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[451] 題名:L博士最後の事件簿4 名前:コレクター 投稿日:2018年07月24日 (火) 04時48分

「邪魔者は消せ」
これは下手な口笛より人口に膾炙している。曲がりなりにも仮面ライダーのショッカー秘密基地にならい、他所の庭や、建設現場、路地とも呼べない家屋の間隙、無人の小屋などは悪の伝令を守り抜くこころ清き少年らにしてみれば、格好の居場所となった。そんな想い出を脳裏に焼きつかせている者にとって仲間以外の侵入はことごとく邪魔者であり、玩具の武器の標的になる資質を備えもっていた。
昭和の幻影と呼んで差し支えない、白昼夢のような緊迫はいったい何を期待していたのだろう。
悪の伝令の意味合いは冷蔵庫の扉に冬の景色を覗かせただけに過ぎず、カルピスが注がれる白さに夏空の白さをひろげた程度の罪でしかない。
L博士の罪状にはもう少し重みがあったと考える。反古に警句を書き連ね、私に複写のまねごとを要求した軽薄さにもやはり重みが感じとられた。
だが博士は糾弾されることも非難も浴びることなく、ひたすら沈黙の底へと没する構えを了解していたので、私物の形状はさほど場所をとらず、また他者を拒否することなく、まんまと裏をかかれともに水面に目立った余韻を残そうとは務めなかったから、邪魔者は消されずにすんだ。
すべては博士が言い尽くしていると断言したし、残滓はちっぽけな感情だけだとも開陳した。
ところがそんな殊勝めいた言い様さえ、シナリオに記されていたとしたなら。
つまり私は徹頭徹尾、誰かのセリフを喋らされていたのであり、反撥とは縁遠い居場所で操られていたとみなされても仕方あるまい。が、聡明な諸氏においては、これはあまりにこめんどくさい駆け引きだし、児戯にさえ劣る笑うに笑えない体たらくに映るであろう。そして軽佻の烙印はいともたやすく親和から授けられてしまう。
どうにも曲解の域から抜けだせないようなので緒論はこのあたりで切り上げ、段ボールのなかから踊りでた煙りを愛しく払いつつ、悩まし気な埃に息を吹きかける。

イニシャルは果たして刷られたものか、あとから記されたものか、例のブロマイドのm.iなのだが、虫眼鏡で拡大してみたところ万年筆で手書きされているようだった。曖昧な確認ではあったけれど、ノートや反古にそれに関する裏書きを発見できなかったので、いや、たぶんに見落としもありえそうになり、別に紙魚の本領をないがしろにしたわけではないのだが、すぐさま大江佐由花へ問い合わせすることにした。
なにより時代がかってはいるけれど、色香をほのかに漂わせた容貌は魅惑的で、意味を把握させない素振りさせ立ちのぼらせているのだから、逆に探りをいれてみたい胸懐はその清楚な瞳と、健康的とも不健全とも見えるややはれぼったい唇に吸いこまれてしまったのか、深更を覚えぬまま動悸だけが取り残される。
色彩を最初から放棄した写真が醸す情調とは、夜明けを永遠に待ちわびる無音の華やぎなのか。
性急な気分はまちがいなく謎解きが秘める翳りのくすみに従属するようだが、見通しの抜け具合を補ってやまないのは鮮やかな花弁の色彩かも知れないという明るさに想いは連なる。安直に感じられるのはまったくの学者意識の欠落なのであり、この方便は今後も実りを急ぐという意味で用いられ、弁疏の恥らいはきわどいうつろいを鮮麗に撒き散らかそうと努めるだろう。
左程ときを隔てず明晰な解答がPDFにて送られてきた。佐由花いわく、
「不手際でも深謀でもありません。気づかれるよう、あえて目印とさせていただきました」
と端書きが添えられており、冷ややかな知略を寒色まま受けとる心算へと余儀なくされた。
夏の盛りを迎えるにあたって、いかに彼女のもの言いが陽射しに透ける清涼な硝子細工の風鈴を想い描かせたかは言うまでもない。
空調のゆき渡った室内にあってなお、火照った肌の汗ばみは真昼の暗黒を照らし、夜風に吹かれたまぼろしをのぞかせる。まぼろしは艶やかであればあるほど反対に指先すら触れれなくなってしまい、東西を憶えぬ旅人の道程から遠のく運命にある。
「あなた様の手落ちを待ち望んでいたわけではないのです。ただ博士の理念に揺るぎなさを認めてもらいたく無邪気に同封したと受け取ってください」
そして当然の習わしにとけこむ要領で契りの紐が解かれて様は、正午が暴く忘我に似た懊悩を恍惚へ導く儀式に即しているかのようだった。
ノートはあえて見落されていた。はなから数式と外国語はあとまわし、いや解読できないから捨ておいた、そう正直に言うべきところを見抜かれていたことは不誠実が露呈してしまったみたいで、さながら居心地のよくない座椅子の照れを代弁する念いが胸にひろがる。実際ドイツ語と諭されて、はたとひざを打つ仕草に芝居っ気を座らせていたのだから釈明しようがない、十二冊目のノートへ記述された大半がそれにあたるという。
以下、誰の手によるものかうかがい知れないまま、あらかじめ邦訳されていたと思われるあの写真にまつわる不思議な物語りへと筆を運ぶ段に来た。秘密めいた外縁はいずれ日輪の傾斜が色濃くあぶり出してくれるだろう。


昭和XX年、中学生だったL博士こと、燐谷幸吉は修学旅行先の土産屋で意中のひとを見出した。
旅行中のあらかたの思い出は見渡せない水平線に浮かんだ船舶のごとく、おぼろな視界をめぐらせたが、あの玲瓏とした光景は今でもまぶたの裏の毛細血管をさわがせ、虹がまたぐ蒼空と欲深い緑の大地に降り立つ。
七色どころではなく、あるいは七色を発しきれず、しかし疎通をはばむことに対しては一途に邪気だろうと毒気だろうと吐きだす気勢が朝陽とも夕陽ともつかない強靭なかがやきになり、その透明度はまぶしい輪郭を描きす。誰もが知らない、おそらく知らない、数少ない映画にしか出演していない存在、ほんのちょい役の、けれども果てしないときめきを約束してくれた女優、名前を言っても聞いたことがないだろう、もっとも一切ほかに話したことはなく、それが羞恥による加減なのかどうかも考えたりせず、ただまぎれもない初恋の烙印をひりつくような甘みで、渇ききるようなうま味で、自らに押しつけたったひとりの異性、猟奇的だと妙な背伸びをし、俳優になった気分を忍ばせ本屋に通った結果、芸能雑誌誌にひっそり掲載されたいたときの悦び、忘れはしない。
それがちょうど一年たった今、眼前にいる。幸吉はめくばせをした。もちろん破裂しそうな胸をしずめるために。何度も何度もあえて闇を走らせた。夢なら夜の闇、映画なら銀幕、現実なら写真におさまる、そう思案したからである。


[450] 題名:L博士最後の事件簿3 名前:コレクター 投稿日:2018年07月10日 (火) 03時10分

ことさら眼をひく代物より、多分に今というひとこまへ飛びこんでくる実情なり欲望の背面でひっそりと息を殺している健気さを私は好む。
決して目立たない形状ではないし、色調をほどこされていないにもかかわらず、不変の怖れが微かに芳香を漂わせているような、光の粒子をこっそり束ねていながら、研磨をやんわりと拒み続けている情味には時代の気配がまつらうからであり、秘められた重箱を被う赤みがかった暗色に好奇が宿ってやまないのも愛しくうなずける。
L博士の本質も似たふうな傾向にあるようで、くだんの華やかな講演会や斯界の権威らに書き送った論文より、あえてくすんだ写真が隠し持つエピソードをさりげなく差し出すあたりを見れば、これがたとえ依頼人の趣旨であったとして、やはり黒子の本領を発揮しているのだと感じ入ってしまう。
さて、このあたりで読者諸氏に注意をうながしたついでに、新しく知り得た博士の素描から詳細へと筆を運ぶべきなのだが、別段あせることもあるまい、いや、なにも先延ばしや勿体ぶりとかではなく、まあ、そう思われて仕方ないのだけれども、これから連綿と続く事件簿の旨趣にそえば、やがては明瞭となるだろう古色然とした映り具合を急速に調整するよりか、白波の強弱のうねりを遠目に眺めているほうがこの物語りにはふさわしいだろうし、博士の白髪が加齢とともに増してゆくのも、かつてのせわしない俊敏な動作へ楔を打ち、それはいくらかあわて者だったという微笑ましい教訓をこめる意味合いをかけて、蒼海の波頭が緩慢な潮風と言葉なき言葉で語らっている様子を招き寄せ、海面に浮かぶ顔つきへと重ね合わせるのも一興だと閃いた。
かりに渦潮に引きこまれようと、博士のプロフィールは砕け散らない。
こうした理由から敬愛なる主人公への言及は反対に散らばるであろう大小の事例のなかに、ちょうどジグソーパズルの紋様がかけがえないヒントを有するかのごとく、その都度、委細を述べていくつもりなのでご了承願う。
代わりにといっては当人には失敬だけれど、発端となった依頼人の素性を少し述べておきたい。
送り届けられた段ボールに添付された差出し住所はあえて書き留める必要ないだろう。現在のところ今後の展開にはかかわりなさそうなので、最初に記したように関東地方とだけ片隅にとどめてもらえれば結構だ。
氏名は大江佐由花、年齢不詳、しかし妙齢と決めつけてみるのも雅致の領域であり、本文の逸脱どころか翻って明徴な趣きが授かるのではないかなどと、博士の茶目っ気を呼び戻すのも悪くない。
で、問題は大江佐由花なる女性に助言とも手引きともとれる友人、永瀬砂里と名乗る人物の先議だった。前述通り彼女は私が生み出した創作の産物であり実在しない。
ちなみに同姓同名を持つ可能性を、星のかけらほどの期待を寄せてみたが、検索にも浮上せず、偶然の一致を認めようとする小さな戯れは、あらかじめ佐由花本人の口から意味深にもれている限り、反対に虚構の賛美に努めている自身のむず痒いよろこびを悟らせる。
しかもあまりに拙いライトノベルもどきの第一作「貞子の休日」の立役者、山下昇の後日談、
「僕の手の届かない場所で僕の影がうごめいているとは、ある意味とても愉快ですね」
と、破顔でもって応じてくれた心意気を信じて疑わず、つまりモデルの役目をあらためていつの日にかという言葉を鵜呑みにしてしまった全身うるしかぶれのような底なしの加減知らずは、破滅的な恥辱を自他ともに拡散しようとして躍起になっているではないか。
もちろん私は大江佐由花に問いただした。その旨は詳細を語らずともおおよその見当がつくだろうから、もっと肝要なことがら、ブロマイドふうの写真に関する情報を差し出すようせまったところへ話しを飛ばしてゆく。
いや、かろうじて得心のわけを説明する場面にたどり着いたというべきか。
ここに来てまたもや、先議など放り投げ、縦横無尽の横着を決めていると非難を受けそうだが、私が見出した紙魚のロマンは必ずしも破滅や恥辱に底上げされた気分の有りようなどではなく、むしろ字義に則った謂いに他ならない。
鮮明に、そして簡便に述べる。
反古の束は単に無造作ではた迷惑な文字の死に場所どころか、博士が生きた証しそのものだった。
依頼人である佐由花の任務こそ、地平線をまたぐ所作であり、その所作はあくまで比喩であるが裸身をもって示されるべきであったけれど、沈着かつ柔和な側面をかいま見せる博士の性格上、そうした過激な方便は敬遠されてしまった。
もうお分かりだろう、ある事情がことの運びを煩瑣にし、創作の援用を求めたのである。いかなる理由かはすでに語られている。私の創作熱を喚起するために不可欠なもの、吐き気をもよおす陶酔を熟知していたからであり、と同時に甘い夢見を注入する手口をも知らしめる妄念を忘れさせないが為であった。
簡便と言った以上、華やかなる枝ぶり、咲き誇りを後退させ、その樹幹、根元まで降りて行かなくてならない。
しかし、L博士は私が見知っていた形相を遥かに越えた未知なる存在だった。
ジグソーパズルと粉砕の描写のみで全貌は伏せておくけれど、これだけは伝えよう。博士は亡くなるほぼ直前まで私の動向に眼を向けており、煩わしさを承知のうえで間接的にある遺物を託そうとした。
確然としたもの言いが出来ないのは口惜しいけれど、なぜ上京後、さらには帰省にいたるまで私などの動勢へ気を配ったのか。それらは上述したように一筋縄ではいかないし、今現在でさえ拭いきれない疑惑が多少なりとも漂いまとわりついている。胸元を越えたまではいいが、腹具合に違和を覚えるように。
そこで一気に根元まで降下する。
当時は片田舎の奇特な学者に過ぎなかった博士に舞いこんだ俗にいう発掘された眠れる逸材の飛翔と栄光について。
もちろん経緯を含め委細は吐きだされないまま、映画の謳い文句だけが虚しくこだましてゆくけれど、この文句だけである程度の展開は描かれたと察するので、博士が憑依して私を突き動かしているとか、逆に私が博士を演じきり、地平線を乱れさせているとか、そうした姑息な方途はこの際、きれいさっぱり洗い流してもらい、ついでに私のかかえる疑惑も一緒に暗渠へ落ちゆけばそれにこしたことはないのだが。

言葉の由来は反古であった。
L博士は肉感まで届けようと気をまわしたようだったけれど、そしてあまりに英智にあふれ、そつがなく、総員玉砕の魂をも援用してみたがただひとつだけ私の方に軍配が上がってしまった。
微笑む叙情を私は切り捨てなかった。博士は徹底した叙事を懸命に貫こうとした。結果、反古は的確に反復される運命をたどったし、段ボールに詰まった愛情は遺産でありこのうえない資料には違いないのだが、余計な私物があとから邪魔をした。


[449] 題名:L博士最後の事件簿 2 名前:コレクター 投稿日:2018年07月03日 (火) 03時55分

頭上に空の青みを感じながら分け入る山頂への足取りは、こころもとなさから遠ざかれば遠ざかるほど希求の風を受けはじめる。芳醇なときの流れに委ねた想いはひもとかれ、めくる頁が自然とさらなる道程につながるのなら、これほど素晴らしいことはない。
陶酔の底流にしたり顔でひそむ怖れと、愁いがもたらす不器用な手つきは暗澹たる深みを突き抜け、うつろい易い天候を、とまどい易い眉間を知りつつ、澄み渡った眺望へとのびてゆく。
むろん整頓され無駄が切り捨てられる地平などではなく、常に曖昧な渇きに満ちざらりとした肌が沈む浴場の風情を薫らせる見通しだった。裸体が知らしめる翳りは仄かな湯けむりをその内側から立ちのぼらせ、色香は潤んだ眼の奥に隠れている。
L博士の残した文献は吐き気がするくらい乱雑で卑猥な表現に彩られるかと思うと、せせらぎの音に合わせ清涼な芳香が漂ってくるようなおだやかな格調へ羽ばたいたりするので面喰らってしまい、ノートを時系列にそって読み進めていたのだが、走り書きの、依頼人がいう反古なる代物に至って、虚妄をまとっては真実めいた色情が無造作に散らばるばかり、あたかも盲いの為に記された点字へ悪戯を仕掛けたような軽薄な思惑が浮き出すあり様で、私は気が少々滅入ってしまった。
とは言え、奇才の誉れを一身に集めた博士のかつて相貌がよみがえるともに、新しく知り得たその素性や透徹した信念、先んじて述べるのも甚だ心外だけれど、謎が謎を呼び、迷宮の帷の果てしなさを随所にうかがわせる気骨が内包されてる重圧には敬服するしかなかった。
そして依頼人の要望に疑念を差し挟んでしまう念いにかられつつ、数式や外国語はさておき、一通り読み終わるのに昨夜まで日数を重ねてしまったのだが、果たしてきちんとまとまりがついたのか、かなり危ういところである。
危うさから逃れるつもりはない。整理整頓の喩えではないけれど、ひとつづつ読み砕いて行きたいと思うので、まずは依頼人に対する疑念のいわれから説明してみる。

私は連絡先と氏名を明確に伝えてくれた博士の遠縁にあたる人柄を信用したわけでも、情にほだされたわけでも、こう書いてしまうとなにやら自分はどこか冷血な性状の持ち主に聞こえるかも知れないが、そうじゃないと薄ら寒さのなかにぬくもりを覚えることに嘘はなく、端的に話せば私自身の精神のゆくえという形式のうえを走る魅惑の乗り物が、過ぎ去りし想い出を運び、まだ見ぬ不思議を駆けていったまでのことで、それは瞬時にして光線のごとく閃く悪しき予感をはらんでいたからに相違ない。
なぜ悪しき予感などと、たちまち訝しく見下げられてしまうだろうけれど、あえて裏切りを表明する仕様書きに手もと震わす光景を引き受け、答えはこの物語りのはじまりから終わりまで薄氷のように覆っているとだけ言っておこう。
ほらやはり冷血だから氷の吐息しか出てこないのか、そんな嘲笑が耳朶をふさぐけれど、それはもっともな意見なので否定するべきでなく、衒学を招き修辞を引き合いにして正当化する必要もない、何故ならすべてはL博士が明らかにしてくれるからであって、私の見解はむしろ感情的な、そう感情的な微生物でありたいと願っている。
薄氷から描きだされる透明度を片隅で担ってゆくため、太古より眠りつづける生きものとして。

