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[505] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた5 名前:コレクター 投稿日:2020年01月14日 (火) 02時49分

それから二度三度と、いましめのごとく眼球に唱えた気丈であるべき姿勢は揺れて、もろく傾斜する薄い衝立ての身軽さで境界を越え、正枝の顔色をうかがってしまった。もとより幸吉の目線に確乎とした迫力はなく、その瞥見に含まれ閉ざされた光の頼りなさがそうであるように、一線をまたいで禁句を自若とする言い寄りまで近づける器量など持ち得ず、身震いをともなう受諾への劣情にも到底およんでいなかった。
閉じた窓から吹き入るすきま風がわずかだけカーテンのしわをなぞるよう、正枝の面に毛細血管の浅い流れを見つける儚い幻視だけが畳の目に吸い込まれいく。
食膳へかがんだ無表情の様相から期待するものは等閑にされており、内心の表沙汰にはできない緊迫は決して寛容でなく、むしろ粛然とした空間と時間の真意が告げられ、幸吉の甘い生彩は褪色を余儀なくされた。というのも、くだんの映画では向き合った夫婦の交わす食餌への言及がとても印象的だったからで、それは田舎侍の婿である夫のほとんど戯言にしか聞こえない、が、おそらく率直な意見を口にした「これはなんという煮物」だの「見た目より噛みごたえがある」だの「変わった風味」だのという問いかけに対し、その妻は見くびりや煩わしさなど目つきにも口調にもあらわさず、委細を述べるごとく懇切な声音が穏やかな笑みとともにひろがる場面だったので、茶碗蒸しを手にふともらした正枝のひとことによって、こうした情況にゆくりなく異変がもたらされるのではないか、つまり何気ない素振りでありながら、あの場面へ重なり合うような展開が、異変という逆境をかいくぐるようにして、霊妙な演技でもって繰り返されるのではないか、そして形式に収斂されよう一夜はあらかじめ傷つけられた時間を修復しながら、パンドラの箱が開かれるとすれば。
幸吉は迫りつつある契りの、情交の、女体への接触を高貴なものとは見なさず、そんな観念の介在する間合いなどあり得ない、これからひたすらにまみれる裸身への耽溺こそ、もっとも望ましき空間の混乱に違いない、そうした一縷の、けれども夜の底に張りついた漆黒の不透明さがすべての漂泊を停止するだろうという信憑にとらわれていた。
だからこそ、形式の序説は不合理な一幕によってくさびを打たれ、寡言の目的は徐々に降り始めるであろう尚早の粉雪の静謐と異形を謳い上げ、映像の虚構は空疎な現実感で満たされた。夢のとばりが未知なる触手、軟体生物の声なき動きの緩慢なすがたを持って我が身を取り巻くとき、廃棄処分からまぬがれ残された悲しみは拭いようのない慚愧を重しにして忘却の海へと沈みゆく。序説の序説である空漠とした音の響きは微量の酸素に託され、本来の音像の音像へ文字を被せ、映像の映像は台詞を吐き出し、欲望とはなんら無関係でありそうな装飾のなかに純朴でせつない言葉が乱れ散った記憶を引き戻そうと勤めるのだが、それはもはや観念ではない、肉感を堪能するために間断なく映し出される向後の実情である。
幸吉はいわば、非道な慈善家を夢見た漂泊者だった。そしておのれの怯懦を認める至ってようやく眼球運動の悲しみと光輝を知った。やがて夜が夜であるために光線は束ごと隠し去られ、不安と驚きが屋根の上で同義語となって不可分な素性へ還元され、星雲の映発も小雨の点綴も自然の理を脱し、一種抽象的な紋様へ見出される無機質な情趣だけに些細な悲しみを淀ませ、街路を渡る冷ややかな風の気配はまるで薄皮一枚のような戸板を叩く合図にも聞こえてくるから、指折り勘定する無造作な仕草を意識したころ出し抜けに、
「栗ごはんの匂いって深まる秋を感じさせるわ。そう思わない」
と、意識が意識であることの砦の出入り口へ、容赦なく立ちふさがるような呉乃志乙梨のぞんざいな台詞が踊り出た。
それは幸吉の脳髄をあぶり出す案配で予定調和の義理には抵触してないという、なんとも素晴らしい実情にかなっており子憎たらしくて仕方なかったけれど、おあずけを食った肉欲の望見が必ずしもこれまで散々味わった裏切りに直通しているとは思えず、むろん自分自身を裏切り、裏切りを建前とした背馳にも、背馳に信条を押し着せた不実にも、肉欲を肉欲たらしめる由縁とやらがいっそう大きく立ちはだかっていたし、否が応でも今から耳にしなければならない秘匿された真相との拮抗は、十全な大儀を孕んで情けなど知らず、知らぬが仏のことわざをこだまのごとく反響させては、逆説の方便がいかに有効であるかを滔々と語られている心持ちであった。荒淫の罠へ進んで堕ちゆくすべも封じられ、乱脈をたどる足並みにつぼみ持つ芳烈なふくらみを、間違ってもあだ花と呼んではいけなかった。
無言劇であることに徹しきれない、いや徹する必要なんかいらない、恐ろしく整理整頓され無駄の省かれた公然の密会、これが枠組みの形式を形式の枠組みとして夢みた序説の終わりを問う、官能のはじまりであった。
「ええ、そうですね。ひさしぶりに食べました。うまかったです」
浅瀬にくるぶしが洗われた途端、どっぷりと深海をさまよい、しかも水圧や呼吸の意義にはまったく関知しない夢想する機能がまだ居据わって、観念的なしがらみを放棄している。屈折とは無縁だと誇る宵闇にたいそれた考えはない、ただ、捻出されようとする観念が薄まるだけであった。
「ところであなたも湯浴みなさったらどう。わたしはさっき済ませのよ。取り急ぐなら別にかまわないけど、どうせなら、ねえ」
その声遣いはいたってなごやかであり、男女の密会にふさわしい恥じらいを忍ばせ、清潔な情欲のあり方をさり気なく、しかし実務としての側面をないがしろすることは細やかさに欠けるとでも訴えるよう、眉根を少しだけ寄せたのだった。
幸吉は乾ききってない黒髪に光るしずくの艶めいた見目を愛でていたから、うっかりしていたわけでなくて、ちょっとしたはにかみに邪魔され「では僕も湯を浴びてきます」そう堂々と言い出す機宜がそら恐ろしく、何よりずうずうしいと思われるのを嫌悪していた。ところが食後早々の入浴をうながす正枝の態度に威圧を感じたかといえば、複雑な反応をわき起こす始末で、先急ぐ夜の深みに溺れたく欲する一方には、同じ入浴でもまず掛かり湯で足下を、それは浅瀬に遊ぶ童心の無垢を曲がりなりにも演じてみたいと願う危うさの心得であり、正枝が忍ばせた羞恥と同等の立ち居を我が身へ引き寄せ、かりそめの情愛に新鮮な息吹きと発汗のゆくえを見送りたいという、単なる交わりにまみれる野心をどこかで希釈するような胸の動きに従ったのだった。
正枝のところどころ濡れた黒髪と急き立てる言葉がなければ、幸吉の野心は実直な欲望へと駆けていただろう。結局、幸吉の胸には正枝に操られた影が宿ってしまい、いや、正枝本人だけに限らず、現況を是認するあらゆる要因は今西家の名分を借りるだけにとどまらず、架空のストリップ嬢や金太郎飴の幽霊を引き連れて夜行の宴をくりひろげ、そこに風見由紀子の豊満な面影と、桜田静子の禁欲的な微笑が入り組んでもはや収拾つかなかった。
「長湯しない方がいいわよ、だって幸吉さん、きっとからだがふやけるまで考え抜いてしまいそうですもの。あら、ごめんなさい、余計なお世話だったかしら」
反論の余地などあろうはずはなく、幸吉は壊れた人形のように首を上下させ、正枝の眼を奥に映りこんでいるだろう自分の顔を朦朧と探っていた。峻別つかない同時発生する微生物の蠢動にこそ太古の魂が眠っており、揺り起こされることさえ疎まれる化身が集うとされる伝承のなかの伝承、そんな神代の徴を発見した風狂の碩学にならい魔性に見入られてしまう気高き倒錯、あるいは凡俗を潔しとする篤志家の生涯かけて積み立てる社会への痙攣的な美徳、それらの裡に中庸の意識の芽生えようはずはないのだが、幸吉は平面図の欲深さを直感していて、何度も何度も観念という言葉を書いては消し、消しては書き足していった。以心伝心、正枝は焦点のはっきりしていない幸吉の眼球運動を奨励する意気込みでこう話した。
「これだけは先に伝えておきたいの。父はわたしを精神病院送りにしたようですね。それは真っ赤な嘘です。淫乱と純愛はまったく別物です。わたしはある人物から激しい愛を打ち明けられましたのよ。とても難しい愛でした。幸吉さん、本当に申しわけありません。形式の形式だけがわたしとあなたを結ぶ紐帯であって、その愛と今宵の契りは無縁なのです。ですからいらぬ詮索はやめにして・・・といってもおそらくあなたは夢の夢の散華にだって酔い痴れてしまうのですもの、詮索はあとまわしにと言い直しておきます」
さすがに幸吉は興奮を抑えられず、こう問い正した。
「では婚姻話しはでたらめ、まさに形式の形式であなたと僕は肉体を重ねるだけなのですね。満蔵氏がなにを画策しているのやら増々こんがらがってきてさっぱり見当もつきませんが」
「いずれ真相がおおやけになるでしょう。それをまず知ってもらいたくてあなたを誘惑したと見なされても仕方ありませんわね。だって、父のほとんど尋常ではない思惑に対抗できるのは幸吉さん、あなたの他にはいないのです。間弓さんがとった方法とわたしの今はよく似てますが、残念ながら間弓さんは最終段階まで詰め寄ることにためらいがあったようだわ。あの方は父親思いの優しい女性ですから。でもわたしは違います」
幸吉は淡く淡くこがれた女優に狂女という呼称を被せてしまった早計が心苦しかった。同時に、狂恋と呼び習わしていた空洞への叫びは途絶えて、そのこだまがひどく懐かしく感じられた。


[504] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた4 名前:コレクター 投稿日:2020年01月08日 (水) 04時00分

正枝の微笑の裏に希釈された厳めしさを見つけようとした幸吉は、熱に浮かされ続ける暗愚な影法師へ寄りかかったまま、自らの漁色が不可分なく均一な理性に入り交じっているという口実を疑ってはおらず、また夢遊病者が踏み入る禁断の危うさへ誘うばかりで、ちっとも後戻りなど諭したりしない呼吸の乱れも意識することのないまま、観念的な正念場に包みこまれている感覚を残存させていた。
吃驚のさなかにあって虚飾の空間へ詰め寄ろうとしている電磁波の強度をはかり知るのが難しく、また厄介でもあったので、
「失礼します。御夕食を運ばせてもらいます」
というふすま越しの宿の声にため息をついた。
先延ばしされようが一夜の堀はとても深くて、湛えられた水かさに変わりなく、暁闇を待つ流れがいかほどにさしさわりがあるのやらかいもく見当もつかなかったけれど、暗き深淵より汀を覚えるに似た安堵、あるいは月影も隠れた星降る気配を曇らせた夜道に眺められる常夜灯のゆらめきのような、束の間の灯火が底しれない不安へと達する電磁波の功名を感じ落ちついた。
静かにふすまは開かれ、膳を手にした仲居らしき女のうつむき加減の横顔からどこか幽かな親しみが伝わってくる。多分この所作は演技とも因習とも関わりない、ただ単に勤めることの勤めであって宿泊客への礼儀は漂白されることなく漂白され、御辞儀と一緒にもたらされる微小な目配りはいたって健全な心意気に包まれているのだろう。そして白い割烹着にかき消された女体のゆくえを曖昧な輪郭のなかへ描き出そうとしている不謹慎な、けれども静まりかえった駅舎の物音そのものを、夜気へ乗じて二階部屋まで送りあげる動悸に耳を貸すのであれば、蠱惑の原型と対比せざるを得ない仲居の見目は、清潔な身のこなしと顔ばせを勝ち取っており、無駄な声音ひとつもらしたりせず、
「ちゃぶ台をかたづけますね」
そう言ったきり、ふたつの膳を手際よく対面させると、大仰でもつつましやかでもない黙礼を済ませ下がってしまったので、別に妙な気をまわさなくともこの場における内面のあらかたが見越されているようで増々、羞恥をふくらませたのだったが、自分自身決して持ち合わせないであろう質実な動作と、あっさりした性向に反比例するごとく、邪心に苛まれ唐突に芽生える色情を抑えきれないのも無理はなかった。
が、手慣れた所作に敗北したとまでには考え及ばず、あくまで無音の美徳に感心しようと専念した、つまり今宵ひとときを旅館で、子供ながら夢想を重ねあぐねた駅前旅館において一種の宿望を体現してしまい、おののいている絶対の孤影をこうした恰好で見届けている以上、自己卑下へと堕する必要はことさらなく、むしろ常にふりだしに巻き戻されているふうなあの円環を想起するなら、ここにはやはり半信半疑に傾く虚栄が生臭く息づいているだろうし、同時に観念的な視線を通した情欲はおおいにあらぶれるべきであって、あの仲居の背格好へ由紀子の裸身を当てはめてみるのも一興であった。それは透き通った情念がさらに濾過され、情念の情念であるいわれに到達しているのではないかという、徒爾に後押しされた汚濁の弁疏であった。
相当に大人びた情況をここで今こうして感じとっているのだ、まさに逢い引きにふさわしい夜の調べ、流行歌にありそうな男女の駆け引き、互いの境遇をも認めた素振りの冷たく哀しい目配せ、煌々と明るませていたはずの吊り下げ灯の木目に遮られた部屋の片隅、ふたり目の女体に密接しようとして、過去の女しか思い出せないやるせなさ。そんな自尊をたやすく恥じらいにまかせ吐き出せば、殊勝な顔つきで別に気落ちなどしなくていいじゃないか、どうせ落ちるなら奈落の底から舞台を見上げるのだ。幸吉に許された妄念はあきらかに女豹の獣性をなぞって余すところなく、おぼろに黄色く染まろうとしている月を仰いだ夜空へ向けられた。
しかし自分で窓を開け放つ勇気はなく、見渡すまでもないこじんまりとした一室に誂えられた床の間を横目で見遣っては、いくらかほの暗さに守られている空気を感じ、その暗さがさきほどから気になり、いや、胸もとから下半身に降りて仕方のない払いようのない思惑へと直結しているのがたまらなくて、一瞥しただけではっきり確認していなかったが、そこはしっかりと閉じられた寝間であって、おそらく布団が並べて敷かれているのだろう、夕食のあとどういった真相を述べられるのか、ほぼ夢想に酔った脳髄でしか受け留めれないと開き直っていたけれど、この部屋とは異なるまだ蛍光灯のいっさい届いていない契りのための間の闇に意識はほとんど奪われていた。
出来ることなら窓を大きく開けひろげ、中空からこちらを睨んでいる月を睨み返して、さながら狼男のような咆哮とともにありとあらゆる記憶を夜空の彼方へ巻き散らかしてしまいたかった。
煩悶の筋合いなどいかに些細で卑近であることか、ただ今夜の幸吉にとって煩悶ほど生き生きとした精神状態がこんなに美しく感じることはなかった。結局、分裂したかに思えただけの平行線は極々ありきたりで、それでもかつてない仲居の登場によって安っぽい観念の復興となりかけたのだったが、役回りに忠実なありさまを見知っただけに終わってしまい、いっさいの予断は封じられ、ただただひたすらに嵐の前の静けさに取って代わられた。
「では、いただきましょうか」
一点を凝視しているような心延えであったが、幸吉の眼は駅前旅館という夜の牢獄を這いずりまわっていた。その正枝のあっけらかんとした一言で煩悶の盛り火は鎮められ、またぞろ先送りに、尊くも歯がゆい流刑に処された。腑に落ちなかったがひとりよがりの心理劇に辟易していたのは確かであり、ようやくこれで密室劇の様相を帯びてきたではないか、そう思い直すと急転する気分にほだされてしまい、より生き生きとした夕餉の場面を演じきる構えが出来上がった。
なによりちゃぶ台をどけて武家のごとく対座のかたちで膳を食す構図にいにしえの心意気を感じる。すべてが仕掛けられていたとしても本望であった。まだ呉乃志乙梨という名すら覚束なかった頃、それでものちにはその光景に準じるようにして銀幕へ映し出された下女役の正枝、画面の両端を占めるのは著名な俳優だったが、さきほどの仲居に似た挙動を可憐に演じていたことを幸吉はありありと思い返して、胸が熱くなった。今ここに展開されているのはまぎれもない、あの時代劇の一場面の模写であり、そうなると台詞にもなにかしら同調を求められるのだろうか。さらに幸吉は期待した。ところが正枝は目線を膳からそらさず黙々と箸を使うばかりで、話しかけてくる素振りは見せない。それも役作り武家の食事に会話は無用と寡黙な姿勢を保っているようにも思える。
仕方なく幸吉も相手にならって膳の上へ乗せられた献立をしみじみ吟味しながら、こうした恰好で食した覚えがわずかによみがえってきたのだったが、それは小学校に入ってどれくらいだったか記憶はぼやけており、ただ列車で南下した温泉町であることはその地名を覚えていたので、おおよその光景は浮かんでくるのだけれど、夢の情景に等しくところどころ色濃く明瞭であって収拾つかず、あちこちに飛び散った空間は紙切れより薄く破れてばかり、繕うにも張り合わせるにもパズルみたいな要領は適さず、あらかじめ切り抜かれた輪郭を取り押さえられない。幸吉はいつもの癖を放擲して記憶の所在から立ち返り、それぞれの料理に眼をやった。端から順番というより眼についたものを確認しつつ箸をつける。えびの天ぷら、きゅうりとなにかをあえた酢の物、茶碗蒸し、いかとまぐろの刺身、椎茸のかけらを浮かべた吸い物、栗ごはん、青菜の漬け物、鶏のからあげ・・・あらゆる意識は脳裡に占拠され奮起をうながすため時折、股間にだけ血流がめぐってくると断じていたので、よもや多少なりとも空腹を感じているとは信じがたく、味覚だって有り得ないとないがしろにしていたのだが、どうやら成りゆきはいささか違っているようで緩やかな高揚へと導かれた。
茶碗蒸しはとてもやわらかくプリンみたいに卵の風味を香らせ、それでいて出汁の旨みに競合しており、しゃもじでほじれば中底はかなり熱々であわてず食べたほうがいいと思いつつも、さながら埋もれた財宝を掘り当てる案配で、かまぼこ、銀杏の実、えび、鶏肉などが現れ、おおいに食感に変化をもたらすのでついついせわしなくなってしまい、本来ならしみじみ味わっているべきだと抑制された風情らしき方面へ運ばれるところだったが、針射す邪念はここでも散漫なひらめきをよこしまに向き直らせ、そっと正枝の容子をうかがう始末、いかにも気づかれないよう物怖じした目つきは我ながら情けなく、これが年長の女性へと延びる視線かと恥じ入りながらも、すでに甘え寄りかかった意向はちょうど蛍光灯の明るみのように直截だったから、すぐさま別の意想を瞬かせると、たわいなくあり得ない光景へ滑りこませ、映画の撮影現場を稚拙に妄想するなら、呉乃志乙梨はじめこの部屋全体が時代がかった和装に整い、質朴だが深甚な燭台の灯りのもと、現在では光線の由来をわざわざ天井に仰ぐ須要のないことと均しく、畳の座位より遍照を求める灯火にもまた恬淡とした趣きがしみついているだけで、ことさら粉黛を際立たせるまでもなく、だが、撮影現場の足場やら骨組みは画面に写しだされないだけであって、演じられるひとの呼吸に照応するよう沈みこむ素描こそかりそめの技巧、そこに余光が見出されるとき俳優は陶酔を覚えるだろうと信じた。
続けざまに幸吉は幼少の折、見入ることで戦慄した化け猫映画を思い出していた。凛としたかみしも姿がただひとり深夜の渡り廊下にある。月影の記憶は漆黒に限りなく近い闇の気配で忘却されるがまま、これに勝るもの寂しさと迫りつつある妖異の他いったい何が視線を補足するというか、幼心を支配したのは恐怖だけであり、かみしも姿の脇役の怪死を遂げる様が過度に予測されるのだった。眼球を埋め尽くす恐怖、城内のひとり歩きの場面は図らずも正確な思考を追い払うと、それはただちに夜道へ、学習塾からの帰宅を急いだ時分の心細さに遍満した黒いざわめきへと結ばれ、反転し、舞台装置をとりまく撮影現場のあらぬ喧噪が惰眠のなかで煙り立つ。俳優以外なにもかも量感を持ち得ず、託言は台詞に連なり逡巡と恥じらいを包摂する。「あら、三つ葉がなかにも」
正枝の醇乎とした声で幸吉の数瞬の妄念は断ち切られた。
「ほんとうですね」
だが、三つ葉という名に聞き覚えはあっても、それがすぐに野菜であり、茶碗蒸しの表面にへばりついていた代物だというを適当に言い繕っただけで、実際これまで口にしたことはなかった。そんな小さな体裁を幸吉は嫌った。嫌うとともに反対の感情にそそのかされた。おもむろに呉乃志乙梨の顔を見上げたところ、別段にっこり笑うでもなし、見られることをまるで意識してない寂光の世界に鎮座しているようで、おもわず首をかしげそうになったが、姿勢をただして三つ葉とえびを黙って食べながら、同じように形代をまねて冴え冴えとした蛍光灯のしじまに馴致した。それからふたたび対座の位置を確認する意志で目線を差し出してみると、相手の静止したふうなまなざしの奥底にわずかだけども艶冶な動きのひそめいているのが感じられた。
茶碗蒸しをすっかり食べてしまった幸吉はそのまま寡黙でいる方が無難であるのを知り、正枝の面差しが視界から外れるぎりぎりの明るみに少しだけ眼を泳がせては、空腹の満たされていく刹那へ虚ろな感慨を解き放った。


[503] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた3 名前:コレクター 投稿日:2019年12月24日 (火) 01時07分

