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[463] 題名:L博士最後の事件簿16 名前:コレクター 投稿日:2018年11月27日 (火) 04時43分

「なにも答えられなかった、そう思われるのはわかっていました。
手ごたえのなさに失望してしまう君の表情をただあるがまま浮かべているだけ、それは予感どころか、僕にとってなんとしても回避させなければいけない神経経路でした。たえられないのは静子さん、君だけではありません。
めぐりあう時間を無造作に切り捨てる傲慢さがどこに由来するのかは知りませんけど、少なくとも今の僕はどのような形であれ好意という感情に傾斜をつけることなど出来ません。憐れみを投げつける術はどこにもなく、ひたすら感謝の気持ちにあふれています。
お手紙をいただいた日は驚きでいっぱいになりました。まったく思いもよらなかった告白、しかも僕の実情を鋭い嗅覚で忖度するような筆使いには理知が香り、夢の光景さえあぶり出して、自らの展望をまばゆく語っている。
何度も読み返しました。ちゃんと家に帰ってからです。思い出すのが気恥ずかしいほどあわてふためき、汗をかきながら、しかしけっして不快なしたたりではなく、森林の冷涼な空気が玄関まで運ばれてきたような、さりげない落ち着きを靴底に踏みしめ、ようやく部屋へ飛びこんだときの高揚が忘れられません。
しかし一読して静子さんの文意を理解するには及ばず、なぜかと言えば、図書室で借りた書物の頁をめくるふうな日々の延長が断ち切られる衝撃がそこには綴られていたからで、君は光の束になったと表現されていたけれど、僕の方こそまぶし過ぎていつもの視線はさえぎられ、一句一句かみしめながらでもなかなか判読しづらく、末尾へたどり着いたはずなのにまた校舎を背にした君のすがたが、西日を受け朱に染まることを覚えつつはにかんでいるうつむき加減が、幻灯機の保有するはかない華美と相まってよみがえり、まるで銀幕に写しだされた女優と男優とがくりひろげる恋愛模様を、あるいはそれ以前の澄み渡った大気に祝福される吐息の距離を、優雅に胸の狭間へと投げかけるものだから、ついそっちに気をとられてしまい、肝心のあらすじにそえないまま、あっという間に夜のとばりが下り闇がすべてを覆いそうになってきたので、僕は枕のうらに君の手紙をもぐりこませ、まだ見たことのない蛍の明滅をおぼろですが、寝床にまねき寄せ眠りの向こうからしめやかな夜景へと眺めやっては、君の心情をはかってみたのでした。
そこではじめてまばゆさに共感しあえるよう思います。
静子さんは少々、僕とは違う意見で夢をとらえているのでまるっきりの共感とは言いませんけど、鏡の効果に言及しているところから察するまでもなく、自己像の直截的なあり方より他者がどう見えてくるのか、異質の加減、その微妙な陰りやほのかさを通じて感じとろうとしているし、成育の違和によって導きだされるものを見据えており、とても晴れ晴れしい気分になりました。
ただし、晴れやかさは白昼の高い天だけにとどまりません。むしろ後ろめたさをはらむ場合が多いので乙女の通行手形と異なって、不親切なのは一緒かも知れませんが、少年に配られる切符、まったく線路を記憶していない、けれどもなぜか脱線には覚えがあって、いつも不吉さを優先しているような均衡をありがたがる情感が沈滞しています。
こういう言い方には好感は持てませんか。終着駅と潮流を、その宿りを直感だけで探りあてているような慧眼をもってしても、やはり汚らわしいと顔をそむけてしまうでしょうか。灯されるぬくもりに肉体の盛りを夢見るのは男子の神髄なのです。
自己愛を拭きとろうと勝手に動き出す意思こそ生命の根源に直結しているのです。
ここが境界かも知れませんね。
君のもつ気まぐれな野性は過敏な知性とよく調和しています。
もし僕が兄であったとしたならどう感じたのか、不意にあり得ない想像をしながら、同様に姉という存在を望んでみたこと、その不在を埋めるため、映像として写しだされる美神に気分を捧げたこと、まぼろしと現実の不一致がなにより怖かったこと、意識を預けいまだ引き落とす方便に出会えないまま、指標は風化を疑らず、極めておうとつのない変哲のない時間と空間にさまよう姿勢へのびしろをあてがってしまった自分のことが嫌でたまりませんでした。
岩石は僕自身がつくり出した幻影ですから、いや、たぶん産声のたなびく彼方をもの欲しそうにねだりはじめた頃より、障子を透かす陽光に見とがめられた塵埃の舞うさまが起源なのでけっして君のせいではない、あくまで薄色の堆積によるもの、着ぶくれした真冬の寒気のあざけりが、毛糸や布団の自由気ままをいくらか封じていたのでしょう。
それが夏日になればまわりがぱっと色濃くなって、ところどころにけばけばしい装いをほどこしてゆきます。
厚化粧と知りつつ発汗の理に抵抗する彩度が、派手さを強調してやまない洋服や太陽に挑みかけては細めてしまう眼と結託し、豪華なクレヨンをまえにした児童の会心の笑みがさらに画用紙をきらきらと純白に仕立てるのです。
この季節、寒空にかじかむ手足や指先のささくれをひどく懐かしがるのは、塵が湿気で膨張したかのようなうぬぼれを間近に感じ、信頼が暖炉でくべられる不敵をあらためて認め合うためなのでしょう。
冬景色と夏の画用紙が透徹した純度で結ばれるように。
吸い取り紙みたいな効果を信じるひややかさ、それは鏡の魔法がたしなめる推移への謳歌なのですね。
保温という優しさへの期待に寄り添う横顔を僕はたしかに見届けました。


目覚めとともに僕を襲ったのはやぶ蚊のかゆみだけではありませんでした。
毎夜、蚊遣りを煙らしてもどこかしら皮膚に赤みを残していく風物詩は無惨にかき消え、実際にかゆさを感じなかったわけではなかったけれど、それを遥かにうわまわるくらい、静子さんへの関心が強まったということです。
正確に言うといったん気抜けした、つまり見届けるもなにも僕の思惑などはなから下手な将棋に等しく、どう転ぼうがどこで起き上がろうが、いくらでも静子さんには打つ手があるのがわかったからでした。
額面通りに返信せずいたならどうなるのだろう。僕の怠慢で育まれるのは間延びした夏休みなんかじゃない、反対にひりつくような焦燥に駆られ、いてもたってもいられなくなるにちがいない。
なるほど住所を記さなかった理由は羞恥に促され整然と述べらていますが、氏名と学年学級を明かした以上、一方通行の恋情に終始する、しかも一度限りの手紙ですべてを燃え尽くしてしまうとは考えられません。
しかし、嫌味なまなじりで深読みするまでもなく本当にあるがままを懸命に伝えたかっただけだとしたら。
そうだとすればやはりあの手紙は恋文にほかならず、僕は黙って気持ちを受け止めるしかありません。
まったく不甲斐ない男だと思われても仕方ないのですが、ある事情で沈黙に準ずることに対し辟易していた矢先だったので、ここに来てふたたび別な方角から似たような心境へと沈んでゆかなければならないのか、どうして未来は遥か遠くでしか約束を交わさず、そして静子さんの場合は未来がすでに過去であるという意味で遠く、いくら胸に生き続けると言い聞かせてみても、失意は押し寄せてくるばかりなのです。
が、ずっと負の襲来に身をまかせているのは悲惨すぎる、そこで思案しました。
とにかく夏休みに入るまえには君と直に会って短くてもかまわないから、ひと言ありがとうとだけ伝えよう、そして君の態度や顔色をよくうかがってみて、文面にのぞかせた意向はやはり一縷の希望を託している様子であれば、返事がいらないなんてどれだけ僕を気遣う口ぶりであってもそれは弁明、自分の想いを訴えたのだから、どう相手にとらえられたのか知りたいはず、これが返事ですと君に手渡す、といってもその後の進展など特に求めはせず、僕は残り少ない学年を送るだけ、かりに気持ちが通じ合い親しくなってもいずれは離ればなれになるけれど、文通の意志さえあれば恋情は燃え盛ることのみに意義を欲せず、冬景色の凜とした情調へ歩み寄るのだから、とても素晴らしいことでしょう。
横顔を僕はたしかに見届けました、そこまでが返事でした。
早速、僕は君のすがたを待ち受けました。この時点でいかに思い上がりが大きかったかが判然とします。
返信を勝手にしたため失意を転じたと浮かれていたのだからもっともなことです。転じたのはあくまで僕の意識であって、静子さん、君のものではありませんよね。郵便受けには最初よりもっと激しい手紙が届けられる夢想がつまっていました。見届けられたい一心であふれていたからです。
ところが図書室にも昼休みにも放課後にも二年生の校舎付近にも、どの時間もどの場所にも君のすがたはありませんでした。所詮、待ち受けていたに過ぎない怯懦を悟り、見当たらないなら堂々と君の教室までゆけばいいものをそこまでしなかったのは僕の高慢以外の何者でもありません。どの時間やどの場所なんて限りなく最小の点描を用いた絵日記の戯言です。
しかもその絵日記には憚りもなくL博士の文字が刻まれていたから始末におえません。
僕は君がつけてくれたあだ名にすっかり舞い上がってしまい、いつになったら自分の耳に入るのだろうと夏休みを密かに遠ざけていたのです。
焦りと落胆が頂点にさしかかったとき、君が急病で入院していることを知りました」


○○町十八番地
燐谷幸吉


[462] 題名:L博士最後の事件簿15 名前:コレクター 投稿日:2018年11月20日 (火) 02時14分

「お家に着きましたか。ごめんなさい、さっきは勝手なお願いをしてしまいました。
とても胸がどきどきして、気持をはっきり伝えたいのにもじもじして、たとえ手紙を受けとってもらえても、わたしの表情ですぐにあなたは察してしまい、ぴしゃりと拒まれたらどうしよう、今日のうちにしおれてしまう花びらみたいなはかなさが怖くて、せめて一晩くらい気ままなときめきを胸に囲っておきたかったのでした。
でも住所を書かなかったのは同じ理由からでなく、とても言いづらい恥ずかしさがあって、変な意味ではないのですが、なんだかよくわからないまま、失礼を承知で、あっ、わたしなにを言ってるんでしょうね、すいません、うまく書けないのです。
しかし勇気をもって、そう、こんな手紙をお渡しするのですから、ちゃんと説明しなければいけませんね。
あなたはすてきなひとです。頭がよく優しそうな雰囲気があり、相手のことをしっかり感じてくれる、わたしの一方的な想いと軽んじられて仕方ありませんけど、浅い水際から足のつかない水底を探るような不安は浮遊する期待にふくらんでいるので、もし受けいれられたとして、おそらくあなたはわたしの好意に対し、なるだけ早く応えたい真心で返信をくださるでしょうし、駄目な場合であったとしても傷心に気づかって迅速で丁寧な断りを綴ってくれることでしょう。
すべった足もとに適切なまなざしを注いでくれるにちがいありません。
それなのにわたしの心情の発露といったら。進学へ向けた大切な時間をさいていただくのがいかに遠慮のないことか、まして夏休みを目前にした恋文なんてどれだけいかがわしく気配りを欠いたものか、迷惑なのか、わかっているつもりです。わかっていながら今日を選んでしまったのはもうたえきれなかったからなのです。
あなたを慕いはじめたのは半年ほどまえ、見た目にはしとやかで可憐な装いに映る、いえ、そう映ることをいつも求めているわたしたち女子のかしましさはかなりなものだろうし、豊満な空気はたえず野性をしのばせているので、その触手はいくらか獰猛なのでした。
こんなふうな言い方をしたら幻滅されるかもしれませんけど、恋のきっかけは必ずしも厳粛なたたずまいや、そよ風の清廉ないざないや、夢のまたたきからきらきら飛び散る火の粉のせいではなくて、もっと卑近な場所に立ち寄るどら猫の毛並みのような直感から生まれてきます。
遥かかなたへ胸おどらせる高尚さにまじりそうでまじらない他愛ないおしゃべりのゆくえ、それが乙女の通行手形、純情なのです。
意中のひとを語りあってみたり、歌手や俳優の容姿を論じてみたりしながら、身近の男子に触れ合う機会をうかがってはなんらかの成就を願うこころ模様、わたしもそんな中にあってご多分にもれず突風のあおりを受け、あるいは自力で奮起して巻き起こし、恋という色彩に瞳をかがやかせてみたくなっていました。
そして想いがかなった級友をうらやんで悲しくなったり、あれこれしゃべるわりにはじれったい顔つきしかできないもどかしさを叱責している鬼のような自分におののいたり、すでに深刻な間柄までいたったといううわさ話しで鼓動を強めたりしても、恋のゆくえをたどりきれない現状に結局は安堵するのです。
では、どこからあなた対する気持が芽生えてきたのか、よくよく推測してみたのですけど考えれば考えるほど、ちょうどおさない手つきで庭先に埋められたかつての宝石が果たしてどの辺りだったのか、さほど広くもない裏庭を無性にあちこち掘り返しているような記憶がかすめていくばかりで、これといった要因は見当たらず、やはり通行手形はあくまで機能を有したものでしかないのか、これよりさきのなりゆきはもちろん、発火点を告げる手間もはぶかれていて、それ以上思いめぐらすことは不可能ですし、なにかしみじみ疲れてきたので純情という鏡にすり寄ったのでした。顔かたちの微妙な動きで心境を見つめるためなんかじゃありません。
ひんやりした肌ざわりを約束し、やがて体温を写しとってくれる冷淡な境界が懐かしかったからです。
なので輪郭を持たない影のような気配に惹かれたというのが本音かもしれませんね。
それと、これはあとづけの根拠みたいで言いわけがましいのですが、成績抜群なのは全校でも知れわたっていたけど、図書室で片っ端からいろんな種類の本を借りてはすごい早さで読んでいるということを友人から聞き及んだとき、はじめてわたしの脳裏にあなたの影がよぎり、すぐ様それは光の束になったような気がします。
さほど頻繁ではなけれどわたしだって壁一面をぐるりと支配する書棚の景観を好んでいたし、あの独特の匂いに包まれながら未知の世界を手にする重みに授業では得られない華やぎを得ておりました。
以前からすれ違ったり、お互いのまなざしが交差した瞬間だってあったはずなのに、どうしてあらためて意識しだしたのか、それはわたしがこれまで男子を異性としてあまり感じとっていなかったせい、二年生になってからだつきがすこしだけ大人っぽくなったせい、そんな自分を意識することが男子との差異をめざめさせた結果なのでしょう。
しかし、どれだけ下地が整いだそうが、肝心かなめの対象を彫り上げるまなざしは実情に取り残されているのか、それとも肉体をさらに反射させ、めざめの遅れに躍起となった理知が夏の秘密を、光線の正体を、影の不思議を解き明かそうとしたのか、答えはちょっと恥ずかしいのですが、それはわたしがあなたにあだ名をつけたことなの。
燐谷さんだからL博士、いずれ本当に博士になりそうな感じがしました。
おかしく聞こえるでしょうけど、あなたはわたしの兄のようであり、でも兄を越えた存在になっていて、そうした想いはむろん経路を知りません。ただ、この夏は大いなる季節にちがいない、強烈な陽射しがわたしの殻を焼きつくすだろう、行き止まりのすぐそばで。
そこはあなたがいる場所なのですね。この町を離れ進学されてもわたしから遠のいてしまっても、あなたはここにいるのです。この倒錯した想念は鏡の作用、わたしの願望と先送りした影が交わる花束、だけど受け取ってもらえない寂しさより、残像の映しだす記念碑を抱きしめるよろこびが勝ります。
わたしのこころにあなたが棲んでいる。
わたしはあなたの匂いをもういちど確かめるため図書室にゆき、そしてついに決意しました。手紙を書こうと。
あなたにしてみれば重くのしかかる岩石みたいなわたしですけど、これでいて以外と明るい性格なのですよ。だって仲の良い友達にはもうあなたの話しで盛り上がったり、はしゃいだりで、切実な面持ちなんて仮面のようにはずすことだって平気にできそうですもの。
なら、なぜもっと以前に気軽に想いを告げなかったのか、その問いはあなたのひんしゅくを買うに十分過ぎるので、正直に話さなくてもいいなんて、ふとどきな考えを泳がせていたのですが、夏の日はわたしにとってとても大切なものを包み隠しているように感じて仕方なく、かなり誇張したくちぶりですけど、宿命の恋だと太陽も海も山々も呼びかけてくるのです。白波は激しくて緑がまぶしいのです。
なにより声高にするつもりなんかまったくなかったはずの、たいしてひねりも利いてない、それでも敬慕をこめたL博士のあだ名がにわかにひろまってしまい、夏休みまでには浸透をまぬがれず、まちがいなくあなたのもとへひたひたと伝わっていきそうでした。
部活動とは無縁のあなたとわたし、休校のあいだ、あなたは怪訝な表情をつくったまま、わたしは浅はかな思い出をかついだまま、あだ花を嗅ぎ続けなくてはなりません。そんな茶番はまっぴらです。しかも記号を付与されたみたいながひとり歩きする気安さに親しみを感じのか、今までとっつきにくい存在だと決めつけて、および腰だった他の女子らがこぞってあなたになんらかのかたちで接しようとしているです。
いいえ、誇大妄想ではありません。たとえ実りがなくとも寸暇であっても情熱がくすぶっているかぎり、特に夏の光で生彩をとりこんだ意識のたかまりは大きく、一様に恋の炎に身を焦がし暑気を忘れるいきおいなのです。
わたしひとりの眼を通して見つめている、そう仮託していた恋をよこどりされては身もふたもありませんので、おぼつかない筆をとってあらましを述べさせていただきました。
結局そこへ流れつくのか、そう見下されるのは覚悟しています。ですから返信は無用と申し上げます。憐れみだけわたしに投げつけてくだされば本望、わがままをどうぞお許しください」