いわれに戻ろう。返信が相手に届いていてから四日後、段ボール一箱が仕事先へ送られて来た。
開封してみたらいかにも古びたノートや反古が愛しくつめこまれており、どうして愛しいと感じたかと言えば、手紙の内容に等しくちゃんと年代別に並べられていて、ノートの記述は少数だと言ったわりには百冊ちょうどで、チラシもクリップで括られ、誰よりも深く資料を読み通した姿がまざまざと浮きあがってきたからであった。
そして同封された手紙は簡明だが、背筋が思わずたださずにはいられない筆致でつづられていた。

「このようなお願いを引き受けくださり、感謝の気持でいっぱいです。お話し致しました故人の遺物をお送りします。遺物など呼んでしまい失礼なのは重々わかっているのですけれど、わたくしには研究資料、文献であってもあなた様にしてみればそうではないかも知れないからです。お若い頃、少しの間懇意にされたとはことだけが頼みの綱ですが、現在では文字通り反古の山で終わってしまう危惧が勝り、とても不安になるのです。
正直に申し上げます。反古や走り書きの類いこれだけではないのです。すべてを託してしまえば、きっとあなた様は辟易されることと怖れをなし、これまでのように小説の題材になるべきなものを僭越ながら選りすぐんだつもりです。もしお役にたてそうもないと判じたときにはどうぞきっぱり見限ってくださいませ。ご無理を承知のうえでのお願いですから」

疑念は一筋縄ではたぐり寄せない。私は戻れない思春期という昏く、けれども花道を燦然と照らしだす明かりが放つ情熱のコントラストを決して忘れはしない。沈む太陽のかけらが海原のどこかで今もかがやき続けていると信じている。
段ボールが届いた日、メールでも連絡があった。これでいよいよ懐疑は氷解せざるを得なかった。不承不承のもの言いだが、薄氷はひび割れを求めており、そして割れ目を境にし、また別の薄さが生み出されてゆく。まるでオブラートの如くひとときの役目をこなし、奇麗さっぱり溶けてなくなるのだ。
反面、連想されるのはしょじょが秘める気高い純度であって、そこに不純な想念を見出そうと努める図式は徒労であり、ぞんざいな考えの賜物でしかない。
彼女の友人、そのなんとも名状しがたい想いを抱かせる名前に私は驚愕した。
想念はくるりと反転し、不純な動機が前面にせり出す情景を足場にしている不安定な確信へたどり着いたのだった。
「友人には違いありません。仲良しですから。いとこ同志なのです。永瀬砂里と申せばおわかりになるはずです」
「十分理解しました」
ひとり言だけが宙にこだました。が、ため息とは別種の悲愴な色合いに染まる。何故なら仮面の下に張りついた表情特有の歪みが送りだす負のエネルギーだと慢心するしかなかったから。
永瀬砂里、、、久しく触れてなかった響き、そして梅雨空の向こうに夏日が必ず待っているように、汗と涙は海水から湧き出た塩気を模しているように、その母、旧姓山下有理の不敵な笑みが背後にある。
永遠という大義をコンパスでなぞってみたところで所詮まんだら絵図の形を見つめただけに過ぎない。
「貴女の本当の名は」
そんな疑問は口にだせなかった。あまりにとんちんかんで不適格だと案じたゆえ。
これ以上、重箱の隅をほじくる真似はしたくなかったし、回想が保つ仄暗い領域を汚す行為もためらわれ、なにより至上の幻影を映し出すであろう鏡の作用であることを認めていたからに他ならない。
段ボールの中には十枚の白黒写真が収められていた。
裏面には日付とたぶん写真にまつわる名称が書き込まれている。そのうちの三枚はどう見ても同一人物のブロマイドだった。往年の女優それとも歌手だろうか、日本人の風貌だが誰だかわからず、記されているのはイニシャルでm.iとだけ。
私は見つけた。夢の地平線が切り開かれる入り口を。ブロマイドに香る匂いはちいさな紙魚だとひとり得心したのだった。


[448] 題名:L博士最後の事件簿 1 名前:コレクター 投稿日:2018年06月07日 (木) 16時59分

波打ち際からのぞむ遥か水平線がまだ朱を知らしめようとしないのであれば、論なく蒼穹の思惑は鮮やかな放心に満ちあふれ、陽光のまばゆさがどれだけ潮風をはらんでいようとも、弧影の深みは遠浅の白砂に交じり合わないだろう。たそがれを確かに通り越した真夜中の踏み切りの、酔眼で見遣る左右へと這った線路を冷たく照らす非常灯の青み赤みが千鳥足を阻まないように。
過ぎ去った時間から呼び起こされる光景もまた独り、優し気なまなざしと冷たい判断で支えられる濃淡の加減を先送りした追想は、他者にとってみれば落丁だらけの読み物でしかなく、あえて色褪せた想い出のなかへ眠る声なき声に耳を澄ましてみたところで所詮、世間話の特権である紙飛行機にそなわった軽い羽音以上の恩恵は得られないのだ。
とは言うものの、いま新たな物語りを紡ぐ理由をはっきり述べておかなくてはならない。

親愛なる読者諸氏には恐縮だけれど、私がかつて執筆したL博士にまつわる怪異編「蛇女の逆襲」「桜唇覚え書き」へ目を通されたことと断じ、ことの由縁を記す驕慢をお許し乞うと同時にその他の短編集、いや作品として発表したいくつかにも、L博士の濃厚な影が落ちていた実情を告白する次第である。
おさらい程度で申し訳ないが、彼こそこの町が生んだ希代の心霊研究家であり、その領域は今日でいうスピリチュアルにとどまらず、UFO確認、猿人探索、超古代文明論、密教の秘儀である真言立川流、ナチスにおける残虐異常心理、国家陰謀説、はては暴走族の集会に単身赴きその実態を見届けようと努めていた。
当時の博士の風采はいかにも年金暮らしの域から出ることのなさそうな、質素な一人住まいに甘んじているいるようだったし、身寄りの有無さえ尋ねるのも何故かしら気乗りがせず、それはたぶん私の方で妙に気をまわしており、更に穿てば、当時芽生はじめていた奇矯な気分に拍車をかけたいという執着が、博士の相貌をより異形に近づけたかったのであろう。
ともあれ十代半ばの未熟な意識へ映ずる影には陰湿だけれど底抜けに朗らかな一面をときおり覗かせては、私自身の育んでいた射幸心へと連なったのであった。

去年の暮、仕事先に一通の封書が届けられた。差出人の住所はとりあえず関東地方とだけ言っておく。いずれ進展によって視界がひらけるよう、ことのあきらかになるにしたがい詳細は魔術的な漂白へ導かれるからであり、蒼天がより際立つごとく澄み渡った白雲の意志を感取されると信じてやまないゆえにて。
これが久しく記憶の裡から遠ざかっていたL博士の面影をあらわにさせる発端であった。
聞き覚えのない書き手が語るに、
「唐突なぶしつけどうぞお許しくださいませ」
礼儀正しい挨拶を目前で受け続けているふうな自己紹介文が綴られ、あるべきして傾斜に身を委ねたとでも言いた気な筆致にこもる意気込みはとても奥ゆかしく、その熱意の冷めやまぬまま用件へと至る経緯に運ばれている。私は動悸をおさえることが出来なかった。
博士の姪の娘であること、遠縁でありながらしかも本人とはいっさい面識なく母親を介してのみ経歴等を後年知り得たこと、遺言を尊び長年の研究のなかから世に残そうと思案され選出された資料を保存していたこと、本来ならば自分がやるべきものを他人に託そうとしている怠慢、申し入れの必然さえよく顧みないまま直感的な判断に信頼を預けてしまったことなど、これら横柄な自身の態度に対して幾度も詫びつつ、しかるべき要因は友人より聞き及んだ博士を題材にされたと思われる短編小説を検索してみた結果、いったんそこで区切りとともに釘を刺す語勢を強めて、
「どうしてもあなた様にお願いするしかないと考えたのでした」
そう甘美な装いをしっかりまとったうえで文面はさきへ流れゆく。
たしかに慇懃な姿勢は崩されないにしてもどこか不敵な笑みを奥底にしまってあるような、また何か絵空事の交情を薫らせる面持ちを拭いきれないまま読み進めたあげく、
「全資料を提供いたしますので、ぜひとも故人の魂を解き放ってあげてください。失礼ながら友人から得ました情熱と合致するのではないかとも思われましたので」
ふたたび胸の高まりに身を震わせた私を打擲するかのような趣意が走り抜けると、取り決めがもとよりまとまっていたかの念いを募らせるばかりであった。
友人の氏名に覚えはあったし、長編への創作意欲に触れられてしまい、まだ残されている事情を悟るまえ私はほぼこの依頼を引き受けるようとしている自分に溺れた。
L博士との交友はSF洋画に似た趣きで必要以上つつみこまれ、小説で描いた内容はかなり潤色されている。
「蛇女の逆襲」にはかつての口裂け女の伝播を土台にしただけであり、涙で剥製のワニが這い出す場面も夢語りである。
「桜唇覚え書き」に至っては破綻作と呼ばれても仕方ない。鈴木光司著「リング」の作中モデルである福来友吉教授をL博士にすげ替えオカルトブームに沸いていた当時の事件の再現は、冗長な美文を意識しすぎたあまり、半端な余韻の濁りしか残せなかった。
しかし私の興奮を尻目にして脳裏へ去来する思念は、博士の死に関するあまりの冷淡さ、つまり上京と同時にすっかりその存在を忘れてしまった交誼の欠落、いや故郷を離れる挨拶さえしていなかった非情な性根に対する痛烈な悔やみであった。
そんな心境を見抜いた差出人が語った横柄な態度とはそっくりそのまま鏡の作用で、私のなかに蠢く葛藤を受け皿にする余裕で満たされており、あまつさえ以下で述べる強迫めいた願いの内訳も、時間をまたいだ金利にすら思えてきた。
ともあれ、私への要望は遠縁にあたる故人だけれども、研究成果を小説という形式でまとめて欲しい。自分は現在派遣社員ながら余暇がきわめて少なく、資料を年代別に区分けする程度しか出来なかった。専門業者へ持ち込んで自費出版する方法もあったが、恥ずかしながら薄給の身であり到底無理である、なにせ膨大な研究資料なので。またいわゆるその筋の篤志にも何人か相談してみたけれど、名もなき人物の煩瑣な考察にかかわっている暇はなしと口をそろえて、なるほど資料とは名ばかり、ノートへの記述は少数で大半はチラシの裏への走り書きの山であり収拾つかない、博士の故郷の土を踏んだことのない自分にとって、唯一の頼みはもうあなた様だけなのです。

翌日には返信を投函した。快諾の旨を手紙にしたため。ただ私に友人と言っていた者とのかかわりをもう少し詳しく説明して下さいと添えた。
そして信憑の証しであろうか。末尾に携帯番号とメールアドレスが記されていた件には、どうぞ次回からはそちらで連絡取り合いましょう、最初にお手紙を頂いただけでも貴女の品格は十分理解できましたと伝えておいた。


[447] 題名:花影2 名前:コレクター 投稿日:2018年05月22日 (火) 04時22分

額装におさまったふうな横顔を日に何度も思い起こしてしまうので、妙子は仄かな水彩が少しづつ塗り重なってくる感じを胸中にとどめておこうと努めた。振り払ってしまうには頻繁過ぎるし、向こうがわに浮上する面影をとりたてて不快とは思わなかったからであった。
むしろ懇意な男性も交際相手もいない身にしてみれば、華やぎを代行しているようなときめきがやわらかな光にそっと包また情景を思い描き、ちょうど空模様に即したまなざしが揺れ動く、こまやかな生彩を育んでいた。
ところが妙子にその横顔から想起される特定の人物を探しあてることは無論、少女の時分ひそかにあるいは友達同士で喋りあっていた歌手や俳優にあこがれた陽気な場面に重なることもなく、おぼろげな回想もよみがえってこない。
あとは美術館か画集で見知った印象じゃないかと意識をめぐらせたのだったが、不意にその詮索めいたな物腰から後ずさりしてしまった。
出来事の実情が常に居座るのであれば、どこかで願いなり欲求なりもしくは蔑みなりを抱くであろうし、うらはらにありありと映りこむ身勝手によって強度の反撥が生じているかも知れない。
たしかに胸のなかでは淡麗な味覚をなぞったような風合いが彩度を募らせ、日毎に移りゆく天候の明暗とも調和しかけて、仕事のさなかや大事な会話の途中に割りこむ横顔に対して違和を覚えることさえ熟知していた。が、色調に濃淡の気勢を認めるかぎり、逆に隠された情念は虚しさを糧に身のまわりから生気を抜き取ってしまう。
あたかも原色を授けられた風船に思いきり息をふきこんでしまえば、淡い寂しさが生まれてしまうよう、そして破裂寸前の小胆を代弁したかのふくらみは、どこかよそよそしく熱意とは距離を置いた彩りに満たされている。
これを妙子の心情に結びつけてしまうのは当然ながら酷で、たとえば奏楽を背景に空高くのぼってゆく大量の風船などではなかったし、額装一枚の裡に隠顕する男性の横顔に翳る表情の由縁を味到する意欲を持ち合わせているのか、やや曖昧であった。
見知らぬ異性、好奇に寄り添った実際は自覚出来ても、肝心の恋情がこころの壁にも、あたまの襞にも絡んでこない。ただ縁起かつぎをわずかほど信じた、星座占いに少しだけ惹かれた、手相をときおり眺めては思いついたとばかりに教本をむさぼる。そんな行いに別に罪があるはずもなく、妙子の想いはことさら風変わりと言えないだろう。
ただ異性だけでなく気軽に友達と呼べる者もいなかったことが、横顔の醸す得体の知れない冷徹さを増幅させる結果に近づいてしまい、煩悶を招くと同時に、投げやりな感情の処理場を見つけだそうと焦りはじめた。
哀しみにひたる果断な暗所は別として。
そういえば額縁の素材や色つきは、大きさは、横顔に宿る意味合いをなかば放擲してしまう意想はかなめの面差しからの逃避ではないか、あえて暗所からこわれものを運びだす慎重な手つきに頼らざる得なかったのは、やがて定見に踏み入れたからであり、日増し深まる邪念と向き合う、ある意味選び抜かれた心持ちに支えられていた。
薄明に遠く眼をやる、あの醒めた外気と触れ合う肌の感触は忌まわしい意識の明滅を正面から受けとめる願いに帰順していた。
そして光線の加減が春の修羅をそれとなく伝えようとしている不遜な優しさをそっと胸元へなでつけるふうにしてから、
「きっとあの横顔は将来の花婿なのよ」
そうぽつりとつぶやいてみるのだった。


[446] 題名:花影 名前:コレクター 投稿日:2018年05月15日 (火) 05時53分

おそらくすべてが寝静まっていよう気配は夜具の安寧にこじんまりと敷かれており、一日の単調な秒針の動きに惑わされることさえ忘れていたまどろみ際、眼球の奥底でうごめく禍々しさを軽やかにあしらう仕度は明快な影とともに整いつつあった。
近隣の夜道をかき分ける車両は逆に秒針から遠ざけられ、まさに夜のしじまは離れの国道をゆきかうどこか草々としたくぐもった走行音のみを残してゆくのだけれど、突風のような自然がかもす不穏な荒くれと異なり、あくまでちいさな響きでしかない。
むしろ寝入りの年がら年中通した風物詩だとぼんやり浮かんだ念いこそ自若を裏づけているようにさえ感じる。もっともおさない頃には台風や豪雨のもたらす危殆に瀕している時間をかけがえのない過ぎゆきと他愛もなく胸おどらせたものだ。
幼少の想い出をこれまであれこれ書き綴ってはきたが、別に普段と違った雨風の事態ばかりに淡い期待を描いていたわけでなく、つまるところ怪異に導かれる不思議にこころ揺れていたのだろう。眩しすぎる陽射しの足もとに焼きつく翳りの裡にこそ真夏の訪れを見出したように。

たしか以前も記したの覚えがあるけれど、夜間のいわゆる金縛りと昼日中の現れには相当な隔たりがある。
灯りの退いた室内へ忍びこむ影は色彩をまとっているのだからかなり奇妙だし、眼前にうごめき、あるいはたたずむ兆しはおのずと異形を背負っており、脳裏に浅くひらめく確信はあきらかに模造の宝石だと認める拙さを反対に後押しする。
それは闇が光を理に反する箇所でしたたかに欲しているからで、人工的なものが常に高尚さを求め、引き寄せてやまないせいだと見なせば、たちどころに妖気の大半はかき消えてしまうだろうが、たとえばお化け屋敷の幽霊やら妖怪に実相を得られない、湿り気を含んだしかし快闊な怖さになにかしら似ているふうで、はなから嘘くさい演技を見届ける意気が失せているにもかかわらず入場し、それなりの体感やら情趣にあやかるといった案配である。
しかし金縛り現象、いわゆる入眠時幻覚と呼ばれるものとお化け屋敷ではまるで情況が違う。
貸し切り入場だったとしてもそれはまったく異質の個人的体験だし、更につめて言えばそれはとても哀しい出来事であり、裏面、夏の夜空に大輪を咲かせる華やかな彩りが哀しみを緩和させるようではあるが、就寝の、暗闇の、ひとりぼっちの、予告編が紛失したあてどもなさの、門口の極めて曖昧なやわらかさの、あるいは滑り台に似た急降下の見知らぬ空間は風物詩以前の驚怖にまみれた豪奢な感覚だからこそ、日々の不安は明確な烙印を授かる。
さきほど昼日中の現れと書いたが、これが実に軽妙で簡潔に話せば、天井からちりちりと線香花火のような糸くずが垂れ下がり、頬をかすめてゆく。しっかり見つめたのだから、その色合いも縮れ方もありありと覚えていて、しかもカーテン越しの陽光にとけあっていて、驚怖や戦慄とは別様の妙味があり、さながら炎天下を避けた軒下にてうさん臭く、またはふて腐れ、ひとり線香花火を楽しんでいる風情とでも言えばよいのだろうか。