どこかへ引っ張られそうな語りの重力のなすがままにあった幸吉は、外側からの聞き手としてその空間的関係を感覚的にとらえようと努めたのだったが、無限の指弾が激化されようとする居場所に識別されるであろう利己的な了解の鎮座する様子がなかなか愉快に思えてきて、堅固な不信感の最後の砦に取っ掛かっていた軽率な位置の、より鮮明に示される愁いを安直に捨ててしまうのが惜しくもあり、それはぼうふらのわきだすごとく混濁した、にごりを整えた小さな波紋の余情なき水平世界の水辺へとくぐったので、良心的な攻防は自然とも不自然とも計りたがい重い計器の針を取り出し、不器用な手つきで、愚弄する意気で水没させるのだった。視界に飛びこむことのない哀れなぼうふらも一緒に。
そんな幸吉へつぶやかれる正枝の発意は水没とはかけ離れた、あまりに端正な時刻に即す夕餉のうかがいであった。狂いを生じた計器とはいささかそぐわない誘いにもかかわらず、それらしき旅館の風情みたいな実感が宵の口からにじんだようで、もっともらしい相好をつくるのにいささか腐心した。
「夕食はどうされますって旅館のひとに聞かれましたから、二人分お願いしますと頼んでおきましたわ。そろそろ部屋に運んでもらいましょうか」
「はあ」
面映さが残されたまま風情は胸をそつなく遠慮気味になぞっていたけれど、空腹を覚える暇はなく、食欲が目新しい接点になりもう少しくだけた親密さのような会話に流れればいいと案じていた幸吉は、いかにも気もない返事をしながらその実、夕食のあとのより密接な関わりへと思い馳せ、しかもそれが心やましさを含んだはにかみに牽引され、交わりだの、契りだの、婚約だのといった情欲へ傾いて不純にまみれようとして、薄羽蜉蝣みたいな透ける羽根の弱々しい感触を想起させるものだから、ますます萎縮してしまって、部屋の造りや掛け軸など見まわす素振りで性根をごまかそうとした。
正枝はことさらうわずっている幸吉を打擲するような口調でもなく、刹那を狙ったとも感じさせないやんわりした、けれども実質は痛打になりうる詰め寄り方で、
「今夜はお泊まりですね、幸吉さん」と言った。
それは節度ありそうで節度をくつがえす、ぎこちなくひかえめな声色の蠱惑の響きを持ち、しりごみを余儀なくさせる羞恥を過分に包みこんでいた。
「えええっ、ちょっと待ってくれませんか。あなたの父上はご存知なのですか」
しどろもどろでさらにこう加えるしかない。加えつつ、有り得ない結果を待ち受ける危殆が脳裡のすみっこでわずかにうごめく幻影のような薄明るい破調の兆しが灯り、冷静を保とうとするけれど背筋は却って悪寒を走らせる。
「僕は両親になにも話していませんよ」
すると正枝はゆっくりと口角を上げ、たれ目のような気安い眼で見つめながらこう言った。
「わたしどもの方ですでに了承は頂いておりますのよ」
話しぶりがあまりにあっけらかんとしているので、ひきつりながら薄笑いを浮かべるしかなかった。が、長くそうしてはおれず、正当な文句を発するのが理にかなった抗弁であり、取り繕いだと気づき、
「なんですって、いくらなんでもにわかにそんなこと、まちがいないのですか」
「でしたらお電話で確認してみますか」
「いえ、それには・・・」
我ながら煮え切らない抗弁であるのを痛感した幸吉は、どうしようもない事態であるのにその反証をすぐに叩きつけれない不甲斐なさでいっぱいになった。全身の震えがとまらなくるなるのがわかった。これまでの感情やら思念やらひりついた神経やらの織りなした舞台が轟音とともに崩壊していく。
話し半分という片足だけ生真面目な表情で踏み入れた夢の領域が一気に奈落と化したのである。両親にここから確認する情況を考えただけで、空恐ろしくて仕方なく、あれほど不逞の気概を仕込んだつもりが、こうも呆気なく強烈な不安になるとは。
渦まく不安の材料はよくよく思案すればいくらでも転がっているが、なりふりかまわず拾い集めることに専心したりせず、放心したままでも巡ってくる要因のあれこれを虚空へ力なく張りつけてみるべきであったから、まっさきに狂恋の灼熱を背中に張りつけたあの思い上がりが幾度も夜をまたぎ、その粘着力の儚さ、いや、透徹した大仕掛けのからくりの偉業に夢の夢を張り合わせれば、間弓がほとんど吐き捨てるふうに口にした「父のあの女も頭がおかしいだけ」と、いう簡明な事態に突き当たるし、茶化すふりをして何気にもらしかけた満蔵の「ひょっとして君こそが私の隠し子だったら」などという怪訝な言い草も、まるで新芽が春を告げるように確実な土地の一端をしるしていたのだと合点がいった。
そして、もの憂さと期待を充満させて挑んだ二度目の訪問の詳細ならびに感慨をないがしろにした、つまり例の思考停止へと追いやり、突き詰めた解答へ向かう大儀を避けた心性こそ、正枝に関する極めて肝要な秘密の封印に他ならなかった。
間弓から念を押されるまでもなく、由紀子の死を介していわば覚醒した遊戯精神が満蔵の吐露を受け流してしまい、動かしがたい真実であるよりも流動しつつ、喜劇の仮面にいざなわれる舞台装置がもたらす偏頗な土壌の匂いをかき消そうと躍起になった。女優という看板を背負っているものの、映画会社の重役はじめ監督や男優とけっして少なくない浮き名を立てては、実りのない情熱に終始し、やがて神経を疲弊困憊させた正枝は自殺未遂を重ね精神病院送りの始末、そんな娘だからこそ熱狂を自負する若輩の形式を切望したのである。
この堕落の一幕に幸吉は耳をふさいで思い返すことなく、形式だけ悲劇の枠組みを借り受けて、内情は屠殺場でも麦畑でも小山の塚でも岸辺の祠でも、とにかく眼の届かないところへ捨ててしまいたかった。一年あまりの時間は狂人の退院を待っていたにすぎないのだから。
しかしながら自分の方でも肉欲に溺れ、あこがれをないがしろにした、この打ち消しがたい不義理はどうあっても枠組みにおいて相殺すべき、狂女と瘋癲老人に魅入られた世間知らず、こんな形式を認可するほど幸吉は堕落してしかるべきである。もはや人称を違え恥辱をものともしない傲岸な意識だけが思春の証しになった。それは不良らの間へたまに紛れ込んでみたい要求とほぼ同質であり、嫌気がさしたときにはさっさと見限る軽やかさを体現していたはずであった。素早い着替えが可能な、意思と自由にめぐまれた野趣がまかり通る道のりであった。苦悶の顔つきはいわば表街道へのわずかばかりの呵責で、自分なりの均斉と呼んでいた。
けれども不審な死を遂げた由紀子の肉体は幸吉の理性や狡猾さを飛び越え、とても小手先の変転でやり過ごせるほど軽忽ではなく、反対に少年を売りにしたひねた学生へとことん憑依するやっかいな衣装だった。眼をつむったと弾ずるべきか、そうではない、つむるべきして見るべき方角を舞台の上へ向けただけ、夢は開いたのであって、夜の暗闇に同化する盲いの想念に華やかなる色彩を見出したのだった。
こうなっては単なる怖いもの見たさがあだを成したに過ぎないのだろうけど、あこがれの女優が精神に異常をきたしたという明澄に取りすがった奇特な心境こそ、虚構のなかの虚構を踏まえて、空洞のなかの空洞へ分け入ったまたとない人生の光明ではなかろうか。戸締まりなどせずに夜更けの暗黒へくり出す冴え冴えとした息苦しさを苦とも思わない厚顔無恥な影。ただ、その影は逃げ道の用意を怠らなかった為に、かえって本来ならば抜かりないはずの、栄光を記憶のはるか彼方まで解き放つ手つきを怪しくしてしまった。
用意周到な逃げ道は狂女のたった一言でふさがれてしまい、とはいえ、破れかぶれの意向で「そうですね。証明するには確認が一番ですよ」などと言ってしまえば、どれだけ清々しい気分になったことか。
が、狂女の戯言にそそのかされただけで、うちの両親は寝耳に水であったなら、いったいどう弁明すればよいのやら、仮にすべて満蔵と正枝とが言わしめた事柄が正真正銘の事実であれば、虚構のなかはゆきどまりで空洞にはこれから向き合うやっかいな魔物が、徹底的に雅趣の払われた疎ましいしがらみと因縁が、うじゃうじゃ這っているに違いない。女優との婚姻は形式からして破綻し、その形骸は消毒液のような鼻をつく女体で肉づけされた臭みだけ残して長い風化に耐えうるしかない。放心状態と退路を断たれたという怨嗟はそう安々とは霧散しないだろう、だが、ここでの思考停止は姑息すぎる。
ともあれ、正枝は否定していたけれどこの情況下では満蔵の人形に成り下がっていると見なし、出来るだけその本意を、憑依なら憑依、親ばかなら親ばか、まさかとは危惧するが、我が家と今西家の因縁が清らかに育まれ、正式な婚姻への道標を見誤るべくもないこと、その他にも入り組んだしがらみや時代がかったほこりにまみれていたとしても、なるだけ穏便に事態へ乗っかるべきで、小心者らしくけっして波瀾を招くような結果へ自ら飛びこむまでもなかろう。
しかし不純な動機と果てのない欲望が手に手をとって駈け落ちする夢幻を浮かべたとき、幸吉はすでに奇勝と呼ばれる場へもう臨んでしまった風変わりな自負へ寄りかかっており、あまつさえ、すべては満蔵と正枝の虚言であり狂女を演じるのも、自分が由紀子を殺したことさえ失念している真の狂人であったなら、これほど愉快な顛末はないとさえ考えてみた。そのくらい何もかもねじが狂いはじめていた。あれほど観念的な図式で模写された美しく儚い世界が。
付帯の覚悟とやらに後押しされるまでもなく契りの一夜は決定した。が、もたげた異論のなかの異論は噴出を願ってやまなかった。ここは是が非でも問いたださなくてならない正念場であり、夜想の蔓延だけを讃えるわけにはいかない。
「僕の両親はどういった理由で、つまりこの儀をですね。承知してるわけなのでしょうか、あまりの不意打ちに混乱しています」
「父の満蔵とお宅は古いおつきあいだとうかがっておりますのよ、ご存知ありませんでした」
「全然、聞いたこともないです」
「でしたら相当驚きですね、御察しいたしますわ」
「僕だけ蚊帳の外だったというのですか」
「でもなにかしら思い当たる節があるから、こうして話し半分を確かめようとしているのじゃないの」
「いえ・・・しかしもういいですよ、ええ信じますとも。さっきははったりだろうって面食らいまして失礼しました。実際はかなり動揺しましたけど、ここまできたらもう疑いません。ただ、由縁というかその経緯ですねそれくらいは、簡単でいいでから教えてくれませんか。じゃないと、いくらなんでも」
幸吉はこれまで今西家の由縁など関知せず、あるがままの状勢に軽く足を踏み入れる気安さを前面に押し出し、そうすることで身のかわし方なり、深入りを避けるもくろみで、つまるところ怖いもの見たさの延長を計り、ちびらちびら抜き差しならぬ泥沼の浅瀬を慎重につついているつもりであった。しかし、あろうことか実家をまきこんだ沼地と聞くに及んで、はらはらと瓦礫の崩れるような、へなへなと足が萎えてしまうような虚脱を感じ、けっして抜き打ちの真相を額面通り信じるつもりはなかったけれど、話し半分という意味がそのまま自分の脳髄を占拠してしまった辛辣な喜劇から逃れそうもない予覚をかみしめるのだった。
「まったくですね、ごめんなさい。おっしゃる通りだとわたしも思います。けど深い関わりまでわたしの知るところじゃないありませんのよ。先日はじめて父から聞かされたばかりですから、でも、そうですわ、とても重要なかかわりですもの、わたしの知る限りをお話するのが筋ですわね」


[502] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた2 名前:コレクター 投稿日:2019年12月17日 (火) 02時50分

「昨晩この宿で夢を見ましたの。はじめて訪れた町の夜へ忍びこんだ夢です。それは底知れないな風景がべったりと塗られた危険な空気に透ける一幕でしたわ。けど、おどろおどろしい場面や眼をそむけたくなるような情景に襲われた心持ちはなくて、もちろん胸騒ぎみたいな焦りとか、逃げ出したい念いは夢のお家芸ですから、不穏な気分が欠落しているわけじゃないですけどね、戦慄の瞬間に縛られたり、外へ向かって悲鳴を上げるほどでもなかったのよ。
次々と、そうね、まさに特権、めまぐるしくそして容赦なく変転する宇宙こそが特権ですから、その集約を強いられたのか、細切れの憂き目に甘んじているのか、時間推移へのあらがいを主軸に置いた絵筆と水晶体が織りなす光景は、まぶしいようでまぶしくなく、逆の暗さの暗さが指し示す見えなさも成立せず、並んで喜悦や慟哭や激高といった胸を行ったり来たりする振幅も圧縮され制約のもと自在があたえられたのか、だって、どこをどう切り取ってみても出し惜しみなんかしてないはずなのよ。なのに、寸止めどころか、まるで暴君の一声ですべてが剥奪されるみたいにちぎれちぎれの余韻だけ残されるわ。
絵筆と水晶体は休む間もないくらい懸命に働いて、ありとあらゆる形体やら色彩やらをいにしえの記憶の貯蔵庫から取り出しては、あれこれ算段し、いえ、算段する猶予なんかあるのかどうかすら知らないうちにてきぱきと魅惑の粉末をまぶして、それがただちに火薬であることを外にもらさぬよう、たぶん、慎重にたいそうな気遣いをしながら、最大限に活用するべく指標をとまどいなく打ち立てると、あっ、そこで懸命な動作をねぎらったりはするのかしらねえ、どうかしら、でもするのでしょうね、きっと、そして絵筆と水晶体のうしろ側へまわりこんでしまった言葉を圧搾するのね、これがねぎらいなのよ。すると言葉は言葉であったこと、あったときの残響すら消されたにもかかわらず、なぜか、生き生きとした跳梁の踏み台に徹するべくして、あまねく記憶を極小の単位まで押しやるのだけど、おそらく火薬だけは不可分な性質がその発光と爆発の精神を認可され、もっとも言葉の精神とは呼べない化石のような無機質ながら、かろうじて生態反応を測定器にしめし得る欠片の欠片の気概が、外の気配などまったく関知しないまま、もはや情感をも石化してしまったと、一抹の嘆かわしさも面にしない、それこそ感銘だけをただ刻印するためにだけ演じられた役者の影のなかへと、また黒く滲んだ染みにようにして卑俗を避けているのね。
火薬は科学物質を含んだ自らのきな臭く危険な匂いが嫌われているのを知っているだろうし、そうした運命にある悲運も心得ており、なぜなら、夜空を過剰に彩る大輪の華へと自らの化身を厭わない姿態が、大衆の、そう、個人にこだわる必要なんかないわ、結局そこへ収斂されるのだから、さながら大衆の眼前に散華するかの瞬きに迎合していると恥じて、けれども瞬きが瞬きであることの普遍を了解し、生理的なとても大切な動作に準じるのであれば、闇夜を数瞬だけ輝かせる火薬の成分は局所的な視野をうつろわずとも、大いなる平面を浮き上がらせるでしょうね。圧縮の見事さみたいなのはこれでいいかもしれないけど、地平の連なりと大地の裂け目を地理的にとらえるまえから、すでに噴火という始原的で畏怖的で大掛かりな想念が生み出させるために一翼を担わされているようですわ。来たるべき、いえ、いつもまぶたの裏に鎮座した原風景はあまりにごつごつとして、しかも見上げるほど大きく、遠い眺めに守られているようで、なんのことなない、自分自身の夢見る子宮と肛門に結びついてやまないのよ。
火山があちこちで噴火しているはずなのに、殊勝な平面図のけっして反抗心をあらわにしない、純粋無垢な次元のひろがりだけ静かに申し出る態度をいいことに、消えた言葉の骨組みを拾って集めたりする素振りで、遠近法をわがものにしてしまうの。まさにわがもの顔でね。それで噴火は収拾がつくわけ、恣意的な遠近法はけっして無駄な精力を使ったりしないはずだわ、しかし、この二次元世界の窓枠に収まらないってことは、無理やりに押しはめる気負いがすり替わっただけで、あなたやあなたの知り合いたち、もしくはわたしの無くした思い出やそれに付随するきわめて微細な、まるでみじんこのような反応だって、あるときは別に効果を狙わなくたって巨視的な勢いでせり出すものよ。
わたしは映画の撮影に同行していました。ほんのちょい役、出番待ちの方が確実に長いけど、監督はじめ関係者と一緒、ところが時間をもてあましたせいで、いつしかにか知らない土地をさまよっていたのです。まっすぐ、と言っても道なりに歩いていたのだから、多少は二股に差し掛かったり、入り組んだ路地へと踏みこんでしまったかもわかりません。でも遠方に迷いこんだとは思えなかったわ。いつでも背中を返して戻ってくればいい。散策の安易さなんて明かりが灯っておらず人気のない夜間はともかく、家並みと畑が見受けられ、ふと野良猫の神妙な顔つきや上空から落ちてくる鳥の鳴き声があれば、そう思ってまちがいないでしょう。
でもすでにあたりを取り巻く感触は大きくかけ離れた空気に運ばれているらしく、山道にしては幅広く整備された路面のなにかしら鷹揚な雰囲気に疑念めいた問いがささやかれのです。さあて、わたしはどこへ来てしまったのか、似てるけどそうじゃない、どこがわたしを待っていたのか。
興味本位なまなざしってことさら日常に根ざしているとは限りませんね。ほとんど車の通らない、しかし、見栄えを重視したふうな、気持ちがよいくらいまばらな人影のある往来。連れ立った人数もほどよく、団体らしい、つまり観光地にありがちな場景ではなくて、たとえば辺鄙な山間へひっそりと建つ美術館や、少なからず格式を燻らせる芸事の集まりといった風情、ただよくよく眺めていたら、行って帰るは明確な姿でしょうが、ゆったりした間合いの、空間処理を施されたような優雅な密度の在り方にほだされてばかりおれず、それと言いますのも、道幅がひろがるに従いあきらかに人々の数が増え、にもかかわらず、どうやら美術館規模とは異なる巨大工場のような威圧感がせまってきて、その入り口にはとある会館の名が記されているではありませんか。おそらく宗教関係だろうとわたしは直感しましたが、どうにも人の出入りが縦横無尽すぎて、ええ、まるで東京駅の混雑を彷彿させるのですけど、何度もお話ししますようにほどよい距離が保たれ、その密度は実に優美でしかも豊沃な明証を香らせているので、まったく雑然とした印象をなしていないのです。斜めに横切る者がいるとおもえば、意味ありげに小さく旋回している三人組が、さらにはお互い反対方向へ顔を向けたまま歩調を揃わせる男女まで。
果たしてここが宗教会館なのかどうか、確かめるすべもなく、どうやらわたしの眼はいくらか獰猛な目つきをしていて、なんとも不思議な空間を凝視しているのですが、すれ違い様に声をかけてみるほどの勇気でしょうか、意欲でしょうか、どちらにせよ、誰ひとりとして会話をしている者がいないことを認めるに及んで、祭典の静寂やら神々の沈黙やら、さらには黄泉の絶対といった言葉がよぎってくるではありませんか。
静寂に思い馳せているのは今現在ですの、形式ですものね、わたしたち。沈黙は夢見の後しばらくしてからでしたわ。そうです、わたしがあなたにとった先日の態度に他ならないと振り返ったの。なら絶対はどういう意味なんでしょう。死人の国へおもむく宗教集会を夢見たことに絶対的な要因があるのでしょうか。これはさすがにこじつけだとやはり後から考え直しましたけど、そうよ、夢の光景に対して斯様な叙情は禁物ですもの。
からっぽな空間を豊饒に満たす火山活動は計測したりせず、ただ感取するべきです。それでもね、この会館のなかまで進んでいきますと、ええ、ここからが見せ場ですわ。あらっ、夢に見せ場なんてあるのかしらね、どうも変な言い方ですわ。しかし変なのはこんなこと語っているわたしじゃなく、違う誰かかも知れませんから、嘘っぽい理屈にまみれても清らか表情を浮かべている明快なこちら側ではなく、かと言って可能性に満ち満ちた発展途上国と自尊する不明瞭で覚束ない脳髄の彼方とも断定できませんわ。
広場らしい箇所から会館へと連なる造りは覚えてなくて、とにかく体育館のようにだだっ広い建物の内部はまさにがらんどう、いかにも大掛かりな講演とか催事が行なわれたりするためなのでしょうけど、飾り付けも祭壇らしきものも見当たりませんでした。観衆なり信者が敬虔な面持ちを捧げるであろう場にしては血の気が感じられなかったし、真新しくも古びてもいないけど、くすんだ色相の広大な会館の内部にはともあれ静寂が一番よく似合っているのですから、怪しむよりさきに抑止すべきはあるがままの反響音を耳にしてみたい気持ちでしたわ。こんな空虚でいったい何を響かせたら納得なり腑に落ちるのだろう。しかも渡り廊下を踏んだ覚えがないのに、横には別の講堂が隣接していて、それもひとつふたつなんかじゃなく、数えることに妙な空腹感を催させても、素直な食欲のあらわれには繋がれずいたたまれなかったのですけどね、あらっ、どうして食欲なぞへ飛躍したんだろう、まっ、立ち止まらないで先をいきますけど、迷路が肥大化したような講堂の乱立をあくまで等身大の目線に追うばかりじゃなくて、もっと晴れ晴れしく鮮やかにしたたかに、こんな位置作用にだけ現実味を託さないで、どうして跳躍してくれないの、あの空間移動の素早さを稼働してはもらえないのと願ってみても、無窮へさまよいだし、中空を遊泳する自由だってやはり閉じたまぶたの裏側で始まった騒動ですから、俯瞰するような具合にはいきません。
仕方なく素っ気ない視覚だけをつたってそれぞれの無感動に接していたのね。なにしろあまりに特徴がないから、うろ覚えであっても、そうよ、今こうして話している途中だってなんとかこっち側へ呼び戻そうとしてるけど難しいわ、よけいに紛糾するばかり、わたしの見たもの、わたしに見させたもの、とりとめのなさを自覚しないさなかに発生する光景のあらぶれと沈潜の洗礼と支配において、戻せないならせめてたどたどしくともなぞってみようと奮起するけれど、どうやら潤色が勝ってしまって小手先だけ躍起になってしまい、そうですわね、言葉を排除した空間で言葉を読み上げるのが不可能なように、新聞紙一頁とて判読できないのですから、そうしてほぼ視界にくりひろげられる平面図が舞台であり、聴覚を刺激する記憶を持ち越さない、持ち得ないという制約に縛られているわたしの記憶回路は、わたし自身への言及に関する些事をも一歩たりとて外へもらさず、あなたという他者に打ち明ける言葉の経路がはなから断たれている決り事にあらためてつまずき、それでも切れ切れの思いをなんらかの形式で伝えたいと願うのですが、するとたちまち形式の形式である由縁が不協和音をともなった波しぶきと一緒に浮上して、それはまるで敵国の潜水艦のごとく高圧的な威容を誇るから、わたしはもう一度おさない気分に手をとられ、夢のなかへふたたび帰ろうと試みるのですが、そうは問屋は下ろしませんの、ただ、そう、ひとつだけそんな寝ても寝苦しさしか感じられないありさまでも、音像の立ち方には関心していますわ。それはたいがい耳鳴りです。夢全体を支配する玲瓏とした基調だとしめやかに謳っているのね。平面図からあぶりでる火山の遠近法が爆発的な威力を内蔵しているとさりげなく強迫しているので、耳鳴りなのかしら、その辺りはよくわからないわね、けど、これだけは言えます、あまりうるさいと眼が覚めてしまいます。睡眠妨害もはなはだしいわ。
その基調音なのですが、さながら平面図を横一直線に引かれた、と言っても定規に添って走らせたような事務的な直線でなくて、たとえば遠望される水平線がおおらかな調子で雄大に、そしてかつて運動会で子供ごころを緊迫させたあの白線の長い長い感じが、海原と蒼穹を引き合わせ、誰かに海と山にかこまれたなんて校歌を口ずさましては、案の定あとの歌詞を忘れており、それだと申しわけない気がしてなんらかの補填を行なおうとするのですけど、さてどういった補填をすればいいのやらやらさっぱり見当のつかないまま、茫洋とした情感のかすめてゆくのをもうひとりの自分がこれまたぼんやり眺めている、そんな風景にとけこんだ音像があの糸が張りつめたような、けれどもか細くて視界を横切ることはない、耳朶に触れることにない夢の音ですの。
いつもとは限らないけど大概この音を意識したところがもっとも高台ね。そう、視野的な構造として。あとは下り坂なの、だから危険なの、原理的に危険だと感じるわ。だってひりひりするし焦りも始まる。わくわくはしないわね、無性に帰り道が恋しくてたまらなく、それどころではありません。
会館の見物に飽きたのかしら、それとも時間が迫ってきたのかしら、わたしは広場に出てもとの道へと引き返した。あれっ、こんな急勾配だったかなって、いくらなんでもこれではまるでスキー選手が滑るような斜面で、まわりをうかがえば、まばらな人影は歩行をやめてほんとうに滑っているじゃないですか。スキー板なしの靴底で安定を保ちつつとんでもない急な坂を下っていて、これは少しでも気を弛めたら転がり落ちるのが必至といった案配なので、力まず前を、あまり間近ではなくやや前方へ眼をやりますと、どうにか無事に過ごせそうな予感がして、その予感が余裕を見出したのか、右手に見下ろされた入江の美しさに陶然としておりましたら、声なき声が敦賀湾だと教えるのですね。まさか、わたしは都心からさしてほど遠くはない土地へ行ったのに、いつの間にこんなところまでふらふらさまよい出たのだろう、いや、さまようにしては距離がありすぎるわ、列車にも乗らず日本海を眺望しているなんて考えられない、こうなると夢の加速度が本領発揮されるのはあなたにも理解していただけるわね、人影を見失うのと急勾配が緩やかに道幅はごくありきたりに、やがて陽射しが消え、それでも人工太陽は夢を照らし続け、東西南北はおろか敦賀が果たしてどこだったのか、日本海を見下ろした記憶さえ飛び散ってしまったわたしは、くねくねとした山道を早足で歩いているのですが、車一台通らず寂しさを増すだけの、なおかつこんなときでも左側の歩道に寄っていた足下が知らせるには、歩道はここで途切れて代わりに水路がある、その水路からとってつけたように流れてくる赤い手鞠の持ち主が小学生の頃の友達のあずさちゃんだと、わたしはこんな大人になってしまったのに、どうしてあずさちゃんは子供のままなの、そんなやりきれない思いを発するまえに、友達が言うには、そこを曲がった家の地下から博多行きの列車が待っているのよ、とにっこり微笑むのでした。博多と聞いてわらをもすがる気持ちが働いたみたいです、なんの根拠もないままに。わたしは地下鉄乗り場で博多までの切符を買い、駅員にどれくらい時間がかかるのか尋ねたところ、百三十二分と即答されこっくりうなずいてしまいました。
乗車したのかですって、まさか、ようやくここが父の生まれた町で、昨日わたしはあなたと婚約するために長く長く列車に揺られていたのを思い出しました。ええ、ほとんど外側からでしたけど」


[501] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた1 名前:コレクター 投稿日:2019年12月10日 (火) 03時34分