燐谷幸吉さまへ

二年三組 櫻田静子


[461] 題名:L博士最後の事件簿14 名前:コレクター 投稿日:2018年11月13日 (火) 00時35分

見上げれば見上げるほどにまぶしさよりどこか醒めた気分が告げられているようだった。
汗ばむ首筋へ張りつく不快は日盛りに呼応する木々の緑がぬぐってくれるのか、遠い海鳴りに被さるような蝉しぐれの気ままが家路を急ぐ幸吉の足どりを軽くした。
日々の連鎖に絡みつくはずだった貴重な経験は季節が巧みに操ったのだろう、熱病はまぎれもない暑気にあてられ、舗装を待つ道途から舞いあがる砂ぼこりの先をゆくトラックが、駄菓子屋の軒下に売り物らしくない趣きで吊られながらも精一杯の涼を鳴らす風鈴が、夏休みの奔放を早々と背中に詰めこんだ赤いランドセルの軋み、あるいは路地裏へ迷いこんだ野良犬の低いうなり声などが、視界をさえぎりつつ幸吉の耳もとを撫でていくので、まぼろしとあきらめかけていた記憶は深い失望に陥らず、却って美しい想い出へとたおやかに沈んでは、いつの日か水面に浮かぶ睡蓮のように静穏な色合いを描きだすのだった。
ただ同様な外観だが、あくまで水面下に淀んだ今西の平静が幸吉の軽やかな諦念をいくらか刺激した。
名も知らぬ花であればよかった。
その花弁を彩る艶やかさに魅了されてしまい、忘れることの出来ない名前の由来はまるでそうなるのが自然であったようにふっつり途絶えてしまったのだ。
憧憬によって駆けめぐった情念のゆくえは風のなかへ舞い戻ってしまい、意識するべきもない肉欲のほむらに照射され、ふりかえってみればあまりに蒙昧で愚鈍であり、滑稽な演劇の舞台へしゃしゃり出て瘋癲とはつゆ知らず、いや、どこかしら尋常ではない空気を肌にしていながら懸命に儀式的な心性を前面に押し出そうと務めてしまった。
そうするのがあたかも学問より道徳より重大なことがらであると信じていたのだ。
しかし、間弓がしめやかに見せた満蔵に接する態度や姿勢に嘘いつわりないとすれば、明らかに今西の平常さは不自然である。
満蔵からことの次第を聞かされてないにしろ、ひとつ屋根の下で暮らしている以上、間弓の顔色を読み取れないほど鈍い神経の持ち主には思えない、あの訪問のときに示した当惑と抵抗のうちには隠しきれない秘密の鍵をつかんでいる様子がほのかにうかがえたし、予てより親族のあいだに他人が分け入る無謀を不本意ながら承知していたふうな感じが匂い、これは穿ち過ぎかも知れないけれど、彼はつまるところ道先案内人を買って出たように思えてくるのだった。
そして前座として間弓は配役の段にひかえており、舞台場面の展開もまた構築されたものであり、双子の謂いで口火を切るといった鮮やかさで煙にまかれ、あまつさえ初めての接吻まで準備されていたとするなら、その後、瘋癲の妄想はとめどもなく乱れ、今西家の廊下をすべり、ふすまを通り抜け、部屋という部屋の床から壁をつたっては天井にへばりつき、人知れず糸を垂らす蜘蛛の思惑さえのみこんで自在の術を施せば、すでに籠絡の身、張りめぐらされた網の目からは異形に歪んだ賛美しか見渡せず、愚直の足かせを崇拝し、進んで不埒な爛れの理想郷を打ち立てるために発奮するに違いなく、そこには後戻りのきかない鋭利な、それでいて途方もなくまろやかで秘めたぬくもりがあふれだしてくるのだ。
幸吉の気軽な足どりは裏切りとも放擲とも呼べない面妖な果実の味がまだ舌にほんのり残っていて、理性の散花をどこか願っているからであった。
睡蓮の静寂は眠りと目覚めの境界にただよい続ける。今西の奇矯な寡黙はこうして来たるべき未来への涵養となった。
どうして止めだて出来ようか、なぜ沈黙を破る必要があるのか、あれこれ詮議するような真似は慎まなければならない。歴史におけるかつての偉大な悲劇を簡単にすげ替えることが不可能なよう、無粋な人情噺に堕す軽卒には走らない。急ぐ家路は過去ではなく、むろん記憶にはばまれた空間でもなく、ただ明日の夕陽がいつも悔しくてたまらないからつんのめるのだ。
あこがれの女優がいつまでもまぼろしである為に不都合はなかった。満蔵の妄念が健在であるなら新たな舞台が必ず築かれる。
時間と季節の連なりに過剰な期待を寄せるほどに幸吉は今西家の沈黙を了解した。
思春の泉をのぞき見る畏怖は常に現在をかなぐり捨てているような罪悪感に苛まれ、そして遠回りする余裕は排され、実直な時計のねじを信奉するのだった。
幸吉の進学先は県内でも有数の高校で、教師と両親はその意向を十全に汲んでおり自身も入試を切望していた。で、今西はどうかといえば、この町の高校に入学すると決めていたから、増々ねじの機能をうれしく思った。
小学生の頃より丸暗記の学習法ひとすじで成績優秀とされた自分なんかと違って、几帳面に学習している今西の方がよほど勉強熱心だと思っていたので、その理由を密かに知り得ているのがとても居心地が悪い。悪いといっても気掛かりの域を出ず、それは正枝の進退を見極める方便だと勝手に推測していて、やはり満蔵から声なき声で伝えられた福音だと今西には済まないけれど、進学と共に妄念から縁が切れてしまう格好に見えるはずの性根の燻りまで察してはいない、ねじは実務を保つ反面、間違いなく狂いを生じる機械であることを忘れており、しかも誤差を生み出す本性と生命の不可思議に大いなる影を見出すにいたって、確信は静黙の底からせり上がってくるばかりなのであった。
が、まどろこしいほど時間はやるせなく、劇場の開幕は約束されていない。しかし反古でかまわないのだ。満蔵はそう話していたではないか、またその光景さえ見失ってしまってもよく、いつか本当に反古の山へと埋もれる運命にあるのも知れない、念いは強烈な夏日に捧げられつつ、興醒めを内包していた。

独善的な思考が渦巻くさなか、幸吉は想像もしていなかった事態に置かれた。たしかにねじは狂う。
一学年下の女子から手紙を受け取った。それは恋文であった。修学旅行先で正枝に、いや、呉乃志乙梨に手渡した切り抜きがめぐりめぐってまわって来たような錯覚にとまどい、あこがれを投げかけられるという側の未知なる立場に微かなめまいを感じた。
封を開けるまえ、さらに珍奇な意想があたまをよぎった。
「これは正枝が綴ったのあの手紙じゃないだろうか、なにかしらの力学が働いて悔いが拭われようとしている」
まったく馬鹿げた考えだが、そういうふうにでも判じないと治まりつかない動揺に惑わされ、夏の西日が執拗なまでに幻覚を授けるので、しまいには、
「すいません。これ読んでください。けど帰ってからにしてください」
そう言いながらあたまひとつくらい背丈の低い、はにかみを照り返した黒髪によろこびを片鱗だけ現し、お辞儀するような姿態にかつての自己像が張り合わされてしまった。が、そのおかげで言葉足らずと短い時間の織りなす淡い恋心はのみこめた。
しかし今の幸吉には淡い心情だけでの基調音が支えているわけでなく、もっと激しい驟雨のような、悪戯が火遊びになる手前で鎮火を求める、唐突でいて当たり前の見据えた算段が好ましく、濃淡の利や残響から飛び出してくる悩ましい悲鳴に情調を委ねたかった。
これはまったく憧憬から羽ばたいた音色であったので尚のこと引き返す情況を描きにくく、自家撞着だけが許された方便だと思うしかなかった。
恋する様相は変じて恋される者にうつろう。
嫌な気持はしなかった。今西家の誰かから声がかかるまでひっそり息をのんで閉ざすばかりが過ぎゆきではない、現に立場が異なっただけでしっかりとまどっている。この現実をたぐり寄せてみたらどうだろうか、そうだ、恋する自由が夢に映しだされるだけではなく、自由を恋することが健全な肉欲に結実するのでは。
宙吊りの力学は稚拙なひらめきでしかなかったし、ねじ巻きの手つきも風に流され落ちついてはなかったけれど、地球儀はいつになく重力を主張しているようで、幸吉はめぐって来た事態にほのかな愛しさを憶えるのだった。


[460] 題名:L博士最後の事件簿13 名前:コレクター 投稿日:2018年10月30日 (火) 06時32分

おとし穴とも宝石箱とも喩えようのない、ちいさなおののきが華やにめくらむ箇所をのぞき見た不思議は光陰すら定めることへ抵抗をしめしたのか、あるいは夕陽を背にした帰途がいつも穏やかさで映えているふうに思い出すのはどうしてなのか、明日がそれほど待ち通しくて仕方なかったと今、幸吉はこの瞬間を踏まえながら言い聞かせていた。
虹霓は雲をつかむより天に舞い上がる羽根より、哀しいまでの卑近な彩色で眼に届けれたのでそう念じてしまい、より身近な血縁の稠密する民家へその彩りを塗りこめようとしているのかも知れない。
間弓の視線は凍りつことのない樹氷によって照れされいる。父から聞き及んだ経緯はあまりに衝撃が強過ぎてどう受けとめていいのやらひたすらとまどうばかりであろう。
他人ごとなどではなく身内に巻き起こった嵐であり、自分のこころが千々に乱れ飛ばないようしきりに手綱を引きしめているのだから、幸吉の夢幻とやらで渡された綱の揺れ具合とはそもそも時間の流れがまるで異なっていた。
想い出のなかでいつまでも眠る亡き母のやすらぎを乱す正枝の存在は父の懇願に乗ずる素振りで止揚されたが、長女と呼ばれるべきたおやかで揺るぎない花影の所在は危ぶみに吹かれ、まして粉黛に身を投じたなりわいへの執着から抜けきれない態度、つまり女優というあだ花にこころ咲かせるあり方も、それを案じてやまない父の憂愁こそ間弓には冷たい血にしか感じられないはずで、帰途に仄かな親しみを授ける夕陽の思惑など、どこまで日暮れてみてもたどれるわけがなく、すでに夜更けの呪詛がうららかさを足もとから攫おうと躍起になっている。が、情愛も肉欲にも厳かに触れたことのない幸吉の軽佻な気組みのなかでは、不純が濾過されるよう緩慢なそのくせ急進的な、さながら蟻の行軍のような、よくよく見つめれば数えきれない黒い連なりに似て意地らしく思われ、その一条を唾棄し侮蔑する感情はわき起こらなかった。
凍りつかない心情は却って雪どけ水を待ち望む丘陵からの眺めにおさまった。まだまだ遠く険阻な足場を覚えつつ。
そんな柔らかな判断にすべてを託し、ひょっとしたらもうこの家を訪れるのは最初で最後になるのかと、甘い誘惑をあえて遮っている児戯めいたことになびいてゆけば、いっそう間弓のまなざしは透き通った時間の彼方へ結ばれているような気がするのだった。

あれから満蔵の話しは手短かだが、幾度も首筋より頬にかけて激しい鳥肌を立てながら、そして頬を赤めたと途端に額から冷や汗を吹き出しては、尿意なのかむず痒さなのか、なにかが軋んでいる音に嫌悪をおい被せているのか、地と図の反転などまったく起こりそうがない緊迫にただ圧倒され、書架へと眼を走らすこともないまま、親睦という名だけに清められた十字架と、霊験は剥奪され不調法な言葉の作用のみが暴走する大人による子供へのおとぎ話の世界に埋没した。
その挙げ句やはり幸吉は明瞭に支配された大地から浮遊し、夢幻の綱渡りの決意を促されたのだった。
深く考える矢先から学業を放棄するだの、心酔した心意気を差し出してみたのは、とても元教育に従事してきた者に対する受け答えと呼ぶには転倒した場面だったし、性愛文学の嗜好が相まって傾倒を余儀なくされた不義の説明も、特にその四肢の欠落、比喩と捉えるべきなのか字義通りなのか、もはや昏迷の暗路をかき分けていく語り口に精神病理の陰を見出し始めていたのだが、かつての威厳をかなぐり捨てたもの言いには脳髄を酔わすだけの魅惑がいくらか染みこんでおり、また絵空事が写真を介して降臨したのだとうなずくだけの説得力を持っていたので、虚構ないし痴呆の戯言には映らず、その仰天の意向に耳朶はしっかり握られてしまったのである。いにしえを小泉八雲がひもといたあの逸話のごとく。
「この三枚もどうか持って帰ってくれたまえ」
幸吉は遠慮という行為がこのときほど無粋なものに思えたことはなかった。
「驚いているだろうがこれは正枝が先日送って寄越したブロマイドなのです。で、この隅のイニシャルだが、もうわかるでしょう。iは今西、mは正枝なのです。呉乃志乙梨として女優としてじゃなく、本名、いやまだ今西ではない、にもかかわらずこのi.mが意味するところは私には明白なのです。つまり娘は今西の家に帰りたがっている、しかしこころざし半ばで銀幕から身を引くのはとても辛いのでしょう。これから話す事情は君にとってはかなり飛躍した道理だと呆れてしまうに違いない。だがよく聞いてくれますか、娘は正枝は映画会社の重役のある男から提案されているそうなのです。提案なんて座りのいいもんじゃない、ようは囲いものになるかわり今後、役をつけてやるというほぼ命令なのです。正枝は引き裂かれる心身にたえきれず、すこしだけ猶予をもらい受け私に相談してきた。
どう思いますか、君。このイニシャルはあとから私が書き加えたとも言えますし、はなから正枝の真意であったとも言えるでしょう。そんなことはその際どうでいい、私と娘の不安は必ずしもイニシャルで銘記されるわけではありませんから。
もっと簡便に話しましょう。問題は昌昭と間弓なのです。せがれには近いうちにきちんと弁明するつもりなのだが、すでに打ち明けてしまった娘はすんなりと納得はしてくれませんでした。でもあと数年もすれば進学なり就職でこの町を出てゆくのです。当人がそう願っているのだからまず大丈夫、そこで正枝を向い入れるわけですが、私はしっかりした婿をとってあげたいと考えているのです。ほかの誰よりも正枝をうやまい、大いなる愛情をふところにおさめているひとをね。それが君なのです」
おそらく成人を迎えるころには、いやそうでなくとももし美酒というものに酔いしれることはそれほど難しい想像ではない。しかし酔い心地が一撃にして奈落につきおとされる幕間を思い浮かべたことはこれまであるはずもなく、人生の艱難に先立って微笑み返していると仮想した記憶がなかった。
昨日のあの情景がよみがえる。
結局はきっぱりと拒絶の意を満蔵にしめすどころか、ほぼ受諾を、あの熱病につられたまま意味など判じず、むしろ地球儀にしかない重力に引かれるような気軽さで口にしたのだった。
帰り際の間弓は幸吉をのぞきこむ目つきで真意を探ったのだろうが、その訳はなおざりにされたというより、悪夢に取り残された事情を述べる言葉を見失っていたからである。
すると自分でも呆れ返るふうな歯の浮く語勢がついて出た。やぶさめの正鵠に忠義を見届ける代わり、無傷の翡翠を、のぞき知ることの若々しい映発を、武骨なまでの三段論法を。

期末試験の前夜、夜更かしは美徳によって机上が清められ、深夜をくぐった時計の面にはほのかな悪巧と玲瓏な時間が音もなく漂っていた。
ある級友は丑三つ時をまわる頃、忍者のような身軽さと猫のようなしたたかさで夜の通りへまぎれるそうだ。当人いわく、気分転換のため、勉強のはかどりをよくするためらしいが、幸吉には大義をかついだ彷徨であって、たぶんに幻惑的な情欲をたぎらせ、疑似であることを自覚した夜這いであろうことは薄々感じられた。
木枯らしのわびしさとは反対に闇で被われた通りへ繰り出す足どりは幽明の息吹が聴こえ、下半身は暗渠に落ちたような感覚で呼び覚まされる。そこには奇矯な転倒が起こり、亡きはずの生命がこの世にさまよい出るごとく、失った下半身のなかでも一番敏感なところが夜の町並みを変貌させる。
おさない時分の考えには暮れゆく加減とはおかまいなく想像のみが這い出す。それは夜の思考とは別種の光芒であり、玩具や駄菓子の隠すことを怖れない自愛にそそのかされているようなこざっぱりしたもので、たとえば国鉄の線路が延びているその脇に高まった小山の底には地下鉄の駅があって、そこから乗りこめば時間の延長はすべてトンネルが打ち消してくれ、夜窓に照る列車の明かりは陽光の余燼などではなく、人工的な配慮に委ねられているのだ。
夢の構造も哀しみの音色や物怖じが堆積していたのではなく、ひどく懐かしい灯火とか、胸騒ぎにあふれる夕焼けとか、魅了してやまない川沿いの夜景とか、そうした光景すべては脳内の工場で産声をあげて、この世からほんのかたときだけ消えてから、すぐさま喜悦の扉をたたき始めるのである。
あの級友と夜の川べりでばったり顔をあわせるかも知れない、ひと恋しさで満ちた想いは実際に夜へとけ込もうが、そう空想してみようが大差なくて、案の定、まどろみに誘われた闇のかなたでは大都市の繁華街がひろがっており、唯一ときの流れを知らしめておくのは河川と河川を橋渡しするもどかしさのみで、やはりひとりぼっちは心細い、見慣れた顔に出くわしたいのか、あたりを見舞わせば、よく似た面差しはありふれて仕方なく、何度も橋を行き来するうちに焦りだし、夢の専売特許である迷路へと案内されるわけだが、これも根気と体調のしわざか、皮膜一枚によって隔てられる現実の夜へ向って絶叫すればこと足りる、トンネルに悪意はない、延長コードは速やかに巻き戻され、人気のない通りに級友とふたりして夜を案じる影が居並ぶ。
夜這いなんてする試しもないのに空威張りの念いが遠い星空にまたたく。そしてもう一度あの強烈な白黒のかがやきに別れを告げる間もないまま眼を覚ます。

「ようするに正枝と婚約してもらいたいのです。もちろん正式ではありません。君の将来を十分と含みいれてのお願いなのです。ひとり息子であることも承知のうえですから、興信所に依頼したのは御両親が果たして聞き入れていただけるのか、どうすれば私の意向が伝わりのだろう、そう案じたからに他なりません。正枝には自由であって欲しいのです。ではどうして婚約などと怪訝に思うでしょうけど、さきほどもお話したように娘は銀幕を選ぶのか、静かな生活を願うのかで非常に迷っているわけでして、このままではかつての私の振る舞いがそうであったよう好色に支配され、やがては朽ち果てる宿命、淫欲と金銭にまみれながら夢を枯らすのは眼に見えてます。しかし正枝はそれでもいいと居直っているところもあるのでしょうか。宿命なんか認めなくない、わずかな機会を得て人気女優にのぼりつめたひとだっている、父親の業だけで女優の道をふさがないで、決してはっきりそう反論したわけではないのですけど、まだまだ若い身、たしかに安穏な方便に傾きすぎてしまい可能性の芽を摘み取っているようで遺憾です。だからと言って私は黙って眺めているだけで過ごせば、これも業なのでしょうが、そして無礼を承知で言いますが、どうしても安全牌の必要に駆られていまうのです。正枝も言っております、君ならかまわないと。
ゆくゆくなんて夢のまた夢、そうだからこそあれほど熱心だった君に好意を感じるのだと思います。口約束でいいのです。いずれ時勢が変われば反古にしてもらってもかまいません。ええ、逃げ道には違いありませけど、今の正枝を支えられるのはこれより他はないと断じたのです」

