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[627] 題名:お早う、スミス〜4 名前:コレクター 投稿日:2025年03月11日 (火) 02時09分
精を吐き終えた直後の表情にはおそらく高揚から見捨てられた歪みが刻まれているのだろうが、案外ちから一杯走りきったときの爽快感も両肩が落ちるあたりへ漂わせているので、とりわけ辛辣な空気や下世話な興醒めに向き合う必要はなく、部屋の窓を開け放ち外気の呼びこみに心掛けるくらいの気軽さが望ましい。
実際マノンは気だるさをまとった物腰など見せつけたりせず、ことの成りゆきにおおむね満足している面差しを揺るがせないままに、いかにも差し迫った実務を、朝食の支度をこなしつつ子供の寝起きに接しているときのような、それらは昼下がりの散策ですれ違う知人に挨拶以上の親しみを投げかける穏やか掛け合いであったり、夕暮れの空模様をふと気にかける脇目につたう何げない沈滞であったり、また寝入り際に触れ合うことの重みに対し軽妙さが用いられる抜け目ない言葉づかいあったり、必ずしも欠かすことの出来ない雰囲気ではないけれど、日々の連鎖の狭間にあってしかるべき有意義な場面に違いなかろう。
些細なもの忘れに動じるより、錯綜する記憶の深みを軽んじる場合だって許される。表立った主張に衣を着せ、あたふたと身支度にいそしむ仕草が健全な意向を明快に告げているように。
マノンの声掛けも、つまり宵の口から街並みをそぞろ歩き、真夜中を急ぎ、漆黒の情念と欲望を絡ませ合って吐息を乱し、喉の潤いに悦びの枯渇を感じとりながらなお一層、萎えることなく張りつめた感覚の欲するまま、上になり下になった素肌の密着は節度を忘れ、ぎこちないほど互いにむさぼり続け、特に股間を顔面で受け止めるふうにしたさかしまの体位からの、激しくのろけにのろけて、いかがわしさをがむしゃらに訴えかければ、からだの芯まで悶えることはあからさまな姿態の終わりを迎えようとせず、ひたすらなめてなめてなめまわす幼児のような、うれしさのあまり飛びついて舌を振りまわす飼い犬のような、あるいはやや冷静な意識を取り戻しつつも、割れ目に見入っている高ぶりで宙に浮いてしまいそうな腰のものをくわえこまれている快楽はやはり痴呆のまなざしで泳ぎを忘れてしまい、両極における天上のしびれにひれ伏すよりなすすべはなく、絶頂に達したであろうマノンの鳴咽がしぼり出させると同時に、いったい何度精を吹いたことか、絡み合いと接合の果てしない夜への挑みは潤沢な魂の荒ぶれであり、底なしの泉での遊泳をまばゆさのなかに諭されて仕方ないから、愛おしさを含んでより限りなく熱気は駆け抜けてゆく。どこまでも子供じみた意想をもって。
ありふれた情交を見送る風情は朝が来ても、さながら食器棚に収まったスープ皿のごとく、その日の息づかいを鎮める加減で割れものらしい白さを別段に誇示しておらず、エミールもこれまでのいきさつをさっとよぎらせるだけで、ことの次第をおおむね了解したのだった。
「また戻ってくる」
まだ帰り支度はおろか、火照った股間を浸したぬめりを残したまま、ふたりして素っ裸でありながら、まるでこの瞬間こそ自分の意志を伝えるのにふさわしいのか、切実さを投げ渡しているつもりであるかのように
ひと足早い言い草でマノンの顔色をうかがった。
「そうおっしゃってもらえるとうれしいですわ」
抑揚を持ちながらどことなく心許なさに引きづられた返事が、よりエミールの確信を強めたのか、人恋しさを過剰に引き受けた感性は勤め人の朝のような慣習を取り戻した。平穏な一日の始まりを告げる陽光を浴びた時計の律儀さにことさら感銘を受けないという、醒めた情熱を後ずさりさせながら。
声高にはならないがこうした幾らかの焦慮と算出しかねない膠着感は、日々の暮らしに点在する陥穽のような言い訳にも追求にもならない実態をあぶりだすだけで、いち早くけむに巻かれるのが関の山だったから、いつもなおざりにされてしまう。
他者のはかり事とはいえ、少なからず劇的要素を見知らぬ街並みに通わせた以上、わき起こってもちっとも変ではない強い恋慕やめくらむような旅情にとらわれていいはずだったけれど、簡素な舞台で演じられる無言劇めいた設定をエミールはかなり明確に感じ取っていたので、マノンが抱えているだろう境遇や悲哀にまではとても及ばず、いや、むしろ端的な情況の置かれ具合が愛しさを止揚し、恋着の度合いを低めていそうで、何よりマノンの心情に与するに違いないはず、そう慚愧の念を飲みこみ渇いた口を閉じた。
案の定、背を向けながら下着を身につけているマノンを見つめると、なにやら矛盾だらけの気持ちが胸の隙間にわだかまりはしたものの、それは憐憫とか後悔といったなぐさめじみた感情ではなかったから、多少の息苦しさを夜通しの情事のせいにして、むせ返える渋面を作って見せるのだった。
ただ半ば茫然自失な感覚は退いておらず、奔放な自負ははりつけにされたまま身動きとれなかったし、敬虔なまでに萎縮した自責の念をさ迷わせていたお陰か、肉欲の形骸とでもいうべき視界がエミールのまえに訪れた。
いつか娼館に遊んだ帰り際、色香も煙草の匂いも一緒くたになった娼婦の、ぞんざいな着衣でおおいに興ざめを買うところだった刹那エミールは啓示ともいえる稲妻に打たれてしまったのだった。それはことを済ましにもかかわらず、今こうやって裸身が失われる景色がとても歯がゆくて仕方なく、もの足りなさとは別種の情欲に襲われた震動にいてもたってもおれず、さながら駄々っ子のわめきに近しい激情を覚えたことで、この無邪気さを通り越した下卑た貪欲はただちに正当化を模索してしまったのである。
蔑みさえもよおしているのに、どうしてもう一度そんな肉体へむしゃぶりつきたいのだろう。気まぐれでもなければ異変でもない、ふたたび隠された裸にわけもわからず発情しただけに過ぎず、しかしこの刹那ほど緊縛された自負心が大手を振っていたことも、踏みにじった感じを伝えた自責が氷解してゆく心もようをありありと意識した試しはかつてなく、ほとんど解放に等しい胸騒ぎに他ならなかった。
それがここにまた装いや空気感の違いはあれど、似たような光景に釘づけになりながらも、なぜかしら野性の獰猛さはかき消え、ふくよかな甘さへと回帰してゆく夢見も生じはせず、一流の洋装店に飾られた着せ替え人形のごとき景観を浮かびあがらせている。品よく清潔な風合いと素材としての織物が放つ肌触りには、肉感の熟れて乱れた手垢に順応してしまう人臭さがなく、せめて官能を引き出しているところは、胸もとを大きく盛り上げた豊満な作りであって、それすらよく見れば人がたの空洞で、柔肌が蹂躙を拒んだり受け入れる思慮深き谷間とは似ても似つかない。
マノン自身そうした役目を終えた香り立つ裸形をかなり意識していると思われるし、なにより口数の少なさが間違いなくエミールの身の振り方に決定づけられてしまう宿命を熟知しており、かつての情婦のたどる道筋はエミールとの再会でしか活路を見出せないのが実情なのだろう。
目一杯に食した美味の食卓の片づけに乱入するほどの肉欲は厳粛な加減において、割り切られていた。
「放すものか」
聞こえるかどうかの小声でつぶやいたエミールを思いやっての胸裏は背中越しのまま横顔を見せると、毅然とした鼻梁ときつく結ばれた口もとが譬える面持ちが待っていたけれど、うっすら潤ったかに映る瞳は涙を溜めているのか、ここに来てはじめて身分の違いやら立場のあり方やらに圧迫を感じてる困惑に出会ったのであった。そして優しい言葉ひとつかけられない不遜な意地をおぞましいものと唾棄した。
[626] 題名:お早う、スミス〜3 名前:コレクター 投稿日:2025年03月05日 (水) 04時48分
情事のあとさきを彩るもの、それは没我の果てに、あるいは果てしなさを覚えた充足の、かなり手前に戸惑い踏みはずした知性と感性の懶惰な眺め、何よりさきに傾きの浅い悔恨でひたされる朝靄が抱く未知なるものへのあこがれ。決して濃密でなく薄い皮膜を通した向こうに映ずるまばらな視線の残照。
それでも女体のぬくもりとなめらかさは裏切りを拒むようにエミールの体感へ伝わり、疑心と暗愚をほろ苦く肯定するしかない不甲斐なさを揶揄し、なぐさめた。
肉体の誉れはマノンにしてみれば最期の砦であると同時に脱ぎ捨てられない自負をまとって危うく、そして華美のゆくえは妙齢の狭間に過分なほど立ち止まることを許されていたので、ことさら恐ろしく豊満な体つきを持たなくとも異性を魅惑して、刹那の堕落を共有させ、嘘に色めいた真摯な心持ちを揺さぶり、つつきまわし、ひねりあげ、よだれを肌に染みこましつつ、身上のなりゆきをひかえめに語るとき、たった今離れたばかりの股間の火照りはまるで暗い夜道の果てに人明かりを見出す怯懦のごとく、思いもよらない説話は放擲され、ありきたりの日々の平穏をかき乱したりしない、剣呑な予兆やわずらわしげな些事はひらたくひき延ばされ過去の遺物が遠のいていくよう、肉感の目覚めには実務がともなっておらず、付随するのは錯綜した場面からひもとかれる頻尿にも似た欲情のまばゆさだけである。
しかし快感の虜という言い方はふさわしいようでそうでなく、身震いするほど鼻息荒いわけでもない、むしろ恬淡とした顔色を保ったまま血走る目つきも見せず、いかにも虫刺されの痒みを掻く仕草で女陰に触れては次第に興奮を演じているのか、自発であるはずの淫らさは冗長な謂いをふり払う要領で、女身のすべてを包みこもうとするのだが、ふと案じるにこの自力でしかない淫情を背後から操っているふうな錯覚に瞬時、これほどの芳心をわき起こしたことがかつてあっただろうかとか、それほどまでにふくよかな肌をまさぐり、とことん湿った股間へ埋没したいのか、愛でることの没入感に到達した勢いにうしろめたさはなかったかなどと、かなり負の感性を横切らせてしまうと、不思議なもので全力疾走したであろう競争の運動場に吹き流れた声援の声が微かでしか耳のなかに届かなかった記憶と相まり、意識の集中度によってかき消される他者の音域に等しく、折角のもしかしたらかけがえない交わりにおいてすら、自分はそのありがた味をほとんど受けることないまま、いかにも誰かの使令やら同調によってことを運んでいるだけで、一応わき立つような高揚も征服感をともなった悦楽も、際どさに甘んじている自尊心も、食後の満腹度に比べれば感覚としての実体は煙るように儚くもどかしく、ましてやジャン・ジャックを補佐役に添えて整った今夜の交わりにはそういう念いがつきまとって当然なはずなのに、結果的には縮図の出来栄えをあとから知らしめされたのか、背徳感すらもっともな感受性の位置づけをしめしている。
手かせ足かせこそ施されていないけれど、報酬と気ままな余暇を受けながらも意味あり気な素行調査の対象でしかなく、いや、すでに情事のゆくえは薄絹のごとく見栄えのいい予感に織りこまれていたから、別段あらがうことをせず、反対に敷物のうえを踏み歩く様相でこの現状を認めているのだ。
エミールは反感という言葉も選び取らず、今回の出張にあたり伝達を下した老年の上役が浮かべた微笑の影にその身を隠してしまいたくさえ願い、こころ弾む調子でこの地へ臨んだ意気にひそむ薄闇にへつらう自分の姿を想いながら、ゆく手に待ち受ける法外な、しかし揺るぎのない知性を常に働かせていればそれほど異変でも心外でもない、ありていの道程が開けているのであり、ただ快く受け入れるか、そうでないかの違いが大きな端切れみたいにすべてを台なしにしてしまうだけであった。
意識の軽佻は必然を呼びこんで飽き足らず、理性やら自戒の振り幅に信頼を委ねたりする代わり、対比的な熱量を要する自虐を招き入れることで密度を高めようした。
ちょうど薄まった空気に毒素でもいいから、目に映らないのなら尚のこと、感じとれないはずはないけれど彩りの豊かさは未知なるものに接するふうな、予感は悪寒と快感の出会いをしめしていて、失望と展望の駆け引きは自在の手綱で操られ、従順かつ勇猛華麗な白馬のいななきは雷鳴を想起してやまなかったから、濡れそぼった股ぐらに堅くなったものを埋めこもうと務めた奮起は、やがて女体が放つであろうよがり声の険しさとなってこの身に反射するに違いない。
悩ましくていやらしく、もうどうしようもないくらい夜は白化すると、夢みるように眠ることも眠るように夢みることも叶わなくなり、下半身から突き上げてくる心地よさに酔い痴れては乱れる様をかえりみ、小さな震えがいつの間にやら大仰な素ぶりへとうねりをともなって高まる姿態こそ、もっとも相手の矜持に訴えかけ、世界の果てをここに知らしめ、底意地の悪さをわずかに香らせながら薄弱な意思を植えつける。
弱体化し腰くだけ寸前のあらゆる明晰にこと欠いただらしのなさは、浮き世の一番せまい局所の奥底において燦然とかがやいて、みじんこより見定めにくい、が、何を持っても得難い官能という導線で結ばれている以上、憎悪も疑念も困惑もあらゆる場面が遮断され、とってつけたような軽々しくも騒々しい熱意へと変化してしまう。ざれ言は愛撫とならび必要不可欠であり続け、くねりのけぞる裸体から弾けたように噴き出す汗のしずくは沸騰を謳歌し、張りきった乳房の山には堅牢な淫猥と生命とが宿っており、なでてなでてなでまわせばとどろき同様の、切り裂く響音がうちに秘めた瞬発の血反吐が耳を染め、上気した首筋の熱い肌には大蛇が現れ、いかがわしい侵入者を引き入れた沼地の淀みは底知れず、大きく開いたふとももの付加価値を捧げたくなる肉づきには魔性が取り憑いているのだろうか、ふだんなら呪術的な幻惑をかいま見せるに違いない股間へと吸いこまれそうな勢いは、逆に健康すぎて頑強な武器にさえ見まがう景色を呈していて、なめてもさすってもどこまで行っても追いつけないくらいそら恐ろしくも蠱惑の桃源郷に他ならず、その根っこに分け入った臆病者とて朦朧とした意識に苛まれつつも、肉欲が肉欲を制する充足具合だけを痴呆のごとく感じいっていたので、そして抜き差しの原理を獣や昆虫に劣らないようまっとうしたお陰でなんとか救われていたまでのこと。
腰振る音頭は密林へとこだまする。星のまたたきはついぞ天空よりの調べを忘れず、邪念は交響曲を成り立たせない。しかし不協和音の通底だけを夜に預けてはいなかった。ためらいの動きに身をまかせながらも押し殺した熱気は静けさのなかにのみこまれてゆく。
[625] 題名:お早う、スミス〜2 名前:コレクター 投稿日:2025年02月04日 (火) 03時28分
距離をなくした裸体は隆起によってもたらせれる放熱のあるがまま、悩ましくも大胆なうねりをエミールに伝えた。
密着のすべはマノン自身あずかり知らない程度にふれ合うことの自在を謳いあげ、口中へすっぽり包まれた激しくも滑らかな律動の、絶え間なさで魅入られた気おくれを吹き流し、代わりに貞淑が教える荒廃の気分はエミールの側より煙っており、さながらいかがわしい輝きを覆った垂れ絹の役割り、溶けて交わる淫らさには屈折した心情がよく似合う。
屈折ついでに吹き上げた精は中空へ巻き上がる使命にあって、なにやらもらしてしまった小便同様のぶざまさに仕向けた怠慢もまた、情愛と蔑視のゆくえに立ちはだかる気まずさを助成しているようで、ただマノンの口もとが滑ったのか、それとも絶頂を迎えた快楽が無雑作に構えたのか、どちらにせよひとときの放心を経て見出される淫靡な光景はそこはかとなく漂う匂いとなって、まるでこわれものを抱える手つきのように今ここに在ることの矜持と懸念を香らせたまま、体温を維持していそうな精の散らばりにはおかまいなしの廉潔な勢いで、まだ柔らかになりきっていないエミールをふたたび手にすると、今度はやや強くこすり始めるのだった。
吐いたばかりの股間へ集う空疎なむず痒さには、緊迫を恐れぬ調子で微かな痺れが生じていたから、この矢継ぎ早の攻勢を味わうことがいかに不確かな親密度を保っているのか、無心の境地には至らないけれど、地平の彼方を走り抜けていく細々とした雑念の集積こそ豊穣の肉感を讃えているようで、それは遠く張りめぐらされた壁が実際の堅牢さを示さなくとも、ゆく手をさえぎる黒い影のごとく、甘い諦観を、そのなかに含まれる小刻みの悦楽を前面に引き出してやまなかったから、まったくもってほくそ笑みは禁じられないし、すると当たり前のようにうろこ雲のみたいな新しい雑念がふわりふわり向かってきて、遠くの近くを思い知る。
肝腎かなめな状況においてこうした不埒で浅薄な、厳密には錯綜した心理を姑息に言い当てたりしない奥ゆかしさが雑然のあり様を露呈しているのであって、多分それは睡眠時における野放図な断片のつぎはぎに美徳めいた宣託を求めてやまない心性の確認であり、また同時に宣託からひもとかれる適当な視覚像への参画をも意味し、夢時間の推移が極めて捉えづらい実情と合間って、呆れるほどに真摯でありながら、とぼけることに長けた柔軟性が孕むぎこちなさへと堕ちてゆくから、せめて浮遊感のみが明快に際立つのだろう。
内実などおかまいなしの無頓着な雑念の束にこそ、そして関係性の排除されたでたらめの意想こそ肉感を押し上げているおぼろな水脈であるとすれば、すこぶる美しい女性のすがたは昨夜に食した馬肉の切れ端でかたどられ、その味覚や匂いはまったく麻痺して、たてがみに櫛さす剣士の笑みは燦々とした太陽の照り返しを受けながら、敵兵におびえる顔色を隠しきれず遁走し、そのうしろ姿を追う視線のありかも人格なのか、持ち主を忘れた望遠鏡なのか、俯瞰ばかりの回旋にうんざりした大鴉の羽ばたきを見つめるそのひとこそ、数年まえに死んだ恋人の青ざめた微笑であると知っておののき、けれども数秒さきには自宅の書架にひっそり埃にまみれながら仕舞われている古代の地図をひろげつつ、優雅にも火急にも例えてかまわない演劇めいた物腰だけが窓枠からの斜光に映し出されると、螺旋階段を駆け上がり振り向きざまに見届けた類家の老いた名使いがわがもの顔に大広間で舞踏会を仕切っている光景に出会ってしまい、どうしたものか、戸惑う仕草もうわの空、逆さで覗いた望遠鏡によって拡大された湿地帯のある場所こそ、裸婦のみだらさに思い馳せる間もなく、鬼神にさらわれた童子らの断末魔が響き渡り、ある特定と断じた豪奢な寝室に横たわるのが自分の母であるのを知るに及んで、かなり現実感のある心痛にさいなまれ、あるいは嫌悪を意識し、覚めきることの願いを淡い祈りに導かれながらも、何度も何度も言い間違いをしてしまう激しい焦慮を回転させつつ、次第に浅瀬までたどりついた自明を覚えたときほど心底の切なさはなく、目覚めの予感は波打ち際を横切る自分自身に憑依してやまない。