特別な笑みをこぼしたという面持ちでも手放しの歓迎でもない、電話口から受け取った思い入れに見合うべき正枝の素振りを確かめるには、まだ宵闇へどっぷり浸かったわけじゃなかったので、なにかしら白々しさのまとわりついた情景と映ったのだったが、気負い過ぎたせいで逆に大仰な場面を望んでいたのではと、幸吉はのびやかな演出に彩られてないその風姿へ安堵を覚えた。
いくら今西家のはからいだとして、演出のように気をもたせたり、けれん味たっぷりな仕草がもし前面に押し出していたなら、その方がよほど引いてしまっただろうし、はじめて修学旅行先で接したときのたどたどしく、気恥ずかしさにうわずって、それでも度胸を決めたあの手応えさえ覚束ない感じは、姿勢を直した挨拶と同じでいきなり艶やかで麗しい目線を送らせたりはせず、ちょうど蛍光灯の光が隅々まで均一な明るさでひろがるように、どことなく隠し事が露呈されている挫折を生じさせるのだった。この間隔に不服などない。
また勝手に想像した浴衣か寝間着の上へ重ねた旅館の名が目立つ羽織姿とは異なり、厚手の白いセーターにえんじ色のスカートという普段着らしい服装も、期待をいい意味で壊してくれているように思われた。それでも玄関の曇りガラスを一面むらなく暖色に染めて待ち受ける先、見遣る数瞬に夜気をしのばせた感覚は明るい部屋への越境と呼んでふさわしい、躊躇ない足どりであった。
暮色をいくらか深めた実感はけっして使い捨ての情趣などではなく、ただ単に本当にそうであればどれだけ夢心地だったかもしれないが、甚だしくも仕掛けのなかへ花咲く情念としか穿てない失意を道づれにしている以上、正枝との対面は密室において繰りひろげられる筒抜けの逢瀬であり、覗き部屋の趣向で形づくられたものでしかなかった。しかし正枝は女優然とした華飾に頼っているように見えず、取り澄ました表情を洗い流していて、たとえそれが反転した演技だったとして、深更まで及ぶであろうこの一夜のうつろいは明澄な時間を滑りゆく。
幸吉は痙攣しようとする失望に拮抗してやまない真摯な間合いを見知った。それは火鉢を置くまで暖の欲しない、けれども秋の夜風が壁を抜けてそうな肌寒さに敏感になってしまう、女優の素顔をかいま見たと吹聴してしまう、たぶん湯上がりの乾き遅れた黒髪のところどころに濡れた流れが残されたしなやかな線状の光であり、普段着に合わせるふうに装われかの一度ひかれた口紅の消し去ったあとへうっすら色づいたくちびるの艶であった。素描に戻された淡い絵画の粉黛のように。
だが、前もって交わされた取り決めなのだからと、甘んじれば甘んじるほどみだらな幻影はぼやけてしまって、代わりにそれこそ絵空事めいた乱暴で低俗な空中分解などまったく関知しない、紙飛行機よりは厚みはあるけれど、駄菓子屋のおもちゃに等しいがらくたの空想が安物の羽根をひろげ飛びだすのだったが、受け身であることから少しだけでも逸脱したいのか、幸吉は先日の寡黙な居住まいに準じた女人の懐をまさぐっている攻撃的な指先を描きつつ、その由縁へと歩み寄ろうとしたところで、そのあまりに底の浅い受け皿しか持ち合わせていない実質に愕然となった。
いみじくも祝言と情交をいくら形式となぞったにしろ、これより儀式として執り行なわれるのである。幸吉は破壊作業と銘じた攻略を掲げているものの、なにひとつ明確な手段を念頭へ飛翔せてはいなかった。そこで、ここが駅前旅館の一部屋だと観取するまでひとめぐりの想念が揺り起こされる。
女優らしさを敬い、いや、敬ってないからこそ隣近所のお姉さんの清楚で良識的な容姿に密やかな動悸を感じ、今にも手を伸ばせる近さまで親和が迫っている気安さにたどり着いた。
まだ色香の迷いを嗅ぐこともなかった年少時、駅前の旅館は魅惑の異界の佇まいに煙っており、ゆきかうひとの背中がかき消されてしまう幻影を折り重ねながら、ふと思いついた趣向じみた誓いは、いつか大きくなってひとり旅をする機会が訪れたとしたら、町の灯りの華やぎをかき分けるようにして夕星を見定めたのち、その無益な行為のとてつもなく旅情を噛みしめている想いだけにそそのかされたことを知りつつ、まるで遠い旅先における心細さから駅前に宿を求めるような哀愁を過分に漂わせ、それは間近である方向感覚を麻痺させ押し込めてしまうかくれんぼみたいな児戯なのだろうが、あえてここへ宿泊して、これまで夢見たきれぎれの断片がつなぎ絡まる自在は捨ておき、夜明けの駅に立つ。
これはたぶん幼少からの無分暁な欲望が映画の一場面を模しただけと思われたけれど、まだ大人に成りきっていないこの身を囲む宵闇へ眼が吸い込まれている実際と照ら合わせてみれば、ひと足早くその誓いが成就されようとしているではないか。
終着駅を気取った始発駅、まだ旅立たない一夜。正枝の声は駅前にある旅情から隔てられた響きを、つまり沈黙を打ち破ろうとしていた。それが汽笛なのか、どうなのか、幸吉はもう考えたくなかった。

「さあ、突っ立っていないでこちらにどうぞ。なにやら狐につままれたような顔をしていますわ。でも仕方ありませんわね、父にあんなもったいぶった言い方をされたら、どうしたって意地になりますもの、あっ、ごめんなさい、幸吉さんには幸吉さんの意思があったからこそ、ここまで来てくださったのですね。いいのよ、あなたの勝手で、そうなにもかも。どういうふうに感じられてるか察したいんだけど、実はわたしにもよく分からないところがあって、あら、こんな言い草だと馬鹿にしてるように聞こえますわね。けど、のみこめていないのは本当ですし、くどくどしい弁解は今さらですが、わたしにもあれこれあって、もちろん父はよくそれを承知してくれていて、先日までこの町へ来るのをためらってましたの。あなたには無言ながらそして便りなしでも通じる時間という原石の再認識が伝わっているはずだから、同時にあなたの目覚ましい成長を信じようと腹をくくっていたようですわ。それもやっぱり欺瞞ですね、だって間弓さんはいち早く父の計略を、もういいですわね、計略って言って、ほかにどんな呼び方が適正なのか知れませんもの、で、それからの婚姻話しをめぐる駆け引きがどういった波紋を立てたかは、あなたの胸が一番よく理解しているはず、だって案の定、浮世離れした未来の約束なんかに縛られることなく、色々な出会いがあったようですし、それが抵抗的な仕業、そう間弓さんの手によるものだとしても、あなたは持ち前の生真面目さでぶつかっていったのですから、そこに肉欲が沸騰してもまったく仕方ないこと、ぶつかったのは暗闇の電柱やら、とんでもなく固い石垣やら、曲がり角のささくれ立った板塀やら、悪徳で陰湿な大人じゃなくて、無機物とは正反対の成熟前の柔肌だったのですもの、理解というよりこの上ない体感に違いありませんわね。だとすれば、間弓さんに感謝する余地はありそうですけど、ごめんなさい、どうしようもなく嫌味にしか聞こえませんわ、これでは。嫌味を強調していると訝しがるでしょうね、いきなり苦言だと思われてもかまいませんわ、いっそ間弓さんの意向をくみとってあげた方が賢明だったかも知れませんもの。
けど、こんな口ぶりでもあなたが臆したりしないのを見越していますわ。ほら、一瞬そんな怪訝な、どこかに化け物やらひそんでいるみたいな顔色だけど、眉尻にはもう解けた縄に似た安逸がよぎっているし、曇天のわだかまりなんてうつろいの果てにはつきものだと言いた気ですよ。あっ、いけません、わたしったらまともな挨拶もせず出し抜けにあなたの体験まで言及してしまって。
ようやく時間がめぐり、今夜はかけがえのない相見、でもわたしはなにも分かってないのです。なので・・・燐谷さん、あらためまして、呉乃志乙梨こと灰田正枝です。よくいらして下さいました。先日はだんまりでさぞかし不快に感じられたでしょうね。失礼をお詫びします。父の指令だったなんて言い訳をするつもりはありません。よかったんです、あれで。
一応は女優として台詞まわしの訓練もし、喜怒哀楽をどう形づくるか学び、ほぼ影に近い通行人役でも熱演して、ここにあなたの驚いた様子をうかがいながら、はじめて声をかけられた日のことを思い出してしまい、うれしさがこみあげてくるけど、はたしてわたしを女優として見つめてくれるのか、それとも薄幸を背負った底抜けの女性として憐れんでくれるのか、気がかりには違いありませんが、もうどちらでもいいのです。
父のあの申し出にわたしが納得していて一分の隙もなく、絶対服従やら天命やらだからと割り切っているわけじゃないの、いまさらどうしてって反論されるのはもっともですわ。腹違いの娘と引き合わして、いえ、写真が取り持った偶然でしたわね。それで父の眼光を定めてしまったからといって、わたしが人形のようにもの言わず顔色ひとつ変えずただ従っているだけではないのよ、ただ、あるがままをあなたに受けとめてもらいたくて、こうした場面が用意されたのです。ええ、そうよ、父だって時代がかった君主みたいな態度には無理があると判じているのでしょう。だから宿命的な語調を散らすために選択肢をあたえるべきだと最後のひらめきを口にしたと思われます。ひらめきというのはおおげさですけど、きっとあなたを追いつめてしまうのではないか、そう案じていたのはたしかですわ。現にあれから一年以上経っているし、あなたの心変わりをなにより怖れていたにもかかわらず、経過をうかがったりすることもないまま、ただ月日の流れるのを傍観しているだけでした。そうでしょう、父からなにか連絡や知らせがありましたか、わたしだって何度もその後を問うてみましたわ。これは婉曲な欺瞞でしかないですか、もっともそう受け取られて当然ね、父は傍観ではなく監視の眼をゆるめていなかったとか、でもそれはいったい誰の意見なのかしら。
さて事態は間弓さんの反感を買い、さきほど好機にめぐまれたふうなんて言い放ってしまったけど、あなたは息苦しそうなある肉欲のとりこになっていると聞くではありませんか。
息苦しさが文字通り呼吸困難を意味するのか、夏の盛りの太陽の下で戯れる遊泳の息つぎの頃合いを叫んでいるのか、あるいは日射病に冒されながらも負をしめさない生命反応がそうであるように、摩擦熱が熟知したよろこびの寸前を謳っているのかなんて、妙な具合に映画の過剰な語りが想起され、放心にならうべきかな、季節風の心意気であればいいのかな、と聞かぬ素振りをしていたのですわ。
呼吸困難は火急の問題よね、どうにか回復しいてほしい。海水浴の練習だったら平気だわ、気をつけて精々がんばってと。しかし日射病に喘ぎながらの謳歌は危険だわ。それはわたし自身にとっても危険な感情を植えつけることになったのでした」


[500] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 10 名前:コレクター 投稿日:2019年12月02日 (月) 21時13分

繕うことの意気と清廉な気怠さを胸に、幸吉はまたしても仕掛けに準じた有り様だったが、その一歩踏みこんだ態勢には起爆装置を抱えた闘志のような情念が色づいていた。
駅前旅館への駆けこみに奮起したところで、所詮は満蔵のいかがわしい攻略が先んじており、無言を通した女優とふたりになる情況には有無を言わさぬ契りが待ち受けているのであって、それを知りながら先手を標榜してみても所詮は袋のねずみでしかなかった。
ならば、窮鼠ねこを噛むの喩えに倣うとでも開き直ったのか、たしかに自ら仕掛けへ突入していく恰好なので、構図的には気概などおおいに差し引かれ、幸吉のひとりよがりでしかなく写るかも知れないが、満蔵の言った形式に則った素振りで内側から破壊を試みるとしたなら、秘匿された陰画はきっとあぶりだされるだろうし、陰謀的な匂いを漂わせた何かが露見するに違いない。そして返す刀で間弓の謀反へと寄り添い、至高の情念と化してしまった肉欲の崇拝を断ち切り、けれど、形式をなぞるという方法論に宿った女優との密接な関係の解明がうやうやしく息をしているので、試し切りの口実は声を大にしても淫猥へ堕することなく、あまたの事訳や玄妙だった経緯は踏まえる徒労をねぎらうごとくに、厳かな情交へと結ばれる。
おおまかではあるが幸吉の目論んだ牽強付会の理屈は生煮えのまま吸収された。
満蔵にはまったく申しわけないし、正枝も裏切る結果になってしまい心苦しいが、内側から破壊するとは他者の出方をかき消すことでなく、おのれの身の置きどころを台なしにしてしまう謀逆を真っ先に打ち出すという覚悟に他ならない。
この自虐めいた悲壮感はもとより、形式を重んじる姿勢を正す股間の張り切り方もまた純粋な現象であった。加えて何をどうやって破壊したらいいのか、皆目わかっていない無茶ぶりが情念の謂いを高めていると幸吉は笑い泣きした。
なんと愚直で妄執に絡まった考えだろう。しかし再度、妖しき宵へと臨んで受話器の向こうに女優の艶冶な声を、あるいは正反対のか細く実務に忠実そうな受け答えを耳にするとき、この前向きな盲いの時代を、かけがえのない思春の袋小路を、囲繞される絶え間ない日常を、すぐに忘れてしまう夢を、決して薄っぺらい郷愁には連結させない意志が天駆けるのだった。
「ほうら、つるべ落とし、気を急いているみたいですね」
と言った満蔵の時節の余韻が皮肉にも黄昏どきまで棚引くようだったけれど、それは過去にではなく、もうすぐ幕が開く映画館の舞台を彷彿させて仕方がなかった。郷愁に触れるとはこうした危殆や焦眉が煙りをくゆらす様であり、今生の別れを述べているふうにこじんまりした、しかし、強大な妄念の巣食う箇所であっても不思議ではない。
裏読みなど必要ない言葉として思い返すほどに、夕暮れの肌寒さと視界の偏狭に忍び足で迫ってくる宵闇の瞬刻はたより気ないにもかかわらず、家路への歩調へひかえめな魔術をさずけているような気がする。
道路の幅は車両の行き来に制限をかけているみたいで、路地と家並みの間合いには漆黒の絨毯が敷かれており、地面の奥底から闇の冷気が這い出すのか、足下に清涼とも痺れともつかない幽かな抵抗を感じさせ、それは夜の駅前旅館へたどり着いたときにためらうであろう、曇りガラスの玄関に灯る橙黄色をした柔らかで、しかも安息と成熟を請け合っているふうな趣きでありながら、柔肌に透けるなまめかしさや黒髪を際立たせるゆかた姿、そして沈黙に微笑が溶けだし玲瓏とした言葉遣いの耳朶に触れる瞬間が想起されれば、胸間からこぼれだす華やぎを抑えようとするせめぎ合いは、二の足を踏んでしまう気弱な瞬きへ通じてしまう。
眼前にひろがる憧憬の顕現は夜を待ち望んでいたのだから、まったく偶然であった修学旅行の白昼以来、恋情の様相がいかに移り変わろうとも、ずっと言葉の背後にあり続けた面影の薄れることはないはずで、銀幕へ映されたその清らかな容姿は、陽光の下に見出された素顔の方こそ夢の断片であるのだと、あのときの写真もろとも風化の一途をたどっているような感覚に囚われるのだった。
赤電話の受話器を切ったのち、したり顔で帰り道に呼吸が荒くなったり、かくべつ幸福に舞い上がったわけでもなくて、むしろ忍び寄る闇の透明な気配に心音は落ち着き、蕭条とした風情が醸し出され、街角のあちらこちらへ灯りはじめた明るみには、秋の夕刻の頃合いだけにしか示してやまないぬくもりが点在していたので、武骨でしかも不甲斐ない思念に流れる刹那はあっさりと反復を拒んだ。
やはり気を急いているのだろう。ほぼ狂信的である信憑によって働かせていた遠い肉欲を間近にすることには戸惑いがある。桜田静子から風見由紀子へ連なった際の生々しい実感は何故かわき起こらず、暗闇にさまよい奇声を上げる淫欲も堕落を願う悪徳な物腰も見当たらない。ただ、そうした葛藤など霧散してしまえとばかりに夜のとばりの降りる様には威厳が備わって、幸吉の背筋を律した。
幸吉は優等生の誉れをそこなわない生気で宿題へ取り組むような姿勢に戻ろうとした。おどおどした態度で女優に接する光景が躍り出ても、ちぐはぐな言葉でしか情況を把握出来なくとも、奇跡の交わりを思い浮かべるだけで肉感がともなわなくても、不良を気取って天使の割れ目だけに突進しなくとも、ことさら学業の時間を萎縮させる悪ふざけに呼び覚ましてもらう必要はなかった。実務のように義理堅く形式を尊び、空想のなかの空想をただ実践する。
正枝は幸吉が旅館にひとり赴くことを受け入れるだろう。
この大前提がそもそも狂信であり、狂恋の札に守られている限り約束は果たされる。これが優等生の小さな意地だった。
あっという間に自宅の前まで来た幸吉は意識の反復ではなく、黙って踵を返しもとの道へと歩きだした。時折うなじへ吹きつける冷風が心地よい。上弦の月は輪郭を鮮やかにして夜道へ奇禍を招くのか思案するように見えた。着けてもいない腕時計を眺める素振りに優美な気持ちをあたえ、次第に学生の領分から離れてゆく。まどろむには早いとうしろから誰かが声をかけてくるようで振り向きかけたが、あの幽霊のしわざだと思いなし、それよりも惑わす方にまわっているかも知れないという根拠のない、漠然とした考えが形を持たないまま夜道の片隅にうずくまっている気がして、おそらくそれは害を成すことはないだろうと言い聞かせている内心のこだまに共鳴した途端、淫靡で妖しげな幻影を招き、例のストリップ嬢の半身がちらついた。
「もしもし、呉乃ですけど。燐谷さんなのね、燐谷幸吉さんなのね」
うれしさと驚きを隠しきれない声遣いが受話器の向こうから響いてくるように幸吉は受け取った。
「そうです。夜分すいません。昼間も電話したのですが」
煙草屋の軒下は煌々とした裸電球に照らされ、様々な雑貨は無造作なのかどうか判別されたくない景観を呈していた。陽射しを浴びて彩りを放っていたときよりも、低い天井から吊るされた光源の荒々しさが商品の価値を代えているように見栄えはどこか痛々しい鋭さに虐げられていたのだったが、短い距離へ届いてしまう裸電球の効果はそれほど悲痛な感じがせず、たわしだのちり紙だのほうきだのといった生活用品に並んでいる、季節に置き忘れたふうな虫とり網や半分以上空気の抜けた子供向けの浮き輪の、むせ返った晩夏の草いきれと戯れる来年までおとなしく陳列されているふうに見えないのが小気味よかった。
そのけばけばしさには夏休みを送れなかった原色の汗がしたたり輝いているかのごとく、陽気な屈辱が発散されているのだが、秋の夜長を楽しんでやろうという覇気すらあって、赤電話の真下にガラス一枚隔てて歴然と売れゆくのを知悉している意匠の施された煙草の冷静な並びを照り返していた。
「いいのですか。本当ですか。いくら父上が言ったからとしても」
「わたし夜は家から出されます。だからいいのです。お話したいことはたくさんあります。せっかく電話までしてくれたのでしょう」
「そうなんです。僕は勇んであなたに会いに行こうと決めたんです」
夏の盛りを通り過ぎていった激情が新たにこみあがってくる。
煙草屋の粗雑でむきだしの明かりは夜景となって路傍に人懐こさをこぼしていた。そのなかに見覚えある銘柄の煙草の交じっているが認められたけれども、次はいよいよ駅前旅館の夜景に接するのだという高揚に促され、感傷は曖昧な風向きで吹き流された。
が、幸吉の歩調は追い風を背にしておらず、そぞろ歩きであることをぼんやり想いながら、ちょうど夢の中での歩行が脱力めいた重苦しさに絡みとられてしまうように、大仰な出来事は夜へまぎれて闊歩が憚れ、怖れと官能の生み出す様式に中和を求めているのだった。
旅館の主人らしき男性は幸吉の背格好を確かめても怪訝な顔を見せることなく、正枝の部屋まで通してくれた。


[499] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 9 名前:コレクター 投稿日:2019年11月25日 (月) 03時05分

薄明を覚える境界は鴉の羽ばたきによって彩度が追われた日暈の淡いひかりに支配されていた。
塗りつぶされることをかいくぐった残像は影であった記憶に依拠するまでもなく、白日の色彩へ溶けこみ、天空の位置を告げている黒点となった。それはちょうど海原に顔をだす小島が波頭で洗われながらも、決して海水に没することのない遠景を眺めているような心持ちに重なる。
目覚めのひとときはさながら寄港する小舟なのだろうか、離れゆく茫洋とした景色に惜別を送っているまなざしは、郷愁の侵蝕を受けた荒磯の険しさをやわらげていた。常日頃の眠りは帰還を欲している。
しかし、この朝の寝覚めは小島の輪郭がはっきり捕らえれそうなくらい鼻先から離れず、いつか観た恋愛映画の綾が織りなすもつれから別れ話へと至る場景に、演戯であることを棚上げしたにもかかわらず、切なさの霧はより深まってしまい、それでもうつむいたり眼をそむけたりしないまま凝視し続けた、あの朦朧とした甘く鈍い気分にゆっくりと浸っていると、寝具は海面を漂っているみたいで波のうねりが体感されるのか、後頭部から背中へかけて微弱な電流が走ってゆくさまに、淡白な快楽を受けとめながらも、特に尻の割れ目を撫でられるような気恥ずかしさとくすぐったさには、仄かな臭気を近くしたふうな嫌悪を感じたのだが、海面から陸地へ這い上がろうとする黎明の懶惰は、ささくれ立った意識に立ち戻る手順を踏む術を忘れたのか、まだ夜の青々とした溟海へ身を沈ませている凍結のなかのぬくもりに煽られていた。
深海でなくとも浅瀬に揺らぐ藻がときに饒舌な反撥をあらわにするごとく、沈黙より突き出した色彩の刃こぼれがきらめくさきの月光は悽愴な美しさを謳い、まばゆさに応える理を認可した陽光は退きすら笑い飛ばしている。
人知の立ち入れないはずの光景がおのずからさらす境界線、架空のストリップ嬢を育てた臨界点、幸吉にはそれが郷愁へと流される曖昧な思念の決別の知らせに感ぜられ、すぐさま覚醒を願い、面倒で気乗りはしないがいつもの癖で心理状態を内観しようとした矢先、夢の重力はそれがまっとうな拮抗だと訴えているのか、歪曲に即した暗転をもたらすと、またもや金太郎飴の幽霊の声を聞かせるのだった。
「早起きは三文の徳」
「ほんとうか!」
叫び声を上げて目覚めたのだけれど、はたしてまだ眠りのなかにあるようで仕方なく、そしてこれから出港する気怠く緊張をともなった皮膚感覚が海水の夢犯に急かされ、境界は灰色の水平を横滑りしていったので、眼を凝らしてみれば、幽霊のすがたは不思議なことに七色の輝きをまとっており、その光輝で溶けたのか、やはり溶けたか、金太郎飴が、いい、それでいいとほくそ笑んでいたところ、ぐにゃりと曲がった金太郎の形相があまりに薄気味悪いのでひるんでしまって、ようやく意識は地平に連なり、意欲を胚胎した無数の埃が瞳へ鮮明に映りこんだ。
なおかつ、しとどに濡れた記憶が身体を幾度も通過していくので、更に意識は明快になった。
カーテンを開ける。自室の、他の部屋の、それが見知っている旅館の奥の間であったなら・・・奇跡はただれた傷痕の証左となり、降り注ぐ朝日がきらめく様を仰ぎながら、まぎれもない黒点に瞳孔は反応し続け、日々の息づかいの在り方を深く知っておののき、戯作の裏表紙に手を触れては本文の字面のとある箇所に立ち止まり、文脈とは無関係な、ただの思い入れや些細な出来事が過剰に、遠く鳴り響く雷鳴をありがたがるような具合いに、が、懐旧に胸を焼かれるだけのせわしなさとは異なるもっと原始的で天衣無縫な焦慮へこころは奪われるのだろう。
潮は満ちていた。幸吉はあえて聞き流してしまった正枝の宿泊先に関する満蔵の釈明とも誘引とも取れる話し振りへ連れ戻され、大仰に打ちのめされた構えで反芻してみるのだった。特定の頁を繰るときの胸騒ぎにはそそのかされてないと自問しつつ。
「さすがに正枝をこの家に泊めるのはいささか気が引けます。間弓の顔色をうかがっていると思われてもっともで、本人だってなかなか枕を高くして寝れないと案じたからです。要は君さえ申し入れを受けてもらえればいいのであって、正枝の立場をしっかりかためる為に安眠のさまたげまですることはないでしょう。
この家で君に直接引き合わせただけでも十分に強行な手段であって、私の趣意はほぼ果たされました。そこの駅前旅館ですよ。今夜から二日間の予定です。正枝には別に部屋に閉じこもってなくとも散策するなり、なんでも自由にすればと言ってあります。もちろん君が訪ねていってくれて結講ですよ。私抜きで今後を語り合うのもいいことだと思いましたから」
女優はあのとき微笑んでいた。
自分の方を一瞥しながらうつむき加減で気遣いなのか、処遇に安堵しての弛緩なのか、判ずる隙のない、こちらが萎縮してしまうような含みを口角にたたえて。
瞬時に攻撃的な勢いをもって由紀子との情交がみずみずしく思い出され、夜這いという言葉を無理矢理すべりこませては、二日の猶予に歯ぎしりする期待と負け犬のような馴致を同時に孕んでしまった。
今日は土曜日、そして明日には正枝は帰京してしまうのだろうか。あまりに逼迫した事態をどういうふうに抱けばいいのか幸吉は煩悶するしかなかった。
増々もって満蔵の画策に鋭利なものを感じ、のっぴきならぬ決断を強いる相貌に徹したその圧力で崖っぷちまで追いつめられたあげく、心細さに竦然とするしかなかったけれども、反面、例の遊戯の精神とやらがちょうど用心棒のような手際で現れ、鼓舞されれば、由紀子の死は素早い流転によって昇華されたものと見なす方向を示唆するので、あやうく難は回避されてしまい混濁を嘆く間さえ吹き払われて、それは思考の猶予をなじる変拍子なのか、切迫の場面に伴走する音の響きであるなら、まさしく極めて逃れようのない急迫に即すのであったが、あまのじゃくの一声に反転は託されていたようで、追悼と祝言の交差する真っ只中に直立している心持ちは、難産と渡り合った痕跡を残さず生み出されたのだった。
早とちりや気まぐれでは収まりそうもない思い込みに均衡をそこなわれるどころか、手前味噌で築かれる有頂天ぶりが正午の太陽のごとく高まるのであれば、そして実際の時間に無遠慮であればあるほどに、二日間の制約は取り払われ、盲目的な加速度で女優との逢い引きの情景が描写される。
鏡はすでに手を借りなくとも宙へほこりひとつ立たせず浮いており、幸吉は端役でありながらいつしか男優の地位をあたえられた誉れに酔っていた。満蔵の願っている舞台にすすんで躍り出る邪心は聖痕が後押しするよう、麻痺した痛みに支えられて、超越的な気概にすり替わっていた。
目覚まし時計のけたたましさは鶏鳴の悦びであり、洗顔や歯磨きの習いは舞台化粧に同化して、朝食を素っ気なくするのも台詞まわしが味覚を追放したあらましであって、演ずることの功徳に舞い上がった手の指先から足もとまでには軽妙なしなりが伝ってとどまることを忘れ、登校の道なりで出会う生徒らには観客の仮面を授けたく、久しぶりで目線が確認された桜田静子のこわばった会釈にも小鳥のさえずりに包まれたようなさわやかさを感じる始末、そして覚悟していた今西の顔つきに異変を見出せないことに至っては、盟友の絆と名優の冠を捧げたい心境であった。
我が家の紛糾の一端を担っている幸吉を敵視してもおかしくないはずなのだが、ざっくばらんな会話で済まされる時候の挨拶には形式をなぞるだけの強靭さが欠落しており、今西は涼しげな演技で的確な距離を計っているようだった。
幸吉も深刻そうな面持ちで歩み寄る不粋は避け、切り口は放擲された。しかしこの一言はどうあっても今西自身から発したかったのか、
「昨日から家に女優が来てるんだよ。修学旅行以来だね。寝床は駅前旅館なんだと、あと少しの辛抱さ」
と、きびきびした口調で言った。
「君のところで聞かされたよ。明日には帰るようだったけど」
幸吉は淡々と答えた。
「言っとくけど僕は干渉するつもりなどないからね。まっ、適当にあしらってくれたらいいさ」
まさに適当に、そう、遊戯の条件がめぐりめぐって回遊魚の勇壮と節理を兼ね備えているとしたなら、もっと適当にあしらえばいいのだ。
ひりついた時間の彼方を見つめた幸吉には、単調な挨拶を済まし、背を向けた今西の真意をくみ上げる力が残されていなかった。
「君の醒めた表情に向き合っている余裕はない。それがいかに計り知れない巨岩の裡にひそむ闇の静けさであり、閃光を押し殺していたとしても、今は暗闇をまっすぐ進んでいくだけだ」
幸吉は傍観の姿勢を崩さない今西の計略にのまれていることを理解していた。そして好都合に事態が収拾される僥倖を願っていた。が、賭けは受け身に甘んじるべきではなく、勝敗と関係なく、破壊の衝動をたぎらせる暴動の影に突き上げられなくてはいけない。官能が少年を襲ったように、奇跡が人工的な花弁を散し、錯乱の地平から大海原を望ませ、沈みこめたように。
帰路にある煙草屋の店先に佇んだ幸吉は赤電話をじっと眺めてから、おもむろに駅前旅館の番号をまわし、軽く咳払いをしてこう尋ねた。
「そちらに灰田正枝さんという方は泊まっていますか」
「少々、お待ちを」
まだ日輪は頭上にあって秋空の由緒をおおらかに語っている。この時刻に正枝がいるとは思えない。しかし、幸吉の賭けは始まっており、揺るぎのない衝動に駆られていた。
「あの、そういうお名前のひとは」
すかさず訊いた。
「呉乃志乙梨という名では」
「はい、でも外出しておられます」
「わかりました。どうも」
武者震いが寒気をともなわない感覚であることに驚くべきなのだ。幸吉ははじめて数を読み上げる怯懦を抜きにして幸福感をしみじみ味わった。