深夜の幻影についても語りつくした。忘れているなら少しだけ。誰か手首だけが胸元を這う、着物の老婆が布団のうえに座っている。にわとりが鳴く、猫が鳴く、そうこれはごく最近のことだれど、夢ともうつつとも、目覚めたあとの妄念のゆらめきとも、そのすべてが折り重なったような情景を見た。
ざるそばを二人前ほど茹でるのに適したアルミのなべのなかへ白猫がすっぽり。まるまっているのでもあるまい、冷水か湯なのかよくわからなかったがちゃっぽりとあたままでつかっている。
ちょうど花冷えの夜でまだ毛布のぬくもりが恋しい矢先であった。とにかく異形なる風体は布団のうえに出没するのが常套手段と見なしたまでは沈着だったけれど、まさかその猫がしゃべりかけてくるとはお釈迦さまでも予言できまい。
瞬時、化け猫かと考えがよぎったけど、肝心のその話しぶりをさっぱり忘れてしまった。
ただその白猫はどうにも居心地が悪いらしく、あとから思い返せば、彼らは狭い空間を好んで戯れつく習性があったことなどどこへやら、近づいてみるとなべから湯気が立ちのぼっているではないか。これでは煮立ったてしまう。だから訴えているに違いない、そう判断し、すぐさま猫を取り上げようとしたのだったが、これがうまくいかない。たぶんあわてたせいで余計になべにへばりついてしまうように思われ時間は緩慢によどんだ。

ようやく危機から脱出したのは、懸命に人語を操っていたであろう言葉を思い出したときだった。猫の訴えなのか本能なのか、なべを逆さにしたらするりと逃れ落ち、安堵と一緒にふたたびその口調を夢幻の彼方へ追いやってしまった。


[444] 題名:続・午後3時 名前:コレクター 投稿日:2018年03月13日 (火) 04時42分

去りゆく車窓のひとこまに抜け道らしき眺めを見出すのは不思議なことでなく、むしろ突風にあおられた落葉が過敏な色彩をいっときまとうような錯視の果てにありうる。
もっとも空目の彼方は網膜のうらがわへといつしかへばりついた光景で重なり合っていた。由縁をたどる軌跡もまた曖昧な実情で揺らいでおり、焦点が結ばれるまえから華やかな縮図は抱えられ、ちょうど絵巻物がひもとかれる舞台を呼びもとめているのだった。
線路をひた走る狂躁へ向うしかない諦観こそ、きらびやかな静寂に招かれては浮遊する笑みをたたえているではないか。
それは日盛りの険阻な鉄橋から見下ろす川面の冷ややかさであり、鏡の清冽さに他ならない。
正午の太陽により落ちた影が織りなす幻影はゆるやかな響きを奏でつつ、新たな捷径へと引きつけられていた。
その気分は学童の遠足に似た開放感にあふれながらも、集団の歓声やら吐息で満たされた緊縛から逃れなかったし、相反する意識が背伸びした影法師を作り出しては、仄かな恋情を不特定の異性に投げかけていたのだった。
あの大人びた感覚はおそらく成長することなく現在まで連なっているのだろう、決して激しさにとらわれない夜のしじまの気配を味わう素振りはやがて妄念へと沈んでゆく。

トンネルの暗がりに張りつく時間の隙間から午後3時の時報がもれだす。
忘れもしない、あれは7年まえの想い出。が、ちょっとした風向きで景色の見栄えが異なるように、中折れ帽の連れの顔だちはおぼろげなまま、かりそめの表情へうつろい、誰とも言いがたい人物にすり替わっていた。
「どうせ先に帰ってしまうのだろうな」
舌打ちと一緒にひとり歩き出した記憶がよみがえる。同時に国道脇から山道をたどる木立の蒼然とした雰囲気にのみこまれる間もないうち、憶えがあるのかないのか分からない町並みへとたどり着く。
まだ知らない土地の匂いは新鮮なのだが、あまりに近すぎた道程だったので、どこか醒めた感興をぬぐえなかったけれど、褪色から逃れている古着みたいな手触りと香りに遠い情景を見出し、幼いころ抱いていたであろう、淡いあこがれが胸の間近に滲んでいった。
ゆきかう人々や野鳥のさえずりを目にし、耳にし、ひたすら進むさきはどうやら鉄橋の下の川筋であることに気づき、家並みに沿った用水路のようなせせらぎの音は蝉しぐれと交じり合うかの聴覚をあたえてくれる。
水辺に対する限りない念いの導き、それは浅瀬に透ける川床の青みがかったひかり、早瀬のたてる無垢なしぶき、深みに怖れながら足をひたしてみたときのためらいであった。
やがて海原に孤立した小島の洞穴へ想い馳せたとき、しめやかな暗黒が夜と共に舞い降りてくる。
民家も絶え、田畑を通り越した辺りは滔々と流れるせばまった川岸だった。夕暮れどきを絵にしたような朱が天空を染めあげてからかなり経ったにもかかわらず、宵闇にまぎれた腕時計の針は午後3時を告げたまま微動だにしていない。
残照がまだこぼれた針の先を鈍く光らせているかのようだった。不意に金属片の記憶が脳裏をよぎる。
冬空のくすんだ色合いに血の通った頬の彩りが優艶なまでに距離を保っている。
早瀬で急かされているはずでもないのに、なぜか焦点を求めてやまなかった。そしてついに夜を孕んだほこらを見つけたのだった。
くだんの中折れ帽の男らしき人影をほこらの横に認めたは決して寂しさや怖れによる幻覚ではないだろう。
「ずっと待っていてくれたんだね」
ほこらの中では手のひらに軽くおさまりそうな、こうもりの死骸が牙を細く小さく尖らせていた。


[443] 題名:何かへの旅 名前:コレクター 投稿日:2018年02月06日 (火) 16時18分

列車の振動は山峡にささかかると、その曲がりくねりがもたらす催眠効果をより増幅させるのか、季節の過ぎゆきに性急な瞬きは無縁とばかり、雲間へ移ろいだ日輪を讃えるごとくトンネルの漆黒が華やぎ始める。
まぶたの裏をかすめ続けた夏の陽射しは退き、さながら魔性のひるがえす怪しきマントの姿態を想わせた。
むろん依頼人への斟酌が寄せては返す波の音を模すのか、緊迫と焦燥とが編み上げる言葉にたどり着けない独語は浜辺にひろがるような静けさを謳い揚げ、眠りへのとばりがたやすく降りてくるわけではなかった。
用意周到のつもりで重みがかさんだバックは決して脇から離れるつもりはないらしく、先走る手はずに苦笑いを投げかける小胆も健在であった。
しかし鋭意な心がけのその上っ面はやはり溶け出しているのだろう、盛夏の車両に乗り込んだ不穏な熱気はゆき届いた空調により、時間が孕む明晰な翳りへと傾き、その羽ばたきを、夜鳥の証しを消し去ることはできそうもない。
目覚めは長くもあり、とても短かったから。
ホームで見遣った家族連れの光景が浮き立たせた郷愁、独語にさえ寄りかかれない、けれども靦然な装いに彩られたなき恋人への便りがひとり宙を舞うと、そこは異界だった。

さい果ての地へたどり着いた皮膚感覚が世迷い言のようにたなびいている。
視野をふさぐのは雪景色にあらず、寒風にさらされた木目がかいま見せる殊勝な柔らかさであった。浮き足だつ旅情に流されるまま、辺りを眺めればひとけもなく、上空から鉛色をたぐり寄せて張りつめている電線の結びが妙に艶やかで、醇乎とした風情さえ感じられる。
北国からの依頼にあやまりなく、この土地へめざしたのなら、煙にまかれた眠りの世界は半透明に違いない。確信への歩みはいにしえよりの規矩に支えられており、危ぶみを浄化しうる醒めた倨傲がひとり歩きしていた。
うしろに樹齢の枝ぶりに似た気配を察するまで、明暗の隠れ蓑を借り受け、異相を念写しようと務めだしていた。
父の顔から縁遠い場所へ連れて来られた怪訝な目つきを消すことはできなかったが、苦渋まで至らない様子がそれとなく読み取れ安堵した。理由は判然としなかった。枯れ葉に薄き笑みがひそんでいるようなちいさな歓びが透けて見えたせいかも知れない。
「ここは変わった建物だな」
寒さでのどがかすれているけれど、父の声は風向きに乗っている。
「日が暮れるまえに宿を」
そう言いかけて、あらためて依頼主の面影が描きだされそうになったが、親子ふたり旅である実情に向うと、不思議の壁は予期した通りゆるやかに崩れゆく。
吸血鬼退治は肉親であれ内密だったから、そして恥じらいで縛られていたから、いまこの時間に裏づけはいらなかった。崩れたがれきをかき分ける健気な気分にうながされ、
「ちょっと覗いてみようか」
等しくかすれた声色なのだが、果断な響きは冬空に細く突き刺さったと思われる。
父が視認するまでもなく、そこは風変わりな造りというより、深い記憶の奥底から甦ってきた蒼然たる病棟の回廊であった。手術中と筆書きされた用紙が古びた部屋のすべての入り口に平然と張りついている。
「臨時募集の方ですね」
不意に真横の扉が開き、白衣の医師らしい男からにこやかにそう尋ねられた。
否定も肯定もしない、奥まった先に位置する階段をぼんやり照らす白熱灯の、旅人と臨時雇いとをないまぜにした明朗なもの言いの、痕跡をたどれぬ悲哀が宿る夜のしじまに対する恋闕の、奇矯な明るみに打たれただけなのだろう。
すっかり忘却の彼方にしまいこんでいた列車の振動が瞬時よぎると、この空間がとてつもなく愛おしく感じられてくるのだった。
「とりあえず手順を教えますので、いえ左程むずかしくありません」
勢いのない筆書きとはうらはらに招き入れられた手術室は蛍光灯が赤々とかがやき、たぶん臨時の面々による実習が恬淡とくりひろげられていた。
「ある種の美容法なのですけど、申し訳ありませんが委細はお話できないのです。ごらんのように流れ作業の要領で施術がおこなわれます」
なるほど、この一室にベッドは六床、シーツで身体を被われた若い女性が横たわる側へ臨時係らはたたずみ、顔面に指先を微妙にあてがっている様相がうかがえる。
見学の姿勢で見つめていると、手早い処置に流れベッドは次から次へと台車の本領発揮とばかりに別室に運ばれてゆく。
「ごらんのようにこの部屋では一種類の作業だけ担当してもらうわけでして」
手術から美容さらには作業へと収斂する異郷の眺めは遠く、片や近かった。
邪念のすべりこむ余地はないと思われた。父がどこに連れていかれたのか、あるいは自らの意思で他の部屋へ臨んだのか、気にもとめなかったし、流れ作業の手順とやらも見よう見まねで揮えたし、責任者であり医師と思っていた男がまわりから主任と呼ばれていることに違和感を覚えなかったし、さらに純度を高めたのはまばゆい光がまっさらなシーツを照り返しては、四季をひとまたぎしてしまった白銀の旅愁にのみこまれたからであった。
期待には奇態が能動的に働きかけている。鮮血こそ見出されはしなかったけれど、女性たちの作業を施される際、苦悶を取り込んだと見紛うばかりの面持ちにはある種の恍惚が目覚めていたに違いない。
「左側のですね、頬骨の箇所に金属片が埋めてあります。まあ以前の工程です。これくらいは説明してもいいでしょう。さて、個人差がありまして深く埋まってしまい、そうです、肉に沈んでしまうと呼称しているんですけどね。たいていはこのピンセットでつまめば軽く浮きでます。その先端にはフックをかける穴が開いており、穴が確認できたところで作業はおわりです」
主任の解説はきわめて明瞭であった。しかし、字義通り釘をさすように念を押された。
「とげ抜きみたいなあんばいと考えないでください。さきほども言いましたけど、金属の深さは一様ではないので抜きさしならないのです。あくまで慎重にお願いしますよ。あまり痛がったり悲鳴をあげたらすぐに申し出ること」
よく見渡せばその後の主任はまるで教壇に立つ面持ちで監視の目を光らせている。
難題かも知れない。とげだって神経に触れていれば相当な痛みが生ずるだろう。だがすべては杞憂であった。
なかにはどこへピンセットをあてがえばいいのか判明できないくらい健常な頬を間近にしうろたえてしまったが、以外にも当人が小声でほくそ笑みつつ人差し指でしめしてくれたり、金属片に穴が見当たらず、思わず主任を呼ぼうと焦ったところ、苦痛をかみしめているのが当然だというまなざしを送られ、震える手先に落ち着きを取り戻したら確認完了などという場面があった。
それから場面は曇りガラスの品格をかろうじて保ちつつ、忘却と悦楽の狭間をめぐり、晴れ間を夢想しながら苦渋の裏より露になった穂波の渇いた、けれどもたおやかなささやきに溺れ、逸した時節のなかへ埋没するばかりであった。ふたたび背後に立つ父の言葉を耳にするまでは。
「そろそろ帰るか。列車に乗り遅れるぞ」
まだまだ作業を続けたかった。抵抗する気概が失せていたのではないと思う。言葉がようやく単調な意義に導かれたような気がしたからであった。素直にうなずいた。
「まだ旅の途中だしな」
父もまた正午の太陽を見上げるようなまぶしさを忘れかけていたが、おそらく失ってはいない。
「ちょうど一時間ですね。それと歩合がありますので。今日の賃金です」
機械仕掛けで動いているみたいな主任の人柄も忘れなくなってしまった。


