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[471] 題名:L博士最後の事件簿24 名前:コレクター 投稿日:2019年03月12日 (火) 02時35分

「まったく暑いわ。はじめまして、わたしの名前は承知してるわね、燐谷くん」
「ええ」
無愛想な語気だったけれど、予想を裏切らず口火を切ったのが由紀子の方であったことにより、幸吉はちょっとした虚脱に襲われ、同時に温めてきた好奇心から反感に似たなにかが差し引かれていったので、相応な返事だとひとり悦に入った。
ただ、由紀子の続く言葉を夏木立や小径の奥から引き出そうと努めているその柔らかな横顔、すこしだけ緊迫を告げて見えるまつげの張りにやはり萎縮して、算盤の玉のように浮ついた気持ちは弾かれてしまい、卑屈な服従を認めるしかなかった。が、それ自身、晩夏の詩情を包摂している美徳に思えたから、暑さはあらがいを自然に呑みこんで、うまい具合にお互いの了解を深める糸口となった。
「呼びつけたりして悪かったわ。でも来てくれたからよかった。随分ためらったでしょう」
「なんと言うか。驚愕しました」
「あら、それはごめんなさい。私はあなたに興味があるの、だから強引な手を使ったわ。どうしても気になったのよ」
まさに静子の口ぶりとおりであった。寸分の違いも感じられなかった。この事実に、由紀子から直で語られているという艶然とした調べに、たとえ放恣であっても防空壕の暗闇を抜け出した言葉に、克己を忘れてしまった締まりのない頽廃が匂わす芳香に、猖獗をきわめる悪しき世相のあぶくをすくっているような思い上がりに、そして猛禽類の爪でさらわれる危難を銀幕へ貼りつけた夢想に陶酔した。
女豹とその飼い主を混淆させたまま、幻影に身を投じる癲狂、演劇と愚挙、なにより股間の膨張が精神をうわまわっている掻痒に幸吉の生命が隠見していたから。
「では行きましょうか。ここじゃ、落ちついて話しできないし、汗がしたたり落ちてくる。わたしの家まで来てちょうだい」
向こうから切り出すのは予想できたし、小径におさまりきらない筋合いであることは、木漏れ日がいくら恬淡な光景を知らしめてくれても、その効果は逆に強烈なモノクロへ傾斜してゆくばかり、不断の努力など仇になって、それは幼年時かいま見た寺社の裏で神仏にすり替わって浮遊している妖魔を思い起こさせ、身震いと一緒に生じるへその下あたりの痒みとは異なる惰弱な切なさであって、独りぼっちのわびしさがなぜか苦しかった記憶へと収斂し、清廉な気持ちの影に隠れた情欲を色濃くあぶり出してしまう。
幸吉は由紀子の家まで行った先でなにが起こるのか、二日間の猶予のお陰でほぼ見当はついており、さほど動じはしなかった。そう自分に言い聞かせていた。絵に書いた構図は精確に夢見を実証していたのだ。
無言のうちに校舎の脇へ足が運ばれたけれど、道幅が広がるまで、由紀子のうしろ姿に魔境を律するような秘匿された儀礼を、だがその形骸でしかなかったにもかかわらず、馥郁とした気配が立ちこめているのを嫌でも信じないわけにはいけなかった。
これは道行きである。大仰な言い方だが、ませた目つきのなかに光るいかがわしさを些少なりとも見受けたのであれば、なにより由紀子の誘惑が大胆すぎてしかもぎこちなさをともなっていたので、夢想は念押しされたようなものでしかなく、ここに近松門左衛門の語りを結びつけてみたとしても、ことさら無理ではあるまい。
別に神髄を察したわけではなく、単に夢の弾力を感じたまでなのだから幸吉はあくまで能天気であった。
空模様はもっともらしく夕映えの時刻を告げようとしていた。そして夏休みの日曜の校舎周辺に眠っている閑寂へ一瞥を投げると、すでに芝居小屋の木戸が開いており、向う先は慣れた道のりなんて決して思うな、そう諭されている気がした途端、一歩遅れてうしろへ着いていた姿勢をとがめられてしまった。
牝狐が女豹の姿をたやすく借り受けたのだと言い放つかのように由紀子は、
「なにしてるの。並びなさいよ」
と、ぞんざいな声を使う。
が、叱責だけの意味合いにとどまらず、どこか包みこまれるふうな、それで刺草のような痛みを含んだ甘さにさらわれた心持ちがし、はなから描いていた関わりのあり方を疑るすべもなかった。卑屈とは隔たりのある従いだった。
車道を横切りあわや自分の家のまえを通ってゆくのかと危惧したけれど、他の路地へまわったので安堵したそのとき幸吉の脳裏を閃光が走った。
この二日間というもの、あれこれ案じてみては怖れをなしたり、妙にうれしくなったり、反対に爪先からあたまのてっぺんまで悲哀を募らせたりして、どっちつかずの分離した感情をばらまいたまま、どうにか導かれたのは今西家の奥座敷に逼塞していた満蔵の執念が絶えず明滅して、結局あの女優をめぐる憧憬なのか狂恋なのか、それとも迷妄でしかないのか答えはつかめないが、偶然の重なりへあまねく意識を託すように、まるで宗教がかった想念にすべて投げこむことしか出来ない以上、道行きの霧は晴れない。
たぶん晴れなくてもいいのだろう、肝心なのは真夜中の雨音が激しくなればなるほどに、窓の外になにかの気配が、得体の知れないかたちさえ持たない、しかし深く沈んだ闇の奥底に漂っている情趣が、光線とは異なった明るみになり蕭条たる証しを授けてくれる実際にあった。
厳密な夢想は澱から立ちのぼる。漆黒の地面を悦ばせている雨脚は人知れず暗渠に流れ落ち、想いが生まれるのだ。
幸吉は暗渠の覆いを少し開けてみただけである。それはきつく結ばれたふろしき包みに似ていた。結び方の如何によって中身が変わることはない。よほど細々としたものを集めてないのならひと目でその中身は判別される。
とりわけ難儀な演繹が求められたはしなかったし、煩瑣な手間もいらなかった。きつい結び目は前もって自分自身がつけておいたものに等しかった。
とすれば今西の沈着な態度や間弓の立場に偽りはなく、それを証明するのが満蔵の風狂な切望であるなら額面通り受け取ってかまわないだろう。
果たして静子の言うように命令なのかどうかはわからないけれど、満蔵の望みにそって隠し子との婚姻をさまたげる為、新たな女性をあてがったと考えてほぼ間違いないだろう。現に静子と親密さを深めない事情を心得ており、打擲する勢いで一気に道行きへ至った。
なぜ由紀子がこの役目を負ったのか、それも今のところ不確かだが、静子は遠縁にあたり、間弓は同学年、最大の関心事は不良という付票が形骸に与する純粋なこだまであった。だからこそ幸吉は耳鳴りにとらわれてしまい、不純な想念が働きはじめるのを阻止しようともせず、むしろ形骸に徹底した色香を含ませたい、含んで欲しい、そうあるべきことで、そうでないと思ったより苦しい煩悶が押し寄せ、前向きに伸びた進学の確約では逃れ切れない欲情に苛まれる。
満蔵の申し出に対し、いやそれ以前の女優へのあこがれも考量して、あらゆる事象からと判断するのでなく、不良が抱くであろう際どい異性関係にだけ背伸びをしていた幻影を重ね合わせてしまったので、盲目的な信憑はひとり歩きするし、まるで挺身部隊の一員のように活躍する由紀子の全身に色欲の豊饒を見出し、理性の有り様を知ったのだから、今西家を悩ます問題とは無縁の場所に佇みたい、それは満蔵を歯牙にもかけない非情の行為になってしまうが、まさに形骸だけを借りて置き、好機はのがさないという姿勢で臨むのだ。
狼狽はもはや過去の影であった。
横並びになった由紀子のからだつきや風をはらんだ朱色のワンピースが足もと自体を打ち消してしまった。因果といえば因果だけども、不良と呼ばれた年上の、実りと盛りに祝福された肉体を惜しげもなく提供しようと努める無垢な心性に影はかすむ。
幸吉にはむろん毅然とした心構えなど保てるはずもなく、あいかわらず不快な汗を垂らしてしたのだが、陸橋にささかかりその先に防空壕のぽっかり開いた小さなほこらみたいな穴を指さす由紀子のひと言で別口の狼狽が訪れるのだった。
「あんな場所でねえ」
侮辱的な響きを持った言葉に怒りを感じない自分を恥じた。
少なくとも由紀子さえ現れなかったら、静子は恋の喪に準じ美しい想い出を記したであろうし、幸吉は今西家の時計に古びた意想をやんわりと被せ、普段は書かないような下手な詩作を試みたかも知れない。
見終わった映画の余韻にひたる心持ちで。
しかし躍り出たのだ。まさかの現実が映画を凌駕してしまった。満蔵に造反した刺客が、女体が、痛々しさを嘲笑う鮮烈な色彩が、鼻をつくようでつかない匂いが、草臥を寄せつけない不良の危うさが幸吉に襲いかかった。
今西の冷静な感覚が懐かしくなるほど、幸吉は己を見失っていた。
気掛かりなこと、それは圧倒的な女色に奮発するどころか、反対に萎えてしまったものを隠している下着が汚れてないか心配する脆弱な気恥ずかしさだった。
「ほら、見てごらん。子供らがのぞいているじゃない」
あの日を最後に会ってない静子を思い返した。どうしてとことん追求し、間弓と由紀子のつながりを調べようとしなかったのか。
「あっ、入っていった。あんたたち、平気だったの」
たしかにあそこは子供の頃の遊び場であった。暗がりに夢中なのは当時と同じく、もし誰かにのぞかれていてものぞくがわに居続ける気持ちがあふれているので、たぶん気づかなかったのだろう。
能天気さ加減を認めざる得ない幸吉は足を止めたりせず平然と言ってのける由紀子に必要以上の大人を感じてしまうのだった。


[470] 題名:L博士最後の事件簿23 名前:コレクター 投稿日:2019年02月26日 (火) 03時24分

耳鳴りを遠い鼓笛の音と思いなしてしまう、粗放であり、逆に緻密でもある唐突な出来事に向かい合うとき、心の乱れはどれほどの振幅を描きだすのか。少なくともあの刹那、幸吉にわき起こった狼狽は本能的な際どさで染め上げられてしまっていた。濁色の怖れを知らぬ礼賛でもって。
かろうじて往来が可能でありそうな狭まった小径へたたずんだ風見由紀子の容姿を高校の裏手にある夏木立へ見出す先より、木漏れ日の斑紋が地べたを這っている蠢きを感じ、それが動かしようのない導きだと認めてしまった幸吉にとって、静子から聞き及んだ年長の異性の影は気高く伸びた木々にならい、まばゆさを一刻のあいだ閉ざしてしまったふうで、知らない土地の眺めにおさまる行人の放恣な想いがこちらへ伝わるような醇乎とした反響に臨んだのであった。
ちょうど二年前の夏、級友らの甘言に乗じて、プールから上がった水着姿の由紀子をはじめて覗き見した興奮はけっして微弱ではなかったが、豊満なからだつきが却ってまだ子供じみた自分の身体を、いや、それどころか精神まで圧迫される気がし、すっかり萎縮してしまった記憶をおぼろに寝かしていたので、まさかこんな情況で、しかも面妖でさえある覚醒へと誘われているのはにわかに信じ難く、いつか見た雨月物語の雅やかな上臈の招きや、泉鏡花の高野聖における魔性が醸す艶麗な姿態、それらは現実の色香というよりも月影に照らしだされる蒼味を帯びて優美に映える無機質な印象を授けていたから、なおのこと浮世離れした観念を持ち出してくる必要に駆られた。
戦慄すべき場面に白々しい考えをめぐらせる、あの素知らぬ面持ちはたしかに見苦しくもあり、一時逃れだろうけど、懈怠というにはみじめ過ぎ、ともあれ女体の隆起、たわわに実った胸の盛り、脇腹へ仕込まれた磁石に吸いこまれるような勢いで曲線をなぞる視線など束の間、幅広くまわりの空気を押しのける勢いを宿した臀部に見とれていれば、あまりにまぶしい太ももの頑健さがまざまざと輝いて、肉付きの良さを謳いあげるので思わずたじろいでしまい、けれども息をのむ肉感に頑健さはやや後退し、代わって柔かくしなやかな流下で翻弄する。
もっとも魅惑を秘めた箇所へと脚部は猛烈に肌の張りを強調するのだから、幽爽な趣きは遠方にかすみ、生唾に促された欲情の由縁はありありとして、まぶたの裏にこの上ない豊かなししおきを悩ましく焼きつけたのだった。
体躯を黒く被ったつもりの競泳着は、由紀子の素肌とその豊潤な女色を反対にあらわにしていた。そして今、すべての障壁が取り払われた錯誤に戸惑いつつ、幸吉はまぎれもない興奮の味わいを許されたような気分に包まれていた。
静子の三日間の沈黙がひどく殊勝に思えたのは、全身に満ちあふれるであろう蠱惑を女性として見極めていたことであり、胸懐のひび割れだけに揺り動かされない気宇にあった。
花散るような儚い恋を了解したのち、美しく終えるはずだった胸のなかへ土壇場になって想像すらしていなかった横やりが入ったのだから、別種の動揺に嘆いたはずなのに。
「あさっての日曜、そう言ってくれって頼まれたの」
これほど情動の押し包まれた口調に覚えがなかった幸吉には、幼げで賊心など微塵も含んでいない悪戯を伝えるような無邪気さに聞こえてしまい、うっすら目頭を熱くした。それが冷ややかな諦観で裏打ちされているのか判然としないまま。
さて幸吉にもいくらか思案する猶予が与えられたわけになる。
「きみのことを忘れたりするものか」
静子のもの言いへ気持ちをこめてみたけれど、とってつけた棒読みの台詞が口先をついて出たような白々しさにすぼまった。
少年少女の冒険ごっこからの延長でしかなかった交際だったが、静子は結局気丈であり、幸吉はどこか間抜けであった。
哀しみを抑えるすべとは異なる明晰な判断が逸楽を回避し、あまつさえ由紀子に関することがらをほぼ話してくれた。ただ幼い頃より顔見知りだった実情がなんとなく喜劇めいた運びに浮いてしまう感じがして、あの色欲の記憶をたぐり寄せてみたものの、これからひき起こるであろう事件に対し、多少の警戒はすべきと心得ており、結果的には静子との別れが明確になるのが侘しくて仕方なかった。しかし、今西間弓らしき女性がかかわっているとなれば、俄然、血は騒ぎ、胸は高鳴る。
そしてなにより臆面もなく静子に詰め寄った由紀子の言葉、そのひと言が幸吉を探検者へと奮い立たせた。
「あんたたちさあ、あれしてないの」
あれという卑猥な声音が静子の口からこぼれてくるのが無性に下劣な告げ知らせに思える一方で、いまさらになってねじれた変な官能をもたらすのだった。
「接吻までなんだ。それじゃあ、あとはわたしに譲ってよ。どうせ卒業でおしまいなんでしょう」
「でも由紀子ねえさん、何故わざわざ幸吉さんなの、わたしには意地悪としか思えないんだけど」
「静ちゃんに意地悪なんかしないわよ。ただあの子が気に入ったのよ。あんたはもう別れの仕度までしてたんでしょうが」
「そんな、仕度だなんて、ひどい。恋の喪と考えていたのよ」
「で、すこしばかり早くなると恋の喪は台無しになってしまうものなの。あんたはまだこれからいくらでも新しい恋人がたくさんつくれるわ」
「由紀子ねえさんだって、他のひとにすればいいじゃない、たくさんいるのはどっちよ」
「日曜日に昼過ぎに待っているからって必ず伝えておくれよ。まあ、それまでふたりは自由だし」
「ねえ、幸吉さんに会ってどうするつもり」
「想像にまかせるわ」

眠りのなかで夢の風に吹かれていた由紀子が、幸吉の空想を遥か越えて躍り出す。
五日前に静子と交わしたなんとも理解し難いやりとりの末、鵺的な異性の影は夜を駆け抜け、白昼の、晩夏の逆光に微笑みを投げかける。あきらかに由紀子は勝ち誇ったふうな、そして苦みさえ針の先のような感覚で忍ばせた不敵なまなざしを幸吉に送っている。
憂慮や疑念が無縁であることの意義は引き潮のごとく見通し良くなり、それは小学生の時分、大潮の日に定めて磯釣りを経験した見晴らしの、無性もない浮き浮きした気分を想起させ、二日間の猶予は晴れやかに思案を放棄し、日曜の午後が待ち遠しくて仕方なく、時計のねじを壊れるくらい巻きあげてしまいそうな不甲斐ない明るさに囲まれ、今まで海中へ没していた威容を誇る小島に対する賛美が磯の景観を一変させた、あの渡り歩きの雀躍をともなって捷径であることの身軽さをかみしめるのだった。
実際にはどれだけ由紀子の面影に近づこうとも、単純に浮かれた意識が保たれるとは考えてなかった。むしろ夕焼けを待たず、それでも斜陽を受けて映発したような朱色の袖なしワンピースをそよがせているたたずまい、胸元に眼がいってしまうのはすでにふくよかな花ざかりを迎えた魅惑に惹きつけられるからであり、さらに悩ましくまばゆいのが、大きく見開かれた瞳の鋭い光とそれに同調するかのまなじりまで生え揃った長い眉、左右の頬に位置する夕星にようなくっきりしたほくろ、ほつれ髪を濡らす加減で額へとどまっている汗だったのだが、そこまで距離は縮まり、自分の動悸を勘づかれまいとしている狼狽こそ、幸吉のすべてであった。
どっちが先に声をかけるのだろう。微笑をたたえらているにもかかわらず、気安く話しが出来ないとひるみつつも、割合相手の顔立ちを観察しているのだから、こうして目線の鋭さを感じている自体、由紀子だって同様とは限らないにせよ多少の緊張を強いられているのでなないか。
汗のしたたりまで見つめているというのはおのずと劣勢を認めるだけでなく、なるほど、発育にめぐまれた肉体と年上である威厳がかりに方外な価値をまとっていたとして、静子を言い含めてまで待ち合わせにこぎつけた女性の心情に弱みが絡んでこないとは言えない。
別にほつれ髪が矜持を低めているわけでも、発汗が潤いある女体に順応して気概を損なっているわけでもなく、まだらに落ちてくる陽射しの気ままに生理的な同調を見出したにすぎないのなら、やはり夏そのものが大海原に胸焦がし、一風変わった船出を求めたはずだ。潮の香りが激しく漂う様相を擬して。
船の漕ぎ手は今のところ由紀子だと言い切れなかった。緊張の度合いもそれぞれの発熱に似て優劣で計れる容易さを手放していた。海水の抵抗と摩擦を逃れた櫂が燦々と照りつける太陽だけ信じて体温を忘れてしまうように。
しかしそれで幸吉のしりごみが拭われたりはしない、なにせ時間は夏日に関係ない現実を知らしめ、ふたりの間合いに射しこむ光線の密度が濃くなるにつれ、由紀子の笑顔に応えなくてはならないと儀礼の精神を深めてしまったからである。
が、いち早く汗をはらいのけるように前髪をかきあげたとき、幸吉は背筋にかつて感じたことのない電流のような痺れが走るのを覚え、今西間弓の顔が咄嗟にあらわれては消え、はじめて満蔵と対面した思い出が生き生きとよみがえり、あの不可思議な願いが祈りごとく耳の奥へ鳴り渡った。
すると由紀子はそれまで上目遣いだったせいなのか、それとも以外に柔和な表情を隠していたのか、半開きになった口許から白く野性的な前歯をのぞかせるのだった。


