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[485] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し9 名前:コレクター 投稿日:2019年07月22日 (月) 04時19分

裸の結びつきは肌目を選ばず、がむしゃらな獰猛さで駆け抜けていた。
てのひらにおさまりきらない乳房の張りはなにやらもどかしく、交接の加減は気だるいぬめりにうながされ、あわてているのか、落ち着き払っているのか、もはやつかみどころがない。
湯浴みで流された汗はまたたく間にふたりの素肌から吹き出し、扇風機で送られる風を無為とあざ笑っているかのようで、熱気によどんだまぐわいは深い密林をさまよい続けた。
眠たげなまなこで幸吉を見上げ、痴女めく面持ちへ沈んだ由紀子の吐息とともにこぼれ落ちる声音は悲痛な夜鳥の遠鳴りを想わせて、一瞬ぎょっとしたけれど、それが内奥からしぼり出された喜悦の変調なのだと感じてしまうと一層、腰のうねりを利かせるよう絶え間ない尽力が念じられるのだった。
そして気づいたらあべこべの身ごなしになっていても、きわだった昂奮にせかされることなく、悠長な掛け合いを見遣っているふうに四肢はのびやかであり、またその屈折と放恣にもかりそめの情念は立ちのぼってくるので、性戯に耽っているのがどこか浮遊しているような鳥瞰にとらえられた。
しかしすぐさま視線は肉体の敷物で被われ、日光が不意にさまたげられるあの隧道へのくぐりにおののき、好個な不安の訪れがやってくる。鬱蒼と陰った股間の湿り気は尊く、別種の気抜けや脱力をさずけたかと思えば、恍惚の予感がみなぎり、歯ぎしりしたくなる幸福感に触れてしまう。
女陰の開きを眼前に受ける陶酔は須臾の間、幸福を退けてから鮮烈なまがまがしさを経て、密やかな和気へ揺曳してゆく。
眼福としての凍結が許されないのは多分に交接器が有する機能を連続的に鑑みてしまうからだろうか、あるいは見飽きることを案じ、瞬時のいかがわしいときめきに準じようとしているせいか、はたまた舌先をのばしたくなる欲情に同調した相手の口内へすっぽりほお張られた男根の驚きによるものなのか、それらひとつひとつが束ねられているにもかかわらず、散漫な意識の伸び上がりしか手繰れないのは、どうやら快感が脳内に特定されることなく全身を突き抜けめぐる宿命にあるようだ。
この宿命こそ幸吉が選びとった累卵であった。
かつて先輩らにまわし見せられた淫猥な写真がここに息づいている。
好奇心とやましさの狭間に響きわたった鼓動の律義に導かれ、みだらな想いは押入れの暗がりや便所の隅に持ちこまれて、見果てぬ色情の袋小路に苛まれたことが誇らしく思えてくる。
臭気すら異性の香気へと変じ、乳房の谷間に集まった汗や恥毛の奥からただよう酸味は二次元では得られないと高らかに謳いあげるのだったが、映像的な欲望を越え出ているという感動が妙に平静なのはどうした事体なのか、そのわけを究明してゆく姿勢はひとまず等閑にされた。
なによりこの女体を玩味しつくす方がよっぽどありがたいに決まっているし、究明などいくらでも暇なときにやればいいだから。
幸吉は巧みに舌と指をつかい、由紀子のふくよかな稜線をなぞり湿地を巡回してみた。
むろん巧妙な技に至っている自信はなかったけれど、片手でそえられながら口に含まれる張りつめたものの快感が制御しようのない勢いで噴出してしまうので、しかも萎れてすぐ鎌首をもたげるようにして起立するから、その勢いに諾して辞さない由紀子が無性に愛しく感じられ、及ばずとも女体の歓楽地帯にまぎれ彷徨うのが努めであるよう振る舞ってみた。
あべこべだった体勢は斜になっても目線がぶつかったままであったり、さながら割り箸のように裂かれる使命に甘んじてしっかり両目をつむり重ね合わさったり、おたがいの唾液をすすり濃厚な接吻をくりかえしたりしながら全身をまさぐっているうちに、どうも脇腹から背中にまわる辺りが由紀子の刺激帯であるのがのみこめて来た。
がむしゃらな本領はここに発揮するべきだとさとった幸吉にとって、今こそ奉仕の精神で女性の悦びを掘り起こそうと懸命になるしかなかった。
上体を持ち上げては腰のくびれを震わすありさまに少々自慢げな目つきで、執拗な愛撫をほどこし、分秒しか保てなかった自分の快感を、同時に胸いっぱいひろがった幸福感のたち消えを、埋め合わすごとく恭順の意がしめされた。
由紀子が明言した通り忠実なしもべに成り切って、拒んだり逃げたりせず、自ら選択した情痴の門を奥深く進むしかない。
もう何回も精を吐いた幸吉にはいささか大仰だけれども、勝ち抜き戦に臨んだ選手に似た疲労が備わっていて、その朦朧とした気分は自他ともに曖昧な言葉尻にこだわらない雰囲気を形成していると読んでいた。
未熟さを知られるのは不甲斐なく、妙に恰好をつけるのもばつが悪かった。そこで言質をとられないような仕草がもっとも好ましと察したのであった。肉体のまじわりに横たわる沈黙の言葉が決して残心であっては困る。
こんな意想自体、怯懦から這い出た駆け引きであることを幸吉は認めないまま、撞着をためらわない最後の、しかも二流三流でしかない仕掛けが講じられていることにも無頓着であったから、覚悟のほどはしれていた。
由紀子はそうした幸吉の手厚い愛撫を受けた様子を艶やかに体現してくれたので、これはもちろん幸吉が判じた容姿のみだれであり、一方的な感覚の成り立ちであったが、半開きというより大声を張り上げそうな口もとへ覗く白い歯並びから、さらに隠微で忌まわしい悦楽の音が軋んでいるのを聞き、ようやくつじつまのそろった安堵に胸をなで下ろすのだった。
しかしながら、きれぎれの嗚咽の息苦しさみたいな音吐は、いつ不気味な耳障りに転じるやらわからず、それは豊満な肉体に並んで発育しているであろう由紀子の意識がうやうやしく威圧めいていたせいなのか、とがめたりするわけにもいかないから痴戯を演じたように思われてくると、年下の身分のくせに悽愴な媚態を招来してしまった世間知らずを否定できなかった。
結局、由紀子の肉体に何を見出そうとしているのやら、明確な答えは生まれてこない。
「答えなんかどうでもいいのだ」
ほとんどふて腐れに近い初心な反抗心は今ここにある裸形を破壊しようとしていた。
破壊とは快感に酔いしれることでしかなかった。が、邪念は肉欲にまとりわりつき、肉欲も負けずにあらぬ言葉と場景の散らばりを呼び起こす。
両手をつきうしろ向きになった由紀子の背後から突き上げながら、この動物的な、交尾の見せる猥雑で厳かな結ばれ方を賛美するや、野性の思考でつちかった偉大な些事に敬意をはらい、そしてしとどに濡れそぼった秘所をありありと見つめると、なめらかでゆるい接合にともなう陰部の華やぎが、軽やかな想念を部屋中へ舞い上がらせた。
不良の先輩のひとりは瀧川という名で、たしか由紀子の高校で同学年である。ひょっとしたら一緒の組かも知れない。
先輩に拝ませてもらった以上の、いや次元を越えた官能をここで展開している。もし瀧川に由紀子との結びつきを聞かせたらどんな反応が返ってくるだろう。今まで考えつきもしなかった明朗な優越心は西日の投げやりな輝きに乗じ、獰猛な閃光となった。
由紀子の家の外を誰か歩いていないか。叶うなら知った顔がいい。出来ることならこの艶事を覗いて欲しい。
幸吉の胸裡に陽気な笑いが起こった。
それは幸運か不運か、謙譲の美徳を学び忘れた劣等感の裏ごしによる自讃であった。なにひとつほめる宝物が選べないとき、贋作まがいの心境で自らの病理を滔々と語る者が抱く光輝であった。


[484] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し8 名前:コレクター 投稿日:2019年07月16日 (火) 01時14分

午後三時をまわった外の気配は量感すら忘れてしまった長閑さを小窓から覗かせおり、おなじく浴槽へ浸かった気分もゆったりした安穏に守られていたけれど、開店直後の銭湯にただよう清浄さが閑散とした湯気の流れをせき止めているかのごとく、幸吉の落ち着きなさは小刻みの震えに苛まれ、湯の面に微かな波紋を浮かばせていた。
それがまるで蓮の葉を想起させる緑の幻影で網膜に張りついてくるので、ただちに緑のひろがりは苔むした暗い堆積へと移り変わり、古風な情感に支えられた気詰まりへ転じてしまった。
とてもじゃないがしみじみとした心持ちで湯浴みをしながら、先日の回想に耽る余地などない。
なぜかしら早いうちに済ましておいた夏休みの宿題がまだいくらか残っていることを思い出し妙にそわそわするのは、やはり由紀子のおおらかな優しさや細やかな人懐こさに触れている理想を渦巻かせているのだと知り、肉欲から絞りだされた愛液にまみれる実感を遠ざけようとする錯綜こそ、余光を払いのける手つきの欺瞞ではないかとうっすら考えてみた。
生々しい含みに彩色されながらも恬淡な顔つきを保ち、秘密の門をまたいだ矜持が膨張するのをいさめようとする。そして紛糾さえ優美に他人事のように眺めてしまう。あきらかに逃げ口上の虚構を欲する図式ではあったが、年相応の判断に寄り添う訓示もひとつの怖れを隠したい心情であるかぎり、初体験の明細は素描を越えて今に記す必要が憚られた。
外気と浴室に交わる徴証はどこまでも淡く、夕なぎを招いていた。
ただ、二日目のわりにしては不思議と家屋の様子や部屋の匂いが鮮明すぎ、もっとも由紀子への執心、情欲にしがみついた嘆きが虹彩へ強く働きかけ、ありありとした光景を映しだしているわけではなく、むしろ不如意な既視感の訪れにより明確な意識が奮い立たされる。
このなにかしら矛盾した心境それ自体が、幸吉を黙らせ茫洋とした空間に押し込めたけれど、それに代わって反撥でもない、信憑でもない、いわば隠れた次元からの使いによって、うれし涙はその感動を希釈されてしまい、曖昧な領域が合わせ鏡となってまわりを占拠していた。
つまり思念は穏やかであり、雑念ははためくことなく流れを覚えなかったのだ。湯気にまぎれた涙が哀歓を忘れてしまうように。
幸吉の類推はしたたり落ちる汗にとどまろうとしていた。
「そこのタオル使ってちょうだい」
由紀子の声にもどことなく慣れ親しんだ澄んだ通りがあったけど、風呂場の戸を開けた床に白いタオルと脱ぎ捨てた自分の下着がきちんと畳んであるのを見たとき、感謝の気持ちはあとまわしにされ、悩ましさが表面に溢れはしたものの、新しい下着を持参して来ることのほうが図々しく思われて、ほのかに香っている石鹸の匂いで洗われたのか、由紀子への距離が清潔にせばまったよう感じた。
着衣し台所のまえで呼び止められ、例のやかんに入った麦茶を差し出されたときも、扇風機の風向きを合わせてくれたときも、笑みではなさそうなのだけれど親しみの眼が投げかけられているときも、幸吉はこの家にこれまで何回となく足を運んだ錯覚にとらわれ、もしかすればこれは将来のあるべき場景をなぞっていて、無意識的な願望が稚気のような顔ばせにしたがって大きく呼吸しているのではないか、根拠の希薄さにもかかわらず、漠然とした見取り図は強迫観念の方程式を隠れた次元から引っ張り出しているかも知れない、などと上気した面差しはなすがままにすべてを委ねようとしていた。
肉体の火照りはこうして春機にからまり、逸する由縁を見分け、探る手間すら省かれ、自堕落で卑屈な欲望の肯定にいたった。
かろうじて擦過する思惑は静子の無垢な冷酷さであらわにされた理性の振り子であり、あるいは間弓の強靭な色香にひそんだ巧緻であったが、ふたりとの決定的な違いは驟雨の激しさで夜へと捧げる意志を宿した由紀子の奔放な性であって、その横殴りの強引さを差し引きしてみようとも、急流へのまれ、足もとをすくわれる唐突の成りゆきにはうなずくしかなかったのである。
たとえL博士なんて大層なあだ名がささやかれたとしても、成績優秀で将来有望な品性に堕したりせず、反対に心霊研究やら超常現象やら特殊心理やらへ関心をしめし、なおかつ偏執的なたたずまいで世間の片隅に埋もれ、あくなき呻吟とともに生き続ける栄達。
生涯独り身で気安く親交を結べる友人など持ち得ないまま、夢想と幻覚を手綱のように引き寄せ、世渡りの無粋さをしみじみ痛感しては過ぎ去った幻影を胸に刻み、過剰な色欲を空へと放つ身振りにほだされるものの、異形の女人を乞い求め、倫理とはうらはらの自由でふしだらな研鑽を積むこと。
青年期より老成を極めてしまい、鏡の作用がもたらす自己愛に歪んだ貴顕を見出し、その冷徹な照り返しにまばゆく眼を細める奇峭に甘んじること。
あらたな肉の営みをまえにして首枷を外された情感はすでに叱責すべきおのれを失っていて、おののきながらも統制された修羅を見返した。
由紀子の指さきは昨日の名残りを訴えているふうに感じさせたが、湯上がりの熱気を払うよう、ふたたび全裸に導かれた幸吉にしてみれば、めくるめく今日という日の触覚そのもの以外のなにものでもあろうはずがない。
「ちゃんと裸でいてよ。さっき浴びたんだけど、あんたを待ってるあいだにまたべたべたしてきたわ。さっと流してくるから」
はじめて高校の裏手に呼び出されたときから由紀子は汗かきらしく、自分の体質を疎んじているように見えたけれど、上背があり体躯のしなやかさへまとわりついた加減の、特に下半身の発育によって生み出された威圧的ともいえる肉感の弾みは、おそらく本人の意想とは別の間口にひろがっており、その官能を熟知し、愛撫を経験した自負がめまいとなって記憶を消し去ってくれる。
単にふくよかで色香を保った肉体なら意識の領野を切り開きはしても、消去の手助けまでに及ぶはずがない。身勝手な思い込みだろうけど、修羅の湯船に浸かった者同士がいだく幻想は過分な感じ方を併呑してしているのだ。
消されたことがらは時間それ自体に当てはまった。
むろん初体験の焦りやおぼつかなさや、とまどいと一緒に発生するいじましい優越心、あたかも床の慣習を雅やかにひもといてしまう浅薄なありようが、経験値を踏まえた高台からの見晴らしなのは承知していたし、昨日と今日が生命感覚と生活時間を無視してこの身にすり寄り、すり抜ける実際も疑ってはいなかった。
しかし溺れる者がわらをつかみ取る刹那のまったく請け合いのない術に似た本能的な行動は、時間から放擲された見苦しさで彩られつつ、ある種の光輝に満ち満ちている。
フッサールが生活世界と呼び言い表した考えを敷衍するなら、幸吉の錯雑な怖れや明朗な危機の意味構成は序列に忠実であるべきであった。
そして論理思考の自立に信頼を寄せるとき、おのずと編みこまれた価値の偏差が弾き出されてしまうだろう。
超越論的意識の黎明はほの暗く、確定性をはらまないまま帰順に到ろうとする冒険である。
湯浴みに柔肌を染めている由紀子の裸身がこころなしか時代劇のひとこまのように立ちのぼると、空間の見渡しを捨象して外界は、さきほど見上げた小窓からの暑気で清められ、また毒された気配で惑わされるふうにして、時間の経過を告げ知らせるのだったが、儚い想いを乗せた肉感は不条理にもより映像的な平面の足枷を余儀なくされ、臆面もなく美しい自然描写にすり替わってしまい、それは幸吉の諦観をなぞるようにさざ波の細やかな衣ずれとなり、耳に届けられた途端、いにしえの湯殿にこだまする空洞のしめやかさを醸しては、由紀子の姿さえ画面から失われて、夕なぎの調べを奏でるのだった。


[483] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し7 名前:コレクター 投稿日:2019年06月25日 (火) 00時55分

自宅へと帰ったその夜の過ぎゆきはことさら大仰な深みを流れたわけでもなく、夢ごこちに流れるときめきはどこかしら静穏で乱れを覚えず、思い返される行為は希薄な光景となって幸吉の脳裡を浅瀬の気安さでめぐった。
自分でも意外なほど肉感は影に忍んでいない。
玄関先でふっと途切れた胸のたかまりに即すのか、夕陽が焦がした情交は遠い旅先の出来事に似て妙によそよそしく、祝祭の場をあとにしたときの清浄さを模していたので、その可憐な心理が抱える美しさを疑わずにはいられなかったけれども、家人に対するやましさのざわめきがわき起こっただけでない、ひいては先日からの筋書き通りでことは運び、あきらかにお膳立ての女体とまみえた現実がどうにもしっくりせず、秘密だってまことしやかな体裁を担ってはいるのだが、やはり自己卑下と引き換えに執着を匂わせてしまった青臭さに軽い失意を感じてしまうのだろう。
すすんで計略へと頭を突っ込んだ浅慮が放心状態を招き、たどたどしい弁明を避ける代わりに逆巻く昂奮は膨満する意識から蔑まれているのだ。
とはいうものの、平淡な影に見入っている不動の視線はわずかな盛り上がりをその渦中に知り、肉体の火照りとは異なってはいるが、ひからびた沼地をのぞく思惑に水のたたえられた幻影が浮かぶごとく、取り澄ました面持ちのうさん臭さは微妙な寂光を放って明るくて、苦笑するしかなかった。
この皮肉めいた観念が逢着するのが例の三秒間だとすれば、幸福は帰するところ永続を約束してくれるものではなくて、むしろ下準備のようなぬかりなさを遍満させては、かりそめにやわらかな釘を射す。
逃げ水が口渇とともに立ち顕れるのなら、三秒間はあたりを睥睨するためにあたえられた猶予であり、決して不安の頂点などには君臨しない最下層の静謐な時間である。
それが準備運動みたいな跳躍をなぜ欲するのか、今のところ幸吉は思念にかき乱されたくなかったので、季語のつもりで言葉の荒野へ、夏の大空へ放り投げておいた。
万事がこの調子だったから、失われたと思った由紀子の肢体は単なる物怖じの化身であるべく、古拙な書き割りへ溶けこませ、そして振り出しに戻ったつもりで奇跡の顕現を蜘蛛の糸みたいにたぐり寄せて、まばゆい日輪を仰視し、因果を愚弄する顔だちへ至った経緯に感謝した。
すでに目覚めていたはずだったのだが、つまらぬ律義とおおらかな猜疑のせいで、限りある遊戯を肯定してやまなかった現実はぼやけた視界に終始していた。
由紀子は夢まくらに立たなかった。おそらく幸吉の生霊が出向いたと考えた方が通りが早い。
残り少なくなった夏休みを慈しむのに、これほど至適な情趣はもう二度と訪れないだろう。眠りは早瀬に乗った一葉となって過分な水しぶきを浴びつつ、岩の間をすり抜け、それが寝汗と寝返りの織りなす夢の栄光だと気がつかないまま暁闇を迎えた。

午後三時までの時間を占拠する思惑にもはや尊大さはなかった。
不明瞭で猥雑な夢のきれはしを集める勤勉は素直に放擲され、昨日の果敢な出来事をノートに綴る義務も忘れ、まだ陽射しの強くない、湿気を呼んでない朝の空気に身をまかせ、ひたすらぼんやりした頭へよぎる念いのあれこれにとらわれることなく、反対に形となしかけた想念を寒色に薄めては次第に上がる気温計の赤みを見守った。
蒸し暑さが募るほどにふぬけた気分はますます痴呆に似た反応をしめし、由紀子はこのしたたる汗を流すために湯を沸かしてくれているかも知れないなどと、踏み切りを越えた付近の家から煙った匂いの夕焼けに交わる甘い休息や、夜の気配に神妙な面持ちをさらす裸身の心に安穏を見出して、まどろみかけていた。
睡魔というこらえなさにあらがうとき、すでに籠絡の野望はその牙を光らせないで、内奥に徘徊する獣の気配さえかき消し、植物的な寡黙さが霧雨のように降り注ぎ、時間の消費は埋もれ木に陶冶され、意識の黎明を、親密な拮抗を、ところどころ殊勝な風合いで染め上げて鈍色の安息をもたらす。
幸吉の沈着にはせせこましい動顛に先んじた瑕瑾が幅を利かせており、それは託言に聞こえるかも知れないけれど、片寄せした妄信はたいそう瞠目すべき喜劇の幕間をおしはかっていたので、いじましい神経は得体の知れないと訝った生身の装置に大胆な手先で触れることが出来たのだった。
豪胆な意欲ではない、安息が煮こごりのように凝縮される触知で導かれ、眠りを揺さぶる放恣が細流れに口辺へ備わって弾力となったのである。
演繹で結ばれる迷妄がもし見晴らし台から眺められたなら、そんな発意はことさら倨傲な温気に後押しされなくとも、案外机上の想像でまかなえ、もっとも多少の鼻息は出てしまうだろうが、眠気ざましの一興はちょうど綱渡りのようなきわどさをたどりつつ、同時に安逸な境界を尻目にするのだから、緊迫と弛緩はその落差を強調し難く、過ぎゆきの流路にはとりあえず小舟を浮かべておくのが絵図として恬淡であろう。
「また女体をまさぐれる、太ももが味わえる」
約束の時刻が迫るにつれ、胸の鼓動は卑猥な場景を呼び覚ましたものの、たとえあれが一度限りの激情であってあとはまやかしだとしても、幸吉のまどろみは壊されないはずである。
由紀子の玄関先で立ち往生する場面はもとより存在せず、きれいさっぱり忘れ去るだけの気概はあらかじめ用意されていたのだが、失意を補填する虚妄はさほど念入りに描かれてなかったので、いくらかの心細さを感じてはいたし、不毛の荒野へ投げ打った言葉のはね返りも不気味で仕方ない。
なぜなら植物的な寡黙を建前にした幸吉の姑息さは、あくまで限られた敷地内で遊びを許された子供のかけひきの範疇から出ておらず、仮に魔性を見据える眼力と気迫を持ちあわせていたとしても、やはり華やぐ虚勢だの、無軌道だの、夢うつつの戯れだの、逆に清廉な規矩だの、純粋な蹉跌だの、たおやかな癒しだのといったやまびこに響きあえるだけの器量は有してなかったし、なにより饒舌な魔力を秘めた植物の、時間に向き合う姿勢の、うわべだけの寡黙さを沈めてしまう瘴気を探れなかったからである。
もとからそんな高遠な考えで由紀子の裸身にまみえたわけではない。
「女陰よりふくよかな太ももが主役になれる」
鼻歌まじりで夢想する下卑たひらめきに輝きはないかも知れないが、曇り空を映したような薄っぺらい叙情は少々ありそうだった。
そこで一夜にして情婦を得たふうな妄執が羽ばたき、かなうなら優雅な虚位へ舞い降りようと卑近な、にもかかわらずしっかりと情調のたたえられたのぼせ具合に的は絞られた。
だから平静にならった足つきでふたたび由紀子を訪ね、胸へしまえるだけしまった感情を平たい影法師に背負わせ、昨晩の暗がりをかすめたかの風に頬をさらしながら、ふと薪の匂いを間近に嗅いだとき、本当に湯船が幸吉のために午後の光線を照り返していたとき、まったく違う意味合いで立ち往生してしまい、あふれる涙を止めることは出来なかった。
「まずはさっぱりしないと」
由紀子の声はどこまでも快活で澄んでいる。
積み上げようと努めてなかったはずなのに、積み上げてしまった業に気づかされた幸吉は、涙目で見遣る笑顔のにじんで、きらめくのがたまらなく切なかった。
浅はかな業に縛られていた自分をどう責めていいのかわからない。
「どうしたのよ。夏休みはもう終わってしまうわよ」
「それで風呂を沸かしてくれたんですか」
叱責のつもりではなかったけど、なにかしらもどかしい怒りが直截な質問に転じてしまった。
「学校が始まるとあんただってあんまり来れなくなるじゃない。それに今日は熱いしね」
なるほど晩夏の焦燥を感じさせるような気温はまだまだ上昇しそうで、ここまでの道のりでもたしかに草いきれが揺らめいているのを認めていた。
昨日の空無な言葉のやりとりを思い返した。
実務的で軽佻な弾みを幸吉は内心苦々しく感じていたこと、しかし、女色を得たうれしさはおさえきれず自分自身を裏切りそうな芽を出していたこと、その芽がいかなるつぼみでどう開花するのか最後まで見届けたく願ったこと、虚実を抜きにして由紀子に溺れてしまったこと。夏が終わろうとしていたこと。