[440] 題名:かがりび 名前:コレクター 投稿日:2017年07月11日 (火) 02時53分

長い夜から目覚めた。夢の遠近に際立った変化はなかったが、狂おしい情趣がたなびくことはなかった。恩恵を忘れた小鳥の羽のように。
白雲がよく映えた夏の朝、列車を待つホームから遠い町へとのびるレールにふりそそぐ陽射しをゆったり見つめながら、何故かわきあがるべき旅情を制するような、物おじが先立つ足もとに気をとられてしまって、その影は反対車線のさきほどから鈍いを音を放っている車両の下へもぐりみ、見知らぬ土地にまぎれこんだ幻像を浮かび上がらせると、時刻表に則する規律に重なり合ったまま次の駅の光景を、卑近なたたずまいを一変させた。
それはなき恋人が微笑みかえすような切ない情感を宿し、
「手荷物は重いほうがいい」
あとわずかな時間ですべりこむ列車に乗りこむ気概がそんな声を耳にもたらした。
いや、本当はバックはおろか腕時計さえ無用であって手ぶらを望んでいたはずだ。どうしてかさばる荷物を持ち運ばなくてはいけないのだろう、まるで緊急事態の警報によって促された口ぶりではないか、むろん声の主がなき恋人であるはずはない、だとすれば箴言めいた耳鳴りは不協和音によどみ、生理的嫌悪を催させるのだけれど、よくよく思案してみれば凶事の形骸だけを簡素に伝えようとしているだけに過ぎなく、掌が覚える重みは転じ、葬儀から解放されたあとの厳粛さをはらんだ名残りでしかなく、やがては歌劇など鑑賞する優雅さを含みもっているかも知れず、さらに優雅さとは歌劇以前の効果音を鮮明に耳朶へ送り届けることであって、現実感が希薄になるというより、拭われるべき音像に包まれていた来たるべき夢見をひもとくなら、心地よく神経を逆なでしてくれるに違いない。
決してあらゆるものに対し耳をふさぎ、目を閉じたわけではないことは、ちょうど蒔かれた種子が日毎に成長する姿を欠かさず見続けているより、つぼみが開花する待望の日まで待ち受ける方が、大きな感銘を得るよう、過程に一切まなざしを遣らず、その先に現われる結実だけ願い通したとしたら・・・さながらタイムカプセルに封じて未来へ送付したのだとすれば・・・必ずしも影の中だけに冷徹さを呼び込み潜んでいたとは言いがたく、何故なら夏の鮮烈な陽射しは、夜のとばりに大きく首肯すると漆黒のうねりを意志なき素振りで招き寄せ、自らの分身である様相にむかいながら、あくまで悽愴な美しさをかいま見せては華やかな、けれどもきわめて厳粛な二重奏を共振させていたからである。
見知らぬ、と言ってもまったく思い当たるふしがないわけではなく、ただ面識がないというだけで文面に立ちのぼる相貌よりただよう気配は濃淡の自在とは別のあり方に頼って、胸の片隅に置かれていた。
夢の不思議はそんな相手をどういった筋道で駆りだし、浮上させるのか。しかも淡い憧憬が字義通り初恋に似た情調に導かれ彷徨いだせば、まさに日頃の町並み、ゆきかう通りにてその面ざしと出会うのだったが、覗きこそ夢の特権などと驕慢な意識は到底はぐくめなかったし、なにより不可避であることは自らの羞恥が心得ていた。
その恥じらいは日毎の成長から視線をはずした欲望をあと押しする不遜にしっぺ返しを受け、火照るはずのない頬は、まるで徘徊に興じていた足もとへの叱責にも感じられ、偶然だろうが無稽だろうが、悟られる瞬間を回避するしかなかった。覗きこそ撮りたい発心なんて、ひどく観念的な謂いを思い浮かべればがさりと位相がゆらぐ。
しかし問題は熱射病に冒されたふうな情況をはるかに凌駕していた。
夢の邂逅から間もなく寄せられたあまりに唐突なその報せをどう解釈してよいものやら、が、非常にとまどっている由縁はさほど意味をなさない。それはかつての記譜法が弛まず用いられており、夢幻を空に仰ぎ、異形を大地に見届け、透き抜ける情念を海原に捧げた技法はおそらく正鵠を射ておらず、むしろ造反の昏き意想にゆだねられていたからである。
とはいえこれから綴るあらましの信憑はいつかの肝試しを彷彿させるだけかも知れないし、背筋に走る冷ややかな薄気味悪さを想起させては暗幕に閉ざされ、微塵の本意も秘めておらず失笑を買うのみかも知れない。戯言の条件で満たされるほどに、風物詩は傷つけられ、世迷い言が大手をふって歩きだしかねない旨を、墓碑銘がしめすあの絶え間なき静寂に敬意をはらい記しておく。
家族連れと見える四人はあらかじめ指定されていたかのベンチに腰をおろし、きらめく陽光を背に受けながら、これからはじまる旅の空を思い描いては屈託のない笑みを投げかけあっていた。
年子だと穿ちたくなってしまう男の子と女の子のいたいけな両足がじゃれあい、交互に影をまるで振り子のように泳がせている。
まなざしはそんな穏やかさに親しみを覚えていたのか、あとわずかの時間で到着する列車の轍へと伝わる振動を風と見なした。
季節のめぐりに立ちすくみ、もろ手をあげてみたいのびやかな衝動に歓びを感じ、頬をなでる髪の軽い心地を想い返す。今が盛夏である景趣は退き、駅舎の陽だまりから放たれる匂いは中空を舞い、帰巣にはまだ早いカラスの飛翔が遠い衛星の陰をなぞれば、目的を眼前にひかえながらその目的さえ反古し、さきほどの時刻表の文字がゆっくりと溶けだす。やはり今は夏の盛りなのだという気持を胸の鼓動がいさめ続けている。
両親から距離をとった子供たちに優しくも手厳しいひとことふたことが投げかけられると、ふたりして血の通った表情が大仰につくられ、ちいさな奇声はほどよい半径の裡にゆきわたる。
秋かもしれない。異国の狼の群れが野山にこだまを飛ばす。そう、次なる駅のさきにはトンネルがあり、トンネルを無数にくぐり抜けたさい果てには異なった季節が訪れていることであろう。

吸血鬼退治を依頼された。くだんの見知らぬ人物によって。
これまで禁断の裾野に幾度か足を踏み入れたことはあったけれど、単身にての対峙は初めてであり、安請け合いも甚だしく、かろうじて意欲の連なりのたなびくゆえんは、うつろな絵空ごとが背景にまわり些細な矜持をほのかに照らし出してくれたおかげ、たとえ錯誤であったとして、偏狭に苛まれていたとして、その不甲斐なさの乗じる場所に映りこむ影絵は幾分か濃淡のみの世界から逸脱し、いつしか万華鏡の色彩に描画されようときらめきを求めだす。
過去の夢魔は早熟果実の甘味に包まれた馥郁たる香りを予感させ、あでやかな想い出となって月光の彼方へ消え去り、夜明けを迎える頃には、魔術によってきつく縛られた氷嚢が、陽光に汗を滴らす場面と同じく時刻ともども溶けだしてゆくのだろう。
現実はずいぶん勿体つけて正体をさらす。
道具の仕入れには念をいれたつもりだ。効験を過信してやまない聖水の入手は思ったほど困難でなかったが、聖油、聖土はかなり怪しい経路を伝った。魔性を突き抜けまごころまで映し出す鏡に手垢は許されず、霊験を高めようとしわのばしにアイロンがけした護符は危うく焦がしそうになった。ニンニクはスーパーの野菜売り場で、聖書は本棚からずいぶん古びたものを引き出した。杭の類いは失敗のおそれなきようホームセンターで鋭角で重みのあるものを数種そろえた。さて十字架であるが、手持ちの装飾品すべてをかばんに放り込んだ。銀製には拘泥していないという心情のなせる所為である。
実際には退治道具をふるう舞台は前景へせり出してこない。むしろ吸血鬼が夜気を讃えようとして翻す漆黒のマントにすべてのみこまれて、その裏地にひろがる真紅のかがやきによって生じる恍惚の支配から逃れるすべなきうち、続けざまに夜の遠浅の海岸へと思慕はひろがる。月あかりに現れる明確なひとこま・・・砂浜に埋もれたふうな物腰はすでに退治どころか攻める意気さえ放棄しており、一刻も早く、が、相反するよう出来るかぎりゆるやかに首筋へその尖った犬歯を突き立てて欲しいと願う浅ましい影に深く被われる。
魔性の特権、不老不死を乞い求める意志ではない。それは歴史時代をくぐり通そうなんて気概とはうらはらの、もっと即時的な、まばたきより一瞬の情事に身をやつす悦楽と恐懼をさずかりたいだけの、生死を不可分なく謳歌する太陽の無垢にあぶり出された詩情に他ならない。
片やさすらう夜風に呼応する夢の潮騒の調べは、駅から駅、トンネルからトンネルを通過する車両の響きと折り重なり、夏日の下に色彩を流しつつ暗黒に遮断される。なき恋人の面影が白い雲に霞む。
果たして吸血鬼を葬れるのか、列車の到着を待つあいだ、罪をまとった瘴気はあらかた滅んでしまっていた。


[439] 題名:くぐりど 名前:コレクター 投稿日:2017年03月14日 (火) 05時23分

以前懇意にしていた男に列車のなかでばったり出会った。
その面差しはこころ踊る音楽に浮かれていた頃のことだからよく憶えている。あれこれ互いの近況を交わしながら列車に揺られているうち、あの懐かしい旋律も幾度となく頭をよぎってゆくのだけれど、同時に話の内容はどこか希薄な思いがして、車窓を流れゆく風景の色相にさらわれたのか、次第に眠気をともなったもの憂さへと沈みこむ。
「引っ越したから今度うちへ遊びに来てくれよ」
彼の口ぶりで残ったのはそのひとことであった。
重くなりかけたまぶたの裏に一条のきらめきが射したようであり、それはこたつでうたた寝しながら尿意をもよおし目覚めた直後に怪獣映画がテレビで放送されることを、ふと忘れていた小さなよろこびのあどけない記憶に結ばれる。
「今日はちょうど妹の里帰りでね。少しばかり物々しいけど、まあ気にしないで」
こんなときにわざわざ足を運んだりしたのだろう、少しばかりなどという代物ではなく、とんでもない情勢に面しているではないか。
まったくの初耳であったけれど彼の妹は某国の要人に嫁いだそうで、聞けば誰もが認めている名であり、物々しさを通りこし、家中はもちろん近辺にいたるまで厳重な警護で固められているのが、様子をうかがわずとも明確に伝わってくる。
しかも身内らしき人々はこたつを囲んでくつろいでいるのか、緊迫した意思を抑えつけているのか、よく判読できない表情を張りつけたまま、あいさつやら談話に投じようと努めていた。
相当な居心地のわるさを問うまえに、こたつがあるこの客間は私の生家に酷似しており、ガラス戸越しに整然と映る機動隊や警官の背から発せられる威圧の影も加わって、過ぎ去った日々の想い出はより濃い密度に高まらざるを得ず、軒下から玄関、縁側、裏木戸は言うに及ばず、仏間や二階の各部屋、半分自分の勉強部屋であってそうではなかった空間、むき出しの心情が鎮座し続けていた白濁した場所、そんな想念を息吹とみなしていた押入れの奥行きなどが、郷愁にゆさぶり起こされるのであった。
「さあ、いらっしゃったようです」
誰が声にしたのかわからない。
たなびく気分は霧散しつつも、生家が勝手に流用されている野放図なありさまの驚きから解放されることはなく、むしろ腹立ちがたおやかな掌の慰藉を受けているのか、おそらくそれは昔日、自治会やらの名目で近所から、かと云ってさほど見なれた顔ばかりに限らず、それぞれが寄り集まってくるどこか祭りめいた晴れ晴れしい雰囲気に似ていて、さらに追思すれば、いつしかの夜店へ灯った裸電球のいましめを裡に含んだようなきらびやかさが胸中にしみわたる。
決して暗がりへ色彩を満たすだけの好奇からではない。
見知らぬ他者をどこかで厭いながら、一方では取りすがりたい卑屈な心性が葉擦れのごとく揺れていたのであろう。
佳局はこれからに違いないのだから、酒宴の陽気さに少しばかり(ここで彼のもの言いが嫌味なく飲み込めた)退いた加減はおごそかな空気で保ち背筋を伸ばすしかあるまい。
霧の立ちこめた水面が開けていく風情を宿した貴婦人なる妹のあらわれは澄みきっていた。
ところがそれからの成りゆきはかなり不明瞭で視界に浮かびあがった映像は、かつての怪獣映画ほど鮮明ではなかったし、先行きを案じていたのか、どうやら焦燥的な結末を迎えたようである。
凛然とした妹はこたつに近づいて間もなく、トイレに行きたいと静かな声をだした。とっさに私は彼女の兄の顔色を追いかけたのだがよく考えてみれば、その姿などはなからこの家になく影絵でしかなかったのか、どこにも見出せそうにない。危惧とは別の確信であった。
私は当然のこと焦りはじめ、高貴な風貌と誉れを遺憾なくまとっている妹に対し、得体の知れない親和を覚えたので気をまぎらわそうとして眼に入るだけのひとの頭を数えようとした。
そんな羞恥を押し隠した私とうらはらに兄の影すら持たない妹は、なぜか洋服も下着も脱ぎ捨て全裸のままトイレへ駆けこんだ。


[438] 題名:幽世 名前:コレクター 投稿日:2017年03月07日 (火) 01時44分

もどかしいほど静かなのね。
ええ、とてもゆったりとしたさざなみが押してはかえし、かえすさなかあなたの産声をどこか遠くに耳へしたような心持ちが生まれて、それはそれは不思議な響きがするのです。
でも生まれたてすぐさまの音色なんか、案じてみてもとりとめないですし、かりにそっと不穏の種が軽くはじかれたのか、あるいは地平の貪欲さがにじみ出たとして、今の気分からすればさほど大仰なことがらではありませんわ。
昨日をふりむくようすっとまなざしを投げ遣ってみたところで、それは幻聴がばねをゆるめたおとし子だったかも知れないし、第一ゆくてをさえぎる風のささやきがあなたの所在に与しているようで仕方ありません。
ただ夜風を背にうける不遜な意識が鼻孔へ微かな反乱をもよおすときだけ、まとまりのつかない感覚にいざなわれ、ほの明るい静寂のなかにたたずむ異形がわたしをとりこにするのでした。


幸吉は湯女というものを知らなかった。
適当な知識くらいははあったかも知れないけれど、間近に触れてみたことはない。しかし今こうして指先をのばすまでもなく、その冷ややかさに促された生暖かさを感じとっている妙な気分にまわりは、淡い恋情が肌よせあっているふうな懐かしさで満たされていた。
「どうも最近、耳の奥がかゆくてね」
色変わりを見定めるより早く幸吉は、眼窩を制するまだ残された少女のおもかげに甘酸っぱさを覚えかけると、訝しい虚勢がちらり顔をのぞかせては、そのくせ足場のおぼつかない土台はいつまでたってもこのまま放置されてしまうようで愁いに苛まれるしかなかった。
「よく見てあげましょう」
吐く息が耳朶をくすぐりそうな甘い恥じらいに幸吉の頬や首筋はほんのり染まりかけた。しかし、湯女の姿態を取り囲むがらんとした無味な部屋の様子にふと我へかえった途端、ちりひとつ舞ってないかのごとく空疎で間延びした情況が押し寄せてきた。
白襦袢の居住まいに湯気はまったくおりてない。
湯女と呼ぶにはふさわしくない相手は、
「わたしにはよくわかりませんわ。ほらいい具合の陽射しなのに奥のほうまで届かないようですね。それならちょうどよいからかみそりで髪の毛を切ってあげましょうか」
確かに陽当たりはどうした加減か、泣きたくなるくらいにほどよく、だが唐突に言い出した言葉にことさら驚くこともないまま、それは少女の顔の反面へ浮きあがっている鋭利な欲情を見通してしまった過誤によるものだろう、過誤でなければ事態でかまわない、そちらのほうが好都合であると、幸吉は薄ら寂しい夜風を耳もとに後追いしながら眠りおちた幼年のころを思い出し、暗鬼へと連なる怖れと期待に胸を震わせた。
寝入り際の微細なものおとが醸しだす景色は、夜の闇の支配に縛られるとは限らず、恐々した様相に傾いていくばかりでなく、反対に青空をゆったり流れる雲の静けさであったり、昼下がりの縁側をわがもの顔で闊歩してゆく鈍い毛並みをした野良猫だったり、向こうの草むらにひそんだ蜥蜴の尾の俊敏なひかりの動きなどを映しだしていた。
もし夢見のとば口に番人がたたずんでいるなら、現在でも幸吉を歪んだ絶景に導いてくれるのだろうか。
「さあ、おとなしくしていて。このかみそりはとても切れるから」
なるほど湯女の演じる手もとに狂いはなさそうだ。
そして片ひざを起こしたとき、さきほどまで疎遠であった肉体の照りがあたかも陽光に呼び求められたのか、襦袢の白みを抜けたふとももの染まり模様、それはこぼれ湯を浴びたごとく華やいでいるのだった。


[437] 題名:焼飯 名前:コレクター 投稿日:2015年12月15日 (火) 05時31分

草木も眠る丑三つ時、窓の外は冷え冷えしているに違いない。
成瀬巳喜男監督の「めし」を観て、ほっとため息、もう一本鑑賞しようかなんて考えがうそ臭くよぎり、さっきから小腹が空いている実感が大きなうねりとなって押し寄せてきた。
明日は休日、しかし何処へ行くというあてもなく、いつもの寝たきりを思い浮かべては、馬鹿みたいにうれしさを我慢している自分が少しだけ哀れになり、その感傷にひたる余地が歯ぎしりを呼べば、放っておいても胃の訴状を聞かざるを得ない。
所在なくパラパラと雑誌をめくると、家庭で作る本格中華なんてページが、待っていましたなんて言わんばかりの華やかさで目に飛び込んでくる。
八宝菜に青椒肉絲、回鍋肉に天津飯、ざっと眺めるのは観光気分だと半ばすねた意識をかいくぐり、焼飯の欄に視線が定められた。
運命の出会いかも知れない、そう大仰に声を出したいところをこらえるまでもなく、乱れ、枯れた意識にうるおいが呼び戻され、「パラパラはもうわかったから」と、いら立ちにも似た衝動が脳内を一周し、燦然たる意志がわき起こる。
以前に試した調理方に誤りはなかろう、驕慢なる発意は実行命令を即座に受け入れるのだった。一応、レシピを読み、あたかも教典に触れていたような厳かな手つきで雑誌を閉じる。が、これは尊崇とは反対の独我論に導かれた気位であり、新たなる挑戦でもあった。

冷蔵庫、華やかな霊安室。これはいつも呪文である。唱えることで精神を集中するのだ。
実のところ夕方のうちから材料の確認は出来ており、家族らが寝静まった時刻への引け目から、夜食の段取りがすでに案じられていたことを胸に言い聞かす。念いは一筋であった。背筋をただし台所に向かい三方の礼を行う。
スリッパの音に神妙な気配を感じ取り、流しにて念入りに手を洗い、寒いけれど、換気扇の騒音と温熱に配慮してから、台所の小窓を解放する。これは冷気より換気扇に熱がさらわれてしまう懸念であり、また額からにじみだすであろう汗をなだめる為でもある。
急いてはいけない、何故なら、焼飯作りにおける瞬発力を温存しなくてはならないからで、それは攻撃的なまでの調理の技術に向き合う、一途な発露に他ならない。
おもむろに冷蔵庫の扉を開ける。
まず野菜室より、長ネギ、ショウガを、冷凍庫からあらかじめ小分けしておいた鶏皮一枚を取り出す。そして瞑目し、最後の深呼吸とともにベーコンと卵二個をまな板の脇に静かに置く。
食材はこれだけ、あとは各調味料のふたを開けガス台の右手に整然と並べれば、ほぼ準備は出来たといえよう。
サラダ油にごま油、塩、胡椒、醤油、日本酒、そして富士鶏がらスープの素、これは塩分ならびに味の素の役割を担ってもらい、また鶏皮のうまみを補佐する意味でスープにも投入される。
フライパン、包丁、金属製のヘラ、オタマ、菜箸、レンゲ、深皿までにいたらない白い器、これで役者は勢揃いした。

