【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり24日まで開催

COLLECTOR BBS

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[365] 題名:どうしてわたしは地縛霊になったのか 5 名前:コレクター 投稿日:2013年08月27日 (火) 05時21分

水底は一応、水底なのね。てくてく歩いたつもりでもときおり地に足が着いていないような浮いた感じが芽生える。ところが、カエルおばさんの「ほら見えてきたでしょ」この一声ですっきり背筋が伸び、逆に眼球は遊泳しはじめた。建物が見える、ぽつんとした一軒家だけど、荒野を思わせる沼の地平では陽炎のようなゆらめきに守られ、慈しみがにじみだしている。
すぐそばまで来てみるとトレーラーの安定感を備えた平たい箱形の、奇妙といえば奇妙な造りだったわ。屋内はいたって簡素、寝室は隣の部屋なのだろうか、腰掛けるようすすめられたテーブルの置かれた室内に無駄な装飾は見当たらない。洗い場もすぐ近くに面しており、早速なべに火が通される。ここは水底ではないわ、ちゃんと火が燃えているじゃない。すでに水の手応えからはほとんど解放されていたので、別にあらためて驚くこともなかった。もう空気と同じだもんね。幽霊っていうか半魚人になってしまっている。そのほうが自然に思えてくるのだから慣れってある意味怖いわね。
「はい、たくさん召し上がれ」
想像していたとおり、ムーミン家の食卓とそっくりの料理だった。やや大きめのスープ皿、これ一品。クリームシチューのような淡く暖かな色合いが食欲をそそる。遠慮気味な気持ちもすっと吹き流され、鈍いひかりをゆったり放っている銀色のスプーンを差し入れたの。おやおや一杯いますよ、具が。
視界が曇ってきた。湯気のせいかな、違う、この匂い、ひとくちも食べてないのに美味に感心、いや感動してしまっている。ついに涙があふれだした。
「あらあら、どうしたの」
カエルおばさんは口をもぐもぐしながら心配そうな視線を投げかけてくれたわ。
「いえ、うれしくて。いただきます」
あとの模様を明記できないのが残念、だってにんじん、じゃがいも、豆らがごろごろとスプーンで転がせるくらい具沢山なうえ、シチューのとろみで運びこまれる美味しさといったら、それはもう、わたし夢中になって食べてしまったから。
紅茶もいただいた。なまずおじさんはパイプをくわえていたので、思わず吹き出しそうになったわよ。これでシルクハットでも被っていれば、まるでムーミンパパじゃない。
「ごちそうさまでした。わたし、幽霊らしくなれたように思います」
「そりゃ、よかったね」
これまでの半年、わたしは眠りついていたのだろうか、何をして、何を考えていたという覚えが呼び返せない。間違いないわ、意識がめぐってなかった、めぐっていたとしても微弱すぎて視界は暗幕で閉ざされたまま、神経伝達も滞っていたのね。
「血がかよっています。幽霊なのにおかしいでしょうが、そんな感覚がみなぎっています」
「あれと一緒だよ、手足を切断した患者が数年たってもなくした肉体にかゆみや痛みを感じるってやつ」
なまずおじさんの吐き出す煙はもっそりして、さながら小さな雲みたい。
「ではその感覚はまやかしなんでしょうか」
「どっちでもいいんだろう。まやかしでも本物でも」
「そうですね」
たった今の味覚も、と言いかけて言葉を慎んだ。食、住と進んできたんだ。まだほんの入り口にすぎない。ここで懐疑主義を持ちかけることもないわよね。つまり自分から様々な不審をつのるより、その場その場を検証するような冷ややか態度が大事だわ。もちろんつぶさに検分するほどの自信はないけど。
「今夜は泊まっていきなさい。あんたの家は遠い」
紫煙とともに吐き出された言葉に愕然とし、せっかくの血の気が引いていった。
「わたしに家があるのですか」
「そうだとも、あるよ」
「どうしてです。わたし、この沼に家を買った覚えはありませんし、住んだ記憶もないです。だとしたら誰が用意してくれたというのでしょう」
「そうだな、これはきちんと話しておこう。あんたは幽霊として目覚めたんだ。わかるね、死んでしまった人間があたかもよみがえったごとく意識を持っている。そういう者は登録されるんだ。生きている間には住民票が必要とされたよう、ここでは目覚め人は登録証を携えていなくてはならない。お役所が決めているわけじゃないよ、ここはの世界だ、国家も警察も役人も商売人もいない。すべては恵みのごとく配給される。おっと、どこからかって聞いても無駄だね。わしも知らんのじゃ。しかし最低限のルールはある。幽霊であることをよく自覚する、これさえ守れたら永遠を手にしたに等しい」
応酬するつもりはなかったけど、涙よりたやすく意見が口から飛び出してしまった。
「わたし子供のころから心霊とか神様って信じていませんでした。それなのにこんな事態を受け入れようとしている。悪夢ならお願い早く覚めてほしい、でも現実なら見つめる以外になさそうだから、ものわかりはよくするつもりです。何度も出てきますね、この文句」
わたしは沈黙し紫煙を見送っていた。とても熱い心情で。かなりの合間がたなびいたと思う。判決を言いわたされるような高鳴りが序曲にふさわしいかったわ、まったく。
「神様が世界を作ったのか、どうかはわしの答えられる範疇をゆうに越えている。同様に幽霊という存在を認可している不自然な世界に対してもだ。人間には意志があり生きる希望があり、底知れぬ欲望がある、しかし根源的な目的を勝ち得ないみじめさも同居させては嘆きを忘れることがない。そもそもすべてが偶然であってたんなる確率の問題だとしたらどうする。悲しいかな、人間はそうした無為にはたえきれないんだよ。常にどこかに、遥か彼方に、覗けば覗くほど過去の影しか見えないというのに、ひたすら秘密の鍵穴をこじあけたくて仕方ないだな。秘密なんてないかも知れないのに。
そこで幽霊だ。なぜと問うさきには世界認識と同じく、袋小路につきあたるか、天上崇拝に身をゆだねるしかないだろう。われわれはんだはずなのに意識を持ち歩いているじゃないか。何者かに飼いならされているんじゃないかと考えてみたことがあった。人影こそ表沙汰にしないが、どうやら番人がいて登録証を発行しているのは周知のことなんだ。いいかい、そのうちあんたなりの解釈なり認識が加わればそれでいいんだけど、今は傍観しているのが望ましいよ。あんたに危害をあたえる奴は誰もいないし、文句を言う者もいない」
「じっとしていろって」
「ああ、どうあがいてもこの沼から出るのは不可能なんだ。幽霊を演じるとき以外はな」
「えっ、なんて言いました。わたしたちすでに幽霊ですよね、それをなぜ」
「演じるというのかい。これは憶測の域から脱しえないんだがね、幽霊って希少なんだよ。言っただろ目覚める者もいるが眠り続ける者もいる。んだ人間が全員幽霊になっていたら収拾つかなくなる。だから化けて出れる、つまり意識を得た者は非常に珍しいんだ。鬼太郎のおやじだって幽霊族の末裔だぞ」
「あのう、それって目玉のおやじのことですか。漫画ですねよ、一緒くたにしていいんでしょうか」
「そうだとも、別々にする意味合いもないだろう。先見の明があったというわけだ。でだよ、わしらに希少性あるとしてだ、それを管理している、ほら動物園とか水族館を思い出せばいい、大事に大事に育てられ観察されているってことになる。ひょっとしたら見世物になっているかもな。幽霊でも妖怪でもなんでもいいんだよ、珍しい、これが決め手だ」
「半年まえにそんな噂を聞いた試しないですし、少し飛躍しすぎてませんか」
「じゃあ、この現象をはっきり説明できるのかい。集団催眠あるいはどちらかの幻想としておこうか」
「そんな、わたしにはなにも、、、」
「あんたがあの扉の向こうで考えこんでいる間に、これは言うのをためらっていたんだがね」
「なんなの、かまわないから言ってください」
「沼暦で10年が過ぎた」
「どういうこと、、、」
「時計はあるんだ、デジタルだよ。おそらく外の世界の時間と流れは変わらない。あんたがいろいろ思索したようにわしだって考えに考えたよ。来る日も来る日もな、ここは苦難こそないが、誰もが倦怠という悪魔に取り憑かれてしまう。あまりいっぺんに話しこむと処理しきれんだろう、ひどく疲れた顔色じゃ」
「わかりました。さきは長そうですものね。あわてたりしません。のんびり骨休みでもする気構えでいきます」
「おお、そうかい、それがいい。もうおやすみ、そのまえにもうひとつだけ。わしらは眠っているときにどうやら水上に浮かびあがるそうじゃ。睡眠には意識がないけど夢を見ることはあるだろう。もしかしたらそれが外界のすがたかも知れんなあ」
紫煙は掻き消えており、苦渋に満ちたなまずの表情が目のまえにあった。脇のカエルおばさんはとても悲しそうな顔をしていたわ。夢か、出口はあるじゃない。わたし早く眠りにつきたくて仕方なかった。わかるでしょう、このはやる気持ち。


[364] 題名:どうしてわたしは地縛霊になったのか 4 名前:コレクター 投稿日:2013年08月27日 (火) 02時02分

時間はこれまでと同じでよどんでいたけど、ところどころ透明な感じが胸に入り込んできたから、ひどく沈滞しきっていなかったみたい。すでに水圧の作用なんか身体から離れているし、沼底は陸地と変わらない居心地に落ち着いていたわ。あくまで無心に近い場合に限られていたけれど。
で、その透明な感覚がちょうど水玉模様みたいに思えてしまった。これは妙なイメージですね。きれいとまではいかないけど、決して悪い見映えではなかったわ。はい本当はさわやかな気分になったのでした。どうしてこんなこと言うのかって、、、それはなまずおじさんが語りだした説話に促され、浮かんでは消えるシャボン玉の効果を多分に含んでいたからじゃないかしら。みどろ沼の秘密がいま解き明かされようとしている。死者が意識を取り戻すより緊張感がみなぎりました。シャボン玉は生まれてはすぐに消えていくのですね。
まずは抑えきれなくなったわたしの疑念がはっきりとした目覚めを引き起こし、質問攻めの体勢になったところから幕は開いた。バケラッタを認めてくれたなんて素敵なことだわ。とすれば、この沼には掟というか、仕組みというか、つまり何らかのシステムが稼働していてもおかしくない、意識すればするほどに時間との距離が計られ、反対に遠のいてしまった出来事が身近に迫ってくる。これは正常な感覚でしょう、卑屈なため息や芒洋とした夢はもういらない、今を感じるんだ。
「わたし、身なりから高校生と自己判断しましたし、切れ切れながら学校での光景をあたまに短い間だけど張りつけられます。誰に殺されかはわからないのでしょう。つきつめるほどにはらわたが煮えくり返りますよ、それはもちろん。しかし、沼に沈んできた事実からしか始まりはないのですね。隠し事されているとも思えないんです。あなたたちを見ていてそう確信しました。だから生前の記憶を取り返そうとは考えていません。まったくと言えば嘘になるけど、とりあえず、ここでの暮らし方を学びたいのです」
「ああ、いいとも」
なまずおじさんの語気は柔らかい。わたしは又またしくじりの予感を覚えながら問いかけてしまった。
「ここに来て日まだ浅いってことでよろしいのですか。聞き分けのない子供をなだめすかすようにたっぷり歳月かけて意識化がおこなわれたとは思われません。だってわたしはそうじゃないのですよね。ではどれくら前からここにいるのでしょう。現世では西暦で時を表していました。幽霊が発生する未知なる領域ではおそらくそんなものとは別の暦があるのではないですか。スタートレックでは宇宙暦ですから、さしずめ沼暦とかあの世時間という具合いでなのでしょう」
「スタートレックは知らないが、西暦は分かるさ。月日の立ち方もな。あんたは半年まえだった。眠れる、あっ、ここでは死者はそう呼ばれているんだ、でもあんたみたいに目覚める者もいてな、それは簡単に言えば幽霊ってことになる。ところが当人はよく事情を理解できない、現状否定をしながらまどろんだり、なかには暴れはじめたりもするやっかいな奴もいる。わしらはそこには一切関わらないし姿を見せることもしない。それにいくら暴れようが発狂しようがここの水圧は勝手気ままを放置しやせんよ。やがて生花がしおれるふうに大人しくなるのが定石、そう思わんかな。沼暦ときたか、そりゃあるといえばある、が、あってないともいえるんじゃ」
わたしは疑心をはさまず素直にうなずけたわ。産声をあげて誕生したのち、世界を手探り、見聞き、空想、言葉を介して切り開いていった頼り気なさ、だけど強靭な意志を宿している実相さえ忘れながら常に手応えは鮮明な感情をともなっていた。喜怒哀楽をバラバラに飛ばしつつ、不確かな連動は呈をなしていったから、そこにある、なんて実感をかみしめてみる意欲なんて持ち合わせていなかった。家族のなかで育ち、路地の奥を迷路みたいに恐がっては次第にちいさな地図が作られ、自分をとりまく環境が把握されたころには保育園に通っていたんだ。
きっとここでも似たような発展が望める。沼であってもう沼でないじゃない、水を感じないくらい自由に歩きまわれるし、なまずやカエルの顔を変だとも思わなくなっている。赤子と違うのはすでに言葉を習得しているって驚きよ。死んだら無なのに言葉が先行している。お経じゃありません。こうした考えを亡きがらは抱えこんでいるの、なまずおじさんのもの言いに首肯してみても、不可思議な気分は抜けたりしない。しないどころか、段々わくわくしてくる。
「ないものは今度でいいです。難しいそうだから、、、それよりあるものを教えてくれませんか」
「よろしい」
「どうして自覚が孤独へつながったのです」
「それはあんたが一番よく知ってるだろう、初潮を迎えたときを思い返してみなさい」
「よくわかりませんが」
「そのうち解せるさ。太鼓判を押すよ」
「はあ、そうですか。では時間についてです。あり得る方をお願いしたいのです。西暦とは異なるんでしょうか」
「西暦なんてたかだか二千年、紀元前とて同じ原理じゃな。この沼もそこらへんは一緒だよ。24時間は24時間で、朝昼夜は繰り返すし、四季もある」
「ということはここは日本なんですね。そう日本語で喋っている。わたしの推測では沼のすがたを借りたあの世であって、次元も違うだろうから、自国にこだわる必要もないのかなと」
「こだわるもなにも日本語で話してるじゃないか。次元うんぬんはその通り、同じ時間が流れている。ただし、わしらはこのまま歳をとらない。あんたもずっと女子高生だ。死者は成長しない、魂は別だがな」
納得するべき箇所はそうしたらいいし、疑わしい部分はとりあえず脇によけておこう。わたしの執拗な問いかけに対し、ややいら立っているふうにも映ったが、なまずおじさんは根気よく習い事をを仕込んでくれる調子であれこれ解説してくれた。
息継ぎするのを意識しだし、その間合いに静かな気配を感じたあたりが一段落といったふうです。ではそこまでを一通りお話しましょう。
次元の相違に関してはあまり驚きはなかったけど、日本のどこかの別次元って解釈は妥当だと思うのね。わざわざローマやパリ、ニューヨークなんかに存在する必然性はあり得ないし、我が国に西洋の幽霊が出たって話しなんか聞いたこともない。土地は土地なのよ。とすれば異界は案外すぐそばにあるかもね。みどろ沼の名の由来はなまずおじさんも知らないらしく、肝心の場所の特定にいたってはあやふやにはぐらかされてしまった。何県の何町なんて聞き方したのが悪かったのかしら、まあ、いいわ。いずれ明らかになりそうな気がする。
それより永遠の女子高生って凄すぎる。うれしいのかもったないのか、価値の計り方自体がわからなく、混乱してても仕方ないから気分を泳がせたまま、横で黙ってひかえているカエルおばさんの顔を見てたら急にお腹が空いてきて、グルグルで音まで鳴りだした。恥ずかしいというよりか、脳内活動に押される勢いで、他にも住人がいるはずですからね、まだ見えないだけらしく、これも自覚の問題みたいなので言及はできませんけど、たとえばですよ、さえない中年男がおりまして、わけあってここに飛びこんで、いつしか目覚める、そしてわたしと出会う。いえ、出会うっていっても偶然よ、案の定、中年男はわたしに恋こがれてしまい、しつこくつきまとわれたりする。わたし、永遠の女子高生なんですからね、モテモテで困ってしまうんじゃないかしら。もっとかわいい子が現れたって不変は不変よ。そのうち相手に対する気持ちが見た目じゃなく、優しいこころなのだわって考えだして、思い切り見た目のさえない中年男と結ばれたりするのでは、、、むろん、そのまえにデートとか重ねてお互いを認め合うのでしょうけどね。なんて想像をめぐらせてしまったものだから、結婚制度について訊ねてみたの。「あるものはある」なんとも端的なひとこと、まったく幽霊だって変わりないのね。それと家、住むお家よ、どこにも見あたらないじゃない、さっきまでの長く感じられた扉の謎はさておき、これも「いずれ見れる」でばっさり。
じゃあ、食事、お腹へったなあ〜、これは実際そうだったので、いったいどこでどうやって食べているのですって声を張り上げてしまった。するとカエルおばさんが「今からうちにいらっしゃい」って言ってくれたの。
もう半泣きだったわ。ちゃんと食べれるのね、なんだって食べるわよ、嫌いな干し椎茸もピーマンも食べる。そうと決まったら問答は道すがらってことで三人はてくてく歩き始めた。途中で少しだけでもみどろ沼の一端が見えてきた喜びが、陽気にさせ、能天気へと傾かせ、ついつい気がかりだったにもかかわらず禁句とこらえていた懐疑をもらしてしまった。どうしてふたりは人間の顔をしてないのですかって。
口を滑らしてからあわてて申しわけなく肩をすぼめたみたけど、笑い声しか耳に入らない。そして一本とられたのよ。
「ムーミン谷のみんなは仲良くやっているじゃないか」ってね。
わたし試されていたのかあ、なんて今度は肩を落としてしまいました。現世でもひとの詮索をするのはあまり好ましくありません。幽霊にだってこころはあるんだ。だから化けで出る。早く出たかったのは隠しきれない心持ちだったけど、先にご飯をいただこう。とっても楽しみだわ。