ブロマイドがなによりの証し、映画会社の重役とやらが小手先を使っていかに尊大であるかを正枝に教えこんだという。こんな形で世に出ようとは考えてもなかっただろう。
もし何も知らない情況であったなら、発売と同時にすぐさま購入しただろう。
幸吉は悔やんだ。あの出会いとそれにまつわる事柄の文字が綴られていた手紙を直接読ませてもらわず我慢した、少年の尊大が妙な邪魔をしてしまったことを。
そしてその後、満蔵からの連絡はなく月日だけが、今西との普段とおりの会話が、進学への道先が、失われてゆく間弓の面影が、尊い夢のようにめぐり、中学最期の夏を絡めとるのだった。


[459] 題名:L博士最後の事件簿12 名前:コレクター 投稿日:2018年10月15日 (月) 07時13分

机の片隅に置かれた誰から譲り受けたかさえ忘れてしまっている地球儀を軽くまわしながら幸吉は思いめぐらせていた。
高揚した意識は追い風の心地よさも陽射しの加減も感じることなく、熱に浮かされた足どりで、ただ前景がいつもより彩度の強まった輪郭に被われているようなまばゆさに支配され、それは遅れて視界へ飛びこんでいた咲き誇る彼岸花の赤みが膨張した作用によるものだと吹き流せば、帰途に魔性は棲みついてはおらず、約束された回想がたなびくのだった。
現にこうして世界の国々の地形をぼんやり見つめていれば、脳裏に浮かんでくる光景は見知らぬ異国を旅する人影や聞き取れない言語の数々から繰り出す雑踏ではなく、この町に連なる白い浜辺が映し出す蒼穹と海原の静けさであり、その真ん中を一直線に白濁させる飛行機雲の澄みきった眺めだった。
このうえない訪問であったから記憶は飛翔するのだろうか。それとも幻影のあやつりを望んだゆえの儚さがかげろうに転じるのだろうか。
身にあまる光栄を浴びながら不遜な高みにまで登りつめた絶頂は更なる演出を願っていた。
要点に向って冗長を回避し、あくまで偶然の出会いによる歓喜へと収斂してゆく語り口に聞き入るばかりの幸吉は、他人のしかも息子と同い年の、世の中に顔をすこしだけ覗かせたにすぎない無能の方がはるかに勝っている情況を誉れだと解釈してしまった。いやそう仕向けられたと怪訝さをもたげる意欲も速やかに鎮められたのだ。
青春とはまさにうぬぼれが世間の壁をつき破る幻想に他ならない。そして恋情という火花が瞳の奥で瞬き、硝煙を立ち上げたのであったなら、人生の門出は後戻りを決して認めない。地球儀がちいさな指先で動いてしまうように。
問題は球体に張りつけられた、しかし世界を豁然と俯瞰させる意図を読み解き、今度は思いのほか勢いをつけてしまった回転を見定めることにあった。平面の図式に帰したのち、広大さと起伏をあらためて認識し、特定の磁場へと身を投じる。
満蔵が醜態をさらしてまで助勢を求めたのは、また性急な物腰であったのは、これまで今西家を侵蝕することがなかった自然の脅威とはまるで異なる、猛烈な風雨より陰湿な不協和音の響きを危惧したからで、それは昌昭、間弓の反撥であり、もはや世間体ではなかった。
そう考えなければ幸吉の生きる意味はこころ優しい、そのくせ刺激にこころ逆立つ、凡庸で倦怠な日々を享受する自己欺瞞に歯ぎしりするしかなかった。
満蔵の口上に無駄がないことに感じ入った幸吉は、すでに言の葉のすぐそばでひかえている、台詞をのみこみまるで舞台の出番を待つ役者の心音を愛でる境地にあった。
確約された条件、それは紛れもなく女優にやつした正枝との接触であると思われ、ここでようやく今西が口酸っぱく話していた頑固だの吝嗇だの律儀だのと諷した肖像がよりはっきりつかめてきた。頑固は融通の効かない了簡、吝嗇は際立って無駄を排する観念、律儀は思いこみの激しさから逃れられない宿命論、そうした帰納に導かれる由縁は独断であろうとも、女優をめぐる演繹を合わせもったからにはどう転んでみたところで悔いはない、飛翔の裡にかげろうは立ちのぼるのだから。
だが、全幅の信頼を今西家に寄せた理由はさほど重篤な空気ではなく、むしろ恋がはじけてしまうような淡い失意の先で囲繞する見果てぬ数式に溺れていたのであり、解答を持たない例えば発見されることを永く乞い続ける素粒子論が夢見る空間への賛美であった。
幸吉は今西家の三人に加え、四人が囃し立てる真率な和音を愛でたのであって、不協和音はちょうど自らの胸に巣食う闇の解放にあった。むろん闇がしめる領分が消え去るわけではない、ただ一切の邪念が純度を欲するとなれば、それは宇宙空間を占有する暗黒にいだかれることで、独り相撲でしかなかった妄念は大いなる惑星と溶け合い、言の葉が舞い落ちる無常に達する。
そのためにはまず克明に事象を噛み砕かなければいけない。まだ動悸は鳴り止まず、そして熱病に冒されているのだろうか、芒洋とした理屈を並べれば並べるほど幸吉の夢幻は衣服のように平常を装った。
ところが新調された着物に袖を通す段を想像した結果、晴れやかな気分とはうらはらの無粋で狷介な実情に絡めとられ、微熱にとまどう気弱さを知った。
それは満蔵の書斎に張りつめた清浄な神経を逆なでするような試みであるとともに、予測を裏切らない信憑を有していた。間弓が演じるであろう帰り際の、私情をむき出しにした、けれども嬌態を香らせる笑みがどんな行為に変換されるのか、前奏曲が奏でられたのなら終曲があってしかるべき、劇場の幕引きは水際立ってもらわなれば満蔵と交わした言葉が空疎になる。
しかし現実はもっとも忠実なしもべが足音に敬意をはらっている調子で訪れた。
「お父さん、そろそろ、おからだに障りますわ。燐谷さんだって一度になにもかもだと大変でしょうし。了解いただけたのでしたら、また日をあらためて」
いつの間に満蔵のそばへ歩み寄ったのか、そして仮病と聞いていた齟齬を認める猶予のないまま、自身の体調に気遣う素振りは優美なまでの気高さを配して父をいたわり、まなざしは緩慢な動きを崩さず、さっと幸吉の顔をうかがい俊敏な憂いを伝えた。
間弓が魅せたあまりに完璧な情愛の顕現に幸吉は身震いした。けれども邪念は崩壊する運命をたどったに過ぎない、そんな負け惜しみが泡沫のように音もなく浮かんだ。
浮かぶと同時に、
「そうだね。はじめてなのにすべてを言い尽くすのは困ったものです」
幸吉を案じて発せられたのか、おのれの性分を嘆いたのか、間弓に遠慮したのか、満蔵の声にはそれらの思惑を持ち上げるすべがないようにも届き、また別の誰かへ詫びているふうに床にふわりと落ちた。

あまりに柔らかな侵入によってその日の訪問は終わった。
地球儀をなぞる指の感触に違和を覚えたるまでどれくらい時間は流れたのだろう。無為なる時間、散漫な意識の明滅、気休めの陥穽、ちいさな欲望、しかし食欲と同じくらいたいせつな栄養補給、呼吸の原理、あたまのなかを吹き抜ける風、塵の自己主張、飛び立つ羽音、夜のしじま、眠りのまえの自涜。
間弓は玄関まで見送ってくれた。「主役の座はいつかあなたに譲るわ」これは幸吉の無風の解釈にすぎない。実際には、
「父から厳しく言われていたもので。昌昭のもそうなの。だからわかってね。最初から自分の病状を話したりしたらきっとあなたはためらうだろうって。ほんとうにごめんなさい。あなたの欲しかったものよりわたしたちの欲するものの方が大きすぎる。困惑しにいらしたようですもの。わたしからお話しすべきことは特にありません。いいえ、あっ、すいません。そうじゃなく、たとえ肉親でも意見がかみあわないのはわかってもらえますね。わたしはわたしの立場からたぶん、父に逆らってまで」
申し訳なさそうにそう言った。
幸吉は深海の底をさまよっているような感覚にしびれていたいせいもあるだろうが、急に浅瀬まで引上げられた水圧にあらがう気迫をなんとか訴えたく、
「気にしないでください。あこがれは成就したんです。まさかこんな形でしかも身近すぎて驚いてます。それからこれは変に聞こえるかも知れませんが、あなたと今西君はよく見るとそれほどそっくりではありません。あなたの言うように思いこみなのでしょう。だってあなたの方からそう尋ねてきたのです。ただでさえ緊張していたのでつい」
語尾にこめたものが気迫とは正反対の羞恥であることに気づきうなだれてしまった。
間弓はそのあとに結ばれるだろう言葉をかぎ取ったのか、
「あなたの眼がそうだったらそれでいいじゃない。でも眼だけではよくわからないこともあるわ」
そう微笑みながらこたえたので、増々幸吉は焦りだし、
「ぼくが欲しかったのは」
と、うかつにも口がすべってしまい、
「えっ、なにがですの」
間弓の怪訝な表情を招いた後悔で窮地に追いやられたのだが、「今、自分はあのひとの妹をまえにしているのだ」この閃光の切れ味は恥じらいを一瞬だけ忘却させた。
「ぼくなんかが立ち入るべき問題ではないのに、ほんとうにありがとうございました。あなたはとても美人だと思います」
なにか息苦しく切ない感情に接した、狼狽をぬぐいきれないのか、間弓は無言でじっと幸吉を見つめていた。


[458] 題名:L博士最後の事件簿11 名前:コレクター 投稿日:2018年10月09日 (火) 02時17分

相貌は胸の奥につかえた気まぐれをひた隠しにしている。
隠されていたからこそ不毛な親和は迷妄をくぐり抜け、かえがえのない時間へ溺れることが許された。沈淪する意想はきらきらと輝いており、そのまばゆい景色がこうじて満蔵との距離をはかり難いものに転じた。
同時に間弓と弟である昌昭の相似を打ち消したくなっている借り物のような理性が燃えだし、それは速やかな憂さ晴らしを倣ったのか、ちょうど口に含んだ総菜の味が苦みをしりぞけ、旨みだけをのこしていくふうな塩梅だったので、自由奔放な雰囲気はきまりの悪さから釈放され、ついでに満蔵のふところも断ち切り、異性の芳香と肉感のみで浮遊していた。
あきらかに内密の話しを幸吉へ伝えようとしている気配を感じとったうえは、さながら首魁の娘子をもらい受けるかのごとくに不埒な妄執がめぐって、成熟の手前を魅せてやまない間弓が発する官能に酔いしれたのだった。
「ところであの女優なのですが、その仔細を吟味してもらい、よろしれば私たちの手助けになっていただきたいのです」
やはり因縁があったのか、今の幸吉にはどんな怖れに臆することなく、むしろすすんで秘事の結び目を解きほぐしてみたい、学業をなおざりにしてものめりこんでみたい、そんな激しい傾斜に身をまかせる時間が至上の風向きであり、これこそ人格の陶冶ではないだろうかと念じた。
満蔵の声色がたとえあざとさを押し殺したものであったとしても、駆け引きなしの熱情に火は盛る。
他人である今西家の人々の裡に流れる血の赤さを見極めたい、そしてこの奇態なつながりの向こうにひろがる鮮烈な真相へたどりつくためには、多少の犠牲は必要だろう。
「お断りする理由が見当たりません。ぼくにできることならなんでもやるつもりです」
張りつめた語調に我ながら驚きながら、しかしこの返答はあらかじめ予期していたに違いない、年端も行かぬ年少の相手に真摯な態度で接しているのだ、それくらいの矜持を保っていて当然である、そう考えてみたものの、焦眉を告げる内心がまるで清冽な湧き水となって空の青みに祝福されるように、破顔をこらえにこらえたあげく憂いの涙をうっすらにじませた形相を間近にすると推量がいかにつまらないものか思い知るのだった。
相手の身支度を待っている素振りなのか、それとも核心へと果敢に挑む調整なのか、満蔵は軽く腰を浮かせて一礼してから、深く息を吸いこむと、書斎は色彩にあふれた追懐で勢いよく充たされはじめたのだった。

「まずこの写真を渡しておこう。せがれが撮影したものです。この十枚が全部なので」
幸吉は案外落ちついた面持ちで一枚一枚に眼を通し、
「はい、ぼくとあの女優だとわかります」
あこがれのひととも会話を懸命に思い返そうとしている自分に頬を染めてしまい、感無量の境地をさまよう柔弱をはね除けようとした。だが、念いは一枚の葉より遥かに風の抵抗を心得ており、今西を詰問したことや、方便と疑ってみたこと、ひいては満蔵の威圧に腹立たしさを覚えたことなどが呼び起こされ、そしてやはり重厚な儀式の果てに明暗はある面影をあぶりだしたのだった。
「ネガも確認しますか」
「いえ、大丈夫です」
すると満蔵は懐中からおもむろに別の写真を三枚とりだし、
「これは送ってきたものですけど」
それを凝視した幸吉のとまどいには怒りに似た悪感情が発生していた。
わけは明白でない分だけ動揺に絡めとられ、悲愁の染みこんだ錯綜したあわただしさに甘んじるしかなく、とても質問する余地などありえない。
怒りと哀しみの所在は自分だけの為ではないのだ、かろうじて独断から後退したものの、あとは満蔵を放心の眼で見遣るだけだと気づけば、そのときカーテンの隙き間から昼下がりの陽光が鋭く床に差しこみ、再度あらたな決心で胸はいっぱいになる。
光の虜になったはずだった。もう夢想の出る幕はしばらくないだろうし、未開の地に足を踏み入れた高揚だってそう食後の濃いお茶みたいにすすって味わえるはずだ。回想は間違いなく約束されている。
間弓を心の中から消しておこう。あの接吻は満蔵の計らいであり、彼女の本心でもあったのだ。いよいよ本番の幕が開く、一心同体の演劇から導きだされるのはもはや喜劇だけにとどまらず、怒濤の魅惑に駆り出された怨念うずまく舞台になるはずだから。

「呉乃志乙梨、本名は灰田正枝、私の実の娘です。認知はすましているが正式な籍に入っていない。しかしいずれ今西の姓を名乗ってもらうつもりです。まだ少年の君には重い話しかも知れないけど、私は運命を感じたんだ。志乙梨の母はここにいるふたりの子供たちの生みの親ではなく、私がある土地で知り合った女性なのです。運命という言い方は身勝手に聞こえるだろうね、ふたりが生を受ける以前に別の腹から誕生した長女の存在、社会的な立場はむろんのこと、今頃になって事実を明かしすべての環境を乱そうとしているのだから。君の訪問を先んじて願っていたから興信所を使って調べさせ、間弓が首を傾げるほど根掘り葉掘りだった振りは昌昭にもそれとなく心構えを持っていて欲しかったゆえの狭い了簡に他なりません。所詮それらは不甲斐なさのなせるわざです。
間弓が懐疑を抱いているのは見てとれたし、昌昭だって不審を募らせていたようだったので頭ごなしに叱責したまま今日まで打ち明ける機会を逃していました。君が写真を求め訪ねてくるのが近いと感じた間弓は仮病を使ってまで、まったく胸が苦しいのだが緩衝剤の役割をかって出てくれた次第、さぞかしもってまわった面会だと訝しんだことでしょう。しかし薄々ことの真相をたぐりつつあったのであそこまで開き直ってくれたと信じています。
腹違いの姉に憧れてやまない弟の級友、反対に不義と後ろめたさに苛まれている父親の哀れな姿、その光輝を根絶やしにする暗き瀑布のしぶきを浴びた間弓が演じた行為は言うまでもなく、嫉妬に狂った次女の気概を自他ともに体現することだったのです。
いいわよ、カメラは無断で持ち出されたとしても、お父さんの隠し子に夢中なわけでしょう。写真は渡してあげるべきだわ。その後でわたしという存在を知らしめてやる。
まるで亡き母親の悲憤を代弁しているような激しい感情にたじろいだ私は軽々しくなだめることが出来ず、かといってせがれを叱り飛ばす厳格さも欠けてしまっていたので、ほとほと困り果てていますと、不意に妙な考えが明滅しはじめたのでした。それは閃いては消え、現れては去りゆく不穏な幻覚で、どこまでも透明でありながらどす黒い液体に侵蝕される汚れを抱き続けておりました。
志乙梨、いえ正枝の母には片足がありませんでした。婚姻のさまたげになったのはやはり世間体なのです。私自身はなにもかも捨ててしまい、不自由な生活の伴侶に徹する覚悟があったにもかかわらず、屹立とした生命力の賛美する陰で天衣無縫を汚し、隠微な官能に浸り片方の足にしがみついた末、恥を忍んでお話すると、事故で失った四肢の偏りを溺愛した結果、私の肉欲は暴かれてしまったのです。人並み優れてふくよかなのにきつくひきしまった太ももとふくらはぎにすべての愛情が注がれていることを見破った正枝の母は生涯の伴侶などというまやかしの言葉を一蹴し、日陰の身へ舞い戻っていったのでした。
秘匿の経緯をここで細やかに語るべき身分でないことはくれぐれも了承していただきたい。裏の素顔をあからさまに述べたところで猟奇趣味の倒錯のいいわけに終始するからです。またさぞかし悲運をかついで育ったと案じられる正枝の成長ぶりも詳しく話す資格はありません。ただ女優を志した日々にまつわる委細はこれからの案件につながるので是非とも申し上げたい。
正枝は今年、十九歳になります。その母は三年前に亡くなり身寄りもなく天涯孤独、教育者という肩書きの手前、表立って生活を支えることは無理でしたが、手紙のやりとりは生前より絶えることなく続き、特に病魔が冥府から使いを送ってきたと言い出した頃には何度か所用に見せかけ、正枝の将来だけは心配するな、そう執拗なまでにくりかえしくりかえしたのは、私の本心でもあったのでしょうけど、偏愛に弄ばれた不始末を確約させたい母性がそう誓わせたのだ、強迫的な子煩悩を植えつけられたと言えば倨傲に聞こえてしまうでしょうね、それは仕方ありません。
さて、おおよその事情を汲み取ってもらえたと性急ではあるけど、そう判断し、なぜなら君の決意が鈍ることを私は非常に怖れているからで、もちろんその眼を見れば間違いないのですが、かりにここで君が退室してしまうえば私にはもう頼るべきつてがなく、否が応でも慎重に話しを聞いて欲しいわけなのです。そこで修学旅行先における出会いの場面に立ち戻ってみてください。昌昭が持ち帰ったフィルムに即すよう正枝からの手紙がいつものとおり男筆の差出人で届きました。手紙の内容は言うまでもない君との遭遇で埋められており、その前に送ったある重大な問題にはほとんど触れていなかった、嘘ではありません、どうぞ読んでごらんなさい」
生唾をのむ勢いでありながら幸吉は書かれたものに対する興趣より、あのきらめく光線と逆行が織りなした景色を懐かしみ慰撫したかったがゆえ、過去形は丁重なたなごころでひとまずたたみ、轍を走り抜ける満蔵の見解に耳を貸すべきだと思った。それは興奮を静めるあの背伸びがここでもくりかえされ、いや、くりかえす連動によって慎重な意識を持とうとしたのだった。
満蔵が幸吉に頼っているという奇怪な老醜をさとった限り、反対に幸吉は若輩の毒気を指し示すことで満蔵と同じ位置を勝ち取る。そうしなければこの劇場の主役の座を得る栄光はやってこないだろう。忘れようと努めていた間弓のなまめかしさがあらたによぎり、清廉な思惑だけにしがみつくおのれを鞭打った。
満蔵の肉欲を受け継いでいる間弓をなおざりには出来ない、そして長女である志乙梨もまたこれまでとは異なる妖しさで輝く。姉妹として一度も顔を会わせてない実情が幸吉を見晴らしの高みにのぼらせた。妄想はすぐ近くで成就しようとしているではないか、あくまで数式上でしかないが。しかし空間処理に没頭すればいつか現実の質感をこの手で味わえるのだ。
満蔵が細部を省略してくれたことに感謝しなければならない、なぜなら反復の気楽さからうつろいの妙味に飛んでくれたお陰でいろいろな表情が浮かびあがって来たからであった。