[469] 題名:L博士最後の事件簿22 名前:コレクター 投稿日:2019年02月19日 (火) 01時58分

少女がみつめる光景、修学旅行の華やかさと喧噪への軽い反感、しかし孤立した影を逃したい気持ちは忘れてはない。肉体の成熟の兆しを日々感じとるとき、ふと精神的な老化が勝っているようなおののきを覚え、投げやりな思惑が生じる。たとえば色とりどりの飴玉は味覚以外のなにかを、その発色の気前のよさに倣うような心模様をつむぎ出すのだろうか。
奇跡の訪れとともにまわりの空間が、あるいは地軸が狂いはじめたよう思えて仕方のなかった仔細を告げたとき、静子の横顔は青ざめた石像に似た緊迫を走らせ、こちらを見返すことなく、そのまま深い奥底へと視線を投げかけているように映った。
幸吉は肉体のふれ合いを拒絶した意志とうらはらの憂愁がたゆたっているのではと案じてみたけれど、映画の一場面から抜けだしたかの奇妙な経験に聞き入っている様子がとても健気に思えてしまい、不純であるべき動機を否定するのさえ口実的な気がしてきた。
しかし、因果の糸によって編まれた邂逅を自他ともに認めないわけにはいかず、時宜にかなった今西との関わりを鑑みたとしても、欲望は自らの手によって点じられたのであり、なにかの編み目にすくいとられ籠絡されたのではなかった。
かりに今西を共犯者とみなしたとして、彼の父との面会を切に願ったのだから、強いて秘密の扉を押し開けた自分にすべての責任がある。たぶん今西も知らなかったに違いない。そして父である満蔵が隠していた過去を暴いてしまう結果になるとは考えてもいなかっただろう。
また修学旅行での一幕はあくまで今西の人懐っこさに由来した戯れに過ぎず、よもや同級生が胸をときめかせた背後に父の暗い影が落ちてくるとは夢にも思っていなかったはずだ。
快く引き受けた女優との撮影、たった一枚の写真から呼び起された闇のうごめきに戦慄する羽目に陥ってしまったのだから。
あれからきまりが悪い態度をあらわしたのも当然、実の子をさしおいて他人である幸吉に汚名の委細を打ち明けるなどもってのほかで、今西の憤慨と焦燥はよく理解できる。ただ、一度限りの訪問で開かれた、あたかも魔法の館がこれまでの信条へ大きく揺さぶりをかけた事実、凡庸な習わしに呪詛をこめたとしか言いようのない異形の羅列、それは良識に嘆く瘋癲の戯言と受けとめるべきか、あるいは現世の残滓をたぐいまれな虚妄であぶりだす企ての成せるわざなのか、このふたつに当てはまりそうな思案をめぐらせた矢先途絶してしまったのだから、幸吉は肩透かしを被ったとすっかり落胆しまったのだった。
満蔵の精神、それを隠蔽する昌昭、反抗を試みる間弓、幸吉にとっては彼らの残した足跡へ舞い降りたものこそ静子であったという図式はごく自然体であって、ことさら驚嘆するほどではなかったれど、奇跡の不磨を求めたどこかしら神秘の薫香に巻かれてゆくのも、近頃細々と心霊現象を研究している身にしてみれば、荒唐無稽であろうが、退廃的であろうが、誉れを投げ捨てた満蔵の懇願に根深くからみあってくるのだ。
必ずや離郷までにはなんらか形で隠し子である不遇な映画女優の報せ、たぐり寄せてやまなかった婚約の同意など、今西家を常軌から解き放とうとする譫妄が理路整然と居並ぶに違いない、そう信じていたから、なにより恋情の浮つきを絶好の隠れ蓑にしてくれた、静子の優しさに報いるため、幸吉は間弓が魅せた肉感をあえて伝えなかった。
性欲が恋愛感情に先立っている実態は言葉にすべてを託した手紙の上においてのみ展開されるべきであり、決して他者との体験談でひもとかれることはない。この暗闇は唯一、野性への回帰を手助けする情調をともなっていたけれど、静子自身が確固たる信念を持ちこんでいたので、感傷に働きかけてまで終焉の美を乱したくなかった。
恋の幕引きに以外な横やりが入ってしまった遺憾を冷ややかな眼で見つめるだけの才覚を持ち合わせているのだから、惑溺することの自由を望んではいるとは到底思えない。
はじめて接吻を交わした間弓へ嫉妬する素振りをあらわにするのがはっきり予見できた。そして風見由紀子が遠縁だと打ち明けているところから判断して、あるいは間弓との会話すら知り得ているのであったなら尚のこと、夏の日がいくら長いとはいえ、あまりに冗漫なやりとりは賢明でなさそうだ。
今西ならこんな姑息な手段は選ばず、もっと行動的で筋道立った方便を、そして父の満蔵のような異界を経由する虚飾を排し、まっとうな理屈で接してくるであろう。
そんな思慮にひたりながら、脇ですすり泣いている静子の背中が小さく震えているのを眺め、省略した箇所を埋める意気込みで満蔵と女優のしがらみ、さらには妄想の果てにひろがる闇へまたたく冒険に話しを弾ませ、一切の哀しみから飛躍するべく、進学後の役割りはあらかじめ決定されていることを力説したのだった。
静子はまるで通り雨を待つ傘の下に隠れた人影のごとく沈着だった。
幸吉はちょうど二階の手すりから見下ろす案配だったけれど、秘めやかな洞穴が暴かれた以上、しかも間弓は裏であやつり人形師を模してまで風見由紀子を寄越した現実が、闇に巣くう邪気を目醒めさせてしまった。
幸吉の語りが終わるころ、静子の真心に聖性が宿るはずであった奇跡は闇の濃さでかき消されてしまったようだ。
自らの言葉をつむぐことに没入したあまり、静子の面持ちを気づかう余裕は生まれるはずもなく、顔をそむけたまま涙してる姿に幸吉は冷然とした意識が凝固しているのを知ったけれど、過酷な態度をつらぬけば、安直な温かさから距離をとれば、ただちにそれはこの情況を認め、由紀子と間弓の結びつきが浮上してくる予感が得られた。
幸吉は泣き疲れた幼児がさしたる間もなく機嫌を取り戻すことに似た淡い気分と、同時にわき起こってくる性急な覚悟を胸間へ潜ませたまま、恋文から始まったロマンスを想い、訣別の場へと面している寂しさをほのかに感じたが、あえて静子に対し思いやりめいた言葉は使わなかった。
むしろこちらの意想をくみ取ってもらい一刻も早く実情を聞き出したく願ったのだ。間弓の大胆な振る舞いを知悉しているはずと半ば思いなし、見え透いた嫉みや、おそらく本人すら意識しないところでせり出してくる嬌態に心を煩わせたくない。
倨傲を自覚するほどに静子が最後に見せるであろう感傷にはちいさな爆薬が仕掛けられており、哀しみもろとも想い出の欠片そのものへ帰着させようと案じているからであった。
幸吉には静子のそんな無邪気さが、しかし夢の記憶に生々しさを欲するひとときがよぎってゆくことがあるように、とらえがたさは不変であると信じていたから、女らしさを強調して欲しくなかったのだった。
日光の容赦ない熱で溶け出した情念のゆくえにかつて同志であったという幻想を滲ませ、目覚め際からこれまでの夢の残像を切り捨て、あらたな仕掛けをのぞき見たい一心は何者より勝る。機会じみた様相に一切の情感を被せてはならないのだ。なぜならそれが恋の終止符を裏づける夢の芽生えであって、過剰な陽射しや水分が成長のさまたげになるように自意識の屈折は見離しておく方がよい。
萌芽も萎凋も夢のさなかへ置き去りにし、開花や繁茂を待って大いなる屈折をうかがい知る。ちょうど誕生したての嬰児を撫でまわしたり、老衰しきった年寄りを叱咤することの危殆に同じく。
恋は転生に等しい。そして夢は自在の湾曲をたどる。汀を選り好みしているふうな足どりは真砂の柔らかさを忘れるほどに宙を彷徨い、満ち引きの雄大な旋律が胸の鼓動に迫り来るとき、意識の攻略は稚拙をきわめたような惚けにたぶらかされ、透明度の高い既視感へと埋没し、世界の歪みを内蔵してしまい、夢見る光景に侵入者の気配を感じとるのだ。
「どうやって見届けるのだろう」
内語をたどったしるしもなく、暗幕に手をかけた覚えもないまま、明滅に託された映画を凝視しているのか。
ふたたび雨宿りの情趣を俯瞰した、その刹那、静子の顫動を見やり傘をつたう涙のようなしずくに憐憫を知ったのだが、手すりから乗り出しそうになった戸惑いは本分を離れることなく、自らの悲哀は深い霧に沈んだ水域へ留まるのだった。
うっすらと寒気みたいな胸の痛みが流れたけれど、去年の冬、寒風吹きすさぶ夕暮れを急ぐ首もとに巻かれた毛糸のマフラーの編み目を抜け、人肌の我が身であることの微かな証しを感じた折の気恥ずかしい所在なさがなにかしら嬉しくて、黙って静子を見守るのだった。
「きっと、あなたはわたしなんか、忘れてしまったのね」
そう言いた気な声の奥に新鮮な響きを耳にしながら。


[468] 題名:L博士最後の事件簿21 名前:コレクター 投稿日:2019年02月11日 (月) 22時01分

陸橋のたもと、自宅の玄関から誰かが見送っているような間近さを胸の奥底に沈めこんだ心もとない加減はろうそくのゆらめきそのものだった。
外界から閉ざされた防空壕には日常が育んでいる安寧を麻痺させる空気が立ちこめていたけれど、芳醇な匂いをなにかしらまじらせた不安は長居を好まないのか、幾度となく耳をそばだてた列車の微かな響きがもたらす甘酸っぱい先行きに合わせては、離郷の念をよぎらせる。
おそらくそれは静子の切ない恋情であり、また幸吉の歯がゆくも叫びにならないやるせなさがこだまするのであろう、音響を消し去ったゆらめきは沈黙を欲していた。
しかし、この閉ざされた暗がりにおいて光明を感じてしまった幸吉の気持ちはどこか息苦しくて、やはり不安のしっぽを握りしめている不甲斐ない自分を認めるしかなかったのだが、そんな神妙な顔つきを浮かべながら反面では、静子の反撥と怒りに従順な素振りを演じることによって、彼女が口にした糸口とやらがこっちからもつかみとれそうな予感を得るのだった。
別に隠し立てする事柄でもない。
静子が恋の芽生えを、ちょうど折り紙へと熱中する児女にも整然とした技巧が備わっているかのように説明してみせた、あのたおやかな意気を思えば、聞き覚えのない女優にまつわる危殆な関係はあくまで空想のめぐりあわせのなかでひも解かれたのだから、かりに偶然のいたずらが加わっていたとして、お互いに夢の彼方を駆けまわった感慨は壊れたりしないだろう。
むしろ偶然の導きこそ身近な場所へ情熱を押し込み、淡い色香を漂わせ、秘匿する悦びにつながっていたではないか。
恋のゆくえを嘆く面持ちとは別種の不思議な探究心に彩られた様子は、すでに早口めいた声遣いが物語っていたし、それは幸吉にとっても同じで静子に成りゆきをすっかり知らせる情況への至りこそ、夢物語りを唱えることに他ならない。
とはいえ、駆け引きのような探り合いでは真実の壁をなかなか打ち破れず、短かったふたりの恋の終止符は真摯なものと呼べなくなってしまう。
「君はほんとうに不愉快だったんだね。よくわかったよ。だけどあらたな身震いを無視するほど鈍感ではないはずだ」
これは言葉にしなかった。幸吉の胸裡に流れているせせらぎの音色だった。また鈍感さを相手にまで付与している野放図な意識を苦笑しつつ、演出たっぷりの表情を静子に寄せ、にっこりと微笑みながら声を出した。
「ところで僕につけてくれたL博士っていうあだ名は結局どうなったの。たしか夏休みまでには浸透するはずだって。まったくそんな気配なんてなかったよ」
静子の顔は一瞬こわばったが、すぐに目尻を下げ吹き出した。
「なに言ってるの。ああ可笑しいわ。以外と気にしてたのね」
「それはそうだろう。いや、これは真面目に訊いているんだ。とにかくこれから君が抱いた疑念について話してゆく。あまりに個人的な感傷やら想像が入り乱れているから、なるだけ分かりやすく説明させてもらうよ。僕にしてもきちんと整理してみたい思いに駆られているから。そして随所随所で君は不審な眼をしてあれこれ質問を投げかけてくるような気がしてならない。
「お話の腰を折るような無粋はしないつもりですけど」
「君は聡明だからそういう態度でいてくれると信じてるよ。ただ、その都度、驚きの視線で遮られそうだったので念を押しただけなんだ」
「えらく慎重なのね」
「そこでだ。忘れてしまうまえにさっきのことを知っておきたかったわけさ」
静子はふたりして恥じらいに目つきを曇らせ、ややあって相手のいたわるような笑顔を交わし合う要領を心得ていたのか、幸吉より先に満面へ離愁の哀しみをたたえ、涙をこぼし、おおきな笑顔をつくった。
今西家にしろ他者に密会をさとられた以上、もうこの暗闇は恋人同志をかくまってはくれない。それどころか、これですべてが終わるかも知れないのだ。静子だって悲嘆にくれる期日を了解していたから別れの訪れは拒んでいなかった。
「L博士のことね。たしかに夏休みまえに話題にしてたけど、わたしの入院であまりひろまらかったみたい。だって先輩としか逢ってないもの、家の前で待っていた由紀子さんくらいよ、他のひとは」
「そうだったね」
「あら、もういいの」
「さてその由紀子さんの話しを進めるにあたってまず映画女優へのかかわりから始めよう。あこがれが空から降りてきたまぼろしのような白昼の出来事から」
静子の眼に厳粛な明かりを感じたのは幸吉の願望が転じたせいか、どうあれ無名の女優に心うばわれて、密かな想いを温め続けていた情熱はここでも鏡の作用に促される。真実はありありと映し出されるのではなく、逆に静子が書き留めていたひかえめな、けれども野性の牙を隠し持ったゆえの憂いに共鳴し、散りゆく花びらの風に舞うさまを描きだし、諦観とも予兆ともつかぬ、ひたすら冷徹な肌触りだけが恋の二乗を妖しく香らす。
あきらかに静子はなにかを押し殺している。それを気取られまいとして一途な感情に走りだしたのだ。
L博士の名を呼び返す幸吉の愚行さえ含み入れた洞察は、すでに同志であることの切なさを知ってしまった傲りを保ち、別れの日は水溶液になじむくらい曖昧で意義を失ったものだと言い聞かす、毅然たる自尊心に守られていたのだ。
今西家の誰かがつかわした風見由紀子こそ、幸吉のさらなる情欲をかき立てるはず、静子はその事情を聞き及んだ可能性があった。少女の少女であるべき姿へ向き合う心境の美しさは凌辱を許さない。
幸吉はあえて由紀子に関心を強めているふうな口ぶりを添え、銀幕からの招きを夢見るように語りだした。


[467] 題名:L博士最後の事件簿20 名前:コレクター 投稿日:2019年01月29日 (火) 03時14分

静子の眉間へさまよい出たもの、鼻孔を伝い両の目頭をわずかに潤わしながら吐息とは別の情炎を秘めるもの、それはくちびるからのぞく前歯の白みを充血させた眼光のゆくえ、ときの穏やかさに挑みかかるような険阻な加減、笑みの裏側で暗躍する愛らしい小動物の回し車、無表情に限りなく近い、けれども冀望は消されず懸命な姿態が臨まれる。
幸吉に対する身構えがごく自然なあり方だったとしたら。
花の香りを匂わす度にいつも蠱惑にと準じなければいけないのか、微笑みがつくられる気まぐれは空模様に等しいはずで、その反射は無機物に物情を知らしめ、かと言って鏡面は鮮明な光景を願っていない、むしろ皮膚感覚にとどまり、境目のありかに無常を見出すような醒めた意識を持っている。
だからこそ肉欲は表立たず、恋しているという情感のみがあらゆる価値観に先んじて静子の胸を満たしていた。そして幸吉の進学によってすべてが終わってしまう予感は狂うことなく、たとえ風変わりで早とちりの老成であろうとも、柔らかでみずみずしいからだつきを日々覚えるにしたがい、恋情の価値と肉体の解放はどうしても一緒の流れに乗る運びとはならかった。
が、ひたすら同じ場所をめぐる冒険を神秘と呼ぶには早過ぎるような倒錯した意想に失望はしていない。
暗がりに身をひそめるふうにしたふたりには決定的な齟齬が生じていたが、互いに同じ行為のくりかえしを闇に捧げるような気概を抱いており、まさに夜行性の小動物が演じる徘徊をなぞることで色香はたどり着くすべを忘却していたのだ。
道連れはつらい気持ちに支えられている。
幸吉はあこがれの顕現と迷妄に、静子はときめきの停止と華やかな英智に。
静子の眉間に漂った兆しはあたかも隣家の庭から夜風に乗じる線香花火の煙たさのごとくはかなかった。
湿気を含んだ夜気が深まりを募らせる風情とは反対に、刹那きつい匂いを放ちながら立ち去ってゆく宿命に甘い感傷はそぐわない。
一方的な理解でしかなかったけれど、幸吉は静子の寂しさをありのまま見守るしかないと思った。同時にいたずらっ子みたいな考えがまるで重い蓋をはねかえす勢いで浮かんできて、こう尋ねてみた。
「ねえ、君も高校生になったらずいぶん変わるだろうね」
「それってどういう意味ですか」
「いや特に意味はないんだけど、なんていうかな、背丈だって伸びるだろうし、それ相応に好きな人ができるんじゃない」
「意地悪な言い方ね。まだわたしは先輩を好きなのよ。それなのに、ひどい質問」
そう答えながら、しかし静子の眼はうっすらと嬌笑に似た妖しさをたたえている。
「たしかにひどい質問だ。けど僕だって君のことを思い出にしまっておくだけじゃ悲しいんだ」
「もしかしてわたしがくちびるしか許さないから」
数日まえからふたりの傍らには一本のろうそくの灯がゆらめいていた。
家の仏壇から持ってきたと言っていたが、あまり頻繁だとなにやらうしろめたい気がし、幸吉がいかにも密会時間にふさわしい細く短い、安物のろうそくを買ってきたのだった。気がひけるのは仏罰や世間の了簡に対する怖れでなくて、かくれんぼの域から脱していない児戯めいた接吻にあった。
幸吉は接吻にすっかり慣れてしまったのだ。静子の眼が暗がりを泳ぎはじめ、そのまなざしを認めるだろう予期も彼女自身が発したのであって、浸潤を許さない強い決意は恋する者であったとして油紙のように不埒な触手を弾くだろう。恋慕の海を遊泳する身は自由を謳歌するけれど、溺れる異性を救うべきかまでは言及していない。
想いが昂じるのは独唱の反響による調べであり、木蔭や洞穴にふさわしいものの気配である。
静子は自らの肉体に耳をじっと傾けては幸吉とは異なる方式を用いて、短く美しく燃える恋の時間を知り得たのだった。
それ以上の行為がかたくなに禁じられている現実が静子の諦観に被さるよう、どこか醒めた形式へ則るよう、体温が差し引かれた数式に導かれて、ごつごつした岩の座り心地と堅固な少女の影の寄り添いを感じとる。
幸吉の要害は静子にまつわる想念でもなく関係でもなかった。
強いて言うなら天空を恐れ、青さを忘れ、洞穴へと生命をもぐりこませた戦時下の人々の昏き欲望が累卵の危うさを唱え、過剰の自意識を産みつけた。その萌芽は幻想にくらむ。現実をねじ曲げる。常世と死が居並ぶ彼方に待っている悦楽を夢見る。
こうして隙き間から抜けてくる微風にゆらぐ頼りない灯火を見つめ続け、静子とは無関係の情景に想い馳せる時間を計っていた。
するとちいさな火をかき消すような声で静子が話し出す。
「あなたが考えていることってわかるわ。このからだをあげればいいのね」
「なにもそんな無理しなくたって」
「いいえ、違うの。そうじゃない」
見る見る間に少女の顔つきは険しくなり、おおきくかぶりを振る影が火の粉を束ねたように岩肌へ吸いこまれていく。
「由紀子さんってわかる。風見由紀子さん、わたしの遠い親戚にあたるひとなんだけど」
「いや、聞いたことない」
「じゃあ、不良のおゆき、中学まで水泳部で活躍して」
「あっ、わかった。すごく大人っぽい雰囲気で」
「ませたからだつきだって言いたいのでしょう」
「そうらしいね。けど高校へ行った途端に悪い仲間とつるみだし、色々と問題が」
「たしかにあれこれうわさはあるみたい。でもわたしには優しかったな」
「で、その由紀子さんがどうしたの」
幸吉はその名を口にした瞬間、二学年上だった水着すがたをかいま見た記憶が夏日に透かすように痛々しくよみがえってきた。年上の女人が醸すふくよかな、しかし同性の静子に与えられた親和からは遠ざかってゆく近づきがたさみたいな感じが優先し、はちきれそうな体躯を思い浮かべてしまうのは痛みになって己の脆弱さを責めている気がしてならなかった。
もしかしたらあの女優に夢中になったのは校内という半径がおしはかれてしまう距離とはまったく別様の光線を浴びていたからであり、手の届かない高みは至って安全な心持ちを保証してようにも考えられる。
先ほどまで思案していた静子との向き合いが妙な具合に、それはよじれた糸が、もつれた毛が本来とても自然な現象で、ことさら焦る必要はないかように氷解してしまい、ずいぶん女々しい勘ぐりばかり働かせてしまって無益な算段をめぐらせたと虚脱しかけたのだったが、新たな謎解きへ面している実際に打たれ、またしても悩ましく不如意な感慨にとらわれたのだった。
「あなたとつきあっているのかってしつこく聞かれたわ。以前の声色と全然ちがうので驚いてしまったの」
「それで」
「最初は素直に、いえ、いくらか取り澄していて、いや、取り繕っていたのかな、何せ、お手紙まではありきたりでしょうが防空壕でしかあってないわけだから、わたしに非があって叱責されてるみたいで、気乗りして話すようなことでもないし、嫌々しゃべらされているように思えてきたの。もちろん聞き返しわよ。どうしてそんなに追求するのかってね」
幸吉は生唾を飲んだ。
このときばかりはろうそくより水筒を携えていた分別が尊く思われ静子にすすめた。
内心では一刻も早くその事情を詳らかにして欲しいという願いがあふれだし、けれども一方では期待を引き延ばし時刻を愛でていたい気分に襲われた。
端緒が開かれるということは官能の棲む在処から招待状を受けとるような艶冶なかがやきに包まれていたからであった。のどが渇くだろうと水筒をぶら下げてきた幸吉につき従うよう次の日おやつのせんべいを隠しもっていた静子が可愛らしく、だがこれでは増々子供のお遊びに舞い戻ってしまいそうで軽く舌打ちしてみたものの、戦争の恐怖と逢い引きごっこをないまぜにして、なおかつ懊悩らしき横顔をろうそくの火影に託すあたりがそもそも幼稚な戯れでしかない。
思念はやはり分裂の定めから逃れられないのか、だったら選択肢があるという展望につながるのではないか、ほぼ居直りの状態から宿命が始まる。静子は可憐な恋人であり盟友であった。幸吉の視線は都合よく結ばれていた。
「ところが由紀子さんもはっきりしないのね。ほんとさっぱりした性格の持ち主だったから口ごもるなんてあのひとらしくなかった。あっ、この話し三日前のことなの。わたしだって言い出すの迷ったわ。だから勇気がわくまで日にちがかかってしまったの。わたし駄目ね、他のひとの顔色に同調するなんて」
「仕方ないさ、僕だって君と変わらないよ」
「そうかしら。わかったわ。で、結局しぶしぶ話しだしたの。そう、わたしなにもかも言ってしまった。そうしないと由紀子さん、納得しそうじゃなかったから。箝口令なんて言葉がのどにつかえているみたいだった。やはり内密なのよ。命じられたのよ」
「いったい誰に」
「あなたに言えばすぐわかるはずだって。とにかく静ちゃん、隠さずに話してくれって、最後の方はちょっと悲しいそうだった。なにか理由があると思うけどそこには触れなかったわ。今西って言ってた」
「それは女のひと」
「わからないわ。わたしが正直に口を割らないのを察知してあえて情報交換めいた結果になってしまったけど、ごめんなさい、肝心なところを聞き逃してしまった」
「いいんだよ。謝らなくたって。君が親類とわかって風見由紀子さんを近づけたんだろうか」
「どうなんでしょう。そのあたりもよくわからないわ。少なくとも先輩、わたしではなくあなたに関わりがありそうよ。今西って先輩の同級生ですよね、そしてお姉さんは由紀子さんと同じ学年、この三日間で判明したのはそれだけ」
「すまない、君には関係ないはずなのに、そうか、調べていたんだね」
「関係はないかも知れませんけど、わたしが糸口なのですよ。まず針の穴を確認しないと」
「ありがとう。不快な思いをさせてしまったのに、きちんと話してくれて」
「いえいえ、お礼なんていりません。とっても不愉快です。だから今度は先輩が洗いざらい、成りゆきをわたしに説明する番だと思うのですが」
静子の恫喝じみた口調に邪気がうかがえないのは自分が鈍感だから、それとも閉ざされていた今西家の門がようやく光明を解き放つときが来たから、それですっかり胸を踊らせてしまいっているのか。
いずれにせよ、静子の口に今西の名が上がった限り、ろうそくは火花を咲かせる運命を背負ったのだった。


