【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催

COLLECTOR BBS

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[595] 題名:夜明けの口笛吹き8 名前:コレクター 投稿日:2023年09月26日 (火) 02時47分

謁見を終え自室へと下がったニーナは渦巻く脳裏の慌ただしさに押しつぶされそうであり、また焦げつくような胸の痛みが抑えきれずに、ベッドへうつ伏せになったまま苦渋を味わっていたのだが、夫人との交接にかかわる懸念は差し迫った行為に他ならず、もやは逃れ難く、反対にまったく確証など得ていないジャンの存在は、あたかも孤独な境遇へと色づくなぐさめに思えてしまい、しかしこのどちらかが煩悶である由縁を失くしたとき、さながらより強烈な偏西風に巻きこまれる予感を抱いてしまうのだった。
眺めのよい部屋には施錠されておらず、べつだん散策を禁じられていたわけでもなかったので、このまま寝具へ顔を突っ伏して震えるなり、世をすねるなりして、無為な緊縛を噛みしめてばかりはいたくなかったから、ちょうど真下に広がる庭園と脇道の行商人らしき者らがちらほらうかがえる景色をぼんやり見つめていたのだったが、そうしたなかに混じり下働きに従事ている小間使いや庭師、下僕然とした人影を追っていると、いよいよもってこの身に降りかかった奇態な情況が重苦しくなり、一層の孤絶感を深めてしまうばかりで、これまでたどった辺境の地における肌寒さなど遥かに通り越し、いてもたってもいられず、それはニーナの弱音に違いなかったけれど、この城全域を支配しているある独特の自由な感じは、熟考するまでもなく石像や儀式に関する実情が知れ渡っているのではないかという雰囲気がやわらげな風に吹かれていて、人々の面持ちには城主の趣向など秘匿されてないような気がもたげてくる。
慄然した想念に包まれているものの、どこか投げやりで遠く霞む眺めのうちに一定の距離感が結ばれ、その狭間が柔らかな糸で縫い上げ重なり合うとき、好意という近づき易さを孕んだ磁場が形成され、そこから送られてくるようなある種の打ち解けをニーナはいい意味で受け入れたのだった。
自分ひとりだけが絶対の秘密を抱えている孤影は、少なくとも高尚な気概でなかったし、むしろ鋭い刃物で切り取られた不穏な明徴でしかないから、その明らかな痛みを分散させる方が今は望ましかったのだ。たとえ弱者が備え持つ方便だとしても、ニーナは焚刑の恐怖に相当おびえていたので、儀式にまつわる些細な風説でもいいから耳にしたかった。そしてあわよくば恐怖の対極にあるジャン・ジャックの噂を網の目ですくいとりたくもあった。
取り立てて凝視の先へ意識を留めたわけではなかったが、庭師を相手に生まじめそうな顔つきでうなずいている青年が色濃く映り、そのやや猫背な姿勢や控えめだけれど勤勉さを徳とした眉根に、今現在の不安定な気分を投影したのだろう。浅瀬の岩肌をなぞるよう尾びれ返す魚の背がしなやかに水面へ浮かび上がるごとく、他の人々を垣間見る視線は泳いだ。
とりとめない意識に誘われた刹那、ニーナは鷹揚な素振りを示しつつ、けれどもちいさなからだにふさわしい早足で部屋を飛び出していた。長い廊下も優雅な階段も薄暗く感じなかったのが不思議、外の光線は踊り出すかの勢いではやる気持ちを迎え、燦々とした緑と土の色は鮮やかにスカートの下へ延びた両脚の白さを浮き立たせた。外光が教える距離はすぐそこにあった。
庭師と話し終えたと見え、背中をまるめて脇道へ歩き出した青年を真正面にしたニーナは、
「ちょっといいですか」
自分でも何を問いかけようとしているのか分からないまま、そう声を掛けると、
「はい」
以外なほど機敏な反応でこちらを振り返ったものだから、
「わたしはニーナという旅客でして」
とにかく気を引くための、自分を認めて欲しい一心で思わぬあいさつなどしてしまった。
するとどうだろう、相手は生まじめそうな加減とは不釣り合いな笑顔で、
「知ってますよ。ニーナさん、どんなご用件でしょうか」
その声づかいも穏やかな調子で返されたので、ほとんど整理できないまま、
「旅の目的は石像にかかわることでして、もはやその件は公然なのかと、庭師の人たちらもその段取りをしているのかと・・・」
どうにも気恥ずかしさを糊塗しているふうな、出し抜けなのか、本音をぶつけてしまっただけなのか、よく判別できない衝動にどぎまぎしているのを察したのか青年は、
「これは驚きました」
心底なのだろう、背丈の低い性の芽生えを香らせたような少女の正体を心得ているというよりも、不意の質問が氷の棘でもあるかのごとく、さっと表情をただして、いかにも慎重な意想をめぐらせ、が、ニーナの風貌や境遇へ言及することなく、まるで風車が鈍い軋みとともに爽快な音を響かせるように、その残響には外連味も懐疑も備わっておらず、むしろ自然の理に対し冷静な眼光を輝かせるに似た真摯な言葉をつなげた。
「ええ、おっしゃる通りです。城主さまのお考えではなにやら東洋の風水に即さなくてはいけないらしく、到着の遅れを理由に石像の配置場所が二転三転しております。そういう事情なので城内の庭師では足りず、村から人夫を雇い入れる算段をしていたところです」
「そうだったのか。忙しいなか呼び止めて申しわけありません。となると城全体にまでゆきわたっているのですね。メデューサの神秘が」
最後の言葉が引っかかったのか、
「どうにも奇妙な成りゆきといいますか、雲ゆきは怪しく、下々の自分にさえ、儀式の命が申しつけられたのでして・・・もしかしたらニーナさんも同様の・・・」
いさかさ語尾が頼りなくなっているのを知ったニーナは、
「どうやら似通った立場にあるみたいだね」
ややあって静かにそう訊いてみると、
「あっ、失礼しました。私はペイルという従僕です。積荷の遅れを憂慮した執事のフランツさまが異国まで掛け合いに行かれまして、その事後をどうしたものか、途方に暮れているのです。ニーナさんはもしやご存知なのでは」
逆に問いかけられてしまい戸惑ったものの、もう一度、間をあけてゆっくり適確だと思える謂いで青年を鼓舞する始末。もはや素面をあらわにして安堵の息を吐いた。
「ニーナでいいよ。わたしはなんら旅芸人と変わりない。身分があるわけでもなし」
「そんな、賓客だと伺っております。高貴な方だとも」
「きみは知っているのだろう。ちいさな貴婦人がこの城でどういった扱いを受けるのか」
諭すふうに言ったつもりだったけれど、あまりに見え透いたお世辞に聞こえたので、つい語気を荒げてしまった。青年からすれば、少女のなりをした異形のほとんどしおらしくない口ぶりに違和感を覚えるだろうし、娼婦の身にまとっている華美な雰囲気があまり見受けられない分、接し方に躊躇するのは当然で、かといって清楚な乙女の透き通るような淡さを感じられないくらい、自分でも承知していたから、ペイルの胸中に出入りする好奇と関心はよく理解され、このときおり見せる暗い素顔にはある期待と焦燥が入り組んでおり、それは身売りをなりわいとしているニーナの哀しみを越え、直感の作用を頼みにするまでもない、すべてはペイルの秘めごとへとひも解かれていった。
「もう仕事は片づいたのかい。いや、そんなはずはないね。ただ、わたしはもっときみと色々話しがしたいのさ。でもここでこうしていると人目が気にかかる。なにせ、わたしは幽閉者だから」
妙な顔をしたペイルだったが、
「確かに、これは内密ですが反勢力の兆しも取りざたされております。あとひとつ庭師との打ち合わせがあります。これから向かうところでした。どうでしょう、そのあとあの先に見える薪小屋で落ち合いませんか。ニーナさんさえよろしければ」
窓から見下ろした姿に視線を休めたときに判じた生まじめさはまぎれもなく健康そのもので、照れくさそうに頬を赤らめている。昼食までには、いや約束までにはことの次第を綿密に語り合えるほど、また身の上に降りかかった煩慮を宥めるほどの猶予は潤沢ではないけれど、この邂逅に時間は正確な刻みを記してれるに違いない。
「そうしよう、ペイル。きみと出会えてよかったよ」
「どうして自分なのでしょう。それだけよろしければ」
「さあ、ぼんやりした気持ちが風に乗ったのさ。そう思うしかない」
「私がフランツさまに歩みよったときとは異なるようですね」
「きみにも深い事情がありそうだ。あとで聞かせてもらうよ、では失礼」
「ニーナさん、ほら太陽があの栃の木の上にさしかかる頃です」
ペイルはすっと背をのばし、右手の指で大きな枝ぶりを指し示めすのだった。


[594] 題名:夜明けの口笛吹き7 名前:コレクター 投稿日:2023年09月20日 (水) 04時33分

いつになく急ぎ足で、ほとんど怖いもの見たさにそそのかされたニーナの歩幅は大きく、けれども素早さから得る体感に狂いはなく、おそらく自重に即した想像となって、白い靄があふれ出す柔らかさの先へ映し出されていた。
ハンナと名のった何かしら身分のありそうな女が差し出す微笑の向こうに、伯爵の青ざめて尚ひとときを愛でているような眼が、そして過分な威厳を奥ゆかしげに色香へ添わしている夫人の姿がある。
少しばかり違和が生じたものの、自らの不安と欲望が織りなしたふたりの風貌には言い知れない懐かしさが香っていて、その匂いは願い事と一緒に絡まる沈滞へ導き、ニーナの鼻孔をくすぐるのだった。どの辺りから漂うのか、その距離さえ現実を凌駕し、ひとまたぎしたような実感もまた微かな残像を介して立ち現われるので、嫌でも間合いは縮められた。
薄暗い室内だと見渡す仕草がにわかに巻き起こった防衛本能であるとこさえ忘れてしまい。
ロベルト夫人の発するきびきびした声の通りが、すでに伯爵の衰弱をなぞっており、伯爵自身もこの初見に満足しているのか、ほんのわずかだけ見せた親しみの表情を了解した。古びた壁に浮きだす青かびに嫌悪を抱かないように。
それはおそらくこれまで散々気遣ってやまなかった畏れが隠微に現れているからだろうし、なにより夫人への関心を高めなくてはならないニーナの心意気に対比していたので、これ以上の充足はあり得ない、そう胸をなで下ろしたのだった。同時に男色を専らとしていたニーナにとって久々である女体の顕現は、細く嫋やかな緊張をもよおし、うしろめたさに支えられた安堵を生み出した。
「ごらんのように伯爵の病状は芳しくありません。おわかりでしょう、ニーナ。待っていたのよ、もう何年になるかしら」
艶やかで親情ある口吻に接した喜びと、かなり飛躍している設定にとまどったのもつかの間、それがいかに簡潔で今後のなりゆきを示唆しているのか、あまりに切れの良いロベルト夫人の姿勢の感服していたところ、
「わたしの幻影を非難することは許しません。命じられるままにこの城へとどまるのです。よろしいですわね」
変わらぬ優しげな声色だったけれど、その顔つきにはどこかしら冷徹な血を通わせている。
が、この地に限らずともこうした扱いに慣れっこだったニーナは、臆するわけでなく、
「仰せのように。あらぬ詮索もいたしません。雇われの身を心得ております」
さざなみ打つ電流みたいなものを神経に走らせつつ、そう答えた。
「ねえ、ニーナ、そんなかたくならなくていいのよ。あの頃のわたくしを想い出して欲しいの。伯爵はもう石像のことで目一杯だから、わたくしにさえ従ってくれれば」
以前のニーナに扮する擬態など大して難しくないはず、夫人はただの幻影に過ぎないと確信めいた演技を欲しているのだから、盲目的な忠誠をしめせば特に問題はあるまい。ただ、循環する過去に基づいた、あの焼却処分がくりかえされるのは回避したいし、まあ持参した置き土産なら好きにしてもらってかまわないが、生身の焚刑だけは幻影から除外されないと本当に困る。
発狂寸前の重篤な病に冒された城主、そして過ぎ去ったまぼろしに耽溺する夫人に果たして良心やら道義が息づいているのやら、決して触れてこなかった危惧ではないけれども、いざ対面し風変わりな謂いを耳にしてしまうと、せっかく立ち上がった想像の底辺が侵食されている現実を見定めざる得ない。
「約束は昼食後にです。すでに承知のようにわたくしは身籠っています。でも、儀式という名分のもと積年の解放を自らに知らしめるため、失われた白い羽をふたたび呼び戻すために、あなたは先のニーナがまとっていた霊をなぐさめなくてはなりません。それはあなたにとって不可解な行為というより、三位一体の教えが生き生きとわが身に曙光となって降り注ぐよう、なにかしらの欠落を嘆く以前の神聖なる境地へと歩んで、いえ、天翔けていくことになるのです。油断すら大敵です。なぜなら底知れない快楽にゆだねられた典雅な園は決して汚されてはいけない、かつてのわたくしを苦しめた恥辱がどこのどうというべきことか、ただひたすらに夢見心地のまなざしで青空を見上げ、祈り続けた理想郷がなし崩しに消え失せた無念を今こそ、そうよ、この城の瓦解をも胸に刻んだ焼けつくような想いを晴らすために、出産をひかえた斯様な実情ゆえの困苦を聖なるものへ捧げるのよ。
そしてとてつもない快感となるべく、あなたはあなたのなかに潜んだニーナを甦らせなくてはならない。わたくしにも伯爵にもそれは大切なことなのです。大丈夫、伯爵の研究成果によれば、儀式へ連なる者は至上の交接をもって身を清めておくとのしきたり。ねえ、そうでしたわね」
罪深くも理念に燃えさかるようなまなざしを受けた伯爵は、
「そのとおり。必要不可欠なしきたりだ。私はもう長くない、この城にもっとも艶やかで神秘的な歴史を刻むまでのこと。儀式の詳細ならびに石像にまつわる秘密をおまえに授ける。だから心して交わるのだ」
驚いてしまうのが無理もないほど、とても痩せ衰え青ざめた相貌から発せられたと思えないほどに、その語気はまるで地底深きところから鳴り響いてくる断末魔のような、もしくは生誕のうめきが闇をかき分けるあの産声を想起させた。しかしそれらはどうしようもないくらい安直な符丁で結ばれ、爛れた没落の調べがこれまた同等の軽佻に鳴り渡るのを覚え、もどかしく、いらだたしくすらあった。
神秘に儀式に偶像、淫行、さながら手引き書をひも解くときに覚える雑駁で簡便な思い、いにしえの古城であろうが、王家の華美であろうが、当事者であればあるほど、関わりが濃くなればなるほど、ますますもって薄ら寒さと蒸し暑さを交互に感じているみたいな不快が時間をねじ曲げ、ある種の憎しみと蔑みを隆起させるのだったが、あの大鏡の反射のなかにおのれの影を見出すと、気分は真っすぐな方向へ逃避して、新たな経路をぼんやり模索するしかなく、やはりニーナは幽閉の意義へとゆき当たるのだった。
この開き直りともいえる心境の渦中にうごめくものが、さらに身を縛りつけてしまう女体への埋没であることで、快楽は時代を流れる他人の唄声かも知れないと嘆息し、ここにきてようよう自分を育てあげた人形師の世渡りが、いかがわしくも美しき不吉さで彩られているのが理解されてくるのだった。
そんなさなか、ニーナの流露が大鏡の反射のさらに光を投げ合ったのは、遠い記憶のまばゆく切ないジャン・ジャックの悩ましくも胸に宿った美少年の面影、切なく忘却の彼方へ過ぎ去ったあの端麗な冷たさへと焦点が絞られていることだった。朦朧とした密度でありながら。