[498] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 8 名前:コレクター 投稿日:2019年11月12日 (火) 03時06分

夏の名残りは暮れどきに戸惑うよう、忍び寄る冷気を受けとめていた。
頬に感じる火照りの、情交のあとを思い起させる浮ついた夕景は孤影を際立たせるとともに、胸に去来する醜劣な言説の扶助を担っているのか、さきほどまで耳にしていた満蔵の声は、たなびくというより山間から微かに聞こえてくる瀬音に似たひかえめな、それでいて遮断機のわずらわしさを自若として受けとめる狭霧に包まれたような隔たりを感じさせた。
待つべきして待ったはずの、そして優柔不断を逆手にとった暗晦の夢見はその様相から裏切られることなく、乱雑に散らばった花びらのあざとさが沈痛な余韻を湛えているように、悲劇的な先送りを薫らせたまま変転の基盤を宙吊りにして、早鐘が足許まで及ばないうちに、帰途の自在を提灯の揺らぎに託しのか、おぼろげな回想へと橋渡しするのだった。
のべつ幕無しの高説は引き裂かれ、醜悪と呼んでさしつかえない満蔵の意向は、畳の上に置き忘れられた針の先がふとした光源の反照に自らの使命を覚え、功罪の彼方へ鋭利な輝きを放つよう、本来の役割りなど放擲すると、ほころびを縫い上げる地道な手つきは、寂静を長らく保っていた寡婦が淫靡な仕草へ崩れるよう、障子越しの影となり狐狸のあざむきを模していたので、見聞する側は扇情的に燃え盛る火花の明暗を知らしめられた要領で、まとった衣服を脱ぎ捨てそうになるのだったが、いみじくも血流と随意筋が織りなす良識は反転のぶざまさを諭し、とがめるので、その衝動は実際の脱衣には至らず、ストリップを断片的に想起する混迷へとうつろい、いつしか見世物小屋の猥雑さに巻き込まれていった。
けばけばしい色合いを吸った造花の束を受け取る。が、野に咲く草花の名も、花壇に並んだ馥郁とした品種の名もろくに知らず、ただ、めしべの周囲を舞う蝶のあわただしく、思わせぶりな様子に空気抵抗のない浮遊感を認めるだけであった。それが内熱のすべてだと公言したいが為に。
「もう夕方になってしまいました。君に語り尽くすことは難しい。あとはよく考えて返事して下さい。ほうら、つるべ落とし、気を急いているみたいですね」
街灯の稀な夜道の見通しを懸念した紋切り型の言い方には、口約を補強する落ち着きが備わっていた。
夜は毎日やってくる。無声映画を眺めるだけで、たとえそれがどんな場面であったとしても如実に伝わってくる。幸吉には満蔵の話しを反芻するだけの実直も意欲もなかった。一年を越えた月日は迷妄の足跡を捉える眼力に養っており、保身を忘れないようにしていた。
間弓の主張に共感するのはもろもろの事情ではなくて、満蔵も言っていた都合による型合わせなのだろうか。けれども端的な切り口から皮相の間取りを測れるほど今西家の空間は整っておらず、歪さを念押しするだけのことはあって、安易な解釈で突き進めそうもない。話し半分といういい加減さを声にしてみれば、なにやら二元論だけでは説明しづらい局面がぱっくりと口を開いている。日没を当たり前のように見遣って、満蔵は話しを切り上げた。
灰田正枝はとうとう何も喋らず、その真意は明確にならないまま、果たしてそれが恋慕なのか信条なのか、従軍じみた行動なのか、物好きな媚薬の残滓なのか、運悪く浴びる鴉の糞なのか、はたまた同調に魅入られた古風な優しさなのか、満蔵からは一応もっともな経緯を教えられたし、幾らかは冷静な考え方の出来るようになり、あやふやな謎めきと斜に構えられたのだったが、それはおとぎ話の領分にすっぽり守られていて、いつでも容易に足を踏み外すまねを可能としていたので、ぶざまな反転はちょうど水車のように力学を孕み、不確かな営為から脱却する言い分が音を立て稼働していた。
にもかかわらず、礼節を重んじるごとく女優に対峙した気分を捨てきれなかったのは他でもない。造花の人工的なかぐわしさに対し、幼稚で乳臭い親しみが発酵していたからであって、もどかしさだけで胸騒ぎをひき起す、あの近づきがたい、自分を必要以上におとしめてしまう矮小な卑下の謀逆が斥力に加わったせいであった。
決して触れることの出来ない生身の憧憬へ歩み寄るとき、自意識の萎縮だけではこと足らず、聖画像の威光によって明証されるように、虚偽は言葉にたよらずとも自明の輝きを内蔵している。銀幕から抜け出た女優の面影には揺籃で眠る官能が無垢な産声を上げており、それは遠い昔日の気高さに守護されていたから、奔放な手段は優れた関節技で封じられて、粗野な顔つきは柔和にならざるを得ない。
この短い過程の光景はまさに針の先へ数瞬またたく光芒を見つめることに類似して、放恣な面持ちへ流され、夜空を仰ぐ神妙な澄み渡った意識にひろがってゆく。
そこに虚偽と真実のせめぎあいを覗くより、儚い時間・・・共有という勝手が良さそうで浅薄な側面を持つ了見、かりそめに倣ったとして、直ちに時計の針へと収斂されてしまう時間のなかに見出されるものがあるはず・・・もし満蔵がニーチェの永遠回帰の指輪を唱えていたとすれば、女優の存在はこの上もなく崇高な次元をあらわにするだろう。そして魔術師の笑いにつられ、酔歌をこじらせ読み解くなら躊躇なく卑猥な相貌となって艶やかな肢体が提供されるだろう。
由紀子はその予行演習だったとでも解釈を迫るのか。だから間弓の反撥を含んだもの言いなどあっさり容認して、形式だけ踏襲するのだったら、あきらかに満蔵は偏った思想に酔っている。
幸吉は満蔵の独善的な陶酔に嫌悪を感じていたが、どうやら舞台上で燦然たる照明を浴びるのは自分なのかも知れないという希望を拭えなかった。細々した今西家の由来や軋轢などは、その栄光に賦与される為に語られたのであって、耳のまわりでうるさく飛んでいる蠅にしか聞こえなかった。
迷妄を見届けるという意味は、自らも迷いに迷って妄りに欲望をつらぬくことではないのか。
そしていつまで経っても由紀子の祭壇に佇めない、悲しみに暮れる優雅で慎重な、もっとも抜け目なく他者を認知する機会はやって来なかった。欲望と荘重な儀式は水面下でしか戯れられない。幸吉は不純な精神の狭間でしか由紀子への思慕を伝えられなかった。
肉欲という装置はまるで眼を閉じて漕ぐ自転車のような危うさを秘めていたが、疾走感は約束され、行き当たりばったりかも知れないけれど、目的地への到達も熱情と揺籃のはざまにあって、心身の平衡感覚に過大な刺激をもたらしてくれた。
由紀子の肉体しか知らない幸吉だったが、心に灯った明るみは深淵に対する畏怖を差し引いてあまるほど、視界のうねりに密接な尺度となったのだ。
昼間に入った映画館を出たときに錯誤する外の黄昏は愛しさを通り越して、狂恋の灼熱を背中に張りつける。満蔵の書斎も同様の暗幕であったから、何から何まで仕掛けが施されているようで憎々しかった。
たしかに帰り道は歩幅によって夜の深まりが数えられている気配を感じ、脈搏の静けさに響く虫の音と、影が次第に消える由縁を投げかけながら、見慣れた地図をひろげるような心許なさに軽く身を震わせた。
「ひょっとして君こそが私の隠し子だったら」
そうはっきりとは口にしなかったが、満蔵は今西家にまつわる些事を絡めつつ婉曲に常套手段を打ち出してきた。幸吉が露骨な失笑を浮かべたのでそれ以上は切り出さなかったけれど、昌昭の血筋に関する事情に転じたところで、満蔵の声はか細くなった。
急勾配を降りて橋のたもとを照らす街灯のどこかくすんだ光線へと眼を遣ったとき、乱脈な係累があきらかにした情景が思い出されると、橋の下を流れる川音の激しさをのみこんで、急に架空のストリップ嬢が踊りはじめ、それがまぎれもなく断片的な肢体の映像でしかないことを知るのだったが、街灯とはまったく異なる光の矢に浮き出た手先に乗った鱗粉がはたかれ、まるで粉おしろいの甘い匂いを嗅がされているみたいな微妙な恥辱を受けて、それが単に素通りの悪感情ではない不思議にとらわれた途端、豊満な胸元へかぶりついている昌昭の顔がよぎり、裸体の持ち主はストリップ嬢ではなく、幸吉の母であることが衣ずれの柔らかさで示された。
驚きを隠せない心中は高鳴る一方だったが、史実を糊塗する老獪な指先にも鱗粉はへばりついたのか、今度は満蔵が娘であるはずの女優を裸にして眺めている。股間の恥毛はこざっぱりとしてあかたも子猫のあたまのように丸く盛っていて、愛玩の小国にでも放り出されたひ弱さと、未熟な野趣を告げる反撃が同居していたので悪夢の鮮明さに射ぬかれてしまい、宵闇をかき分ける勢いで足を速めた。
しかし夜の幻影が恐ろしかったわけではない、反対に眠りをつかさどる漆黒の化生の生暖かい息に近寄りたくて、その花芯を人知れずかいま見たくて、家路に跳梁している魔性たちの顔なき顔に目配せしながら玄妙な境地に遊ぶ意気を表わしたのだった。
面貌の不確かな裸体は踊り続けている。橋を渡ると幸吉の足どりは闇にとけ込んだ。地の感覚はなくなり、身体の重みも縮減され、由紀子の家へと駆けたあの風雨の日と同じく、あっという間に自宅の玄関へたどり着いてしまった。目配せに首肯した魔性から借り受けた幽美な義足のせいだと幸吉は想った。
夕食の味が失われたのはその代価であろう。両親と祖母の面差しへ被ると予感された今西家の形相はおぼろな幻覚とならず、また強迫的な太ももの魅惑に苛まれることもなく夜は更けゆく。
「果報は寝て待て」
子供の頃から親しんでいる金太郎飴を手にした幽霊はそう枕元で囁いていた。


[497] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 7 名前:コレクター 投稿日:2019年10月29日 (火) 01時25分

襖を開ける、自室の、他の部屋の、それが親戚の家だったり、級友の住まいだったり、あるいはふとした掛かり合いによって、そよかぜで誘われるように靴を脱ぐ見知らぬ家屋ならば尚のこと、ときめきは容量の際限を思いっきり無視し、まるで囲い込みなど霞の手応えであるごとく、底なしの自由を得るだろう。
ただ底なしゆえに空無な感覚がぴたりと寄り添っていて、価値に換算することは能わないけれど、もとより児戯に算段は無用、浮ついた瞬刻にこそ栄光があってしかるべき、たとえ女性の下半身を堪能していたとしても、通過儀礼の大儀がまかり通る時代はもう過去の遺産、せいぜいスカートめくりの悪戯の延長が功を奏した程度だと謙遜していれば良い。
あれほど煩悶を呼びこんだ事態の核心へ直面した幸吉の胸中は、意外と切迫感に引っ張られることなく、ちょうど小学校の卒業式に感じとったあの醒めた空気のようで、鬱蒼と立ちはだかる思春の森を正視しない横着に仕切られていた。
まだ子供の気分でありたいと望む反面、おそらくこれからは厳格な規律を余儀なくされそうで、また発育する肢体をもてあますだろう自身と他人との、無防備にからまり合う期待と疎ましさが嫌でも伸びしろを欲していた。
この書斎における満蔵と女優へ向けた視線もそうした矛盾を擁している。
中学に上る以前から淡い恋情と絶え間ない憧憬を胸懐に秘めていた呉乃志乙梨をまんじりと見遣るより、修学旅行での偶然とは桁違いな場景であるにもかかわらず、すべての花咲く中核を成しているはずなのに、幸吉あたかも造花の色合いを確かめるほどの素振りに落ち着き、その眼は白髪痩躯の佇みへと迂回することなく留め置かれた。
よって、それでも視界へ収まっている呉乃志乙梨の笑みが落胆であるのか、なりわいの演技なのかの区別のつかないまま、いや、その方が神経も感情も乱されなく平常心を保てるとやわらかな判断がとっさに訪れ、幸吉は満蔵の容貌に対峙し、これまでの出来事をなぞろうとしている穏和な衝動に駆られた。
間弓は座敷牢などと不穏な言い方をしていたけれど、以前と変わらぬ書斎をそんなふうに呼称する心境が哀しくもあり、滑稽でもあったけど、あくまで書き割りを意識したのなら、それはやはり皮肉なのだろう。
すでにドアを開けて間もなくお互いの挨拶は済まされており、底なしの自由は謳歌を待ち受けていたのだが、幸吉の弛緩した表情を見抜いた女優はすぐさま造花のような身構えをとって、気の早まわしか、フィルムの逆まわしか、情趣を昔日へ投げ、血の気の引いた平淡な顔色をもって無声映画の光景に乗じたのである。
この部屋の前で機械仕掛けの想念をよぎらせた意味合いがなんらかの予兆であったとすれば、まさに女優に対する気組みが不粋な方向に振り払われたのであって、興醒めしたふうな面持ちには包み隠せないまごつきがあぶくのように浮き出ていたのだった。
「さあ、油を注して」
幸吉は神にでも祈る調子で心に念じた。
黙する姿勢で臨もうと構えたこの対面、造花と無声映画を背景に進むのだっだら居心地は悪くない。
「娘の正枝です」
満蔵は開口一番こう言った。
一瞥しつつ、馴れ馴れしい微笑を抑えた成果が実りをもたらしたのではなくて、借りて来た猫みたいに縮こまっている体勢を彼らは思い描いていたような気がしてならない。女優より満蔵に釘付けになっているのも決算された矛盾なのかも知れない。
不機嫌な面貌へ宿った戸惑いなんて他愛がなく、そつなく急転する局面を願って、じらした足もとに軽く舞ったほこりの静まるのを沈着に数えているのだ。
書斎には暗幕じみた厚てのカーテンが陽光をさえぎり、午後の光景は剥奪され、身動きすら可能なのやら心許なくなるくらい外界の時間は閉ざされていた。
教壇こそなかったがここは陽射しを拒む実験の行われる教室に思えて、それは満蔵が校長となる以前、教諭時代だったころに説いたであろう授業を偲ばせ、娘の正枝はそれとなく実習生の風情に映ったから、この場は過去の記憶が流路を探してゆき着いた異次元の終着駅の面影に染まっているようだった。
幸吉はひとりの生徒として郷愁の横溢した授業に聞き入ることにした。

「最良の未来の音楽とはどういうものだろうか。悦ばしき知識のなかでニーチェはこう語っています。
第一等の音楽家とは、もっとも深い幸福の悲哀だけを知っていて、そのほかの悲哀を何ひとつ知らないといった音楽家であろう。
また、良心のやましさについて。彼が目下やっていることのすべては、行儀のよい、きちんとしたことだ・・・それなのに彼はそのことに良心のやましさを覚えている。なぜといって、桁はずれであることにこそ、彼の使命があるのだから、とね。
君にはわかりますね。そう、わかっているから私の申し入れに耳をかしてくれたのです。この通り正枝は君のすぐ近くにいます。これ以上の現実はないでしょう。これは夢でもまやかしでもありません。れっきとした婚約が話し合われているのです。前回はいくらなんでも突然過ぎて、さぞかし当惑されたことでしょうね。あれから私は時間を共有したつもりでいました。猶予いう流れのなかで最良の選択を行なうために。
君にとってはあまりに様々な出来事が続いた。試練なんて言うつもりはありません。ひたすら時間に、ほら、あの壁の時計の針に、ついばみ切り刻まれただけなのです。私を憎みますか、毛嫌いしますか、馬鹿にしますか、そんな気持ちはこの際どうでもいいのです。他者に関する感情なんて常に都合で動いていますから。
時計の針を見つめる眼と一緒ですよ。約束ごとや大切な日にはさっさとえこひいきする、同じ時間だというのに。量より質とか唱えるのだったら、それは量子力学の勤勉と葛藤に任せておけばよろしい。私たちにとって大事なのは朝も昼も夜も同じ時間が流れているという実質的な体感なのです。
もちろん悠久の時空に対してそうした体感を当てはめようなどと考えていません。そりゃ、時空は歪むでしょうが、君の性根まで歪ませる必要はないのですよ。
ところで、間弓と私の確執はもう知ってますね。さっき予備学習されたと思いますが、駆け引きを持ち出されたのではありませんか。まず、そこから説明していきましょうか。
君は風見由紀子さんと関わりがあったそうですけど、そのきっかけを間弓がつくったのか果たして私にもよくわからないのです。更に死についても。君は脅えたのでしょう、あれが殺人事件だったらとんでもないことになると。
でも安心してください。かりに間弓が風見さんを引き入れていたとして、その経緯を警察に伝えたとしても君は参考人止まりです。私がすべて間弓の虚妄だと証言します。家庭争議にまで関与できませんからね。
第一、間弓もそこまで軽率ではないでしょう。君は試されたのですよ。味方が欲しかったわけです。私が正枝を呼び寄せたことで憤りを感じているのでしょうね。それは仕方のないことですが、もう決めていたのですし、遅かれ早かれ、おっと失礼、間弓も進学するのですけど、君もそうじゃありませんか。
私にとっても君にとっても均一な時間だが、ねじをゆるく巻くわけにはいかないのです。むしろ都合という神事に日頃の情念を託すのです。詭弁に聞こえますか、聞こえてもかまいません。形式上でもいい、とにかく正枝と約束をしてもらいたいのです。
これから詳しくお話ししますので、どうか、納得いただきたいのです」


[496] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 6 名前:コレクター 投稿日:2019年10月22日 (火) 20時11分