[363] 題名:どうしてわたしは地縛霊になったのか 3 名前:コレクター 投稿日:2013年08月20日 (火) 05時18分

「もう立派な幽霊だよ」
えっ、今度は誰がつぶやいたの。独り言じゃないわ、確かに耳もとへ届いた。優しくもあり厳しくもある、それから不気味さがしっかりまとわりついている。仕方ないのよ、時間をとらえるのだってあやふやだし、おまけに記憶があちこち散らばりすぎて、はなからつなぎ合わせようなんて無理なのもわかってて、それでも意欲だけはオバQの毛みたいにちょこんと乗っかっているの。あっ、オバQ思い出した。座頭市と、ムーミン谷の次にやってきたわ。
しかしその先がですねえ、どうにも曖昧なんです。これが記憶喪失とか記憶障害ってことなんだろうな。はい、そうした認識はありますよ。なんて、えらそうに言うのは、結局なげやりな口調のほうが本当らしいと思ったからで、空威張りとか捨て鉢ではありません。女子高生だったし、たぶん今でも、、、学校には行ってないけど、制服着てるし、同級生の面影や校内の様子はうすぼんやりでしかないにもかかわらず、わたしを見えない衣でそっと支えてくれている。
死んでしまって沼底を徘徊する意識にとってみれば生前の記憶はただひたすら、未練を呼び寄せるだけかも知れない。そしてそれがどれだけ辛いかくらい考えられる。だから、このもやがかった状態は正常なんだろう、きっとそうだわ、鮮明な物覚えなんて今は必要ない。だったら最優先されるものは、、、もう、我ながら呆れてしまいますね、この堂々めぐり、早く出口を得たいがためなんだろうけど反対に自覚から遠のいているような気がしてきた。
と、まあ、あれこれ思い惑ったのも一瞬だったのか、一年がかりだったのやら、ようするに、わたし、立派な幽霊である自分のことを認めたくなかったみたい。化けて出てやるなんて誓ったのも、沼のほとりを夢想したのも、ただひたすらここから逃げだしたい一心だったのよ。地下道が延々としてきりがなかろうが、とにかく目についた扉に引きつけられ、さらなる地獄だとしても先へと踏み出してみるしかすべはなかった。神様にすがったのはいい加減うんざりしてきたから、悟りを口にしたのも仏様を頼りにしたからだった。どんずまりの心よ。
まだ死んだって事実から離れ去ろうともがいている。それでもですねえ、こうして意識があるのですから、さほど非難されなくてもいいのじゃないですか。誰も非難してないけど、、、
ものわかりがいいって誉めてもらったじゃないの、逆に。馬鹿みたい、ちょっとばかりおだてられたりしたら、すぐ調子にのっていい子ぶってしまった。わたしって妄想好きだったのね、だからあて推量をまるで先導された道のりであるかのように飲み込んで、未知なる領域に夢を託したのだわ。自分で言うのもなんだけど、なかなか前向きだと思ったんだけどなあ。だが死者には無用か。扉に飛びつかないでなまずとカエルのおふたりさんを探すべきだったかも。そしたらおしゃべりを楽しむ特権は保たれていたはずよ。かなり有意義で不可思議で、しかもときめきを秘めていたかも知れない。いなくなった影より眼前の可能性にすがるってやっぱり欲深いわね、死んでもこうなんだから案外捨てたもんでもないわ。いけない、いけない、またまた自己肯定に走ろうとしている。
苦笑じみた顔つきは鏡なしでも十分に想起できた。寂しさと悲しさを取り残してみるとひたすら渇いた気分に落ち着き、足が止まった。そのときよ、声が間近で聞こえたのは。間違いない、わたしに話しかけている。
「早く出てきなさい、いつまでそこにいるつもりじゃ」
なまずおじさんの声だった。続けて「そうよ」ってカエルおばさんが念押ししている。死ぬほど懐かしかったわ、百年待った、千年待った、それくらい感情が沼全体に満ち満ちて、わたしのはち切れた時間で一杯になった。
視界はせまくもなく、堅苦しくもなかった。ふたりと再び向き合っている。表情を確かめる余裕なんてない、ただふたりの存在というだけで申し分なく、あとは律儀すぎて困る神経で背後に扉を感じていたの、それからとってつけたみたいな時間の推移と凍結を。しかしもう、ためらいや痴呆的な隔たりはいらない、素直に言葉はついて出た。
「わたし、あの扉のなかに入ってずっと歩き通していました。いったいどれだけの月日が経ったのですか」
即答しかけるなまずおじさんの大きな口が開きかけるのを見つめながら、思考がひかりの速さで駆け抜けていく。死の世界に時間は価値を見いだせない。答えは一致しなければいけないと願ったのね。
「一晩だよ。腹も減っただろう」
「えっ」
嗚咽になりかけそうな弱々しい音を吐きながら、空腹を問われるという予期してなかった労りに呆然となったわ。
「お腹ですか、わたしなにも食べてないです」
カエルおばさんの相好がくずれるのを不吉な予感と取り違えてしまった。それほどきつねにつままれた気分だったの。
「夕飯も抜きだったのでしょう。朝ごはんも」
「ここに来てから食事した覚えはありません」
これくらい実直な返事はないって勢いできっぱりそう言った。それどころか入浴や排便、睡眠、ええい、すべてよ、家にすら帰ってないのよ。いつもの、毎日の、うっとうしい日々の細々した雑事や、あべこべに楽しい遊びも友達とのメールも途絶えてしまってなにも起らない。ああ、ダメだわ、興奮してしまった。そういうわけにはいかないってこと忘れてた。ほんの一瞬だけど。
「無理もないさ、あんたはまだ日が浅い。あれだけ事情を聞きたがっていたのに」
目がつり上がっているのが自分でよくわかった。
「じゃあ、どうして急にいなくなってしまったんですか」
なまずおじさんは半ば眠たげな目でいさめるよう、語気をやわらげてこう言ったわ。
「あんた自覚しただろ、あれこれと」
稲妻のような思念が遥かむこうの水底からやってくる。でも混乱は招かなかったわ。割と冷静だった。次の言葉をゆっくりまばたきしながら待った。
「死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない」
どうしたことでしょうか、一緒に詩句をなぞるふうに声をあげてしまった。
「それが原因」
自覚を読まれてしまっているおののきが一層わたしの態度を弱々しくさせたの。
「そうだとも」
なまずは自信たっぷりな面持ちで返答した。もう無言を通したかったわ。なんにも問いたくないし、聞きたくない、関わりも持ちたくない、けれどもそれだとこの身が微かに震える。
「時間がかかりそうですね」
「もちろんそういうことだ」
「地下道を歩きながら考えていました」
「なにを」
「理想と理屈と現実、それからバケラッタ」
「なんだい、バケラッタって」
しまった、ムーミン谷と同じ轍だ。オバQとO次郎は割愛しておこう。「あのですね、幽霊は化けて出るって意味でして」
「ほう、そいつはいいとこに気づいたなあ。やっぱり、ものわかりのええ娘じゃ」
「そうですね」
カエルおばさんまで、、、結局わたしは適度であり都合よく出来ているんだ。そうなのですね。
が、あまり卑屈になるべきではなかったのでした。地下道は無為なる情熱でも、朽ちた詩歌でもなかった。いわばイニシエーションとでもいうべきだわ。大事なのは学習なのです。このみどろ沼とわたしという現象をしっかり学ぶことを抜きにしてことは、どこにも一歩たりとも進めません。


[362] 題名:どうしてわたしは地縛霊になったのか 2 名前:コレクター 投稿日:2013年08月12日 (月) 07時04分

見知らぬふたりはもう随分とまえからわたしのことを観察し続けていたような思いがした。だって顔を見合わせるのと、わたしを見つめている時間が同じくらいで、そのうえ目の色はとても深く、くちもとは秘めごとを押し殺しているように感じられたから、まちがいないわね。こんな間合いなんて偶然に生まれるより、前もって取り決められたって考えたほうが正解だよ。
あ〜あ、沼の底に沈んだのはきのうきょうの出来事じゃない、かといってそんなに古い事件でもなさそう、わたしの意識が眠っていたにせよ、閉ざされていたにせよ、こうやって他者と向き合っている実感はとっても生々しかったし、新鮮だったし、不安だった。ひょっとしたら意気消沈の期間が分厚い被膜になって何も得られかったかも知れない。ともあれ、死んだ自分に意識が戻っているのって興奮してしまうわ。さぞかし混乱したと思われるでしょうが、案外、高鳴りは正常で、まっすぐ胸をはっていたの。よろこびも手伝っていたかもね、そりゃそうでしょう、ここがたとえあの世だったとしても、わたしは目覚めている、もっと言うなら生きているんだ、死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない。
これは開き直りかな、気持ちの整理はゆっくりやれそうだったから、あれこれ解釈はやめにして、自覚から出発進行することにした。で、気づくとふたりのすがたは消えている。前後左右なんども首をまわしたけど、どこにも見当たらない。ひと叫びしたいところだったわよ、本当。ところが、何とですよ、別の視界が開けていたわけ。手の届きそうな場所にごくありふれた民家の扉が待ち構えていたの。これには仰天したわ、どこでもドアじゃあるまいし、どうしていきなり、、、とはいってもその半開きの扉が現れたとたん、わたしうれしくなった。
「この娘はものわかりがいいですねえ」
あの声が耳の奥でこだましている。はい、わかりました。わたしの意思が視界を生み出しているんだわ。とすれば、心持ちのあり方でみどろ沼は別世界になる可能性がでてきた。あれこれ解釈をやっぱりするべきだ。沈思黙考、ああ時間を感じる、と同時に水圧も、冷たさも、息苦しさもやってきた。これじゃ溺れ死んでしまいそうだった。でもすでに死んでいるって念じたら体感はきれいさっぱり遠のいていったわ。もう水は空気、飲み込んだって平気、あいかわらずどんよりした水底だったけど、平野のように限りなくゆきわたっていた、何がって、う〜ん、よく言い表わせないわね、しかし早起きした朝の空が澄んでいるみたいで、決して不快な気持ちになったりはしない。
いいことがあるって保証は求められないだろうが、とりあえず扉に手をかけてみた。あれま、これは地下道ではないですか。トンネルにも見えるけどそうなると水底トンネルになるわね、が、わたしにはあくまで地下道に映ったの。水の抵抗を感じない限り、ここはすでに沼であって沼じゃない。だから陸地が呼び戻され、わたしは呪縛から解放された、そう思いこみたかったのですね、その方が都合よいだろうし、夢がある。
では早速、旅に出るとしましょう。わたしは申しわけなさそうにかなりの間隔で灯っているほの明るさを頼りにどんどん進んでいった。どれくらいの距離を歩いたんだろう、とにかく一直線な道だったわ、ふと腕時計をしているのを知った。どうして今頃、、、それとも扉と一緒で急に出現したってことかしら、でも、悲鳴が伝わってひび割れを起こしたふうな時計の表面は汚れたままで、時刻をしめす針はぐにゃりと折れ曲がっている。これでは役に立たないわね、だから忘れていたのかも。
嫌だわ、嫌だわ、腕時計が壊れたと推定されたとき、わたしは誰かに殺された。そのまえには乱暴された。きっと抵抗したはずよ、その際の傷跡かも知れない。手首から引きちぎってしまいたい怒りを覚えたけど、どうしたわけか、そのままにして、止まった時間を押し流す要領でより早足で地下道を駆けて抜けた。
薄暗いのはもちろん、単調な直線に変化は訪れなかったし、目的意識さえ希薄になってゆき、ふたたび朦朧とした視野に導かれ、浮ついた気分は意思をささえきれなくなっていたわ。それほど長い長い道のりだったのよ。一日や二日じゃなく、もっともっと、一年、三年、十年、概算すら通用しないのは仕方ないの、わたし死んでいるから。
引き返そうなんて考えなかったわよ、ここまで来たんですから、地底探険よろしく果てまで行ってみたい。しかしながらこの永久的な暗がりには滅入ってしまう、出口なんかない、これが死の世界なんだ、沼の住人は引導を渡してくれただけ、そのうち歩き疲れて倒れてしまうんでしょうね。そのとき意識は消えさり、わたしは無になる。だったらもういい加減にしてほしいわ、これは儀礼なの、誰かに案内されているわけ、そこに意味なんてあるのかしら、死人を生かしておいて一体どうするっていうのよ。
怒りもあったけど、実はとっても悲しかった。うらみつらみもない、わたしを殺した奴にも激しい憎悪を感じなくなっている。願いはひとつだけ、早くこの意識を消して、ふっとろうそくの火をかき消すように。
死んだあとまでどうして苦しまなくちゃいけないの、そもそも死は無でしょうが、平安時代とか鎌倉の世にわたしの意識が存在しなかったように、ただ永遠の沈黙が約束されているはずじゃない。
これが目一杯の思考だった。そしてあとはひたすら呪文のごとく繰りかえされるばかり、いっこうに倒れもしないし、地下道は生真面目に続く。百年ほど経ったのかしら、でも時間じゃない、距離でもない、そして意識でもない、いや、こんなこと思っているんだから意識はありそうね。そのとき、天井からぽたりと水滴が頬を打った。たったひとしずくだったけど、なんという懐かしさなんだろう。わたし涙を流しそうになったわ。
けど涙よりひらめきのほうが素早かった。意識が意識らしくなったのよ。そう、こんな思いつき。
「わたしは生まれかわる為に歩んでいるんだ。過去を切り捨て、新たな生命となる」とね。
するとすかさず抵抗が生まれた。
「過去の記憶なんてすでにない、この腕時計が唯一の残骸、それとも今から徐々によみがえりの作業が始まるってことなの。生まれかわりではなく、記憶がめぐってくる、受け皿に盛られるだけ盛られる、あらゆるの記憶が」
つまりこの地下道は負の巡礼とも言える。耐え忍ぶのは死人も同じってことか。そこで別の思惑が鋭く放たれた。
「過去を背負う、これって幽霊になるって意味、化けて出るのね。復讐してやるのだわ。成仏できないはずよ、まだくすぶっていたんだもの」
が、この見解は無惨に崩れてしまった。ならそこら中が幽霊だらけじゃないの、霊感を持ってるひとだけにしか見えないなんて割に合わない。犯人に霊感がなかったら話しにならないじゃない、まったく。
それからしょぼくれて足取りは勢いをそがれてしまったけど、また水滴が落ちてきた。はっとしたわ、それからぞっとした。
「そうだったのか、わたしは沼のほとりに浮かびあがるのね。ぼおっと色褪せながら。見れるひとだけでも上等なんでしょう。あそこに幽霊が出るってうわさが立てば、わたしは使命を果たしたことになる」
そのうち心霊写真なんか出回って、その顔かたちからいよいよ身元が確認され、遺体の捜索が始まる。わたし、行方不明者のままかも知れないから、これで家族にもさよならが出来るのね。いいわ、やってやろうじゃないですか、わたし幽霊になってやる。そして夜な夜な登場して世間をあっといわせるの。
ほとんど有頂天だったわ、死者がこんなにはしゃいでいいものやら。ああ、でもよかった、きちんと感情が息づいている。ようやく目的が見つかったのよ。
ところで、どうしたら幽霊になれるのかしら、、、あっ、答えはこれだ。この地下道を抜ければいいのです。そうでしょう、神様。ここまで悟ったんですからね、そろそろ出口に近づけて下さいな」


[361] 題名:どうしてわたしは地縛霊になったのか 1 名前:コレクター 投稿日:2013年08月12日 (月) 01時53分

みどろ沼、これがわたしの住んでいる、あっ違った、でもいいかな、他にも仲間もいるしね、とにかく毎日の意識が発生しているところです。順を追ってお話したいんだけど、どうにも前後不覚の切り貼りだらけで、意気消沈が長かったせいもあって、うまく筋道を運べないの。でも時間は存在してる、朝も昼も夜もくるから。
じゃあ朝ごはんに何を食べたのかって聞かれても即答できない、変でしょ、普通じゃない、すんなりと理解してくれるなんて思ってないし、そうだとしたらしたで、それっていい加減ねって逆にふんがいしてしまうわ、きっと。わたし自身が妙だと感じてるんだから、立場がもし反対だった場合、決して、はいそうですか、なんてうなずかない、という事情から始めたいのでよろしくお願いします。
過去の記憶があいまいかっていうと、そうでもないのね。ここで目覚めたときの印象は強烈に残っているし、まわりの気配もおっかなびっくりだったけど、探ってみようって意欲はなくしてはなかったのよ。
暗かったわ、街の灯りがすべて失われ、夜空の星がみんな消えてしまうより真っ暗だった。目は開いていた、耳も聞こえていた、鼻はくんくんできなかったな、なんせ沼ですからね、今ではまるで水棲動物みたいに嗅ぎ分け可能だけども、最初は視覚より聴覚が勝っていた。座頭市しってるもん、めくらは耳が発達しているんだ。もっともわたしは花も恥じらう女子高生ですから、仕込み杖なんかふりまわして斬ったはったなんてしません。それどころか自分でいうのもなんですが、けっこう男子から言いよられたり、なかには後輩の女子もいたなあ、つまりそこそこきれいな娘だったわけなのです。もうこれ以上は言わないでおこうっと、あんまり自慢ばっかしてると嫌われてしまいますからね。で、耳を澄ましているとなにやら声が伝わってきたの、ひとの言葉よ、かなり離れたところから聞こえてくるんだって感じてたけど、そうじゃなかった。ひそひそ声だった、どうやらわたしのことをあれこれ詮索しているみたい。はじめに言葉ありき。
「まだ若い子じゃないか、どうしたもんだろう、きちんと説明してあげたほうがいいのか」
「いずれ、気がつくのでしょうから、そのほうがよろしいかと」
ピンときたわ、とりあえずわたしの身には異変が起っている、それは相当なことで、かなりの勇気がないとその異変を受けとめきれそうもないとすぐに了解した。わたし、子供の頃からけっこう好奇心おうせいだったんで、ひとりで陰気くさくしたり、どこの誰ともわからない連中のうわさに縮こまっているなんてまっぴらでした。それで、こっち側から問いかけたんです。
「あのう、わたし大丈夫ですので、説明をぜひとも」
多少はひかえめな口ぶりだったわ、あんまり元気過ぎたらいけないような心持ちがしたの。だってどう考えてもいい報せなんかじゃないだろうし、不吉な影に覆われているのはこの視界の悪さが証明している。それでも魚心あればなんとかっていうやつね、わたしが意思を抱いたとたんにぱっとまわりの風景が開けた。ええ、それは驚きましたとも、腰を抜かさなかったかわり、目が点になったわ。だってここ水底なんだもの。どうしてからだが水分を感じとらなっかったのか、よくまあ呼吸できたもんだ、もうだめだ、わたし人間じゃない、常識って言葉が何十回もあたまのなかをぐるぐるまわっていた。
風景、まず目にしたのはさっきの声の住人、カエルの顔したおばさんとなまずのおじさん、よくわかんないわ、なんなのこのふたりは。疑念の回転は相当な速さだったみたい。なぜなら、なまずおじさんはこう話しかけてくれたの。
「おお、そうかい、じゃあ、気を確かにな。辛いだろうが悲観するだけが思念ではない」
「同感です。どうぞ遠慮なく」
わたし、なんだかうれしくなってたわ、地獄に堕ちたとしてもこのひとたちとこうして会話ができる。驚きは一歩も二歩もさがって、悲しみはまだ到来してなかった。
「あんたは死んだんだよ。もう生きていない」
なまずが喋るもんだから、おごそかな言葉は別の意味にとらえられて仕方なかった。でも飲みこんだわ。
「だと思いました。こんな水底で生きているはずないです。それにおふたりと対面しているのも生きていたら絶対に無理だったでしょう」
「この娘はものわかりがいいですねえ」
カエルおばさんは実に優しそうな顔をしている。そこで、つい言ってしまった、悪気なんかないわ、こころに浮かんだことを真面目に、いや、ちょっと現実逃避はいっているかな。
「あのう、ひょっとしてここはムーミン谷みたいな場所じゃないですか」
互いに顔を見合わせていたからどうやら的外れだったようね。
「なんだいムーミン谷って」
今わたしは説明を求められる立場じゃない、その正反対なんだ。
「いえ大したことじゃないんです。ものわかりいいと自分でも思います。続きを教えて下さい」
なまずおじさんはいかにもっていうふうにうなずき、淡々と語りだしたの。
「あんたはどこかで殺されたんだ。そのあとこの沼に捨てられた。ほら首にまだ絞め殺されたときのあざが残っているだろう。この鏡で見てみなさい」
さすがに血の気が引いていくのがわかった。手鏡を持つ指先は脱力しているのか、よく首筋を確かめられない。
「それとだね、殺されるまえに、強かんされている」
鏡がまっぷたつに割れる幻覚が直撃した。いくらなんでも酷すぎる、可哀想なわたし、まだ**だったのに。今度はひきつけを起こしたような激しい衝動が猛烈な速度で回転しはじめた。回転は長く感じられ、その挙げ句、怒りと悲しみに占拠されてしまったの。
「犯人は誰なんです。逮捕されたんですか、死刑ですよね、顔見知りだったりして、まさか同じ学校の生徒、、、そんな、、、」
「すまないが知っているのはここに沈んできたことだけだよ。もんぐら先生が検視した結果とな」
なまずおじさんは顔を歪めながらそう話し、カエルおばさんはうっすら涙をにじませている。
「では、陸に上がれないんですか」
われながら飛躍した意見だと思ったが、そう問わないといてもたってもいられなかった。こみ上げてくる様々な感情は一息に沼から飛び出すだけのエネルギーを持っていたから。
「そうでもない、ただ、自由気ままというわけにはいかないんだ」
これから先が大事なところです。わたしにとっても沼にとっても。