[482] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し6 名前:コレクター 投稿日:2019年06月11日 (火) 01時28分

「明日もおかあさんは遅いと思う。いいわよ。だけど朝っぱらではいくらなんでも照れくさいわ」
その目もとにはなにか競いあった好敵手の距離感で保たれながら、最終的にはお互い支えあって本流を眺めているような信頼が醸し出されていたけれど、女体を味わった優越感に磐石の自信が寄り添っているのかは判然とせず、由紀子の深意もあいかわらず嬌艶さに包まれていた。
幸吉にしてみれば情交にまみれたばかりの、またもや二回も続けて勢いのよい吐精を終えたばかりのたかまりを打ち消すことは出来なかったし、由紀子が木漏れ日のようにもらした風見家の環境、つまるところ艶然と夜そのものへ誘われたもの言いは新たな緊張を強くことになったのだが、それはふと口をついたのか、実際として告げておくべきだったのか、いずれにせよ、傀儡の仮面を借り受けた顔つきだと見切ってしまうには柔和な明るさが落とされていた。
「まさか、駄々っ子じゃあるまいし、すこしくらいは我慢がききます」
「あら、駄々っ子じゃなかったの」
由紀子の笑顔にはやはり勝者の自負がよぎっているのだが、肉体の営みで育まれた親密な感情の火照りは虚偽をやんわりとはねのけているのか、冗談に慣れ親しむ調子で子供の気分のように弾んでいる。
額面通り聞き入れることの無垢、手放しで小躍りしてみる能天気、女性の魅惑を間近に知る異変、諧謔によって導かれる秒読みの幸福感。そんな想いにつられ増々おとし穴の深みが頼もしくなる背馳。
まさにがむしゃらな児戯だけが今という時間に住み着いていた。
「僕は由紀子さんの味方なんですよ。間弓さんは焦ったみたいですけど、結果的にこんな素晴らしい関係が生まれたから、そうです、僕はやっぱり駄々っ子なのです」
「面白いこと言うわね。だったら大人しくするのよ。わたしに逆らわず、それと困らせてもだめ、もっともあんたが困るのは仕方ないけど」
「わかってます。僕は神経をひりつかせるのが得意かも知れません。なのでいつも困惑してばかりなんです」
幸吉は心から従順な態度をしめしながら、由紀子と間弓の盟約に生じている欺瞞の直覚をひた隠し、やがてそのまやかしが突きつけられる場面をそよがせてみたけれど、この部屋に充満する湿度と夜気は黒髪が梳かれるごとにあやかしをはらむのか、とても粘りがあってかなり手強く、裸身から漂ってくる湯気に似た女色のしなやかさもひとかどの太刀打ちを許さず、瞬く間に懐柔される宿命だと、薄ら笑いをともなった敗北のふたたびの訪れに首肯するしかなかった。
あたかも女体へ溺れる懦夫がはじめてであったことすら忘れてしまい、どこにも依拠するはずのない自尊心を勝手に浮かびあがらせている愚鈍さに気づき、あわてて神妙な面持ちで快楽のみなもとをのぞき見るように。
ひょっとしたら由紀子は間弓の魂胆などもとより承知であって、その性格はいみじくも静子が評したように、さっぱりしているどころか、恐ろしく天然のお人よしかも知れないという考えは本道からはみ出ることなく、そのまままかり通るのであれば、風説がいかに適当で真意からはずれており、不良などという紋切り型へ当てはめた世間の思惑に則っていた自分は、まったく慧眼を欠いていたことになる。
「あれこれ詮索するよりか、貴重な青春を楽しみなさいよ。なんてね、でもわたしだって困惑ばかりしてるわ」
眉根に深いしわを寄せ、その割に口角は不本意というより悪びれ方も小気味よい感じがして、嘆いているのがいかにもつくり顔に映ったので、幸吉は大いに感銘を受けた。
「そうします。由紀子さんには決して逆らわずですね」
「まあ、そういうことになるかな」
威丈高な語気を残して下着をはき、衣服に裸身が閉ざされる様子は、もの寂しさを兼ね備えたもうひとつの官能を差し出していた。
すでに籠絡の身に甘んじた幸吉には自意識がいつも前面へとせり出す日常は停止して、ゆるやかな傾斜を歩むような足どりの心構えで、由紀子の着衣を陶然と見入っていたのだが、その瞬間に股間は性懲りもなく膨張するのがわかり、ひどく恥ずかしく思ったのも当然、自分はまだ裸のまま女人と対峙しており、ある意味大胆さをまとえたような、自然体との距離を縮められたような、必ずしも同等ではないけれど男女の秘めごとへ確実に触れることの出来た感慨はひとしおだったので、あわてふためく見苦しさをそつなく凌駕している不敵さを覚えた。
年長の肉体の盛りにあふれた秘所を味あわせてくれた由紀子は神々しいだけでなく、奇妙な磁力を発して幸吉の胸中へ友好の符牒をさずけたのだ。
これが不敵さの正体なのか。思い上がりをひりついたまま見届けるだけにとどめず、風紀やら善悪やら不純やら不良やらを無化してしまうかりそめの宥和が、音もなくたなびいている。
無音であることの安寧はひとときの心ゆるびを認めつつ、捨てたはずの虚栄が舞い戻る無常を教えられるけれど、耳を澄ましてみれば、手紙の追伸がざわめくように誇張をわざとらしく見送った禁欲が聞こえてくるのだった。由紀子は肉体と一緒に天稟のひとがらを開陳していたのである。

帰り仕度には時計のねじを逆さに巻くようなぎこちなさと、こじんまりした未練がからまっていた。
自分の衣服を整えようとする仕草は鎮火を背にした落ち着きがうかがえると同時に、いやがおうでも相手の気怠さを意識してしまう。
気怠さには自らの寂寥が日の名残りへ溶けこんでいるのだろう。普段着のすがたへと戻った由紀子の素顔は飾り気がなさそうでいて、じっと見つめるまでもなくどことなく疲弊した翳りを帯び、そのたたずまいは小憎らしいというより、自然と憂愁を引きつけているので気分をはね返すことは叶わず、執心によろめいた寛容な欲情を催させるのだった。
もちろんそうした変移は幸吉が惹き起した邪念と呼んでさしつかえないだろうし、瞞着の被り物を夜風にひるがえした幻影の仕業とも言えたから、不意の目覚めだと知ってながら二度寝を欲する性急さにさほど罪はなく、瞬時で判別した夢の続きはむしろ尊い。
脳裡に暴れるもどかしさが見苦しいのは寝苦しさの弁明であるとすれば、夢うつつの光景に立ち返る本能こそ、もの哀しい面差しが放たれる時刻である。
幸吉は由紀子の裸体がとても懐かしくなって狂おしい抱擁を試みたけれど、眠れる獣欲がほどよく手なずけられているように、肩透かしは情動をいさめ、まなざしは冷酷な一面をのぞかせ、短い言葉が用意された。
「あんた、まだ昂奮してるの」
「いえ、ただ、なんかすごくもったいない気がして」
無粋な叙情を、郷愁を由紀子に伝えることが出来ない。直ぐさまそれが粗野でたどたどしい性欲に突き動かされているのを悟られそうで恥ずかしかった。
「馬鹿ねえ、明日もいいって言ってるじゃないの。信じてくれないのね」
「そんなわけないです」
「だったら、どういうわけ」
「すいません。早くも逆らってしまいました」
「ならいいわ。明日も午後三時くらい」
幸吉は正確な時計の動きをなぞるような響きに胸を熱くした。
「もう外は暗くなってるわ。あんた帰り道わかるわね」
「ええ、なんとか」
由紀子は眼をまるくして、
「まったく、おぼつかないわね」
と、嘲笑をつくりかけたが、ふと真顔になり、
「ごめん、そんなつもりじゃないのよ。本当に」
そう言ってから、涼しさを装った、まぶしさだけを頼りにした八月の光線へ向けたような細く、艶やかな微笑みに切り換え、まじわりの午後へ投げかけているかの想いを匂わせた。
「わたしの方が迷っているかも知れないのよ」
夜の向こうへ吐息はたなびく。
「相当な方向音痴なんです。でもこの町で迷子になるなんて望むところですから」
幸吉は由紀子のとまどいを斟酌したつもりであったが、なにやら趣向は違い、先走りの結論をしかも愚直に口にするありさまだった。
玄関まで送ってくれた女人の影は家屋や木々よりも濃く、生々しく感じたが、不思議と肉欲の輪郭で地面まで伸びたりはせず、しめやかに別れを告げれて、夜の冷気が頬をなでる頃、幸吉は家人への言い訳を案じている未熟な心持ちにとらわれた。
別段これくらいの時刻で親から問責を受けることもなく、適当な返答はそのまま字義の忠実さにくみしていたのだが。
なるほど、この辺りは街灯もなく民家は煙ったようなくすみで暗闇にまぎれている。由紀子の気づかいはまんざら揶揄などではなく、まぎれた家並みの薄明かりがあたたかに感じるよう仄かなよりどころになった。
またしても三秒間・・・立ち止まることも生きいそぐことも可能なはずなのに、幸福は逃げてしまう。
そして秘密を背負った少年の影は重く、うしろめたさを引きずっていたので、必要以上に口実が唱えられ、由紀子の面影はあの銀幕の女優のように遠い夜空へ吸いこまれていった。


[481] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し5 名前:コレクター 投稿日:2019年06月03日 (月) 21時45分

どれだけ精気を吸い取られれば今西家の秘め事に触れることが許されるのだろうか。
いや、めぐりめぐった悦楽は必ずしも受け身の地平に埋もれていたわけでなく、自ら本然とたぐり寄せた宿痾のごとくやむにやまれぬ噴出を願っていたのだから、いくら驚きの事実を聞かされようが、ずっと抱きつづけてきた肉欲はそれ自体で完結する矜持に守られており、外部要因によって軽減されるべきであるはずもなく、的外れを明言するだけのしめやかな冷徹さに包まれていたので、意外な真相は晴れやかな空の青みのように、幸吉の劣情を曇らせたりしなかった。
ちょうど不幸な出来事が本質的には食欲をさまたげないように。
またこういう思惑も青空のひろがりをまねて有意義な開闢に準じようと努めていた。
「たぶん間弓にかつがれているに違いない」
静子の恋文への連なり、不良らしい強迫的な誘惑、それは紛れもない蠱惑の延長で女体の開帳を意味してやまない。同時に安易すぎる接近の解釈さえ充たされている。
由紀子の態度と行為には行き過ぎた純朴がまとわりついていて、ややともすると幸吉の思念などすっかりほだされ、どうあがいてみてもぬくもりを疑らず信じてしまうところだったが、もとより一方的な、美神に対するひざまずきを擬した崇拝に傾倒し、つまり心象は過剰なまぼろしの光彩でかたち作られるけれど、あくまで内面に施すあかるみに眼を細めるばかりで、対象そのものを愛でているとは言い難く、憧憬のゆくえはたどれない。
「さっぱりとした性格の持ち主だった」
そう静子は話してくれた。ことさら今までの経緯を振り返り、由紀子の考えや魂胆をあばく必要はすでになかった。
空想にふくれふくれた交わりは明快な数式をこばみ、かといって手ごたえある日々の成りゆきへ加担したりもしないだろう。いつまでたっても謎めいた影のなかで聞こえる幽かな嗤い声みたいに正体は知れず、つかみきれないもどかしさに余韻を含ませる。
現に下着を身につけた由紀子の事後の姿態には、もっともそんな恰好と向い合うことすら初めての場面だったので感興の成り立ちさえおぼつかなく、気後れとはにかみを知るばかりで、昂然と切り返す口ぶりなど持ちようもなくて、とにかく有意義な性欲のあり方に固執した。
幸吉の意識へ働きかけているものは無垢な肉欲が焦げつく残滓であり、不純物を取り入れない本能的な倨傲であった。そしてその倨傲はか細い神経を繊毛運動のように震わせ、呼吸を乱したり整えたりしていた。
かろうじて逆巻くのは幼児の見え透いた言い訳が案外うそでなくなる、あの反動に身をまかせた思いつきである。
たしかにさっぱりした口調なので旨趣は探るまでもない。
けれども馬鹿正直な女体はまだ着衣の途中であって、部屋に漂う交接の気配が消えてはなかったから、幸吉の股間はまたもや硬さを取り戻してしまうと、哀願とも談判ともつかない、引きつった微笑をあらわにし、相手の出方をうかがった。
ところが由紀子はさり気なくいさめるふうな目つきを扇風機の首振りになぞらえているので、蒸せた空気の悪意を膨張させてしまったのか、ちっとも涼しさが送られないのは機械の故障だとか、夜がすぐそばまで近づいているから緊迫するとか、なんとも情けない口実を設けてしまう。
しかし反動は胸裡のくやしさを駆逐してくれた。
「僕があなたとこうして、そうです、こうしてられるのはもっともな理由があったからです」
「へえ、どんな理由」
由紀子はまじまじとした顔で幸吉を見つめた。
「あなたは静子さんと僕の間に割りこんでまで肉体関係を持ってくれました。そして今西間弓さんがきっかけであることはすでに知っていました。静子さんが調べて教えてくれたのです」
「あら、そうなの」
ここまでは事実であった。この先が幸吉の反動である。
「見知らぬ男子中学生に肉体をあたえるってどう考えてもたくらみなり、見返りがなければおかしいと思いました。僕のあこがれていた女優をめぐる因果というか、いきさつにははかり知れない艶冶な情景が待ち受けていて、それはあなたもご存知みたいですので詳しく話しませんが、静子さんだってもしかすると、あの恋文なんですけど、そこから、すでにもう始まっていたんじゃないかと。
下級生からの淡い恋で火をつけておいて、欲情に昂じたところですかさず肉体を提供する。静子さんとあなたが遠縁だというのも都合よすぎませんか。そんな身内的な間柄なのに横やりが入ってしまい嘆く一方で、情報が早々と僕に伝わる、装置としてこれほどのまやかしはありません。
しかしよくよく考えてみれば他に誰が僕をたぶらかすのでしょう。満蔵氏にまつわる今西家の内紛しか思い当たりませんし、間弓さんは僕に断言までしているのです。隠し子の女優へ向けられた意思こそ僕を取り巻いた実情ではありませんか。
あなたがこれまで単なる知人だったとしてここまで振る舞うとは考えにくいですし、いくらなんでも無謀としか言えません。けど姉妹だと判明したのであれば、満蔵氏の正気なのかどうか怪しい婚姻話しを一気に御破算にするだけ同等の価値がある色事となります。間弓さんはじっくり計画したつもりでしょうが少し焦ってしまったようですね」
由紀子はほとんど顔色を変えない。その裸身が堂々としていたように。
「しかも、あなたはだまされていることを分かってて間弓さんに従った。姉妹なんかじゃない」
これは内語である。幸吉はそれを口に出すことに怖れをなしていた。怖れの由縁はある意味、今西家の昏迷より屈折しており、微細な神経経路へもぐりこんでいた。
そして繊毛運動のきわどさが踊りでる。
「いいんです。僕はあなたのことをずっと想っていましたから。待っていたのです。だから・・・」
「だから」
「もう一度お願いします。抱かせて下さい」
そう言い切った自身の顔つきを振り返る暇もないまま、幸吉は由紀子の肩に手をかけ、くちびるを強く吸った。
果汁がしたたり落ちるほどに、汗の塩分の唾液と反撥することがなくなるまで。
「いいわよ」
蒸した部屋にこぼれる返事はまるで熱帯の熟れた果実のごとく、快活な色彩を帯びていた。
はぎとられた下着を嘲笑する勢いで肉感があふれ出し、四肢を流れる血の鮮明な皮下へと青ざめる虚ろを見下しては昂奮が延命を試みる。極度の緊張によって高められる肌のこわばりは快感への道標に揶揄され、その弾むようなししおきからの発汗に醒めた意識を、静寧を案ずるような思慮深さを、夢うつつのまなざしがとらえた映像と同義語に留め置く。
燃え盛る情念はさらに透明な青みへうつろい、敏捷であるべき淫らの逃げ場へと先まわりする。幸吉はようやく自分自身の傾斜を伝えることが出来た悦びをあと押しする卑屈に到達した。
反り返ったまま二度と萎縮しない幻想をつらぬいた男根にすべてを託し。
畳にはわずかだけひんやりした手触りを感じたが、すぐに由紀子の裸体に熱をうばわれ、その豊満な胸は大地の実りに取って代わると、怖れていた夜の気配がはっきり伝わって、喜悦へ幾分か水がさされたように思えた。
幼い頃に覚え知ったあの不気味な感情を降り注ぐ魔性の顕現とは別の、きわめて実質的な夕闇が幸吉の影に被さり、子供をさとすような低いうなり声を響かせ遊戯の途絶をうながす。
帰宅の時刻はいつも正確な陽のかたむきに則していて、時計の針に見遣る視線をまどわし、かどわかす。
一日のなかで三秒間だけ幸福な気分をつかまえることは可能だった。おそらくその原理は大人になればなるほど画然とした化身へ転じるだろう。地と図の反転は高邁な理屈を欲するし、性体験の産声は古色蒼然たる屋敷に幽閉され、そのこだまを窓際まで伝承させる徒労に苛まれるからだ。
実質的な夕闇とは市井のありふれた灯火であり、昂奮を鎮火させる良心のような動きに包まれている。
幸吉は三秒以内に喚起作用を有しないと、このたぐいまれな交わりから閉め出されてしまう危惧を感じた。いくら希有な女人の由紀子であっても発する言葉に共通概念がしみついているごとく、どれほど剣呑なもの言いを営みへ忍ばそうが常識という制度に内面や外面の境などなくのみこまれてしまう。
主客二元論への回帰を支えている夜の汀に甘んじることはどだい無理なのだ。
かと言ってまどろみに捧げた感性の優越が指をくわえて桎梏に脅かされたままでいるとは頷きなくなかった。が、すぐそこに、もうあと一秒もすれば背景はあの書き割りを盗みとるように劇的な白々さを招き、無明へと位置を譲り渡すだろう。むろん体感的に三秒間はあまりに短い。そこで明日の時間を借り受ける。果たしてこれが経済理論に結ばれるかどうかは定かではないけれど、潤沢な時間は少年にとって財産であるべきで無下にあなどることはない。もう目覚めているのだ。女性を知ったのだ。煩悶はある意味、愉悦である。
「わたしのおかあさんって帰ってこない日もあるのね。あっ、ごめん、急に家のことなんか」
幸吉には今夜このまま泊まっていってもいいんだと、すこしの気恥ずかしさをこめて暗に勧めてくれている由紀子の朴訥な優しさを感じ、三秒を越えて時間を刻む良心を知るのだった。
「いち、に、の、さん」
当たり前に一途で、凡庸に軽やかなかけ声、跳躍と律動、永遠の名をその場しのぎに読み上げる素朴さ。
激しい交情と駆け引きに心地よくひりついた胸の底がわずかだけ潤っている。
「ありがとう、由紀子さん、でも明日があるからそろそろ帰ります」
幸吉は感傷に流されている弱みを自覚するとともに、並列する貪欲な気持ちを述べてみた。
「明日って」
「もちろん、またあなたに会いたくて」
由紀子は勝者が敗れ去ったものに見せる穏やかで神々しい笑みを浮かべていた。


[480] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し4 名前:コレクター 投稿日:2019年05月21日 (火) 11時28分