[457] 題名:L博士最後の事件簿10 名前:コレクター 投稿日:2018年10月01日 (月) 23時04分

「はじめまして、どうぞ、そこへ掛けてください」
極度にたかまった緊張の糸をほぐす挨拶として、目線の置き場は重力から解き放たれ、その役割を多分に背負っていた。あくまでもの静かな声色は幸吉の居住まいをただし、初見であることを忘れさせ、にわかに模様替えが施された部屋の雰囲気へうつろいながらも、吸いこむ空気の新鮮な感じはまったくそこなわれていなかった。
それどころか、不意打ちであった接吻の刺激さえ緩和されているような心持ちになっているのは、軽い刑罰に似た安気が隣り合わせていて、彼方の雷鳴を間近で知る錯誤へ陥ってしまった証しだと、瞬時に閃いたときにはもう遅く、下校から連なる時間の溝に沿って歩いてきた自分の影はすっぽりふさがれてしまっていた。
が、たとえ満蔵の計策であったにせよ、幸吉自ら乞い願った打擲だったので轍は明白であり、どこまでも澄みきっていた。
この書斎まで一緒だった間弓の芳香へ想いをめぐらすことがいかに素晴らしい所業なのか、生まれてはじめて女体を意識した罪はどれほど深い谷底の闇にかがやくのだろうか、対面した満蔵を見遣るまなざしへ映りこむ書架に並んだ金箔文字の古めかしい背表紙たちが密やかにざわめている。
さらに視線の奥には塵埃を寄せつけない置き物が奇妙な配列でその経年をあざ笑っているふうに見え、印象をもたらすべき主人の背景へ埋没しかけては、好意的な圧迫を醸し出し、白髪痩躯の風姿に必要以上の形容は押し重ならなかった。
もっとも秒針を刻む壁時計の正確な今を識別できなかったことが幸吉の動揺を示していたから、すべては無辺にあったと言うべきか。
しかし時刻は情景を的確に見送っていた。
「せがれが撮った写真の件だが、いきなりでなんだけれど、その方が君もとっつきやすいと思ってね。なにやら私の側から君を招いてしまったようです」
これは風である。
幸吉は秋の気配を肌身にするあのひやりとかわいた感覚を呼び覚ました。そして暑気を打ち払う一陣は幼年より同じ質感であること、刷新されるのは意識の明滅であって、その明滅もまた等価であり本質を揺るがすような原理を持ち得ないと、さきほどの間弓の意見から隔たった思惟にあっさりおさまってしまった。
「どうしためぐりあわせか知らないけれど、まあ、とにかく楽にしてください」
満蔵に対する疑心暗鬼を見抜かれた気がして逆にこわばりかけたが、どこか夢見の領分を得た心地に誘われたのはやはり切り口のせいなのか。いや間弓の前奏が肩の荷を軽くしてくれたのだ、もしいきなりの面会であったら不協和音に苛まれてしまい、きっとこんな気楽さは微塵も生じなかっただろう。
秒針に挟まった心象はうまく働いてくれたのだったが、凍結はねじまきの指先から始まっており、風は冷徹な素性をあきらかにしていった。
では、あの媚態とも明朗な色情とも呼べる儀式はどのように取り仕切られたのか。
満蔵の指示だとすれば見渡せない演劇性を帯びてくるし、もし間弓本人の意思であったのなら底抜けな二幕の喜劇が開く。
いずれにしてもこれまで経験した試しのない身にとって、足場をさらわれた舞台は自由の剥奪と同じこと、しかし八方ふさがりを悔やむ無念は捨て去るべきであり、甘んじて真正面に突っこむしか方便がない。
書斎の採光はカーテンと電球笠によって調整されている。
外光の取り入れは日常的な快闊さとは無縁の使命を受けているようで、それは煌々と書籍を照らす濃い朱の光にこそ限りない信憑を託していた。
幸吉はこの灯りの虜になろうと努めた。
「間弓を客間に行かせたのは私の考えでした。昌昭を叱責した手前、君も萎縮しているに違いない、それにあんな代物を撮ってくるなんて思ってもいなかったもので。つまり被写体の面影を沈黙させてはおけなくなった、恋情をいつまでも隠してられないように。そこで間弓にはほとんど話してしまいした。どうです、ちゃんと話してくれましたかな、むすめは」
「こちらこそお気遣いいただき、ありがとうございます」
ようやく返答ができ、感謝の意を述べた幸吉は悦楽的な希望が沸々とあふれだして、あの女優との邂逅に匹敵する興奮と陶酔を禁じ得ることが出来なかった。
だが、幾つもの山々を越えゆくような想いや、輪郭を描きだそうとしては入り交じりとけあう白雲の願い、地上から浮き離れ、星屑に紛れるあてどもない夢想へこれまで手を触れたことは一度もなかった。
いくら満蔵が奇縁と呼ぼうがめぐりあわせは由緒ある瞬きでしかなく、間弓の行為がなければこれほど切実な感情のほとりに立っていられようか。
慎重なそして穏やかな口調で満蔵は語りだす。それは前奏曲をさらに奏でる細心の発露かも知れないが、失われた恋情をやわらかにたどる瞞着にも聞こえた。
そうしたくぐもった音像にしか向き合えない理由を幸吉ははっきりわかっていたので、満蔵を気疎いと感じるよりむしろ先々に話頭を転じられないだけ、寸暇を惜しむようくちづけの場面に立ち返ることが可能だった。
唐突な間弓の態度はもはや麗しき様相で彩られ、すべてがその瞬間へと蟻地獄のようにすべり落ちていった。無名の女優に憧れた結果、実際の出会いがあり、小賢しくも深い欲望に突き上げられ撮影してもらった写真が間弓のくちびるを小悪魔に変じさせたのだ。
すると海岸沿いを知らしめる潮騒が、夜の遠い汽笛が、晩夏を謳い揚げるこおろぎたちが、当たり障りのない情景に宿っているごとく、幸吉の肉体は不都合な焦りをしめやかに認めはじめた。
修学旅行における奇跡が無常と紙一重であり、狂熱の風化に従わざる得なかったのは一概に後の障碍ばかりではなく、雄としての自覚が薄かったからである。
銀幕に映し出される以上の光栄だったにもかかわらず下半身はかき消えている。初恋のゆくえを追えない実際と同じく情欲の見通しさえ立ち現れなかった。
不良めいた先輩たちから聞き及んだ淫らなおこないに好奇心を働かせ、妄想を頼りにして自ら快楽に没したけれど、熱風にさらされなかったのはどこかで醒めていたからで、その由縁を問えば問うほどに冷徹な世界の肌触りを覚えるばかりであり、しかもその肌触りは脳裏へ瞬く硬質な加減でしかない。
それでも書斎に射しこむ光線の強弱を見届け、書架を埋める本にいわれを求めたくなる意思をよぎらせた幸吉は、かなうことならもうしばらく満蔵が前奏をより明細に反復してくれることを願っていた。
間弓の顔が能面のように古風な面差しをたたえ、ふたたび間近に迫る予感を描きながら。


[456] 題名:L博士最後の事件簿9 名前:コレクター 投稿日:2018年09月04日 (火) 03時48分

普段着へ無造作に重ねられた薄いレモン色のカーディガンが妙にまぶしく感じられたのは、ついさきほど知りえたばかりの間弓に関する話柄が真新しかったこともあるが、それはくちびるまで血の気がひいた蒼白な面様に疾病の証しを見つけたからだと幸吉は察した。
案の定、今西が出ていった扉の方へゆっくり目をやりながら、
「昨日から風邪気味で学校は休んでいるのよ。こんな格好でごめんなさいね」
と、まだ動悸のおさまらない幸吉を擁護するふうなやわらかな声遣いを用いた。
今日の流れに照らし合わせてみれば、どうしても劇的なかがやきに護られた激しいしぶきを浴びくてはならないので、もっと重篤な悲劇的な実情を推し量ってみたけれど、日向へのびたこずえにさえずる明朗な小鳥に似た声音はまがい物に聞こえず、半ば失意を覚えたものの、それは胸騒ぎが静まる快闊な予兆だと思われて、我が身に降り注いぐすがすがしい驟雨の出だしと認めるしかなかった。
不意打ちであろうとも、双生児のような相貌で立ちはだかろうとも、この情況は単なるめぐりあわせでない。むしろ野蛮なくらい武骨で冷めやらぬ刺々しさを有しており、幸吉のささくれ立った胸裡にうまく融合した。
いばらとは無縁の声色はこう続いた。
「やはりどうなのでしょう。わたしと昌昭はうりふたつなのかしら。あっ、手間はとらせないから。ほんの少しだけ、約束するわ。お父さんのことは弟から聞いていると思います。ああいうひとだからいきなりよりもなんらかの予備知識っていうのかな、その方が了解しやすいのじゃないですか。いらないおせっかいかもしれないけど」
幸吉は満蔵氏といますぐ面会するより、あらかじめ定まっていた間弓との前ぶれが十分に楽しくて、しっかり首を左右させながら、
「とんでもありません。お姉さんにはきっと考えあってのことですから、僕はうれしいです。なにかうれしいです」
飾らない言葉が突いて出ると同時に、小さい頃より兄弟のある家庭をうらやみ、とくに大人びた雰囲気をなびかせている架空の姉の存在を夢見たことを想起した。
そこには常日頃の口やかましい母のしつけもなく、同い年ほどの女子の平気で憎まれ口をとばす男勝りもなく、まるで裏庭の抜け道に通じる秘密の花園がたおやかに香っている光景のみを描きだしていた。
上背にならった長い髪を斜にそよがせ見下ろす優しい目線、くちもとには甘い笑み、耳を澄ましているときに生じる眉間の影、日焼けを避けた肌に浮き出す静脈の青白さ。幸吉は連想の気ままが現在に根ざしていることをあらためて知り、ふたたび恐懼を覚えたけれど想念のはばたきは嵐より獰猛であった。
「そう、よろこんでもらえるなんて、わたしもうれしいわよ。で、どうなのかしら」
「すいません。やはり似てると思います。正直、腰を抜かしそうになったくらいです」
間弓は風邪気味とは見えない体力をしぼりだすようにかたく腕組みし、
「でもお互いはぜんぜん似てないって言い合ってるのよ。お父さんも。近所のひとたちや親類はね、わたしがその件に触れると怒りだすので口にしないけど」
と、体力どころか知力までひねりだした顔つきで断言した。
一人っ子の幸吉には間弓の煩悶を解しかねたのだったが、愛憎すら未知の領域にあずけながらも、拒絶反応に近い感覚はどうやって育まれたのか、なにかしらの要因が近親憎悪を培っているのかなどと、いつもの空想を泳がせてしまった。
「あなたの級友はどうです。先生は、道ゆくひとは、犬や猫なんかは」
間弓の形相がみるみる間に険しくなり腕組みを解いたので、言い過ぎたとうなだれてしまったのだが、
「思いこみって分かる。この世はほとんど思いこみで成り立っているのよ。だから別に犬や猫にまで釈明しなくてもいいわ。あとも一緒、思いこませとけばいいのよ。わたしが違うって思いこむようにね」
急に認識論的な話頭に転じたふうに受けとった幸吉は、
「たしかに同じものでも見方で変化します。ほとんどが自分にとっての都合ですけど」
そう答えるのが同調であると見なしてもらいたい、ここで間弓の機嫌を損ねたら予備知識とやらがうやむやになってしまう怖れがある。ようやく冷静を取り戻した自分に奇異な念を抱きつつ、どうした願望に突き動かされこの家を訪ねたのか、もう一度よく思案してみた。
そして時間を裂かないと言った間弓の質問は終わり、あとは空想に色づけた姉の柔和な微笑みが道先案内を担ってくれるはずだ。
とにかく静かに耳を傾けよう、決して驚きや不快にとまどうことなく。
しかし「わたしは高校一年なの、お父さんはすでに定年退職、どうです。年の差を考えなかったですか」
と、始まった今西家にまつわる秘話が展開され、幸吉は約束とは異なり果てなく家系図をさかのぼるような煩瑣の予感に身震いしたのだったが、どうやら律儀は血筋であるらしい。もっとも弟を退室させてまでの会話である以上、それを選んだ間弓は聡明な女子に違いなく、容姿にかかわる見解もふくめ無駄のない要領を得た話し振りであった。

ことの発端は紛れもない、幸吉が今西に撮影させた写真である。
校則違反と無断拝借に関する叱責までは想像通りであったけれど、幸吉が邪推した屈折の面目保持のくだりはほぼ杞憂であった。結論からいえば面目などまったく関係ない、問題は女優の面影につきる。
そして不思議な危うさはちょうど綱渡りの要領で空中に浮き上がった。
昌昭の泣き落としに乗ったふりをして撮影におよんだ経緯を聞き出した結果、とても興奮をおさえきれそうもない満蔵はしばらく思い悩んだすえ、間弓にそっと写真を見せたのだった。
間弓はすぐこの顔は亡き母親の若き日を彷彿させるものだと察知したのだが、小学へ上がったばかりの記憶は随分と霧が濃く、情感を震わすほどの感銘を得ることができない。しかし、教育熱心で学術にも造詣の深かった父が婚期を逸した由縁は叔母からそれとなく聞かされた覚えがあったので、その悽愴な心中に立ち入れないまま、早世が引き起した結婚生活の短命に燃えるような念いを重ねている老境を理解するしかなかった。
ふたつ年下の昌昭に想い出はあったにせよ、眠りの瀬は浅いが早い。
決して放埒な息子に憤慨し毛嫌いしたわけではなく、浅い情愛で接したのでもなかった。深みまではまりこみ意識を開花させるのは満蔵自身にとっても至難であり、辛い作業に終始する。
十枚の写真はたった一枚を残してあとはみな感光していた。だがよく目を凝らすと明確に写されたものと同じ場面がなんとなくうかがえる。それはほとんど感じるというべきだろうか。逆に目を閉じると白黒の明暗に面影が浮かんでくると熱っぽく話した。
そのとき父の目が鋭く光ったのは思いこみの仕業であり、あたかも焦点をしぼりこむ細めたまなざしのせいだと間弓は信じた。
だが、満蔵はまったく別様の方角から矢を射ったのだった。鋭さの痛みを間弓は知ることができない。
「このひとはね。おまえたちのお母さんではないんだ。でもどことなく似ているね」
不治の病で亡くなった母とは違ううら若き女性。
満蔵はそれきり先は自分ひとりの胸にしまっておくつもりなのか、それとも夢遊病者が白日に彷徨ういわれを刃こぼれのように示してみただけなのか、いずれにしても息子の級友があこがれてやまない女優を語ることに意義を見出している様子である。
そして父もかの女優が出演した映画を観ているとまで言っているのだ。幸吉は直談判などと気構える必要はなく、ただ遠まわりの足取りを、不用意でありながら必然である円環をたどればそれでよかった。

幸吉はいっさいの問いかけを忘れたように間弓から予備知識だけを抜き取った。すると更なる問いがくちびるをふさいだ。
あまりに突然だったのでその感触はきわめて素早いとしか言えなかった。初めての接吻、微かに舌先がなめくじのようにぬめっていた。


[455] 題名:L博士最後の事件簿8 名前:コレクター 投稿日:2018年08月28日 (火) 02時56分

おおよその見当はついていたけれど、生まれ育った町並みが織りなす佇まいの印象は希薄であり、特定された道のりに沿う足取りだけが日々を克明にしている。稠密であればあるほど浮き立つものは淡く、よそよそしさをまとって、さながら予定が記されていないカレンダーの余白みたいなのっぺりした律儀さを感じさせた。
自宅へ訪問すると決まればそれまでの葛藤は、遠慮勝ちな面差しであとずさりする少女の警戒心のごとく遠景へとかすみ、代わりにおぼつかない想念が乳白色のまま静かにこぼれだす。
投げやりめいた乱逆なのか、果敢な企てなのか、鼓舞に続く言葉は路上で立ち止まってしまい幸吉をわずかだけ怖れさせた。けれどもたぶん今西の寡黙は思いつきというより、ごく自然な風景のひとこまをたどりその底辺へ沈みこんだにすぎない。
そうなると半歩遅れでしたがう幸吉の視線は見慣れた景色から解き放たれ、乳白色の液体が短時間でとろみを得るよう、清廉と緊迫の交わりから不意に色情がもたげるよう、淡白な気配は余白に覆い被さり、幼い時分に目にした父親の指先でむかれるゆで卵の殻とその湯気を含んだ白身へ向っていった。
半分くらいまで殻を除いてからでは遅いの、その方が食べやすいのでは、まるで駄菓子でもむさぼるふうなゆで卵を手にした父のすがたが薄い皮膜を通して見えてくる。
皮膜は雲間に翳った夕陽がはらむ赤茶けた、しかし池底に透ける鯉の背に似た落ち着きを保ち、無邪気な焦りが子供ながらに理解され、気狂いの公平さと抱擁の破れみたいなものに共感した。
同じあんばいで父は夏の盛り桃をかじっていた。
たしかにゆで卵と異なり、したたり落ちる果汁で手を濡らす暇があったら果肉を味わいたい。幸吉は父に倣った。そして母の火照った柔肌の感触を思い出そうとしたところで、まだ知らぬ今西の父親の顔にすげ替えられた。