確立された自己像は破棄されたにもかかわらず、脇道には本道の指標が漂い続けている。寝起きの値踏みはおおむねそうした思念を投げやりに倦怠感へと上乗せする。
ちょうど女体が明確な意志のもと体位を翻したのが同時だったので、さらにエミールは実直な感性に親しみを覚えてしまい、いかにも念力や祈りが通じているような薄っぺらな、それでいて心底待ちこがれていた欲求であったことの鮮明な加減に驚くのだった。
マノンの下半身はエミールをまたぐ具合に被さり、あきらかに女陰の景色が眼前をふさぐ。異性を意識しだした頃より痛切の想いだったこの場面ほど圧倒的なものはないはずなのだが、妙な落ち着きによってさながら危急の際と向き合っているふうな、あるいはおもむろに知己を見つめるといった素ぶりで、もっとも鮮烈な興奮をあたえてしかるべき箇所を眺めつつ、自身の股間への刺激を感じ取っている。
ほどなくして燻った栗色の恥毛にまとわりついた粘液を頼りにしながら、局部の奥底まで見開かれる形状に感心しつつ、満ち潮のごとく押し寄せてくる荒波の情欲に支配されたとき、ようやくとりとめもない全能感は淫猥のるつぼと化して逆巻き、恥じらいを欲望のままにまかせている女体の躍動を征服すべく、大きく目を見開き首をもたげ、割れた果実の味見をと舌さきで突くようぬめりをすくった。
苦味とも塩味とも酸味とも言い難い、だがそれらがみな混じりあった薄口の芳香は甘酸っぱさを知らしめて飽きたらず、獰猛な野性が地つづき尽きない奔放さで駆け抜ける調子をもって、まずは洞穴から外界を覗き見る意気揚々とした姿勢で望む。気だるさをはね返すような雑駁な造りに舌を這わす。もっと間近にと両手を尻に押し当て、その大振りで張りのある肉感を賞味しつつ、ぐっしょり粘り気を顔中に寄せ、慈愛をこめて舐めつくすと、いやいやの合図に似た、けれどもすぐさま訪れた快感に身をよじらせたに違いない、そう決めてかかることの重要性を胸におさめ、望む身構えをとらせたとき不意に雑念がわき出し、せっかくの肉感を台なしにしかけるのだったが、よくよく案ずれば交接における原理は相手あってのことであり、自由奔放な自涜とは相互関係という隔たりにおいて根本的に異なっているのだから、これくらいの葛藤はごくごく自然の流れであって、さほどあたまを抱えるほどでもない。
エミールは印象深い夢に引きづられる険しさの裡にある玲瓏とした響きを思い浮かべ、その淡麗な感触から清らな恋心を見つめたのだったが、奔流にも等しい欲情の囲いの外へは逃れようとしなかった。うらはらに猥雑の気配を生み出そうと躍起になるのだった。
[624] 題名:お早う、スミス〜1 名前:コレクター 投稿日:2025年01月28日 (火) 03時40分
夜風に乗じて見通しの悪い街路を突き進む。
急いているのは予期せぬ事情によって舞い上がったわけでなく、おもむろに案じた旅程が近頃の静穏を振り返ったまでのこと、動悸と心拍に加担してやまないのはこれほど歴然たる成りゆきにもかかわらず、理性とやらを突き飛ばす肉欲がはたして動物的であるのやら、おそらく意思など有しない植物の色合いに似せて枯れる間際の乾きを彷彿させれば、他者や人目などとは縁遠く退色がもたらす花芯の夢深く、そして内乱の勢いを密度で知り得たとき、地続きの別種からの問いかけにも、蔑みにも、微笑みにも含みを感じることなく、ただ繁茂する緑の影がときおり見下すふうな荒々しさを風に伝える様子でそそのかされてしまい、疎ましさの絡まりへ向かっていくような抑揚ある胸騒ぎを覚えたまま、エミールはなお足早な加減でつまずいていた。
流麗な足並みが揃い踏み、色情のほとばしりがまるで紙吹雪か、花畑を横切る突風のごとく鮮烈な光陰を引き連れ、乱舞の限りを尽くしているような奔放な自在は体感そのものでななく、悲しいまでに観念の映ずる所業だったから、まったくの自由など得られるはずはなかったし、残酷に無関心に導かれてしまう人智を逸脱した領域に踏み入れることも叶わなかった。
しかし弾みではなくて、小さな余興が曖昧なすがたのままに踊り出すあの気まぐれな容認の、ふとした仕草のなかに美醜が同居している景色を眼中に納めたときの、もしくは意見が通らずいじけて見せた刹那に浮き上がる苦笑の下のささやきは、ちょうど緩やかな直感とでもいうべき健気なぬくもりを抱きかかえており、その相貌には焦慮の影が差さすことなくほとんど苦悩を忘れていて、例えるなら広くも狭くも、とにかく檻のような空間があたえる居心地にそこはかとない安寧を得るよう、いばらの束に囲繞されようが可視以前の感覚は鈍麻することなく、体温と吐息が託している信憑にすがりついてやまないのだった。
不可避の軋轢はかくべつ心痛をともわなくても、計り知れない楽観をエミールに教えた。そしてその先を封じて心地よい事このうえないであろう肉感の確約を殊勝に受け止めた。
あれこれ想像の域を那辺に押し広げ、淫猥の様相にためらうよりも豊満な肉体が発する鮮烈な光景はエミールにとって、さながら気品と美麗を兼ねそなえた絵画の裸婦のひとしさで胸満ち、どうにも野卑な感じはもよおさなかったから、以前と同じような矜持を崩すことのないまま、どこか近くの連れこみ宿を物色する余裕さえ生じていたけれど、薄っすら汗ばむ手のひらを相手に悟られまいとし、落ち着きのなさをなだめていたところ、
「わたしの部屋に来ませんか」
端的な、あまりに現業なそのひと言には妙な安堵を覚えるしかない。
先んじて仄めかすより不意の接吻が言葉を封じるように、エミールはかつての情婦が宿している凄みをまざまざと知らされるのだった。相槌を打つ調子も忘れ口ごもったまま、意に反し官能の成分に溢れた余韻をまさぐるふうに胸の奥で空まわりさせ、気抜けした軟弱な姿勢をマノンに見せつける。それが色めいた甘えの端緒であるとばかりに。
決して無表情と呼べない複雑さはどう表されるか、軽い口ぶりが会話を適度に弾ませることを案ずれば、無言を守護する大らかな余韻こそ、相手の機微に、距離の空気に、打算のなし崩しに適応する。植物の沈黙が落葉で物語られるごとく、道理の由縁は思いがけない歯がゆさに起因しており、時間の経過はたゆたう余韻のなかで動作を、さらには道のりも辺りの風景をも見失う。エミールの股間はすでに硬直していたけれど、その自覚は気づかない肩こりに等しく、淫らさを放擲しているようだった。
責務を重んじた震えとは異なる、ひかえめな態度にしのばせた羞恥の働きかけがエミールの耳をくすぐる。
声に抑揚はあまり感じず、かといってぶっきらぼうなもの言いではなく、いくらかの親しみを含んだまま見定められない場所の湧水のごとく、清らかな驚きと静けさが伝わる。
結局マノンの誘いにろくすっぽ返事はせず仮屋だという部屋の奥で吐息を受け、寡黙さが美徳であるよう素肌をあらわに寝台に転がり、情事への帰属が務めであったことを確かめ合う。虚ろな瞳を泳がせているのはエミールの下手な芝居だとなじる風情で、マノンは情熱的な本性を隠そうとせず、身をもって強く抱いて欲しい旨を露骨に示した。
床に投げ捨てられた自分の衣服の束を見つめながらエミールは、ますます茫洋とした視線をゆっくり送りつつ、かなりの緊張に襲われているはずなのに鼻息も裸身の動きも平静を装い、乱れの嵐へ自らを押しやりはしなかった。相手の出方をこれ以上待ったところで、いかほどの探りが入れられるというのか、意思の片隅に空いた細い針穴から伝わる羽虫の加減より微小な疑念は宙に揺られ、はじめて肉感の強烈さを感受すべきだと動物の意は爪を立てるのだが、その痛覚をはね返すふうにしてエミールの神経は鈍麻していった。
乳房が豊かであるのか、生身そのものの柔肌を撫でまわし舐めまわし、下半身の茂みを軽く指さし、汗と入りまじった粘液に優しく接し、まばゆさをまだ実感していない女体のくねりを見届けては、険しさと虚脱を交互に移し変える表情から目をそむけ、背中にまわされた両腕の滑り落ちるような強弱に奮起しなくてはと、男子の本懐を遂げるべく更なる無心が求められたのだが、弾むような征服欲をこの身に持ち込まない限り、不能と思われても仕方ない。
交接の場面はエミールが引きずった余韻を残すほど時間に甘くはなかった。以心伝心、本能の躍動、男女の結びつきは衝動を賛美してやまない。そして躊躇いの時間は威勢のいい踊り子の働きのごとく瞬発的であり、多彩であり、新鮮であり嫋やかな獰猛さをも包み隠している。
マノンは素早く体勢を返すと仰向けになったエミールの陽物を片手でつかみながら口にした。さすがにこの変わり身には感銘を受け、
「うっ」
と、声をもらしてしまい、決まりの悪さより肉感の尊さが今ここに降臨している、そう念じた。が、すぐ様になにも厳かな神殿と対峙しているわけではない、念じるより感じるべきであって、たぶん唐突さに駆られた反動やら反発やら、とにかく素っ裸で抱き合い絡み合うのだから文句などいったい何処へつけるのか。
この邪念をはらうような発意はしかるべき官能を約束していて、無心であることの徹底した乱れのさなかへ溺れる法悦に導かれるわけなので、うろたえてしまえばうろたえるほどに快感を得るのだという原理の鉄槌であたまを打ちのめされるしかなかった。
やがて息をのむくらい欲情的な化身をわがものに出来るという全能感に支配されてゆくと、おそるおそる女体をむきだしにしていった経過がこれまた残像のように脳裏をめぐり、記憶の貯水湖へとゆっくり沈潜してゆく。焦慮に圧され見失っていた時間ひとこまひとこまが尊さの裡にあって逃げ隠れしようのない、気恥ずかしさを巻きこんだ歓びで満ちてくる。循環する時空の摂理が正しいのであれば、情欲のかけがえなさは繰り返すことの使命を帯びた刹那の普遍の連続体であり、生きとし生けるものすべてに託された日々の位置づけである。
最終形の死の訪れが生命体をつちかう大義であることは、加齢による衰弱を意味すると同時に飛翔的な光芒を逆さに受け止める所作に他ならない。思春期や青年期の自死願望ほど官能的な本質を秘めているものはなく、裏を返すとそれだけ身のほど知らずの欲深さを抱えこんでは溺れきれないという見苦しさを露呈しているのだ。
厳密な意義での禁欲精神を保っているならエミールはかの情婦などに懸想はしなかった。あるいはそうであってもふらふらと街中をさまよう素ぶりなど見せず、勢い好みの娼婦を買って精進したであろう。
もっとも肉欲が見定まるはずもなく、その不可思議ゆえに逆に本能は暴走するし、行為の瞬間はあまりに神々しい。
エミールの股間が自らの体液でまみれたのは記憶の欠落を呪いきれなかったからである。
[623] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜14 名前:コレクター 投稿日:2024年12月10日 (火) 05時43分
見失ってしまったのだろうか、おもむろに前後左右、辺りを眺めやるようにして、しかし危急な想いで胸さわぎをもよおしたり、圧搾に即す焦点のきわどさで添えものが息づいたわけでもなく、ありきたりの背景は広がりゆく点景を見やったまでのこと、呼吸が整うのを待つ刹那、ジョディは気掛かりのさなか、より辛辣な趣きを呈する囲繞のすべてを見渡し、とらえどころのなさの向こうに透けている風景を虹彩へ集めると、いくらか渇いた春の空気は肌に新鮮な刺激をあたえ、どうやら前もって感じとっていた居心地を偲ばせた。
臆病な生まじめさを揶揄した不謹慎をよぎらせる心もようは、空を流れる雲の間から覗く青みのごとく、清冽な彩りをみなぎらせ、ちぎれそうになった先々の白さを保ってなお、煙霧の嘆きに耳を傾けており、奔放な視野を持ち得たふうな感覚は、適度な疎通や沈潜する情念を緩やかに巻き上がられせ、見知らぬ街の描く仄かな親しみを香らせながら、すぐさま冷徹な距離感を手招いて、判然としない純度の色彩を四方へ散らばせる。
視線は方向を定めようと努めたけれど、ジョディの身体は異国情緒に浸された安直なめまいを知るばかりで、揺るぎない街並みに位置する開放感は急進的な意識と拮抗しはじめ、立ち止まってあることの得体の知れない陶酔が瞬時に小刻みにしてわき起こると、保たれるべき懸念を大通りへ乗せて運び出し、緊縛状態である実態は、あたかもしわくちゃのシーツの表面のごとく、滑りゆくことの抵抗と気弱な邁進をおし広げ、やがてたどるでろう類推される雪山の難儀な様子を脳内に浮かべながら、同時に純白の限りなさに感嘆し続けるという不可避で、とりとめのない、多分に根拠など持ち得ない旅情の欠けらが既視感をともなって映し出されるめまいの軸にあって、それでもなお自在の方角からやって来る恐怖の念をなだめるようにしてから、足もとへ刻まれたわずかの地面のおうとつに身震いするのだった。
落下したまなざしが明快な事実を告げたのではなく、取るに足らない往来のすり減りがまなざしを反射させたのである。長く寝苦しい夜に忍び寄る怠惰がその実、簡略ないらだちの集積であるよう、方位学やら地理学を装った旅情の張り詰めた空間は、実情にほだされた間延びを許容するだろうし、史書に記された一節の曲がりは屈折した心情を謳って空高く、脳内の行き当たりに実感を抱かずとも、地平線のたどり着く遥か遠くは、この一歩から始まるという紛れもない体感を控えさせているのだから、途方もない道のりだって今ここから踏み出すほか仕方ないし、もっともこの地道な心構えは何も取り立てて念頭へ置くほどでなく、ありていの軽い意識に溶けこんでいる。
「わたしを置いてひとりお花畑な考えに取り憑かれたまま、抜け駆けなんてありえないわ」
内心多少の腹立たしさはあったものの、ああ見えて案外寂しがりなところがあると心得ていたジョディは、いよいよ訪れた小都市の光景のなかに紛れだして、圧迫と自由のさなかに泳ぎだした魚影を想起させると、その水面に濁色の尾ひれを滲ませている高貴な生命をも感得し、深みへと姿を消さない遊泳の時間をただちに自らのさまよいに交じり合わせ、ここまでの川下りの記憶はまるで絵巻物に託された叙事詩のようにも大きく解釈するのだった。
「ほら、大声だすわよ。ケイトいいかげんにしてよ」
と、割りかし憎々しい声でつぶやいた。
そのとき不意にこれは単なる言い掛かりではないか、おそらく含み抱える心細さの表出だろうと瞬時に打ち消してみたのだが、さきほどの大地と荒野にまたがるような寥郭たる冒険心の由縁は意外と胸の奥底にひそんでいるばかりでなく、魚影が呼び起こす淡く重い陰りは、ちょうど東洋の水墨画で現される混濁と不透明の狭間、あるいは生々しさに薄皮を被せたような鈍重と活気、さらには沈める王国の使者たる夢幻の闇が仄かに色づいているふうにも感じられ、川面の流れに身をまかせ、成り行きまかせの遠出を試みた側からすればかなり卑近な幻影であるはず、果てなき由縁こそ我が身のたどる行程だと思えてくる。
「もういいわ。勝手にどこへでも行けばいいのよ」
不確かな旅情は簡単に根づくはずもなかったけれど、曖昧な領域をさまよっている危うさと規律に準じたかの背徳感が足もとで渦を巻き、ジョディを吹っ切れさせたのか、勢いよく身をひるがえすと、もと来た往来へ戻り、宝石店の前を通り越し港界隈の雑踏に向かっていた。
「とにかく、あちこち巡ってみよう。ああ神さま、叶うことならケイトと出会いませんように」
強がりなのか、負け惜しみなのか、はたまた意を決した信念なのか、一度吐いたつばが角度のよりけりで顔面を汚す気まずさに喉を震わせたジョディは、あたらめて自分を取り囲む街並みの景観に鮮度と、そして酸味にも似た出遅れの悔恨を覚えるのだった。
「願いはひとつ、成就も結果もひとつ」
夜景を待ちわびているような街の通りがねたましく、時間に従順である夜の微笑みは決して逆行しないであろうという鉛より重い、心臓を包み隠している肉体の血潮をたたえて余りある理が疎ましくひりつく。
歴然とした情念、言い換えようない日没の必然、切り開かれるはらわたの赤い露見、しかしながら栗色の髪の毛を染める夜気に触れ、反対に顔色を屍人から峻別させる生気は深まる時刻の、静謐な土地の汚れを悟られまいと生ける獣の寝息をうかがいながら、正門の脇にこっそり筋道が浅く掘られたふうな、が、それは人智というより、近所の鼻たれ悪童にも相手にされない、陰険で人見知りの激しい、野犬や野良猫にすら小馬鹿にされているふてくされた顔をした幼児の、しかし何ものにも屈さない空元気が見出した地虫たちの夜宴へと通じる道なりなのであり、おそらく古家の建設に相まって数えきれなほどの生死の累を積み重ねた騒動にたずさわる小悪魔らしき気配の漂いによって化けの皮が剥がれていく欲深い心性が絡まり合い、そして三つ編みにしたケイトの面影はちょうど亡きひとの奥ゆかしさでもって前面に浮かんで来たから、その葛藤というか、あまりに瑣末な景観が打ち出す精神の乱れは空騒ぎにしか思えなかったので、暗闇に馴化する景色のもって生まれた燻んだ風情はジョディの箱入り娘らしい感性に適度な教訓を授けのだった。
教条主義の構えるもっともぎこちなさは隙間から射す光条のごとく、地虫たちの奮闘を讃えている。
「あんた誰に宝石を買ってもらうつもりなの」
永遠の奮闘を尻目に不確かな欲望が影を切る。
「はらわたなんか開くものですか。まだまだ夕暮れまでの時刻を春の日差しは見つめているわ」
港に停泊する大小の船舶に近づくにつれジョディは、離れゆく土地と乗り出す海原があいまみえる瞬間を、あるいは合わせ絵の禁句によって沈潜する時間を夢心地に眺めていた。乗組員やら乗客の表情はなべて均一化され、離別の架け橋が幻視となってよく定まらない方角へ虹のように薄く煙った。