[360] 題名:サイコロキャラメル 名前:コレクター 投稿日:2013年08月05日 (月) 02時47分

絵の具を絞り出し塗りこめたみたいなひまわり畑の小径を進んでゆくと、木々の伸び具合が見分けられるほどの小高い山がせまって来た。背景の青空は無性に旅情をかきたてるが、夏風にそよぐ大輪から浮き上がる緑は小山から彩度を分け与えてもらっているので、足取りは緩慢になった。
「すぐそこよ」
高くのぼった太陽のかがやきは辺り一面を極彩色にして、なお、昂然と大地にまで映発させている。くっきりとした影もまた青みを染み込ませては、せせらぎの清らかな音を静かに告げていた。少女が教えてくれた言葉の調べとともに。
緑と蒼穹が溶けて流れだしたような小川を眼前にする。転がし疲れた岩の腰を据えた所々に暗緑が認められるのはそこそこの淵を擁しているのだろう。こんなひっそりした川面にも秘密は隠されている。靴下を脱ぐのが気恥ずかしいくらい、まわりに人気はなく、寂寞が守られていた。砂利と小石が邂逅を確かめあっているふうな長閑さと緊迫が交差している浅瀬に素足を踏み入れてみる。日焼けを知らない青白い肌に冷涼な感触が襲いかかり、直ぐさまそれは神妙な響きとなった。透明な流れに時間はない。
「きっときゅうりが浮かんでいるわ」
「そんな馬鹿な」
胸のなかに取り憑いた想いは永遠にとどまるのだろうか。きゅうりに手を伸ばしかけた瞬間、全身がすっぽり淵に沈んでしまった。

早朝から熊蝉たちの歓びがいっせいに鼓膜へ浸透し、気温は急上昇していた。枕がぐっしょりとまるで水をかぶったみたいに濡れてたけれど、不快さを覚えつつ懸命に夢のありかを振り返っていた。ひまわり畑は背丈をゆうに越えていたなどと、早くも潤色がなされ、天空はすぼめられて薄暗く、小径は煉瓦色になめらかで、一匹の艶やかなコガネムシが転がっているのが、網膜の彼方に見つかった。

網戸から大儀そうに入りむ熱風が疎ましく感じ何気なく目をやると、黒い物体を発見した。眠気と熱気が居場所を譲りあっているなか、意識は夢の花園を呼びよせ、薄暗い緑から使者を寄越したに違いない、そう思いなしては、昆虫図鑑を開いてみるような感覚で網戸の影を凝視した。
「カミキリムシ」
自分の声ではなく、またもや少女の発音が耳にこだました。見れば白いものを背に散りばらせながら、几帳面にも割りと長い触覚にまで点綴をゆき届かせている。じっと動かない。蝉の音を浴びながら、編み目から抜け出せそうもないまだらは落ち着きはらっていた。外側でなく、部屋の内側にへばりついているというのに。
聞き分けない子供と一緒で、手元は捕獲の使命を忠実に従うべく、また夢遊病者が見せる澄んだ仕草をも両立させながらベッドから起き上がりかけた。そのとき不意に独り言がついて出た。これは紛れもない自分の声である。
「きゅうりの二の舞だ」
浅瀬のからの眺めがとてつもないほど懐かしくて、胸が掻きむしられた。悲痛は出口を知らなかった。

午後のサイレンがかなり湿気を帯びた空気によって運ばれたから、さすがに目が覚めた。夢を見ていたのだ、起きたつもりだったのも現実でなく、朦朧とした絵画の陳列、あるいは会場を持たない映写会だった。ちっぽけな舞台と俳優は存在したけれども。
舞台は回転する。上下左右へと。

小夜子は真っ赤な口紅をさしていた。うれしさを隠しきれないのは長い間逢えなかったからだけでなく、やはりそのけばけばしい深紅の光沢がひかりを放っていたからだろう。
「いつか頼まれたから」
小夜子のやや寂しげな目はそう答えているようだった。きっと感情を抑え過ぎてしまい自分の面差しも又、喜悦が急速に冷えてゆく不本意な態度に協調したと思われる。焦燥はただちにちからまかせの抱擁にとって変わられた。念願のくちびるを一気に奪わなかったのは、敬意という衣を借りたしまりのない呵責によるものだった。
髪を軽く撫でては仄かな匂いの所在を探り当てようと、集中すべきものは不確かな感触を夢想し散漫な方向へと転じてゆく。もう片方の手は微かな震えに促されている背中をさすり、やがて硬直とは無縁の柔肌に出会う冥利を得る為あえて背骨にそった愛撫を試みる。そして吐息は言葉に成りかけることを拒んだまま、小夜子の耳たぶ間際でよどみ、伏したまなざしが描くであろう羞恥と熱情を絡めとる。下半身にまだ衝動を覚えないのは立ち尽くし、緊縛を受け入れている情況に陶酔していたい一心で、猶予を愛でていたからに他ならない。小夜子の媚態がこぼれだす手前を味わい尽くす為に。
すべては手中に収めたという気持ちが優先されていたから、さきほどの焦りは礼儀の域で生じた戯れでしかない、そう念じながらゆっくりと赤いくちびるを吸った。

白い下着にトマトジュースをこぼしてみた。怪我人を演じる必要に駆られてのことであった。俳優は予行演習を怠ってはならない。
「きゅうりの話しは本当だった」
ついでに台本もそう書き換えてみよう。夏に怪談はつきものである。しかし少女と小夜子を混ぜ合わせたり、蒼空から告げられた旅愁を曲解してはいけない。愛すべき確率にそうそう巡り会うことはないから。
夢の連鎖を解き放ちたいけれど、思い出せないという理由で虚飾に終始するのはわびしいだけだ。

「大きいけどあまりうまくなかったね」
「おまえだろう、空箱に虫を入れたりしてたのは」
「そうだったかな。ビー玉をつめてた奴もいたぞ」

小夜子にはこんな台詞を用意しておいた。
「いきなりキスするのはまだいいけど、同時にあそこも触るってどうなの。出方しだいね、演技も恋愛も」


[359] 題名:フランケンシュタイン 名前:コレクター 投稿日:2013年07月29日 (月) 00時55分

夏を夢見る。部屋の中をしめやかにさせた陽の陰りに午後の衰退を覚えれば、うつらうつらとした意識は更に心地よく、このまま眠りに落ちていく軽やかさがかけがえのないようなものに思えてくる。が、陽射しは白雲に暫しさえぎられただけで、海水浴場を輝かせていたまばゆさは生真面目に名残りをとどめ、畳のうえに白くひろがっていた。首をゆっくり降る扇風機の微風が開け放たれた窓の外へと逃げてゆく。波の揺らぎをまだ感じているのか、頬を撫でつけるそよ風の役割を果たしながら。
夏の記憶はきらめきという目くらましによって、遠景の細やかさを屈折させ、笑顔と寝顔を混在させる。
「誰の、わたしはあなたのもとで眠ったことなんてない」
取り繕ろいの煩わしさを投げだしてみても、怯弱な神経は反射的に心持ちを縫い合わせてしまう。
楽しみにしていた海水浴から家へ帰り、畳でごろ寝しながら程よい疲労と虚脱をしみじみ味わってると、現実の太陽の下、遠浅の浜辺と白砂の醍醐味はちょうど宿題の絵日記のように、原色ながら淡いクレヨンや色えんぴつが醸す追想の素材と化すばかりであった。
「きみの寝顔とは違うよ。海遊びのうれしさに切なく目を閉じている自分の顔にさ」
窮屈な答弁はそのまま打ち捨てたいところだが、積み木に土台が必要であるごとく、これから重ねていくものの為にも言葉は記される。
去年の今頃だった、浜辺に向かう混み合った乗客のひとりがどうした加減か、列車の窓から放り出され滑りこんだトンネルの壁に激突、片腕を切断するという惨事にいたった。。真相はさだかではなかったが、幽霊話し以上に子供らを震え上がらせたことだけは間違いない。
今日父とふたりで乗り込んだ車内も大変な混雑で、空席を探し当てるのは不可能だったから車両の入り口に突っ立っているしかなかった。トンネルの位置はある駅を越えたところと噂されていたので、段々そこが近づいてくるに従い胸の動悸は速まりだした。入り口のドアの窓は風通しの為か、大きく開けられており、自分より上背のある父がドアへ寄りかかっている姿に大きな不安を感じていたのだ。
「危ないよ、もっとこっちに」
おそらく、声に出して注意を促してはいなかった。ただひたすら、それこそ祈るように内心に焦りと怖れを共振させ、列車の震動から不吉な響きを聞き取っては、片腕切断の情景を回避させようと努めていた。
どうして言葉にできなかったのだろう。他者からの非難に対しては自若として感情に抑制を効かせたふうな応酬が作動するのだが、もっとも身近な肉親に面しては、たったひとことさえ口にすることが難しかった。
あのとき、わざと風を浴びる素振りをし、父と場所を変わってもらった。いや、この行動さえ実際であったのか、遺憾ながら明確な記憶は呼び起こせない。
ともあれ、列車は夏の熱気をたっぷりはらんで、慎ましげな情熱を乗せ、無事に目的地へ到着した。
解放感をみなぎらせた波しぶきと戯れた想い出も今では曖昧である。ただ帰路を待つ間、反対側のホームにいた青年らがラジカセ片手の悪戯をしていた光景はありありと焼付いている。青年らは駅員のマイクから発せられたアナウンスを録音し、臆面もなく再生しながら愉快そうに目を細めていた。そして彼らを見つめる父の目も似たような光を放っていたのだった。
日曜の昼下がりであったと記憶している。扇風機の音だけが静かに鳴っていたのだから。相変わらず家人は誰もおらず、外の様子も休日の穏やかさに引き延ばされいた。

燦々とした西日をまとも受けながら急勾配の坂道を歩いている。待ち合わせをした女性はとうとうその場所へ来なかった。いら立ちに蝕まれるより、胸のなかが急速に冷えていく体感に支配されていた。やがて坂道をのぼりきった辺りで冷えた胸が小刻みに揺れ動きはじめ、焦燥と疑心はひとまたぎされて、激しい後悔が満ち寄せてくるのがわかった。親密さは良識的に通い合い、肉体は刹那である宿命を本能的に放擲し情熱を傾けた。結果何倍にも膨れ上がった孤独感に苛まれてしまい、短命の恋を呪いかけては苦笑いでごまかしたのだった。そうすることが一番の良薬である気がし、傷口を設ける労力を惜しんだわけである。
あの夏は軽症で済んだが、虜という磁力によってねじ伏せられているものの復権はそう容易くない。慌てても仕方あるまい、などとのんきに構えているのも結構だがなるだけ時間を計測し、ちぎれちぎれになった心身の修復をはかるべきで、完全に失われるのがこの身であっては困る。失われるもの、それは積み木細工を模倣した記憶である。どうしても印象を残存させたいのなら言葉を残しておけばいい。大変好都合な具合に印象も感動も苦渋もみんなねじ曲げてくれる。スプーン曲げより簡単に。ついでによく切れるナイフも用意しておこう。
縫い合わせは様々だ。傷んだからだと空疎なあたまを繋いでみるのも、あるいは反対に健全な肉体へ冒された頭脳をくっつけてみるのも一興だろう。
大都会のむせ返るような夏の終わりは何やら暗喩じみている、そう念じることでまとわりついた魔を払い落とした。それまでは恋に魅入られし者として当然の振る舞い、つまりスプーン曲げを演じてみるサービス精神と、情欲という得体の知れない馬力に突き動かされ、巧みに弁解を並べたてて見た。危機は同じなんだろうか、列車から放りだされた間抜けな男と同様に。
なら対処は異なるはずだ。あのときの、過大な、もしくは悪夢好みの裏返しとして去来した肉親への配慮は無言に終始したままで、方や約束を反古にされた失意は饒舌を極める。この使い分けが正しいかどうかは等閑に付させれており、更なる言葉の上塗りが妙薬みたいな効能を発揮してくれることに期待するまでだ。

身の丈ほどの雑木が必要以上にからみつく。まるで影を封じこめているかのように。抜け出た光景は水辺のきらめきであった。少女が無心で花をつんでいた。大きな影が突然現れようとも奇異な目を向けたりはしない。「わたしはマリア。一緒に遊ぶ、わたしのお花が欲しいのね。こっちがあなたの、こっちがわたしの。お船がつくれるのよ」
少女は香しい花びらをちぎっては湖に投げ入れた。いくつもいくつも。それらは小さな波紋を描いて可憐に浮かんだ。双方の笑みが時間を抜け出たとき、悲劇は発生した。モンスターの手にはもう花びらがない、間が差すより早く、笑顔のまま少女を抱き上げると水中に放り投げる。マリアは没して浮かびあがることはなかった。水辺のモンスターは嘆く暇もなくその場から立ち去った。


[358] 題名:プリズム 名前:コレクター 投稿日:2013年07月22日 (月) 02時52分

頭上から鳴り響く爆撃音は勇ましいワーグナーの楽曲をより一層身近なものにしつつあった。ベルリンの総統地下壕の強固な造りはソ連軍の肉薄を見届ける必要に駆られながら、どこかほど遠い位置をしめいていた。
ヒトラーの罵声は狂乱に裏打ちされいることを誰もが認めざるを得ない中、始終冷ややかな感情を保ち続けていたゲッべルス宣伝大臣は、救援部隊を待ち望んでいる総統の焦燥に虚威を嗅ぎ取っていた。そんな虚勢に追い打ちをかけるようゲーリング元帥の反逆、指揮権委譲の身勝手な声明が、そして親衛隊全国指導者ヒムラーのアメリカとの密かな和平交渉の情報が伝えられる。ヒトラーの激怒は本物であった。
「この裏切り者めが、忠誠を誓っておきながら何たる様だ」
ゲッべルスからしてみれば自決の意をほのめかした総統にも責任はあり、ふたりの高官がとった行動は本能的ともいえる凡庸な所業でしかなかった。所詮は権力の魔に突き動かされていただけのこと、本陣が崩れ落ちようとしている今、国家主義であれ、党内再確立であれ、ただの自己保身であれ、醜悪な匂いは砲撃の硝煙にかき消されてしまい、総統の逆鱗は彼の鼻孔にまで届きはしない。もっとも大事なのは盲目の忠誠であり、無私の自覚である。すでに多くの政府指導者や党幹部はベルリンから脱出しており、地下壕に居住していた女性秘書たち、使用人らも篭城の責務を背負わされたりしなかった。
ゲッベルスの心中に澱んでいたのは不世出の独裁者にして常に栄光をまとっていた人物そのものより、最期まで投影を成し遂げた自身への暗き信念であった。顧みるとゲーリングとヒムラーは実に煙たい存在だったし、このような形で失脚してくれるのは願ってもない慶福であった。これで一番の側近の地位が約束される。思惑とおり憔悴しきったヒトラーは官房長ボルマンを党首に、ゲッベルスを首相に任命した。
「私はいつも御側におります」
ヒトラーの自決を確認すること、そして自らも妻子も死をともにすること、そうすれば自分の名誉は永遠に存続するであろう。まさに無私の余剰効果である。これが公人としての隠れみの用いた一世一代の宣伝であった。が、私人としての影はどこに刻印されるのか。深い森の彼方から漂い始めた曖昧な疑念はそのすがたを形成しない。すでにかき消された辛く苦い想い出はその紋様を正確に現すことが出来ないのだ。この腕章に示されたハーケンクロイツの図柄が未来永劫とどまろうとも。
深夜3時、エヴァ・ブラウン嬢と挙式をあげたヒトラーに立ち会ったゲッベルスのまなざしは現実の光景から遠ざかり、大戦突入前の甘い生活に移ろいでいた。宣伝省としての特権は広く芸能演劇の世界を掌握し、おかげで彼の魅力うんぬんが差し引かれても近寄ってくる女性は決して少なくはなく幾多の情事が公然となった。妻マグダには間を置かずして一男五女の子供をもうけさせ、その合間にも絶えることのない活力は映画女優との数えきれぬ浮き名を流させた。
総統、あなたは私と違い本当に欲のない人だ。菜食家で煙草も酒もたしなまず、色香とは無縁であり続けた。ええ、私の情報操作とあなたの政治理念、すなわち婦人票を失うという危惧によるものだとしても、極度に偏った欲望、権力への意思のみにかじりついた姿勢は美しすぎます。しかし反動を振り返る手間をもみ消してはいけません。そうです、姪御にあたるゲリ・ラバウルへのあまりに近親的な情愛の寄せ方を。
私ごときが提言するのは甚だ畏れ多いのですけれども、籠のなかの大切な小鳥を死なせてしまった無垢な少年のような嘆きを忘れてはいないでしょう。あの事件があなたの深部に重い錨を落としているのは否定出来ません。純愛、そう呼ばれることに誤りはないでしょうし、唯一の拠り所であった事実もねじ曲げられはしません。だとしたら私が虜になってしまったチェコ人女優リダ・バーロヴァの場合はどう解釈すればよろしいのでしょうか。
妻のマグダがかねてより親密だった秘書のハンケと共謀し、離婚を前提に総統へ告発したこと自体、妻の不貞を裏付けに他なりませんでした。しかもあのチェコ女は諜報者の疑いさえあるなどと装飾を施され、総統の知るところとなりました。ただちに呼びつけられた私を待っていたのは開口一番「宣伝大臣がそのような醜聞をつくりだしてどうする気だ」でした。
返す言葉もありません。私は映画製作の一環として自らの家族をフィルムの光として焼き付け、規範的なドイツ家庭を大々的に強調さえしたのですから。宣伝は派手な方がいい、当時人気絶頂だったロンメル将軍にも我が家を訪ねてもらい、私はすべての虚構を報知せしめておりました。妻も熱烈なナチ党員です。私の仕事を誰よりも理解していたからこそ、色恋と政治の絡みつきをよく観察していたのだと思います。
国家社会主義に理想を見いだし総統にまみえて以来、私人であることを没し公人に徹して来たつもりでしたが、あのときばかりは政治的地位を投げ捨て、大臣の任を解いていただき他国に赴任させて欲しいと懇願してしまいました。かなうなら芸者とやらのいる日本に大使として行かしてもらいたい、愛するリダと一緒に。
激しい怒りを覚悟していた私に下された命令はその内心を押し殺したふうな、段階的で実験精神にあふれた内容でした。「しばらくは結婚継続するべきである。まあ様子を見たまえ、それでも駄目なら仕方あるまい」
私の使命であるプロパガンダと心理作戦が再認識されたのは言うまでもないでしょう。あなたの冷徹さは私の及ぶところではありません。さっと本来の公人に立ち戻る構えが整った矢先には私人としての未来は過去へとまるで急流にのまれる勢いで後退してゆきました。リダは容赦なくドイツを追われてしまったのです。
虜という平和的な幻想が許されたのはまだ軍事行動が本格に始動していなかったからでしょう。マグダとの溝が深まっただけでなく、私の私人としての行いは総統の顰蹙を買い、またまわりの政治家や軍人からは大臣の席を剥奪されそうな不穏な空気が充溢しておりました。私は疎んじられ、弁舌だけでのしあがって来た居場所が、権力への憧れが、音を立てて崩壊していくのを感じました。
幸い打算的な事情も加味され妻との関係が良好になったのを機に私の快進撃が再びなされたのはご存知のはずです。戦火の最中に飛び出すことも軍事会議にも参列できない身分であるゆえに、残された道は各地の民衆に励ましという名目で歩み寄り、徹底的に可能な限りの言葉を駆使して演説を繰り広げることでした。
すでに散り去った恋の行方に悩みまどうよりも、純粋思想を深化させ、培養させ、国家に忠誠を誓うしか生きる方便は見当たりません。たとえ心のどこかが醒めていようとおかまなしで私は熱弁をふるい、聴衆を熱狂させることに夢中になったのです。すべては総統のために。
さしずめその足萎えの劣等意識を覆す有り様だと中傷されてもかまいません。小柄で痩せぎすなおおよそナチ党員にふさわしくない容姿でしたが、いざ演説台に両足を固定した瞬間から私の声は軍人よりも軍人らしい猛々しい声色で会場を駆け巡ったのでした。遺恨は転じたりはしません。ただひたすら増幅するばかりです。これが私のスローガンでありナチスの信条なのです。私のたった一度の恋は無惨にも引き裂かれましたが、悲嘆に暮れたりはせずに、憎悪という博愛の精神を流布することで忠義と理想が婚姻を遂げたのでした。
疲労の色を隠せないヒトラーと喜悦満面のエヴァは厳粛にして茶番の式を簡略に済ませた。ゲッベルスはすでに地下壕へ呼び寄せてあったマグダと六人の子供たちの行く末を、一枚の絵画のように思い浮かべてみるのだった。