裸同士がさかしまで重なる痴態に無上の昂奮を描ききっていた幸吉にとって、燃え尽きる情欲は果てしない夕映えをその瞳の表面へ照応させた。
そして肉感は案外ゆるやかな径路をたどり全身にゆきわたろうとしていた。
かつてない体験の連鎖から生まれる時間への弾劾はあばかれ知らしめられる成りゆきを先取すると、なおさら途方もない煩悶が押し寄せてくるのだろう、それら分子に含まれる不純物の細やかで曖昧な幻影をまばたきながら淘汰するという規矩へ落ちつく。
つまり情動は妙に醒めた機能を有していたのだ。
なにゆえ戯れを戯れらしく提示してみせる理性がくすぶっていたのか、よく飲みこめないまま幸吉はありきたりの満足感をぎこちなく鳥瞰していた。
それが思いのほか激しいわななきをともなわず、前もって想像していた絵づらに忠実で、しかも恬惔な密度を感じさせたから茫洋とした気概だけが残され、どこか無造作な余韻になったのである。
ちょうどほこりが活気とは無縁を装った静穏に沈下するときの撹乱のように。
別の次元からすれば魂魄が荒くれ、空っぽの肉体を賞揚し、時間軸への無防備な様相を掲げて、ひたすら忘我へ徹していたのかも知れない。
あまりに受けとめがたい刺激は時として本来の怪物的な獣性をひそませ、言葉が端的に裏切りを用いるよう、平穏な日常にしらけたもの言いを被せるごとく、陰険で不本意な敵意を空転させ、畳句にもっともらしい流路をあたえて既納を了解する。
互いの股間が結ばれた交合より顔面を被った情景には手応えの不完全であるばかりか、枕頭の書を照らすような見え透いた落ち着きもあって、その危殆な安静にこそ言の葉が浸潤してゆき、肉体の恍惚は不意に寸断されるのだった。
まばたきはほこりの乱舞を見つめている。

「どうしてって言われてもねえ。それはたしかに理由があるんだけど、なんとなく勘づいているんじゃない。あんたが黙って抱くだけとは思ってなかったわよ。まあ出来ればそうあってくれればいいって願っていた。でもそうやすやす治まるわけないだろうしね、精気を思い切り吸い取ってからおいおい話すべきか考えていたのよ。もちろんあんたが訊きたがらないようなら、わたしの方で切り出す必要がないって、だけど仕方ないか、あらごめん、このからだよりもっと知りたいのはわかっているつもりだわ」
由紀子口ぶりはぞんざいだったけれど悪びれる様子はなく、むしろ知己に語りかけるみたいな乾燥を欲しており、涙を枯らすことを念じているような親和が香っていた。
そして横たわった裸身に下着をあて、自らの羞恥と秘密を取り急ぎ隠そうとしているのが幸吉には見てとれたので、いっそう意地らしく映り、部屋に充満しきったまぐわいの湿気が悲愁の趣きへなびいているように感じられた。
ただの哀しみではない、それは詭計におちいることもなく、拷問に屈することもない気高い間諜が出自をもらしてしまう儚さに彩られていた。
「この世はね、指先で触れたり匂いを嗅いだり、むしゃむしゃごくごく食べて飲んだりすることで得られる関わりと、そうではなく、正反対でもなさそうだけど、予感に牛耳られてしまう、たとえば怖れやら望みやらもの寂しさやら、およそ心のなかに立ち起こる情念を映し出す装置で支配されていると思うの。
あんたとわたしの関係もそうだわ。さっきまでの交わりは架け橋みたいなものかしら。危険な場所へ必要に駆られて渡るため、あるいは用もないのにただ向こう側へ行ってしまいたい気持ち、そのどっちも含んでいそうで含んでいない場合だってあるから、まったくややこしいわね」
裸身をさらけだし、あたえてくれたように今度は脳内に蠢いている秘密を惜しげもなく差し出そうとしている。
これが予感であるなら随分とたやすい。
しかし、由紀子の言っている予感はもっと深度を強調した、不可思議を立て看板とした、あねご風を吹かしてみたような下世話もうかがわれ、しかもいささか大仰な鉄火肌めいた口調を響かせていたので、またしても風評でしか関知しない不良の性分をかいま見た心持ちがしたのだが、反面それすら演技であることの巧緻だと穿てば、古びた因縁だの、想像もつかない禁秘だの、真新しい用紙を破り捨てる奇禍だの、目先に転がっているあまりに普通のしがらみだのが、異相をあらわにする。
由紀子が話しているように隠された実情など案外みなれた風景になじみ、さほど逸脱を乞い願っているわけじゃないかも知れず、そうなると幸吉の浅き想いに眠っていた豊満な肉体がこうやって顕現する様だって、取り立てて離れ業が駆使されたのでなく、渡る世の乱雑で身勝手な様相があぶり出されてくる。
あぶり出しである以上まえもって何らかの文字は託されていて、つたない手品にあえて喝采を送るような柔らかな心性が愛でられるだろう。
お化け屋敷の木戸をくぐった老若男女がそれぞれの恐怖を買い取り、怪奇な思い出を手みやげにするように。
幸吉の肉欲だってことさら詭弁的な追想を操るまでもない。静子より手渡された恋文に塗り籠められた意想をよりどころとして読みとった暗号こそ、まさに曲解の極みであって、その連結として由紀子に欲望がゆだねられたのだから。
予想はすでにお化け屋敷の木戸を抜け、ちょうどあやかしのろくろ首やら、悽愴な面持ちを垂れ下げたお菊やらの登場であざとく妖気を煙らせている。
「ややこしいのは仕方ないわ。でも驚かないで」
果たして子供の時分、祖母に連れられて恐る恐る足を踏み入れた見世物小屋の記憶は性欲と結びついているのか、いや性欲だけに限らずもっと別の展望、それは滑り落ちるような戦慄だったり、浮遊する気分の流れであったり、逆に停滞を念じる閉じた貪欲であったり、微かに漂ってくる花の芳香に誘われた異性の影であったり、あまねくこじんまりとした霧の童話の範疇を越えていないので、たった今まさぐったばかりの由紀子の裸体は淡色を強いられ、その肌ざわりもまた甘い菓子を食べてしまった後みたいなもどかしい充足におびやかされていた。
「静子が親類の子でちいさい頃よく遊んであげたというより、間弓とわたし、ええい、まどろっこしいわね。その父親の満蔵よ。あんたわかるわね」
幸吉はすぐに返事が出来ない。
とまどっているふうだったが、線状に連なるであろう、そして列車がすでに夜汽車の情趣に讃えられているように、彼方に待ち受ける闇の気配を恋しく想い、ひたすら由紀子の言葉を欲した。
「わたしね、どうやら満蔵の娘らしいの。ほらあんたが夢中になってた女優と一緒なわけ」
「そんな・・・」
絶句はただの息づかいに過ぎない。
「間弓はある時期からわたしのことに気づいてたようね。わたしたちの間柄って別に親しくもなかったし、小学校、中学校、高校と同じ学年だったというだけで、まあ話しくらいはしたことはあったけど、相手の家へ行ったりしたことは一度もなかったわ。あんた勘が良さそうだし推理も得意そうだから、もうわかってきたんじゃない、あっ、そうそう、わたしの方はついこの間までそんなこと全然知らなかったわよ。だから知ったついでにあいつの相談にのったわけ」
「計画にじゃないですか」
問い返しには感情がこもっていないほど効果がある。
「まっ、そういうことになるわねえ。静子と密会じみた行いをしてくれてたので好都合だったわ。あんたには悪いけど、初恋地獄ね。だからと言ってはなんだけど、しっかりあっちの初体験もすましてあげたんだよ」
大股開きになった下半身が幸吉の顔面をまたぐと、陰りであり続けた女陰はその全貌をしめし、仰ぎ見ることも舌先で好きなだけ舐めまわすことも可能になった。
上気した頬とはうらはらに昂奮は沈着さを招き、反対の方角で由紀子が施している性戯の際どさを意識するに十分であったから、手先を使って、やがて口内に包まれていく感覚を逐一この身へ告げしらせ、圧倒的な高揚に押しやられる受動とはいくらか異なる鑑賞的で、優雅な、それでいて淫猥が尽くされている情景を夢見たのだった。
「時間よ、止まれ、きみは美しい」
登りつめるはずの恍惚に絵画的な美意識を見出そうと努めた胸裡はむろん高尚でも奇特でもない。あまりに古典的な強欲さで支えられた惰弱が遠吠えしていたに過ぎなかったのだ。
「満蔵に対する憎しみはいまのところはっきりしないの。だって母にはずっとまえ、父ならまだ物覚えのないわたしを残してということしか聞いてなかったし、突然そんなふうに言われても困惑するだけでしょう。そりゃ、疑ってはみたわよ。間弓の告げ口がどこまで本当なのかにわかに信じられなかったから。
ところがあんたが他の隠し子とやらにお熱で、しかも満蔵はそれを良いことにとんでもない企みを考えているっていうじゃない。間弓はあの通りすごく生真面目だからいくらなんでもそんな嘘までつくとは思えなかった。あとはあんたの推察とおりよ、わたしを抱かせて見知らぬ女優なんぞ絶対の家に入れない、阻止する心構えね。
こうも言ったわ。由紀子さんだったらかまわない、姉妹であっても。わたしは決意したわ。間弓に協力してあげようって」
幸吉の神経を伝う電流のような痛みは短かかった。その代わり見世物小屋を出た見知らぬ旅人の幻影に柔らかく捕われた。あくまでせちがらさを見捨てたような軽やかで。
旅人は夜汽車に揺られている。
車窓には山間に灯るぼんぼりのようなあかりが擦りこまれ、もの哀しさを浮かばせたが、やがて都市のはでやかな電飾に移りゆく時間を微笑みながら見つめているのだった。
幸吉の予想はすでに夢幻と結託していた。


[479] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し3 名前:コレクター 投稿日:2019年05月14日 (火) 05時50分

遥かなる海峡と向き合った意識の黎明には返す返すも欣懐が眠っているので、対岸の悲傷を見落すまで零落するには早いと幸吉は思っていた。
疑心暗鬼の醜い爛れが高望みにより裏書きされていることを了解していたせいであったけれど、かといって、強欲の貴さをことさら祭り上げるまでもないし、すすんで卑下を是認する律義さは斜にかまえ、傲りが懐の奥でくすぶっている以上、どぶへあぶくが浮くのを讃えるような露悪趣味は廃するべきであろう。
篤実なる欲望が趣味に対しどこまでも嘲笑をつきまとわせたので、乖離を認めさせない有りように白旗を上げるしかなかった。
もっとも含意は明瞭すぎるので必ずしも屈服に堕することなく、むしろ戯れの反旗へとなびいていた。白い裸身が放つ存在証明を疑る隙き間は確実に埋められており、その肉感は道徳的だったのである。
不随意筋に委ねられた託言が夢のみなもとへ吹き抜けるように。
教えにしたがう勤勉が、観察の対象より観察そのものが、視界をふさぐ必然が、心琴を横切る無答責が幸吉の生きる時間であった。
「ここは風見由紀子の家、ここは初めての場所、そして夕陽が束ねられた部屋」
重力に浮かされた軽い清さは暮色へ注がれ、脳裡が蒙昧で満たされる。
こうなると邪魔者は否が応でもそれまで情欲を演出してきた書き割りになってしまい、せつなく撞着を感じたけれど、酩酊のさなかに冴え冴えとした思考が逆巻くふうに、
「これが邪魔者の正体だったのか」
と、霧の秘密にため息をもらすしかなかった。
だが嘆息はすみやかに由紀子の透けるような太ももの裏側へかき消えてしまった。
果てで待ち受ける女陰の暗闇はまさに銀嶺を貫くトンネルであった。幸吉は迷うことなく笑みを呼び戻し、快楽の門へと走り抜けた。
由紀子はあらかじめ見越していたのか、好色じみた激励を声にせず、なにやら実務めいた身ごなしで、けどそれがいかに多淫を惹起せしめるものなのか、書き割りからは見送られ、業務にもたずさわることさえない忘却で、演技するみぶりそぶりに絡まるぎこちない洗練が残され、結果浮ついた色気は舞台でも役者によっても、真贋を問われず終いであって、交わりのみがひたすら至高を継承するのだった。
土地の精霊を崇める儀礼に倣っているとして、いくら痴情の熱で冒されていても、歪んだ認識は生真面目な動揺へと乗り移り、時計の針が柔らかに曲がるよう、幸吉の股ぐらは伸縮を急かされてしまう。
春の兆しや初夏の気配が光線の加減を知り尽くしているごとく、晩夏の意志は多情を暗まし、一途な、おそらく不遜な、どこまでいっても陰画が抱える確定のみだらさの域を脱することは出来なかった。
にもかかわらず、晴れやかな肉感がすぐそばでざわついている陽気さは、現実から遊離した鬼火のような情念をたやすく募らせた。
あたかも烏有に帰すことを忌諱する心性が虹彩の奥へと化身をひそませるように、体位が変われば新たな愉悦が生まれ、交接の技巧はいにしえより脈々と寝屋へと流れていたまぎれもない史実に、優美で淫微な舞いを見出し、男と女の手足は日常の機能を封じられて、ひたすら相手の肌やら胸やら尻やらを弄び、次第に大胆を極めだした頃合いに、ふたたび書き割りからにじみ出た睦言が互いの耳もとへ飛び交う。
「わたしのことずっと待っていたのでしょう」
「そうです」
「どこを待っていたのよ」
「どこって」
「ここかしら」
「それは」
「なによ」
「いえ、そんな」
「じゃあ、こっち」
「ええ、そうかも」
「もう見たよね」
「まだです」
「なに言ってるの」
「だってまだ」
「そうなの」
「はい」
「あら、素直ね」
耳朶をくすぐる温気はごく自然な発生である悦びを隠しきれず、無数の木漏れ日を彷彿させた。
「だったら、こうしてあげる」
せっかく呼び起こされた温もりが冷めてしまうのに、そんな危ぶみは虚空へ彷徨い、今度は不自然な耳鳴りにとらわれ、たちまちそれが夢の皮膜の向こうでさんざめいていた女体の森であるのを知り、幸吉は桃源郷へ舞い降りた心持ちがした。
両脚に挟まれた頭部はさながら昆虫の捕獲を想起させ、というのも、めまいをもよおさせる深い陶酔感に映じた光景は夏日のきらめきをあらかた封じて、視線を反転させるふうに驟雨で湿った落ち葉の裏へとかいくぐり、木々の恩恵を被虐的に覚える、あの仄暗い蠢動で満たされていたからである。
由紀子の陰りの手前において幸吉は地中へ引きずりこまれていくような暗黒の愉楽に包まれたのであった。
その脚はきつく耳をふさぎ聴覚を奪ったかに思えたのだが、あいにく俯瞰図を裏返したあんばいの視界は極楽浄土の唱える済度に至らず、またしても仏壇の奥まったところから立ちのぼってくる白煙でまぎれてしまい色彩こそ遠のいていたけれど、それを補ってあまるべく、音像が醸す不可思議なまばゆさに収斂していった。
見つめることの難しさと息苦しさを前倒しにした邪な感覚がかえって欲情を留め置き、それは制止するのではなく、快感を握りしめた時間をさらに停滞させたので、さながら無限の絵巻物をひもとき続ける刮目へ促されたのである。
むろん色合いの妙は訪れなかったけれども、水墨画の濃淡が魅せる豊かなうねりを脳裡に持ち上げれば、ただちに下半身は溶け出し、しかもこめかみから頬の辺りまで不如意を強いられているという実際が得も知れない、しかるにあえて例えるならいつでも振りほどけてしまう紐を手中にした優位を授かっており、地獄の果てまでその笑みを連れて行けそうな妄念が働くのであった。
こうして形を成さない幼児の願望が成就した。桎梏を世界に感ずるのではない、桎梏がすべてを解放するのだ。
幸吉は夢にまで見た豊饒を暮れゆく森の地面につかみ取った。朽ちた木の葉が敷きつめられた大地の広さを忘れながら。
本来であれば敏捷な動きを感知するのだろうが、それは揺籃からの眺めに似た緩慢さで記憶の底辺へ運ばれた。
無邪気な鬼ごっこや取っ組み合い、誰であったのか、想い出は曖昧であり、男女の区別さえつかない。
身はとても軽く、宙へ浮かぶ空想はさほど突拍子もない考えでもなく、家並みや板塀や瓦屋根の風合いが日毎に異なった光線を受けて輝いたり、曇ったりしていた奔放、細雨を取り集めちいさな流れを作っていた路地裏、駆け回る自由の延長はどこまでも続いており、それを断ち切るのは口やかましい大人と、座敷童のように不意に現れるこの身の発熱くらいだったから、いつも気分は素っ裸で、その割に寒さを恋しく思ったのだが、多分それは一人っ子特有の人恋しさだろうし、自在は線路の果てに消えていったので神妙にあきらめていたものだ。
由紀子はまるで柔道の寝技のようにからだの向きを変え、その前に両脚はたゆたう幻想を切り離したのだったが、なにせ夢中で駆け回っていた興奮がまだまだあどけなく長引いていた頃の記憶に溶けていたし、すでに幾度も女陰を突き果てていたので、一端の男になったような感慨を抱き、かつて水泳部でならした運動神経を賛嘆する意気も交じったのか、そしてその肉体を味わった征服感みたいな充足は幸吉の視力をはぐらかすに上等でありすぎた。
しかし別な姿態へとうつろったとき、もっと上級のときめきが静かにやって来た。
実情はとんでもない驚きに支配されて当然なはずだったけれど、太もも地獄から目覚めた淫欲はたいそう物憂い態度を見せたがり、一皮むけた悪ぶった気性を不器用にまとったせいで、それと、やはり先輩らが隠し持っていた交接の生々しさに匹敵するあべこべな体位の写りの意味がゆったりとせりのぼって、密かにそれを期待していたのが理解されたからである。
まさにあの絡み合いが夕陽を名残り惜しむように、幸吉の胸を焼きつけるのだった。


[478] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し2 名前:コレクター 投稿日:2019年04月29日 (月) 06時20分

かぐわしきものは生身から遊離した幻像が放つうるわしの片鱗であった。
抱きしめている裸形はどこまでも遠く、乖離を求めているという矛盾に苛まれていた。もう由紀子のなかに入ってしまった到達感の意味は、暮色を寄せつけた肉体が雄弁に物語っていたので、あとの行為は儀式が孕む夜の匂いを漂わせていればこと足りるのではと、あたりまえのように受諾した。
劣情の頂点は太ももへの愛撫だったのはたしかで、あれほどまじまじと見つめたく願った女陰は静止せず、それはあきらかに由紀子の気怠くも甘美な意思が働いていたからであり、視点の凝固は叶わず実務のような手引きに取って代われた。
もっとも幸吉にしたところで悠長な前戯をくりひろげるだけの経験があるわけもなく、股間へ埋めた顔面には未熟さを知られまいとする苦渋が張りついており、急かされながら下着を剥いだ勢いにまぎれた気楽なはにかみこそ、童ていが最後に用いるそつのなさであった。
体位はゆるやかな移動で互いの眼を見合うまでに戻って、堅く破裂しそうな幸吉のものは由紀子のひんやりした手がそえられ、恥骨をかきわけながら挿入するのだと息をのんだけれど、篤実な雰囲気を崩そうとしない仰向けの裸体にはどこか気高さをまとっているようで、なにやら申し訳のなさみたいな気持ちがかすり、とはいえ、盛り上がった乳房の張りにはしかるべき熱気が発散されていたし、くちびるを大仰に吸ったり、首筋から肩に甘いせつなさを這わせてみれば、背丈もあり豊満な醍醐味は些細な物怖じを唯美的に包括してしまう。
つまり卑猥のみによって想像していた解剖図は的外れで、あまり役にたたなかったのだ。
かつて先輩らにもったいつけて見せられた局部の拡大やら結合の写真を頼りにし、その肉感や交わり具合を思い描いたつもりだったが、実際の感覚は拍子抜けするような廉潔で守られ、鼻息を荒げるほど淫靡な興奮を招きはしない。
清らかな軟体動物に接しているなんとも名状しがたい触感が幸吉の芯を柔らかく包みこみ、今まで考えていた造りとの食い違いは決して失望に至ったりせず、むしろ真新しい感じを与えるのだった。
恥骨から割れ目が生じていると信じていた幸吉には、秘部の下つきな加減は軽いぎこちなさをもたらしたのだが、沿われるままに差し入れた生暖かな優しさは、濫りがわしいという前に、親愛の情の証しであるよう思えてくる。
きつい割れ目に締めつけられる夢想は自涜の際、手加減が奔放自在だったからだろうし、生身の肉体はより自然な受け入れを所望しているのだ。
強い刺激が訪れるのではなく、他愛ないの連動にこそ官能は住み着いているのかも知れない。
「これがあれほどまで焦がれていたものなのか」
呆気なさは幸吉に醒めた意識を促すように見えたけれど、すぐさま太ももの魅惑が喚起されると同時に、ゆっくり腰振る由紀子の実直に反応したのか、思惑は閉め出され、不意に猛烈な快感がやってきてあっという間にしゃ精してしまったのである。
幸吉は自分の脈うつものを遠くに聞いたような錯覚へ陥ったが、眼を細め感情を押し殺している由紀子の顔色にありありとした密着の宿っているのが分かり、乖離もまた卑屈ないいまわしがなせるわざだと痛感した。
大胆で艶治な姿態にとらわれた肉欲はやはり映画とか書物で育まれた産物であって、よほどの好事家や、習慣に毒された性のつわものが編み出す以外、むやみやたらと芝居めいた振る舞いが行なわれることもあるまい。
水滴がゆっくりと、ある瞬間には速度を増すよう瞬きへ負荷をかけない認識、このなだらかなひらめきは交情から離れて、幸吉と由紀子の距離を見返す一端になった。
それは溺れる素振りであり続けた幸吉の打算を担っている由紀子の演技への解釈の仕方であった。
今西間弓の指示に忠実であるほど、満蔵からの薫陶とも感化ともつかない甚だ迷惑な提言に迷っている意識を霧散させるのが演技者の努めであるはず、なら突然の呼び出しや引きまわしにおける外連味の延長であるべく、そのとどめともいえる性行為において本領が発揮されるのがもっともであるにもかかわらず、案外とあっさりした交わりで終わってしまったこの初体験をどう捉えればいいのか。
不良の悪名は伊達ではなく、その名に恥じない野獣のような狂おしさ、あとさきなどおかまいなしの不敵さにのみこまれると覚悟していた身にすれば、どうにも期待のそがれた心持ちがして、むろん半ば捨て鉢の態を保持していたのだけれど、自暴自棄は必ずしも強制された性質とは限らない、当然、鵺のような暗き欲望に突き動かされ、あらかじめ墓碑銘を用意しておくといった手際のよさも領していたわけなので、持ちつ持たれつの関係であり、距離なのであろう。
要は水着や衣服を透いて欲情していた触れることのない関わりを越え出たのだから、この上もない淫行が望まれた。が、由紀子は全裸になってくれたものの、初めての入り口まで導いてくれたものの、それに先立つ雑駁な陶酔の形相も、あやふやでそのくせ無粋をあざ笑うような媚態も示さず、反対に思い詰めたふうな真摯な仮面から覗かす硬直の片影も見せなかった。
願望は手とり足とり、女体の神秘を教わる下卑た性根に由来しているのを自覚していたのが、はちきれる肉体は残念ながら干上がりを知らぬ泥水まで汲んではくれなかった。
今西家への関与から眼をそらす為だけならば、ましてや年下の垢抜けない中学生などまともに相手するのも馬鹿馬鹿しく、女色がふんだんに散らばるのは狡猾な大人に対してであって、自分みたいなひよっこへやすやすと用いられたりはしないのだ。
いかに偏屈で気弱な恨み言か、しかし幸吉と由紀子の局部はまだつながっていて、萎えてもいない。交情は絶えていなかった。
「なに考えてるのよ」
気遣いでも叱責でも吐き捨てでもなかった。
その言葉を幸吉は幾年もまえから待っていたような気がする。
迷いから出ることを忌避しようと努める方向音痴が求めてやまない問いであった。
「いえ、べつに」
わざと口ごもらせたのは瞬時にして悪魔的な思考がめぐってきたのを直感したからであり、女陰のなかへ収まったものが一段と堅くなるのを衒ったゆえである。
呼応するかのごとく由紀子は少しだけ甘い声で言った。
「もう一回して」
幸吉の描いた嗟歎はせい液にまみれる白濁の世界へと連なっていた。
暖炉の炎に諭された山小屋の抱く野心が白銀一面を怖れないように。
由紀子は両手を膝のうらに当て股をおおきく開いた。すると溶鉱炉で溶け出すような痛みさえ伴わない、けれどもヌメヌメした感じのもたらす滑り心地は明確に伝わってきて、しかもより深い底まで突き抜けていく全能感を得ることが出来たのだった。
「からだを起してみて」
両手で幸吉の胸をつくようにして体勢を固定するよう命じる。
半身を離した途端、由紀子と結ばれている光景を眼にし、その未知なるかがやきで頬はおおいに紅潮して、これは凝視するのが尊く思われ、瞥見しつつまぶたをそっと閉じた。
そして腰を前後に威勢よく振ってみれば、星々のきらめく夜空へ心身が浮遊してゆく高揚感に襲われ、またしても吹き出すように吐精した。
「まだまだよ、もっと」
由紀子は投げつけるような口調で、その表情は無頼の微笑を引きつらせている。
決して不運なんかじゃない、不運を浮き彫りにしてすくいとっているだけなのだ。
そうするなら今西満蔵の野望は褪色したのか、あれほどあこがれた女優の面影が薄れはじめ、快楽に溺れているような由紀子の破顔が色濃く渦を描きだすと、何者にも増して自らを領していた夜の底はつき破られ、時間は時間である桎梏から解き放たれて、汗の滲むのも忘れてしまい、が、水滴の鏡面をつたう情景は冷たく美しく過ぎゆき、重ね合わせた裸形を幽かにいさめるよう鶏鳴を聞くのであった。