小鍋に水を張りスープ作りからまず調理は始まった。
凍ったままの鶏皮を鍋底に沈め、煮立つ間に野菜切りを行う。割と厚めのショウガのスライスを二枚、そして長ネギの白い部分を三本人差し指ほどの長さに切り落とし、鶏皮のうえに被せる。これら薬味はあくまで脱臭に専念してもらう為の犠牲であり、決して食されることはないが故、その尊い精神に感謝の念を奉じなくてはいけない。
小鍋が沸き立つ間に具材の準備にとりかかる。卵を小鉢に割り入れる、ひとつ、そしてもうひとつは黄身のみ、憐れみと悔恨に苛まれながらも卵白の加減はここで決まってしまうので、こころを鬼にする。すべては黄金色に包まれた仕上がりと、絶対の感触を得んがために。菜箸で手早く撹拌し出番を待ってもらう。
かたまりのベーコンはサイコロをひとまわり小さくしたくらいに、そして適度な量を、これには理由がある。
以前、焼豚を用いた際、ついつい貪欲さにかまけてしてしまい、多く入れればコクが増すと期待した結果、その旨味が勝りすぎ、甘さも過剰になってしまったのだ。強欲はあだになる、禁欲精神こそ、実は今夜の挑戦そのものであろう。
白ネギを細かく刻む、スープ用には薄くスライス、青い部分も同様に。
ガス台に置かれたフライパンを静かに見つめる。嵐のまえの静けさといった様相か、段取りに手落ちがないか再度、目配りすることも忘れてならない。忘れていいのはスープが煮え立つまでの時間であった。
戦陣における緊張と弛緩、もう深呼吸は必要なかった。浅いまなざしのような覚悟が望ましい。夜食への渇望をたおやかに見守っているのだと独りささやく。
さて流れゆく夜のしじまを破るときがやってきた。
小鍋のなかに油分が浮き出し、芳醇な匂いが漂いだした。日本酒を少量たらしたのち火力を弱め、アクを丁寧にさらい、富士鶏がらスープの素、胡椒、醤油を加える。あくまで控えめでいい、調整は後でもかまわない、ただし煮過ぎは禁物だ、ほどなくして臭みが発生するまえに鶏皮を取り出す。
まな板のうえに放置し、まだ熱をもってはいるが、素早く細切れにする。少々余分な気がしてベーコン同様、中庸の精神を遵守することにした。油分にもほどよさがあるからだ。ベタベタにはいつも閉口する。
白飯は茶碗ごと電子レンジであたため、小鍋には弱火を保たせ、フライパンに点火する。空だきで怪しげな煙が舞うまでじっと構える。
家人らの眠りの境地からさまよい出し、悪夢と平行しながら、現実に白濁する、やがては決別しようまぼろしの霧、、、
まさにここが調理の要だ。手際、直感、意志、欲望、そして見失うことのない冷静さ。
灼熱地獄と化したフライパンを前にし、サラダ油、ゴマ油半々を普段の炒め物よりやや少なめにひき、左手に溶き卵、右手に白飯を、、、そう勝敗の分かれ目に挑む。
先に卵を流しこめば、急激な加熱でよりあっと言う間に卵焼きになる運命に反逆するかのごとく、飯をかぶせ、ヘラで一度強く押しつぶしてから、ホットケーキの要領でひっくり返し、あとはひたすら両者にを押しては突き、さながら特攻の勢いで色合い融合とほぐれを祈願するのである。
フライパン返しはまだ用いない、ただただ次第に粒だってくる情況に徹していればよい。
汗がふつふつとにじむ。まずは成功と見た。いい眺めが展開されてきた。ここでヘラに魂を吹き込みながらフライパンを煽っては全体の、いやすべての食に対する敬意をはらい、更にほぐれるまで執拗に両手を働かせれば、ほぼ冷凍ピラフ状にまで到達するというもの。これがいわゆるパラパラ焼飯と呼ばれるが、それだけでは味気ない、ふくよかさとしっとりした感触を求めてやまないのだ。
鶏皮の活用はここにこそあった。すかさず投入、むろん白ネギもベーコンもだ、見よ、この宙を舞うような具材の歓びを、そして黄金色に燃える飯粒を、、、
凱歌をあげるにはまだ早い。緊張と熱気による汗を意識しつつ、手を休めることなく、完成を夢みる。
さあ味付けだ、富士鶏がらスープの素は手軽なのだが、塩分もかなり効いており、入れ過ぎると取り返しのつかない惨状を呈するがゆえ、こころなしか表面に散らす程度にしておく。ベーコンからも塩気は出ているはずだ。
胡椒は適量でいいだろう、ここで再び勢いよく全体をかき混ぜる。冷凍ピラフの素っ気なさはすでに失せているけど、決してそれぞれが固まりあうことはない。
味見をしてみる。若干薄味だ、そこでまじない程度に塩をふり、いよいよ裏技を披露する瞬間が到来したことを肝に命じる。
つまりフライパンの真ん中に空隙をつくり、そこへスープをオタマ半分ほど注ぎこむのである。なんという無謀で破滅的な行為と訝しげるであろうが、これがしっとり感を生み出す秘蔵の技なのだ。
艶やかでありながら、小砂利をも想起させるハラハラ滑り落ちる感触を勝ち取る為に。
そして沸き立つスープを見届けてから、休止を得ずヘラとフライパンを巧みに操り、混ぜ合わせれば、ああ、、、まるで雌猫のしなやかな仕草を想わせる、やんわりとした肉感らしきものがなまめかしい湯気を上らせているではないか。
栄光を目前にし、なお火照りきった頬をなでる小窓からの冷気に沈着を知りつつ、抑えようのない陶酔に溺れかける己を自覚する。
夜の支配者よ、汝に我が情念を捧げよう、、、漆黒の芳香を。
鍋肌へと微量の醤油を差す。じゅっという音が心臓に伝わり、鼻孔がくすぐられる。すべては終わった。


[436] 題名:湯けむり 名前:コレクター 投稿日:2015年11月30日 (月) 01時02分

夕暮れどきの浴槽にはとけおちそうになる甘い果実があらかじめ浮かんでいるのか、あるいは沈める秘宝が夜明けを待ち望んでいるのか、薄く透けた湯気が窓外へ流れると、反対に生真面目で慈愛をはらんだような冷気が頬に降りてくる。
その刹那、背中から首筋あたりにかけて郷愁がわき起こり、半ば忘我にいたるのだけれど鏡を曇らした様子が遊戯めて見えるせいなのだろう、旅情をかすめた心持ちはさほど平静さを失うことなく、いや、むしろちいさな高揚に支えられているみたいで、甘い芳香は初冬の外気に被われ、無味な情趣がほのかによぎってゆく。
無味といってもけっして味気ないわけではなくて、そう、ちょうど淡白な白身魚を口にしたときに似た軽減されることを願っているふうな充足感であり、新たな食思は不動の位置へとどまらず、さりとて一皿山盛りをたいらげたい思いは断ち切られもせず、微かな望みが透明度を増していくのである。あてなき旅に出かけたい澄んだ気分のように。
風呂場の小窓から覗ける空の色ほど明確なものはない。これは気分とはうらはらな視覚に促されているようで、湯加減に反撥する冷気の訪れはくだんの旅情を含みつつ、ふたたび現実的な輪郭を描きだす。
その臨場感こそ西日が届けてくれる贈りものに違いない。
黄昏のむこうに明日のあることをそっと知らしめるのであろう。


夢の作業にのめりこみたい一心で湯けむりがより濃くなればなぞと、額からぽろぽろ汗がしたたり出したころには創作の案にもやがかかり、見上げた小窓の空模様に願いを託せば、意想にあらがう勢いでそろそろエアコンのフィルターを清掃しておかなければ、寒さはつのりだし必要な務めだからと、そんな方向に考えがなびき、ふと湯船にひたった下肢をみつめては、なるほど身体もさっぱりして疲れもとれるのだから、こうした念がよぎったのかもっとである、あとで掃除しておこう、ちょうど編み目をかいくぐる様相で夢想をさえぎった。
しかしタスポを持った少年はどうしたらいいのか、父のおつかいでよしとして、また使い方も分かっているとし、だが、たばこを手にした直後自販機のまえへ出し抜けに現れた巨大な顔をどういうふうに解釈すべきだろう、湯気のごとく希薄でないはっきりとしたあの顔を。

見知らぬ大きな病院で迷ったあげく、入院患者に仕立て上げたまではよし、そろそろ病室に戻りたいのだけれど、東側や西側の病棟に惑わされている内心が妙に心地よく、また高所からの眺めに翳りをおびた愉しみを感じてしまい、そう慌ててみたところで別段おちつくわけでもないので、あくまで形式的に近くの看護師に所在を尋ねてみたところ、たぶん向こう側の病棟だろうと明るく応えながら何かひとことふたこと喋っていたのだが、以外にもその看護師が高校の同級生であるような気がし、よく顔を見つめれば間違ない、声の調子にだって聞き覚えがある、どうやらこんな場所での邂逅に胸がさざめき、更にはすこし奥のナースステーションで大きな地図をひろげている患者の真剣なまなざしに同調したにもかかわらず、迷路をさまよう心もとなさが他人事のように思え、看護師に礼を言ってはなれ際に彼女の名を呼んでみたら、
「私にだってわかっていたのよ」
と明朗な言葉が返ってきた。

タスポの少年は今日も大きな顔と出会うのだろうか、その心情を恐怖だけに縛りつけるのはあまり本質をついていないような気がして、ゆっくりまばたきを行なえば縹渺とした曠野が湯けむりのなかへにじんだ。


[431] 題名:木漏れ陽 名前:コレクター 投稿日:2015年08月03日 (月) 00時32分

社会人になった夏のこと、そう記憶しているのは初々しくも溌剌とした心境と燃え上がった太陽が互いに認め合っていたという強引な解釈なんかではない。あの日の光景を振り返れば、自ずと勤務先の会社の窓ガラスに張りついた天候がまず一番にまぶた焼きつけられている。頼りない切なさで、だが有無を言わさぬひろがりで照りつける西日の赤み、今日も残業を懸命にこなすんだ、盆休みはもうすぐ、今年の帰郷は学生時代とはどことなく違っているだろう。
「この書類、急いで総務課に届けてくれる」
先輩の女性事務員が放つ冷ややかな口調に反感など覚える余裕はあり得ず、むしろ歪んだ憧れを飲み込む加減で的確な命令としてすぐさま立ち上がった。ただし手渡される際にあえて卑屈な目つきをしたのは、ちょっとしたいたずらであったような気がする。
慌てていたわけでなかった、決して。なのにたいして長い廊下でもない途中で足を滑らせ思い切り腹這いに転けてしまった。理由は一目瞭然だった。一面水びたし、誰か飲み物でもぶちまけたのか、いや量的には大きな花瓶の水かと疑うほうが似つかわしい、生成り色した固い廊下にひろがった水は憎らしいほど澄みきっている。そして書類も見事に被害を受け、文字はにじみだしていた。
気まぐれな夕立は形式的にひかえめな雷鳴を引き連れて先ほどまでの空模様を一変させた。外はにわか雨か、、、あの刹那のため息が忘れられない。
当時の夏期休暇は現在ほど日数を与えられていなかった。せいぜい三日、そして列車の混雑を嫌というくらい知っていたので、一日早く故郷をあとにしなくてはならない。僕の帰省は輝くような二日間に凝縮されるはずであった。
たとえ前の夜、アパートの隣部屋の学生が女を連れみ、興奮のあまり、声を抑えることさえ放擲してしまって、歓びにあふれた喘ぎをまき散らかしていようとも。そしてほとんど空っぽの押し入れにそっと身をひそめ、薄壁越しにもれてくる交わりの様子に聞き耳をたてている不甲斐ない自分の姿を知ろうとも。僕にだって同じ経験はある、ここよりもっと古い部屋で始めて女体に触れ、両隣の気配を意識しつつも鼻のあたまに大粒の汗を乗せながらうれしさに溺れていったのを。
あの少年が生家の玄関に佇みさえしなければ、、、