歩調に乱れはなかったが今西も幸吉同様、心中は千々に乱れていただろう。やがて案内人の風情を宿したうしろすがたの静止した影に息をひそめたとき、目的地が眼前に現れた実感を地面から受け取った。
元校長という肩書き、その肩書きをあますところなく役立てようとする息子の性根、反面、校則を平然と破ってしまう粗放はあまのじゃくのひとことで済みそうもない。
今西家の門構えは旧弊に守られつつ、あえて瀟洒な風通しを望んでいるのか、もし夜鳥のはばたきを求めているのなら、左右ほぼ均一にのびた黒塀の陽射しをこばむ暗さは的確な意想を汲んでおり、そして日陰に棲む静謐を愛でるのであれば、よこしまな理念は反面教師としての努めを果たしているように見える。
それから紋切り型ではあるけれど、見越しの松が放つ濃緑さは華美壮麗でもなく、かといって雑然とは呼び難い手入れ具合を知らしめる枝ぶりであり、放恣を感じ取ってしまうのも一興、主人の性質がさり気なく映しだされているようで、また陽光の加減を自在にのみこみ、はねかえす瓦屋根の端正な平行線は間口の意向へ沿っており、家屋全体にただよう重厚な気配をより高めている。
表通りに面していたにもかかわらず、指折り数えてみても足りないほど路上を過ぎゆきて来たにもかかわらず、ここが今西の住居である事実を認めていなかったことに複雑な思いを抱いた。
すると先ほどの寡黙さは意図されたものではないかという邪推が新たに脳裏をかすめ、黒塀に吸いこまれそうな気分を素直に受け入れるしかなかった。たとえ今西から幽かな微笑を送られても反感はやってこないし、それよりも門口に張りつけられた風雨の荒くれをじっとしのいできたと思われる木目の濃いすすけた表札に深く刻まれた姓名を凝視した。
「今西満蔵」

幸吉は玄関を上がると海老色をした廊下を歩きながらその光沢が家屋に射し入る光線の仕業であることに感心したけれど、あまりに明朗な彩度が目の錯覚なのか疑ってしまうと、どうも塗料が施されていて本然ではなさそうな技巧であることに気づいた。
それから長く果てのない回廊をめぐる夢の模糊とした記憶が押し寄せてきたが、冷静に判断してみたらあまりに自分の家の造りと別格すぎるので、ちょうど名刹などへ足を踏み入れた際に襲われる粛然とした感覚を招き寄せたのだろうと了解した。
その了解がいまここに立ち現れている現実だった。
級友が語った抵抗と興味を額面どうり信じていいのやら、はたまた初対面とはいえ、もとを正せばことの顛末はすべて自身が引き起した夢見である。
満蔵氏がこころよく迎えてくれるとは考えにくい。なんらかの叱責をちらつかせ家風とも家訓とも言えそうな重圧を授けてくれるだろう。それが大義であるとの認識を植えつける義務があるからこそ、学業優秀の聞こえをふさぐことをせず、渋々かつての教訓をひっぱりだして名誉が錆びつかないよう躍起になっているのだ。
息子の節度をとがめる代わりに過去の栄光を取り戻さなくてはならない、そのためには駆け引きも辞さない、もっとも現職の身ではないからあくまで息子への叱咤を懸命に演じ、屈折の光源を証明してみせる気概にあふれているだけなのだが。
幸吉の情動によって運ばれた奸知と、満蔵氏の名分がここで一致した。
だが、今西をそそのかした詭弁に近い言い分であった共通点とはこれだけの、あまりにも面目重視のことなかれ主義だけで終始してしまうのか。
これより先のある未分化な意識を明瞭にすることは出来なかった。それは不思議と、まさに不思議な危うさを抱えこんでいたから。
海老色の廊下、かびと煙草の匂いが溶け合った客間、書斎に引きこもる旧態の影、時間は歓びを叫んでいるはずだった。
序列、順番、段取り、憧憬、恋情、邂逅、想い出、記録、明証、そして反駁。
だが、歓びはねじれを欲した。
幸吉は満蔵氏に会うより早く、客間で今西の姉と対面し、その容姿に度肝を抜かれ腰から砕け落ちそうになり、修学旅行以来、見せることのなかった級友の破顔を目の当たりにしてあたかも薄明のなかに歩み寄る魔物のただならない空気を嗅ぎとると、書斎に居座る父親より遥か瘴気を巻き散らかしているように思え、すべてを掌握しているのは他でもない、この双子と見紛うくらい背丈体型まで似せた弟と姉の面貌であり、しかし驚嘆のうちにも姿形とは別次元の性格が配分されていることを直感したのち、あぶら汗を意識しつつも、「いたら悪いのか」って意味はこういうことかと目配せで今西に訴え、相手の説明を拝聴する心構えを身振りで伝えてみたのだが、以前であれば通じたはずなのに、的中した直感の証左を反対に諭される調子でそれは覆されてしまったのだ。
「はじめまして、昌昭がいつもお世話になっています。姉の間弓です」
まったく予想していなかった場面ではあったけれど、さすがに男女の声色の差異はくっきりとしていた。
そんな当たりまえの事実が何にも増して幸吉を平静にしたのだった。けれども今西が客間から事務的な身のこなしで出てしまい、間弓とふたりきりになった途端、平静さは崩れ去った。
「お父さんに会うまえにわたしから少し質問させてもらいたいのですが」
そのつぶらな瞳は曇りガラスを磨きあげたような新鮮さを主張していた。


[454] 題名:L博士最後の事件簿7 名前:コレクター 投稿日:2018年08月20日 (月) 06時45分

天使の舞い降りた夢幻を雅やかにたなびかせる思惑が微かにゆるむ。
そのゆるみは歓喜の覚めやらぬ情念によって支えられているものの、明徴な輪郭が描ききれない虚しさは記憶の有効期限を知らされているようで、どうしてもあらぬ諦念を引き寄せてしまう。
修学旅行先でのめくらむ遭遇に対し、幸吉が瞬時にとった判断のなかでそれら二重奏はすでに鳴りわたっていた。
今西の不始末により自分の蒙昧さを気づかされたとはいえ、わずか数日で放埒な望みが顔面に居座り、更なる意向が芽生えた。それははじめて自分のいん毛を意識したときのむず痒さを想起させ、同時に巻き起こった溌剌とした気分を甦らせたのだった。発育の事実に気恥ずかしさはなかったけれど、肉親にも友人にも伝えたくないちょっとした内向的な想いが妙に心地よかったりして、あたりの風景はやんわり狂った世界に映った。
萌芽は素性の分からない狂気とは反対に奸知を働かせている。
それが相反する神経組織のなりわいだとどことなく理解されたのは、世の中を見通せない、ただの知識や限られた情報が織りなすのりしろだったろうし、未分化な意識を背負っていたからで、ことさら深い考えに駆られたわけではなく、むしろ欲求が速やかに汚れを払いのけ、希望へと結ばれていたからである。
今西の自宅を訪ねたことはなかったが、不意に今すぐこの機会を逃してはならない情動に駆られた。
「これから君の家に行っていいかな。きちんと弁明までしてくれたから、どうしても難問にとりかかりたくなってきた」
さすがに今西は驚きと不審の顔色をとっさに作り、
「親父に直談判でもするつもりなのかい。それはどうかなあ。言っただろ、とても頑固だって、つまりとても気難しいってこと。君の探検心は分からなくないけど難問もいいとこだよ」
と、はなから迷惑な心根をあらわにした。
「だから好都合なのさ。頑固者って大人子供に限らず、根はしっかりしてるはずだから触れられたくないことはよろいでまとっているんだ。で、反対に触れられたいこともしっかり抱えている。しかしひとを邪険にするからにはそうそう内密のことがらは自分から言い出しにくい。これは直感というより案外さらっとした思いつきなんだが、僕と君の親父さんにはある共通点があるように感じるんだな。だって僕のことを親友だと説明したんだろ、それでほっとけばいいのに写真の件を少しだけもらした、とても律儀にね。いやこの場合、父上にとってもある律儀さから放棄できない何かが閃いたに違いない。実際の君に落ち度はないよ、校則違反と無断借用はあくまで別の問題であって」
そこまで勢いよく喋りだした幸吉をさえぎるよう今西は憤慨した様子で、
「ずいぶんじゃないか。落ち度がないなら君の方が黙って引き下がるべきなのにまだ巻きこむつもりか」
そう語気を荒く拒絶の意を示そうとした。
幸吉はもう一度、おだやかな笑みをたたえ相手の瞳をのぞきながらこう言い返す。
「巻きこみねえ、君だってあの写真を確認したいんだろ。それで親友なんて話しをもちだしてくれたわけだろう」
勘の鋭い今西は舌打ちこそしなかったけれど、頭脳の切り替えを余儀なくされた。そしてあくまで迷惑を被っているのはこっちだと顕示したかったのか、わざとらしい負け惜しみをもらした。
「あれこれ詮索されたよ、君のことを。学年で常に成績最優秀、品行方正、それ以外特に目立ったところなし、そういうふうに答えておいた。姉にも問いかけてきたそうだ」
「へえ、お姉さんがいたのかい」
「いたら悪いのか」
「つんけんしなくてもいいじゃないか。しかし、そこまで関心を」
「さっきの直感が正しいかもな。親父の目つきは険しかったけど、内心では会ってみたかったんだろう。姉に情報を得ようとしたくらいだから。どんな風貌なのか、住まいは兄弟はいるのかとかね、たしか一人っ子だったよな君は」
幸吉は希望の光を浴びながら捷径をためらわなかったことにふたたび安堵を見出した。
その途端あこがれの面影を蹂躙しているのでないかという嫌悪が胸のなかに渦巻き、奇麗な記憶はそのままに、手垢のつかない透明な額縁へ収めておくべきだという清さに流されそうになった。
そして丁重な扱いはつまるところ反意を裏越している仕草であって、実相にはまだ浮かびあがらぬ隠微な薫香がくすぶっているような気詰まりを感じていた。が、ときめきは新鮮さを失わずあいまいな感興のおもむくまま、霧がかった道のりを歩む。
動悸がひとごとみたいに高まるにつれ、舞い降りた邪気を正面にすえ意識は堅牢な立場を保とうとしていた。
「とにかく当たって砕けろだ。これから連れて行こう。親父は書斎に毎日こもっている。」
威勢の好い今西の言葉は曇りガラスへ射しこむ西日のようにほの明るく、空疎に聞こえた。


[453] 題名:L博士最後の事件簿6 名前:コレクター 投稿日:2018年08月07日 (火) 05時00分

それからのひとときを思い返すたび、幸吉は月日の過ぎゆきと風化をやんわり押さえつけている自分に出会った。
風化するべきは舞い上がった気持と背馳する行為を願っていたこと、そして日頃から親密とまではいかないけれど、こころの隅の方であの女優に寄せる憧憬をひっそりと打ち明けてみたかった同級生、今西昌昭との因縁であろうか。
あまりの感激にひたされたまま握手を終えた幸吉は、おそらくこれまで生きてきたなか一番口べたであった。追思からめぐってくる情景には今西の好奇に満ちたカメラ目線が否応なくこびりつき、感激の純正さもあざとく磨きこまれた皮靴がてかるふうに光源の由来をいくらか損なわせていた。もしあのとき今西に撮影を無理強いさせなかったとしたら、真摯な純情は薄らぼやけた少年から脱皮させ、陽射しの求めに応じた等身大の影をあこがれの上背に重ね合わせることが出来たかも知れない。
実情のへだたりがあろうとも声援の語勢には優美な姿勢が現れ、幸吉は二度と訪れない奇跡の立会人になれただろう。しかし貪欲な思惑はこのあと、まったく及びのつかない方向へと拍車をかける結果となった。
口べたと同時にあれこれ交わした会話の端々は欠落だらけで、かろうじて覚えているのは、
「修学旅行なのね。わたしは同期の友人を訪ねてひとり旅なの」
長いまつげを下げながらそっとささやくように、わずかな寂しさをにじませながら、さきほど雑誌の切り取りをもう一度ひろげるよう、が、それは手つきのみで示したのか、言葉が添えられていたのか判然とはせず、ただ、近くの売り子に新たな笑みを寄せ、
「ちょっとペンを貸してくれません」
そう求めながら、
「サインを受け取ってね」
と、まるで身のまわりの世話をしてくれる母親代わりの姉みたいな物腰で、幸吉の了解をやわらかに先まわりしてくれた歓びだった。
もうすこし大きく、言いかけそうで言えなかった内心を幸吉は恥じらいと何かが交錯しているまでしか、理解できなかった。
やがて踵を返したその背中に対し、さようなら以外の文字が浮かんでこない自分を呪ったのだが、まさかあの様なかたちで鏡面の影を見ることになるとは。

売り場の軒下をさらってゆく雲間のまぶしさは季節に準じていたのか、旅情が溌剌とした若さをかもすより敏捷に、そして大胆に駆けてきたのは共犯者の面持ちを多分に張りつけた今西であった。
「いったい誰なんだよ、今のは。サインなんかしてもらってさ。だいたい予想つくけど、この貸しは安くないよ」
鼻息荒いのも隠せないくらい今西は興奮している。
「予想通り、ところでちゃんと写してくれたのかい」
幸吉はすすんで共犯に連なったわけでもない今西がいつになく気位を投げ捨て、歩み寄ってきたことに軽い反撥を感じた。その直後、たった今まで奇跡の箇所だったのが嘘のように消え去ってしまい、反対に見苦しい欲情が角を出しはじめる威勢に縛られ、ついつい冷酷な指令を呼びとめる口調を弄してしまった。
しかしすべては過去形でしかいない、などと大仰な考えをよぎらせながら、さながら天界をめぐりようやく地上に降りてきたような感覚に戻り、女優に関するあらましを今西に語って聞かせた。
もちろん本当の情熱はおもてに出さず、あくまで思春期を正確に微分する調子で、青臭さや狂躁に距離を保っている余裕を含ませながら、より興趣を煽ったのだった。
この算段は今西が持ち合わせている知性と情操を十分に刺激したと思われる。
「なるほど、そうした事情ならばっちりってとこだな。君の浮かれた顔もついでに撮っておいたから学習したまえ」
本当は根掘り葉掘り聞き出したい心境だったに違いない、が、かねてからの屈折した友誼はちょうど遊技場における少年らしい気移りに従って、いや、まさに現在それ自体が修学旅行先であるという事実に虚もなく揺られ、今西は計画に裏づけされた別口の楽しみへ帰っていった。
うらはらに幸吉は背筋をいく筋にも垂れていた冷や汗へようやく意識をやり、ほっと胸をなで下ろした。そして過去が未来へと大きく羽ばたきながら飛翔してゆく幻影にとらわれ、まわりの風景は夢に没するのだった。
そうした成りゆきを見送ったのはやはり正午の太陽である。
記憶にあるのは昼食後の自由時間、そのあまりに自由過ぎた時間を占拠しためぐりあわせこそ、めくらむ陽光が仕掛けた強度の計らいであり、帰り際にかいま見せた伏し目がちの表情が薫らせる切なさだったのだ。
すべての罪は鮮烈な影絵を生み出した空の高みに他ならない。

学校での授業が普段通り始まってから幸吉は逸るこころを見抜かれない素振りで今西からの土産を待ち望んでいた。
フィルムの現像が仕上がってきてよさそうな期日を数える毎日であった。しかし今西はことさら幸吉を避けている様子がうかがえ不審に思っていたところ、間を置かずとんだうわさが流れだしたのだった。
私物禁止の校則は極めて平等にゆきわたっており、カメラを携えた今西は処分こそなかったものの厳重な叱責を受け、しかもそのカメラは父親に無断で拝借していたことが判明し、家庭でも大目玉をくらったというのだ。
たやすい請け合いでしかない相手を糾弾する権利などむろんあり得ず、神妙な顔つきに見えてしまう今西に問いかけるのでさえ、幸吉はためらわれた。神妙であればあるほど自分の胸にわだかまるものが失われゆくのだけれど、情況の反転した以上、執拗な接近はあの天上界の飛翔を台無しにするどころか、根底から美しいなにかを総ざらいしてしまう危惧が働いて、身の動きは封じられてしまったかに感じられる。
日々の授業の間、一度だけなにかの拍子で今西と目が合い、そのもの言わぬまなざしに幸吉はふたたびおののくしかすべはなかった。
が、今西の側でも平素の快闊をなくしたままでは成りたったなかったのだろう、幸吉の想いが煩悶におおわれ始めたころ、ようやく今西が口を開いてくれた。
期待であれ失望であれ、生唾をのみこむような焦りを痛感し、よく観察していないにもかかわらず、その面差しが一種異様な雰囲気を宿しているのが見てとれた。
「君にはすまなかった。規則違反はともかく、親父がさっさと現像してしまってさ。だったら見せてくれたっていいじゃないか、するとほとんど感光して話しにならんから捨ててしまった。これは嘘だと思ったよ。あのケチな親父は書き損じの反古だってしっかりしまっておく正確なんだ。それにこっちも言い分があったわけ、修学旅行の記念だし、あと親友からも他からも頼まれていたんだってね」
今西はなんともむず痒いしわを額に寄せ、詭弁を承知で語っている自分を認めさせようとしている。対する幸吉は今西のもの言いが良いのか悪いのか分からないまま、続きに耳を傾けるしかない。ふたりは心得ていたのだ。
「ケチで細かいのが難だけど、親友からの依頼という部分がどうもひっかかったみたいでさ。律儀なとこもある。それで」
「それで」
思わず電柱を嗅ぎ分ける犬の鼻孔のようにせり出すと、今西はやっと笑顔を取り戻してこう話した。
「とりあえず君の写真は見づらいけど保管してあるそうだ」
「それで女優の方はどうなったんだい」
「まあ落ちついて聞けよ。それがだな、僕にも見せてくれないんだ。どんだけ頼みこんでも、こんな代物は子供には不要の一点張りで、お手上げ状態というわけ」
「で、君はどう思う」
「どう思うって」
「なぜ親父さんはそんなに頑なになるんだろう。その理由だよ」
「わからないね。あっ、もうひとつ難があった。ひどく頑固だってこと」
幸吉に笑顔が飛び移った。
それは難攻不落に面した絶望のひきつりなどではない。言葉にはしかなかったけれど、今西にこう言いたかった。
「君は最高の親友に違いない」
もとよりくっきりした眼をした今西の瞳がさらに大きくなると、幸吉の不可解な安堵に首をかしげた。
その瞳の奥には不敵な微笑が反映していた。