[357] 題名:鉄橋から来た少年 名前:コレクター 投稿日:2013年07月15日 (月) 08時32分

社会人になった夏のこと、そう記憶しているのは初々しくも溌剌とした心境と燃え上がった太陽が互いに認め合っていたという強引な解釈なんかではない。あの日の光景を振り返れば、自ずと勤務先の会社の窓ガラスに張りついた天候がまず一番にまぶた焼きつけられている。頼りない切なさで、だが有無を言わさぬひろがりで照りつける西日の赤み、今日も残業を懸命にこなすんだ、盆休みはもうすぐ、今年の帰郷は学生時代とはどことなく違っているだろう。
「この書類、急いで総務課に届けてくれる」
先輩の女性事務員が放つ冷ややかな口調に反感など覚える余裕はあり得ず、むしろ歪んだ憧れを飲み込む加減で的確な命令としてすぐさま立ち上がった。ただし手渡される際にあえて卑屈な目つきをしたのは、ちょっとしたいたずらであったような気がする。
慌てていたわけでなかった、決して。なのにたいして長い廊下でもない途中で足を滑らせ思い切り腹這いに転けてしまった。理由は一目瞭然だった。一面水びたし、誰か飲み物でもぶちまけたのか、いや量的には大きな花瓶の水かと疑うほうが似つかわしい、生成り色した固い廊下にひろがった水は憎らしいほど澄みきっている。そして書類も見事に被害を受け、文字はにじみだしていた。
気まぐれな夕立は形式的にひかえめな雷鳴を引き連れて先ほどまでの空模様を一変させた。外はにわか雨か、、、あの刹那のため息が忘れられない。
当時の夏期休暇は現在ほど日数を与えられていなかった。せいぜい三日、そして列車の混雑を嫌というくらい知っていたので、一日早く故郷をあとにしなくてはならない。僕の帰省は輝くような二日間に凝縮されるはずであった。
たとえ前の夜、アパートの隣部屋の学生が女を連れみ、興奮のあまり、声を抑えることさえ放擲してしまって、歓びにあふれた喘ぎをまき散らかしていようとも。そしてほとんど空っぽの押し入れにそっと身をひそめ、薄壁越しにもれてくる交わりの様子に聞き耳をたてている不甲斐ない自分の姿を知ろうとも。僕にだって同じ経験はある、ここよりもっと古い部屋で始めて女体に触れ、両隣の気配を意識しつつも鼻のあたまに大粒の汗を乗せながらうれしさに溺れていったのを。
あの少年が生家の玄関に佇みさえしなければ、、、

お盆はみんなそれぞれ忙しかったのか、父も母も祖母も誰も家に居らず、僕はのんびりとひとり、開け放たれたガラス戸やふすまから送られてくる生ぬるい微風の感触を寝転がったまま懐かしんでいた。玄関先はさすがに無防備でなかったと思われるのだが。
「ひさしぶり、あそびにきたよ」
突然の珍客に驚くと同時に、たぶん近所の人懐こい子供がなんの考えもなくふと飛び込んできたのだろう、ほぼ間違いない推測は僕を大仰な表情へと流し、猶予をたたえた胸のなかに案内した。大義そうに起き上がり、
「そうかい、なにして遊ぼうか」
とにこやかに言った。
「そとにいこうよ」
「なんだい、家に来たんじゃないの」
「うん」
無邪気さにほだされたのは確かだったろうけど、十歳くらいの男の子にこもった目の色を素直な気分で見つめてあげることが出来なかった。ささくれのような小さな痛感が走り、急に疎ましくなった恋人を前にしたときみたいな声がすっと吐かれた。
「またおいで。今日は用事があるんだ」
すると男の子はまるでいくつか歳が足されたふうな顔つきになって、
「ようじなんかない」そう、ぴしゃりと蚊を叩く調子で言い返す。
「えっ、どうして」
僕を包んでいた空気の匂いが少し変わるのを感じた。つまり動揺した。
「ようじはつくるものだよ。そのためにわざわざ、、、」
不意の続きの言葉をさえぎり、子供相手のもの言いを中止しようと思ったのは他でもない、不安がすぐそこに燻っていて、見過ごすにはわけにはいかなかったからだ。他愛のなさと打ち捨てる要因はすでに退いている。
「わざわざ来てくれた。で、誰の使いなの」
「そとにいこうよ。そうすればわかるから」
こうして僕は、日差しの衰えをまだまだ感じそうもない空の下、油蝉が電柱で高らかに鳴いている町なかへ少年と並んで歩きだした。すぐ先の陸橋を渡りかけたとき、少年の背丈がわずかに伸びた心持ちがした。そんな胸中を察したとでもいうのか、
「このずっと先さ、でもこのあたりでも遊んだことあるよね」と、さながら観光地を再訪したような静かだが、老成した情熱をかみしめているような口ぶりで話しだした。
「そこの市役所の駐車場でよく野球してただろ、ぼくも一度だけ仲間に入れてもらったことがある。この山もえらく削られてしまったね。きみらのあとを追っかけてのぼったもんだ。土俵はまだあるんだろう、祭りもあった。キンコンカンはここから鳴らすんだった、間近で聞くとけっこうな響きなんだよなあ。夕暮れ五時の音」
僕のくちびるは微かに震えていた。
「ほんとうに誰の使いなんだい、知らないひとじゃないよな」
「きみは知らないかもね、でもぼくは覚えている。きみらが喋っていたことを」
「なんて」
「いま言ったじゃないか、ぼくの家はまだ先だよ。だから実際にこの辺まで来たことはないんだ。うらやましかった、山にだって空想でのぼったんだ。きみらに話しをもとに」
横目で少年は促した。登り口がひっそり陽光を受けている。取り囲む緑の濃さは道ばたの比ではない、そう言いたげな瑞々しい茂りは光と影を一枚一枚の葉の裏表に宿し、風と戯れ、まばゆさを小刻みに投げかけて来る。応じるまばたきの裡へ暗黒を点滅させるために。
坂道を下る歩調に乱れはない。草いきれをあとにし、ついでに追い立てられた蝶のつがいがふわりと羽ばたく様相でふたりは軽やかに居並んだ。そして更に少年のからだつきは変貌し、面に張られた微笑は分別くささを香らせ、僕を馴化させた。
「もう大人なんだろうね。しかし思い出せないんだ」
「仕方ないよ、三年生のときだもの」
「ああ、途切れ途切れ、憶えているのは理想的な情景だけだよ。もちろん不快なものだってある、でも面白いね、乳白色のぼかしが嫌な記憶さえ意味を剥奪してくれている」
「そこを曲がろう」
右手の小径に足を踏み入れる。こんな場所あったのか、、、が、不思議と懐かしいような、あるいは怪訝な親しみが一歩さきに待ち構えていて、民家すれすれの道ゆきにはおそらく豊かな不安が沈みこんでいるのだろう、そんな思惑を足取りは警戒しない。うっすらだが少年の秘密をつかみ取れそうになっていた。
狭い小径を抜けた瞬間、ほとんど肩の位置が一緒であることに目を見張ったけれど、驚愕は不確かな夢の底で目覚めたのか、僕は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「ほらこの踏切、よく見てごらん。そうじゃない、ああ、言い方が適切ではなかったね、線路の光景だよ。もっと近づいてみよう。こんな距離でレールを見るのはひさしぶりじゃないか」
僕はすでに踏切の脇にしゃがみこんでいる。そしてもっと近くに、いや近すぎて見失うくらいの位置まで迫ろうとしていた。
うしろから少年はこの世の声とは思えない優しい響きでこう言った。
「線路は続くよどこまでも、、、この先の鉄橋は河口に架かっていて海を見晴らせるんだ。きみらが山やら市役所で遊んでいる頃、ぼくはひとりで鉄橋を渡っていた。そして時刻通りにやって来た列車にはねられ河口に落ちた。死んだからに落ちたのか、衝撃ではね飛ばされて水死したのか、どちらにしても僕はきみたちのすがたを学校で見ることが二度と出来なくなってしまったんだ」
ゆっくりと振り向く僕に対し、少年は冷たい笑顔で応じてくれた。釈明を従容として聞き入れる時間を保ちつつ。
「名前も忘れている。だって同じクラスじゃなかった。同じクラスの子だって憶えていないくらいだから。ごめん、言い訳だよな。全校集会で悲報とともに厳重な注意が話されたのは記憶にある。でもすぐに忘れてしまった。きみの名は、、、」
「いいんだ、言っても知らないと思うし、そんなことは重要なことでない」
「だったらなにが」
「線路だよ。鉄橋とは反対のところ、駅が見える場所さ。きみはぼくが死んだ頃、枕木の修理でくぼんだ穴に入っていた。格好の空間、危険な遊びだ、まったく。時刻表に罪はない、きみは発車の音に身をこわばらせてあんな小さなくぼみに命をあずけた。轟音は闇と共謀して頭上をふさぐ、時間に忠実に。ただ、きみの時間は恐怖に操られていたし、反対に恐怖は忠実な妄想をあたえていった。それから誰彼ではなく、信じてくれそうな子だけを選び、まことしやかに体験談を語りつくしていた。後年、きみは」
「そうだ、そうとも。あれは現実なんかじゃない、かと言って夢ではない、その中間なんだろうか、たぶん。違う、そんな簡単に割り切れるもんでもない。もしあんなこと実際に起っていたら大騒動だったろう。けどあの枕木と枕木の間のくぼみははっきり目にしていたよ。毎日、学校に通うとき陸橋のうえからいつも眺めていたんだ穴が開くほどに」
「さびしかったのかい」
「よくわからない。きみはどうなんだ、列車にはねられるなんて。さびしいのはそっちだろ」
「さあ、どうだろう。少なくともぼくは、広々とした海に臨み大きな潮風を受け優雅な足付きで楽しんでいたように思う」
「でも死んでしまったら終わりじゃないか」
「そうさ。なんとか認めている。それよりどうしてあんな遊びを想像したんだい。いつかきみは思い出すだろう、今日のことではないよ。ぼくが列車にはねられた痕跡を。微量だけど血痕とか毛髪とか、ひょっとしたら肉片なんかもこの踏切まで運ばれてきたかも知れない、線路は続くんだ、どこまでも、都会までも。これは紛れもない事実だろ、きみの好きなくぼみ辺りにも」
「まるで脅迫観念じゃないか、結局こういうことだろう、きみの死はぼくにとことんつきまとう、今まで封印してたのは僕が分別を持ち得てなかったからだ、でも社会人になって一丁前の悩みなんか抱え、自分のことと他人のことを区別して考えたりする。そこでようやく忘れ去っていた空想を掘り起こし、穴をふさぐためにきみはいきなり、なんのまえぶれもなく現れた、盆だから、関係ないね、取り憑く機会がいい具合に訪れたってわけなんだろう」
「補填作業員ってことか。だったらそれでいいよ。でもこれだけは言っておく、考えるのぼくじゃない、あくまできみの方だ」
「そうかも知れない。しかしきみのことはもう忘れないよ、ていうか、忘れようとしても無理だ、酷いよ、まったく。亡霊だろ、さっさと成仏してしまえばいいんだ」
「あんまり怒るなよ、哀しくなるじゃないか。そんな目で見ないでくれ」
あの時、僕は正直、悔しくてしかたなかった。線路と列車の織りなす想念なんて別段めずらしくもない、もっと危険で惨たらしい情景を想い描くのは子供の特権ともいえよう。どうして僕のところに化けて出たんだ。一緒に遊んだ記憶のかけらもなければ名前だっておそらく耳にしてもわかるまい。意味なんてあるのか、あるんだったら、中途半端に消えてしまわないでほしかった。哀しくなるのはこっちだ、捨て台詞だけ決まりごとみたいに残していきなりは勝手すぎる。どんな目で見たっていうんだ、その目の残像さえ霧散するよう、あいつはそれきり僕の前に現れはしない。
おかげで二日間の帰省は単純な輝きを含みきれず、それは好奇も手伝っていたので一概に憤懣だけに彩られていたわけではなかったのだが、近くに住む同級生にくだんの鉄橋事故を尋ねてみると、どうやら実際の出来事であったのが判明し、夏空に雨雲がかかるよう鉛色の心境は増々深まるばかりであった。
とはいうものの、亡霊の消える直前をよく思い返してみると、その顔かたちに年相応の輪郭と風合いが備わっていたのが妙に心安くもあり、そう、僕自身の面影なんか漂わせていたら目も当てれなかったのだろうが、見知らぬ他人ぶりが鮮やかだったのでなによりの救いとなった。
社会人らしい分別とは正反対の、垢が剥がれているふうな、元々あった汚れが段々と落ちて奇麗になってゆくような洒脱さが感じられた。これこそ生者と死者の分かれ目などと適当な意味をこじつけてながら故郷を離れた。なるほど線路は続く、しかし物語は短い。
そんな意想をあざ笑うごとく、幾度もトンネル内に飲み込まれた車窓に、ぼんやりと幻影らしく反映したあいつの顔はそれほど悩ましげでなかったから、僕はほっとしている。


[356] 題名:アラベスク 名前:コレクター 投稿日:2013年07月08日 (月) 03時17分

熱帯夜とつぶやいてみるといいなんて前にあなたから言われたことあったわ。そうすれば、魔法の呪文みたいに異国情緒を携えた時間が一瞬だけ訪れる、、、なるほど一瞬だけね、総天然色映画のワンシーン、南国の海と人気のない森林、暑気は払われているのかしら、たとえ一コマだとしても魔法には違いないようね。
長く夢想してはいけない、遠く望んではだめだ、すでに知り得ていることをあなたは、懇願でもするような口調で諭していたので、ついついわたしの方が聞き入れた素振りでもって冷ややかに微笑み返してあげたのよ。
あなたにとってそれは従順で素直な態度として感受された。なにものにも勝る、気持ちのつながりは引き延ばされようが、見失いかけようが、おかまいなくで、肉体の距離さえ忘れてしまいそうになった。ふと我に気づくあたり、憐れみが粉のスパイスみたいにまぶされているふうで、ふたたび、大事なことを甦らせた顔つきでわたしのからだを抱きしめたわ。忘れ物の場所はまえもって決められているんじゃないかって邪推が働くのも無理はないでしょう。なにものにも勝る、、、このわたしの肉体は。だとしたら偉大な陥穽なんだから、少しは大事にしなさいよ。ことが果てるのを快楽が通り過ぎるしきたりみたいに、自然ととらえるのはどうしたものかしら。わたしの快感とあなたのそれが比較できようもないと互いが気遣うの悪くないわよ、でも重ねたからだの言い分は数値的な意味をもたないし、疲労と一緒に余韻が流れゆく、気怠い失意を見逃し続けてしまうのは繊細さに欠けるわ。情欲が沸点を迎えた限り、ええ何度も何度も絶頂へとたどり着いた挙げ句は、虚無なのよ。時間がはじめて冷徹さを放棄してしまったかけがえのない深い空洞、わたしもあなたも果てた先は神秘の沈黙にゆだねるのが美しいと感じるわ。気怠い失意を養っているものは、互いの顔色にあるのでなくて、ましてや日々の怖れに裏打ちされているのでもない、たとえそんな思惑がもたげようとも、肉体が交じり合った際に立ち上った熱気はそのままにしておくのが懸命よ。
どうして昔話しなんかで火照りを冷まそうと躍起になるの、ええ、一見そうでもなかったわ、あなたは腕枕に沈んだわたしの横顔から得体の知れないものを感じとってしまったの、それとも新たな雰囲気にくるまれたかったの、腕枕に提供される意想は割と単純だと決めつけているのね、きっと。
わたしは無言のままで更に抱いてとは示していない、あなたはあなたで子供がおねだりするときの甘えた目もとをしっかり意識したうえでまた迫って来る。嫌とか不愉快ではではないの、色情のはけ口にされているなんてぞんざいな仕打ちは微塵も感じたりしない。むしろいたわり過ぎるくらいだったわ。一夜の交わりが翌日も行われても、常に新鮮な空気を送りこもうと努めていたように思う。わたしはあなたを愛してなんかいない、あなたもおそらく同じ、けど肉体の結びつきは決して見苦しさばかりに堕したりしなかった。奇麗な色をしたリボンは空箱を丁寧に結んでくれていたわ。それを振りほどく手つきは荒々しくもなく、かといって控えめでもない、律儀で慎重で、ところどころ頼りげなく、その分性急だったこともある。つまり様々な触れ合いが試され、繰り返され、忘我だけが理想と邁進したことになるわね。
なら、それでよかったじゃない。わたしはそれ以上でもそれ以下でもなかった。あらゆる感情なんて不必要で叶うことならたったひとつの想いに支配されて居続けたかったのよ。わたしから空洞を提示し、見届けるまなざしを要求した覚えはないわ。借りにそう顧みるなら、あなたの方がすすんで空洞に灯りを持ちこんだ。せっかく冷徹な響きが途絶えてくれたというのに、なにをとち狂ったのでしょう、大らかで包みこむ優雅と隣合わせの世界に探りを入れてしまった。それほど光源が厳粛だと信じているの、わたしは求めたりしなかった、そんな光源なんか、きらめく肉体のつながりはそれ自体で他を願うことなんかないというのに。
厳粛さはわたしに入り用でなかったわ。あなたはわたしの奥に入りこむたび、ことが済むと激烈な興奮を沈めるかのごとく、肉欲とはまったく無関係の話しをはじめた。解け合いつながり合った裸体の延長にあるべきだと、奇怪な神経を研ぎすませ、そうするのがまるで色香が淫らに放たれた寝床を清める儀式であるかのように、無駄なおしゃべりをした。分かっているでしょうけど、出来たら聞きたくもないし、それこそすべてを台無しにしてしまうほどくだらない愚痴だったのよ。そんなに欲情がうしろめたいの、どうして黙って抱きしめ愛撫だけに専念してくれなかったの。とってつけた理屈と勝手な事情に残念だけれど関心は即さなかったわ。
母性がくすぐられる、、、一度だけそう口にした記憶がある。まさかあのひとことにしがみついて来たわけでもないでしょう。だとしたら、あまりに悲惨だわ、くすぐりは一度で上等だったから。あなたからすれば、恥の上塗りは避けたく、しかしあまりに甘く切ない誘惑を持て余していたのか、どっちにしたってわたしは女神さまでも天女さまでもないわ。ただの女よ。
あなたに別の女性が居るのも承知していた。かといってわたしは情況を縛りつけようなんて考えもしなければ、特別な紋様によって飾りつけられて欲しいとも、そうありたいとも願わなかった。何回も言ってたわね、わたしのあそこをゆっくり、じっくり、もっともっと眺めさせてくれって。いいわよ、花びらなんて乙女な意識は奇麗に削除してたから、多少は恥じらい口ごもりつつ、存分にあなたの視線を受け止めてあげたわ。
ほんとう言えば、可笑しかったの。そんなに穴があくほど見つめてみたところで、あそこはあそこよ、わたしのあそこ。
それとも夜ごと、唐草模様やら市松模様やら、花柄や幾何学に構築されていたのかしら。海綿体みたいな場所よ。まさかシンメトリーの妙に関心してしたと思えないし。
一方的な視覚でいったい何をつかみ取りたかったの。局所からこころの奥底の図案まで覗き見しようとしていたの。
可哀想ね、さぞかし午後の空は蒸し蒸しするだけでなく、息をつまらせそうな後悔にあふれてるだろうし、夕暮れの悲哀は太陽がこれぽっちも考えていないにもかかわらず、とてつもなく重くのしかかっているのでしょう。そして沈黙はもっとも堪え難い試練となりあなたを空洞の底に張りつけてしまうのだわ。束の間の歓びから目をそむけたはずではなかったのにね。