[477] 題名:L博士最後の事件簿〜第二章・怪奇肉体女優殺し1 名前:コレクター 投稿日:2019年04月16日 (火) 01時33分

身震いすら生じさせない部屋の空気は縦横無尽に張りつめた糸の免罪によるものだろうか、後頭部から抜け出ようとする微細な伝達は明らかに視覚と結託して、異空間を呼び覚まし、その名残りのような浮揚する金属音を耳の奥で幽かに奏でている。
鼓膜へさえ届かない磁気の責務。あくまで身体の小宇宙しかめぐることがない閉じた地平線の意地らしさ。
限りなく無音を保とうとする粗暴な劣情はなんとか鎮静を得て、生涯かがやくであろう情景を映し出す。
荊棘はなめらかな曲線の裡へ沈み、柔肌が弾く危険な感触に赦しをさずかる。
同様に地平を擦過するのはこの家へと近づいた刹那に思い描いた旅客の眺めだったけれど、記憶を手繰ったまでの寛雅で座席へ染みこんだ感傷はどこまでも静的な美しさのみ讃えており、いくら車窓が視界に流麗な魔法をもたらしたとして、生身の女体とまみえるべく全霊を投げかけている際どさには及びもつかず、またそれぞれを引き合わせること自体、ほとんど意味を成さないので、郷愁はすみやかに定型へ戻っていった。
日暮れにせかされるようそれまで仲良く遊んでいた友達を見送るまなざしで。
幸吉は霊妙な効能を曲がりなりにも宿せたから、今度は明確な時間がはらむ緊迫との格闘を強いられるはめに落ち入り、それは極めて豊饒な密林へと踏みこんだ陶酔を周辺に流す危惧であって、無造作な惑溺のたまものと言えば聞こえは良いが、しょせん手足をばたつかせているだけの不体裁に過ぎなかったので、たぶん由紀子は黙って包んでくれるのだろうけど、わき上がる肉欲になぐさめなど必要ないとうそぶき、なおかつなぐさめをはき違える身勝手は等閑に付され、しゃにむに裸体の裾野も暗所もまさぐり味わいつくしたい衝動を強くもたげていたのである。
ところが衝動の由縁は本然ではなかった。
振り返るまでもない、今西家より経由された灰色の影法師が町のいたる箇所に散在し、由紀子は密命を受けた間諜よろしく自らの役柄に徹しているのだ。
性戯の教えを乞う場面そのものが書割りであって、安直な好奇心や蓮っ葉な遊びとはもはや考えられないくらい真摯で、切実とした形相が表立っており、とてもうたぐりの眼を向ける隙はない。
もっとも幸吉自身が演出にのっとり、重厚なの浮薄なのか、問わず知らず真意を先送りしてしまい、あわよくば卒業とともにこの町へ咲いたあだ花の瘴気を後にするなら、そしてあの荒唐無稽な、兎にも角にも身震いとは別種である骨の随まで震撼させた満蔵の呪縛を断ち切れるなら、あこがれの女優とはまったく縁がなくなってしまうけれど、醇乎とした姿勢は悔いなく青春の墓碑銘と対峙するであろうし、明徴な影を背にして幼き友達へ別れを言えるだろう。
金属のふとした摩擦が不快感を読みあげるごとく、幸吉は由紀子の裸体に難癖をつけてみた。
「まどわしの肉塊によだれを垂らすのは方便でしかなく、敬虔な女陰は汚されるべきなのだ」
はなから承知であった。
霊妙な心持ちはさほど劇的な働きかけをせず、生まれてはじめて容色を意識した異性の肌に接するぎこちなさを。
これだけ案じればもう十分でないか。
幸吉はさすがに暗がりばかりのぞく構えを呪ってしまった。そして由紀子の肉体を照らす光明であることも悟った。
どうにでも応えてくれるに違いない。なすがままにむしゃぶりつけばいいのだ。
欲情の満潮に達して下着をはぎ取りにかかったのだが、幸吉の覚束なさに手助けしようとしたのか、両の膝をたてたのが却って脱がしづらくなってしまい、思わず上体をのばしたところ、たちまち黒々とした恥毛が眼の当たりになり、幼児期以来の繁茂を、秘所を間近にした興奮が尋常であろうはずもなく、うまい具合ですっと足もとまですべり落ちてくれないもどかしさは失望と相まりながらも、花火の先へ点火したときに似た期待を胸に刻ませた。
すぐにはちきれんばかりの脚が畳にまっすぐ伸びて、うろたえはかろうじておさまり、これでうまく運べると安堵したのだが、起した視野に飛びこんでくるあまりの女体らしさ、惑乱する意識のつかみとれなった裸身像はいよいよあらわにせり出してきて、臀部から太ももの外側へ流下する気高くもまるまるした肉づきが瞭然となり、しかも恥毛はちらほら下地を淫らにのぞかせているようで、と言っても女陰はまだあからさまになっておらず、ただ股の付け根へそって逆八の字でつたう下半身の壮絶な蠱惑がまさしくYの字で成り立っていたから、幸吉は頭がクラクラしてくるのだった。
それでもむっちりした太ももへ留まろうとする下着に手をかけ、焦燥とも賞玩ともつかない胸いっぱいあふれる悦びをかみしめつつ、記憶にまどろんでいた精霊流しの夜景を呼び覚ませば、その杓子定規な幽玄に囲繞されている不思議さに導かれるようにして、劣情はしめやかなともしびへうつろうのだと妙に感心する始末だったけれど、そのしんみりした余韻こそ儚くも激しい生命の照り返しにほかならず、さらに息のむ瞬間を支配する夜の地平より届けられる蕭条とした流露は祭礼に用いられる玉の音であるようで、半ば放心のさなかに今この見晴らしが開かれるのだった。
摩耗する金属音との相似をたなびかせ玲瓏たる響きはふくよかな股間の谷間へおちゆく。
ついに全裸となった由紀子へおおいかぶさった幸吉は、厳しさと優しさを合わせ持つまなじりに歯向かうことなく、が、決してないがしろにするような不逞はまかり通らない気がして、とりとめのない夢想をめぐらせた。
それはあまりに未熟な息吹きでしかない安直すぎる児戯であった。
自分でも馬鹿げた想念だと呆れてしまったのだが、満蔵の申し出に対し逆手をとるあらましで講ずるなら、隠し子の女優との婚姻に代わってゆくゆくは由紀子と結ばれたらどうなるのか。
懇願とはいえ、またあまりに突拍子もなかったゆえ幸吉の胸間へ居座ったのであれば、その形体のみ借り受け、墓碑銘の裏側にでも立て掛けて置いたら趣向にかなうのではなかろうか。
この思いつきを由紀子が知ったとして・・・いや、良くも悪くもそんな朽ちた考えを口に出してはいけないのだ。
一見、由紀子をいたわっている誠意と、どこか媚びた稚拙な顔がのぞいている様子とはうらはらに、後戻りきかない交接をなにかしら悔やんでいる心象があぶり出ていることに幸吉は気づいていなかった。
綿密な恥じらいの随所には仕掛けられた陥穽があってしかるべき、狂言まわしの役得と見晴らしの約定は必ずしも一致するわけではない。
それどころか羞恥にこだわるあまり、一刻も早く由紀子の恥部を拝みたくて仕方がなかったのである。
この不誠実さもまた幸吉を放心させる一翼を担っていた。
恥部が秘宝だとしたら、陽のあたらない箇所までたどり着くあいだに得られるかぐわしき戦慄が探検家にとってどれほど重要な意義をなすのか、ほぼ本末転倒の勢いで承知していた。
危なっかしい岩肌にしがみつく心もとなさへ付随するいわれなき安寧と同じ境地に立った幸吉は、自ら持てあますほど堅くなったものへ全身の血が流れていく醜さにどぎまぎしたが、
真っ裸になった由紀子の天女のようなささやきで全霊は救われた。
「いいのよ、今日はだいじょうぶな日だから」
よく意味をのみこめないまま、せつな気なくも落ちついた声でそう言われた幸吉はようやく肉欲と手を結べた。
狂おしい貪欲な眼は下半身への愛撫を命じる。
由紀子の脚がひろがるのか、幸吉の手がかき分けるのか、定かでない。
くちびるを這わせた太ももの付け根あたりに耳を押し当て、肉体を聞き取る。が、せわしない調子ですぐ陰りを見つめては舌を不器用に使ってみる。
全容を見届けるには焦り過ぎかも知れない、あまりに太ももが愛おしく頬ずりしてしまい、どうにも奥地へたどれなかった。それならと、まるで前線に臨んだ一兵卒の奮起がおのれを諌める勇気を内包しているように、戦火の灼熱でひりついた、しかし火傷を負うことはあり得ない、もちろん岩肌みたいな危殆だけのそっけなさとは異なる温浴に似たまぎれもない安堵をかき抱く。
由紀子自身もあばずれと思わせない為か、ささやきをもらした割には大胆に腰を浮かそうとはせず、股間はあくまで薄日射すほのかさで守られており、汗の匂いも立ちのぼらせていない。
五感を研ぎすませた幸吉は、もう随分まえに忘れてしまったようなわずかな黴臭さが新鮮だったので、あの道行きを先導した夕陽の色濃さが由紀子の家に立ちこめているとばかり思いこんでしまって、さぞかし野趣を極めた燃え盛る肉体の演舞が彩られるに違いない、草木のいきれでさえ十全の構えで晩夏を謳いあげているのだからと、この情況を観照し、うら寂しい失意にあまねく愉悦が隠されているかの親しみをもち、股の隙き間にのぞく畳のへりをしみじみ見つめるのだった。
やがて時刻はたそがれへと傾き、黴の匂いも鼻孔をさまようすべを失い、興奮の切れ端にまぎれて消えたのか、ところがこの交わりは周到にはりめぐらされた怪しの夜気を待ち望んでいるよう思えて来て、しごくあたりまえの部屋の雰囲気は変調をきたしたけれど、忍びよる未知の気配を予言しているすべては由紀子の裸身にあったから、幸吉は限りない息を柔肌へ吹きかけるのだった。


[476] 題名:L博士最後の事件簿27 名前:コレクター 投稿日:2019年04月09日 (火) 05時14分

ひざ頭の上までまくれた白い脚がまばゆく幸吉の眼を照らし出している。
武骨を退け、あくまで柔肌だと唱えてやまないひざ頭に守られた肉厚の両脚は横座りがよく似合って、太もも同士の合わさる加減もまた女体特有のもどかしさを訴えていた。
ここはわたしの家だから・・・そう言いた気な面持ちをあらわにするより早く、下半身はくねり、さながら活劇における女傑が自らの巣窟をしらしめるときみたいな、野蛮より肉感を武器にする気概がうかがわせたので、いっそう幸吉は芝居の妙に感じいってしまい、もっともそれは横柄さを下敷きとせず、あくまで豊麗な仕草だけを映し出しているような魔性の香りをたなびかせていたから、うれしさの理由は思い悩むことを包括しているのだと気づき、胸は高鳴り続けていた。
動悸に教えられ、まだ正座したままの姿勢だった幸吉へ詰め寄る女体の幻影をよぎらせては、過ぎゆく夏を絡め取ろうとしているもがきに息苦しくなり、倒れこむような勢いで覆い被さる場面を幾度も反芻してみた。
うらはらに由紀子はやや疲れた微笑みを保ったまま、落ちついた様子で麦茶を飲んでいる。
が、まさしくおもむろに間隙をつくり、あたえてくれたものかどうか断定することは容易でなく、むしろ手にしたコップが無惨に割れてしまう怖れへ移ってしまい、罰の悪さを呼び出すだろう悔恨が歯止めするのだった。
いや、それすら時間の経過ばかり気にしている怯懦の域を抜けたものでないと感じられ、気力が萎えてしまった。
これ以上の間合いはぶざまであり、情けないことも承知している。
唯一のよりどころは由紀子の自在さだったけど、どう見積もってみても間諜の命を受けた意志が働いているのだから、手綱はやがて引かれるのであって、むやみやたら焦るほどに見苦しく顔が歪んでしまうだけで、悦楽に身をまかせようとした流露は汚れてしまう。
夏の日にあらがう不用意な精神を全的に塗りつぶして欲しいと願った戯曲はどこまでも健やかでなければならない。
胸の隅っこへ残された宿痾が存在証明に委曲を尽くすように、開き直りを装った昏迷は時計の気だるさに機会仕掛けの妙味を見出し、いよいよ夕暮れを告げだした空模様の色合いに限りない哀愁をお仕着せる。
精確で揺るぎない運命に先まわりし意義をあたえ、日没の無垢な感情へと埋没する。
いつの日かこの瞬間が切り崩された要害から転げ出す石のように、真新しい音を立てた光景を培ってきたのは暗黒の累積だったのかと、重力の不可思議へふたたび意識を投じて、夜明けの訪れに導かれた足どりの闊達を覚えるころ、陽光のまぶさしに眼を細める大仰な仕草がよみがえるだろう。
幸吉は茶番を演じているのだと卑下することで、由紀子の自在から解放されたような錯誤をかろうじて持ち得たのだったが、矮小でおぼつかない惹句は効果を生むものでなく、空まわりの虚しさが見せかけの汚点に萎縮しきったそのとき、夕焼けが窓をぱっと焼きつけた。
さっきまで着ていた由紀子の衣服を幸吉は脳裏に浮かべ、潮風へひるがえったその鮮やかな情景に自分でも呆れるような老成を含ませると、
「呉乃志乙梨」
そうため息のごとくつぶやいた。
「えっ」
由紀子は怪訝な表情をつくる間もなく、口辺へ漂わせた穏やかな微笑にわずかな亀裂さえ認められなかった。
「僕があこがれた女優の名前です」
あのとき背伸びにともなったむず痒い感覚がありありと面影を呼び戻した。
そして今ここに居る女性の、憧憬とは縁のなさそうな唐突をまとった、しかし地続きの荒野が空漠だけで充たされているわけでないありようの、夢の輪郭にそれとなく触れた想い出が、過ぎゆくときの流れと潔さを忘れた沈滞へ呼びかける。
由紀子の顔色からこの数日に起こった突飛な経緯を読み取る必要はない。いずれ明白になるのだから。それより萎縮した神経にめぐって来たこの照り返しのさなかを見逃す不手際は避けたい。
あこがれに遭遇したとき好機を決して逃さなかった意気込みはどこへ行った。これほどまで窓を染めあげ、部屋の隅々まで黄昏を送りこんでいる太陽の暗き欲望に忠実であれ。洞穴を好んだように夜へと急ぐ翼をこの背に生やせ。
由紀子の動じない姿勢は気性によるものなのか、耐久を強いているせいのか、考えまるまでもないだろう、そんなことより自ら仕掛けるのだ。むろん奸計などではない、今そのものに手を触れ、くちづけするのだ。
蒙昧のさなかに点じられた欲望を振り返るな。
夕陽を背に受けながら幸吉は両膝をしっかり立たせ、どことなく浮世絵を彷彿させる由紀子の無防備でいて手強そうな品をつくった絵姿へ影を落とした。
目配せのようには明示されてなかったけれど、のびあがり入道のごとく実体を影絵のなかへ吸いこませた幸吉の鼻息くらい由紀子だって感じたに相違ない。
少し疲れ気味な面差しに宿った隠しきれない哀憫を退けることなく、なおかつ持ち前の気概をそこなわず、華々しい夏の終わりの赤々とした光線に包まれるように、型通りの惜別さえ忍ばせながら幸吉を見上げたのだった。
睫毛の先まで透過する夕陽の明るみを待ち望んでいたという風情で。
折り重なるかたちで由紀子のからだへ倒れこんだのは幸吉の虚脱ともとれたが、その実、羞恥に背を押されたようであり、また怯懦も健在であったからあらゆる要素が溶け合ったとみるのが相応である。
その甘ったるく投げやりな情熱を由紀子は受け入れた。
くちびるは吸盤の役目を担ったふうに息を奪い、指先はどっちが右やら左やらままならないうちにお互いの背中へまわり、腰までたどると、しっかり眼を見開いていた由紀子は、
「脱ぐから」
と言って半身を起こした。
茫然としたまなざしを送っている幸吉にはあっという間に乳房をさらけ出して白い下着だけになった女体が想像以上に神々しく映った。
両手を幸吉の首のうしろへ組みながらゆっくり身を倒し、全身から発している焦熱のような吐息を吹きかけ、あらためてくちびるを激しく重ね合う。興奮と愛着を一気に高みまで運んだ由紀子は半ばくちを開け、相手の舌先を踊らすようにしたので、よだれは樹液の粘りに倣ってあごをつたっていく。
軽く閉じていた両眼を覚まされた幸吉は時間を惜しむ奇特な思いに駆られ、しなやかな首筋を下るようにしてたわわに実った乳房へ吸いついた。
すると昂りに溺れていそうで、そうではない鋭意をはらんだ由紀子の視線が一瞬冷たく放たれた気がしたけれど、すぐさま陶然たるうるみに艶めいたので、あたかもスイカにかぶりつくせっかちな食べっぷりをなぞり始めるのだった。
もちろんその張りはあまりに記憶の底辺に沈みこんでいたあの懐かしさをくみ上げて、同時に今まで味わったことのない弾力を有しており、身にあまる光栄だと生真面目な感謝が捧げられりした。そのくせ恐る恐る舌を使って乳くびを転がしてみれば、にわかに硬直した異物みたいに感じられ、不届きなことを行なっている自責で苛まれつつ、遠のく意識のあるがままを夢見の調子で眺める冷静さに驚きもした。
それが過度な熱中と拮抗しているのだから、なおさらかつてない意識が瞬いているのだろう。このまま冷めた感覚を維持できれば頼もしくあり、このうえもない快楽を得られるところだが、発汗でまみれた眼球に沁みる痛みを覚え、はっと我に帰るとそれもそのはず、衣服を着こんだまま女体と交わっているせいで燃えたぎるのであり、しかもすぐそばには扇風機が勢いよく首を振っている。
脱衣を促さなかった由紀子に少々問いかけじみた想念が浮かんだけれど、思考する余地こそ捨て去るべきだと慌てて同じすがたになった。
心音も重なり合うのだろうか、殊勝なひらめきで感心しているよりさき、裸体が密着した情況には新たな感激の波が押し寄せ、どうにも認めるのがためわれていた局部の膨張を悟られる気恥ずかしさがあらわになってきた。
とても衣服や水着を通して欲情していたよう風雅にはいかない。
水泳で育まれた肩幅の頑丈そうだけれど、華奢な骨組みや腰のくびれをしみじみ眺める余裕はなく、ましてや汗を弾き飛ばすほどに獰猛な神聖さで圧倒するまるまるとした肉づきを顕示し、駿足の獣をも想起させる太ももへ眼をやるとき、幸吉にはやるせないほど、いてもたってもいられないくらい劣情がやってくるのであった。