[593] 題名:夜明けの口笛吹き6 名前:コレクター 投稿日:2023年09月12日 (火) 01時48分

息をのむまでもなく、ある情景にとても間近に接した鮮明さを感じたとき、かつてのニーナが女主人によって導かれる情景は描きだされ、それが淡く薄い色調の彼方へ移ろへば移ろうほどに、まわりの景色を消し去ったしめやかな感覚がそっと残される。
孤絶した静けさの得にもいわれぬ霊妙な気配の漂うなか、封印された記憶が既視感となってよみがえる瞬きを知り、あたかもこの身の出来事のように生々しい輪郭線で囲まれていたのだが、絶対的な意向に左右されない淡麗な味わいが余韻を引いているのを、渇きの衝動に伝えたくも背反する摂理が蠢くものだから、残像を引き戻したい想いはそのまま深い感銘へと陥いるのだった。それは待ちわびていた確執に他ならず、
「夫人の思惑をどう受けとめるのだ」
このフランツの問いかけこそが、思いめぐらせた本題をちょうど底辺から支えているおぞましき力のように感じたニーナは、同時に背後より張りめぐらされる眼には見えない蜘蛛の糸みたいな、柔らかでありながらも、強固な意思を秘めた、しかしつかみどころのない大きな布に触れている揺らぎを覚えるのだった。
「すでに受け止めているのです」
そう、ぽつりとささやくよう声にしてから、
「城主さまとの係わりに拘泥すればするほど、激情へかられた悲痛な場面を想起してしまい、まったくもって短絡的な道程を選んでしまうのです。血縁でないにしろ、人形師のもとで育てられた同門・・・だからこそ既視感というよりも微細な神通力が、そう、弱々しい運命論が引き起こす楽観と並走する宿痾を来るべき視座へ収束させてしまうのでしょう。
ほの明るい将来は、反対のせまり寄る闇の黒さを前もって吸いこんでおり、均しい境遇に育ち、ほぼ同格の思考のなかで、つきつめた擬態に臆することなく、すすんで悪魔的な微笑を放ち、倨傲の破片を拾い集めては少女の感傷を背負うことで、そのまなざしの先に広がる光景が無辺なまま立ち現れてくるのです。
先のニーナが見た映像はわたし自身の栄達であり、また堕落であり、熟慮するまでもなく、単一な希望の照り返しが生み出す不穏な陰りだったと思われます」
「なにやら双子の脳内だな。以心伝心みたいなものか」
「厳密な理屈などわかりませんが、そうした感覚かも知れません」
フランツはやや鷹揚にうなずき、
「いくら似た道筋をたどるとはいえ、旅なれているとしても心細さは同じだ。この私とて流れ流れこの地へ足を踏み入れたころは神経が尖っていたよ」
なぐさめの抱えもつ、落ち葉を手際よく集めるような軽さがニーナの胸に積もった。
「フランツさまはご存知なのですね。人形師から送られてきた手紙が真実でないことを」
「さあ、どうかな。真実なのか、嘘なのか、もはや区別しない方が意図を読み取れるかも知れんし、案外あっけらかんとしている場合もあるさ。それよりお願いだよ。もう少しゆっくり歩いておくれ。あとふたつ角をまがれば、いよいよ謁見だ。長話しは無用、おまえにとって有益な報せはかの部屋に凝縮されているのだからな。私はおまえの気がちょっとでもやわらげばいいと案じてね」
意外な優しさに触れたニーナは涙を浮かべかかったのだけれど、
「ちいさい癖に早足なのです。なにかいつも取り急いでいるような気がして」
と、気恥ずかしさを打ち消すにふさわしい声音で無作法を謝した。
「おそらく伯爵たちからも聞かされるだろうが、儀式に立ち会う面々、もちろんこの城にゆかりのある者だけなのだがな、もしかしたらある珍客が訪れるかもしれないのだ。もっと詰めて言えば、その珍客の到着を待ちわびているとな」
ニーナは狐につままれたかの表情で、
「見当もつきません。いったい誰なのか、しかしフランツさまがわたしなどにお話し下さるのは、よもや旧知の者なのでしょうか」
緩めた歩調が前のめりになった。
「そういうことだ。おまえの人生に深い濃淡があるのなら、あるいは遠い坂道の上から見下ろすことの馥郁たる想いと優美な栄光をその瞳の奥に棲まわせているのなら、きっと今、この瞬間におまえはおまえ自身であった過去も現在も未来も含める一条の光に貫かれていることに打ち震えるだろう。そしてみじめな境遇だと嘆いている影に向かって光を浴びせ続け、その影を際立たせるのだ。たとえ人生の黄昏にあろうとも」
「ええ、そうですわ。過ぎ去った日々の長さがわたしのみじめさを増長させるのでなく、そうですわ、もう思春期の鮮やかさを保っていなくとも、すでに挫折とともに味わった底深い生命の謎めきを忘れかけていても、そして老いそのものに侵食された実感がなくとも、すでに老境を映し出す鏡との対話が、あの忌まわしくも美しいひとこまが脳裏に輝かすのを歓びをもって迎えますわ」
「誰もが忌み嫌ったメデューサの運搬を望んだあげく、すべての船員ともに消え失せた、あの勇姿・・・どうだ、閃いたか」
「はい」
「だが、航海日誌が偽物だったとしたら・・・奴は果たしてどこへ行ってしまったのだろう。やがて何者かからの便り・・・メデューサとともにやってくるという」
「ジャン・ジャック」
「よく覚えているのか」
「わたしの宿敵でした。いえ、これは大げさです。なんと申しますか・・・」
動揺いちじるしいニーナをよそに、フランツの眼光は時間を切り裂く勢いで、
「海運業者に問い合わせたところ、まちがいなく石像は船底に横たわり海をわたり領地へ近づきつつある。しかしその名前に心当たりがないというではないか。すでに伝説は風化してしまったのだろうか。いいや、伯爵が入手したジャンの手記さえ怪しく、さすがに体裁を重んじるあまり、病いの装いと化してしまっているのが実情なのさ。それに夫人がすべてを掌握しているとも考えられない。
こうなると石像もいかがわしくなってくる。そうだよ、かなり大仕掛けな詐取に引っかかった可能性がある。しかし何処からの通告にせよ、ジャン・ジャック本人が現れるのなら、なんらかの信憑は残されるが、それとて茶番だとすれば・・・いよいよ伯爵は発狂するだろう。これが宿命だと心のなかで叫びつつ」
フランツの眼窩は夜の底に触れていた。
「それでわたしはなにを・・・」
「まず第一にジャンを見定めること。理由は言うまでもないだろう。だが伯爵の態度が変わることも念頭に入れておかなくてはいけない。たとえ発狂しても気丈な夫人は身籠っておられるし、後々は女主人として手腕を振るうであろうからな。そのためにもおまえは夫人とまみえなくてはならないのだ。はっきり申しておこう、そのちいさな肉体で発酵する色香を抑えこむのだ。ご機嫌とりでいいのだよ。あとは私の思惑を越えた事態があるのみ、執事としての務めはここまでさ。どうか最善を尽くしてくれ、頼んだぞ、ニーナ。これだけ伝えておきたかった」

歩幅は測れないし、想像もしていなかった執事の伝達に速度は及ばない。いつの日かこの出来事を想い起こすとき、去来するのはおそらく曲がり角を数える間もなく、おそろしく入り組んだ迷路へと彷徨ってしまった暗澹たる気分だろうが、不思議なことに自分でも信じられないくらい沈着な姿勢で執事フランツを見送ったのだった。が、伯爵たちの命を受けてニーナに近づいたのではなく、あくまで勤勉な働きをしめしたのであり、見送るもなにも気がついたらすでにその姿は消えていたのだった。気高き吸血鬼の夜の闇。
見送ったというのはニーナの名残りであり、心中の襞にへばりついたほろ苦い感慨であった。
感慨は歓びの声をしのばせ、隠れ蓑にも埋もれていた。ジャン・ジャックに対する雑多で色差し豊かな心持ちが、どしゃ降りの雨を含んでひたひた、重み増しもたれ掛かり、しずく垂れて水たまり、光させばすでにさざなみ打っていたからである。


[592] 題名:夜明けの口笛吹き5 名前:コレクター 投稿日:2023年09月05日 (火) 05時16分

遠い昔を懐かしがる胸間においては、現在を疎ましげに感じて仕方ない相剋が抱えられている。
ニーナの脳裏を走り抜けた軋みは、鮮明なひかりを照り返し、その速度は虚しさの陥穽すら飛び越し、ただちに出発点である今へとたどり着いた。肉感や情調にひたった光景を思い浮かべるにはあまりに唐突の転換だった。
いや転換と呼ぶべき理知が働かないので、女体の悩ましさや切ない恋情の要図は霞んでしまい、やがて過去の過ちすら大胆な輪郭をもった影となり、時間の刻印に忠実であったから、なにもかもが及ばなかったと首を傾げるしか仕方なかった。
想像していた以上に執事フランツの眼は聡明さを秘めていて、その物腰が漂わせている重圧に得心したけれども、ニーナの屈折した心理はすべて既視感とだ言い放ち、力量はおろか、運不運に見舞われたさえ確かめようがなく、城内における居場所がとても嘘くさく思えてきて、囚われ人の腋窩をしめらす冷や汗は真実味をもたない感覚で泳いでいるだろう、ちょうど蜃気楼で揺らぐ道標を見つめる放心が、戦慄とは無縁であるように。
ぼんやりと、俘虜の立場に等しいと、投げやりな、集約された陽光や凝縮した影の彼方を感じるとき、それらは薄っぺらな感触を持ち得たのだと、天空に散らばる星屑へ届けたかったものが軋みだけがまなざしとなった。散々と詮索した城主も伯爵夫人も同様、その人となりはすでに先んじてニーナの網膜へ焼きついているのだった。
しかし石像にまつわる儀式に関してはまったく予期しない事柄であり、さながら凝視によって石化に至る様相を呈していて、身震いを招く始末、
「そうだよ、もしやでいいのさ」
と、軽口でも叩くふうに言ったフランツの声は耳鳴りとなって、あきらかに郷愁を後退させていた。その穴埋めなのだろうか、ほぼ雑味のない疎外感がこの城を取り囲むような暗澹とした森の根に息づいている。
だがニーナはそんな感覚も打ち払う意想で自らの背丈を大鏡へ映して、鼻じらむ等身大の実際と向き合った。
幽閉はともかく城主と夫人に飼い慣らされる宿命は避けようもない。自由の身を奪われるのは今に始まったことでなく、場面が変わっただけのことであり、さほど悲観するべきものでもなく、メデューサの儀式とやらが未知なる光輝を秘めていて、その異様な情景に立ち会うことを考えただけで、なにやら無性に心身がざわめき立つ。
焦慮をまたぎ、自棄を盾にがんじがらめの感覚を得るごとく。華やぐのは花鳥だけにとどまらず、救いようのない情況のすぐ足下ですでに踊っているのだ。

謁見の刹那をニーナはちょうど古城にふさわしい絵画の威厳のように静止した時間のなかへと埋めこみ、咀嚼をかけて悠久の彼方まで、その色合いが失せて失せて、損なわれるまで拡大してから、一気に大鏡に念じたまじないを心のなかで唱えた。
「今こそよみがえれニーナ」
それは城主によって紅蓮のさなかへと放りこまれた精緻な女陰仕掛けを施された人形を指していた。
伯爵夫人が少年の生身を欲すると知ってから、規則として携えていた人形の運命に思い馳せると、おのずから灰となったニーナと異次元で交歓し、願わくば石像の儀式をもっとも畏れる形で執りおこない、どうにかしてこの世ならざる者を復活させたくなっているかも知れない。
ただ、人形師が連綿と培ってきたある秘匿された技巧、いつしか「うるわしの置き土産」などと呼ばれている、あの恐ろしいまでに仕込まれた快楽装置の内蔵を城主は気嫌いした様子で、そう、あくまで様子だったと言っておかければならないのは、まごうことなき夫人の態度にあるわけで、フランツが強調した同席するという意味合いには、何者もひそんではおらず、これは透徹した展望に邪念など寄せつけない明るい距離で測られた。

ここまで時刻はどれほど西陽の傾きを示したであろう。
勢い短すぎる郷愁をはらませ、摂理と時間の関係に意欲を投げかけてしまうのが、いくらか爽快に感じたニーナは、
「ところで先の人形を伯爵は忌み嫌ったふうに聞き及んでおりますが、フランツさまはどう留め置きされているのでしょう」
と、一気に交接へ突入した香りを含ませるのだった。
「そうだな、おまえにも気がかりなことだろうから、今後の振る舞いやら心構えを交えて説明しておこう」
執事の顔つきにはまるで教壇に立つような物々しさが浮き立ち、同時に謎めいた博士の困惑がよぎった。それはニーナ自身の心境をなぞっていたので、似た表情がつくられた。
「きわめて肝心なことはあの頃、夫人は身籠っておられ、これから生誕される愛児の性差にかかわらず、あの置き土産にとても不快な念を抱いたということになる」
そこで間をあけ、ニーナを覗きこむ姿勢で、
「わかるだろう。人形は乳児並みの体型、しかし下半身に埋めこまれた実物にも勝る感触はあまりに罪深く、たとえ敬虔な信者でなくとも、あの悪魔じみた精巧な仕掛けは眉をひそめるし、教育上よくないなんて、多少なりとも道徳やら情操やら品格やらをのど仏あたりにためながら、義憤めいた明確な意志をあらわにするのさ。開き直りみたいな淫浴に突き動かされようともだ。これは人間の理性や公明さを語っているのではない。どこまでも生まれてあることの、あるいは生まれるための根源的な要因に関する問題でなのだから。
さて伯爵にしてもどれだけ隠し持っていたとしてだよ、生涯子孫の眼に触れることがなかったにせよ、あれを城のどこかに眠らせているというだけで、どうにもたえきれなかった。
噂の置き土産を使用したのかどうかは、深く考えるべきか、いや、処分のやり方だって他にありそうなものを・・・わざわざ公開処刑みたいにこれみよがしで焼き払ってしまうなんて、どう解釈すべきなのだろう。これ以上の憶測は非礼でもあり、汚点を承知された模様だから・・・そうだな、非常に几帳面で寛容な風貌通りの性状を持たれ、どこかの暴虐不遜な専制的な圧力は用いず、いたって温和な立ち居で殺戮など決して好まなかった。
おまえも知っているだろうが、この領地が平穏なのは代々つらぬいている好条件での婚姻によるところが大きく、現夫人の家系も大国との繋がりがあればこそ、暗黒時代の血生臭さはさておき、私が召抱えられるくらいだから、ある程度の理解、そうだな、いわれなんてあくまで表面的なのさ。
しかしながら、城主の祖父がそうであったようにどれほどよき側面を持ちながらも、あの狂王を想わせる奢侈を好み浪費を顧みない、糜爛した城壁の見映えに固執せず、危うい傾斜を歩むことを望んでおられる。歯止めの効かない自己像をあざ笑うようにしてな。
だからだろう、伯爵は自らの威厳を保ちたく、この私に叱責に言葉を求め、常々よりなんらかの抑止をうまく提案しろと申される」
フランツの面差しにふっと柔らかな曇りが被さった。
「で、本当の心配ごとは置き土産うんぬんではない、そうだ、おまえ自身がどうなってしまうのか、本当に焚刑に処されるのか、実はかつてのニーナがとんでもないかたちで生きながらえており、しかも、小庭を挟んだ向こうの窓枠の隙間から、じっとこちらをうかがっているとな」
語尾はやや冗談めいて明るく震えていたけれど、その振動に小刻みに乗る羽虫のごとく、
「これから先がどうなるのか、フランツさま、わたしはここに来てから、あの仰々しい大鏡と話してばかりで、すべてを知り尽くしてしまうのはどうでしょう、さほど懇願するまでもありません。それより前のニーナが城主さまのご機嫌を損ねたのは、少々言い出しにくいことなのですが・・・」
と、顔を伏せ羽を休めてみせれば、
「どうした。はっきり申してみよ」
フランツの眼光にが動揺か好奇か量れない鋭さがこめられており、
「簡略ですが無礼を承知でお話しします。、伯爵は以前、生身も人形も賞味されたに違いありません。それが商いですので・・・そして置き土産の眠り部屋なんてこの城には無数にあるように思われます。世間体や子孫を鑑みての所作ではなく、ひとえに逆鱗を招いてしまったのです。かつてのニーナは」
しっかり口を結んだ相好に、
「推測か」
フランツが卒なく尋ねる。
「人形らしい推測なのです」
「それはおまえしか出来ないという意味か」
「かまいませんか」
「続けろ」
「どのような応酬の果てかはわかりませんが、ニーナはどんな身分の者より、とれほど美しい男女よりも自身の人形と交わるのが至福であると口にしたのでしょう。汚れを忌み嫌いつつ、その汚れを陵辱する身にとって、これは最大の恥であり、救い難い汚名になったのです」
「なんと・・・」
「伯爵の寛容な一面はもっとも低俗な美徳で踏みにじられ、高貴な奢侈は洪水のごとくあふれだし、暴君と化してしまいました。いえ、些事でしょうけれど、城主さまの立場で見渡せば、肉眼に拡大鏡が埋められているようなもの、木々のざわめきに神経を揺さぶられ、あるいは星屑のためらいに煩悶したかと憂っていると、今度は目には映らないような微生物の存在におびやかされ、ゆくてをふさぐ透明な空気までもが鉄壁みたいに感じられてしまうのです。ニーナを焼いたくらいでそんな精神風景が浄化されるはずもありません。あたかも殺人者がその亡魂にさいなまれるように。
うらはらにニーナを純粋に愛していたのが災いでした。世にも淫らな人形に魂を射抜かれてしまったのです。その結果、メデューサの石像を溺愛しているのではないでしょうか」
「そうか、よく意見を聞かせてくれたな、だが、メデューサにそうたやすく結びつくとは考えられない。もうひとつ、大事な理由を話しておこう」
フランツはやや得意げな面持ちになったニーナをいさめるよう、声色を一段下げるのだった。


[591] 題名:夜明けの口笛吹き4 名前:コレクター 投稿日:2023年08月29日 (火) 04時33分

浅瀬からいつしか深海へと身を沈めていくよう、眠りはなんらかのぎこちない会話のほどよく途切れる形をもって、ニーナの昂ぶった意識を薄衣で纏い、静かに、そして緩やかな階梯の傾斜をやや駆け足に抜ける調子で夜明けを待たず闇の彼方へと導いた。
不意な訪れであった老女の影は蒙昧なあとさえ残さず、危惧された様々な思いは形式とともに消え去り、それらを包摂する目路の歪みにまつわる光彩や動き、異変を告げることに特化しただけの乱雑で空虚な動きに捉われず、ただいつかきっと峻烈な思念となってめぐることもあろうかと、受け流す程度の反応をのみこみ、にわかに塗りつぶされた自画像の崩れすら不穏な空気を寄せつけなかったのだから、たぶん疲労にまかせるまま寝ついた枕頭には夜空と同じ時間が過ぎていたのだろう。
やがて翌朝の一番鶏を聞き逃したときに感じ入る、あの不思議な甘い失望感がいわれもなく身辺にひろがっったけれど、眠気の放つ外界への接触を閉ざそうとするまなざしには、おそらく誰もが憶えのある宙空をさまよっているみたいな、しかし無限大の空恐ろしさではなく、むしろ揺籃に等しい守護がとても柔らかに働いて、微動だにしない安寧を願う心性が核に置かれている。
瞬時によぎる記憶の矢もまたその鋭さを逸し、ちょうど惰眠を貪ったあとで想起されるあわただしい日取りが山向こうの白雲のごとく浮かんでくるのだった。
こうして一夜明けた城内の空気を深く吸ったニーナは、別の領地でも味わった目覚めと同格の景色を脳裏に描き、長逗留を余儀なくされるであろう乾いた予感に包まれていた。

朝食まえに城主と謁見をと、小間使いが執事フランツからの指示を伝えに来たのを、まだ眠りのなかの情景に連なっているのだと思いなした頃、ようやくニーナは我に返り、進退を決する場に足を踏み入れた実感を得た。
そうなると否が応でも手早く身支度を整え、いつもならまったり独語を映し出すはずの鏡への一瞥は実務でしかなく、髪を梳く手つきからは優美な仕草もなくなって、泳ぐ視線の斜の角度に大鏡が朝日を受けているのが、どこかしら大仰なまぶしさにさえ感じていたので、ますますもってヘーシオドスの「仕事と日々」の説く実直で清廉な姿勢が反面教師となって、淫猥と倒錯に終始した自らのなりわいには冷ややかな情念が送りこまれたけれど、一日の始まりを眠気にまぎれて嫌悪するあのささくれた怠慢をどう受け止めるかによって、たぶん早逝してしまうなどと、過大に押し広げられ、あるいは圧縮された心性のよりどころはかなり異なってくるはずだった。
臆病で用心深いまなざしに貼りつく、世界が終わるかも知れないが自分だけは生き残るだろうという、極めて有意義な心がけが案外吹き流しのように押さえが効くのか効かないのか、またそのつかみどころの定まらなさ、意気が上がっているのか下がっているのか判別できない残照を背に受け、ようやくニーナは先達の人形を火にくべてしまった城主のまっとうな性分が空恐ろしく思えてきた。
倒錯好みを標榜するかにみえて、いざ向き合えば激しい拒絶をしめし、その挙句に懊悩まであらわにするという外連味さえうかがえる振る舞い、それが果たして大金を積んでまでの趣向なのか、どうにも理解し難かった。
あれから幾とせ、ふたたびニーナを求める声に応じた人形師の忖度は先の通りだったけれど、同じ空間が時代を経て、なお回帰すら忘れ、つまり適宜な物忘れで培われた時間の連鎖を手繰るようにして臨む姿勢の軽薄さだけが今は美しく、そうなれば城主の気まぐれには権力者の持つ平俗さが大きく、そして間延びしているのだった。高尚な加減も低俗ないわれも同等の道を歩むからである。
城主の少年愛を心得ていた人形師が、あえて趣向を凝らしたニーナを授けたのなら、それは間違いであっても失策とはいえなかった。なぜなら誰よりよく城主の性向を見抜いていたからこそ、賞賛と拒絶は等しくその心境に鳴り響き、両極へと引き裂かれるような悦楽と苦悩を共存させていたからに他ならない。
人形のニーナは灰と化してしまったが、生身の少年はきっとどこかへ縁づき、呪縛から逃れたのだろう。これらは現在のニーナが考えうるたいそう楽天的な見方であったけれど、残虐趣味には苛まれていない城主はなにかしら神経質であったとしても、いたって温厚で血なまぐさい匂いは好まず、そう、メデューサの石像だってもはや悪鬼の形相すら残さず、いにしえの想いは恐怖の感情を呼びとめず、反対に甘い郷愁を壁に塗りこめたような風情に酔いしれているのかも知れない。
そう思えば、自分が少年でありながら少女の、いや少年などすでに通り越した生臭い男性の魂を押し隠し、どこまでの可憐な少女でありつづける異形と城主の倒錯にはどこか相通じるものがうかがえるのだった。
人形師に見放された不安はこうして日々の端緒へ絡み合い、ニーナの胸にはあだ花に似た幻想が舞い落ちた。