姿勢こそたじろぎはしなかったけれど、胸の奥と目頭のあたりに深く突き刺さるものがあって幸吉は動揺した。
鋭い痛覚でも凄烈な揺らぎでもない、むしろ金木犀の甘く香る切なさに包まれたときのように、現実味が離れてゆく背馳をもどかしく感じる戸惑いの痛みであった。
道端に佇み四方へ眼をやって香りの出処を確かめようとはせず、風に吹かれまま歩を進めてしまう味気なさを嘆く、あの微少な後悔だった。
微少だから尚のこと細やかな情感は集束して、先急ぐ無為は季節の折り返しとなって記憶をくすぐる。
が、この場合、記憶のめぐる優雅な時間は孕まず、昼夜に隔てられた距離感も遠方からの麗しい調べとはならず、逼迫した痙攣を惹き起し、幸吉の声は不粋に震えてしまった。
「間弓さんがですか」
鳥肌を走らせた皮膚感覚はなんとも愚陋な言葉にしかならない。案の定、疲弊と気抜けと悲憤が同時に相手の顔へ現れ、
「嫌なことを言うのね」
と、不快そうな声音を返してきた。
しかし微細な神経の反作用だと言い訳がましく気を揉んでいると、間弓は思いついたように表情を変え、
「そうでしょうね。わたしの言うことなんか信用してくれないわね。ごめんなさい、でも本当なの、本当にあなたが初めてだった。由紀子と並べられても仕方ないわ」
鼻にかかったどことなく艶冶な口ぶりで幸吉を見つめた。
自分の不手際が帳消しにされたと思い上がってしまったのも無理はない、それだけ張りつめた空気を吸っていたのだから。
気概は先細りを余儀なくされて、意気消沈しては開き直り、訊問めいた口調を用いたりしたあげく、困惑にとらわれ、内観を模した感情の整理など散らばってしまい、ふたたび気弱な立場を了解している。
「由紀子さんと並べているのではありません。比べているのです」
そうはっきりと口に出来ない焦燥の裏に淫らな思惑が隠れていることも知っていた。比べていると発言した途端あらたな色情を認めざるを得ないし、間弓に媚びを売る自画像を抱えこんでしまうだろう。
決して理性に従順ではなかったが、このまま前哨戦で敗退してこれから起こる奇特な場景に立ち合わないわけにはいかなかった。間弓が言い放った好奇心はまぎれもなく息づいており、緊迫の気配と拮抗しているのだ。
すべてを破壊すると恫喝されたところで揺れ動く意想ではなかった。
間弓の以外な告白に興趣がわき、不届きな思念が包括されたまでのこと、狼狽の様相は不自然な自然であり、自らを欺く擬態と演技に私淑して痛覚を授けたのである。
そんなふうにでも考えなければ、とてもこの場を切り抜けそうになかったので、間弓の台詞に色仕掛けを嗅ぎ取り罪悪感を輝かせることによって、虚構の哀歓は痙攣を受け入れたのだった。
すでに女色を、毒づいたふくよかさを、いや、毒々しいと感じるのは自分の攻撃的な視線のちからであって、それは予期せぬ事態を好んで引き入れる防衛本能でもあり、はっとさせられた太ももに見入ってしまったやましさの糊塗でしかなく、さらに穿つなら、由紀子と間弓の繋がりをあくまで攻略や奸知と見なし、まるで司令部と前線との関係のように安直に図式化して、由紀子はともかく間弓の女色は稀薄であるべく忘れられてしまい、もっとも蒼白の面持ちには犯しがたい凜とした雰囲気が羽織られていて、すまし気味な横顔からは品性がなぞられるし、眉間の曇りに宿る沈着でつつましい仄かさには、官能を匂わせない純粋な愁いがあって一種の美徳へと遍満している。
そうした容姿から肉感を得ることは困難というより、単に視力の基準のはき違えでしかなく、合わせて冷徹で確乎とした信念を持っているのだから余計に色欲は組み込めない。でも女性としての美しさは初見で認めており、言葉にもしていた。
が、振り返ればただの社交辞令、女優をめぐる今西家への訪問に舞い上がった気分が他愛もなく口にさせたのだろう、まだ女体を知らない身には精一杯の取っ掛かりだったのだ。弁明はいつも見苦しいし、建設的な効果に歯止めをかける。つたない思弁の遊泳は怯えとともにあった。
幸吉は呪詛を知っていた。この世で一番軽そうなかつて貴重だった灰の重さを知っていた。そして燃え盛る情念を知りつつあった。
その駆け出しが同等だと間弓は言っている。もちろん何もかもであるはずはない、しかし十代半ばの男子にとって性への関心は、世界をめぐるより宇宙へ飛び立つより、十全の思惑とひとひらの過激さを胚胎しており、ましてや夢をまたいだ現実の場面は死より生々しい手応えを約束している。たとえ砂上の城であっても時間をつかんでいる。狭隘な遊び場に不平をもらすほど精神は肥大していないから、矮小な世間を呪ったり出来なかった。
夢の往還に時間はどう答えるのか。幸吉はもろく危うい土壌から真心を伝えた。
「信じますよ。あなたがそう言うなら。僕はうれしいです」
「まあ、わたしもうれしいわ」
「なるだけあなたの意向に沿うつもりでいます。確かに正枝さんが命がけだと言い切れないし、それよりよっぽど間弓さんの方が」
「もっともですわ。わたしは魂を賭けてますもの」
語気はさほど強くはなかったが、幸吉の言葉尻をつかみ取るように肯定した。
それが間弓の真心だと解釈するのは容易だったけれど、魂は不随意筋を刺激しないのか、肉体を駆り立てないのか、という軽佻な疑問がもたげ、胸許を撫でるむず痒さの先に隠微な淀みが作られた。しかし、不明瞭な淀みへ落ちる影に肉体の余光は映らず、色欲の素描も浮かび上がらなかった。
夜目を頼りにしなければ淫奔な場景が描けないとは限らない、昼下がりの一室に立ち籠めた呼気と、伏し目がちな節度に背反する重苦しくも甘酸っぱい吸気は、異性がまとうであろう魅惑を優美に沈めている。まっさらな寝具は汚れを怖れたりしない。
幸吉はそんな卑猥な想念に舌打ちしながらも、詭弁を弄しているのかさえ定かではない乱れた敷布に折り目を正した。
「よくわかりました」
「では従ってくれるのですね」
「また接吻してもらえますか」
うっすら笑った間弓の顔は宙に浮いたように透けた。
「ええ、あなた次第よ。ではしっかり迷妄を見届けていらっしゃい」
「そうします」
黒髪を際立たせている蒼白な、けれども柔らかな面差しと堅固な気構えで包まれている間弓に事務的な返事をした幸吉は、杓子定規な謂いの陰に隠しきれない余情を忍ばせたその果断に酔った。
後ろ髪を引かれるような悩ましさを背中に感じながら客間を出た刹那、鮮烈な情念が沸き立つのを覚え、思わず股間を押さえそうになった。
密室から密室へ・・・この陶酔をともなった意識はやはり幸福感なのだろうか。
廊下を渡る足の裏にはひんやりとした心地よさがあり、昂まる胸の鼓動と共鳴している。素晴らしき三秒間・・・満蔵の書斎の扉を前にした幸吉は深呼吸することなく事務的な気宇を保っていたけれど、ふと自分がからくり人形に似たぎこちない動きに抵抗しているような錯覚に襲われ、すぐさまそれは機械仕掛けの悲哀へと飛翔したのだったが、壊れた機械に狂いの生じるごとく、幸福の時間を尻目に間延びした昏迷へと分け入ってしまった。
紙飛行機に精密機械が搭載されている夢想にうながされて。


[495] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 5 名前:コレクター 投稿日:2019年10月08日 (火) 04時00分

両手に支えられた盆の上の透ける泡立ちを見つめるまなざしには、邪念を打ち払いたい気持ちが自分でも思わぬくらいはじけ、するとのどの渇きになにかうれしさを感じてしまい、腰掛けた位置からの間弓の制服姿はまるで雨の車窓のように閉ざされた淡いにじみで揺れていた。
高まる期待と落ち着きの悪過ぎる疑心の交差するなか、失意だけ突出した胸のあり様ばかりを捉えていて、当然ながら由紀子を失った衝撃がひろがりまでに至らないもどかしさと、その雑駁な意想にからみつく女体のあっけらかんした魅惑に悩まされている実際が、いかに気まずさを増長させ、直情を打ち出そうと意気込んだ姿勢を萎凋させてしまったことか、しかし束の間の内省は幸吉をよるべない復讐劇へと駆り立てた。
夏雲の下が似合う三ツ矢サイダーの単純な泡立ちと、肉感の退いたような気軽さが緊迫の糸を緩めるとともに、疎ましい色香の錯乱が生じ、卑猥な心持ちから解放されたのだった。
復讐劇が錯乱しているとみなしてもかまわない。
仕掛け屋敷へ飛び込んだ生身には映画の主人公のまとっているような時宜にかなった展開は約束されず、籠絡の掟がふさわしかったからである。
が、すすんで籠絡を望む心境など容易に解明されそうにはなく、それより確かに今日は招待を受けたのであって、いつかこういう日が訪れることを願っていたことに間違いはなかった。
そこにふりだしの芽が覗いていたとしても、ことさら強迫的な思念を重ね合わす必要はなく、肉欲から遠ざけられた苦渋を間弓の太ももへ見出すのは、単純に埋め合わせでしかないような気がしてきた。
「すいません、由紀子さんを殺したなどと、つい興奮してしまって。策もそうです、問いただすような口調で・・・結局は僕は保身を謀っていたのです。もう、いらぬ詮索もやめておきます。なにか大事な話しがあったのですね。そうですよね。落ちついて聞くべきでした」
過ちとは思っていなかった。
ただこの場に置かれた幸吉の身は暴走するためではなくて、回廊の余韻へと耳を傾けることにあり、ひいては迷宮の一端に触れることにあるのだから、客人らしく用件を述べ秘密を嗅ぎ取るのも結構だけれど、ここはひとまず間弓があらたまって明言している今日という日取りを念頭に入れ、圧搾され続けた意識のあり方を横滑りさせ、悪感情は据え置きにし、薄々感じとれる間弓と満蔵の案件に準じて、上書きされるであろう蠱惑にささやかな復讐を成し遂げ、有意的な錯乱を引き起すのだ。
「よく言ってくれました。わたしだって内心かなり怖かったのです。一番に由紀子さんのことで責められると覚悟してましたが、さきほどの会話ですと水掛け論に終始してしまいます。ごめんなさい、こんな言い方してしまって、でも仕方ありません、なぜって時間があまりないからですの。
一年前のあの日、同じこの部屋でこうして燐谷さんと話し合っていたときとは情況がかなり違っています。先急ぐようで申しわけありませんけど、父がどうしてもあなたに会ってもらいたい人がいるって譲りません。
実は灰田正枝さんがこの家に来てるのです。あっ、驚かれましたか、無理もありませんわ、昌昭にそう言づてをするべきか思案しましたが、由紀子の件もあるし、あなたは相当滅入っていて女優との関わりなんていまさら・・・金輪際だと思っているのではないかと危ぶみました。
わたしにとっては、こう申しては何ですが、それにこしたことはありません。しかし遂にあの人を呼び寄せたからにはどうしてもあなたに引き合わせなければならないのでしょうね。わたしには寝耳に水でしたわ。だから父に烈しく抗議したのですが、こう切り返して来たのです。
おまえが風見の娘を使って燐谷君をたぶらかしているのは知っている。止めさせようと案じてたけどあなたのことを信じていたから放っておいた。さて、死で幕が閉じてしまったのなら、いよいよだな・・・
お分かりでしょう、父は冷酷な眼でことの成りゆきを眺めていたのです。そして機が熟したと決断したのですわ」
幸吉には反論すべき個所があった。
金輪際だという了簡をくみとり引導を渡すのをうかがっていたなら、尚のこと弟に伝言させるべきであり、烈しい抗議とやらも見え透いた謂いにしか聞こえなかった。
だが、幾重にも折り重なった古文書をひも解くような浮き世離れした今西家へ淀んだ空気は、疑心をもって開いた東西の窓を開けたとして、そう簡単に風通しがよくなるわけでもなし、明快な経緯へ繋がるとは思えない。
幸吉はこのあとに控えている満蔵と、あこがれの女優に対しても一切の反駁をひかえ、最終的な申し入れが告がれる場面に黙して臨在しようと思いめぐらしていた。
半ば冷めた情念はいかなる動きを露わにするのか、そした実りのない実りに演劇的な浄化がどう施されるのかを見届けようとしていた。
驚愕に震える実感は訃報と同じくやはり希薄だった。あの呉乃志乙梨と再び出会える奇跡も過剰な意識が織りなす産物であるなら、間弓も満蔵も等しく横並びの体裁をつくろうだろうし、そのまま奈落へと滑り落ちる宿命に飾られている。
それはとても晴れやかな日を謳い、あらかじめ決定されていた日時を称揚し、立ちくらみを隠すよう感傷はゆくえを見失って、あらたな迷いに薄目が開かれ、そして、とりとめもない連想は驚愕を尻目にあやふやな、けれども馥郁とした匂いが色欲の芽生えを教えていたような、あの金木犀の甘く煙っていた運動会の光景へと誘うのだった。
欲することが抑制された発汗に秋空の冴え渡りを覚えるまでもなく、熱気を囲った運動場に密集した思惑は、ちょうど金網の外に咲いた曼珠沙華のけばけばしさを代弁しているようで、どこかしらもの悲しさを感じさせ、勇んだ気持ちや張りつめた神経をなだめている。
競技の順番を待つ間に胸打つ焦りはいつしか遠い情景へと運ばるような錯覚に至る。すると普段あまり距離感のない女子が懐かしくも輝かしく見えてきて、胸の打ち方はより小刻みな、だが、鼓動を秘めておきたい妙な照れに列なる。
その列は時間の呪縛から逃れているように感じたが、夢の長さに似てつかみどころはなかった。
「やはり唐突でしたわね。わたしがもしあなただったら、どうでしょう、困惑してしまって何も言えなくなると思いますわ」
「いえ、そんな気遣いはいりません。大丈夫ですよ、だって間弓さんは前座みたいな立場じゃないですか。明確な経緯なんか、ここでほじくっても仕方ありません。それよりですね、あの日と考えが変わらないのはよく分かりましたので、そろそろ本題に入ってもらいたいのですが」
幸吉はあくまで道義的な考えを盾に話しをすすめている気品ある女性像に飽きていた。
「そうですわ、時間がないってわたしから言い出しておいて、ごめんなさい。あとはゆっくり女優とお話して下さいね」
「あの、あとがどうなるかなんて今は関係ないんじゃありませんか。失礼ですけど、あなたはあの日、僕にくちづけまでして加勢を願ったはずです。婚姻なんて中学生の僕には絵空事にしか映らないと高をくくったからでしょう。で、絵空事が空虚なら女体をあたえるべきだと・・・いえ、すいません、また蒸し返してしまいました」
間弓の顔色は去年とさほど変化なく蒼白だったが、幸吉の言葉を聞いた途端ぱっと朱を頬に染め上げた。
これでいい、幸吉の気分には平衡感覚のような意欲が戻ってきた。
口辺に品よく漂っている優美な陰とあだ花の結びつきは、その艶やかな長い黒髪と相まって、間弓の眼に冷たくも獣じみた無償の鋭さを光らせた。
「おっしゃるとおりですわ。わたしの意志はあのときのままです。そしてこの始末です。わたしとしてはどうしてもお願いしたいことがあります。どうか、従ってもらえないでしょうか」
「従うのですか」
「そうですわ。はっきり申します。灰田正枝との関わりを断ち切っていただきたいのです。もちろんこの家ともです。あなたは女優なんかと結婚しない、そんなことは夢の夢なんです。学校では弟と顔を合わせるでしょうけど、昌昭はああいう感じですから、あなたにとって差し障りはないはず、どうか、進学を目指して学業に専念してください。なにもかも忘れてください」
「出来ればそうしたいと考えていたところです。去年は馬鹿みたいに浮かれてしまいました。誰のせいでもありませんよ、僕はただ浮かれたかったのです。そして父上の申し出に舞い上がってしましました。だけど」
「だけど・・・」
頬を染めた容貌に危惧が張りついている。眉間に寄せた恐懼が痛々しい。
「もし、正枝さんが命がけであったなら」
「そんなことあるものですか。誰が命がけなんです。父のあの女も頭がおかしいだけで、なにもかもぶざまなつくりごとなのよ。いいわ、はっきり答えてくれないのであれば、わたしにも手段があります」
幸吉は平均台に乗ったときのようなつたなさを感じ、今度は無人の運動場を思い起こした。
「どう答えればいいのでしょうか」
「燐谷さん、とぼけているの。わたしに従ってくれればいいのよ。いえ、とぼけてなんかいないわね、あなたは好奇心を捨てきれないだけ、そうなんですね。だとしたら、わたしはすべてを破壊します」
「それは、いったい」
「いいですか、あなたは由紀子と肉体関係にあった。そして彼女が死んだ日に逢いに行った。この事実を警察に報せます。当然ながら、わたしと由紀子のかかわりもこの家の確執もなにもかも洗いざらいにするつもりよ」
「どうしてあの雨のなかのことを」
「父だって知ってるわ。さきほどお話したでしょう。成りゆきを眺めていたって」
運動場がぐらついた。いや、平均台の気まぐれか。動揺は隠すほどではなかった。幸吉は間弓の本能にある種の感銘を受けていた。が、次の台詞には鳥肌が泡のごとく細やかに生じるのを禁じ得なかった。
「わたし初めてだったのです。接吻したの」


[494] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 4 名前:コレクター 投稿日:2019年10月01日 (火) 02時52分

狡猾な思惑がこの家の空気に充満しているという臆見はことさら不覊にゆだねるまでもない。
初見の間弓にまぶしさを感じたのは確かであり、そのまぶしさを糊塗するため今西にうりふたつだと、自他ともに認めてしまった早計がそもそもの誤りであった。
どれだけ今西家の内情へ分け入ろうとも、ここはさながら堅牢なからくり屋敷、造りも複雑なら仕掛けも自在、かりそめの訪問に探査されるほど安直な普請ではなかった。
こころなしたくしあげられたふうに見える間弓のスカートもまた家具調度を照射する午後の光のなかにあって、その不自然さをほこり立つ秋の閑寂へ溶けこませているのだから、一枚の絵画を鑑賞しているような趣きになびくそぶりで淫猥な含みは抑制されてしまい、夏の日のぎらつく獣欲に追従することもなく、
併せてこれまでの経緯が、恋と肉体、倨傲と裏切り、そして死が、終わりなき終わりを無常に告げていた。
不信感を募らせたり疑惑に招かれ気安く訪れることのなかった家である。いや、訪ねようと思えばいつでも可能であったはずなのに、女体に溺れたままの姿態をただ単に汚れとして、あるいは無邪気な傾注として保ち続けたかった意志が勝っていたのだ。
「しがみつくことで時間を流し、忘却の彼方にさまよいだすって」
由紀子が話したというこの言葉を顧みるだけで幸吉の鼻息は頓挫し、あとに残された空砲のごとき股間の怒張など、却って手玉にとってくれと願っているような案配だったので、ふりだしへと舞い戻った感は否めず、輪をかけてよこしまな性情がはみ出る始末、もはや呆然とした目つきをかろうじて保ち、いつから間弓の下半身に見入っのか照れ臭そうに歪んだ笑みをつくるより術はなかった。
こうなると由紀子を殺しただの、恋慕の擬態を弁明するだの、血縁の是非を問うだの、満蔵の瘋癲具合を推し量る権利だのが、砂上の楼閣でしか成り立っていない空論に帰着するのは歴然、放課後を待って躍り出た気勢が一気にそがれてしまった。
ここまでたどる道すがら想いめぐらせ、決着を求めた意想の裡に、玉砕めいた空騒ぎに浮かれる自虐の片鱗があったようにも感じ、意欲は増々もって低下するばかりで、嫌らしく媚びた表情に堕するしかなかった。
間弓はいち早く消沈した顔色を読みとったのか、
「今日はわたしどもの方でお越しを願ったのです。まず、そこをよく考えてみて下さい」
取り澄ましたなかにも清らかな哀憫を匂わせる声遣いで幸吉の下げた目線に訴えかけてきた。
本意を耳にしたのか。厳しく柔らかな言葉は開幕の華やぎを知らせる優美さを持った序曲のように聞こえる。
だが前哨戦と序曲の違いを述べたりは出来ないし、既視感に苛まれているのかどうか、今の情況を疎んじているかどうか、好奇心を手招いているのかどうか、判別には及びがたい。
そこで甘美な記憶だけを頼りにして、この部屋で初体験した接吻を想起させてみたものの、険しい塁壁に咲いた一輪のかぐわしさへ触れるごとく、地に足は着いておらず、想いはさまよい漂うばかりで花弁の色沢に近づけない、太ももの眩惑もしかり、強迫的な意想は全身を透過してしまったのか、しおれた草花の緑がかすれて遠のく。
幸吉はうなだれながらこう言った。
「ちょっと待ってください。すごく頭が混乱しています。同じことがくり返しているふうに思えていたんですが、どうやらそうではなさそうですね」
「そうですわ。あのときはわたし風邪気味で家に居ましたの、今日は学校帰りですもの」
すでに疑念は後退しており、一種の催眠効果を受け入れた心持ちに包まれていたので、
「もし僕があなたより先だったらどうなりました」
と、素朴な、しかし核心を突く質問をささやくようにしてみた。
「早引けしてきたのですわ」
幸吉は特に驚く様子もなく、差し出されていたコップを口に運び、やはり三ツ矢サイダーだったと妙に感心して飲み干した。
「おかわり持ってきましょうか」
「はい」
間弓がちょうどいい案配で部屋を出たのを期に、幸吉は一気にここに至るまでの時間を振り返った。かすれた残像に未来を託す胸騒ぎの断片とともに。

放課後まで平穏な空気に校内が充ちていた実感は得たけれど、不穏な物音にいつ人生が歪みだすのか、ついぞ謙虚に考えもしなかった些事は塵と同じで、積もる理念も風化にさらされるよう、まだ見ぬ将来に夢魔が棲みつくのを承諾している小さな刺に脅かされるが、その痛みを他所にして傷口だけ見つめるまなざしは拡大され、静謐な空間は脳内を模写できないまま、運よく異変から逃れられた。
由紀子の死はすぐに伝播したが、幸吉との関係をとやかく言う者はおらず胸をなでおろした。しかし胸のなかには濃密で奔放であった情交に対する畏敬が巣食っているようで、それは極めて個人的な皮膚感覚の領域に守られていて、どれだけ観念が肥大しようとも、境界線は越えられることなく、外部と言い習わされる射程に及ぶことはないのか、畏れと悦楽が不可分に入り乱れる放恣は厳密に見届けられそうにもない。
そのぶん末端神経から刺激を感じとってしまうのは仕方の連鎖で、が、痛覚を通り越してめぐる地平は血漿の恩恵を知らないまま深度を計ろうと努めるのだった。
間弓が早引けしてきた理由は十全に呑み込めた。幸吉もそれを願ったほど今西家が愛おしかった。
由紀子の追悼に暮れることはたやすくて、なぜかと言えば死者は逃げたりしないからで、つまりそれだけ今西家をつかみ取れない動揺は消し去れず、一蓮托生の念いが蠢いている証しであり、自分ひとりで抑止する清廉な心構えは築けそうになく、不安の募るほどに負の感情が、憎悪は執着に、軽蔑は信頼に、恐怖は愉悦に転化するのであって、すると情愛は暗き夜空へ上る月に似た安寧となり、緩やかに移り変わる心の動きを求め、次いで確証を得るための紐帯にしがみつく。
名称はどうでもいい、欲望の根源に少しでも触れたなら最後までその幻影を見つめなければ、脳内は崩壊する。相互の瞳に映る花の色を確かめ合うのだ。戦々恐々としてうずくまる哀れな人影に時間は卒然と寄り添う。
頃合いが最適なら空間は決定されるだろう、ゆるぎない野望の散ったさきには運命共同体の残滓が種火を待っているのだから。
間弓は幸吉を求めていた。おそらく満蔵もだ。だから見殺しにはしないのだろう。思考の上出来なところはこうしたそつのない道筋へ光源を惜しまない様態にあったけれど、残念ながら更なる勘ぐりを働かせてしまうあだがあった。
幸吉は由紀子が今西家によって殺されたものと見なしてしまった。
そう見なさなければ喪失感が成立しないと考えたからで、短絡的な方便を援用していることに錯誤はなく、すべては偶像を共有した事実へ収斂されるべきであり、肉感を葬るのではない、逆に肉感は取り戻さなくてならないと意識した結果であった。
仮に今西からの伝言がなかったなら・・・おそらく喪失感は風説におののきつつ沈黙へと歩むだけだった気がする。
ここで幸吉の進退と向後はみじめなくらい人まかせだった脆弱が明確になった。ろくでなしの烙印はまず自身へ押されるべきであったが、女色で骨抜きになった幸吉の眼には惚けた不良の吹きだまりにしか映らず、知性は陰部の底へもぐりこんでしまっていた。
満蔵が入院などしておらず、座敷牢に囲われていると聞かされても、今西が実子でなかったと告白されても、由紀子はあくまで事故死だったと言い張られても、胸にひろがる衝撃は浅く薄れていた。
唯一、幸吉の支えとなっていたのは沈黙に心身を預けようする抽象画じみた曖昧な、感性をも拒むような、変に意固地な生命の軋みであった。
未だ由紀子の不慮を受け止めていないせいなのか、涙があふれ出すことはなく、強烈な悲しみに痙攣的に襲われたりもしない。
満蔵の意向なんかどうでもよく、むしろ引き合わせてもらった間弓への感謝の気分がすこし残っていた。
今西家の軒下に佇んだとき、幸吉の記憶は華やかさとない交ぜになった薄闇の空間へ結ばれ、官能を伴わない由紀子の裸体の白い影が無造作に浮かんできた。
あの夕陽をはね返すような赤みや火照りが冷めたあとの、熱い交わりを済ました夜にひっそり味わう孤独、裸身の不在を蕭条と噛みしめるために供されたほの暗さ、それはありきたりの豆電球がカーテン越しに招き入れた月影のおぼろな浸潤であり、幽かな戦慄であった。
眠りが明日を迎えるまえ、薄闇はまぶたの裏へ入れ知恵をする。
回廊には余韻がすでにたなびいている。ふたたび惹起されるもの、幸吉は昂奮していた。


[493] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 3 名前:コレクター 投稿日:2019年09月23日 (月) 06時37分