[355] 題名:タペストリー 名前:コレクター 投稿日:2013年07月01日 (月) 07時30分

仮に私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に感情さえあやふやであると考えてしまうところだが、それは確かな解釈といえるのであろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こる刹那の身振りを経て、脱皮をより肉体的なものとしながら、その実ますます肉体とは本質的に反対の方向に突き進んではいるように感じられる。
感情は硬直した体躯に揺さぶりをかけ、ときに激しく、ときにたおやかで緩慢な動作を選択し、躍動へと羽ばたきもしよう。又その指先は既成の道具を巧みに操り、あるいは操られているという錯誤に導かれ、扇情的な音色を奏でることも可能であり、悲愁に満ちた調べを漂わせるすべを心得ている。さらには絵筆や彫刻刀が見せるあまりに細やかな時間への配分と埋没を忘れるはずもなく、鋏が断ち切る用布から毛髪にいたる手際のよさは日常に即しており、取り繕うためというより様式にそった機能を量産しつづける一本の針のひかりが無数の幻影に守護されているのは言うまでもない。
表現はすでに感情から見放されている。そんな冷笑的な意想をあえて述べてみるのは歴史性やら熟成やら、進化といった能動的な良心をただちに影絵と化してしまった「ラスコーの壁画」に想い馳せてみれば十分だからで、つまり表現のひとり歩きに対してあながち、警戒を秘めたまなざしは必要ないということになる。
だが、ここで結論を言いきるつもりはないし、その理由を説明する意思も持ち合わせていない。誤解なきよう、私はなにもひとり歩きを賛美しているわけでも擁護しているのでもなく、ただ精神の発展がなされたのは現在過去未来というシステムに委ねられた結果だけに限定されるべきではなくて、いささか神秘的に聞こえるかも知れないが、自動書記の手法が時間を傷つけ、逆巻かせ、夢の彩色に促されて、肉体に宿った血や汗や涙やもろもろの体液が凝固され、感情の発露を見いだしにくくなっているという危惧にうごめいているからで、それは反面から得るところ混沌と共存する歓びでもある。ここで使われる自動書記とは濃密なめまいと呼ばれるのがふさわしい。

網次郎にとって女体デッサンに関わっている学生らは羨望であると同時に、幾度も首をかしげなくてはいけない連中に思えて仕方なかった。ふとした縁で知り合いになった男から、ちょうど積年の疑問を今にも懇切丁寧に解説してくれそうになった矢先、網次郎はどうしたことか、気後れでもあるまい、だが、明らかにその経験を口にした男に性急な問いかけで迫れなかった。
「最初はそうだ、どきどきしたもんです。なんせあの頃まだあっちの経験もなかった」
このひとことが不思議と気分を萎えさえるよう、また待望の場面に目をつむってしまう怯懦を呼び覚ました。あれこれ心理状態を自分ながら顧みたところ、胸に仕舞われていた想念の不純さに年甲斐もなく照れている事実に行き当たった。引き出しから消しゴムを探し出すより容易に得た心持ちに半ばうかれてしまったのも、羞恥の織りなす仕業にあることに感じ入ったがゆえであり、さらに脳裡の片隅はなぜか空高く、よく晴れた日の飛行機雲みたいに遠く、のどかな情景を張りつけているので、羨望は直通電話ではなく、時代遅れの呼び出し電話を想起させる間合いを獲得し、好都合に糊塗されてしまった。
男の声が近づくほどに、こそばいゆい感覚がえらくもったいぶった価値を蔵しているふうにも思え、のどかさに敬礼したくなったりもした。しかし、幾日かした折には焦燥につき動かされている実際を、鼓動と発汗を知るに及んで、網次郎は時間を弄んでいたに過ぎない強欲を認めないわけにはいかず、先送りした余裕らきしものは気後れでも怯懦でもなく、男から耳にした途端まぶたの裏に焼きつけるだろう、あまりに固定された充足を勝ち取ってしまうのでつまらなさを感じてしまっているのだった。
列車を一本見送っただけ、そう悔しまぎれに言い聞かせてみるのもまんざら嘘ではなくて、旅ゆきの気分が延長されたと想像してみれば少しは気が楽になる。意識的な操作ではないのだと、思いこむわずかな努力で平常心に帰れたのだ。
で、当時美大生であった男が語るに、
「あなたの予想は見事にはずれますな。いや、自分だけではありませんよ、まわりの奴らだって誰ひとり官能に征服されてはいませんでした。股間を押さえてる図など思い浮かべてるでしょうが、それは間違いです、はい」と、これから観葉植物の名前でも並べたてそうな取り澄ました口調で通された。
「結局ですね、若いせいもあったんでしょうけど、けっこう人目が邪魔するもんです。教授の目線だって冷ややかでして、無言の威圧っていうのですかね、その雰囲気が教室全体にゆきわたってるんですよ。冷え過ぎの空調みたいに。モデルの女性はやはりそれなりに奇麗なからだつきですけど、決して卑猥な感じはまといっていない、ポーズにしたって椅子に沈鬱な表情で腰かけてみたり、どこかしら技巧的なんです。あの人らだって仕事でしょうし、場慣れもあります、乙女の恥じらいがにじみ出しているモデルに出会った試しはないですね。第一、多数のまえで真っ裸になるわけですから、同じ職業でもストリップとは大違いで、あちらは情欲をあおるのが目的でしょう、そりゃ素朴なものですよ。中には不埒な念を隠してる奴もいたそうですけどね、当人は公言なんかしません成績に響くとか、評判が悪くなるとか、あの頃は不真面目は罪ですし、あくまでうわさに過ぎません」
網次郎はほぼ了解したつもりではあったが、自分がその場に臨んでない以上、反論する意欲なんかあるはずもないのだったけれど、間延びした羨望のゆくえを最後まで確認したい変な律儀さが顔をのぞかせ、と同時にその相貌へ薄皮一枚でへばりついている頼みの綱、よこしまな願望をついでに洗い落としてもらいたくなった。
「裸体におおむね興奮はしない、そういうことですか」
「そうです」
「わかりました。裸にはですね。じゃあ、顔のつくりはどうでしょう。さっき沈鬱と言われましたけど、そんな暗い顔つきばかりなんですか。まあそうだとしても、あなたの好みだったらどうします」
男はおもむろに腕組みをしながら、
「ほう、なかなか突っ込みますねえ。ではこう考えてみて下さい。普通あれのとき以外は女体を拝む機会なんてありません。街角だって店屋のなかだって電車に乗っていても、人の集う場所に裸体は登場しないものです。そうあればいいと願っているひとはいるかも知れませんよ、人前において女性はきちんと服を着て過ごしているものです。けれど顔はある意味で裸の一部ですな。まあ化粧でごまかしたり、華やいだりしてますがね。肉体が隠されているから顔かたちが美しくみえたりするのではないでしょうか。唯一の裸だからです。ヌードモデルの場合は、全身がむきだしなんですよ。顔だけに集中するっていうのは難しい、いえ、これは全体像をデッサン、つまり描ききらなくていけない作業なんです。なかには半身とかもありましたが、せっかく素っ裸でいるわけでしょう、目に映る限りをなぞるだけなんです、淡々と」
そう応えると、少々蔑みをはらんだ眉根が網次郎の思惑に挑んだふうにみえたが、すぐに口角をあげてこう話しをつなげた。
「男子ばかりじゃない、教室には女子学生も数人はいまして、そのひとりとちょっとばかし懇意になりましたんでね、ある日、尋ねてみたことがありました。女性から眺めて同性のヌードってどう映るのかって。まともな返答だったから今まで忘れてたくらいですよ。いやあ、どうしてるかな、急に懐かしくなってきた」
「恐縮です」
「いやいや、いいんです。あとでゆっくり物思いに耽りますから。で、彼女が言うには、ああしたモデルのひとって意識屋さんね、男はもちろん女のわたしにだって性的なものを薫らすどころか、彫像になりきっているみたいな冷静さを崩したりしないわ。裸である恥じらいより、どう描かれるか、どう見つめられ、絵のなかにいかに収まるのか、素描が色づけをまだ欲しないように、ほんのわずかばかり肉感に目配りされた形骸だけを見せつけているんだわ。肉体をさらしているつもりなんかじゃなく、曖昧な意識を切り売りしているのよ。だからモデルは意識屋なの、そう思うわね、といさぎよい口ぶりでした」
「そうですか」
「女性はわたしらとは別の角度からものごとを判断しているんでしょう、ヌードに限らず。こんなもんでよかったでしょうか」
「ええ、ありがとうございました。以前にお話しましたように若い頃からどうも気がかりだったんです。でも分かっていたのかも知れません。興味は学生たちの色欲が立ち上る幻影に終始していたと思います。彼らの心境はあらかじめ官能に支配されていて、理性らしきものと傍目への気配りが拮抗している。そうあってもらいたい、しかし、おそらく現実はもっと素っ気ない空気を生み出しているのでしょう。あなたの吐く息とわたしの吸う息が時間の隙間に紛れこんで決して立ち会うはずのなかった場所にたどり着きました。呼吸は感情をさまたげているのでしょうか。薄々感じていながら念押しみたいに現場の様子をうかがいたかったのは、失望を先取りしている自分に居場所を提供するためだったようです。あふれる光景はつかみ取りつらいですけど、すでに終決した画面はどうにでも切り貼りできます。やけっぱちだろうが、奇抜な発想だろうが、そうですね、下手な料理と似てますよ、限られた食材にこれでもかって味つけを施して、創作料理なんて納得している。狭い食卓とこじんまりした冷蔵庫が割と性に合っているのでしょう。手狭が居心地のよさを醸していることってあるんです。発露より閉塞、例えば金魚鉢のなかを窮屈そうに泳いでいる景色ってわたしが考えこむより、当の金魚はさほど嘆いていないかも知れません」
「随分と内向的ですね。しかしヌードデッサンはそうかも知れない。彩色が加われば変幻すると期待してますけど」
「さっきの懐かしい懇意な方ですか」
「これはまいったな、それは別問題でしょう。あなただってそうでしょうが」
「失礼しました」
網次郎はそれより先へ話題を深めることなく、とりとめのない会話に流れゆくこころ模様を眠たげに紡いでいた。


[354] 題名:悪魔払い 名前:コレクター 投稿日:2013年06月24日 (月) 05時40分

あれは庭の桜が散りかけた肌寒い日のことだった。青みが押し殺されている曇天を見上げているうちに、反対に上空から見下ろされてる気がしてきて、空恐ろしさを覚えてしまった。ああいう時分は空想の産物が晩飯のおかずに紛れこんでみても別段、深く考えこんだりはしない。頭上高くにひろがる曖昧で晴れ晴れしない意識は、やかんのお茶にも、冷蔵庫の扉にも、階段の隅へと無造作に置かれた紙切れやら、ねじまわしやら、父の点鼻薬にやら、それらをまとめ納めている菓子の箱にも、ついでにしてはそうであるべき理由があったのか、小さなうさぎの人形にも棲みついており、実際の用途や眺めとは異なる空気にまとわれていた。
確かによく思案したわけではなかったのだが、不意に訪れるものは背後に忍びよっていたかも知れない、そんな恐れは劇的な効果をともなって、いつしかの夜、窓に映った幽霊の影を想起させ身震いしたものだ。半ば密かな期待を含みながら。
近所の無人の家、案外古くもなく、急ごしらえで建てられたふうな一間しかない、空き地にぽつんと置いてかれたその家に住人の気配がまったくみられないことから、まわりの子供らの間では、「あれは悪魔や妖怪がひそんでいるに違いない」などという、ごく短絡的で能天気な結論にたどり着いてしまうのは当然の成り行きであった。
ガラス戸に鍵はかけられていなく、玄関のすぐさきには手洗いが、その左が小さな座敷で決して朽ちた畳なんかじゃなくて、普段のどこにでもありがちなのっぺりした座敷に家具のすがたは見当たらず、ただ曇りガラスをくぐり抜けて注がれる穏やかすぎる日差しに、胸の奥が反応しているのは薄気味の悪さであったろうし、もっと厳密に言うなら狭いながらもくまなく不思議な陽光を受け入れている感じは、とても危険なものに思われた。
近くの仲間を誘って探検をしてみようと提案したのだったが、無論、探検とは道なき道をかき分けるのでも、奥深い草むらを手探りするわけでもない、ただ、人気があるとあるとしたなら、ちゃんとまっとうな訳でここが無人でない証しを得たかった。もちろん、それはそれではらはらする材料以外の何者でなく、裏返せばやましさを覆い隠そうとしている方便に過ぎなかったろうが。
ようは日暮れるまであの家に居座ろうと思いついたのである。食料なんかもいるな、おにぎりせんべいでいいか、台所の奥にしまわれている水筒に番茶をつめて持っていこう、懐中電灯も念のためになどと、まるで遠足気分と大差ない高揚した勢いは素晴らしく魅惑であったが、子供の性急な戯れは常に先行きが怪しい。準備段階で早くも破綻してしまった。他でもない、うれしさ余ったのか仲間のひとりが親に探検を打ち明けてしまって、ひどく叱られたというから話しにならない。あらかじめ秘密結社のような雰囲気をみんなが共有していたと信じ込んでしまって、口もとに人さし指を立て軽く添えてみる心意気を忘れていたのだった。
こうなったら仕方がない、自分ひとりで決行するよりないな。無人であることに疑いを挟みたくない願いはこんな大胆な決意を促すものだ。つまるところ肝試しめいた行為はひとりっこ特有の不遜な甘えに支えられ、なしくずしの幻想に委ねるしかすべがなかった。
とはいうものの所詮ひとりは心細い、そこでひらめいたのが、町内をうろついている犬を連れて乗りこもうとした。あの当時は飼い犬が日中放されている光景はさほど珍しくなくて、よく菓子をあげるので後ろを追いかけてきたクン助を相棒に仕立てあげた。本当はみんな食い助って呼んでいたのだけど、角を曲がったところに住む3つ4つ下の子が同じあだ名だった為、いや別に人間尊重なんかじゃなく、犬の食い助と子の食い助が一緒だとややこしいからであり、クン助になったのだろう。
菓子をあげていたのは実は明快なことで、なんでもかんでもではなく、仮面ライダースナックに限られていた。それはひとえに食傷気味であったのと、カルビー製菓であったのに何故あんなにおいしくなかったのか、せめてかっぱえびせんにしてくれたら残さず、ありがたく大事にかじっていたに違いなかった。不人気なのは後におまけのカード目当てで箱買いし、菓子を捨てる狼藉が発覚して社会問題となったから有名だろう。
まあ、ライダースナックをかっぱえびせんにしてしまえば、本家のそちらが売れなくなってしまうに違いあるまいという考えは当時として中々の推測だったと悦に入っているくらいだけど、そんなことより、子の食い助でさえあの菓子を欲しがらなかった事実は絶大で、だからこそクン助がよろこんでカリカリっと子気味のよい音をたてながら、そしてこころなしか笑顔を見せている様子がたまらなく可愛らしかった。自分の嫌いなものを与えておいて微笑ましげな情を抱くなんでどこか妙だろうけれども。
で、毎日のようカード手に入れたさにスナック菓子を買っていた結果、クン助はよき相棒になったわけだ。
実はこれから先の記憶がどうもあやふやで、それはたぶん何かしら思い返したなくない経緯が絡まりあって、探険本来の意義をねじ曲げたくない為、そして出来れば意気揚々と、あるいはおののきでさえ夢見の門口に佇ませておきたい心情からだと思う。
太陽はちっぽけな行動に目配りしてくれてのだろうか。くもり空なのはひょっとして目こぼしの合図だったのだろうか。とにかく無人の家にクン助と一緒にあがりこみ、薄ぼんやりしたひかりが畳に静かに吸い込まれてゆきそうない座敷に腰を据えた。犬のクン助にとっては初めての体験だっから、いつもより鼻息は荒く、いきなり妖怪をかぎ出してしまってえらいことになるのでは、そんな興奮に胸おどった。
がらんとした部屋の空気は相変わらず淀んでいたし、窓をあけるわけにもいかなかったので、代わりにこじんまりした押し入れを覗いてみたところ、見るからにケバケバしいエロ本が一冊、文句あるかって言いがかりをつけてきそうな調子で横たわっていた。これにはまいった。
「いったい誰が、、、」
すぐに念頭をよぎったのは親から叱責を受けたあの仲間だったが、あいつには自分の家にあったのを見せたことがあって、そのときの反応がいかにも罪深い様子だったから、ああ、そうだとも、あれは恥じらいとか遠慮じゃない、エロ本を手にすること自体に抵抗を感じていたんだ。だとすれば、ここで疑念が背筋から這い上がるようにしてあたまを支配し、動悸を早めるところなのだろうが、不思議と見知らぬ他者を思い描いてみても、今すぐ表からドヤドヤと複数の邪気にあふれた顔つきが現れそうな恐れにも尻込みしなかった。それより表紙をめくった手つきがふざけ半分のスカートめくりとは違って、見知らぬ世界から徐々にすがたを見せてはさっと消え入りそうな成熟した女性の下半身そのものに触れてしまった心地がし、ヌード写真のどぎつく色づいたふとももや、はちきれんばかりの尻の大きさにめまいを覚えてしまった。
ページをめくるたびに増々孤立感が遠のいてゆき、いきなり大人なってこの家で恋人を待ち受けている、そして目が合うなり押し倒し、まだまだ先のことであろう、裸体の重なりに想い馳せては、甘い香りを鼻先にまとわりつかせ、ふとクン助を見遣れば、わざとらしく脚で耳をかいたりしていたので、少しばかり冷静になってはみたももの、すでに股間のふくらみは痛いくらいで、漫画にある女体の核心が空白に扱われているのに憤慨するごとく、いきり立ったものをそのページにこすりこんでしまいたい衝動に駆られた。
仮面ライダーより早くウルトラマンの股間に欲情していた身だからこそ、もう悪魔妖怪すら逃げ出してしまったのか、エロ本の持ち主なんか知ったことじゃない、直線的に駆け上がるつめた想いに乗っ取られ、耽りだすところだった。
犬とはいえクン助の目もあるし、ここでは集中出来そうもない。いや、嘘だ、そんなことしようとは考えてはいなかった。おにぎりせんべいをかじってはお茶を飲み、小振りなのがいいと持ってきた水筒の絵柄が三匹の子豚だったのにあたらめて妙な懐かしさを感じ、大人しいクン助のあたまをなでていると、時間がどれくらい経ったのか分からなくなって来た。おそらく日没までにはかなりの間がある。
平和といえば平和だった。安心と呼ぶならそう呼べた。悪魔妖怪の気配に親しみを投げかける余裕を持つくらいに。そして座敷わらしにせよ、ぬらりひょんにせよ、牛鬼にせよ、サタンにせよ、個々の物の怪よりこの無人の家こそが不可思議な存在であるように思えて仕方なかった。膨張したものはいつしか払いのけられて、みじめさに彩られ底の浅い孤独をかみしていた。
張りつめながらも、しじまを保ち続け、局所的に発生した台風は見事にあっけなく終息したのである。
「こら、そこで何をしとるんじゃ」
厳めしい目つきの男が面前に立ちふさがっていた。怒気をはらんだ声に対しとっさにこう応えた。
「幽霊屋敷だと聞いたから犬を連れて見張りに来てたんだ。ほら水筒だって持ってるよ」
自分でも呆れるくらいとぼけた口ぶりであり、性根もびくついてなかった。ただ開かれたままになっているエロ本にあたりまえだろうと凍結した男の視線が落ちたとき、何ともいえないこそばゆさに襲われ、いたたまれなくなった。
「早く出てくんだ。もう勝手に入りこんだりしたらいけないぞ」
男の目には将来、迎えるべき、そうであって欲しいようなそうでないような、慈愛のひかりがほんのわずかだけ輝いていたので、大丈夫、こっぴどく吊るしあげられはしないだろう、そんな思惑に即しつつ、怯えをゆっくり手なずけかいくぐるようにして無人の家を後にした。
例の仲間たちにこの話しをしたことはある。が、どんな心持ちで、どんな説得力で言い聞かせたかはほとんど思い出せない。また忠犬であったに違いなかろうクン助の記憶は更にぼんやりしてしまっている。なるだけ意識を集中し、あの頃の景色全体を脳裡によみがえらせてみても、クン助がどの家で飼われていたのか、実際はなんという名を与えられていたのか、それから雑種であったのは確かだろうが、毛並みは白かったのやら茶色かったのやら、あの菓子をかじるときのうれしそうな顔だけが特別に切り取られた画面となって浮かぶけど、あとは一向に映像としてあぶり出ては来ないのだった。