[452] 題名:L博士最後の事件簿5 名前:コレクター 投稿日:2018年07月31日 (火) 04時19分

男子にしろ女子にしろ生徒たちの目もとからはあこがれの光が放たれていた。
記憶の奥底から照らし出されるのは細やかな情景を背後にまわした先走る時間だった。むろんこれは幸吉の所見に焼きついた事象の域を脱し得ないけれど、おおむね思春期の明るみは曖昧であり、陰りは細密である。
そして予期せぬ事態に直面した脳裏は素早いひらめきを勝ち取ると同時に、まわりの意想を均一にしてしまい、おのれの願望のみを明るみのなかで瞬かせた。
闇は当然走りだし、何故かすでに卒業していった先輩らの、特に不良っぽさを匂わせていたにきび面の悪童らの、卑猥なうわさ話しが上質な袱紗に包まれる。それはあたかも暗がりを頼りに集う蛾の鱗粉のように生彩な紋様できらめき、均一であったはずの思念を無造作に揺さぶった。
今でも幸吉は霞がかった痴情にこそ至福の色を嗅ぐ。
しかしそのときの幸吉はことさら色気に惑わされたわけではなく、あまりの唐突さに身震いする間もないまま、下半身を理知で直立させ、憧憬と澄みきった恋情を胸部より押し上げようと懸命になった。結果、育ち盛りの心身は的確な行動へ踏み出そうと努めた。
ときめきの女優は映画の撮影でここにいるのだろうか。いや撮影の合間に土産ものをのぞいているのかも知れない。ほかの関係者は近くに、あるいはひとりだけで、それともたんに旅行で訪れたのか、いずれにせよ、情況を大至急のみこまなくては。証しを得るのはもう思いている。あいつがいい具合にちょっと向こうで背を向けているじゃないか。
幸吉は瞬時にふたつの場面を想像した。
そして段取りは思いたつ以前で確定しており、さながら光源を絶対に見失わない自信みなぎる視線ととも、足取り速やかに同級生の背中へ近づき、精一杯落ち着き払った声色で、が、視線を分配している怖れを隠しきれない表情で懇願した。
「訳はあとから言うから頼む、一枚写真を撮ってくれ。ほらすぐそこさ。あの女性だよ、ここからでいいからなるだけあの顔がはっきり写るように。僕は適当でいい、ふたりして並んで見えればそれで。頼んだよ」
そう言い放ってみてから不意に拒否されても仕方ないと、陽だまりに落ちるような枯れ葉の光景を了解した。一方で我ながら機転を働かせたのかも知れない、そんな自負が幸吉の足もとに軽く響いた。
別に証明は欲しくない。目前に迫っているのは後々の記録より、奇跡とも呼べる偶然であって、これまで秘めてきた想いを打ち明ける好機など、もう二度とめぐって来ないのだ。この瞬間にこの情念を差し出すなら、必ず一生の暁光となって静止画以上のかがやきを焼きつけてくれる。
嫌味なほど高潔で思い上がった薄い諦観に嘘はなかった。けれどもふたまたに分かれる道行きは生死を決するほど濃い観点を擁してはいない。
幸吉の投げやりな考察はあらぬ方角から吹きつけてくる突風にゆだねた賭け事に似て、もう一段うえの奇跡を乞い願っていた。道は最初から分かれていないのだ。
修学旅行の校則によれば私物としてのカメラは携帯禁止の項目に入っていた。声をかけた同級生は父親が先代の校長だったことを未だ笠に着ており、当時はそうした過去の権威にさえ盲従してしまう風潮がめずらしくなかったので、旅行前からカメラを隠し持っていくと吹聴してはそれなりの畏敬を受けていた。先輩連中に対する少しねじれた敬愛と並ぶくらい、見返りの効能をこころの底にひそませたまわりの生徒たちは自らの傲りを正当化し、妬むことを忘れた。
その倨傲は彼自身の好奇心をおおっぴらに膨らます性質へ体よくおさまっていたのだ。収納場所はこの旅先に前もって定められていたようで、それを活用しない道理はなく、的確な判断はふだんからの些細な交友が請け合ってくれるに違いない。
幸吉はかねてからまだ授業で習っていない方程式や海外文学の話しになると、負けず嫌いを認めつつも帰り道を途中まで一緒にした同級生のひとの良さを疎ましく感じていなかった。それは向こうにしても同様で、互いの自尊心をのぞきうかがうことが高尚な資質だと思っていたのである。

「あの、すいません。映画観ました。一番素敵な女優さんだと思っています。今日も撮影でしょうか」
自分でも呆れるくらい簡便な言い方と声音がかろうじて届けられた。かろうじての理由は肝心の女優がガラスケースに飾られた首飾りを熱心に見つめる姿勢を崩していないにもかかわらず、言葉を発してしまったので、幸吉とほぼ変わらぬ背丈でもって目線が合ったときには、もう一度いい直さなければいけないと憂慮したからであった。
ところがあこがれのひとは、
「えっ、わたしのこと知っているの。全然有名じゃないのに。どうしてかしら」
と、見事なまでの笑みを、銀幕に映しだされたあの笑みを返してくれた」
「それはもちろんです」
夢とはこうも鮮やかな変化を描きだすのか、幸吉は無我夢中で学生手帳へ大事に挟んであった雑誌の切り取りをポケットからなめらかな手つきで抜きだした。まるで大人の芸能関係者が名刺を差し出すような仕草がひときわ功を奏したようで、
「うれしいわ。わたしね。映画には出れても売れないし、人気もないってあきらめてたのよ。でもこうしてちゃんと観ていてくれるひとがいるのですね」
そう答えながら、より晴れやかな笑顔を真正面にし、手を差し伸べてきた。
幸吉は緊張とも虚脱ともつかないまばゆい光を浴びた心持ちで満たされ、握手を交えながら、目のまえの女優の背筋がピンと張って長身であることをうっとり眺めていた。それは自分だけに演じてくれた好意の証しではないだろうか、望むものは果たされたような錯覚をずっと感じていたい、天にも駆け上がる意識の裏では奇妙な現実否定が働いていた。
夢なら醒めて欲しい。
カメラ越しの高尚な自尊心がはね返り、私物を利用した願いは欲情に溺れかけ、純真無垢なあこがれに錆びついた鏡が向い合う。
早すぎる汚れが邪魔であることにぼんやり不安を感じていた。


[451] 題名:L博士最後の事件簿4 名前:コレクター 投稿日:2018年07月24日 (火) 04時48分

「邪魔者は消せ」
これは下手な口笛より人口に膾炙している。曲がりなりにも仮面ライダーのショッカー秘密基地にならい、他所の庭や、建設現場、路地とも呼べない家屋の間隙、無人の小屋などは悪の伝令を守り抜くこころ清き少年らにしてみれば、格好の居場所となった。そんな想い出を脳裏に焼きつかせている者にとって仲間以外の侵入はことごとく邪魔者であり、玩具の武器の標的になる資質を備えもっていた。
昭和の幻影と呼んで差し支えない、白昼夢のような緊迫はいったい何を期待していたのだろう。
悪の伝令の意味合いは冷蔵庫の扉に冬の景色を覗かせただけに過ぎず、カルピスが注がれる白さに夏空の白さをひろげた程度の罪でしかない。
L博士の罪状にはもう少し重みがあったと考える。反古に警句を書き連ね、私に複写のまねごとを要求した軽薄さにもやはり重みが感じとられた。
だが博士は糾弾されることも非難も浴びることなく、ひたすら沈黙の底へと没する構えを了解していたので、私物の形状はさほど場所をとらず、また他者を拒否することなく、まんまと裏をかかれともに水面に目立った余韻を残そうとは務めなかったから、邪魔者は消されずにすんだ。
すべては博士が言い尽くしていると断言したし、残滓はちっぽけな感情だけだとも開陳した。
ところがそんな殊勝めいた言い様さえ、シナリオに記されていたとしたなら。
つまり私は徹頭徹尾、誰かのセリフを喋らされていたのであり、反撥とは縁遠い居場所で操られていたとみなされても仕方あるまい。が、聡明な諸氏においては、これはあまりにこめんどくさい駆け引きだし、児戯にさえ劣る笑うに笑えない体たらくに映るであろう。そして軽佻の烙印はいともたやすく親和から授けられてしまう。
どうにも曲解の域から抜けだせないようなので緒論はこのあたりで切り上げ、段ボールのなかから踊りでた煙りを愛しく払いつつ、悩まし気な埃に息を吹きかける。

イニシャルは果たして刷られたものか、あとから記されたものか、例のブロマイドのm.iなのだが、虫眼鏡で拡大してみたところ万年筆で手書きされているようだった。曖昧な確認ではあったけれど、ノートや反古にそれに関する裏書きを発見できなかったので、いや、たぶんに見落としもありえそうになり、別に紙魚の本領をないがしろにしたわけではないのだが、すぐさま大江佐由花へ問い合わせすることにした。
なにより時代がかってはいるけれど、色香をほのかに漂わせた容貌は魅惑的で、意味を把握させない素振りさせ立ちのぼらせているのだから、逆に探りをいれてみたい胸懐はその清楚な瞳と、健康的とも不健全とも見えるややはれぼったい唇に吸いこまれてしまったのか、深更を覚えぬまま動悸だけが取り残される。
色彩を最初から放棄した写真が醸す情調とは、夜明けを永遠に待ちわびる無音の華やぎなのか。
性急な気分はまちがいなく謎解きが秘める翳りのくすみに従属するようだが、見通しの抜け具合を補ってやまないのは鮮やかな花弁の色彩かも知れないという明るさに想いは連なる。安直に感じられるのはまったくの学者意識の欠落なのであり、この方便は今後も実りを急ぐという意味で用いられ、弁疏の恥らいはきわどいうつろいを鮮麗に撒き散らかそうと努めるだろう。
左程ときを隔てず明晰な解答がPDFにて送られてきた。佐由花いわく、
「不手際でも深謀でもありません。気づかれるよう、あえて目印とさせていただきました」
と端書きが添えられており、冷ややかな知略を寒色まま受けとる心算へと余儀なくされた。
夏の盛りを迎えるにあたって、いかに彼女のもの言いが陽射しに透ける清涼な硝子細工の風鈴を想い描かせたかは言うまでもない。
空調のゆき渡った室内にあってなお、火照った肌の汗ばみは真昼の暗黒を照らし、夜風に吹かれたまぼろしをのぞかせる。まぼろしは艶やかであればあるほど反対に指先すら触れれなくなってしまい、東西を憶えぬ旅人の道程から遠のく運命にある。
「あなた様の手落ちを待ち望んでいたわけではないのです。ただ博士の理念に揺るぎなさを認めてもらいたく無邪気に同封したと受け取ってください」
そして当然の習わしにとけこむ要領で契りの紐が解かれて様は、正午が暴く忘我に似た懊悩を恍惚へ導く儀式に即しているかのようだった。
ノートはあえて見落されていた。はなから数式と外国語はあとまわし、いや解読できないから捨ておいた、そう正直に言うべきところを見抜かれていたことは不誠実が露呈してしまったみたいで、さながら居心地のよくない座椅子の照れを代弁する念いが胸にひろがる。実際ドイツ語と諭されて、はたとひざを打つ仕草に芝居っ気を座らせていたのだから釈明しようがない、十二冊目のノートへ記述された大半がそれにあたるという。
以下、誰の手によるものかうかがい知れないまま、あらかじめ邦訳されていたと思われるあの写真にまつわる不思議な物語りへと筆を運ぶ段に来た。秘密めいた外縁はいずれ日輪の傾斜が色濃くあぶり出してくれるだろう。


昭和XX年、中学生だったL博士こと、燐谷幸吉は修学旅行先の土産屋で意中のひとを見出した。
旅行中のあらかたの思い出は見渡せない水平線に浮かんだ船舶のごとく、おぼろな視界をめぐらせたが、あの玲瓏とした光景は今でもまぶたの裏の毛細血管をさわがせ、虹がまたぐ蒼空と欲深い緑の大地に降り立つ。
七色どころではなく、あるいは七色を発しきれず、しかし疎通をはばむことに対しては一途に邪気だろうと毒気だろうと吐きだす気勢が朝陽とも夕陽ともつかない強靭なかがやきになり、その透明度はまぶしい輪郭を描きす。誰もが知らない、おそらく知らない、数少ない映画にしか出演していない存在、ほんのちょい役の、けれども果てしないときめきを約束してくれた女優、名前を言っても聞いたことがないだろう、もっとも一切ほかに話したことはなく、それが羞恥による加減なのかどうかも考えたりせず、ただまぎれもない初恋の烙印をひりつくような甘みで、渇ききるようなうま味で、自らに押しつけたったひとりの異性、猟奇的だと妙な背伸びをし、俳優になった気分を忍ばせ本屋に通った結果、芸能雑誌誌にひっそり掲載されたいたときの悦び、忘れはしない。
それがちょうど一年たった今、眼前にいる。幸吉はめくばせをした。もちろん破裂しそうな胸をしずめるために。何度も何度もあえて闇を走らせた。夢なら夜の闇、映画なら銀幕、現実なら写真におさまる、そう思案したからである。


[450] 題名:L博士最後の事件簿3 名前:コレクター 投稿日:2018年07月10日 (火) 03時10分

ことさら眼をひく代物より、多分に今というひとこまへ飛びこんでくる実情なり欲望の背面でひっそりと息を殺している健気さを私は好む。
決して目立たない形状ではないし、色調をほどこされていないにもかかわらず、不変の怖れが微かに芳香を漂わせているような、光の粒子をこっそり束ねていながら、研磨をやんわりと拒み続けている情味には時代の気配がまつらうからであり、秘められた重箱を被う赤みがかった暗色に好奇が宿ってやまないのも愛しくうなずける。
L博士の本質も似たふうな傾向にあるようで、くだんの華やかな講演会や斯界の権威らに書き送った論文より、あえてくすんだ写真が隠し持つエピソードをさりげなく差し出すあたりを見れば、これがたとえ依頼人の趣旨であったとして、やはり黒子の本領を発揮しているのだと感じ入ってしまう。
さて、このあたりで読者諸氏に注意をうながしたついでに、新しく知り得た博士の素描から詳細へと筆を運ぶべきなのだが、別段あせることもあるまい、いや、なにも先延ばしや勿体ぶりとかではなく、まあ、そう思われて仕方ないのだけれども、これから連綿と続く事件簿の旨趣にそえば、やがては明瞭となるだろう古色然とした映り具合を急速に調整するよりか、白波の強弱のうねりを遠目に眺めているほうがこの物語りにはふさわしいだろうし、博士の白髪が加齢とともに増してゆくのも、かつてのせわしない俊敏な動作へ楔を打ち、それはいくらかあわて者だったという微笑ましい教訓をこめる意味合いをかけて、蒼海の波頭が緩慢な潮風と言葉なき言葉で語らっている様子を招き寄せ、海面に浮かぶ顔つきへと重ね合わせるのも一興だと閃いた。
かりに渦潮に引きこまれようと、博士のプロフィールは砕け散らない。
こうした理由から敬愛なる主人公への言及は反対に散らばるであろう大小の事例のなかに、ちょうどジグソーパズルの紋様がかけがえないヒントを有するかのごとく、その都度、委細を述べていくつもりなのでご了承願う。
代わりにといっては当人には失敬だけれど、発端となった依頼人の素性を少し述べておきたい。
送り届けられた段ボールに添付された差出し住所はあえて書き留める必要ないだろう。現在のところ今後の展開にはかかわりなさそうなので、最初に記したように関東地方とだけ片隅にとどめてもらえれば結構だ。
氏名は大江佐由花、年齢不詳、しかし妙齢と決めつけてみるのも雅致の領域であり、本文の逸脱どころか翻って明徴な趣きが授かるのではないかなどと、博士の茶目っ気を呼び戻すのも悪くない。
で、問題は大江佐由花なる女性に助言とも手引きともとれる友人、永瀬砂里と名乗る人物の先議だった。前述通り彼女は私が生み出した創作の産物であり実在しない。
ちなみに同姓同名を持つ可能性を、星のかけらほどの期待を寄せてみたが、検索にも浮上せず、偶然の一致を認めようとする小さな戯れは、あらかじめ佐由花本人の口から意味深にもれている限り、反対に虚構の賛美に努めている自身のむず痒いよろこびを悟らせる。
しかもあまりに拙いライトノベルもどきの第一作「貞子の休日」の立役者、山下昇の後日談、
「僕の手の届かない場所で僕の影がうごめいているとは、ある意味とても愉快ですね」
と、破顔でもって応じてくれた心意気を信じて疑わず、つまりモデルの役目をあらためていつの日にかという言葉を鵜呑みにしてしまった全身うるしかぶれのような底なしの加減知らずは、破滅的な恥辱を自他ともに拡散しようとして躍起になっているではないか。
もちろん私は大江佐由花に問いただした。その旨は詳細を語らずともおおよその見当がつくだろうから、もっと肝要なことがら、ブロマイドふうの写真に関する情報を差し出すようせまったところへ話しを飛ばしてゆく。
いや、かろうじて得心のわけを説明する場面にたどり着いたというべきか。
ここに来てまたもや、先議など放り投げ、縦横無尽の横着を決めていると非難を受けそうだが、私が見出した紙魚のロマンは必ずしも破滅や恥辱に底上げされた気分の有りようなどではなく、むしろ字義に則った謂いに他ならない。
鮮明に、そして簡便に述べる。
反古の束は単に無造作ではた迷惑な文字の死に場所どころか、博士が生きた証しそのものだった。
依頼人である佐由花の任務こそ、地平線をまたぐ所作であり、その所作はあくまで比喩であるが裸身をもって示されるべきであったけれど、沈着かつ柔和な側面をかいま見せる博士の性格上、そうした過激な方便は敬遠されてしまった。
もうお分かりだろう、ある事情がことの運びを煩瑣にし、創作の援用を求めたのである。いかなる理由かはすでに語られている。私の創作熱を喚起するために不可欠なもの、吐き気をもよおす陶酔を熟知していたからであり、と同時に甘い夢見を注入する手口をも知らしめる妄念を忘れさせないが為であった。
簡便と言った以上、華やかなる枝ぶり、咲き誇りを後退させ、その樹幹、根元まで降りて行かなくてならない。
しかし、L博士は私が見知っていた形相を遥かに越えた未知なる存在だった。
ジグソーパズルと粉砕の描写のみで全貌は伏せておくけれど、これだけは伝えよう。博士は亡くなるほぼ直前まで私の動向に眼を向けており、煩わしさを承知のうえで間接的にある遺物を託そうとした。
確然としたもの言いが出来ないのは口惜しいけれど、なぜ上京後、さらには帰省にいたるまで私などの動勢へ気を配ったのか。それらは上述したように一筋縄ではいかないし、今現在でさえ拭いきれない疑惑が多少なりとも漂いまとわりついている。胸元を越えたまではいいが、腹具合に違和を覚えるように。
そこで一気に根元まで降下する。
当時は片田舎の奇特な学者に過ぎなかった博士に舞いこんだ俗にいう発掘された眠れる逸材の飛翔と栄光について。
もちろん経緯を含め委細は吐きだされないまま、映画の謳い文句だけが虚しくこだましてゆくけれど、この文句だけである程度の展開は描かれたと察するので、博士が憑依して私を突き動かしているとか、逆に私が博士を演じきり、地平線を乱れさせているとか、そうした姑息な方途はこの際、きれいさっぱり洗い流してもらい、ついでに私のかかえる疑惑も一緒に暗渠へ落ちゆけばそれにこしたことはないのだが。