軽躁なもの思いでありながら、また優美なうたた寝に添ったままでありながら、幸吉は煮え切らない態度を温存しつつ、仮借なき訊問を弄する側に転じようと試みていた。
怯懦を引きずった思弁があやふやな声音しか発せられないのは自明であり、蒙昧な切り口に鮮度が感じられないのであれば、もっとも本質的に蒙昧加減は油断を賞揚しているので、まがまがしい鮮度に色彩を託すしかなかったのだが、これまでのように悠長な書き割りに甘んじているわけにもいかず、それは由紀子の死を見据える直情へひとえに結ばれるからであって、抑えてきた哀哭の色濃く吐き出されるときが満ちたとも言えた。
形代の常に権高なのは仕方ないとして、素封家の打擲に堪え忍ぶほど時代が儀式を求めているとは考えたくなかったので、まず架空の存在をまっさきにあぶり出すべきであった。幸吉の鼻息は荒く、股間もいきり立っていた。
「それで間弓さん、なにか策はあるのでしょうか。もちろんこれからのです。由紀子さんは僕を呼び出したあと、あかたも道中めぐりのように関係を世間へ知らしめたのでした。当然ながら僕は萎縮してしまってなすがままでしたから、どんな陥穽が仕掛けられているのか計ることは出来ませんでした。それは無理もないですよね、だってすべてがざわついていて、色めいた遊戯の底深さに足をとられっぱなしで、けど、人生を狂わすほどの魅惑はあっても、到底まじめくさった考えは要求されないだろうという安全牌が多少は稼働していたのですから。もっともまじめな顔つきは規則みたいな符号なので、仮面の役割りを果たしてもらわないといけません。
そうですよ、あなたがたの攻略にどんな進展があったのか知りませんけど、いまさら今西君とは血のつながりがない、弟でもなく姉でもないなんて聞かされて、双子と見紛う容貌に驚いた僕も僕ですが、似てる似てないであのとき交わした会話にそういう布石が敷かれていたなんて信じろってほうが難しいでしょう、だって由紀子さんとあなたのつながり自体がかなり不自然でしたし、女優の志乙梨さんにしたところで、それだとなにもかも作り話にしか思えなくなってきます。
他人の家の事情なんて所詮は絵空事だと言い含めてしまえば簡単で、しかも手っ取り早く、いくらでも信用できますから、しかしそれを見越して二転三転させるのは聡明な考えとは言えませんよ。その場しのぎも甚だしく感じるだけです、現在の僕には。
でもあくまで実情はその通りであり、なるほど今西君が冷めた顔色だったのも、父上の満蔵氏が入院してたなんて嘘を平気でつけるのもそうしたことでしたら、辻褄は合います。父上とは無縁な以上、なにもかも迷惑でしかないでしょうし、一番呆れ返っていると思えるからです。
僕も同じですね、そもそもまじめくさって耳を傾けるような婚姻話しではありませんでした。話し半分、だけど胸は高鳴ってしまいました。それがいけなかったのです」
「よくわかっているじゃありませんか。遊戯なんですね。そう言い切れるのですね。だとしたら燐谷さん、あなたにも罪はあります。わたしの意見をないがしろにしたという罪です。血縁を隠してしまったのは失礼だったかも知れませんが、戸籍上は弟なんです。わたしは昌昭の姉なんです。
かと言って、あの女優との問題は別にあるのは理解いただけますか。勝手な言い分ですけど、わたしは父の横暴が許せませんでした。いくら老境に至り不憫な感情を持ったとしても、あまりに小馬鹿にしてます。
おまけにあなたをだしにするなんて。そういうやり口が気にいらないかったのです」
「で、由紀子さんを僕にあてがったというわけですか。いや、そのまえの下級生からの恋文だって仕組まれていたとしか思えませんね」
「誰ですか、その下級生って」
「いえ、本当ならそれでいいんです。僕の邪推にしておいたほうが無難ですから」
「えらく奥歯にもののはさまった言い方をなさるのね」
「そういうふうに聞こえたのならすいません。けど、もうあまり込み入ったことは抜きにして遊戯を終わらせたいのです。ふりだしへ戻るのもごめんです」
「やはりそう言い切るのですね。残念ですけど、あなたにはあなたの道がありますものね。でしたら、このまま黙って胸にしまっておいてください」
「ええ、しかしそのまえにどうして由紀子さんを殺してしまったのか、教えてもらいたいです。あと父上にひとめだけでもお会いしないわけには」
「まだ、そんなこと・・・由紀子は事故だったんです。誤って橋から転落したんです」
「さっきもうかがいしましたが、僕にはそうは思えません。なにか秘密があったのでしょう」
「あなたのほうこそ、込み入ったことをでっちあげたいようですわ」
「でしょうか」
「はっきり言いますけど、由紀子を巻き込んだのは認めますが、お話した通り別に肉体関係を結ばせたり、籠絡しろとかけしかけた覚えはありません。ただ・・・」
「ただ」
「この間、あなたが家にいらしたとき聞き及んだ恥を・・・そっくりそのまま、父の見苦しさを・・・由紀子に訴えました。するとこう言ったのです」
「聞きましたよ、それは。で、義兄弟めいた祝杯を交わしたというわけですね。任侠映画でもあるまいし、そうして由紀子さんが文字通りひとはだ脱いと。おかげで僕はすっかりとりこになってしまい、骨抜き寸前でしたよ。でも隠し子がもうひとりというのはあまりに見え透いて、しらけてしまいました」
「あら、どうなんでしょう、あなたにしてみれば、増々その胸が鳴り響いたんじゃありませんの。秘密を愛でておいてしらけたから節度をなんて、ずいぶん都合がよろしいこと」
「都合だなんて」
「都合だわ、由紀子は言ってましたわ、あなたは自分を簡単に偽れるって。夢中になれることがあれば、それだけに耽溺してしまう、だから女優のことなんかすっかり忘れてしまって、当分はわたしにしがみつているだろう、しがみつくことで時間を流し、忘却の彼方にさまよいだすって。
これが都合じゃなければ何と呼ぶのかしら。誰でもよかったんでしょう、あこがれの降臨を間近にしたなら」
幸吉は絶句した。
が、反撃を試みようとも前回と同じ形式が待ちかまえており、この前哨戦を乗り越えない限り、満蔵の妄念を打ち破ることは出来ない。すると何にもまして幸吉をときめかせた媚態が具現し、返す言葉はあの魅惑の太ももに、片足へ宿った官能の幻視を明瞭な写し絵に転じた。志乙梨の母の裸身は片足だけで十分こと足りており、時代をさかのぼるまなざしには歴史的な記述の的確さが反映していた。
そしてあの時点で無軌道な色欲が体よく刷り込まれたのを知り愕然とした。
満蔵の偏愛した太ももを由紀子へ見出す流れはすでに仕上がっていたのだ。
しかし、そうだ、ここに反論の余地があるではないか、そんな由紀子をそそのかしたにしろ、あてがったにしろ、とにかく橋渡ししたのは紛れもない事実だから、まさに都合であるのだから。
幸吉は体勢を整えた。と同時に言いようのない欲望が全身を支えているのを覚え、その証拠を自らの股間に感じたとき、視線の推移が少しも自動ではなくて、反対に制御をともなっていたことに気づかざるを得なかった。
高校の制服姿だった間弓の両脚は、掛け慣れた椅子にあるふうに見えず、椅子へ君臨しているかの蛇のように毒々しく、にもかかわらずはっとするほどなまめかしい肉感を孕んでおり、何度も話頭へ上った双子にまつわる見えも、やはり刷り込みであり、不届きな意匠であり、きっちり敷かれていたのを理解した。
「・・・どうしたの、そんな眼をして。わたしを抱きたいのならそうすれば。あなたの負けね・・・」
そう言いた気な間弓の微笑に幸吉は更なる言葉を強迫的につけ加えてしまった。
「これでふりだしに戻ったようですわ」


[492] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅 2 名前:コレクター 投稿日:2019年09月17日 (火) 04時31分

案件というひび割れを愛でる優雅な心象は秋の空へ、鰯雲の映ずる波瀾へ導かれていった。
張りつけたちぎり絵の台紙は青みを失ってはおらず、散らばりそうな予感を集めなおせば、質朴な意想へと働きかけたが、湿度の引いた風に動きはあまり感じられなかった。
審判を受けた受刑者に自由はなくとも、鉄格子に覗く空へ寥廓たる時間を知り、身をこわばらせることに似て。
不義理な言語障害を手招く横着は幸吉の開き直りであり、悲歎との共存であった。
由紀子の急逝を悼むと同時に転落が待ちかまえている情況はたやすく把握されないし、すすんで把握しようという気概も持ち合わせていなかった。そこで思考停止へと逃げ、希薄な時間だけ肌に触れさせた。
自宅にいつ刑事が聞き込みに来るのか、登校すればすぐさま教師に詰問を受けるのか、それを半ばよそ事みたいに思い浮かべているのが自分でも不思議である。この間の過ぎゆきは夢のさなかのようあり、水彩で描かれた迷走する色合いにほだされていた。
そして二日後、もっとも消しがたい符牒であるにもかかわらず、欠席の理由を深追いしなかった今西と校門で出会った。
幸吉が見せるであろう鬱憤と切望の面持ちを読んでかすかさず、
「退院が長引いてしまってね、連絡しなくてすまなかったよ。しかし大変なことがあったんだね」
と、簡便きまわる言葉を投げかけてきた。
すぐに返事は出来なかった。今西の顔をまじまじ眺めるのが精一杯で、それというのも由紀子の死は事故だったと判断されてしまったのか、今日まで何の詮索も呼び出しもないまま疑惑が遠のいてゆく感覚をつかみつつあったので、雲隠れしたかの体裁であった影のあまりに明快な表情に面食らってしまったのだった。
まごついている幸吉の胸の内へ畳み掛けるふうに今西は言った。
「早速だが放課後、家に来てもらいたんだけど。父がそう伝えてくれって。それと姉も君に会いたいそうなんだ。どう来れそうかい」
ほとんど天啓に近いその伝言を耳にして驚喜しないわけにはいかなかったが、由紀子との関係は周知の事実であり、誰かしら噂を流していてもおかしくはない、それなのに何事もなかったごとく幸吉のまわりは平穏な空気に包まれていて、偏見の眼は片隅にも光ってはおらず、悲運を嘆く気配さえどこかに澱んだままなのだろうか、まるで過去の新聞記事のように、ほんの数日前の出来事だというのに、なおざりにされた空気をどう呑み込めばいいのかわからなく、反射的に過敏な神経を逆立たせてしまうのだった。
下駄箱の裏に静子の級友が数人ひそんでいて内緒話しをしていたり、雨合羽を脱ぎ捨てたばかりの瀧川の幻影を背後に感じ、先輩風を吹かしながら声をかけてくる予兆に脅えた。
しかし、闊達なもの言いで意向を問う今西を前にして、単なる反射は確定された流路を照らし得ず、逆に無音であることの空疎な鳴りに浸潤する虚しさを集めるだけであった。
見上げれば夏の渇きとは違った空模様がひろがっている。
須臾の間、相手から眼をそらした仕草を幸吉は慰めとも戸惑いともつかない、放恣な感情で動かされているような気がし、それが例のわずか三秒間の幸福の訪れである実感を抱くとともに、我ながら情けないくらい歪んだ微笑をつくってしまった。見抜かれまいと思いながら、上げた面をつたう涙を溜めるようこらえた顔つきに被虐的な意志を塗り込め、あたかも由紀子の死を等価に引き受けたかの甘い苦渋へと転化させた。
この得体の知れない情趣こそ、幸吉が密かに待ち望んでいたことは言うまでもない。朝の上空から降り注ぐ透明な秋の陽射しよりも、唐突に世界を切り裂く逆光の鶏鳴が脳髄を輝かせたのである。
「ああ、行かせてもらうよ」
ややうわずった調子になったので幸福は三秒を越えて出た。続けて、
「君はやっぱり生徒会があるんだろう」
と、訊いてみた。
「よく、知ってるね。昨日まで休んでしまったから出ないといけないんだ。悪いけど君ひとりで行ってくれないか」
「大丈夫さ」
「それと」
今西が言いためらったので、
「たぶん君が学校から帰るまでには僕は失礼するよ」
「なぜ、急ぐんだい」
幸吉はようやく泰然とした口調で答えられた
「それが手順というものだろう。僕の足は今西家に向かっているんだ。君がいようといまいともう向かってるんだよ」
「まあ、よくわからないが好きにしたまえ」
「ありがとう」
感謝の意と生命の躍動がのどの奥から素直にこぼれた。
授業中、幸吉の視線は黒板の枠内にあって明らかに外側へそれていた。
重要参考人という下げ札は値踏みなしに的確であって、まったくの圏外へ身を置いたわけでなく、取り調べが先送りされている可能性は打ち消せないままに、けれども自堕落を選んだ限り汚名はつきまとい、続く果ての終着駅に悪鬼が仮住まいしていて当然であった。それでもうたた寝が悪鬼を霞ませてしまうように、張りつめた糸は撓みを求める。
安堵と放心にうながされ視力が弛められる以上の、厳格無比とは正反対のうずまきが今現在を取り仕切り、その渦中はさながら銀幕を模して、ある特定の光景を映しだしていた。

昨晩、さほど空腹でもなかったが即席ラーメンを夜食にした。
春先のまだ桜の薄桃色が町並みに淡さを強調しながら咲き誇っていた頃、自宅とは少し離れたとある商店で三ツ矢サイダーでも買って飲もうとしたところ、近所の店内ではあまり見かけない包装の即席麺がふと眼にとまり、それが機関車の古めかしくも無邪気な絵であって、駅前ラーメンという名だったことから、遠足やおもちゃにそそられ、あてどなく無い物ねだりをしてしまう刹那的な感傷に乗せられた連想へたどったときには、これは子供向けの新商品なのかという軽い疑念が動いたのだったけれど、さらにエースコックの文字と豚がコック服を着た標章を認めるにおよんで、以前知り合いの家で食べさせてもらったことのあるワンタンメンがただちに思い出され、きまり悪く濁ったような汁と麺に同調するかのごとき面目を忘れ、なおかつ薄膜の具材がワンタンらしきものであるという明白な事実をつきつけられた、衝撃とも気抜けとも分別のつかない面貌に見入る間もあたえず鼻をついた独特の匂いこそ、例えばニッキやハッカという幾分ませた香辛料を類推させこそすれ、湯気にふくまれた期待を決して裏切らない香りそのものの味わいで充たされており、可愛らしい豚の印にそそのかされた、まさに後味の悪さが尾を引いて半泣きになった勝手知らずの他人の台所の午後がたなびき、同じわだちは踏んではならぬとのいましめもあったのだが、幼い頃より駄菓子やらくじ引きやらで散々の目にあっていながら、性懲りもなく何度でも射幸心は突き動いてやまず、ついつい鮮やかなみてくればかりに食指はのびていたのだし、せっかく駅前ラーメンなどと、これまた記憶の向こうにそよいでいる実際行ったことのある駅前食堂での青い磨りガラスに盛られた冷やし中華が涼しげに浮かんできたり、あるいは祖母に連れられ初めて見知った新装開店の中華飯店における炒飯を食べる少女などの幻影がよぎるのだから、ここはひとつのどの渇きをこらえて手にしたのだった。
あれからすっかり色恋ばかり夢中になってしまい、といってもことさら食欲が減退したわけではなく、日頃から、いや物心ついたときから独り火を使うようなまねごとは線香花火くらいのもので、台所に立って調理まがいの経験もなく、たいがいは長栄軒の菓子パン、バナナサンドやイチゴサンドやクリームサンドなどで空腹をおさめており、小遣いの乏しい日には一番安いせんべいかあられをひとつかみほど売ってもらっていた。
食卓へ上る料理以外のものにありがたみを感じていたのは幸吉ばかりではなかろう。小銭を握りしめ商店に駆け込む際の子供の晴れやかな顔にはあどけない欲望が瞬いている。
三ツ矢サイダーを我慢して駅前ラーメンに固執した理由などたかがしれているのではないか。またエースコックのワンタンメンに絶望を味わった想い出も刻々とうつろって、臭気は品格を問われるまえに味覚を左右する色調に直訴して、盲目的な美醜の捉え方とか、湯気に乗り移ったかぐわしの淫猥とか、月並みの快感とか、よこしまな道理とかに拡散してゆくなら、やがて魅惑の膏薬に痺れる舌になり、微妙な生き甲斐を感じるときがやってくるに違いない。
それにしても昨日までよく封を切らずしまっておいたものだと、幸吉は首を傾げたのだが、直ぐさま実情の雲行きと想像の応酬に何かが侵されていくような気がして、まがまがしい回顧録を塗り替える調子へと戻った。
柱時計が昨日と今日を報せる実務に忠実であったとき、もうすでに昨日ではない記憶は明日を夢見ようとしている。しかし幸吉は今日である昨日を授業の最中に記すべきだとぼんやり思った。
駅前ラーメンは深夜を待っていた。宵待草が名前の由来を語らないように、月見草が意中のひとに手折られるのを恥じるように。
台所のちいさな電球の明かりを受けた機関車の絵柄は白地に赤い輪郭に体よくおさまっている。
あいかわらず豚のコック姿はなごやかに調理を奨励していて心強くもあり、駅舎の時計が九時をさしているのもひかえめで優しく、裏切りなど生じないからと励ましてくれている心持ちがし、袋を厳かな手つきで破れば、安心したまえワンタンなど交じっていないから、という鳴き声が虚ろに聞こえてくるようで仕方なく、もっとも障子紙に糊を塗り付けたふうな代物にはさほど失意は感じておらず、むしろ小柄で勉強が出来なくておっとりした雰囲気を持った転校生と一緒で、引けめを覚えるまえに親しみが居並んでしまいそうなったので、粉末の方の袋を確かめてみてもサッポロ一番に似た色がうかがえ、なおさら親近感は募るのだったけれど、心のどこかでは鮮烈な背信を望んでいるのか、チキンラーメンだのトノサマラーメンだのといった顔ぶれへの退行に陥るのが妙にくすぐったく煙たいような違和をつくり出して、せっかく居並んだ転校生の微笑ましさが損なわれてしまう気分になりそうだったが、どうやらそれは三ツ矢サイダーの諦めによる偽装的な口渇で、なるほど思い切ったつもりだったけど、ここまで来て水分と塩分の調整を学習するとは考えてもいなかったから、小鍋に沸き立つ湯の下に青く燃える火の加減は電球の柔らかな照りと相まって、いっそう台所の隅々に闇を引き寄せ、乾麺と粉末スープの所在はあやふやになり、沸騰しきった湯の泡立ちが放出を催促してるみたいで苦々しく、おそらくそれは駅前旅館という映画に出て来る客引きの滑稽なやりとりや台詞まわしが想起されたせいだろう、そのにぎやかさを実際に知らないくせに変に水増しした光景が焼き付けられる不如意をなじっているのか、すでに写し撮られた映像のひろがりに絶大なあこがれを感じるとともに、出来上がった場面に即す矮小な汚点へ気をとられながら、ゆで具合もそこそこに煮えた駅前ラーメンを食すのだった。


[491] 題名:L博士最後の事件簿〜第三章・2030年宇宙の旅1 名前:コレクター 投稿日:2019年09月10日 (火) 01時27分

「残念なことに、わたしはわたし自身の判断力にいつまでも固執することはできない。おそらく催眠状態におち入った夢の意識は、決定をくだすこともできず、その支配と不在の交替のパノラマを見下すべく、おのれを高めることを決意することもないのだ。しかしこの交替は、意識がなくとも、夢の陰謀のただ一つの展開の力によって意識の内部に起こりうる」〜 ロジェ・カイヨワ(夢の現象学)


まったく何を見越していたというのだ。
由紀子のあるまじき死が不動となるにつれ、瀬戸際の遊戯に興じていた性根はものの見事に塗り替えられてしまった。それは当然だろう、人ひとりがなんの前触れもなくこの世から消えてしまったのだから。しかも肌のぬくもりを、いや焼けつくような熱をこの身に残して。
由紀子の死は幸吉にとってこれまで味わったことのない空漠を感じさせた。だが、そこにはこみ上げてくる悲愁も、聞き慣れた哀歌も、無防備な当惑も、砂漠を想わせる風景もなかった。
先日まで触れ合っていた生々しい記憶だけが空洞にへばりついていたのである。突然の訃報を知ったことで、情況確認に奔走する気晴らしが有意義に立ち働いているとも思われなかった。かといって冷徹なまなざしをもって死を厳粛に受け止めようと努めたりせず、半ば瀕死の脳裡へ去来する走馬灯のように性急な場面と経緯を呼びこんでは、重ねて飛び交う風聞に耳を貸して、あれこれ短絡的な憶測へと先走った。
隣の組の男子生徒が叔母から細やかに聞かされた当日のあらましは、まだ尾ひれがついてないと思われる鮮度で校内に伝わった。
その叔母は由紀子の家の近隣に住んでいて、心細くなったろうそくの本数を気にかけ、少々道のりがあったけれど風雨の険しくなる前に商店へ買いに出かけたのだった。ときを同じくして由紀子の母親も路地に赤い傘を開いたところだったので、日頃からさほど懇意ではなかったにもかかわず、不穏な天候のもとへ並んだせいか、会釈以上に距離は縮まり言葉が交わされた。
「かなり接近しているようですね。今夜は大荒れでしょうね。風見さんはどちらへ」
といった調子で台風を懸念する面持ちが気心を通じさせた。
「そうですか、奥さんもろうそくを。実はさっき娘が外に出ようとしていたのでとがめたら、こともあろうに煙草を切らしたなんてふて腐れた顔で答えるんです。だったらついでにろうそくも買ってくるようにとつっけんどんに言ってやったんです。けどろうそくの予備はたくさんあったし、煙草も同じ銘柄ではないけどわたしのが引き出しに入っていたから、日暮れには間があるけど空は異様に暗くなって来たし、危険かなって思い直して呼び戻そうと」
「あら、ごめんなさい、だったらお先にどうぞ」
「すいません。すぐ先にいるでしょうから。あっ、奥さんこそ大丈夫ですか、ろうそくならほんと箱一杯あるんです。あとで娘に届けさせますわ」
「そんなご心配を」
「お宅まででしたらすぐですし、あの子にも反省してもらわないと」
遠慮している間に叔母は風見が娘を追えなくなってしまう気がして、
「ではわたしも一緒に参りましょう。ふたりの方が聞き分けが良くなるんじゃないですか」
と、咄嗟にまっとうなことを口にしたのだったが、異様な空模様にうながされたとしても、親子のいさかいを過大視してしまった感覚には、なんとなく張りつめたものがあるようで仕方なかった。
叔母はのちに、あのときわき起こったたしとやかな嫌悪感を想起し涙したが、降りつけた雨の烈しさまでには至らない情調をしきりと不思議がった。
雨脚が斜めになればおのずと追い人は気を急かせ、家路へついているような錯覚にとらわれた。
だが視界をさえぎるほど暗幕を垂れていない中空に翻弄されているのか、もしくは挑んでいるのか判別し難い竹薮の重い茂りが不気味に左右へ揺れているのを間近にし、その手前を流れる小川の瀬音がいつものひかえめさとは違っているのを聞いたとき、ふたりは顔を見合わせてしまった。
由紀子の母親はわずかな路上に道連れのいることが無性に忌々しく思えてならなかった。危難に遭遇したかも知れないという憂慮がせり出して来るのを押さえきれないさなか、他者が寄り添っていることでなまじ声にあらわせないもどかしさに苛まれたからである。それは反面からみればなり振りかまわず小川をのぞきこむ駿足に歯止めしている大様な楽観をも台無しにした。
しかし災禍に面した感情がひとり歩き出来ないという抑圧は、小川に架かった橋の付近の家並みがまるで櫛比であるような厳密さを温存させている気持ちがして、卑屈でしかない恐懼が首をもたげるのだから、心の底では無事を願ってやまず、野次馬めいた他者には二歩も三歩も退いてもらいたかった。
そんな見苦しい葛藤とはおかまいなしに事態は迫ってくる。
「風見さん、あの傘は・・・」
竹薮のすそに打ち捨てられた体で大振りの黒いこうもり傘が転がっている。腹の骨は雨にしずくに濡れて傷ついた生きもののような痛々しさを溜めており、それが由紀子が家から持ち出したものだと識別するのはたやすかった。
母親は退けたはずの野次馬が眼に見えない姿で捜索を開始するのを感じ、大事にはならず発見される光景だけを思い描いた。このうつろいの早さが最悪の事態に直面する緩衝材の役割りを果たしているのを知りながら。
ある下級生は朝刊を配り終え配達所へ戻ったところ、昨日の台風で増水した小川に溺死した女子高生の氏名まで年配の従業員から教えられた。
由紀子の地区を担当する配達員はいかにも薄明から一部始終を見届けていたふうにことの悲惨を語った。
しかし幸吉にとっての要点は何時に由紀子が家を出て、何時に遺体として見つかったかである。
幸吉が雨合羽と下駄で降りしきる雨のなかへ飛びこんだのは、おおよそ四時くらい、悪天候の外出も帰宅した際にも誰からも見とがめられなかったのが何より引っ掛かったけれど、とにかく災難の時間を明確にしたかった。
下級生が配達所で聞き及んだ情報によると、黒いこうもり傘を確認し駐在所へ由紀子の母親がたどり着いたときはちょうど五時であった。
それから警官と防災係、消防団らが総動員で小川周辺を下るようにして捜索したが、すでに暴風域に入った野外での行動は自由を奪われ、ましてや日没ともなれば松明の炎すら雨風にかき消されてしまい、視野はほとんど閉ざされてしまった。結局、懐中電灯を携えた心許ない探索に終始し、夜明けを待つしかなかった。
水嵩の増した小川の勢いで下流まで運ばれたと踏んだ捜索班らの思惑とは異なり、由紀子は橋のすぐ近くの水面で発見された。額からこめかみにかけてに深い裂傷があったことから、転落による衝撃で失神もしくは意識朦朧となり水死したとみなされた。
詳細は診断結果に任せるしかなかったが、おそらく誰しも傘を手放した直後に事故は生じたと考えていた。
由紀子の母親は自分が殺したも同然だと泣きわめき、周囲から憐憫の情を集めていた。幸吉は悲嘆に暮れるまえにさっとめぐらしておかなければならない案件を抱えていた。
由紀子の母親が実在したという明証を災難のうちに見出したのは、なんとも理不尽でやりきれない。
さて大前提は事故か他殺か自殺かであった。
想像の域は越えれないけれども、通い慣れた道での事故に結びつける要因が得られず、たまたま橋の途中で車にはねられる、またはすれ違った瞬間に欄干から乗り出してしまう、さらには突風であの黒いこうもり傘が風圧を受けて落下した、などであった。
他殺に関してはふたつの妄想が羽ばたいた。今まであの道で会ったことのない瀧川が雨具を着込んで由紀子の家の方へ向かっていたこと、もうひとつは無意識的行動をとった自分自身の犯行であったが、いくら不自然な出会いだとしても安易に先輩が殺意を持っていたとは言い切れず、また自分の犯した殺人に自覚がないというのも心理的に受け入れ難かった。
自殺説に至ってはひと夏の短い交わりであったけれど、由紀子は心身ともに内罰的な傾向の持ち主ではなく、溌剌とした気風に勝っていたから、無論これは肉欲にまみれ、狂恋にやつれた意見でしかなかったが、歯切れ悪さを引きずりつつも、あえて勝ち気な精神と健康にあふれた肉体を信じてやまなかった。
そして信奉まで高まる潮の頂点には心中こそを選ぶべきであったという、諧謔じみた自滅の叫びが負け惜しみのように波頭に砕けていた。怯懦の発する声はどこへも届かない。
こんな愚直な意想を羅列する裏には、由紀子との関係が周知であることに対する怖れがまとわりついていたからであろう。不純異性交遊での取り調べにせよ死者がかかわる以上、寛容なはずはなくかなり手厳しく追求されるに相違ない。そうなれば優等生の誉れは一気に地へと堕ちて、有数の進学などもう望めくなる。
今西家にも捜査の手はのびるかも知れないが、現実には自分と由紀子とがこの上ない交接に酔い痴れたのだから、あくまで自己責任の姿勢で謙虚に振る舞いたい。
満蔵と間弓には一度きりしか会ったことがなく、たぶん由紀子に耽溺している間、今西家では幸吉などの考えもつかない画策が練られており、煙に巻くような対処が用意されていてもおかしくはないはずだから。
しかし重要参考人の正装をまとった幸吉にとって、それで結末ではいささか困る。
一縷の期待は死んでしまった由紀子の面影をあらたに装うであろう、隠し子の女優との再会にあった。


