの、初めての入り口まで導いてくれたものの、それに先立つ雑駁な陶酔の形相も、あやふやでそのくせ無粋をあざ笑うような媚態も示さず、反対に思い詰めたふうな真摯な仮面から覗かす硬直の片影も見せなかった。
願望は手とり足とり、女体の神秘を教わる下卑た性根に由来しているのを自覚していたのが、はちきれる肉体は残念ながら干上がりを知らぬ泥水まで汲んではくれなかった。
今西家への関与から眼をそらす為だけならば、ましてや年下の垢抜けない中学生などまともに相手するのも馬鹿馬鹿しく、女色がふんだんに散らばるのは狡猾な大人に対してであって、自分みたいなひよっこへやすやすと用いられたりはしないのだ。
いかに偏屈で気弱な恨み言か、しかし幸吉と由紀子の局部はまだつながっていて、萎えてもいない。交情は絶えていなかった。
「なに考えてるのよ」
気遣いでも叱責でも吐き捨てでもなかった。
その言葉を幸吉は幾年もまえから待っていたような気がする。
迷いから出ることを忌避しようと努める方向音痴が求めてやまない問いであった。
「いえ、べつに」
わざと口ごもらせたのは瞬時にして悪魔的な思考がめぐってきたのを直感したからであり、女陰のなかへ収まったものが一段と堅くなるのを衒ったゆえである。
呼応するかのごとく由紀子は少しだけ甘い声で言った。
「もう一回して」
幸吉の描いた嗟歎はせい液にまみれる白濁の世界へと連なっていた。
暖炉の炎に諭された山小屋の抱く野心が白銀一面を怖れないように。
由紀子は両手を膝のうらに当て股をおおきく開いた。すると溶鉱炉で溶け出すような痛みさえ伴わない、けれどもヌメヌメした感じのもたらす滑り心地は明確に伝わってきて、しかもより深い底まで突き抜けていく全能感を得ることが出来たのだった。
「からだを起してみて」
両手で幸吉の胸をつくようにして体勢を固定するよう命じる。
半身を離した途端、由紀子と結ばれている光景を眼にし、その未知なるかがやきで頬はおおいに紅潮して、これは凝視するのが尊く思われ、瞥見しつつまぶたをそっと閉じた。
そして腰を前後に威勢よく振ってみれば、星々のきらめく夜空へ心身が浮遊してゆく高揚感に襲われ、またしても吹き出すように吐精した。
「まだまだよ、もっと」
由紀子は投げつけるような口調で、その表情は無頼の微笑を引きつらせている。
決して不運なんかじゃない、不運を浮き彫りにしてすくいとっているだけなのだ。
そうするなら今西満蔵の野望は褪色したのか、あれほどあこがれた女優の面影が薄れはじめ、快楽に溺れているような由紀子の破顔が色濃く渦を描きだすと、何者にも増して自らを領していた夜の底はつき破られ、時間は時間である桎梏から解き放たれて、汗の滲むのも忘れてしまい、が、水滴の鏡面をつたう情景は冷たく美しく過ぎゆき、重ね合わせた裸形を幽かにいさめるよう鶏鳴を聞くのであった。


[477] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し1 名前:コレクター 投稿日:2019年04月16日 (火) 01時33分

身震いすら生じさせない部屋の空気は縦横無尽に張りつめた糸の免罪によるものだろうか、後頭部から抜け出ようとする微細な伝達は明らかに視覚と結託して、異空間を呼び覚まし、その名残りのような浮揚する金属音を耳の奥で幽かに奏でている。
鼓膜へさえ届かない磁気の責務。あくまで身体の小宇宙しかめぐることがない閉じた地平線の意地らしさ。
限りなく無音を保とうとする粗暴な劣情はなんとか鎮静を得て、生涯かがやくであろう情景を映し出す。
荊棘はなめらかな曲線の裡へ沈み、柔肌が弾く危険な感触に赦しをさずかる。
同様に地平を擦過するのはこの家へと近づいた刹那に思い描いた旅客の眺めだったけれど、記憶を手繰ったまでの寛雅で座席へ染みこんだ感傷はどこまでも静的な美しさのみ讃えており、いくら車窓が視界に流麗な魔法をもたらしたとして、生身の女体とまみえるべく全霊を投げかけている際どさには及びもつかず、またそれぞれを引き合わせること自体、ほとんど意味を成さないので、郷愁はすみやかに定型へ戻っていった。
日暮れにせかされるようそれまで仲良く遊んでいた友達を見送るまなざしで。
幸吉は霊妙な効能を曲がりなりにも宿せたから、今度は明確な時間がはらむ緊迫との格闘を強いられるはめに落ち入り、それは極めて豊饒な密林へと踏みこんだ陶酔を周辺に流す危惧であって、無造作な惑溺のたまものと言えば聞こえは良いが、しょせん手足をばたつかせているだけの不体裁に過ぎなかったので、たぶん由紀子は黙って包んでくれるのだろうけど、わき上がる肉欲になぐさめなど必要ないとうそぶき、なおかつなぐさめをはき違える身勝手は等閑に付され、しゃにむに裸体の裾野も暗所もまさぐり味わいつくしたい衝動を強くもたげていたのである。