垂れこめた曇天を水平線より手前に認めたとき時計は逆まわしを演じたのか、また大地は重力を緩めたのか、現実の暗雲の相をぬぐい去って胸が切なくなるくらい天空の陰りに光をあたえた。
ジョディは今朝の空を染め上げた出立の記憶が鮮明によみがえる仮託を得た。そして朱の雲海を俯瞰している尊大な光景に、燃える朝焼けに出会うのだった。
[622] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜13 名前:コレクター 投稿日:2024年11月27日 (水) 00時52分
健気に思い定めた証しが歩調を整わせるとき、ジョディはなにやら信念が固まったように感じたけれど、それは解き放たれた没入が模した緊縛かも知れないと、不意に新たな問いかけを横切らせつつ、見慣れない景色のなかを渡り始めたので、自己韜晦が促されているふうな、疑念をもたげさせない為にも不可欠な、あまり言及しない方が賢明であって、その意向はつくづく利己的に形取られているから、あえて詰め寄ったりせず、ケイトの態度に綻びが見出されるまでは、ひかえておくべきという考えに落ち着いた。
怖れは漠然でなく、なにかしらの形状を築きながら、やがて惹起されるべき局面に向かって有意義な構えをとらせるだろうし、無論しっかりした明徴には裏づけられておらず、浮き出るような輪郭は持たないにせよ、半透明の不確かさな流れにある水面の表情は豊かさを写し返していて、たとえ鮮明に欠けていたとしても、ちょうど記憶の面影が案外いきいきとよみがえる様を振り返ってみれば、自ずと、まったくもって内奥へ秘めたことがらの、異質な具合の確かめに即すのであり、慎ましげな振る舞いが素直であるのと等しく、裏読みに徹し、洞察を働かせた関わりもまた剣呑であって、優劣など生じる隙などあり得なかった。
ケイトの意図していること、あるいは彼女の胸いっぱいにたたえられた波状をジョディは少なからず感じている。そしてこの小旅行に連なった自身の値踏みも認めていて、あえて口論にまで至る必要はなかった。
ただ、ちゃんと説明するからという誠実を告げられた以上、単にあたりさわりのない聞き役に甘んじるのはどうしたものか、ひょっとしたらケイト本人すら意識していない重苦しい事情やら、反対に意識から逃れる術としての行動であったなら、どうでもいい道連れであるばずの、これまた転じて事態を切り取ってしまう展開だって否定は出来ない。
ジョディは直感ではなく、いくらか飛躍しすぎであるケイトの口ぶりから、ある推論を、当然おぼろで確信は棚上げされたまま、いつ地に着くのかさっぱり分からない、けれどもある風聞と、かねてより耳障りであった半ば妄想めいた先行きの、透けながらも信憑へと近づいていくのが仄かに認められたとき、歩調の乱れはあたかもほろ酔いが教える身軽さを有しているのだった。
出方を待つに遠慮はいらない。しかしあくまで自分から仕掛けは起こさない。現にケイトの壮大なおとぎ話しに耳を貸したまま港を抜け、街中の大通りに面した矢先、
「久しぶりだわ、この宝石店、母に連れられて来たことがあるの」
そう瞳をきらきらさせ息づいてから、店の扉を開くでもない、大きなガラス窓越しに飾られた貴金属の品定めをするわけでもなく、かといって映発する面立ちをガラスの向こうに眺めるような遠い眼もしておらず、その様子はいわば虚脱に似た疲労感に襲われているふうだったので、
「ねえ、なかに入ってみましょうよ」
あっさり促したところ、
「宝石なんて自分で買うものじゃないのよ」
虚脱に似つかわしいのやらどうやら判別つかない適当な語気で答えたから、
「そうね、さほど物欲しそうな顔してないし、興味もなさそうだわ」
と、自失に甘んじた、大仰な語りとはまるで異なったケイトの姿を見つめた。
だが、意気消沈でもなく、自暴自棄でもない気概をしめす勢いで、
「いずれ身につけるのは間違いないから、どうってことないの、今は虚飾の輝きがふさわしいだけなのよ。さあ、行きましょうか」
そう言うと十字路へ急ぎ足で向かった。
虚勢を張っているのか、本心から差し迫った祝典にまつわる意想を口にしているのか、結局ジョディにはそれより先を探ることは叶わず、ますますもって前世の許嫁の存在や、都合のよい台本が意味するケイトの心持ちがつかみきれなくなり、もっとも自分はケイトの小間使いでもあるまいし、いちいち従属の身分に晒されているような、それがたとえ心理的な因縁に惑わされていようと、あくまでも利己的な想いに乗せられここまで連れ添ってきたことの栄光を小さく胸にときめかせ、時代に翻弄させる王女さまの苦悩など、つまるところ何の関係もないのだという、分け隔ての屹然とした、呼び子とこだまの響き合うだけの、風に溶けこむ軽さも柔らかさもない、単なる相反が日照時間に呼応するだけの、明解な陰りを路面に焼きつけた。
「あら、そんなに急いでどこへ行くの」
ジョディはまるで山間の険しい道から呼びかける牧歌的な声を張り上げる。
それから逃げ足にも映りかねないケイトのうしろ姿に眼をこらし、想像以上に圧迫された事情を抱えているのでは・・・込み上がるというより、反撥によって隆盛を呼び求めた不相応な意地が平たく気分をなぞり、沈着の理が前のめりしただけのこと、あまり劣等意識ばかり働かせ妙にいじけている場合じゃない、ケイトはおそらく親友として何か見届けて欲しい気分で自分を誘ったに過ぎない、心細さの由縁は告げずともひとり寂しく火急の場面に臨むのは堪らなかったから。
望ましさは身勝手に押し出す力量ではなく、失意を取り囲む無私によって描かれるべきかも知れない。
ちょっと無言で駆け出したケイトの態度に振りまわされているのが痛感されると、いたたまれなさは文句なしに訪れたし、やりきれない気弱さに沈んでゆく悲愴感もしっかり追いかけてくる。
「結局、わたしっていつも軽薄なのだわ」
内語の集いはいつも耳鳴りに似たざわめきの彼方をこちらへと運ぶ。
「なら、どうだろう。いっそのこと、このままケイトを見失い、ひとりこの街をさまよってみたら」
この閃きにいくらかジョディは晴れ間の実相を見たが、利己的とうそぶいていた口ぶりとは違い、おさない時分から親友であった彼女の身によからぬことが迫っているような気がしてたまらず、もし、ここで我が道をいくような別れかたをしたら、たぶん生涯忘れられない悔やみと傷が残されてしまうに違いない。
ちゃんと説明するって明言した彼女に、そう、あまりに無稽で捉えられようがなかったとしても、もっともっと親身に側へ立っているのが自分の誠意だったはず。
壊れた懐中時計が正午を告げてからしばらくだったが、まだ日没の気配はほど遠く、割と落ち着いた風情のある街並みには、確かに淫売宿とか、危なっかしい賭博場がある路地を境いにして、さまよえる不安のかいま見せる光景にある種の諧謔を覚えると、整うことの健全で律儀な格好に、ジョディは崩れ落ちる奇禍を重複させるのだった。
「出ておいで」
いたいけな日々のかくれんぼに興じたあの頃、浄福感に危険を感じとろうとした想い出がよぎった。
[621] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜12 名前:コレクター 投稿日:2024年11月19日 (火) 03時35分
夜道へ浮かぶ女の横顔をうかがうにつれ、エミールの動悸はたかまるばかりで、それが奔放な気恥ずかしさなのか、抑制された欲情なのか判別つかないまま、性急な成りゆきに任せる姿勢を保っていたのだが、ことを成し遂げる器量はおぼつかず、時折ガス灯の下で明るみになった夜気をまとう青白い肉感は、気高いと同時に言い知れない蠱惑を点滅させていて、その意識がおぼろなのか、鮮明なのかもつかみとれない不甲斐なさに戸惑ってしまうのだった。
しかし不穏な勢いだけが増すのではなく、女体が暗闇へと放っている芳しき匂いの基調を前提として、当惑を受け入れているのだから、決して不本意な心境に甘んじているわけではい。苦言のなかにあって気まぐれの悲愴を讃えているような倒錯が、エミールの神経を支配しているのだった。
実際かつての情婦を真横にし、いますぐにでも抱きしめたい衝動に駆られているけれど、どれだけ疑惑を振り払ってみてもこの場における覚悟は躊躇しがちであり、孤影を奮起させているのは淫らな葛藤のなせる技に過ぎない。
寄り添う色香が濃厚であればあるほど、近づく肉感には応力が強まり、エミールは恋情を素直に吐き出せなかった。
妖しい気品が却って篤実な人格へ、愚昧なおよび腰の顔つきへといざなっているようで、浅知恵ながらもう一歩マノンの方から拒みきれない秋波を送ってくれたなら、そんな気弱さを頼みとしている自分に辟易しつつも、案外ことの次第を眺めているふうな鷹揚さが備わっているなどと解釈してしまう。
演ずる姿勢はなりゆきに導かれ、胸にあふれる恋心は屈辱に先んじる方便をもって、肉欲への突破口となる。が、お粗末な思考の流れは予断を許さず、奮い立つ股間の熱量に託されているのは歴然であり、素行調査なんてあからさまに示された圧迫を打ち破るためにも、生つばを飲みこむような通俗に堕することなく、嫋やかで洒脱な素ぶりで仕掛けのなかへ足を踏み入れなければならない。
見え透いた情婦の誘いに乗る勇気は青年エミールの忽然たる堕落でなく、不透明な皮膜をもったまま白く凍てつく結露であった。
こうして冷え切った男根には欺瞞が被せられたが、行為そのものは溶け出すことに暇のない、むせ返るような交わりを約束しており、嗚咽をともなって止まない肉体の森はあらゆる自然の響きのさなかで、鋭く悲痛な、けれども歓喜と恍惚の叫びをこだまさせ、さながら獣の咆哮を思い起こすであろう。情欲に国境はなく、隣国との山深い地において熱狂に終始する交尾は、この小都市の月影に照らされ、そのかがやきを技巧の駆け引きで抑制する薄暗い路地の宿の濡れ場となんの遜色もなく、たとえ開放感や未知の大地への足掛かりに欠けたとして、触れ合いから始まる肉体の結びつきは興奮の絶頂を目指し、どこまでも駆け上がり、激しい発汗と鼻息、そしてなめらかな摩擦に導かれるまま、生の断崖から一気に転落する。
ありきたりの日々と口ずさむ嫌味で自虐の感覚を麻痺させながら。
孤影に踊らされる夢想とは概ねこんな情景を思い描くのだろうが、股間に伝うなめらか極まる婬靡な感触は、青年が孕む根源的な灼熱地獄への橋渡しとなって、どこまでも限りなく、地の果てをひとめぐりし、脳髄を直撃する。
無論それまでに乳房の弾みが教える母性の魅惑だの、か細さを強調しつつ流線的な官能を欲しいがままに位置する両肩の傾斜だの、逆円錐形状に宿った柔肌のくびれだの、眼球と舌をほぼ一瞬にして干乾しにしてしまう張り詰めた尻の盛りだの割れだの、いよいよ埋葬される刹那を陶酔をもって呼び覚ます秘所のもっと深い割れに行き当たるとき、青年は成就されるのだから、その行為は大いなる躊躇いのもと、武骨なくらい罪悪感を胸に当ておき、苦悩のすえに到達した明徴と知りつつ放出されるべきである。
エミールの淫らな想いは濁りを嫌っていた。
マノンは見抜いたというより、感じとったとばかり、月光を受け火照ったかの頬から厳粛な血を引かせ、清廉な触れ合いを求めてしなだれた。
手の甲が二、三度お互いを打診しあったのち、マノンの冷たい手のひらがエミールに手首を軽くつかむと、待ち焦がれたいた面持ちを隠しきれない調子で女体の腰を引き寄せ抱擁した。微かな震えが全身を伝おうと試みている。
「このままでいて」
か細い命令にも最期の懇願にも聞こえるその声にエミールは立ち尽くしたまま、身動きがとれなくなった。そしてなんらかの返事は偽りをあばいてしまう気がして、無言で硬直した自分自身の温もりを感じとろうと務めた。女体を抱きながら、すでに口火を切った夜の光景にたたずみながらも、欲望が確かめられない。
マノンの頬がエミールの首筋に寄せられた。上目づかいであったが鋭さより慈愛をたたえた優しさに確証なき衝動を走らせると、一条の光が開かせた口もとを求め吸いついた。
応じる柔らかなくちびるの弾力には甘い抵抗があり、加えて化粧品の預かり知らぬ苦味がエミールを夢中にさせた。
「このままでいよう」
こころのなかで静かにそう答えから、両腕を相手の背後にまわし体勢を整えた。やがて甘酸っぱい感情が押し寄せてくるまで、高鳴る動悸が触れている胸からこちらへと重なり、不動の構えで悦楽に臨むまで。
擦過するのは不可分な密度で絡まり続けるジャン・ジャックの白々しい顔つきであったが、この先いかなる事態が引き起こされようともマノンがふと洩らしたごとく、好悪や立場の違いはさておき、感謝の念は相応に述べるべきであり、なぜならほとんど適確な調子で運ばれる色事の乱れがさまよい歩き、ついには過剰な気持ちに溺れながら激しい接吻を交わす自己像と出会った以上、群青の夜のかがやきを忘れるわけにはいかず、その証しに緊縛された影を俯瞰するだけで、早くも立ちくらみを覚えてしまう。
そして思い馳せることの億劫な、が、不揃いの人形をそれなりに並べてみせる、意味も価値も喪失した由縁なき奮起の果てに、魂を吹きこむ太ももへの伝令が、ふくよかさの極北が、人形師の異名を持つホルンベルグの幻影に収斂するとき、女陰の深みは青年をたやすく溺死させ、蘇生させる。
エミールはどうしようもない放心状態にありながら、この世で一番はかない夢を描きつつ、愛憎の織りなす綾がなおかつ錯綜するのを知るのだった。
[620] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜11 名前:コレクター 投稿日:2024年11月12日 (火) 04時16分
情感に即した関心の深さを測るまでもなく、静けさの本は知的好奇心の裏づけに支えらている。
明瞭さを欠いて久しいとさえ思えてくる微笑のつかみどころのなさは、マノンの場合でも同様であり、ことさら威丈高な構えも望ましいわけでない、むしろ素晴らしき邂逅と、めくるめく恋情のさなかにあってしかるべき歓びに優位な条件など必要なく、互いにどれだけ見つめ合えるのか、どれほど好意と切なさを共有できるのか、恋愛経験の薄いエミールには残念ながらぎこちなさを示してしまうばかりで、とても足下が羊の群れにすくわれるような、胸の高鳴りに寺院の鐘の響きを重ね合わすような、殊勝で嫋やかな風情は呼び起せない。
出来ることといえば、己れの未熟を覆う感じに、反面いたいけな素顔を覗かせ、よく定まらない威圧で責められている負の感情を悲哀に置き換えるくらいであり、その覚束なさは賢明な結びつきを手探りしているのだった。
もちろんホルンベルグ商会に協力してしまい、その名を心密かに怖れている様子は明らかなので、エミールの萎縮は均衡が保たれていたけれど、あまり快よくないジャン・ジャックの、暗躍ですらない駆け引きに応じたマノンと自分自身の置かれた立場は、やはり共感が求められず、ちょうど軋む歯車のずれた回転の、めまぐるしさと齟齬が同時に視界をとらえるよう、機械仕掛けのもたらす複雑な加減は綿密であろうはずがなく、その残影は尻つぼみなまま、来るべき実像を脳裏にいち早く映し出す。
悟られまいとして女らしい恥じらいを演じるマノンが困惑しているのも、決して肉感を秘めた景色ではなく、あくまで静けさのなかに止まっている。陽だまりに寝そべった野良猫が野性の夢に揺蕩うように。
窮した返答は覚醒の今を伝えたけれど、エミールは冷やかな微笑で受け止めた。
「そうですわね。あの人はこう言ってました。不審な態度には不可解な寄り添いが大切だと」
マノンの表情は一定の紋様が施されている。
「ふざけた奴だな」
吐き出したつもりでも語気は弱く、しかしエミールは続く会話を断ち切るだけの意思があり、その余白の裡に醜悪な実像を埋めた。ジャン・ジャックの男振りによろめいたマノンの気分も一緒に。
もはや相手の眼の動きに時間を割く意味合いもなくなり、ほとんど失意であることを認識するだけの、忘我でありながら執着のひりつきに身を焦がし、それは憎しみを抱きながら突き放し、とことん悪態を浴びせた挙句、改心がどちらに訪れたかをも明らかにしない気分の持ちようであり、例えるなら、旅情を彩る虚しさが日常を蹴散らしている是正、満腹を覚えたにもかかわらず次なる美食を欲する陥穽、手間暇かけて作り上げた細工を即座に叩き壊す完成、あるいはいきり立った男根を無音で奏でる反省、エミールの懸想はありふれた思いつきより低く、その底辺にはすでに他者の欲望で鮮やかに彩られていた。
「もう少しだけ、このまま歩きませんか。黙ったままでかまいませんので」
さほど長い沈黙ではなかったが、マノンは痛ましくて仕方ないのだろう。罰の悪さも手伝っているかも知れないし、優しげないたわりを与えたかったと考えたりそたけれど、罰は自業自得だし、自分の意想はもっと救いようのない地平を転げ回っている。
「いいですよ。貴女には感謝ですから」
得体の知れない事態を感知するのは不快でしかないのか。歪んだ鉄塔の放つ明かりが遠目である実際に思い当たるとき、いや、横並びで歩き出しているここからの眺めは夜の光景であり、気の早い老人や日中はしゃぎ疲れた子供たちはすでに寝床についていて、物音が薄らいでゆくことに貢献している現実は、エミールの胸をいくらか鎮めたし、港に碇泊する貨物船の意気込みは波に揺られて波止場へ寄せ、近く人の気配に離別を捧げているようにも聞こえてくる。
雑踏の雰囲気は闇と街灯の交わりを願い、路地裏の汚臭は早々と酩酊した水夫らの眠りまえの吐息を集め、安宿からしきりに罵声を投げかける娼婦の顔つきは自信に満ちており、いかがわしい売人の影が夜鳥のごとく素早く逃げ去ってしまうと、からっぽになった夜空に散らばる星の粒は、高級馬車で乗りつけた貴婦人の指先に狙いをつけ、その光景をひそかにうかがっている花売り娘の顔に想いを告げてから、曖昧な領域を謳い上げる彼方の山陵へと降り注ぐ。