[490] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し14 名前:コレクター 投稿日:2019年09月03日 (火) 02時51分

翌朝の目覚めは不思議な感覚をまとっていた。
不快でもない代わり爽快でもなく、あのたなびくような夢の光景すら脳裡に映じてなかったので、寝起きを綾なす淡くてつかみどころのないもの寂しさは生じず、全身にのしかかる鈍い重みが、といっても夏掛けに含んだ寝汗の微量な感触にしたたるい違和を覚えたまでで、夏の盛りと比べたらさほど鬱陶しくはない。
しかし天井の木目を見つめていた眼が妙にそのうねりを大きくなぞり出した途端、背中から後頭部にかけて火照りがあるように感じ、気温もそこそこあるのに変に肌寒く、思わずはだけた寝間着をかき合わせ身震いした。
微熱がからだの節々を通じてめぐってゆくのがわかり、起床した際には軽くふらついたので朝食の仕度をしていた母に伝え、体温計を脇へはさんだ。
計ってみると38度をすこし越えており、風邪をひいたのやら発熱で調子が悪いらしく、そのまま寝床に横たわり学校は休むことにした。
熱はあるもののべつだん息苦しく咳き込んだり、頭痛や腹痛もなく普段とあまり変わりない具合なので臥せているのが退屈だった。けれどこの退屈には倒錯した煩わしさがひそんでいるように思えてならない。
幸吉は素早く病人特有の悲嘆じみた面持ちを浮かべると、思索する人もまたそうであろう神妙な心延えに傾き、夏の日の出来事を可能な限り客観的にとらえてみるのだった。
ひと事みたく思い返す数々の場面はとても平坦な位置から立ちのぼってくる安直さに守られ、さながら色彩を求めようとしない水蒸気に似たゆらめきがあり、それは手をかざせないほど沸騰した湯かも知れなかったが、主観の持つ鮮明なありようとは異なって、急いて湯気を上げる音も聞こえたりせず、空気中へまぎれていく煙りや、空の青みに挑んでは流れゆく白雲を想起させ、ひろがりによって遠ざかってしまう危うささえ軽減していた。
そして予期していたのかしていなかったのか、どうにも考えの及ばない難問はまるでひこばえのごとく春の目覚めに立ち返り、回想が夏のさなかであるにも関わらず、太陽を讃えた遥か水平線には四季が眠っているのだと大きな発見でもした気分になる。
悩ましい肉欲は消滅しなかったが、神秘のあり方は心痛の種というより怪訝な表情を幾通りにもこしらえたので、交わりや関わりから生まれた実情は皮肉なことに遊戯が孕む気軽な方向へと吹き流されていった。
壮大な夢が叶う手前に、強烈な色仕掛けが頓挫する近くに、込み入った内実が瓦解する場所に、ひりついた神経は寄せ集められることなく、むしろたどたどしい言語をあやつっている外国人のような見た目の朗らかを映し出していた。
やはり熱のせいだろうか、間弓、静子、由紀子の顔が乱脈にあらわれてくる。
気がつけば天井の木目のうねりに呑まれ思考の規律はなおざりにされ、楽しみの裏側にある悔恨みたいなささくれが宙へ延びてゆくのだけれど、あの肉体は質感を視覚に十分すぎるくらい切迫し肥大して、もはやどの女人のからだなのか判別つかなくなってしまい、そこではじめて息苦しくなり、半ば眠りかけていた状態だと知るのだった。
知恵熱にうかされた乳児が聞き慣れない言葉に取り巻かれるように。
翌朝までの時間は退屈とうらはらにその速度を高め、無為な一日を標榜するにふさわしかった。熱が平温まで下がったとき、幸吉はようやく発熱の原因に思い当たった。
客観などと逃げ口上な意想が働いたのは、弁明を欲する脆弱な意識の空回りであるはずだったのだが、所詮は今西家も由紀子も逃げ出してしまいそうで仕方なかったのだ。
もちろん彼らが去ってしまうのではなく、執着という魔物に魅入られた欲望を切り捨てられない怖れが幸吉に襲いかかっていたのである。
今西から父親の情況を告げられ納得した面持ちではあったけれども、心の底では一日も早く事態の究明を急ぎたく、由紀子の懐妊だって同様、すべての懸念を一掃したい衝動に駆られて、まぎれもない現実に目覚めていたのだった。
ふたたび堂々巡りをたどる自分に対し腹立たしくはあったが、執着を引き起こしている自己愛こそ焦燥の証しであることを悟り、このまま日曜日まで休んでおこうと考えたりした。
窓の外のけたたましい雨音に驟雨の短気なそれとは異なる愛着を連想して、石川啄木の句「秋立つは水にかも似る 洗はれて 思ひことごと新しくなる」を口ずさんでみた。
その夜テレビの天気予報では秋雨前線が張り出しており、大型の台風も接近中だと報じていた。前線の発達でしばらく雨は降り続き、まだ離れてはいるがあきらかに台風の影響を受けていた。
日頃より天候などあまり気にかけてなかった幸吉だったが、すでに風も強まり雨粒の地面を叩きつけるような猛威の兆しに、啄木の読んだ句とは違った激しい情念を感じていた。
このまま暴風域に入ったら休校になるだろうし、押し殺した熱情は砕け散る波しぶきのように行き場のない様相を呈する。しかし煩悶の叫びは自由の翼をあたえらえ、鉛色に垂れ込んだ不穏な空へ向かって夜を呼び寄せるのだ。特別な夜を。
幸吉の高揚した意識に描きだされるのは、雨合羽と長靴で横殴りの雨のなかを駆けてゆく一途なすがたであった、不純極まりない動機を胸に。
やさぐれの由紀子ともう一度だけ逢いたい、時化る夜こそ、このあてどもない心情に即しているのではないか。
案の定、翌日なると風雨はますます荒れて休校になり、今西家へ往く約束の日曜日にちょうど上陸、そして通過する見こみだと予報はなされていた。
雨戸はいつになく慎重に軋んだ音を立て滑りだし、窓ガラスに照る光線をほとんど無くしてしまうと、外側より角材の横木が添えられ、尚かつ隙間らしき緩みへは薄い板が釘づけされた。近所からも似たような金づちの音が飛んできて、どことなく厳粛な静けさに被われていた。
これで強風の煽りと過分な湿りを含む外気を遮断したつもりなのだが、部屋の隅々まで淀んだ湿気は解放されるまで居座りを決めこんでおり、にわか作りの夜の雰囲気を醸している蛍光灯の白々しい明かりを速やかに吸収してしまうのだった。
それでも夏日の頃に比べればいくらか蒸し暑さが引いていたので、外出禁止令の緊張をまやかしほど加味された密室的な閉鎖感には不逞の華やぎが住んでいた。
それは未だにのぞき見るのがそら恐ろしい気のする仏壇の奥や、廊下の端に小さく開いた節穴の暗黒や、日が暮れると一層不気味さをたたえる便所や、はがれ落ちることを厭わない土壁の傷などと同じで、呼吸の質を一瞬にして変えてしまうような異界のしきたりが家のなかへ交じったのであって、幼心が呼び戻されたのか、はたまた郷愁と色香の混淆が古びた気配を高めたのか、いずれにせよ性欲とは縁のなさそうな情景に却ってみぞおちから下のあたりを疼かせるのだった。
停電にでもなろうなら尚のこと、あらかじめ用意されていたろうそくの頼りないともしびに無上の親和を募らせれば、ゆれる影と吹きつける暴風との因果に立ち迷った恬淡な心象が、煙りのごとくあがってくる。
上空に渦まく風雲のわだかまりが過ぎ去るのを願う一方で、もっと激情に触れるような禍殃を密かに胸裡へ沈めている。
それが背馳であり本心でもないことを認めながら、何故かしら童心にとらわれたまま無邪気な託言を憎んだりできない。ふと幸吉は静子と触れ合った防空壕の闇を思い返し、あのろうそくの灯りが抱いた不安定な影に、接近しつつある台風の足音を聞いた。
幸い停電は起こらず時化具合も甚だしくはなかった。ときおり空に響きわたる轟音は凄まじいけれど、あたかも龍神が踊り猛り瞬間風速を競っているような趣きさえ惹起されたので、次第に幸吉は肩息を荒げはじめた。
発熱にほだされ迷宮の路地へと歩み入り、夢想の軒端にたたずんで、見上げた銀幕の彼方へ今こそ突入するのだ。かつてこんな悪天候に外出したことはなかった。雨戸は堅く閉ざされ、暗がりは圧縮され、恐怖と祈祷がまかり通る密室へと仕立てられている。あるいは明澄な意思だけがそよぐ花ざかりの獄舎に変貌している。
どういった口実で由紀子の家に走っていけばいいのか。思案にくれている暇はなかった。
「ちょっとその辺の様子を見てくるから」
誰の耳にも届かない独語が放たれると同時に裏木戸を抜け、小康に煙っている雨空へ勢いよく駆けていった。自分でもあまりの衝迫に驚いて言い捨てたかこつけを忘れていた。雨具を羽織って出たまでは良かったが下駄履きの足にはすぐさま泥水が跳ね、一瞬出直そうかと考えたけれども、濡れた鼻緒は案外しっかり指の腹を引き締めて雨脚の強まりに応じた。
白濁した空模様は稜線を曖昧にさせていたが、由紀子の家へと続く道なりは夏草の緑が雨にまぶしく、時刻さえ当て難い景色に染まっても裏山の樹々は望めた。
風のうなりが地響きのように伝わってくると、さすがに身震いしたけれど、信じられない駆け足でここまで突っ走って来たのがなんとなく頼もしくて、あの見慣れた玄関にも雨戸が引かれているのを認めたとき、不甲斐なさへ歩み寄る等身大の矜持を感じるのだった。
人気のなさはまわりの家並み同様、息をひそめている様子だったので、取り急いだ気抜けは突風との出会いに曲芸師の面影をよぎらせ、不敵な微笑へ落ちつかせた。
それから先のことごとを幸吉はまだ熱に冒されているとしかない想いで綴った。心象風景と悲劇の邂逅、矜持を支えていた胸騒ぎ、台風一過。
灯火がもれていないか確かめる勇気の裏に隠れたもの、ただひたすらに逢瀬を願い風雨の激しさに同調した思惑。果たして由紀子の母は在宅なのか、そうであれば証明の一環として顔を見てみたい。
ここまで自分を突き動かした意想に宿るちっぽけな野心を知った。幸吉はためらわず家路についた。
途中しっかり雨具を身につけた人影に会った。向こうから声をかけてきたのでそれが瀧川とわかった途端さらに衝動が疎ましくなった。
挨拶もそこそこに路地を離れ踏み切りを渡り、たたきつける雨の束を浴びながら裏木戸から部屋へ舞い戻った。動悸は鎮まり呼吸も乱れていない。考えあぐねる事態は潔いほどに上陸を告げた台風がさらってしまった。
その夜の眠りは浅く、しかし遠浅のみぎわに広大な海域の眺めが属しているよう、幸吉の虹彩は色に溺れた。
翌朝は晴れやかな陽光が生真面目なほど町並みを照射した。すでに月曜日、教室内を探る視線は今西の姿であったが見届けられないまま授業は始まった。
休み時間、生徒らのざわめきから昨日の台風で水死した女子高生のいることが判明した。幸吉はそっと眼を閉じた。刹那、江戸の昔、簀巻きにされ河川へ放り込まれた女郎の死体がまぶたの裏に浮かんだ。


[489] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し13 名前:コレクター 投稿日:2019年08月27日 (火) 02時58分

もし昨晩の夢が尾ひれをつけて朝の光景を占っているとしたら、なんと折り目正しい所作にかかわっていることだろう。
夏休みが終わった実感はさして慌ただしさを手招いているわけでもなかった。
休み中いつもとなんら変わりのない朝食を家族と一緒しては、陽の強くならないうちに勉強しておく習慣が守られ、ありきたりな日々はそつなく過ぎていた。
進学をひかえた身であることは別段ひきしめなくとも、おのずと降り掛かってくる火の粉を想起させたけれど、それは危険に傾倒した情痴がもう過ぎ去った嵐であったことを回顧するために要請された、火傷にはいたらない軽微な刺激に終始していた。
不健全な思惑は生活に迎合するかのように建設的な気構えを見せたりする。
それより父も母も祖母も絶対に思いつかないだろう女子高校生との肉体関係、中学生の身分を淫靡に侵蝕して事態の終息すらなおざりにされている実際を露見させまいと、格別つとめているわけでもない安楽さに我ながら呆れてしまった。
町中すべてではないが由紀子と歩いた距離は短くはなかったので、散見した人影は舞い上がった気分と同調するように、潮風やほこりに隠されてしまって、風評など意に介さなかったけれど、おそらく学校内にはすばやく醜聞が届けられていてもおかしくはない。
校門を抜ける足付きへ武者震いが襲ったとして、それは確信犯の心中に去来する不毛の居直りでしかなかったから、胸の動悸こそはためく狼煙であるべき、たとえ冷ややかな目線を受けようとも、嘲弄の的になろうとも、負の感情を一身に背負うような悲愴な顔つきはせず、たた一点を凝視した。
昨夜の予習に則った冷静な今西の表情だけに出会えたらよかった。
なぜなら彫像のごとく佇むその姿勢こそ、幸吉自身を映し出す醒めた情熱に関与する、あるいは現実と幻想の境目で気高く悶絶するきわめて豊かな可能性を秘めていたからである。
非常に取り急いでいるにもかかわらず静止画に見入ってしまう焦点の機能がそこにはふんだんに集められている。今西がもし人並みの動揺をあらわにしたなら、間弓の取り組みだって、満蔵の妄念だって、由紀子の淫奔だって、なにもかも価値を失い無に帰するのだ。
が、幸吉の怖れは杞憂であった。
登校時から意識が宙に浮いたような感覚で、もはや人目を気にかける暇もなく今西の顔を見出したとき、すべては氷解した。
「やあ、おはよう」
声の抑揚にいつわりはない。簡素な響きを待っているような冴えた予感が聞こえてくる。幸吉はいきなり切り出した。
「おはよう。君の家へ又お邪魔してもいいかな。もう知ってると思うけど風見由紀子という高校生のことで」
「ああ、わかってるよ」
「そうかい、じゃあ、話しは早い」
ここで証明と言いかけて幸吉は思わず口をすぼめた。すると今西はいかにも手際よくこう言い返した。
「それが家に来てもらっても父も姉も居ないんだ。実は先週から父はM市の病院へ入院していてね、明日帰ってくる予定なんだけど。それで姉も今朝から迎えにいって留守というわけなんだよ」
「全然知らなかった」
幸吉は心底拍子抜けした。包み隠せないくらい落胆した。
「君はどうして今日までためらっていたんだい」
あきらかに冷ややかなもの言いなのだが、嫌味や辛辣な含みは感じず単に自分の鈍さだけがうとまれた。ひたすら鋭利な刃物を研ぎ続けた薄のろさに気がついた。
今西の冷静さは想像、いや理想を凌駕していた。
「とは言っても君だって大変な思いしてるんだろう。だったら今度の日曜はどう。幸い大した病気じゃなかったんだ。けど二三日は様子を見たほうがいいから、少しくらいは待てるよね」
「当たり前だとも。いつでもいいんだ、とにかく君の家の事情を知らなかった僕が悪かった。来週でも再来週でもかまわないよ。訪問を許してくれただけでうれしいよ、ありがとう」
「とにかく日曜日に来ればいいよ。ちゃんと段取りはしておくから」
段取りという言葉に幸吉は奮い立つ自分の分身をぼんやり眺めているような錯視を得た。
校内の雰囲気に異変をうかがえないまま、杞憂は強迫観念へ高飛びすることなく、反対に張り合いないほど順繰りとめぐって来る新学期の空気を深く吸いこんだ。
夏の終わりを認めるには陽射しの衰えはまだ明確ではなかったし、生徒らのざわつきは蒼空へ浮上しており、運動場に置き去られた一個のボールは広闊をなじる勢いで自らの球面の孤影を濃くしていた。
通りの良い涼風をはねつけるようにかしましい音を放つ油蝉に見初められた樹々は焦げ付いた熱気を漂わせ、これから夏休みがふたたび始まるのではないかといった錯綜の根を地面に這わせている。
そして夏空を占拠しようと努めた積雲の盛り上がりが幾らか減退した遠望に幸吉は学校の自然を感じた。
由紀子も今西家も別に逃げ出すわけじゃない。
はやる気持ちとひりつく感覚を好個にまとめあげた自負心は現実逃避の命令に従って、揺るぎない情痴を確立すべきだと謳い、虚栄を踏みにじる仕草に溺れてはみたものの、結局は際どい綱渡りの危うさの傍らに瑣末な紐帯を炙りだしてしまうのだった。
情交の手ほどきに応じてめざましく官能のこつをつかんだつもりで由紀子のうしろを攻めた際、これまで味わったことのない征服感みたいな絶頂を覚え、すかさず不良の先輩瀧川に対する記憶が想起されると、淫らさを投げかけるような傲りと誇示へ結びつけたが、さすがに校内では生々しい体験を語ることは出来ない、
そこで不良がなんらかの悪さを得意がるふてぶてしさの顔つきだけでもまねてみたかったけれど、どだい幸吉に似つかわしいはずはないので、増々もって陰にこもったぎこちない矜持をひねり出すのだった。
日記へ書かれた暗号めいた文字の羅列はまごうことなき事件簿を欲していた。
さて級友たちの警戒的な目つきや動物的な鼻の連動を予測したまでは正しかったのだろうが、まわりの反応といえば、まるで消し忘れた黒板の字のようにありがたみの欠けた白々しさを保っていて、失望など願っていなかったけれど、なにかしらもの足りない心持ちがして、失望している素振りをかたどることで帳尻を合わせたふうな均衡が求められた。まばらでも調子はずれでもいいから注視されたかったのだ。
ぶざまに転んで擦りむいた手足の傷を間抜け面で見せびらかす、まったく成長のない無垢さ加減で。
しかし考えあぐねていたときだけが華であり、実習は不遇を計測していたという案配だった。
そんなありさまだったから無心で始業式の列に立ち、邪念にとらわれず授業を受けたとは言い難く、決してむきだしの肉欲をのぞかせていたわけではなかったのだが、下校時には殊勝な心延えは霧散してしまい、由紀子の家へと勝手に足が向いているのを自覚し愕然となった。
まだ自覚しただけ救われたのかも知れない。くだらない矜持もまた無節操な色欲の歯止めの一翼を担ったのである。
わずか半月あまりの交わりがこれほど日々の安寧を切り裂くとは思ってもいなかった。女性の肉体の裂け目が神秘に包まれなくなる現実の鮮明さは、幸吉の足をすくうに十分だった。
さらには急峻な坂道を転げ落ちてなお余勢の鎮まらない諏訪の御柱祭を彷彿させたりと、底抜けの危殆を我が身へ宿し、感心しはじめるのだから始末に負えない。
今日の放課後には今西家を訪ねていたつもりであった幸吉にすれば、執行猶予に似た間延びを埋め合わず意気込みが必要だったので、いやおうなしに由紀子の裸がまとわりついてくる。
卑近な残像の影が色濃く険しいのは当然であって、断ち切るのは至難だと案じれば案じるほどに、もしや役割りを果たした由紀子がその仮面をはぎ取り出向いてくるのではという、魔性の香りを一滴したたらせてみたけれど、さすがに実りのない願望とあきらめつつ、ふたたび面会する間弓と満蔵にはどういう文句が一番ふさわしいのか、実はあれこれ巡らせている時間がなによりも鮮度を留め置いているような気がして、肉体への渇望もまた失われた想い出に大きく作用するにちがいない、そうであるべき心術をまるでひと事みたいにかいま見るのだった。


[488] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し12 名前:コレクター 投稿日:2019年08月19日 (月) 21時47分

焦点を取り逃がしてしまった悔恨が先走っている、その心もとなげで浮ついた薄い笑みを露わにすると、夜にゆだねた由紀子の影は怖れを知らない揺らめきにゆっくり応じていた。
ちょうどまどろみから見遣る光景を渡る風に、かすかな受諾が引っかかっているように。
吹き流されまいとしてあらがうのではなく、袖振り合った宿縁を盂蘭盆の波に乗せ、潮の香を忘れ、明日の蒼穹に懐かしみすら覚え、炎天下であぶり出される煤けた木屑の想いへまぎれた、あの宵闇の仄かなともしびを見送る静けさに包まれて。
「証明なんてないわ。あんたが探してくれたらいいのよ。それでいいのよ」
これ以上の真顔を由紀子は面にしたことはなかった。
意を決し吐いた熱情に誠実さを欠けているせいだと幸吉は落胆しかけたが、意気盛んな情感ほどひとりよがりなものはない、これまでの投げやりな態度が由紀子に投影されたのだ、散々孕ました欲望は憂愁や哀切の気分とはおかまいなしの機械的な精緻さで無縁を知らしめる。時計に迷いはなかった。
その夜のいくらか浮き足立った、悲劇めいた煩悶と葛藤は別れを彩るに申し分なく、これまで聞き及んでいた性体験の突発的な昂奮が気恥ずかしさと一緒に逃げ帰ってしまうほどで、なるほどこれが春機の気ままなのかと、大風呂敷ひろげ構えてしまった未熟さを痛感するのだった。
きっと大人になればもっと粘着質で大仰な注意深さが求められるのだろう。子供の遊びが早回しの場景にどれだけ埋没して小気味よくとも、夕暮れは明確で清潔な帰宅をうながしたように、時間の過ぎゆきに狂いをねだることは出来ない。精々勝手な狂いを演じるまでで、しかも煩雑な手続きと気配りが必要になる。
由紀子の告白は無垢な児戯であった。幸吉は初めて観た映画にもかかわらず、二度目だと言い張る不遜さで機械仕掛けの魔性を笑殺しようとした。
新学期をひかえた学校の門に今夜ほど胸の動悸を覚えたことはない。
さぞかし寝苦しくいたたまれない気分に苛まれるだろうと、夜気をへばりつけた天井の暗い木目に眼をやれば、これまでの一連の出来事がひときわ重くのしかかり、案外と悪びれたりせず平気な心持ちで過ごした事実の群れがいっせいに悲鳴をあげているように感じた。
悲鳴といっても金切り声の鋭利さに爆ぜることなく、もう少し穏やかな、遠雷にも似た祭礼の囃子が醸す到来の、ある種せり上がってこない不安と妙なもどかしさが内包された、どんよりした雲の裂け目から聞こえて来そうな響きであった。
ぼんやり見上げた暗い木目の不明瞭な加減は夜の力を得て、幸吉の罪悪感を曖昧にしながら、そのくせ牢乎とした倦怠に縛られていたので寝苦しさに変わりはない。
ただ明日、快速列車へ乗りこむような軽やかな気分を布団の下に敷いているのが分かり、必ずしも汚水の淀みだけにとらわれるばかりではなくて、相殺するに足りる冒険心が一条の光と戯れており、その浅い水底に透ける瑞々しさに心ときめかすのだった。
まだまだ暦がたどれぬ晩夏の空は秋めいた風を巻き起こせず、始業式に整列した生徒の表情にはまぶしさが反射していることだろう。体育館の床は磨きこまれたような輝きが塗られていたから。
そのときの幸吉はあきらかに由紀子とのまぐわいを下半身にたたえていて、悔恨とはうらはらのいたいけな自負を抱きながら残照に酔っている。ことの善し悪しにはおかまいなしの眼を細める為だけの照り返しによって。
教室内ではようやく顔を合わせたふうな調子で今西に声をかける。
あくまで簡潔に、たとえ飲みこめなさそうでも要領だけ伝わるよう語気を強める。姉の意向によって由紀子と情交し懐妊を告げられたこと。決して企てだったなどは言わず犠牲者の面持ちも見せない。実際にも犠牲になった覚えはないし、むしろ素晴らしきろくでなしたちのお陰でどれだけ胸が弾んだことだろう。
だからこそ今西との向き合いは毅然とした姿勢で臨まなければならない。
当然ながら明敏な今西は驚きを表わすものの、感情的な謂いを発することなく幸吉の申し出を受け入れる。
「放課後は生徒会の集まりがあるんで一緒に帰れないよ。君ひとりで家へ行けばいいさ」
そう都合のいい文句が飛び出す。この場面は何度もまるで予行演習のように繰り返され、その都度溜飲が下がる。まだ何も始まってはいないのに。が、切り口であることに間違いはない。
今西家を正面に見据えたあたりで妄想の鮮度が弱まった気がし、それは夢うつつをまたいだ足どりだったと意識がおぼろになり、さきほどの罪悪感と同じ系列である自省の念が顔をだす。
けれども眠りの水際にたたずむ足の先が意識をつかさどっているのであって、濁り水と清らかな水の区別のつかないうちに、ぼんやりした悪夢のような形骸はなんとか言葉を編み上げるのだが、その字義は解体されたまま視界を泳ぎ、焦る足先が踏み散らすしぶきにかき消されてしまう。
うつらうつらの枕元へ鎮座するのは大局を真っ向から粉砕したとろけた脳みそである。
その脳みそが考えているのだから切迫した紋様は心地よく歪み、昂奮する野獣に麻酔が打たれるよう、狂人に安定剤が投与されるように、束の間の安寧は約束されて朗らかで軽い空腹や、牙を抜かれた衝動的な物欲の乱舞や、肉体を持たない色欲の行進が、薄ら寒く残暑の夜へと忍びこむ。
「汗ばんでいるな」
という言葉が突いて出たのならちょっとばかり目覚めたのか、あるいは脳内の揺れ動きなのか、いずれにしても由紀子の面影は水面に漂っており、それは日中精一杯ひねりだした思案をあざ笑うようにぎこちなく別れの場面を映しだした。
不実なもの言いで翻弄された身であったけれど、いつも通りに由紀子は玄関先まで見送ってくれ極めて礼儀正しい接吻を幸吉にあたえた。
そこには軟体動物を思わせるぬめりや油分の働きはなく、どちらかと言えば渇きを近づけたような体温さえ低下した冷ややかな感触であった。不意に今西家の客間で受けた間弓のくちびるが思い出され、微かになめくじのような粘液をよぎらせた。そして矢継ぎ早に静子とのままごとめいたくちづけが、あの洞穴の闇に照らされ桜色の情炎で染めあげる。
ただならない官能という装置・・・めぐる血潮に意義を見出し奔流する回転軸、眠りと生誕をはぐくむ激動のうねり、冷却装置を装った原始的な焚き火、熱帯夜に常駐する氷の彫刻、風鈴の音をまねる舌足らずの詩人、欲望を切り捨てようと努める新たな幻影による甘く苦い清涼飲料水、すぐに傷を浮かばせる透明な瓶、自由を謳歌する水道蛇口、露悪家の栄光を讃える下水の暗がり、偽善者にすり替わる側溝の列なり、夜への跳梁。
少年の心にも風物詩はあった。
幸吉は小学生の頃の夏休みを夢みていた。近所に物音の通らない休日らしい午後の気だるさ。疾病とは無関係である健康的な疲労、海水浴からの帰宅。連れてもらった父親のすがたもなく、なぜか誰もいない家の中、扇風機はその使命に忠実なあまり、すだれに寄りかかったそよぐ風の気配をなだめている。
鼻孔に残されているかも知れない白砂が海の匂いを失わせまいと、その微粒の土産に小宇宙を描きだしては、座布団を枕にし畳に波の起伏が刻まれるのを感じ、まぶた閉じれば遥か水平線を横切る晴れわたった青空に出会う。
海原へと連なる紺碧の遠望を我が家の一部屋に映してみる波間の残像。記憶をなぞっているような冴えた意識を侵蝕する柔らかな話し声。とりとめもない対話が水鳥に運ばれる予兆。眠りの深度と遊戯との透明な拮抗。
あの夏がどう暮れていったのか幸吉は思い出せなかった。忘れてしまったというより供物のごとく神聖であったから。