ところが衝動の由縁は本然ではなかった。
振り返るまでもない、今西家より経由された灰色の影法師が町のいたる箇所に散在し、由紀子は密命を受けた間諜よろしく自らの役柄に徹しているのだ。
性戯の教えを乞う場面そのものが書割りであって、安直な好奇心や蓮っ葉な遊びとはもはや考えられないくらい真摯で、切実とした形相が表立っており、とてもうたぐりの眼を向ける隙はない。
もっとも幸吉自身が演出にのっとり、重厚なの浮薄なのか、問わず知らず真意を先送りしてしまい、あわよくば卒業とともにこの町へ咲いたあだ花の瘴気を後にするなら、そしてあの荒唐無稽な、兎にも角にも身震いとは別種である骨の随まで震撼させた満蔵の呪縛を断ち切れるなら、あこがれの女優とはまったく縁がなくなってしまうけれど、醇乎とした姿勢は悔いなく青春の墓碑銘と対峙するであろうし、明徴な影を背にして幼き友達へ別れを言えるだろう。
金属のふとした摩擦が不快感を読みあげるごとく、幸吉は由紀子の裸体に難癖をつけてみた。
「まどわしの肉塊によだれを垂らすのは方便でしかなく、敬虔な女陰は汚されるべきなのだ」
はなから承知であった。
霊妙な心持ちはさほど劇的な働きかけをせず、生まれてはじめて容色を意識した異性の肌に接するぎこちなさを。
これだけ案じればもう十分でないか。
幸吉はさすがに暗がりばかりのぞく構えを呪ってしまった。そして由紀子の肉体を照らす光明であることも悟った。
どうにでも応えてくれるに違いない。なすがままにむしゃぶりつけばいいのだ。
欲情の満潮に達して下着をはぎ取りにかかったのだが、幸吉の覚束なさに手助けしようとしたのか、両の膝をたてたのが却って脱がしづらくなってしまい、思わず上体をのばしたところ、たちまち黒々とした恥毛が眼の当たりになり、幼児期以来の繁茂を、秘所を間近にした興奮が尋常であろうはずもなく、うまい具合ですっと足もとまですべり落ちてくれないもどかしさは失望と相まりながらも、花火の先へ点火したときに似た期待を胸に刻ませた。
すぐにはちきれんばかりの脚が畳にまっすぐ伸びて、うろたえはかろうじておさまり、これでうまく運べると安堵したのだが、起した視野に飛びこんでくるあまりの女体らしさ、惑乱する意識のつかみとれなった裸身像はいよいよあらわにせり出してきて、臀部から太ももの外側へ流下する気高くもまるまるした肉づきが瞭然となり、しかも恥毛はちらほら下地を淫らにのぞかせているようで、と言っても女陰はまだあからさまになっておらず、ただ股の付け根へそって逆八の字でつたう下半身の壮絶な蠱惑がまさしくYの字で成り立っていたから、幸吉は頭がクラクラしてくるのだった。
それでもむっちりした太ももへ留まろうとする下着に手をかけ、焦燥とも賞玩ともつかない胸いっぱいあふれる悦びをかみしめつつ、記憶にまどろんでいた精霊流しの夜景を呼び覚ませば、その杓子定規な幽玄に囲繞されている不思議さに導かれるようにして、劣情はしめやかなともしびへうつろうのだと妙に感心する始末だったけれど、そのしんみりした余韻こそ儚くも激しい生命の照り返しにほかならず、さらに息のむ瞬間を支配する夜の地平より届けられる蕭条とした流露は祭礼に用いられる玉の音であるようで、半ば放心のさなかに今この見晴らしが開かれるのだった。
摩耗する金属音との相似をたなびかせ玲瓏たる響きはふくよかな股間の谷間へおちゆく。
ついに全裸となった由紀子へおおいかぶさった幸吉は、厳しさと優しさを合わせ持つまなじりに歯向かうことなく、が、決してないがしろにするような不逞はまかり通らない気がして、とりとめのない夢想をめぐらせた。
それはあまりに未熟な息吹きでしかない安直すぎる児戯であった。
自分でも馬鹿げた想念だと呆れてしまったのだが、満蔵の申し出に対し逆手をとるあらましで講ずるなら、隠し子の女優との婚姻に代わってゆくゆくは由紀子と結ばれたらどうなるのか。
懇願とはいえ、またあまりに突拍子もなかったゆえ幸吉の胸間へ居座ったのであれば、その形体のみ借り受け、墓碑銘の裏側にでも立て掛けて置いたら趣向にかなうのではなかろうか。
この思いつきを由紀子が知ったとして・・・いや、良くも悪くもそんな朽ちた考えを口に出してはいけないのだ。
一見、由紀子をいたわっている誠意と、どこか媚びた稚拙な顔がのぞいている様子とはうらはらに、後戻りきかない交接をなにかしら悔やんでいる心象があぶり出ていることに幸吉は気づいていなかった。
綿密な恥じらいの随所には仕掛けられた陥穽があってしかるべき、狂言まわしの役得と見晴らしの約定は必ずしも一致するわけではない。
それどころか羞恥にこだわるあまり、一刻も早く由紀子の恥部を拝みたくて仕方がなかったのである。