遠い夜空の粛々としたなりわい、インクを用いない静けさの本、連れ立って歩くことの淫猥なるかがやき。
「わたし、すべて話してしまいたいのですが・・・特にこれといって役に立てそうもありません」
宝石店から港を経由して今どの辺りを散策しているのだろう。日中の孤影を踏みしめるような彷徨と比べたら、夢のようだった。なにかしら覚めてはいたけど、絶対的はわだかまりは見出せそうもない。そしてこんな健気な言い方をされたら、心ばえだって随分と変わる。
「別に望んではいませんよ。かりにジャン・ジャックが貴女を短時間で仕込んだにせよ、それはもう既存なのです。今さらどうこうありません。まだ演じているとしても」
「まあ、そんなこと。わたしなんと言うか、どうもすっきりしませんの。ええ、自分に対してですけど」
「それは同じです。おそらく明日あたりジャンの奴、私の前にいきなり現れるでしょう。それすら分かっていながら気分は晴れません。だから貴女が想い悩む必要なんてないのです」
「でも、わたしは」
「さあ、これ以上・・・」
一抹の光明が夜風を覚えずともエミールに触れた。
「いえ、私は貴女の風聞を耳にし、かなり妄想を働かせたのです。しかし風聞は巧妙に私に届けられた気がしてなりません。すべて計画されていたようです。私の性分を熟知したものが絵図を描いたのでしょう。が、それでよかった。嘘でもこうして貴女と夜道をご一緒出来るなんて、このうえない幸せに違いありません」
「そんな、わたしなんて。エミールさん、どうでしょう」
「いいんですよ。無理はしなくて」
否定とはうらはらに口調には蜂蜜みたいな甘さと粘り気があった。
「さぞかし冷酷な女と想像されたのでしょうね」
「そんなことありません」
「では、どういうふうに」
ひと息吸って、夜気の冷たさと威信を確かめてから、けれども余裕が育んだ仕草ではなく、あくまで暗闇にまぎれる風情で、
「口では言えませんよ。恥ずかしくて仕方ない。ただ、私には魅惑だったとだけ伝えておきます」
「うれしいわ。そんなふうに話してくれて」
「いやあ、なにも話していませんが」
「ジャン・ジャックって人に感謝しなければいけませんわね」
「感謝は貴女にだけでいい」
夜のとばりがエミールをすっぽり覆うは意外と素早かったし、なにより演ずることの生真面目さを沈着な心持ちで学んでいるのが、どうしようもなく楽しく感じられた。自己欺瞞の傾斜を測れないとうそぶいたのは誰であったか。沈みゆく日輪に敬意を払った以上、生霊と悪霊の気配を感じるしかない。
偽善と調和、醜く寂しい孤影は好戦的である、悪意と陶酔、老人や子供に倣って眠るには挑発的な月影がマノンの頭上に赫く立ち上っていた。
[619] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜10 名前:コレクター 投稿日:2024年11月05日 (火) 07時15分
日増しに募る異性への想いをなにも今ここで確認すべきか恥じてみたものの、奥手だった性向をあたらめて意識してみれば、なるほど既存とはいかにも大仰なもったいぶった謂いに違いなく、おそらく抑圧されていたものは欲情のみに限らず、その形骸すら念頭へ浮かべるのも億劫であり、憂悶の域をさまよっていることさえ、打ち消したかったようで、しかし、いざこうした情況に接して痛感するのは、まぎれもなく脇腹あたりをくすぐり続けてやまない刺激がもたらす、不可避な肉感であった。
不埒な懸想も浮薄でしかない興味も、差し迫った事態を回避させる便法に過ぎないことは自覚していたが、常日頃からの緊迫がもたらす精神の摩耗は思わぬ成果を打ち出したようで、
「誰って言われても、わたしはどうした事情かまでは知りませんので、さあ、どうしたものか」
そう返答に窮するマノンの当惑を得たことは、とりもなおさず控えめだった対応の仕方を劇的に向上させた。
「それはそうでしょうね。私の肩書きはともあれ、不意に襲われるような接近に対し、好感なんてほぼ抱けないのは当然です。でもあらかじめ計画された仕掛けだとすれば、邪念と交わる不純きわまりない、そうでありながら漂わすことが季節風への馴化であるごとく自然な、今この瞬間において、おそらくもう少し先の景色を眺めている雑念を排した想念と類しているのだったら、淫らさの仮面の下で微笑む表情筋は色香を含んで絶え間なく、あなたの見知らぬ場面へと運んでゆくでしょう。
決して交差しない平行線を写し取る意欲の、よこしまな性分をあからさまに、放心状態がいかに静けさの本であるかを認め、その紙面を埋め尽くす乱れがまるで前衛絵画の筆先のように奔放だとしたら、色彩を呼び出す以前にあなたは自らの淫らさに酔っているはずです。寡黙な面持ちとはうらはらの、全身を覆った薄皮で操られた黒子が暗躍する舞台で、ひたすら呈色と拮抗しつつ、その隠された情念の放出を抑えきれない存在として、どこまでも既存なのです。踊り続ける音符が連なるように」
と、半ば上位にある心持ちを実感した刹那、取り沙汰された事件を真っ向から口にする勢いが、つまり配慮に欠けた仕草や身振りで、いかにも対等な肉欲を分かち合っているのだという、横柄な態度を我がものとしたエミールは、野卑な目線を送ることさえ出来そうな気がして、いっそうホルンベルグ商会の定める危うげな威信を背にするのだった。
魅惑と謎を織りこんだ接近を目論んだであろうマノンは、端的な、そして早過ぎる逆風に圧されのか、
「実は先ほどある人からお聞きしたばかりで・・・」
いかにも低い声色でエミールの機嫌をうかがうような気弱さをうかがわせた。
「さあ、どなたにでしょう」
わざと納期を遅らせるふうな意地の悪さで返す。この遅延は対等の肉欲から導かれる精神の諧謔であり、反面いいようのない愛しさに溺れかかっていたので、即答をもてあそぶ愚昧な想念は霧深さを望んでやまなかった。悲痛な顔色へとうつろう異性の面影はエミールのいたいけな理想であったから。
女人の機微を知らない心許なさほど身勝手な劣等意識はない。が、限りなく意識を低めている感覚はエミールを人格者に仕立て上げ、青年が備えるであろう初々しい優しさに包みこまれ、悲観論者がよりどころとする野草のような美徳を踏みしめていた。
マノンは言った。
「あなたの知り合いじゃないですか」
気弱ながら句点にも似た断定的な口調は陰りに浮かぶ不安の種をまいた。その浮遊と放散はエミールを威嚇した。
「もう、いいですわ。なにも隠し立てするつもりなんか最初からありません。その人はこう話してましたわ。ともあれじきにに勘づかれるだろうし、不審な態度をとるかも知れない、しかしそれでいい、弁解が見苦しいと思ったなら、ありのまま話してかまわないと」
俄然、驚くべき事態なのだか、エミールはさほど動揺せず、もう一度マノンの容姿をゆっくり見つめると、
「そいつは貴女に名乗ったのですか。私の身上やらを聞かせるにあたって」
ほぼ再確認に近いもの言いで詰め寄る。
「ジャン・ジャックという人でした」
「それはどうも」
「あら、やはり知り合いでしたの。訳ありな様子でしたので、わたしは内心ひやひやしていました」
「で、わたしのあとを追え、そして待ち受けろと指示されたのですね」
「はい、もちろん見知らぬ人からそんなこと頼まれても困りますし、第一恐ろしいじゃありませんか。すぐにでも振り切って関わりたくないと思ってたのですけど・・・その方は名刺を寄越しながら、相応の礼はさせてもらうと紳士らしく振る舞うのです。ええ、身格好に遜色なく、もの腰や態度だって悪くはありません。なにしろぞっとするような美男でしたし、提示された金額はわたしが一年間働いても頂けないくらいで・・・」
「それで引き受けたと」
「ホルンベルク商会の名は亡くなった亭主から何度か聞き及んでいました。あなたはそこの関係者でしょう。その人が言うには理由はともかく、ある厳密な目的のもと素行調査をおこなうのであって、これはとても大事な責務なのだからぜひとも一役買っていただきたい、そう懇願されてしまったのです」
「つまり調査に気づかれても問題ない、肝要なのは試行だと言い含められたのでしょう」
「そうです」
「あいつの仕事は渉外活動なんです。おおまかな振る舞いと接近を委ねられたみたいですが、これまでずっと引っ掛かっていたことが解けてきましたよ。ああ、なんて言っていいのやら、とにかく貴女には感謝したい」
あっ気にとられた女の顔というのは、実に見応えのある可憐な美しさであり、心細く泣きたいような弱々しさが不意に、ちょうど落雷直後の晴れ間のごとく冴え渡る、唐突の、静止した美術品の、いわれなき動作が保つ奇妙な感覚の、置き忘れた懐中時計が発見される軽い安堵の、輝きを放つまで閉じた宝石箱の、仮死した生物の蘇生の、それら身近であればあるほどに稀代の趣きを見せつける。
なによりエミールにとっては、素行調査を楯にした情夫マノンとの出会いが至幸以外のなにものでもなく、鼻持ちならないジャン・ジャックの任務もまた慈悲に感じるほどであったから。
「すいません。夜のとばりの役に立てなくて」
あまりに殊勝なマノンの口調に対し、さすがに欲情が引いていくのを覚え、が、こんな子供だましの趣向で本来の素行が垣間見えるはずもない。
開き直ったのはホルンベルクの看板とは認めたくない反意がエミールを衝き上げたからであり、とうとう粗野な意向を誰とは捉えられない肉欲へ逆走し始めるのだった。
「ひとつ質問してよろしいですか。たしかそう言ってましたよね」
「それは・・・」
「もう身分も素行も知れたから、あとは報告書が提出されるだけでしょう。残念です。もう少し、いや、まだまだとぼけていたら、貴女は私に抱かれましたか。どうなんでしょう」
おもてだってはいないけれど、嫌悪と困惑がマノンの顔色を濁したのをエミールは見逃さなかった。
ややあってその両頬に薄い火照りを知ったとき、ようやく女人の機微をつかみとったと、哀しみに寄り添った気分がにじんでくるのだった。
[618] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜9 名前:コレクター 投稿日:2024年10月15日 (火) 05時08分
陰湿なまなざしにありがちの距離感を感じつつ、季節風とは一切かかわりに欠けた、ひび割れる緊迫がもしもあなたを襲うとしたなら、渇きかすれた眼光の不気味さと一緒に醸し出される、一種独特のよるべなさに身をこわばらせてしまうのは仕方ないとして、はからずもそのとりとめのなさに奇妙な親和の片鱗を嗅ぎ取っていたのであれば、本能的な恐怖は人類最古の感情とは言い切れず、ましてや未知のものに対する強い働きかけは、忌まわしき混沌と暗部によって充たされた劣勢の、避けようのない怯懦に支配された萎縮のみを体現するのではなく、ときおり無作法に明滅する古城の気まぐれな夜のともし火のように、おさない王女が駄々をこねた寝入り際の戯れなのか、古老の信者が熱心に唱えるまじないなのか、密かな逢瀬の合図なのか、それぞれの胸中にあるもっともな思惑はおそらく恐怖と向き合っており、いわずもがな吹き抜け風の自在は視界を裏切ったりせず、むしろ闇を照らす方便の顕れであって、もっとも深いところへ潜んだ茫洋とした機微を緩やかにたなびかせるだろう。
無音に揺らめく深海の藻を眺めやる視線がかりに定着してるとすれば、未知数に並列する意識もまた鷹揚で差し障りのない、意味のない思い出し笑いさえ生じさせ、愚昧の明るみに瞬き、静止することの気まずさをこころえたとしたら、そこに閃く一点の余韻はあなたの夢の断片を拾ったのであり、いつの日か連なる断片の奇特を知るとき、未知なるものはきっと鮮烈な二重性を指し示す。魂魄がすぐ隣へ佇んだとして。
「おやおや、奇遇ですね」
「さあ、どうかしら」
昼下がりの気だるさのなかにあった不用意な罪悪感と醒めた欲情は、おのずと希釈されたかのように夜のしじまへ溶けこんでいったが、透明度の浅い失意や、取りかこむ寂寥もまた持続性を頼みとしておらず、意外なほど屋外の照度にほだされて、気忙しく沈鬱な面持ちが抱える堅牢な姿勢を保ったまでのこと、なにも奇禍だけより好んで居場所を明け渡したわけではない。不純な、それでいて清廉な夜風が伝える感覚には追従が必要な場合だってある。
「この世のものでなければ、ゆめまぼろしでもかまわない。そう念じた途端、貴女の幻影は本物になり、どうしたって逃れようのない焦燥は、もはや避けることの出来ない過分に肥大した惜別の情が、胸をしめつけるというより、白々と間延びした門口に立たされたままの静けさをなぞるごとく、そして微かな軋みから不快感が抜きとられ反復へと移ろったとき、先立つ感情は起伏を忘れ、おぞましき知覚は卑近であることのかけがえのなさを、影法師に寄り添ってしまう未熟さを、視界をさえぎった禍福のなかへうずくまる威信を、明確につかみとるのです。
貴女の面影は浅い陰影を保ちながら私を籠絡したのでした。決して耳障りではない玲瓏とした気配によって、絶え間なく聞こえる通低音の溝を深めるあまり、抑えきれず、ただ放心の彼方へ追いやってしまう際どさで私に迫ってきたのです」
「ずいぶんね。それほど執拗かしら」
マノンは表情も声にも抑揚を載せない。
「そうです。諦めていた願いが一夜と待たずに劇的に成就してしまう」
エミールは恍惚からの距離を測れない。
「疑ぐっているの」
「いえ、そうは思いたくありません。しかし、通低音の響きはある意味ひとを落ち着かせ、不必要な哀惜まで連れ去ろうとせずに、仄かな明るみを感じさせる通路に不可欠な思考の序列を教えられるのです」
エミールの口角は理知を失った歪みをあらわにしていた。
「夜のとばりはわたしを大胆にし、あとをつけて来たのよ。理由は聞かないの」
疑問符が投げかけられるであろう刹那、悲嘆に暮れていた心象風景の音色と彩色を渇いた手つきで、やり過ごしの物言いで、損ないたくなかった。それが単に照れ臭さや狼狽といった後ずさりの体勢であったなら、人生は屈託ない空気に包まれていて、いささかの懐疑も根絶やしにされ、いっそう輝くべき不埒な喜びをかき抱くのだろう。そして僅かばかり取り戻した理知の専横にほくそ笑む。
「大体の筋書きは読めます。貴女は私を訝った。あるいは私にそそのかされた。いずれにせよ、大胆と言った行動のうねりは案外、姑息な問題をはらんでそうですね」
「なるほど、手短かってことね。まあ、そういうことになるかしら、で質問は」
見知らぬ街に充満した夜気の勢いはマノンに加担しているらしく、その情景は自然のなりゆきとも、陥穽に託された悪意の条件を偲ばせていたから、エミールは職務に着実な態度をこの夢見るような情景に塗りこみ始めていたが、それもどこかしら頑是ない見え透いた気取りにしか感じられず、胸の半分くらいは惑わしに溺れてみたい飄逸な色合いで染められているのだった。
既存の憂慮ほど透徹した道のりはない。たとえ施しようのない悪路だったとしても。
おおよその見当は不安や恐怖と同じ運びで訪れる。
「質問ですか。いや、反対に質問して欲しい。私はいったい誰に雇われているのでしょう」
横顔に険しく漂った空気をエミールは見つめた。
だが当然ながらその険しさは、愛憎劇で用いられるような見え透いた主張と同等、美しい斜線で描かれたふうな鼻梁が備える威厳をすこしも害することなく、かえって矜持の由縁を物語っていて、が、その冷徹な見た目の揺らぎなさに、女性の甘く薫るたおやかさが加味されようとも、やはり驕慢な口もとは偽りを語りたくて仕様のない趣き、かなめの双眸が放つ光の加減は、弱みを見せつけるのが天性だと言わんばかりの明証だったので、エミールはいくらか自信を得た気がして、ようやく相手の肉感的な雰囲気を見聞できるような情欲をのぞかせるのだった。
[617] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜8 名前:コレクター 投稿日:2024年10月08日 (火) 06時11分
ものわかりの良い顔見知りに接しているときほど、疑り深い気持ちを遠のかせ、それがいかにも合わせ鏡の恩恵であったにしろ、強い光線のなかに舞う汚れた塵の希釈を知る限り、透ける空気に清められた簡明さを打ち消したりはしないだろう。なぜなら、二重の反映は複雑さをしめすと同時に容認すべきことがらを瞬時にして曖昧な方向へ解き放つからで、その延長線には眩惑が待ち受けており直ぐさま、柔らかな判断へと導かれてしまう。
迷走に従わない定点は決して驚きを隠しろうとしない。どれだけまばゆい光がゆく手を指し示そうとも。
果物店の表に見定めた女へ向けた先入主がまったくの誤謬だったことは、エミール自身の問題として跳ね返ってきたのであり、なじみの野良猫につまずいた失態は直後に耳もとへ届けられた、
「あの頭巾の女がマノンじゃないか、ほらそうだよ」
という、ひそめた素振りにしては通りのよい声だったので、一瞬にしてまのあたりにした面影に魂は焼きつけられ、気疎い感銘に支配された。
それは居心地の悪さをともなう情動に他ならず、見苦しいくらい空騒ぎを演じてみたのだが、出会いが織りなす結ばれ、あやどりを願う糸さきの細さは豪快に仕草を絡めることも、絡められることもかなわず、むしろ演ずる態度から離れ、得心したのだと、ちょうど幼な子がふとした弾みで全身へ漂わせる神妙とした雰囲気が望ましく、また遊びのさなかに訪れた背後への不安をふり払う感じで、気おくれした神経がその細さを膨張させる恥じらいの好奇心へ傾けたのであれば、おのずとして野良猫の不思議は迷宮の地に舞い降りるのであって、その鋭い爪はなにかしら豊穣の耕しに加担するかも知れず、いつもなら素手に噛みつこうとする牙だって、きっと新たな刺激をこの街並みの風景へ印象づけるような気がしたエミールは、あらためて符丁が薫らす有意義な時間の結び目に、自らを縛りつけてみるのだった。
奇妙な遠征は動物の野生にひそむ大らかな逃避かも知れない。そして任務を終えたあとのこうした彷徨は無為でなく、人間の業が気前よく躍り出た見世物にも思えてくる。閉じた領域で絶対値を譲らず、ひたすら頑迷なだけの自身の影が外界へ踏み出し、その顔つきやら手つきやら目配せやら足つきやらに、いくらかの価値をつけ売り出そうとしている。気おくれはこうしてもっとも簡便で、あたりさわりのない弁明に落ちつく。