[474] 題名:L博士最後の事件簿26 名前:コレクター 投稿日:2019年04月02日 (火) 05時53分

夕暮れは訪れを引き延ばしているのか、それとも日曜の午後の過ぎゆきがいつものように、神妙な緩慢さで運ばれているせいなのか、加えて残り少なくなった夏休みの華やぎがもどかしく感じられるからなのだろうか、由紀子に誘われるまま幸吉はあとさきなど考えてみる余地もなく、眼前に立ち籠める草いきれの隅っこへ打ち捨てた良識を見つけだそうなど思ったりはしなかった。
また見つからないことにぼんやりと、しかしながら足もとへ続く舗装されてない地面に刻まれた記号のように刹那の証し有しており、傷口に似た痛みさえ訴えかけてくるので、決して漫然な情景へ吞まれしまっているわけでなかった。
それだけに軒下まで生い茂った夏草のあらくれを鎮めるふうでありながら、同調をねだっているオニユリの背丈や、黒い斑点を毒づかせる花弁の反り返りに、強靭な意欲が感じられた。
あわせてキキョウやノアザミの毅然とした風姿に支えられた立ち上がりの色合いも負けずと鮮やかで、あるいはナデシコとヨメナの可憐さにひそむしたたかな見目に、緑へ降り積もろうと試みるヒメジョオンの殊勝さに、そして林縁から種子が飛来し板塀へと沿わせ頼りなさげに生えるオミナエシ、道端ぽつりとゲンノショウコのさりげない主張でこころは静かに波打つ。
普段より車の走行のありそうにない道筋は竹林の一角で陽当たりが遮られたり、短かい橋下を低く緩やかに流れる小川に連なって、四五軒の家並みをあらわにし、ふたたび雑草らが敷きつめられた青々しい眺めに包まれていた。
この町の東西南北を隈無く知り尽くしていたような過信がいかに子供じみていて、反対に子供のむやみやたらな空想でもってあらぬ土地勘を作りあげていた実際が、鈍く幸吉の頭を揺らした。
確かこの辺りは駅を通り越した奥地なはず、十指に足りるくらいしか列車に乗ってこの町を離れたことはなかったけれど、高く盛られた路盤から見下ろせる民家の佇まいが車窓をよぎってゆくとき、必ずしも深く激しくはなかったのだが、なぜかしら寂しげな音色をともなう華飾な気分になった。
古めかしい瓦屋根の点在するひとこまに寂寞を見出すのはわかっても、どうして派手やかさを感じとったのかよく理解しづらい。
ひょっとしたら隠れ家に引き寄せられるような、また廃屋やらお化け屋敷やらに魅入ってしまう怖いもの見たさが騒ぎだしたのか、だとすれば少しうしろめたい心象をたなびかせてもおかしくないはずだったが、ほんの束の間しか眼に出来ない制限はかえって自由な情趣を眺めにあたえたかも知れず、走る線路の彼方には野山をかき分けた街の光景が臨まれるわけで、なるほど車窓へ瞬時おさまったひなびた民家は、さながら上京する者の胸にわき起こったあまりに性急すぎる郷愁であり、その画像なのだろう。
今の幸吉も同じ感興を抱いていた。
列車の振動は非情でしかなく屋並みから遠ざかる宿命にあるなら、都心へと向う進捗にはやはり華美なうしろめたさが張りついているのだ。思い切りが悪いと言えばそれまでだけれど、希有な経験の連続に線路のありようを結びつけてしまう情調はある意味仕方ない。
過ぎ去る風景を埋めたのは路盤の端々に色づく野花の寂寥だったのだが、ただ寂しいだけでなく、雨風はもちろん車両の圧力にだって耐えうる根強さをのぞかせていたから、既視感は名分をあたえられたようで幸吉は道筋に新鮮さ以外のものを感じた。
現に線路を越え山裾近くまで踏みこんでおり、ことさら珍しい草花の群生に囲まれているわけでなかったので、いくら知らない地域だとして格別の驚きや感銘を持ったりはしない。逆の方角にも線路は延びていてその一帯だって似たような場景があるかも知れないし、変わらない風が吹いたりして、同じようにひっそりした空気を軒や物置小屋のまわりへ溜めているような気がした。
もっと言えば日本の隅々を探ればおそらく寸分違わない光景が存在している。揺曳を身上とする既視感は儚い指標でしかなく、それは心地よい耳鳴りであり不可侵を建前とした特権だとしても、僭越的な郷愁を忍びこませることは出来ない。
日々のうつろいに薄幸の美徳を見出せたなら、山の音が幽かにでも聞こえたなら、トンネルへ侵入した列車の窓が鏡のごとく闇を受け入れたなら、彼方はもうそこにある。
由紀子は言った。
「すぐそこよ」
真新しい体験を目前にしてなぜ幸吉は理念めいた記憶の流れを呼びこんだりするだろう。しかも敬虔な情感に隣接した諦観のごとく。由紀子の裸体へ触れる果報が待ち受けているというのに。
そう考えるとさすがに苦笑いするしかなかった。
どうあってもこの一風変わった道行きには沈着でいられなく、お茶を濁したに過ぎない。
それくらい由紀子の肉体が透けてどうしようもなかった。武者震いだと自分へ言い聞かせてみたものの、不意に鏡を差し出されて当惑する恥じらいの招きでしかなく、気宇が整っていない明かしを知るばかりであった。
草いきれの欲した夕立ちのあとの閑寂をまぼろしのように周囲へめぐらせた幸吉は、由紀子のひとことが深い沼よりゆっくり浮かび上がってくる泡沫に想え、その水面へ小さな産声を返す自分のすがたと向き合った。

視野に入れることさえ等閑にしていた由紀子の家構えをまじまじ見据えたとき、はじめて幸吉は道行きが地獄流しでも桃源郷めぐりでもない現実であることの生々しさと渇きを覚え、素直に緊張を認めた。
その家の造りは豪奢とは無縁であると同時に、祖末な雰囲気を持ち合わせておらず、幸吉の住まいと比べてみても何ら見劣りしていない、先入主にとらわれた意識の持ちようが門口から打ち消されるのは、軽い刺をいじることで得られる痛みに似て安楽さが表立つ。
とは言え、全身をこわばらせている幸吉からしてみれば、つぶさに玄関を通じて部屋数までうかがう余裕が生じるわけもなく、瞬く間に風見由紀子の家の中へとさらわれていったのである。
そして土壁から発するような黴の匂いが穏やかに鼻先をかすめ、裏庭まで立ちこめている様子が夢幻とせめぎあう実感をもたらした。
幸吉が腰を下ろした部屋の畳にもその匂いは染みているのか、ますます息づくことの確かさが上半身から降りていくのがわかり、なんとも名状しがたい複雑な居心地に足を崩せない。
由紀子はごく普通の口調で、
「なによ、その座り方」
と、幸吉の緊縛をやわらげた。
「いま冷たい飲み物もってくるわね」
そう言ってふすまを開けたまま廊下に足音を響かせ、ごく近くへ遠のく女人の面影は部屋に残されるのだった。
由紀子の部屋・・・鎮まったのか、鎮まっていないのか、よくわからない胸の裡に幸吉のつぶやきがこだまする。
ほとんど飾りを忘れた由紀子の素顔がこの部屋には横溢しているような気がした。
ありきたりに勉強机は壁際を占拠し、その隣には本箱が体よく配置され、教科書や参考書の類いも逸脱とは関わりなく、平然とした並びに準じている。目を凝らしたわけでないけれど、軽く見回しただけでことさら際立った個性やら、推していたやさぐれたけばけばしさなど無く、幸吉はこの期待はずれをどう噛みしめるべきなのか、妙な心持ちになった。
今西間弓がそうであったように、由紀子もなにかしら大仰な芝居を演じているのではないだろうか。あらためて忖度すべきことでないのは承知だったが、的確な答えは導きだされるどころか余計に混迷してしまうのだけなので、いっそ思考停止の状態へ自分を投げてしまうべきだと幸吉は判断した。
しかしながら確乎たる判断とは違う、かなり曖昧で身勝手な考えに止まっただけの下卑た意向に過ぎなかった。
ここに来てようやく幸吉はひとりで居る時間を持ち得た。わずかだけど緊張の糸が緩んだようだ。
由紀子にとって肉体の提供は果たして何の対価となるのだろう。聞き出せるのなら聞き出してみたい。所詮は興味本位の粋にとどまるのか、それとも激しい義侠心に駆られているのか、恋情を正気でまかり通らせるためには明朗な拒絶が求められたように、欲情の解放にも似非の狂気が用意されているとしたなら、その原理に甘んじてやまない自分こそ、不良の精神の上澄みをかすめ取った軽薄者である。
これで十分であった。由紀子が扇風機と小ぶりのやかんを両手にぶら下げて戻った。やかんには水滴が汗のごとく吹き出している。
「これすごく冷たいのよ。裏の小川に浸けておいたからね」
言いながら手際よく本箱からふたつコップをつかみ、麦茶らしき冷水を勢いよく注いだ。よく見るとコップにはキリンビールの商標が白く浮きだしていたので、もしかしたらビールではと一瞬勘ぐったが紛れもない麦茶であった。
遠慮なく一気に飲み干したあと、由紀子の洋服がちりめんみたいな生地のワンピースに着替えられているのに驚いた。
どうみたって寸法が縮んだというか、背丈の合っていなのが瞭然である。さっきのは一張羅なのよ、それに汗かいたしね、言葉にはしなかったが、あきらかに表情はそう喋っており、生地の薄さはいっそう肉感を強めているのがよくわかって、幸吉はうれしさを隠しきれなくなってしまった。


[472] 題名:L博士最後の事件簿25 名前:コレクター 投稿日:2019年03月19日 (火) 03時34分

子供らがのぞかせる無邪気な顔を確かめることもなく、密会の暗がりは白々とした空間に点じ、浮わついた灯りさえかき消されたのか、そこをたどってけば小学校のプール際に抜け出るというまことしやかな言い伝えによって、虚しく励まそうと努めていたけれど、由紀子と連れ立ってかつての通学路を歩んでいる胸騒ぎの正体へ気づくほどに、時間はひとっ飛びにあの水着からはみ出すような裸身を想起させたので、さながら目覚めの良い朝をかみしめているふうな心境になった。
子供のときだってつい先日までだって防空壕の迷路を抜けようと試したことはなかったが、道行きの高まりは確実に幸吉の暗部を照らし出し、いとも簡単に秘密が溶け落ちそうであった。
小学校を通り過ぎ、まっすぐふたりは進んだ。すれ違う人影はなく、その閑寂に息を合わすよう話しも抑えられた。
斜に射してくる陽射しを受けた由紀子のワンピースがいっそう朱に染まり溢れたかがやきを呈すると、熱風に呼び覚まされた潮の匂いが前方から漂いはじめ、港に碇泊する漁船の揺れと軋みが眼前で展開しているように思えてきた。
歩調に乱れはなかった。
胸打つ鼓動を鎮めようともせず、もの思いのわき起こる様へまかせている間に足どりは海辺と並び、潮風は紛れもないものになり、海鳥の飛翔は鮮やかな曲線で描かれ、湾岸の位置を示しているかのようである。
眺めた山稜には一条の赤みが被さって碧空のひろがりを拒み、けれども太陽光線の熱意は海面のさざ波に照応して、まだまだ日没との距離を縮めようとはしていない。
由紀子の家はどの辺りだろう。
ごく自然に眺望から卑近な考えがこぼれたのはややあってからであった。
午後の思惑は風向へ乗ったのか、いっそのこと岸から離れ、船出してどこかの小島に由紀子の棲家があったなら、さらなる冒険に身をあずけたとしたら、そんな夢想をよぎらせては遠い町並みの景色に生彩を施し、見知らぬ土地の風向へ覚束ないまなざしが捧げられた。
とはいえ、卑近な在り処に遜色があるわけではなく、稠密する民家の猥雑さを却って懐かしむような浮遊した倒錯にみずみずしい透明感を見出すのだった。透け映るものが由紀子の肉体を通してであるのはわかっている。
そこまでの想念は心地よく、浜辺を支配している穏やかな情調とも折り合いがとれていた。
幸吉のひとりよがりに水を差したのは、押し黙った気構えに未知の緊迫を滑りこませた摩擦であった。
潮風に煽られる家の造りとばかり見当をつけていた幸吉にしてみれば、後戻りの調子で港を背にして河口をさかのぼってしまった道行きに、急ブレーキを踏んでしまった横滑り以上の唐突が告げられたのであった。
唖然としている顔つきをまったく気にかける素振りはなく、回り道なのか、引き回しなのか、単なる気まぐれなのか、よくわからないまま、微笑とも険阻ともつかない穏やかな能面を想わせる表情を保ち、歩幅に同調を求めてくる。
もちろん無言ではあったけれど、幸吉には由紀子の不敵な態度が伝わっていた。見果てぬ夢の限りなさを枕もとに絡みつかせているかのごとく。
ましてや不本意だろうが、理不尽っだろうが、奸計だろうが、丸刈り頭のどうていにとって女性の黒髪が絡まる場面は幽遠な音色を常にたたえており、それはなにも高邁で婉美な感覚に打ち出された風雅だけで解釈されるはずもなく、どちらかと言えばけばけばしい彩りや安物の駄菓子の包みに見られるいかがわしさ、ひいては清楚な装いを剥奪された淫らを身上として、はじめて肉感へ向き合えるような期待が内包されているのだから、今すぐに触れられそうな由紀子は零落した天女の面影を宿し、寝屋もまた荒廃した生臭さを放っていると思われ、竜宮城の華飾や瀟洒な奥座敷での優麗なもてなしとは異なった空間へなだれこむのが一番似合っていると察せられた。
やがて生真面目に陽光を浴びる電線の影が通り道へまっすぐ伸びた先、閑暇をもてあましたふうな野良猫くらいしか見当たらなかった夏の日曜をいきなりせわしくさせる情景と出会った。
合理的ではない何かを、それでいながらふざけ合うに足りる快活を認めているだろう好奇と不審の眼顔。幸吉はすぐに思い出した。あれは夏休み前、静子の欠席を確かめに下級生の教室へ赴いた際、会話した女生徒のなかのふたりであった。
おでかけしているというより、どちらかの家へ遊びに来てその見送りの様相と判断出来そうな場面である。ふたりの女生徒から見れば、異様な組み合わせを眼の当たりにしてしまいさぞかし驚いたに違いない。しかし幸吉は意に介さなかった。静子に対する引けめより、悪名を持つ高校生の由紀子と居並んだ姿が誇らしく勝って、今までにない真新しい感度だったので単純に気分がよかったのである。
さてこれは引き回しと解釈するべきなのか。そもそも放課後という学生たちにとって絶好の時間と場所は休校では効果を発揮するどころか、ちょうど閉店後の食堂が空腹を満たさないように、恋文も告白もその書割りの背景を失っているのであまり賢明でない。
どうしたわけで由紀子はあんなところを待ち合わせに選んだのだろう。そして港の風景に接するため迂回したのであったら、なにか意味ありげで、麗しい瞳のなかに燃え盛る情熱を鎮静させるが為などと、感傷をもぐりこませてしまう。
無駄話を避けているのではなく、道すがら核心に至るような会話が軽く弾んでしまうのを憚っているのか、とにかく由紀子の面様には決然とした目的がうかがわれ、不用意な問いかけは出来なかった。
だが、たとえもったいぶった造作であったとして、からかい半分の足取りであったとしても、由紀子はなんらかの使命感に縛られているみたいで、望んで幸吉に同行している確信を得ることはなかったし、それは強引だったと語っているように、いきなり好意が肉体の解放につながること自体、不思議なゆきがかりであって、いくらませた高校生だとしてみても、ぎこちなさが顕れてくるのは仕方ないこと、このさなかはやはり白日夢なのだ、恋し恋され、騙し騙され、虚に虚を積み重ねる、もし青春の墓標がすぐ近くに存在するのであれば、幸吉はいつも手の届く範囲で安易な惰眠をむさぼっている痴呆に他ならず、永遠の眠りが覚醒を平気でうながすように、平穏な彼岸には妖しさを身にまとった魔物の触手が延びていて、なんなく悦楽へと傾きかけるのだった。
由紀子のだんまりにひそんでいる悲愁を踏みにじっているのは自分の方かも知れない、おどおどしつつ甘んじているのだから結局、不遜だし能天気なのだ。
道のりはすぐそばに踏み切りを知らしめ、ほぼぐるりとめぐっただけの散策に似た気楽さを受け入れようとしたのだったが、けたたましい音とともに単車ですれ違った由紀子の同学年らしき男のにやけた挨拶を疎ましそうに払いのける仕草を見た途端、それまで不純物の堆積でしかなかった意固地な考えはにわかに氷解してしまった。
たぶん由紀子に沈滞した意志は思ったより掃き溜めの腐敗でも、投げやりな言動が宙を舞わせたあげくの瞞着でも、道ばたに取り残された水たまりの澱でもなく、かといって雨上がりの晴天を見上げるような健気な照り返しを模倣する雨水の結晶などではない、もっと不確かで、底なしで、そのくせ見え透いた自尊心に癒着した、剥がれようもない、反対に内側から侵蝕してしまう勢いの、とてつもなく過剰な森の気配、あるいはその主人、詩情は満ちてきた欲情の波に洗われ、幸吉も通過点のごまかしからもとのまなざしへ戻ったのであった。
静子に打ち明けられたその夜、幸吉は由紀子の企みなど浅いものであり、口先では色仕掛けみたいなことを言っているけど、不良だとしたならその仲間をかり出して恫喝すればこと足りる、どうせ碌な仕打ちは受けないだろうと腹を括っていた。
ところがすでに強烈な白日夢を経験してきた幸吉には、つまり今西家の妖異や新鮮すぎた静子の恋情は遠い過去ではなく、未だ燻っているかがり火であり、転倒した言い方を使えば、いにしえより灯しを絶やしていない矜持によって白々とした明るみのあちこちに闇を見出しては、か細い灯りに息を吹きこむ、防空壕における静子との遊戯がその伝統儀式の名残りであったとするなら、もしそこから引きずりだすのなら、それなりの大義を見せてもらわないとなにもかも台無しになってしまう。
由紀子もまた幻想に操られた悲しき形骸かも知れない。しかしその形骸に色づくかぐわしさこそ幸吉の憧憬の根源である限り、いくら浮ついた心地になびかされようとも見極めはついていた。
由紀子は本気で賭けに出たのである。
「もうすぐよ」
幸吉は欺瞞ではない屈折を感じとった。ぞんざいな甘さを持っていたからだった。
線路をまたぐと道は右に折れた。港界隈とは雰囲気が異なるけど、はじめて足を踏み入れる路地であり家並みが幸吉を待っていた。