この不誠実さもまた幸吉を放心させる一翼を担っていた。
恥部が秘宝だとしたら、陽のあたらない箇所までたどり着くあいだに得られるかぐわしき戦慄が探検家にとってどれほど重要な意義をなすのか、ほぼ本末転倒の勢いで承知していた。
危なっかしい岩肌にしがみつく心もとなさへ付随するいわれなき安寧と同じ境地に立った幸吉は、自ら持てあますほど堅くなったものへ全身の血が流れていく醜さにどぎまぎしたが、
真っ裸になった由紀子の天女のようなささやきで全霊は救われた。
「いいのよ、今日はだいじょうぶな日だから」
よく意味をのみこめないまま、せつな気なくも落ちついた声でそう言われた幸吉はようやく肉欲と手を結べた。
狂おしい貪欲な眼は下半身への愛撫を命じる。
由紀子の脚がひろがるのか、幸吉の手がかき分けるのか、定かでない。
くちびるを這わせた太ももの付け根あたりに耳を押し当て、肉体を聞き取る。が、せわしない調子ですぐ陰りを見つめては舌を不器用に使ってみる。
全容を見届けるには焦り過ぎかも知れない、あまりに太ももが愛おしく頬ずりしてしまい、どうにも奥地へたどれなかった。それならと、まるで前線に臨んだ一兵卒の奮起がおのれを諌める勇気を内包しているように、戦火の灼熱でひりついた、しかし火傷を負うことはあり得ない、もちろん岩肌みたいな危殆だけのそっけなさとは異なる温浴に似たまぎれもない安堵をかき抱く。
由紀子自身もあばずれと思わせない為か、ささやきをもらした割には大胆に腰を浮かそうとはせず、股間はあくまで薄日射すほのかさで守られており、汗の匂いも立ちのぼらせていない。
五感を研ぎすませた幸吉は、もう随分まえに忘れてしまったようなわずかな黴臭さが新鮮だったので、あの道行きを先導した夕陽の色濃さが由紀子の家に立ちこめているとばかり思いこんでしまって、さぞかし野趣を極めた燃え盛る肉体の演舞が彩られるに違いない、草木のいきれでさえ十全の構えで晩夏を謳いあげているのだからと、この情況を観照し、うら寂しい失意にあまねく愉悦が隠されているかの親しみをもち、股の隙き間にのぞく畳のへりをしみじみ見つめるのだった。
やがて時刻はたそがれへと傾き、黴の匂いも鼻孔をさまようすべを失い、興奮の切れ端にまぎれて消えたのか、ところがこの交わりは周到にはりめぐらされた怪しの夜気を待ち望んでいるよう思えて来て、しごくあたりまえの部屋の雰囲気は変調をきたしたけれど、忍びよる未知の気配を予言しているすべては由紀子の裸身にあったから、幸吉は限りない息を柔肌へ吹きかけるのだった。


[476] 題名:L博士最後の事件簿27 名前:コレクター 投稿日:2019年04月09日 (火) 05時14分

ひざ頭の上までまくれた白い脚がまばゆく幸吉の眼を照らし出している。
武骨を退け、あくまで柔肌だと唱えてやまないひざ頭に守られた肉厚の両脚は横座りがよく似合って、太もも同士の合わさる加減もまた女体特有のもどかしさを訴えていた。
ここはわたしの家だから・・・そう言いた気な面持ちをあらわにするより早く、下半身はくねり、さながら活劇における女傑が自らの巣窟をしらしめるときみたいな、野蛮より肉感を武器にする気概がうかがわせたので、いっそう幸吉は芝居の妙に感じいってしまい、もっともそれは横柄さを下敷きとせず、あくまで豊麗な仕草だけを映し出しているような魔性の香りをたなびかせていたから、うれしさの理由は思い悩むことを包括しているのだと気づき、胸は高鳴り続けていた。
動悸に教えられ、まだ正座したままの姿勢だった幸吉へ詰め寄る女体の幻影をよぎらせては、過ぎゆく夏を絡め取ろうとしているもがきに息苦しくなり、倒れこむような勢いで覆い被さる場面を幾度も反芻してみた。
うらはらに由紀子はやや疲れた微笑みを保ったまま、落ちついた様子で麦茶を飲んでいる。
が、まさしくおもむろに間隙をつくり、あたえてくれたものかどうか断定することは容易でなく、むしろ手にしたコップが無惨に割れてしまう怖れへ移ってしまい、罰の悪さを呼び出すだろう悔恨が歯止めするのだった。
いや、それすら時間の経過ばかり気にしている怯懦の域を抜けたものでないと感じられ、気力が萎えてしまった。
これ以上の間合いはぶざまであり、情けないことも承知している。
唯一のよりどころは由紀子の自在さだったけど、どう見積もってみても間諜の命を受けた意志が働いているのだから、手綱はやがて引かれるのであって、むやみやたら焦るほどに見苦しく顔が歪んでしまうだけで、悦楽に身をまかせようとした流露は汚れてしまう。
夏の日にあらがう不用意な精神を全的に塗りつぶして欲しいと願った戯曲はどこまでも健やかでなければならない。
胸の隅っこへ残された宿痾が存在証明に委曲を尽くすように、開き直りを装った昏迷は時計の気だるさに機会仕掛けの妙味を見出し、いよいよ夕暮れを告げだした空模様の色合いに限りない哀愁をお仕着せる。