しかし精神の傾斜は理性とやらの横滑りまで支えきれず、その摩擦熱は案の定、もっとも青年らしい相貌で描かれた。手招いたわけでないのに卑屈な薄笑いを浮かべつつ、あえて激しく燃え盛ってもいない気性を相手に仄めかそうと務め、情熱の揺るぎのなさを姑息に香り立たせてしまうのだった。
瞬発力とまでいかないだろうが、痙攣的な義憤にも似た、けれども形相だけを当てはめた衝動はいうまでもなく、エミールの興奮であり、いっときも早くこの場から立ち去りたい羞恥に後押しされていた。が、懸想であれ悲恋であれ、純愛を意味づけた欲望がこうまで一方通行の攻撃姿勢なんて、今ここでのみ強烈な実感を得ているわけでもなかろう。
日頃より想いの果てに広がる色づく景色ほど独創で施されていると考えていたので、なにもあたまのてっぺんから足のつま先まで硬直に委ねていたわけじゃない。花売りからの一輪、手短な手紙、そしてマノンの瞳に巣食った哀しみを感じること、たとえ幻影に束ねられた偏見でも独善でも悪意であっても、単に時間の隙を走り抜けるだけの意欲が十全に働いているとは思えず、跳ね返りによってすぐさま退去するにはもう少し決意は固かった。
以前、賭博で一文なしまで擦ってしまった折、本然とわきあがってきた不健全にしてみなぎるような補填の意欲、当然ながら負債とは別種の、いわば借財をしてでもなにか高価な骨董とか貴金属とか買いこみ、さらには淫売宿での放蕩とか、実際問題と限りなく密接な関係で渡り合う情動の、失った金額に等しいくらいの、割り合いなんて度外視した全身酩酊の、悔恨の棚上げをどれだけ正当化し、痛苦からの解放をごくごく卑近で湧き立たせては武者震いし、人生のつつましさを唾棄すべく、悪魔を呼び寄せてしまいそうな勢いで、街中さまよい歩いたあの夜、悪行へと歩を進める進めないにしろ、とにかく放埒な気分を発散させなくては採算が合わないような意識に苛まれ、やがて憔悴した目つきを鏡なしで凝視した挙句、生命の空恐ろしさに打ちのめされたことを思い起こせば、月影の静けさで照らされるであろう、この小さな都にもやってくる日没が忌々しくも、やるせなく、雑踏がかき消えてゆくような儚さが相まって、遠目、近目に点滅している夜気への配慮が、いつしか遠慮のない由々しき侵略にも感じられ、すると暗闇が抱えるあまりに威圧的ななりわいに共鳴せざるを得ず、不純な動機と絶えなる願いの狭間で揺れ動くかに映るガス燈の、か細い先端が支えるランプの灯りが懐かしくも暖かく寂しげで、夜空を仰ぐまなざしを擦過する星屑に流れを見遣っては静止し、傍観者であり続けているような日々の屍めいた精神の沈滞が疎ましく、が、それは憤怒の情とは異なる従容とした眠りにいざなわれるための言い訳でしかなく、深更の徘徊にはつきものの、青白き夜景をそこ深く見守る漆黒の闇の意志がうごめいているようで、しかしそれは、あり得ない持ち得ない、過剰に感傷を呼んでは突き放す、思考への満ち引きが、しまいには胸いっぱいの罪悪感を膨らましてしまうものだから、刹那の沈黙を守るべきだと考えてみたけけれど、やはり手渡すものだけマノンに捧げ、そのまま踵を返すのが賢明である、エミールの衝動は願いどおりの展開へ繋がりそうだった。
「これ、そこで買った花なんですが、どうぞ」
動揺の所以は意外な感覚に訴えかける。手を差し伸べた相手の、あまりに唐突な、雨宿りの無聊と内省に彩られた果てではあったけれど、こんな事態の、懸想が実りを伝え、辛気臭いもの思いを踏み台にして成り立つ奇跡をエミールは称揚していたから、想像していたより美しい顔立ちは当然ながら、その上背ある肉感を隠しきれない体躯にふたたび気分が高鳴ったのである。
「どうしてですの、わたしに」
平静な素振りであること。いかにも通り掛りであること。格別に意識はなく雑作ないこと。些細な好意が風にそよいだまでのこと。
「別のどうこうありません。所用がありますので、それでは」
平均以下の青年像を演じてしまったと嘆いたのはいうまでもない。でもどうしても平然とした構えで彼女と対峙したかった。それがつつましい悪魔の優しさに違いない。エミールは最後まで悪ぶっていながら垢抜けない青年の域から踏み出せなかった。むろん手紙など差し出したり出来ず、懐に固く仕舞ったままだった。
うわさ話にそそのかされ、やがて妄想を拡大し、なんとか余暇を作ってここまでやってきた。
「どうも、ありがとう」
マノンが発した感謝の声を背にして、慚愧を滲ませながらもその背はともかくあらゆる感情で混然となった胸中に沈潜している。
「これでよかったんだ。手紙なんか渡したら大いに意味が生じてしまう」
それから宿をとるべきか、どうにか港まで行ってから一夜のことを思案しつつ、街をそぞろ歩いた。
垂れこめていた雲はもう雨脚を強めはせず、春先にしては少しどんよりした夕暮れの空がエミールを見下ろしている。動悸はすでにおさまってしたけれど、悔恨と失意は潔しの方角を標しておらず、早々と帰途に着くべき進退をかなり邪魔しているようで、もし明日出航に手違いが生じたら厳密なホルンベルグにどう弁明するべきか、などと杞憂を回転させてしまって、だったら今晩のうちに帰ったほうが絶対いいし、未練がましい気分ともおさらば出来るはずだから。
またもやエミールはどこをどう歩くわけでなく、日暮れに沈む街角の照度が落ちた情景のなかにいた。
知らず知らずなら微笑ましい、雨脚に霞んだ街路とは趣きが違うとぼんやり考えながら、やはりそこが先程の宝石店に面した通りだと気づいたときは、うっすら涙ぐんでしまった。
「花一輪なんかじゃなく、宝石を買って行けばよかった」
とりとめない想いというより、もはや痛恨の極みをさまよっている。それからのエミールは熱に浮かされた病人のごとく、散漫きわまる空想劇をぎこちなく組み立てていった。日没は夜の始まりを告げようとしている。
「そういえば、ハーロックはどうなったんだ」
高揚した脳裏と引き裂かれそうな胸のあいだを野良猫は駆け抜けてしまったのか。
「いや、ハーロックじゃない、黒猫は特に見分けがつかないからな」
エミールはマノンを見誤った意識の加減で野良猫を計りに掛け、奇跡の顕現を狂言的に感じ取ったのだと、明証をもって判断し、色恋に先んじた不可思議をこの地に塗りこめたのだった。
「でも、謎解きは終わっていない」
「そうだわ、なにかしら、ご用向きは」
「ええ、実は貴女にこれを」
「あの、わたしのことご存じなのですか」
「ええ・・・」
ひとりごとにはしては疲労をともなう、だが、機械仕掛けの連動みたいな無機質な内容だったので、無為は無為を自覚していた。
教会の尖塔が夜空にのみこまれたふうな恐ろしさが街全体を覆ったころ、エミールは本当の邂逅を体験した。闇の支配は専横だと信じていたし、ガス燈の灯りが霧状に中空に浮かぶ様子も孤独を謳っているとしか感じておらず、ましてや黒々とした気配をいち早くまとった街路樹の木陰には、名もなき浮遊霊こそ佇んでいても、芳しき女人が冷たく美しい笑みを投げかけている姿に出会うことなどない。不穏な霊に取り憑かれていない限りは。
[616] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜7 名前:コレクター 投稿日:2024年09月25日 (水) 05時29分
水際から離れゆく足並みは不ぞろいだった。宿命と呼称されうるものが地平に押し広がっていようとも、殺風景な余韻のなかへ意固地に吹きつけられたみじめたらしい願望は微熱を帯び、その内転に忠実であろうと務めていたから。
繁茂する岸辺の周辺ほど雑踏を望むものなのか、ケイトのあとを追うよう期待を噛みしめていると、
「浮かれて浮かれて、想い悩むことに底なんかないわ」
いかにもときめきに指針を見出したふうな微笑みを放ち、それがまた気まずくなるほど律儀な小悪魔ぶりを発揮していたので、ジョディは凝視を余儀なくされ、
「爺やがね、えらく根まわしのいい台本を創ってくれたものだから、そうよ、嫌味なくね。ただし飛び跳ねるほど上機嫌ではなかったけど、ほどよい脚色なんてうさん臭いくらいがちょうどなのよ」
と、歩を進め視界より消え去った葦の、すでに手の届かなくなった、けれどもあと戻りすれば確実に触れることの可能な風景を蘇らせる勢いで、
「生まれる以前に結ばれた色めく約束ってどうなのかしら。わたしのあずかり知らない不幸にして、いえ、それほど不幸ではない、どう捉えるのかすら不明のまま、許しを得ることが叶わずに底辺に、そう空き瓶のなかの空気のように、沈潜とは永遠に無縁であり続け、太古の因襲から解き放たれた過ぎた日の追憶とは異なる、経験値の放擲された予断が消え失せる未開のときめき、それはここにあって脈打つものなの。
わたしは肖像画の投げかけた親しみを至上の影と見さだめると、愛おしさであふれ出す光に惑わされてしまい、どこまでも無縁を承知のうえ、あえてその瀟洒な身なりを抱きしめ、漂うはずがあろうはずのない香りを遠慮なく想像するだけよ。そして甘く不安な実体に寄り添い、相手の瞳の奥で散華する常世に酔い痴れ、悲愁をまとえない身体のぬくもりに慰さめながら、冷たい口づけを交わすの。やがてそのまま、ほころびの由縁を確かめ合うことなく舞台中央へと優雅に踊り出すのだわ」
ケイトの眉は額のしわさえ諌める調子で、その声色もたぶんに芝居がかり、ひたすらジョディの視線を受けていた。
しかし揺らめきにうそぶくお伽話のともし火は、受け皿を置かない蝋燭のごとく急速に熱を奪い取り、平熱に安堵する夜更けの目覚めとなって床下へ落ちる。凝固を知ったしずくはただちに空き瓶を懐かしむ。
半ば呆れてしまうだろうと憂慮していたわりには、見えすいた遊戯の舞台は遥か遠くに感じられず、要約した意想のひねくれた子供みたいなもの言いが却って好ましい。
かつて馭者を務めていた家僕を爺やと呼びならわし、今だあまりある忠誠を乙女の夢に託している様子自体、いかにも花園を守って止まない純情を匂い立たせ、同時に無防備で怖れを知らない潔癖を訴えているかに思える。何よりそんな硝子細工が宿すような感傷に手放しで賛同、いや、馥郁とした、それはちょうど華やかで壮麗な花園の真ん中へ佇み、あらゆる些事からとき解かれた優美にして可憐なまなざしへの共感だったので、老成を覚えきれない胸裏を満たしたものこそ、やはり開花だとジョディは知るのだった。
歩調に狂いはなく、あるのは思考の遅れでしかない。そう強く念じた刹那、異国の情趣に圧倒されている自身の感覚をいくらか俯瞰できたような気がして妙味すら顔を覗かせると、
「なんか箱庭を造ってるようね」
ここに来てようやく弾みのある言葉が風に乗った。
「あら、ずいぶんね。旅には高らかな虚像が必要なのよ。でないと、すぐに迷子になってしまうわ。そうよ、はかなく流される夢を認めたのなら、騒ぎはじめた野心やら冒険心と取り逃がしては駄目なの。いいのだわ、壮大な情景は脳内の空気圧に関係するもの」
「その空気圧で箱庭を吹き飛ばさないでよ」
「なに言ってるのかしら」
「わたし、あんたほど度胸がないから、外の空気を吸ってもずっと部屋のなかで積み木なんかしているんだわ」
「雨の日はわたしもそうだった」
「今日は天気よ」
「さっきは危うかったじゃない。もう忘れた」
ジョディは一瞬、痴呆めいた表情に、口を半分開けたままの、まさにもの忘れにおののくことも逸した様子で、
「そうみたい。忘れたわ。けど先走っていたせいでもなさそうね」
そう言いかけた矢先、
「ではどうしたことかしら。とても重大な、いつになく絶対的な時間の重みがのし掛かった心理があんたを認識不足へ追いやったわけ」
と、語気を改めた。
「ねえケイト、前世の許嫁にしろ、来世の花婿にしろ、華やかな典礼が暗黒にくさびを打ちつけ、永遠の美徳を鱗粉のようにこの身にふり注ぐのを前にして、たじろぎもせず、ただの傍観者であり続けるとき、果たしてわたしたちはどの時間に安息を、いいえ、むしろ空騒ぎに閉口したあげく、黙して眼を閉じ、そして押し寄せる悲哀を受け止めがたいと認めれば、たいそうな物々しさで祭り上げられた過去と未来の幻影に、ふたたび怯えるしかないの。それがめぐる因果の形態に付与して、憑依を招くと説くの」
「少し悲観的ね。過去は取り返しのつかない負の遺産を抱えこんで仕方ない、未来は閉ざされた視界を謳い、切り開かれることを忌み嫌っている、そう信じてしまうなら、かなり強迫的な想念の、ある一側面だけを強調してるにすぎないわ。もっと別口の想像を働かせましょうよ。なにも難関の扉をこじ開ける必要なんてない。自ずと訪れる可能性を想像するしかないのよ」
「待てと言うの。いつまで経っても訪れない賓客の顔を想い浮かべながら」
「そうね、そう言うことかも知れない」
「ケイト、だったら聞くけど」
ジョディはまるで鋏を開いたまま断ち切ることをためらっている手つき、だが紙切れならいくらでもある。
「だったらだけど、あんたの下腹部はよく心得ているのかしら。爺やの段取りって密かな逢引きなんでしょう」
「なんだ、そんなことにこだわっているの。いいえ、したり顔の嫌味な顔つきで答えたいところだけど、あんたの相手だって考えてるつもりなのよ」
「なによ、それ、馬鹿にしてるわけ」
「まあまあ、そう興奮しないで」
「興奮なんかするもんですか」
「ちゃんと説明するからね、ジョディ」
「ちゃんと」
自分でも半べそをかいていると察したのか、またもやケイトの顔を見つめた。
「そうよ」
今現在は待ち人ではない。どうやら根まわしのいい台本が現実味を帯び、花園の景色に向かって拗ねた気分を持ちこめそうだ。乙女に限らず古風な憂いと失意には自らを騙さずにはいられない心理が回転している。
雑踏の気配がそよ風に運ばれジョディの髪を揺らしたそのとき、頼りない老成は人徳を得て歩きはじめるのだった。
[615] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜6 名前:コレクター 投稿日:2024年09月17日 (火) 05時12分
気負いはなにものへ勝っているのやら、滅多に漕ぐことなどなかった小舟の進み具合は、陽光で火照るうららかさに乗じたまま、混濁の彼方へ追い求めた無心に拮抗する構えで、滑りゆく風景の面白みを伝える間もあたえないうち、船着き場らしからぬ、土と草に被われた岸辺へ向かっていた。
いつしか神妙な顔つきで葦の生い繁る間隙を見定めているケイトに対し、
「ずいぶん手慣れた様子じゃない」
そう言いかけて口をすぼめたジョディは、思いつきとか軽率ではなく、禁忌をまえにして怯えてしまう刹那の所作に似た、ことさら虚勢を張ったり、打ち捨ててしまう方がよっぽど面倒なだけだと、不可思議に立ち止まるありきたりな感性を重んじ、寡黙な肯定に従うといった変に倒錯した心持ちを得てしまい、それは同じく時間の閃きがなせるわざなのか、学生の頃、試験の答案用紙を穴の開くほど睨んでいた自分と、まるで無関係な素振りで背筋を伸ばし黒板を眺めている近くの席の面立ちを想起させた。
すでに全問やすやす解いてしまったのか、それとも完全にお手上げで放心しているのか、なぜかしら小舟の操舵に長けており、そもそもの発案は気軽だったけど単なる冒険心の昂まりでなく、しっかり最後まで計画を実行しているケイトは、試験のときと同じく放心のさなかに、厳かな理知を働かせているようで、日頃からの饒舌やら高笑いでやり過ごしていた性格とは相反した一面が打ち出され、あこがれにも通ずる空恐ろしさが、まるで上流の彼方へわだかまった暗雲のごとく胸を占拠するのだった。
しかしながら青々とした茂りのうちに、冬の忘れものような退色の一群が点在するなか、波の勢いを脇に寄せ、ちゃっかり拝借してきた一艘を密かに繋留しなかればならない様子がどこか飄逸で、こうして見守ることのまなざしには流転の景色が泳いでいるのだろう、ジョディの抱いた思惑を乗せたまま、小舟は碇泊を乞い願っている。
慎重であるべくして募った一途な想いは、暖かな風に流されつつ身をこわばらせ、当然ながら港付近や人通りのある場所は避け、かといって胸元まで足が沈みそうな深みは遠慮したく、うまい按配に頑丈に絡まった灌木に結べそうな草陰を物色しているのか、ほのかな背徳が小刻みに震う岸辺を漂っていた。漂いの愁いはケイトに委ねられ。
気持ちのほとんどが信頼の比重で占められたのだろう。電流より早く試験の際の頼もしさをめぐらせたのだから間違いはない、小さな都への始まりからジョディはほとんどケイトに頼りきりだった。ただその立場を認めることは何もかも一歩さがっているふうな不甲斐なさで、卑屈を切り盛りしていると感じたから、あまり愉快にもなれず、複雑な心境にくすぶっていた。
ケイトにしても小舟を操り、うまく岸辺へ繋ぐ算段をいちいちジョディに告げたりせず、寡黙な姿勢が今は大事だと感じているはず、しかし考えなおす必要もない、試験はおろか、いろんな運動だって、風変わりな遊びやちょっとした賭け事だって、常に負い目だけ刻まれていたわけでなく、半べそかいたケイトの純情そうな瞳を覗き見たことだってあるし、おおらかな性質でも哀しみには弱く、あるときには真剣な眉間を消さず
相談事を持ちかけられ夜更けまで話しこんだこともあった。
どうやら互いに親友だと認め合っていることに誤りはなさそうで、たとえ敗北を喫しようとも、それはある一面が照射された際に目立って光彩を放つ角度であって、反面からうかがえば、光の恩恵を必要としない凄愴な事情が相手の畏怖になり、思わぬ加減で信憑や崇拝に転じる場合だってあり得る。
持ちつ持たれつが言葉の応酬に終始している限り、無言の友情など育まれたりしないだろうし、互いの得意な意向を見遣り、決して背丈を比べたりせず、朝陽なり夕陽なりに長じる陰を踏みしめつつ、こころの痛みにあえて鈍感になってゆくのが、無垢なる叡智だとしたら。