言葉の由来は反古であった。
L博士は肉感まで届けようと気をまわしたようだったけれど、そしてあまりに英智にあふれ、そつがなく、総員玉砕の魂をも援用してみたがただひとつだけ私の方に軍配が上がってしまった。
微笑む叙情を私は切り捨てなかった。博士は徹底した叙事を懸命に貫こうとした。結果、反古は的確に反復される運命をたどったし、段ボールに詰まった愛情は遺産でありこのうえない資料には違いないのだが、余計な私物があとから邪魔をした。


[449] 題名:L博士最後の事件簿 2 名前:コレクター 投稿日:2018年07月03日 (火) 03時55分

頭上に空の青みを感じながら分け入る山頂への足取りは、こころもとなさから遠ざかれば遠ざかるほど希求の風を受けはじめる。芳醇なときの流れに委ねた想いはひもとかれ、めくる頁が自然とさらなる道程につながるのなら、これほど素晴らしいことはない。
陶酔の底流にしたり顔でひそむ怖れと、愁いがもたらす不器用な手つきは暗澹たる深みを突き抜け、うつろい易い天候を、とまどい易い眉間を知りつつ、澄み渡った眺望へとのびてゆく。
むろん整頓され無駄が切り捨てられる地平などではなく、常に曖昧な渇きに満ちざらりとした肌が沈む浴場の風情を薫らせる見通しだった。裸体が知らしめる翳りは仄かな湯けむりをその内側から立ちのぼらせ、色香は潤んだ眼の奥に隠れている。
L博士の残した文献は吐き気がするくらい乱雑で卑猥な表現に彩られるかと思うと、せせらぎの音に合わせ清涼な芳香が漂ってくるようなおだやかな格調へ羽ばたいたりするので面喰らってしまい、ノートを時系列にそって読み進めていたのだが、走り書きの、依頼人がいう反古なる代物に至って、虚妄をまとっては真実めいた色情が無造作に散らばるばかり、あたかも盲いの為に記された点字へ悪戯を仕掛けたような軽薄な思惑が浮き出すあり様で、私は気が少々滅入ってしまった。
とは言え、奇才の誉れを一身に集めた博士のかつて相貌がよみがえるともに、新しく知り得たその素性や透徹した信念、先んじて述べるのも甚だ心外だけれど、謎が謎を呼び、迷宮の帷の果てしなさを随所にうかがわせる気骨が内包されてる重圧には敬服するしかなかった。
そして依頼人の要望に疑念を差し挟んでしまう念いにかられつつ、数式や外国語はさておき、一通り読み終わるのに昨夜まで日数を重ねてしまったのだが、果たしてきちんとまとまりがついたのか、かなり危ういところである。
危うさから逃れるつもりはない。整理整頓の喩えではないけれど、ひとつづつ読み砕いて行きたいと思うので、まずは依頼人に対する疑念のいわれから説明してみる。

私は連絡先と氏名を明確に伝えてくれた博士の遠縁にあたる人柄を信用したわけでも、情にほだされたわけでも、こう書いてしまうとなにやら自分はどこか冷血な性状の持ち主に聞こえるかも知れないが、そうじゃないと薄ら寒さのなかにぬくもりを覚えることに嘘はなく、端的に話せば私自身の精神のゆくえという形式のうえを走る魅惑の乗り物が、過ぎ去りし想い出を運び、まだ見ぬ不思議を駆けていったまでのことで、それは瞬時にして光線のごとく閃く悪しき予感をはらんでいたからに相違ない。
なぜ悪しき予感などと、たちまち訝しく見下げられてしまうだろうけれど、あえて裏切りを表明する仕様書きに手もと震わす光景を引き受け、答えはこの物語りのはじまりから終わりまで薄氷のように覆っているとだけ言っておこう。
ほらやはり冷血だから氷の吐息しか出てこないのか、そんな嘲笑が耳朶をふさぐけれど、それはもっともな意見なので否定するべきでなく、衒学を招き修辞を引き合いにして正当化する必要もない、何故ならすべてはL博士が明らかにしてくれるからであって、私の見解はむしろ感情的な、そう感情的な微生物でありたいと願っている。
薄氷から描きだされる透明度を片隅で担ってゆくため、太古より眠りつづける生きものとして。

いわれに戻ろう。返信が相手に届いていてから四日後、段ボール一箱が仕事先へ送られて来た。
開封してみたらいかにも古びたノートや反古が愛しくつめこまれており、どうして愛しいと感じたかと言えば、手紙の内容に等しくちゃんと年代別に並べられていて、ノートの記述は少数だと言ったわりには百冊ちょうどで、チラシもクリップで括られ、誰よりも深く資料を読み通した姿がまざまざと浮きあがってきたからであった。
そして同封された手紙は簡明だが、背筋が思わずたださずにはいられない筆致でつづられていた。

「このようなお願いを引き受けくださり、感謝の気持でいっぱいです。お話し致しました故人の遺物をお送りします。遺物など呼んでしまい失礼なのは重々わかっているのですけれど、わたくしには研究資料、文献であってもあなた様にしてみればそうではないかも知れないからです。お若い頃、少しの間懇意にされたとはことだけが頼みの綱ですが、現在では文字通り反古の山で終わってしまう危惧が勝り、とても不安になるのです。
正直に申し上げます。反古や走り書きの類いこれだけではないのです。すべてを託してしまえば、きっとあなた様は辟易されることと怖れをなし、これまでのように小説の題材になるべきなものを僭越ながら選りすぐんだつもりです。もしお役にたてそうもないと判じたときにはどうぞきっぱり見限ってくださいませ。ご無理を承知のうえでのお願いですから」

疑念は一筋縄ではたぐり寄せない。私は戻れない思春期という昏く、けれども花道を燦然と照らしだす明かりが放つ情熱のコントラストを決して忘れはしない。沈む太陽のかけらが海原のどこかで今もかがやき続けていると信じている。
段ボールが届いた日、メールでも連絡があった。これでいよいよ懐疑は氷解せざるを得なかった。不承不承のもの言いだが、薄氷はひび割れを求めており、そして割れ目を境にし、また別の薄さが生み出されてゆく。まるでオブラートの如くひとときの役目をこなし、奇麗さっぱり溶けてなくなるのだ。
反面、連想されるのはしょじょが秘める気高い純度であって、そこに不純な想念を見出そうと努める図式は徒労であり、ぞんざいな考えの賜物でしかない。
彼女の友人、そのなんとも名状しがたい想いを抱かせる名前に私は驚愕した。
想念はくるりと反転し、不純な動機が前面にせり出す情景を足場にしている不安定な確信へたどり着いたのだった。
「友人には違いありません。仲良しですから。いとこ同志なのです。永瀬砂里と申せばおわかりになるはずです」
「十分理解しました」
ひとり言だけが宙にこだました。が、ため息とは別種の悲愴な色合いに染まる。何故なら仮面の下に張りついた表情特有の歪みが送りだす負のエネルギーだと慢心するしかなかったから。
永瀬砂里、、、久しく触れてなかった響き、そして梅雨空の向こうに夏日が必ず待っているように、汗と涙は海水から湧き出た塩気を模しているように、その母、旧姓山下有理の不敵な笑みが背後にある。
永遠という大義をコンパスでなぞってみたところで所詮まんだら絵図の形を見つめただけに過ぎない。
「貴女の本当の名は」
そんな疑問は口にだせなかった。あまりにとんちんかんで不適格だと案じたゆえ。
これ以上、重箱の隅をほじくる真似はしたくなかったし、回想が保つ仄暗い領域を汚す行為もためらわれ、なにより至上の幻影を映し出すであろう鏡の作用であることを認めていたからに他ならない。
段ボールの中には十枚の白黒写真が収められていた。
裏面には日付とたぶん写真にまつわる名称が書き込まれている。そのうちの三枚はどう見ても同一人物のブロマイドだった。往年の女優それとも歌手だろうか、日本人の風貌だが誰だかわからず、記されているのはイニシャルでm.iとだけ。
私は見つけた。夢の地平線が切り開かれる入り口を。ブロマイドに香る匂いはちいさな紙魚だとひとり得心したのだった。


[448] 題名:L博士最後の事件簿 1 名前:コレクター 投稿日:2018年06月07日 (木) 16時59分

波打ち際からのぞむ遥か水平線がまだ朱を知らしめようとしないのであれば、論なく蒼穹の思惑は鮮やかな放心に満ちあふれ、陽光のまばゆさがどれだけ潮風をはらんでいようとも、弧影の深みは遠浅の白砂に交じり合わないだろう。たそがれを確かに通り越した真夜中の踏み切りの、酔眼で見遣る左右へと這った線路を冷たく照らす非常灯の青み赤みが千鳥足を阻まないように。
過ぎ去った時間から呼び起こされる光景もまた独り、優し気なまなざしと冷たい判断で支えられる濃淡の加減を先送りした追想は、他者にとってみれば落丁だらけの読み物でしかなく、あえて色褪せた想い出のなかへ眠る声なき声に耳を澄ましてみたところで所詮、世間話の特権である紙飛行機にそなわった軽い羽音以上の恩恵は得られないのだ。
とは言うものの、いま新たな物語りを紡ぐ理由をはっきり述べておかなくてはならない。

親愛なる読者諸氏には恐縮だけれど、私がかつて執筆したL博士にまつわる怪異編「蛇女の逆襲」「桜唇覚え書き」へ目を通されたことと断じ、ことの由縁を記す驕慢をお許し乞うと同時にその他の短編集、いや作品として発表したいくつかにも、L博士の濃厚な影が落ちていた実情を告白する次第である。
おさらい程度で申し訳ないが、彼こそこの町が生んだ希代の心霊研究家であり、その領域は今日でいうスピリチュアルにとどまらず、UFO確認、猿人探索、超古代文明論、密教の秘儀である真言立川流、ナチスにおける残虐異常心理、国家陰謀説、はては暴走族の集会に単身赴きその実態を見届けようと努めていた。
当時の博士の風采はいかにも年金暮らしの域から出ることのなさそうな、質素な一人住まいに甘んじているいるようだったし、身寄りの有無さえ尋ねるのも何故かしら気乗りがせず、それはたぶん私の方で妙に気をまわしており、更に穿てば、当時芽生はじめていた奇矯な気分に拍車をかけたいという執着が、博士の相貌をより異形に近づけたかったのであろう。
ともあれ十代半ばの未熟な意識へ映ずる影には陰湿だけれど底抜けに朗らかな一面をときおり覗かせては、私自身の育んでいた射幸心へと連なったのであった。

去年の暮、仕事先に一通の封書が届けられた。差出人の住所はとりあえず関東地方とだけ言っておく。いずれ進展によって視界がひらけるよう、ことのあきらかになるにしたがい詳細は魔術的な漂白へ導かれるからであり、蒼天がより際立つごとく澄み渡った白雲の意志を感取されると信じてやまないゆえにて。
これが久しく記憶の裡から遠ざかっていたL博士の面影をあらわにさせる発端であった。
聞き覚えのない書き手が語るに、
「唐突なぶしつけどうぞお許しくださいませ」
礼儀正しい挨拶を目前で受け続けているふうな自己紹介文が綴られ、あるべきして傾斜に身を委ねたとでも言いた気な筆致にこもる意気込みはとても奥ゆかしく、その熱意の冷めやまぬまま用件へと至る経緯に運ばれている。私は動悸をおさえることが出来なかった。
博士の姪の娘であること、遠縁でありながらしかも本人とはいっさい面識なく母親を介してのみ経歴等を後年知り得たこと、遺言を尊び長年の研究のなかから世に残そうと思案され選出された資料を保存していたこと、本来ならば自分がやるべきものを他人に託そうとしている怠慢、申し入れの必然さえよく顧みないまま直感的な判断に信頼を預けてしまったことなど、これら横柄な自身の態度に対して幾度も詫びつつ、しかるべき要因は友人より聞き及んだ博士を題材にされたと思われる短編小説を検索してみた結果、いったんそこで区切りとともに釘を刺す語勢を強めて、
「どうしてもあなた様にお願いするしかないと考えたのでした」
そう甘美な装いをしっかりまとったうえで文面はさきへ流れゆく。
たしかに慇懃な姿勢は崩されないにしてもどこか不敵な笑みを奥底にしまってあるような、また何か絵空事の交情を薫らせる面持ちを拭いきれないまま読み進めたあげく、
「全資料を提供いたしますので、ぜひとも故人の魂を解き放ってあげてください。失礼ながら友人から得ました情熱と合致するのではないかとも思われましたので」
ふたたび胸の高まりに身を震わせた私を打擲するかのような趣意が走り抜けると、取り決めがもとよりまとまっていたかの念いを募らせるばかりであった。
友人の氏名に覚えはあったし、長編への創作意欲に触れられてしまい、まだ残されている事情を悟るまえ私はほぼこの依頼を引き受けるようとしている自分に溺れた。
L博士との交友はSF洋画に似た趣きで必要以上つつみこまれ、小説で描いた内容はかなり潤色されている。
「蛇女の逆襲」にはかつての口裂け女の伝播を土台にしただけであり、涙で剥製のワニが這い出す場面も夢語りである。
「桜唇覚え書き」に至っては破綻作と呼ばれても仕方ない。鈴木光司著「リング」の作中モデルである福来友吉教授をL博士にすげ替えオカルトブームに沸いていた当時の事件の再現は、冗長な美文を意識しすぎたあまり、半端な余韻の濁りしか残せなかった。
しかし私の興奮を尻目にして脳裏へ去来する思念は、博士の死に関するあまりの冷淡さ、つまり上京と同時にすっかりその存在を忘れてしまった交誼の欠落、いや故郷を離れる挨拶さえしていなかった非情な性根に対する痛烈な悔やみであった。
そんな心境を見抜いた差出人が語った横柄な態度とはそっくりそのまま鏡の作用で、私のなかに蠢く葛藤を受け皿にする余裕で満たされており、あまつさえ以下で述べる強迫めいた願いの内訳も、時間をまたいだ金利にすら思えてきた。
ともあれ、私への要望は遠縁にあたる故人だけれども、研究成果を小説という形式でまとめて欲しい。自分は現在派遣社員ながら余暇がきわめて少なく、資料を年代別に区分けする程度しか出来なかった。専門業者へ持ち込んで自費出版する方法もあったが、恥ずかしながら薄給の身であり到底無理である、なにせ膨大な研究資料なので。またいわゆるその筋の篤志にも何人か相談してみたけれど、名もなき人物の煩瑣な考察にかかわっている暇はなしと口をそろえて、なるほど資料とは名ばかり、ノートへの記述は少数で大半はチラシの裏への走り書きの山であり収拾つかない、博士の故郷の土を踏んだことのない自分にとって、唯一の頼みはもうあなた様だけなのです。

翌日には返信を投函した。快諾の旨を手紙にしたため。ただ私に友人と言っていた者とのかかわりをもう少し詳しく説明して下さいと添えた。
そして信憑の証しであろうか。末尾に携帯番号とメールアドレスが記されていた件には、どうぞ次回からはそちらで連絡取り合いましょう、最初にお手紙を頂いただけでも貴女の品格は十分理解できましたと伝えておいた。


[447] 題名:花影2 名前:コレクター 投稿日:2018年05月22日 (火) 04時22分

額装におさまったふうな横顔を日に何度も思い起こしてしまうので、妙子は仄かな水彩が少しづつ塗り重なってくる感じを胸中にとどめておこうと努めた。振り払ってしまうには頻繁過ぎるし、向こうがわに浮上する面影をとりたてて不快とは思わなかったからであった。
むしろ懇意な男性も交際相手もいない身にしてみれば、華やぎを代行しているようなときめきがやわらかな光にそっと包また情景を思い描き、ちょうど空模様に即したまなざしが揺れ動く、こまやかな生彩を育んでいた。
ところが妙子にその横顔から想起される特定の人物を探しあてることは無論、少女の時分ひそかにあるいは友達同士で喋りあっていた歌手や俳優にあこがれた陽気な場面に重なることもなく、おぼろげな回想もよみがえってこない。
あとは美術館か画集で見知った印象じゃないかと意識をめぐらせたのだったが、不意にその詮索めいたな物腰から後ずさりしてしまった。
出来事の実情が常に居座るのであれば、どこかで願いなり欲求なりもしくは蔑みなりを抱くであろうし、うらはらにありありと映りこむ身勝手によって強度の反撥が生じているかも知れない。
たしかに胸のなかでは淡麗な味覚をなぞったような風合いが彩度を募らせ、日毎に移りゆく天候の明暗とも調和しかけて、仕事のさなかや大事な会話の途中に割りこむ横顔に対して違和を覚えることさえ熟知していた。が、色調に濃淡の気勢を認めるかぎり、逆に隠された情念は虚しさを糧に身のまわりから生気を抜き取ってしまう。
あたかも原色を授けられた風船に思いきり息をふきこんでしまえば、淡い寂しさが生まれてしまうよう、そして破裂寸前の小胆を代弁したかのふくらみは、どこかよそよそしく熱意とは距離を置いた彩りに満たされている。
これを妙子の心情に結びつけてしまうのは当然ながら酷で、たとえば奏楽を背景に空高くのぼってゆく大量の風船などではなかったし、額装一枚の裡に隠顕する男性の横顔に翳る表情の由縁を味到する意欲を持ち合わせているのか、やや曖昧であった。
見知らぬ異性、好奇に寄り添った実際は自覚出来ても、肝心の恋情がこころの壁にも、あたまの襞にも絡んでこない。ただ縁起かつぎをわずかほど信じた、星座占いに少しだけ惹かれた、手相をときおり眺めては思いついたとばかりに教本をむさぼる。そんな行いに別に罪があるはずもなく、妙子の想いはことさら風変わりと言えないだろう。
ただ異性だけでなく気軽に友達と呼べる者もいなかったことが、横顔の醸す得体の知れない冷徹さを増幅させる結果に近づいてしまい、煩悶を招くと同時に、投げやりな感情の処理場を見つけだそうと焦りはじめた。
哀しみにひたる果断な暗所は別として。
そういえば額縁の素材や色つきは、大きさは、横顔に宿る意味合いをなかば放擲してしまう意想はかなめの面差しからの逃避ではないか、あえて暗所からこわれものを運びだす慎重な手つきに頼らざる得なかったのは、やがて定見に踏み入れたからであり、日増し深まる邪念と向き合う、ある意味選び抜かれた心持ちに支えられていた。
薄明に遠く眼をやる、あの醒めた外気と触れ合う肌の感触は忌まわしい意識の明滅を正面から受けとめる願いに帰順していた。
そして光線の加減が春の修羅をそれとなく伝えようとしている不遜な優しさをそっと胸元へなでつけるふうにしてから、
「きっとあの横顔は将来の花婿なのよ」
そうぽつりとつぶやいてみるのだった。