[353] 題名:眠れぬ夜のために 名前:コレクター 投稿日:2013年06月17日 (月) 06時18分

一席おつきあいのほどを。なんでございますな、ちまたでは草食系などと申します男子が増殖しておりますそうで、どうにもあたしらにはピンときませんがね、色恋を避けているって風潮ですから、世も末なんでしょうか、はたまた少子化を担うために人類がとち狂いはじめたのか、食糧難を乗り切る配慮でありますやら、どうでも理由づけは勝手にしやがれってわけでございまして、そもそも男女の間の隙間が、いえいえ溝でごさいますな、えらく深い溝が出来ているってことは間違いありません。食欲性欲といわれた二大欲求の片方が欠落したわけでございます。姉さん事件です、と叫びたいところです。
「たこ八さんじゃねえか、どうした浮かない顔をして」
「ああ、くま吉さんかい、聞いてもらうも恥なんだけどさ、せがれの宗太なんだがね、あの件以来どうも妙になっちまって」
「お花さんのことかい」
「そうでさあ、あっしの口からいうのもなんだけど宗太は役者にしたくらいの色男、かかあに似たのでなし、むろんあっしはごらんの風貌で、もらいっ子にちげえねえだの、大工のせがれにしとくのは惜しいだの、いろいろ世間はやかましい。で、餓鬼のころから仕事を仕込んでみたものの、施主のところに娘がいたらこれまたどうにもならずでね」
「知ってるよ、娘どころかおかみさんやら女中、近所のおんなっておんなが頬を染めて、お茶をすすめるやら煎餅、饅頭をどうぞとやら、まあ一服なさいだの仕事にならねえって」
たこ八ここで冴えない顔を上気させ発するに、
「仕事は仕事なんだけどさ、背丈も伸び、一丁前に物憂い面なんぞ浮かべやがると、たこ八さんよ、日当はちゃんと出しますからね、宗さんをちょいと貸しておくなさいよ、と来たもんだ」
「それって」
乗りだすくま吉をいさめても仕方ない、平静な口ぶりに返り説明する。
「おいおい、枕役者じゃあないよ。他愛もなことさ、座敷に引き入れて喜んでいるさ」
するとくま吉は怪訝な顔で、
「本当かい、物持ちのおんながほっておくもんかい」と突っ込みます。
「さすがに昼日中からはあるめえ。こちとらも目を凝らしていらあ」
「どうなんだい、いっそのこと役者にしちまえばいいじゃないか」
「馬鹿言っちゃいけない、宗太はもう所帯を持っていてもおかしくない歳だよ。大工だって役者だって仕込みが肝心だ、生半可はいけねえ。とは言うものの、肝心の本業もあの通りからっきし駄目と来た。そりゃね、あっしらの育て方が悪かったんだ、かかあだってちゃんと認めてるよ、そこで能無しだけどあの器量に惚れ込んだ娘が是非ともなんて、甘い思惑をめぐらせるとだね」
「ほう」
「世の中ってのは持ちつ持たれつなんだねえ、反物問屋の次女が宗太のうわさを聞きつけ、一目見るなりあっと言う間の惚れ込みよう」
「お花さんだね」
「あんたも適当だねえ、お花さんは茶店の奉公人、反物問屋はおさよさん、まったくひとごとだと思って」
「そう怒りなさんな、悪かったよ。最近どうももの覚えがよくないもんで」
「なに言ってやがる。まあ仕方あるまい、あのふたりはすがたかたちがよく似てるからね。いやほんとに、双子みてえだよ」
したり顔で頷くくま吉を尻目にたこ八お天道様を仰ぐふうな様子で、
「それで向こうさまから縁談がもちこまれたって次第さ。棚からぼた餅てのはこういうことか、なんて喜んでいたわけなんだがね、宗太に話しを聞かせたところ、たこ八さんよ、なんとせがれの奴こんな台詞を吐きやがった。おとう、実はおらあ好いたひとがいるんだ。これにはあっしもかかあも仰天よ、ああしたときはおなごのほうが気丈だね、あんぐり口を開けたわが体たらくを押しのけると、かかあはすかさず言ったよ。どこの誰なんだ、これ宗太、隠し事はならんよ、きちんと話してごらん、とな」
はい、神妙な面で語り出したこの希代の色男、以前より通っておりました茶店の娘に懸想していたそうで、とはいっても宗太は案外うぶな性情でございまして、決してそれらしき態度は示さず、口にもしないとわけでして、あとは当のお花が勘づいているかってことになりますが、それは後々あらわになりますから、ひとまずたこ八の家へと話しを戻しましょう。そこで早速、両親ともども宗太と一緒に茶店へと赴いたのでございます。さほど遠い距離ではありませんでしたな。話しが持ち上がった折から反物問屋のおさよの容姿を見知っているたこ八、このときばかりは狐につままれた面持ちで、こうつぶやいたそうです。
「なんでえ、どうしてお嬢さんがここにいなさるんで」
ここは男親の威厳の見せどころ、考えあぐねるより先つかつか店内に踏み入り「もしや双子ではありませんか、おさよさんの」といきなり切り出した。これまた豆鉄砲を食らったようなお花の表情、世間話しがゆきわたっていたとしてかの反物問屋は五里ほど離れております、江戸市中はそう狭くはありません。まったく何が何やら分からぬ顔つき、泳ぐは両の目の色、更にはかかあもしゃしゃり出てきまして、これこれの問屋の娘と縁故があるのか、名はなんと言う、宗太を見知っているのか、もう矢継ぎ早の問いただしで、まわりの客も眉をひそめるものやら、立ち上がるものやら、不穏な雰囲気にあわてて駆けつけた茶店の主との話し合いに落ち着いた次第でございます。
「なるほど、そういう事情でございますか。うそいつわりなぞ申してどういたしましょう。お花は三年まえより手前どもで奉公しております。合点がいかれましたかな、まったく他人のそら似です。それよりそちらの子息とお花はどうしたわけで」
茶店の主の態度に揺るぎはないのですな。こうなるとあわてふためいたのは張本人の宗太、顔を赤らめしどろもどろ、やむなくたこ八がせがれの岡惚れを恐縮しつつ説明いたします。呆気にとられたのは言うまでもありません。幸い野次馬から逃れるよう奥座敷にての話し合いでしたので騒ぎにまでなりませんでしたが、どこやらから漏れるものでしょう、二三日もすればもう色男と双子の縁談とえらく尾ひれがつきまして、そのうち反物問屋の耳へ入りましたのでございますな。呼びだされた宗太と両親はあたかもとが人の態でうなだれております。無理もありません、数代続く問屋側からしてみれば、入り婿とはいえ破格の縁組、娘かわいさの決意です。それがこともあろうか双子などと下世話な風評が飛び交い、茶店の女中ふぜいを慕っておったとは甚だしき侮辱、おさよに傷がついたも同様、また本人も悲嘆に暮れたのは察してあまるところでございましょう。浮いた縁結びは木っ端みじんに吹き飛び、懸想されたお花もいたたまれなくなり茶店をやめてしまいました。それでも宗太はたこ八に泣きついたそうでございます。
「なんとかお花さんと一緒になれないもんか」
あとの祭りと知りながらも反物問屋のお嬢さんはお花さんと売りふたつ、どうして算段しなかったのかと詰め寄りたい気分だったけれど、聞くだけ野暮とすべてを諦めていたところ、いやはや風聞とはまことに恐ろしものでして、色男一世一代の恋などと格好の話題になっており、世評は宗太の肩を持ちだしたのです。暇人がいるものでございます。どこのつてをたどってか、ひっそりとある屋敷で女中奉公しておりましたお花を探しだし、おまけに屋敷の当主の上役までとりこんであれこれ吹き込む始末、もはや人情噺を地でゆく勢いですな。
当主は邪心こそありませんが、今評判の宗太の想いをかなえてやれば名声もたかまりましょうぞ、などと耳打ちする輩がおりまして、早速お花にその旨を言い渡したのでございます。ところが、
「滅相もございません。わたしはあのひとの目が気色悪くてたまらないのです。命と申されるのならお暇をいただきたく」と、えらい剣幕にて自害さえしかねない様相で訴えかけます。
好いた惚れたは互いの気持ちが通いあってのみ、まわりも納得するものでしょう。無理強いまでして名を上げようとしなかった当主はまだ人間味がありましょう。ことの次第を聞き入れざるしかない宗太の道は願いを運んではくれません。
失意のうちに次第に世間の噂も幾日とやらで、悲劇をしょった宗太に新たな機運は訪れず、反対に畏敬の目に近い危ういものでも眺めるふうな扱いに甘んじるしかありません。まったくもって不可思議なのはひとのこころでございます、憔悴したとはいえ、宗太の美貌は凄みを増し神々しくさえあったというのですから。
そのうちこの哀れな色男はおなごのすがたを見るだけで胸に痛みを感じたそうで、こうなりますと余計に女人と接する機会もなく、例の日当にもありつけません。たこ八を悩ますには十分の有り様であったわけでございます。
宗太はそれから何をするでもなく、日中は寝込んだまま一歩も外に出ようとはせず、夜な夜な人気もなく、灯火も見いだせない暗がりをそぞろ歩いていたそうで、なんでも辻斬りにばっさりやられたと人々の話頭にのぼったのも束の間、精々残されているのは早く寝ないと怖いものが来るぞという子供らへの戒めくらいですが、宗太という名もいつしか消えてなくなってしまいました。お後がよろしいようで。


[352] 題名:悪霊 名前:コレクター 投稿日:2013年06月17日 (月) 01時43分

しばらくぶりに知人と酒場で落ち合った遠藤久道は自分の髪が金色から銀髪に移ろっているのを指摘され、
「なに、新月の夜に染め直すから脱色してしまうんだろう」と、生真面目そうに語った。
常軌では計りがたい相変わらずのもの言いに知人は苦笑するしかなかろう。遠藤は機微を心得ているというより相手の横顔にさした歪みに、本質的な相違を重ねかけたのだったが、分別めいた咳払いとともに話題をかえ酒を飲みほした。
「ところで東京はどうなんだい。おれが住んでた頃とは随分かわったろうな」
「まあね、が、いちいち変化する町並みを見届けてなんかいないし、気にかけることもないよ。もっともこっちが取り残されているような気分をときたま感じるけどね。ときたまだよ」
惰性に近いとりとめのない会話、あの焼豚が特大だったラーメン屋はまだあるのだとか、駅のそばにあった花屋のかわいい娘はどうしただの、よく吠える割には尻尾をふってじゃれついた名も知らない近所の犬は元気か、住んでいたアパートは取り壊されてないかだの、懐かしさを喚起する質問が口をついてでるのだが、それほどひりついた感情はともなっていない。
知人は愛想のいい店員みたいな顔でそうした問いに応えてくれるので、確かに当時の景色や東京の空がまぶたの裏によみがえり、意識に羽が生えかけたのだったけど、遠藤のなかでは別の羽化しかけたちいさな昆虫のつたなく、危うげな動きが別の情景に移り変わっていくので、まるで真綿で包むように手を差し伸べ始めていた。
知人が小用で席を立ったのが切り口になったのか、静かに流れてくる音楽に誘われるふうにして、甘く切ない想い出が胸に去来した。ほんのわずかの意想がすべてを押し流すよう、遠藤の過去は逆巻いた。
「きみはぼくの腕のなか、微かに吐息、夢の果てあたえられるすべての愛、、、」
「それ、ひょっとしてわたしのこと歌ってるの」
大都会の夜に静寂はひろがっていたったけれど、彼女の澄んだ声で発せられた言葉は煩わしく聞こえた。
自分の朴訥な歌詞でさえ衣擦れに似た、柔らかな雰囲気に染まっているようで、相手の目を恥ずかしげに見つめた。あの陽気の到来をかみしめる心持ちでちや子と花見に出かけた記憶が鮮明に訪れる。
「きみのために桜は咲く、晴れた空にあざやかに咲く」
辺りに気遣って控えめに口ずさんだ歌の一節に微笑みを返してくれた感情が忘れられない。ちや子の感情、、、いや、そうではないはずだ。遠藤は微笑の奥にとどまっている、ちょうど真珠貝みたいな傷つきやすく、壊れてしまいそうな美しさにためらいを覚えていた。同じ職場でいつしか恋愛まで発展し、もうすぐ一年になろうとしていた。
遠藤の音楽に対するひたむきさに好感を持ってくれ、彼もまた更に意思を伝えたくちや子を歌にした。それはついにふたりして歩くことのなかった楽園に匹敵する青い渚への憧憬であり、一方では昼さがりの陰りに知る白いテラスのなかの時刻に、不穏な空気をまとわりつかせたりした。
「まるできみのうたが風のように通りすぎていくから、夏の日のスローな波のリズム、やしの木陰でぼくはあふれる肌に感じてる」
ちや子には届けられなかった曲だった。音としては捧げられたかも知れない、が、現実の響きは遠藤の躊躇で夢見の彼方に置き去りにされてしまった。
自分が感じている以上にちや子は遠藤に寄り添っていたに違いない。求婚の片鱗は声として振動しなかったが、その愛くるしい目もとが不意に曇るとき、おどけた表情に罰が下されたふうに眉間が険しくなったとき、彼女の願望は狂おしいほど遠藤を取り巻き、切迫した。
「ぼくはこれからもっと音楽を極めてみたいんだ」
若さゆえの意気盛んな欲望は引き裂かれる。その夜、遠藤はいつになく激しい息づかいと力でちや子のからだを求めた。互いに昇りつめた矢先、ちや子はそっと目を閉じ、こみあげてくるものを制しているかに見えた。そして髪が乱れたまま、東京の片隅での恋は終わった。
「かわす言葉はなにもなくて、、、」
虚しいフレーズだけは現在まで鳴り響いている。決して重荷を背負いこんだばかりでなく、どちらかと言えば、その後の遠藤の孤独の慰めとして役割を努めて来たであろう。
知人が席に戻ったとき、連鎖反応のごとく遠藤はトイレに向かった。用をたしながら切ない想い出が不浄な思惑にまみれていく感覚にとらわれ、首を軽く振った。
手洗い場の鏡に映った白髪に新月を呼び寄せたのだろうか。何故かしら気持ちが若返ったようで、さきほどまでの記憶はふたをされ、酔いにまかせた今この瞬間だけを愛でた。そうすることが償いであるべきだし、無用のしがらみから逃れるすべとも思ったりした。鏡の中には自分がいる。
トイレの扉を押し開けたとき、足もとがぐらついた。
「危ない、危ない、この間も堤防の先端から足を滑らすとこだった」
青い渚を想い、大海を眺望した健気な気分は夜に祝福されており、また呪詛されていた。


[351] 題名:日勝ロマン掘野 名前:コレクター 投稿日:2013年06月04日 (火) 04時27分

夕陽が染み込んだ感じはしなくもなかったけれど、この部屋とは無縁に、仕切られ、引かれた、ぞんざいな有り様だけでもカーテンは十分な役割を果たしていた。外のネオンに織物の優しさで呼応しているのでもない、あえて言うなら、これから交わろうとしている男女の裸身から発する、吐息や汗のなかに極々微量に含まれよう血の色彩をカメラは的確にとらえ、編集のない予告編を生み出そうとしていた。その背景としての赤みであった。
すでにふたりは上衣を脱ぎすて、見つめ合いが横滑りしていくようからだは下着一枚で密になっている。ときめきさえ無様に投げやった口内の熱が互いの唇や舌先に伝わって、見苦しいほど濃厚なキスとともにベッドに倒れこんだ。いったん離れた男の口許にはあんかけみたいなとろみのある唾液がまとわりつき、何故かとっさに顔を伏せた女の顔をわがものにする為、ちからまかせに振り向かせたのだが、驚いたことに情欲の炎を宿らせていたその目からは、そぐわない大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうだったので、一瞬気高い歓びに包まれかけたのだが、涙をためた瞳の奥からやってくる冷たい輝きに説得されてしまい、それまでの熱気が上昇して、言うもやまれず驟雨になる情景とは縁遠く思われ、気分は萎えてしまうのだった。
「そのまま続けていこう」
監督の声は低く頼もしい。そしておもむろに近寄ると「もっとしょげた表情をしろ、無粋なくらいにな」
それだけ言ってからさっと元の位置まで引き返した。
女の目を執拗に見つめたカメラに促され、ついには嗚咽をもらし始めた。
「泣いてばかりじゃわからない、いったいどうしたっていうんだ」
男の台詞は台本に忠実であり、なおかつ監督の意匠を汲み取っている。「おまえは筋書きを考えなくていい」それで正しいのだ。
ここでカットされ、女の両目に大量の目薬を含ませてから、演技が再開された。
「どうしたもこうしたもないわ、最初から、部屋に入るまえからあんたの非常口は開いていたのよ、あたしおかしくて、おかしくて、、、」
女はあざとく「ひっひっひ」と声にし、涙を抑えようとはしない。男は不意に宣告を下されたときみたいに情況を素直に受け止めはしたものの、片意地からくる敵意からその響きを嬌笑とみなし、大仰な照れくささを肩で揺さぶり、仲間はずれにされた子供の心許なげな胸中を眉間にまで押し上げた。うっすらと曇ったその表情を女は待ち構えていたふうに、
「頬張ってあげようか」と薄笑いのまま男の堅物に手をさしのべた。「いいじゃない遠慮しないの、恥ずかしくなんかない、おかしいだけよ」
「だれが、、、」
「あんた、、、」
「お勝」
「カット、カット」今度の語気は荒い。
「だめじゃないか、萎れているぞ。ここは心境とはうらはらにだな、屹立してなくちゃいけないんだ。お勝さん、あんたはいいよ、問題のそこのふぐりだ。棒はあくまで形に過ぎんけどな、ちゃんとした色欲は根っこにぶら下がっているもんだ。簡単に言えばだよ、少々古くさいが精神主義で邁進しなくちゃならん。大体が、すぐにおっ立つって評判だから新規採用したんだぞ」
監督の勢いに圧されながらも言い訳自体が闘志のみなもとであるかのように男は、
「はい、すぐ立ちます」と勢いよく応えてみた。