客間から奥の間まで向かう重厚な廻廊の途中、まるで燭台の灯りを吸って暗闇と同化する巨大な植物を想わせるたたずまいが夜になりすましたのか、その影の主こそ執事フランツであり、別段夜から抜け出たとは感じられない鮮やかな笑みをたたえ、待ち受けていた。
実務的な挨拶もそこそこに日頃の笑顔を見知っているわけではなかったが、ほぼ直感でその親しみとも駆け引きともとれそうな含みを察すると、案の定フランツは先制よろしく、
「実は伯爵夫人がね、同席したいと願っているんだよ」
つぶやくふうにしてニーナを見すえると、
ニーナはすっとうなずき、
「執事さま、承知いたしました」
とだけ述べ、日頃の笑みとはおのれの心象だったのかと深くさとった。
フランツは威厳を正すふうな声色で、
「そちらからの文面によるとおおよそのあらましは分かっているみたいだな。しかし今回は少しばかり筋書きが異なる。天候の具合で積荷が遅れているんだよ」
と言い、表情を曇らせたのだったが、その眼光は妖しく、
「お分りかな」
静かな口調でニーナの好奇をくすぐった。
「いいえ、あっ、でも、ひょっとしてもしや」
「そうだよ。もしやでいいのさ」
「端的に話しておこう。伯爵夫人は昼食後にでもと望んでおられる。おまえの人形は焼き払ったりしない。夫人は大事にしたいそうだ。下々の者には以前の出来事が踏襲されたと喧伝しておけばいいのさ。ニーナよ、おまえは儀式ののちも城内へとどまるんだ。賓客扱いだから心配はいらない。夫人の寵愛をどこまでも受ければいいのさ」
ニーナの懸念は消えかかったかに見えたが、
「おそらく幽閉される・・・」
そんな悪夢が色濃く滲みだし、一瞬うなだれはしたものの、相手が城主から夫人へと転じたことにより、新たな想念が渦巻きだしたのだった。
もう見失っていた少年の背丈を追い越しながら。


[590] 題名:夜明けの口笛吹き3 名前:コレクター 投稿日:2023年08月10日 (木) 03時46分

眠りは遠浅の浜辺を横切る潮風のごとく罪のない、軽挙に多少の色づきをあたえる衝動でいざなわれた。
ニーナの裏まぶたを覆った血流の赤みは、月光の照りつける信憑によって映像の色調へ加担していたのか、闇の囲繞は取り払われ、なんとも覚束なく抜けた蒼穹がひろがって一途な、それでいて放心に近い感覚が付与され、冷たくも肌触りのない光景に接していた。
後退した爽快感がなにかしらの郷愁でざわめき、そして寡黙な表情をつくりだすように。いわれのない夢模様にはこうした浮遊感がともなっている。
唐突に今は亡き乳母に似た役割を担っていた老女の言葉がニーナの耳朶へ近づく。
「寝てる間中、見知らぬ顔がね、みんな同じような顔つきでね、あたしを取り巻いているんだよ」
幼かったニーナは問いかけなど思いつかず、ぼんやりと老女の話しに聞き入っていた。
「ちょっとは見知った顔がいないのかと、よく見渡したけどやはりいないのさ。こう毎晩だと段々気分が悪くなってきてね、かといって心底腹立たしいわけじゃなく、ただ眠りをさまたげないよう、魂の奥底の使者はあたりさわりのない、そう、すれ違っても挨拶すらしない、無関心な面々をよこしたのかって思うと納得いきそうだったけれど、あの妙な顔つきにはどうしたもんだろう。
別に異様な雰囲気とまではいかないにせよ、こっちが無関心なら、あっちも素知らぬ面持ちでいいはずなのに、目もとは吊っているし、口もとも引き締まっているわりには冷たい歯をのぞかせていて、おまけに部屋の隅っこにへばりつき中々立ちゆく様子はなさそうで、なにか文句でもあるのなら聞いてやるのにさ。あれじゃ、にらめっこにもならんし、まだ寝入り際に窓から不意に飛びこんでくる蛾のあわただしさの方が晴れやかに感じるってものだ。
人間の顔に植物的な静けさなんて滅相もない、死人なら死人らしく、うたみつらみでも吐いたらいいのさ。もっともあたしゃ、いちいち係わってはいられないから、適当に向き合うだけだろうけど」
幾度も老女が嘆いていたのでニーナは、まるで幼き夜の夢幻がよみがってきたのかと案じたのだけど、老女が繰り返し訴えていた見知らぬ無関心な情景はまったく訪れず、影の薄い他者との出会いも体験することなく、この城の門をくぐってから夜景のなかでひときわ印象的だった湖畔に落ちる月明かりを美しく感じていたので、人影の濃さなんて甚だ不快でしかない、が、面立ちに見入ったわけでも風体を感じとったわけでもなかったけれど、ほんの一握りの住人にはどこかしら惹かれるものがあって、多分それは自身と極めて似たような匂いを発していたからだし、要職についているのか、ただの下僕かも判別できない薄闇での瞥見だったから致し方なく、しかし人形師から授かった書簡の主人、執事フランツに関する想いはことさら危うい好奇心へと先走っており、今夜は謁見が叶わなかったが、その分ほどよい緊張はたかまり朝陽の透明さの中へと昇華していくような期待を持ち得たのだった。
ニーナには人形師に従うと同時にどれだけ逸脱しようとも、執事の懐中へ飛びこむ覚悟が出来ていて、それを人形師が薄々気づいていることに、あからさまな確証はないにせよ、これまで通りの従事から大きく飛躍してしまうだろう予感を信じて疑わなかった。
ことのなりゆきとか、状況次第とか、関係性の戯れではなく、ニーナは人形師を裏切り、華やかな叡知と称えられている執事フランツの懐に飛びこみ、決して分の悪い盟約などではなくて、好条件の提案が結ばれるよう奮起するつもりであった。
だが手渡した書簡が重大さを秘めていたなら、相手はおいそれと夜間の訪問をねぎらう礼儀を欠いてでも、裏の裏をしっかり見通すため、あえてニーナに親和の情をふりまこうとはしないだろう。この小刻みに震えるような危惧はニーナ自身の内にあって、しかし確実にフランツの意向を定めることになる。鋭い牙をもつこうもりの群に守られた執事の威厳に訴えるには、かなり風変わりな接近が不可欠なのだから、捨て身の覚悟は当然であった。
ちいさな貴婦人とうそぶく夜明けの空に似た白々した気分のなかには虚ろな、それでいて得体の知れない生き物が凝縮していて、そのささやきが織りなすか細い調べにどこか硬質な響きを知ると、これがいつもの大仰な言い草であることに目覚め、人々との関わりや日々のおこないがどれだけなおざりにされているのか、嫌というほど身に染みるのだった。捨てているのは間延びしてしまった態度に他ならなかったが、それでも歯がゆさと虚栄に後押しされた尊大な感覚はニーナの背丈を飛び越え、まるで切り立った崖っぷちへ歩を運ぶ思いつめた影のように、緊迫を寄せ集めるのだった。
「お父さま、どうか一度でいいから顔を見せてちょうだいよ」
老女のこぼした遠い思い出が引き潮のごとく感じたとき、おぼろな幻覚はいつしか明瞭な海面のひかりを浴び、その浜辺からも遠望できる貨物船へと働きかけた。
飛躍と呼ぶには利害がうごめき、宿命だと言い聞かせるには了見が狭かった。それはあまりにお粗末な神話のはし切れみたいでニーナ自身が恥じ入っていまいそうだったけれど、いかにも芝居じみた光景のひろがりは単に解放感を欲しただけにとどまらず、むしろ痙攣的な輪郭の震えが却って強い意想を含んでいるよう、まばゆさに滲む光彩の散らばりが悲愴な、しかし波間に瞬く歓喜がその船底まで伝わりそうだったので、脈絡のなさや適当な加減はことさら軽んじられるわけでもなく、しずくでしかない涙をためたまなざしには色々な思惑が飛び交った。
こうしてニーナは胸の奥を横切ってゆく焦燥をなだめ、より軽佻な演技者の資格を授かって好奇心は半分以上氷解していった。それはたとえ大雑把であろうが、この城を把握する様相に近く、いよいよ長逗留の意義を見出したのだから不幸な時間ではない。そもそも時間には罪も重荷も含まれておらず、間延びさせる意識にさせ決定的な怠惰はひそんではいない。
「知らない顔が取り巻いている。ついで嘆きも霧散してしまえばいいのに。あたしゃ、気が短いんだよ」
老女は嵐の晩、息を引き取った。
星降る夜の夢想に似つかわしいか、どうかはわからないけど、もっとも優しい乳母であった。


[589] 題名:夜明けの口笛吹き2 名前:コレクター 投稿日:2023年07月18日 (火) 05時53分

月影の映し出す湖畔の澄んだ沈着より深い諦念を、果たしてニーナは感じとっていたのだろうか。
常に芝居がかって見えるのはちいさな貴婦人だと自負してしまう取り替えようもない、寡黙な美しさをそっとしまいこんでいたからで、それはいい加減なもの言いを発した後で、補填するかのように自らを蔑んでみるあの壊れた計画のさなかへとさまよい出す、決定的な意思表示が掲げられ、それでも蛇足であり続け一点の弱みを噛みしめながら、薄ら寒さに守られた表沙汰にはならない折れた杖へ即した足踏みこそ、劇的な膠着を培ってやまなかったし、どう転んでみたところで、肉体から抜け出た美的感情に異変は起こらず、憐れみと息苦しさが重なり合い、そして新たな息吹へと駆けめぐる撞着へ揺らめくのだった。
「明日もその調子で、うっすらとも曇りをよせつけないよう」
ニーナはまるで敬虔な信者の面持ちで壁面を覆っている鏡に向かって、そうつぶやいた。
返答など内奥から届けられるはずもなく、無意識的な慰撫でも、衝動的な気力でもない、どこか乾いた花を想わせる悲愴的な芳香が漂うにまかせ、多分に自然の褪色した風合いと彩度をともにし、恨みつらみから離れた親和をほのかに育むのだった。
まぎれもない焦燥と危惧にとりまかれた情況にあって尚ニーナは、
「籠絡や幽閉や従属であるなら地獄を呼びこんでやるわ。これはどこまでもわたしの逗留なの」
と、今度はまるで無目的を悟られずにことを成し遂げるよう覇気をこめて鏡に言った。
「さあ、どうかしら。あなたにはやはり見届けてもらうのが一番、このわたしの分身を気取ろうなんてやめた方がいいわ。それでいいのよ。あなたにそっぽ向かれると悲しいし、とても孤独な気持ちしか押し寄せてこない」
月明かりを頼みにしたわけでもないニーナの微笑を鏡は受け止めた。
「おやすみ、やっとベッドでゆっくり眠れるわ」
皮肉を忘れたちいさな貴婦人は、用意されていた寝衣に着替えるため全裸になり、その月光に青ざめた姿態を見つめるのが、なにやら鏡の人格に話しかけているような心持ちになってしまい、ゆるやかに苦笑へと移ろいだ。
明日の段取りは心得ていた。城主との謁見とはかたちばかりの一夜限りの交接。
人形師からの契約書を手渡し、意味深な複製を欲しないのかと念を押す。別段なにごともない運びであったなら、あとは許可をもらっていささかの余興とばかり、その実ニーナ自らを周知させるための宣伝舞台を寸劇で演じる。
と、まあこれがいつものなりわいだったけれど、どうやら長い道のりをめぐり土地土地で聞きかじった風説と、馬上で何者かに囁かれた悪夢のような噂がニーナをしめやかに脅かすのだった。
かのバイエルン王に心酔したあげく、発狂しつつあるという城主が人形師との契約にすんなり応じるとはどうにも信じがたい。
ニーナの評判が少しばかり知れていたとして、わざわざ彼の地まで呼び寄せなくとも、他にいくらでも近隣には似たような貴婦人がいるだろうし、ともあれ人形師から苦渋の顔色で聞かされた、遠い過去にも先代のニーナがこの領地に招かれ、その後消息を絶ったこと、しかし城主は毅然とした風格ある紳士で、帰国の折きっとよくない出来事に遭遇したのだろう、そこで可能な限り広く捜索を始めるととも、過分な補償を支払ったというのだが、事件といえば事件だし、不幸といえば不幸な様相を世間は曲解するのが成りゆき、悲嘆に暮れる関係者の思惑は、風化する架け橋の両端のごとく、際どさをいくらか残しつつ時代に流され、ついには神隠しめいた浮説と化してしまったのだ。
それ以来のお呼びだったわけなので、ニーナはもちろん、人形師だって身の保全をなにより優先するべきだのだが、財力においてルートヴィヒ2世には到底およばずも、その不可解な言動や、近々ギリシャから石像を船便で運ばせ、城門に鎮座させ魔除けとして敬うなど尋常でははかり知れず、益々もって不穏さが過重に押しこめられた華やぎだけが散らばる光輝に目眩んで、以外にも崇拝の念は不謹慎さを忘れたのか、吐息と一緒に突いてでる文句、
「あのメデューサを・・・」
その絶対的とも呼べる不思議のなかの不思議に触れたときの感覚は隔たり少なく、むしろ身近な出来事の連なりを見届けるふうなまなざしに収斂し、壮大な悪夢に巻きこまれた薄気味悪さを駆逐して更には、まるでありふれた日々の歩みのような、半ば手堅い、半ば実務をまっとうする平俗な意識が領地の土に埋まり、軽い風説の中心から呪詛や神話めいた闇の気配はゆるやかに退いた。
そして人々の口にのぼる懐疑は凡俗な意想へゆきあたると、概ね似たような解釈にこじんまりまとまって、
石像はギリシャなどに眠ってはなく、どこかしらかなりいかがわしい箇所から、大枚をはたいて獲得したに違いないのだから、その奇矯な趣旨には誰彼となしに耳を傾けてみたくなっても仕方ないだろう。地に落ちた荘厳のあからさまな噂ほど人々は好むというものである。
ここしばらくニーナの機嫌は斜めで、というよりか、なにか生きることに疲弊した雰囲気がより濃くなりつつあるのを、察しのいい人形師は見切っていたので、いっそのこと巡業じみた売色に陰りが深く覆いかぶさるより早く、自立とは聞こえが良すぎて尻のまわりがこそばゆかったけれど、稀代の美貌とは正反対の陰惨な打算に長けた醜悪な性質と照らし合わすなら、いくら不変の少女のすがたを保ちつづけていたとしても、いずれは新たな人買いが連れてくるもっと気立てのいい娘は、ことさら弄を用いずとも次のニーナの栄冠に輝くだろうし、このあたりで程よくバイエルン王の側室などに収まってくれれば関の山なのだと、さほど突拍子でなく、案外と現実味を帯びているようにも思えだしてきて、長い旅程になにかしら諭されたなら、そしてあの陰鬱な様子がたどる結末へと見送ってやれば、人形師の英断はことさら際立っていなかったが、とりあえず城主からのお声掛かりがあった数日後に、かの地の支配人を通して綿密な打ち合わせを手紙で交わし、それとなくこちらの思惑通りになるよう切に願っていたのだった。
当然ながら、ニーナはそうした運びが思惑以上ではないことを感じており、察しのよさなんて、いい加減な独断だと大きくため息つくのであった。