[446] 題名:花影 名前:コレクター 投稿日:2018年05月15日 (火) 05時53分

おそらくすべてが寝静まっていよう気配は夜具の安寧にこじんまりと敷かれており、一日の単調な秒針の動きに惑わされることさえ忘れていたまどろみ際、眼球の奥底でうごめく禍々しさを軽やかにあしらう仕度は明快な影とともに整いつつあった。
近隣の夜道をかき分ける車両は逆に秒針から遠ざけられ、まさに夜のしじまは離れの国道をゆきかうどこか草々としたくぐもった走行音のみを残してゆくのだけれど、突風のような自然がかもす不穏な荒くれと異なり、あくまでちいさな響きでしかない。
むしろ寝入りの年がら年中通した風物詩だとぼんやり浮かんだ念いこそ自若を裏づけているようにさえ感じる。もっともおさない頃には台風や豪雨のもたらす危殆に瀕している時間をかけがえのない過ぎゆきと他愛もなく胸おどらせたものだ。
幼少の想い出をこれまであれこれ書き綴ってはきたが、別に普段と違った雨風の事態ばかりに淡い期待を描いていたわけでなく、つまるところ怪異に導かれる不思議にこころ揺れていたのだろう。眩しすぎる陽射しの足もとに焼きつく翳りの裡にこそ真夏の訪れを見出したように。

たしか以前も記したの覚えがあるけれど、夜間のいわゆる金縛りと昼日中の現れには相当な隔たりがある。
灯りの退いた室内へ忍びこむ影は色彩をまとっているのだからかなり奇妙だし、眼前にうごめき、あるいはたたずむ兆しはおのずと異形を背負っており、脳裏に浅くひらめく確信はあきらかに模造の宝石だと認める拙さを反対に後押しする。
それは闇が光を理に反する箇所でしたたかに欲しているからで、人工的なものが常に高尚さを求め、引き寄せてやまないせいだと見なせば、たちどころに妖気の大半はかき消えてしまうだろうが、たとえばお化け屋敷の幽霊やら妖怪に実相を得られない、湿り気を含んだしかし快闊な怖さになにかしら似ているふうで、はなから嘘くさい演技を見届ける意気が失せているにもかかわらず入場し、それなりの体感やら情趣にあやかるといった案配である。
しかし金縛り現象、いわゆる入眠時幻覚と呼ばれるものとお化け屋敷ではまるで情況が違う。
貸し切り入場だったとしてもそれはまったく異質の個人的体験だし、更につめて言えばそれはとても哀しい出来事であり、裏面、夏の夜空に大輪を咲かせる華やかな彩りが哀しみを緩和させるようではあるが、就寝の、暗闇の、ひとりぼっちの、予告編が紛失したあてどもなさの、門口の極めて曖昧なやわらかさの、あるいは滑り台に似た急降下の見知らぬ空間は風物詩以前の驚怖にまみれた豪奢な感覚だからこそ、日々の不安は明確な烙印を授かる。
さきほど昼日中の現れと書いたが、これが実に軽妙で簡潔に話せば、天井からちりちりと線香花火のような糸くずが垂れ下がり、頬をかすめてゆく。しっかり見つめたのだから、その色合いも縮れ方もありありと覚えていて、しかもカーテン越しの陽光にとけあっていて、驚怖や戦慄とは別様の妙味があり、さながら炎天下を避けた軒下にてうさん臭く、またはふて腐れ、ひとり線香花火を楽しんでいる風情とでも言えばよいのだろうか。

深夜の幻影についても語りつくした。忘れているなら少しだけ。誰か手首だけが胸元を這う、着物の老婆が布団のうえに座っている。にわとりが鳴く、猫が鳴く、そうこれはごく最近のことだれど、夢ともうつつとも、目覚めたあとの妄念のゆらめきとも、そのすべてが折り重なったような情景を見た。
ざるそばを二人前ほど茹でるのに適したアルミのなべのなかへ白猫がすっぽり。まるまっているのでもあるまい、冷水か湯なのかよくわからなかったがちゃっぽりとあたままでつかっている。
ちょうど花冷えの夜でまだ毛布のぬくもりが恋しい矢先であった。とにかく異形なる風体は布団のうえに出没するのが常套手段と見なしたまでは沈着だったけれど、まさかその猫がしゃべりかけてくるとはお釈迦さまでも予言できまい。
瞬時、化け猫かと考えがよぎったけど、肝心のその話しぶりをさっぱり忘れてしまった。
ただその白猫はどうにも居心地が悪いらしく、あとから思い返せば、彼らは狭い空間を好んで戯れつく習性があったことなどどこへやら、近づいてみるとなべから湯気が立ちのぼっているではないか。これでは煮立ったてしまう。だから訴えているに違いない、そう判断し、すぐさま猫を取り上げようとしたのだったが、これがうまくいかない。たぶんあわてたせいで余計になべにへばりついてしまうように思われ時間は緩慢によどんだ。

ようやく危機から脱出したのは、懸命に人語を操っていたであろう言葉を思い出したときだった。猫の訴えなのか本能なのか、なべを逆さにしたらするりと逃れ落ち、安堵と一緒にふたたびその口調を夢幻の彼方へ追いやってしまった。


[444] 題名:続・午後3時 名前:コレクター 投稿日:2018年03月13日 (火) 04時42分

去りゆく車窓のひとこまに抜け道らしき眺めを見出すのは不思議なことでなく、むしろ突風にあおられた落葉が過敏な色彩をいっときまとうような錯視の果てにありうる。
もっとも空目の彼方は網膜のうらがわへといつしかへばりついた光景で重なり合っていた。由縁をたどる軌跡もまた曖昧な実情で揺らいでおり、焦点が結ばれるまえから華やかな縮図は抱えられ、ちょうど絵巻物がひもとかれる舞台を呼びもとめているのだった。
線路をひた走る狂躁へ向うしかない諦観こそ、きらびやかな静寂に招かれては浮遊する笑みをたたえているではないか。
それは日盛りの険阻な鉄橋から見下ろす川面の冷ややかさであり、鏡の清冽さに他ならない。
正午の太陽により落ちた影が織りなす幻影はゆるやかな響きを奏でつつ、新たな捷径へと引きつけられていた。
その気分は学童の遠足に似た開放感にあふれながらも、集団の歓声やら吐息で満たされた緊縛から逃れなかったし、相反する意識が背伸びした影法師を作り出しては、仄かな恋情を不特定の異性に投げかけていたのだった。
あの大人びた感覚はおそらく成長することなく現在まで連なっているのだろう、決して激しさにとらわれない夜のしじまの気配を味わう素振りはやがて妄念へと沈んでゆく。

トンネルの暗がりに張りつく時間の隙間から午後3時の時報がもれだす。
忘れもしない、あれは7年まえの想い出。が、ちょっとした風向きで景色の見栄えが異なるように、中折れ帽の連れの顔だちはおぼろげなまま、かりそめの表情へうつろい、誰とも言いがたい人物にすり替わっていた。
「どうせ先に帰ってしまうのだろうな」
舌打ちと一緒にひとり歩き出した記憶がよみがえる。同時に国道脇から山道をたどる木立の蒼然とした雰囲気にのみこまれる間もないうち、憶えがあるのかないのか分からない町並みへとたどり着く。
まだ知らない土地の匂いは新鮮なのだが、あまりに近すぎた道程だったので、どこか醒めた感興をぬぐえなかったけれど、褪色から逃れている古着みたいな手触りと香りに遠い情景を見出し、幼いころ抱いていたであろう、淡いあこがれが胸の間近に滲んでいった。
ゆきかう人々や野鳥のさえずりを目にし、耳にし、ひたすら進むさきはどうやら鉄橋の下の川筋であることに気づき、家並みに沿った用水路のようなせせらぎの音は蝉しぐれと交じり合うかの聴覚をあたえてくれる。
水辺に対する限りない念いの導き、それは浅瀬に透ける川床の青みがかったひかり、早瀬のたてる無垢なしぶき、深みに怖れながら足をひたしてみたときのためらいであった。
やがて海原に孤立した小島の洞穴へ想い馳せたとき、しめやかな暗黒が夜と共に舞い降りてくる。
民家も絶え、田畑を通り越した辺りは滔々と流れるせばまった川岸だった。夕暮れどきを絵にしたような朱が天空を染めあげてからかなり経ったにもかかわらず、宵闇にまぎれた腕時計の針は午後3時を告げたまま微動だにしていない。
残照がまだこぼれた針の先を鈍く光らせているかのようだった。不意に金属片の記憶が脳裏をよぎる。
冬空のくすんだ色合いに血の通った頬の彩りが優艶なまでに距離を保っている。
早瀬で急かされているはずでもないのに、なぜか焦点を求めてやまなかった。そしてついに夜を孕んだほこらを見つけたのだった。
くだんの中折れ帽の男らしき人影をほこらの横に認めたは決して寂しさや怖れによる幻覚ではないだろう。
「ずっと待っていてくれたんだね」
ほこらの中では手のひらに軽くおさまりそうな、こうもりの死骸が牙を細く小さく尖らせていた。


[443] 題名:何かへの旅 名前:コレクター 投稿日:2018年02月06日 (火) 16時18分

列車の振動は山峡にささかかると、その曲がりくねりがもたらす催眠効果をより増幅させるのか、季節の過ぎゆきに性急な瞬きは無縁とばかり、雲間へ移ろいだ日輪を讃えるごとくトンネルの漆黒が華やぎ始める。
まぶたの裏をかすめ続けた夏の陽射しは退き、さながら魔性のひるがえす怪しきマントの姿態を想わせた。
むろん依頼人への斟酌が寄せては返す波の音を模すのか、緊迫と焦燥とが編み上げる言葉にたどり着けない独語は浜辺にひろがるような静けさを謳い揚げ、眠りへのとばりがたやすく降りてくるわけではなかった。
用意周到のつもりで重みがかさんだバックは決して脇から離れるつもりはないらしく、先走る手はずに苦笑いを投げかける小胆も健在であった。
しかし鋭意な心がけのその上っ面はやはり溶け出しているのだろう、盛夏の車両に乗り込んだ不穏な熱気はゆき届いた空調により、時間が孕む明晰な翳りへと傾き、その羽ばたきを、夜鳥の証しを消し去ることはできそうもない。
目覚めは長くもあり、とても短かったから。
ホームで見遣った家族連れの光景が浮き立たせた郷愁、独語にさえ寄りかかれない、けれども靦然な装いに彩られたなき恋人への便りがひとり宙を舞うと、そこは異界だった。

さい果ての地へたどり着いた皮膚感覚が世迷い言のようにたなびいている。
視野をふさぐのは雪景色にあらず、寒風にさらされた木目がかいま見せる殊勝な柔らかさであった。浮き足だつ旅情に流されるまま、辺りを眺めればひとけもなく、上空から鉛色をたぐり寄せて張りつめている電線の結びが妙に艶やかで、醇乎とした風情さえ感じられる。
北国からの依頼にあやまりなく、この土地へめざしたのなら、煙にまかれた眠りの世界は半透明に違いない。確信への歩みはいにしえよりの規矩に支えられており、危ぶみを浄化しうる醒めた倨傲がひとり歩きしていた。
うしろに樹齢の枝ぶりに似た気配を察するまで、明暗の隠れ蓑を借り受け、異相を念写しようと務めだしていた。
父の顔から縁遠い場所へ連れて来られた怪訝な目つきを消すことはできなかったが、苦渋まで至らない様子がそれとなく読み取れ安堵した。理由は判然としなかった。枯れ葉に薄き笑みがひそんでいるようなちいさな歓びが透けて見えたせいかも知れない。
「ここは変わった建物だな」
寒さでのどがかすれているけれど、父の声は風向きに乗っている。
「日が暮れるまえに宿を」
そう言いかけて、あらためて依頼主の面影が描きだされそうになったが、親子ふたり旅である実情に向うと、不思議の壁は予期した通りゆるやかに崩れゆく。
吸血鬼退治は肉親であれ内密だったから、そして恥じらいで縛られていたから、いまこの時間に裏づけはいらなかった。崩れたがれきをかき分ける健気な気分にうながされ、
「ちょっと覗いてみようか」
等しくかすれた声色なのだが、果断な響きは冬空に細く突き刺さったと思われる。
父が視認するまでもなく、そこは風変わりな造りというより、深い記憶の奥底から甦ってきた蒼然たる病棟の回廊であった。手術中と筆書きされた用紙が古びた部屋のすべての入り口に平然と張りついている。
「臨時募集の方ですね」
不意に真横の扉が開き、白衣の医師らしい男からにこやかにそう尋ねられた。
否定も肯定もしない、奥まった先に位置する階段をぼんやり照らす白熱灯の、旅人と臨時雇いとをないまぜにした明朗なもの言いの、痕跡をたどれぬ悲哀が宿る夜のしじまに対する恋闕の、奇矯な明るみに打たれただけなのだろう。
すっかり忘却の彼方にしまいこんでいた列車の振動が瞬時よぎると、この空間がとてつもなく愛おしく感じられてくるのだった。
「とりあえず手順を教えますので、いえ左程むずかしくありません」
勢いのない筆書きとはうらはらに招き入れられた手術室は蛍光灯が赤々とかがやき、たぶん臨時の面々による実習が恬淡とくりひろげられていた。
「ある種の美容法なのですけど、申し訳ありませんが委細はお話できないのです。ごらんのように流れ作業の要領で施術がおこなわれます」
なるほど、この一室にベッドは六床、シーツで身体を被われた若い女性が横たわる側へ臨時係らはたたずみ、顔面に指先を微妙にあてがっている様相がうかがえる。
見学の姿勢で見つめていると、手早い処置に流れベッドは次から次へと台車の本領発揮とばかりに別室に運ばれてゆく。
「ごらんのようにこの部屋では一種類の作業だけ担当してもらうわけでして」
手術から美容さらには作業へと収斂する異郷の眺めは遠く、片や近かった。
邪念のすべりこむ余地はないと思われた。父がどこに連れていかれたのか、あるいは自らの意思で他の部屋へ臨んだのか、気にもとめなかったし、流れ作業の手順とやらも見よう見まねで揮えたし、責任者であり医師と思っていた男がまわりから主任と呼ばれていることに違和感を覚えなかったし、さらに純度を高めたのはまばゆい光がまっさらなシーツを照り返しては、四季をひとまたぎしてしまった白銀の旅愁にのみこまれたからであった。
期待には奇態が能動的に働きかけている。鮮血こそ見出されはしなかったけれど、女性たちの作業を施される際、苦悶を取り込んだと見紛うばかりの面持ちにはある種の恍惚が目覚めていたに違いない。
「左側のですね、頬骨の箇所に金属片が埋めてあります。まあ以前の工程です。これくらいは説明してもいいでしょう。さて、個人差がありまして深く埋まってしまい、そうです、肉に沈んでしまうと呼称しているんですけどね。たいていはこのピンセットでつまめば軽く浮きでます。その先端にはフックをかける穴が開いており、穴が確認できたところで作業はおわりです」
主任の解説はきわめて明瞭であった。しかし、字義通り釘をさすように念を押された。
「とげ抜きみたいなあんばいと考えないでください。さきほども言いましたけど、金属の深さは一様ではないので抜きさしならないのです。あくまで慎重にお願いしますよ。あまり痛がったり悲鳴をあげたらすぐに申し出ること」
よく見渡せばその後の主任はまるで教壇に立つ面持ちで監視の目を光らせている。
難題かも知れない。とげだって神経に触れていれば相当な痛みが生ずるだろう。だがすべては杞憂であった。
なかにはどこへピンセットをあてがえばいいのか判明できないくらい健常な頬を間近にしうろたえてしまったが、以外にも当人が小声でほくそ笑みつつ人差し指でしめしてくれたり、金属片に穴が見当たらず、思わず主任を呼ぼうと焦ったところ、苦痛をかみしめているのが当然だというまなざしを送られ、震える手先に落ち着きを取り戻したら確認完了などという場面があった。
それから場面は曇りガラスの品格をかろうじて保ちつつ、忘却と悦楽の狭間をめぐり、晴れ間を夢想しながら苦渋の裏より露になった穂波の渇いた、けれどもたおやかなささやきに溺れ、逸した時節のなかへ埋没するばかりであった。ふたたび背後に立つ父の言葉を耳にするまでは。
「そろそろ帰るか。列車に乗り遅れるぞ」
まだまだ作業を続けたかった。抵抗する気概が失せていたのではないと思う。言葉がようやく単調な意義に導かれたような気がしたからであった。素直にうなずいた。
「まだ旅の途中だしな」
父もまた正午の太陽を見上げるようなまぶしさを忘れかけていたが、おそらく失ってはいない。
「ちょうど一時間ですね。それと歩合がありますので。今日の賃金です」
機械仕掛けで動いているみたいな主任の人柄も忘れなくなってしまった。




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