[466] 題名:L博士最後の事件簿19 名前:コレクター 投稿日:2019年01月21日 (月) 23時22分

遠かった夏休みに霞む光景はおさない頃からあてどもなく、そしてなにかしらまばゆい渦を近くに感じながら焦点は定まっていなかった。
瓦屋根をすべり落ちる勇ましい光は軒下に点綴する蟻の戯れを見極めることなく、また裏庭にはびこる雑草が抱いている渇望など紺碧の空の知るところではなかった。にもかかわわらず、汗ばんだ脇のあいだをすり抜けてゆく涼風がとても初々しく感じられるよう、朽ちた言い分でひろがった鈍色の地面やそれに連なる家々の塀は喜々として陽射しを受けており、道行く影をいつも遠望していた。
あの見知らぬ人はどこへ向っているのだろう、そういうとき、なぜか決まって行き先ばかりにこころ踊らせ、どこの誰かとの詮索よりも未知なる場所から届けられた手紙の華やかさを夢想し、やがて畳の目をぼんやり数えだすのだった。
夏の日が高邁な色彩を放ってやまないゆえ、しかし強烈な感覚で刺されることなきまま、戸棚の隙き間へはさまった飽きた絵本のごとく褪色した哀れが胸に浮かんでくる。それはあめんぼのしじまが映しだす波紋に似てときおり深い円形を水面へ投げつけるので、ますます残響のとりこになってしまい、めくらむ仕草だけがこころの底へ反照されるのだった。
櫻田静子の笑みも年少の時代から送られてきたものか。
幸吉の胸裡に揺れ動くものは二重奏で響きあったけれど、ひとり夜具へ意識を染みこませながら華美に溺れる虚しさを消し去ることができない。が、あまりにわかりきった虚しさだったのですぐ足は地に着いてしまって難なく吸息を得、今度はこそばゆい恥ずかしさに身をよじったり、頭皮を掻いたりした。するといい具合にかゆみは本当になって、その刹那なにものにも侵蝕されない感覚が訪れるのだけれど、まどろっこしい下半身の膨張は澄んだ恋情とは無関係であると言わんばかりに鋭敏な認知を呼び覚ます。
気高くも淡い想い出の彼方に舞い降りる翼は夜行性であり、どうしようもなく暴君の面影を宿した鉄面皮に従えられていた。
暗がりに静子を導いたのは本能の成せるわざであって、しかも自宅から目と鼻のさきである実際をよく考えず素早く誘引した不敵さ、これはまぎれもない情欲に後押しされている。
夜の不明瞭が醸す怪しい気配、そこに跋扈するのは魑魅魍魎なのだとおそるおそるうなずきながらも、鳥肌のさっと泡立つふうな寒気に隠れ、微細なぬくもりを発光している感じ、これを封じてしまってはいけない。
なぜなら妖鬼の面をはぎ取ってみれば、そこにはある原風景が、深更の薄い目醒めにぼんやり灯された現れが、まぶたの裏へ麝香のように、甘い煙りとなって、食べきれない綿菓子の白さをともなって忍びより、金縛りの恐怖をしめやかに授けてゆくからである。
反対に離脱した弱々しい魂のかけらは覚醒を余儀なくされる。羞恥を一身に招き入れ、あまりに未知すぎて不確かな汚れとはき違えてしまう萎縮した感性、口外を禁じられているどころか、想像しなおすだけで両親の顔を真正面から見られない。
それ以上の深入りはそのままそっくり静子に対する接し方を指し示していた。
真夏の狂躁は瞬時にして暗所の冷気を帯びる。
「どうやら秘所はおあずけのようだね」
まるでうわごとみたいだが、幸吉は寝苦しさに伴走する身悶えを自覚していて、防空壕での出来事をなぞるように思い返し、伝えきれなかった言葉をおおいかぶせ、行動に移せなかった四肢を虚空にばたつかせた。
いかにも魔性が憑依した調子で恋情を切り裂き、誕生をのぞきこもうと裏側にまわってみる。股間を押さえつつ。
むろん誕生の瞬間など立ち合えないので死の方からこちらを見返す。暗き想念に委ねられてではなく、まだ光がない、いや届いていない場所であるから夢すら花ひらかず、そこにむりやりロマンを押しこむのは方便でしかなく、けれども前もって接吻どまりを健康的なまるで小鳥のさえずりのように教えられては夜の思想が終わってしまうではないか。
すると肉欲に結びつきそうもない静子の姿態は映写機のコマ送りの要領で切り替わり、あの女優の魅惑を描きはじめる。
描かれるのは容姿だけにとどまらず、満蔵が話していた虚とも実ともつかぬ廃人の妄語のような執念や、間弓の虹彩に棲息していた美しい確執が女優の魂を解放し、幸吉の脳髄へまとわりつくと女体はあの世から立ち現れた形象になり、めくるめく官能の支配のもとで堂々巡りを了解するのだ。
「君の態度が冷淡だなんて思っていないよ。僕の進学ですべては終わってしまう。君はそれをよく知っている。ただ僕がもっと強引になれば事情は違ってくるかもしれないけど」


あれから毎日申し合わせたふうに静子と昼下がりを過ごした。
次第に憔悴しているよう感じてしまう幸吉とはうらはらに静子の表情は翳りをほとんど寄せつけず、却って溌剌とした笑顔はまぶしく洞穴を照らし出した。
手紙に書かれていた鏡面への言及、
「ひんやりした肌ざわりを約束し、やがて体温を写しとってくれる冷淡な境界が懐かしかったからです」
ここから出ようと言ったとき、別の場所を欲しなかった理由がなにやらわかってきた。
純情の劣化を見極める早熟の果実。眼が慣れることを夜だけに託さなかった老成の愛欲。
静子は冷淡を好ましく感じている。短い恋であることをしっかり悟ったうえで、こうして密会を楽しむ悪女が香らすような笑みを手放さない。ひとりでいる時間でも同じ心持ちなのだろうか。
推測してみるのがどこか不快で足踏みしてしまう要因は全部自分の境遇にあると幸吉は反芻するのだったが、開き直って静子をきつく抱きしめたところ、抵抗する素振りはなく、しかしちから加減に真情こめてなかったのを見透かしたのか、そのからだは衣服に守られていたからとは言い切れず、あきらかに虚脱を想起させる人形みたいな意思を持たない感触が伝えられた。
そうなると幸吉自身がこわばり、そのこわばりで静子のからだが出来上がっている体感に襲われ、しまいには小柄なつくりはおさなごの証しであって、そんないたいけな肉体に触れるがおぞましく思われてきた。
ただ、接吻に関しては何度も重ねたせいもあって、上気した頬の火照りから溶け出すぬめりのような唾液に濡れたくちびるの触れ具合には専心した。舌先を大胆にこねまわす技巧さえ習得していたかである。
あきらかに幸吉は分裂してしまっていた。童女の良き遊び相手として、成熟を目前にした官能の狩人として。
一度、服のうえから胸元に手をやってみた。案の定きりっとにらみつける眼光が幸吉に向けられたのだけれど、ほぼ暗闇のなかでは明確な形相は見届けられるはずもない。が、そらんじれるほど読みかえした手紙の文面に張りついている性格をうかがい知るよう、また気丈うんぬんだと口にしたあの意想がよみがえって、静子の毅然たる内心はあらわになった。
柔肌を開くことは起こりえないだろう。
わきあがる白雲が夏の一日をどれだけ告げようとも、ホースから勢いよく吹き出す水しぶきにはしゃぐ子供たちと子犬の跳躍がいかに晴れ晴れしくとも、焦げつくようなタイヤの匂いを草むらに嗅ぐ真昼が頂点にあろうとも、空の青みが悽愴である限り、驟雨の足跡には未練が記され、緑を拒む土管の暗がりは夜を待たない。


[465] 題名:L博士最後の事件簿18 名前:コレクター 投稿日:2018年12月25日 (火) 06時01分

「まあっ」
「とても暗いね。ちいさな頃ろうそくをかざしてもっと奥まで進もうとしたんだ。子供ながらにそれが禁物であるふうな気持ちを感じたよ。たよりない意識だったから当たり前だけど、夜の孕む気配がとても恐ろしいものに思えたのと似て、この防空壕だって突き抜けそうなくらい静まりかえっているだろう。けど霧のようにしのび寄って来たり、反対に四方八方へわけもなくのびている夜本来の不気味さとはまた違うのがたまらない」
「それで何度もわたしを抱き寄せてくちづけするの」
「ちょっと待ってくれよ。まるでそれじゃ、、、いや、そのとおりさ。気分を害したかい」
「いいえ、別に。わたしもなんか怖い、だから嫌ではないわよ。まだ先に行くの」
「橋のたもとに君のすがたを見出したとき、妙な感覚だけど、すぐうしろでひっそり闇をのぞかせている穴ぐらから現れた幻影だと信じた」
「まったくお化けみたいだわ」
「そういうことかも知れないよ。だってあれからわずかの間にふたりは化かされたようになっているじゃないか」
「でも、逃げ出したいと悲鳴をあげる恐怖ではないわ。なぜかしら」
「僕も同様、ずっとまえに来たときより大きくなったとかではなく、たぶん君とふたりきりだから、邪魔者もいそうにないから、怖さに勝るなにかがお化けに近づいているのかも」
「えっ、このまま死んでしまうっていうの」
「まさか、僕たちは若さにあふれて過ぎているよ。死なんてある種のロマンでしかない。たとえ君の入院が重篤であって命を落としたとしてもロマンなんだ」
「あら、ひどい言い方ね。だったら回復しないであのまま死んでしまって、今ここにいるわたしが幽霊だったらどうするの」
「このうえないロマンだね。あの世と触れ合うために僕は生きてきた、これこそ狂熱だよ」
「で、その幽霊に接吻するわけね」
「そういうことかな」
「しかし、接吻どまりよ。まだわたしを震えさせて変なことしようとしても駄目なんだから。ちゃんと見切っているんだから」
「わかっているとも。下心なんて下敷きみたいなものさ。勉強するときに使うのと同じくらいにね」
「そうそう、わたし、手紙書くって決めた日にあなたから勉強を教えてほしいなんて自分を理由づけたりしたの、不思議だわ、まったく違った意味でなにかを教わっているし、新しい発見が待っているふうにも感じる。それってロマンなのかな」
「だと思うよ」
「やはり」
「うん、もうこれ以上先はやめとこう。この防空壕は小学校のプールの裏手まで続いているらしいだけれど、さすがに前屈みは疲れて来たし、君の言うように下心を明確にしておく方便もいいものさ」
「まっ、ごまかしが上手」
「君は気丈なひとだね」
「そうかしら、あなたに対する感情だって行き当たりばったりだったのよ。この暗闇がどこかへ通じているって確信の方がしっかりしてる。わたしはただ、下敷きを強くこすっただけなの」
「それが静電気であることを君は知っていたんじゃない」
「知らないわ」
「ごめん、ごめん、気丈だし、ひどくもろいのだろう、誰でもそうした二面を持っているはずさ。君はそれに気づいているから、それほど行き当たりばったりではないと思うのだが」
「さっきも話したけど知恵熱めいた夏風邪で倒れてしまうとこがあるから、やっぱり気丈ではないよ。ここが昔の防空壕だって誰に聞いたおぼえはあったにしろ、あなたがあそこに入ってみないなんて言われたとき、もし他のひとだったら絶対にそんな探検にはつき合わない、あなたの誘いだから、そしてあまりにとてつもない恋路を進んでいく気味の悪さで後ずさりするはずなのに、あえて断る勇気を持てないわたしはどこか臆病ものなのよ。わたしにしっかりした意志がそなわっていたなら、こんなところに身を滑らしたりしない、そもそも、橋のたもとへ、あなたの家のそばまで行ったりしない」
「ああ、まったくだね。僕が悪かった。ごめん、思い過ごしなんだ。なにもかも、ロマンなんて言い方で逃げきろうとした僕が愚かだった。うれしいよ、こんな真っ暗な所まで来てくれて」
「いいのよ。なんかわたしたちにはお似合いかもね。といいながら先輩、ほとんど先にも奥にも進んでないのですけど。ちょっと光が見えなくなったあたりでずっとくちづけしては、堂々巡りしているわ。子供のときの探検より浅いのではないですか」
「たしかにそうだ。いつまで先輩かぜ吹かしているのだろう」
「先輩なんだから仕方ないでしょう」
「それでいいの」
「だってそうなんだし、先輩の子守りするほどわたしは老成してないですから」
「とにかくここを出よう」
「どうして、別のいい場所とかあるの、それともここで今日はお別れ」
「違うんだよ、なんて言えばいいのかな、僕はかまわないけど、君のことを幽霊あつかいしては悦に入ってしまうし、病気見舞いなんかなおざりにして、顔色を見合わせる親身さを避けているよね。秘密めいた暗所を好む習癖がこんなに素敵な時間まで侵蝕しているのかと考えたら、なんかげんなりしてしまったんだ。君の言うようにこの防空壕は小学校どころか各所に抜けていたらしい、それは確信であり過ぎゆく影が残していった現実そのものだ。君と僕がここで恋をあれこれ語りあっても実りはないよ。本当だったら現実から花ひらくものごとを、どこかしら斜にかまえてしまって結局は来たるべき短い恋に深入りしない心性が働いている。それが汚らわしく感じて仕方ないんだ」
「かまわないのよ。汚れなんてどこにもないわ。先輩は考え過ぎ、あっ、わたしもそうね。限られた時間の中でしか恋ごころを抱けないにもかかわらず、たかぶる気分を抑えきれないまま、あなたの困惑もかえりみないで告白だけさっさと済ましておいて、勝手に熱病で倒れたりしてるんだもの」
「自分の胸にあふれ出てくるものは自然じゃないかな、告白だって必ずしも身勝手なことではないよ」
「あなたからそう言ってもらえてうれしいわ。もう汚れてなんかいない、先輩もわたしも」
「いけない、また堂々巡りだ。手紙に書いても話しても変わらないね」
「まだお話は終わってないわ。書かれたものはそれっきりだけども」
「君さえよければもう少しこのままいてくれるかな」
「ええ、誰にも邪魔されないわ。暗がりに眼が慣れてくる。先輩もわたしに慣れてくる」
「そして僕はもっと君を好きになる」
「なにもかも忘れてしまいたいほどに」
「夕暮れがふたりの居場所を告げるまで」
「いつまでも」
「あっという間に」
「明日も」
「明後日も」
「夏が終わっても」
「冬が来ても」


[464] 題名:L博士最後の事件簿17 名前:コレクター 投稿日:2018年12月04日 (火) 01時15分

中学にあがって間もなく、幸吉はとりとめもない日々がなにかを希求しているように感じられ、夕食後や就寝前のひとときを備忘のために、といっても几帳面な姿勢で背筋をただすわけではなく、むしろ諧謔心に誘われるまま気散じへ流れることに意義はあるのか、ないのか吟味せず放恣だけを頼みにした筆致だったのだが、よもや他者の眼に触れる機会などあり得ないと考えつつも、万が一の場合を仮定してみれば、おのずと暗号めいたものへ傾いてしまう内奥の働きに付き従うしかなかった。
その不如意は苦々しかったけれど、徒爾こそ持続をうながす原動力になっていて、芝居がかった潤色に眉根をひそめるより、華やかな虚飾にまみれながら反古を積み上げる方が日常の塵とよく交われる、つまらないちっぽけな出来事や醜悪なしがらみも、装置としての記憶に組み入れられる手前で、まるでかかわりのない数式や外国語の断片を付与されたなら、無機質な相貌に肉感が宿るように思えてくるのだった。
もっともこの面倒で屈折した作業は幸吉の衒いをかいま見せる手段とはほど遠く、ひとえに羞恥が引き起す偽装であり、無意味に対する漠然とした怖れを打ち消すために援用された、それでいながら時間の持つ厳粛さ無視した狷介さが顔をのぞかせていた。結果、本文が霞んでしまうくらい数字が並んでみたり、英語の章句が無遠慮に書きつけられので、よしんば誰かに読まれたとしても言わんとするところは直ちに判明しないだろう。
しかし暗号を駆使したとは言い難く、初歩的な置き換え程度にとどまって、あとはまるで自由連想に似た児戯があふれ出しているだけだったから、ちょっとした箒を握ればいくら肉感を授けたつもりだったとしても、無機質は決して紙面にへばりついてはおらず、つまりあきらかに稚拙な算段で成り立っている日記でしかなく、さっと掃いてしまえばいとも簡単に邪魔ものたちはかき消えてしまう。
それでも幸吉は一体なにを目論んだかさえ分からないまま、大学ノートの罫線に信憑をあたえる。
最小の点描で書かれたと自ら揶揄しておきながら、矛盾に満ちた心象へ踏み入ることはせず、すでにこれ以上は見分け不可能な地平にたたずんでいるかのごとく、あるいは微粒子の本然をのみこんでしまったのか、どれだけ諧謔を弄していようが余興と呼ぶには果断であった。
特に今西家での一幕や櫻田静子との短いやりとりに至って、素数が無限に連なる様相を模し、地の文は早すぎた埋葬に嘆いている猶予をあたえられない。すべては糊塗でしかなく、過剰な妄念が本質を埋めつくす。
では幸吉の内省や思索に深まりは見られなかったのだろうか。いや、あくまで反古の体裁から脱しないだけであって、韜晦はおろか自身の機微を見失っておらず、事情が事情なだけに知る者がいたなら哀切をもよおすに違いないし、運命に翻弄された少年の道しるべを告げてやる敬虔な人格者はひとりやふたりではないはずだ。
けれども創痍を世間に訴えることもなく、逆に満蔵の精神病を気遣ったり、今西の秘密主義にも寛容であるべく、自分を奇妙な世界に連れ出した謎解きに没頭したりせず、ひっそりことのうつりゆきを見守っている。
そうした内面のありようを幸吉はかけがえのないものだと念った。世界の果てまで知りつくそうなど壮大な考えを抱いてはおらず、かと言って中庸の美徳に甘んじることもない、そうでなければ情欲のみずみずしさや肉感の訪れに夢中になったりしないだろう。
とりとめのなさが夢の気配である限り、望みは常に失意と背中合わせなのは当然で、徹底して局所論視野をつき進んでいけばよいのだ。あまりに偏頗な意想へ寄りかかるのは見苦しく感じるけれど、静止した時空を演算する根気の積み重ねにこそ、未来像を導き出す方式が折りこまれているのだから、自己愛の延長に女人の裸体を思い浮かべれば、視線の描くふくよかさはいつの日か見知る秘所をのぞかせてくれる。
だが焦りは禁物だ。幸吉の背馳が容易であればあるほど日記の作法は糜爛をきわめた。
遠ざけたつもりの夏休みが容赦なく青くひろがろうとしていた。
静子の病状を探りたくてもその手だてはなく、念頭をよぎったのは生徒会長より顔利きと定評のある今西に相談してみたらだったのだが、そうなれば事実はどうであれ今西が自然体を装ってまで守り通そうと努めている家名にまつわる内情を反対に聞きだしてにしまうのではないか、もちろんそんな魂胆は持ってなかったけれど、間違いなく彼の自尊心に抵触してしまい、これまで築き上げてきた交誼が、仮に形式と幻想で編まれた関係であったとしても、無惨に崩壊してしまうような気がし、とても口にすることは出来なかった。
それは幸吉にとってもどかしさに他ならず、理由は明快で以外や今西に恋人の影をかつて一度たりと認めたことがないからで、容姿も優れているだけにあらためて不可解な心象に縛られてしまったのである。
あたかも気休めのように立ち現れてくる光景は、今西が少しの揺るぎもなく見遣る目線をあとからたどる年下の女子のすがた、右腕に両手をまわし入れ、ぽっと微笑みながら足もとに含羞をまといつかせた、妬ましく透ける愛らしさだった。
あからさまな願望が映し出されたと知ったうえで、想念をくりひろげてしまうのは必ずしも今西への羨慕によるものではなく、幸吉自身のひりつきが生んだ叙情であった。
が、ここまで空想のもたげた由縁も同時にひらめいたせいで、ようやく重い腰を上げる無精者の胸に去来するであろう弁解めいた言葉が聴こえた。
「あのときだって強く求めたはずだ」
はじめて今西家の門をくぐったあの日、幸吉はどことなく戸惑っていた今西を尻目にするような態度を見せた。強引であったし猪突猛進の意をあらわにした。そして願いはかなえられたのだ。期待に沿う結果をもたらしてくれた訳ではなかったけれど、とりあえず関門は突破したのである。
それより先は静子からの手紙にしっかり書かれているではないか。
案ずるより産むが易しと、恋文自体が語っている。
幸吉は唐突の告白に我を見失い、恋する女子の心模様にとらわれ、肝心要の喜悦をはき違えてしまった。恋する条件を模索するあまり悦びは放擲され、替わりに修行僧を仰ぎ見るような禁欲的なまなざしで、さらには真意にまごつく醜態をなんとか美化しようとあがいた果てには修辞が残骸のごとく散らばった。
残骸は腐臭を放つだろう、夏日は平気で罪に加担する。
恋が罪であったとしても、静子の手紙が青春への訣別を高らかに謳っていたとして、それが汚れに先立つ瞞着だったとしても、やはり腐臭がはびこるままにはしておけない。
静子は憐憫をもって凍結を、幸吉は季節の透徹に永遠を託したのだったが、果たして目覚めはこれからも透き通っているのか。