[471] 題名:L博士最後の事件簿24 名前:コレクター 投稿日:2019年03月12日 (火) 02時35分

「まったく暑いわ。はじめまして、わたしの名前は承知してるわね、燐谷くん」
「ええ」
無愛想な語気だったけれど、予想を裏切らず口火を切ったのが由紀子の方であったことにより、幸吉はちょっとした虚脱に襲われ、同時に温めてきた好奇心から反感に似たなにかが差し引かれていったので、相応な返事だとひとり悦に入った。
ただ、由紀子の続く言葉を夏木立や小径の奥から引き出そうと努めているその柔らかな横顔、すこしだけ緊迫を告げて見えるまつげの張りにやはり萎縮して、算盤の玉のように浮ついた気持ちは弾かれてしまい、卑屈な服従を認めるしかなかった。が、それ自身、晩夏の詩情を包摂している美徳に思えたから、暑さはあらがいを自然に呑みこんで、うまい具合にお互いの了解を深める糸口となった。
「呼びつけたりして悪かったわ。でも来てくれたからよかった。随分ためらったでしょう」
「なんと言うか。驚愕しました」
「あら、それはごめんなさい。私はあなたに興味があるの、だから強引な手を使ったわ。どうしても気になったのよ」
まさに静子の口ぶりとおりであった。寸分の違いも感じられなかった。この事実に、由紀子から直で語られているという艶然とした調べに、たとえ放恣であっても防空壕の暗闇を抜け出した言葉に、克己を忘れてしまった締まりのない頽廃が匂わす芳香に、猖獗をきわめる悪しき世相のあぶくをすくっているような思い上がりに、そして猛禽類の爪でさらわれる危難を銀幕へ貼りつけた夢想に陶酔した。
女豹とその飼い主を混淆させたまま、幻影に身を投じる癲狂、演劇と愚挙、なにより股間の膨張が精神をうわまわっている掻痒に幸吉の生命が隠見していたから。
「では行きましょうか。ここじゃ、落ちついて話しできないし、汗がしたたり落ちてくる。わたしの家まで来てちょうだい」
向こうから切り出すのは予想できたし、小径におさまりきらない筋合いであることは、木漏れ日がいくら恬淡な光景を知らしめてくれても、その効果は逆に強烈なモノクロへ傾斜してゆくばかり、不断の努力など仇になって、それは幼年時かいま見た寺社の裏で神仏にすり替わって浮遊している妖魔を思い起こさせ、身震いと一緒に生じるへその下あたりの痒みとは異なる惰弱な切なさであって、独りぼっちのわびしさがなぜか苦しかった記憶へと収斂し、清廉な気持ちの影に隠れた情欲を色濃くあぶり出してしまう。
幸吉は由紀子の家まで行った先でなにが起こるのか、二日間の猶予のお陰でほぼ見当はついており、さほど動じはしなかった。そう自分に言い聞かせていた。絵に書いた構図は精確に夢見を実証していたのだ。
無言のうちに校舎の脇へ足が運ばれたけれど、道幅が広がるまで、由紀子のうしろ姿に魔境を律するような秘匿された儀礼を、だがその形骸でしかなかったにもかかわらず、馥郁とした気配が立ちこめているのを嫌でも信じないわけにはいけなかった。
これは道行きである。大仰な言い方だが、ませた目つきのなかに光るいかがわしさを些少なりとも見受けたのであれば、なにより由紀子の誘惑が大胆すぎてしかもぎこちなさをともなっていたので、夢想は念押しされたようなものでしかなく、ここに近松門左衛門の語りを結びつけてみたとしても、ことさら無理ではあるまい。
別に神髄を察したわけではなく、単に夢の弾力を感じたまでなのだから幸吉はあくまで能天気であった。
空模様はもっともらしく夕映えの時刻を告げようとしていた。そして夏休みの日曜の校舎周辺に眠っている閑寂へ一瞥を投げると、すでに芝居小屋の木戸が開いており、向う先は慣れた道のりなんて決して思うな、そう諭されている気がした途端、一歩遅れてうしろへ着いていた姿勢をとがめられてしまった。
牝狐が女豹の姿をたやすく借り受けたのだと言い放つかのように由紀子は、
「なにしてるの。並びなさいよ」
と、ぞんざいな声を使う。
が、叱責だけの意味合いにとどまらず、どこか包みこまれるふうな、それで刺草のような痛みを含んだ甘さにさらわれた心持ちがし、はなから描いていた関わりのあり方を疑るすべもなかった。卑屈とは隔たりのある従いだった。
車道を横切りあわや自分の家のまえを通ってゆくのかと危惧したけれど、他の路地へまわったので安堵したそのとき幸吉の脳裏を閃光が走った。
この二日間というもの、あれこれ案じてみては怖れをなしたり、妙にうれしくなったり、反対に爪先からあたまのてっぺんまで悲哀を募らせたりして、どっちつかずの分離した感情をばらまいたまま、どうにか導かれたのは今西家の奥座敷に逼塞していた満蔵の執念が絶えず明滅して、結局あの女優をめぐる憧憬なのか狂恋なのか、それとも迷妄でしかないのか答えはつかめないが、偶然の重なりへあまねく意識を託すように、まるで宗教がかった想念にすべて投げこむことしか出来ない以上、道行きの霧は晴れない。
たぶん晴れなくてもいいのだろう、肝心なのは真夜中の雨音が激しくなればなるほどに、窓の外になにかの気配が、得体の知れないかたちさえ持たない、しかし深く沈んだ闇の奥底に漂っている情趣が、光線とは異なった明るみになり蕭条たる証しを授けてくれる実際にあった。
厳密な夢想は澱から立ちのぼる。漆黒の地面を悦ばせている雨脚は人知れず暗渠に流れ落ち、想いが生まれるのだ。
幸吉は暗渠の覆いを少し開けてみただけである。それはきつく結ばれたふろしき包みに似ていた。結び方の如何によって中身が変わることはない。よほど細々としたものを集めてないのならひと目でその中身は判別される。
とりわけ難儀な演繹が求められたはしなかったし、煩瑣な手間もいらなかった。きつい結び目は前もって自分自身がつけておいたものに等しかった。
とすれば今西の沈着な態度や間弓の立場に偽りはなく、それを証明するのが満蔵の風狂な切望であるなら額面通り受け取ってかまわないだろう。
果たして静子の言うように命令なのかどうかはわからないけれど、満蔵の望みにそって隠し子との婚姻をさまたげる為、新たな女性をあてがったと考えてほぼ間違いないだろう。現に静子と親密さを深めない事情を心得ており、打擲する勢いで一気に道行きへ至った。
なぜ由紀子がこの役目を負ったのか、それも今のところ不確かだが、静子は遠縁にあたり、間弓は同学年、最大の関心事は不良という付票が形骸に与する純粋なこだまであった。だからこそ幸吉は耳鳴りにとらわれてしまい、不純な想念が働きはじめるのを阻止しようともせず、むしろ形骸に徹底した色香を含ませたい、含んで欲しい、そうあるべきことで、そうでないと思ったより苦しい煩悶が押し寄せ、前向きに伸びた進学の確約では逃れ切れない欲情に苛まれる。
満蔵の申し出に対し、いやそれ以前の女優へのあこがれも考量して、あらゆる事象からと判断するのでなく、不良が抱くであろう際どい異性関係にだけ背伸びをしていた幻影を重ね合わせてしまったので、盲目的な信憑はひとり歩きするし、まるで挺身部隊の一員のように活躍する由紀子の全身に色欲の豊饒を見出し、理性の有り様を知ったのだから、今西家を悩ます問題とは無縁の場所に佇みたい、それは満蔵を歯牙にもかけない非情の行為になってしまうが、まさに形骸だけを借りて置き、好機はのがさないという姿勢で臨むのだ。
狼狽はもはや過去の影であった。
横並びになった由紀子のからだつきや風をはらんだ朱色のワンピースが足もと自体を打ち消してしまった。因果といえば因果だけども、不良と呼ばれた年上の、実りと盛りに祝福された肉体を惜しげもなく提供しようと努める無垢な心性に影はかすむ。
幸吉にはむろん毅然とした心構えなど保てるはずもなく、あいかわらず不快な汗を垂らしてしたのだが、陸橋にささかかりその先に防空壕のぽっかり開いた小さなほこらみたいな穴を指さす由紀子のひと言で別口の狼狽が訪れるのだった。
「あんな場所でねえ」
侮辱的な響きを持った言葉に怒りを感じない自分を恥じた。
少なくとも由紀子さえ現れなかったら、静子は恋の喪に準じ美しい想い出を記したであろうし、幸吉は今西家の時計に古びた意想をやんわりと被せ、普段は書かないような下手な詩作を試みたかも知れない。
見終わった映画の余韻にひたる心持ちで。
しかし躍り出たのだ。まさかの現実が映画を凌駕してしまった。満蔵に造反した刺客が、女体が、痛々しさを嘲笑う鮮烈な色彩が、鼻をつくようでつかない匂いが、草臥を寄せつけない不良の危うさが幸吉に襲いかかった。
今西の冷静な感覚が懐かしくなるほど、幸吉は己を見失っていた。
気掛かりなこと、それは圧倒的な女色に奮発するどころか、反対に萎えてしまったものを隠している下着が汚れてないか心配する脆弱な気恥ずかしさだった。
「ほら、見てごらん。子供らがのぞいているじゃない」
あの日を最後に会ってない静子を思い返した。どうしてとことん追求し、間弓と由紀子のつながりを調べようとしなかったのか。
「あっ、入っていった。あんたたち、平気だったの」
たしかにあそこは子供の頃の遊び場であった。暗がりに夢中なのは当時と同じく、もし誰かにのぞかれていてものぞくがわに居続ける気持ちがあふれているので、たぶん気づかなかったのだろう。
能天気さ加減を認めざる得ない幸吉は足を止めたりせず平然と言ってのける由紀子に必要以上の大人を感じてしまうのだった。


[470] 題名:L博士最後の事件簿23 名前:コレクター 投稿日:2019年02月26日 (火) 03時24分

耳鳴りを遠い鼓笛の音と思いなしてしまう、粗放であり、逆に緻密でもある唐突な出来事に向かい合うとき、心の乱れはどれほどの振幅を描きだすのか。少なくともあの刹那、幸吉にわき起こった狼狽は本能的な際どさで染め上げられてしまっていた。濁色の怖れを知らぬ礼賛でもって。
かろうじて往来が可能でありそうな狭まった小径へたたずんだ風見由紀子の容姿を高校の裏手にある夏木立へ見出す先より、木漏れ日の斑紋が地べたを這っている蠢きを感じ、それが動かしようのない導きだと認めてしまった幸吉にとって、静子から聞き及んだ年長の異性の影は気高く伸びた木々にならい、まばゆさを一刻のあいだ閉ざしてしまったふうで、知らない土地の眺めにおさまる行人の放恣な想いがこちらへ伝わるような醇乎とした反響に臨んだのであった。
ちょうど二年前の夏、級友らの甘言に乗じて、プールから上がった水着姿の由紀子をはじめて覗き見した興奮はけっして微弱ではなかったが、豊満なからだつきが却ってまだ子供じみた自分の身体を、いや、それどころか精神まで圧迫される気がし、すっかり萎縮してしまった記憶をおぼろに寝かしていたので、まさかこんな情況で、しかも面妖でさえある覚醒へと誘われているのはにわかに信じ難く、いつか見た雨月物語の雅やかな上臈の招きや、泉鏡花の高野聖における魔性が醸す艶麗な姿態、それらは現実の色香というよりも月影に照らしだされる蒼味を帯びて優美に映える無機質な印象を授けていたから、なおのこと浮世離れした観念を持ち出してくる必要に駆られた。
戦慄すべき場面に白々しい考えをめぐらせる、あの素知らぬ面持ちはたしかに見苦しくもあり、一時逃れだろうけど、懈怠というにはみじめ過ぎ、ともあれ女体の隆起、たわわに実った胸の盛り、脇腹へ仕込まれた磁石に吸いこまれるような勢いで曲線をなぞる視線など束の間、幅広くまわりの空気を押しのける勢いを宿した臀部に見とれていれば、あまりにまぶしい太ももの頑健さがまざまざと輝いて、肉付きの良さを謳いあげるので思わずたじろいでしまい、けれども息をのむ肉感に頑健さはやや後退し、代わって柔かくしなやかな流下で翻弄する。
もっとも魅惑を秘めた箇所へと脚部は猛烈に肌の張りを強調するのだから、幽爽な趣きは遠方にかすみ、生唾に促された欲情の由縁はありありとして、まぶたの裏にこの上ない豊かなししおきを悩ましく焼きつけたのだった。
体躯を黒く被ったつもりの競泳着は、由紀子の素肌とその豊潤な女色を反対にあらわにしていた。そして今、すべての障壁が取り払われた錯誤に戸惑いつつ、幸吉はまぎれもない興奮の味わいを許されたような気分に包まれていた。
静子の三日間の沈黙がひどく殊勝に思えたのは、全身に満ちあふれるであろう蠱惑を女性として見極めていたことであり、胸懐のひび割れだけに揺り動かされない気宇にあった。
花散るような儚い恋を了解したのち、美しく終えるはずだった胸のなかへ土壇場になって想像すらしていなかった横やりが入ったのだから、別種の動揺に嘆いたはずなのに。
「あさっての日曜、そう言ってくれって頼まれたの」
これほど情動の押し包まれた口調に覚えがなかった幸吉には、幼げで賊心など微塵も含んでいない悪戯を伝えるような無邪気さに聞こえてしまい、うっすら目頭を熱くした。それが冷ややかな諦観で裏打ちされているのか判然としないまま。
さて幸吉にもいくらか思案する猶予が与えられたわけになる。
「きみのことを忘れたりするものか」
静子のもの言いへ気持ちをこめてみたけれど、とってつけた棒読みの台詞が口先をついて出たような白々しさにすぼまった。
少年少女の冒険ごっこからの延長でしかなかった交際だったが、静子は結局気丈であり、幸吉はどこか間抜けであった。
哀しみを抑えるすべとは異なる明晰な判断が逸楽を回避し、あまつさえ由紀子に関することがらをほぼ話してくれた。ただ幼い頃より顔見知りだった実情がなんとなく喜劇めいた運びに浮いてしまう感じがして、あの色欲の記憶をたぐり寄せてみたものの、これからひき起こるであろう事件に対し、多少の警戒はすべきと心得ており、結果的には静子との別れが明確になるのが侘しくて仕方なかった。しかし、今西間弓らしき女性がかかわっているとなれば、俄然、血は騒ぎ、胸は高鳴る。
そしてなにより臆面もなく静子に詰め寄った由紀子の言葉、そのひと言が幸吉を探検者へと奮い立たせた。
「あんたたちさあ、あれしてないの」
あれという卑猥な声音が静子の口からこぼれてくるのが無性に下劣な告げ知らせに思える一方で、いまさらになってねじれた変な官能をもたらすのだった。
「接吻までなんだ。それじゃあ、あとはわたしに譲ってよ。どうせ卒業でおしまいなんでしょう」
「でも由紀子ねえさん、何故わざわざ幸吉さんなの、わたしには意地悪としか思えないんだけど」
「静ちゃんに意地悪なんかしないわよ。ただあの子が気に入ったのよ。あんたはもう別れの仕度までしてたんでしょうが」
「そんな、仕度だなんて、ひどい。恋の喪と考えていたのよ」
「で、すこしばかり早くなると恋の喪は台無しになってしまうものなの。あんたはまだこれからいくらでも新しい恋人がたくさんつくれるわ」
「由紀子ねえさんだって、他のひとにすればいいじゃない、たくさんいるのはどっちよ」
「日曜日に昼過ぎに待っているからって必ず伝えておくれよ。まあ、それまでふたりは自由だし」
「ねえ、幸吉さんに会ってどうするつもり」
「想像にまかせるわ」

眠りのなかで夢の風に吹かれていた由紀子が、幸吉の空想を遥か越えて躍り出す。
五日前に静子と交わしたなんとも理解し難いやりとりの末、鵺的な異性の影は夜を駆け抜け、白昼の、晩夏の逆光に微笑みを投げかける。あきらかに由紀子は勝ち誇ったふうな、そして苦みさえ針の先のような感覚で忍ばせた不敵なまなざしを幸吉に送っている。
憂慮や疑念が無縁であることの意義は引き潮のごとく見通し良くなり、それは小学生の時分、大潮の日に定めて磯釣りを経験した見晴らしの、無性もない浮き浮きした気分を想起させ、二日間の猶予は晴れやかに思案を放棄し、日曜の午後が待ち遠しくて仕方なく、時計のねじを壊れるくらい巻きあげてしまいそうな不甲斐ない明るさに囲まれ、今まで海中へ没していた威容を誇る小島に対する賛美が磯の景観を一変させた、あの渡り歩きの雀躍をともなって捷径であることの身軽さをかみしめるのだった。
実際にはどれだけ由紀子の面影に近づこうとも、単純に浮かれた意識が保たれるとは考えてなかった。むしろ夕焼けを待たず、それでも斜陽を受けて映発したような朱色の袖なしワンピースをそよがせているたたずまい、胸元に眼がいってしまうのはすでにふくよかな花ざかりを迎えた魅惑に惹きつけられるからであり、さらに悩ましくまばゆいのが、大きく見開かれた瞳の鋭い光とそれに同調するかのまなじりまで生え揃った長い眉、左右の頬に位置する夕星にようなくっきりしたほくろ、ほつれ髪を濡らす加減で額へとどまっている汗だったのだが、そこまで距離は縮まり、自分の動悸を勘づかれまいとしている狼狽こそ、幸吉のすべてであった。
どっちが先に声をかけるのだろう。微笑をたたえらているにもかかわらず、気安く話しが出来ないとひるみつつも、割合相手の顔立ちを観察しているのだから、こうして目線の鋭さを感じている自体、由紀子だって同様とは限らないにせよ多少の緊張を強いられているのでなないか。
汗のしたたりまで見つめているというのはおのずと劣勢を認めるだけでなく、なるほど、発育にめぐまれた肉体と年上である威厳がかりに方外な価値をまとっていたとして、静子を言い含めてまで待ち合わせにこぎつけた女性の心情に弱みが絡んでこないとは言えない。
別にほつれ髪が矜持を低めているわけでも、発汗が潤いある女体に順応して気概を損なっているわけでもなく、まだらに落ちてくる陽射しの気ままに生理的な同調を見出したにすぎないのなら、やはり夏そのものが大海原に胸焦がし、一風変わった船出を求めたはずだ。潮の香りが激しく漂う様相を擬して。
船の漕ぎ手は今のところ由紀子だと言い切れなかった。緊張の度合いもそれぞれの発熱に似て優劣で計れる容易さを手放していた。海水の抵抗と摩擦を逃れた櫂が燦々と照りつける太陽だけ信じて体温を忘れてしまうように。
しかしそれで幸吉のしりごみが拭われたりはしない、なにせ時間は夏日に関係ない現実を知らしめ、ふたりの間合いに射しこむ光線の密度が濃くなるにつれ、由紀子の笑顔に応えなくてはならないと儀礼の精神を深めてしまったからである。
が、いち早く汗をはらいのけるように前髪をかきあげたとき、幸吉は背筋にかつて感じたことのない電流のような痺れが走るのを覚え、今西間弓の顔が咄嗟にあらわれては消え、はじめて満蔵と対面した思い出が生き生きとよみがえり、あの不可思議な願いが祈りごとく耳の奥へ鳴り渡った。
すると由紀子はそれまで上目遣いだったせいなのか、それとも以外に柔和な表情を隠していたのか、半開きになった口許から白く野性的な前歯をのぞかせるのだった。


[469] 題名:L博士最後の事件簿22 名前:コレクター 投稿日:2019年02月19日 (火) 01時58分

少女がみつめる光景、修学旅行の華やかさと喧噪への軽い反感、しかし孤立した影を逃したい気持ちは忘れてはない。肉体の成熟の兆しを日々感じとるとき、ふと精神的な老化が勝っているようなおののきを覚え、投げやりな思惑が生じる。たとえば色とりどりの飴玉は味覚以外のなにかを、その発色の気前のよさに倣うような心模様をつむぎ出すのだろうか。
奇跡の訪れとともにまわりの空間が、あるいは地軸が狂いはじめたよう思えて仕方のなかった仔細を告げたとき、静子の横顔は青ざめた石像に似た緊迫を走らせ、こちらを見返すことなく、そのまま深い奥底へと視線を投げかけているように映った。
幸吉は肉体のふれ合いを拒絶した意志とうらはらの憂愁がたゆたっているのではと案じてみたけれど、映画の一場面から抜けだしたかの奇妙な経験に聞き入っている様子がとても健気に思えてしまい、不純であるべき動機を否定するのさえ口実的な気がしてきた。
しかし、因果の糸によって編まれた邂逅を自他ともに認めないわけにはいかず、時宜にかなった今西との関わりを鑑みたとしても、欲望は自らの手によって点じられたのであり、なにかの編み目にすくいとられ籠絡されたのではなかった。
かりに今西を共犯者とみなしたとして、彼の父との面会を切に願ったのだから、強いて秘密の扉を押し開けた自分にすべての責任がある。たぶん今西も知らなかったに違いない。そして父である満蔵が隠していた過去を暴いてしまう結果になるとは考えてもいなかっただろう。
また修学旅行での一幕はあくまで今西の人懐っこさに由来した戯れに過ぎず、よもや同級生が胸をときめかせた背後に父の暗い影が落ちてくるとは夢にも思っていなかったはずだ。
快く引き受けた女優との撮影、たった一枚の写真から呼び起された闇のうごめきに戦慄する羽目に陥ってしまったのだから。
あれからきまりが悪い態度をあらわしたのも当然、実の子をさしおいて他人である幸吉に汚名の委細を打ち明けるなどもってのほかで、今西の憤慨と焦燥はよく理解できる。ただ、一度限りの訪問で開かれた、あたかも魔法の館がこれまでの信条へ大きく揺さぶりをかけた事実、凡庸な習わしに呪詛をこめたとしか言いようのない異形の羅列、それは良識に嘆く瘋癲の戯言と受けとめるべきか、あるいは現世の残滓をたぐいまれな虚妄であぶりだす企ての成せるわざなのか、このふたつに当てはまりそうな思案をめぐらせた矢先途絶してしまったのだから、幸吉は肩透かしを被ったとすっかり落胆しまったのだった。
満蔵の精神、それを隠蔽する昌昭、反抗を試みる間弓、幸吉にとっては彼らの残した足跡へ舞い降りたものこそ静子であったという図式はごく自然体であって、ことさら驚嘆するほどではなかったれど、奇跡の不磨を求めたどこかしら神秘の薫香に巻かれてゆくのも、近頃細々と心霊現象を研究している身にしてみれば、荒唐無稽であろうが、退廃的であろうが、誉れを投げ捨てた満蔵の懇願に根深くからみあってくるのだ。
必ずや離郷までにはなんらか形で隠し子である不遇な映画女優の報せ、たぐり寄せてやまなかった婚約の同意など、今西家を常軌から解き放とうとする譫妄が理路整然と居並ぶに違いない、そう信じていたから、なにより恋情の浮つきを絶好の隠れ蓑にしてくれた、静子の優しさに報いるため、幸吉は間弓が魅せた肉感をあえて伝えなかった。
性欲が恋愛感情に先立っている実態は言葉にすべてを託した手紙の上においてのみ展開されるべきであり、決して他者との体験談でひもとかれることはない。この暗闇は唯一、野性への回帰を手助けする情調をともなっていたけれど、静子自身が確固たる信念を持ちこんでいたので、感傷に働きかけてまで終焉の美を乱したくなかった。
恋の幕引きに以外な横やりが入ってしまった遺憾を冷ややかな眼で見つめるだけの才覚を持ち合わせているのだから、惑溺することの自由を望んではいるとは到底思えない。
はじめて接吻を交わした間弓へ嫉妬する素振りをあらわにするのがはっきり予見できた。そして風見由紀子が遠縁だと打ち明けているところから判断して、あるいは間弓との会話すら知り得ているのであったなら尚のこと、夏の日がいくら長いとはいえ、あまりに冗漫なやりとりは賢明でなさそうだ。
今西ならこんな姑息な手段は選ばず、もっと行動的で筋道立った方便を、そして父の満蔵のような異界を経由する虚飾を排し、まっとうな理屈で接してくるであろう。
そんな思慮にひたりながら、脇ですすり泣いている静子の背中が小さく震えているのを眺め、省略した箇所を埋める意気込みで満蔵と女優のしがらみ、さらには妄想の果てにひろがる闇へまたたく冒険に話しを弾ませ、一切の哀しみから飛躍するべく、進学後の役割りはあらかじめ決定されていることを力説したのだった。
静子はまるで通り雨を待つ傘の下に隠れた人影のごとく沈着だった。
幸吉はちょうど二階の手すりから見下ろす案配だったけれど、秘めやかな洞穴が暴かれた以上、しかも間弓は裏であやつり人形師を模してまで風見由紀子を寄越した現実が、闇に巣くう邪気を目醒めさせてしまった。
幸吉の語りが終わるころ、静子の真心に聖性が宿るはずであった奇跡は闇の濃さでかき消されてしまったようだ。
自らの言葉をつむぐことに没入したあまり、静子の面持ちを気づかう余裕は生まれるはずもなく、顔をそむけたまま涙してる姿に幸吉は冷然とした意識が凝固しているのを知ったけれど、過酷な態度をつらぬけば、安直な温かさから距離をとれば、ただちにそれはこの情況を認め、由紀子と間弓の結びつきが浮上してくる予感が得られた。
幸吉は泣き疲れた幼児がさしたる間もなく機嫌を取り戻すことに似た淡い気分と、同時にわき起こってくる性急な覚悟を胸間へ潜ませたまま、恋文から始まったロマンスを想い、訣別の場へと面している寂しさをほのかに感じたが、あえて静子に対し思いやりめいた言葉は使わなかった。
むしろこちらの意想をくみ取ってもらい一刻も早く実情を聞き出したく願ったのだ。間弓の大胆な振る舞いを知悉しているはずと半ば思いなし、見え透いた嫉みや、おそらく本人すら意識しないところでせり出してくる嬌態に心を煩わせたくない。
倨傲を自覚するほどに静子が最後に見せるであろう感傷にはちいさな爆薬が仕掛けられており、哀しみもろとも想い出の欠片そのものへ帰着させようと案じているからであった。
幸吉には静子のそんな無邪気さが、しかし夢の記憶に生々しさを欲するひとときがよぎってゆくことがあるように、とらえがたさは不変であると信じていたから、女らしさを強調して欲しくなかったのだった。
日光の容赦ない熱で溶け出した情念のゆくえにかつて同志であったという幻想を滲ませ、目覚め際からこれまでの夢の残像を切り捨て、あらたな仕掛けをのぞき見たい一心は何者より勝る。機会じみた様相に一切の情感を被せてはならないのだ。なぜならそれが恋の終止符を裏づける夢の芽生えであって、過剰な陽射しや水分が成長のさまたげになるように自意識の屈折は見離しておく方がよい。
萌芽も萎凋も夢のさなかへ置き去りにし、開花や繁茂を待って大いなる屈折をうかがい知る。ちょうど誕生したての嬰児を撫でまわしたり、老衰しきった年寄りを叱咤することの危殆に同じく。
恋は転生に等しい。そして夢は自在の湾曲をたどる。汀を選り好みしているふうな足どりは真砂の柔らかさを忘れるほどに宙を彷徨い、満ち引きの雄大な旋律が胸の鼓動に迫り来るとき、意識の攻略は稚拙をきわめたような惚けにたぶらかされ、透明度の高い既視感へと埋没し、世界の歪みを内蔵してしまい、夢見る光景に侵入者の気配を感じとるのだ。
「どうやって見届けるのだろう」
内語をたどったしるしもなく、暗幕に手をかけた覚えもないまま、明滅に託された映画を凝視しているのか。
ふたたび雨宿りの情趣を俯瞰した、その刹那、静子の顫動を見やり傘をつたう涙のようなしずくに憐憫を知ったのだが、手すりから乗り出しそうになった戸惑いは本分を離れることなく、自らの悲哀は深い霧に沈んだ水域へ留まるのだった。
うっすらと寒気みたいな胸の痛みが流れたけれど、去年の冬、寒風吹きすさぶ夕暮れを急ぐ首もとに巻かれた毛糸のマフラーの編み目を抜け、人肌の我が身であることの微かな証しを感じた折の気恥ずかしい所在なさがなにかしら嬉しくて、黙って静子を見守るのだった。
「きっと、あなたはわたしなんか、忘れてしまったのね」
そう言いた気な声の奥に新鮮な響きを耳にしながら。