お盆はみんなそれぞれ忙しかったのか、父も母も祖母も誰も家に居らず、僕はのんびりとひとり、開け放たれたガラス戸やふすまから送られてくる生ぬるい微風の感触を寝転がったまま懐かしんでいた。玄関先はさすがに無防備でなかったと思われるのだが。
「ひさしぶり、あそびにきたよ」
突然の珍客に驚くと同時に、たぶん近所の人懐こい子供がなんの考えもなくふと飛び込んできたのだろう、ほぼ間違いない推測は僕を大仰な表情へと流し、猶予をたたえた胸のなかに案内した。大義そうに起き上がり、
「そうかい、なにして遊ぼうか」
とにこやかに言った。
「そとにいこうよ」
「なんだい、家に来たんじゃないの」
「うん」
無邪気さにほだされたのは確かだったろうけど、十歳くらいの男の子にこもった目の色を素直な気分で見つめてあげることが出来なかった。ささくれのような小さな痛感が走り、急に疎ましくなった恋人を前にしたときみたいな声がすっと吐かれた。
「またおいで。今日は用事があるんだ」
すると男の子はまるでいくつか歳が足されたふうな顔つきになって、
「ようじなんかない」そう、ぴしゃりと蚊を叩く調子で言い返す。
「えっ、どうして」
僕を包んでいた空気の匂いが少し変わるのを感じた。つまり動揺した。
「ようじはつくるものだよ。そのためにわざわざ、、、」
不意の続きの言葉をさえぎり、子供相手のもの言いを中止しようと思ったのは他でもない、不安がすぐそこに燻っていて、見過ごすにはわけにはいかなかったからだ。他愛のなさと打ち捨てる要因はすでに退いている。
「わざわざ来てくれた。で、誰の使いなの」
「そとにいこうよ。そうすればわかるから」
こうして僕は、日差しの衰えをまだまだ感じそうもない空の下、油蝉が電柱で高らかに鳴いている町なかへ少年と並んで歩きだした。すぐ先の陸橋を渡りかけたとき、少年の背丈がわずかに伸びた心持ちがした。そんな胸中を察したとでもいうのか、
「このずっと先さ、でもこのあたりでも遊んだことあるよね」と、さながら観光地を再訪したような静かだが、老成した情熱をかみしめているような口ぶりで話しだした。
「そこの市役所の駐車場でよく野球してただろ、ぼくも一度だけ仲間に入れてもらったことがある。この山もえらく削られてしまったね。きみらのあとを追っかけてのぼったもんだ。土俵はまだあるんだろう、祭りもあった。キンコンカンはここから鳴らすんだった、間近で聞くとけっこうな響きなんだよなあ。夕暮れ五時の音」
僕のくちびるは微かに震えていた。
「ほんとうに誰の使いなんだい、知らないひとじゃないよな」
「きみは知らないかもね、でもぼくは覚えている。きみらが喋っていたことを」
「なんて」
「いま言ったじゃないか、ぼくの家はまだ先だよ。だから実際にこの辺まで来たことはないんだ。うらやましかった、山にだって空想でのぼったんだ。きみらの話しをもとに」
横目で少年は促した。登り口がひっそり陽光を受けている。取り囲む緑の濃さは道ばたの比ではない、そう言いたげな瑞々しい茂りは光と影を一枚一枚の葉の裏表に宿し、風と戯れ、まばゆさを小刻みに投げかけて来る。応じるまばたきの裡へ暗黒を点滅させるために。
坂道を下る歩調に乱れはない。草いきれをあとににし、ついでに追い立てられた蝶のつがいがふわりと羽ばたく様相でふたりは軽やかに居並んだ。そして更に少年のからだつきは変貌し、面に張られた微笑は分別くささを香らせ、僕を馴化させた。
「もう大人なんだろうね。しかし思い出せないんだ」
「仕方ないよ、三年生のときだもの」
「ああ、途切れ途切れ、憶えているのは理想的な情景だけだよ。もちろん不快なものだってある、でも面白いね、乳白色のぼかしが嫌な記憶さえ意味を剥奪してくれている」
「そこを曲がろう」
右手の小径に足を踏み入れる。こんな場所あったのか、、、が、不思議と懐かしいような、あるいは怪訝な親しみが一歩さきに待ち構えていて、民家すれすれの道ゆきにはおそらく豊かな不安が沈みこんでいるのだろう、そんな思惑を足取りは警戒しない。うっすらだが少年の秘密をつかみ取れそうになっていた。
狭い小径を抜けた瞬間、ほとんど肩の位置が一緒であることに目を見張ったけれど、驚愕は不確かな夢の底で目覚めたのか、僕は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「ほらこの踏切、よく見てごらん。そうじゃない、ああ、言い方が適切ではなかったね、線路の光景だよ。もっと近づいてみよう。こんな距離でレールを見るのはひさしぶりじゃないか」
僕はすでに踏切の脇にしゃがみこんでいる。そしてもっと近くに、いや近すぎて見失うくらいの位置まで迫ろうとしていた。
うしろから少年はこの世の声とは思えない優しい響きでこう言った。
「線路は続くよどこまでも、、、この先の鉄橋は河口に架かっていて海を見晴らせるんだ。きみらが山やら市役所で遊んでいる頃、ぼくはひとりで鉄橋を渡っていた。そして時刻通りにやって来た列車にはねられ河口に落ちた。死んだからに落ちたのか、衝撃ではね飛ばされて水死したのか、どちらにしても僕はきみたちのすがたを学校で見ることが二度と出来なくなってしまったんだ」
ゆっくりと振り向く僕に対し、少年は冷たい笑顔で応じてくれた。釈明を従容として聞き入れる時間を保ちつつ。
「名前も忘れている。だって同じクラスじゃなかった。同じクラスの子だって憶えていないくらいだから。ごめん、言い訳だよな。全校集会で悲報とともに厳重な注意が話されたのは記憶にある。でもすぐに忘れてしまった。きみの名は、、、」
「いいんだ、言っても知らないと思うし、そんなことは重要なことでない」
「だったらなにが」
「線路だよ。鉄橋とは反対のところ、駅が見える場所さ。きみはぼくが死んだ頃、枕木の修理でくぼんだ穴に入っていた。格好の空間、危険な遊びだ、まったく。時刻表に罪はない、きみは発車の音に身をこわばらせてあんな小さなくぼみに命をあずけた。轟音は闇と共謀して頭上をふさぐ、時間に忠実に。ただ、きみの時間は恐怖に操られていたし、反対に恐怖は忠実な妄想をあたえていった。それから誰彼ではなく、信じてくれそうな子だけを選び、まことしやかに体験談を語りつくしていた。後年、きみは」
「そうだ、そうとも。あれは現実なんかじゃない、かと言って夢ではない、その中間なんだろうか、たぶん。違う、そんな簡単に割り切れるもんでもない。もしあんなこと実際に起っていたら大騒動だったろう。けどあの枕木と枕木の間のくぼみははっきり目にしていたよ。毎日、学校に通うとき陸橋のうえからいつも眺めていたんだ穴が開くほどに」
「さびしかったのかい」
「よくわからない。きみはどうなんだ、列車にはねられるなんて。さびしいのはそっちだろ」
「さあ、どうだろう。少なくともぼくは、広々とした海に臨み大きな潮風を受け優雅な足付きで楽しんでいたように思う」
「でも死んでしまったら終わりじゃないか」
「そうさ。なんとか認めている。それよりどうしてあんな遊びを想像したんだい。いつかきみは思い出すだろう、今日のことではないよ。ぼくが列車にはねられた痕跡を。微量だけど血痕とか毛髪とか、ひょっとしたら肉片なんかもこの踏切まで運ばれてきたかも知れない、線路は続くんだ、どこまでも、都会までも。これは紛れもない事実だろ、きみの好きなくぼみ辺りにも」
「まるで脅迫観念じゃないか、結局こういうことだろう、きみの死はぼくにとことんつきまとう、今まで封印してたのは僕が分別を持ち得てなかったからだ、でも社会人になって一丁前の悩みなんか抱え、自分のことと他人のことを区別して考えたりする。そこでようやく忘れ去っていた空想を掘り起こし、穴をふさぐためにきみはいきなり、なんのまえぶれもなく現れた、盆だから、関係ないね、取り憑く機会がいい具合に訪れたってわけなんだろう」
「補填作業員ってことか。だったらそれでいいよ。でもこれだけは言っておく、考えるのぼくじゃない、あくまできみの方だ」
「そうかも知れない。しかしきみのことはもう忘れないよ、ていうか、忘れようとしても無理だ、酷いよ、まったく。亡霊だろ、さっさと成仏してしまえばいいんだ」
「あんまり怒るなよ、哀しくなるじゃないか。そんな目で見ないでくれ」
あの時、僕は正直、悔しくてしかたなかった。線路と列車の織りなす想念なんて別段めずらしくもない、もっと危険で惨たらしい情景を想い描くのは子供の特権ともいえよう。どうして僕のところに化けて出たんだ。一緒に遊んだ記憶のかけらもなければ名前だっておそらく耳にしてもわかるまい。意味なんてあるのか、あるんだったら、中途半端に消えてしまわないでほしかった。哀しくなるのはこっちだ、捨て台詞だけ決まりごとみたいに残していきなりは勝手すぎる。どんな目で見たっていうんだ、その目の残像さえ霧散するよう、あいつはそれきり僕の前に現れはしない。
おかげで二日間の帰省は単純な輝きを含みきれず、それは好奇も手伝っていたので一概に憤懣だけに彩られていたわけではなかったのだが、近くに住む同級生にくだんの鉄橋事故を尋ねてみると、どうやら実際の出来事であったのが判明し、夏空に雨雲がかかるよう鉛色の心境は増々深まるばかりであった。
とはいうものの、亡霊の消える直前をよく思い返してみると、その顔かたちに年相応の輪郭と風合いが備わっていたのが妙に心安くもあり、そう、僕自身の面影なんか漂わせていたら目も当てれなかったのだろうが、見知らぬ他人ぶりが鮮やかだったのでなによりの救いとなった。
社会人らしい分別とは正反対の、垢が剥がれているふうな、元々あった汚れが段々と落ちて奇麗になってゆくような洒脱さが感じられた。これこそ生者と死者の分かれ目などと適当な意味をこじつけてながら故郷を離れた。なるほど線路は続く、しかし物語は短い。
そんな意想をあざ笑うごとく幾度もトンネル内に飲み込まれた車窓に、ぼんやりと幻影らしく反映したあいつの顔はそれほど悩ましげでなかったから、僕はほっとしている。


[429] 題名:幽霊屋敷 名前:コレクター 投稿日:2015年07月14日 (火) 01時37分

あれは梅雨の明けきらない蒸し暑い日のことだった。
青みが押し殺されている曇天を見上げているうちに、反対に上空から見下ろされてる気がしてきて、空恐ろしさを覚えてしまった。ああいう時分は空想の産物が晩飯のおかずに紛れこんでみてもとくに深く考えこんだりはしないものだ。
頭上高くにひろがる曖昧で晴れ晴れしない意識は、やかんのお茶にも、冷蔵庫の扉にも、階段の隅へと無造作に置かれた紙切れやねじまわしやら、父の点鼻薬にやら、それらをまとめ納めている菓子の箱にも、ついでにしてはそうであるべき由縁があったのか、小さなうさぎの人形にも棲みついており、実際の用途や眺めとは異なる空気にまとわれていたような気がする。
たしかによく思案したわけではなかったのだが、不意に訪れるものは背後に忍びよっていたかも知れないそんな恐れは劇的な効果をともなって、いつしかの夜、窓に映った幽霊の影を想起させ身震いしたものだ。なかば密かな期待を含みながら。

近所にある無人の家、案外古くもなく急ごしらえで建てられたふうな一間しかない、空き地にぽつんと置いてかれたその家には住人の気配がまったくみられないことから、まわりの子供らの間では、
「あれは幽霊や妖怪がひそんでいるにちがいない」
などという短絡的で能天気な結論にたどり着いてしまう成りゆきを流布していた。
ガラス戸に鍵はかけられてなく、玄関のすぐさきには手洗いが、その左が小さな座敷だったけれど決して朽ちた畳ではなくて、普段どこにでもありがちなのっぺりした座敷に家具のすがたは見当たらず、ただ曇りガラスをくぐり抜けて注がれる穏やかすぎる日差しに、胸の奥が反応しているのは薄気味の悪さであったろうし、もっと厳密にいうなら狭いながらもくまなく不思議な陽光を受け入れている感じは、とても危険なもののように思われた。
近くの仲間を誘って探検をしてみようと提案したのだったが、むろん探検とは道なき道をかき分けるのでも、奥深い草むらを手探りするわけでもない、ただ人気があるしたなら、ちゃんとまっとうな訳でここが無人でない証しを得たかったわけで、それは実のところはらはらする材料以外の何者でなく、裏を返せばやましさを覆い隠そうとしている方便に過ぎなかったのかも知れなかった。
ようは日暮れるまであの家に居座ろうと思いついたのである。

食料なんかもいるな、おにぎりせんべいでいいか、台所の奥にしまわれている水筒に番茶をつめて持っていこう、懐中電灯も念のためになどと、まるで遠足気分と大差ない高揚した勢いは素晴らしく魅惑だったけれど、子供の性急な戯れは常に先行きが怪しい。準備段階で早くも破綻してしまった。他でもない、うれしさ余ったのか仲間のひとりが親に探険を打ち明けてしまい、ひどく叱られたというのだから話しにならない。
あらかじめ秘密結社のような雰囲気をみんなが共有していたと信じ込んでしまって、口もとに人さし指を添えてみる心意気を忘れていたのだった。
こうなったら仕方がない、自分ひとりで決行するまで、無人であることに疑いを挟みたくない願いはこんな大胆な決意を促すものだ。つまるところ肝試しめいた行為はひとりっこ特有の不遜な甘えに支えられ、なしくずしの幻想に委ねるしかすべがないのだろう。
とはいうものの所詮ひとりは心細い、そこでひらめいたのが、町内をうろついている犬を連れて乗りこもうと思いついた。あの当時は飼い犬が日中放されている光景はさほど珍しくもなく、たまに菓子をあげたりしてたので後ろを追いかけてきたクン助を相棒に仕立てあげた。
本当はみんな食い助って呼んでいたのだけど、角を曲がったところに住む3つ4つ下の子が同じあだ名だった為、いや別に人間尊重なんかじゃなく、犬の食い助と子供の食い助が一緒だとややこしいからクン助になったのだろう。
菓子をあげていた理由は明快なことで、なんでもかんでもではなく、仮面ライダースナックに限られていた。それはひとえに食傷気味であったのと、カルビー製菓であったのに何故あんなにおいしくなかったのか、せめてかっぱえびせんにしてくれたら残さず、ありがたく大事にかじっていたのに。不人気なのは後におまけのカード目当てで箱買いし、菓子を捨てる狼藉が発覚して社会問題となったから有名だろう。
まあ、ライダースナックをかっぱえびせんにしてしまえば、本家のそちらが売れなくなってしまうに違いあるまいという考えは当時として中々の推測だったと悦に入っているくらいだけど、そんなことより食い助でさえあの菓子を欲しがらなかった事実は揺るぎ難く、だからこそ犬のクン助がよろこんでカリカリっと子気味のよい音をたてながら、そしてこころなしか笑顔を見せている様子がたまらなく可愛らしくてならなかった。自分の嫌いなものを与えておいて微笑ましげな情を抱くのもどこか妙だろうけれど。
で、毎日のようカード手に入れたさにスナック菓子を買っていた結果、クン助はよき相棒になったわけだ。
実はこれから先の記憶がどうもあやふやで、それはたぶん何かしら思い返したなくない経緯が絡まりあっており、探険本来の意義をねじ曲げたくない為、そして出来れば意気揚々と、あるいはおののきでさえ夢見の門口に佇ませておきたい心情からだと思う。
太陽はちっぽけな行動に目配りしてくれてのだろうか。くもり空なのはひょっとして目こぼしの合図だったのだろうか。
とにかく無人の家にクン助と一緒にあがりこみ、薄ぼんやりしたひかりが畳に静かに吸い込まれてゆきそうない座敷に腰を据えた。犬のクン助にとっては初めての体験だっから、いつもより鼻息は荒く、いきなり妖気をかぎ出してしまってえらいことになるのでは、そんな興奮に胸おどった。
がらんとした部屋の空気は相変わらず淀んでいたし、窓をあけるわけにもいかなかったので、代わりにこじんまりした押し入れを覗いてみたところ、見るからにケバケバしいエロ本が一冊、文句あるかって言いがかりをつけてきそうな調子で横たわっていた。これにはまいった。
「いったい誰が、、、」
すぐに念頭をよぎったのは親から叱責を受けた仲間だったが、あいつには自分の家のものを見せたことがあって、そのときの反応がいかにも罪深い様子だったから、ああ、そうだとも、あれは恥じらいとか遠慮じゃない、エロ本を手にすること自体に抵抗を感じていたんだ。
とすれば、ここで疑念が背筋から這い上がるようにしてあたまを支配し、動悸を早めるところなのだろうが、不思議と見知らぬ他者を思い描いてみても、今すぐ表からドヤドヤと複数の邪気にあふれた顔つきが現れそうな恐れにも尻込みしなかった。
それより表紙をめくった手つきがふざけ半分のスカートめくりとは違って、見知らぬ世界から徐々にすがたを見せてはさっと消え入りそうな成熟した女性の下半身そのものに触れてしまった心地がし、ヌード写真のどぎつく色づいたふとももや、はちきれんばかりの尻の大きさにめまいを覚えてしまった。
ページをめくるたびに増々孤立感が遠のいてゆき、いきなり大人なってこの家で恋人を待ち受けている、そして目が合うなり押し倒し、まだまだ先のことであろう、裸体の重なりに想い馳せては、甘い香りを鼻先にまとわりつかせ、ふとクン助を見遣れば、わざとらしく脚で耳をかいたりしていたので、少しばかり冷静になってはみたももの、すでに股間のふくらみは痛いくらいで、漫画にある女体の核心が空白に扱われているのに憤慨するごとく、いきり立ったものをそのページにこすりこんでしまいたい衝動に駆られた。
仮面ライダーより早くウルトラマンの股間に欲情していた身だからこそ、もう妖怪幽霊すら逃げ出してしまったのか、エロ本の持ち主なんか知ったことじゃない、直線的に駆け上がるつめた想いに乗っ取られ、耽りだすところだった。
犬とはいえクン助の目もあるし、ここでは集中出来そうもない。いや、嘘だ、そんなことしようとは考えてはいなかった。おにぎりせんべいをかじってはお茶を飲み、小振りなのがいいと持ってきた水筒の絵柄が三匹の子豚だったのにあたらめて妙な懐かしさを感じ、大人しいクン助のあたまをなでていると、時間がどれくらい経ったのか分からなくなって来た。おそらく日没までにはかなりの間がある。

平和といえば平和だった。安心と呼ぶならそう呼べた。妖魔の気配に親しみを投げかける余裕を持つくらいに。そして座敷わらしにせよ、ぬらりひょんにせよ、牛鬼にせよ、サタンにせよ、個々の物の怪よりこの無人の家こそが不可思議な存在であるように思えて仕方なかった。膨張したものはいつしか払いのけられて、みじめさに彩られ底の浅い孤独をかみしていた。
張りつめながらも、しじまを保ち続け、局所的に発生した台風は見事にあっけなく終息したのである。
「こら、そこで何をしとるんじゃ」
厳めしい目つきの男が面前に立ちふさがっていた。怒気をはらんだ声に対しとっさにこう応えた。
「幽霊屋敷だと聞いたから犬を連れて見張りに来てたんだ。ほら水筒だって持ってるよ」
自分でも呆れるくらいとぼけた口ぶりであり、性根もびくついてなかった。ただ開かれたままになっているエロ本にあたりまえだろうと凍結した男の視線が落ちたとき、何ともいえないこそばゆさに襲われ、いたたまれなくなった。
「早く出てくんだ。勝手に入りこんだりしたらいけないぞ」
男の目には将来むかえるべき、そうであって欲しいようなそうでないような、慈愛のひかりがほんのわずかだけ輝いていたので、大丈夫こっぴどく吊るしあげられはしないだろう、そんな思惑に即しつつ、怯えをゆっくり手なずけかいくぐるようにして無人の家を後にした。
例の仲間らにこの話しをしたことはある。が、どんな心持ちで、どんな説得力で言い聞かせたかはほとんど思い出せない。また忠犬ぶりを発揮してくれたクン助の記憶はさらにぼんやりしてしまっている。
なるだけ意識を集中し、あの頃の景色全体を脳裡によみがえらせてみても、クン助がどの家で飼われていたのか、実際はなんという名前で呼ばれていたのか、それから雑種であったのは確かだろうが、毛並みは白かったのやら茶色かったのやら、あの菓子をかじるときのうれしそうな顔だけが特別に切り取られた画面になって浮かぶけど、あとは見逃した怪異と同じく一向にあぶり出ては来ないのだった。


[428] 題名:再放送の夜 名前:コレクター 投稿日:2015年07月06日 (月) 02時45分

夕陽が染み込んだ感じはしなくもなかったけれど、この部屋とは無縁に仕切られ、引かれた、ぞんざいな有り様だけでもカーテンは十分な役割を果たしていた。
外のネオンに織物の優しさで呼応しているのでもない、あえて言うなら、これから交わろうとしている男女の裸身から発する、吐息や汗のなかに極々微量に含まれよう血の色彩をカメラは的確にとらえ、編集されない予告編を生み出そうとしていた。その背景としての赤みであった。
すでにふたりは上衣を脱ぎすて、見つめ合いが横滑りしていくようからだは下着一枚で密になっている。
ときめきさえ無様に投げやった口内の熱が互いの唇や舌先に伝わって、見苦しいほど濃厚なキスとともにベッドに倒れこんだ。いったん離れた男の口許にはあんかけみたいなとろみのある唾液がまとわりつき、何故かとっさに顔を伏せた女の顔をわがものにする為、ちからまかせに振り向かせたのだが、驚いたことに情欲の炎を宿らせていたその目からは、そぐわない大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうだったので、一瞬気高い歓びに包まれかけたのだが、涙をためた瞳の奥からやってくる冷たい輝きに説得されてしまい、それまでの熱気が上昇して、言うもやまれず驟雨になる情景とは縁遠く思われ、気分は萎えてしまうのだった。