夏の長い休みを口頭で伝えられたような熱気でむせかえる教室から抜け出し、二年生の校舎へと走りだした幸吉のうしろすがたを振り向く生徒は誰もいなかった。
そして三組の廊下で汗をぬぐったとき、不意に今西との距離も縮まったみたいな感覚を得て、深く息を吸った。
上級生も下級生もない、ここは似たような熱気にあふれ、帰り仕度をわざと送らせているふうな笑顔が飛びかっている。幸吉は一番近くにいた女子に静子の容態をそっと尋ねてみた。
三年生らしい顔つきと物腰で話しかけたつもりだったのだが案の定、怪訝な表情を返された。しかし、それも束の間、なにごとかと集まった四人の女生徒は互いの眼を眺め合い、なかのひとりがこう言った。
「ひょっとして燐谷さんですか」
「そうですけど」
低いうなり声でしか答えられないのは驚きへの正直な姿勢だった。驚きの本領は遅刻の心苦しさをなぞりながら、うらはらにコマ送りのような加減で愉悦を告げ知らせる。あとからあとから、いつまでもいつまでも、光と影の婚姻が伝えられることに似て。
「すごい、ほら、わたしの言ったとおりでしょう」
名前を聞いた女子がはしゃぐと、他の生徒も一様に眼を輝かせた。
幸吉は自分から名乗っていない手落ちに頬を赤らめたのだったが、
「櫻田さんはどうなのですか」
と、生真面目な顔色を崩さなかった。
「もうだいじょうぶよ。今日退院するそうだって」
溌剌とした返答を耳にした途端、幸吉はおだやかなめまいを覚えたけれど、
「わかりました。ありがとう」
そう言い終えた。
これで終わってしまえば、昨日までの自分は永遠を約束されるだろう。静子への恋情も、また静子が胸に秘めた黄昏も。
しかし、恋のかけひきをたしなむにはまだ早すぎる。そもそもかけひきなど必要なのだろうか。永遠なんて手形もまさしく。
女生徒らの華やぎがまばゆいのを間近で感じた幸吉はすべてを理解した。
静子の文面に偽りはなく、恐ろしいくらい素直であったことを。その素直さが幸吉を無粋にした。
自分などより懸命に恋について語りあっている下級生たち。ものおじせず、あっけらかんとし、ところがつかみどころがない。底抜けに若さを信じているようで老成にも関心がある。笑いも涙も同一の風景におさまり、ゆくてに道化が立ちふさがったとしてまったく動じない。
ここで幸吉がL博士らしさを演じてみるのは虚栄心を充たすだけでしかなかったから、一緒にはしゃぐ陽気さを封じこめた。女子はそうした目線に下りてこられるのを嫌っているのだ。
「すいませんが、これを櫻田さんに渡してもらえませんか」
幸吉は実務という案配でポケットから折れてしまった封筒をとり好奇の面持ちへと差し出した。まだ終わっていない。誰が受けとったのか手応えすら覚束なかったけれど、まぎれもなく夏休みは始まったのだ。
嬌笑が背後にわき起こったと感じたのは幸吉の思い過ごしであったか。

それから二日後の昼下がり、自宅からさほど離れていない陸橋のたもとにひとりたたずむ静子を見た。
面映い気持ちがどこから伝わってくるのか分からない。風は吹いてなかった。


[463] 題名:L博士最後の事件簿16 名前:コレクター 投稿日:2018年11月27日 (火) 04時43分

「なにも答えられなかった、そう思われるのはわかっていました。
手ごたえのなさに失望してしまう君の表情をただあるがまま浮かべているだけ、それは予感どころか、僕にとってなんとしても回避させなければいけない神経経路でした。たえられないのは静子さん、君だけではありません。
めぐりあう時間を無造作に切り捨てる傲慢さがどこに由来するのかは知りませんけど、少なくとも今の僕はどのような形であれ好意という感情に傾斜をつけることなど出来ません。憐れみを投げつける術はどこにもなく、ひたすら感謝の気持ちにあふれています。
お手紙をいただいた日は驚きでいっぱいになりました。まったく思いもよらなかった告白、しかも僕の実情を鋭い嗅覚で忖度するような筆使いには理知が香り、夢の光景さえあぶり出して、自らの展望をまばゆく語っている。
何度も読み返しました。ちゃんと家に帰ってからです。思い出すのが気恥ずかしいほどあわてふためき、汗をかきながら、しかしけっして不快なしたたりではなく、森林の冷涼な空気が玄関まで運ばれてきたような、さりげない落ち着きを靴底に踏みしめ、ようやく部屋へ飛びこんだときの高揚が忘れられません。
しかし一読して静子さんの文意を理解するには及ばず、なぜかと言えば、図書室で借りた書物の頁をめくるふうな日々の延長が断ち切られる衝撃がそこには綴られていたからで、君は光の束になったと表現されていたけれど、僕の方こそまぶし過ぎていつもの視線はさえぎられ、一句一句かみしめながらでもなかなか判読しづらく、末尾へたどり着いたはずなのにまた校舎を背にした君のすがたが、西日を受け朱に染まることを覚えつつはにかんでいるうつむき加減が、幻灯機の保有するはかない華美と相まってよみがえり、まるで銀幕に写しだされた女優と男優とがくりひろげる恋愛模様を、あるいはそれ以前の澄み渡った大気に祝福される吐息の距離を、優雅に胸の狭間へと投げかけるものだから、ついそっちに気をとられてしまい、肝心のあらすじにそえないまま、あっという間に夜のとばりが下り闇がすべてを覆いそうになってきたので、僕は枕のうらに君の手紙をもぐりこませ、まだ見たことのない蛍の明滅をおぼろですが、寝床にまねき寄せ眠りの向こうからしめやかな夜景へと眺めやっては、君の心情をはかってみたのでした。
そこではじめてまばゆさに共感しあえるよう思います。
静子さんは少々、僕とは違う意見で夢をとらえているのでまるっきりの共感とは言いませんけど、鏡の効果に言及しているところから察するまでもなく、自己像の直截的なあり方より他者がどう見えてくるのか、異質の加減、その微妙な陰りやほのかさを通じて感じとろうとしているし、成育の違和によって導きだされるものを見据えており、とても晴れ晴れしい気分になりました。
ただし、晴れやかさは白昼の高い天だけにとどまりません。むしろ後ろめたさをはらむ場合が多いので乙女の通行手形と異なって、不親切なのは一緒かも知れませんが、少年に配られる切符、まったく線路を記憶していない、けれどもなぜか脱線には覚えがあって、いつも不吉さを優先しているような均衡をありがたがる情感が沈滞しています。
こういう言い方には好感は持てませんか。終着駅と潮流を、その宿りを直感だけで探りあてているような慧眼をもってしても、やはり汚らわしいと顔をそむけてしまうでしょうか。灯されるぬくもりに肉体の盛りを夢見るのは男子の神髄なのです。
自己愛を拭きとろうと勝手に動き出す意思こそ生命の根源に直結しているのです。
ここが境界かも知れませんね。
君のもつ気まぐれな野性は過敏な知性とよく調和しています。
もし僕が兄であったとしたならどう感じたのか、不意にあり得ない想像をしながら、同様に姉という存在を望んでみたこと、その不在を埋めるため、映像として写しだされる美神に気分を捧げたこと、まぼろしと現実の不一致がなにより怖かったこと、意識を預けいまだ引き落とす方便に出会えないまま、指標は風化を疑らず、極めておうとつのない変哲のない時間と空間にさまよう姿勢へのびしろをあてがってしまった自分のことが嫌でたまりませんでした。
岩石は僕自身がつくり出した幻影ですから、いや、たぶん産声のたなびく彼方をもの欲しそうにねだりはじめた頃より、障子を透かす陽光に見とがめられた塵埃の舞うさまが起源なのでけっして君のせいではない、あくまで薄色の堆積によるもの、着ぶくれした真冬の寒気のあざけりが、毛糸や布団の自由気ままをいくらか封じていたのでしょう。
それが夏日になればまわりがぱっと色濃くなって、ところどころにけばけばしい装いをほどこしてゆきます。
厚化粧と知りつつ発汗の理に抵抗する彩度が、派手さを強調してやまない洋服や太陽に挑みかけては細めてしまう眼と結託し、豪華なクレヨンをまえにした児童の会心の笑みがさらに画用紙をきらきらと純白に仕立てるのです。
この季節、寒空にかじかむ手足や指先のささくれをひどく懐かしがるのは、塵が湿気で膨張したかのようなうぬぼれを間近に感じ、信頼が暖炉でくべられる不敵をあらためて認め合うためなのでしょう。
冬景色と夏の画用紙が透徹した純度で結ばれるように。
吸い取り紙みたいな効果を信じるひややかさ、それは鏡の魔法がたしなめる推移への謳歌なのですね。
保温という優しさへの期待に寄り添う横顔を僕はたしかに見届けました。


目覚めとともに僕を襲ったのはやぶ蚊のかゆみだけではありませんでした。
毎夜、蚊遣りを煙らしてもどこかしら皮膚に赤みを残していく風物詩は無惨にかき消え、実際にかゆさを感じなかったわけではなかったけれど、それを遥かにうわまわるくらい、静子さんへの関心が強まったということです。
正確に言うといったん気抜けした、つまり見届けるもなにも僕の思惑などはなから下手な将棋に等しく、どう転ぼうがどこで起き上がろうが、いくらでも静子さんには打つ手があるのがわかったからでした。
額面通りに返信せずいたならどうなるのだろう。僕の怠慢で育まれるのは間延びした夏休みなんかじゃない、反対にひりつくような焦燥に駆られ、いてもたってもいられなくなるにちがいない。
なるほど住所を記さなかった理由は羞恥に促され整然と述べらていますが、氏名と学年学級を明かした以上、一方通行の恋情に終始する、しかも一度限りの手紙ですべてを燃え尽くしてしまうとは考えられません。
しかし、嫌味なまなじりで深読みするまでもなく本当にあるがままを懸命に伝えたかっただけだとしたら。
そうだとすればやはりあの手紙は恋文にほかならず、僕は黙って気持ちを受け止めるしかありません。
まったく不甲斐ない男だと思われても仕方ないのですが、ある事情で沈黙に準ずることに対し辟易していた矢先だったので、ここに来てふたたび別な方角から似たような心境へと沈んでゆかなければならないのか、どうして未来は遥か遠くでしか約束を交わさず、そして静子さんの場合は未来がすでに過去であるという意味で遠く、いくら胸に生き続けると言い聞かせてみても、失意は押し寄せてくるばかりなのです。
が、ずっと負の襲来に身をまかせているのは悲惨すぎる、そこで思案しました。
とにかく夏休みに入るまえには君と直に会って短くてもかまわないから、ひと言ありがとうとだけ伝えよう、そして君の態度や顔色をよくうかがってみて、文面にのぞかせた意向はやはり一縷の希望を託している様子であれば、返事がいらないなんてどれだけ僕を気遣う口ぶりであってもそれは弁明、自分の想いを訴えたのだから、どう相手にとらえられたのか知りたいはず、これが返事ですと君に手渡す、といってもその後の進展など特に求めはせず、僕は残り少ない学年を送るだけ、かりに気持ちが通じ合い親しくなってもいずれは離ればなれになるけれど、文通の意志さえあれば恋情は燃え盛ることのみに意義を欲せず、冬景色の凜とした情調へ歩み寄るのだから、とても素晴らしいことでしょう。
横顔を僕はたしかに見届けました、そこまでが返事でした。
早速、僕は君のすがたを待ち受けました。この時点でいかに思い上がりが大きかったかが判然とします。
返信を勝手にしたため失意を転じたと浮かれていたのだからもっともなことです。転じたのはあくまで僕の意識であって、静子さん、君のものではありませんよね。郵便受けには最初よりもっと激しい手紙が届けられる夢想がつまっていました。見届けられたい一心であふれていたからです。
ところが図書室にも昼休みにも放課後にも二年生の校舎付近にも、どの時間もどの場所にも君のすがたはありませんでした。所詮、待ち受けていたに過ぎない怯懦を悟り、見当たらないなら堂々と君の教室までゆけばいいものをそこまでしなかったのは僕の高慢以外の何者でもありません。どの時間やどの場所なんて限りなく最小の点描を用いた絵日記の戯言です。
しかもその絵日記には憚りもなくL博士の文字が刻まれていたから始末におえません。
僕は君がつけてくれたあだ名にすっかり舞い上がってしまい、いつになったら自分の耳に入るのだろうと夏休みを密かに遠ざけていたのです。
焦りと落胆が頂点にさしかかったとき、君が急病で入院していることを知りました」


○○町十八番地
燐谷幸吉


[462] 題名:L博士最後の事件簿15 名前:コレクター 投稿日:2018年11月20日 (火) 02時14分

「お家に着きましたか。ごめんなさい、さっきは勝手なお願いをしてしまいました。
とても胸がどきどきして、気持をはっきり伝えたいのにもじもじして、たとえ手紙を受けとってもらえても、わたしの表情ですぐにあなたは察してしまい、ぴしゃりと拒まれたらどうしよう、今日のうちにしおれてしまう花びらみたいなはかなさが怖くて、せめて一晩くらい気ままなときめきを胸に囲っておきたかったのでした。
でも住所を書かなかったのは同じ理由からでなく、とても言いづらい恥ずかしさがあって、変な意味ではないのですが、なんだかよくわからないまま、失礼を承知で、あっ、わたしなにを言ってるんでしょうね、すいません、うまく書けないのです。
しかし勇気をもって、そう、こんな手紙をお渡しするのですから、ちゃんと説明しなければいけませんね。
あなたはすてきなひとです。頭がよく優しそうな雰囲気があり、相手のことをしっかり感じてくれる、わたしの一方的な想いと軽んじられて仕方ありませんけど、浅い水際から足のつかない水底を探るような不安は浮遊する期待にふくらんでいるので、もし受けいれられたとして、おそらくあなたはわたしの好意に対し、なるだけ早く応えたい真心で返信をくださるでしょうし、駄目な場合であったとしても傷心に気づかって迅速で丁寧な断りを綴ってくれることでしょう。
すべった足もとに適切なまなざしを注いでくれるにちがいありません。
それなのにわたしの心情の発露といったら。進学へ向けた大切な時間をさいていただくのがいかに遠慮のないことか、まして夏休みを目前にした恋文なんてどれだけいかがわしく気配りを欠いたものか、迷惑なのか、わかっているつもりです。わかっていながら今日を選んでしまったのはもうたえきれなかったからなのです。
あなたを慕いはじめたのは半年ほどまえ、見た目にはしとやかで可憐な装いに映る、いえ、そう映ることをいつも求めているわたしたち女子のかしましさはかなりなものだろうし、豊満な空気はたえず野性をしのばせているので、その触手はいくらか獰猛なのでした。
こんなふうな言い方をしたら幻滅されるかもしれませんけど、恋のきっかけは必ずしも厳粛なたたずまいや、そよ風の清廉ないざないや、夢のまたたきからきらきら飛び散る火の粉のせいではなくて、もっと卑近な場所に立ち寄るどら猫の毛並みのような直感から生まれてきます。
遥かかなたへ胸おどらせる高尚さにまじりそうでまじらない他愛ないおしゃべりのゆくえ、それが乙女の通行手形、純情なのです。
意中のひとを語りあってみたり、歌手や俳優の容姿を論じてみたりしながら、身近の男子に触れ合う機会をうかがってはなんらかの成就を願うこころ模様、わたしもそんな中にあってご多分にもれず突風のあおりを受け、あるいは自力で奮起して巻き起こし、恋という色彩に瞳をかがやかせてみたくなっていました。
そして想いがかなった級友をうらやんで悲しくなったり、あれこれしゃべるわりにはじれったい顔つきしかできないもどかしさを叱責している鬼のような自分におののいたり、すでに深刻な間柄までいたったといううわさ話しで鼓動を強めたりしても、恋のゆくえをたどりきれない現状に結局は安堵するのです。
では、どこからあなた対する気持が芽生えてきたのか、よくよく推測してみたのですけど考えれば考えるほど、ちょうどおさない手つきで庭先に埋められたかつての宝石が果たしてどの辺りだったのか、さほど広くもない裏庭を無性にあちこち掘り返しているような記憶がかすめていくばかりで、これといった要因は見当たらず、やはり通行手形はあくまで機能を有したものでしかないのか、これよりさきのなりゆきはもちろん、発火点を告げる手間もはぶかれていて、それ以上思いめぐらすことは不可能ですし、なにかしみじみ疲れてきたので純情という鏡にすり寄ったのでした。顔かたちの微妙な動きで心境を見つめるためなんかじゃありません。
ひんやりした肌ざわりを約束し、やがて体温を写しとってくれる冷淡な境界が懐かしかったからです。
なので輪郭を持たない影のような気配に惹かれたというのが本音かもしれませんね。
それと、これはあとづけの根拠みたいで言いわけがましいのですが、成績抜群なのは全校でも知れわたっていたけど、図書室で片っ端からいろんな種類の本を借りてはすごい早さで読んでいるということを友人から聞き及んだとき、はじめてわたしの脳裏にあなたの影がよぎり、すぐ様それは光の束になったような気がします。
さほど頻繁ではなけれどわたしだって壁一面をぐるりと支配する書棚の景観を好んでいたし、あの独特の匂いに包まれながら未知の世界を手にする重みに授業では得られない華やぎを得ておりました。
以前からすれ違ったり、お互いのまなざしが交差した瞬間だってあったはずなのに、どうしてあらためて意識しだしたのか、それはわたしがこれまで男子を異性としてあまり感じとっていなかったせい、二年生になってからだつきがすこしだけ大人っぽくなったせい、そんな自分を意識することが男子との差異をめざめさせた結果なのでしょう。
しかし、どれだけ下地が整いだそうが、肝心かなめの対象を彫り上げるまなざしは実情に取り残されているのか、それとも肉体をさらに反射させ、めざめの遅れに躍起となった理知が夏の秘密を、光線の正体を、影の不思議を解き明かそうとしたのか、答えはちょっと恥ずかしいのですが、それはわたしがあなたにあだ名をつけたことなの。
燐谷さんだからL博士、いずれ本当に博士になりそうな感じがしました。
おかしく聞こえるでしょうけど、あなたはわたしの兄のようであり、でも兄を越えた存在になっていて、そうした想いはむろん経路を知りません。ただ、この夏は大いなる季節にちがいない、強烈な陽射しがわたしの殻を焼きつくすだろう、行き止まりのすぐそばで。
そこはあなたがいる場所なのですね。この町を離れ進学されてもわたしから遠のいてしまっても、あなたはここにいるのです。この倒錯した想念は鏡の作用、わたしの願望と先送りした影が交わる花束、だけど受け取ってもらえない寂しさより、残像の映しだす記念碑を抱きしめるよろこびが勝ります。
わたしのこころにあなたが棲んでいる。
わたしはあなたの匂いをもういちど確かめるため図書室にゆき、そしてついに決意しました。手紙を書こうと。
あなたにしてみれば重くのしかかる岩石みたいなわたしですけど、これでいて以外と明るい性格なのですよ。だって仲の良い友達にはもうあなたの話しで盛り上がったり、はしゃいだりで、切実な面持ちなんて仮面のようにはずすことだって平気にできそうですもの。
なら、なぜもっと以前に気軽に想いを告げなかったのか、その問いはあなたのひんしゅくを買うに十分過ぎるので、正直に話さなくてもいいなんて、ふとどきな考えを泳がせていたのですが、夏の日はわたしにとってとても大切なものを包み隠しているように感じて仕方なく、かなり誇張したくちぶりですけど、宿命の恋だと太陽も海も山々も呼びかけてくるのです。白波は激しくて緑がまぶしいのです。
なにより声高にするつもりなんかまったくなかったはずの、たいしてひねりも利いてない、それでも敬慕をこめたL博士のあだ名がにわかにひろまってしまい、夏休みまでには浸透をまぬがれず、まちがいなくあなたのもとへひたひたと伝わっていきそうでした。
部活動とは無縁のあなたとわたし、休校のあいだ、あなたは怪訝な表情をつくったまま、わたしは浅はかな思い出をかついだまま、あだ花を嗅ぎ続けなくてはなりません。そんな茶番はまっぴらです。しかも記号を付与されたみたいながひとり歩きする気安さに親しみを感じのか、今までとっつきにくい存在だと決めつけて、および腰だった他の女子らがこぞってあなたになんらかのかたちで接しようとしているです。
いいえ、誇大妄想ではありません。たとえ実りがなくとも寸暇であっても情熱がくすぶっているかぎり、特に夏の光で生彩をとりこんだ意識のたかまりは大きく、一様に恋の炎に身を焦がし暑気を忘れるいきおいなのです。
わたしひとりの眼を通して見つめている、そう仮託していた恋をよこどりされては身もふたもありませんので、おぼつかない筆をとってあらましを述べさせていただきました。
結局そこへ流れつくのか、そう見下されるのは覚悟しています。ですから返信は無用と申し上げます。憐れみだけわたしに投げつけてくだされば本望、わがままをどうぞお許しください」