[588] 題名:夜明けの口笛吹き1 名前:コレクター 投稿日:2023年07月11日 (火) 04時17分

気だるさを呼びとめてなお、錯綜とした森を縫うよう、たどり着いたこの城がのみこんだ夜の気配はやはり一縷といかず、長旅で降り積もった疲労のせいにしてしまうのが、なにやら言い訳がましくあって、いつになく憂いを帯びた横顔で月光に見入っては、燭台の灯りの揺らめきがこの部屋の主のような大きな鏡へ意識を働けかけてしまうので、ややあって小首を傾げる仕草が似つかわしくさえ思えてきて、それが薄笑いへと結ばれているのを、ニーナはどこか他人事みたいに感じてしまうのだった。
到着後にわかに暖の訪れが安堵とともに運ばれたスープの温かさは、遠ざけられたこの身を軽侮していると、日頃からの放濫で裏ごしされた反撥を表面にし、ねじけてみたけれど、ちいさな筒へ注がれる液体がとても慎重な手つきを案じていたように、口もとや喉は不本意な抵抗をしめしていただけなのか、満たされた想いにつたった流れは、いつもがいつもならただそうした情調の、なるべきしてかたち取るであろう、ありふれた感覚へと落ちてゆく。
空腹にとらわれてなかったニーナにしてすれば、まったく消化のよい夜食であり、入眠まえにふさわい律儀な感傷と向き合えるひとときだったので、どことなく空恐ろしい召使いの顔こそ、まともに見れなかったが、そののち部屋の扉を開いた伯爵夫人の気高さに過敏に反応してしまうと、不意に気づかされのが至って順当であるよう、四方が闇を支配して囲みこんだ山深き寝室に対する警戒などあざとく解かれ、いくらかの親しみをはらんだ初々しさが、夜空へと舞い上がってゆくのを実感した。
唐突な事態が間延びせず異変を告げ知らせるごとく、この場合、長く陰鬱な旅の不安と同じように留め置かれた感情はそのままであり、しかしながら、こうもり数匹の翼が夕暮れの空を横切っていく情景に引きつけられる先読みされた汚点こそ、むやみやたらに心身をこわばらせる萎縮の機能であるなら、恐懼を惹きおこす平穏な倦怠こそが灯火の影に映し出されるべきであって、さほど長く見つめるでもなく微笑を誘うのが今は賢明なのかも知れない。
呼び止めてなお、伯爵夫人の物腰に隙がないのを察したニーナは深入りの無粋に後ずさりしたのでも、童心に宿る平坦な遠慮に導かれたのでもなかった。ましてやおさない時分、よく遊んでは悪態をついたりつかれた同じ背丈の従姉妹に別れ際、決まりごとみたいな調子で言い放った「ごめんね」という風船のような軽さなんて思い出してもおらず、それら柔らかな感情のぎこちなくも直線的な回想と真正面からぶつかり合うのだった。
「わたしは子供じゃないわ。この大きな鏡、どうしても等身大であれとなだめるのだろうけど、いい加減にして欲しい」
ニーナは未踏の地へ足を踏み入れた感興でも滔々と述べるふうな身構えで、さながら旅芸人がいだくであろう開放感と閉塞感の入り交じる情趣を月明かりの方角へ投げかけながら、ひとり言の余韻を燭台にかざすような按配で、細く長い影を床へまっすぐに這わすと、そこには明快なすべりを尾になびかせた紅とかげの光沢が走り抜け、月光の青みを含ませた。
「人形師の家柄なんて喜劇にも悲劇にもならないのよ。代々の務めだの、王家貴族の支配下だの、技巧の極みだの、よくもまあ懲りずに人生の潮風すら知らない取り澄ましたひとがたを好んで作りあげるものだわ。どうしたら、ああも静かな風だけに吹かれ続けていれるというの。
もっともわたしはいくらか演じてみせる雛形だから、呼ばれる先々では割と気ままに笑みやら憎しみやら悲しみを顔に浮かべていれば、それなりの反応はむきだしにならなかったし、気難しい人形作りの神経なんてまったく意に介さずともよく、まあ、ときには愛想程度の敬愛のまなざしを眼の奥にたたえたりして、すまし顔が透き通る心持ちを相手に感じてもらえば上出来だったわ。
うさん臭さだって同じこと、侮蔑が抱える情感の重さは少なくとも曇り空のかたまりよりあることでしょうよ。どうしてかしら、そうね、今にも落ちてきそうな雨脚の激しさで包まれた景色に、ひとはある種の摂理をそこはかとなく眺めてしまい、そのひとときを切り取り、愛で尽くしたいがゆえ、美しい音楽に等しい揺さぶりの涙で視界を滲ませるからよ。自己憐憫がうまく一回転し、危うくない着地へ導くからでしょうね。
わたしは高慢ちきな貴族が天空のうつろいを背景に、この長い睫毛が斜めの表情をかいま見せたときに動じた、あの崩れた姿を今でも鮮明に覚えているわ。いったい何に感銘したのやら、まったくわたしの知るところではなかったけど。この雛形の向こうにおのれの闇と色彩を見届けたのなら、それは尊大な好奇心に触れたのでしょう。
ある王子さまは数年待って婚姻を望むと、声を枯らしつつ周囲の動揺も上の空で言い放ったものよ。でもね、すべてはわたしが人形師らに祭り上げられた傀儡という鬼神より確実な浮き世に咲く徒花だと、ちゃんと心得ていたからで、これがどこかのお姫さまだったら、もっと違った態度、つまり厳かな恋情と清廉かつ勇猛な束縛を前面にあらわにしていたでしょう。早い話しが生身の人間にはそつのない礼儀が重んじられ、わたしみたいな人形の雛形には丁重な侮蔑がよく似合っていたからに違いないわ。
どうにも歪んだ性根と、呆れているみたいだけど、上辺の関わりほど嘘をまといたくて仕方なく、はなから玩具に過ぎないと誰もが認め、もて遊ばれることに長じたちいさな貴婦人なんてどうしようもないのだけれど、使い捨てなんだから真実がまかり通るの、まとった嘘の衣の着心地の悪さを覚えるまえに、もっともそこまで執心することなく、嘘が封じられる。つまり、わたしは厄介払いになるのね。
これほど分かりやすい方程式はないはずよ、そうね、方程式以前のむず痒くなる感覚に近いからでしょうか。
歴代のニーナは皆こんな意想を持っていたのよね。わたしはどこの誰かも詳らかでない養子なの。由緒ある人形師のね、別段めずらしいことじゃないわ。この城にだってきっと何人、いえ何十人もどこからかさらって来られた少年少女がいるはずよ。でも、そんなことはどうでもいい、不思議ね、ええなにか違う意味でこの城には妙な気配が漂っている。どこがどうとははっきりしないけど、前回の領地からあまりに距離があってせいかしら、それとも軋む馬車の不快な気持ちが化けてしまったのかしら。
仄暗い森の道筋には不吉なまじないが施されているようだったし、夜更けの到着まで頭上にひろがる星々を遠望していると、いつになく人生に嫌気がさし、自分がとても汚れた存在に思えて仕方なくて、時間が有する、そう、わたしがわたしであるためにわずかだけ意味合いを沈ませた過ぎゆく時間の音に敏感に、なにか不手際が生じたあとみたいな後悔が、そして夢見てやまないなんてあり得ない悪夢が現実のいばらに閉口している今このとき、気だるさよりも早く、いいようのない宿命のようなものに肉薄している。
この感じはいったいわたしになにを告げようとしているのかしら。
誰かの口笛みたいなものなら、それはどこから聞こえてくるの、いえ、意味合いも答えも予感も必要ない。ただ、この城にはしばらく逗留するような気がして仕方ないから、ねえ、鏡さん、そこの大きな鏡さん、あなたにはこれからお世話になりそうね」


[587] 題名:幻燈記 名前:コレクター 投稿日:2023年06月26日 (月) 05時15分

夏至と知らされたその夜、壁掛け時計の針が明瞭に示している日々の連鎖を何気に確認してしまう自分が少しばかり疎ましく感じたけれど、暮れ時を忘れてしまったふうな外光の照りつけにぼんやり視線を投げかけていると、あれほど夜の意想へ含みをもたせては、それらを支配する魔物たちの気配に目覚め、ただ一心な想いを積み重ね、あるいは突き崩し、漂白された真っさらなゆくえに胸騒ぎして、暗幕を引き下ろしながら常世の陥穽に怯え、暗がりがあたりを漂いはじめる物寂しさや、過ぎ行く時刻に対する薄皮めいた浅薄な焦燥に連れ添っていた心身の萎縮がはじまろうとしていた。
もちろん遠のく光線とともに視界を失ってゆく小さな悲哀にすぎないのだったが、いつになく晴れやかな心映え俄かに充満していくようで、窓わくを越えふわふわと、いやもっと素早く外の明るみへ踊り出したい気がしてきた。
そして直ぐさま思い返されるのは、小さな子供の頃、ややしんみりした曲調ではじまる時代劇がテレビから流れてくるのを耳にしながら、
「こんな時間なのに、どうして昼が続いているんだろう」
という、不思議な感覚だった。あのとき自分を取り巻いた感覚はおそらくとても個人的で、誰かれと共有したいなんて考えたりせず、いつものように時代劇に見入っている祖母のうしろ姿にさえ問いかけることなく、ただひとり静かに夏の夜の華やぎに陶然としていたように思う。
やがて勢いよく闇に包まれた空気が開けっ放しの玄関から地べたを這うように近づいてきて、なにか妙な心境になり、果たして得をしたのか、損をしたのか、いかにも駄菓子屋でくじ引きをしたあとの感興に似た他愛なさに落ち着くのだった。
その後もあの明るい宵のことは他言してなく、それは関心事であるというよりか、自分だけに訪れたまぼろしめいた経験だと思いなして、ひそかにしまいこんでおきたかったのだろう。
先日の夏至だって、べつだん季節が醸す折々の風情をしみじみ感受するほどの性分ではなかったが、今年は裏の竹藪を渡るうぐいすのさえずりもなかったので、夕暮れの遅延を窓越しにぼんやり眺めていたのがなにかしら新鮮で仕方なかった。
70年代のマッコイ・タイナーの挑発的でちから強い鍵盤における流れは反対に誰彼となく、喋りたくなって仕方ない。コルトレーンはタイナーの饒舌なピアノを毛嫌いしなかったのだろうかとか想像しつつ、その演奏に聞き入っている。
またエルビン・ジョーンズ、ロン・カーターとのトリオ「Trident」での火花が散るような応酬のさなかにあって、亡きジョン・コルトレーンのテナーが鳴り響いてくるのは、いけない幻聴なのだろうかな、などと、好いたように音楽に傾倒するのも罪ではあるまい。

罪といえば、金木犀が薫る道すがらおのずと歩が緩んでしまうのは やるせない。
あの甘くいくらかの酸味を帯びて、しかも風に乗るやら木の根っこ辺りへ沈潜しているのやら、よく判別のつかいない広がりをもち放たれる匂いは、たぶん母がつけていた化粧品や幼児だった自分の股間や脇をはたいていた天花粉の甘ったるくも清凉な芳香が由縁であると思われ、色香も女体も知らない情趣すら越え出て魅惑に揺れていたのだから、なんともよく説明がつかないのだが、あの季節は運動会の時期でもあったので、たしか、普段は通りすがりのすれ違う程度の女子たちと校庭や体育館で幾度も顔を合わせていたと振り返れば、ある程度は色めいた思惑に突き動かされていたようだ。
たくさんの女子を間近にし、だが当惑するでもなし、興奮するわけでもない、ただいつもより気分が浮き立ち、無論それが性欲の萌芽であったかどうかはわからないけど、すでに自涜を覚えていた自分を鑑みれば、どうやらそうした事情に間違いはなさそうに思えてくる。
金木犀は恋の匂い・・・なんという浮かれた想念なんだろう。
で、これは小学生当時同じクラスの同級生から教えてもらった話しなのだが、学習塾に通っていた彼はどうしたことか授業時間を誤って早く教室へ着いてしまったそうだ。
黒板の横の時計をみると明らかになったのだっが、ほんのわずかして、ひとりの女子が入ってきて、やはり彼同様、先生も他の生徒の影が消え失せたような静けさに唖然としていたのだった。
あらかじめ念押しおかなくてはいけないけど、自分の記憶は定かでなく、どれくらいで授業開始となったのか、なかには早めにやってくる生徒だったいたのではないか、そしてふたりは懇意だったのか、ひょっとしたら別の学校の女子だったのか、どんな会話で沈黙を埋め、なにより距離を縮め、緊密な状態へと至ったのか、同級生はあれこれ語ったのだろうが、さっぱり思い出せない。
記憶を鮮烈に染め上げるのは、女子が口にした素っ頓狂なひとことに尽きる。
「あそこ、触らせてあげようか」
股をひらいてそういうものだから、黙ってそのままじっとそこをさすり続けたというのだが、ジーンズの上からであり、しかもボタンフライ、金属片が引っかかるのは当然で、とても卑猥な光景とは想像しづらい、ましてや脱がしてやればいいのに、なんて不敵な考えすら沸き起こる背伸びも嫌らしさもなかった。
自分も同級生も、そして女子も。いや、女子は脱がされるのは抵抗があって、あえて擦りにくい状態を選んだのかもしれないのだが。
「その子は君のこと好きだったんだね」
その気恥ずかしい質問もしたかどうかはっきりしない。
彼が自分に決定的な刻印を押したのは、不真面目なのか笑いを誘っているのか、どちらつかずの答えだった。
「人の気配がしたんで、やめたよ。あとでそっと指先を嗅ぐと小便臭かった」
あのころ、どこまで色事の知識があったことも残念ながら忘れてしまっている。そして、のちのち彼とそのことに関して喋った記憶はなく、あれから数十年、なにかの加減であの秘密の情景が脳裏に描きだされ、ときには過剰な潤色をほどこしてみたり、大仰なみだらさで波打たせるようにして、ふたりの後日談などを勝手に思いめぐらせては、興奮したものを握りしめた。
うさん臭さも加味して、同級生の妄想か、あるいはかつがれたか、そんな深読みに準じてみたが、反動としてませた女子の肝が座っている情勢を受け入れるための講座と化して、あやふやな性知識を刺激する始末だったので、ある種の刷り込みともいえる過激な映像が脳内に渦巻いてやまないのだった。
中学生になって「小便くさい女」なんて悪態の意味がなんとなくのみこめるようになっても、それが本来なのかどうか、ちょうどさかしまに映る幻のごとく、今もこの身に染み入っている。


[586] 題名:The Missing Boy 12 名前:コレクター 投稿日:2023年06月13日 (火) 02時35分

いつぞやさいはての地へ赴いたことがあると、先達の徒から聞かされた記憶の風合いを肉感の襞に忍ばすようにしては、果たして深いのやら浅いのやらよく見極めのつかない思念が形成されて、今この瞬間に横溢している懸念さえ、片隅へ追いやった恍惚のきらめきで酔いしれているにも関わらず、ふと瑣末な興ざめが悪寒みたいによぎってゆくのをペイルはなにやら浮ついた気分で捉えてしまうのだった。
捉えたとはいえ、確固とした感性が液状の色彩を放ってまばゆく染み入ったわけでも、反目する想念の軋みが色濃く脳内に飛び散ったわけでもなくて、眼前の光景を朱に照らすあの心地よさと不快が溶け合ったふうな、視線が不意に投げかけてしまうときのやるせない倦怠を招いただけで、その所以を探りだそうともせず、ただ数度の吐精によって幾らかは疲弊している肉体の間隙を垣間見たとでも、うそぶいておくのが実際なのだろう、本心から怒涛のごとく押し寄せている肉感を振り払うなんていうに及ばず、いささか堪能した女体のなめらかさと豊満から視線をずらしたに過ぎない。
気まぐれは緊縛と恐怖、そして官能に対してすら箸休めみたいな逸脱になり、そう小童の鼻水の等しさでもって理性を愚弄する。人生における過度の集中に尊さと卑しさが透明に配分されるように。
すると逆に見つめてやまない緊縛され固定させた意識をさらに高める為、ちょうど興奮のるつぼを知っているがゆえの悪戯めいた散漫さを欲して、それが実は終わりなき悦楽を約束しているのだと、蒙昧に、しかしながら諦観の跳ね返りとして肥大させてしまうのだった。
ある種の人間にとって隷属に近しい束縛や重圧が好ましく、またそうあるべきだと心身が望んでおり、まるで手錠や足枷が強固に機能する不自由さのなかにしか生きがいを見出そうとしない心性は、ことさら病的で偏狭な姿勢でもなく、むしろ生真面目で温和な資質を最大限に生かそうとする絶え間ない努力なのだ。
もっとも冒険やら開拓といった未知なる地平に佇むことなどは、ほぼ無縁の境地にあるのだが。
さてこの刹那、ペイルの肉欲の盛りは満ち足りていると言い切れるはずなのが、わずかによそ見をしてしまう気まぐれはこの場合、やはりのちに執り行なわれる供儀に対する畏れを感じているからであり、が、ただ単に畏れが直線的に夜の向こうへ延びているわけでもなさそうで、浮ついた気分の証左となるべく無軌道な方向性が裏打ちしていて、この身も蓋もない適当な生き様にこそ、頽廃や糜爛や痙攣がふさわしく、ひたすら女の股ぐらへかぶりつき愛撫の限りを尽くし、腰をふり振り、ほとばしる汗を体液と交じらせれば尚のこと、さながら一服の心地で空漠に接するのもことさら誤りでなかろう。
スージーのふくよかな下半身から得たはち切れんばかりの充足に終止符はなく、黒々と茂った箇所に開いた淫靡な花弁の味わいに幕引きはなかった。腰を引き離し、乳房を遠見するよう女体と距離をとり、しかし無意識に作動する指先の軽い仕草で割れ目をさすると、ねっとり糸を引くように細く愛液が光り、その一条のねばり気にこそペイルは畏れわななき、深更が浮かびださせる光線の力学を知らされた。
それはあたかも口うるさい癖になかなか重い腰をあげない年寄りが、ふっとやる気をしめしたような加齢の屈折が端的に写しだされ、見苦しさをふり払う調子で蜘蛛の巣をかき分け、我知らずよだれをたらしながら立ち上がる情景と重なった。
見飽きたかもしれない股間に閉口しているなんて、馬鹿も休み休みに言え、食べ過ぎの飲み過ぎの食傷と似ていると思うのなら顔を洗って出直して来い、情欲に加減はあっても終わりなどあるものか。
「どうしたの」
すこし怪訝な顔つきを見せたスージーは、おそらくこのどうしようもない精神の氾濫に気づいたのか、微笑のなかにもややざらついた肌のような面持ちを翳し、ペイルを見上げた。
たしかに夜は深まり、そのしじまは鼻息のみを頼りにしていたけれど、横たわった裸身が永遠にいざなうであろう魅惑の園へとひろがる夢さえ打ち破る衝動を限りなく秘めているのなら、ペイルの反骨に支えられた浅薄な意向にも緩やかな歯止めがかかり、いつしか書物のなかで知った夜明けの口笛吹きを想い返していた。愉快な川辺に別れを告げ、名のなき町へと彷徨う心情に哀しみが寄り添っていないなんて嘘に違いない。
名残惜しさなのか、未練たっぷりの吹っ切れないよこしまで猛々しい強欲なのか、それともたやすく借受けた美徳の冠を盲目に崇めているだけか、いずれにしても今のペイルには全裸でまさぐった濃厚な色香と、性急な荒波に似た興奮が充溢しているであろう、この閨に張り詰めた濃密な空気をもう一度深く吸い入れると、幾ばくかの感傷に足もとを洗われる気がしたけれど、女体のすべてを知り尽くしてしまいたい強烈な嘆かわしさに突き動かされ、新たな暴虐をも内心燃やしつつ、むっちりとした下半身に頬ずりしながら、その肉感を我がものにするため、ひたすら胸の隆起やら尻の張り具合を検分でもするような勢いでまさぐり、肌身のあちこちへと愛撫を繰り返しては、怒張したものを深々と沈めこむようにして重なり、きつく抱きしめるのだった。
このまま果てたあとの夜明けを夢見るよう、そして自分の相手をしてくれたスージーの瞳の奥底を敬虔なまなざしで覗きこむようにして、漆黒の夜に咲く火花のごとき閃光の刺激を謳い上げると、どこかもの寂しげなスージーの横顔に乾いた微笑がうっすら宿っているのがわかり、すべてを了解した。
とりとめのない日々の連鎖を断ち切るよう奮起したのはいったい誰だったのか。ペイルが習わしにしていた冴えない自涜は一切の罪を背負うことなく、平穏な毎日にみすぼらしくも健全な姿勢を保たせ、その陰湿で社交にこと欠く性格を磨きはしなかったが、損なうこともなく、なにかしらよく定まらずとも悪しき天候とは呼べない空模様のように、まったくもって晴れ晴れとせず、浮かれて羽目をはずしたりもせず、気高い野心なんて微塵も抱かず、しかしながらねじ曲がった鉄の端切れみたいに卑屈で意固地な胸間の持ち主でなかったから、ごく凡庸な生き方に充足する性分だと考えていた。
城主の発狂とメデューサの石像の因果へと思い馳せるまでもない、ただこうした時期がやってきたら生涯に一度くらいあたりに遠くひろがる森林や、いわれを知るのもおぞましいような暗黒へつながる朽ちた洞穴、清廉なさざ波に映るけれど以外と力強く遥か彼方まで流れゆく小川の流れに、この身をゆだねてみよう。
無論すべてが自然の映発と限らず、いや反対に貴金属を腐食させる雑菌に等しい猥雑で錯綜とした人間の腐った欲望にまみれてみたい、あるいは豚小屋の耐えがたい喧騒や異臭のさなかにあって、泥でまみれゆく衣服の汚れに焦りつつ、その焦りを恍惚の扉として受け止め、突破口のありかさえ逸したい。どれだけ無謀かは想像の問題だが、執事フランツに申し出た願いこそ、ペイルの生きた妄念であった。
最期の一滴まで精を吐き出し、熱く火照った女体にさよならを告げたとき、霞んだ目許が見届けた柱時計の音は低く、軋むことすら忘れた供儀のいわれがいにしえの城内を静かに席巻するのだった。