精確で揺るぎない運命に先まわりし意義をあたえ、日没の無垢な感情へと埋没する。
いつの日かこの瞬間が切り崩された要害から転げ出す石のように、真新しい音を立てた光景を培ってきたのは暗黒の累積だったのかと、重力の不可思議へふたたび意識を投じて、夜明けの訪れに導かれた足どりの闊達を覚えるころ、陽光のまぶさしに眼を細める大仰な仕草がよみがえるだろう。
幸吉は茶番を演じているのだと卑下することで、由紀子の自在から解放されたような錯誤をかろうじて持ち得たのだったが、矮小でおぼつかない惹句は効果を生むものでなく、空まわりの虚しさが見せかけの汚点に萎縮しきったそのとき、夕焼けが窓をぱっと焼きつけた。
さっきまで着ていた由紀子の衣服を幸吉は脳裏に浮かべ、潮風へひるがえったその鮮やかな情景に自分でも呆れるような老成を含ませると、
「呉乃志乙梨」
そうため息のごとくつぶやいた。
「えっ」
由紀子は怪訝な表情をつくる間もなく、口辺へ漂わせた穏やかな微笑にわずかな亀裂さえ認められなかった。
「僕があこがれた女優の名前です」
あのとき背伸びにともなったむず痒い感覚がありありと面影を呼び戻した。
そして今ここに居る女性の、憧憬とは縁のなさそうな唐突をまとった、しかし地続きの荒野が空漠だけで充たされているわけでないありようの、夢の輪郭にそれとなく触れた想い出が、過ぎゆくときの流れと潔さを忘れた沈滞へ呼びかける。
由紀子の顔色からこの数日に起こった突飛な経緯を読み取る必要はない。いずれ明白になるのだから。それより萎縮した神経にめぐって来たこの照り返しのさなかを見逃す不手際は避けたい。
あこがれに遭遇したとき好機を決して逃さなかった意気込みはどこへ行った。これほどまで窓を染めあげ、部屋の隅々まで黄昏を送りこんでいる太陽の暗き欲望に忠実であれ。洞穴を好んだように夜へと急ぐ翼をこの背に生やせ。
由紀子の動じない姿勢は気性によるものなのか、耐久を強いているせいのか、考えまるまでもないだろう、そんなことより自ら仕掛けるのだ。むろん奸計などではない、今そのものに手を触れ、くちづけするのだ。
蒙昧のさなかに点じられた欲望を振り返るな。
夕陽を背に受けながら幸吉は両膝をしっかり立たせ、どことなく浮世絵を彷彿させる由紀子の無防備でいて手強そうな品をつくった絵姿へ影を落とした。
目配せのようには明示されてなかったけれど、のびあがり入道のごとく実体を影絵のなかへ吸いこませた幸吉の鼻息くらい由紀子だって感じたに相違ない。
少し疲れ気味な面差しに宿った隠しきれない哀憫を退けることなく、なおかつ持ち前の気概をそこなわず、華々しい夏の終わりの赤々とした光線に包まれるように、型通りの惜別さえ忍ばせながら幸吉を見上げたのだった。
睫毛の先まで透過する夕陽の明るみを待ち望んでいたという風情で。
折り重なるかたちで由紀子のからだへ倒れこんだのは幸吉の虚脱ともとれたが、その実、羞恥に背を押されたようであり、また怯懦も健在であったからあらゆる要素が溶け合ったとみるのが相応である。
その甘ったるく投げやりな情熱を由紀子は受け入れた。
くちびるは吸盤の役目を担ったふうに息を奪い、指先はどっちが右やら左やらままならないうちにお互いの背中へまわり、腰までたどると、しっかり眼を見開いていた由紀子は、
「脱ぐから」
と言って半身を起こした。
茫然としたまなざしを送っている幸吉にはあっという間に乳房をさらけ出して白い下着だけになった女体が想像以上に神々しく映った。
両手を幸吉の首のうしろへ組みながらゆっくり身を倒し、全身から発している焦熱のような吐息を吹きかけ、あらためてくちびるを激しく重ね合う。興奮と愛着を一気に高みまで運んだ由紀子は半ばくちを開け、相手の舌先を踊らすようにしたので、よだれは樹液の粘りに倣ってあごをつたっていく。
軽く閉じていた両眼を覚まされた幸吉は時間を惜しむ奇特な思いに駆られ、しなやかな首筋を下るようにしてたわわに実った乳房へ吸いついた。
すると昂りに溺れていそうで、そうではない鋭意をはらんだ由紀子の視線が一瞬冷たく放たれた気がしたけれど、すぐさま陶然たるうるみに艶めいたので、あたかもスイカにかぶりつくせっかちな食べっぷりをなぞり始めるのだった。
もちろんその張りはあまりに記憶の底辺に沈みこんでいたあの懐かしさをくみ上げて、同時に今まで味わったことのない弾力を有しており、身にあまる光栄だと生真面目な感謝が捧げられりした。そのくせ恐る恐る舌を使って乳くびを転がしてみれば、にわかに硬直した異物みたいに感じられ、不届きなことを行なっている自責で苛まれつつ、遠のく意識のあるがままを夢見の調子で眺める冷静さに驚きもした。