つまらない詮索と自律的な記憶をたなびかせていた矢先、
「ほら、あそこならちょうど良さそう。少しばかり葦をかきわければ道筋になっているようだわ」
と、ケイトはいつもの快活な調子で微笑んだ。
そのとき忘れたとばかり思っていた懐中時計が上着の隠しポケットから見つかったけれど、針は体よく正午を示したまま止まっていた。変調は停止にあらず、瞬間の感慨は不確かさを望んでいる。
「あんた河川少女隊にでもいたの。なかなか見事な手並みよ」
ジョディはちゃんと声に出して笑みを返した。
ありきたりな気負いは肉声に導かれ、その発露に触れるとき、弾力のある、少しは弾み過ぎて感傷すら勝手に手招いてしまいそうな、自己憐憫と背中合わせの完備な戦慄を知る。が、戦慄は共鳴を導く。
河床に根を落としたような灌木を数本数え、ケイトは舳先のさざ波の余韻を伝えるふうな接近で静けさのなかに緊張を張り詰め、そして水中に身を浸すもとなく鮮やかに荒縄をたぐると、揺れる船底へ喝を入れるような気合いでもって見事に灌木へ係留し終えるのだった。
安堵の吐息はそれでも女性らしく、あたり一帯の無人である空間にたおやかに漏れ、互いのまなざしは同性であることの揺るぎない確信を、そして矛盾を承知で逸しかねない先鋭的な火花を薄く咲かせた。白昼の火花ほど虚しい灯りはない。しかし虚しさは素通りすること、あるいは素通りされることの二面性を秘めており、その営為は底なしの足場に赴く気概をほころばせている。
葦の丈は案じていたより低く、野原はやや傾斜があったけれど、距離感と奥まった感じは上陸にふさわしい趣きで祝福の日差しを辺りに照り輝かせたのだが、ケイトの得意げな面に険しい陰が一瞬、傷のように刻印された。
空模様は普遍の移ろいを熟知しており、幸いにして通り雨に打たれなかったふたりは、いよいよ確信へと歩を進め始めた。
遠慮というよりジョディはいかに自分が臆してしたのか、おおよその見当がついてきたので、
「ねえ、なにか隠し事があるんじゃない。とても大切な」
伝う言葉は意外に輪郭のある響きをしており、切り出したタイミングもまた適宜であると首肯した。この自賛はもちろん身勝手で適当な会話の連なりではない。乗り手に甘んじていた弁明は一方通行ではなかったから。
「道筋がはっきりしてから話そうと思ってたのよ。本当よ、誓って本当」
両脇で払う葦の頻度が減ってきた頃、ケイトは懸命な声色でそう言った。
「想像つくわ」
「はあ、そうなの、ではどうぞ」
拍子抜けしたわけでなく、むしろジョディは一段とケイトが愛おしくなってきて、
「なら言うわ。文通相手でしょう。会いに行くわけね」
と、自信ありげに答えた。
「あら、よく解ったわね」
「えっ、まさか」
「とても古い文通相手だわ。あんたが知らないひと」
「おさない時分に越していった近所に住んでいたひとかしら」
「残念、おさなくなんかない。わたしの許嫁よ。前世での」
ここに来てまさかたわごとを聞かせれると夢にも描いてなかったジョディは、
「信じたいわ、そうよ、あんたのこと。でもいつから心霊思想に取り憑かれたの、いいえ、説明はいらないわ。夢見る詩人だった、それを隠しているだけだった、そう言ってくれたらいいの」
「これから先もあんたと一緒なんだから、今ここに足を踏み入れ、ことの次第を噛みしめようと願っている。得心のゆく因果が必要なのよ。だから一応なりゆきは説明させて欲しいわ、ねえ、かまわないでしょう」
悪乗りの勢いや狂恋を支える情念、矮小で硬質な意地や、反対に大仰な素振りなど見当たらない。
親友なんだからきちんと耳を貸すべきであり、小さな都の入り口は今ここに厳然と門戸をひろげたのだから、たとえ悪夢であったにしろ、旅は時間を巻きこみ、大量の懸念が消費されることを激励しているかに考えられて仕方なく、そうなるとケイト自身も未来の趨勢をのぞき見る覚悟が出来上がり、いっそのこと来世の花婿と渡り合う景色に埋もれたくなってきて、ひとはなにかへ収斂していくという、現実世界を超え出たまだ知ることのない妙霊なる彩りに染められ、魔界へと昇天してゆく心持ちに支配されるとき、生きとし生けるものの宿命に刮目せざるを得ないのであった。
[614] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜5 名前:コレクター 投稿日:2024年09月10日 (火) 00時03分
次第に静まりつつある雨脚へ投げかけたまなざしは案の定、安堵を定着すべく平行にひろがったのでも、格別に心地のよい放物線を描いたわけでも、あわただしさに巣喰った気分の入れ替えに準じたものでもなく、ごくありきたりな、水色の空気が灰色で濁された視界に明るむさまを緩やかに受け入れていた。
切れ切れの波状が意識に浮かび上がる記憶の残像もまた、きちんと上梓された日記が紡ぎだす広大な領域まで至ることなく、不可分で緊密な節度を揺さぶるまでの反動とはならない。
ここにあるのは内密の雰囲気をまとっただけで、商会の上役やホルンベルグにはことわりを入れなかった気まぐれを良しとする狭隘が立ちすくんでいただけのこと、思いがけない場面で宝石店の窓ガラスが映発していたのは、演劇の渦中にあって華々しく登場人物を盛り立てる劇伴の調べに他ならず、激しい雨音が自然の理で意想を浸蝕する懸念とは別物であったから、他愛のない噂話しに乗せられた浮薄はむしろ反対に、突然の心模様を強く意識させ、明確な情景など持ち得ないという居直りに導かれてしまっていた。
エミールはまだ小雨を残した街路へと勢いよく飛びだし、内省的な心情をかなぐり捨てるふうな早足で劇場を目指して歩みはじめるのだった。
見知らぬ街をさまようときに感ずる歪ながらも薄笑いのついてまわる身軽さ。同時に目的を定めていない先細りが身を縮めるであろう圧迫。それでも無私を気取り、追い風を幸いとして十字路で戸惑うひりつきが、まるでほろ苦い香辛料をかけ過ぎた誤りのごとく甘い自責を口ずさんでいる。
影がおのれを追い越してしまいそうな予感と横並び、不意のひとまたぎに過分な歓びを味わうのであれば、それは空腹をぼんやり知ることであり、また情欲のうごめきをせま苦しさのさなかに感じながらも、不本意で横溢な別種の思惑が透けて見えてしまうだけのこと。渇いた情欲が雨の恩恵など受けるはずもない。
エミールはいつしか自身を叱責しつつ奮起している光景のただなかにあった。宝石の贈り物も華美な花束もいらない、必要なのはさきほど買った赤い一輪と、鮮烈なまでに一方通行である簡単な文面の手紙であった。
いつの間にやらこんな具体案が生まれたのか、適当な方便が整ったのか、それはまるで濁流にもみ流されてゆく箱舟の理想を解したとでもしか言いようのない不可解な心性であった。
自分でもよく分からない刹那の衝動は恥じらいを忘れており、あたかも脱皮した蛇のうねりが濁流に挑んでいるような不遜を宿している。
犯罪者をかくまった挙句、非難より同情を寄せられ咎めらしい咎めを受けなかった美しい情婦にエミールは懸想してした。それは恋でも熱情でも憐憫でもない。挨拶はおろか、正確な容姿もすれ違ったことすらない見知らぬ他人に抱く、青白き炎に焼かれた冷たい肉体を愛でたいが為だけのこと、いや、実際の裸体など触れる余地などあるはずもなく、また遠目にはかない想いを寄せる風情もかき消えており、しいて例えるなら、世間がとやかく言う良識の陰に隠れた嫉妬を讃えてみたかった。嫌味な顔つきまるだしで美徳を謳ってやまない無粋が鬱陶しかったから。
理由はおそらく絶対権力に等しくまだ背後にひそんでそうだったが、すべてを引きずりだし検分するほど人生は価値観を望んでいないと察したので、暗幕からの指令にあざとく操られている怠惰が意外に好ましく思われ、その気だるさへ逆恨みでもするようなどす黒い衝動に息吹きをあたえた。そして予感は階梯とは無縁の力学を孕んだとうそぶき、きわめて演劇的なもの言いが実現される。では羞恥の芽が出ないうちに思いつきを成し遂げよう。
「はじめまして。ホルンベルク商会のエミールと申します。いきなりな挨拶をお許しください。すぐに退散しますので、あっ、これをお受け取り願えないでしょうか」
舌を噛みはしないか、少しばかり心配だったけれど、もう何べんも暗唱し、素早く赤い一輪をそえた薄い書簡手渡す。それだけの行動と仕草を無感情とはいかないが、できる限り慇懃な物腰でもって相手に不審が訪れるまえに踵を返す
「どうして・・・」
そんな疑問が好ましい明るみで点滅し、のちの不安を抑えこんでくれるなら。
無造作にかきあげた情婦の前髪は指先からほつれ、ため息とも似つかわしい気な、か細い声を拾った刹那、よそよしさにまぎれた専横な調子は狂いをしめさず、却って聖なる威風のなかに取りこんで間隙は見失われ、人生の意義は教本の厚みでうなされるあの悪夢からの帰還であることを学び、たちまちにして最も瑣末な冒険のいざないを悟るであろう。夜気を呼び寄せる以前、まだ漆黒の魔王の無邪気な徘徊も始まらない雨あがりの午後、苦渋の仮面は突然に燃え盛った青白き炎に照り返されたまま、哀しみの過去に翼が宿っているのを知ると、迷惑げな台所や、美しすぎる洗面所や、寝間着が山積みになった寝室や、北極へ向かうために作られた階段や、死体の蘇りを待つだけの玄関に花びらが舞い降りる。
そのとき、あなたはようやく温かな涙を覚えこう問いかける。
「なぜかしら」
エミールのおこなうべきことは好ましさの嵐に包まれ、どこまでも汚点を残さない意欲にあふれていたが、そう都合よく場面は立ち止まってくれると限らない。一抹どころか実際かなりの危惧を背負っていたけれど、成功を祈るしか道はなかった。いっそのこと、眼前までおもむきすべてを夢想して帰ってくるという見苦しくも微笑ましい方法も思い浮かべてみたが、それでは人生の価値観を偽善的に引き上げてしまうようで、だったら独断的な演技でこの空間を引き裂いて、その裂け目の向こうに意識を預けてみたい。
衝動にためらいや人道を案ずる猶予はなく、ただ短く青白い冷たい炎を燃えあがらせるだけである。どれだけ方便であっても、のちのち検証されるであろう血管逆巻く情けない場面を迎えようとも、若気の至りとか、血気盛んなどと小馬鹿にされようが、今は見知らぬ情婦の悲劇に突撃するしかなかった。
救いでも気休めでもない、むしろ打擲であり気まぐれであり、粗忽なくらい澄み渡った耳鳴りのなかに聞き取る永遠への調べにさらわれたいのだった。
足早なエミールを待ち受けるかのごとく、そびえたつ劇場の重厚な赤茶けた風格は、匂いたつ記憶の底のわだかまりを泳がせるようにして、馥郁たる品位が軽薄な孤影に被さり、それから時代の歌が耳もとにまとわりつく。
天空を突き刺したまま微動だにしない両端の尖塔の威圧は、エミールを鼓舞するに申し分ない鋭さを保っており、流麗かつ古風な建築全体を守護しつつ、艶やかなオペラの声域を漏らしてあまりあるほどの奢侈を見せつけ、厳かな枠組みで居並ぶ通し窓の規律は、線状に空間を伝って人々を魅了する弦楽の美しい響きに呼応し、その絢爛たる客席を造り出した最高級の調度がしめす潤沢の加減を十二分に伝えている。
が、今日は偉大な楽曲にも反響装置としての芸術的な佇まいにも用向きはない、こうした厳然たる構えとは無縁の、一瞬で消えてしまうマッチの火のような、あるかないかも心もとない落し物を探す小さな明かりのような、たどることが出来ないあの世に向かう提灯のような、使いものにならなくなった老人の陰茎のような、寂寥とした情調に漂っている。
エミールは評判高き嘆きの情婦の陰に、刹那が集うべき本質みたいなものを嗅ぎ取り、新しい価値を見出していた。
鼻息荒き独善理想。劇場を名残り惜しくも贅沢な余韻として吹き流した先に、かの果物店はあからさまに色彩と香りを積み上げていた。情婦らしき端麗な横顔がよぎってゆく。高鳴る動悸を抑えながら足早のまま歩み寄ろうと務めたエミールは、不意にすぐ前をよぎりうずくまった黒猫に驚きを隠せずつまずきを見せた。
よろめき危うい足取りとなったのではなく、自宅にほとんど毎日やって来る野良猫と見紛ったので、かなり不可解な気分にとらわれ、忘我の境地から目覚めるを得なかった。
「どうした、ハーロックじゃないか」
思わずしゃがみこんでまじまじと見つめたところ、やはり同じ猫に間違いなさそうで、
名前を呼ぶごとに「ニャー」と返す間合いもほぼ等しかった。
はたして野良猫がこれほど離れた土地を遠征することなんてあり得るのか、そうだとしたら、なにかこの場での邂逅は、意味深な符丁に感じて仕方ない。
「トマトも一緒か」
あたりをうかがってはみたものの、それらしき姿は見当たらず、ハーロックの返事も否定的に聞こえてくるので、もはや了解するしかなかった。
エミールはいつもの癖で胸ポケットからチュールを取り出そうとしたが、指にはさまれたのは半切れの巻き煙草だった。失意の煙は夕靄に先んじていた。
此の期に及んで愛猫の念につまずいたエミールを堕天使は見捨てなかった。
「あら、可愛いこ」
見上げることの億劫さ。それは逆説であり迷妄であり堕落である。まぶしき太陽をあえて見つめたりしない。不本意な祝福、そして解けかかる謎。
紺色の頭巾を斜に被ったそのひとこそ情婦マノンであった。
[613] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜4 名前:コレクター 投稿日:2024年08月19日 (月) 05時46分
通り雨に不意を衝かれたというより、それらしき気配は何気に空を見上げるまでもなく、道なりに臨む街の雰囲気が照り返しを休めたからであって、格別そうした陰りに驚きを覚えたわけではなかった。
むしろ太陽と土と埃が日向特有の匂いを放つとき、驟雨の知らせは気忙しい胸中と異なって、ちょうど渇いた光景が待っていた湿地に赴くような安楽を少しだけ含み入れた。
晴天の透明度がもし確実であったなら、いささか見通しの悪い路地の加減はその段差を伝えるだろうが、濃い筆先で塗りつぶされた陰影はまだ陽光の牙で削られているのであり、用土に溶けこむような手堅い感覚が打ち返される。どうにも自然な、ありふれたわけでもなさそうだけれど、そちらは勝手にやってくれとでも捨て台詞を吐きだしそうな、適当でも意味深でも偶然でもない、日頃の意中に鑑みるまでもなかろう、いちいち文句ばかり垂れている境遇さえ、もはや風化、雨音は調べになり得なかった。
にしてはどこか不機嫌な顔つき保ったままの淑女を思わせたりし、先の十字路まで同じ雨脚で煙る様子に紛れこんだまではよかったのだが、遠近を忘れた恋慕と、鉛色に染まる網膜が教える自堕落な面映ゆい心持ちが、まるで塀の片隅で立ち小便をするときみたいな気まずさを垂れ流していたから、瞬時に消えゆく幻影は空模様と一緒の希薄さを抱えこんでしまっている。
その由縁に探りを入れた途端、やはり興ざめしてしまい、たぶん際どさがおもてだっていたのか、それともへし曲がった軟弱思考で引きずられたのか、どちらにせよ垂れ籠めた灰色の雲の言いなりになった雨脚の強弱には感銘できず、濡れそぼった髪や衣服が心地よいはずはなかったけれど、しかしながら何処へ急ごうという思惑を抱いていない身軽さにはちょうどよかったから、こうもり傘を買ってまで雨空に向き合おうなんて気分とははなはだ無縁であった。靴底が水びたしになった違和感がかつての幼童を取り戻してしたにもかかわらず。
そもそも所用を持たないから、こんな決まりのない双眸で景色を捉えているではなかろうか、いいやそうではない、用向きはすでに済ましている。ホルンベルグの指示だと上の者から伝えられ、機密書類を隣国まで出向き手渡して来た帰路、日程に余暇が生まれたのを幸いに、まだ見ぬこの繁華街へ立ち寄った。ふらりではない、他愛のないうわさ話しにつられ、実証という興味をうしろめたく掲げ、さらには悪夢に苛まれたく、忘却の日々の裂け目を縫い上げる邂逅に冷ややかな笑みを浮かべながら。
もっともな事由はいつも殊勝でひかえめな、そのくせ祈りにも似た期待を隠しつつ平静を装う。いや、装いが平静を演じていると断じても過言ではない。
発露に席を譲る。実際の腰掛けはなく、宝石店の広い軒下に佇んでいるだけだったけれど、誰かへの贈り物を求めたいわけでもなかったエミールは、冷やかしにしろ店内で雨宿りをしようとは思わなく、この行き当りばったりの緊縛とまでは呼べない怠惰を見届けているのだった。どしゃぶりの外は困りものだという表情を生き生きさせて。
目の前を駆けてゆく精悍な顔つきの馭者が握りしめた手綱の緊張にしろ、雨粒を全身で受けては弾く従順な馬の鼻息にしろ、愁いと困惑で張りつけた仮面をとらない主人にしろ、陰鬱な光景が魅せるありきたりでいくらか面倒な感じに底知れない雰囲気が漂っている限り、雨水と泥の配分の悪いはね返りや、印刷を見苦しくにじませてしまった紙煙草の空箱や、水たまりを避けてひざまずく物貰い、小走りに得意顔で遠ざかってゆく小僧の鼻水などは、嫌な胸騒ぎと同様、勝手に振舞われる虚飾の絵物語りを見つめている自失であって、鈍色が投げかける夢想のすそにたな引く淑女の面影を明確にさせることはない。
晴れやかな心意気と一緒でそれは透徹した悪女を恋い慕っているときの、寝ても覚めてもいらだしさに包まれた肉感だけを天空へ浮かべているようなもの、貞淑なる様相は過分な罪責感をまとった攻撃的な構えに他ならず、幻影が置き忘れた淫欲に向ける冷ややかなまなざし以上の何者でもなく、封印という重しに美徳を得るための方便であり、卑屈さに小刻みな快感を覚えることだけ学習してきた能力を最大限に発揮しているだけに過ぎない。
かくべつ自分が昏い眼をしているとエミールは考えなかった。
現にさきほど雨に打たれながら花売り娘から買った赤い一輪を手にし、なにかしらすがすがしい気持ちが胸を占拠したばかりで、どれほど深くかは知るよしもなかったが、用向きを終えてしまうと、あとは滅多に訪れる機会のないこの港街をさまよい歩いてみようと案じたのだったけれど、決して闊達な歩幅で踏みしめるような天候ではなくなったので、一気に陰気臭くなりかけたりしたものの、立ち飲みの酒場で二杯ばかりあおって雨宿りのていであえて萎縮しているのだと、自分に言い聞かせるのだった。