「そのまま続けていこう」
監督の声は低く頼もしい。そしておもむろに近寄ると「もっとしょげた表情をしろ、無粋なくらいにな」
それだけ言ってからさっと元の位置まで引き返した。
女の目を執拗に見つめたカメラに促され、ついには嗚咽をもらし始めた。
「泣いてばかりじゃわからない、いったいどうしたっていうんだ」
男の台詞は台本に忠実であり、なおかつ監督の意匠を汲み取っている。
「おまえは筋書きを考えなくていい」それで正しいのだ。
ここでカットされ、女の両目に大量の目薬を含ませてから演技が再開された。
「どうしたもこうしたもないわ、最初から、部屋に入るまえからあんたの非常口は開いていたのよ、あたしおかしくて、おかしくて」
女はあざとく「ひっひっひ」と声にし、涙を抑えようとはしない。男は不意に宣告を下されたときみたいに情況を素直に受け止めはしたものの、片意地からくる敵意からその響きを嬌笑とみなし、大仰な照れくささを肩で揺さぶり、仲間はずれにされた子供の心許なげな胸中を眉間にまで押し上げた。うっすらと曇ったその表情を女は待ち構えていたふうに、
「頬張ってあげようか」と薄笑いのまま男の堅物に手をさしのべた。
「いいじゃない遠慮しないの、恥ずかしくなんかない、おかしいだけよ」
「だれが」
「あんた」
「お勝」
「カット、カット」今度の語気は荒い。
「だめじゃないか、萎れているぞ。ここは心境とはうらはらにだな、屹立してなくちゃいけないんだ。お勝さん、あんたはいいよ、問題のそこのふぐりだ。棒はあくまで形に過ぎんけどな、ちゃんとした色欲は根っこにぶら下がっているもんだ。簡単に言えばだよ、少々古くさいが精神主義で邁進しなくちゃならん。大体が、すぐにおっ立つって評判だから新規採用したんだぞ」
監督の勢いに圧されながらも言い訳自体が闘志のみなもとであるかのように男は、
「はい、すぐ立ちます」と勢いよく応えてみた。

掘野米吉25歳、大学の演劇部に加わったまではありきたりの青春だったけれど、意気投合したひとりの学友と奮起一発、中退して結成したお笑いコンビがなんの弾みか時勢を盛んに駆け抜け、あれよあれよという間にテレビラジオで好評を博し、風采も上がり寝る時間を削る日々も今となっては信じがたい、コンビの名が「賃ボーボーズ」という際どさだった為だろうか、相方の麦秋が京都出身の意気の見せどころと巡業の際こともあろうに金閣寺の庭内で全裸になってひとさわぎ、取り囲んだ野次馬や警備員に向かい、
「どなたかはんか、金隠し持ってきてくれなはれ」
と頭痛を催さんばかりのベタなおちで周囲は沈黙を呼んでしまい本人の思惑は世態に相反して、情報社会の凄みをまざまざと知らされる体たらく、折しもファンによって撮影された動画は格好の話題提供に、若気の至りで済まされないと気づいてみたときすでに遅く、苦難を共にしたふたりは解散余儀なくされ、謹慎期間を耐え忍んだ米吉、所属事務所の計らいもあって独り立ちを目指したものの、もとより麦秋あっての笑い取りであったことを再確認するに過ぎず、鳴かず飛ばずの日々は流れゆき、縁故をたどって着いたさきがAV男優という名ばかりは人口に膾炙したなりわい、半ばやけくそ気分を傍観していたのはどこのだれより我が身に相違なしで、曲がりなりにもオーディションを受け、万年 の芸当を披露、鍋焼きうどんを食べてる最中やら、知恵の輪を手にしてやら、大声で歌唱しながら、果ては逆立ちしながら、腕立て伏せしながら、とどめはヌンチャクしながらと、およそ性欲をかき立てない情況下で無為な膨張を試みてきたけれど、いざ本番となれば緊張の神さまは決して見捨てず、余計な世話だとこぼしてみても、とば口ではや蹉跌をきたして憤懣やるかたない。
「長くやる仕事じゃないけど、やってればそれなりに声はかかるから潮時が見えないっていうが本当のところかな」
初日から薫陶とも叱責ともつかない妙な理屈を監督より含められた米吉をいたわるつもりであろうか、
「筋なんてないのよ、あたしらはやるだけ。まあ、どうやるかってくらいは意識するけどね」
と投げやりだが、きちんと語尾を正したふうなもの言いをしている。
一回分の撮影が済み、打ち合わせを終えてから勝子は新人男優の肩をたたき遅い夕飯に誘った。監督から明日に備えておくよう釘をさされていたのが、早く帰って寝てしまえ程度に聞こえなかったと共感を覚え、深夜をとうにまわった時刻を確かめるたびに、まるで家出少女みたいな反抗心が芽生えて、撮影まえにけっこう食べ応えのある弁当を支給され空腹まで感じてなかったけれど、祝杯の意味合いもこめて駅はずれにひっそり赤提灯を下げている屋台に陣取っていたのである。

「ええ、そうですね。筋書きは考えなくていい、自分に言い聞かせてます」
米吉は年長であり斯界の美形女優に対し、こころから言葉を発した。
「まあ飲もうよ。ホルノくん」
「はい、日前勝子さんと共演ですもんね」
「なに言ってるの」
しなだれたついでにふっと息が米吉の首筋をかすめると、無性にうれしさがこみ上げてきて自分の名字はホリノというのだけど、そう微かに胸の片隅で反論してみた。勝子の吐息に吹き流される心地よさとして。
杯を重ねるうちに米吉は相当酔いがまわっているのを覚え、幾度も半身を傾けてくる勝子に淡い恋情を感じてしまい、目の焦点が合わなくなったのを好都合に先ほどまで演じていた交わりをじっくり、ちょうど地図をたどることに似せ、落ち度なくつぶさに絵柄と空間を一致させるよう努めた。
すぐ隣に座している女体のすべてを知り尽くしているという感覚は優先され、難なく道のりを誤らず目的地に到着できた実感をさずかった気がした。
勝子の乳房から脇腹を這った舌の味わいがよみがえる。仕方なく唾液をこぼしながらではあったけど、濃密な唇の応酬はこの熱燗よりはるかに酩酊をもたらすだろう。手のひらに残された生々しい肉感はそう簡単には消えてしまわない。そして目に焼きついた女陰の湿りが茂みに隠されるとき、自らの股間も闇に包まれ、見つめた横顔から香る花園の匂いが脳裡に散乱するのだった。
果てたとき、地図は焦点を結ばせず、それは今ここで想い返してみても同じであり、思念は遠くに運ばれてしまっている。
米吉は部屋のカーテンに目を向け続けていたことを知り、はっとして勝子の顔を、今度は地図でも絵柄でもなく瞬きする瞳を見つめていた。
「ホルノくん、明日は楽しみ」
問いかけなのだろうか。それとも自分がこのひとに言わせてみたのか。都会の夜空に星はきらめかない。しかし、勝手に返答がついて出た。
「ええ、とても。でも今も素敵です。ぼくがあなたを知っているんじゃない、あなたがぼくを知っているんですね」
「そうなの、ならそうしときましょう。夢みたいだわ」
「ぼくは眠っているのですか」
「馬鹿ねえ」
女は男の手をしっかりつかんだ。


[427] 題名:芳香 名前:コレクター 投稿日:2015年06月30日 (火) 00時28分

「もう気がすんだでしょ」
開き直りに見えるが内心許しを乞うているふうな女の目つきに憐れみは生ずるどころか、憎しみを募らせるばかりであった。公吉は自分でも信じられない眼光が不敵な笑みをつくりだしているような気がし、
「冗談じゃない、夢のからくりなんて頼んだ覚えもなければ、操作されてたなんて戯言に耳をかすほどもうろくしていないよ。とにかく他人のせいにして、なんだかんだ逃げ口上ばかりで、散々な思いをしたのはもっともだと半ば了解していたけど、それすら欺瞞であったとは、、、結局おまえが望んだのは高見の見物にすぎないんだろう」
そう叩きつけるように言い放った。ところが声色は冷めた汁粉みたいな後味の悪い甘さを含んでおり、一瞬おんなの曇った表情がぱっと華やいだのだから、公吉のほうでも戸惑いを隠せず、それきり黙ってしまった。
沈黙を防壁に活かした女の態度は時宜にかなっていた。公吉の叱責をかわしただけでなく、言い分自体がまるで反射板ではね返えしたようで、相手はみじめで見苦しい結末を認めるしかなかった。
おれはつまり判決文を読み上げてみただけなんだ。
公吉の憤懣はすでに吐き出すところを見失い、鏡面に向き合っている自虐的な冷たいひかりを浴びるばかりである。が、その月光を想わせるひかりは公吉に冷酷な意識を芽生えさせ、沈黙が長引くほどに血の気が引いていくようで、戦慄とは異なる、以外な感覚に支配され、冷静な面に立ち返ったかに見えた。
 
鏡の向こうにきらめく、決してまぶしくはないけれど、一点を凝固させる鮮血のあの鋭くも甘美なひかりは畏友のごとくそばに居る。冷ややかさは意識という器から気体になって、地べたを怪しげに這うように白い狼煙を鎮め続けた。
たかぶる感情なんて必要ない、あたかもフィルムノワールの主人公に成りすましたふうな面持ちでネオンライトと夜霧のなかに佇んでいればいい。
急転劇とも見受けられる気分の変換を公吉は愛した。紅に染まる夕暮れどきをかけがえのないものとして慈しみ、過剰な陶酔を捧げつつ、見返りに不実をいただくという細やかそうではあるが、適度な心算を反映させたのだ。
公吉は若さを願った。幼少期から育まれているに違いなかろうが、かなうことなら思春期の波にのみこまれては、反対に専制的なほど周囲に風を吹きつけたあの頃に立ち戻りたかった。が、おそらく年少の時分を義理立て程度にでものぞいておかなければ、すべては汚れでしかなくどんな修辞も成り立たない。
女体をめぐる思惑が若返りに不可分であると信じ込んでいたのは、おおむね誤っていないだろうが、颯爽とした青年が薫らせる、華奢でありながらも背筋の伸びた華やかな笑みは邪心を遠ざけあこがれへと誘うのだった。
公吉は女の微笑の裏に、日差しと濃霧を感じとり、曖昧な意思を供することで緊張がほどけてゆくのが分かった。
黙りこむのも媚態に通じているつもりなのか、そんな意地の悪い勘ぐりさえ軽やかに押し返されるのを願いこう切り出す。
「おれは尊敬しているんだよ」
女は一瞬たじろいだ表情を見せたが、すぐに威厳をただし、
「別に悪いなんて言った覚えないわよ」
そう半分くらい真摯な口調で答える。公吉は筋書きをおさらいする手間が省けたと、したり顔で思いこう言った。
「ならいいんだ、お互い様だからな、生真面目であるばかりが能じゃない、直線的でぶれがないのはいいことだけど、潔さの彼方は遥かでなく、刹那的なエンドレスを背負いこんでいると思う。つまりそれはだね、長く苦しい時間を指し示すよりも、案外ポキリと折れてしまいやすいという実際に向きあってるってことなんだ。ところが惹かれるんだよな、直情を体現しているすがたに。だからおれには物差しが必要なのさ。目盛りを計るばかりじゃない、時計のようにもうこんな時間か、あと少しだなとか、大体のめどがついた、思ったより長かったんだなとかって、振り返りつつ寝転がる頃合いをうかがう道具が」
すると女は、
「それでわたしも道具におつきあいってわけなのね」
と相変わらず見下すふうな、だが幾ばくかの憐憫を相互に振り分けているかの目つきをし、新たな追憶の茂みをのぞき見るまなざしへ移ろいでいった。
公吉は舞い上がったほこりのなかに粒子を発見するような心持ちを得てから、女を引き寄せ抱きしめた。
明らかにこわばらせた女のからだを更に強く巻きつける勢いで両腕がまわり、柔肌のしなやかさは優雅をまとった肉欲なんだと言いかけたが、ふと思い直し代わりにこんな言葉がついて出た。
「ただこれだけで素晴らしい」
女はふたたび黙った。だが、さきほどの防壁とは異なってまるで落とし穴に足をとられたみたいな迷いであり、夜の鳥の羽ばたきにも似た暗い夢想だった。
肌のうえから骨組みが感じられそうな気がした公吉は、力加減を緩めてからだを放し、もっとも的確だと思われる距離まで引き下がって女の目を見つめた。親和と憎悪がこの小さく歪んだ空間に溶け合う奇跡を信じて。
そして独語に埋没していった。女を落とし穴から引きだすのではなく、自らの沈黙を守護せんがために。
語りかけはその後でもよいと考えられたからである。公吉の物差しは運まかせというより、鏡に映る世界を愛でる敬虔な気持ちで満たされていた。
意味はない、腹も減ってない、玩具もいらない、強く尻で鼻先に乗ってくれ、それさえ癖になってゆく、ただそうしてくれれば人生は永遠なんだ。おれは子供のまま大人なんかにならず、真っ昼間から雨戸を締め切り酔いしれたいがためにこうして祈り続けている。
つまらない大人になってしまったもんだ。
せめてもの救いはおさない頃、見るから美しい中高生の男子とすれ違った際に、鼻孔をつく甘酸っぱい匂いにあこがれたのだったが、ある日それがわきがであると知らされ、幻滅しなくてもいいのに、まるで罠にかかった小動物のように萎縮し、身震いし、失望したという極めて良識を付与されたことであった。


[425] 題名:愛と希望 名前:コレクター 投稿日:2015年06月23日 (火) 00時15分

ことさらまえぶれなく閉ざされたドアの向こうへ手をかけたのは、薄らおぼえでしかない顔がほのかに浮遊していたからであり、その手つきに異論をとなえるような思いはひそんでいなかったにもかかわらず、水の流れにあらがえない穏やかな諦観が影となって寄り添い、そしてあふれだすことを願ったゆくえが窮鼠の風貌にせばめられたので仕方なく、先客の装いと名分をすみやかにあたえ、さながらたなびく抹香の沈着さを取りもどしては、踏みしめた階段の感覚すら忘れている自在なおのれを知った。
水面を揺らすことなく落ちた幻影にちがいないそう念じた矢先、みなれた面貌が脳裏をよぎり、不穏な空気は夜風を呼びこんで、あたりに散らばった枯葉のようにかろうじて舞いあがろうとつとめ、どんよりした帷のすそをかいくぐる。
魂魄に魅入られているなど一蹴すべきところ、夜目にまぎれてまとわりつく蜘蛛の糸のごとく、暗転を覚えず陽光から遠のいた身には、迷妄にゆだねる心性がふさわしいのかも知れない。決して臆したわけでも開きなおったわけでもなかったが、ドアの先から誘いの声が伝ってくるのをなかなかふりはらえず、それならこの情況は悪夢とみなして、探勝の気概をたかめればよいと案じ、昼夜の変転に即すあの明朗な心持ちをいだきつつ、大仰なくちぶりでこう問いかけてみた。
「そちら側から見通せるとでもいうのか、あたり一帯はすでに占拠されているんだ。まやかしようのない実感が、いいや時間か、このからだには流れているのだからな」
いくらか声がふるえたのは意気込みばかりでなく、なんともこそばゆい、それにしては水面のさざれを見やる軽やかな傾注から逃れたふうな及び腰にとらわれたせいもあるのだろう。
背後に風とは別の気配を感じながら、しかしその気配に取り込まれることもなく、かといって消えさりもしないまま、虚ろな鼓動だけに耳をすませば、いつしか先客に導かれていたよう思えたこの形勢は実際ではなく、魂魄はおろか霊妙な作用さえ生じておらず、すべては閉ざされたドアのあまりに変哲もないありようにまどわされ、あるいはなぐさめられている様を、ぼんやり受け入れるしかなかった。


逍遥につきものの高い空を見上げてしまう身振りを忘れかけたのはおのずであろうか、こころのどこかで限りない跳躍を望んでいるのだが、億劫な顔つきのまま晴れ晴れしくもない調子にあわせるよう、曇天に隠された太陽の輪郭を夢想しながら、憧憬が秘める黒点のような影に導かれ旧街道を歩いていた。
気の向くまま足の向くままの想いが拡散されたからだろう、知った道幅はいにしえの風雅に彩られた褪色した切り絵のような、しかし定まることから微妙なずれを育んでいる間延びした景色によって牛耳られてしまい、眼に入ることごとくに神妙な奥行きを感じてしまう。
気分が高揚するのは、いつもこうした浮遊の場面に臨んでいるときだという念いを噛みしめてみると、増々もって意のままに辺りは変容を余儀なくされた。そしてあの顔さえ甘美な懐かしさにほころんでいるふうで、笙の音が醸す寂然とした、けれども野山と市井の写し画に点描された華やかな翳りが織りなす情景の重なりにいざなわれ、それは風琴の奏でる荘厳を呼び起こし、寞寞たる道行きは異相に転じて、もの柔らかな外観を呈する。花咲く音曲が染み入るごとく。
風に吹かれた背がわずかに屈む気がしたのも一興なら、うっすらと砂埃の立ち込めるなか目途を探り当てた錯誤が巻き起こり、寺社につらなる家屋の造りまで閑麗なたたずまいに映りはじめたのだが、まじまじと眺める余裕は等閑に付され歩を進めた。とはいえ、こどもの時分駄菓子を誰やらにねだった記憶にまとわりついた意識は写真機をまたもや持ち忘れている後悔に他ならなかった。
ただ悔やみの半減しているところを覚えた途端、明快な輪郭が見上げた空へ描かれたようで家々の瓦からにじみだした墨汁のひろがりに淡い青みを見出すと、まぎれもなくここは夢の空間であり、眠りのなかの小さな情愛が目覚めを欲していることに促され、写真の不在を補うかのように浮き足だった気分は、まるで前戯を端折った淫情に等しく、生唾をこらえるすべを投げ打ち、かわりに甘露をたっぷり含んだつぼみの艶冶な風情へと没する。雨水の人知れず樋をつたい、地下に浸透してゆく香しさとともに。
両の眼を見開くまでもない、すでに夢の時間をなぞる意識は迷宮から認可されており、あとは胸に敷きつめた焦燥のありかを求めるため橋づくしさながら、奥行きに反して現実の土壌から逸することのなかった道途を越えるだけである。
せせらぎと異なる急流に散らばる面影には色欲が純粋に不透明であった頃の、やはり特定できない温和な心持ちが宿っているのかも知れない。橋を渡る素振りだけ風の勢いを借りれば河の流れは視界より消え去って、眠りのなかの眠りは覚醒の障碍になり得ず、険阻な山道を踏みしめていた。