[487] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し11 名前:コレクター 投稿日:2019年08月06日 (火) 02時03分

わざとらしい笑顔にかたづけられる面映さが部屋の空気を束ねていた。
由紀子は煙草をゆっくりもみ消して、汗に乱れた髪をかきあげながら言った。
「あんたは年齢的にまだ子供だから仕方ないわ。それにわたしがそそのかしたわけだしさ、始末は自分でつけないと、本当はしばらく黙っているつもりだったけど、明日から学校だしね、あんた進学先はもう決まってるんでしょう。優等生だって聞いたわ、だからっていうわけじゃないけど、なんか足を引っ張るようなまねはしたくないのよ、あんたのこと嫌いじゃないもの、でもね、このままでいたらきっとわたし、あんたを離したくなくなる」
意思表明なのだろうが、語尾に微かな傷心をなびかせている。弱年である身を嘆くのは幸吉の特権だとは限らず、むしろ悲愴な宿命であると、か細く訴えかけている。
男女の機微をかみしめるほどの知恵はなかったけれど、幸吉には由紀子のやさぐれた気持ちがなんとなくわかった。荒削りでささくれたった優しさだとひとり納得してしまい、新鮮な抑揚を感じた。
「そんな顔するなっていうのもおかしいけど、驚きは必ず待っているものよ」
由紀子は一条の汗を額に光らせ眼を伏せた。それが情念の末路をたどった無声で薫らせている素振りなのはすぐに解った。
どうあってもやはり自分から斬り込まなくてはいけないのか。
わずかの間であったが動揺は自分を裏切ったりせず、相手の言葉に忠実な反応をしめそうとしていた。
けれども予感がぎこちなくかすめ取っていたのは、妊娠したという由紀子の激白にではなく、姑息なりに謀られた締め切りまぎわへと漕ぎ着いたような成果であり、その首尾にほくそ笑む間弓の華やかな奸知であった。
懐妊を告げた時点で由紀子の役割りは終わる。
あとはふたたび女優なんぞに惑わされないよう卒業までほどよく友誼を匂わせ、なぐさめなりを提供すればよく、驚愕にしおれた幸吉ともはや濃厚な情を交える必要はなかった。
肉欲が受胎とが、たとえ真誠であっても不実であっても結びついているというこのうえない節理を知り、晴れ晴れした現実に目覚めてもらえば、今西家の池へ落ちた波紋はこれ以上ひろがることなく安泰に終息する。
もちろん妊娠の真意はさだかでない、かような事実は急こしらえの問題提起に似たうさん臭さの中で発酵しているのであり、芳醇な美徳へよろめく心性の裏には捏造による有機物が幽香を放っていて、ことの是非は改められるまでの猶予を謳いあげ、あたかも張りぼての人形へ恋慕したような虚構を成り立たせている。
かりに百歩譲って本当に身籠ったのなら、それはそれで動かし難い賜物となり、いくら由紀子が奮起を唱えてみても事態はかえってもつれてしまい、幸吉の進学はおろか彼女自身の立場すら危うくなってしまう。
が、間弓から姉妹であったなんて秘密を打ち明けられたとはいえ、果たしてそこまで尖鋭的な姿勢をつらぬいたりするのか、意表をつくにはあまりにその場しのぎであって、そんな内聞をすんなり受け入れたとは思えないし、どう考えてみても、すでに隠し子などのひそむ余地のないのは、幸吉が芝居じみた迷妄と見限ったときより演算すれば一目瞭然、瘋癲にして宿痾に見込まれた白髪痩躯の老境をさまよっている満蔵のいったいどこに、鬼畜じみた精力が眠っているというのか。
もっとも子種を節操なく残そうと努めた頃はまだ世の亀鑑であり、反面若き淫蕩の血をたぎらせていただろうから、現在の相貌に寄り掛かるべきではない。いや、今も昔も簡単に人物像などを浮かべる方が無益である。
「わたしね、どうやら満蔵の娘らしいの。ほらあんたが夢中になってた女優と一緒なわけ」
ふりだしは遊戯でしかなく、遊戯は面影を作り上げ、面影は堂々巡りを欲するのだ。
詮ずるところ間弓の安直な戦術が功をなしたのであって、気立てのよい由紀子は翻弄されることを厭わず、手先となって大義めいた渦中へ勢いよく飛びこみ、空々しい血の薫陶を甘受していたと判ずるしかなかった。
いずれにせよ、無邪気な鎧を身につけた由紀子の出方には揺るぎない筋が通っていて、これはまったくの失態であったのだが、全面的な追従を、つまり欲情に溺れた自己でありたかったゆえに、こともたやすく承認してしまった交渉をいまさら撤回しづらく、どう見直しても遊戯の最下位に押しやられた感は否めなかった。望んでへりくだった口角へ不本意な微笑が隠れきれないように。
「そうします。由紀子さんには決して逆らわずですね」
言質はひと足さきにとられてしまっており今後、由紀子にあらがえない構図が提出されていた。
しかし、その構図にはことさら数奇な血を吸った形跡は見られず、今西家の内幕に加担したというよりも、自らの素性を露呈したいがため衝動に従ったような偏狭さがうかがえた。
「馬鹿ねえ、明日もいいって言ってるじゃないの。信じてくれないのね」
まるで永遠を誓い合った恋人同士の息づかいに、その毛穴から香り立つ甘言を分かち合うような趣きに由紀子は導いてくれた。
「いいのよ、今日はだいじょうぶな日だから」
にもかかわらず現実に見事な裏切りをなし遂げさせた。
荊棘に鋭い光を結わえさせておきながら、恋情の墓場を徘徊する倦怠に取り憑かれた夫婦の情景を近未来的にあぶり出す要領で、妙なる呪文が急激な錆つきをもたらすよう、暗雲は通り雨を呼びにごり水となった。
由紀子の描いた構図はむしろ血を汚水で洗うような忌まわしさを蔵し淀んでいた。
「わたしのおかあさんって帰ってこない日もあるのね。あっ、ごめん、急に家のことなんか」
あれがもしひとつの演出であったなら・・・そうだ、自分は由紀子の素顔をほとんど知らない。
淫靡な姿態が魅せるつかみどころのなさだけに頼っている。裸体を開きむしゃぶりついても、下半身の威厳を犯してみても、やわらかく湿った割れ目に埋没してみても、あるいは嬌声が耳障りに聞こえるとってつけたふうな沈着さで向き合ってみても、やはり何を考えているのかは推し量れなかった。
第一さきほど思い返したように、由紀子が理解されるのでなくて、理解が由紀子を向こうへ向こうへと押しやっているのを浅はかに了承していたのだった。それがいかに重宝されたかは言うまでもない。
とにかく肉体にまみえるのが精一杯で、高校生の制服をどれくらい着こなし、あるは着くずしているのやら、勉強はちゃんとしているのやら、異性も含め何人の交友があるやら、煙草は常用しているのか、酒も飲んだりするのか、普段はありきたりの顔で教室の空気になじんでいるのか、冗談を言い合ったり、些細なことで腹を立てたり、放課後は繁華街をうろついて仲間内と目配せの挨拶をするのか、大人の男と遊んだりするのか、そして時折意味もなく笑いだしたりするのだろうか・・・
不良なんて噂の出処を調べもせず、いいかげんな陰口を鵜呑みにしていたし、そのほとんどが好色にまつわる大げさで品のない目線にゆだねられていた。
そう言えば瀧川の素行だって分からず、まれに下校時らしき姿を見かけたりしたが口をきいたりすることはなかった。それでも外見から成育ぶりはうかがい知れた。
丸刈り坊主頭の頃とは異なり、艶やかにうしろへなでつけたリーゼントが小意気だったし、いくらか童顔で穏やかそうな顔だちには不良気質と無縁であるべき白皙の美貌が湛えられていた。
粗野で強面を売りにする他の先輩に比べれば遥かに親近感があり、由紀子同様に年長者の醸すまぶしさと抑制された憂いの雰囲気が備わっていて、一人っ子の境遇から仰ぎ見る感じはおのずとふくらみ、それはちょうど由紀子に姉の一端をかいま見ることと一緒で、瀧川にも兄のそれが透けて見えるのだった。
不良という剣呑な佇まいに内包されているのかどうか定かではなかったが、他者を素朴に慕う気持ちはどこかしら清々しく、こころ弾ませた。
それはさておき、通いつめた風見家に母親の影が現れなかったのはなにか底企みによるものだったとしたら・・・
型にはめられた中学男子の抵抗はこうして欲情に置いてきぼりを食いながらも、果敢にも突破口を見出そうとしていた。
刃はもろくとても快刀乱麻に及ばなかったけれど、想像を越えて事態が入り組んでいることに驚いた幸吉は由紀子に詰め寄った。錆ついて汚れた怒りや憎しみではなかった。
現実から裏切られ見離されても、この世にあるはずのない姉の化生が謎を教えてくれそうで、しかも瀧川をつらね幻像が瞬くのであれば、さながら弟のわがままにじっと耳を傾けてくれるような、たおやかで悠久の情趣に酔い痴れるしかないだろう。
で、切り出したのは幸吉だった。
「ねえ、由紀子さん、満蔵氏があなたの父親で、間弓さんとは腹違いの姉妹だという、何か証明はありますか。うたぐるようですいません。真実がどうであれ僕はあなたの役に立ちたい。夏の終わりがすべてを完結させるとは思えません。あした学校の帰りに今西家の方へ寄ってみるつもりです。その前にもし迷いがあるなら話してくれませんか。どうかお願いします」


[486] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し10 名前:コレクター 投稿日:2019年07月29日 (月) 05時30分

底抜けの笑いは本当におさなかった頃、自分という存在の確信などいらなかった光景のなかに、四季が織りなすであろう風物のあてどなさの彼方に霞んでいた。
指折り数えてみる慎重さが思いのほか胸になじまないのは、ことの起こりをすでに割り切っているせいだろうか。
香しい頽廃とどこかしら浮ついた横柄さを真に受けて、女体をかきわけたのも、まっとうな考えを放擲したのも十全と見切った掛け合いであったから、放蕩の血はさほど大仰に沸騰するわけもなく、微弱な意欲のはねっ返りに終始する。
夏休みはいつまでも児童たちに浸透するあの空色の揺籃であり続け、決して褪せたりしない。幸吉が引き受けるべき慎重さも同じ彩りで胸懐にまぎれていたから、焦りもとまどいもないはずだった。
まるで双六のような遊戯、ふりだしはとても明澄で申し分なく、ときめきは夏の日の澄みわたった蒼穹を汚したりしないよう、流るる風と雲の自然をすえ置き、突然のしらせが淡い心待ちであることを見抜いていたという雅趣をもち、優艶な色合いは絶え間く染め上げられ、出し抜けの情欲にまぶしさが乗っている。
銀幕より訪れた美神が堕天使の横顔をかいま見せれば、それが手つかずの馥郁たる実相である切なさを誘致して、もどかしくやりきれない心ばえに切り結ばれるのも一興、戯れと知りつつ深みへ足をすべらしてゆく際どさ、そしてためらいはいつも有能な仮面を被った自虐と背中合わせの吐息になった。
淫乱な素行の裏をたどれば、まわり道に配された異形の影はのびあがって、恐怖と面映さに立ち迷った胸騒ぎとなる。
道行きの信頼がすでに霧のかかった蒙昧を帯びている以上、もっともらしい絶崖は駒止めの手によっていともたやすく乗り越えてしまうので、終盤には定められたあがりが待っているのだが、高所から飛び降りるような叫びにも優美な笑みは過分にふくまれて、斜にかまえられるのだった。
あがりを迎えるまでもなく途上で中座することに義理はない、ただ妙にうしろ髪をひかれるような愚図ついた気持ちがうずき、同時に明証を上げようとしない葛藤のめばえが誇大に生じた。
きまぐれと思い勝ちな傲りのなかに、どす黒いわだかまりの渦まいているひとこまを見通すほど眼力が備わっていなかったから。
色香が花のように匂いたち鼻孔をくすぐる安易さ、心ゆくまでその華やぎを嗅いで嗅いで賞味しつくしたつもりが、かすかの残り香にめくらみ奈辺に漂うのやら分からず、分からないならほっとけばよいものをちょうどふりだしへ戻るようにして、ただもとの場所に立返るだけではなく、あらぬ妖気がこの身をまとっている実態に鳥肌は立つ。
笑いながら、よこしまなで不思議と人なつこい眼に映らぬ衣のからみつくのを振り払おうとするが、いつの間にやら毒気へと変わった芳香をなじったりはせず、むしろ麻薬に似た逃れられないそら恐ろしさに陶然となる。
いつでも降りられると踏んでいた遊戯はそれほどなまやさしくなかった。

日々の営みが実直で謙虚で凡俗であればあるほどに、夏の終わりは激しい光線をあまたへふりそそぎ、隠れた次元さえあぶり出してしまう勢いで、幸吉と由紀子の情交を焼きつけた。まぶたを閉じても肉感がもたげてくる。
そして遊戯というひとまかせの、公共設備における便益の、映画館で修する背徳の、巨細な罪や怠惰や作為が、有機物へと変化して夜気へ入り交じった。
二学期の始まりとともに遊びの自由は制約されて、それぞれの家庭の事情は当たり前のすがたで浮かびあがる。
日常から逸脱したい願望を捨てられない限り欲情は治まらず、いや、捨てられないからこそ由紀子の肉体はますます淫奔な装いで幸吉の糜爛した精神に照らされるのだ。最初からわかっていたつもりだった。
いまさら公式にそって逢瀬と痴戯が許されていた体たらくの歯がゆさを嘆くことはない。
けれんみたっぷりの艶冶な夢芝居・・・それは常軌をはみ出した今西満蔵の切望、義憤を盾に姑息な手段に出た娘の間弓、あっけらかんと意地らしく道化を演じきった風見由紀子、静観の様相を崩さなかった今西昌昭、はじまりでありながらその真意も動向も定かでない隠し子の女優、呉乃志乙梨こと灰田正枝・・・彼らに不動の役者の烙印を押す。
遊戯から演技への橋渡しにおぼろな情念を感じていながら、嘱目をおろそかにし、決意を鈍らせたのだから。
かかわりを持った三人はさておき、未知数の棚上げだった昌昭と女優にはことさら接したりせず、肉欲に埋没しようと躍起になった愚かさ。やはり自分はひとでなしだと罵りたくなる。
だったらすべてを夏の幻想で終わらせてしまうのが一番いい方策でないか。
まとわりつく肉欲はどうしようもないこと、なぜか今まで漠然としか描こうとしなかった進学の現実味をしっかり噛みしめてみればいい。
意思に揺るぎがないと言えば嘘になろう。狂おしいまでに抱き合った由紀子の面影を消そうと努めてみても、希薄になるどころかあの女優からの求婚へとまぼろしを飛翔させてしまい、堂々めぐりの轍はより濃くなってゆくばかりだった。
慎重さを欠くがゆえに焦燥や狼狽も風化してくれるのなら、それにこしたことはないけれど、どうやら煩悶の核心は未熟な性への膠着につきるので、まっとうな決別を掲げてみても、所詮それは表面だけつくろって形をなしたに過ぎず、鎮火とまで到らなかったくすぶりを見流したに等しい。
燃え盛った焔へ手をつっこんで熱くはないとうそぶく白々しさ。きっと由紀子のひと言に、その目つきに、押し殺したような息づかいに、諦念を聴き入れようとする顔ばせに、まるで子供の無邪気さが売り物であったかのごとく、安あがりの感情は崩れてしまう。
些細な反論もなく、無垢なる鉄面皮は残り香の詰まった容器を即座に逆さにし、その溢れんばかりの蘭麝を、荒淫をふたたび手に入れ、夜叉がやすらかな眠りへ誘われるように、素朴な微笑みを取り戻すのだろう。夢幻地獄はすぐそこで口を開けている。
ではどうするべきか。
新学期が自由をはばむのであれば、別に奔放な情交を日毎に行なわなくてもかまわない、たとえば新月の夜這いが儀式的な隠微さに守られ、あからさまな邪淫は戯れに過ぎぬとまかり通ってしまう趣きをまね、進学のいよいよその日までを密度の深い逢い引きで埋め合わせればどうだ。
幸吉は遊戯の枠を越えて由紀子に執着していた。あわせて色魔を演ずる意義に見守られていた。
間弓の使命を十分はたしたであろう由紀子は肉の化身から解き放たれ、あらたな魔性へと転生する。そうなれば、誰に遠慮することなく期限つきの逢い引きに移行してもかまわない。
現に学校が始まっても、由紀子はこれでおしまいなんて悲嘆も悪びれた感傷も口にしておらず、多少ぶっきらぼうではあるが年上の女性らしい態度で幸吉を見つめ返してくれる。
いまから思えば、顔見せとばかりに町中を歩かされた肝いりの不敵さが効果的だったかどうかわからないけれど、幸吉との関係を世間へ配ろうとしていた役目が、本然たる意味合いにつながっているような気がしてならない。その都合よさを認める意識こそ官能の根っこであり、華々しい驕りが飛び散る様を絶頂に見たてて、優越感にひたる輝きもまた女陰から生まれ出たのだった。
由紀子の振る舞いを影絵のように自分のものにしたかった衝動が、先輩の瀧川や不良連中に向かう陽気な笑いとなった。
いよいよ夏休みが今日までとなった夜、いつものように肉体を重ねあわせ、したたり落ちる汗にまみれ、腰をうねらせながら由紀子のからだへ没入しては、乳房をなでまわし、至上の太ももに吸い付いたり、舌を転がせたあげく頬をきつく挟んでもらったり、感じ処に並々ならない恋着を被せたりと、幸吉はここ数日で習得した性戯のすべてを駆使して快楽の極みへ駆け上がろうとしていた。
「火薬はわたしが仕込んだのよ。あとはあんたが火をつけるだけ」
そう言いた気な由紀子の裸体のくねりに、幸吉は大輪の花火が夜空を席巻する鮮やかさと儚さを見た。
おぼつかない技巧に果てたのは仕方ないこと。最初の交わりを結んだ黄昏に、
「わたしの方が迷っているかも知れないのよ」
と、由紀子のささやきでもつぶやきでもない、いくらかの憂惧が切りだされた声の調子を思い出し、変に安堵した。
やがて夕闇のせまる頃合いにはあたかも徒労でうちひしがれた、そのくせむず痒そうな表情に固まったまやかしの傀儡の影が、ひっそり部屋の片隅を領するのだった。
暮れ色にさっそく運ばれた夜風を頬に受け、いかにも物憂げな面持ちで寝そべった由紀子は、知らぬ間に煙草をくゆらせている。
だらしなく身につけた下着が情事のあとを描いたとするなら、立ちのぼる煙草はいかにも大人の倦怠になびく心意気にも映り、カーテンの隙間から吹き入る夜の呼気へ応じるような由紀子のまなざしに遠いあこがれを抱いた。が、あこがれは遠くない。手をのばせば届く距離で半裸をさらし、心を投げ出しているのだ。
なにしろ女優との婚約が、これから先にも決してあり得るはずのない僥倖が、あやかしに包まれた夢の夢が、この成りゆきへ取って代わったのだから、肉欲だけに集約されてしまうのは幾ばくか不本意だった。
自分でも欲ばりすぎるとやましく思われたし、不良めいた雰囲気をまとった年上の女人が発する威光のような重圧が心憎くかったにもかかわらず、屈服の脇でうごめている母性に対する寄りかかりは消しがたく、はっきりした要望は告げられないものの、弱々しい期待は胸の奥で産声を上げていた。
紫煙が大儀そうにゆらめくのを追いながら、幸吉は明日からのことをどう話しだしてくるのか、内心気がかりで仕方なかった。しかし自分の方から問いかけてみる朗らかさはなく、いつまでたっても他力へしがみついている。
フッサールの生活世界とはへだたりがあるようだが、誰かの欲望を実現しているという乖離はそれほどとらえどころないものでなく、疎ましさが先行するより、天空の彼方に意識をのまれるような眩惑にほだされた。そして欲望を割り振りされてしまった現状に甘酸っぱい痛みを感じていた。
奇禍にすら痛覚が麻痺してしまう刹那、夜は流れはじめている。
「どうも妊娠したみたいなの、わたし」
幸吉の耳に音は届いたが、言葉の中身はまだ理解されていなかった。
「あんたに迷惑かけるつもりはないから心配しなくていいわ」
意味が通じるまで時間はゆっくり進んでゆく気構えを闇に教える。
その闇が幸吉を囲繞すると、見通しが悪くなるのは当然のことで、実感を得ている確信はすりガラスの向こうに色づく点景のようなあやふやの線描でしかなくなり、揺らぐ大地へ平衡感覚が吸収されるごとく、芳烈な薫りは漂いを忘れ、俊敏な動きで這いまわった昆虫は死骸となり、軒端をつたう雨水は瀬音にまぎれ消えてしまい、瑪瑙が集めた豊かな色調はひたすらくすむ。
わずか数日で懐妊が知れるのかどうか、疑いの眼を向ける矛先さえかき乱されて、足早に図書室へ駆けこんで当該書物を手にする幻影が強迫的に幸吉を悩ましたけれど、胸騒ぎを引き起した要因は生理学への多大な関心までたどり着いてはおらず、もしや誰かに頁を繰っているすがたを覗かれていないかという、怖れでいっぱいになった。
幸吉は煙草でくもった由紀子の顔を見上げた。それは気詰まりにそそのかされた生身から送る視線であった。




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