それが過度な熱中と拮抗しているのだから、なおさらかつてない意識が瞬いているのだろう。このまま冷めた感覚を維持できれば頼もしくあり、このうえもない快楽を得られるところだが、発汗でまみれた眼球に沁みる痛みを覚え、はっと我に帰るとそれもそのはず、衣服を着こんだまま女体と交わっているせいで燃えたぎるのであり、しかもすぐそばには扇風機が勢いよく首を振っている。
脱衣を促さなかった由紀子に少々問いかけじみた想念が浮かんだけれど、思考する余地こそ捨て去るべきだと慌てて同じすがたになった。
心音も重なり合うのだろうか、殊勝なひらめきで感心しているよりさき、裸体が密着した情況には新たな感激の波が押し寄せ、どうにも認めるのがためわれていた局部の膨張を悟られる気恥ずかしさがあらわになってきた。
とても衣服や水着を通して欲情していたよう風雅にはいかない。
水泳で育まれた肩幅の頑丈そうだけれど、華奢な骨組みや腰のくびれをしみじみ眺める余裕はなく、ましてや汗を弾き飛ばすほどに獰猛な神聖さで圧倒するまるまるとした肉づきを顕示し、駿足の獣をも想起させる太ももへ眼をやるとき、幸吉にはやるせないほど、いてもたってもいられないくらい劣情がやってくるのであった。


[474] 題名:L博士最後の事件簿26 名前:コレクター 投稿日:2019年04月02日 (火) 05時53分

夕暮れは訪れを引き延ばしているのか、それとも日曜の午後の過ぎゆきがいつものように、神妙な緩慢さで運ばれているせいなのか、加えて残り少なくなった夏休みの華やぎがもどかしく感じられるからなのだろうか、由紀子に誘われるまま幸吉はあとさきなど考えてみる余地もなく、眼前に立ち籠める草いきれの隅っこへ打ち捨てた良識を見つけだそうなど思ったりはしなかった。
また見つからないことにぼんやりと、しかしながら足もとへ続く舗装されてない地面に刻まれた記号のように刹那の証し有しており、傷口に似た痛みさえ訴えかけてくるので、決して漫然な情景へ吞まれしまっているわけでなかった。
それだけに軒下まで生い茂った夏草のあらくれを鎮めるふうでありながら、同調をねだっているオニユリの背丈や、黒い斑点を毒づかせる花弁の反り返りに、強靭な意欲が感じられた。
あわせてキキョウやノアザミの毅然とした風姿に支えられた立ち上がりの色合いも負けずと鮮やかで、あるいはナデシコとヨメナの可憐さにひそむしたたかな見目に、緑へ降り積もろうと試みるヒメジョオンの殊勝さに、そして林縁から種子が飛来し板塀へと沿わせ頼りなさげに生えるオミナエシ、道端ぽつりとゲンノショウコのさりげない主張でこころは静かに波打つ。
普段より車の走行のありそうにない道筋は竹林の一角で陽当たりが遮られたり、短かい橋下を低く緩やかに流れる小川に連なって、四五軒の家並みをあらわにし、ふたたび雑草らが敷きつめられた青々しい眺めに包まれていた。
この町の東西南北を隈無く知り尽くしていたような過信がいかに子供じみていて、反対に子供のむやみやたらな空想でもってあらぬ土地勘を作りあげていた実際が、鈍く幸吉の頭を揺らした。
確かこの辺りは駅を通り越した奥地なはず、十指に足りるくらいしか列車に乗ってこの町を離れたことはなかったけれど、高く盛られた路盤から見下ろせる民家の佇まいが車窓をよぎってゆくとき、必ずしも深く激しくはなかったのだが、なぜかしら寂しげな音色をともなう華飾な気分になった。
古めかしい瓦屋根の点在するひとこまに寂寞を見出すのはわかっても、どうして派手やかさを感じとったのかよく理解しづらい。
ひょっとしたら隠れ家に引き寄せられるような、また廃屋やらお化け屋敷やらに魅入ってしまう怖いもの見たさが騒ぎだしたのか、だとすれば少しうしろめたい心象をたなびかせてもおかしくないはずだったが、ほんの束の間しか眼に出来ない制限はかえって自由な情趣を眺めにあたえたかも知れず、走る線路の彼方には野山をかき分けた街の光景が臨まれるわけで、なるほど車窓へ瞬時おさまったひなびた民家は、さながら上京する者の胸にわき起こったあまりに性急すぎる郷愁であり、その画像なのだろう。
今の幸吉も同じ感興を抱いていた。
列車の振動は非情でしかなく屋並みから遠ざかる宿命にあるなら、都心へと向う進捗にはやはり華美なうしろめたさが張りついているのだ。思い切りが悪いと言えばそれまでだけれど、希有な経験の連続に線路のありようを結びつけてしまう情調はある意味仕方ない。
過ぎ去る風景を埋めたのは路盤の端々に色づく野花の寂寥だったのだが、ただ寂しいだけでなく、雨風はもちろん車両の圧力にだって耐えうる根強さをのぞかせていたから、既視感は名分をあたえられたようで幸吉は道筋に新鮮さ以外のものを感じた。