掘野米吉25歳、大学の演劇部に加わったまではありきたりの青春だったけれど、意気投合したひとりの学友と奮起一発、中退して結成したお笑いコンビがなんの弾みか時勢を盛んに駆け抜け、あれよあれよという間にテレビラジオで好評を博し、風采も上がり寝る時間を削る日々も今となっては信じがたい、コンビの名が「賃ボーボーズ」という際どさだった為だろうか、相方の麦秋、京都出身の意気の見せどころと巡業の際こともあろうに金閣寺の庭内で全裸になってひとさわぎ、取り囲んだ野次馬や警備員に向かい「どなたかはんか、金隠し持ってきてくれなはれ」と頭痛を催さんばかりのベタなおちで周囲は沈黙を呼んでしまい本人の思惑は世態に相反して、情報社会の凄みをまざまざと知らされる体たらく、折しもファンによって撮影された動画は格好の話題提供に、若気の至りで済まされないと気づいてみたときすでに遅く、苦難を共にしたふたりは解散余儀なくされ、謹慎期間を耐え忍んだ米吉、所属事務所の計らいもあって独り立ちを目指したものの、もとより麦秋あっての笑い取りであったことを再確認するに過ぎず、鳴かず飛ばずの日々は流れゆき、縁故をたどって着いたさきがAV男優という名ばかりは人口に膾炙したなりわい、半ばやけくそ気分を傍観していたのはどこのだれより我が身に相違なしで、曲がりなりにもオーディションを受け、万年**の芸当を披露、鍋焼きうどんを食べてる最中やら、知恵の輪を手にしてやら、大声で歌唱しながら、果ては逆立ちしながら、腕立て伏せしながら、とどめはヌンチャクしながらと、およそ性欲をかき立てない情況下で無為な膨張を試みてきたけれど、いざ本番となれば緊張の神さまは決して見捨てず、余計な世話だとこぼしてみても、とば口ではや蹉跌をきたして憤懣やるかたない。
「長くやる仕事じゃないけど、やってればそれなりに声はかかるから潮時が見えないっていうが本当のところかな」
初日から薫陶とも叱責ともつかない妙な理屈を監督より含められた米吉をいたわるつもりであろうか、
「筋なんてないのよ、あたしらはやるだけ。まあ、どうやるかってくらいは意識するけどね」と投げやりだが、きちんと語尾を正したふうなもの言いをしている。
一回分の撮影が済み、打ち合わせを終えてから勝子は新人男優の肩をたたき遅い夕飯に誘った。監督から明日に備えておくよう釘をさされていたのが、早く帰って寝てしまえ程度に聞こえなかったと共感を覚え、深夜をとうにまわった時刻を確かめるたびに、まるで家出少女みたいな反抗心が芽生えて、撮影まえにけっこう食べ応えのある弁当を支給され空腹まで感じてなかったけれど、祝杯の意味合いもこめて駅はずれにひっそり赤提灯を下げている屋台に陣取っていたのである。
「ええ、そうですね。筋書きは考えなくていい、自分に言い聞かせてます」
米吉は年長であり斯界の美形女優に対し、こころから言葉を発した。
「まあ飲もうよ。ホルノくん」
「はい、日前勝子さんと共演ですもんね」
「なに言ってるの」
しなだれたついでにふっと息が米吉の首筋をかすめると、無性にうれしさがこみ上げてきて自分の名字はホリノというのだけど、そう微かに胸の片隅で反論してみた。勝子の吐息に吹き流される心地よさとして。
杯を重ねるうちに米吉は相当酔いがまわっているのを覚え、幾度も半身を傾けてくる勝子に淡い恋情を感じてしまい、目の焦点が合わなくなったのを好都合に先ほどまで演じていた交わりをじっくり、ちょうど地図をたどることに似せ、落ち度なくつぶさに絵柄と空間を一致させるよう努めた。
すぐ隣に座している女体のすべてを知り尽くしているという感覚は優先され、難なく道のりを誤らず目的地に到着できた実感をさずかった気がした。勝子の乳房から脇腹を這った舌の味わいがよみがえる。仕方なく唾液をこぼしながらではあったけど、濃密な唇の応酬はこの熱燗よりはるかに酩酊をもたらすだろう。手のひらに残された生々しい肉感はそう簡単には消えてしまわない。そして目に焼きついた女陰の湿りが茂みに隠されるとき、自らの股間も闇に包まれ、見つめた横顔から香る花園の匂いが脳裡に散乱するのだった。
果てたとき、地図は焦点を結ばせず、それは今ここで想い返してみても同じであり、思念は遠くに運ばれてしまっている。
米吉は部屋のカーテンに目を向け続けていたことを知り、はっとして勝子の顔を、今度は地図でも絵柄でもなく瞬きする瞳を見つめていた。
「ホルノくん、明日は楽しみ」
問いかけなのだろうか。それとも自分がこのひとに言わせてみたのか。都会の夜空に星はきらめかない。しかし、勝手に返答がついて出た。
「ええ、とても。でも今も素敵です。ぼくがあなたを知っているんじゃない、あなたがぼくを知っているんですね」
「そうなの、ならそうしときましょう。夢みたいだわ」
「ぼくは眠っているのですか」
「馬鹿ねえ」
女は男の手をしっかりつかんだ。


[350] 題名:夜霧のちび六 名前:コレクター 投稿日:2013年05月28日 (火) 02時18分

きょうもちび六はげんきにあちこち動きまわっています。あちこちといってもこのいえの中だけですから、けっこうおなじところをいったりきたりの、かくれてみたり飛びでてみたり、ふわりとちゅうになげだされたように感じたりしているだけなのですが、あさとよるのつなぎめをいしきすることなく、よふかしのおねえさんのへやからもれてくる明かりにはげまされるよう、すみずみまでたんけんしているのでした。
ただ以前とかわったのはてれびにうつしだされるこうけいにみいってしまうことで、べんじょさまやくも男爵からのちゅうこくを思いしりながらも、ついついみしらぬせかいをのぞきこんでいるのですね。こまったものだとひそひそばなしが聞こえてきそうなくらいに、しかしじっさいにはだれもちび六のことなどゆうりょしているわけでなかったのですけども。
そんな感じがしてくるのはみょうだったのでしょうが、ちいさなこころとからだをしはいしているもののしょうたいがつかめない限り、ちび六はみょうなかんかくと横ならびになってかべをのぼっては、ゆかやつくえのうえをはうしかなかったのです。くらがりばかり好むしゅうせいをせおってはいませんでしたから。
よくよくおもいおこせば、しんせきの子とよばれているぼうやがたびたびこのいえにやってきて、いつもの静かなふんいきがみだされるとかんじたのがことのはじまりでした。
ちび六はすこしばかりせいちょうしたせいだと言われたことがありまして、そうですね、くも男爵から「ほらみてごらん、ここの家族とは種類がちがうだろう、子供っていうのはああしたものなのさ」と、いかにもにんげんをけんぶんしつくしたふうなくちぶりでさとされたので、たしかに手あたりしだい、なんのもくてきもなく反対にけいかいもしないようすは、ちび六のかんさつでもじゅうぶんりかいできうるものでしたし、りかいとともにじぶんの行動もがらすどにへばりついているときのはっとするいしきをめばえさせて、なるほど似たようなふるまいですけど、ぼうやよりはすこしばかりしんちょうなところもあるとかんがえるのでした。
ぼうやはおもちゃといっしょにちゃわんやすぷーんも投げつけたりするので、よくしかられています。ちび六からながめてさえあぶなかっしく、むちゃにみえるのですから、そんなばめんを演じていないじぶんがいくらかましに思えたのでしょう。ほんとうはせいちょうなんて言葉をくも男爵はくちにしていませんでした。ただそうにんしきしたほうがときおりおとずれるこの暴君をいさめているようで、またむじゃきなうちにどこかまとまりのある方向がのぞけそうなきがし、かってにほめられたことにしてしまったのです。
そしておしとどめようにもしかたのない情にむねをこがしたのが、最大のげんいんであるのをちび六はよくこころえておりました。
きれいなおねえさんに恋してしまったのですね。つかみどころのないものなのですね。くもはにんげんに恋してはいけないのです。そうしますと、ぼうやのそんざいはちび六にとってとてもきちょうな現象になりだしました。なぜかしらあんしんできるのです。ぼうやをみていれば、、、
それよりさきはあまりかんがえないようにしました。かんがえてなやんでもどうにもなるものでなし、やるせなさはぼうやが引きうけてくれています。
ここまではまるでおとぎばなしのせかいでした。まほうのくにですね。じかんがとまっています。けれども非情なじかんをしることになってしまいました。
そわそわどきどき、あちらこちら、いまなんどき、ときめきをぼうやのやわらかいかみの毛にかぶしてみれば、そんなおちつきのなさは、てんかふんの甘いかおいといっしょにふわり空にうかびあがり、そっとしずみこみます。ちび六はおとなが覚えるせつなさをまねていたのでしょう。
そう気づいたのはあんなにやんちゃなぼうやでしたが、てれびのまえにすわると飼育がかりのせわをうけてるみたいにおとなしくなってしまうので、どうしたことかといぶかっておりますと、ふだんからここのいえはてれびをつけっぱなしにはしなのですけど、えらくしんみょうな顔つきででんぱとやらとにらめっこしはじめるのでおどろいてしまいました。こどもらしくあにめやひょっこりひょうたんじまで喜んでいるのなく、かといって、みとこうもんやらやけいじころんぼにかっこよさを感じているそぶりもありません。かいきだいさくせんやうるとらせぶんでもないようです。ようかいやかいじゅうではなさそうなのです。ちび六はちゅうい深くみつめていましたからまちがいありません。
「あらら、この子ったら」
「わかってなんかいないわよ」
「教育的にはどうなんだろうね」
「うちでもこうなよ」
おかあさん、おねえさん、おとうさん、それからぼうやをいつもつれてくるおばさんらははしゃぎたそうなのに、むかんしんなたいどで口々にそういいあって、あとはほったらかしです。なんでもほかのちゃんねるにかえたら、ないふとふぉーくをいっぺんにぶつけてきたそうで、どうせなら、おとなしくしてくれるのなら、べつにかまわないのでは、そんなことをもらしておりました。
それはれんあいどらまのいちばめんで、しかもいちばんいいしゅんかんなのでした。だんじょがだきあってきすをしながらよこになっています。ささやきはでんぱにのったわりにはよく聞こえ、ためいきはがさつなおとなを嘆いているようにも、ただたんにぼうやのねいきが未来におくられたようにもつたわってきます。
みいっているのはだだっこでしたけど、それをかんしょうしているちび六はからだのふるえがとまらず、生まれてはじめてかんどうしたのでした。てれびのばめんにではありません、といえばうそになります、しかしながら、それだけではなかったのはじじつで、つまり、だんじょのいとなみにくいいるよう目をこらしているぼうやにへいふくしてしまったのですね。ぼうやの目をとおしてちび六はせかいのふしぎをさらにかきわけたということになります。このひからちび六にとってぼうやはくも男爵よりとえらく、べんじょさまよりとおとい位へとおさまったのです。
またぼうやのいないとき、ひそかにがくしゅうをしました。とても偉大ながくしゅうでした。あのだんじょのどらまをいくどか目にしたせいもあって、いえのきれいなおねえさんをわすれかけたり、あいてのおとこにあこがれがつのりだしたやさき、そのふたりがまったくちがうばんぐみにしゅつえんしていたので、おおいにためらいましたけれど、なんでもばらえてぃとかいうおもしろ半分のほとんどえんぎのいらない、とりつかれたようなひょうじょうをもちいない、こころのなかを乱さない、かろやかなふんいきでしたから、こちらもあおられたちりのようにいっぺんに舞いあがり、ついでにがてんもいったのでした。
はいゆうじょゆう、に、な、れ、ば、いい。だきあってきすするだけでなく、ときにはこわいけしょうでおばけにだってなれるし、かいじゅうのきぐるみだってまとえる。せいぎのみかたにもあくのしゅりょうにもふんすることができる。
おわかりでしょう。こどもがせいちょうしていくすがたに意志をなげかけたのです。あわてものにふさわしいおこないですね。こうなるとちび六はじぶんのすがたかたちがすっかり人間になっているとおもいこんでしまいました。がらすどのくもりはひざしの意向だけにかぎりません。まえまえからしぜんのいじのわるさだと皮肉まじりでしかみあげてこなかったおおぞらにうかぶもの、ひるよるのさかいにまたをかけ明暗をつかさどるえたいのしれないふわふわしたとおいせかい、おなじ発音でよばれる、そらのくもをひとかけもちかえりたい、そうつよくねんじたのです。
しかしちび六のやくしゃせいかつはそうながくつづきませんでした。くもを手にいれることがふかのうであるより、よぎりへまぎれこんでいるじぶんのこころがなににもまして人間になりきっているとしってしまったからでした。
どの春だったのでしょう、いつの夏だったのでしょうか、ぼうやはいつしかききわけというえんぎを身につけ、てれびのちゃんねるをしきりにかえてはおとなじみた笑みをみせていました。それは陽光がよくにあうしろい歯とやくそくをかわしたふうにおもえ、ちび六はそっとてんじょうのかたすみへとすがたをよせてしまったのです。
いいえ、ひくつになったからではありませんよ。ここはどこよりながめがよいからです。きれいなおねえさんはあいかわらずよなかに起きだしてはめんるいをすすっています。


[349] 題名:さわ蟹 名前:コレクター 投稿日:2013年05月21日 (火) 03時00分

エドガー・アラン・ポー「モレラ」、そしてラフカディオ・ハーン「お貞の話し」、生家の裏庭に面した流しの下はちょうど水たまりに似て、心細げに類家の畑の溝へと通じており、春さきともなれば白や黄色い蝶蝶がふわふわ舞うさまは身近でありながら、陽光の届けられるまばゆさに名も覚えぬ草花が匂いたつようで、見遣る景色はなにやら遠く、逃げ去る子犬の愛らしさを想いだしては、ほんの少し胸を焦がしたふうな感覚に閉ざされて、ぼんやりした時間のさなかに夢見の恐怖を知るのだった。
蛇口から勢いよく落ちる水の冷ややかさと透明感に時折はっとさせられるのは、忘れてしまった去年の夏休みの出来事に重大な秘密をこじつけているかも知れなく、もしくはすぐ後ろに位置していた便所の臭みを洗い流したい思いなのだろうか。子供の領域だけに封じることは不遜でしかない。愁いを透き通らせる秋口の新鮮な空気は今でも健在だから。
桜の木に拾っておいた蝉の抜け殻をひっつけようとしたことも苦笑で終わらせたくはない。大切な手つきだと感じている。捕まえかけては気まぐれみたいに距離をとった蝶の羽が残像になりかけた頃、地虫などと勝手に呼んでいたこおろぎの類いが薄暮を讃えれば、空の深みを読みとってでもいるかの殊勝な顔つきを自身に要請する。静かな気分は心地よい肌寒さのせいに違いないだろうが、季節のうつろいに即した仮面の着脱は遊戯を決して軽んじないよう、唾液の粘りがどことなく卑猥な感じをもたらすよう、あるいはつまらぬ小細工に熱中した意気込みの影であるべく、玩具は数歩さきで常に冷めていた。
凍えたのはからだばかりでなかった。寒風にさらされた水道管もまた噴出する気概をせき止められ、洗顔を遅らせた真冬の日々はすっかり水たまりの初々しさを失い、漬け物石とセメントで適当に作られた流しの下らしく、わずかな湿気は滑らかであるよりみすぼらしい堅牢さを誇示していた。
日差しの加減であったのか、時期はずれの徘徊もしくはとち狂った目覚めなのか、幻覚なら仕方ない、爪と足に火傷を負ったふうな赤茶けたさわ蟹のすがたがちらり、凝視に結ばれる軌跡は案外のっそりしていた。
あれは草花ではなく野菜だったと振り返ってみる。土と葉は混じっていた。小学校の毎日はおそらく単調さにおいてというよりも制度を学ぶことで連鎖が育まれたから、途方もなく長い期間に感じられて、遡行するほどに未来を案じる錯誤を得た。
寛永通宝だと記憶しているが、どうして裏の畑から掘り出されるのか不思議でならない。不思議といえば、古くても貨幣なのだからもう少し弾んだ気分になればよいのに、誰かに吹きこまれたにせよ、土団子をこねている程度のうかれ具合でしかなく、とり尽くした感がやって来たのが分かる時分にはその辺に打ち捨てて家の中にしまわれなかった。
蝶蝶は今年もひらひら飛び交い、網が宙をなでつけ、朗らかな陽気に誘われ、自慰に耽った。早熟であるのは知り得なかったけれど、後ろめたさは正午の太陽に見咎める権限を無条件で譲り渡してあったから、雨戸に触れたくて仕方がなかった。夏の到来に振りまわされた覚えはない、ただ山積みの宿題や無理して通った早朝体操が疎ましく、かぶと虫がすいかに食いついて離れないのが微笑ましい。安物の花火が吐き出す鉄錆の酸っぱくなったような鼻をつく刺激を密かに好んだ。これは思い違いだろうけど、大岡越前の主題曲がテレビから聞こえる時刻、外はまだ薄明るくときめいたことがある。夜八時、宵闇はどっぷり家の中にも外にも押しよせ、祖母の白髪をそつなく愛で、祖父の肖像画に刻まれたしわに染み込んでゆくのに、テレビの画面には打ち勝てなかったとでもいうべきか、そんな記憶は妙に新鮮である。
運動会と金木犀が不可分であるのは緊張と解放の甘みが鼻先でまごつくからだろうし、開け放たれていたガラス戸が神妙に光線を受け入れている様子と映ったのは、目先がうつむき加減に同調していたのだろう。殊更かじかんだふうに両手を石油ストーブのまえでもむのはやはり寒かっただけ、それでいい。
正月にはお年玉がもらえたので初売りの玩具を買いに走った。なにをどう考え違いしたのか、間がさしたのか、平家物語ゲームという双六的な代物を抱えて帰ってきた。当時はすぐさま嘆いたものだったけれど、いつしか脳裡に常駐しはじめたところ最近オークションで再会した。一度だけでその後はない。残念ながら手元に戻ってくる幸運は弾かれたが、別段失意まで感じてはおらず速やかに怪獣へと立ち返った。


[348] 題名:ゆうれい座 名前:コレクター 投稿日:2013年05月13日 (月) 12時25分

不思議な色合いのまちなかにいる。
紙芝居みたいにこじんまりとしていそうで思いのほか、にぎやかさは収まりつかない気配を仰々しく伝えてくれるので、胸の奥に温かいものが湧き出て来て、辺りを一通り見回した頃にはじんわりとした感情に包み込まれてしまった。
立ち止まるのを拒まれているのだろうか、いや、斜め向こうの威勢のいい客引きは流暢な発声でもって巧みに見世物の面白さを語りだし、懸命に、前身全霊で、とても情熱的に、だがどことなくあらかじめ色褪せした絵柄のような物悲しさを底辺に残しつつ、私らの気をひこうとしている。
空は水ようかんであつらえられたふうにひんやり、行き交うひとの目は反対にそわそわ落ち着きがなく、やれ綿菓子売りだの、金魚すくいだの、団子屋だの、狐やひょっとこの面売りだの、香ばしい焼きいかを並べた店だのが居並ぶなか、地べたの感触も空の色が映りこんでいるようで、私はふわりと浮き足だってしまい、客引きの口上に聞き入っていた。