[585] 題名:The Missing Boy 11 名前:コレクター 投稿日:2023年04月25日 (火) 04時31分

帰るに帰りきれないもどかしさの訪れを耳のそばにしながら、ペイルは大人気のない、やり場のない不均衡な意識を保ったまま、放電されてゆく曇りに曇った下半身に積もる痺れを感じていた。
血のめぐりが悪いとも、急いた挙句の疲弊とも思わなかったけれど、帰するべきところへ落ち着いたとはとても言い難く、それは綿密な算段で成り立っていなくて、反対にちょっとした弾みがもたらした粗相のように感じられたので、なおのこと不透明な輪郭線の揺らぎにさらわれ、なにかしら一途に突っ走ってみたその始末が薄ら寒く、やるせなく、ぎこちなく、あふれ出した精の勢いとはうらはらの失意に覆われていた。
が、決して全人格を打ち消したわけではない。よく見極めのつかない痺れが却って抑えがたい発火点を告げるよう、そして安堵から逃れるための口実として焦燥がもたらせるよう、肉体の一部は精神の氾濫へと加担しているのだった。
その証拠に苦渋で歪むはずのペイルの表情には、すでにほのかな曙光が明らかに認められ、たいした間もおかず、ただちにスージーの瞳を食い入るふうにして見つめると、そうした行為が気まずさの糊塗だと覚えながらも、過分に芝居じみた情景が流れてゆくのを時間の彼方へ即してみたのだった。
すると、半開きのくちもとで見つめ返したスージーの感情の波が気遣わしいものではなく、ふたたび快楽のなかへ落ちてしまいそうな予感で満たされており、茫然自失の瞬間はただ単に、唐突の精通を余儀なくされた未熟さに収まってしまうような気がし、いくらか落ち着いた態度でくちびるを吸ってみた。
以外にも冬ざれを想起させるみたいにささくれた感触だったのでペイルはすこし驚いたのだが、それくらい激しく口を吸ってスージーの体液も退いているのだと、勝手に解釈してから、あらためてまだ知り得ぬ秘所の湿り具合を確かめるべく、片方の手をのばし割れ目をそっとなぞってみた。
さきほどと同じで中指にうっすらまとわりつく体液のねばりはペイルをいっそう卑猥にさせ、差し入れた指先の溺れるちいさな加減を自分でも計り知れないくらい誇大な感触を持たせると、それは熱帯に咲く淫靡な風合いの花弁となり、その陰の地面の陽光を遮った苔むす窪みとなり、天を仰ぐ名もなき地虫たちの吐息と化し遠く野生動物の交尾へまっすぐに繋がって、危うく妖しく、けたたましさと静けさを配分してから、夜風の不気味な余韻を染み渡らせ、まごうことなき女体の肌すべりにうつつを抜かし、夜気が放つ冷たい葉擦れと、浅くとも漆黒の闇を乗せて流れゆく小川の調べに共鳴する雨蛙となり、気後れした自尊心のよりどころこそ最もぬめりで浸されるべきだと歌う瘋癲となり、あるいは森の奥深くに住まう寡婦の小窓を覗きこむ純情となった。
何本かの指を用いて柔らかくも弾力を秘めている割れ目をなでつけたり、恐る恐る差し入れてみたけれど、その慎重さとか油断のなさは何を隠そう、いきり勃ったものを埋めこむ場所であって、実は一刻も早くそうしたいのだと願っていて、しかし、興奮の極致にまであった途端うまくいかなかったことを案じてしまい、かといって拙くも懸命な愛撫で潤った様子に違いなかったから、
「もう一回・・・」
と、スージーの鎖骨あたりに鎮まるよう照れくさそうな声で尋ねてみた。
返答は即座にその紅潮したなかにも、まぶしさをたたえた白い柔肌と、その夜気と拮抗する茂みが開かれ露わになった熱帯にあった。
おおきく膝を曲げながら下半身のすべてがペイルに捧げられようとしている。焦燥や高揚が怒涛のごとく押し寄せてきてもおかしくはなかった。もしくは脳天が空っぽになっても変ではなかった。ただこうした最中でありながら、ごくごくか細い切っ先を持つやいばが傷をしらしめていくように、ひとつの考えだけがペイルの胸まで緩やかに下りてきた。
スージーは自分を女陰に導こうと触れたのだった。それを普段から反復運動に専念しているからまったく取り違えてしまった。
これは天啓だった。空白に近かった脳内を支配すると同時に、その気遣いや触れ合いすら瞬時にして過去の遺産へと追いやり、ペイルは秘所をまさぐり続けた指先とは反対の手で自らをつかみ、汚物が暗渠へ下っていくように、小動物が寝ぐらへ帰ってゆくように、夕陽が山稜に沈みこむように厳かな時間と向き合った。
むろん時間に感触はない。あるのはもぞもぞと歯がゆいみたいな気分と、その反面、あらゆる些事から解放されたときに感じる薄い皮膜だけが半透明の気安さを讃えている、あの愉快さだった。
そして愉快さはたちまち快感を招き、下半身が溶けてしまいそうな熱気を帯び、しびれを通り越して脳髄に到達した。それはまるで忠実な伝書鳩みたいにペイル自身を伝えていた。
おおきく開いてくれた両脚へ覆いかぶさる按配だったので、その滑らかさや温かさを覚えるまで時間は律儀な面持ちで夜風と対峙し、根元まで差し入れた自分のものの深さを測るため、腰を上下させるのだと妙な言い訳すら追い風とはならず、ただゆっくりした動きで女体も下半身を泳がせたから、同調してみると不思議なもので、これが本能的な動作であり、常日頃からの反復運動はここに収斂するのかと大いに感心しているのだったが、やはり興奮の度合いもかなり高まっているようで、抱きしめた両腕がぎこちなく乳房をさすったり、強弱の定まらないくちづけを行なってみたものの、とても相手を悦ばす手立てには至っておらず、それより波打つようにこすれ合う下半身に意識はほとんど集中していて、その潮の高まりは限界に近かったけれど、すでに二回放出していたせいか、自分でも信じられない行為へと身の置きどころを転じたのだった。
集中の意識があるなんて、その方が散漫なんだ。どうにも有意義なのかでたらめなのか、ペイルは深く女陰を突くまでに、思い切りそこへ顔を埋めたかった。生殖器同士が接触するのは動物的本能だろうし、帰結するのもそれ以上の快楽なのだろうが、昼日中では決して拝めることのない箇所を思い切り見やり、なめまわし、頬ずりしてたくてたまらなかった。
三度果てるまでの今この刹那こそ、その行為は陶然と輝くに違いない。そして至高の快感を時間は約束してくれるだろう。ペイルは夢に見た、もしくは憧憬の世界だと意識の広がる限り悦楽を送り続けた、女陰への激しい接吻に埋没した。わずかに甘く苦くもあったけれど、想像していたものとは異なり、またその形状やら触れ心地も指先とは別の感覚を教えられ、もはや桃源郷に舞い降りたのだと、涙目で肉体が醸し出す生命のきらめきに酔いしれたのだった。
スージーの嗚咽に耳を傾けなくとも、ぱっくり割れた果実の奥底から脈打つようにしてこだまする音色の玲瓏な響きがペイルの薄い心象を切り裂き、より鮮明な形状へといざない、極彩色の反響でこの閨を塗りつぶしている。入り交じり絡み合った色彩は七色の光輝だけにとどまらず、単調な灰色へ被さる写し絵の、寒色の冷ややかさが抵抗を委ねる青磁の奥ゆきが、紅葉の赤みに頬を染める清純が、白く澄んだ肌の上から土壌の暗部へと連なる様をまざまざと思い知らせる。
重なり合う裸の潤滑油は汗だけにとどまらず、お互いの恍惚とした意識の狭間にすべりこんだ淫猥な火照りは、一層のなまめかしさで瞬き、あたかも透き通った海底を揺らめく繁茂する陰影のごとく、日の光の通過を許し合うのだった。
供犠の前戯としての情交。城の因習。見栄と恥じらい。海と母を知らないこころ。
これら擦過する意識がなによりの邪魔者であった。燦然と今宵の性戯をあたまのてっぺんから輝かせるために。


[584] 題名:The Missing Boy 10 名前:コレクター 投稿日:2023年04月04日 (火) 03時37分

気のまわし過ぎか、いやそうではなく、切実な高揚によって気分が最高潮まで引き上げられたのだろう、すでに精を抜かれたペイルにしてみれば、時間の過ぎゆきを律儀に見守る余裕などはなく、ただ一刻も早い柔肌への接触を切に願っているだけなのだが、そう案じることで生じてしまう見苦しさを危ぶんでは、うわついている無重力のような覚めた感じを欲していたので、スージーの顔つきや所作までかた苦しく感じてしまい、たおやかな時間の流れに身をまかせている感覚が遠のくのは、当然なことであり、そう配分されているのだと、おのれの欲深さをあらためて認めるしかない。
想像や希望的展開で描かれる色香の強みは、自ずと勝手な調節で左右され、あたかも相手の女色がとてもいい按配で伝えられ、見届けられ、支えられ、そしてまとまりのよい劣情に呼応するという、まったく手淫の加減に等しかった。あまつさえ初体験というこころ弾む瞬間を迎える身には、その肉欲が抱える重力によって隔たれている距離感こそ、願わくも疎ましき間合いであって、なぜなら恥じらいと淫らさとが入り組んだ心情は、理性がもっとも生成され難い立場へ迷い流されていくからである。
しかし、迷宮の閨房に立ち籠める研ぎ澄まされたような感じは、狭く浅く、あからさまに霧散することなく、予感に入り混じる一点を凝視するまなざしは異様な輝きを放ち、スージーが振り向き様に浮かべた微笑の筋書きには、自分も体を清め向かい合うという徴しが濃密に読み取れたので、野性の理は決して蒙昧ではなく、至上の明るさで照らされている。
湯浴みのあいだ、寝台で待っていてと、漆黒のマントからしなやかに腕を伸ばし、そう告げるふうな合図が交わされた。ここへ来てかろうじて時間のひりつきが感じられたけれど、さきほどの快感がどうにも下半身からじんわり立ち上がってくるので、思わずペイルは無常などという見晴らしのよくない意想を呼び寄せてしまい、だが、その晴れない霧の奥の灯りみたいなものが近づいてくるのやら、はたまた追いかけているのやら、よくわからず仕舞いのまま、薄い毛布に触れている自らの裸身を尊んだ。
夢見の刹那が儚いのなら、今はそれを謳歌しよう。目覚めは同時に悦楽への門出となろう。もう少しばかり夢想に耽っていたかったと、あえて文句が言いたくなるほどの間隔で、素っ裸のスージーが湯けむりを背に立ち現れた。思い切り生唾をのんだのを悟られても気まずさなどなかった。ペイルはすでに興奮のさなかにいた。
邪念が意識されないことの愉悦は前のめりの勢いであふれ出しており、毛布を払いのけ、同じく裸で寄り添いながら、しかし瞬発なのか、朦朧なのか知れない穏やかな仕草で両手をかかげると、すぐにスージーの柔らかな手は絡み、そのまま上体を被る格好で肌が重なった。
ほの暗い空気の揺れに即すようにしてスージーのくちびるもペイルに近づき、ごく自然な風のささやきで葉と葉が触れ合うみたいにして、薄いくちづけが行なわれ、微かに表面だけを吸っては離れ、次には頬へと移りゆき、いかにも気まぐれな風情で戯れているような、けれども類推として執事フランツの姿に想い馳せるとき、不思議なもので、あの隠された牙の鋭利な感触は、まるでいばらの葉であったのか、ただちに新たな一陣の風に吹かれ消え去ると、それは犬の甘噛みにも似た気分を想起させ、なにやら弱い困惑を得意がっているみたいで、なら隔たった間合いを埋めようとペイルはますます駆り立てられてしまった。
幾度かお互いのゆくえを探るふうにくちづけを試したあと、ペイルは上体を反転し、あまりにまぶしい女体のすべてを探るため、はち切れんばかりの乳房をまさぐりつつ、その谷間へ舌を這わせてみた。
視界は柔肌が醸す白い地平でふさがれ、硬直してしまったのだが、もう股間だって明らかにいきり立っているし、経験のない身上からしたら、ここまま女体が反応を露わにするまで反復するしかすべはなく、また聞きかじりのあやふやだが、どこかしらもっともらしい性技を頼りにすれば、やはり気をはやらせないで、じっくり、ゆっくり、じんわりと熱の芯が熟すのを待ち続け、なにより母を知らない自分は乳房を知らないのだから、もっともっとこころゆくまで撫でてみたくてたまらなかった。
両の手も交互に使い、舌先からよだれがねっとり肉へつたったけれど意に介せず、ひたすら谷間を下り、乳くびに吸いつき、たわわな胸の実りへ顔面を没した。やがて、夜鳥の遠泣きが耳に近づき、それが女の小さな呻きだと知れたころ、ペイルは名状し難い達成感のようなうれしさに襲われ、はらはら涙をこぼしてしまったのだが、興奮状態そのものにあったから、唾液に濡れた乳房に感泣するのも恍惚の扉を拡げたのだと感じ、まだこれで到達したわけじゃない、秘匿された箇所を見すえて愛撫したのち、自らのものを埋没してからようやく劣情がふてぶてしく居座るのだから、さらに呻き声をしぼり出すことに専念しなければならなかった。
そうなるとスージーの面に上気した色合いをうかがいたくなり、ふたたび今度は圧力を入れてのくちづけでその様子を見つめた。
この近視眼的な領域に映ずるのはペイルの児戯が作り出す光景と同時だったから、一瞬だけ点じるように目にした股間の黒い茂みが若草に思えた実感すら捉えきれず、ただちにその茂みに顔を埋めるのがなぜかしらためらわわれ、なにかしらの清涼感を引きつけては猶予を保たせているのだったが、そのいわれが理解できているのかよく分からないまま、近視と硬直が織りなすためらいに意味不明の清さを擦過させていたので、
また、ペイルの感涙に同調するほどに嗚咽のような声が返されてにもかかわらず、ほとんど身悶えでくねりを表さないスージーの快楽の程度も知りたくてならず、自分の野暮は棚上げしておき、ちょうど未熟な技師が早く一人前と承認してもらいたい心意気のように、はやる老成とぎこちない関節の運びは並走するばかりで、快楽の裏にひそむ憐憫や、過剰な意思が育む弱さなどに気配りする余地を持ちえず、きつく閉じたれた双眸と眉間にたまった暗い溝から漂ってくる哀しみの動揺を、単なる官能と見まごうのも致しかない。愚かな領域は愚かな行動と意識で埋め尽くされているのだから。
果たしてつたない愛撫でどこまで女体の開眼へ迫れたのやら、が、返答は言葉でなく、より濃厚な接吻で帰っていた。それは口をだらしなく開けて舌と舌とが激しくナメクジの感触でもってぬめり合う奔放さだったので、大いに気をよくしたペイルはその口をふさぐようにして、ぬめりが荒々しさに馴化してゆく様をたっぷり味わい、それまで胸のふくらみに執心していた手を一気に黒い茂みの園へと忍ばせてみた。
この世のすべての関心事と呼んでさしつかえのない秘事へ到ったペイルは、うまく触れられず指先が特にごわついた茂みを覚えるのでもなく、まったく自分の下の毛をなぞっているふうな手触りで妙に感心していたが、それからすぐ中指が湿地に滑りこんだみたいな温かさを認めたとき、そこが初めて女陰の入り口であり、割れ目であるのを教えられ、軽く滑りゆくにまかせ中指を差し入れてみるのだった。
感動は性急に訪れ、引き潮に代わる強大な意想に導かれ、ここへ堅くなったものをはめこむのだという、おそらく人生において経験するであろう最大の儀式を眼前にすると、かなう限りの指先を這わしながら割れ目の深いところを恐る恐る、無論そうした手つきだったことが柔らかな侵入となって、本当に割れてしまったのかと驚くほど、大きな口が股のあいだに開かれたのだった。
スージーはきつく重ねていたくちびるをずらし、これまで聞いたことのない苦しくも甘い声をもらした。ペイルはそのままの姿勢を崩さず、もう一度胸もとへ舌をやり、嗚咽とともにあふれてくる愛液をぬぐうようにして快楽のみなもとに攻め入り、いよいよもって腰を浮かして身をよじらせだした相手の裸体に挑む覚悟を決めた。
するとまったく予想していない事態が引き起こされてしまった。控えめな快感を募らせ、ペイルのなすがままだと踏んでいたスージーの手が鉄棒のように固まったものにすっと触れたと思いきや、さきほどの湯屋と変わらぬ動きをもたらした。ほとんど高みに登りつつあったペイルはこらえようのない電流を受け、脳内とは無関係に快感を走らせてゆく股間に仰天した途端、あまりに早急で抑制のない精通の自失した幼き日へと帰されてしまったのだった。