[468] 題名:L博士最後の事件簿21 名前:コレクター 投稿日:2019年02月11日 (月) 22時01分

陸橋のたもと、自宅の玄関から誰かが見送っているような間近さを胸の奥底に沈めこんだ心もとない加減はろうそくのゆらめきそのものだった。
外界から閉ざされた防空壕には日常が育んでいる安寧を麻痺させる空気が立ちこめていたけれど、芳醇な匂いをなにかしらまじらせた不安は長居を好まないのか、幾度となく耳をそばだてた列車の微かな響きがもたらす甘酸っぱい先行きに合わせては、離郷の念をよぎらせる。
おそらくそれは静子の切ない恋情であり、また幸吉の歯がゆくも叫びにならないやるせなさがこだまするのであろう、音響を消し去ったゆらめきは沈黙を欲していた。
しかし、この閉ざされた暗がりにおいて光明を感じてしまった幸吉の気持ちはどこか息苦しくて、やはり不安のしっぽを握りしめている不甲斐ない自分を認めるしかなかったのだが、そんな神妙な顔つきを浮かべながら反面では、静子の反撥と怒りに従順な素振りを演じることによって、彼女が口にした糸口とやらがこっちからもつかみとれそうな予感を得るのだった。
別に隠し立てする事柄でもない。
静子が恋の芽生えを、ちょうど折り紙へと熱中する児女にも整然とした技巧が備わっているかのように説明してみせた、あのたおやかな意気を思えば、聞き覚えのない女優にまつわる危殆な関係はあくまで空想のめぐりあわせのなかでひも解かれたのだから、かりに偶然のいたずらが加わっていたとして、お互いに夢の彼方を駆けまわった感慨は壊れたりしないだろう。
むしろ偶然の導きこそ身近な場所へ情熱を押し込み、淡い色香を漂わせ、秘匿する悦びにつながっていたではないか。
恋のゆくえを嘆く面持ちとは別種の不思議な探究心に彩られた様子は、すでに早口めいた声遣いが物語っていたし、それは幸吉にとっても同じで静子に成りゆきをすっかり知らせる情況への至りこそ、夢物語りを唱えることに他ならない。
とはいえ、駆け引きのような探り合いでは真実の壁をなかなか打ち破れず、短かったふたりの恋の終止符は真摯なものと呼べなくなってしまう。
「君はほんとうに不愉快だったんだね。よくわかったよ。だけどあらたな身震いを無視するほど鈍感ではないはずだ」
これは言葉にしなかった。幸吉の胸裡に流れているせせらぎの音色だった。また鈍感さを相手にまで付与している野放図な意識を苦笑しつつ、演出たっぷりの表情を静子に寄せ、にっこりと微笑みながら声を出した。
「ところで僕につけてくれたL博士っていうあだ名は結局どうなったの。たしか夏休みまでには浸透するはずだって。まったくそんな気配なんてなかったよ」
静子の顔は一瞬こわばったが、すぐに目尻を下げ吹き出した。
「なに言ってるの。ああ可笑しいわ。以外と気にしてたのね」
「それはそうだろう。いや、これは真面目に訊いているんだ。とにかくこれから君が抱いた疑念について話してゆく。あまりに個人的な感傷やら想像が入り乱れているから、なるだけ分かりやすく説明させてもらうよ。僕にしてもきちんと整理してみたい思いに駆られているから。そして随所随所で君は不審な眼をしてあれこれ質問を投げかけてくるような気がしてならない。
「お話の腰を折るような無粋はしないつもりですけど」
「君は聡明だからそういう態度でいてくれると信じてるよ。ただ、その都度、驚きの視線で遮られそうだったので念を押しただけなんだ」
「えらく慎重なのね」
「そこでだ。忘れてしまうまえにさっきのことを知っておきたかったわけさ」
静子はふたりして恥じらいに目つきを曇らせ、ややあって相手のいたわるような笑顔を交わし合う要領を心得ていたのか、幸吉より先に満面へ離愁の哀しみをたたえ、涙をこぼし、おおきな笑顔をつくった。
今西家にしろ他者に密会をさとられた以上、もうこの暗闇は恋人同志をかくまってはくれない。それどころか、これですべてが終わるかも知れないのだ。静子だって悲嘆にくれる期日を了解していたから別れの訪れは拒んでいなかった。
「L博士のことね。たしかに夏休みまえに話題にしてたけど、わたしの入院であまりひろまらかったみたい。だって先輩としか逢ってないもの、家の前で待っていた由紀子さんくらいよ、他のひとは」
「そうだったね」
「あら、もういいの」
「さてその由紀子さんの話しを進めるにあたってまず映画女優へのかかわりから始めよう。あこがれが空から降りてきたまぼろしのような白昼の出来事から」
静子の眼に厳粛な明かりを感じたのは幸吉の願望が転じたせいか、どうあれ無名の女優に心うばわれて、密かな想いを温め続けていた情熱はここでも鏡の作用に促される。真実はありありと映し出されるのではなく、逆に静子が書き留めていたひかえめな、けれども野性の牙を隠し持ったゆえの憂いに共鳴し、散りゆく花びらの風に舞うさまを描きだし、諦観とも予兆ともつかぬ、ひたすら冷徹な肌触りだけが恋の二乗を妖しく香らす。
あきらかに静子はなにかを押し殺している。それを気取られまいとして一途な感情に走りだしたのだ。
L博士の名を呼び返す幸吉の愚行さえ含み入れた洞察は、すでに同志であることの切なさを知ってしまった傲りを保ち、別れの日は水溶液になじむくらい曖昧で意義を失ったものだと言い聞かす、毅然たる自尊心に守られていたのだ。
今西家の誰かがつかわした風見由紀子こそ、幸吉のさらなる情欲をかき立てるはず、静子はその事情を聞き及んだ可能性があった。少女の少女であるべき姿へ向き合う心境の美しさは凌辱を許さない。
幸吉はあえて由紀子に関心を強めているふうな口ぶりを添え、銀幕からの招きを夢見るように語りだした。


[467] 題名:L博士最後の事件簿20 名前:コレクター 投稿日:2019年01月29日 (火) 03時14分

静子の眉間へさまよい出たもの、鼻孔を伝い両の目頭をわずかに潤わしながら吐息とは別の情炎を秘めるもの、それはくちびるからのぞく前歯の白みを充血させた眼光のゆくえ、ときの穏やかさに挑みかかるような険阻な加減、笑みの裏側で暗躍する愛らしい小動物の回し車、無表情に限りなく近い、けれども冀望は消されず懸命な姿態が臨まれる。
幸吉に対する身構えがごく自然なあり方だったとしたら。
花の香りを匂わす度にいつも蠱惑にと準じなければいけないのか、微笑みがつくられる気まぐれは空模様に等しいはずで、その反射は無機物に物情を知らしめ、かと言って鏡面は鮮明な光景を願っていない、むしろ皮膚感覚にとどまり、境目のありかに無常を見出すような醒めた意識を持っている。
だからこそ肉欲は表立たず、恋しているという情感のみがあらゆる価値観に先んじて静子の胸を満たしていた。そして幸吉の進学によってすべてが終わってしまう予感は狂うことなく、たとえ風変わりで早とちりの老成であろうとも、柔らかでみずみずしいからだつきを日々覚えるにしたがい、恋情の価値と肉体の解放はどうしても一緒の流れに乗る運びとはならかった。
が、ひたすら同じ場所をめぐる冒険を神秘と呼ぶには早過ぎるような倒錯した意想に失望はしていない。
暗がりに身をひそめるふうにしたふたりには決定的な齟齬が生じていたが、互いに同じ行為のくりかえしを闇に捧げるような気概を抱いており、まさに夜行性の小動物が演じる徘徊をなぞることで色香はたどり着くすべを忘却していたのだ。
道連れはつらい気持ちに支えられている。
幸吉はあこがれの顕現と迷妄に、静子はときめきの停止と華やかな英智に。
静子の眉間に漂った兆しはあたかも隣家の庭から夜風に乗じる線香花火の煙たさのごとくはかなかった。
湿気を含んだ夜気が深まりを募らせる風情とは反対に、刹那きつい匂いを放ちながら立ち去ってゆく宿命に甘い感傷はそぐわない。
一方的な理解でしかなかったけれど、幸吉は静子の寂しさをありのまま見守るしかないと思った。同時にいたずらっ子みたいな考えがまるで重い蓋をはねかえす勢いで浮かんできて、こう尋ねてみた。
「ねえ、君も高校生になったらずいぶん変わるだろうね」
「それってどういう意味ですか」
「いや特に意味はないんだけど、なんていうかな、背丈だって伸びるだろうし、それ相応に好きな人ができるんじゃない」
「意地悪な言い方ね。まだわたしは先輩を好きなのよ。それなのに、ひどい質問」
そう答えながら、しかし静子の眼はうっすらと嬌笑に似た妖しさをたたえている。
「たしかにひどい質問だ。けど僕だって君のことを思い出にしまっておくだけじゃ悲しいんだ」
「もしかしてわたしがくちびるしか許さないから」
数日まえからふたりの傍らには一本のろうそくの灯がゆらめいていた。
家の仏壇から持ってきたと言っていたが、あまり頻繁だとなにやらうしろめたい気がし、幸吉がいかにも密会時間にふさわしい細く短い、安物のろうそくを買ってきたのだった。気がひけるのは仏罰や世間の了簡に対する怖れでなくて、かくれんぼの域から脱していない児戯めいた接吻にあった。
幸吉は接吻にすっかり慣れてしまったのだ。静子の眼が暗がりを泳ぎはじめ、そのまなざしを認めるだろう予期も彼女自身が発したのであって、浸潤を許さない強い決意は恋する者であったとして油紙のように不埒な触手を弾くだろう。恋慕の海を遊泳する身は自由を謳歌するけれど、溺れる異性を救うべきかまでは言及していない。
想いが昂じるのは独唱の反響による調べであり、木蔭や洞穴にふさわしいものの気配である。
静子は自らの肉体に耳をじっと傾けては幸吉とは異なる方式を用いて、短く美しく燃える恋の時間を知り得たのだった。
それ以上の行為がかたくなに禁じられている現実が静子の諦観に被さるよう、どこか醒めた形式へ則るよう、体温が差し引かれた数式に導かれて、ごつごつした岩の座り心地と堅固な少女の影の寄り添いを感じとる。
幸吉の要害は静子にまつわる想念でもなく関係でもなかった。
強いて言うなら天空を恐れ、青さを忘れ、洞穴へと生命をもぐりこませた戦時下の人々の昏き欲望が累卵の危うさを唱え、過剰の自意識を産みつけた。その萌芽は幻想にくらむ。現実をねじ曲げる。常世と死が居並ぶ彼方に待っている悦楽を夢見る。
こうして隙き間から抜けてくる微風にゆらぐ頼りない灯火を見つめ続け、静子とは無関係の情景に想い馳せる時間を計っていた。
するとちいさな火をかき消すような声で静子が話し出す。
「あなたが考えていることってわかるわ。このからだをあげればいいのね」
「なにもそんな無理しなくたって」
「いいえ、違うの。そうじゃない」
見る見る間に少女の顔つきは険しくなり、おおきくかぶりを振る影が火の粉を束ねたように岩肌へ吸いこまれていく。
「由紀子さんってわかる。風見由紀子さん、わたしの遠い親戚にあたるひとなんだけど」
「いや、聞いたことない」
「じゃあ、不良のおゆき、中学まで水泳部で活躍して」
「あっ、わかった。すごく大人っぽい雰囲気で」
「ませたからだつきだって言いたいのでしょう」
「そうらしいね。けど高校へ行った途端に悪い仲間とつるみだし、色々と問題が」
「たしかにあれこれうわさはあるみたい。でもわたしには優しかったな」
「で、その由紀子さんがどうしたの」
幸吉はその名を口にした瞬間、二学年上だった水着すがたをかいま見た記憶が夏日に透かすように痛々しくよみがえってきた。年上の女人が醸すふくよかな、しかし同性の静子に与えられた親和からは遠ざかってゆく近づきがたさみたいな感じが優先し、はちきれそうな体躯を思い浮かべてしまうのは痛みになって己の脆弱さを責めている気がしてならなかった。
もしかしたらあの女優に夢中になったのは校内という半径がおしはかれてしまう距離とはまったく別様の光線を浴びていたからであり、手の届かない高みは至って安全な心持ちを保証してようにも考えられる。
先ほどまで思案していた静子との向き合いが妙な具合に、それはよじれた糸が、もつれた毛が本来とても自然な現象で、ことさら焦る必要はないかように氷解してしまい、ずいぶん女々しい勘ぐりばかり働かせてしまって無益な算段をめぐらせたと虚脱しかけたのだったが、新たな謎解きへ面している実際に打たれ、またしても悩ましく不如意な感慨にとらわれたのだった。
「あなたとつきあっているのかってしつこく聞かれたわ。以前の声色と全然ちがうので驚いてしまったの」
「それで」
「最初は素直に、いえ、いくらか取り澄していて、いや、取り繕っていたのかな、何せ、お手紙まではありきたりでしょうが防空壕でしかあってないわけだから、わたしに非があって叱責されてるみたいで、気乗りして話すようなことでもないし、嫌々しゃべらされているように思えてきたの。もちろん聞き返しわよ。どうしてそんなに追求するのかってね」
幸吉は生唾を飲んだ。
このときばかりはろうそくより水筒を携えていた分別が尊く思われ静子にすすめた。
内心では一刻も早くその事情を詳らかにして欲しいという願いがあふれだし、けれども一方では期待を引き延ばし時刻を愛でていたい気分に襲われた。
端緒が開かれるということは官能の棲む在処から招待状を受けとるような艶冶なかがやきに包まれていたからであった。のどが渇くだろうと水筒をぶら下げてきた幸吉につき従うよう次の日おやつのせんべいを隠しもっていた静子が可愛らしく、だがこれでは増々子供のお遊びに舞い戻ってしまいそうで軽く舌打ちしてみたものの、戦争の恐怖と逢い引きごっこをないまぜにして、なおかつ懊悩らしき横顔をろうそくの火影に託すあたりがそもそも幼稚な戯れでしかない。
思念はやはり分裂の定めから逃れられないのか、だったら選択肢があるという展望につながるのではないか、ほぼ居直りの状態から宿命が始まる。静子は可憐な恋人であり盟友であった。幸吉の視線は都合よく結ばれていた。
「ところが由紀子さんもはっきりしないのね。ほんとさっぱりした性格の持ち主だったから口ごもるなんてあのひとらしくなかった。あっ、この話し三日前のことなの。わたしだって言い出すの迷ったわ。だから勇気がわくまで日にちがかかってしまったの。わたし駄目ね、他のひとの顔色に同調するなんて」
「仕方ないさ、僕だって君と変わらないよ」
「そうかしら。わかったわ。で、結局しぶしぶ話しだしたの。そう、わたしなにもかも言ってしまった。そうしないと由紀子さん、納得しそうじゃなかったから。箝口令なんて言葉がのどにつかえているみたいだった。やはり内密なのよ。命じられたのよ」
「いったい誰に」
「あなたに言えばすぐわかるはずだって。とにかく静ちゃん、隠さずに話してくれって、最後の方はちょっと悲しいそうだった。なにか理由があると思うけどそこには触れなかったわ。今西って言ってた」
「それは女のひと」
「わからないわ。わたしが正直に口を割らないのを察知してあえて情報交換めいた結果になってしまったけど、ごめんなさい、肝心なところを聞き逃してしまった」
「いいんだよ。謝らなくたって。君が親類とわかって風見由紀子さんを近づけたんだろうか」
「どうなんでしょう。そのあたりもよくわからないわ。少なくとも先輩、わたしではなくあなたに関わりがありそうよ。今西って先輩の同級生ですよね、そしてお姉さんは由紀子さんと同じ学年、この三日間で判明したのはそれだけ」
「すまない、君には関係ないはずなのに、そうか、調べていたんだね」
「関係はないかも知れませんけど、わたしが糸口なのですよ。まず針の穴を確認しないと」
「ありがとう。不快な思いをさせてしまったのに、きちんと話してくれて」
「いえいえ、お礼なんていりません。とっても不愉快です。だから今度は先輩が洗いざらい、成りゆきをわたしに説明する番だと思うのですが」
静子の恫喝じみた口調に邪気がうかがえないのは自分が鈍感だから、それとも閉ざされていた今西家の門がようやく光明を解き放つときが来たから、それですっかり胸を踊らせてしまいっているのか。
いずれにせよ、静子の口に今西の名が上がった限り、ろうそくは火花を咲かせる運命を背負ったのだった。