燐谷幸吉さまへ

二年三組 櫻田静子


[461] 題名:L博士最後の事件簿14 名前:コレクター 投稿日:2018年11月13日 (火) 00時35分

見上げれば見上げるほどにまぶしさよりどこか醒めた気分が告げられているようだった。
汗ばむ首筋へ張りつく不快は日盛りに呼応する木々の緑がぬぐってくれるのか、遠い海鳴りに被さるような蝉しぐれの気ままが家路を急ぐ幸吉の足どりを軽くした。
日々の連鎖に絡みつくはずだった貴重な経験は季節が巧みに操ったのだろう、熱病はまぎれもない暑気にあてられ、舗装を待つ道途から舞いあがる砂ぼこりの先をゆくトラックが、駄菓子屋の軒下に売り物らしくない趣きで吊られながらも精一杯の涼を鳴らす風鈴が、夏休みの奔放を早々と背中に詰めこんだ赤いランドセルの軋み、あるいは路地裏へ迷いこんだ野良犬の低いうなり声などが、視界をさえぎりつつ幸吉の耳もとを撫でていくので、まぼろしとあきらめかけていた記憶は深い失望に陥らず、却って美しい想い出へとたおやかに沈んでは、いつの日か水面に浮かぶ睡蓮のように静穏な色合いを描きだすのだった。
ただ同様な外観だが、あくまで水面下に淀んだ今西の平静が幸吉の軽やかな諦念をいくらか刺激した。
名も知らぬ花であればよかった。
その花弁を彩る艶やかさに魅了されてしまい、忘れることの出来ない名前の由来はまるでそうなるのが自然であったようにふっつり途絶えてしまったのだ。
憧憬によって駆けめぐった情念のゆくえは風のなかへ舞い戻ってしまい、意識するべきもない肉欲のほむらに照射され、ふりかえってみればあまりに蒙昧で愚鈍であり、滑稽な演劇の舞台へしゃしゃり出て瘋癲とはつゆ知らず、いや、どこかしら尋常ではない空気を肌にしていながら懸命に儀式的な心性を前面に押し出そうと務めてしまった。
そうするのがあたかも学問より道徳より重大なことがらであると信じていたのだ。
しかし、間弓がしめやかに見せた満蔵に接する態度や姿勢に嘘いつわりないとすれば、明らかに今西の平常さは不自然である。
満蔵からことの次第を聞かされてないにしろ、ひとつ屋根の下で暮らしている以上、間弓の顔色を読み取れないほど鈍い神経の持ち主には思えない、あの訪問のときに示した当惑と抵抗のうちには隠しきれない秘密の鍵をつかんでいる様子がほのかにうかがえたし、予てより親族のあいだに他人が分け入る無謀を不本意ながら承知していたふうな感じが匂い、これは穿ち過ぎかも知れないけれど、彼はつまるところ道先案内人を買って出たように思えてくるのだった。
そして前座として間弓は配役の段にひかえており、舞台場面の展開もまた構築されたものであり、双子の謂いで口火を切るといった鮮やかさで煙にまかれ、あまつさえ初めての接吻まで準備されていたとするなら、その後、瘋癲の妄想はとめどもなく乱れ、今西家の廊下をすべり、ふすまを通り抜け、部屋という部屋の床から壁をつたっては天井にへばりつき、人知れず糸を垂らす蜘蛛の思惑さえのみこんで自在の術を施せば、すでに籠絡の身、張りめぐらされた網の目からは異形に歪んだ賛美しか見渡せず、愚直の足かせを崇拝し、進んで不埒な爛れの理想郷を打ち立てるために発奮するに違いなく、そこには後戻りのきかない鋭利な、それでいて途方もなくまろやかで秘めたぬくもりがあふれだしてくるのだ。
幸吉の気軽な足どりは裏切りとも放擲とも呼べない面妖な果実の味がまだ舌にほんのり残っていて、理性の散花をどこか願っているからであった。
睡蓮の静寂は眠りと目覚めの境界にただよい続ける。今西の奇矯な寡黙はこうして来たるべき未来への涵養となった。
どうして止めだて出来ようか、なぜ沈黙を破る必要があるのか、あれこれ詮議するような真似は慎まなければならない。歴史におけるかつての偉大な悲劇を簡単にすげ替えることが不可能なよう、無粋な人情噺に堕す軽卒には走らない。急ぐ家路は過去ではなく、むろん記憶にはばまれた空間でもなく、ただ明日の夕陽がいつも悔しくてたまらないからつんのめるのだ。
あこがれの女優がいつまでもまぼろしである為に不都合はなかった。満蔵の妄念が健在であるなら新たな舞台が必ず築かれる。
時間と季節の連なりに過剰な期待を寄せるほどに幸吉は今西家の沈黙を了解した。
思春の泉をのぞき見る畏怖は常に現在をかなぐり捨てているような罪悪感に苛まれ、そして遠回りする余裕は排され、実直な時計のねじを信奉するのだった。
幸吉の進学先は県内でも有数の高校で、教師と両親はその意向を十全に汲んでおり自身も入試を切望していた。で、今西はどうかといえば、この町の高校に入学すると決めていたから、増々ねじの機能をうれしく思った。
小学生の頃より丸暗記の学習法ひとすじで成績優秀とされた自分なんかと違って、几帳面に学習している今西の方がよほど勉強熱心だと思っていたので、その理由を密かに知り得ているのがとても居心地が悪い。悪いといっても気掛かりの域を出ず、それは正枝の進退を見極める方便だと勝手に推測していて、やはり満蔵から声なき声で伝えられた福音だと今西には済まないけれど、進学と共に妄念から縁が切れてしまう格好に見えるはずの性根の燻りまで察してはいない、ねじは実務を保つ反面、間違いなく狂いを生じる機械であることを忘れており、しかも誤差を生み出す本性と生命の不可思議に大いなる影を見出すにいたって、確信は静黙の底からせり上がってくるばかりなのであった。
が、まどろこしいほど時間はやるせなく、劇場の開幕は約束されていない。しかし反古でかまわないのだ。満蔵はそう話していたではないか、またその光景さえ見失ってしまってもよく、いつか本当に反古の山へと埋もれる運命にあるのも知れない、念いは強烈な夏日に捧げられつつ、興醒めを内包していた。

独善的な思考が渦巻くさなか、幸吉は想像もしていなかった事態に置かれた。たしかにねじは狂う。
一学年下の女子から手紙を受け取った。それは恋文であった。修学旅行先で正枝に、いや、呉乃志乙梨に手渡した切り抜きがめぐりめぐってまわって来たような錯覚にとまどい、あこがれを投げかけられるという側の未知なる立場に微かなめまいを感じた。
封を開けるまえ、さらに珍奇な意想があたまをよぎった。
「これは正枝が綴ったのあの手紙じゃないだろうか、なにかしらの力学が働いて悔いが拭われようとしている」
まったく馬鹿げた考えだが、そういうふうにでも判じないと治まりつかない動揺に惑わされ、夏の西日が執拗なまでに幻覚を授けるので、しまいには、
「すいません。これ読んでください。けど帰ってからにしてください」
そう言いながらあたまひとつくらい背丈の低い、はにかみを照り返した黒髪によろこびを片鱗だけ現し、お辞儀するような姿態にかつての自己像が張り合わされてしまった。が、そのおかげで言葉足らずと短い時間の織りなす淡い恋心はのみこめた。
しかし今の幸吉には淡い心情だけでの基調音が支えているわけでなく、もっと激しい驟雨のような、悪戯が火遊びになる手前で鎮火を求める、唐突でいて当たり前の見据えた算段が好ましく、濃淡の利や残響から飛び出してくる悩ましい悲鳴に情調を委ねたかった。
これはまったく憧憬から羽ばたいた音色であったので尚のこと引き返す情況を描きにくく、自家撞着だけが許された方便だと思うしかなかった。
恋する様相は変じて恋される者にうつろう。
嫌な気持はしなかった。今西家の誰かから声がかかるまでひっそり息をのんで閉ざすばかりが過ぎゆきではない、現に立場が異なっただけでしっかりとまどっている。この現実をたぐり寄せてみたらどうだろうか、そうだ、恋する自由が夢に映しだされるだけではなく、自由を恋することが健全な肉欲に結実するのでは。
宙吊りの力学は稚拙なひらめきでしかなかったし、ねじ巻きの手つきも風に流され落ちついてはなかったけれど、地球儀はいつになく重力を主張しているようで、幸吉はめぐって来た事態にほのかな愛しさを憶えるのだった。


[460] 題名:L博士最後の事件簿13 名前:コレクター 投稿日:2018年10月30日 (火) 06時32分

おとし穴とも宝石箱とも喩えようのない、ちいさなおののきが華やにめくらむ箇所をのぞき見た不思議は光陰すら定めることへ抵抗をしめしたのか、あるいは夕陽を背にした帰途がいつも穏やかさで映えているふうに思い出すのはどうしてなのか、明日がそれほど待ち通しくて仕方なかったと今、幸吉はこの瞬間を踏まえながら言い聞かせていた。
虹霓は雲をつかむより天に舞い上がる羽根より、哀しいまでの卑近な彩色で眼に届けれたのでそう念じてしまい、より身近な血縁の稠密する民家へその彩りを塗りこめようとしているのかも知れない。
間弓の視線は凍りつことのない樹氷によって照れされいる。父から聞き及んだ経緯はあまりに衝撃が強過ぎてどう受けとめていいのやらひたすらとまどうばかりであろう。
他人ごとなどではなく身内に巻き起こった嵐であり、自分のこころが千々に乱れ飛ばないようしきりに手綱を引きしめているのだから、幸吉の夢幻とやらで渡された綱の揺れ具合とはそもそも時間の流れがまるで異なっていた。
想い出のなかでいつまでも眠る亡き母のやすらぎを乱す正枝の存在は父の懇願に乗ずる素振りで止揚されたが、長女と呼ばれるべきたおやかで揺るぎない花影の所在は危ぶみに吹かれ、まして粉黛に身を投じたなりわいへの執着から抜けきれない態度、つまり女優というあだ花にこころ咲かせるあり方も、それを案じてやまない父の憂愁こそ間弓には冷たい血にしか感じられないはずで、帰途に仄かな親しみを授ける夕陽の思惑など、どこまで日暮れてみてもたどれるわけがなく、すでに夜更けの呪詛がうららかさを足もとから攫おうと躍起になっている。が、情愛も肉欲にも厳かに触れたことのない幸吉の軽佻な気組みのなかでは、不純が濾過されるよう緩慢なそのくせ急進的な、さながら蟻の行軍のような、よくよく見つめれば数えきれない黒い連なりに似て意地らしく思われ、その一条を唾棄し侮蔑する感情はわき起こらなかった。
凍りつかない心情は却って雪どけ水を待ち望む丘陵からの眺めにおさまった。まだまだ遠く険阻な足場を覚えつつ。
そんな柔らかな判断にすべてを託し、ひょっとしたらもうこの家を訪れるのは最初で最後になるのかと、甘い誘惑をあえて遮っている児戯めいたことになびいてゆけば、いっそう間弓のまなざしは透き通った時間の彼方へ結ばれているような気がするのだった。

あれから満蔵の話しは手短かだが、幾度も首筋より頬にかけて激しい鳥肌を立てながら、そして頬を赤めたと途端に額から冷や汗を吹き出しては、尿意なのかむず痒さなのか、なにかが軋んでいる音に嫌悪をおい被せているのか、地と図の反転などまったく起こりそうがない緊迫にただ圧倒され、書架へと眼を走らすこともないまま、親睦という名だけに清められた十字架と、霊験は剥奪され不調法な言葉の作用のみが暴走する大人による子供へのおとぎ話の世界に埋没した。
その挙げ句やはり幸吉は明瞭に支配された大地から浮遊し、夢幻の綱渡りの決意を促されたのだった。
深く考える矢先から学業を放棄するだの、心酔した心意気を差し出してみたのは、とても元教育に従事してきた者に対する受け答えと呼ぶには転倒した場面だったし、性愛文学の嗜好が相まって傾倒を余儀なくされた不義の説明も、特にその四肢の欠落、比喩と捉えるべきなのか字義通りなのか、もはや昏迷の暗路をかき分けていく語り口に精神病理の陰を見出し始めていたのだが、かつての威厳をかなぐり捨てたもの言いには脳髄を酔わすだけの魅惑がいくらか染みこんでおり、また絵空事が写真を介して降臨したのだとうなずくだけの説得力を持っていたので、虚構ないし痴呆の戯言には映らず、その仰天の意向に耳朶はしっかり握られてしまったのである。いにしえを小泉八雲がひもといたあの逸話のごとく。
「この三枚もどうか持って帰ってくれたまえ」
幸吉は遠慮という行為がこのときほど無粋なものに思えたことはなかった。
「驚いているだろうがこれは正枝が先日送って寄越したブロマイドなのです。で、この隅のイニシャルだが、もうわかるでしょう。iは今西、mは正枝なのです。呉乃志乙梨として女優としてじゃなく、本名、いやまだ今西ではない、にもかかわらずこのi.mが意味するところは私には明白なのです。つまり娘は今西の家に帰りたがっている、しかしこころざし半ばで銀幕から身を引くのはとても辛いのでしょう。これから話す事情は君にとってはかなり飛躍した道理だと呆れてしまうに違いない。だがよく聞いてくれますか、娘は正枝は映画会社の重役のある男から提案されているそうなのです。提案なんて座りのいいもんじゃない、ようは囲いものになるかわり今後、役をつけてやるというほぼ命令なのです。正枝は引き裂かれる心身にたえきれず、すこしだけ猶予をもらい受け私に相談してきた。
どう思いますか、君。このイニシャルはあとから私が書き加えたとも言えますし、はなから正枝の真意であったとも言えるでしょう。そんなことはその際どうでいい、私と娘の不安は必ずしもイニシャルで銘記されるわけではありませんから。
もっと簡便に話しましょう。問題は昌昭と間弓なのです。せがれには近いうちにきちんと弁明するつもりなのだが、すでに打ち明けてしまった娘はすんなりと納得はしてくれませんでした。でもあと数年もすれば進学なり就職でこの町を出てゆくのです。当人がそう願っているのだからまず大丈夫、そこで正枝を向い入れるわけですが、私はしっかりした婿をとってあげたいと考えているのです。ほかの誰よりも正枝をうやまい、大いなる愛情をふところにおさめているひとをね。それが君なのです」
おそらく成人を迎えるころには、いやそうでなくとももし美酒というものに酔いしれることはそれほど難しい想像ではない。しかし酔い心地が一撃にして奈落につきおとされる幕間を思い浮かべたことはこれまであるはずもなく、人生の艱難に先立って微笑み返していると仮想した記憶がなかった。
昨日のあの情景がよみがえる。
結局はきっぱりと拒絶の意を満蔵にしめすどころか、ほぼ受諾を、あの熱病につられたまま意味など判じず、むしろ地球儀にしかない重力に引かれるような気軽さで口にしたのだった。
帰り際の間弓は幸吉をのぞきこむ目つきで真意を探ったのだろうが、その訳はなおざりにされたというより、悪夢に取り残された事情を述べる言葉を見失っていたからである。
すると自分でも呆れ返るふうな歯の浮く語勢がついて出た。やぶさめの正鵠に忠義を見届ける代わり、無傷の翡翠を、のぞき知ることの若々しい映発を、武骨なまでの三段論法を。

期末試験の前夜、夜更かしは美徳によって机上が清められ、深夜をくぐった時計の面にはほのかな悪巧と玲瓏な時間が音もなく漂っていた。
ある級友は丑三つ時をまわる頃、忍者のような身軽さと猫のようなしたたかさで夜の通りへまぎれるそうだ。当人いわく、気分転換のため、勉強のはかどりをよくするためらしいが、幸吉には大義をかついだ彷徨であって、たぶんに幻惑的な情欲をたぎらせ、疑似であることを自覚した夜這いであろうことは薄々感じられた。
木枯らしのわびしさとは反対に闇で被われた通りへ繰り出す足どりは幽明の息吹が聴こえ、下半身は暗渠に落ちたような感覚で呼び覚まされる。そこには奇矯な転倒が起こり、亡きはずの生命がこの世にさまよい出るごとく、失った下半身のなかでも一番敏感なところが夜の町並みを変貌させる。
おさない時分の考えには暮れゆく加減とはおかまいなく想像のみが這い出す。それは夜の思考とは別種の光芒であり、玩具や駄菓子の隠すことを怖れない自愛にそそのかされているようなこざっぱりしたもので、たとえば国鉄の線路が延びているその脇に高まった小山の底には地下鉄の駅があって、そこから乗りこめば時間の延長はすべてトンネルが打ち消してくれ、夜窓に照る列車の明かりは陽光の余燼などではなく、人工的な配慮に委ねられているのだ。
夢の構造も哀しみの音色や物怖じが堆積していたのではなく、ひどく懐かしい灯火とか、胸騒ぎにあふれる夕焼けとか、魅了してやまない川沿いの夜景とか、そうした光景すべては脳内の工場で産声をあげて、この世からほんのかたときだけ消えてから、すぐさま喜悦の扉をたたき始めるのである。
あの級友と夜の川べりでばったり顔をあわせるかも知れない、ひと恋しさで満ちた想いは実際に夜へとけ込もうが、そう空想してみようが大差なくて、案の定、まどろみに誘われた闇のかなたでは大都市の繁華街がひろがっており、唯一ときの流れを知らしめておくのは河川と河川を橋渡しするもどかしさのみで、やはりひとりぼっちは心細い、見慣れた顔に出くわしたいのか、あたりを見舞わせば、よく似た面差しはありふれて仕方なく、何度も橋を行き来するうちに焦りだし、夢の専売特許である迷路へと案内されるわけだが、これも根気と体調のしわざか、皮膜一枚によって隔てられる現実の夜へ向って絶叫すればこと足りる、トンネルに悪意はない、延長コードは速やかに巻き戻され、人気のない通りに級友とふたりして夜を案じる影が居並ぶ。
夜這いなんてする試しもないのに空威張りの念いが遠い星空にまたたく。そしてもう一度あの強烈な白黒のかがやきに別れを告げる間もないまま眼を覚ます。