現に線路を越え山裾近くまで踏みこんでおり、ことさら珍しい草花の群生に囲まれているわけでなかったので、いくら知らない地域だとして格別の驚きや感銘を持ったりはしない。逆の方角にも線路は延びていてその一帯だって似たような場景があるかも知れないし、変わらない風が吹いたりして、同じようにひっそりした空気を軒や物置小屋のまわりへ溜めているような気がした。
もっと言えば日本の隅々を探ればおそらく寸分違わない光景が存在している。揺曳を身上とする既視感は儚い指標でしかなく、それは心地よい耳鳴りであり不可侵を建前とした特権だとしても、僭越的な郷愁を忍びこませることは出来ない。
日々のうつろいに薄幸の美徳を見出せたなら、山の音が幽かにでも聞こえたなら、トンネルへ侵入した列車の窓が鏡のごとく闇を受け入れたなら、彼方はもうそこにある。
由紀子は言った。
「すぐそこよ」
真新しい体験を目前にしてなぜ幸吉は理念めいた記憶の流れを呼びこんだりするだろう。しかも敬虔な情感に隣接した諦観のごとく。由紀子の裸体へ触れる果報が待ち受けているというのに。
そう考えるとさすがに苦笑いするしかなかった。
どうあってもこの一風変わった道行きには沈着でいられなく、お茶を濁したに過ぎない。
それくらい由紀子の肉体が透けてどうしようもなかった。武者震いだと自分へ言い聞かせてみたものの、不意に鏡を差し出されて当惑する恥じらいの招きでしかなく、気宇が整っていない明かしを知るばかりであった。
草いきれの欲した夕立ちのあとの閑寂をまぼろしのように周囲へめぐらせた幸吉は、由紀子のひとことが深い沼よりゆっくり浮かび上がってくる泡沫に想え、その水面へ小さな産声を返す自分のすがたと向き合った。

視野に入れることさえ等閑にしていた由紀子の家構えをまじまじ見据えたとき、はじめて幸吉は道行きが地獄流しでも桃源郷めぐりでもない現実であることの生々しさと渇きを覚え、素直に緊張を認めた。
その家の造りは豪奢とは無縁であると同時に、祖末な雰囲気を持ち合わせておらず、幸吉の住まいと比べてみても何ら見劣りしていない、先入主にとらわれた意識の持ちようが門口から打ち消されるのは、軽い刺をいじることで得られる痛みに似て安楽さが表立つ。
とは言え、全身をこわばらせている幸吉からしてみれば、つぶさに玄関を通じて部屋数までうかがう余裕が生じるわけもなく、瞬く間に風見由紀子の家の中へとさらわれていったのである。
そして土壁から発するような黴の匂いが穏やかに鼻先をかすめ、裏庭まで立ちこめている様子が夢幻とせめぎあう実感をもたらした。
幸吉が腰を下ろした部屋の畳にもその匂いは染みているのか、ますます息づくことの確かさが上半身から降りていくのがわかり、なんとも名状しがたい複雑な居心地に足を崩せない。
由紀子はごく普通の口調で、
「なによ、その座り方」
と、幸吉の緊縛をやわらげた。
「いま冷たい飲み物もってくるわね」
そう言ってふすまを開けたまま廊下に足音を響かせ、ごく近くへ遠のく女人の面影は部屋に残されるのだった。
由紀子の部屋・・・鎮まったのか、鎮まっていないのか、よくわからない胸の裡に幸吉のつぶやきがこだまする。
ほとんど飾りを忘れた由紀子の素顔がこの部屋には横溢しているような気がした。
ありきたりに勉強机は壁際を占拠し、その隣には本箱が体よく配置され、教科書や参考書の類いも逸脱とは関わりなく、平然とした並びに準じている。目を凝らしたわけでないけれど、軽く見回しただけでことさら際立った個性やら、推していたやさぐれたけばけばしさなど無く、幸吉はこの期待はずれをどう噛みしめるべきなのか、妙な心持ちになった。
今西間弓がそうであったように、由紀子もなにかしら大仰な芝居を演じているのではないだろうか。あらためて忖度すべきことでないのは承知だったが、的確な答えは導きだされるどころか余計に混迷してしまうのだけなので、いっそ思考停止の状態へ自分を投げてしまうべきだと幸吉は判断した。
しかしながら確乎たる判断とは違う、かなり曖昧で身勝手な考えに止まっただけの下卑た意向に過ぎなかった。
ここに来てようやく幸吉はひとりで居る時間を持ち得た。わずかだけど緊張の糸が緩んだようだ。
由紀子にとって肉体の提供は果たして何の対価となるのだろう。聞き出せるのなら聞き出してみたい。所詮は興味本位の粋にとどまるのか、それとも激しい義侠心に駆られているのか、恋情を正気でまかり通らせるためには明朗な拒絶が求められたように、欲情の解放にも似非の狂気が用意されているとしたなら、その原理に甘んじてやまない自分こそ、不良の精神の上澄みをかすめ取った軽薄者である。
これで十分であった。由紀子が扇風機と小ぶりのやかんを両手にぶら下げて戻った。やかんには水滴が汗のごとく吹き出している。
「これすごく冷たいのよ。裏の小川に浸けておいたからね」