振り返るまでもなく宝石店のガラスは水滴を寄せつけてなお、澄み渡ったきらびやかな貴金属が放つ光を歪ませることなかった。反対ににじむ色彩があたりに飛び交うような見栄えさえ打ち出し、いつしか店主と思われる品のいい口髭をたくわえた相貌がにこやかに微笑むのを知ると、妙な羞恥は雨脚に駆け寄ったのか、そして濡れた衣服は低俗のきわみを夢見たのか、返す踵は脳内の運動であって、実質のエミールはまだ見ぬ架空の淑女に贈り物を手渡す情景を描き始めた。
「ある男が銀行強盗を試みて失敗し、手配者となったあげく、女にかくまってもらっていたけど、ついには拳銃自殺したそうだ」
エミールは流言に耳を貸すほど自分は軽薄ではないとうぬぼれていたが、
「その女がこれまたえらい美人だとよ」
「で、どうしたんだ」
「どうもこうもない、一番大きな劇場の近くにある果物店で働いているそうだ」
「なるほど、つまり見物客が大勢ってことかい」
「まあ、そんなところさ」
エミールはその劇場を覚えていた。まだ子供の時分だが旅行で立ち寄った折、ヴェニスの商人が掛っているのを観劇したことがあった。
玩具のブリキの船が家の小さな池に浮かび、燦々と光線を浴びている思い出は遠く儚い。しかし絵本のなかにあるような特定の、もしくは得難い美しさの逃げ去ったあとを追いかける意欲の薄らいでしまいそうなもどかしさを演劇は記憶の底に埋めていた。
見切り発車が身上と意識しなくとも、ブリキの船は常に浮かび上がるエミールの情緒を乗せて回遊していた。言葉の接点が見出されなかったあの頃、香ばしいクッキーの匂いや色味さまざまなゼリーがあたえる感覚は、他の玩具、リスの置物だの、弓矢の模型だの、小型のカスタネットだの、錆びて古びた王冠だの、いかがわしい悪魔の像だの、金色の笛だの、そして裏窓にへばりついていた昆虫の数々と一列の連なりで味覚を越えて胸をときめかすのだった。
[612] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜3 名前:コレクター 投稿日:2024年07月31日 (水) 06時19分
河岸の向こうを遠く歩く人影が蜃気楼に思えてくる。
日頃ならばこちらでなく、今は対岸である見慣れた道筋の連なりに茫洋とした風景を、まばらな民家にそって青葉を揺らす木々や、その木洩れ陽へ霧がかるふうにして煙を吐き出す煙突の、頼りなく視界を止め置く存在が、川面に流れ散る落ち葉と掛け合って、定まりようのない柔らかな断層を隆起させると、春風が抱く映発する土地の色彩はなおのこと、淡色に霞んだ空気の淀み漂う匂いを消し去ってしまうのだった。
ケイトの提案をどう受け止めてよいのやら、気軽な返事にいくぶん戸惑いを見せていたジョディは、
「ていよく二人乗りなのはいいけど、無断で漕ぎ出したりしてかわまないのかしら」
そう困惑を底辺からそよがせると、
「誰に断りを入れればいいの、置き去りにされているのよ。またここへ戻しておけばそれで大丈夫よ。別に盗むのでもあるまいし」
説得力は持ち得てないが、歯切れのいい口吻に同意している自分をジョディは薄っすら認めていた。
昨日の取り決め通り、二人はいたって軽装の、編み上げ靴に乗馬ふうのズボン、木綿のテラード、手荷物といっても肩掛けの鞄だけで、中には水筒と紙で包んだライ麦パン、地図もコンパスも持たず、紙幣の束を二つ折りにしポケットへしまっていた。
ただケイトは髪を三つ編みにしていたので、きっと風にあおられるのを避けたいのだろうと思い、ジョディは鳥打帽を被って来たことに安心するのだった。
繋留された小舟を難なく自由にしてしまったケイトの手際に感心する間もなく、川の流れはごく自然の理であることを無造作に伝えたまま、さほど力まなくとも漕ぎ出す加減は軽く、岸から離れた流れの真ん中あたりを進む感覚はそれなりの開放感に満たされている。
晴天に恵まれた心持ちは打つ立つような調子までいかなかったが、暗雲が胸のうちに生じていたのなら視界を牛耳る按配は決して悪くない。相殺の意が空気抵抗を受けずとも成り立っているという、発露さえ覚束ずに、受け身であることの皮膚感覚やら体温やら、擦過する塵芥の、明滅する気分の変動やらも消えてなくなり、なだらかに横すべりしてゆく光景だけが、振り向き加減の偶然に未練がましく留め置かれる。それは当然ながら機微を含んだ燃立つような意想でも、忘却の彼方に置き忘れたもどかしさの原型でもなく、来たるべき将来の縮図に畳まれた理想のありかでもなかった。
無作法な呼吸に添って繰り返されるだけの網膜の連動でしかない。風景はおおむねそれくらいのとらえ方で成り立っている。とすれば、思考らしさにこと欠いた断片の散らばりは、どうしてこれほど不思議な落ち着きに結ばれているのだろうか。
ジョディはもっともらしいまなざしでケイトの顔色をうかがってみたのだが、すぐに相手の表情に同列の気分を見出せないことに気づき、むしろ他愛もない会話がせっかくの雰囲気を乱してしまうときのよう、寡黙な横顔を架空の鉛筆で何気になぞっている方が、意図も趣旨も生じていない静謐な実感を得るのだと思えてくる。
さらには早瀬を知った船底から感じ得る律動には、波打つ勢いで揺れる両肩の背後へと流れる景色の、近寄りがたい感じが放ち続ける遠望の原理を説かれているふうなまとまりがあって、それはちょうど甘く淡い透き通った水菓子のように、食すまえに涼しげに眺めてしまう瞬きが氷解した、焦点に恍惚が溶け出した、味覚に先行するいささか大仰な想いに占拠させてしまうので、おのずと広大な青空の下に色づく点描はおぼろげな囲いを取りはずし、脈絡に導かれるのかどうかも分からない不分明な、しかし空洞にしろ、穴あきの下着にしろ、見つめきれないわだかまりにしろ、川のさざ波が流暢であるほどに、思念は時間の連鎖から解き放たれ、食した水菓子の食感を虚実に訴えるのだった。
「もう帰ろうか」
「なによ、それ、まだ正午にもなってないわ」
「でもね。遠すぎるのよ」
「ライ麦パンでも食べる」
「そういうことじゃないのね」
「じゃあ、どういうことかしら」
「ほら、あっちの空」
ケイトはいたずらっ子みたいな破顔のなかにいかにも厳粛な眉根を寄せたものだから、
「空がなによ」
そう言い返しながらも自分の問いかけはすでに理解されてしまい。
「雲ゆきが怪しいってことね。雨具は用意してないし、大雨にでもなったら転覆してしまうからでしょう。災難は可能な限り早く察知しなければ、あたふたするまえに引き返そう、それで無難な方向へ意識を傾けようってことなの」
ジョディは憤怒の面持ちを隠しきれないまま声高になった。が、ケイトは悪びれた様子もなく、
「そのとおりだわ。で、ほらこの先の入り江、どう、あそこに上陸しない」
「はあ、上陸、わたしたち兵隊なの」
「上陸は上陸よ、そう言わないでケイト、あそこから港にへ入るとけっこう栄えてる街があるけど知ってる」
「行ったことないけど、地名くらいは、けどなんでよ」
「小さな花の都だわ。本場と似たような劇場や宝石店があるのよ」
ジョディは眼をつり上げながら言った。
「ああそうか、そういう算段だったのね。はなからあの街へ行きたかった、そうでしょう」
「まあ、結果的にはそうなるけど、でも春の嵐に巻きこまれるよりは賢明だわ」
「誰も好きこのんで雨風に打たれたくないわよ、もう分かったからそれでいいから、先を急ぎましょう」
憮然として了解したジョディだったけれど、櫂を握りしめた手は豊かな力でみなぎっており、にじむ汗が春の光りを透過させていると感じられるのだった。
[611] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ〜2 名前:コレクター 投稿日:2024年07月23日 (火) 06時55分
書類の整理はなだらかな坂を踏みしめる感覚と似て、軽い倦怠に終始していたけれど、筆記の誤りは見過ごされてはならなかったので、口もとはときに緩んだまま、だらしなく半開きの、ちょうど子供の放心のような、あるいは情熱の接吻を待ち受ける艶やかな無邪気さを保ったり、反対に保ちきれない尿意できつく結ばれたり、自在な困惑に流されていたのだったが、その目視に一切の散漫が許されないことは自明で、重苦しい疲れと呼んで差しつかえなく、習慣が裏打ちする怠慢はほとんど振り返られなかったから、おしらく気まずさの手前で顔を歪めてしまう緊張の薄着れに包まれてるのだろう、妙齢ふたりの表情は窓の外に映る天候の加減とほとんど関わり合っていない。
経理と事務を担った一室にみなぎる気配は、気ごころ知れた友人の間に平然と割りこんで呼吸にも遠ざかりを命じているかのようであった。
「ちょっといい、ケイト」
ややあって、ひと段落ついたという面持ちが相手にも差しているのを見届けたジョディは、
「この前のことだけど、あれからなにかあった」
と、ことさら声を低めて話しかけ、いかにも罰の悪そうに顎を引けば、
「わたしもけっこう気になっていたの。いえ、特に変わったことはないけど、あと始末っていうか、とにかく仕事が済んでから話すわ」
同じく森の茂みから街道をうかがっているふうなケイトも内心引っかかりがある様子で、このわずかの会話の余韻は窓硝子を響かせる壮重な鐘の音のごとく、村でも評判の器量を曇らせる陰鬱さに沈みこんでいた。
それはさして深みを持たない小池の底で青黒い光りが鈍く放たれている古銭の価値のように、つかみどころのない懸隔で支えられたもどかしさをはらんでいた。
すぐさま実務に立ち返ったにしろ、おさない時分より仲の良かったうら若きふたりを律する境遇は、どこかしら悪魔的な規範が植えつられているみたいで、はっきり諭されたわけではないが、ジョディの家柄は連綿と馬蹄職人を生み続けてきた由緒ある古式の、そしてケイトの父は石工組合に属しており、両者ともにホルンベルグからの信頼が厚いという縁故ゆえ、貿易商を標榜する組織へ身があずけられたが、一説には強要だの、身請けだの、あらぬ風説がささやかれたりした。しかしどの奉公でも均しく内密は守られるべきであって、ホルンベルグの商会が危険分子を秘匿している根拠もまた流言でしかなかったので、確かに潔癖な煉瓦造りが堅牢であればあるほどに、その厳格な雰囲気からは不浄で怪しげな感じは、ほころびと同等の裂け目を、ちょうど古色の壁面からにじみ出す岩清水を想起させては、ただちに汚濁を重ねあわすという按配だったから、威厳と蔑視はやはり他者の心理において発動させるべき粗雑さを組しているのだろう。
格別ふたりの令嬢に対して非常な箝口令は敷かれておらず、その明け透けなところが強いていえば、清濁を呑むような格調を起立させていた。
一般に通底するよう事務処理の的確が要求されるのは当然で、厳密さは実務のかなめなのだと首肯しており、なにも父親らとの関係を穿つまでもなく、さながら中世の暗黒の掟が長い歴史と歩んできた家風の、教える優美な振る舞いの影にうずくまる嘲笑の残酷へと思い馳せるときの、地ならしされた伝説の厚みがはかりきえれないに過ぎず、恐怖の記憶は曖昧にして浅薄な感覚を培っているのであった。
生まれてあることの疑念が日々をおびやかすほどに精神は鮮明ではない。ジュデイとケイトは単に仲が良いというだけでなく、振り返ることを強要しない馥郁たる安寧を共有していた。
いくぶんか心配性で、こと異性に関する話題には敏感だったジョディにしてみれば、ホルンベルグ商会に属しているという立場の比重はあくまで軽い。先日の復活祭の折、ケイトとちょっとした冒険を試みたのだったが、そのあまりに無謀な行ないを恥じているのであって、きわめて個人的な問いかけに過ぎなかった。
手繰るよう懸命に書類をあつかいながら、意識の大半は復活祭の前日、何気なくもらした言葉の、意味する次元にとても手が届かないことを覚えつつ、しかしながら吐き出した淡い願いの、どうしようもない切なさに満ちている気分の高揚まで思い返しながら、疾風の突き抜ける激烈な幻影で胸のなかは朱に染まり、収まりのつかないまま大胆な意想へと拡散されてしまうのだった。
「どう、花の都まで行ってみない」
虚ろな吐息にさりげなく反応したケイトは、いかにも悪友らしい茶目っ気たっぷりの声色を使い、
「いいわよ。でも遠いわね」
そう嘆息してみせたのだったが、華々しい思いつきには妙に感心した様子で、困りきった表情させ浮かべながら時間を静かに眺めていた。ややあって口にした提案もまた悪びれた調子に乗っており、ジョディを驚かせた。
なんでも向こう岸の河口に以前より繋留されたままの小舟がある。通りかかるたび目に止まるのだが、ついこのあいだも捨て置かれた情景として映ったことで、いや反面、朽ちかけてもおらず手入れの行き届いた一艘であるのが変に気にかかり、どこそこの貴族の若者と姫君が夜気にまぎれて忍んで来ただの、変幻自在の怪盗が逃亡に用いただの、果ては麗しの吟遊詩人を運んだ抜け殻だの、とりとめもない妄想に浸食させてしまい、どうこうするつもりなど毛頭ないにも係わらず、勝手に川を下ってゆく自由さは白紙が風にさらわれるような心持ちを抱かせ、舞い上がる白紙を押させるふうな勢いさえめぐらせると、さながら壁に画鋲で留め置く気概でことのなりゆきを緩やかに案じてみたりした。
「いい考えがあるわ」
目に輝きが宿るのと及びもつかなかった提案がなされたのは、ケイト自身も不思議そうな面持ちを作るしかなさそうなくらい、奇抜な予感を内に秘めていた証拠だったから、突拍子がないというより、ほのかな白日夢がいつもの河べりに張りついた風景を奇妙になぞっている。そして擦過してゆく唐突さには生じて間違いのない罪悪感をも希釈された風合いで示されているのだった。
[610] 題名:ハート・オブ・ザ・サンライズ 〜1 名前:コレクター 投稿日:2024年07月03日 (水) 05時35分
「身に覚えのない背徳感が街道筋をひた走る駅馬車のごとくまかり通るなんて、よくもまあ言ったものさ。駆け抜ける趣旨はどうやら夏の木洩れ陽を背に受け、まだらが放たれた颯爽とした刻印で写し取られるのか、寝起きの心ばえは深い眠りを誘ったあまり、まだ見ぬ景色の放蕩に染め上げられた空へと昇りつめてゆくのか、勝手気ままな居眠りの優美な心地が昼寝ばかり推奨しているとしたらだよ、それじゃ、いかにも裏窓から覗きこんでいる真夜中に目玉のにじむ充血具合を知りつくし、あり得ようもない幻滅に得意がっては、ねじ曲がった風紀をたれ流したことになる。目玉の大きさかい、そうだな、あまりにでか過ぎて飛び出すのも困りものだが、ふとした痒みにそそのかされてだよ、億劫なくらいとでも言いたい手つきで掻きむしる程度がちょうどいいと思うね。大きさはあまり関係ないさ、そんなものだよ。で、痛くなってからじゃ、所詮残念な気持ちしか湧いてこないから、些細な仕草には違いないけど、誰だって変な癖を持っているように、たとえば公共の場で偶然に隣り合わせたすこぶる可愛い娘よりも、街角の向こうでちらりと見かけた健康そうで、なのにどこか陰気臭く野暮ったい、ひかえめな横顔を思い返しては、そのふくよかな柔肌にまとわりついた淡い幻影の中へ溶け出す空気みたいな希薄さが逆に意識を整わせることだってあり得るだろう。
言い直しは簡単、やっぱり掻きむしるのは感心できないし、掻くなとは言えないけど、適度とも最適とも好都合とも口にしづらい。しかし、長年にわたる秘密結社への帰属はだよ、飼い慣らされた従僕にあたえられ、受け継がれる宿命にある節度への横着を決めこむことなんだ。何分にも過大な覚悟でのぞむ小心さこそ、亀裂を恐れ身を縛る氷の冷たさに打たれつつも、寝そべった傲岸なまなざしを隙間へ投げかける。すると、そこには従順で上役の顔色だけをうかがっている、机上にへばりついた書類の重さに押しつぶされそうな影の薄さの、いわれなき卑屈な精神の曙光が見出されるはずさ。
しっかり見届ける必然なんてないね。すべてを眺めていればいるほどに隙間は閉ざされてしまうんだよ。はたして誰が閉所恐怖症なんだろう。これは問いではなく、ある種の事態でしかない。そう言われ続けたのさ。いい加減そんなふうに厳しく、しかしながらまるでこわれものに触れるような声色で教えこまれると、こんな奥まったところではつい無駄口のひとつもききたくなる。
おっと、気をつけてくれ、手もとは慎重に、無駄口を叩いていいのはここではおれのみさ。もっとも今はおまえだけだから話すけどな、おれにしたって新入りのおまえがまじめそうだから、なんとなく口が軽くなってしまう。そんなびっくりした顔で見ないでくれよ、おれは責任重大なんだ。それでなんだ、わざと軽率な素ぶりでないと、なんて言うか意識の収まり悪くて、すこし頭のネジをゆるめたくらいが世界も認めてくれるとか信じてしまうものだから、気楽な雰囲気は足取りによく働きかけてしまうし、うつろな気分はことさら晴れ間を待つほどでもなく、ていよく順番がめぐってくるようにさりげなく訪れて、今にも踊りだしそうなほど気前がよくて仕方ない。どうやら踏み足はけっこう調教されていると思う。迅速な場面やはやる意識に適確な動きをもって応じるのさ。そうだとも、わざとゆっくり、手持ち無沙汰に泣かされているくらいの姿勢も要求されるし、反対に無謀なまでの企てだと知りつつ、相手の陰険な目つきに怖気づき、今日の疲労は明日の鋭気を包み隠しているなんて知るよしもないね。だけど、手つきはそうでない。ほら、さっきおまえが雑に持ち運んでいたときの不注意、今後しっかり気をつけることだ。なにせ、おれたちは今夜、爆薬の成分に触れていて、まあ一応、技師の伝言によればさほど危険はなさそうなんだけど。とにかく、そういうわけだから気をつけてくれよ」