「ようするに正枝と婚約してもらいたいのです。もちろん正式ではありません。君の将来を十分と含みいれてのお願いなのです。ひとり息子であることも承知のうえですから、興信所に依頼したのは御両親が果たして聞き入れていただけるのか、どうすれば私の意向が伝わりのだろう、そう案じたからに他なりません。正枝には自由であって欲しいのです。ではどうして婚約などと怪訝に思うでしょうけど、さきほどもお話したように娘は銀幕を選ぶのか、静かな生活を願うのかで非常に迷っているわけでして、このままではかつての私の振る舞いがそうであったよう好色に支配され、やがては朽ち果てる宿命、淫欲と金銭にまみれながら夢を枯らすのは眼に見えてます。しかし正枝はそれでもいいと居直っているところもあるのでしょうか。宿命なんか認めなくない、わずかな機会を得て人気女優にのぼりつめたひとだっている、父親の業だけで女優の道をふさがないで、決してはっきりそう反論したわけではないのですけど、まだまだ若い身、たしかに安穏な方便に傾きすぎてしまい可能性の芽を摘み取っているようで遺憾です。だからと言って私は黙って眺めているだけで過ごせば、これも業なのでしょうが、そして無礼を承知で言いますが、どうしても安全牌の必要に駆られていまうのです。正枝も言っております、君ならかまわないと。
ゆくゆくなんて夢のまた夢、そうだからこそあれほど熱心だった君に好意を感じるのだと思います。口約束でいいのです。いずれ時勢が変われば反古にしてもらってもかまいません。ええ、逃げ道には違いありませけど、今の正枝を支えられるのはこれより他はないと断じたのです」

ブロマイドがなによりの証し、映画会社の重役とやらが小手先を使っていかに尊大であるかを正枝に教えこんだという。こんな形で世に出ようとは考えてもなかっただろう。
もし何も知らない情況であったなら、発売と同時にすぐさま購入しただろう。
幸吉は悔やんだ。あの出会いとそれにまつわる事柄の文字が綴られていた手紙を直接読ませてもらわず我慢した、少年の尊大が妙な邪魔をしてしまったことを。
そしてその後、満蔵からの連絡はなく月日だけが、今西との普段とおりの会話が、進学への道先が、失われてゆく間弓の面影が、尊い夢のようにめぐり、中学最期の夏を絡めとるのだった。


[459] 題名:L博士最後の事件簿12 名前:コレクター 投稿日:2018年10月15日 (月) 07時13分

机の片隅に置かれた誰から譲り受けたかさえ忘れてしまっている地球儀を軽くまわしながら幸吉は思いめぐらせていた。
高揚した意識は追い風の心地よさも陽射しの加減も感じることなく、熱に浮かされた足どりで、ただ前景がいつもより彩度の強まった輪郭に被われているようなまばゆさに支配され、それは遅れて視界へ飛びこんでいた咲き誇る彼岸花の赤みが膨張した作用によるものだと吹き流せば、帰途に魔性は棲みついてはおらず、約束された回想がたなびくのだった。
現にこうして世界の国々の地形をぼんやり見つめていれば、脳裏に浮かんでくる光景は見知らぬ異国を旅する人影や聞き取れない言語の数々から繰り出す雑踏ではなく、この町に連なる白い浜辺が映し出す蒼穹と海原の静けさであり、その真ん中を一直線に白濁させる飛行機雲の澄みきった眺めだった。
このうえない訪問であったから記憶は飛翔するのだろうか。それとも幻影のあやつりを望んだゆえの儚さがかげろうに転じるのだろうか。
身にあまる光栄を浴びながら不遜な高みにまで登りつめた絶頂は更なる演出を願っていた。
要点に向って冗長を回避し、あくまで偶然の出会いによる歓喜へと収斂してゆく語り口に聞き入るばかりの幸吉は、他人のしかも息子と同い年の、世の中に顔をすこしだけ覗かせたにすぎない無能の方がはるかに勝っている情況を誉れだと解釈してしまった。いやそう仕向けられたと怪訝さをもたげる意欲も速やかに鎮められたのだ。
青春とはまさにうぬぼれが世間の壁をつき破る幻想に他ならない。そして恋情という火花が瞳の奥で瞬き、硝煙を立ち上げたのであったなら、人生の門出は後戻りを決して認めない。地球儀がちいさな指先で動いてしまうように。
問題は球体に張りつけられた、しかし世界を豁然と俯瞰させる意図を読み解き、今度は思いのほか勢いをつけてしまった回転を見定めることにあった。平面の図式に帰したのち、広大さと起伏をあらためて認識し、特定の磁場へと身を投じる。
満蔵が醜態をさらしてまで助勢を求めたのは、また性急な物腰であったのは、これまで今西家を侵蝕することがなかった自然の脅威とはまるで異なる、猛烈な風雨より陰湿な不協和音の響きを危惧したからで、それは昌昭、間弓の反撥であり、もはや世間体ではなかった。
そう考えなければ幸吉の生きる意味はこころ優しい、そのくせ刺激にこころ逆立つ、凡庸で倦怠な日々を享受する自己欺瞞に歯ぎしりするしかなかった。
満蔵の口上に無駄がないことに感じ入った幸吉は、すでに言の葉のすぐそばでひかえている、台詞をのみこみまるで舞台の出番を待つ役者の心音を愛でる境地にあった。
確約された条件、それは紛れもなく女優にやつした正枝との接触であると思われ、ここでようやく今西が口酸っぱく話していた頑固だの吝嗇だの律儀だのと諷した肖像がよりはっきりつかめてきた。頑固は融通の効かない了簡、吝嗇は際立って無駄を排する観念、律儀は思いこみの激しさから逃れられない宿命論、そうした帰納に導かれる由縁は独断であろうとも、女優をめぐる演繹を合わせもったからにはどう転んでみたところで悔いはない、飛翔の裡にかげろうは立ちのぼるのだから。
だが、全幅の信頼を今西家に寄せた理由はさほど重篤な空気ではなく、むしろ恋がはじけてしまうような淡い失意の先で囲繞する見果てぬ数式に溺れていたのであり、解答を持たない例えば発見されることを永く乞い続ける素粒子論が夢見る空間への賛美であった。
幸吉は今西家の三人に加え、四人が囃し立てる真率な和音を愛でたのであって、不協和音はちょうど自らの胸に巣食う闇の解放にあった。むろん闇がしめる領分が消え去るわけではない、ただ一切の邪念が純度を欲するとなれば、それは宇宙空間を占有する暗黒にいだかれることで、独り相撲でしかなかった妄念は大いなる惑星と溶け合い、言の葉が舞い落ちる無常に達する。
そのためにはまず克明に事象を噛み砕かなければいけない。まだ動悸は鳴り止まず、そして熱病に冒されているのだろうか、芒洋とした理屈を並べれば並べるほど幸吉の夢幻は衣服のように平常を装った。
ところが新調された着物に袖を通す段を想像した結果、晴れやかな気分とはうらはらの無粋で狷介な実情に絡めとられ、微熱にとまどう気弱さを知った。
それは満蔵の書斎に張りつめた清浄な神経を逆なでするような試みであるとともに、予測を裏切らない信憑を有していた。間弓が演じるであろう帰り際の、私情をむき出しにした、けれども嬌態を香らせる笑みがどんな行為に変換されるのか、前奏曲が奏でられたのなら終曲があってしかるべき、劇場の幕引きは水際立ってもらわなれば満蔵と交わした言葉が空疎になる。
しかし現実はもっとも忠実なしもべが足音に敬意をはらっている調子で訪れた。
「お父さん、そろそろ、おからだに障りますわ。燐谷さんだって一度になにもかもだと大変でしょうし。了解いただけたのでしたら、また日をあらためて」
いつの間に満蔵のそばへ歩み寄ったのか、そして仮病と聞いていた齟齬を認める猶予のないまま、自身の体調に気遣う素振りは優美なまでの気高さを配して父をいたわり、まなざしは緩慢な動きを崩さず、さっと幸吉の顔をうかがい俊敏な憂いを伝えた。
間弓が魅せたあまりに完璧な情愛の顕現に幸吉は身震いした。けれども邪念は崩壊する運命をたどったに過ぎない、そんな負け惜しみが泡沫のように音もなく浮かんだ。
浮かぶと同時に、
「そうだね。はじめてなのにすべてを言い尽くすのは困ったものです」
幸吉を案じて発せられたのか、おのれの性分を嘆いたのか、間弓に遠慮したのか、満蔵の声にはそれらの思惑を持ち上げるすべがないようにも届き、また別の誰かへ詫びているふうに床にふわりと落ちた。

あまりに柔らかな侵入によってその日の訪問は終わった。
地球儀をなぞる指の感触に違和を覚えたるまでどれくらい時間は流れたのだろう。無為なる時間、散漫な意識の明滅、気休めの陥穽、ちいさな欲望、しかし食欲と同じくらいたいせつな栄養補給、呼吸の原理、あたまのなかを吹き抜ける風、塵の自己主張、飛び立つ羽音、夜のしじま、眠りのまえの自涜。
間弓は玄関まで見送ってくれた。「主役の座はいつかあなたに譲るわ」これは幸吉の無風の解釈にすぎない。実際には、
「父から厳しく言われていたもので。昌昭のもそうなの。だからわかってね。最初から自分の病状を話したりしたらきっとあなたはためらうだろうって。ほんとうにごめんなさい。あなたの欲しかったものよりわたしたちの欲するものの方が大きすぎる。困惑しにいらしたようですもの。わたしからお話しすべきことは特にありません。いいえ、あっ、すいません。そうじゃなく、たとえ肉親でも意見がかみあわないのはわかってもらえますね。わたしはわたしの立場からたぶん、父に逆らってまで」
申し訳なさそうにそう言った。
幸吉は深海の底をさまよっているような感覚にしびれていたいせいもあるだろうが、急に浅瀬まで引上げられた水圧にあらがう気迫をなんとか訴えたく、
「気にしないでください。あこがれは成就したんです。まさかこんな形でしかも身近すぎて驚いてます。それからこれは変に聞こえるかも知れませんが、あなたと今西君はよく見るとそれほどそっくりではありません。あなたの言うように思いこみなのでしょう。だってあなたの方からそう尋ねてきたのです。ただでさえ緊張していたのでつい」
語尾にこめたものが気迫とは正反対の羞恥であることに気づきうなだれてしまった。
間弓はそのあとに結ばれるだろう言葉をかぎ取ったのか、
「あなたの眼がそうだったらそれでいいじゃない。でも眼だけではよくわからないこともあるわ」
そう微笑みながらこたえたので、増々幸吉は焦りだし、
「ぼくが欲しかったのは」
と、うかつにも口がすべってしまい、
「えっ、なにがですの」
間弓の怪訝な表情を招いた後悔で窮地に追いやられたのだが、「今、自分はあのひとの妹をまえにしているのだ」この閃光の切れ味は恥じらいを一瞬だけ忘却させた。
「ぼくなんかが立ち入るべき問題ではないのに、ほんとうにありがとうございました。あなたはとても美人だと思います」
なにか息苦しく切ない感情に接した、狼狽をぬぐいきれないのか、間弓は無言でじっと幸吉を見つめていた。


[458] 題名:L博士最後の事件簿11 名前:コレクター 投稿日:2018年10月09日 (火) 02時17分

相貌は胸の奥につかえた気まぐれをひた隠しにしている。
隠されていたからこそ不毛な親和は迷妄をくぐり抜け、かえがえのない時間へ溺れることが許された。沈淪する意想はきらきらと輝いており、そのまばゆい景色がこうじて満蔵との距離をはかり難いものに転じた。
同時に間弓と弟である昌昭の相似を打ち消したくなっている借り物のような理性が燃えだし、それは速やかな憂さ晴らしを倣ったのか、ちょうど口に含んだ総菜の味が苦みをしりぞけ、旨みだけをのこしていくふうな塩梅だったので、自由奔放な雰囲気はきまりの悪さから釈放され、ついでに満蔵のふところも断ち切り、異性の芳香と肉感のみで浮遊していた。
あきらかに内密の話しを幸吉へ伝えようとしている気配を感じとったうえは、さながら首魁の娘子をもらい受けるかのごとくに不埒な妄執がめぐって、成熟の手前を魅せてやまない間弓が発する官能に酔いしれたのだった。
「ところであの女優なのですが、その仔細を吟味してもらい、よろしれば私たちの手助けになっていただきたいのです」
やはり因縁があったのか、今の幸吉にはどんな怖れに臆することなく、むしろすすんで秘事の結び目を解きほぐしてみたい、学業をなおざりにしてものめりこんでみたい、そんな激しい傾斜に身をまかせる時間が至上の風向きであり、これこそ人格の陶冶ではないだろうかと念じた。
満蔵の声色がたとえあざとさを押し殺したものであったとしても、駆け引きなしの熱情に火は盛る。
他人である今西家の人々の裡に流れる血の赤さを見極めたい、そしてこの奇態なつながりの向こうにひろがる鮮烈な真相へたどりつくためには、多少の犠牲は必要だろう。
「お断りする理由が見当たりません。ぼくにできることならなんでもやるつもりです」
張りつめた語調に我ながら驚きながら、しかしこの返答はあらかじめ予期していたに違いない、年端も行かぬ年少の相手に真摯な態度で接しているのだ、それくらいの矜持を保っていて当然である、そう考えてみたものの、焦眉を告げる内心がまるで清冽な湧き水となって空の青みに祝福されるように、破顔をこらえにこらえたあげく憂いの涙をうっすらにじませた形相を間近にすると推量がいかにつまらないものか思い知るのだった。
相手の身支度を待っている素振りなのか、それとも核心へと果敢に挑む調整なのか、満蔵は軽く腰を浮かせて一礼してから、深く息を吸いこむと、書斎は色彩にあふれた追懐で勢いよく充たされはじめたのだった。

「まずこの写真を渡しておこう。せがれが撮影したものです。この十枚が全部なので」
幸吉は案外落ちついた面持ちで一枚一枚に眼を通し、
「はい、ぼくとあの女優だとわかります」
あこがれのひととも会話を懸命に思い返そうとしている自分に頬を染めてしまい、感無量の境地をさまよう柔弱をはね除けようとした。だが、念いは一枚の葉より遥かに風の抵抗を心得ており、今西を詰問したことや、方便と疑ってみたこと、ひいては満蔵の威圧に腹立たしさを覚えたことなどが呼び起こされ、そしてやはり重厚な儀式の果てに明暗はある面影をあぶりだしたのだった。
「ネガも確認しますか」
「いえ、大丈夫です」
すると満蔵は懐中からおもむろに別の写真を三枚とりだし、
「これは送ってきたものですけど」
それを凝視した幸吉のとまどいには怒りに似た悪感情が発生していた。
わけは明白でない分だけ動揺に絡めとられ、悲愁の染みこんだ錯綜したあわただしさに甘んじるしかなく、とても質問する余地などありえない。
怒りと哀しみの所在は自分だけの為ではないのだ、かろうじて独断から後退したものの、あとは満蔵を放心の眼で見遣るだけだと気づけば、そのときカーテンの隙き間から昼下がりの陽光が鋭く床に差しこみ、再度あらたな決心で胸はいっぱいになる。
光の虜になったはずだった。もう夢想の出る幕はしばらくないだろうし、未開の地に足を踏み入れた高揚だってそう食後の濃いお茶みたいにすすって味わえるはずだ。回想は間違いなく約束されている。
間弓を心の中から消しておこう。あの接吻は満蔵の計らいであり、彼女の本心でもあったのだ。いよいよ本番の幕が開く、一心同体の演劇から導きだされるのはもはや喜劇だけにとどまらず、怒濤の魅惑に駆り出された怨念うずまく舞台になるはずだから。

「呉乃志乙梨、本名は灰田正枝、私の実の娘です。認知はすましているが正式な籍に入っていない。しかしいずれ今西の姓を名乗ってもらうつもりです。まだ少年の君には重い話しかも知れないけど、私は運命を感じたんだ。志乙梨の母はここにいるふたりの子供たちの生みの親ではなく、私がある土地で知り合った女性なのです。運命という言い方は身勝手に聞こえるだろうね、ふたりが生を受ける以前に別の腹から誕生した長女の存在、社会的な立場はむろんのこと、今頃になって事実を明かしすべての環境を乱そうとしているのだから。君の訪問を先んじて願っていたから興信所を使って調べさせ、間弓が首を傾げるほど根掘り葉掘りだった振りは昌昭にもそれとなく心構えを持っていて欲しかったゆえの狭い了簡に他なりません。所詮それらは不甲斐なさのなせるわざです。
間弓が懐疑を抱いているのは見てとれたし、昌昭だって不審を募らせていたようだったので頭ごなしに叱責したまま今日まで打ち明ける機会を逃していました。君が写真を求め訪ねてくるのが近いと感じた間弓は仮病を使ってまで、まったく胸が苦しいのだが緩衝剤の役割をかって出てくれた次第、さぞかしもってまわった面会だと訝しんだことでしょう。しかし薄々ことの真相をたぐりつつあったのであそこまで開き直ってくれたと信じています。
腹違いの姉に憧れてやまない弟の級友、反対に不義と後ろめたさに苛まれている父親の哀れな姿、その光輝を根絶やしにする暗き瀑布のしぶきを浴びた間弓が演じた行為は言うまでもなく、嫉妬に狂った次女の気概を自他ともに体現することだったのです。
いいわよ、カメラは無断で持ち出されたとしても、お父さんの隠し子に夢中なわけでしょう。写真は渡してあげるべきだわ。その後でわたしという存在を知らしめてやる。
まるで亡き母親の悲憤を代弁しているような激しい感情にたじろいだ私は軽々しくなだめることが出来ず、かといってせがれを叱り飛ばす厳格さも欠けてしまっていたので、ほとほと困り果てていますと、不意に妙な考えが明滅しはじめたのでした。それは閃いては消え、現れては去りゆく不穏な幻覚で、どこまでも透明でありながらどす黒い液体に侵蝕される汚れを抱き続けておりました。
志乙梨、いえ正枝の母には片足がありませんでした。婚姻のさまたげになったのはやはり世間体なのです。私自身はなにもかも捨ててしまい、不自由な生活の伴侶に徹する覚悟があったにもかかわらず、屹立とした生命力の賛美する陰で天衣無縫を汚し、隠微な官能に浸り片方の足にしがみついた末、恥を忍んでお話すると、事故で失った四肢の偏りを溺愛した結果、私の肉欲は暴かれてしまったのです。人並み優れてふくよかなのにきつくひきしまった太ももとふくらはぎにすべての愛情が注がれていることを見破った正枝の母は生涯の伴侶などというまやかしの言葉を一蹴し、日陰の身へ舞い戻っていったのでした。
秘匿の経緯をここで細やかに語るべき身分でないことはくれぐれも了承していただきたい。裏の素顔をあからさまに述べたところで猟奇趣味の倒錯のいいわけに終始するからです。またさぞかし悲運をかついで育ったと案じられる正枝の成長ぶりも詳しく話す資格はありません。ただ女優を志した日々にまつわる委細はこれからの案件につながるので是非とも申し上げたい。
正枝は今年、十九歳になります。その母は三年前に亡くなり身寄りもなく天涯孤独、教育者という肩書きの手前、表立って生活を支えることは無理でしたが、手紙のやりとりは生前より絶えることなく続き、特に病魔が冥府から使いを送ってきたと言い出した頃には何度か所用に見せかけ、正枝の将来だけは心配するな、そう執拗なまでにくりかえしくりかえしたのは、私の本心でもあったのでしょうけど、偏愛に弄ばれた不始末を確約させたい母性がそう誓わせたのだ、強迫的な子煩悩を植えつけられたと言えば倨傲に聞こえてしまうでしょうね、それは仕方ありません。
さて、おおよその事情を汲み取ってもらえたと性急ではあるけど、そう判断し、なぜなら君の決意が鈍ることを私は非常に怖れているからで、もちろんその眼を見れば間違いないのですが、かりにここで君が退室してしまうえば私にはもう頼るべきつてがなく、否が応でも慎重に話しを聞いて欲しいわけなのです。そこで修学旅行先における出会いの場面に立ち戻ってみてください。昌昭が持ち帰ったフィルムに即すよう正枝からの手紙がいつものとおり男筆の差出人で届きました。手紙の内容は言うまでもない君との遭遇で埋められており、その前に送ったある重大な問題にはほとんど触れていなかった、嘘ではありません、どうぞ読んでごらんなさい」
生唾をのむ勢いでありながら幸吉は書かれたものに対する興趣より、あのきらめく光線と逆行が織りなした景色を懐かしみ慰撫したかったがゆえ、過去形は丁重なたなごころでひとまずたたみ、轍を走り抜ける満蔵の見解に耳を貸すべきだと思った。それは興奮を静めるあの背伸びがここでもくりかえされ、いや、くりかえす連動によって慎重な意識を持とうとしたのだった。
満蔵が幸吉に頼っているという奇怪な老醜をさとった限り、反対に幸吉は若輩の毒気を指し示すことで満蔵と同じ位置を勝ち取る。そうしなければこの劇場の主役の座を得る栄光はやってこないだろう。忘れようと努めていた間弓のなまめかしさがあらたによぎり、清廉な思惑だけにしがみつくおのれを鞭打った。
満蔵の肉欲を受け継いでいる間弓をなおざりには出来ない、そして長女である志乙梨もまたこれまでとは異なる妖しさで輝く。姉妹として一度も顔を会わせてない実情が幸吉を見晴らしの高みにのぼらせた。妄想はすぐ近くで成就しようとしているではないか、あくまで数式上でしかないが。しかし空間処理に没頭すればいつか現実の質感をこの手で味わえるのだ。
満蔵が細部を省略してくれたことに感謝しなければならない、なぜなら反復の気楽さからうつろいの妙味に飛んでくれたお陰でいろいろな表情が浮かびあがって来たからであった。