言いながら手際よく本箱からふたつコップをつかみ、麦茶らしき冷水を勢いよく注いだ。よく見るとコップにはキリンビールの商標が白く浮きだしていたので、もしかしたらビールではと一瞬勘ぐったが紛れもない麦茶であった。
遠慮なく一気に飲み干したあと、由紀子の洋服がちりめんみたいな生地のワンピースに着替えられているのに驚いた。
どうみたって寸法が縮んだというか、背丈の合っていなのが瞭然である。さっきのは一張羅なのよ、それに汗かいたしね、言葉にはしなかったが、あきらかに表情はそう喋っており、生地の薄さはいっそう肉感を強めているのがよくわかって、幸吉はうれしさを隠しきれなくなってしまった。


[472] 題名:L博士最後の事件簿25 名前:コレクター 投稿日:2019年03月19日 (火) 03時34分

子供らがのぞかせる無邪気な顔を確かめることもなく、密会の暗がりは白々とした空間に点じ、浮わついた灯りさえかき消されたのか、そこをたどってけば小学校のプール際に抜け出るというまことしやかな言い伝えによって、虚しく励まそうと努めていたけれど、由紀子と連れ立ってかつての通学路を歩んでいる胸騒ぎの正体へ気づくほどに、時間はひとっ飛びにあの水着からはみ出すような裸身を想起させたので、さながら目覚めの良い朝をかみしめているふうな心境になった。
子供のときだってつい先日までだって防空壕の迷路を抜けようと試したことはなかったが、道行きの高まりは確実に幸吉の暗部を照らし出し、いとも簡単に秘密が溶け落ちそうであった。
小学校を通り過ぎ、まっすぐふたりは進んだ。すれ違う人影はなく、その閑寂に息を合わすよう話しも抑えられた。
斜に射してくる陽射しを受けた由紀子のワンピースがいっそう朱に染まり溢れたかがやきを呈すると、熱風に呼び覚まされた潮の匂いが前方から漂いはじめ、港に碇泊する漁船の揺れと軋みが眼前で展開しているように思えてきた。
歩調に乱れはなかった。
胸打つ鼓動を鎮めようともせず、もの思いのわき起こる様へまかせている間に足どりは海辺と並び、潮風は紛れもないものになり、海鳥の飛翔は鮮やかな曲線で描かれ、湾岸の位置を示しているかのようである。
眺めた山稜には一条の赤みが被さって碧空のひろがりを拒み、けれども太陽光線の熱意は海面のさざ波に照応して、まだまだ日没との距離を縮めようとはしていない。
由紀子の家はどの辺りだろう。
ごく自然に眺望から卑近な考えがこぼれたのはややあってからであった。
午後の思惑は風向へ乗ったのか、いっそのこと岸から離れ、船出してどこかの小島に由紀子の棲家があったなら、さらなる冒険に身をあずけたとしたら、そんな夢想をよぎらせては遠い町並みの景色に生彩を施し、見知らぬ土地の風向へ覚束ないまなざしが捧げられた。
とはいえ、卑近な在り処に遜色があるわけではなく、稠密する民家の猥雑さを却って懐かしむような浮遊した倒錯にみずみずしい透明感を見出すのだった。透け映るものが由紀子の肉体を通してであるのはわかっている。
そこまでの想念は心地よく、浜辺を支配している穏やかな情調とも折り合いがとれていた。
幸吉のひとりよがりに水を差したのは、押し黙った気構えに未知の緊迫を滑りこませた摩擦であった。
潮風に煽られる家の造りとばかり見当をつけていた幸吉にしてみれば、後戻りの調子で港を背にして河口をさかのぼってしまった道行きに、急ブレーキを踏んでしまった横滑り以上の唐突が告げられたのであった。
唖然としている顔つきをまったく気にかける素振りはなく、回り道なのか、引き回しなのか、単なる気まぐれなのか、よくわからないまま、微笑とも険阻ともつかない穏やかな能面を想わせる表情を保ち、歩幅に同調を求めてくる。
もちろん無言ではあったけれど、幸吉には由紀子の不敵な態度が伝わっていた。見果てぬ夢の限りなさを枕もとに絡みつかせているかのごとく。
ましてや不本意だろうが、理不尽っだろうが、奸計だろうが、丸刈り頭のどうていにとって女性の黒髪が絡まる場面は幽遠な音色を常にたたえており、それはなにも高邁で婉美な感覚に打ち出された風雅だけで解釈されるはずもなく、どちらかと言えばけばけばしい彩りや安物の駄菓子の包みに見られるいかがわしさ、ひいては清楚な装いを剥奪された淫らを身上として、はじめて肉感へ向き合えるような期待が内包されているのだから、今すぐに触れられそうな由紀子は零落した天女の面影を宿し、寝屋もまた荒廃した生臭さを放っていると思われ、竜宮城の華飾や瀟洒な奥座敷での優麗なもてなしとは異なった空間へなだれこむのが一番似合っていると察せられた。
やがて生真面目に陽光を浴びる電線の影が通り道へまっすぐ伸びた先、閑暇をもてあましたふうな野良猫くらいしか見当たらなかった夏の日曜をいきなりせわしくさせる情景と出会った。