[583] 題名:The Missing Boy9 名前:コレクター 投稿日:2023年03月28日 (火) 02時46分

思い立つより早く、苦々しさのなかにあって手狭な、その冷めた表情を取り囲んだ湯けむりのさきに、なんとも名状し難い懐かしさを感じて、自分の裸身にはほとんど恥じらいがまとわりついていないのだと、まさに生まれ落ちた刹那がそうであったから、それは当然であって、しかし、うつむき加減の遠慮がちな視線はすでにほの明るさに守られていて、生誕のきわなんて覚えているはずがない、だからこれは一種の照れ隠しみたいな感性だろうと推しはかり、薄衣のままでいるスージーに複雑な気持ちを抱くのだった。
すぐにしゃぼんが肌に触れ、からだを手のひらがすべってゆくのを知ったときも、やはり他者に洗ってもらった記憶などないにもかかわらず、なぜかしら、あわてたり、うわずったり、どきまぎすることなく、妙な既視感のさなかへと抜ける落ち着きがあって、それと少しも不自然じゃなくぼっ起していたので、ますますもって岩屋における交わりが透明な恍惚を約束しているように思えてきた。
ただ少しばかり気がかりなのは、ほとんど笑みをこぼさず、黙々とペイルの湯浴みに専念する態度から忖度してしまう、あの祭壇への差し迫った時間であり、この場合どんなたわ言でも口にしてもらいたかった。沈黙の手つきが肌をぬぐい、考え過ぎかも知れない畏れが汗とともに流れ落ちれば、不本意だが身分の低さを越えて謎めきにまつわる反感をつのらせ、
「いったい執事や城主はなに目論んでいるのか。どうにも犬死になんてしたくはない」
不透明な怒りがわき起こって仕方なかったけれど、きっかけであれ、なりゆきであれ、すべては自ずと胸を割いた頽廃へのあこがれ、目先の情交が冷めたふうに映るのは、ただ単にスージーが裸体を出し惜しみしているだけで、沈着な素振りなんて実は萎縮していたまでのこと、現に股間は意志をあらわにしているではないか。
その股間のあたりに手が届きそうになったころ、はじめてペイルはスージーの黒い瞳を見つめた。先日フランツに意を決して秘密の由縁を問うてみたときごとく、視線を配す機能を忘れ、その虹彩の仕組みをうかがっているだけの光線となった。
いくらか力は弱まりつつもスージーの指先はペイルの股間に達し、はたして念入りなのだろうか、どういう加減かはわからないが、堅くなったものじかにしているのがはっきり伝わると、さすがに無言に無言ではままならず、
「うっ」と、小さく声をもらした。そしてそのまま、視線をスージーの胸もとへ落としながら、まるで敗残兵のような卑屈の形相に転じてみせた。
自分でも大仰な身振りだったのが効をなしたのだろうか、ごくごく健康な下半身の自然体へ触れる摂理に準じたのか、軽く握りゆるやかにさすりながら、
「一度、さっぱりしてから」
と、どこか甘えるふうなもの言いで、ようやく眼の底から色香が放たれ、それは木陰の木陰のそのまた木陰から垣間見た微笑と呼んでさしつかえのない薄ら寒さをしのばせる脆弱な面持ちだったけれども、むしろ純情なしるしはこうした隠微であるほうがふさわしく、なによりペイルの置かれた心情をよく酌んでいた。
日々の隙間の、夜の儀式の、不意のもよおしの、絶え間ない自涜の習慣が打って変わり、薄皮一枚だけの女体によって壮大な祭典と化し、脳内の些細な神経回路は吹き飛び、かつてない浄福が押し寄せ、しゃぼんによって滑らかに運動する海綿体は軟骨のしなやかさを得て、嵐のなかの静けさへとのみこまれ、しかも鼓膜に遠い睦言のあやかしさえ育みかけているのだから、いつものごとく素早く的確に白濁を噴出しそうだったけれど、情況は生まれてはじめての美しくも溶けゆく淫らな禁断を謳い、なによりこの期に及んで間違いなく体験するであろう交接の肉感を退かす、あの強迫観念がためらいがちとはいえ、いけにえの義がもたらす死の芳香を嗅ぐわせた。
暗に怯えと見なすまでもない。怯えは女体との確実な結びつきであり、祭壇の義はどこまでも幻影で押し切ることが可能だったから、健全思考は隙を好んで意地悪な仕掛けに乗じるのだろう。一刻も早くむしゃぶりつきたい衝動をなだめるため、人はこれほどまわりくどい理性やら道徳やらをふりまわすのか。
スージーの手に湯で火照ったペイルの熱気が紛れもなくつたわったとき、その手首の動きは小刻みに激しさを覚え、じんわりした快感は到達点を認識し、一気に強烈で果てのない瀑布に突き落とされ、精サテュロスの傲岸な威容をよぎらせてから、萎縮した子供のように慚愧を取り寄せるのだった。
ペイルから飛び散ったものはこの湯屋ではかき消えてしまったのか、あるいは見定められないだけなのか、どちらにせよ、先ほどとは異なり、にこやかな笑顔をたたえたスージーが生まれたことで、ペイルはなにかしら肩の荷がおりたような心持ちになった。
それからまた湯につかるかと尋ねたれたが、ペイルはもうのぼせたからと冗談ぽく話し、湯けむりをあとにした。
「さっそくですけど、夕餉の支度が整っております」
眺めるまでもなく部屋の中央にはこじんまりした食台が配置されており、そのぶっきぼうな木目がろうそくの火で波打つようで、というのも大きな白い丸皿、それとすでに葡萄酒が注がれた杯の赤みだけだったから、質素な雰囲気で醸された食台の表面に淡い失望を感じてしまった。
ことさら豪奢な食を望んでいたわけではなかったが、たしか、風変わりだけれどとペイルが言った意味をよく噛みしめておらず、あらためてこれから始まる夕餉は儀式の一環であり、その一翼を担ってやまないことが理解されると、いかにもこの見栄えは薬膳に他ならない、つまり交接の濃密さと高揚をつかさどる定理なのだ。
そう思いなせば美食とは程遠いし、悠長に腹ごしらえをしている場合ではなかろう。案の定、席につき面紗で顔を隠した小間使いがなにやら慎重な姿勢で丸皿へ盛ったのは、ペイルの知るかぎり蛇のぶつ切りを煮込んだものだったし、伝承ではないがある種類の蛇には相当な滋養分が含まれているとのこと、まさに今宵の時刻に照応してやまないではないか。するとこの杯にその生き血が混ざっていてもおかしくはない。
いつしか漆黒のマントで身を覆っているスージーの冷徹な顔色に促されるようにして、ペイルは迷わず杯を口にした。かなり濃厚だが生臭く鉄分を感じさせる血の味ではなかった。たとえ入り混じっていようとも、そうした味覚へたどり着けなかったし、またさすがにひるんだ蛇料理も驚くほど柔らかく、なんとも言えないとろけるような油分が品良くあとを引き、その濁った風合いからは信じられないくらいさわやかな果実味さえ漂うので思わず、
「これは美味しい。なんでしょう。今まで食べたことがありません」
と、ひとり言ともつかないふうな台詞を吐き、おおいに感嘆したのだった。
スージーはにこやかに笑っていたと・・・願いたいところだが、笑みは時宜にかなってとばかりにごくごく神妙な顔つきを崩さず、
「とても貴重な食材とお聞きしておりますけど」
「あっ、すいません。いいのです。フランツさまからうかがっております」
すでに姿の見えない小間使いを追うようにしてそう返した。
その仕草があまりに頼りげないと変に気をまわしたペイルは、スージーも同じ料理を食したのだろうかなどと考えていた。そして葡萄酒を飲み干したところで、微かに足が震えているのを覚えた。ふとももから膝にかけ武者震いしているのが明瞭だった。


[582] 題名:The Missing Boy8 名前:コレクター 投稿日:2023年03月07日 (火) 03時31分

煌々としたまばゆさを持っていないにも関わらず、この部屋には薄明るい灯火のみで満たされているとは思えないほど際どく、豊潤な感度に彩られ、それがまるで光芒を放ったすえの霧のさなかのようであったから、押し寄せてくるこの情欲にはどこか無窮の調べでさらわてしまっているのか、時代の変遷を抜きにして忍ばすことの出来ない連綿とした重みが感じられた。
軽々しくも端的な性欲が抱えた、いつもの意地らしく、そして嘆きと羨慕によって支えられている下半身のうずきとは異なる、なにか重厚な空気がこの一室に沈潜している。
たぶんにぎこちなさや興奮がそうした雰囲気を生み出しているのかもしれなかったけど、ハンナが退室したあとの抜け殻みたいな空間を、まったく予想だにしなかった東洋娘との対面を、落ち着いて把握するのはかなり難題だったし、当惑しながら考えてみるに、このスージーという女の素性の知れなさがまずペイルを危ぶませ、それは城内の人間はおろか出入りの行商まで、大概の顔は見知っていたからで、これほど異国情緒を漂わせた若く可愛らしい女は紛れもなく初見だったので、うがち過ぎなのだろうが、明日の儀式のために首尾よく準備され、なによりハンナの名指しは実現せず、それ以外の自分では選びようのない段取りだけでものごとがすすんでいるではないか。
いかにも褒賞としての交接の相手を選べるといった、奔放なさじ加減に惑わされ、いつの間にやら城主の秘密で被われた儀式への参加を余儀なくされてしまったのだ。石像崇拝の儀に果たして婬靡な匂いが本当に求められるのやら、しかも交接直後の肌から立ち上る残り香が必要不可欠などと・・・どうにも確かめようもなく、それらにまつわる専門知識などまるで持ち合わせていない。
ひょっとしたら、自分はえさで釣られた使い捨ての駒であって、いや、いけにえと呼んでも差し支えないだろう。つまりてい良く供犠の祭壇へとひょろひょろ歩んでいく愚昧の徒に過ぎないのだ。
この薄気味の悪いひらめきは過分に陰惨な様相をなぞっていたのだが、ことさら秀逸な考えでなかったし、戦慄すべき思いつきでもなかった。ごくありふれた従僕の足もとをさらってゆく権力の形態がのぞき見えるだけで、特筆すべき謎めきなんかどこにもなくて、ただ初体験に臨めるという間延びした緊張感でから騒ぎを演じているのであり、それでいいと願っているのだろう。心底か、どうかは分からなかったが今のペイルにはそうした事態も胸のときめきであった。
寡黙なスージーは早々と湯浴みを促すのみで、なるほど社交辞令はなく、朗らかな機微で笑顔が双方に花咲きそうな気配など生じず、薪割りで汗ばんだ身体を洗い流すのが先決、裸身を交えるのだから垢じみた風体とは決別するのが肝要に違いない。すべてまかせておくようにと言った執事フランツの狡猾な表情が不意に思いだされたけれど、湯浴みに夕餉、そして立派な衣服まで提供してくれるはずだとペイルは、意地らしくこころ弾ませ、その手毬の弾力に凄愴たる情況を割入れず、むしろ絶え間ない幼心や無邪気な子犬の走りが柔らかな音響をなびかせている面持ちで、女体の開帳を待ち望んだ。
「これでいいのだ」
血塗られた供犠へと暗き双眸を傾けてみたところで、なるようにしかならない。それより若さ充溢する場面を封じることなき愚かしげな劣情に埋没しよう。どこまでも裸体を味わい尽くし、精を一滴残らず噴出するのだ。
緋色にうっすら涙をにじませたかの心境をあと押しするよう、スージーは類室らしき緞帳に手をかけ、そこが浴室であることをしめしながら、
「食事のまえに」
と、野鳥のさえずりに似た音感を含ませた。
その声の調子が艶冶であると心得たペイルだったが、よく見遣るまでもなく、スージーの仕草や物腰にはあくまで代理である遠慮気味な生硬さが拭われておらず、いよいよもっていけにえの感を強めてしまう。が、なすがままの流れを欲した以上、黙ってぎこちない接待へ与することが大事かと思われた。
すると心持ちに共鳴するかのよう案内された浴室の奇観に、いや、自然がむき出しとなった荒々しいその岩造りに感銘を受けてしまった。あやかも山深い岩屋を彷彿させるかの始原が、ほとんど奥行きを持たぬ閉じた神秘をほのかに揺らめかせ、小さな明かりを頼りにしながらも寂しげな湯気を立てている。しかしながらそこにはあきらかな荘重が眠りついており、暗い岩石の狭間にはいにしえの魔物が冷ややかな夢を紡いでいるのか、湯浴みの場であることを忘れさせてしまう非情さえうかがえ、足がすくんでしまいそうになった。
思わぬ光景をまの当たりにしたペイルは、
「これは天然の湯殿なのか」
と、いかにもの調子で感嘆の声を出した。
「さあ、わたくしには何も。実はさきほど下見したくらいでして。古いことは間違いなさそうですが」
寡黙な姿勢のスージーにすれば、この返答はかなり親和がこめられていた。そして古代文明を偲ばせる暗澹とした、が、眼を凝らせばきっと遥かな風の色が顕現するであろう岩風呂に身を清められるのがうれしくなった。共鳴というより、押しつぶされ歪んだ劣情にふさわしい反響として。

裸になれと口にはされなくとも、必要以上に意識することはなかった。白く細かい湯気がたちこめているだけでペイルは易々と衣服を脱ぎ捨て、スージーの手先が運ぶままに岩盤を素足に感じ、威圧するような湯に身体を沈め、薄暗い辺りを見まわす素振りをして微かに高まりつつあった動悸と、恥じらいを証明しようと反逆する股間をなだめながら、すぐにでも手の届きそうな距離で白く霞んでいる従順を盗み見るのだった。
思考と呼ぶにはお粗末だったし、夢想と言ってみたところで極めて情欲に徹した加減だったので、ぼんやりと思い描かれるのは、やはりこれからの交わりに前倒しになりそうな焦燥と、不可解な恐怖で彩色されたにごり絵だったが、やがてまわりの岩肌となにか対比しうる権限を得たような錯覚に熱したころ、それら未熟な想念は白濁し、ぱっと立ち上がると、いつしか泡だったしゃぼんと布を手にしたスージーの姿と対峙した。


[581] 題名:The Missing Boy7 名前:コレクター 投稿日:2023年02月28日 (火) 04時19分

汗に不快さが覚えられなかったせいか、額や首につたった感触は申し分なく疲労と即していた。
雲間に隠れた太陽のかすれた光を見上げたペイルは、なにやら死刑囚が抱くであろう切なさを不意に想像してしまったのだが、それは距離感のある遠い幻影のようであったから、内心の攪乱だとしても、ぎらついた明度を持たず、ただ単に救い難い軽骨な切なさで胸を痛めたに過ぎなかった。
その痛みの程度はとても散漫だったし、どこまでもひとごとのような加減を保っていたので、想像はやや奥深く、つまり減刑された安堵を過分に含んだ死刑囚の、水路が定められたふうな、しかしなにかを溢れさせないといけないような、屈折した意識を前面に引き出している。ペイルはその深度を測ろうとはせず、あの迷宮の園へ流れを任せるのが妥当だとひとり得心した。
空の色は黄昏を告げる鳥たちの鳴き声によって明るみを下げていたが、塵のように遠ざかってゆく鳥影に反して、彼方の山稜が色濃く朱に染まるのを背にすることが不思議と心地よく、それら入り組んだ感情の発露と対面している浮遊感を得たことに感謝した。
ペイルは高揚する自分を制するかのごとく、やるせない表情をつくり、またとない僥倖を宵闇の先へと送りこんだ。そして薪割り場からきびすを返すと、さほど歩を進めるまでもないところに庭園は待ち受けていて、汗ばんだ身体は汚れを恐れず、意志をねじ曲げず、眼球の位置を定めずに、あるがままのハンナのたたずみと出会うのだった。重心を操るのは自分自身の歩調ではない、どうにもあらがえ難い磁力みたいなものに引き寄せられるのであって、その得体の知れなさに骨抜きにされた形骸が踊っているのであり、魂はそのまわりをつかず離れず、悩ましげに舞っている。
蒙昧の境地はこうして幕を開け、ペイルは暮れゆく景色のなかへ暗愚に染められた横顔を、冷めた微笑を溶けこませた。あの小さく鋭利な金属音が微かに耳の奥へ合図を刻むと、影の主がまぎれもない夢のひとがたであることを知らせめ、城門に灯った松明のゆらめきに呼応するとでもいったふうにハンナのまばゆげな肢体が玲瓏な響きを持って立ち現れ、その吸いつくようなまなざしが一気に現実感を呼び寄せたのであった。
ペイルは直感的になにか異変が生じたのではないかと思い、慎重に、砕け散る伽藍の荘厳さえ脳裏に、失意さえ先取りした底辺の意識をもって、明澄な立場であることを認識し、笑みを退けたハンナの様子をうかがった。
「どうぞ、わたしのあとに」
どうあれ、出迎えてすぐの問答などなかろう。なるだけ奥まった一室が受け答えにふさわしく、しずしずと歩む足音の乾き具合は丁重で、しかも張り詰めた空気を震わせ、汗で火照った身体は神妙になり、無言で従う意義の正しさは発火する瞬時をかいま見せ、が、見通しなどあるわけもなく、ただ透けようとしている実感を噛みしめるのみで、思念は霧散し、不安は留め置かれ、城門から続く回廊へと脇目を泳がせてしまうだけだった。
ペイルは以前、ある用向きでこの回廊を渡ったことがあったけれど、蔦の絡まりも疎らな煉瓦造りの朽ちた風合いにことさら感慨もなく、古色な壁面を水平になぞるようにしては昂ぶる胸を諌めており、次第に外界から遮断されていく道すじに同調するのか、いつまでもこうしてハンナのうしろを歩いていたい、良きことも悪しきことも関係なく、どこまでも進んでいるだけでいい、そんな考えが閃光のごとく擦過し、自らの怯懦を正当化していた。
ところがもっと向こうにある大階段へ至るかなり手前でハンナは振り返り、
「こちらです」
と、右の壁の灯火の途切れた箇所をしめしながら、また、ペイルの動揺を沈めるためか、声色を優しげにこだまさせ、
「秘密の扉です。のちのちもお忘れなく」
そう言って口角に親しみを浮かせた。
「はあ」
なんとも気の抜けた返事をしてしまったとペイルは思ったが、やはり仕方ない、そう開き直り、
「のちのちも、と言うのは口外してはならないって意味でしょうか。つまりとても重大であって、それは秘密だと」
この念押しに他意はなかった」
「その通りです。さあ、足もとに気をつけて」
ハンナはペイルの疑問を先延ばしにしている素ぶりさえ、気安くなだめた。
隠し扉に違いなかった。見た目は連なる壁面の、果たしてどんな目印が施されているのやら不明な、それは日々のある時間の一刹那、きわめて膨大な量の情報と光景が押し寄せてくるような、めくらむ事変がただちに悲喜劇に転化されるうねりのような、暗幕の降りた広間に満ち溢れる雑踏のような、そして日々の裏側が縫い上げられた希代と向き合ったような、魅惑の凡庸さで塗りこまれていた。
ふとペイルは伝承の隠れ里の謂れを思い出したのだが、それは領内より遥か彼方にたゆたう陽炎みたいな情景をにじませており、自由きままに手の届きそうな質感が剥奪されているので、おぼろなまま、興醒めぬままま、速やかに凡俗なたなびきとなった。
大人ひとりなんとかすり抜けられるくらいの扉が口を開けると、絡まりつながった蔦は引きちぎれたので、おそらくこうした秘密は何箇所かに設けられているのが知れたけれど、それも今の立場からすれば、あまり有意義な理解の足しにはならず、むしろ分散された夢想の由縁を諭されているようで居心地が悪かった。
ならば、そこから急勾配で伸びる狭い階段を踏みしめている実感のほうが、いくらか動悸と共鳴し、暗がりの謎めきに気分を掛け合わせられる。
それというのも、いつの間にやらハンナは燭台を手にし、階段を先行してゆくので、あの野卑なもの言いで強調した丸く肉づきのいい尻を間近にしていて、薄明かりの加減も手伝ったせいか、無言であるほうがいかに卑猥を繁殖させ、なにやら理性らしきものをよぎらせては、よこしまな考えと拮抗する始末だったが、ペイルにしてみれば、気恥ずかしさすら闇に消えようとしていたから、まったくもって好都合に他ならず、秘密めいた状相が長引くのを願ったのだった。
淫らなな想いをずっとずっと臓腑の襞に隠し続け、いつの日かなんらかの形で結実するのだと、曖昧きわまる成就をにじみ出しては、甘酸っぱい理念が醸す未来へ希望を託した。ゆらゆらと灯影が昇るさまは女体の白さを対比的に強調させ、肉感が未体験であることをなだめるかのようにして、けれどもその穏やかさを蹴散らす勢いの盲爆は否定できなかったから、ますますもって不埒な感性が発揚されてしまう。
この細く長い階段をめぐることがすでに自涜であり、ペイルの脳内は爆発寸前であった。
やがて燭台の明るみは緋色にあることを揚言するかの呈で、ぱっと一部屋を映し出し、ここが男女の密接の場であることが理解された。動悸は意外に冷静であるのが我ながら不思議であったけれど、焦点がはっきりしない劣情は袋小路をさまよったままである。なによりハンナの説明が欲しかった。で、案ずる通り、
「実はあなたに断わりを伝えなくてはいけません。フランツさまから聞き及びになってるでしょうが、あなたがわたしを指名して下さった限り、すべてをまっとうすべきなのですが、大変申し訳ありません。昼下がりに月のものが来てしまって・・・どうしたのかいつもより早く迎えてしまったのです。儀式にとって月の汚れは大敵なのです。もうおわかりでしょう。残念ながらわたしはあなたのお相手ができなくなってしまいました。フランツさまに相談したところ、即座に代理をと・・・ええ、あなたに直接お話ししたかった様子でしたが、なにせ昨夜から執事としての重職に追われている身、心苦しいけれどわたしから言い伝えるようとのことでした。
湯浴みも夕餉の支度にも、わたしは関われないのです。どうか、ここまでの案内でご容赦願います。代わりの者を紹介します」
ペイルはハンナの退けられた笑みを過分に受け取っていたから、虚脱をともないつつ了解するしかなった。
「スージー、さあ、ごあいさつして」
緋色の映発が冷め止まぬのを心得てか、ハンナの背後から見るからに東洋風の娘が現れ、丁寧にお辞儀しながら、その名を発した。
恥じらいが据え置かれる薄黄色の軽やかな一枚仕立ての衣服よりうかがえるのは、見事に婀娜な身体つきで、その乳房の盛り具合といい、くびれた腰からなまめかしく続く臀部といい、艶やかで長い黒髪のどこか神秘的な風貌と相まって、ペイルを大いに興奮させた。
目もとは細かったけれど、顔つきは卵のように均整がとれていて、鮮やかな花弁を想起さすくちびるは紅を染みこませたかの燃える色を放っており、ハンナと比べても見劣りするどころか、白皙の女神が秘める冷ややかさとは別種の、なにか親和感を宿して近づきやすさが明快であり、肩から足首までなめらかな柔肌は、まるで果実のような美味と香りをまとっている。
その初々しさにペイルは当惑しかけたのだが、すぐさまハンナには持ち得ない身軽な感じを、冷徹な仮面などつけ忘れたふうな素朴さを見出し、どことなくぎこちないのは愛嬌だと、そのはにかんだ笑顔を食い入るほど見遣ったペイルは、新たな次元へと導かれた情況にある事実を研ぎすませ、肉欲が猛々しく押し寄せてくるのを感じていた。