[457] 題名:L博士最後の事件簿10 名前:コレクター 投稿日:2018年10月01日 (月) 23時04分

「はじめまして、どうぞ、そこへ掛けてください」
極度にたかまった緊張の糸をほぐす挨拶として、目線の置き場は重力から解き放たれ、その役割を多分に背負っていた。あくまでもの静かな声色は幸吉の居住まいをただし、初見であることを忘れさせ、にわかに模様替えが施された部屋の雰囲気へうつろいながらも、吸いこむ空気の新鮮な感じはまったくそこなわれていなかった。
それどころか、不意打ちであった接吻の刺激さえ緩和されているような心持ちになっているのは、軽い刑罰に似た安気が隣り合わせていて、彼方の雷鳴を間近で知る錯誤へ陥ってしまった証しだと、瞬時に閃いたときにはもう遅く、下校から連なる時間の溝に沿って歩いてきた自分の影はすっぽりふさがれてしまっていた。
が、たとえ満蔵の計策であったにせよ、幸吉自ら乞い願った打擲だったので轍は明白であり、どこまでも澄みきっていた。
この書斎まで一緒だった間弓の芳香へ想いをめぐらすことがいかに素晴らしい所業なのか、生まれてはじめて女体を意識した罪はどれほど深い谷底の闇にかがやくのだろうか、対面した満蔵を見遣るまなざしへ映りこむ書架に並んだ金箔文字の古めかしい背表紙たちが密やかにざわめている。
さらに視線の奥には塵埃を寄せつけない置き物が奇妙な配列でその経年をあざ笑っているふうに見え、印象をもたらすべき主人の背景へ埋没しかけては、好意的な圧迫を醸し出し、白髪痩躯の風姿に必要以上の形容は押し重ならなかった。
もっとも秒針を刻む壁時計の正確な今を識別できなかったことが幸吉の動揺を示していたから、すべては無辺にあったと言うべきか。
しかし時刻は情景を的確に見送っていた。
「せがれが撮った写真の件だが、いきなりでなんだけれど、その方が君もとっつきやすいと思ってね。なにやら私の側から君を招いてしまったようです」
これは風である。
幸吉は秋の気配を肌身にするあのひやりとかわいた感覚を呼び覚ました。そして暑気を打ち払う一陣は幼年より同じ質感であること、刷新されるのは意識の明滅であって、その明滅もまた等価であり本質を揺るがすような原理を持ち得ないと、さきほどの間弓の意見から隔たった思惟にあっさりおさまってしまった。
「どうしためぐりあわせか知らないけれど、まあ、とにかく楽にしてください」
満蔵に対する疑心暗鬼を見抜かれた気がして逆にこわばりかけたが、どこか夢見の領分を得た心地に誘われたのはやはり切り口のせいなのか。いや間弓の前奏が肩の荷を軽くしてくれたのだ、もしいきなりの面会であったら不協和音に苛まれてしまい、きっとこんな気楽さは微塵も生じなかっただろう。
秒針に挟まった心象はうまく働いてくれたのだったが、凍結はねじまきの指先から始まっており、風は冷徹な素性をあきらかにしていった。
では、あの媚態とも明朗な色情とも呼べる儀式はどのように取り仕切られたのか。
満蔵の指示だとすれば見渡せない演劇性を帯びてくるし、もし間弓本人の意思であったのなら底抜けな二幕の喜劇が開く。
いずれにしてもこれまで経験した試しのない身にとって、足場をさらわれた舞台は自由の剥奪と同じこと、しかし八方ふさがりを悔やむ無念は捨て去るべきであり、甘んじて真正面に突っこむしか方便がない。
書斎の採光はカーテンと電球笠によって調整されている。
外光の取り入れは日常的な快闊さとは無縁の使命を受けているようで、それは煌々と書籍を照らす濃い朱の光にこそ限りない信憑を託していた。
幸吉はこの灯りの虜になろうと努めた。
「間弓を客間に行かせたのは私の考えでした。昌昭を叱責した手前、君も萎縮しているに違いない、それにあんな代物を撮ってくるなんて思ってもいなかったもので。つまり被写体の面影を沈黙させてはおけなくなった、恋情をいつまでも隠してられないように。そこで間弓にはほとんど話してしまいした。どうです、ちゃんと話してくれましたかな、むすめは」
「こちらこそお気遣いいただき、ありがとうございます」
ようやく返答ができ、感謝の意を述べた幸吉は悦楽的な希望が沸々とあふれだして、あの女優との邂逅に匹敵する興奮と陶酔を禁じ得ることが出来なかった。
だが、幾つもの山々を越えゆくような想いや、輪郭を描きだそうとしては入り交じりとけあう白雲の願い、地上から浮き離れ、星屑に紛れるあてどもない夢想へこれまで手を触れたことは一度もなかった。
いくら満蔵が奇縁と呼ぼうがめぐりあわせは由緒ある瞬きでしかなく、間弓の行為がなければこれほど切実な感情のほとりに立っていられようか。
慎重なそして穏やかな口調で満蔵は語りだす。それは前奏曲をさらに奏でる細心の発露かも知れないが、失われた恋情をやわらかにたどる瞞着にも聞こえた。
そうしたくぐもった音像にしか向き合えない理由を幸吉ははっきりわかっていたので、満蔵を気疎いと感じるよりむしろ先々に話頭を転じられないだけ、寸暇を惜しむようくちづけの場面に立ち返ることが可能だった。
唐突な間弓の態度はもはや麗しき様相で彩られ、すべてがその瞬間へと蟻地獄のようにすべり落ちていった。無名の女優に憧れた結果、実際の出会いがあり、小賢しくも深い欲望に突き上げられ撮影してもらった写真が間弓のくちびるを小悪魔に変じさせたのだ。
すると海岸沿いを知らしめる潮騒が、夜の遠い汽笛が、晩夏を謳い揚げるこおろぎたちが、当たり障りのない情景に宿っているごとく、幸吉の肉体は不都合な焦りをしめやかに認めはじめた。
修学旅行における奇跡が無常と紙一重であり、狂熱の風化に従わざる得なかったのは一概に後の障碍ばかりではなく、雄としての自覚が薄かったからである。
銀幕に映し出される以上の光栄だったにもかかわらず下半身はかき消えている。初恋のゆくえを追えない実際と同じく情欲の見通しさえ立ち現れなかった。
不良めいた先輩たちから聞き及んだ淫らなおこないに好奇心を働かせ、妄想を頼りにして自ら快楽に没したけれど、熱風にさらされなかったのはどこかで醒めていたからで、その由縁を問えば問うほどに冷徹な世界の肌触りを覚えるばかりであり、しかもその肌触りは脳裏へ瞬く硬質な加減でしかない。
それでも書斎に射しこむ光線の強弱を見届け、書架を埋める本にいわれを求めたくなる意思をよぎらせた幸吉は、かなうことならもうしばらく満蔵が前奏をより明細に反復してくれることを願っていた。
間弓の顔が能面のように古風な面差しをたたえ、ふたたび間近に迫る予感を描きながら。


[456] 題名:L博士最後の事件簿9 名前:コレクター 投稿日:2018年09月04日 (火) 03時48分

普段着へ無造作に重ねられた薄いレモン色のカーディガンが妙にまぶしく感じられたのは、ついさきほど知りえたばかりの間弓に関する話柄が真新しかったこともあるが、それはくちびるまで血の気がひいた蒼白な面様に疾病の証しを見つけたからだと幸吉は察した。
案の定、今西が出ていった扉の方へゆっくり目をやりながら、
「昨日から風邪気味で学校は休んでいるのよ。こんな格好でごめんなさいね」
と、まだ動悸のおさまらない幸吉を擁護するふうなやわらかな声遣いを用いた。
今日の流れに照らし合わせてみれば、どうしても劇的なかがやきに護られた激しいしぶきを浴びくてはならないので、もっと重篤な悲劇的な実情を推し量ってみたけれど、日向へのびたこずえにさえずる明朗な小鳥に似た声音はまがい物に聞こえず、半ば失意を覚えたものの、それは胸騒ぎが静まる快闊な予兆だと思われて、我が身に降り注いぐすがすがしい驟雨の出だしと認めるしかなかった。
不意打ちであろうとも、双生児のような相貌で立ちはだかろうとも、この情況は単なるめぐりあわせでない。むしろ野蛮なくらい武骨で冷めやらぬ刺々しさを有しており、幸吉のささくれ立った胸裡にうまく融合した。
いばらとは無縁の声色はこう続いた。
「やはりどうなのでしょう。わたしと昌昭はうりふたつなのかしら。あっ、手間はとらせないから。ほんの少しだけ、約束するわ。お父さんのことは弟から聞いていると思います。ああいうひとだからいきなりよりもなんらかの予備知識っていうのかな、その方が了解しやすいのじゃないですか。いらないおせっかいかもしれないけど」
幸吉は満蔵氏といますぐ面会するより、あらかじめ定まっていた間弓との前ぶれが十分に楽しくて、しっかり首を左右させながら、
「とんでもありません。お姉さんにはきっと考えあってのことですから、僕はうれしいです。なにかうれしいです」
飾らない言葉が突いて出ると同時に、小さい頃より兄弟のある家庭をうらやみ、とくに大人びた雰囲気をなびかせている架空の姉の存在を夢見たことを想起した。
そこには常日頃の口やかましい母のしつけもなく、同い年ほどの女子の平気で憎まれ口をとばす男勝りもなく、まるで裏庭の抜け道に通じる秘密の花園がたおやかに香っている光景のみを描きだしていた。
上背にならった長い髪を斜にそよがせ見下ろす優しい目線、くちもとには甘い笑み、耳を澄ましているときに生じる眉間の影、日焼けを避けた肌に浮き出す静脈の青白さ。幸吉は連想の気ままが現在に根ざしていることをあらためて知り、ふたたび恐懼を覚えたけれど想念のはばたきは嵐より獰猛であった。
「そう、よろこんでもらえるなんて、わたしもうれしいわよ。で、どうなのかしら」
「すいません。やはり似てると思います。正直、腰を抜かしそうになったくらいです」
間弓は風邪気味とは見えない体力をしぼりだすようにかたく腕組みし、
「でもお互いはぜんぜん似てないって言い合ってるのよ。お父さんも。近所のひとたちや親類はね、わたしがその件に触れると怒りだすので口にしないけど」
と、体力どころか知力までひねりだした顔つきで断言した。
一人っ子の幸吉には間弓の煩悶を解しかねたのだったが、愛憎すら未知の領域にあずけながらも、拒絶反応に近い感覚はどうやって育まれたのか、なにかしらの要因が近親憎悪を培っているのかなどと、いつもの空想を泳がせてしまった。
「あなたの級友はどうです。先生は、道ゆくひとは、犬や猫なんかは」
間弓の形相がみるみる間に険しくなり腕組みを解いたので、言い過ぎたとうなだれてしまったのだが、
「思いこみって分かる。この世はほとんど思いこみで成り立っているのよ。だから別に犬や猫にまで釈明しなくてもいいわ。あとも一緒、思いこませとけばいいのよ。わたしが違うって思いこむようにね」
急に認識論的な話頭に転じたふうに受けとった幸吉は、
「たしかに同じものでも見方で変化します。ほとんどが自分にとっての都合ですけど」
そう答えるのが同調であると見なしてもらいたい、ここで間弓の機嫌を損ねたら予備知識とやらがうやむやになってしまう怖れがある。ようやく冷静を取り戻した自分に奇異な念を抱きつつ、どうした願望に突き動かされこの家を訪ねたのか、もう一度よく思案してみた。
そして時間を裂かないと言った間弓の質問は終わり、あとは空想に色づけた姉の柔和な微笑みが道先案内を担ってくれるはずだ。
とにかく静かに耳を傾けよう、決して驚きや不快にとまどうことなく。
しかし「わたしは高校一年なの、お父さんはすでに定年退職、どうです。年の差を考えなかったですか」
と、始まった今西家にまつわる秘話が展開され、幸吉は約束とは異なり果てなく家系図をさかのぼるような煩瑣の予感に身震いしたのだったが、どうやら律儀は血筋であるらしい。もっとも弟を退室させてまでの会話である以上、それを選んだ間弓は聡明な女子に違いなく、容姿にかかわる見解もふくめ無駄のない要領を得た話し振りであった。

ことの発端は紛れもない、幸吉が今西に撮影させた写真である。
校則違反と無断拝借に関する叱責までは想像通りであったけれど、幸吉が邪推した屈折の面目保持のくだりはほぼ杞憂であった。結論からいえば面目などまったく関係ない、問題は女優の面影につきる。
そして不思議な危うさはちょうど綱渡りの要領で空中に浮き上がった。
昌昭の泣き落としに乗ったふりをして撮影におよんだ経緯を聞き出した結果、とても興奮をおさえきれそうもない満蔵はしばらく思い悩んだすえ、間弓にそっと写真を見せたのだった。
間弓はすぐこの顔は亡き母親の若き日を彷彿させるものだと察知したのだが、小学へ上がったばかりの記憶は随分と霧が濃く、情感を震わすほどの感銘を得ることができない。しかし、教育熱心で学術にも造詣の深かった父が婚期を逸した由縁は叔母からそれとなく聞かされた覚えがあったので、その悽愴な心中に立ち入れないまま、早世が引き起した結婚生活の短命に燃えるような念いを重ねている老境を理解するしかなかった。
ふたつ年下の昌昭に想い出はあったにせよ、眠りの瀬は浅いが早い。
決して放埒な息子に憤慨し毛嫌いしたわけではなく、浅い情愛で接したのでもなかった。深みまではまりこみ意識を開花させるのは満蔵自身にとっても至難であり、辛い作業に終始する。
十枚の写真はたった一枚を残してあとはみな感光していた。だがよく目を凝らすと明確に写されたものと同じ場面がなんとなくうかがえる。それはほとんど感じるというべきだろうか。逆に目を閉じると白黒の明暗に面影が浮かんでくると熱っぽく話した。
そのとき父の目が鋭く光ったのは思いこみの仕業であり、あたかも焦点をしぼりこむ細めたまなざしのせいだと間弓は信じた。
だが、満蔵はまったく別様の方角から矢を射ったのだった。鋭さの痛みを間弓は知ることができない。
「このひとはね。おまえたちのお母さんではないんだ。でもどことなく似ているね」
不治の病で亡くなった母とは違ううら若き女性。
満蔵はそれきり先は自分ひとりの胸にしまっておくつもりなのか、それとも夢遊病者が白日に彷徨ういわれを刃こぼれのように示してみただけなのか、いずれにしても息子の級友があこがれてやまない女優を語ることに意義を見出している様子である。
そして父もかの女優が出演した映画を観ているとまで言っているのだ。幸吉は直談判などと気構える必要はなく、ただ遠まわりの足取りを、不用意でありながら必然である円環をたどればそれでよかった。

幸吉はいっさいの問いかけを忘れたように間弓から予備知識だけを抜き取った。すると更なる問いがくちびるをふさいだ。
あまりに突然だったのでその感触はきわめて素早いとしか言えなかった。初めての接吻、微かに舌先がなめくじのようにぬめっていた。


[455] 題名:L博士最後の事件簿8 名前:コレクター 投稿日:2018年08月28日 (火) 02時56分

おおよその見当はついていたけれど、生まれ育った町並みが織りなす佇まいの印象は希薄であり、特定された道のりに沿う足取りだけが日々を克明にしている。稠密であればあるほど浮き立つものは淡く、よそよそしさをまとって、さながら予定が記されていないカレンダーの余白みたいなのっぺりした律儀さを感じさせた。
自宅へ訪問すると決まればそれまでの葛藤は、遠慮勝ちな面差しであとずさりする少女の警戒心のごとく遠景へとかすみ、代わりにおぼつかない想念が乳白色のまま静かにこぼれだす。
投げやりめいた乱逆なのか、果敢な企てなのか、鼓舞に続く言葉は路上で立ち止まってしまい幸吉をわずかだけ怖れさせた。けれどもたぶん今西の寡黙は思いつきというより、ごく自然な風景のひとこまをたどりその底辺へ沈みこんだにすぎない。
そうなると半歩遅れでしたがう幸吉の視線は見慣れた景色から解き放たれ、乳白色の液体が短時間でとろみを得るよう、清廉と緊迫の交わりから不意に色情がもたげるよう、淡白な気配は余白に覆い被さり、幼い時分に目にした父親の指先でむかれるゆで卵の殻とその湯気を含んだ白身へ向っていった。
半分くらいまで殻を除いてからでは遅いの、その方が食べやすいのでは、まるで駄菓子でもむさぼるふうなゆで卵を手にした父のすがたが薄い皮膜を通して見えてくる。
皮膜は雲間に翳った夕陽がはらむ赤茶けた、しかし池底に透ける鯉の背に似た落ち着きを保ち、無邪気な焦りが子供ながらに理解され、気狂いの公平さと抱擁の破れみたいなものに共感した。
同じあんばいで父は夏の盛り桃をかじっていた。
たしかにゆで卵と異なり、したたり落ちる果汁で手を濡らす暇があったら果肉を味わいたい。幸吉は父に倣った。そして母の火照った柔肌の感触を思い出そうとしたところで、まだ知らぬ今西の父親の顔にすげ替えられた。

歩調に乱れはなかったが今西も幸吉同様、心中は千々に乱れていただろう。やがて案内人の風情を宿したうしろすがたの静止した影に息をひそめたとき、目的地が眼前に現れた実感を地面から受け取った。
元校長という肩書き、その肩書きをあますところなく役立てようとする息子の性根、反面、校則を平然と破ってしまう粗放はあまのじゃくのひとことで済みそうもない。
今西家の門構えは旧弊に守られつつ、あえて瀟洒な風通しを望んでいるのか、もし夜鳥のはばたきを求めているのなら、左右ほぼ均一にのびた黒塀の陽射しをこばむ暗さは的確な意想を汲んでおり、そして日陰に棲む静謐を愛でるのであれば、よこしまな理念は反面教師としての努めを果たしているように見える。
それから紋切り型ではあるけれど、見越しの松が放つ濃緑さは華美壮麗でもなく、かといって雑然とは呼び難い手入れ具合を知らしめる枝ぶりであり、放恣を感じ取ってしまうのも一興、主人の性質がさり気なく映しだされているようで、また陽光の加減を自在にのみこみ、はねかえす瓦屋根の端正な平行線は間口の意向へ沿っており、家屋全体にただよう重厚な気配をより高めている。
表通りに面していたにもかかわらず、指折り数えてみても足りないほど路上を過ぎゆきて来たにもかかわらず、ここが今西の住居である事実を認めていなかったことに複雑な思いを抱いた。
すると先ほどの寡黙さは意図されたものではないかという邪推が新たに脳裏をかすめ、黒塀に吸いこまれそうな気分を素直に受け入れるしかなかった。たとえ今西から幽かな微笑を送られても反感はやってこないし、それよりも門口に張りつけられた風雨の荒くれをじっとしのいできたと思われる木目の濃いすすけた表札に深く刻まれた姓名を凝視した。
「今西満蔵」