[466] 題名:L博士最後の事件簿19 名前:コレクター 投稿日:2019年01月21日 (月) 23時22分

遠かった夏休みに霞む光景はおさない頃からあてどもなく、そしてなにかしらまばゆい渦を近くに感じながら焦点は定まっていなかった。
瓦屋根をすべり落ちる勇ましい光は軒下に点綴する蟻の戯れを見極めることなく、また裏庭にはびこる雑草が抱いている渇望など紺碧の空の知るところではなかった。にもかかわわらず、汗ばんだ脇のあいだをすり抜けてゆく涼風がとても初々しく感じられるよう、朽ちた言い分でひろがった鈍色の地面やそれに連なる家々の塀は喜々として陽射しを受けており、道行く影をいつも遠望していた。
あの見知らぬ人はどこへ向っているのだろう、そういうとき、なぜか決まって行き先ばかりにこころ踊らせ、どこの誰かとの詮索よりも未知なる場所から届けられた手紙の華やかさを夢想し、やがて畳の目をぼんやり数えだすのだった。
夏の日が高邁な色彩を放ってやまないゆえ、しかし強烈な感覚で刺されることなきまま、戸棚の隙き間へはさまった飽きた絵本のごとく褪色した哀れが胸に浮かんでくる。それはあめんぼのしじまが映しだす波紋に似てときおり深い円形を水面へ投げつけるので、ますます残響のとりこになってしまい、めくらむ仕草だけがこころの底へ反照されるのだった。
櫻田静子の笑みも年少の時代から送られてきたものか。
幸吉の胸裡に揺れ動くものは二重奏で響きあったけれど、ひとり夜具へ意識を染みこませながら華美に溺れる虚しさを消し去ることができない。が、あまりにわかりきった虚しさだったのですぐ足は地に着いてしまって難なく吸息を得、今度はこそばゆい恥ずかしさに身をよじったり、頭皮を掻いたりした。するといい具合にかゆみは本当になって、その刹那なにものにも侵蝕されない感覚が訪れるのだけれど、まどろっこしい下半身の膨張は澄んだ恋情とは無関係であると言わんばかりに鋭敏な認知を呼び覚ます。
気高くも淡い想い出の彼方に舞い降りる翼は夜行性であり、どうしようもなく暴君の面影を宿した鉄面皮に従えられていた。
暗がりに静子を導いたのは本能の成せるわざであって、しかも自宅から目と鼻のさきである実際をよく考えず素早く誘引した不敵さ、これはまぎれもない情欲に後押しされている。
夜の不明瞭が醸す怪しい気配、そこに跋扈するのは魑魅魍魎なのだとおそるおそるうなずきながらも、鳥肌のさっと泡立つふうな寒気に隠れ、微細なぬくもりを発光している感じ、これを封じてしまってはいけない。
なぜなら妖鬼の面をはぎ取ってみれば、そこにはある原風景が、深更の薄い目醒めにぼんやり灯された現れが、まぶたの裏へ麝香のように、甘い煙りとなって、食べきれない綿菓子の白さをともなって忍びより、金縛りの恐怖をしめやかに授けてゆくからである。
反対に離脱した弱々しい魂のかけらは覚醒を余儀なくされる。羞恥を一身に招き入れ、あまりに未知すぎて不確かな汚れとはき違えてしまう萎縮した感性、口外を禁じられているどころか、想像しなおすだけで両親の顔を真正面から見られない。
それ以上の深入りはそのままそっくり静子に対する接し方を指し示していた。
真夏の狂躁は瞬時にして暗所の冷気を帯びる。
「どうやら秘所はおあずけのようだね」
まるでうわごとみたいだが、幸吉は寝苦しさに伴走する身悶えを自覚していて、防空壕での出来事をなぞるように思い返し、伝えきれなかった言葉をおおいかぶせ、行動に移せなかった四肢を虚空にばたつかせた。
いかにも魔性が憑依した調子で恋情を切り裂き、誕生をのぞきこもうと裏側にまわってみる。股間を押さえつつ。
むろん誕生の瞬間など立ち合えないので死の方からこちらを見返す。暗き想念に委ねられてではなく、まだ光がない、いや届いていない場所であるから夢すら花ひらかず、そこにむりやりロマンを押しこむのは方便でしかなく、けれども前もって接吻どまりを健康的なまるで小鳥のさえずりのように教えられては夜の思想が終わってしまうではないか。
すると肉欲に結びつきそうもない静子の姿態は映写機のコマ送りの要領で切り替わり、あの女優の魅惑を描きはじめる。
描かれるのは容姿だけにとどまらず、満蔵が話していた虚とも実ともつかぬ廃人の妄語のような執念や、間弓の虹彩に棲息していた美しい確執が女優の魂を解放し、幸吉の脳髄へまとわりつくと女体はあの世から立ち現れた形象になり、めくるめく官能の支配のもとで堂々巡りを了解するのだ。
「君の態度が冷淡だなんて思っていないよ。僕の進学ですべては終わってしまう。君はそれをよく知っている。ただ僕がもっと強引になれば事情は違ってくるかもしれないけど」


あれから毎日申し合わせたふうに静子と昼下がりを過ごした。
次第に憔悴しているよう感じてしまう幸吉とはうらはらに静子の表情は翳りをほとんど寄せつけず、却って溌剌とした笑顔はまぶしく洞穴を照らし出した。
手紙に書かれていた鏡面への言及、
「ひんやりした肌ざわりを約束し、やがて体温を写しとってくれる冷淡な境界が懐かしかったからです」
ここから出ようと言ったとき、別の場所を欲しなかった理由がなにやらわかってきた。
純情の劣化を見極める早熟の果実。眼が慣れることを夜だけに託さなかった老成の愛欲。
静子は冷淡を好ましく感じている。短い恋であることをしっかり悟ったうえで、こうして密会を楽しむ悪女が香らすような笑みを手放さない。ひとりでいる時間でも同じ心持ちなのだろうか。
推測してみるのがどこか不快で足踏みしてしまう要因は全部自分の境遇にあると幸吉は反芻するのだったが、開き直って静子をきつく抱きしめたところ、抵抗する素振りはなく、しかしちから加減に真情こめてなかったのを見透かしたのか、そのからだは衣服に守られていたからとは言い切れず、あきらかに虚脱を想起させる人形みたいな意思を持たない感触が伝えられた。
そうなると幸吉自身がこわばり、そのこわばりで静子のからだが出来上がっている体感に襲われ、しまいには小柄なつくりはおさなごの証しであって、そんないたいけな肉体に触れるがおぞましく思われてきた。
ただ、接吻に関しては何度も重ねたせいもあって、上気した頬の火照りから溶け出すぬめりのような唾液に濡れたくちびるの触れ具合には専心した。舌先を大胆にこねまわす技巧さえ習得していたかである。
あきらかに幸吉は分裂してしまっていた。童女の良き遊び相手として、成熟を目前にした官能の狩人として。
一度、服のうえから胸元に手をやってみた。案の定きりっとにらみつける眼光が幸吉に向けられたのだけれど、ほぼ暗闇のなかでは明確な形相は見届けられるはずもない。が、そらんじれるほど読みかえした手紙の文面に張りついている性格をうかがい知るよう、また気丈うんぬんだと口にしたあの意想がよみがえって、静子の毅然たる内心はあらわになった。
柔肌を開くことは起こりえないだろう。
わきあがる白雲が夏の一日をどれだけ告げようとも、ホースから勢いよく吹き出す水しぶきにはしゃぐ子供たちと子犬の跳躍がいかに晴れ晴れしくとも、焦げつくようなタイヤの匂いを草むらに嗅ぐ真昼が頂点にあろうとも、空の青みが悽愴である限り、驟雨の足跡には未練が記され、緑を拒む土管の暗がりは夜を待たない。


[465] 題名:L博士最後の事件簿18 名前:コレクター 投稿日:2018年12月25日 (火) 06時01分

「まあっ」
「とても暗いね。ちいさな頃ろうそくをかざしてもっと奥まで進もうとしたんだ。子供ながらにそれが禁物であるふうな気持ちを感じたよ。たよりない意識だったから当たり前だけど、夜の孕む気配がとても恐ろしいものに思えたのと似て、この防空壕だって突き抜けそうなくらい静まりかえっているだろう。けど霧のようにしのび寄って来たり、反対に四方八方へわけもなくのびている夜本来の不気味さとはまた違うのがたまらない」
「それで何度もわたしを抱き寄せてくちづけするの」
「ちょっと待ってくれよ。まるでそれじゃ、、、いや、そのとおりさ。気分を害したかい」
「いいえ、別に。わたしもなんか怖い、だから嫌ではないわよ。まだ先に行くの」
「橋のたもとに君のすがたを見出したとき、妙な感覚だけど、すぐうしろでひっそり闇をのぞかせている穴ぐらから現れた幻影だと信じた」
「まったくお化けみたいだわ」
「そういうことかも知れないよ。だってあれからわずかの間にふたりは化かされたようになっているじゃないか」
「でも、逃げ出したいと悲鳴をあげる恐怖ではないわ。なぜかしら」
「僕も同様、ずっとまえに来たときより大きくなったとかではなく、たぶん君とふたりきりだから、邪魔者もいそうにないから、怖さに勝るなにかがお化けに近づいているのかも」
「えっ、このまま死んでしまうっていうの」
「まさか、僕たちは若さにあふれて過ぎているよ。死なんてある種のロマンでしかない。たとえ君の入院が重篤であって命を落としたとしてもロマンなんだ」
「あら、ひどい言い方ね。だったら回復しないであのまま死んでしまって、今ここにいるわたしが幽霊だったらどうするの」
「このうえないロマンだね。あの世と触れ合うために僕は生きてきた、これこそ狂熱だよ」
「で、その幽霊に接吻するわけね」
「そういうことかな」
「しかし、接吻どまりよ。まだわたしを震えさせて変なことしようとしても駄目なんだから。ちゃんと見切っているんだから」
「わかっているとも。下心なんて下敷きみたいなものさ。勉強するときに使うのと同じくらいにね」
「そうそう、わたし、手紙書くって決めた日にあなたから勉強を教えてほしいなんて自分を理由づけたりしたの、不思議だわ、まったく違った意味でなにかを教わっているし、新しい発見が待っているふうにも感じる。それってロマンなのかな」
「だと思うよ」
「やはり」
「うん、もうこれ以上先はやめとこう。この防空壕は小学校のプールの裏手まで続いているらしいだけれど、さすがに前屈みは疲れて来たし、君の言うように下心を明確にしておく方便もいいものさ」
「まっ、ごまかしが上手」
「君は気丈なひとだね」
「そうかしら、あなたに対する感情だって行き当たりばったりだったのよ。この暗闇がどこかへ通じているって確信の方がしっかりしてる。わたしはただ、下敷きを強くこすっただけなの」
「それが静電気であることを君は知っていたんじゃない」
「知らないわ」
「ごめん、ごめん、気丈だし、ひどくもろいのだろう、誰でもそうした二面を持っているはずさ。君はそれに気づいているから、それほど行き当たりばったりではないと思うのだが」
「さっきも話したけど知恵熱めいた夏風邪で倒れてしまうとこがあるから、やっぱり気丈ではないよ。ここが昔の防空壕だって誰に聞いたおぼえはあったにしろ、あなたがあそこに入ってみないなんて言われたとき、もし他のひとだったら絶対にそんな探検にはつき合わない、あなたの誘いだから、そしてあまりにとてつもない恋路を進んでいく気味の悪さで後ずさりするはずなのに、あえて断る勇気を持てないわたしはどこか臆病ものなのよ。わたしにしっかりした意志がそなわっていたなら、こんなところに身を滑らしたりしない、そもそも、橋のたもとへ、あなたの家のそばまで行ったりしない」
「ああ、まったくだね。僕が悪かった。ごめん、思い過ごしなんだ。なにもかも、ロマンなんて言い方で逃げきろうとした僕が愚かだった。うれしいよ、こんな真っ暗な所まで来てくれて」
「いいのよ。なんかわたしたちにはお似合いかもね。といいながら先輩、ほとんど先にも奥にも進んでないのですけど。ちょっと光が見えなくなったあたりでずっとくちづけしては、堂々巡りしているわ。子供のときの探検より浅いのではないですか」
「たしかにそうだ。いつまで先輩かぜ吹かしているのだろう」
「先輩なんだから仕方ないでしょう」
「それでいいの」
「だってそうなんだし、先輩の子守りするほどわたしは老成してないですから」
「とにかくここを出よう」
「どうして、別のいい場所とかあるの、それともここで今日はお別れ」
「違うんだよ、なんて言えばいいのかな、僕はかまわないけど、君のことを幽霊あつかいしては悦に入ってしまうし、病気見舞いなんかなおざりにして、顔色を見合わせる親身さを避けているよね。秘密めいた暗所を好む習癖がこんなに素敵な時間まで侵蝕しているのかと考えたら、なんかげんなりしてしまったんだ。君の言うようにこの防空壕は小学校どころか各所に抜けていたらしい、それは確信であり過ぎゆく影が残していった現実そのものだ。君と僕がここで恋をあれこれ語りあっても実りはないよ。本当だったら現実から花ひらくものごとを、どこかしら斜にかまえてしまって結局は来たるべき短い恋に深入りしない心性が働いている。それが汚らわしく感じて仕方ないんだ」
「かまわないのよ。汚れなんてどこにもないわ。先輩は考え過ぎ、あっ、わたしもそうね。限られた時間の中でしか恋ごころを抱けないにもかかわらず、たかぶる気分を抑えきれないまま、あなたの困惑もかえりみないで告白だけさっさと済ましておいて、勝手に熱病で倒れたりしてるんだもの」
「自分の胸にあふれ出てくるものは自然じゃないかな、告白だって必ずしも身勝手なことではないよ」
「あなたからそう言ってもらえてうれしいわ。もう汚れてなんかいない、先輩もわたしも」
「いけない、また堂々巡りだ。手紙に書いても話しても変わらないね」
「まだお話は終わってないわ。書かれたものはそれっきりだけども」
「君さえよければもう少しこのままいてくれるかな」
「ええ、誰にも邪魔されないわ。暗がりに眼が慣れてくる。先輩もわたしに慣れてくる」
「そして僕はもっと君を好きになる」
「なにもかも忘れてしまいたいほどに」
「夕暮れがふたりの居場所を告げるまで」
「いつまでも」
「あっという間に」
「明日も」
「明後日も」
「夏が終わっても」
「冬が来ても」


[464] 題名:L博士最後の事件簿17 名前:コレクター 投稿日:2018年12月04日 (火) 01時15分

中学にあがって間もなく、幸吉はとりとめもない日々がなにかを希求しているように感じられ、夕食後や就寝前のひとときを備忘のために、といっても几帳面な姿勢で背筋をただすわけではなく、むしろ諧謔心に誘われるまま気散じへ流れることに意義はあるのか、ないのか吟味せず放恣だけを頼みにした筆致だったのだが、よもや他者の眼に触れる機会などあり得ないと考えつつも、万が一の場合を仮定してみれば、おのずと暗号めいたものへ傾いてしまう内奥の働きに付き従うしかなかった。
その不如意は苦々しかったけれど、徒爾こそ持続をうながす原動力になっていて、芝居がかった潤色に眉根をひそめるより、華やかな虚飾にまみれながら反古を積み上げる方が日常の塵とよく交われる、つまらないちっぽけな出来事や醜悪なしがらみも、装置としての記憶に組み入れられる手前で、まるでかかわりのない数式や外国語の断片を付与されたなら、無機質な相貌に肉感が宿るように思えてくるのだった。
もっともこの面倒で屈折した作業は幸吉の衒いをかいま見せる手段とはほど遠く、ひとえに羞恥が引き起す偽装であり、無意味に対する漠然とした怖れを打ち消すために援用された、それでいながら時間の持つ厳粛さ無視した狷介さが顔をのぞかせていた。結果、本文が霞んでしまうくらい数字が並んでみたり、英語の章句が無遠慮に書きつけられので、よしんば誰かに読まれたとしても言わんとするところは直ちに判明しないだろう。
しかし暗号を駆使したとは言い難く、初歩的な置き換え程度にとどまって、あとはまるで自由連想に似た児戯があふれ出しているだけだったから、ちょっとした箒を握ればいくら肉感を授けたつもりだったとしても、無機質は決して紙面にへばりついてはおらず、つまりあきらかに稚拙な算段で成り立っている日記でしかなく、さっと掃いてしまえばいとも簡単に邪魔ものたちはかき消えてしまう。
それでも幸吉は一体なにを目論んだかさえ分からないまま、大学ノートの罫線に信憑をあたえる。
最小の点描で書かれたと自ら揶揄しておきながら、矛盾に満ちた心象へ踏み入ることはせず、すでにこれ以上は見分け不可能な地平にたたずんでいるかのごとく、あるいは微粒子の本然をのみこんでしまったのか、どれだけ諧謔を弄していようが余興と呼ぶには果断であった。
特に今西家での一幕や櫻田静子との短いやりとりに至って、素数が無限に連なる様相を模し、地の文は早すぎた埋葬に嘆いている猶予をあたえられない。すべては糊塗でしかなく、過剰な妄念が本質を埋めつくす。
では幸吉の内省や思索に深まりは見られなかったのだろうか。いや、あくまで反古の体裁から脱しないだけであって、韜晦はおろか自身の機微を見失っておらず、事情が事情なだけに知る者がいたなら哀切をもよおすに違いないし、運命に翻弄された少年の道しるべを告げてやる敬虔な人格者はひとりやふたりではないはずだ。
けれども創痍を世間に訴えることもなく、逆に満蔵の精神病を気遣ったり、今西の秘密主義にも寛容であるべく、自分を奇妙な世界に連れ出した謎解きに没頭したりせず、ひっそりことのうつりゆきを見守っている。
そうした内面のありようを幸吉はかけがえのないものだと念った。世界の果てまで知りつくそうなど壮大な考えを抱いてはおらず、かと言って中庸の美徳に甘んじることもない、そうでなければ情欲のみずみずしさや肉感の訪れに夢中になったりしないだろう。
とりとめのなさが夢の気配である限り、望みは常に失意と背中合わせなのは当然で、徹底して局所論視野をつき進んでいけばよいのだ。あまりに偏頗な意想へ寄りかかるのは見苦しく感じるけれど、静止した時空を演算する根気の積み重ねにこそ、未来像を導き出す方式が折りこまれているのだから、自己愛の延長に女人の裸体を思い浮かべれば、視線の描くふくよかさはいつの日か見知る秘所をのぞかせてくれる。
だが焦りは禁物だ。幸吉の背馳が容易であればあるほど日記の作法は糜爛をきわめた。
遠ざけたつもりの夏休みが容赦なく青くひろがろうとしていた。
静子の病状を探りたくてもその手だてはなく、念頭をよぎったのは生徒会長より顔利きと定評のある今西に相談してみたらだったのだが、そうなれば事実はどうであれ今西が自然体を装ってまで守り通そうと努めている家名にまつわる内情を反対に聞きだしてにしまうのではないか、もちろんそんな魂胆は持ってなかったけれど、間違いなく彼の自尊心に抵触してしまい、これまで築き上げてきた交誼が、仮に形式と幻想で編まれた関係であったとしても、無惨に崩壊してしまうような気がし、とても口にすることは出来なかった。
それは幸吉にとってもどかしさに他ならず、理由は明快で以外や今西に恋人の影をかつて一度たりと認めたことがないからで、容姿も優れているだけにあらためて不可解な心象に縛られてしまったのである。
あたかも気休めのように立ち現れてくる光景は、今西が少しの揺るぎもなく見遣る目線をあとからたどる年下の女子のすがた、右腕に両手をまわし入れ、ぽっと微笑みながら足もとに含羞をまといつかせた、妬ましく透ける愛らしさだった。
あからさまな願望が映し出されたと知ったうえで、想念をくりひろげてしまうのは必ずしも今西への羨慕によるものではなく、幸吉自身のひりつきが生んだ叙情であった。
が、ここまで空想のもたげた由縁も同時にひらめいたせいで、ようやく重い腰を上げる無精者の胸に去来するであろう弁解めいた言葉が聴こえた。
「あのときだって強く求めたはずだ」
はじめて今西家の門をくぐったあの日、幸吉はどことなく戸惑っていた今西を尻目にするような態度を見せた。強引であったし猪突猛進の意をあらわにした。そして願いはかなえられたのだ。期待に沿う結果をもたらしてくれた訳ではなかったけれど、とりあえず関門は突破したのである。
それより先は静子からの手紙にしっかり書かれているではないか。
案ずるより産むが易しと、恋文自体が語っている。
幸吉は唐突の告白に我を見失い、恋する女子の心模様にとらわれ、肝心要の喜悦をはき違えてしまった。恋する条件を模索するあまり悦びは放擲され、替わりに修行僧を仰ぎ見るような禁欲的なまなざしで、さらには真意にまごつく醜態をなんとか美化しようとあがいた果てには修辞が残骸のごとく散らばった。
残骸は腐臭を放つだろう、夏日は平気で罪に加担する。
恋が罪であったとしても、静子の手紙が青春への訣別を高らかに謳っていたとして、それが汚れに先立つ瞞着だったとしても、やはり腐臭がはびこるままにはしておけない。
静子は憐憫をもって凍結を、幸吉は季節の透徹に永遠を託したのだったが、果たして目覚めはこれからも透き通っているのか。

夏の長い休みを口頭で伝えられたような熱気でむせかえる教室から抜け出し、二年生の校舎へと走りだした幸吉のうしろすがたを振り向く生徒は誰もいなかった。
そして三組の廊下で汗をぬぐったとき、不意に今西との距離も縮まったみたいな感覚を得て、深く息を吸った。
上級生も下級生もない、ここは似たような熱気にあふれ、帰り仕度をわざと送らせているふうな笑顔が飛びかっている。幸吉は一番近くにいた女子に静子の容態をそっと尋ねてみた。
三年生らしい顔つきと物腰で話しかけたつもりだったのだが案の定、怪訝な表情を返された。しかし、それも束の間、なにごとかと集まった四人の女生徒は互いの眼を眺め合い、なかのひとりがこう言った。
「ひょっとして燐谷さんですか」
「そうですけど」
低いうなり声でしか答えられないのは驚きへの正直な姿勢だった。驚きの本領は遅刻の心苦しさをなぞりながら、うらはらにコマ送りのような加減で愉悦を告げ知らせる。あとからあとから、いつまでもいつまでも、光と影の婚姻が伝えられることに似て。
「すごい、ほら、わたしの言ったとおりでしょう」
名前を聞いた女子がはしゃぐと、他の生徒も一様に眼を輝かせた。
幸吉は自分から名乗っていない手落ちに頬を赤らめたのだったが、
「櫻田さんはどうなのですか」
と、生真面目な顔色を崩さなかった。
「もうだいじょうぶよ。今日退院するそうだって」
溌剌とした返答を耳にした途端、幸吉はおだやかなめまいを覚えたけれど、
「わかりました。ありがとう」
そう言い終えた。
これで終わってしまえば、昨日までの自分は永遠を約束されるだろう。静子への恋情も、また静子が胸に秘めた黄昏も。
しかし、恋のかけひきをたしなむにはまだ早すぎる。そもそもかけひきなど必要なのだろうか。永遠なんて手形もまさしく。
女生徒らの華やぎがまばゆいのを間近で感じた幸吉はすべてを理解した。
静子の文面に偽りはなく、恐ろしいくらい素直であったことを。その素直さが幸吉を無粋にした。
自分などより懸命に恋について語りあっている下級生たち。ものおじせず、あっけらかんとし、ところがつかみどころがない。底抜けに若さを信じているようで老成にも関心がある。笑いも涙も同一の風景におさまり、ゆくてに道化が立ちふさがったとしてまったく動じない。
ここで幸吉がL博士らしさを演じてみるのは虚栄心を充たすだけでしかなかったから、一緒にはしゃぐ陽気さを封じこめた。女子はそうした目線に下りてこられるのを嫌っているのだ。
「すいませんが、これを櫻田さんに渡してもらえませんか」
幸吉は実務という案配でポケットから折れてしまった封筒をとり好奇の面持ちへと差し出した。まだ終わっていない。誰が受けとったのか手応えすら覚束なかったけれど、まぎれもなく夏休みは始まったのだ。
嬌笑が背後にわき起こったと感じたのは幸吉の思い過ごしであったか。

それから二日後の昼下がり、自宅からさほど離れていない陸橋のたもとにひとりたたずむ静子を見た。
面映い気持ちがどこから伝わってくるのか分からない。風は吹いてなかった。




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