「いよいよ本日開演だよ、見なきゃ損とは言わないけど、無理してまで見物してもらうことねえや、えっ、どっしたわけだって、あたりきよ、あとの祭りだってことさ。そこの旦那も姉さんも学生さんもお嬢さんもお坊ちゃんも、うわさには追いつけやしないよ、天地が逆さになろうがこればかりは現物を目ん玉に刷り込んだもんが勝ちってもんだ。あれは信じられなかったなとか、ううっ、思い出しただけでも鳥肌がとかね、いくら人づてに聞いたところで話す本人だって狐につままれているんだ、根掘り葉掘りと望むところだがそうは問屋が卸さねえ、へへ、あっしの言うことは大げさかい、そんなはずはない、無理しなくてもよござんすって仏の教えみたいに諭してるんだよ、こちとらも商売だい、それがですぜ、皆々さまの冷静な判断を仰いでるって寸法だい、馬鹿丁寧にもほどがありゃしやせんか。そんじょそこらの出し物とは破格の違いがあるって証拠じゃござんせんか。で、その肝心かなめをこれから、つつっとお話いたしますよ、いいですかい、気が向いたなら木戸をくぐっておくなまし。
皆さんは満蔵一座って名くらいは知っておりやしょう、へい、蛇女やらろくろ首にミイラの類いをこれまでお披露目いたしやした、おっ、そこの坊ちゃん、うなずいてるね、影に隠れたお嬢さんも、そうでやす、怪奇一辺倒、おばけの一座でごぜえます。種も仕掛けもありませんとも、かといって妖怪変化とも申しませんよ、そんなほらを吹いてはいけない、正真正銘の奇形異形のね、哀れな宿命を背負ったものらのすがたかたちだ。ところが満蔵座長いわく、もうそうした宿命を売り歩くのは嫌気がさした、ここらでがらっと趣向を変えましょうと、が、これまでの名物はなんといっても異形の数々、憐憫はさておき中々めぼしい工夫が思いつかない。さあ、ここからが正念場だ、そう一気にすっとんだよ、端折りも端折って神髄を開陳する。いやね、あっしも最初は度肝を抜かれたってより、押し黙ってしまってね、いくらなんでもそんな無体な、罰あたりどころか夜と昼を反転さしたようなもんだ、そりゃあり得ん、どうあってもあり得ん、第一うす気味悪くていけねえ、そんな幽霊なんぞ、捕まえようなんざ。
もらしてしまった、そうなんで、あの世から見せ物を引っ張ってこようって魂胆でね、あっしが戸惑うの分かるってもんでしょうが。ところが座長の眼はぎんぎんぎらぎら、すでに幽冥界の主と掛け合って契約を取り交わして来たっていうから驚き桃ノ木山椒の木だい。
さあさあ、お立ち会い、あっしの言い分はもっともと同調してもらえましたかい、隅っこのしたり顔の学生さんよ、あんただって文明社会に幽霊が出るとは、しかも真っ昼間の見せ物小屋にだよ、大人しくどろどろひゅうって具合にお出ましすると考えられようか、そうだろう、どうせ手品かまやかしかってとこが関の山、あったりまえよ、坊ちゃん嬢ちゃんだってそれくらいの道理は心得てらあ、ねえ。と、まあ、たじたじな気分はここまでにしておいて、いよいよ本題だ。
なんだい、旦那、ひとが喋るまえから興奮しちまってよう、だがね、旦那の心中は大体いいとこを突いているんだな。幽霊の正体はいかに、なるほど違いはありやせんよ。見てのお楽しみなんぞ、けち臭いことも言いやせんよ。もったいなんかつけるもんで。ずばり予告しておきますよ、おんなの幽霊でさあ、しかもうら若い美形ときた、ああ、旦那、慌てなさんな、押さないで押さないで、あんたが一番乗りなのは確実でさあ、あっしが太鼓判押すよ。まだ説明すんでないからようく聞いておくんなさい。でね、その幽霊、ただ舞台に居ったってるだけじゃない、脱ぐんですな、そう着物の裾をちらっと、あとは語るに及ばず、あれま、お嬢さん、ずいぶん不服そうな顔色ですな、ああ、そうか、こりゃ、あっしとしたことが舌足らずでやした。大丈夫ですぜ、そんな不謹慎な代物じゃありません、下世話な女色とは次元が異なるってもんです、なんせあの世からの巡業でございやすよ、それはそれは幽玄な美しさにうっとりされること請け合い、お子様とて、魔法の絵本をめくるようなもんで、心配ご無用、世俗を離れた境地に遊ばれなされ。
と、いったところでおしまいじゃあないんだなあ。出し物はまだあるっていう大奮発よ。これは簡単に流しといてと、続きは木戸の奥でもって縷々と語られる案配だからね、隠れ里ってご承知だろう、不意に行方が知れなくなって数年たってから戻って来ればその時分とまったく変わりがない、歳をとってないって摩訶不思議だ。ここで腰を抜かしてはいけないよ、今から二百年まえに忽然とすがたを隠されたと伝わる上臈が、なんと一座と出会ったんだな。その気品ある面影は筆舌に尽くしがたい。座長の意向を酌んで本日限りの特別出演と相成った。これだけでない、更にやんごとなき上臈と幽霊の対面も実現されるというから、なんまいだ、アーメンそうめん冷やそうめんじゃないか。こんなことあっていいもんだろうか。ほんとはあっしだって恐れ多いんだ、それをあえて衆目の認めるところとし、文明の、いや、過ぎ去った幻影をいっときでも感取してもらえればこれに勝る癒しはないだろう、、、」

客引きの言葉が途切れるまえ、物珍しげに寄り集まった人々は、まるで三途の川を渡るような虚脱した面容で熱狂の気色もなく木戸へと吸い込まれていった。私も同様であった。ただ二の足を踏んだつもりはなかったはずなのに、まわりの顔つきに一層足を引きずられそうな心地がしたのが何故かしら幸いしたのであろう。
あと少しで暗闇に紛れるところ、いきなりうしろから肩を叩かれた。手まりが軽く弾むような、しだれ柳の束に触れたような、柔らかな手つきだった。
「ちょいと兄さん、あんなインチキに騙されてはいけないよ」
振り返れば、銀杏返しに色白の、はっと胸に染みる目もとの、退紅の着物すがたの、微笑みと目があった。
「やはりそういうものなのかね」
私の声は少しうわずっている。無理もない、幽冥界とやらに導かれる矢先だったのだ。しかし間を置くことなく面前の女性の思い詰めた一途な、それでいて憂いをまとっているかに見える表情にとらわれているのを知った。
「そうよ、決まっているでしょう。そんなことより、すぐそこなの」
憂いは気まぐれな鳥の鳴き声のようにほんのりしたときめきへと移ろいだ。手鏡をかざしたごとく。
そして突風にあおられる爽快な気持ちがわき起こると、ただちにそのししおき豊かな容姿に惑わされた。熱い血と冷たい血が交互に私のからだをめぐりだしている。渇きを癒すために生唾をのむ矛盾を忘れた。手招きより壮絶で饒舌な、うるんだ瞳にぼんやりとした影を見いだしたとき、空は雲がかかって湿気を呼んでいた。


[347] 題名:庭球譚 名前:コレクター 投稿日:2013年05月07日 (火) 12時00分

空は乾いていた。日差しは暮れがたのそれでありながら、のびやかな紅色にひろがって閑暇を持てあましていた。小鳥たちのさえずりが朝日を浴びてよく通るよう湿気は不服なく退き、木の葉を揺らしている。
広場に迷い込んだのは子供らであったのか、ぼくの視線はいうに及ばず、今朝と昨日を往復しているようで、しかし、もっと確かめたく近寄れば、随分と過ぎ去った日々から飛来して来たような手まりが広場を惑わせているのかも知れない。遠目に眺めている限りそう感じるしかなかった。
「こっちに放り投げて」
小さな男の子と女の子が口をそろえて言っている。中空をさまよっていたぼくの目は、足もとへ転がった手まりがテニスボールほどの大きさだったのに驚き、
「ああ、わかったよ」と返事はしたものの、不思議な感覚に頼りきったまま、何度も瞬きをするのみで腰を屈めはしなかった。不親切なわけでなく、ただ地面の雑草にさえ重みを悟らせまいとしているふうなボールに見とれていたのだ。
そよ風が抜けていく。ボールは動かない。柔らかな薄いゴムで作られた形状も然ることながら、気兼ねを知らない素振りをした、いたいけな、それでいて取り澄ました風情の生き物みたいな意志に共感してしまい、子供に対する媚を忘れてしまっただけである。それから忘れようと努めている情動もすんなり加担してくれたので、なんだかうれしくなって痴呆のような笑みが生まれた。同時にボールは丸みを残した薄紫色の花びらがいくらか散ったすがたに変容した。風に煽られそうになる手前でもとの花弁に戻り、ひっそりとした美しさを一瞬現して陽光にかき消された。
ボールをなくした二人は離ればなれになった恋人より深い哀しみの影を作り出している。また互いの手にしたラケットの編み目は一層と微風を呼び止め、辺りの吐息を一心に集めているかに映って仕方がない。
陽が傾いた錯覚に堕ちたとき、ぼくの影は短くなり、当たり前といった仕草でボールを拾って投げ返していた。
「ありがとう」
快活な声が届いたから哀しみは嘘のように拭われたのだろう、子供たちはバトミントンらしき遊びに返り咲いている。眼球が迷い込んだに違いない、そう確信を得たぼくは誘拐犯が忍ばす歩調をまねて距離を縮め、
「まぜてもらえないかなあ。少しでいいんだけど」媚ではなく懇願の顔つきでそう訊ねてみた。
二人は自分らの背丈を十分に脅かす雷鳴でも聞いた表情になり、こちらを凝視していたが、ぼくの目線が位置するところを感じとったのか、「いいよ」と応えてくれた。
確信を持つにはあまり四方に意識をめぐらせないことだ。運はごく身近に横たわっている。三本目のラケットを以前からの借り物みたいに手渡されたぼくは、ようやく空き地に抱かれ、興じれば興じるほどに吸い取り紙で肌を撫でられる具合に汗が引いていくのを覚えるのだった。
子供らは法則に準じるかの態度で交代にボールを打ち付けてくれた。ねずみのような素早さとせせこましさが微笑ましくて、打ち返すたびにぼくは子供に返るどころか米粒より小さな存在へと導かれ、しまいにはボールもそんな様相を見抜いたのか、本当に米粒になってしまった。
「これじゃあ、遊べない」
こころの底からそう不平をこぼしたので、ふたりは困った顔をしながらも「タイム」と律儀に声を張り上げてから内緒話しをしていたが、殊勝な口ぶりでこう提案したのである。
「ならテニスをしよう」
呆気にとられたぼくを尻目に二人は背中合わせになったと思うや、さっと真っすぐ遠ざかるふうにしながら片足でびっこを引く要領で地面に線を書き込んだ。
「これがネットってわけだね」
「そうさ」
したり顔でダブルスを組んだ二人と新たな遊びが始まれば、夢中なのはもちろんだったが、どこか意識に変化が起ったのか、段々と気の抜けてゆく風船のように浮いているのか、沈んでいるのか分からない心許なさにとらわれ出し、日暮れを認めたくない不断の意欲は低下するばかりであった。
一方では雨雲を嫌悪する情が羽ばたいて、「夕飯だよっ」と、遊び場近くまで呼びに来た母の面影がよぎり、ほのかな胸の痛みを感じた。空腹より遊戯に没頭していたあの時分、母の声を冷たくはね返しては黄昏れた空模様に遺恨を焼き付けていた。規律から少しでもはみ出すことに目覚め、意地らしく虚勢を張るのを知ったのもこのつたない胸だった。
刹那の想いではあるけど、向き合った二人をよくよく観察している自分に気づき、またもや日没間際を駆ける光景が早馬を操る時代劇に重なって現れた。溌剌とした動作は鈍りしないが、やや緩慢になっているのはぼくが勝手に成長した証しだろう、などと都合のいい解釈でなおざりにし、赤みがかった甘味の感情にすべてを託した。
大きな目をしたまつげの長い少女、方や細面に似合いのつり目の少年、きみらをぼくは知っている。いや、思い出そうとしないだけかも知れない。回想の最中もボールは間断なく往復された。そして日の入りが反転する情景を作り出し、はっと目覚めたとき、ラケットにみじんも手応えを感じていないのを理解した。ぼくは紛れもなく風船と戯れていただけなのだ。
悪夢とは呼ばせない。むしろ旅先での出会いに近い展開であったから。地獄坂という名を持つ土地は世界にどれだけあるのだろうか。
二人はいつの間にか両脇へ密着してぼくの耳もとにこうささやいた。
「今から死刑を見に行こう」
ぼくらは胸の高鳴りに見合うだけの急勾配に恵まれた坂を勢いよく下っていった。転がる石の気分を味わいつつ。
記憶にありそうで微妙に食い違っている意想を家屋として視覚化してみれば、こうした建物になり、部屋が出来上がる。わずかだがといいながら、実際にはまるで別ものになっているけれど先行した想いが勝ってしまい、眼前を占めている場面は肯定されるのだ。
死刑場に入ると視界から二人のすがたは見当たらなくなってしまった。これから処刑されようとしている顔にも見覚えがあったので、独りぼっちは堪え難いかったが、観念しきったその顔には負の磁力が相当働いているようで身動きが利かなくなった。今となっては他愛もないけれど、誰かれとなくいじめたあげく自らいじめの対象に成り下がった奴ではないか。図体だけは大きくなったようだけど、ぼくと似たふうな目をしている。
ガス処刑であるのが知れた。ヘルメットを被せらパイプから猛毒が送りこまれる仕掛けであるのは瞭然である。配慮なのからだろうか、電気椅子ならぬガス椅子はかなり座り心地のよさそうな豪華な造りで、憐憫を募らせておき、ついでに死を正当化させる企みとも見受けられる。
椅子にベルトで固定された死刑囚は予行演習さながらの面持ちを崩そうとはしていない。いよいよヘルメットが持ち上がったとき、神父もどきの立会人がなにやら唱え、まわりはさすがに静粛な気配を余儀なくされた。
ぼくは身震いしていた。空気が乾いている。震える舌さきでつぶやいたひとことに神経が反応した、誰の。
ふらふらと酩酊した足取りでぼくは椅子に歩み寄り、しゃがんで肘掛けに縛りつけられた右手を強く握りしめた。油分を含んだ生暖かくも芯が冷えている手のひらが涙を誘った。一目だけ表情をうかがい、ぼくは言葉を失った。

「このラケットは借りておくよ」
「いいよ」


[346] 題名:鏡面 名前:コレクター 投稿日:2013年04月30日 (火) 06時05分

「もう気がすんだでしょ」
開き直りに見えるが内心許しを乞うているふうな女の目つきに憐れみは生ずるどころか、憎しみを募らせるばかりであった。民在公吉は自分でも信じられない眼光が不敵な笑みをつくりだしているような気がし、
「冗談じゃない、夢のからくりなんて頼んだ覚えもなければ、操作されてたなんて戯言に耳をかすほどもうろくしてないよ。とにかく子供のせいにして、なんだかんだ逃げ口上ばかりで、散々な思いをしたのはもっともだと半ば了解していたけど、それすら欺瞞であったとは、、、結局おまえが望んだのは高見の見物だったにすぎないんだろう」
そう叩きつけるように言い放った。だが声色はどこか冷めた汁粉みたいな後味の悪い甘さを含んでいて、一瞬おんなの曇った表情がぱっと華やいだのだから、公吉のほうでも戸惑いを隠せず、それきり押し黙ってしまった。
沈黙を防壁に活かした女の態度は時宜にかなっていた。公吉の叱責をかわしただけでなく、言い分自体がまるで反射板ではね返えされたようで、みじめで見苦しい結末を認めてしまい、すべり落ちてしまっている。
女ははっきりそう口にしていたではないか、おれはつまり判決文を読み上げてみただけなんだ。公吉の憤懣はすでに吐き出すところを見失い、鏡面に向き合っている自虐的な冷たいひかりを浴びるばかりであった。
が、その月光を想わせるひかりは公吉に冷酷な意識を芽生えさせ、沈黙が長引くほどに血の気が引いていくようで、戦慄とは異なる、以外な感覚に支配され、冷静な面に立ち返ったかに見えた。

鏡の向こうにきらめく、決してまぶしくはないけれど、一点を凝固させるみたいな、鮮血のあの鋭くも甘美なひかりは畏友のごとくそばに居る。冷ややかさは意識という器から気体になって、そう地べたを怪しげに這うように白い狼煙を鎮め続けた。たかぶる感情なんて必要ない、あたかもフィルムノワールの主人公に成りすましたふうな面持ちでネオンライトと夜霧のなかに佇んでいたのだ。
急転劇とも見受けられる気分の変換を公吉は愛した。紅に染まる夕暮れどきをかけがえのないものとして慈しみ、過剰な陶酔を捧げつつ、見返りに不実をいただくという細やかそうではあるが、適度な心算を反映させた。
公吉は若さを願った。幼少期から育まれているに違いなかろうが、かなうことなら思春期の波にのみこまれては、反対に専制的なほど周囲に風を吹きつけたあの頃に立ち戻りたかった。が、おそらく年少の時分を義理立て程度にでものぞいておかなければ、すべては汚れでしかなくどんな修辞も成り立たない。
女体をめぐる思惑が若返りに不可分であると信じ込んでいたのは、おおむね誤っていないけれど、颯爽とした青年が薫らせる、華奢でありながらも背筋の伸びた華やかな笑みこそが、邪心を遠ざけあこがれへと誘うのだった。その憧憬こそが異性の魅惑、つまり対象としての欲情を解放してくれる。
公吉は女の微笑の裏に、日差しと濃霧を感じとり、曖昧な意思を供することで緊張がほどけてゆくのが分かった。
押し黙るのも媚態に通じているつもりなんだろうか、そんな意地の悪い勘ぐりさえ軽やかに押し返されるのを願いこう切り出す。
「おれはニャンコ先生を尊敬していたんだよ」
女は一瞬たじろいだ表情を見せたが、すぐに威厳をただし、
「別に悪いなんて言った覚えないわよ」と、半分くらい真摯な口調で答える。公吉は筋書きをおさらいする手間が省けたとにやり顔で思いこう言った。
「ならいいんだ、お互い様だからな、生真面目であるばかりが能じゃない、直線的でぶれがないのはいいことだけど、潔さの彼方は遥かでなく、刹那的なエンドレスを背負いこんでいると思う。つまりそれはだね、長く苦しい時間を指し示すよりも、案外ポキリと折れてしまいやすいという実際に向きあってるってことなんだ。ところが惹かれるんだよな、直情を体現しているすがたに。だからおれには物差しが必要なのさ。目盛りを計るばかりじゃない、時計のようにもうこんな時間か、あと少しだなとか、大体のめどがついた、思ったより長かったんだなとかって、振り返りつつ寝転がる頃合いをうかがう道具が」
すると女は、「それでわたしもおつきあいってわけなのね」と相変わらず見下すふうな、しかし幾ばくかの憐憫を相互に振り分けているかの目つきをし、回想の奥地に新たな追憶の茂みをのぞき見るまなざしへ移ろいでいった。
公吉は舞い上がったほこりのなかに粒子を発見するような心持ちを得て、女を引き寄せ抱きしめた。
明らかにこわばらせた女のからだを更に強く巻きつける勢いで両腕がまわり、雌猫のしなやかさは優雅をまとった肉欲なんだと言いかけたが、ふと無粋すぎると代わりにこんな言葉がついて出た。
「雄猫のすばしっこさは素晴らしい」
「ニャンコ先生」
「いや、すべての雄猫だよ。奴らは雌猫の色気も兼ね備えているじゃないか、特に若いうちは」
女は再び黙った。だが、さきほどの防壁とは異なってまるで落とし穴に足をとられたみたいな迷いであり、夜の鳥の羽ばたきにも似た暗い夢想だった。
柔肌のうえから骨組みが感じられそうな気がした公吉は、力加減を緩めてからだを放し、もっとも的確だと思われる間合いまで引き下がって女の目を見つめた。親和と憎悪がこの小さく歪んだ空間に溶け合う奇跡を信じて。
そして独語に埋没していった。女を落とし穴から引きだすのではなく、自らの沈黙を守護せんがために、ひかりを欲するがゆえに。語りかけはその後でもよいと考えられたからである。公吉の物差しは運まかせというより、鏡に映る世界を愛でる敬虔な気持ちで満たされていた。

股間に目が釘付けになるんじゃない、目が股間を描写するのだ。去勢の意味も知らなかったけど、おれはウルトラマンのあのすべすべした股に切ないものを感じたし、テレビで見たサーカス団の女人が身につけているぴったりした金銀のパンツに胸の高鳴りを覚えた。鍛えられたであろう、肉付きのいい太ももが先んじていたのではなく、なめらかな箇所がはじめにあったのだ。しかもそこは長年隠し通され、ものごころついた頃には純粋省察が形無しになってしまった。まさか、魅惑の球形に連なる秘所に亀裂が生じており、海の生き物のような形状であろうとは夢にも思わなかった。自分の軟体と軟骨を合わせ持つ現実は放擲されていながらも。
この無知が少年の好奇を鋭くさせ、触れ合いの場にと夢の障子紙を破り、近所の子供同士という好都合のなか、眼前より切迫した肉感へと至らせた。おれの顔のうえに座ってくれ、もっと体重をかけ、息が止まるくらいに、出来るだけ長く、物差しは学校に忘れて来た、異性なんか知らない、おれはそのつるりとした箇所がたまらなく好きなんだ、意味はない、腹も減ってない、玩具もいらない、頼むから強く尻で鼻先をつぶしてくれ、少々昆布臭かったり、土臭かったけど、それさえ癖になってゆく、ただそうしてくれれば人生は永遠なんだ、おれは子供のまま大人なんかにならず、真っ昼間、雨戸を締め切り酔いしれたいがためにこうして祈り続けていたかった。
つまらない大人になってしまったもんだ。せめてもの救いはあの頃、見るからに美しい中高生の男子とすれ違った際、鼻孔をつく甘酸っぱい匂いにあこがれたことだったが、ある日それがわきがであると知らされ、幻滅しなくてもいいのに、まるで罠にかかった小動物のように萎縮し、身震いし、絶望したという極めて良識を付与されたことであった。
そうしてこの良識が女体の神秘への船出となったのだから、増々気がすまなくなってしまった。




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり24日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板