新緑のささやきと澄み渡った空気はしめやかに孤影をゆらす。
木立の間隙から降りそそぐ陽射しが苔むした石畳に呼びかけるほどに明暗が生まれ、次第に強まる傾斜の加減は彫像の意志を投げかけるよう見返ることをやんわり拒んでいるのか、それとも山頂にいたる道程には強引な魔手が地を這って、荒い呼吸を乞い願っているのか、いずれにせよ耳をそばだてるまでもなく、微かな湿気が肌に触れはじめたときには、岩清水を束ねた清涼な光景に近づいている兆しから逃れることが出来なくなっており、いやむしろ強迫めいた考えに両足は絡めとられ、あと一息でのどを潤す猶予を先送りしたい被虐すら呼びおこしてしまった。
眼前に開ける予想もしなかった源流との出会いが、玲瓏な水しぶきによって約束され、頂きに満ちあふれている。あるべき姿は絶景に違いない。
ところが脈拍を意識する緊迫に夢の常套句を当てはめようとも、その臨場感はより実際の展開に支えられ微動だにしなかった。ほどなくたどり着いた袋小路には石畳の趣きから大きく隔てられた人工的な砂防を想わせる堅固な形式が横たわり、ようやく下方を振り返ってみれば、まやかしは見事なまでに山間を漂って、今までの視野を厳かに裏切っていたのだ。
もっとも杓子定規な意想などはなから存在しない。あるべきものは覚醒まぎわの性急な欲望だけなのだろう。砂防めいた囲いには激流がたたえられており鮮烈な飛沫が頬をかすめた。と同時に下山の意志に押された。隠すまでもなく秘境へまぎれこんだ脆弱な探求心が萎えるのを退けることも叶わなかったからで、しかしささいな抵抗を試みたのは恐る恐る底なしの激流に歩み寄り、のぞき見るだけだったけれど、頬をぬらすしぶきは涙の役割を担ってくれたのだろうか、ぼおっと薄明かりの灯された眼中には遠い陽だまりのような静けさが忍び入り、清澄な淀みが現れると水中に魚影を発見した。
それは色こそ暗色であったが二匹の魚に違いなく、悠然と視界を横切っている。不意にこれまで見てきた夢の数々がよみがえり、魚影の戯れに別れを告げる間もないまま、今めぐり出した想いをこちら側へ持ち帰ろうと念じるのだった。


[424] 題名:裳裾 名前:コレクター 投稿日:2015年06月16日 (火) 04時28分

それはそうでしょう、あなたの目つきはまるで警戒心の強い猫のような感じがしたのですから、わたしだって夜行性の動物の身構えをもってしまいます。
一瞬のことだったと言いたげなのはわかりますけど、ええ、確かにその後はすっかり快活な笑顔に返りました。しかし、こうやって記憶の奥底をうかがわなくとも、つい先日まであなたに会うたび、まるで海と空の青みのように間違いない広がりで意識を占領していたのです。からだの解放より、いえ、身を寄せることのはかなげな情感より、もっとしっかり居座っていたのだと思います。
ようやく寝ついた子供の小さな呼吸さえ濃い霧みたいになって、その場から静かに後ずさりする自分の足もとが不確かだったのは、気が急いていたばかりではありませんでした。それこそ一夜の逢瀬に向かわせる香しい恐れと忌まわしい悦びが、眼前にはだかりながらも車窓を流れゆく風景のように、去りつつあるのは不思議なものです。
あなたは湯上がりの着替えを眺めているふうなさっぱりした目線でしたけど、そう隠しきれるものではありません。わたしは気恥ずかしさゆえに、ええ、こう言うといかにも弁明に聞こえるかも知れませんが、わざとぞんざいな素振りをしていたのです。どうしてって、あなたを引き止めておきたいのはやまやまでしたけど、短い期日でしかありません、あす一日、あさってまで、あともう少しだけ、、、想いの強さが勝るほどにわたしは哀しみも同時に引き受けなくてはいけなかったのです。そんなことくらい承知しているはずのに、いかにもって面持ちですましていましたね。あのときです、わたしの胸を去来していたもやもやが断ち切れたと感じたのは。
案外と単純なもの、あなたの控えめな口ぶりの裏がわにすっかり惚れ込んでしまったのですから。わたしの影をそこに託してみたのか、あるいは別の影法師ですっぽり覆われてしまいたかったのか、その両方でもあったのでしょう、きっと。
あの季節はほんとうにうだる暑さでしたね。薄い生地に汗がへばりついてはその実、不快さはいつになく汚れであることに妙な期待を抱かせ、案の定わたしは熱したからだから染みだす、決してさらさらしたものではない情念を認めてしまいました。
三日目の夜でしたか、呼吸の乱れに忘我の余韻を乗せて、火照ったほほに羞恥とは異なった赤みがさしているのを愛おしく感じながら、うっとりと、かなうことならこのまま眠りつきたく願ったおり、ぽつりぽつり、そうちょうど熱帯夜の通り雨の幻聴のごとく、あなたは語りだしました。
なんでも蚊帳を吊って待っている女がいたそうで、わたしは随分と古風な恋話しだと、腹のなかでは軽んじていたのですけど、聞けば夢の光景だったと言うじゃありませんか。どこか小馬鹿にされたみたいで他の女との色ごとなんて疎ましい、でも思いはさほど憎々しいとまででなく、むしろ軽んじていた気分と歩調がそろったようで、夢の最中であるのは今も同じではないだろうかって、ほくそ笑んでおりました。
で、わたしの方も負けず猫を玩具にした想い出を聞かせてあげたんでしたわ。それからどうしたと、えらく執心だったのが懐かしくもあり、少しばかり考えてみますと、うら覚えだった話しに聞き入ったあなたの気持ちが、あたかもよい景観をのぞきこんでる望遠鏡になってよみがえってきて、結局わたしは恋におちたわけでも弄ばれただけでもなく、あなたという男を見物していたに過ぎないと思えてきたのでした。
郊外とはいえ、夜間の静まりは水を打ったという調子ではない、慣れた耳にだって車両の行き来は風がなくともしきりに届けられるし、人語ともざわめきとも区別のつかない気配で四方は囲まれています。
遠く離れた故郷と交わった感覚があなたを支配しているのは仕方ないことでしょうけど、わたしにはどうしても田舎の景色と混同させようと努めているのが見抜けてしまい、しかも罪のない意識だけにこのからだを通過していった悦楽が却って虚しく、また切なく、一週間の日々が尽きてしまうのをあなたに不平等に分け与えたのでした。
反対にわたしの気概には誰もが触れることが出来そうで出来ないのです。奥義とか秘密なんて、高尚なもったいぶりなんかじゃありません。ただのひとりよがりに過ぎませんから。
面白がってよいものやら、これしか能がないというくらい昼夜を問わず肉体をむさぼったあなたは、ひとり散歩に行ってくると虚脱した声を残し、薮のなかに姿をくらませてしまうことが度々。ああ、わたしのせいだわ、偶然の出会い、ふたりにもたらした残像だけが現在でも鮮やかなごとく、あのときだって精魂を奪ってあげたと、高野聖を彷彿させる忌まわしげでしたたかな念は確かすぎるほどでしたもの。
あなたの幻影はわたしの操作、そうですわ、夢のからくり、大きな手のひらの上で戯れる些細な、けれどもいたわしい情愛。
わたしに追いつける道理がありません。常に脱皮を繰り返し姿かたちを決して同様に留めぬ蝶をいつまでも追い求める哀れなあなた、まだまだ脱ぎ捨てた抜け殻に執着している様子ですね。


[423] 題名:正座的情事考 名前:コレクター 投稿日:2015年06月09日 (火) 05時40分

もう一週間が過ぎてしまった、でもあと一日こうして郊外の薮の小径を彷徨っていたい。
面白いほどくねりにくねった道行きは新鮮だったし、時折忘れたころ木々をささやかせる風のなかにずっとまえから潜んでいただろうぼんやりした不快な、かといって気分を圧迫するまでもない感触がいやに軽やかに思われ、公吉はその手を胸にやった。
面白さと同時に大都市の外れがこうも田舎臭く、そうまるで生まれ故郷の山間に点在する家屋を思い起こさせるのが、気抜けとは異なる薄明るい視界を提供している。陽をさえぎった木立や草むらの仕業にしたいところだったが、残念ながら旅情を喚起しつつも、帰省を強制させている淡い意思が薮のなかに紛れこんでしまった。
「ちょっと待ってよう、そんなに早足で行かなくたっていいじゃない。子供が駄々をこねるのよ」
「おれのせいにするなよ」
公吉はさも迷惑そうな顔つきで振り返りざまそう吐き捨ててみたものの、心中には言葉よりずっと距離があるようで、さながら駆け足で向かってくる女との隔たりを埋めるのに好都合な響きが迫ってくる。
「なによ、さっき嫌らしいことしようとした癖に」
女は切り札を持ち出したふうな語気だったが、これまた公吉と同じで、光の乏しい山道へ鈍くこだましたに過ぎない。早足を断念してみせたのも演技ならば、冷ややかな目つきを放っているその表情もいくらか芝居じみている。
左手が山肌、その反対はちょっと見には谷底に滑り落ち込みそうな勢いだったけれど、くすんだ瓦屋根がほどよく見下ろせる景観は決してありきたりでなく、むしろ曇天から降り注ぎそうな雨脚を先取して、仄かな期待が霞んだ稜線をなぞるよう、ひっそりした沈黙のなかに収まっており、公吉は目頭を熱くしてしまった。
「こんな場所が別れにふさわしいのかもな」
ふとそうよぎったのはわけもなく、ただ哀しみの中に悦びが混ざっているみたいで、しかしその深意まで降りていかなかったのは、新しいパンツに履き替えた女の仕種がありありとよみがえってきたからであった。


女は幼い子を寝かしつけると、一仕事終えたふうな顔をし、見るからに汗ばんだからだへまとわりついた薄い生地のワンピースのすそをめくりあげ、ぞんざいな手つきで下着を脱ぎだした。
公吉は呆気にとられ目が釘付けになるところだったけれど、あまりにあっけらかんとした女の様子に却っていらぬ神経が働き、羞恥ともつきかねる変な気持ちに襲われてしまって、視線をそらそうとしたものの、今度は着替えのパンツに見とれてしまい、が、欲情をもよおしながらもかろうじて平静な面を崩すことはなかった。
この一週間のうちに何度おなじ光景に出会ったのだろう。
指折り数えるまでもない、公吉は下着の色柄や素材の好奇に促され眺めたのでなく、それはあたかも洋品店の従業員が品揃えを確認するまなざしを模倣しており、いわば陳列された情欲の近寄りがたさにいざなわれ、そのくせ手つきは沈着な素振りを決して放擲せず無心を装ったに過ぎないのだ。
棚に積まれる宿痾が埃の舞いと同調している限り、空無な衝動に支えられていたというのが妥当なのかも知れない。
女を抱いた記憶がないのが何よりの証拠、公吉はよりどころのない晩春の茂みにいた。
「第一、おれはか細いからだは好みじゃないんだ。もっとむっちりしたふとももが恋しい」
所帯じみた声色に意地らしい願いを被せ、子供のせいにした女の無邪気さにほだされたという意識が立ち現れたにもかかわらず、そして奇妙な傾きを示している案山子のごとく、どこか骨抜きされた感じを打ち消したいがために反撥をしめしてみても、こころの片隅では色香と親しみを分け隔てられないまま、ついつい悪態をついては色欲にとらわれた心情を認可するのだった。
現に肉付きよいとはいえない女のふくらはぎは、ちょうど出し殻の茶をすする案配でのどの渇きにほどよく応じるよう、打ち捨てた淫欲の陰りに湿り気をもたらし、まだ預かり知らぬ弾力を水滴に託すことで、夢想と衝動が折り合いを見出す瞬間を、季節のうつろいを跨いでいた。
女はからだつきに相応しく童顔でしかも舌足らずであった。
公吉からすれば、蔑視を含んだ色情でこと足りるところであろうが、それは記憶の操作が麻痺しているだけであり、おそらく欲情を蔑もうとしている意向を相手に覚らせたい一心であったと思われる。公吉は女のからだを失念していた。が、寝物語にいつか夢のなかで蚊帳を吊って自分を待っている愛人の話しをしたことは忘れていなかった。とすれば、脱ぎ捨てられ履き替えられたパンツはどこへ行ってしまったのだろう、そしてあの人気のない小径で自分を追ってきた顛末は、、、


公吉は十、七八のころ、友人の知人のそのまた知人の家に遊びに行って大い居心地の悪さを覚えたことがある。細かな理由などいらないだろう、つまらぬ人見知りに過ぎない。そこで想い出すのが、幼年時代、近所の遊び仲間ふたりと少しばかり離れた、しかし家の造りをまったく眼にしなかったわけでもない、つまりは駄菓子屋に置かれたあの食指をのばすことをためらい、なぜか間延びする時間にくすんだ原色に等しい品々があたえる、初々しい情景であった。
どこかで見かけたようでいながら、はじめて会った聞けば公吉よりふたつほど年下の女の子がひとり猫と留守番をしていた。こういうとさぞかし剣呑で事情あり気な家庭に聞こえるかも知れないけれど、そう確かにそこは初々しいさからはほど遠い昔ながらの長屋であり、あたりまえのように一間しかなかったと思う。
布団は引きっぱなしで、なんとなく荒んだ雰囲気を感じとったに違いないだろうが、実際の有り様というよりもテレビドラマに出てくる場面が再現されている、そう受けとめていたような気がしてならない。
ガラス戸を震わす風の勢いに息をのみ、昼下がりの光線がゆきとどかない狭い部屋に不思議な奥行きを感じ、仲間と顔をつき合わせながら、布団のへりを尻尾でなでつけている猫のすがたに時間を忘れると、少女の妙にあかるい笑顔が大きな影法師を背負っているように思え、わずかに身をこわばらせた。
親が不在の家は格好の遊び場で、なにより自由な空間を延長してくれたから、空想は奔放であったはずなのに、あの場面では実情が異なっていた。
それはおそらく後の記憶が鮮明さへ横やりを入れたのか、あるいは鮮やかさを察知することに制御がかかったのか、とにかく両足を投げ出せず終いで一室を占拠している少年少女らを軽やかに打擲したのは、黄ばんだシーツをのぞかせ無造作に敷かれたままの布団がしめす隠微なぬくもりに包みこまれからで、ましてや眼を凝らすまでもなく、少女のものやらその母親のものやら分からない抜け毛が、猫のまどろみと拮抗しているふうに枕の端へしなだれる様は、間違いなく公吉らの遊び心をやんわり諌めていた。
曖昧な記憶は栄光を引き寄せると同時に蔑みを混入させ、ときには不穏な空気を清浄にし、うらはらに淫らな思惑を手繰っては夢の残像へ歩み出す。膨張する過去の光景がさらされることを願って。
真意などとは呼びたくなかったが、それは先ほど述べた通り後日の瞥見によってここの母親の顔をなんとなく思い出したからかも知れず、ならこの布団は母娘の大切な寝床であるわけで、遊戯とはいい難い情況に接した気分はなにかを補わなければいけないのだけれども、どうした経緯か、異性の魅惑など全然関心なかったはずなのに不遜な意識がうっすらと首をもたげてくるのだった。
長雨が去って夏の光がまばゆく道ばたから照り返し、ひんやりした軒下の影に長い休みを認めた頃、あの親子が喪服姿で歩いているのを自宅の二階窓から見かけた公吉は、背筋に熱いのか、冷たいのか、よく判別のつかない衝撃が走るのを感じ、それが夜更けになって股ぐらへと伝わってくるのだった。


いや、微かだが見覚えがあるぞ、女はせわしなくパンツを履き替えながら、外出しようとしていたのだ。それでおれは、早めに家を出たのだった。ことによればもう一日、たぶんまだ数日、ひょっとしたらしばらく帰省しなかったかもしれない。
「おい、待ってくれよ、追いついたと思ったら先走りやがる」
これは夢は台詞である。




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