「なんだ、それならすぐにでも話してくれたらよかったじゃないか。この部屋には新入りでも、あんたと似たりよったりの仕事はしてきたつもりだよ。別にあんたの無駄口が聞きたいわけじゃないけど、危なっかしいのがおっかないのなら、正直にそう口にすればよかったんだよ。あんたひとりで重荷を背負ったふうな苦しまぎれの鼻歌まじりって、感傷を呼ぶほど引っかかりはしないけど、空まわりの気安さを少量の潤滑油で働かせているようでけっこう嘆かわしいし、意気盛んに振る舞ってみたところでどうだろう、踊りの名手なら実物を間近に見たことあるから別段どうこうない。特に問題ないのさ。自分だって最初にきちんと説明してくれてたなら、そうさ、あんたとうまくやろうって気になったよ」
「そうかい、ことさら隠したわけじゃない。えらそうに言うつもりもなかった。危険物は危険物、さほどにないにしても話しておくべきだった。でも勘違いしないでくれ、もったいぶった雰囲気でおまえを萎縮させ、日頃の憂さを晴らそうとしたわけじゃないんだ。とにかく悪かったよ、たしかにおれは気負い過ぎていたみたいだ。新入りのあんたは、じゃなかった名前は・・・」
「名乗ったところでどうこうないよ。かまわないよ新入りで、積荷を運び終えたらもうここへは戻らない。そういう取り決めだった。おれは火薬庫ばかりあちこちまわされてる使用人なんだ。自分の雑な仕事ぶりに苛立ってるくらい感じてたよ。あんたけっこう神経が細かいだろう、いや、無駄口だけど弁明に終始していたので、気の毒やらうんざりやら、自分がもう少し人格者だったら受け流していただろう、きっと。
黙って聞いてたのは自分にも落ち度があるせいさ。つまり火薬そのものじゃない成分を察したから適当にあしらったと言うより、この狭っ苦しい部屋にそれらしい匂いがなかったから驚いていたのさ。ほぼ専門職のたわごとに過ぎないけど、あんたがさっき言った横着だの、隙間が生まれたということかも知れない」
「じゃあ、おれの名前もいいな」
「いや、ここへ来るまえに係員から聴かされたよ」
「ちぇっ、そうかい。ならあんたでいい、名前なんか呼ぶんじゃない」
「なにをそうカリカリ怒っている。そうか、よほど先輩風を吹かせたかったようだな。けど、多分おれの方が専門家だよ。まあ、あとは気張らずに、おっと慎重にだったな、わかったよ、あんたの指示にしたがうさ、それで問題ないだろ」
無駄口はともかく、作業着の裏地に縫いこませた気難しさを仕事でさらけ出すのが苦手だったエミールは、細やかな人事につきものの齟齬に対し、過敏な神経を働かせてしまった後悔に苛まれていた。
たかだか下働きに過ぎない深更の秘匿の作業、だがきっとホルンベルグは細やかな報告書の提出を求める。それがどんなにつまらない事柄であっても、欠落は許されない。そういう意味ではエミールに課された責任は重大に違いなかった。
[609] 題名:夜明けの口笛吹き22(最終話) 名前:コレクター 投稿日:2024年06月25日 (火) 06時03分
手足の自由は夫人の醸す濃艶な重圧で封じられているかのようで、それに泳ぐ目線の奔放さもどうやら監視されたときの緊縛を感じていたから、いつもの交わりへの運びは断たれ、由緒ある官能の調べが奏でられることなく、ニーナのひとりよがりは流路を失って、見事な成人女性の体躯を受けたまま変調をきたすと、自分がいかに小人であるか、その証左は同じく抑揚のなさで瞬いているロベルト夫人が放つ、悲愁と猥雑に組み敷かれてしまい、卑屈な気分へ陥りつつも仄かな畏敬を抱かせるのだった。
互いに絡まり汗に浮かんだ熱気の果てはゆき詰まる愛撫を叫んでいるのだろうか、まったく願っているはずなどない拷問の場面がニーナを動揺させてしまい、人形師の秘密は肉体の苦しみで漏れることなく堅牢な意志に託されているのだという、城主らがもっとも慎重にあつかう構えが回廊を抜けるごとく駆けていった。全幅の思惑は満たされない欲望の数々で埋め尽くされており、裏読みしてしまう探りは怯懦に突き当たる。
夫人の妖しげな興奮には過敏な魂胆が張りついているみたいで仕方なく、かといって交わりが整える放恣な動きは影を仕切っている本体の弁明になり得ず、どこまでも直情に結びついた快感を演じて見せるのだが、なにせ際どい演技であるとともに、もはや明瞭さなど微塵もない領域に溺れていたので、さながら不快な思いに蓋をするような調子でいわれなき肉感と向き合っているのであった。
夫人はすっぽり根元まで咥えこんだニーナの男根へより蠢動する体感をあたえるべく、いかにも重そうな腰つきで小さな裸身に波打ち、隠微でありながら健全な体勢を保ったまま、どういう顔つきがふさわしいのか一瞬ためらってしまいそうな、たとえば身分の垣根を越えて触れあうときの、よそよそしさにとまどい程よく距離感をせばめてしまったときの、反対に親密な友情と敬意が支配している間柄の、一線をまたいだ震えに忠実であるときの、礼節をはらってしかるべき体面の崩れ去ろうとしている苦しまぎれの表情とは、一体なにを包摂した感性で歪むのだろうか、このにわか仕立ての背徳心を形成する苦笑いほど不届きな、許しがたい面持ちはなさそうで、もっともな方便として照れ臭さをもよおすのだろうけれど、軽率な行為がその身のこなしを容認してしまうように、唐突な肉体関係は実情に無関心を装ってやまない。そして変容に揺れ動いた証しとして大胆で淫靡な言葉が投げかけられる。
聞き飽きたかも知れず、うらはらに聞き足りないのかも知れず、快感を賛美するかのよがり声はただただ甘いだけの菓子に似て、罪深さとは疎遠の方向へたなびいてゆく。
幾度となくささやかれるため息に共鳴しなくてはと、ついつい本業に専念する態度を持たざる得ないニーナに対し、夫人はさきほどのぎこちなさを含んだ不釣り合いな接吻で応じたきた。年長者が子供に仕掛けるような、不意ではないけれど、いたいけな様子と淫らさの入り組んだ顔色でニーナの口をふさげば、すでにむき出しの下半身が織りなしている交わりにいっそう嫌らしい気持ちを押しかぶせ、いつになく男性の本然である劣情が湧き起こってしまったふうで、忘れ去られた色香の輝かしき光芒はよみがえり、切なくうしろめたい感じを駆逐しつつ、尚更もどかしさに浸ったままでありたい錯綜した思念を横づけする。
「ああっ」
時計の針に小指を掛けるような短くも粘りのある声がくり返される。
不純な動機であれ、淫売の専売特許であれ、耳もとをかすめゆく睦言にすら成りきらない嘆息は嫌味なく閨に沈んで美しい。
ニーナは生業とは別趣の肉感を授けられた負い目に身のやり場を失いかけたのだが、豊満な夫人に押さえられた体位でことを為している以上、無垢なる少年に降りかかった性愛の瞬間にめまいを覚え、どこまでも続けばいいと祈った快感に対する純粋な想いを胸にひろげるのだった。
「おそらくペイルだってこんなふうだったに違いない」
ニーナは男娼としての気概がなにやら無雑作に解体していく様子をひとごとみたいに眺めている。
見た目は少女で肉体は小人の男という異形にあたえられた、もっとも気高き肉欲の解放。人形師の教えを忠実に守り、異形であることの絶望から切り出された誉れと快感を同時進行しただけの劣弱意識。永遠に成長を遂げないであろう歪んだ自我を奮起させる冒険譚。徹底して奉仕することにより歓心を得て賞賛も浴びてきた刹那の居場所。
思いがけない恭順の姿勢は、急に開けた海岸線が描く豊かな湾曲の燦々としたまばゆい立ちくらみに示されそうだけれども、むしろ官能の間延びより強烈な、足もとをすくわれる陥穽の不意に張りめぐらされた暗幕にこそ見出されるのであって、これはいかにも取り零しやら失態を素直に認めているようだが、肉体の死は白日を好まず闇の腐敗を願うごとくに、意識の終焉もまた夜のしじまへと反響されるよう、屈する意識が抱く恩寵は露悪的な影をいつも踏みしめている。
「人形師が時折もらしていたことなら覚えてるわ」
「あら、それはどんなことなの、ニーナ些細なことでもいい、話して欲しいわ」
精を吐き出した肉体の気だるさからつぶやかれる言葉は、突然の本題を前にした明快さで想起される。
「夫人との口火が小規模でも鮮明に渦巻く限り陥落だわ。いけない」
そう念じたところで恭順の意はすでに優っており、おさなげな表情と一緒に引きつってしまうから、悔しくないと言えば嘘になるけれど、まわりの用意立てした囲いのなかへきちんと本腰を据えた。
ただ、これまでにない精通が股間に伝わり、夫人の陰りへ噴出した勢いに驚き、これはうれし涙なのだろうか、そう唱えながら割れ目のぬめりに複雑な嫌悪をよぎらせたのだが、むしろ親しみに近い怖さだと納得してしまうのだった。
弁疏はあらかじめ計算された夫人の心得にあったとしたなら、大鏡の真下へ佇むペイルの演じた忠義のはじまりがすでに駆け引きだったのであり、右往左往の韜晦は大火に臨んだ燻りに等しく字義通り、焚刑の予感におののく心性をもさらわれてしまっている。
延命の願望が激しいわけじゃなかったろうけど、火照りと虚脱に打ちひしがれたニーナの胸は、城内のあちこちで散見される壁面や天井を伝う細やかなひび割れをなぞり続けるしかなかった。
「素直なあなたと触れあえてよかったわ、ニーナ。疲れたでしょう」
ややあって夫人は実務に立ち返るべき面持ちを十分含ませながらそう言った。
見る見るうちに雲間を退けて蒼穹を澄み渡らせた女神の姿すら想起させる遠謀、自らの生業まで崩された失意を追いやるにはもっと憎しみが求められたけれど、不思議と湧き立つような感情に支配されることなく、その場の空気になじんでいるかに思えた。さらには憂慮すべき光景を呼び出しているにもかかわらず、皮肉にもロベルト夫人が口にした労わりは、以外な効果をニーナに及ぼした様子。陰謀と逸脱が手を交わす夢を逃した代わりとばかり、投げやりな声色で、けれども半ば微熱に冒されたときのような朦朧とした目色を使い、
「ええ、あれは確か星降る夜更け、馬車に揺られた無言のざわめきが軋轢の下へと回転する厳かで静かな格式の、よこしまな目配りさえ自尊心を傷つけかねない、用途から離れた使い古された道具に染みた、その垢のような上澄みの汚らわしさに、そこはかとない親しみを覚えたりして、大広間の柱時計の知らせた蠱惑の予兆といささか遅れた時間でいざなわれる歩幅の名残りに魔物を見届けたわたしは、いつしかあの鮮烈な悪夢を身に背負うであろう不安と向き合って来た。
疲れたわ、ロベルト夫人、そう、今ならきっと似たような口調で答えるに違いない。しかしながら注意をはらってたどり着いたこの地で、不気味な相をひた隠しにした、いわれもなき恐怖で迎えられたわたしは何も想い出したくなかった。どうやら不条理を騙ったありきたりの運命が予感を的中させるのね。
さあ、人形師ホルンベルグについて聞き及んでいることがらを語りましょう。伯爵はまだわたしを用済みにしない、そうですわね。で、色ごとはもう沢山なのかしら、失礼ながら威厳をもう一度、火あぶりには猶予があることでしょう。どうぞこちらへ」
小さな貴婦人は過ぎ去りし日の、ジャン・ジャックの舞踏をまねたつもりか、優雅な足取りで部屋の奥まで進みゆき、軽やかにして華美な物腰、尊大な仕草で手招きして見せるのだった。
終
[608] 題名:夜明けの口笛吹き21 名前:コレクター 投稿日:2024年06月11日 (火) 05時49分
世知辛い境遇を嘆く寡婦のような雰囲気すらまとったロベルト夫人は、いつの間にやら不順な天候へと移ろってしまったときに表立つだろう、抑えがたくもいい加減な目配りを促していたので、ついつい軽んじることの、もっと詰めて言えば、相手に同調する手筈自体が省かれたのであって、ニーナの笑みの底からは不穏な気泡にともなわれた圧迫が、静かに音を立てるのだった。
やるせない葛藤の、場合によっては不可分な心象風景がなぞられるごとく、先行する函数の並びは夫人の生み出した暗号の解読を容易くしてしまい、ニーナ自らが打ち出すべき指針も曖昧な位置へ溶け落ちてしまった。
透徹した方向があるとすれば、それはよく熟れた果実の芳香を含み、弾んでいる夫人の肉付きいい太ももが知らしめる悩ましい輪郭の、蛇性をはらんだ蠱惑のうねりであって、同時に抜けるような白い肌の教える気品が汚れ、遠のいてゆく点描にこそ、名状しがたい好色の染まりが認められた。その色づきはニーナの性愛を形作る淫らさに被さる王冠のごとく、異性と母性の神々しい勢いでもって降臨する情景を肉感へ塗りこんだ。
偽善と独断の結びつきの、由縁の由縁はそのつど異なる説明が求められてはならないのだと、傍若無人な顔を掲げて言い放ち、憮然とした空気で編まれた人垣に列する判定に倣い、刑罰のいばらに備わった刺々しさを身近な痛点に変える。こうしてうらやむべき人格への接点は、さながら甘酸っぱい体臭が匂わせ、ことさら嫌悪や反感を用いるまでもく、やや不快な気分をかき分けてなお、危険物の明証が見出されない限り、すべては強固であるべき、そう周囲に訴えかける叫び声を胸へ響かせてしまうから、自他の境界を軽やかにまたいだ感覚は総動員されるしかない。
肉感の激しさは摩擦のみで燃え上がるなどという、お粗末で尾籠な考えは常に棚上げされている。
消費されよう生ものが新鮮なうろ覚えに包まれていたなら、あなたは息を飲むくらい決定的な景色に溺れ、すぐさま関わることの戸惑いに揺れ、あるいはまた忘却の図式がひも解かれ、くすぶる火種の根強い温かさに胸打たれてしまって、冒頭で陳述すべき肝心なところをいかにもめくり飛ばしたといった風情で、心やすさの肌ざわりに感心してしまうだろう。
好奇と罪悪はいにしえより伝わる秘薬に依拠しつつ、典雅な時間に入り混じり、純然たる親愛の念を、解放された裸体の上に押しひろげてみれば、無防備で惰弱な感性はあたかも水たまりにちいさな波紋を映し出すよう、汚れのない気持ちで支える証しとして交接が営まれるであり、ニーナが無感情に寄せた肉感はほとんど軋轢なく全身へと伝わるのだった。
「あら、苦しげな眉間ね」
ロベルト夫人は本心から悦に入った様子でニーナを眺めているのか、まだ不透明ではあったものの、相手の快楽を無粋になぞったことで、鎖骨の辺りにわだかまったままの伝播すべき意味合いは円滑に流れ、そして交互でなぐさめ合っていた裸身の影へ踏み入る問いかけになった。
「不思議な感じがします」
いかにも照れ隠しじみた、ときとして年配者に媚びいる浅薄な、膏薬の効き目でもうかがうかのような、邪気をへし折った声でニーナは答えた。
「あなたに奉仕したいのよ。わかる、ねえ、どうなの」
土足で踏みにじられるより前に、不潔な手で破かれた気概の居場所があまりに呆気なく知られてしまったので、
「それはわたしの領分なのですけど・・・どうしたものかしら」
と、いつしか体位が入れ替わって大振りの下半身を眼前に仰いでいるぎこちなさを素直に話す。返答には間を置くつもりなのか、夫人は鮮やかな、けれども生まじめさを手のひらを残したままの、ニーナにとってはためらい勝ちな姿勢でおこなわれる愛撫へと持ちこんだ様子。
女体を波打つ未知なる躍動に腰つきは否が応でも従ってしまい、ねじ伏せたつもりだった異性と母性が織りなす逃れようのない重圧に身を委ねた。分岐点は薄明の山稜が意思表示してみせる、薄もやの彼方へと沈みゆく加減に等しく、身支度の整わない、節度のともなっているかさえおぼつかない、眠たげで神妙で、もしくは敗北の宣言が成されてしまったあとの気だるい後悔を想わせるさざ波へと推移していった。
しかし睡魔も痛恨もあふれることはない。伯爵はおろか、他者からみても決して月並みの交わりには映ろうはずのない行為において、この瞑想めいた気分を抱くのがまた不思議で、たとえば日頃から鞭打たれる過激さに声上げる男娼の身震いがいかにあざとい仕草であったか、斟酌なしの獣らしい欲に縛られた貴い人の目線に下り、瞳を潤ませるのがどれほど品位に欠けたことか、身の丈の同じほどのいくらか年長の少女から受ける寵愛になぜ見苦しく応じてしまったのか、同性の仮面に隠された児戯とも、変装の外連味で世界観を撃ち壊す尊大さとも、さらに穿つなら、似たような交接を演じなくてもよかった幸運が悲愴な面構えを浮き彫りにして、外交官が懐にしまうであろう反復の苦味をたしなんだに過ぎないのだろうか。
いずれにせよ、大男にだって身を預けたニーナは、夫人の持つ抑制ある弾力の、豊かに透けるような肌が無邪気さに笑い転げていた幼き日を思い出させてしまうからで、それはどこがどうといった記憶の片鱗ではなくて、謎解きに近い願望と先まわりに押された意志を少しばかり見出していたので、偽善と名乗る嫌味な感性は日没の景色によって大らかにかき消され、虚飾と斜に構える陽のあたり具合へ腰を降ろすのだった。
すると今まで懸隔で阻まれていたと思われるむず痒い快感が局所的に訪れて、ようは男根の先から根元まで締めつける女陰の襞が感じられて仕方なく、としたところで、実際はさかしまに重なり合った格好での滑らかな口もとによる愛撫だったので、本来こすれ合うのが果たしてどこであったのか、眉間を寄せたついでに双眸がきつく閉じられたせい、醒めきった心持ちながら以外やこの情況に、不変である通常の触れ合いがもっとも不安定な室内でおこなわれ、半ば行き当りばったりの調子が妙な歯車を生み出して、脳髄の変調に見合うよう好都合の体感が快楽を呼びつけているかも知れない。
口唇を駆使した技がいかに快感をもたらすのかを忘れたわけでなかったけど、なりわいとしていた身分がこの瞬間だけでも宙に浮き、その重力の呪縛から解き放たれたのであれば、にわかに信じ難い景色のなかへ滑りこんでしまったような奇しくも愉快な気持ちがするのだった。
「ああ、いいわ」
我慢しきれないと言わんばかりの、いや、声高にもらしてしまわなけば成り立たない純朴な振る舞いは、意に反して飾り気のなさを訴えているようで、
「そうですか。わたしもです」
そう、意地を張り合ったあげく仲直りする様相がたおやかに横たわる。
「ニーナ、もっとそうして、お願い」
懇願の相に慈悲は必要なかった。慈悲はすでに懇願であったから。
身分を越えた結ばれは濡れそぼった股間の潤滑を枯らさなかった。この歴然たる事実は快楽の質を高め、融和への幻想を後押しすると、燭台の灯影は左右へ蠢き、閉じた空間をいっそう凝縮するのだった。