[580] 題名:The Missing Boy6 名前:コレクター 投稿日:2023年02月21日 (火) 05時01分

ペイルの日々の務めはおおむね単調であったけれど、不意に賓客の知らせがもたらされりすると、たちまちにして城中は慌ただしくなり、そして伯爵もなにかしら奮起を覚えるのか、普段の病的な寡黙さとは打って変わって、頬に明るみをたたえているのが遠望できたし、その際に思いつくのだろう、誰もが暗黙のうちに認めてはその実、不快な念とはほど遠い親しみのような活力さえ誘発されのだから、甘んじて怱々とした辺りの空気を吸って、伯爵の指示にもっともと頷けば、古城ゆえなんて、あえてことわりを入れるような安らぎさえ感じとり、毅然とした姿勢で命を下すのがごく自然に受け取るのだった。
連綿たる格式を忘れず、恥じ入ることなく、伯爵は建家や庭園のいたる箇所のほころびを見咎める調子で使用人を鼓舞したが、特に先代のそのまた先代の時分より広大な敷地内に点在した木造建ての小屋などは、剣呑な獣が棲みつくばかりか、流浪者の隠れ蓑のなったり、盗人が息をひそめるに格好の場であったので、しきりに内部を探っては、あまりの朽ちようなら、取り壊してしまうのが習わしになっていた。
しかし、こうした小屋は数え切れないほどあって、平坦な土地や森陰にひっそり根を張っているだけでなく、鬱蒼とした草木で守られたほこらや洞穴の裾にも健在しており、一概に朽ちているとは定めがたく、なによりいにしえのときを経た由縁など宿しているのだと、敬虔で慎重な息遣いをする伯爵の意見に従わなくてはいけなかったので、ペイルとその仲間の使用人たちにしてみれば、見かけほどは容易でなかったし、平明な労働に終始しているとも言えなかった。が、隣国との諍いや戦禍に置かれてないことを考えたら、今は安寧に違いなかった。
さて、数しれずの建物を豪快に撃ち壊すにせよ、一部を改築するにせよ、あるいは先程の由縁とか立地の按配によっては延期を余儀なくされたり、あらたに清め、なんらかの魔除けが工面されたり、けっして同じなりわいが与えられているわけではない。
今度の石像の配置にしたところで、伯爵の腺病質な加減だけに了見を求めることは出来ず、むしろこの城に浸透した拭え切れない旧弊で縛られているではないか。星の数とまでは言わないが、領内に埋もれる小屋を把握し尽くすのはとても一代で成し遂げられそうもなく、様々な謂れを小さな胎内へ抱えこんだような木造の翳りに身を休めた方が、無難だと知れてくるので勤勉さの裏では怠慢が働き、緊迫感の欠如を促しているのも事実だった。
ペイルは森の奥深く陽だまりの浅い密室のような場所でときおり瞑想した。
高く伸びた木々の先に水色の空が閉じているみたいで、妙な錯視のゆれるままに、充満してゆくえを失っている風の息吹を感じると、天空と大地が逆さまになったようになり、ついでにありとあらゆる生命が消え去ってゆく幻視にとらわれ、とても静謐な時間だけがなんの条件も付与されないまま、淡々と過ぎていくのを恍惚の彼方へ追いやった。
思えば、自室の部屋だって年に数回はちょうど90度に見事傾いて、一切の音感や質感を奪い、かろうじて耳鳴りのような一点に収斂された微かな金属音に似た鋭利な痛覚にいざなわれるふうに、乾ききった視覚像の転倒と対峙する。広々とした屋外の開放だろうが、狭苦しい部屋の寝床に息づく閉塞だろうが、神秘で彩られた脳内の発光は同一の現象をもたらし、その明晰なまでの細部へ飲みこまれるおののきは、この上もなく幽玄の境地であって例えようがない。あえて実況へと埋没した神経が呼び覚ますには、まず凍てついた静謐が痙攣的な狭窄に襲われ、圧倒的な動揺と共にしめやかな陶酔が加味しているものだから、その奇抜な視覚像は震えを寄せつけず、どこまでも不穏な沈黙だけが優美に羽ばたいている。
この光景にどういう意味合いがあって、いや、そんな思考をめぐらす余地などなく、いくら陶酔の荘厳に包まれていようが、これはまったくの本能からすぐにでも現況から脱出したいが為、懸命に空間を渡るのだけれど、傾斜した部屋の模様は寸分の狂いもなく歪んでおり、しかも整然としたままなので、焦燥は限界に達し、声なき悲鳴をその閉じた空間へ響かせようと務めるしかすべはない。
おそらく声なんか微塵も出ていない。助けも呼べない。自力でこの傾いた世界から飛び出すより手立てはなかった。かろうじて歩幅に生体を見出し、わずかだが歪みをたどる。忘却の先で自問されるのは毎回同じ台詞だった。
「特に脱出を望んでないさ。いずれ悪夢は覚める」
そして覚醒後こう問い直す。
「夢を見るのでなく、夢そのものになるのだ」
ペイルはこの厭世観に等しい感覚の背景がなんとなくわかってきた。あまりに奇妙な体験を経た感性は必ずしも平穏を願ったりせず、むしろ日常の静けさを忌み嫌うようにして虚脱感のなかへ居続ける為、薄らぼんやり悪心をかみしめていると。

今日は朝から薪割りばかりしている。
なんでも儀式に不可欠な松明、しかも古木のみを使用するという、蒼然たる意想を訝りもせず、また他の使用人たちが前もって切り出し用意しておいたことさえ、逍遥の行いに思えて仕方なく、ひょっとしたら自分の湯浴みの火もこの薪が用いられるのだろうか、蔵には崩れ落ちそうなくらいうず高く積まれているというのに・・・なんという冗費、しかし散漫な苦悩と悦楽は数値で計れない。
ちょうど激しい尿意が先発的な快楽を生じさせ、我慢を強いられるのは、後の放尿による清澄な加減をもって終えるように。
未知なる世界が迫っている。あともう少しでハンナが出迎えてくれる。斧を振り上げるたびにペイルは時間のひび割れを何気に意識したが、時間は明朗な予感を乗せて止まず、ゆえに単調な務めは夕陽を受けた川面の流れのごとくきらきら輝いているのだった。


[579] 題名:The Missing Boy 5 名前:コレクター 投稿日:2023年02月14日 (火) 01時13分

それから執事のうしろ姿を呆然と見送り、帰途についたペイルの長く悩ましい夜が始まった。
浮ついた心延えには違いなかったが、興奮の波間を縫うようにして身をよじらせる仕草へまとう物怖じは明らかに不安に包まれていたし、ハンナとまみえるであろう緊張は、手放しの雀躍まで至ってないことを訴えており、それはいうまでもなく、差し迫った事態と直面せざるを得ない武者震いに他ならなかった。
すでに手の届きそうな箇所にあるものが不意に疎ましくなる撞着は否定しがたく、ことの切迫が綾なす色彩は不透明なまま濁りつつあったので、違和感を覚える隙はなく、ただ全身疲労に似た重苦しさをいつの間にやら背負っている。
とにかく一番の関心事は交接が醸す官能だと心得ていたけど、年上の豊満な肉体を選んでしまったのが、どこか気恥ずかしいのか、いくら身支度すべてまかせておけばいいと含みをもたされたにせよ、やはり初めての女体に触れる勇気は騒々しい反面、静けさの底へ沈んでいて、虚勢や野放図な格好ではおさまりはつかず、ましてや単純な営為であろうはずがない。もっとも気心が知れ、離れがたい親密な関係になったのなら、交わりの図は自然な流路をたどるかも知れないし、その快感の受け取り方、真情の発露までもが淀みなく、愛液のしずくと化して垂れ落ちるのだろうけれど。
いま想像しうるのはただ鼻息あらく、鼻水たらし、かむしゃらに覆いかぶさるよう柔肌を堪能したとして、ペイル自身も裸をさらさなければならないわけで、すると一方的に淫奔な肢体の乱れのみ享受するだけとはいかず、つまり自由気ままに女体を開かせ、くねらせ、寝返らせ、きわめて有意義な行為と快楽が寸分なく溶けあっている淡く赤茶けた色彩に、いくらかの寒色が点綴しているふうな情景を取り仕切れなくなってしまうだろう、この独善的で保守的な姿勢こそ、自涜の尊厳であり、排斥の理がまかり通る唯一の方便であったから、ここで閨房における雰囲気や駆け引きを必要以上にめぐらしてしまえば、いつもみたいに前のめりの勢いで自己に溺れる気分は起こらず、いや、まったく気分がなかったのではなくて、あまりに簡便すぎる手淫が持ち得る時間の張り詰めは、確実に甘美な孤独によって他愛なくよじられており、これほど安全な領域は孤絶以外ではあり得ないはずだったので、快感より未知の緊張へと席は譲られ、しかしそこに拮抗すべきものをほぼ見出してはいないという安堵が、ペイルの自尊心に合わさって、違和感があるようでない思念へと結ばれ、その席を陣取るのだった。
もやもやしたものがいつまでも霧散せずに沈潜し、その形象を眺めるまなざしの裡にはなんの脈絡を持たない一筋の文様が浮かびあがり、自分でも不思議なほど熱心に進行形で転じた場面をあぶりだしている。
それはフランツが読み上げた航海日誌のひとこまひとこまであり、世にも怪奇な現象が引き起こされる光景であり、潮風と星空の広大な背景のなかへ閉じ込められた因縁が、綴られた筆致を追い求める感覚が作りだした好奇心であった。
ジャン・ジャックという船長の青ざめた神経質そうな横顔を夢想しながら、開かれた石像の蓋を凝視した夢見るような戦慄をこの身に引き寄せるとき、おもわずペイルは一種独特の美しい調べに囲繞され、恍惚たる時間の最中へさまよい出しては、地に足がついてないような浮揚感でもって、まるで恐懼を敷き詰めたかの船底へと降りてゆく幻影を身近にし、戦慄的な事実を目の当たりにするまでの凍結した時間にひそむ、微量な温もりを持った他者の顔色を瞥見すると、それがたちまち怨嗟を形づくった仮面となって暗闇を舞うさまに変じ、なおいっそう浮遊した感覚で縛られてしまった。
手記を書き綴ったジャンはゆく手など、もはや案じておらず、願うのはただ恐怖と裏切りによって編み上げられる悠久の神話を即物的に刻印してしまう不遜ではなかったか。どうにもペイルには無人となった貨物船の操舵室で独り居座ったジャンの席の温もりが懐かしく思われ、それが短絡的な解釈だとしても、古い書物のなかでまどろんでいるとは考えられなかった。ゆくえ知れずになったのは一体・・・ときに風変わりな既視感が僭越的な願望の証しであるごとく、いま夢想のさなかでありながら下世話な望みをにじませる。
明後日に到着するであろう積荷が放つ陸離とした光彩に眼を細め、そしてその刹那、ふたたび素っ裸のハンナの未踏の園へと埋没してゆく自らの細い背を鳥瞰するところで、濁色に塗りこめたれた壁が立ちふさがるようにして、意識は緩やかに遮断され、はたして燃え盛っているのかすら曖昧な情念の棲家を横切るのであった。
さらには強迫観念となりペイルを悩ました執事フランツの凄愴かつ耽美な吸血の情景が、夜のとばりを絶え間なくすり抜けるふうにして霧の彼方へ消え去り、空席だけが白々しく映ると、あくまで簡潔だと話してした儀式がごく良識的なまま取り行われ、鮮血と秘密で彩られるはずだと、どこか祈るよう念じていたのが拍子抜けした意識が鮮明になって、しかし媚薬だと呼びならわした交接のおかげで、疲労感や重苦しさは幾分軽くなっているなんて、殊勝な気持ちがめぐってきたとき、またもや初めから明日の出来事を要約し回想しているのを知り、それが夢見なのか、不安渦巻く観念の襲来なのか定まらないままペイルは明滅する思考と光景の由縁を失っていた。

翌朝、寝覚めとともに気づいたのは下履きを押し上げる調子でいきり立っている股間の堅さだったので、思わず苦笑いしてしまったが、どうやら夢の中で渦潮が激しく逆巻いてくれたせいか、特にこわばった神経が意識されることなく、いつもの日課を恬淡とこなして、夕暮れを待つだけだと優等生のような心境になった。
ハンナや航海日誌、儀式への参加に対する憂慮がまったく氷解したわけではなかったけれど、風変わりで美味な料理だなんて、一体どんなものが振る舞われるのだろう、まさか蛇とか毒虫や聞いたこともない野獣を食すのでは・・・そんな気掛かりが擦過してゆくくらいだったから、少しは平常心が保てていると思いなし、窓を開け深く息を吸って吐いて、まばゆい朝陽に眼を向けた。
新たな自分が形成される予感を噛みしめつつ、確実にフランツの息が掛かっているとして、ハンナにだけは自分の真意を伝えておこうと決した。尻の大きな豊かな体つきが好ましいのは事実だったけれど、以前より姿を見かけるたび次第に惹かれていったのは本当だった。決して豊満な香りだけを慕っていたわけではない、きみとまみえてよかったと心底思っている。そうはっきり口にするつもりだった。
これはハンナと向き合う最後の言い訳だろうか、いや、かりにそうだとしてもこれ以上の台詞は言えそうもなく、劣情にみじめさを認めたくなかったので、弁明だったとして、それはもう仕方のないことだった。
ハンナの冷淡な表情が想起されたが、笑顔で返すしかない。そしてメデューサにも・・・やや理不尽な思惑を胸にしたペイルはもう一度、照りつける陽光に向かって顔を上げ、眉間へ皺を寄せた。


[578] 題名:The Missing Boy 4 名前:コレクター 投稿日:2023年02月07日 (火) 02時52分

城内の夕餉は限られた人数と聞き及んでいたが、料理人や給仕への目配りにもフランツはこと欠かさず、怠惰や粗雑に流れる空気は常に入れ替えを求められるよう緊迫が保たれていた。といっても、ただ口うるさいだけの気難しい調子はなく、あるいは好色老人なの頬に張りついたしみのような頑迷さ加減が濃いわけでもなく、むしろその流れる空気に似た当たり障りのない雰囲気をまとっていたので、とり立てて険悪な関係が生まれたりせず、さながら強い陽光を的確にさえぎっている日よけみたいな効果が穏やかに示されるのだった。
それがたとえ形式的であったにせよ、執事としての面目を保つためにはやはり不可欠な振る舞いであろう。隙だらけは困りものだが、ほどよい間合いは必要だから。
さて執事フランツは昼間立ち話した庭先を散策するのが習わしになっていたので、夕暮れまでというのは執事としての務めを果たし、優雅でありながらも、どこか肩の力の抜けたひとときを指しているのだとペイルは理解していた。
以前は多数の使用人の寝床であった宿舎から庭先まで、ほんのわずかの距離だったこともあり、また今はひとりだけで寝起きしている気楽さから、はた目を意識する必要もなく、ただ緊迫した心持ちだけを頼りに歩をゆっくり進めた。
部屋の窓辺を支配した日没のはかない気配に即すよう。
執事に伝える好みとやらはほぼ適当に決めておいた。ハンナという自分よりやや年上らしい、柔らかな栗色の髪をした女で、どこがどう好みなのか、もしフランツに問われれば、
「はい、スカートの上からでもあきらかな丸いお尻に惹かれました」
と、答えるつもりだった。
気立てが良さそうだの、優しそうだの、しとやかだの、うわべの美徳をなぞったりするよりか、ありていの肉感を吐露したほうが賢明だと思われたからで、初体験であるならなおのこと、性的な魅惑に激しく惹きつけられるべきである。
とはいえ、けっこう考えあぐねて煩悶した挙句、急速な睡魔の急激な恐怖をかいくぐり、衝動的なのか、降ってわいたような交合の僥倖を受け止められず、つまり煩瑣な道程など踏んだりしなくても、裸女とまみえる卑猥を味わえ尽くせそうで仕方なく、若輩のまま朽ちてしまそうだった下半身のうずきにつまずき、身動きとれず危うく、なおかつ燃え盛る情念の墓場さえ意識していて、このままでは死んでも死にきれないなんて、見当はずれの八つ当たりを正当化しては、呪詛を唱え気色ばみ、人生を蔑んでいた自分にとことん恥じ入ったのか、にしては喜色満面な相貌を隠しきれず、花瓶の花束を床に叩きつける調子で自涜に耽ったのだから、まっとうな部類に組するとは言い難いのでは、いや、少しばかり淫猥な陰りを秘めてはいるものの、あふれ出す悦びを包み隠せないのは当たり前、健康体の証しそのものではないか、いずれにせよ、内面の氾濫はさておき、ちょうど嵐のまえの薄ら寂しさが斜面のごとく見上げられ、その先へ展望される仄暗い領域は豊かな情調で開けているように思われたから、気高くも優美な時間を告げるふうに、ペイルの佇まいは寂寥の風を受けた自身の影と気分が重なったようで、変に落ち着いており、フランツの目線を受け止める用意はすでに為されていたのだった。