合理的ではない何かを、それでいながらふざけ合うに足りる快活を認めているだろう好奇と不審の眼顔。幸吉はすぐに思い出した。あれは夏休み前、静子の欠席を確かめに下級生の教室へ赴いた際、会話した女生徒のなかのふたりであった。
おでかけしているというより、どちらかの家へ遊びに来てその見送りの様相と判断出来そうな場面である。ふたりの女生徒から見れば、異様な組み合わせを眼の当たりにしてしまいさぞかし驚いたに違いない。しかし幸吉は意に介さなかった。静子に対する引けめより、悪名を持つ高校生の由紀子と居並んだ姿が誇らしく勝って、今までにない真新しい感度だったので単純に気分がよかったのである。
さてこれは引き回しと解釈するべきなのか。そもそも放課後という学生たちにとって絶好の時間と場所は休校では効果を発揮するどころか、ちょうど閉店後の食堂が空腹を満たさないように、恋文も告白もその書割りの背景を失っているのであまり賢明でない。
どうしたわけで由紀子はあんなところを待ち合わせに選んだのだろう。そして港の風景に接するため迂回したのであったら、なにか意味ありげで、麗しい瞳のなかに燃え盛る情熱を鎮静させるが為などと、感傷をもぐりこませてしまう。
無駄話を避けているのではなく、道すがら核心に至るような会話が軽く弾んでしまうのを憚っているのか、とにかく由紀子の面様には決然とした目的がうかがわれ、不用意な問いかけは出来なかった。
だが、たとえもったいぶった造作であったとして、からかい半分の足取りであったとしても、由紀子はなんらかの使命感に縛られているみたいで、望んで幸吉に同行している確信を得ることはなかったし、それは強引だったと語っているように、いきなり好意が肉体の解放につながること自体、不思議なゆきがかりであって、いくらませた高校生だとしてみても、ぎこちなさが顕れてくるのは仕方ないこと、このさなかはやはり白日夢なのだ、恋し恋され、騙し騙され、虚に虚を積み重ねる、もし青春の墓標がすぐ近くに存在するのであれば、幸吉はいつも手の届く範囲で安易な惰眠をむさぼっている痴呆に他ならず、永遠の眠りが覚醒を平気でうながすように、平穏な彼岸には妖しさを身にまとった魔物の触手が延びていて、なんなく悦楽へと傾きかけるのだった。
由紀子のだんまりにひそんでいる悲愁を踏みにじっているのは自分の方かも知れない、おどおどしつつ甘んじているのだから結局、不遜だし能天気なのだ。
道のりはすぐそばに踏み切りを知らしめ、ほぼぐるりとめぐっただけの散策に似た気楽さを受け入れようとしたのだったが、けたたましい音とともに単車ですれ違った由紀子の同学年らしき男のにやけた挨拶を疎ましそうに払いのける仕草を見た途端、それまで不純物の堆積でしかなかった意固地な考えはにわかに氷解してしまった。
たぶん由紀子に沈滞した意志は思ったより掃き溜めの腐敗でも、投げやりな言動が宙を舞わせたあげくの瞞着でも、道ばたに取り残された水たまりの澱でもなく、かといって雨上がりの晴天を見上げるような健気な照り返しを模倣する雨水の結晶などではない、もっと不確かで、底なしで、そのくせ見え透いた自尊心に癒着した、剥がれようもない、反対に内側から侵蝕してしまう勢いの、とてつもなく過剰な森の気配、あるいはその主人、詩情は満ちてきた欲情の波に洗われ、幸吉も通過点のごまかしからもとのまなざしへ戻ったのであった。
静子に打ち明けられたその夜、幸吉は由紀子の企みなど浅いものであり、口先では色仕掛けみたいなことを言っているけど、不良だとしたならその仲間をかり出して恫喝すればこと足りる、どうせ碌な仕打ちは受けないだろうと腹を括っていた。
ところがすでに強烈な白日夢を経験してきた幸吉には、つまり今西家の妖異や新鮮すぎた静子の恋情は遠い過去ではなく、未だ燻っているかがり火であり、転倒した言い方を使えば、いにしえより灯しを絶やしていない矜持によって白々とした明るみのあちこちに闇を見出しては、か細い灯りに息を吹きこむ、防空壕における静子との遊戯がその伝統儀式の名残りであったとするなら、もしそこから引きずりだすのなら、それなりの大義を見せてもらわないとなにもかも台無しになってしまう。
由紀子もまた幻想に操られた悲しき形骸かも知れない。しかしその形骸に色づくかぐわしさこそ幸吉の憧憬の根源である限り、いくら浮ついた心地になびかされようとも見極めはついていた。
由紀子は本気で賭けに出たのである。
「もうすぐよ」
幸吉は欺瞞ではない屈折を感じとった。ぞんざいな甘さを持っていたからだった。
線路をまたぐと道は右に折れた。港界隈とは雰囲気が異なるけど、はじめて足を踏み入れる路地であり家並みが幸吉を待っていた。




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