幸吉は玄関を上がると海老色をした廊下を歩きながらその光沢が家屋に射し入る光線の仕業であることに感心したけれど、あまりに明朗な彩度が目の錯覚なのか疑ってしまうと、どうも塗料が施されていて本然ではなさそうな技巧であることに気づいた。
それから長く果てのない回廊をめぐる夢の模糊とした記憶が押し寄せてきたが、冷静に判断してみたらあまりに自分の家の造りと別格すぎるので、ちょうど名刹などへ足を踏み入れた際に襲われる粛然とした感覚を招き寄せたのだろうと了解した。
その了解がいまここに立ち現れている現実だった。
級友が語った抵抗と興味を額面どうり信じていいのやら、はたまた初対面とはいえ、もとを正せばことの顛末はすべて自身が引き起した夢見である。
満蔵氏がこころよく迎えてくれるとは考えにくい。なんらかの叱責をちらつかせ家風とも家訓とも言えそうな重圧を授けてくれるだろう。それが大義であるとの認識を植えつける義務があるからこそ、学業優秀の聞こえをふさぐことをせず、渋々かつての教訓をひっぱりだして名誉が錆びつかないよう躍起になっているのだ。
息子の節度をとがめる代わりに過去の栄光を取り戻さなくてはならない、そのためには駆け引きも辞さない、もっとも現職の身ではないからあくまで息子への叱咤を懸命に演じ、屈折の光源を証明してみせる気概にあふれているだけなのだが。
幸吉の情動によって運ばれた奸知と、満蔵氏の名分がここで一致した。
だが、今西をそそのかした詭弁に近い言い分であった共通点とはこれだけの、あまりにも面目重視のことなかれ主義だけで終始してしまうのか。
これより先のある未分化な意識を明瞭にすることは出来なかった。それは不思議と、まさに不思議な危うさを抱えこんでいたから。
海老色の廊下、かびと煙草の匂いが溶け合った客間、書斎に引きこもる旧態の影、時間は歓びを叫んでいるはずだった。
序列、順番、段取り、憧憬、恋情、邂逅、想い出、記録、明証、そして反駁。
だが、歓びはねじれを欲した。
幸吉は満蔵氏に会うより早く、客間で今西の姉と対面し、その容姿に度肝を抜かれ腰から砕け落ちそうになり、修学旅行以来、見せることのなかった級友の破顔を目の当たりにしてあたかも薄明のなかに歩み寄る魔物のただならない空気を嗅ぎとると、書斎に居座る父親より遥か瘴気を巻き散らかしているように思え、すべてを掌握しているのは他でもない、この双子と見紛うくらい背丈体型まで似せた弟と姉の面貌であり、しかし驚嘆のうちにも姿形とは別次元の性格が配分されていることを直感したのち、あぶら汗を意識しつつも、「いたら悪いのか」って意味はこういうことかと目配せで今西に訴え、相手の説明を拝聴する心構えを身振りで伝えてみたのだが、以前であれば通じたはずなのに、的中した直感の証左を反対に諭される調子でそれは覆されてしまったのだ。
「はじめまして、昌昭がいつもお世話になっています。姉の間弓です」
まったく予想していなかった場面ではあったけれど、さすがに男女の声色の差異はくっきりとしていた。
そんな当たりまえの事実が何にも増して幸吉を平静にしたのだった。けれども今西が客間から事務的な身のこなしで出てしまい、間弓とふたりきりになった途端、平静さは崩れ去った。
「お父さんに会うまえにわたしから少し質問させてもらいたいのですが」
そのつぶらな瞳は曇りガラスを磨きあげたような新鮮さを主張していた。


[454] 題名:L博士最後の事件簿7 名前:コレクター 投稿日:2018年08月20日 (月) 06時45分

天使の舞い降りた夢幻を雅やかにたなびかせる思惑が微かにゆるむ。
そのゆるみは歓喜の覚めやらぬ情念によって支えられているものの、明徴な輪郭が描ききれない虚しさは記憶の有効期限を知らされているようで、どうしてもあらぬ諦念を引き寄せてしまう。
修学旅行先でのめくらむ遭遇に対し、幸吉が瞬時にとった判断のなかでそれら二重奏はすでに鳴りわたっていた。
今西の不始末により自分の蒙昧さを気づかされたとはいえ、わずか数日で放埒な望みが顔面に居座り、更なる意向が芽生えた。それははじめて自分のいん毛を意識したときのむず痒さを想起させ、同時に巻き起こった溌剌とした気分を甦らせたのだった。発育の事実に気恥ずかしさはなかったけれど、肉親にも友人にも伝えたくないちょっとした内向的な想いが妙に心地よかったりして、あたりの風景はやんわり狂った世界に映った。
萌芽は素性の分からない狂気とは反対に奸知を働かせている。
それが相反する神経組織のなりわいだとどことなく理解されたのは、世の中を見通せない、ただの知識や限られた情報が織りなすのりしろだったろうし、未分化な意識を背負っていたからで、ことさら深い考えに駆られたわけではなく、むしろ欲求が速やかに汚れを払いのけ、希望へと結ばれていたからである。
今西の自宅を訪ねたことはなかったが、不意に今すぐこの機会を逃してはならない情動に駆られた。
「これから君の家に行っていいかな。きちんと弁明までしてくれたから、どうしても難問にとりかかりたくなってきた」
さすがに今西は驚きと不審の顔色をとっさに作り、
「親父に直談判でもするつもりなのかい。それはどうかなあ。言っただろ、とても頑固だって、つまりとても気難しいってこと。君の探検心は分からなくないけど難問もいいとこだよ」
と、はなから迷惑な心根をあらわにした。
「だから好都合なのさ。頑固者って大人子供に限らず、根はしっかりしてるはずだから触れられたくないことはよろいでまとっているんだ。で、反対に触れられたいこともしっかり抱えている。しかしひとを邪険にするからにはそうそう内密のことがらは自分から言い出しにくい。これは直感というより案外さらっとした思いつきなんだが、僕と君の親父さんにはある共通点があるように感じるんだな。だって僕のことを親友だと説明したんだろ、それでほっとけばいいのに写真の件を少しだけもらした、とても律儀にね。いやこの場合、父上にとってもある律儀さから放棄できない何かが閃いたに違いない。実際の君に落ち度はないよ、校則違反と無断借用はあくまで別の問題であって」
そこまで勢いよく喋りだした幸吉をさえぎるよう今西は憤慨した様子で、
「ずいぶんじゃないか。落ち度がないなら君の方が黙って引き下がるべきなのにまだ巻きこむつもりか」
そう語気を荒く拒絶の意を示そうとした。
幸吉はもう一度、おだやかな笑みをたたえ相手の瞳をのぞきながらこう言い返す。
「巻きこみねえ、君だってあの写真を確認したいんだろ。それで親友なんて話しをもちだしてくれたわけだろう」
勘の鋭い今西は舌打ちこそしなかったけれど、頭脳の切り替えを余儀なくされた。そしてあくまで迷惑を被っているのはこっちだと顕示したかったのか、わざとらしい負け惜しみをもらした。
「あれこれ詮索されたよ、君のことを。学年で常に成績最優秀、品行方正、それ以外特に目立ったところなし、そういうふうに答えておいた。姉にも問いかけてきたそうだ」
「へえ、お姉さんがいたのかい」
「いたら悪いのか」
「つんけんしなくてもいいじゃないか。しかし、そこまで関心を」
「さっきの直感が正しいかもな。親父の目つきは険しかったけど、内心では会ってみたかったんだろう。姉に情報を得ようとしたくらいだから。どんな風貌なのか、住まいは兄弟はいるのかとかね、たしか一人っ子だったよな君は」
幸吉は希望の光を浴びながら捷径をためらわなかったことにふたたび安堵を見出した。
その途端あこがれの面影を蹂躙しているのでないかという嫌悪が胸のなかに渦巻き、奇麗な記憶はそのままに、手垢のつかない透明な額縁へ収めておくべきだという清さに流されそうになった。
そして丁重な扱いはつまるところ反意を裏越している仕草であって、実相にはまだ浮かびあがらぬ隠微な薫香がくすぶっているような気詰まりを感じていた。が、ときめきは新鮮さを失わずあいまいな感興のおもむくまま、霧がかった道のりを歩む。
動悸がひとごとみたいに高まるにつれ、舞い降りた邪気を正面にすえ意識は堅牢な立場を保とうとしていた。
「とにかく当たって砕けろだ。これから連れて行こう。親父は書斎に毎日こもっている。」
威勢の好い今西の言葉は曇りガラスへ射しこむ西日のようにほの明るく、空疎に聞こえた。


[453] 題名:L博士最後の事件簿6 名前:コレクター 投稿日:2018年08月07日 (火) 05時00分

それからのひとときを思い返すたび、幸吉は月日の過ぎゆきと風化をやんわり押さえつけている自分に出会った。
風化するべきは舞い上がった気持と背馳する行為を願っていたこと、そして日頃から親密とまではいかないけれど、こころの隅の方であの女優に寄せる憧憬をひっそりと打ち明けてみたかった同級生、今西昌昭との因縁であろうか。
あまりの感激にひたされたまま握手を終えた幸吉は、おそらくこれまで生きてきたなか一番口べたであった。追思からめぐってくる情景には今西の好奇に満ちたカメラ目線が否応なくこびりつき、感激の純正さもあざとく磨きこまれた皮靴がてかるふうに光源の由来をいくらか損なわせていた。もしあのとき今西に撮影を無理強いさせなかったとしたら、真摯な純情は薄らぼやけた少年から脱皮させ、陽射しの求めに応じた等身大の影をあこがれの上背に重ね合わせることが出来たかも知れない。
実情のへだたりがあろうとも声援の語勢には優美な姿勢が現れ、幸吉は二度と訪れない奇跡の立会人になれただろう。しかし貪欲な思惑はこのあと、まったく及びのつかない方向へと拍車をかける結果となった。
口べたと同時にあれこれ交わした会話の端々は欠落だらけで、かろうじて覚えているのは、
「修学旅行なのね。わたしは同期の友人を訪ねてひとり旅なの」
長いまつげを下げながらそっとささやくように、わずかな寂しさをにじませながら、さきほど雑誌の切り取りをもう一度ひろげるよう、が、それは手つきのみで示したのか、言葉が添えられていたのか判然とはせず、ただ、近くの売り子に新たな笑みを寄せ、
「ちょっとペンを貸してくれません」
そう求めながら、
「サインを受け取ってね」
と、まるで身のまわりの世話をしてくれる母親代わりの姉みたいな物腰で、幸吉の了解をやわらかに先まわりしてくれた歓びだった。
もうすこし大きく、言いかけそうで言えなかった内心を幸吉は恥じらいと何かが交錯しているまでしか、理解できなかった。
やがて踵を返したその背中に対し、さようなら以外の文字が浮かんでこない自分を呪ったのだが、まさかあの様なかたちで鏡面の影を見ることになるとは。

売り場の軒下をさらってゆく雲間のまぶしさは季節に準じていたのか、旅情が溌剌とした若さをかもすより敏捷に、そして大胆に駆けてきたのは共犯者の面持ちを多分に張りつけた今西であった。
「いったい誰なんだよ、今のは。サインなんかしてもらってさ。だいたい予想つくけど、この貸しは安くないよ」
鼻息荒いのも隠せないくらい今西は興奮している。
「予想通り、ところでちゃんと写してくれたのかい」
幸吉はすすんで共犯に連なったわけでもない今西がいつになく気位を投げ捨て、歩み寄ってきたことに軽い反撥を感じた。その直後、たった今まで奇跡の箇所だったのが嘘のように消え去ってしまい、反対に見苦しい欲情が角を出しはじめる威勢に縛られ、ついつい冷酷な指令を呼びとめる口調を弄してしまった。
しかしすべては過去形でしかいない、などと大仰な考えをよぎらせながら、さながら天界をめぐりようやく地上に降りてきたような感覚に戻り、女優に関するあらましを今西に語って聞かせた。
もちろん本当の情熱はおもてに出さず、あくまで思春期を正確に微分する調子で、青臭さや狂躁に距離を保っている余裕を含ませながら、より興趣を煽ったのだった。
この算段は今西が持ち合わせている知性と情操を十分に刺激したと思われる。
「なるほど、そうした事情ならばっちりってとこだな。君の浮かれた顔もついでに撮っておいたから学習したまえ」
本当は根掘り葉掘り聞き出したい心境だったに違いない、が、かねてからの屈折した友誼はちょうど遊技場における少年らしい気移りに従って、いや、まさに現在それ自体が修学旅行先であるという事実に虚もなく揺られ、今西は計画に裏づけされた別口の楽しみへ帰っていった。
うらはらに幸吉は背筋をいく筋にも垂れていた冷や汗へようやく意識をやり、ほっと胸をなで下ろした。そして過去が未来へと大きく羽ばたきながら飛翔してゆく幻影にとらわれ、まわりの風景は夢に没するのだった。
そうした成りゆきを見送ったのはやはり正午の太陽である。
記憶にあるのは昼食後の自由時間、そのあまりに自由過ぎた時間を占拠しためぐりあわせこそ、めくらむ陽光が仕掛けた強度の計らいであり、帰り際にかいま見せた伏し目がちの表情が薫らせる切なさだったのだ。
すべての罪は鮮烈な影絵を生み出した空の高みに他ならない。

学校での授業が普段通り始まってから幸吉は逸るこころを見抜かれない素振りで今西からの土産を待ち望んでいた。
フィルムの現像が仕上がってきてよさそうな期日を数える毎日であった。しかし今西はことさら幸吉を避けている様子がうかがえ不審に思っていたところ、間を置かずとんだうわさが流れだしたのだった。
私物禁止の校則は極めて平等にゆきわたっており、カメラを携えた今西は処分こそなかったものの厳重な叱責を受け、しかもそのカメラは父親に無断で拝借していたことが判明し、家庭でも大目玉をくらったというのだ。
たやすい請け合いでしかない相手を糾弾する権利などむろんあり得ず、神妙な顔つきに見えてしまう今西に問いかけるのでさえ、幸吉はためらわれた。神妙であればあるほど自分の胸にわだかまるものが失われゆくのだけれど、情況の反転した以上、執拗な接近はあの天上界の飛翔を台無しにするどころか、根底から美しいなにかを総ざらいしてしまう危惧が働いて、身の動きは封じられてしまったかに感じられる。
日々の授業の間、一度だけなにかの拍子で今西と目が合い、そのもの言わぬまなざしに幸吉はふたたびおののくしかすべはなかった。
が、今西の側でも平素の快闊をなくしたままでは成りたったなかったのだろう、幸吉の想いが煩悶におおわれ始めたころ、ようやく今西が口を開いてくれた。
期待であれ失望であれ、生唾をのみこむような焦りを痛感し、よく観察していないにもかかわらず、その面差しが一種異様な雰囲気を宿しているのが見てとれた。
「君にはすまなかった。規則違反はともかく、親父がさっさと現像してしまってさ。だったら見せてくれたっていいじゃないか、するとほとんど感光して話しにならんから捨ててしまった。これは嘘だと思ったよ。あのケチな親父は書き損じの反古だってしっかりしまっておく正確なんだ。それにこっちも言い分があったわけ、修学旅行の記念だし、あと親友からも他からも頼まれていたんだってね」
今西はなんともむず痒いしわを額に寄せ、詭弁を承知で語っている自分を認めさせようとしている。対する幸吉は今西のもの言いが良いのか悪いのか分からないまま、続きに耳を傾けるしかない。ふたりは心得ていたのだ。
「ケチで細かいのが難だけど、親友からの依頼という部分がどうもひっかかったみたいでさ。律儀なとこもある。それで」
「それで」
思わず電柱を嗅ぎ分ける犬の鼻孔のようにせり出すと、今西はやっと笑顔を取り戻してこう話した。
「とりあえず君の写真は見づらいけど保管してあるそうだ」
「それで女優の方はどうなったんだい」
「まあ落ちついて聞けよ。それがだな、僕にも見せてくれないんだ。どんだけ頼みこんでも、こんな代物は子供には不要の一点張りで、お手上げ状態というわけ」
「で、君はどう思う」
「どう思うって」
「なぜ親父さんはそんなに頑なになるんだろう。その理由だよ」
「わからないね。あっ、もうひとつ難があった。ひどく頑固だってこと」
幸吉に笑顔が飛び移った。
それは難攻不落に面した絶望のひきつりなどではない。言葉にはしかなかったけれど、今西にこう言いたかった。
「君は最高の親友に違いない」
もとよりくっきりした眼をした今西の瞳がさらに大きくなると、幸吉の不可解な安堵に首をかしげた。
その瞳の奥には不敵な微笑が反映していた。


[452] 題名:L博士最後の事件簿5 名前:コレクター 投稿日:2018年07月31日 (火) 04時19分

男子にしろ女子にしろ生徒たちの目もとからはあこがれの光が放たれていた。
記憶の奥底から照らし出されるのは細やかな情景を背後にまわした先走る時間だった。むろんこれは幸吉の所見に焼きついた事象の域を脱し得ないけれど、おおむね思春期の明るみは曖昧であり、陰りは細密である。
そして予期せぬ事態に直面した脳裏は素早いひらめきを勝ち取ると同時に、まわりの意想を均一にしてしまい、おのれの願望のみを明るみのなかで瞬かせた。
闇は当然走りだし、何故かすでに卒業していった先輩らの、特に不良っぽさを匂わせていたにきび面の悪童らの、卑猥なうわさ話しが上質な袱紗に包まれる。それはあたかも暗がりを頼りに集う蛾の鱗粉のように生彩な紋様できらめき、均一であったはずの思念を無造作に揺さぶった。
今でも幸吉は霞がかった痴情にこそ至福の色を嗅ぐ。
しかしそのときの幸吉はことさら色気に惑わされたわけではなく、あまりの唐突さに身震いする間もないまま、下半身を理知で直立させ、憧憬と澄みきった恋情を胸部より押し上げようと懸命になった。結果、育ち盛りの心身は的確な行動へ踏み出そうと努めた。
ときめきの女優は映画の撮影でここにいるのだろうか。いや撮影の合間に土産ものをのぞいているのかも知れない。ほかの関係者は近くに、あるいはひとりだけで、それともたんに旅行で訪れたのか、いずれにせよ、情況を大至急のみこまなくては。証しを得るのはもう思いている。あいつがいい具合にちょっと向こうで背を向けているじゃないか。
幸吉は瞬時にふたつの場面を想像した。
そして段取りは思いたつ以前で確定しており、さながら光源を絶対に見失わない自信みなぎる視線ととも、足取り速やかに同級生の背中へ近づき、精一杯落ち着き払った声色で、が、視線を分配している怖れを隠しきれない表情で懇願した。
「訳はあとから言うから頼む、一枚写真を撮ってくれ。ほらすぐそこさ。あの女性だよ、ここからでいいからなるだけあの顔がはっきり写るように。僕は適当でいい、ふたりして並んで見えればそれで。頼んだよ」
そう言い放ってみてから不意に拒否されても仕方ないと、陽だまりに落ちるような枯れ葉の光景を了解した。一方で我ながら機転を働かせたのかも知れない、そんな自負が幸吉の足もとに軽く響いた。
別に証明は欲しくない。目前に迫っているのは後々の記録より、奇跡とも呼べる偶然であって、これまで秘めてきた想いを打ち明ける好機など、もう二度とめぐって来ないのだ。この瞬間にこの情念を差し出すなら、必ず一生の暁光となって静止画以上のかがやきを焼きつけてくれる。
嫌味なほど高潔で思い上がった薄い諦観に嘘はなかった。けれどもふたまたに分かれる道行きは生死を決するほど濃い観点を擁してはいない。
幸吉の投げやりな考察はあらぬ方角から吹きつけてくる突風にゆだねた賭け事に似て、もう一段うえの奇跡を乞い願っていた。道は最初から分かれていないのだ。
修学旅行の校則によれば私物としてのカメラは携帯禁止の項目に入っていた。声をかけた同級生は父親が先代の校長だったことを未だ笠に着ており、当時はそうした過去の権威にさえ盲従してしまう風潮がめずらしくなかったので、旅行前からカメラを隠し持っていくと吹聴してはそれなりの畏敬を受けていた。先輩連中に対する少しねじれた敬愛と並ぶくらい、見返りの効能をこころの底にひそませたまわりの生徒たちは自らの傲りを正当化し、妬むことを忘れた。
その倨傲は彼自身の好奇心をおおっぴらに膨らます性質へ体よくおさまっていたのだ。収納場所はこの旅先に前もって定められていたようで、それを活用しない道理はなく、的確な判断はふだんからの些細な交友が請け合ってくれるに違いない。
幸吉はかねてからまだ授業で習っていない方程式や海外文学の話しになると、負けず嫌いを認めつつも帰り道を途中まで一緒にした同級生のひとの良さを疎ましく感じていなかった。それは向こうにしても同様で、互いの自尊心をのぞきうかがうことが高尚な資質だと思っていたのである。

「あの、すいません。映画観ました。一番素敵な女優さんだと思っています。今日も撮影でしょうか」
自分でも呆れるくらい簡便な言い方と声音がかろうじて届けられた。かろうじての理由は肝心の女優がガラスケースに飾られた首飾りを熱心に見つめる姿勢を崩していないにもかかわらず、言葉を発してしまったので、幸吉とほぼ変わらぬ背丈でもって目線が合ったときには、もう一度いい直さなければいけないと憂慮したからであった。
ところがあこがれのひとは、
「えっ、わたしのこと知っているの。全然有名じゃないのに。どうしてかしら」
と、見事なまでの笑みを、銀幕に映しだされたあの笑みを返してくれた」
「それはもちろんです」
夢とはこうも鮮やかな変化を描きだすのか、幸吉は無我夢中で学生手帳へ大事に挟んであった雑誌の切り取りをポケットからなめらかな手つきで抜きだした。まるで大人の芸能関係者が名刺を差し出すような仕草がひときわ功を奏したようで、
「うれしいわ。わたしね。映画には出れても売れないし、人気もないってあきらめてたのよ。でもこうしてちゃんと観ていてくれるひとがいるのですね」
そう答えながら、より晴れやかな笑顔を真正面にし、手を差し伸べてきた。
幸吉は緊張とも虚脱ともつかないまばゆい光を浴びた心持ちで満たされ、握手を交えながら、目のまえの女優の背筋がピンと張って長身であることをうっとり眺めていた。それは自分だけに演じてくれた好意の証しではないだろうか、望むものは果たされたような錯覚をずっと感じていたい、天にも駆け上がる意識の裏では奇妙な現実否定が働いていた。
夢なら醒めて欲しい。
カメラ越しの高尚な自尊心がはね返り、私物を利用した願いは欲情に溺れかけ、純真無垢なあこがれに錆びついた鏡が向い合う。
早すぎる汚れが邪魔であることにぼんやり不安を感じていた。




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