黄昏の時刻のなかに浮かびあがる執事を認めたとき、小躍りしたくなる興奮と、萎縮してしまう恥じらいが帰するところ入り混じったけれど、ただ単に自意識へ拘泥している猶予はなく、それはただちに裸身を通して委細が知らされるよう天啓を得たからであって、むろん迷妄の域を抜けてはおらず、ただ自分はなにかの役に立つからこそ、こうして秘密めいた伝言を口にするのだと、悠久の歴史が編み上げる微細だけれど、限りない奇跡が巻き起こされる瞬間に立ち会っており、たとえ寂寞が嵐に豹変しようとも、時代に取り残され捨てられる宿命にあろうとも、その多寡にかかわりなく動悸の激しさは偽りなく、いつまでも澄んだ響きを刻んでいる。
「正確だな。ペイル」
「はい」
そう言うだけで相手の出方を待った。
フランツはいささか真摯な表情を曇らせ、実務が宿している困惑を舌先へ乗せたまま直線的な語調になった。
「で、どの娘を選んだのかな」
ペイルは意中の者だとその名を伝えた。
「ほう、ハンナか。理由は聞くまい。では明日の今頃またここへ来たまえ。ハンナ本人が迎えるよう手配しておく。それとだ。明後日の夜、積荷が到着する予定になっている。間違いでもない限り、除幕式とお祓いの儀が執り行われるよ。まあ、それほど堅苦しくはないのだがね。これは伯爵の意向でもある、あまり派手に行うとますますもって良からぬ取り沙汰がされるばかりだ。ただ、厳粛な意は尽くさねければならない。
今ここで打ち明けるのはペイルいいか、よく聞くんだぞ。あの手記でも触れられていたが、私なりに調べみたところ、石像の配置を見届けるものはその寸前まで媚薬とともにあらねばとある。つまり媚薬とは交合の残り香に他ならない。もう分かっただろう、おまえを助手にした以上、その流儀に従ってもらうということさ。前もって話さなかったのはおまえが尻込みしたり、他言するのを懸念したからで、つまり慎重にことを運ぶべきだという思いからだった。私への裏切りはこの城への反逆だと肝に命じるんだ、いいね」
案じたより事情が明快だと感じたペイルは、
「もちろんです。誓って沈黙を守り、城主さまへのお力添えに加わります」
そう、語気を強め言い放った。
「よろしい、おまえの夕食はこちらで準備しておく。少々風変わりな料理だが、美味であることは保証する。なにせ精をつけないとならんからなあ。湯浴みも身支度もすべてまかせておけばいい。無垢なる精神で明日は臨んでくれ、頼んだぞペイル」
実情を冷淡に述べるフランツの語尾を震わした悲哀を飲み込んだペイルは、ほとんど強迫観念に等しい様相で、この連綿と権力を担っている魔性をかいま見た気がし、底冷えを瞬時にして感じとったような、悪夢のひとこまが眼前に立ちふさがったかのような、異端の忌まわしき姿と対峙している構図へと導かれてしまった。
描きだされた景色はおおよそ凡庸な口ぶりで紡がれる。
「愛おしさなんて手が届きもしない感情なのでしょうが、石像は官能に満ち満ちているのですね、きっとそうですよね。なんという趣きにたずさわっているのか、もう有頂天になってしまい分かりません。ハンナが愛おしいのです。たまらないのです。そして秘匿であるのなら、フランツさまは普通の交わりを通り越し、あの風聞のままに吸血行為を憚らず、鮮血と女体の醸し出すありありとした姿態をさらけ出すのでしょうね」
ほぼ口を突いて出ているという錯覚が押し寄せるを禁じ得ず、しかし、反面ではそんな詰問めいた言い方は確実に命取りになるだろうと、きわめて冷ややか理性が働き、無言で執事の眼を覗くだけにとどまった。
自分は酔いしれているのだ。女の柔肌を、肉づきのいい尻を、思い存分まさぐることが叶ったうえ、メデューサが織りなすであろうまぎれもない神秘の時間の訪れを心待ちにしている。だから強迫観念にあらず、この胸いっぱいにひろがる酸味を帯びたせつなさは、まるで恋心のような甘い果実味を含んでいたので、悦びを分かち合えない寂しさを孤独へ置き換えていたにすぎない。実にお粗末なから騒ぎだ。しかし最も敬虔な体験に違いない。
ペイルの迷妄は昨日も今日もおそらく明日も揺るぎなく、愚かなままであろう。


[577] 題名:The Missing Boy 3 名前:コレクター 投稿日:2023年01月31日 (火) 04時41分

肌寒くなりつつあった季節だったが、考えあぐねてみたところでもう遅く、まんまと執事に籠絡されてしまった感をぬぐえないのは致し方なく、とは言え、離れの井戸端へ足を運んだペイルの胸中には、それほど複雑な渦模様が巻いておらず、どちらかと言えば開き直りに近い焦燥で押され気味の、そのじつ期待感をちゃっかり忍ばせ、動悸を静めに努めていたのでなおのこと、愚直な加減に即しているのがまさにどんぴしゃりに思えて、うぶな青年に対するもっとも適宜な計らいが性欲の解放であるとするのなら、これ以上の甘言など見当たらないのは当然だろう、まったく尻込みする間もないうちに晴れやかな交わりを約束されてのだと、あたかも五寸釘を強く打ちつけるような叱咤が耳の奥に鳴り響いているので、とりあえず身を洗い清めておこうなんて清潔な意識がわき起こり、しかし同時に羞恥で火照った体感がはらんだ欲情は、ことさら愚昧な姿のまま据え置こうとしたのだった。
やはり幾らかの懸念は、かねてより聞き及んでいるフランツの采配に与した者らへの褒賞が女体の提供であり、とくに有能な若者を囲いこむ為には婚姻が成されるという歴然たる習わしであった。
いにしえの世から盛んに王室や貴族の間で用いられる政略婚儀の縮図が、この城にも蔓延っており、それはおおかた主従の誉れとなって、明朗な気風をはぐくんで止まなかったし、本然と森の奥へと連なって緑の映発を受けていたので、誰も辞退などせず、ちょうど沐浴に倣う具合であったから、フランツの指示はとても的確であって、森林の陰りを欲した健全な色情を謳歌するばかりである。
ペイルの耳もとより離れならないのは至極当然の理で、もはや詮索の余地は残されていない。
それにしても夕暮れまでに名指しをしなければいけない困惑は避けがたく、無論これでようやく女肉に触れることが出来るのだ、まぎれもなく降って湧いた果報、満たされぬ想いが解かれる喜悦、この凝縮された時間を抱きしめていたかったのは、たぶん性感を知るという未知なる怖れが産声を上げているのであり、さらにのぞき見れば、自らの意志と躍動により異性が得られるなんて、理想に耽っていた狭い情念の駆逐される様を振り返ることであり、おおらかな色欲に溺れる自分の背後には頑是ない光景が控えていて、それは言うまでもなく権威の証しそのものでしかなく、やはり微小な矜持のかき消える瞬間に立ち会うことであった。
しかし、肝心の命である助手としての務めをさておき、性急な欲情に脳裏が支配されている事実は曲げようもない、ペイルは一見すると城の戒律を受け入れたかのような立場につまずいていたし、反面では風の報せが運んだ雀躍に上気していて、明日への道程が切り開かれた爽やかさに心弾ませたにもかかわらず、フランツの流暢なもの言いが心底好ましいとは感じとれなかった。
いったいどの娘を望めばいいのやら、仮にへりくだった態度で、
「自分から選びとるなどとは恐れ多く」とか、「未熟者でございます。どうぞ命ずるままに」なんて申し出たならばきっと「色欲の定めすらならぬのか、意志薄弱な奴め」そう吐き捨てられる気がして仕方なく、さらには言い訳がましく「城内の女人の名はほぼ知るところです。それゆえ、迷いに迷ってめまいがするのです」と、まあ、これが本来の反応なのだからいかしたない、どうにでもしてくれ、もう、あれこれ頭のなかをかき乱すのはごめんだ、そう、素直にただただ女体がまばゆいから、とても戸惑っている、それでいいではないか。
陽の落ちるのをまえにペイルはほとほと疲れ果ててしまい、すさまじく不快な睡魔に襲われた。
これまでも幾度か覚えのある生理的な土壌に徹した、本能に導かれるであろう死の恐怖が凝縮された眠気であった。
つまり薄れゆく意識の片隅が肥大し、それは夢以前の体感がすべてを請け負っている状態での覚醒であり、もし睡眠との狭間が記述可能であるのであれば、きわめて背馳なのだが明晰な意識の流れは脳内における眠気の屈折をかいくぐり、あたかも幽冥界の砦をまえにしてその光景へと埋没してゆくとき、麻酔仕掛けにおぼろに溶け合うはずで、緩やかに静かに崩れる色彩を見届けたりできるはずはなく、が、しかし、半分だけ覚醒したままの、鋭い破片の切り口が無鉄砲な勢いで屈折に挑むものだから、夢の敷地は荒れ狂ったように感じられ、取り残された意識の断片は気色ばむほどにおののいて、夢特有の映像を配しないまま、先鋭的な恐怖の感情で埋もれてしまう。
生きたまま土中に葬られ、あるいは引きずりこまれる戦慄だけが境界に居残り、そして身体は軽くなり、やがて離脱してゆくような脅威が押し寄せてくる。
眠りへの移行は知らぬ間に、あるいは幽かな気配を指先に触れさせるか触れさせないかの加減によって守護させているので、このような醒めた意識の台頭には心底悩まさせてしまう。
が、それも実際にはひとつふたつ数えるほどの短さなのだろう。性急な満ち引きに似た金縛りのしつこさに比べれば、寸暇の地獄でしかなく、寝起きの気分に反映されることもない。
ペイルは魔手をふり払う勢いで飛び起きたのだった。後味の悪さは多少引きずっていたけれど、夕暮れまでの時間にせっつかれているのか、やはりしっかりした返答に窮してしているのが、自分でも嫌というほどわかった。
ふと思いついたように部屋の古びた窓掛けを引いたが、まだ外光の明るみに包まれているのを承知で一本の蝋燭を灯した。その反射は気抜けするくらい間延びした空間でしかなったし、夜の帳を待つには早すぎたけれど、刻一刻と迫りくる肉感の圧迫がとても散漫に感じられていたので、つい今しがたの戦慄はどこへやら、放心状態であることを願っているのか、ペイルは下履きを脱ぎ捨てると自涜に耽った。
庭先で笑みを浮かべている娘たちの幻影をよぎらせ、そのなかの見知った顔と名を脳裏に点滅させた。沢山の女体をから騒ぎさせてみたが、経験のないペイルにはどのような姿態に興奮するのかさえおぼつかず、ただ白い肌と肉づきのいい柔らかな感触だけが宙を舞うように遠のいていく。面影の所在はもっと不謹慎でとりとめなく、一度だけ散見した放浪の民のなかにあって一際得体の知れない色香を放っていた女や、城に頻繁に出入りしている行商女の姿、あるいは舞踏会が催されたとき、遥かな地より訪れたと聞き及んだ貴婦人の横顔が遠望され、同時に卑近な下女らの垢じみた首先が不思議と悩ましく思えたり、つっけんどんな年増の大きな尻の張り具合や胸の熟れた様子がよみがえってくる。
そしてまだ見ぬ股間の魅惑に吸い寄せられると、油絵の具が入り混じったかの毒々しい色彩にとらわれ、なんとも重々しい気持ちに支配させた途端、握りしめていたものは早くも絶頂に達し、天井まで届きそうな勢いの精を吐き出したのだった。
が、きわどい快楽をともなっていたのか考える暇はなく、いくらか陽が落ちてきたような窓枠の影をぼんやり見やると、再びまだ堅いものをこすり始め、雑然とした空想の彼方へ前のめりに堕ちていった。
数回の絶頂を得たことに苦い喜びが示されたけれど、うらはらに緊迫で突き動かされている苛立ちに甘い苦しみが刺さっているのを知ったペイルは、かつてない孤絶感に襲われたのだったが、この急流へとのみこまれていくような心細さこそ、未知数の生み出す外連味であるなら、もう薄ら笑いはやめにし、あらためて自分を取り巻く現状と向き合うべきだと首肯した。
外の色合いが月影にとって代わるまで、夕暮れという一日の終焉にきまぐれな、それでいてきまじめな面持ちを向け、ペイルは身支度にとりかかった。もっとも体液を拭き取り、別の下履きに着替えただけだったけれど。
べつに念入りな整えは必要ない。あえてとりすまさず、青臭い精の匂いをいくぶん残しておくほうが気概は増すだろう、そんな辛辣で大人びた想念を抱かせたのも、また透徹した怯懦であることと自覚しつつ、ふっと蝋燭の火を消した。
暗闇を呼んだ部屋の静けさはいつも通り代わり映えしなかったが、窓掛け一枚隔て透けてくる黄昏の理がぬるま湯のごとく溢れ出しているのだと、肌寒さに震える素ぶりがとても芝居じみて、なにやら人恋しさにさらわれた痴呆のあたまの中へ迷いこんだみたいに騒がしく思えてくるのだった。


[576] 題名:The Missing Boy 2 名前:コレクター 投稿日:2023年01月23日 (月) 06時26分

「あからさまには言えないけれど、積荷には不吉な気配が封じこまれているようだな。
どうしたものだろうか。伯爵の独り言から伺えるよう、陰をもって陰をなすとでも、あるいは魔性には魔性を対峙させることが、城主としての最後の気概であるとしたなら、それほど理解に苦しまないし、むしろ最良の方策とさえ思えてくる。短絡的で他愛のないすべだとしてもだ。
もはや何者にも頼れない閉じた精神の発露であるほどに、決して相反せず、その不安と恐怖の源泉をひたすら見つめることだけしか許されておらず、ちょうど金縛り状態にある身がもがく焦燥の裡に、ある種の恍惚を感じ取っているとしたならだよ、残された時間に即すべき感性の在りようは、曖昧な境界などへ佇んだりはしない。なぜなら、ごまかしや逃避によって得られるものはより刺々しい神経回路でしかなく、苦渋と悲嘆にくれる方がたとえどれほど疎ましくとも、生き生きとした現実味を醸しているから。
伯爵の魂は不変を断ち切ったかに見えるが、どっこい、異形の面持ちを自ら被ることで境界線を乗り越え、そして生まれたての雛が小刻みに震えているのが、いかにも脆弱に映ろうとも、勝手なまなざしでもって優しさなど投げかけられる独断に対する、ひとつの姿勢であることを忘れてはならない」
フランツの声色には取り立てて、戒めのような響きを含んでなく、自然の理をなぞったふうな情調が漂っていた。
ペイルは落ち着くとこへ落ち着いたような心持ちになり、つまり僭越な態度が叶うとばかり、前のめりになって、
「伯爵さまの持病もさることながら、やはり糜爛したこの城の壁面にもたれかかっているというのでしょうか」
と、いくらかの皮肉を匂わせつつ背伸びをしてみた。
「さて、そうかも知れない。よく感じとったと褒めてあげたいところだが、おまえに限らずとも他の使用人だってそれくらい内心思っているだろうよ。だがな、異形はどうあれ、石像がメデューサである必然性は明らかになっていない。いや、逆に必然などではなく、ただの気まぐれだとすれば・・・さあ、どう解釈する」
「偶然の産物であったとして、どうでしょうフランツさま、なにか無意識的な力学につき動かされていたのなら、やはり究明すべき問題じゃないでしょうか。あのニーナの謎と同様に」
「そうか、究明すべきか、だがなペイル、もし私はすでになにもかも知悉していると答えたらどうかな。おまえには気晴らしのため、暇つぶし、ただの戯れで相手をしておるとな」
一瞬ペイルは顔つきを自覚し、無意識なと発した小賢しさを恥じたが、
「とんでもありません。執事のあなたが自分のような者にたとえ戯れであっても、かようなお話などされるはずがございません。さきほど、私の風説を影に忍ばせたりしないと申されましたのは、自分に一役担え、そう命じていると思いなしました」
ここで怒り買ったとしても仕方ない。だが執事は違う表情を浮かべるはずだ。ペイルはすべてを賭けた。
「ははあ、それはそれは。たいそうな思い上がりだな。しかし、それでいいのだ。あからさまに言えないからこそ、こんな歯がゆい口ぶりなのだ。気脈は通じたなペイルよ、一気におまえがかねてより案じているニーナにまつわる謎を今すぐ教えてやってもいいのだが、こればかりは歴史書と似たあんばいで、やはり謂れから噛み砕いていった方があとあと、その意味合いが異なってくるというものさ。それともあわてん坊の小僧のまま成長を望まないか、別に小馬鹿になぞしておらん、おまえの聡明な瞳に私は問いかけているのだ」
反駁する余地はなかった。いわゆる懐柔なのだろうけど、その裏を予感させる光明が自尊心を疼かせる。
「ええ、遠い歴史をいともたやすく引き寄せようなんて考えておりません。借りに豊漁の大網であったとしてもです」
ペイルは気取りなく胸を張った。
「わかったよ。私の眼に狂いはなかった。一役も二役も買ってもらうつもりさ。まず近日中に運ばれる積荷の検分に私は立ち会うのだが、助手としておまえを任命したことを城主に伝えておく。ごく少数でとり行なわれるし、その日取りは追って知らせる。それとだ、おまえはあのメデューサに関わる風聞をどこまで信じているのか」
喜色を保ったままで良いのやら、しかし風聞を開陳する義務感みたいな重圧に押され、これまで耳にしてきた戦慄の出来事を語った。
語りつつ、世にも不思議なことがらだけに、肝心な箇所がまるで浮ついた戯事のように脳裏へ描きだされるものだから、可能な限り冷静な面持ちでことの次第を報せるごとく、厳格な意志が通されたのだけれど、そもそも拙い風聞であることが、ありきたりな、つまり、おおよその加減は頼りなくも果てしなく、いつしか安っぽい怪奇譚を口走っているだけに解されてしまい、果たして信憑のゆえんなんていったいどこに位置するのやら、また、どんな心構えで立脚地へ足を踏ん張れるのか、どうにも錯綜としており、その面貌は角度によって薄ら笑いをたたえているふうにも見えた。
ペイルが話し終えると、フランツは至って生真面目な様子で、
「おおむねは間違いないのだが、詳細がともなってなくては話しにならないな、当然のことだ」
と、深いため息のような声をもらし、
「船主の手記がすでに手元にあり、そうだとも、真価はともあれ筆跡等、つまり血痕やら変な汚れにまみれた手記をあたかも証文のように扱い、そのうえで忌わしき石像を獲得したというのだから、もはや筋金入りだろう」
ペイルの背に刹那、寒気が走った。フランツは淡々と手記を読み上げながら、まだ未熟であることに十分自覚を得ているであろう若い家僕を、その陰で覆った。
けれども日輪の明るみは執事フランツの秘められた行為をあらわにせず、冷や汗を覚ったペイルはその首筋に触れてみたが、勿怪は見当たらず、噂でしかないと安堵するのだった。
さらに意表をつかれたとき、自分がいかに純朴であるのか、誰かがそっとささやいてくれたような気がした」
フランツはやや甘い口調でこう言った。
「ところでペイルよ、おまえは女を知っているのか」
「なんと」
「女体を知っているのかと聞いておる」
「いえ」
即答に悔いはなかった。ただ、数秒後に訪れたうしろめたさみたいな感じがたまらなく、
「どうしてそのような・・・」
と、言葉を灰色に鈍らすのだったが、それもつかの間、
「ほら、庭先の娘たちが眼に入るだろう。どれが好みだ」
「えっ」
今度は絶句してしまい、続けなければならない疑問符さえ喉元に上がってこない。いっそのこと、この首筋を噛み切って鮮血を吸ってくれたほうが恥じらいは薄い。
「夕暮れまでに好みを私に伝えるんだ。いいねペイル、そこからおまえの歴史は始まる。ははっ、少々大げさかな、そうでもあるまい、その顔に書いてあるよ。いいんだ、そんなに照れなくたって」
ペイルはみぞおちから肋骨あたりにかけ、妙なくすぐりと軽い痛みを感じていた。




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板